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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2005年08月の日誌 ‥‥‥‥

2005/08/01/ (月)  なんとまだまだ精進が足りない男であることか……
2005/08/02/ (火)  「口入れ稼業」の派遣屋に依存せず、請負案件として仕事を出す方向!
2005/08/03/ (水)  この国は「さくら吹雪」の「美しい」国なのであろうか……
2005/08/04/ (木)  稼げる、儲けるとは、やはり「いい仕事してますねぇ」の結果!
2005/08/05/ (金)  人間やめますか? それとも「核兵器」を糾弾しますか?
2005/08/06/ (土)  人間は、原爆の「魔力」で破壊しなければならないほどに強靭ではない!
2005/08/07/ (日)  夏の季節自体が文字通りの「主役」であった、そんな一日……
2005/08/08/ (月)  「賞味期限」が過ぎた「ライオン・ヘアー」マークの干からびたチーズ?!
2005/08/09/ (火)  「郵政民営化」問題なんて、「ワン・オブ・ゼム」のプロブレム!
2005/08/10/ (水)  「何のための」システムかの観点での「キー・コンセプト」に関わるユーザ・ニーズ!
2005/08/11/ (木)  「じょうぶな物差しくれ〜!」ではなく効き目のある「蚊取り線香」を!
2005/08/12/ (金)  「明日無きと思い鳴き込む蝉しぐれ」……
2005/08/13/ (土)  今年もやってきた「盆」の迎え火……
2005/08/14/ (日)  ヒトが時の経過によって、得るものと失うもの……
2005/08/15/ (月)  人のために疲れることの充実感を、もっと会得すべき?
2005/08/16/ (火)  「郵政民営化」問題が争点ではないことを国民は見抜くべきだ!
2005/08/17/ (水)  個人として守るに足る、自分が燃焼できる場所・対象を持つこと!
2005/08/18/ (木)  現代という時代は、一方で博愛精神、他方で弱肉強食?
2005/08/19/ (金)  「サービス業」のボトルネックに「予約」ツールは欠かせない!
2005/08/20/ (土)  ナチズムの再来を許さないどんな「防波堤」をわれわれは築き上げたのか?
2005/08/21/ (日)  「聖人に夢なし馬鹿に苦労なし」という川柳があるそうな
2005/08/22/ (月)  「抗癌治療」後の白血球減少に、「乳酸球菌」の摂取が有効という説!
2005/08/23/ (火)  植物の「根」に匹敵し、なおかつ「セカンドブレイン」とも目される「腸」!
2005/08/24/ (水)  「小泉劇場」解散興行の「入り」はどんなもんか?!
2005/08/25/ (木)  「小泉ポリティックス」を見破れる「審美的」感覚(美意識?)は?
2005/08/26/ (金)  誰もが「警戒心」というものと無縁ではいられないはず……
2005/08/27/ (土)  台風一過の川に、清涼感を味わってしまった……
2005/08/28/ (日)  夏休みの宿題を終わらせたような、ある種の快感!
2005/08/29/ (月)  何でもかんでも「葛根湯をお飲みなさい!」とはいかがなものか?!
2005/08/30/ (火)  この国を「あきらめない」で、すべきことは多い!
2005/08/31/ (水)  虚偽を述べることだけが「だまし」ではないことに着目したい!




 今日は、「第一回目の」シングル夏休みだというのに、日暮れてこれを書くにおよび、心地良い疲労感どころか、気分さえ悪くなるほどにクタクタに疲れてしまった。
 おふくろの住いの襖修理作業に没頭したからである。お陰で、一日で、当初予定のすべてとプラスアルファを完遂することにはなった。

 今年の夏休みは、どこへも行く予定がなかったので、いかにも年寄り臭い休みのとり方をした。うちの会社は各自が仕事の都合を見ながら、三日間をとっていいことになっているが、わたしの今年のスタイルは、一日づつ分散させて、月曜日三回を休もうというものにしたのだ。三連チャンの休暇を三回楽しもうというセコイ発想なのである。
 昔、ある社員がそんなとり方をしていて、奇妙な印象を受けたものだった。なぜまとめてとって、五連チャン休暇をパッと使わないのだろうかと……。噛みしめて休暇を生かそうとする堅実さなのかなあ、と推測したりした。とともに、一度そんな使い方をしてみてもいいかな、とその時思っていたのかもしれない。
 そして、今年は、そうすることにしたのだった。盆に向けた1日(月)、8日(月)、15日(月)を夏休みとしてみたのである。確かに、土日プラスワンという三連休は、気分的には悪くない。先ず、この連休で夏休みが終わってしまい、あとは残暑の中の勤務に耐えるだけという悲壮感が生じない。まだまだ、夏休みがあるんだぞ、という余裕感というか、期待感がキープされる。これぞ、特に長期休暇を必要とする旅行などに行かないと決めたシーズンには適切な休暇の取り方のようにも思える。まあ、貧乏人が貯金を大事にするような、やや、みみっちい雰囲気がないではないが……。

 で、今日は、昨日から予定していたように、体裁よく言えば、「独居老人支援奉仕活動」とでも言える過ごし方をしたわけである。おふくろの住いの、「暴力的」飼い猫に被害を被った襖たちの救急援護に駆けつけたのだ。
 作業の手はずはすべて完璧に済ませていたつもりではあったが、そこはやはり、現実というのは山があれば谷もあり、谷があれば猪も出る。何が起こるかわからないものだ。
 襖八枚を、ポリ塩化樹脂加工のベニアで貼り替えてしまう「壮大な計画」をたった一日で達成してしまおうとしていたのである。そのためには、作業の各工程と材料調達等において、「トヨタ方式」に匹敵(?)するほどの合理化、自動化を図る必要があった。そのため、テストや、ウォークスルーも前日に済ませていた。
 が、おそらくは「トヨタ」も苦労したに違いないが、わたしの場合も思わぬ手違いによって苦労をさせられてしまった。わたしは、勝手に、すべての襖の仕様は標準規格だと決め込んでいた。まあ、IT関連業種に生きて、仕様といえば統一規格、仮に個体差があっても無視できる僅差だと、勝手に決め込んでいたのだった。
 しかし、敵さんはIT製品ではなく、古い建物の建具であった。
 大体、建具屋の職人というものは、確かに、統一規格の仕様をめざし、「そうしよう!」と思うことは思うのであろう。しかし、そこは、街の建具屋の職人である。酒も好きなら、パチンコや博打をやっても不思議ではない。地味な仕事であり、気分転換も大いに必要経費とするであろう。となれば、一日の仕事も、四時半にはさっさと上がり、気分転換へと急行しなければならないであろう。となれば、長さの一分の狂いもない仕事ばかりにこだわってもいられないという大雑把さに走ったとしても不思議ではない。
 話は長くなってしまったが、要するにおふくろの家の襖類は、一枚一枚にとは言わないまでも、それぞれの寸法に「個性化」が図られていたというわけなのである。ここから、「トヨタ」方式にも迫らんとする統一規格志向派と、酒もパチンコも博打も行きたい派との軋轢が発生することになったのだった。

 そんなわけで、自分こそ、今日は楽勝で、早ければ四時半くらいには上がれるだろうと高を括っていたのが、九時になってようやくトンネルの向こうが見えてきたという、情けない首尾に落ち込んでしまったのだった。挙句に、おふくろは、この調子なら他にも何でもやってもらえるものと思い込み、襖関連以外の、トイレの床のカーペット張替えもとか、あそこに板を宛がってほしいとか、よく転びがちなモノ置き台の足を何とかしてほしいとかを唐突に言い出す始末であった。やることにはやぶさかではない「独居老人支援奉仕活動」ではあったが、そこは「トヨタ方式」と競い合う職人である。合理的作業でアッというまに仕上げようと虎視眈々と目論む現代職人である。唐突さが最大の敵なのである。しかも、メイン作業が、自己満足に浸れる推移や出来高であれば、「あいよ。わかったぜ。いいってことよ、気になさんな」と言って流しもしよう。が、メイン作業は、「立板に水」ならぬ、「横板にとりもち」。根っから小難しいこの職人は、疲れも焦りもあってか、仕事はこなしながらも、とうとうキレてしまったのだ。
「あのねぇ、そうやって急に言い出されると、段取りが狂っちゃうんだよねぇ。やるけどさぁ……」
 それを言っちゃあお仕舞いよ、と重々わかってはいたものの、思わず口に出してしまうのが、「トヨタ方式」なんぞと競い合う職人ならではの「赤坂」なのであった。
 寸法なんぞをきちんとさせようとか、とことん頭を使ってアッという間に仕上げようとか、仕事じゃないんだから、そんなことにこだわる必要なんぞなかったってぇことだったはずなんだ。おふくろは、せっかく喜んでいたにもかかわらず、この気難しい職人の不始末で、滅法恐縮の至りになってしまったのである。
 これを書きながら、自分も、せっかく善意をもって、上首尾の作業をしながら、なんてぇ野暮なことを口にしたものかとただただ恐縮の気分で溢れかえっているのである。しかし、まあ、この辺が自分自身の本性なのかもしれない、なんとまだまだ精進が足りない男であることかと、打ちひしがれ反省の色を濃くしている。とにかく風呂へでも入って、明日から出直すべし、てぇところか…… (2005.08.01)


 これまでにも技術者「派遣」の問題については再三書いてきた。もちろん、批判的な視点からである。
 今日も、ある同業者と電話で話していて、その社長も同じ主旨のことを言っていた。
「やはり、請負案件が少なくなりましたね。派遣依頼は結構ありますが、人を現場に出すのはどうも……。要求以上に頑張ってしまい、疲れさせちゃうんですよ。それで、評価されてしまうと、今度はなかなか戻してくれません。いいことがないんですよ」と。
 わたしも、同じ方向で力んでしまった。派遣で技術者を出すことは会社としてはイージーなことだけど、結局、何も残るものがないんですよね。会社にノウハウが残るわけでもないし、結局、当人も力を「時間売り」するとなると、今ひとつブレーキがかかってしまい、伸びる技術力も伸びなくなってしまう。おまけに、責任関係や評価の点でも、曖昧さが残り続けて、生産性の向上はもとより、場合によっては奇妙なトラブルさえ誘発しかねない。派遣先ユーザにしても、本当に高い生産性を引き出して、良いシステムを作ろうとするならば、種々の仕切りをしっかりとさせて、請負案件としてアウトソーシングすべきだと思う。経験から言っても、派遣の形態で集まる技術者の水準は決して高いものとは言い難く、責任を持って請負形態で引き受けようとするベンダーの方がはるかに技術水準が高い。しかも、後々の面倒見も、結果的に請負案件の方がいいと言える。と、そんなことをわたしは電話口で話していた。

 しかし、相変わらず、少なくないユーザが派遣契約方式を望み、お茶を濁して「真剣勝負」を避けておられるようだ。経理的に言って、システムの「資産」化部分を極小化し、「経費」部分を増やそうという思惑もあるのだろう。また、「機密保持」という観点で、現場から情報を散逸させたくない、という点もあるのかもしれない。
 しかし、派遣方式であれば「機密保持」の問題が解消されると考えるのは、あまりにも形式的過ぎるのかもしれない。現に、派遣契約の技術者が「機密情報」を意図的に持ち出すという事件も少なくないのが実態だ。「機密保持」の問題は、物理的環境水準の問題というよりも、モラルの問題、責任感の問題であることが大きく、そうであるならば、会社と会社との契約という形で縛った方がより安全性を確保しやすいのではなかろうか。派遣技術者は、とかく個人志向となりがちであり、そうした存在に過剰な期待をすること自体がリスキーだと考えるべきなのかもしれない。

 システム構築関係で、とかく派遣案件が膨らむ原因の最も大なる点は何かと言えば、請負案件としてきちっとアウトソーシングするための仕様、要件、スペックなどを、ユーザ自身もしくは担当者が出し切れない、という点をどうしても挙げなければならないはずである。
 言うまでもなく、請負案件というものは、発注側と受注側との責任関係を明確にすることによって、仕事を効果的に詰め合ってゆくスタイルである。受注側は受注前に、「見積り」を出すわけだが、そのためには、構築すべきシステムの概要を掴む必要がある。さらに、その概要を掴むためには、発注側がどのようなシステム機能を求めているのかを掌握する必要がある。それが、発注側の示すスペックだということになるわけだ。
 確かに、どのような機能が欲しいのかを絞り込むことは結構大変な洞察力を要する。われわれがショッピングに行った際にも、いろいろと目移りして迷うのは、自身の欲しいモノが何であるのかを掴み切れないからなのであろう。だから、ユーザ担当者が、比較的長く当該の業務に就いてキャリアがあったとしても、その業務をコンピュータ・システムとする際、システムに何をどのように要求すべきかをまとめることは往々にしてやっかいなこととなる。いや、そうした実情は想像できる。
 しかし、それが難しいからと言って、作りながら仕様を固めていくというスタイルが安全ということにはならないはずなのである。しかも、コンピュータ・システムのことはともかく、ユーザ業務については素人の技術者を派遣形式で取り込んで、とにかくシステムを作り始めるというのは、どうもちょっと違うと思わざるを得ない。
 こうして構築され始めたシステムが、かつて良く指摘された「動かないシステム」に限りなく接近していくことになったとしても、ありそうなことだと思えたりする。
 また、派遣方式の最たるものは、要するに開発ボリュームが一時的に膨張する案件で、人海戦術的に技術者の頭数が必要だという場合になるはずである。こうした場合の、外から支援を仰ぐというかたちはある意味ではやむを得ないケースかもしれない。だが、これとて、事前に計画が立てられるのであれば、わけのわからない混成部隊で消化しようとするリスキーさよりも、可能な限り仕切りをはっきりとさせた部分請負の案件に仕立てて事を進めた方が安全だと思われる。

 いろいろと考えてみるならば、技術者の派遣方式というのは、本当にスペシャルなパワーが一時的に必要だという特殊なケースを除いて、大半は、システム構築というただでさえ不安定なことがらを、イージーにリスキーとさせる方法でしかない、と思えてならないのである。
 辛口な表現をするならば、ユーザ側がイージーに派遣技術者を期待し、それに応じてベンダー側がこれまたイージーに技術者を送り込み、とりあえず開発現場は成立するが、しかし、肝心の手堅い開発体制自体は運に任されているように見えるのだ。こんなことをしていたのでは、形骸化されたシステムばかりが粗製濫造されるように思われてならない。
 多少、時間と労力が必要となっても、システムの初期工程である仕様固めに最大限の傾注をして、責任感を引き出し、効率的・効果的な開発が可能となる請負方式の開発こそが一般化していくべきだと、そう願わざるを得ない…… (2005.08.02)


 ウイークデイのど真ん中でこんな話をするのも気が引ける。
 最近は、街のパチンコ屋も閑散としているようだ。射幸心を煽るために、出る台をドカッと出し、出ない台はまるっきし出さない。おとうちゃん連中の小遣いなんぞアッという間に呑み込まれてしまう「仕掛け」だったら、こんな時期に足を向ける客もジリ貧となるのは当然であろう。
 そこで、パチンコ屋はさらに射幸心を煽るために、一度に十万円、二十万円にも値する大当たりの台を「仕掛ける」。とことん射幸心を煽り、客の財布のひもをゆるめようという魂胆である。
 今、「仕掛ける」と書いた。昨今のデジタル方式のパチンコ台は、「出目」がプログラムとなって「ROM」という電子部品に格納され、本来を言えば、それを店側が勝手に手直しをしてはならないことになっている。ところが、現状は、手直しをしていない店の方が少なく、多くの店では、「裏・ROM」と言われる手直し済の部品と取り替えているようだ。これを、随時入れ替えたり、あるいは、これらを遠隔操縦してコントロールするならば、元の「ROM」での自然な「出目」のサイクルは、店の思惑どおりに変容させることが可能であろう。現在のエレクトロニクス技術や通信技術を駆使するならば、そんなことは造作無いことであろう。

 ところで、パチンコ業界には昔から、「さくら」というものがいた。と言ってもフーテンの寅次郎の妹、さくらではない。「露店商などで、業者と通謀し、客のふりをして他の客の購買心をそそる者」という意味での「さくら」である。
 時々、確証は取り得ないのだが、ほぼ「さくら」だと「推定有罪」の人物が、破格の数のドル箱を積み重ねているのを見かける時がある。たまたま、わたしが目撃したのは、ついぞ見かけない派手な若いギャル二人が並んで座って、半端ではない数のドル箱を重ねていた場面だ。その同一の光景を二回も見ると、ありそうなことだと疑ってみたくもなる。パチプロ風の小汚い格好の常連客が稼いでいたりするのは、ことさら違和感を抱かせない。彼らは、時としてとんでもないはまり方をして、大損をすることもあるようだから、「投資」に見合った回収をしたところで不思議はない。しかし、「一見(いちげん)」の客と思しき若いギャルが、とんでもない数のドル箱を重ねる、しかも、隣同士でそんなことになるというのは、やはり「仕掛け」臭いし、「さくら」臭いのは打ち消し難い。
 どうせ、何番台と何番台は大当たりが仕掛けてあるので、朝一で並んで座るように。4〜50回の連チャンが出たら終了にしていい。日当は、終了後に「喫茶店 さくら」で支払うから……、とでも指示を受けていたのであろう。

 どうしてこんなことを書くのかと言えば、今現在、次々に明らかとなりつつある「道路公団」の「談合」問題が、「郵政民営化」問題の推移の陰に隠れて流されようとしているからである。
 現在のこの国の財政逼迫問題で最も緊急を要する課題は、まともな支出以外の箇所において、「不正支出」が放置されている現状であるはずだ。その是正こそが、「構造改革」の端緒で着手されなければならないことは誰が考えたって当然のことだろう。こうした「不正支出」が撤廃されてこそ、「構造改革」路線も健全な軌道に乗ると考えるのは間違いであろうか。
 それなのに、こうした先決事項をなおざりにしたかたちで、何が緊急なのか理解に苦しむ「郵政民営化」に血道をあげている現状が、何とも嘆かわしくてならないのである。

 で、その「談合」問題であるが、道路公団という発注側が、「発注予算の上限額」を事前に業者側団体に内通させて、業者側がその額の97〜8%の額で「入札」を行なうというのは、パチンコ屋と「さくら」の客との共謀にも似て、卑劣極まりない仕業である。
 いや、もっとひどい犯罪だと言うべき理由は、道路公団は、つまるところ国民の税金や、有料道路利用者たちの料金で賄われるという公的性格を持っているからである。仮に、その財政が豊潤であったとしても、「道路公団」側は、国民や利用者の利益のために可能な限り低い発注額を追及しなければならない。にもかかわらず、それに反するのは「背任行為」ということになり、りっぱな犯罪以外ではない。それを、「現職」にある公団トップ層が慣行的に犯していたというのだから、猫に魚の見張りをさせていたようなものである。しかも、その犯罪の動機が、年収2000万円にもなる「天下り先」の確保というのだから、時代劇の悪徳代官顔負けだ。

