景気は回復しているのかどうか、相変らず実感の乏しい状況であろう。
あるコラムでは次のように解説していた。(朝日新聞、「経済気象台」2004.08.10)
「中小製造業の景況感や企業収益は、バブル期よりは低いが、日本経済が最も充実していた80年代前半を上回って改善している」とのことである。
しかし、景気実感の厳しさがいまだに消えないのはなぜかといえば、それは、景気回復の様相が今までとは異なっているからだそうである。
「かつて景気回復期には、多くの経営者や労働者がそれまでと同じ仕事をしていても利益や給与が増えた。しかし現代においては、企業は常に事業を見直し、新製品を次々に世に出し、また絶え間ないコスト削減をして初めて、利益を生み、市場で生き残ることができる。労働者は知識やスキルを磨き、新しいアイデアを生み出し続けなければ、所得は増えない。 つまり、企業も家計も毎日走り続けなければ、景気回復の果実を享受できないということである。だから、景気回復の実感がなかなか生まれず、厳しいという思いが募る。しかし、それが現代の景気回復の実相である」
というのである。
それでも、事実、景気が回復しているのであればいいのだが、真実はどうなのであろうか。「企業も家計も毎日走り続けなければ、景気回復の果実を享受できない」という厳しい現実だけが圧し掛かっているとするなら、あえて「景気回復」というまぎらわしい言葉を使う必要があるのだろうか。
「かつて景気回復期には、多くの経営者や労働者がそれまでと同じ仕事をしていても利益や給与が増えた」と指摘とているが、一般人の言葉の定義では、それを「景気回復」というのである。そういう状況でないならば、なぜあえて「景気回復」という言葉に固執する必要があるのだろうか。
当然、一連の経済指数よりはじき出しているはずであろう。そして、その指数の中には、「二極分化」傾向の深まりの中で、巨大規模企業が増産と高収益というかたちで良好な経営指数を生み出している事実が色濃くふくまれているはずである。先ず、「景気回復」という言葉が、経済構造の「二極分化」と、上層企業にとっての「回復」に即して述べられている点が見据えられなければならない。
確かに、上層企業の経営回復が下層企業の経営状況に影響を及ぼすことはあり得る。が、影響という点でいうならば、上層企業でのコスト削減強化の動きもまた下層企業にマイナスの影響を与えていることをもカウントしなければならないだろう。
もはや、現況は、かつてのように、景気回復環境を各層がこぞって享受する時代ではなく、「勝ち組」の一人占めで享受されるという点は、決して隠されるべきではないと思える。消費者の購買意欲を喚起したいのであれば、「景気回復」という言葉を連呼してムードを盛り上げるという姑息なことをせず、もはや歴然とした事実である「二極分化」傾向を堂々と踏まえて、大は大なりの収益還元サービスなりを推進して事に当たればいいではないか。
ところで、気掛かりなのは、「企業も家計も毎日走り続けなければ、……」というくだりなのである。決して、このご時世で怠惰を決め込もうとしている企業や家庭はないはずなのではなかろうか。どこもここも、「なんとか努力したい……」と必死であると想像できる。
しかし、そうでなければ「景気回復の果実を享受できない」という論法はいただけない。誤解のないように言っておけば、何もあんぐりと口を開けて「果実」が放り込まれるのを待とうという姿勢を正当化しようとしているのではない。
そうではなくて、「毎日走り続ける」と言葉では簡単明瞭なアナロジーで言うが、先ず「走ってどうなる?」というシニカルな雰囲気が存在するのもまた事実であるような気がしてならない。
「走る」というアナロジーが使われたので、わたしもアナロジーで反論するが、スポーツ・ビジネスのメジャーである「大リーグ」では、競争激化と収益向上のために、選手たちの「ドーピング」は暗黙の前提だと言うではないか。それがスポーツとして不正であることすら共通認識されていないという。オリンピックでの状況どころではないのだ。つまり、こんな象徴的事実からもうかがえるように、市場主義競争原理はとっくに牧歌的競争の域を越えて、「異常な範疇」へと突入しているのが現実なのである。
また、この国の場合には「官」による「規制」という市場主義以前のバカげた因習まではびこらせている。「経済特区」などというとっくに実施拡張されていい施策が得意気になされている始末だ。
つまり、今この国での弱小企業群、庶民の家庭は、「気持ちだけは走ることができても、実質は……」という袋小路に追い込まれているように思われる。米国ではすでに完了した「二極分化」( 現時点では「実際、全世帯の上位一%が、その下の九〇%よりも裕福」、「一九ニ九年には……全世帯の富の半分近くを、上位一%の世帯が支配する状態だった」デビッド・カラハン著『「うそつき病」がはびこるアメリカ』より )とその非合理さが、息苦しさを生み出し始めているのである。
こんな状況の最中に、まるで「シンデレラ神話」を繰り返すかのように「毎日走り続けなければ……」という表現を無神経に使うのはなんとも解せないのである。競争は競争でいい。それがなければ、張り合いがないということもあろう。しかし、現状のゲーム環境やルールに見直しが及ばないとまずい面がありそうではないか。
もうひとつ、「企業も家計も毎日走り続けなければ、……」という表現で引っかかるのは、そのことを別様に解釈して、ただただ必死に「コスト削減」方向に「走り続け」たとしたなら、一体どんなことになるのだろうか。いうまでもなく、「デフレの二番底」を作り出すことになるのだろう。「コスト削減」の究極は、仕入れなり購入なりの停止だからである。だから、「企業も家計も毎日走り続けなければ、……」という条件つきの「景気回復」というのは、矛盾に満ちているわけだ。
現在、世はこぞって「走り続ける」とか「努力する」とか、「競争力」を付けるとかを口にしている。そうでしかあり得ないと感じる危機感はいやと言うほどにわかる。
しかし、あえて距離を置いて考え直すならば、ホンネで望むのならばともかく、そうしなければならないというプレッシャーだけで出発する「走り続ける」とか「努力する」とか、「競争力」を付けるとかで果たして意味があるのだろうか。プレッシャー発のそれらは、空転したり、奇妙な方向へと紛れ込むのかもしれない。( 前述の『「うそつき病」がはびこるアメリカ』の著者は、この競争に勝たなければというプレッシャーが、「アメリカじゅうでの不正の急増」の一因だと述べている )
また、もうひとつロングサイズの視点で鳥瞰する時、この望むわけでもない競争、競争の結果はどうなるのかという点なのである。人類の発展! というふうに言いくるめることも可能は可能であろう。しかし、直接的には、「上位一%の世帯」がますます富を拡大することだと言うべきなのかもしれない。つまり、それを目的にした競争なのだと言い換えてもいい。
それでは、人類の発展! はおぼつかないではないかと言うかもしれない。しかし、お仕着せの競争、クスリまで使った(ドーピング!)競争が、それを叶えるとだれが実証したのであろうか。
とにかく、人の視界は、走れば走るほどに狭くなってしまうはずである。無理やり走らされれば、見えるべき前方まで不鮮明となるやも知れない。岩波書店のロゴのように、種撒きながら歩き、時々360度を見回すのが良さそうだ…… (2004.09.01)