高速道路のインターチェンジに入る際には、そこそこ緊張するものであろう。高速で通過中のクルマの速度に合わせ、なおかつクルマの流れの合い間を見計らい、助走路をスピードアップしなければならないからである。
こんなことを言うのも、わたしが高速道路というものをあまり好まないからだろうし、そもそもドライブのためのドライブというものが好きだとは言えないからかもしれない。若い頃はともかく、今では、クルマに乗ってなんでこんなに気を遣ったり、疲れなければならないのかと感じてしまう。必要不可欠な時以外には、クルマを使用したくないというのが実感である。
インターチェンジのことを書いたのは、「既存の流れ」への参入という事柄に関心を持ったからなのである。
先日、TVのとあるトーク番組に、もう十年、二十年以上も前にコンピュータ、ソフトウェアのジャンルで名を馳せた人物が、久々に顔を出していたのである。K・N氏は、今でいうIT業界人のパイオニア的存在であったため、例の「フジTV、ニッポン放送 v.s ライブドア」騒動に関するコメンテーター役として駆り出された模様であった。
そのK・N氏にいよいよマイクが振り向けられることとなったのだが、「それはね、……、……、……」とのんびり口調で語り始めたのを聞き、わたしは激しい違和感と不安感とを感じてしまったのである。別にそれがいいなぞとは毛頭思ってはいないことなのであるが、彼の周囲で騒ぐ出演者の連中の口調、そのテンポとまるっきり異なっていたからなのである。よく言えば、ジックリと考えながら話すスタイル、ありていに言えば、「TVに出るなら、話すことを事前によく考えてからおいでよね」と言いたいような感じなのである。わたしだけがそんな不安な印象を受けているのではないだろうな、と思っていたら、案の定、周囲の小姑のような出演者の中から、野次まがいの皮肉が聞こえてきた。
「Nさん、もうちょっとテンション上がりませんか!」と。さらに、「それじゃあ、まるで『ピロー-トーク [pillow talk]』やないの……」という揶揄まで飛び出していた。
インターチェンジにおける「既存の流れ」への参入という件に触れたのはこのことがあったからなのである。確実に、K・N氏は、高速道路の「既存の流れ」にブレーキを掛けさせ、ひょっとしたらあわや追突事故を発生させていたやもしれなかったのである。
K・N氏は、現在、とある大学の教授をされているとの表示が出ていたが、こんな話しっぷりで講義を受けている学生たちがいることを想像したら、なんだか切ない気分となったりもした。
前述の「もうちょっとテンション上がりませんか!」というクレームについて言えば、確かに、当人の口調は、高速道路の「既存の流れ」をペース・ダウンさせるように、周囲の出演者たちの「テンション」を急速に引き下げる機能を誘発していたかと思えたものだ。例の「シラーッ」とした雰囲気が漂ってしまい、それは、状況はまったく逆ではあるが、一時期のTV番組で突然あの映画監督のO氏が「バカヤロー」と怒声を張り上げた際に発生していた取り付く島のない雰囲気と近似していたといえる。
ここで考えてみたいことは、いくつかある。そのひとつが、「テンション」の問題であり、職場でも、集団作業でも、「あの人の、『横板に鳥もち』のような話し方をなんとかしてもらわないと、こっちのやる気まで失われてしまう」と不平が出る場面に関してである。やはり、高速道路というのは、その種の「せっかち」たちが慌てふためいて走っている場所なのだから、それに合わせる配慮というものがマナーとなるのだろうと、先ずは思うべきである。とりあえず、「せっかち」たちの振る舞いが正しいかどうかは別問題としてではあるが。
つまり、もし、「のんびり」としたいのであれば、そうした「せっかち」たちの場に臨まないという選択肢だってありそうなものであるからだ。まして、アホな喧騒を売り物にしているトーク番組に出演するなぞということは、その種のセンスがあればいくらでも拒絶できるはずであろう。逆に、出演すると決めたなら、相応の対応をすればいい、と……。
もうひとつ考えることは、まったく逆の視点なのであり、いつの間にか、マス・メディアというものは、「機関銃」話術を操る者たちの「ムラ」になってしまったのだということである。そして、わたしも含めた視聴者の感性自体も、それに迎合するようになっているという空恐ろしき時代についてである。
マス・メディア、とくにTVは、秒単位がマネーに換算されることもあってか、そこでの話し手たちは、内容はともかく、「機関銃」話術スタイルだけは強制されるようである。イージーに時間単位の極限情報量が注目されている世界なのであろう。
いうまでもなく、話し方の速度や、発信情報量の多さがそのまま意味と価値があると考えることは浅はかなはずである。本来は、それらの情報が、受け手側でどう適切に情報処理されるのかこそが眼目なのであるはずだろう。どうも、現在のマス・メディアは、バナナの叩き売りと同様に、見てくれの量さえあれば「上等」だと思っている気配が濃厚である。
つまり、情報が、受け手側でどう受容されるのかとか、理解されるのかとか、という本来の情報発信の動機が摩滅しているとしか思えないのである。だからこそ、受け手側の情報咀嚼力、評価力もメキメキとおざなりになっているのかもしれない。トーク番組と言えども、オピニオンを聞いているのではなく、雰囲気を、音楽のように楽しんでいるというのがまぎれもない事態なのかもしれない。
ただ、この点でシビァな問題といえば、日常、マス・メディアに接触し続けているわれわれが、コミュニケーションや対話のパーソナルな場面でも、マス・メディアと同様の「機関銃」話術スタイルを、なんの不思議もなく持ち込み、「撃てば勝ち!」「撃ち続ければ大勝利!」なのだと取り違えていることなのかもしれない…… (この点については、別な日に書くつもり) (2005.04.01)