 この厚かましくもまた情けない「談合」の事実を想定する時、パチンコ屋と「さくら」との関係なんぞ「かっわいー!」と思わず口にしたくもなる。パチンコ屋が、客寄せのために必死にならざるを得ないのは、はたで見ていても重々よくわかる。日頃巻き上げられている者が同情するのは筋違いだが、彼らは、自由競争という厳しい市場原理の中で、必死に自力救済を図ろうとしている。
 しかし、道路公団関連の「談合」は、明らかに「他人の銭」を、自身の欲得と便宜のために流用するという点において、弁護の余地がない。もはや、わたしはいっさいの「高速道路」を利用したくない気分である。(そうもいかないか……)
 また、こうした道路公団のアクションに乗じて仕事を得ようとしてきた関係業者たちのアン・フェアなビジネス・スタイルは、「構造改革」時代とは全くなじまないものであり、そんなスタイルでは、自由競争の市場で生き残れるわけがなかろう。ある経済団体のトップが、こんなことは日本経済の慣行であると言ったとかであるが、どうも、事態の重要さが理解されていないようだ。というか、日本経済は、本気では「構造改革」への進路変更をするつもりではなさそうな感じではないか。

 しかし、まわりを見回せば、いろいろな意味での「さくら」がうろちょろしているようで、まさにこの国は「さくら吹雪」の「美しい」国だということになるのであろうか…… (2005.08.03)


 仕事関係でお目にかかる人にはいろいろな人がいらっしゃる。
 比較的多いタイプは、人としての「person」の側面が磨耗して、完全に組織機構の部品と化してしまっているタイプだ。個性どころか、個人としての責任問題さえ、組織の壁や柱になすりつけて、自身の責任ある個人の姿を透明化させている人のことである。
 「わたしの一存では何とも……」という表現を常套句として、「検討はしてみます……」とか「個人的には好感を持ちますが……」とか、とにかく「人」に向かって話しをしているのだということを忘れさせるほどに「ぬか釘」的だと、やはり虚しい気分に襲われる。それは、その人個人の問題であると同時に、この会社自体がこういう人を作り出す組織体質を誇示しているのだと推測させ、暗澹たる気持ちにさせられるのだ。

 わたしは、常々、仕事というのは、会社と会社との関係というよりも、当方側と相手会社の実質的担当者との関係の問題ではないかと思ってきた。この関係が、スムーズでかつ豊かであるならば、概ね双方にとって良い結果が得られると考えている。
 とくに、ソフトのシステム開発にあっては、この関係の質の良し悪しがシステム構築の成否を決すると言っても過言ではないのかもしれない。かつて、システム部門の管理職向けのセミナー講師を仰せつかった時にも、この点を強調した覚えがある。
 とかく、仕事というと会社と会社との関係というように紋切型的に考えてしまいがちだけれども、もっと実質に目を向けるべきではないか、ということなのである。ソフト・ベンダー側にとっては、ユーザ側の意向の大半は、そのユーザ担当者を通してしかわからないはずである。もちろん、ユーザ側仕様書(システムに要求する事柄をまとめたもの)というようなものがあるにはある。しかし、そこに全てが記載されていると見なすのは単純過ぎる。言外の含意にこそ事の要点が潜んでいることがままあるからだ。
 そこで、ユーザ側担当者の方が、実質的にユーザ・ニーズの本質的部分を体現されておられれば、その方との対話の中から実質的要点を探り当てることができるわけである。
 ところが、ユーザ側仕様書もなければ、そんなことだからユーザ側担当者も実質業務には精通されておらず、はたまたそのことを恐縮だとも感じておられないようなケースだと最悪だと言うべきだろう。こうしたケースの仕事を、仕事が欲しいという動機だけで推進してしまうと、結局は、事後に禍根を残すだけのことになってしまうはずである。

 仕事というと会社と会社との関係というように紋切型的に考えてしまいがちだ、と前述したが、これはシステム・ベンダーに対するユーザ側にとっても同様だと思われる。
 とくに、ソフトのシステム構築においては、やはり、一人ひとりの技術者が見るべきターゲットであろう。いくら大きな会社だから多くの技術者を抱えてもいるだろうし、もしトラブルが起きたならば、「助っ人」技術者のスペアはいくらでもいるようだから安心だ、というのはいささか手前勝手な思い込みに過ぎるだろう。
 会社というのは、余剰人員を抱えているわけがない。こんな経済情勢にあってはなおさらそうである。しかも、事、システム開発にあっては、その案件に関与した技術者以外の者が急にその案件に参与したからといって、効果的な働きが早々期待できるものでもないのである。
 そう考えると、システム開発にあっては、大きな会社とてその内部は小規模なプロジェクト単位の寄り合い所帯がひしめいていると見た方が現実的なのであろう。たとえて言えば、大きな大学付属病院においても、結局、眼目はどの先生が「主治医」であるかという点以外ではないことと類似している。
 そうなってくると、ますます、ユーザ側も、会社の大きさでシステム開発依頼先を決定するのではなく、開発を担当してもらう技術者個人やそのチームにこそ焦点を合わせるのが妥当なベンダー選定だと思われるのである。

 要するに、仕事というものは、人と人とが織り成す構成物以外の何ものでもないと言える。もちろん、昨今の仕事に占める技術的側面の比重は大きいし、システム開発の場合には、人と言えども技術力に裏づけられた技術者である。
 しかし、翻って自覚しておかなければならない点は、技術というものは一人歩きできるかたちで存在するものではなく、人のトータリティが担うものである。そして、仕事とは、まさに抽象的な「技術」を、具体的な人と人との関係構成物の中にアプリケイト(応用)するものであろう。だから、技術者への評価にあっては、知識としての保有技術如何の観点だけでは決定的に不足することになるわけだ。
 ソフト・ベンダー側にとっても、ユーザ側担当者の方が、業務知識の豊富さもさることながら、仕事師としての洞察と配慮がいかほどのものであるかに大いに関心を向けたいのである。それは、この方とならば、きっといい仕事ができる、という当然の期待を抱きたいがためである。
 稼げる、儲けるという世知辛い問題も当然重視しなければやってゆけないが、それらは単独で訪れるものではなく、やはり「いい仕事してますねぇ」の結果なのだと考える以外にないのであろう…… (2005.08.04)


 明日は「原爆の日」だ。
 1945年8月6日午前8時15分、米軍は広島に原爆を投下した。終戦を早めるためという「言い訳」は、どんな視点から吟味しても無意味である。それほどに、この事実がもたらした悲惨さは、この事実が「人類史上最大の愚行」であることを照らし出す。
 そしてこの「愚行」は、残念ながら今後も何度でも繰り返される可能性が濃厚であり、地球自体が破壊され尽くすまで継続する可能性が、片方に残されている。
 「愚かさ」の再現があり得るのは、戦争それ自体と同様に、その事実が最も「愚かしい」ことだと全身全霊で認識できた者たちが、口を閉ざされてしまうからだ。つまり、死に追いやられてしまうからだということになる。
 人間には、他者の境遇に共感できる能力があり、過去を記憶に留める能力もある。だから、生き残った者たちが、その悲惨さと愚かしさの認識を語り継ぎ、警鐘を鳴らし続けることが、本来人間という立場ならば可能なはずであろう。
 しかし、現状の世界情勢は、現に北朝鮮が核保有を宣言しているごとく、核兵器は廃絶される方向どころか、逆に拡散する方向へと突き進んでいる。
 人間は、決して利口ではないのかもしれない。その上、人間の「視野」には偏りがあるのかもしれない。自身が知らないこと、認識できないことは、無いも同然と受けとめてしまう愚かさがあるのかもしれない。人間は想像力(「イマジン IMAGINE!」!)を持つ存在だといえども、その想像力なんて高が知れているのかもしれない。この点を凝視しなければ、愚行が繰り返される可能性を放置することになりかねない。

 だからこそ、暑苦しくも騒ぎ続ける必要があるのだ。この言葉が悪ければ、核兵器の愚行が視野に入っていない者たちや、視野に入っていても記憶を薄れさせてしまっている者たちに、静かな揺さぶりをかけるべく重いインパクトを及ぼし続けることが必須だと思える。
 先日、わたしは別のことで「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という言葉を引用した。
 この愚かしい核兵器の問題に関しても、この言葉の意味するところが活かされるべきだと思っている。人間は、視野の外のことをないがしろにするとともに、今・ここ、という条件下の感覚以外を薄れさせる欠点をも持っている。想像力の貧困と言ってしまえばそれまでであるが、現代という時代のその傾向は、いかにも度が過ぎているようだ。
 「やり直し」が決してきかない核兵器による破壊については、その使用抑止のために、核がもたらした悲惨さへの想像力を喚起し、薄れる記憶をしっかりと蘇らせる仕組みが必須となる。単なる知識だけでは決定的にもの足らず、まさに「臥薪嘗胆」という凄まじい知恵を借りる必要がありそうだと思えるのだ。

 ところで、昨日、あるTV番組で、「原爆小頭症」認定患者たちを紹介するものを見た。患者たちは、すでに60歳を迎えている。つまり、「原爆小頭症」とは、妊娠初期の母親の胎内で被爆した胎内被爆による被害者たちのことなのである。
 彼らは、さまざまな障害を生まれながらに背負っているのだが、何よりも同情すべきなのは、その知能の発育が幼児もしくは小学生低学年の水準で止まってしまうことだと言える。
 また、そうした患者を子に持った高齢となった親御さんたちの苦悶の言動、表情を見ていると、胸が詰まるほどの悲哀がひしひしと伝わってくる。
 身体障害者を子に持って介護を続けている親御さんたちは、時として、「この子が先に死んでくれることを……」と口にされる。実に、その気持ちは痛々しく了解できてしまうものだ。
 この番組でも、同様の悲痛な言葉が聞かれた。「何度、この子と一緒に死にたいと思ったかわからない」、「おまえ、とにかくひと(他人)から好かれるようにならなきゃダメなんだよ……」という親心が、わたしをジーンとさせずにはおかなかった。
 また、二歳程度の知能水準にとどまってしまったある患者は、ヒロシマの原爆ドームがTV画像で映し出されると、亡き母親の幻影を見て泣き出すのだと……。
 なぜこの親子たちが、こんなにも切なく辛い人生を強いられなければならないのか、この事実を目にするだけでも、核兵器使用は、人間の尊厳や人間の命の尊厳に対する冒涜(ぼうとく)以外ではない、との怒りがこみ上げてくる。

 患者たちには、もちろんおのおのの人生というものがある。当然のことだ。決して希望に満ちたものではなくともそれぞれの人生が……。しかし、わたしが、ふと感じてしまったのは、ひょっとしたら、この方たちは、核兵器の悲惨さを世に知らしめる使命を仰せつかってこの世に誕生したのではなかったか、と。

「坊や、おまえには別の人生が用意されていたのだけれど、かわいそうだが、このわたしの願いを引き受けてもらいたいのだ」
「??」
「いいかい、坊や、わかってくれるかい」
「うん、わかった。だって、神さまが望むことなんでしょ」

 冷厳な事実としては、核というものは、胎内被爆というかたちではあっても、生命のあり様に惨い爪あとを残し続けるという事実以外ではない。しかし、そうした冷厳な事実を認識するからこそ、彼らに託された使命というようなものを感じ取ってしまう。とともに、自身としても、核兵器の非人道性を糾弾し続ける使徒とならなければといけない、と…… (2005.08.05)


 最近は起床が遅れがちとなっている。すでに暑くなった戸外へウォーキングに出かけようとしていたら、「一分間の黙祷を……」という声が聞こえてきた。かけっ放しのラジオと、市役所の拡声器との両方からその声が聞こえた。
 わたしはその場に立ち止まり、断続的に鳴らされた鐘の音を聞きながら、黙祷を捧げた。一瞬のうちに、あるいは苦しみながら死んでいった何万人もの犠牲者の方たちの冥福を祈らざるを得なかった。

 戸外はすでに「うだる」ような暑さだった。
 暑い夏の朝は、幾分かの「非現実」感を伴う。眠気の残った覚めやらぬ気分のためということもあろう。また、空気の熱さが肌の感覚を狂わせるのかもしれないし、まぶしさや、もやを含んだ不透明感のある風景も、どこか現実感を薄めさせるのかもしれない。
 その日、その時のヒロシマもまた、こんな天候が、人々に幾分かの「非現実」感を与えていたのだろうか、と思った。そして、「次の瞬間」に、まがいもない「非現実」的衝撃と光景が、ヒロシマの人々を襲ったということになる。
 多分、自分たちを襲った出来事が何であるのかが不明であったに違いなかろう。「これは現実ではない、自分たちが慣れ親しんできた現実ではない」という戦慄的な感覚に支配されたのではないかと想像する。
 戦争とは言えども、民間人が経験していたのは、焼夷弾による空襲という程度であっただろう。それでも民間人が攻撃されることは問題であるが、焼夷弾であればその直撃を回避し、火災から逃れるならば被害は「現実的」な範囲にとどめることが可能だ。
 しかし、民間人が居住する都市全体に投下されたものは、焼夷弾などではなく、悪魔の爆弾、原子爆弾であった。そこに繰り広げられた光景は、まさに「非現実」の光景であり、人間が人間に行う「非現実」の選択、つまり誰もが是認どころか想像だにできなかったという点での「非現実」が、瞬時に現実とさせられてしまったわけだ。

 今日のウォーキングは、出だしから何やら緊張感を伴うものであったが、途中で見たものがなおのこと今日のウォーキング中の気分を決定した。歩道の植え込みに、猫が死んでいたのだ。最初は、木陰で眠っているのかとも見えたが、余りにも警戒心のなさ過ぎるその横たわり方から、死んでいるものと思わざるを得なかった。どうすることもできずに通り過ぎるほかなかったものの、この暑さでは早く葬ってやらなければ……、と気になり続けたのだ。
 猫の死の姿は、人の死について考えさせずにはおかなかった。その日ヒロシマで、唐突に死を迎えた何万人もの人々のことである。突然に途絶えることとなった人々の思考と感情は、どのように消滅したのであろうか、あるいは、その行方(ゆくえ)を考えることはらちも無いことなのだろうか……。
 わたしは、はじめて広島を訪問した時のことを思い起こしていた。駅の建物から駅前広場に出た時、わたしは、子どもっぽくも、その地から特別な「空気」を感じることができはしないかと思ったりしたものだった。
 が、特に期待したものを感じることはできなかった。戦後、何十年も経て、その間生活の再建と都市の復興のために費やされた生きた人々の膨大な量の汗と涙と熱気が、死者たちの奥ゆかしい痕跡をかき消してしまっているのだろう、とそう思い直していたようだった。

 ウォーキングの途中、わたしはまた、昨日聞いたあるニュースのことを思い起こしていた。ヒロシマに原爆を投下した戦闘機の搭乗者たちが、今でも、原爆投下は正しかったという主旨の声明を出しているというのである。終戦を早めるためには仕方が無かったのだし、今後もこうした選択の可能性は残されており、それが実現しないことを願うと述べているそうである。当事者たちがそう信じたい気持ちと、国際情勢の「リアル・ポリティクス」の考え方も類推することはできる。しかし、違う! 彼らこそ現実を直視していない。人間とは何であるのかの、リアルな現実を直視していない。人間は、原爆の「魔力」で破壊しなければならないほどに強靭で、硬度のある存在なんぞではないのだ。優しく、柔らかく、頼りなく、場合によっては惨めでさえあるそんな存在であろう。
 わたしは、つい先ほど目にした死んだ猫の姿を思い起こしながら、命を維持する存在の本質とでもいうものを思っていた。

 端的に言って、核問題の前途に関して、国際関係においてキャスティング・ボートを握っているのは、言うまでもなく米国政府であろう。しかし、米国の国民の過半数が、核兵器を望んではいないというのもまた事実だそうである。ここに、被爆国日本にとってのひとつの明かりを見る思いがする。
 「魔力」に依存しなければやってゆけないと考えている各国政府を超えて、人間とは「優しく、柔らかく、……」を本質とする存在だと考える人々が手をとり合えば、今からでも決して遅くない、と信じたい…… (2005.08.06)


 この日曜日は、平和で平凡な夏の一日を満喫した。満喫したと言うと、特別な何かがあったようにも聞こえるが、何もなかった。明日には確実に何かがありそうな社会の方の分野も、今日は何も書き添えるほどのことはない。
 平和とは言えないかもしれないちょっとした事件と言えば、午後に、16号線を走った際、二箇所で交通事故を見たことくらいであろうか。「盆」前に墓参りをしておきたいというおふくろの意向で、いつものように16号線を通って菩提寺に行く際、先ず最初に渋滞中の前方で、バイクと乗用車との接触事故を見てしまった。
 いつもにない渋滞が変だと感じ、多分進行方向前方の方で事故処理でもやっているのではないかと想像する。しかし、遅々として進まないクルマに苛立ちを覚えていた時、進路変更をしようとしたクルマが、すぐ後方を走っていたバイクの進路を妨げて接触したのだった。幸い、渋滞中で後続車両が倒れたバイクを追撃しなかったため、大事故とはならず、バイクの運転者もやがて立ち上がって、関係車両は道路脇に退避した。自分のクルマの数台先で起こっていた事故だけに、一瞬ヒヤリとしたものだった。
 前方で、どうも事故処理をしているための渋滞であろうと思っていたところに、その手前でまた事故が影響を及ぼすならば、16号線は麻痺してしまうところであった。
 そして、その第一事故現場を通り越すと、やっぱり事故処理中の警察官たちの動きが見えてきた。そして、事故現場は検証のためか事故車両をそのまま残していた。何と、3台のクルマが玉突き衝突を起こしていたのである。真中の車両は、前後の車両でサンドイッチ状態となり、前部と後部とがグシャリと潰れていた。搭乗者たちはもちろん病院へ運ばれて人影は見えなかった。
 その後の運転は、いつになく慎重となったものだが、この暑さがやはりクルマの運転者をボォーとさせて、注意力を散漫にさせていたのかもしれない。しかし、昨今のバイクの走行は危険さを増していそうである。16号線のような片方向二車線道路では、多くのバイクがその中央の間隙を猛スピードで走るからだ。乗用車が後方確認を怠って車線変更をしようものなら上述のような事故となりやすいのである。

 このクルマの事故現場目撃を除けば、まさに子どもの夏休みのある日のような淡々とした一日であった。
 早朝のウォーキングでは、元気のいい若者たちがジョギングでビッショリと汗をかいていた。境川の護岸工事で閉鎖されていた遊歩道の片側がようやく開通した。あちこちで、今が盛りの美しくあでやかな芙蓉の大輪が目を惹いた。
 午前中、近所の店に歩いて買い物に出たが、その時の暑さには参ったものだった。ご婦人たちはこんな日には日傘をさすものだが、日焼け防止からではなく、とにかく直射日光を遮りたい心境で、日傘をさすことの心境が実感的にわかったほどである。
 その帰り道、近所の家の子どもたちがビニール・プールではしゃいでいたのを見る。
「おばあちゃん、ほらほら……」
という声で、そのおばあちゃんを目で探すと、ビニール・プールが見える家の中の網戸越しの暗がりから「プール監視役」のおばあちゃんが小難しい顔で孫達を見守っていた。
 犬が洋服を着せられたような体型で、小さな女の子が水着を着ていて、水中メガネ(ゴーグルというほどカッコよくはなかった)を被っており、水中に顔を潜らせるところをおばあちゃんに見せようとしていたようだ。笑ってしまった。こんな日のことを、子どもたちも、おばあちゃんも、何かのイベントほどにはしっかりと記憶しないはずである。だが、きっと、穏やかで幸せな感覚というものの重要な素材、サンプルとして刻み込まれるのであろうか……。
 名古屋の古い民家、それはただただ広いというだけが取得の家であったが、そこに住んだ頃、玄関口で小さな息子が、ビニール・プールで水遊びをして、
「パチャパチャーパチャ……」
と楽しそうに呟いていた光景が脳裏をよぎったものだった。

 戸外の暑さと子どもが水遊びを心地よくしていたのを見たのが刺激となってか、わたしは、駐車場へとホースを延ばして、洗車をするという単純な条件反射行動に出たのが、我ながらおかしかった。
 このあとに、墓参りに向かったのだが、いつもどおりの墓の清掃と、花や菓子類を供えたりして、線香を順番に焚き、それぞれがお祈りをする。もう百何十回としてきた動作は、慣れ過ぎてもいる感じであった。真夏の寺は、蝉の声が響き、時折、幾分かの風で鳴る本堂軒下の鐘の音だけが気を引く、そうした静けさが満ちていた。
 まあ、今日一日は、夏の季節自体が文字通りの主役であった、そんな一日であったということになろうか…… (2005.08.07)


 今日は二回目の「分散」夏休みをとっている。
 不謹慎な言い方でもありそうだが、今日はどこへ出かけなくとも退屈する心配はなさそうだ。ますますその度を強めている「劇場型」政治を絵に描いたような推移が今日は予定されているからだ。
 もうすぐ午後一時となり、参院本会議が始まる。常識的な表現をするならば、「改革」という名を借りながら「国民不在」のままでその処理が敢行されてきた「郵政民営化」法案こそが、わたしは不謹慎な法案だと考えている。
 「構造改革」推進にとっては、「郵政民営化」は重要な一里塚だと言われたりもしてきた。しかし、こうしたマヌケな評価ほどおかしいものはない。
 物事には順序というものがある。
 今、仮に、ここにさまざまな多くの病状を複合的に抱えた病人がいたとする。医者はさまざまな手術と治療が必要なことを主張するだろう。その場合、名医とやぶ医者との分かれ道は何になるのであろうか。おそらくは、その順序だということになるのではないかと思う。患者にとって、より緊急度が高いとともに、もちろん自然治癒力などの患者側の状況をも鑑みて、何から着手すべきかを総合的な洞察力で判断するのが、名医だということになるはずである。
 それ以外のどんな動機からなされる治療手順も、患者の体力を弱めさせたり、他の治療の効果を減じさせたりすることによって、失敗に終わるはずであろう。まして、患者の容体如何よりも医者自身の「持論」を優先する判断が共感を呼ぶとは到底思えないわけである。

 先ほどから、TVでの国会中継を見ていたが、やはり、「郵政民営化」法案は「否決」されることとなった。賛成票:108票、反対票:125票、その差17票という大差の結果である。
 なお、小泉首相はこの結果を踏まえ、事前に表明していたとおり、「衆院解散」に打って出る構えのようである。まったく、一言で言って、森元首相の意とは異なった意味において「変人以上」であり、「政治の私物化」「わがまま」以外ではないと思う。
 わたしは、小泉首相が、国民の勘違いによって人気を博していた当時から、その政治姿勢に異を唱えてきたが、要するに、小泉氏は多くの政治家類型の中の「政治マニア」パターンでしかないということを今さらながら痛感せざるを得ない思いである。
 変な話であるが、IT関連の技術者の中にも、ユーザ・ニーズよりも、自身の「マニアック」な技術的関心事にのめり込む者がいたりする。そうした動機を、自身のエネルギーに対する薬味のように、部分的に持つことの効用は否定しない。それで結構いい仕事をする場合があったりもするからである。しかし、それにしても、自身の立場が責任あるリーダーとなるならば、極力背後に追いやって然るべきなのである。いや、現実の技術者たちは、まずまずそうしながら、リアルなユーザ・ニーズに目覚めていく場合が多い。
 しかし、政治家というステイタス、それもマス・メディアが「おだてる」経緯をとってきてご本人もその気になってしまった政治家は、「殿ご乱心」まがいに上り詰めてしまうものなのであろうか。この調子では、国民の懸念を逆撫でするかのような「8月15日の靖国参拝」も敢行するつもりではなかろうかと心配する。

 もともと、「郵政民営化」法案がいいか悪いかという議論ではないはずだと考えてきた。政治とはプライオリティがほとんどすべてだと言ってもいいわけで、今、何が最も早急に着手されるべきかが問われなければならない。多くの国民が関心を持っている年金問題、福祉問題の十分な検討や、その財源に関する不正支出の追及など、緊急な現実課題はほかにいくらでもあるはずなのだ。だから、自民党以外の野党が反対に回っているのは至極当然のことなのであり、「郵政民営化」法案になぜ反対なのか、という問いこそが、広い視野に立っていないと言うべきなのだろう。
 それがたまたま、自民党の「身内」からも、「身から出た錆び」の反対派を招いて、さも大問題であるかのような雰囲気づくりをしてきた。わたしに言わせれば、この光景は、タレントが離婚問題をネタにしてマス・メディアで騒がれ、燃え尽きた人気にろうそくの芯を足すのと大差ないような位置づけなのではあった。
 必ずしも、野党・民主党が政権を担ったところで、国民の真のニーズに応える政権ができるとも思わない。だが、人気と自身の関心テーマだけにご執心となる「政治マニア」を首相に祭り上げるような政党、「ブッ壊す」と叫ぶパフォーマーをトップに据えて平気でいられるそんな政党、自民党は、速やかに第一線から退いて時代の勉強をじっくりとしてほしいものだと、そう考えている。

 この大事な時期に、選挙という世に言うところの「政治空白」、しかも余計な財政支出を発生させるものにお付きあいするのは、今ひとつではある。しかし、新鮮な食材を当然視し始めた昨今の国民ならではのことだが、「賞味期限」がとっくに過ぎてしまった「ライオン・ヘアー」マークの干からびたチーズは、さっさと捨て去ってしまうことが、忙しく、辛さばかりの国民の唯一の選択肢であるに違いないと考えている……。
 今日は、もうひとつ気掛かりなことが夕刻に控えている。屈託のない笑顔の「野口聡一」くん、何としても無事に生還して欲しいものだ…… (2005.08.08)


 ある高名な経済学者が、その著書の中で「前提を疑うこと」「『効率的』は自明なことか」というような本源的で重要な指摘をしている。

<……とくに近年のわが国では「経済」に関する書物があふれかえっている。世界第一の経済大国になってしまったわが国であれば当然ともいえるのかもしれないが、それにしても「経済」に対するこの異常なまでの関心はちょっと不気味な気もしないではない。
 日本の経済は本当に強いのか、といった類の「経済書」がビジネスマンにとっての最大級の関心事だというのもわからないでもない。だが、ここでわたしにとって気になるのは、これらの「経済書」が、経済力が強くなることが無条件によいことであるかのように前提されている、ということなのである。…… このような暗黙の前提を疑うことはきわめてむずかしい。……経済成長は高い方がよい、という命題を否定するのも容易ではない。…… しかしいまわれわれが考えなければならなくなっているのはそういう前提なのではなかろうか。いいかえれば、いまわれわれを取り囲んでいる「経済」についての議論を全部カッコにいれてしまうこと。そうした議論が成立している前提を問題にしてみること、こういうことが本当は必要なのではなかろうか>(佐伯啓思『「欲望」と資本主義 終りなき拡張の論理』講談社現代新書 1993.06.20)

 実業界に身を置きながら、わたしもこうした本源的な問いの姿勢には共感している。この著作がしたためられた頃からもはや十年以上経った現在では、事態はさらに昂進しているようだ。「経済」とは、産業の実勢を飛び越えて「金融」それ自体を指すかのような、異様な状況となっているようだし、人々も「経済力」がなければ生きる資格がないとでもいいたげな狭隘(きょうあい)さで生活していそうである。また、カネのにためなら、それは生きるためならと同義に解釈してしまい、何でもする、という浅ましさになり果てているのかもしれない。決して、すべての人がそうだと決めつけるものではないが、そんなことはないと、楽観的な大見得がきれるほどに不感症ではない。
 かつて、「エコノミック・アニマル」と揶揄された日本人であるから、おそらくは、無邪気に、淡白に「経済至上主義」にはまりこみ、経済の持つ魔力の虜となってしまっていると考えても不思議ではなさそうだ。

 あえてこんなことを引き合いに出すのは、やはり「前提を疑うこと」という行為がなければ、視野の狭隘化は避けられないのではないかと思うからである。
 どこでもここでも「衆院解散」について話題にしているようなので、仲間入りはしたくはないのだが、ひとつだけ、この「前提を疑うこと」という視点で書いておこうと思った。
 しばしば、「郵政民営化」は、社会の「構造改革」路線にあっては、日本の場合当然の一里塚であるようなニュアンスで語られる。もちろん、主張する者たちは、たとえ、その主要な関心が「郵貯」などの何兆円にも上る巨大な資金にあったとしても、「民営化」が経営の効率化をもたらしてさまざまな経済的効果があることを主張する。
 また、これに批判を加えて、過疎地などでの利便性が犠牲にされるのではないかと口にすれば、「じゃあ、あなたは国の財政逼迫に対してどう臨もうとしているのか」と短絡的な反応を示す。
 もとより、経済というか、数字にしか感度がない品性に加えて、その数字についてさえ、確度のある検証をしているわけではないときたら、言ってることは、とにかく何でも手当たり次第にやればいいという思いつき以外ではないように見える。
 現に、諸外国での「郵政民営化」にしたところが、決してこの方策が万能薬ではないことが伝えられてもいるわけだ。
 いやいや、こんな話題に深入りしようとしたわけではないのだ。そうじゃなくて、きちんと事実を論じるためには、物事は「相対化」をしなければいけない、ということなのである。先ず、「構造改革」ありき、とか、まして先ず「郵政民営化」ありき、というスットコドッコイの急ぎ働き的スタンスでは、かんべんしてよ! としか言いようがないと思うのである。

 小泉首相の場合、いわゆる政治家としての「一枚看板」が必要なことはわかる。いま時の政治家には、「その筋」と言った専門分野を看板に掲げなければ仕事が回ってこないのは、街の職人と変わらない。しかも、気質が、どこか「マニアック」であるとなったら、「これがすべて! これ以外になし!」と鬼気迫る思いとなるのは、それもわかる。
 しかし、「そうじゃないだろ」と言わざるを得ない。わたしはかつて、同氏のことを主任・課長クラスだと揶揄したことがあった。つまり、狭隘な視野でもやってゆけるステイタスのことを言ったのである。
 だが、首相と言えば、その役割りは言うまでもなく、企業で言えば総合的洞察力が必要となる部長級以上である。万事に目配り、気配りをしなければならず、そのための豊かな見識がなければならない。何と言っても、この国の政治界でのドンであるのだから。
 それが、何と部分的なテーマにぶち込んでしまっていることかと悲しく思うのである。どんなテーマであろうとも、レトリックのレベルでは、これこそが日本改革の突破口だと表現することは決して不可能ではないのだ。
 犬を散歩させて、その糞を片付けない飼い主がいる、これを是正することが現在の日本改革の大前提だという立論をせよ、と言われたら、わたしならば一時間足らずで纏め上げもしよう。要するに、それを屁理屈と言うわけなのである。

 いやいや、またまた話題がずれつつある。本題は、たとえば「郵政民営化」問題のベースにあるとされる「構造改革」にしても、果たして、この方向にしようと、一体、いつ誰が決めたのであろうか、ということなのである。完璧に、「当然視」して事が進められて来たと言える。それで、この国のすべての人が幸せになれるのならば、それもいいだろう。しかし、なし崩し的に推進され、ぼちぼち噴き上げてきた評価は、「弱者切り捨て」「二極分化」「不安定な社会」などなどであろう。
 「経済回復」云々が盛んに吹聴され、「踊場脱却」というフレーズさえ今日あたりは聞こえてきた。しかし、これを実感で歓迎している実態は、一体どこにあるというのか? しかも、そう感じている層とて、現在の経済状況で最大の課題であるに違いない「将来的持続」という点においても評価しているのであろうか? まやかしもいいところであろう。
 結論を急ぐならば、マクロなレベルで展望するならば、今は小康状態を保っているかのような米国一国の経済流儀に、ただただ追随した「構造改革」路線というものは、「ワン・オブ・ゼム」の、狭隘な選択をしているに過ぎないはずである。これは、国際外交問題にしても同じことが言えようかと思うのだ。
 もっと、「前提を疑うこと」という「正しい思考と判断」をしてゆかなければ、ますます時代の迷子になりそうな気がしてならない。その意味では、政治屋たちこそ、自身に募る迷子気分を持て余し、自身の不安を追随者たちの数でごまかそうとしている情けない連中である、と言っておこう…… (2005.08.09)


 概ね完了していたある小規模なシステムを、漸くリリース、営業段階という最終作業に持ち込んでいるところだ。システムを最終テストふうに稼動させながら、よりベターなユーザ・インターフェイスづくりの工夫をしたりすることは、毎度のことではあるが、結構充実感が伴ってくるものではある。
 このシステムを構想したのは今年の一、二月であり、もう二、三ヶ月前にはあらかた出来上がっていた。その後、社内事務作業などでいろいろと忙殺されていたという事情もあるにはあったが、主たる理由は、今ひとつ新たな付加価値を加えてバリューアップ(?)させたいという欲張った願望があったからかもしれない。

 何せ、昨今は、思いのほかビジネス新案件への好ましい反応は得がたくなっている。ちょっとした新しい企画だというだけでは、簡単に黙殺されかねないご時世である。要するに、結果的には、その企画が不十分なものであったということ以外ではないに違いない。「いいモノなんだけどなあ」と唯我独尊、我田引水の思いに浸ってみたところで、あるいは市場を恨んでみたところで始まらないわけだ。
 しかしそれにしても、市場からのレスポンスや引き合いを得るということが簡単なことではなくなってきている。そう実感して久しい。この点は、今も昔も変わらないと言えばそうも言えるが、どうも市場ニーズが捉えどころないものとなっているようにも感じる。その種の感度の問題なのかもしれないが、それらをうまくキャッチすることが従来以上に難しくなっているようにも思う。

 こうした感触を抱いていると、自分たちが担った案件についても疑心暗鬼となりがちとなるものだ。この水準では、またまた「お蔵入り」の部類に埋没してしまうのではないか……、と弱気めいたものが生じ、残された工夫のしどころと思しき部分にプラスアルファの時間をかけたくもなってしまうわけなのである。
 確かに、コンピュータ・システムというものは、時間をかけて、さまざまな観点からレビューするならば、バグと言うべきベーシックな不具合も解消されるし、使い勝手の良さも向上する。もちろん安定性も確かなものへと仕上がっていく。
 ただし、いつも思うことだが、コンピュータ・システムというものは、ユーザの現場で活用されてこそ、メキメキと価値を高めていくものであるかのようである。
 所詮、ソフト・ベンダー側が、現場の業務なり、事務なりを「想像、想定して」創ったものは、どこか空々しさが拭い切れないものであり、的が外れていたり、余計なものが蛇足的に加わっていたりしがちなのである。
 そもそも、こんなものは無くたって苦労はしないんです、という余計なものを創ってしまうことさえあり得る。まして、イニシアル・コストもかかれば、ランニング・コストもかかるのが、コンピュータ・システムである。無くていいどころか、余計な手間と、大きなコストが発生してしまうシステムであれば、ユーザ側にとってはいい迷惑であろう。
 これは、決して余談的な話ではなく、こんなシステムが過去には数え切れないほど創られたといってもいい。もはや、現在では埒外の話ではあるが……。
 また、それぞれの業務の現場には、特有のニーズや手順、あるいは関連情報の流れというものがあったりして、その点を度外視してしまうと、ある部分的な業務は効率化しても、周辺業務などを含めた全体が却って効果的ではなくなるということも大いにあり得るわけだ。こんなケースも、システムが現場に導入されて明白となることが少なくない。

 要するに、コンピュータ・システムというものは、現場の生々しいニーズとマッチしてこそ、重宝がられるものであり、また、逆に言えば、現場のただ中でこそ成長していくものでもあると言えよう。
 したがって、ソフト・ベンダーは、良いアイディアを生み出すべく内部の能力の切磋琢磨をするとともに、「共同開発」のお相手とでも言うべき「良きパートナー」となる現場、そことのお付き合いが欠かせないのだと痛感している。
 IT技術力の「スペア(替え)」は決して少なくないのが現状だと認識している。むしろ、「何のための」システムかにおける観点での「キー・コンセプト」に関わるユーザ・ニーズに精通しつつ、その上でIT技術力の活用方法に長けていくことがますます重要な課題となっているのではないか、と思っている…… (2005.08.10)


 もう何年も前に、次のようなくだりをこの「日誌」で書いたことを、ふと思い出す。

< 話を転じると、われわれはとかく、「無理が通れば、道理引っ込む!」的に、願望と方策・対策を短絡的に直結させがちなのである。
 東海林さだお氏の人気まんが「ショージ君」にこんなストーリーがあったのを覚えている。真夏のアパートの一室、寝つかれずにイライラするショージ君。ウトウトと眠れそうになった時、蚊が耳元でブーンと唸る。腹立つショージ君は、手元の竹の物差しで蚊を追いまわし、物差しがボロボロとなってしまう。でも、蚊はまだサバイバル! ショージ君は、サンダルをつっかけ商店街へ駆け込む。「香取線香」を店先に積み上げた薬屋をとおり越し、文房具屋へ飛び込み、「じょうぶな物差しくれ〜!」と叫んでいるのである。>(2001/12/14)

 ( ※ 東海林さだお氏は、現在「丸かじり」シリーズという食べ物と人間に関する絶妙なエッセイを書き続け、「おかしさ」「ユーモア」というものの真髄に迫っている。ロシア文学専攻[早稲田中退?]、落語家・古今亭 志ん生を神さまのように慕うとも言われる同氏の視点は、失礼ながらやはり「準」天才だと思っている。
 その同氏の「ショージ君」というマンガを、わたしは青春時代にこよなく愛読したものだ。この「ショージ君」の中には、今では想像もできない「成長期」日本の穏やかな風物と人間模様が満ち溢れている。それは山田洋次監督の「男はつらいよ」と同様であろう。とくにこのマンガの中では、心底の悪者はいない。誰もが、ドジな悪意を見透かされて、愛らしく描かれているのだ。それが、懐かしい事実であったような気がしている)

 「じょうぶな物差しくれ〜!」と叫んでいるショージ君の姿を思い出したのは、ほかでもない、「郵政民営化」問題を、「耳元でブーンと唸る蚊」、そしてそれを潰す「物差し」のように気にして、拘泥している現在の政治状況が情けなくてしょうがないからなのである。
 まあ、そんな蚊は気になるものとしても、なぜ「物差し」に拘泥してしまうのか、「香取線香」なり、アース(?)なり、ほかも蚊を退治する有効な方途はいくらでもある。にもかかわらず、どこでどう執着してしまったのか、「物差し」でなきゃいやだ、ということになっている。
 国民による政治への期待項目は、現に第一位として「年金・社会保障制度」、第二に「景気問題」と挙げられている。
 また、仮に、財政改革問題が重要視された場合にせよ、「談合」問題での違法支出やら、特殊法人がらみの不正支出などなど、政治的に騒ぐ前に、ただ法的取締り強化を真面目にやればいい事柄も少なくない。「郵政民営化」にしたところが、現状の「天下り」慣行に象徴される「政・官・民」の癒着構造をそのままにしてのことであるならば、「民営化」されて「郵便事業」は「郵政族」の「クイモノ」にしかならないことにも憂慮する。
 要するに、なぜ「物差し」(=「郵政民営化」)に固執するのか、なのであり、蚊退治(=財政改革)であるなら、もっと効果的かつ緊急な手立てはほかにあるだろう、ということなのである。
 それなのに、「じょうぶな物差しくれ〜!」と叫ぶかのように、「物差し」問題で、税金を1000億円(衆院解散・選挙関連支出!)も使ってしまおうとしている。しかも、国民がリアルに合理的に社会の矛盾を見つめようとしている時に、問題を「物差し」問題に「矮小化」しようとしていることは、バカバカしくて話にならない。

 「物差し」問題に加えて、もうひとつのアナロジーを出すならば、「土俵設定」問題である。つまり、何事にせよ、「喧嘩」の類の勝敗というものは、自分が戦いやすい「土俵」を設定したものが有利なのである。かの宮本武蔵も、巌流島の浜に踏み込むや、自分に有利な「土俵」作りを最優先とした。と言っても、落とし穴仕掛けの土俵を砂浜にこしらえたわけではない。まぶしい太陽を背にする足場をかためたということだ。
 その点では、小泉首相は、首相専権の解散権を駆使し、あたかも「郵政民営化」問題が国民的な大争点であるかのような選挙戦の「土俵」作りをしてしまった。この点では、この「土俵」が「公式」だという幻想を崩さない限り、野党勢力は苦しい戦いを強いられるはずである。すでに、考える余裕のない国民が、この「土俵」を鵜呑みにした世論調査結果も出ている。
 先月、「そんなことが言い出せる『空気』じゃなかったんですよ……」(2005.07.26)と題して、物事のひとつの流れを作ってしまう「空気」というものについて書いた。「北朝鮮の核問題をめぐる第4回6者協議」という場に、日本にとっては由々しき問題である「拉致問題」を提起しにくい、そんな「空気」というものについて書いたつもりであった。そして、その理由は、「6者協議」のイニシアチブが北朝鮮によって掴まれてしまい、つまり「土俵」が北朝鮮によってお膳立てされる格好となってしまっていたからだった。
 「土俵」作りにしても「空気」作りにしても、「喧嘩」に長けた者は、いち早く自分流のそれらをこしらえてしまうものなのである。そして、これを巻き返すことは並大抵のことではないようだ。

 わたしは、相変わらずマス・メディアに対しては信頼を置いていない。現代という市場経済至上主義の時代にあって、マス・メディアも「売るための情報」を最優先とせざるを得ないことは当然のなりゆきだからである。
 そして、本来、国民はマス・メディアに対しても距離を置き、批判的となって当たり前であるにもかかわらず、「おもしろいこと=興味本位」を報道に求めがちとなっていそうだ。マス・メディアもそれに呼応して、「おもしろいこと=興味本位」を報道して読者なり、視聴者なりを拡大しようとするのは不思議ではない。
 不思議ではないのだけれど、もし、マス・メディアに良識というものや、公平性という観点が生きているのであれば、配慮すべきだと考えられる点がある。つまり、<「土俵」作りにしても「空気」作りにしても、「喧嘩」に長けた者>たちが、マス・メディアの増幅機能をしっかりと計算に入れて行動していることに野放図であっていいのだろうか、という点である。
 ただでさえ、マス・メディアは、「政治をわかりやすく」というわかったような、わからないような建前を掲げて、実のところは政界での「おもしろいこと=興味本位」をことさらに取り上げて、政治の本来の課題から目をそらさせる結果をもたらしている。
 <「土俵」作りにしても「空気」作りにしても、「喧嘩」に長けた者>たちは、端的な表現をするならば、国民受けというよりも、マス・メディア受けの良いことを必死で模索しているのである。その動きに対して、マス・メディアがほぼ野放図に呼応してきた結果が、「実りなき小泉内閣」を作ってきたのだと、わたしは分析している。

 1000億円もかけて実施する国会議員の選挙であるのだから、国民のジリ貧生活が改善に確実に向かい、将来への希望のかけらでも掴める結果にしなければモッタイナイはずである。「物差し」を追っかけるのではなく、効き目のある「蚊取り線香」をここはしっかりと選択したいものである…… (2005.08.11)


 猛暑が続いていたので、今日のような過ごしやすい気温はありがたい。
 昼食時に表に出ると、歩道のポプラ並木の蝉たちが、やや焦ったかのように鳴いていた。「ウソでしょ? まだ暑さは続くんですよね」とでも言いたげに鳴いているようであった。姿が見たくて見上げてみたが、かろうじて一匹が見えただけだった。ポプラの樹皮と見分けがつかない形や色をしている。
 蝉たちは鳴いていられる寿命がみじかいと言われる。先日も、早くも熱い歩道に身を転げていた蝉を見た。「おいおい、ちょっと早過ぎるんじゃないかい?」と思わずつぶやいてしまったものだ。
 短い寿命を惜しむかのように鳴く蝉たちに接していると、やはり、無常観と、それゆえに映える「いのち」というものに関心を向けてしまう。
 藤沢 周平の傑作作品に『蝉しぐれ』という感じのいい小説がある。TVドラマにもされて好評を博したが、この小説の題名がなぜ「蝉しぐれ」なのかと最初はいぶかしく思ったものである。だが、よくよく味わってみると、何と的確な題名なのかと感心するばかりである。
 この小説は、城下の藩内派閥抗争という盛り上がりも組み込まれていてサスペンス的な色合いもある。しかし、全体として、清流と木立にかこまれた城下に生きた武士の半生を回想的に描いたもので、回想という視点があってのことか、「時間の流れ」というものをそこはかとなく意識させられるのである。それはあたかも、暑い夏の日々が過ぎ行くのを惜しみ、あらん限りに鳴く蝉たち、「蝉しぐれ」の印象そのもののようにさえ思える。「いのち」の恍惚と、ひたひたと迫り来る陰、そしてまさにその両者の拮抗の中で過ぎてゆく時間、とでもいうようなイメージの小説であったため、現実の「蝉しぐれ」の印象が見事に重なっているとわたしには思えたのであった。

 現代という時代は、多くの文明(堂のカステラ?)を得たとともに、失ったものも少なくない。虫歯によって丈夫な歯を失ったり、スマートな体形を失ったりというのもそのうちに入るのだろうが、そうした目に見える事柄よりも、関心を向けたいのは、「今という時間がしっかりと感じ取れる感性」の喪失ではないかと思ったりする。
 現代人は、あれもしたい、これもしたい、あれもしなければならなければ、これもしなければならない、という思いで時間にアクセクして、走り回っている。そして、時間とは、量の問題であると決めつけている自分に気づくこともない。どこまで行っても、足を止めて自足できる「今」という時点を掴みかね、次の時点、その次の時点へと視線を流していく習性に慣れ切ってしまっているかのようだ。
 言うまでもなくその原因は明らかなはずだ。それは、現代という時代が、「エンドレス」の原理によって驀進している以上、人は「有限」であることを見つめるよりも、「無限」を前提とした感性に立脚せざるを得ないからだと言えようか。
 「無限」を前提とした感性、というと、オレは長島元監督ほど楽天的ではないから、「オレの命は永遠で〜す!」なんて思っちゃいないよ、という反論が聞こえてきそうだ。そりゃ当たり前であり、誰が、自分の寿命が永遠だなんて思っているものであろうか。しかし、そうだからといって、それが人をして人の有限性を自覚する境地に運んでくれるわけではないであろう。
 「明日ありと思う心の仇桜」(親鸞?)は、その心境を詠ったものであろうが、そんな心境からは既に解放された、無縁になり得た、と勝手に信じてしまっているのが、ほかならぬ現代人ではないかと思ったりする。
 いわゆる寿命も延びて、人々は不慮の災難で死を迎えることからは解放されたかのようには見える。それが、文明堂のカステラのお陰なのであろう。けれども、不慮の災難で死を迎えないことは、人が不死身の存在、永遠の存在となったこととは決定的に異なることも動かし難い事実だ。

 こんな事を書いていて、ふと、おかしくなってしまったのは、明日から「盆」が始まるという事実に思い至ったからである。自分の「体内時計」には、そんな事実が刷り込まれているのかな、と思っておかしくもなったのだ。
 それはともかく、死を運命づけられた有限の存在であるからこそ、いのちと人生を輝かせることが可能なのだという点を、もっとポジティブに見直すべきなのだと感じたりしている。そして、この事実と原理とを覆い隠すものを容易に信じてはならない、と思ったりもしている…… (2005.08.12)


 決して涼しいとは言えないけれど、さほどの暑さではないのでほっとする。
 今夕は、おふくろの住いで「盆」の迎え火を焚く予定になっているため、狭いところに結構大勢が集まり混み合うことになっている。あまりに暑いのは、どうも、と思っていたからである。
 起床は遅かったが、照りつける暑さではなかったため、先ずはウォーキングで汗を流すことにした。あちこちの木々で鳴く蝉の声を聞きながら、夏ならではの暑さを実感するのも悪くない。また、さし当たって身体に支障なく、(鉄アレー携帯のパワー)ウォーキングができることに、何となく安心感を覚える。ただ、最近は「落雷」事故が多いようなので、雷模様の際には、鉄アレーは危ないかもしれないな、なんぞと思ったりする。

 毎年、どちらかと言えばおふくろの音頭取りで「盆」の行事を行っている。
 おやじが亡くなってもう二十四年経つことになるが、毎年欠かさず行ってきたことになる。わが家の家族と、姉夫婦の家族とがこの時は、とにかく顔を合わせてきた。
 当初は、両方の家庭の子どもたちも小学校の低学年であり、ほかの行事とは異なって「盆」の迎え火を焚くことというようなことに、何がしかの奇異な感じと興味を抱いてもいたのではなかろうかと思う。
 また、亡父は、孫たちをかわいがっていたので、孫たちも「おじいちゃんのお盆」として受けとめていたのであろう。息子や姪っ子たちも、小さい時からこの日のためにいろいろと手伝いをして、据え置き型で組み立て式の回り灯篭の提灯を組み立てることを役割りとしてきた向きがある。
 その姪っ子たちも、もう結婚をしてそれぞれが家庭を持つことにもなった。いつまでも、お盆の提灯の組み立てでもないわけだ。
 が、それでも、日頃一人住まいをしているおばあちゃんということもあってか、万難を排してこの日には顔を出すことが続いている。それぞれがそれほどの遠方に住むことになっていないということもあるのかもしれない。

 何を書こうとしていたかといえば、よくも二十四年にも渡って、おふくろはこの「盆」の行事を率先してやってきたものか、ということなのである。自分の連合い(つれあい)だからだと言えばそれまでのことである。だが、それにしても、ほどほどのところで「発展的解消」というようなこととなったとしても、誰も何とも言わなかったかもしれないと思う。
 おふくろはおやじのことを、生前、いろいろと愚痴っていたものだった。自分たちの結婚は、戦争中であったから致し方ない結婚であったのだとも言っていた。
 しかし、その亡き亭主を祀る仏壇からは未だに線香の煙が絶えない。また、月に一回のお墓参りも欠かさない。信仰心があるとかないとかという観点ではないようである。どちらかと言えば、熱心な信仰家というよりも、信心については、慣習に従うといった平凡なタイプであろう。ただ、こうした面に関しては、几帳面にこだわる風ではありそうだ。やるべきことは、やはりやるべきだとこだわる典型的なタイプであるかもしれない。やるべきことをしないで「ばちが当たる」のが恐いという思いがないでもないのだろう。
 が、それはそれとして、何よりも自分の人生が亭主とともにあったこと、これをはずして自分の人生のよすががないことをいやというほどに自覚しているのであろう。
 確かに、今一人で住んでいることを、自由気ままで最高だと口にしているおふくろではある。死んだおじいちゃんといっしょだった頃は、何かと世話ばかりかけるし、すぐに怒るし、自分の自由は何一つなかった、とぼやくおふくろではある。
 しかし、だからといって「独立独歩」の自由人なんぞでは決してない。やはり、自分の亭主と暮らした時間やその思い出に立脚することが、今を生きる上でも大きな拠りどころとなっているのに違いない。

 そう言えば、中学生の頃、親しい友人宅へ泊りがけで遊びに行った時のことである。彼は、歳が離れた末っ子として生まれたため、母親はかなりの歳であり、既に父親は亡くなっていた。そのお母さんが、朝ご飯の際には、甲斐甲斐しく仏壇に供え物をしたり線香を焚いたりしておられた。確か、その仏壇には、そのお母さんの老い方とは不釣合いとさえ言えるような若いお父さんの遺影がかざられていたかと記憶している。そんな光景を見て、若干の何かを感じたものであった。だから、今でもそのことを覚えているのだろう。
 ともに暮らした連合いと死別して遺された者は、忘れなければ生きていけないほど悲しいはずだ。しかし、忘れることが決してできないのも事実だろう。そんな過酷なジレンマの無数の累積の中から、宗教的な慣わしというものが必然的に生まれたはずだと考えている…… (2005.08.13)


 ファミリー・レストランではよく赤ちゃんや幼児と出会う。
 昨日は家内が「盆」の料理作りなどでてんてこ舞いをしていたようなので、今夕は外食にすることにして、「町田食い倒れ街道」に足を向けた。わが家の近辺の町田街道ぞいは、とにかく食い物屋が多くなってしまった。まあ、ちょいと食べたいかなと思うもの、たとえば焼肉でも何でもいいのだが、それぞれ同種の店が二軒以上程遠くないところにひしめいていて、客側にとっては、選び放題の極楽地である。
 で、「町田食い倒れ街道」と密かに命名しているわけだが、今日は、どういうわけかステーキがご所望という気分となり、ファミリー・レストランに出向くことにした。

 まあ、ステーキがどうのこうのというよりも、この類の店に行くと、子ども連れが多いのに気づかざるを得ない。それは、回転寿司でも同じと言えば同じなのだが、回転寿司の場合は、みんなが「レーン(?)」に向かい合っているため、他の客の様子はあまり目にすることがないのだ。それに対して、レストランふうの店では、テーブルがあちこちにあるため、他のテーブルの様子がいやでも目に入る。
 そんな時わたしは、赤ちゃんや、まだオムツが外せないくらいの幼児の姿を面白がって眺める。生意気そうなガキは、大人と変わらないので、あまり視線を合わせないようにするが、あどけない幼児だとついからかってみたくなる。

 先日も、だいぶ遠くに離れていた小さな女の子が、キョロキョロしていて、たまたま目が合ったので笑い顔をしてやったら、とろけるような笑顔を返してくれた。またまた目があい、またまた笑顔を送ると笑顔がこだました。実に機嫌がよさそうな雰囲気である。そうしていたら、やがて、食べることに一生懸命のパパの腕を、ポンポンと平手で打ち始めたのだ。まるで「パパ、パパ、ほら見てごらん。おもしろい人がこっち見てるから……」とでも言うような仕草であった。が、パパは全然気づこうともせずに、食べることに忙しい。そんなことをニ、三回繰り返しているうち、そのパパから、「さあ、ちゃんと食べちゃおうね」とでも言われたのであろうか、テーブルの方に向かされ、スプーンを口にあてがわれる格好となった。小さな子とそんな他愛のないコミュニケーションをするのは、とにかく楽しいものだ。

 今日は、すぐ近くのテーブルに赤ちゃんが抱っこされていた。若いおばあちゃんといった感じの婦人は、お仲間さんたちと会話をしていて、赤ちゃんだけがわたしの方を見る格好になっている。そして、わたしが気になるらしくて、じっとわたしを見詰めているのだった。まさしく、透明感がある真っ黒なつぶらな瞳が、キョトンとした顔の中にあった。マジな顔をし始めていた。笑って見せたのだが、反応が何もない。むしろ、ますますマジさ加減を昂進させていくように見えた。
 あっ、これは人見知りの混乱の螺旋階段を上りはじめているのかな、やばいかもしれないな、と咄嗟に思い、そばにあったナプキンを道具にしておどけて見せた。が、もはや手遅れであった。真っ黒なつぶらな瞳がまぶたで被われ、キョトンとした表情はにわかにクシャクシャな表情になり、「ゥワァーーー」という強烈なアラームになってしまったのだった。抱いていた若いおばあちゃんが、
「あっ、ごめんなさいね。ちょうど今人見知りが始まったころなもんで……」
と釈明していた。
 こちらこそ悪いことをしたと思った。マジな度合いが高まり、ジィーッと見開いたつぶらな瞳がこちらを見つめていた時、目をそらせてあげればよかったのかもしれない。しかし、実はわたしも、マジに考えてしまっていたのだった。この子は何を考えているんだろう? お父さんとも、おじいちゃんとも違うよその変なオッサンをどう解釈すればいいのか戸惑っているのだろうか? なんて、まるで動物観察のように見つめてしまう一瞬があったから、そのわたしの表情がますます不快に感じられたのかもしれないのだ。
 その子はおばあちゃんにあやされ、やがて機嫌を直した。わたしはといえば、何あろう小さな子の脳の中の出来事を想像するというような無作法をしていた。ヒトの脳が人間の脳へと成長していく過程というのは、一体どんなふうなのであろう、心細さというものが支配しているのだろうか、それとも、淡々とした積み重なりの過程が進行していくといった感じなのであろうか……、なぞと考えていた。
 澄んだ漆黒の瞳の奥の奥からつながっている若葉のような脳のその活動は、今は可能性としてはほぼ無限であろうはずなのだろう。しかし、それが三年、五年、十年経ち、さらに十数年も経てば、自立のための知識や知恵を獲得はするものの、同時に、無限の可能性というものからは次第に遠のいていくのかもしれない。なんとなく切ない思いがよぎったものであった…… (2005.08.14)


 午前中は、「振り分け」夏休みの最後の一日をのんびりと過ごした。マッサージ・チェアなんぞにひっくり返って、扇風機の風を浴びながらうたたねするといった具合だ。
 一眠りして目が覚めた時、気になっていることをやはりじわじわと思い起こすこととなった。先々週の第一回夏休みに行った「独居老人支援奉仕活動」の残りの課題なのである。
 猫対策もあって行った襖の改造工事は、一昨日に集まった親戚関係者たちにも好評を博したのだったが、わたしが勝手に気にしていたのは、トイレがひどく汚れていることだった。日頃、おふくろは一人住まいで掃除が行き届かないということもありそうだったが、壁も随分と汚れ、水栓タンクや便器などの汚れも「年代物」的な域に突入し始めていたのだ。おそらく、おふくろとしては、もはや自分の手ではムリだとあきらめているのだろうとわたしは感じていたのだ。
 人の行動力というものは、いろいろな段階というものがあり、ちょっとした手間で片付くものであれば誰だってエィヤッと済ますものだ。しかし、いくら几帳面で綺麗好きであっても、その掃除が何時間にも渡る複雑なものとなりそうだと、もはや容易には手が出なくなり、そうなれば成り行きに任せるほかはなくなり、やがて密かに無視するようにさえなるものだろう。現に、私にとっての書斎の大混雑ぶりは、もはや「無視」する段階にとっくに突入している。だから、人のことも類推ができるのである。
 おふくろの住いのトイレは、ほぼ確実にそうした扱いを受ける対象となっていたはずである。わたしが時々そのトイレを利用させてもらう際にも、おふくろは、決まり文句のように、「汚れてて悪いけどね。掃除しようと思ってるんだけどね……」とお愛想を言う。しょうがないなあ、と何度かは思った。しかし、そのうち、いや、このトイレは自分の書斎と同様な位置づけに突入している「係争中の管理物件」(?)的扱いにあるのかもしれないと気づいたのだった。いつか、自分が裁判所よろしく抜本的介入をしなければ埒が明くことはない、とそう思ったものであった。

 だから、密かに、襖の改造の次は「トイレ空間のリフォーム」だと考えていたわけである。と言っても、その種の業者が行うようなパイプやタンクその他をリプレースするほどのことではなく、それらに特殊処理を行うことで磨き上げたり、壁のペンキを塗り替えたりという、あくまでも日曜大工レベルの作業ではある。
 しかし、それにしても、ざっと見積ってみても一日はたっぷりとかかる作業量が予想された。しかも、この暑さの中で、心地よい作業ができる広さがない場所という条件である。二の足を踏む思いがどうしても先立ってしまう。
 だから、今回の土日プラス夏休みが始まった時にも、一方では、この三日のうちのいずれかでやってやりたいものだと思いつつ、二日間は「無視」することとなっていた。そして、三日目となり、概ね今日がその日だとわかっていながら、うだうだとしていたというわけなのであった。
 が、朝のウォーキングの疲れが、ちょっとした居眠りで解消されるやいなや、ヨシ、やるかっ、という気分となったのだった。

 おふくろに電話をした。
「だって、今日はまだお盆だからいいよ……」
と、おふくろは遠慮気味であった。わたしは、これから行くから、と強行姿勢であった。お盆で、亡父が「滞在中」なら、なおのこといいじゃないの、「結構毛だらけ」じゃないの、おふくろのために息子が親孝行をしているところを亡父が見れば安心してもらえるじゃないの、とわたしは勝手なことを考えていたわけでもあった。
 わたしは、前回、最後で若干ドジを踏んでしまったので、おふくろの前に立つやいなや釘をさすように言ったものだった。
「作業中は、口を差し挟まないこと、職人は弁当も、コーラも持参して来たから、余計なお構いは一切無用。これ冷蔵庫へ入れといて……」
 すると、おふくろは、
「うん、わかってる、わかってる」
とさり気なく対応してくれた。
 こうして、日頃気掛かりでならなかった「トイレ空間」とわたしはみっちり六時間の格闘を続けたのだった。先ずは、扇風機を「強」にセットして鎮座させると、自宅の物置から事前に選んでおいた各種道具や素材、来る途中で購入してきた特殊洗剤、複数のペンキおよび関連道具などをトイレ近くの床に広げ、満を持すかのごとき皮切りを行ったのだ。
 途中、スモーキング・タイムで、おふくろと一緒に持参したコーラを飲んだりして休んだが、取り立ててのハプニングもなく、外がまだ明るい6時過ぎには作業は完了した。
 今日は、おふくろも前回のことで気難し屋の職人の扱いに慣れたらしく、知らん顔をして待機していてくれたのではかどった。静かだな? 何してんのかな? とちょっと居間の方を覗いたら、ベッドにひっくり返って昼寝までしてくれていたので、大助かりだった。やっぱり親子だから、一度言えば万事承知の介となるもんだなあ、そういうところが気が合うんだよなあ、なんぞと思ったりした。

 仕事で働くことも同じことではあるのだが、人(他人)のために「傍(はた)楽(らく)」ということは、自分の疲れを忘れさせるもののようである。まして、「傍(はた)」の人が喜んでくれると、疲れは心地よいものにさえなってしまうから不思議である。
 先ほど、家内が電話をしたら、おふくろは、バカなお世辞を言っていたとかいう。
「すごく綺麗になっちゃって、これからは『有料トイレ』にしなくちゃねぇ……」
 そこまで見え透いたことを言ってたのかい? とわたしは言いつつ、まんざらでもない気分が隠せなかったのだからヘンなものである…… (2005.08.15)


 先日、ある知人が、
「今回の選挙はおもしろいねぇ〜」
と言っていた。それに対してわたしは、
「全然!」
と仏頂面をしてつぶやいた。
 仮に、その彼が、「刺客」とか、「風雲永田町」とかという愚にもつかぬレベルでおもしろがるのではなく、ひょっとしたら小泉自民党政権が自滅するという意味において興味を持っているのだとしたら、いや、そう考えるような日頃の彼であったなら、わたしは、
「そうだね。どうなるんだろうね」
とでも言ったであろう。
 しかし、日頃の彼のスタンスを知る限り、彼にあっては政治というものは世間話のネタのひとつであるにしか過ぎないことをわたしは熟知していた。だから、彼が「おもしろい」と言った意味が、一頃の巨人・阪神戦レベルの「興」、ないしは「ホリエモン」対「フジテレビ」の騒動に向けられた興味以外ではないことも重々承知していたからである。
 案の定、彼は「亀井さんが……」というようなことを口にし始めたのだった。わたしは、もういい加減この種のレベルの「小田原評定」にはウンザリしていた。端的に言うならば、政治というものへの大きな誤解がそこにあると思う。本来、自身の生活や生き方に少なからぬ影響を及ぼす政治というものを軽視して、個人生活にだけ拘泥するという「貧しい」生き様が気になってしょうがない。
 それが間違っていることは、昨日という日の意味(終戦記念日!)ではないが、政治を庶民の生活とは無縁だと高を括っていると、戦争、非常事態宣言といった個人の生活や自由を徹底的に拘束し、命までを差し出せという、とんでもない事態が引き起こされ得るという点なのである。その危ういロジックが、まるで浮き出た血管が波打つように表面化しているにもかかわらず、そんなことはゼッタイにないと盲信している感覚が、逆に不思議でならないのだ。

 わたしに言わせれば、戦争が引き起こされるのは、好戦的な政治家たちがいるからではないと思っている。問題は、いつの時代にでも存在するそうした「性格破綻」者や強欲な人間を、意識的に、無意識的に支持してしまう側にこそ問題があると思えてならない。
 戦争を頭から是認するような異常な者を改心させることははなはだ困難なことであろう。そうした者たちには、自分たちの無力さを知らしめてやるほかはないのだ。
 しかし、戦争への道に紛れ込んでしまうかもしれない普通の人々は、十分に、その危険な選択を回避することが可能なのだと思っている。と言うのも、庶民にとって戦争というものは何の得にもならないからである。ただ、事実推移がよく呑み込めずに、戦争への方向に加担してしまうというのが実情なのであろう。
 それで、そうした危険な加担をしないためにも、公(おおやけ)=公共の場での出来事である政治というものについて睨みをきかせておかなければならないのではなかろうか。 わたしは、以前からこの「公共」というものが、今日のこの国にあっては曖昧過ぎるものになっていると懸念してきた。そして、その典型は、本来、その公共というものと最も深く関係する政治自体が、何か全く別物として受けとめられているような実情が当然気になってきたわけだ。
 襟を正す、という表現は堅苦しくて適さないが、それでも、政治行動と、消費行動とには差があって然るべきだと考えている。消費行動は、優れて個人の嗜好、感性に尽きる問題であろう。いや、消費行動でも、優れた感性の人々は、反・社会的、反・公共的なモノには手を出さないという律儀さが備わっていたりもする。いわゆる「不買運動」などである。
 そうした個人主義的原理の消費行動に対して、政治というジャンルは、個人主義的原理を持ちながらも、「公共性」というものを想定せずには有効に機能しないという点が大きな特徴だと考えている。政治への参画によって、何がしかの立法がなされるならば、それが法的拘束力を持ち、他の個人の行動を左右させることができてしまう、という点が、単なる消費行動とは区別されるからである。
 しかし、現在の「小泉劇場!」という政治は、政治を雲上の者たちから庶民の手へというもっともらしい特徴のもとに、実のところ、無責任なマス・メディアと手を携えて、エンターテイメントの色合いをますます濃くしている。
 政治というものが、実のところ、庶民、国民の生活や生き甲斐に大きな影響力を持つことを省みさせず、「瞬間芸」的な刺激やサプライズを駆使して、エンターテイメント部分へと過剰に足を突っ込んでいる。その「まやかし」に乗る国民もどうかと思うが、そこでは、傲慢なマス・メディアが、公共の電波その他を利用していながら、あまりにも良識あるリーダーシップを発揮できていないのが情けなくなる。

 正直な感覚から言って、こんなにも国民生活に問題が山積していながら、なぜ、「郵政民営化」だけがお念仏のように珍重されなければならないのか。現在の政治状況をそんなに「単純化」することは決定的な間違いであり、そのことだけでも危険この上ないと思われる。これまでのすべての戦争は、「鬼畜米英」という言葉が示すような「単純」な「二極化」のフレーズが火に油を注いできたのではなかったか。
 自民党内部の「ヘビとマングースの闘い」といったゲテモノ劇を、国民は拒否すべきである。そんなものに「郵政民営化」問題をダシにした下駄をはかせてはいけない。自民党当事者たちが照らし出しているものは、小泉手法の危険さということではないのか。そりゃあ、自民党派閥勢力にとって危険である分には一向に構わないのだが、果たしてそう言い切れるものであろうか。
 15日の靖国参拝は避けたものの、この靖国問題での開き直りでは、アジア各国の世論を「マングース」と見立てているではないか。小泉氏の発想、手法には色濃い「二分法」が刻まれており、それが「危険」だということを感じ取らなければいけないのだと考えるのである。自分だけが「正義の味方」だと思い込む人の危険さについては、「9.11」以後の世界の推移が示していることではなかったか。少なくとも、そのタイプの政治家は、建設的な改革にはミス・マッチだという気がしてならない…… (2005.08.16)


「おいおい、元気だせよ。まだまだ早過ぎるぞ」
と、つぶやきながらそいつに手を差し伸べた。蝉が、ビルの階段付近のタイルの上にひっくり返っていたのだ。
 と、蝉は気絶でもしていたのだろうか、亀がひっくり返ったように仰向けとなった本体に指が触れた途端、ジィジィーと息を吹き返し、階段の柵の隙間を飛び抜けて宙へと舞い上がった。目で追ってみると、すぐ近くのポプラの木の樹皮にうまくタッチダウンしていた。
 よかったよかった、という気分になる。昼食時に事務所から出ようとした時の光景であった。きっと、この暑さで蝉もボォーッとなって飛んでいて、モルタル壁に激突し気を失ってしまったのだろうかと思った。ただでさえ短命の蝉なのだから、精一杯この世の夏を味わうべし、と言ってやりたかったのだ。

 まだまだ暑い夏が続く。八月半ば過ぎなのだから当たり前であろう。この暑さはこれはこれでいい。自然現象にムリな注文をしてもしょうがない。
 むしろ暑苦しくて不快感を誘うのは……、と取りとめもなく考えていた。
 人間は、空腹感に突き動かされて、食事をとる。身体にとって何が必要なのかを一々自覚しているわけではないにしても、先ず先ず大きな間違いはなく栄養をとっている。
 そう言えば、昔の知人で、ほぼ確実に一週間は同じものを食べ続けるという人がいた。カレーならばカレーを一週間ぶっ続けで食べて、ようやっと飽きるらしく、そうなってから次の一週間は別なものを食べ続けるという。本人から聞いたのではなく、近辺の人から聞いた話なのでおそらくウソではないのであろう。
 いや、そんなことはどうでもいいのだが、その人のように多少の偏りはあったとしても、身体が必要とする栄養は、適時選んでとっているはずである。まあ、昨今は、ややもすれば怪しげな加工食品もあるので、確かに留意する必要はあるかもしれないが……。

 これに対して、「心や精神の栄養」というべきものを現在のわれわれはどのように補っているのだろうかと考えたのである。それを考えたきっかけは、「暑苦しくて不快感を誘う」マス・メディアの実情だと言うべきであろう。
 いや、自分自身に半分の責任があることは認めるべきであろう。それほどに「暑苦しくて不快感を誘う」ものであるならば、ボイコットすればいいだけの話なのであるから。
 が、ついつい、TVをかけっ放しとし、ラジオに耳を傾け、ネットでは新聞社のサイトを覗いている毎日である。そうしては、そこに出しゃばって登場する不愉快な存在に、暑苦しい思いをさせられてしまうわけだ。コイズミも然り、保険会社や消費者ローンに紳士服会社といったCMの機関銃的映像などが、食傷気味となっている胃袋にグイグイとモノを押し込むような感じだからである。
 これじゃあ、「心や精神」は、荒れてしまうに決まっている。自分なりの「心や精神」なんてぇもんは眠り込まされ、歯が浮くような薄っぺらな紋切型口調だけが工事現場のように鳴り響く。これが、情報時代のマス・メディアが視聴者に届ける「情報」の実態なのだ。際立った特長は、自立的に思考するための素材としての情報というよりも、「食わせてしまおう」という情報であり、もっと正確に言えば「一杯、食わせてしまおう」という情報ばかりだと言える。押しなべて現在のマス・メディアの情報は、新宿歌舞伎町あたりの「キャッチ・セールス」の雰囲気に接近していると見てもまんざら外れではない。限りなく「デマゴギー」(事実と反する煽動的な宣伝!)に近い情報でしかなく、人をして静かに考えさせるものからはほど遠いと言うべきであろう。

 やはり、立ち腐れ状態に陥ったマス・メディアの現状に対しては、自分なりの防波堤を作るべきなのであろう。肩肘を張って拒絶するほどのこともない。淡々と自分なりの生活というものを守ろうとしさえすればいい。
 仕事に専念するのもいいし、趣味や、家族との関係に埋没するのもいい。とにかく「無防備」にマス・メディアが撒き散らかす「汚染物質」に身をさらさないことが大切なのではなかろうか。
 しかし、ここで問題なのが、こうした専念したり、埋没できたりする対象が、場合によっては希薄となっているかもしれないことなのである。
 現在の仕事環境、状況は、強度を増した競争状態によって、自分に言い聞かせるように専念しなければならない対象とはなっていても、身も心も燃焼させ得る対象とはなっていないかもしれない。仕事に期待されるものが、その総体であるよりもより効果的な収益回収なのだというポイントが強調されるならば、ある意味では必然的に生じる現象なのかもしれない。
 趣味や、家族との関係にしても、社会変化でひとつの大きな特徴となってしまった個人主義の昂進、コミュニティの希薄化傾向が、埋没するに足るほどの魅力を失せさせているのかもしれない。

 もっと、各個人が埋没・専念できるような対象をしっかりと見出し、まさしく一心不乱となってゆければいい、と漠然と考えている。個人の自立というのは、そうした延長線上にしかないはずだと思うからである。「個人責任」が先に云々されても、話は進まないであろう。先に来るべきは、個人として守るに足る、自分が燃焼できる場所・対象を持つことではなかろうか。
 愚にもつかぬマス・メディアの実態に翻弄されているかもしれない、自分を含む庶民の姿を思い浮かべる時、そんなことを感じるのである…… (2005.08.17)


 昨日は、短命な蝉に思いを馳せたのだった。
 ところが、昨夜自宅に戻って家内からとんでもないことを聞かされた。ウチの飼い猫の一匹が、生きた蝉をムシャムシャ食べたというのである。
 そいつは、ルルという元気で力の余った猫である。もともと外をほっつき歩いていたホームレスであったものを、内猫として家の中で飼うことにしたために、外の様子が気になってしかたがないのであろう。家内が、ベランダに洗濯物を干しに行くと勇んで階段を駆け上り、ベランダで息抜きをすることを何よりも好んでいた。

 そのルルが、ベランダに飛び込んだ蝉を捕まえたらしいのだ。その上、ここがおかしいのだが、羽をばたつかせているその蝉を咥えて、階下のキッチンの片隅にある自分が毎度餌を貰う餌皿のところに戻ったのだそうだ。で、その蝉を皿の上に落とし、それからムシャムシャと食べ始めたというのである。日頃、餌を貰っても猫特有の食べ残しをするものだが、その蝉についてはペロリとパーフェクトに食ってしまったのだそうだ。
 皿の上の出来事だからというのではないが、さらにである。家内は呆然と見ているしかなかったそうなのだが、しばらくすると、何と、二匹目の蝉を咥えてきて、またまた自分の餌皿の上にリリースしたのだそうだ。しかし、事の顛末を呑み込んでいた家内は、さすがにその「惨劇」に介入せざるを得なかったという。急いで、皿の上で羽ばたく蝉を掻っ攫い、窓から外の植木の方へ逃がしてやったのだそうだ。ルルは、何すんだ! という顔をして見ていたらしい。
 やはり畜生のすることは、高潔な人間様のすることとは大違いなのだと認識せざるを得なかった。

「こらっ、蝉食い猫! そんなことしていると、夜中に腹の中でミンミンと鳴かれて苦しむことになるぞ!」
と、わたしはルルを引き寄せて叱ってやった。もちろん、何のことやら了解できないルルは、鬱陶しい、という顔をするばかりであった。
 しかし、どうも、ルルの頭の中には、「ベランダ=美味い蝉」という図式が成立してしまったかのようなのである。わたしの寝室は、そのベランダに面してあるわけだが、昨夜、就寝のため階段を上がると、何と、ルルがその部屋の戸の前で、寝そべっていたのである。その格好は、まるでファミコンかなんぞの人気ゲームソフトの発売を店頭で首を長くして待ち構えるガキのように見えたものだった。要は、「ベランダ=美味い蝉」の夢をもう一度ということなのであろう。
「もう、蝉なんかこないよ」
と言って、わたしは部屋に入り戸を閉めかかった。だが、閉まりかけた戸の隙間から部屋を恨めしそうに覗き込んでいるのだ。何ともおかしかった。

 ところで、猫というものは、どういうものであろうか自分が獲った獲物を見せびらかすようである。もう、何年も前のことであったが、ある朝、枕もとで不審な気配がして目覚めると、飼い猫が、血だらけ毛だらけのスズメを咥えて鎮座しているではないか。多分、わたしの頭を手(前足)で小突いて、わたしを起こそうとでもしたのであろう。少なからずわたしは仰天したものだった。
 似たようなことは、その後も何回かあったように覚えている。穿(うが)って考えると、獲物をしとめた自慢をしているということにでもなるのだろう。しかし、もう少し類推してみると、自分の子や身内のものに、獲物を持ち帰るという共同性の本能のようなものの名残であるとも考えられる。顔中口だらけにして待つヒナのために親鳥が虫を咥えて戻ってくるという図である。猫にしてみれば、飼い主たちは何を食っているのか知らないけれど、大して美味いものを食っているようではないので、新鮮なスズメならきっと喜ぶことだろうとの親切心だったのかもしれない。いやはや、とんだ有難迷惑な話である。

 それにしても、一方でご主人様が、短命な蝉を慮って博愛精神を発揮していたその日に、もう一方では、ムシャムシャと野蛮な弱肉強食を地で行くヤツがいたとは、何とも現代という時代をリアルかつシニカルに言い当てたものだと痛感させられたのであった…… (2005.08.18)


 「予約(reservation)」といものについて考えている。
 既に、列車、ホテル、レストラン、劇場の座席などから、医師の診療、美容院などまで「予約」というアクションは日常生活でお馴染みである。並んで待ち行列を作るというムダな時間をつぶすことを避けるのはもちろんのこと、個人側におけるスケジュールの確度を高めるために「予約」というアクションはますます重要度を増すことになるだろう。
 「予約」には、モノの先物取引(将来一定の時期に受け渡す条件で、売買契約をすること)的な「予約販売」というようなケースもある。その商品の発売日以前に、買うことを「予約」しておくようなケースだ。
 だが、一般的なケースは、将来、あるサービスなどを受けるに当たって、日時などを指定して「(仮)契約」をすることではないかと思う。つまり、サービス業における時間売りサービスを「予約対象」とすることが多いようだ。モノを売るのではなく、(人的または装置活用による)サービスを提供する業種の場合、一時期に無尽蔵にそのサービスを提供することができないからだ。たとえば、いつ顧客が来ても対応可能なほどに大量の美容師を抱えた美容院は、果たして経営が成り立つものかと考えれば一目瞭然であろう。モノとしての商品は、一時期に数多くを「横並べ」することも可能であろうが、サービスの提供の場合には、需要を「縦並べ(時系列)」で消化する以外にないわけだ。

 おそらく、これからの時代は、モノの製造と販売とともに、さまざまなサービスの提供がますます比重を増す経済状況となるはずだ。しかも、サービス業は、その成否がよりクオリティー(質)に依存する傾向が強いため、巨大事業化することに向いていない。
 モノの製造と販売でさえ、「多品種少量」が主流となりつつあるのだから、ますますサービスがきめ細かいクオリティー志向となったとしても何の不思議もないはずである。職人芸というか、芸術的というか、よりパーソナルともいえるクオリティが求められていくのではなかろうか。
 そこで、数多くの小規模なサービス業の経営体が、クオリティーを切磋琢磨して集客量を増加させるとともに、いかに待ち行列的需要を効果的に消化していくのかが、いわば「鍵」なのだと推測される。より効果的な「回転」こそが眼目となるのではなかろうか。
 その際に、サービスの提供側と、受ける側の顧客の双方にとって軽視できない事柄が、「予約」だということになりそうである。この側面が適切に処理されるならば、提供側にムリやムダがなくなり、顧客側にとってもムダな待ち時間を有効活用することができ、イライラ感も解消される。顧客の「リピーター」化でも安定感が増すことになろう。

 おそらく、現在の「予約」するスタイルで最も多いものは、電話を使った「予約」であろうか。
 わたしも、今、歯医者に通っているが、「予約」は通常、診療後における「次回予約」というかたちになり、カードにその日時を記録してもらうような形式をとっている。そして、それが都合が悪くなった場合、電話により修正をするという具合である。
 家内が美容院へ行く時も、事前に電話で予約をしているようでもあるし、列車の特急券の予約も確か電話で可能であったかと思う。
 電話による「予約」は確かに便利ではある。が、難点がないわけではない。
 先ず、記録が残らない。カレンダーに書き込んだりして忘れないようにするほかない。しかし、わたしも、過去に「予約日時」を取り違えてしまった覚えがないわけではない。 また、「予約」というアクションに関心を向ける人は大体忙しい人が普通であろう。そんな人が、電話で何かを「予約」しようとして、電話先が「話し中」であったりすると、なおかつ何回にも渡ってそうであったりすると、どんなに不快な思いをするであろうか。これが、ビジネス関連の電話の宿命なのかもしれない。さらに、受け側が不在であったり、その日の営業を終了している場合だって考えられよう。
 もうひとつ、電話での「予約」の難点は、「予約」していることが周辺で聞き耳を立てているものの耳に入ってしまうということであろう。昨今は、「ケータイ」というものが普及しているので、都合の悪い場所であれば移動することもできるのかもしれない。
 だったら、「ケータイ」におけるWeb機能を使い、「黙して入力!」というスタイルをとるならば、一切場所を選ばないということになりそうである。どんな場所であっても、勤務時間中であっても、その気になった時にさり気なく「入力!」するならば、気になる「予約」はあっという間に完了することになる。
 加えて、Web機能を使った「予約」であるならば、選ばないのは場所だけではなく、時刻さえも選ばない。相手先がとっくに営業を終了した深夜であっても、サイトは眠らないからである。

 今日、このような、「予約」とその手段について書いてみたのは、実は今、自社で「ケータイ予約万能」システムという小規模なウェブ・システムを仕上げようとしているからなのである。セールス・ポイントは、ひとつが「ケータイ」のWeb機能を活用している点であり、もうひとつは、ほぼさまざまな業種や業務形態にカスタマイズ可能であるという点(これが「万能」の意味!)であろうか。モノはすでに出来上がっており、営業・プレゼン資料を作成しているところなのである。
 それで、ちょっと「予約」アクションの現代的意義とでもいう事柄に関心を向けてみたのである。所詮、小規模ソフト会社のやれることは高が知れているわけだが、時代のニーズのかけらに少しでも呼応できれば幸いだという発想なのである。
 デスクトップPCでのWeb活用には挫折したかのようなウチの家内が昨今、「ケータイ」でメールをビュンビュン飛ばしている姿からも、いよいよ「ケータイ」が万人の日常ツールになり切ろうとしているかに思われる。そんなIT情勢も、この企画の動機といえば動機なのである…… (2005.08.19)


 どうして「アウシュヴィッツ」での出来事のような残虐なことが、同じ人間でありながら可能となってしまうのか。確かに、その原因をヒットラーという異常な権力者に帰着させることはできる。しかし、たった一人の異常な権力者が画策したにしては事態はあまりにも巨大過ぎる。したがって、ヒットラーという一人の怪物だけが問題とされるのではなく、ヒットラーに手を貸し、何万人ものユダヤ人虐殺に手を貸した人々と、その人たちをそうあらしめた機構そのものが糾弾されなければならないのだろう。

 昨夜も、NHKのTV番組でシリーズで報じられている「アウシュヴィッツ」をめぐるドキュメンタリー番組を見た。見ていて先ず感じることは、ナチズムやヒットラー、そしてユダヤ人虐殺という一連の歴史的事実は、決して過去に葬り去ることができる問題ではないということだ。
 残虐さにおいても、現代の人間たちは決してこれを反面教師として乗り越えてはいないように思える。イラクやアフガニスタン、中東で繰り広げられている民間人を巻き添えにしている戦争の残虐さは、程度の差でしかないように思われる。それは、テロ、自爆テロについても同じことが言える。
 また、さらに現代という時代と無縁ではないと思えることは、冷静であるはずの人々の思考や感情が、いつしか身動きが取れない流れに呑み込まれてしまう点、なおかつ平凡な人々が、権力者が敢行する非人道的な行為に手を貸す、加担する結果に至るという点ではないだろうか。
 ナチズムは、折からの情報宣伝技術を最大限に駆使して、大衆心理を巧みに操ったと伝えられている。しかし、現代のIT環境は、当時と比べものにならないほどに高度化し、権力者がその気になればヒットラー以上に大衆の心理を容易に操作することが可能になっていると考えられる。その恐さは何十倍にもなっているわけなのである。ここにも、ナチズムの問題が決して過去の話題ではないことを痛感するのである。

 ただ、われわれは、妙に、現代という時代に肩入れをして、現代という時代は決してナチズムの再来を許すわけがないと信じ切ってしまっていそうだ。時代は、逆行するはずがないと「勝手に盲信している!」
 しかし、昨今の時代状況をシビァに見つめるならば、そうした「信仰」には確たる根拠もなければ、保証など何もないことがうかがい知れる。いや、むしろ、無為にそうした「信仰」を抱いているがゆえに、至るところに「無防備な空隙」が生まれているようにさえ見える。悪意を持った権力者が望めば、簡単に環境や人心を操作することが可能な「無防備な空隙」が広がっているようだ。
 本来、こうした「空隙」を生み出さないためには、大衆個々人が、権力のあり方に対して自立的で、批判的な観点と行動を持つ必要があると思われる。だが、これらは決して盤石であるどころか、はなはだ軟弱でさえあるのが現状のようだ。
 そして、現時点では、「経済的問題での不安と恐怖」と、捲くし立てられている「テロへの不安と恐怖」とによって、戦後60年も培ってきたはずの「生きる権利」意識は、押し入れの奥に仕舞われてしまったようでもある。
 これらの、人々の「不安と恐怖」こそは、ナチズムが成立した「鍵」だと、あのエーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』などで分析していたはずである。ナチズムを支持した当時のドイツの中産階級は、下降没落していく「不安と恐怖」にさらされていたというのである。こうした点にも、ナチズム問題が現代でも無縁ではないことがうかがえるわけである。

 わたしは、ある時期、インターネットなどの新しい技術環境は、権力の暴走に歯止めをかけることができる大衆にとっての有意義なツールだと考えてきた。つまり、大衆が埋没した立場を乗り越えて、個人を主張したり、あるいは権力にレジストしたりすることも十分に可能だと考えてきた。この点などが、第二次世界大戦以前の時代環境と大きく異なるものと欲目で考えていた。
 しかし、そうした活用も十分可能であるにもかかわらず、貧困な内実と、「欲」と「ゴミ」にまみれ切っているのが、インターネットの大方の実態であることを知る時、問題は、技術環境の水準ではないと思い知らされてしまう。
 要するに、技術環境というものは、人間の思惑や力を「増幅」するものであり、ただただ「増幅」するだけなのである。決して是正するものであるはずがなく、「同情心」「共感」「正義感」「自尊心」などを「増幅」させるとともに、「了見の狭さ」「貪欲」「騙そうとする悪意」「卑屈さ」をも十分に「増幅」させる。インターネットでの「小汚い」犯罪が蔓延している事実がそのことを示している。
 また、IT技術環境がもたらしたのだとも言える「バーチャル」な意識構造は、厳然として存在する権力の実体を、妙に「かわして」しまっている、つまり高を括ってしまっているかのように見える……。

 要するに、ナチズムが驀進していった時代と、現代という時代とは、一体何がどう違うのか、ということなのである。非人道的で、残虐なナチズムの再来を決して許さないためのどんな「防波堤」をわれわれは築き上げたというのか、という問題なのである…… (2005.08.20)


 久しぶりに、はっきりとした夢を自覚しながら目覚めた。いわゆる脳波が覚醒時に似る「レム睡眠」から目が覚めたということなのであろう。明らかに頭脳活動があったことを感じさせる軽い頭痛のようなものまで伴っていた。トイレに行く必要で目が覚めたのか、夢という頭脳活動が昂じた挙句、それが覚醒時のボルテージと近似してしまって目が覚めたのか、よくはわからない。
 では、どんな夢であったのか。ひとつのこと以外は、周辺がおぼろげとなっている。トイレで用を足しながら、ちょいと面白い夢であったから、覚えておこうかと考えてもいたようだが、途中で放棄した。直前の夢を詮索することはあまりよさそうではないと思えたからだ。

 なにやら、仕事の依頼を受けた模様であり、しかも普通のソフト開発ではなく、研究調査がらみの興味深いもののようであった。そして、事前の打ち合わせをいろいろと行っているのだが、やがて、話題は、カメラでの撮影がどうのとか、ビデオのアングルがどうのという内容に転じていった。それも引き受けてもらいたい、あなたに頼んだのはその辺のこともこなしてもらえると考えたからだ、というようなことも伝えられた。
 何の意味だか皆目見当もつかないのだが、階段を上っていく大勢の人の後姿が現れ、これをどういうアングルでとらえるべきかが議論となっていく。で、その時、ズーム・イン、ズーム・アウトの手法の話となったのだが、自分は、ズーム・アウトという言葉とパン・フォーカスという言葉に混乱してしまっていたようだ。カメラを引いて被写体を遠方から撮ったようにするズーム・アウトが、パン・フォーカスと共通することに混乱していたようなのである。そして、どうも、その混乱が過度に脳を緊張させて、目覚めてしまったようなのである。

 時々こんなことがある。本来、夢の中では夢特有の原理というものがあるはずだから、鷹揚に任せておけばいいものを、何かにこだわって、厳密に考えようとでもするようなのである。大体、そんな時は、夢を司る原理の方が手を焼いて、「なら、もう夢はおしまい!」とでも言うように、幕を下ろすのだ。つまり、目覚めてしまうのである。
 大体、そんな目覚めの場合は、妙に頭が緊張しており、軽い頭痛のような感じであり、決して爽快な気分ではない。頭をクール・ダウンしなければ、眠るに眠られず、かといって起床するには早すぎるといった実にやっかいな時間帯となってしまうのである。
 まあ、今朝は、そのまま眠り込むことができたようだが、眠っている時くらい、身体のなすがままになっていればいいじゃないかと、情けなく思えたものだ。

 こうしたことに関心を向けていると、いつもながら、「意識」と「無意識」との関係というものが不思議でならなくなってくる。どちらも、自分の内部で展開して生息しているわけであり、一体、どっちの自分が本物なのかというバカげた問いも生まれたりする。
 フロイト流に解釈することが適切かどうかはわからないが、「意識」というのが、言語を通して社会に面した部分の「超自我(superego)」であり、「無意識」というのは、「イド」となり、「意識」と「無意識」の混在が「自我」ということになるのであろうか。
 古来、夢に関してのことわざで、「聖人に夢なし」というものがある。「すぐれた知識や徳を備えた聖人は悟りの境地にあるから、この世のつまらない邪念にとらわれることがない。だから心安らかであり、床につけば心を乱す夢を見ることがなく安眠する」(広辞苑より)というのだそうだ。また、これを川柳では、「聖人に夢なし馬鹿に苦労なし」というそうな。
 この意味では、いや、この意味だけに限らないが、自分は完璧に「聖人」なんぞではあり得ないと自覚する。夢はうなされる(?)ほどによく見るし、その原因ともなる、「無意識」のレイヤーには、わけのわからない反社会的、非社会的なガラクタが数多く蓄積しているようだからである。
 しかし、わたしはそんなガラクタにこそ自分を自分たらしめる何か(大したものではない予感はしているが……)がありそうな気がしている。とにかく、正義でも悪でも、「紋切型」の表現というものに退屈さと嫌悪感を抱いたりする自分は、自分の中の深層において積もっているかもしれないそんなガラクタを、こんがらがった糸を解きほぐすように、自分の言葉で表出するべきなのであろう。いや、人間個人というものは、それをした時にこそ、「生きる」ということにたどりつくのかもしれないと感じている…… (2005.08.21)


 癌の闘病生活をしている知人と先日会った。
 最後の抗癌治療から5ヶ月も経っているところから、脱毛は回復していた。しかし、見るからにやつれた姿が気の毒であった。
 「調子はどうですか」と訊ねると、まあぼちぼちやってます、とのことだったが、懸念していることは、白血球の量が元に戻らないことだと嘆いていた。
 最後の抗癌療法がよほど強烈な影響を及ぼしたらしい。その節にも、話は聞いていた。まだ継続する予定であった抗癌治療が、白血球の数の回復が思わしくないため、一時中止とせざるを得ないということであった。
 言うまでもなく、放射線による抗癌療法は、癌細胞の活力を奪うために、身体本体の活力水準全体を引き下げてしまう方法であるようだ。いや、癌の患部に放射線を当て、細胞を死滅させるらしいが、当然、身体本体の健全な細胞もダメージを受けることになってしまう。が、癌細胞が除去されたあと、正常な細胞が自然治癒力で回復するならば効果的な治療だと言えるわけである。

 ところが、度重なる癌の再発は、抗癌治療のその強度を高めざるを得なくなり、前回のそれはかなりの強度に達していたらしい。治療中は、まさに生命力が引き下げられるわけだから、とても苦しいと言っていた。身体のだるさと意識の低迷が尋常ではないらしい。それでも、一時期の苦痛を、やがてやってくる回復を目指して我慢すれば、これまでであれば、なんとか平常生活が可能な水準に復帰できたという。ところが、今回は、すでに5ヶ月以上が経過するにもかかわらず、身体の異常なだるさと気力の低迷が続いているらしいのだ。そして、その原因とも言える白血球の減少が一向に回復しないそうなのである。白血球を生成する機能そのものが回復しないようなのである。
 聞いていて、自分は、言葉をなくしてしまった。どう励ませばいいのかに窮する思いだった。ご本人は、こんなことを言っていた。
「何もしたくない気分なんですよ。また、こんな病人だから、わがままを言えば何にもせずに横になりっぱなしでも通っちゃいます。けどね、そんなことしていたら身体自体がもう回復しなくていいんだと思っちゃいますからね。多少気分が戻る時には、身体を動かすようにしてるんですよ……。だけど、今度ばかりは辛い。電車で診療を受けに行くのも苦しい感じでね……。」
 何とか、白血球を増やせる方法というものはないのだろうかと、思わずにはいられなかった。だるさだけでなく、少なくなった白血球の状態は、他にも恐い結果をもたらしていると聞いた。切り傷などをした場合、止血が思うように行なわれないし、蚊にさされた部分も長らく跡が残ってしまうともいう。そうした異常さが、否が応でも身体の現状を自覚させるらしい。

 わたしは、何もできないのだが、以前は、自分も関心を寄せていた「免疫力アップ」のための一連の方法を、それとなく彼に伝えたりしてきた。彼は、わたしが以前に玉川温泉の「北投石」を提供して、その効果が確認できたために、わたしの言うことは一応信頼してくれていた。しかし、正直言って、末期癌的状況にほどこした抗癌治療の強烈さで痛んでしまった身体にとって、癌予防方法のレベルの「免疫力アップ」手法は、想像するだに心もとなく思えた。もっと、効果的な方法というものはないのだろうか、と。
 そんな即効性のある方法があれば、既に癌患者たちは救われているはずで、むしろ、そうした苦しむ人々の願いに乗じて商売っ気で対応するいかがわしい輩が少なくないのが現状なのであろう。
 しかし、わたしは、「白血球」「減少」というキーワードを入力して、サイトを検索してみることにした。どんな、「いかがわしい」クスリなどがあるかといった動機であった。すると、効果のほどは何とも言えないわけであるが、「乳酸球菌」という乳酸菌の一種が、「免疫力(白血球の増加)を強化」するものとして昨今注目を集めてもいるという情報を得ることになった。

 次のような話は、今までにも聞かないわけではなかったものだ。
「病気や老けを退けるには血液中にある白血球の強化が何よりも肝心です。白血球を強化するためには、ニンニクやヨーグルトを常食したり、ふだんからよく笑うようにしたりすることも、大切ですが、とりわけ、ヨーグルトなどに多い乳酸菌の摂取は有効」であり、「長寿地域の人は腸内に乳酸菌が多い」とかという話である。
 こうした常識に加えて、最近、「乳酸球菌」が白血球の働きを強化するという研究成果が発表されているようなのである。もちろん、全面的に、あるいは過度に信じ込むことは避けなければならない。
 ただ、何とか白血球を増やさなければならないと願っている方にとっては、副作用があるわけでもなさそうなので、試してみる価値はありそうかと思った。とりあえず、その種の「高い」クスリを購入するかどうかは別にして、積極的に「乳酸球菌」含有の食品を摂取すべきだとは言えようか。その知人に、このことを知らせてあげたいと思ったのである…… (2005.08.22)


 事務所の自分の部屋の窓際には、若干の植木鉢を置いている。潤いの緑が少しはほしいという思いからだ。観葉植物の「ポトス」と、ほかに二種類を置いている。毎朝、ちょっと時間を割いてペットボトルに汲み置きした水をやっている。手入れの甲斐があってか、緑が褪せないだけでなく、「ウラハグサ」などは、自然に株分けが行なわれて二代目も元気に繁茂している。
 これらの世話をしていて気づくことは、太陽光もさることながら、これらの植物は鉢の中の水分の有無に、ひたすら命をかけているということであろう。そして、鉢の中の水分を健気に吸い上げているのが、植物の毛細根をはじめとする根の活動だという事実である。

 戸外を歩いて立ち木を目にしたりすると、その姿形に目を見張ったあとで思うことは、その立ち木が地中に下部構造としてどのような根を這い巡らせているのだろうかということだ。
 極端に言えば、5メートルの立ち木であれば地中奥深く5メートルの根を生やしているのではなかろうかと思う。それほどに、植物にとっての根の部分の働きは決定的な重みを持っているということなのである。
 次に考えることは、植物たちの根に当たる部分というのは、人間であれば何になるのだろうか、という点である。何もそこまで追求する必要もないといえばないが、スクッと立ち上がっている樹木を見ていると、人間もスクッと立ち上がり元気でいられるためには、何か「植物の根」にあたる部分を保持しているに違いないと思えるわけだ。
 水分、養分を吸収する部分といえば、人間にあっては内臓の「腸」だということになるはずである。大地に根ざす植物と、移動性能力を持つ動物との構造の違いから、植物の根にあたる動物の「腸」は、身体の内部に設えられていて、その空洞部分に、口を通して水分、養分を流し込み、いわば擬似土壌をそこに作り出す。そして、それらから必要なものを摂取するということになっている。
 今ここで、動植物の進化の異なりを云々したいとは思っていない。ただ、人間にとっての食生活と「腸」の働きというものが、きわめて根源的な重要性を持つものであることを再確認しているのである。

 昨日、白血球の増強に役立つという「乳酸球菌」の働きに注目してからというもの、「乳酸菌」といういわば雑菌の働きや、それが展開する人間の身体側の部分である「腸」の役割りに、なぜだか関心が向いてしまうのである。
 しかも、振り返って考えれば、そのメカニズムというものが、バクテリアを含む土壌と植物の根との関係に酷似していそうな気がしてならないのである。おそらく、これらは一見何の関係もないように見えながら、生命が必要なものを摂取しようとすることにおける同じ原理が働いているのだと言えそうではなかろうか。
 そして、とりわけ注目してみたいのが、両者に共通して、「細菌(バクテリア bacteria)」というものが重要な役割を果たしているという事実なのである。
 「一寸の虫にも五分の魂」ということわざはあるが、じゃあ「細菌」についてはどうかと言えば、虫(無視)つまり「Nothing」か、あるいは邪魔者、害悪と見なされているのが現状ではないかと思われる。確かに、人間の身体に甚大な被害を及ぼす「細菌」が存在することは事実であろう。しかし、その点を強調するあまり、「無菌」状態こそが最善だという単純化に上り詰めてしまう傾向は、果たして科学的だと言えるものであろうか。

 今後、人間の「腸」の地味でありながら、とてつもなく重要な働きをしている事実を自分なりに学んでゆきたいと思っている。
 ちなみに、そんな「腸」というものに、再発見的なスポットライトを浴びせている興味深い著作が見つかった。『セカンドブレイン ―― 腸にも脳がある!』(マイケル・D. ガーション著、小学館)である。「魂は腹に宿る」ふうに考えてきた東洋哲学の独自性に通じるものが果たしてあるのかどうか、などちょっと楽しみな本である…… (2005.08.23)


 一頃、マス・メディアが記憶喪失の「ピアノマン」がどうだこうだと報じていたものだった。結局、本人の「芝居」であることがわかったようだ。にもかかわらず、後日談が相変わらず流されている。
「みんな遊んでるんじゃない?」
とは家内の弁である。わたしも言った。
「遊んでるのはこればかりじゃなくて、今回の<衆院選>にしたってそんなもんだよ」
と。
 衆議院選挙を評して、「遊んでる」とは甚だ不謹慎なお叱りを受けそうだ。が、どうも、そうした「お叱り」が出てくる源の、何かにつけて「襟を正す」ような発想自体がいささか時代遅れとさせられてしまっているのかもしれない。そんな印象を抱いてしまうのである。
 念頭に置いているのは、「小泉劇場」のことである。

<造反に「刺客」、ホリエモンの出馬に新党旗揚げ……と、ますます劇場化する総選挙戦。その端を開いた小泉内角の支持率も上昇し、各種の世論調査で50%を超える。時代劇や昼メロさながらの権謀や情念うずまく「小泉劇場」。さて、「観客」たる有権者たちは何を見ているのだろうか。>(朝日新聞 2005.08.24)

 昨今の政治、とりわけ小泉内閣がスタートして以来、やたらに「劇場型政治」という言葉が飛び交うようになった。
 ことさらに「パフォーマンス(サプライズ)」を駆使して、国民の情緒性に訴えかける政治手法がその特徴である。いわゆる「ポピュリズム(大衆迎合)」的政治手法だとも言われる。ただし、これだけでは事の半分を述べたに過ぎず、正確に言い当てたことにはならない。もう半面が用意されているわけである。
 つまり、「国民は、舞台(テレビ)の上で展開する政治劇に怒ったり、楽しんだり、同調したり、批判したりしながらも、決して舞台の上に躍り出ようとはしないし、参加しようともしない」という点こそが、「劇場型」の「劇場」たるゆえんなのであろう。
 これは、「市民」とは異質の「大衆」の特徴である埋没・匿名性そして無責任性の傾向が延長されれば当然のことながら生じる結果であるのかもしれない。
 もちろん、危険視されて然るべき傾向であるに違いない。民主主義の名を持って、その実、その形骸化と空洞化が昂進されてしまうからである。また、「浮動的」な大衆の情緒と評判に依拠するわけだから、こうした手法を画策する政治家自身にとっても「危うい」選択だと言えよう。したがって、良識ある政治家ならば、もっとノーマルな戦略を選ぶはずだと思われる。

 ところが、不幸にも、歴史のドサクサに紛れて、「小泉劇場型内閣」が発足してしまい、いいかげんにしろよ、と言いたいほどの「劇場型政治」が繰り広げられ、イージーな部分の国民大衆がこれに「好感」(「支持」ではない! もし「支持」という堅いものであったならば、こんなにジェットコースターのごとく乱高下はしなかったであろう。まさしく、TVの視聴率と同様に「場面」への好感度によって揺らいでいる!)を抱いてしまったのである。
 そして、とうとう「手品師」は、最後の切り札に命運を賭けたということになるのだろう。そこまでやるとは予想していなかった観衆は、とりあえず反射的に、「観衆的」な「拍手喝采」をもって反応したわけだ。観衆というものは、そもそもが刺激・驚き・単純図式を好み、それらを貪欲に求めるものであることは、いつの時代も変わらない。ローマ時代にコロッセオの観衆の前で、グラディエーター( GLADIATOR、奴隷の競技者)たちが死の格闘技を強いられた事情と大差ないとさえ見える。

 問題は何なのだろうか。
 「小泉劇場」に「拍手喝采」をもって反応する大衆は決して少なくない事実をまずは凝視する必要がありそうだ。ある意味では、「ホリエモン」への反応と同根であり、今回は奇しくも同じサイドに顔を揃えることにもなった。
 さきほど、「支持」ではなく「好感」なのだと書いたが、この辺の持つ意味が小さくないように思えてならない。つまり、もともと「小泉劇場」は、「小泉研究所」でもなければ、「小泉学校」や「小泉図書館」なんぞではなく、所在無い観衆を集め、今を刹那的に楽しませ、興奮させればナンボの「劇場」なのである。即ち、真っ当な理論や真理を売り物にしているのではない。「郵政民営化」という文字は見えるが、政策やマニフェストを表看板にしているようには見えない。価値観を店先に並べているわけではないのだ。それは、呼び込みの掛け声にも似た「ワンフレーズ(ポリティックス)」を見れば一目瞭然である。
 したがって、理詰めの正論だけで迫るのでは、大衆のバーチャルな「好感」は解きほぐせないのではなかろうかと危惧するのである。もちろん、誰もが考えるように、選挙は「政策、マニフェスト」が吟味されて闘われるべきであろう。しかし、「無党派」と「浮動票」が大きなウェートを占める現実は、何か別なものを物語っているようにも思える。
 米国での大統領戦では、「TV!」での候補者討論が大きな決め手となることが以前から言われている。このことは、「政策」問題もさることながら、まさに総合的な「好感」度が問題にされている事情を物語っていると言わざるを得ない。この背景には、有権者個人の、価値観とともに「審美的」感覚(美意識?)とでもいうような得体の知れない要素の小さくないことが織り込まれているものと思われる。

 思えば、「ベ平連」時代の反戦運動の気運は、政治的意識の高まりの根底に、「ヒッピー」カルチャーへの高い「好感」、是認の感覚が横たわっていたかと思い起こす。政治運動とは決して単独で流れていくものではないように考える。時代と共鳴するカルチャーが、通底する伴奏曲のようになってこそ政治的意識も定着度を増すのではなかろうか。
 そういう意味で観察してみると、「小泉劇場」は、TVの中をありきたりの街宣カーは走り回っていても、TVの中に「郵政民営化」という味気ない看板はあちこちに立てられてはいても、TVの延長で街角に群集が集まったとしても、精細のあるカルチャー・ムーブメントがあるとは到底言えないに違いない。
 あるいは、大衆側の「希望的観測」にも似たフィクショナルな「審美的」感覚を、「小泉劇場」が掠め取っているのかもしれない。
 しかし、かと言って、野党側勢力に、「現状は美しくない!」と揺さぶるようなそうしたカルチャー・ムーブメントがあるとも思えないのが皮肉な現状ではある…… (2005.08.24)


 昨日は、現状の大衆感覚・意識を考えるに当たって、「審美的」感覚(美意識?)という視点を持ち込んでみた。
 二つのことが気になっていたからである。
 その<ひとつ>は、現在の「小泉ポリティックス」が、決して知的洞察力や理論に根ざし熟慮されたものでないことが周知の事実であることと関係する。ちなみに、少なくない知識人が共有するであろう次のような見方がある。

<「首相の『改革=善』という言動は聞こえはよいが、危うさを感じる。小泉流のワンフレーズを許し、時に喝采を送る社会状況も危うい。ある面、何事も単純化して熟慮しない小泉首相は、今の社会の反映でもある。立ち止まって考える、愚直に説明する、という態度が政治家にも私たちにも必要ではないか」>(ノンフィクション作家の保阪正康氏の発言、2005年9月4日号 サンデー毎日より)

 そんな「小泉ポリティックス」が、「支持」される、いや「好感」を持たれるという事実は、希薄でしかない政策理論が、人々の知性・理性を触発して「支持」されているとは考えられないからである。そうではなく、「小泉劇場」といううがった表現がなされる「小泉ポリティックス」が、人々の「知性・理性以外の何か」に訴えて奏効していると見る方が妥当だと思われるのである。「ワンフレーズ」という手法は、元来、言葉というものは、知性・理性となじみやすい性格を持つものであるが、それが「単発」化されるならば、その曖昧さは限りなく想像力に任されることとなり情緒性をはじめとする「知性・理性以外の何か」に共鳴していくものであろう。「小泉ポリティックス」では、その仕組みが大いに利用されたのである。その「知性・理性以外の何か」を、とりあえず「審美的」感覚(美意識?)とたとえてみたわけである。
 この国においてはとりわけ、社会的政治的事柄に対処するのに、知的な考察や分析よりも、どちらかと言えば情緒的判断が持ち込まれがちであっただろう。
 たとえば、「判官贔屓(はんがんびいき)」という心性を日本人は好みがちであり、この心性はまさに知性とは次元を異にした情感であり判断であろう。正邪の基準をかなぐり捨てて、情感に浸るという姿勢であり、これは「審美的」感覚(美意識?)優先と言うほかない。これは、庶民の同情心、共感という、ある意味では日本人の美徳であるとさえ言っていいのかもしれない。まあ、昨今の社会現象を見ていると、弱肉強食を地で行くむしろ「判官いじめ」が広がりつつあるのかもしれないが……。

 それはともかく、日本人の判断(政治的判断)が、分析的な知性よりも情緒に傾斜しがちであったことは、否定しがたいと思われる。
 ところで、最近、政治というものに対してはより分析的な判断材料を使って判断がなされるべきだという考え方が強調され始めている。あの「マニフェスト(政権公約)」のことである。当然の傾向だと思われる。人々が商品を購入する際には、あるいは何らかのサービスを契約する際には、その商品やサービスの仕様や詳細を吟味するものだが、それがなぜ、生活全体の将来を左右する政治に関して同様の吟味をおこなわないのかは、かえって不思議なことだと言わなければならないからだ。
 そんな当然な傾向に、「知性・理性以外の何か」に寄りすがる「小泉ポリティックス」が馴染まないのは、これまた当然なのであろう。新聞報道では、次のようなシンボリックな記事があった。<民主、小泉首相に党首討論申し入れへ 首相は拒否の意向>(asahi.com 2005.08.24)である。<これに対して、首相は同日夜、自民党本部で記者団に「党首討論は、みんなとやりますよ。公平に扱わなきゃ」と述べ、岡田氏と2人だけの討論は拒否する意向を示した。>とある。ここでも、論点のすり替えがうまい小泉氏であるが、要するに、自分が勝てる土俵ではないことを自覚しているものと見える。

 「審美的」感覚(美意識?)という視点に関して気にしたい<ふたつ目>の点は、この感覚が、根強い盲目的な側面を秘めているのかもしれないという点なのである。「頭や理屈ではわかるんだけどねぇ……」としばしば言われる点のことだ。
 ところで、この感覚について、先ほど「判官贔屓」という日本古来の感性を例示したが、そうした伝統的なものだけがこの感覚の素性ではないと考えるべきだろう。というのも、現時点の選挙をめぐる国民の意識動向について言えば、おかしなねじれ現象が生じているからでもある。
 つまり、これまでの「抵抗勢力」vs「小泉」という作られた「判官・小泉」への「判官贔屓」感覚は、「刺客」を向けられた少数派の「反・郵政」の自民メンバーに振り向けられる構図も考えられるからである。
 さらに言えば、現時点での「小泉ポリティックス」への低くない「好感」の中身は、決して従来型の伝統的な「審美的」感覚だけではなく、新しい「審美的」感覚の人々が盛り込まれているのではないか、ということである。当然、想像できるのが、若い世代の動向であろう。「ホリエモン」を担ぎ出した「小泉ポリティックス」は、この点にしっかりと「手当」をしているのだと見るべきかもしれない。

 とすると、「審美的」感覚ということで強調しなければならない点は何だということになるのか、である。
 「知性・理性以外の何か」であることに変わりはない。情緒性という範疇に入ることも変わっていない。わたしが想像するのは、「審美的」感覚の大きな特徴である「直感的なわかり方」の、その質の変化ではないかという点なのである。
 もとより、「審美的」感覚による判断は、理屈ではなく「直感的」なもののはずであっただろう。伝統的なレベルのそれは、「共同生活における体験的」なものに根ざしていたと言える。同情や「阿吽の呼吸」を形成したものも現実の「共同生活」であったのではなかろうか。
 これに対して、現在の若い世代の「直観的」(=短絡的)感覚を支えるものは、「空虚な孤立生活とメディア情報」だと言えそうな気がしている。この生活空間では、狭い視野と思い込みが許容されるはずである。まさにそれらが反映した「直観的」(=短絡的)感覚が醸成されるのではなかろうか。
 こうした感性には、くどくどしい分析的な口調よりも、「要するに」といったかたちの「ワンフレーズ」の方が届きそうな気配が濃厚である。ある人は、次のように語っている。
<「賛成か反対かという二項対立で結論を先走るところはインターネットの書き込み掲示板に似ており、そうした世界を楽しんでいる人には、小泉流は親和性が高いのかもしれません。」>(インターネット・ジャーナリスト:井上トシユキ、朝日新聞 2005.08.04 「小泉劇場に何を見る」の記事より)

 ともかく、情報化社会、情報化時代の真っ只中で展開しているのが、実は、知性的、分析的な情報伝播にあらず、情感的、感性的な荒っぽい情報流布であり、これによって人々の政治的判断も「危ういほどの荒っぽさ」に流れようとしているのであろうか。
 しかし、わたしは、「審美的」感覚というものは現在のような「お粗末」な水準のものばかりではなく、素晴らしい水準のものもあるに違いないと考えるタイプである。切れ切れの知識群ばかりを持ち上げる風潮が、知らず知らず片方に築き上げたものが現在のこの国の情けない「審美的」感覚なのかと感じている…… (2005.08.25)


 この国の現時点にあっては、誰もが「警戒心」というものと無縁ではいられないはずのようである。ひどい場合には、命さえ奪われかねないし、そうでなくとも「振り込め詐欺」「リフォーム詐欺」のような、弱者からの<むしり取り>行為が横行している。
 ところで、これらは急にこの国の文化が腐敗して発生したようには思えないでいるのだがどうなのだろうか。やはり、時代全体の風潮が「弱肉強食」の空気を強めていることが根底にあるのではないかと推定せざるを得ない。そして、その「弱肉強食」の空気は、つまるところ、何でもありの過激な競争を是とし、社会階層の「二極分化」をよしとする「構造改革」へと大きく舵を切ったことによってもたらされたものと考えざるを得ないのではなかろうか。
 いや、「構造改革」路線とはそんなネガティブなものではないと主張する陣営もあるであろう。ここがまた、問題なのである。この路線を崇める者たちは、何よりも「勝ち組」に残ること、その論理をよしとしているわけだから、「負け組」のことは視野に入っていないし、「負け組」をも含んで構成される社会総体のことは、二の次であるはずだ。
 そこから、自分たちの視野にあることだけを、トータルな真理であるかのように吹聴し、現実のトータルなロジックを覆い隠そうとする。ここに、「騙しのパフォーマンス」が生まれる根拠があり、これが、「さほど失うものがない連中」には悪影響を与え、卑劣な「弱肉強食」の犯罪にまで駆り立ててしまう、と想像するのは考え過ぎであろうか。
 今日も、この町田市内のガソリン・スタンドが強盗に襲われ、二百数十万円の現金が強奪されたとのニュースがあったため、社会の立ち腐れ状況をなおさら意識せざるを得ないでいる。

 わたしにしてみれば、「構造改革」という路線も、もっとやりようがある政策だと考えている。グローバリズム経済に踏み込んだ以上、国際的競争力を省みないで済むわけはない。だから、「構造改革」路線の選択は、自然現象の台風にでも備えるように当然何らかの対処を選択するような必然性の高い選択なのであろう。
 ただし、その選択に当たっては、エイヤッの大胆さではなく、緻密に計算された戦略が必要なはずである。当然、時代の被害者が多数生じるからである。政治的指導者たちの役割りは、この被害をいかに最小限に食い止め、未来への可能性を秘めた時代を切り開くかということであるに違いない。
 こうしたことを考えると、小泉内閣がやったこと、やっていることは、いかにも荒っぽくかつ杜撰であったし、現にそうであると思える。要するに、堰き止めたダムの水路の扉を単に開け放ったにしか過ぎないからだ。そのことにより、「下流」の沿岸で何が起きるか、沿岸の生態系がどう急変するか、そんなことは何ひとつ熟慮されてこなかった。何の影響もない「上流」の住民(大企業!)たちに迎合し、「下流」の者たちには、たった一言「痛み」というまやかしの言葉で報いただけだったと言えよう。

 昨今の社会的激変は、見方によっては、長い鎖国から急遽、幕藩体制が滅び開国と明治新政府が樹立された大イベントと似通っているかとも思える。
 また、ご本人もその気になっているらしいが、小泉氏は、幕藩体制の一員(自民党の党員)でありながら、「倒幕・開国」を推進させたあの「坂本竜馬」にたとえられるかもしれない。「竜馬」ファンは気を悪くするかもしれないが、わたしもある点において似ているとあえて言ってみたいと思っている。
 司馬 遼太郎の『竜馬がゆく』が創り上げてしまった虚像の竜馬ではない。わたしが強調したいのは、「薩長同盟を成立させたのは龍馬ではなく背後にいたイギリスだ!」(副島 隆彦『属国日本史 幕末編 』)というような文脈、つまり、鎖国の国日本を、のどから手が出るほどに自国の商圏に組み込みたいと願っていたイギリス(諸外国すべてがそうであったが)によって強力なバックアップを得て動いていた竜馬である。
 司馬 遼太郎の「竜馬」は、一介の下級武士が天下を動かす大事業に参画したからこそ大きなロマンを掻き立てたわけだが、冷静に考えて見ると、やはり構造的な「仕掛け」というようなものを想定せざるを得ないはずだ。詳細はおくとして、竜馬は、背後にあったイギリス勢の意志と資金によって、「大胆な」アクションが可能だったと「推敲」するのが妥当なのかもしれない。

 で、小泉氏である。彼が、米国ブッシュ大統領とフレンドリーであることは周知の事実であろう。ただし、ブッシュの方は、イラク戦後処理の発言にもあったように、以前は敵国であった国(日本)にもかかわらずそのコイズミとも仲良くやっている、というようなことを強調したいレベルで受けとめられているようだ……。
 フレンドリーであるかどうかといった問題以上に、時の首相(歴代の首相と言うべきかもしれない)が、「米国の言いなり」になっていること自体がもっと鋭く注目されていいのだと思う。イラク問題から何から何まで「対米追随」であることは国民の目から見ても明らかであろう。

<あるとき、日本のトップ官僚の最右翼的立場にある人と、くだけた懇談をする場に居合わせたことがある。……座がかなりくだけてきたところで、いきなり、私に向き直って、 「立花さん、あなたは、日本の政治(政策)を動かしているパワーの中で最大のものは何だと思いますか?」と正面きった質問をぶつけてきた。私は自民党の大派閥のボスたち、財界、圧力団体、イデオロギー的指導者、大マスコミなど、一般にその問いに対する答えと考えられているものをいろいろならべたが、彼はニコニコしながら、その答えのすべてに頭をふり、その後で、スパッと、「アメリカの意志ですよ」といった。>(立花隆「日本の政治を動かす“アメリカの意志”」、立花隆の「メディアソシオ・ポリティクス」より nikkeibp.jp )

 つまり、小泉氏もまた、イギリスの意志に沿って立ち回った竜馬と同様に、米国の意志に突き動かされて「構造改革」路線を展開し、そして、「米国の意志」のひとつである「郵政民営化」で「大見得」を切っているわけだと思われる。

<米国の関心事は350兆円におよぶ郵政マネー …… 郵貯が世界最大の貯蓄銀行で、それが民営化されたら、350兆円におよぶ郵政マネー(簡保も含めて)を持つ世界最大の銀行が生まれるということである。アメリカの関心は(政府も民間も)郵政民営化の問題で関心があるのは、この一点だけなのである。…… 郵政公社が(ひいては政府が)かかえこんでいた、そのとてつもない量の資金を、早くグローバルな金融資本市場に放り出させ、一刻も早く国際金融資本家たちが互いにキバをむき出しあってその取り合いをするにまかせよということなのだ。
……
 日本の戦後の経済的成功を支えた国家体制=国家資本主義体制(1940年体制)の根幹部分は、世界最大の銀行たる郵貯などがかき集めた郵政マネーを国家が中心となって公共事業に投資して回転させていくという行為それ自体によって日本経済の根幹を支えていくという国家中心の資本主義体制にあったわけだ。
 日本の経済力をつぶそうと思ったら、この根幹部分をつぶすほかないと見抜いたアメリカのプレッシャーと願望と、たまたま郵政省と郵政族に深い恨みを持った、ちょっと頭の弱いポピュリスト政治家(小泉首相のこと)の望みが一致してはじまったのが、小泉改革の4年間とその頂点としての郵政民営化大騒動だったということではないのか。>(同上)

 副島 隆彦氏の「属国日本史」ではないが、現在の政治動向の背後には、取り返しのつかないほどのこの国にとっての悲劇へのうねりが、しっかりと隠されているようだ。だから、誰もが「警戒心」というものと無縁ではいられないはずだと思えるわけである…… (2005.08.26)


 今朝のウォーキングで、ふと気づいたのは、境川の流れがいつになく澄んでいたことだ。いつもは、川底もよく見えない濁りがあったはずだが、今日は川底も透けてよく見え、流れが涼しそうな感じすらあった。
 おそらく、今回の台風により大量の雨水が川の汚れを流し去ったものと思われた。やや極端な表現をすれば、街中を流れる中流というよりも、郊外の上流、清流の流れのようでさえあった。ウォーキングで汗を滴らせながら川を覗いていたため、手に取ってその流れの冷たい水で喉を潤したくなるほどだったのである。

 この川を、別の台風や豪雨の直後に見たことがあるが、水面が上昇し、物凄い勢いの濁流となっていて、恐ろしさを感じさせたものだ。
 高度のある山間部ではないにしても、ほどほどの高さ、広さの山間地が集めた降雨を、さほど広くない川幅の川がそれらを引き込んでいるため、天候のあり様に左右されがちな川だと言える。
 かつては氾濫もあったとか聞いているが、現在は護岸もしっかりしているため見た目の恐ろしさ以外に、水害はもたらしてはいないようだ。しかも、つい最近、増水時には水量を一時蓄える機能を果たすという護岸を工事しているため、水害の心配は解消されているようである。

 ただ、この川に生息する生き物たちは、結構辛い思いをしているのかもしれない。今日も、マガモ、カルガモたちの姿は見えなかった。彼らは、昼間は川面で餌をとったり、くつろいだりしているが、どうも夜は近辺の所定のねぐらに帰るようなので、台風などの際には、そこへ非難しているのかもしれない。
 それに対して、放流されているコイたちは小さくない被害を被っているに違いなかろう。
 コイなどの魚類は、台風その他により川の流れが急になる時には、砂や小石などを体内に含みこみ、自重を重くして、流れが滞る場所の水底にうずくまって(?)身を防いでいると聞いたことがある。そうでもしなければ、コイたちは延々と下流へと流されて、海にまで運ばれてしまうことになろう。
 彼らが、台風による増水などをどのように事前に察知するのかは知らないが、次第に早くなる水流であるとか、気圧の変化とか、また、上流から流れてくるものとか、いろいろな変化を捉えて察知するものと思われる。隠れるだけでなく、砂や小石を飲み込まなければならないのだから、事前察知は命懸けのノウハウに値するということになるのだろう。
 台風によって、川の水質が綺麗になっただけでなく、日頃目にする、木切れであるとか、投棄された汚らしいゴミ類も一気に流されてしまったのかもしれない。また、川原に生えている草や諸々の植物も、強い流れで洗浄されたものか、青々として緑が輝き、それらがこぞって川の光景を新鮮なものにしていたというわけだ。
 ウォーキングの際は、目にするものが心地良ければそれだけで身体の疲れが癒されるものである。遊歩道の周囲に見える緑の林なども気分の良いものだが、やはり、傍らの視界に否が応でも入ってくる境川の光景の持つ意味は大きい。今日のように、見た目の清涼感と、瑞々しい香りすら感じる光景だと、まさに気分が洗われる思いである。きっと、あの台風で被害を受けた人家もあることなのだろうが、自分は、この台風一過の自然の清涼感をしっかりと味わってしまった…… (2005.08.27)


 今日の作業で、漸く、おふくろの住居の気になっていた補修を完了させた。
 前回は、トイレの模様替えであったが、今回は、浴室であった。コンクリート床にそのまま浴槽を置くスタイルをとっているため、床と浴槽の淵までの落差が大きい。とりあえず、知り合いがブロックを足場にしておいてはどうかということになったらしく、床のコンクリートにブロックが階段状にセメント付けされていたのだ。
 以前から、何とも無粋な仕業だと感じていた。体育会系の合宿所の風呂じゃあないんだから、裸のブロックはないだろう、と思っていたのだ。ただ、じゃあどうするという代替案が浮かばなかったのでとりあえずそのままにしていた。
 が、先頃、90センチ幅で、高さも手頃なアルミ製の踏み台を見つけ、これならば浴槽への踏み台としてもいけると合点したのだった。これに、滑り止めのテープでも貼り付ければ、体裁も悪くないし、重さも軽量のため、使用しない場合は立て掛けて干すことも容易である。

 しかし、これを設置するには、機能一本槍のブロックの階段を解体する必要があったのである。接着用に使用されたセメントが、やわな接着力であることを期待したが、とにかく、その種の道具によって「ハツル」作業が必要であった。一応、コンクリートをハツルためのノミは「保有」しているつもりであったが、探すのも面倒なので平たいものを新たに買っておいたりした。
 そして、いざ、ハツリ作業を、トンテンカン、トンテンカンと始めたのである。ブロックの下の隅からはみ出ているセメントの部分にノミの刃をあてがい、トンカチで打ちつける作業だ。最初は、相当しつこい接着のような印象を受けた。結局、ブロックの姿をすべて破壊してしまうという最悪のケースになるのかと危惧した。
 が、ブロックの下の隅を一通りハツって、その淵にテコの力を加えてみたところ、ミシッという音とともに、ブロック本体が、コンクリートの床から剥がれたのだった。最良のケースとしては想定していたものの、思い通りに陥落したのでホッとしたものだった。
 ただし、粘着テープの跡のように、床のコンクリートにセメントの凹凸が汚らしく残っていたため、それらを剥がす小技作業はしなければならなかった。
 こうして、ブロックの階段の撤去と、滑り止めテープ付き踏み台の設置は順調に進んだのだった。が、ここまでが楽勝的に進むと、にわかに気になることが持ち上がってきたのだった。

 壁の汚れである。もう何年も前に塗られたペンキ塗りの壁には、薄黒い点状の黴まで浮き上がっていて、とても気分良く入浴できる雰囲気ではなかったのである。ただ、いずれ塗り替えることは計画していたのだが、今日は、ブロック階段の解体で手一杯だろうと予想していたのだった。それが、その作業は楽勝に終わってしまったため、ニ番手の課題が急浮上してきたわけである。
 ペンキ塗り作業に着手することにしたが、その動機は、自分の家の浴室がホテル並みの仕上がり方になっていて、いつまでも、おふくろのところが体育会系合宿所の風呂場では、寝覚めが悪いからであった。また、こんな暑い日にこそペンキの乾きもいいはずだから、早くやるべし、先送りは慎むべし、と考えたからであった。
 案の定、ペンキ塗りは、いろいろな意味で煩雑な作業となった。剥がれかかったペンキを除去したり、異なった色を塗り分ける神経を使ったり、足場が悪く、手の届きかねる箇所にハケを突き出したり、片手に持ったペンキ入れをこぼさないように注意したりと、とにかく作業の快適さなんぞを味わってなどいられない類のものである。
 根を詰めた甲斐あって、まずまずの速度で作業は進み、見る見るうちに浴室内は明るく、気分の良い光景へと変貌を遂げていった。
「まあ、こんなに綺麗にしてもらっちゃって」
と、覗きに来たおふくろは目を細めていたものである。
 そう言えば、前回のトイレ改造作戦の後、おふくろは、小物を置いてみたり、掃除をまめにしてみたりしているようである。根が綺麗好きであるのだから、やはり、「手がつけられない」状態だと、手をつけないというのが人情だったのだな、と再確認したものである。
 こうして、頭の片隅に引っ掛かっていた「案件」が、とりあえず暑い暑いのこの夏中で完了できたのは、まるで、子どもの夏休みの宿題を終わらせたような、ある種の快感だと言うべきであろう…… (2005.08.28)


 日中は、相変わらずというか、ややか細くなったか、蝉の鳴き声が絶えない。しかし、昨晩も、早、次の順番である秋を告げるかのような虫の鳴き声が聞こえていた。
 蝉の鳴き声は喧騒感さえ伴うものの、逆にものの哀れとも言うべき感覚を誘う。
 それに対して、いかにも頼りないかのような夜の虫の鳴き声は、命の哀れさなんぞは百も噛みしめた後の悟りめいた静けさが漂っているかのようである。万事、静かに沈思熟考せよ、とのメッセージめいたものを感じさせる。

 今年は、なぜだか「蝉しぐれ」に耳を寄せてしまう夏であったが、いや夏である。どうしたことかといろいろ考えてみたりする。永遠ではあり得ない生の定めというものを意識せざるを得ない加齢があったればこそのことかとも思った。
 あるいは、さまざまな意味での現代の危うさが、物事の終りというものを見つめさせる結果のことかとも思った。命の終りを知ってか知らずか、または生を謳歌する充溢したエネルギーの結果か、いずれにしてもありったけの喧騒の鳴き声を発している蝉たち。それは、現代という時代の感触に通じるものがあると思えたのかもしれない。共通するのは、喧騒の度合いが強まれば強まるほどに、限りある存在という「厳然とした制約」が浮かび上がる点であるかもしれない。
 蝉たちの場合には、それは生けるものの哀れさというような響きをかもし出す。それは、「厳然とした制約」に恐れを隠さない愛しい命の美しさを秘めてさえいる。
 しかし、人間世界での喧騒は、麗しくないどころか、虚偽と愚かさと傲慢さとを芬々(ふんぷん)とさせずにはおかない。「厳然とした制約」に対して斜に構えるかのような厚顔無恥は、鼻持ちならない臭気を撒き散らかさずにはおかない。先ずは、自然な感性の撹乱をもたらすとでも言おうか。
 死すべき存在、壊れもの(フラジャイル,fragile [breakable])、「壊れものとしての人間」(大江 健三郎)という、人間にとっての不可避な根源的条件を等閑(なおざり)にするならば、目に入るもののすべてが焦点を欠いたピンボケ像となるのはごく当たり前のことのように思われる。

 「硬直した図式」が人々を困惑させるのも、物事を「壊れもの」としての人間のナチュラルな視点から世界を見つめられなくなっているからではないかと思える。
 小泉首相の「単眼」的思考からくるシングル・イシュー・ポリティックス、まるでキレタ人のような硬直した表情、そしてゴリ押し解散・総選挙、さらに「党公認」で窺える狭隘な評価方法……、いずれもが「硬直した図式」そのものとなってしまっている。彼からは、円熟した大人、ますます人間の「壊れもの」的側面に心を傾ける熟年の深遠さが微塵とも感じられないのはわたしだけだろうか。
 一時は、「勇断」と取り違えて小泉支持、自民党支持を表明した国民も、ジワジワとクールダウンしているとも聞くが、それでも視界の焦点を合わせ切れずに、迷いの只中でさまよう人々が少なくないようだ。おそらく、「壊れもの」的な自分たちに自身が持てず、幻惑されているものと思われる。きっと、「壊れないもの」こそが価値あるものだと思い込まされた都市生活の虚妄のなせる業なのであろう。アスベスト粉塵ではないが、むしろ「壊れないもの」ほど厄介なものはないはずなのだ。
 相手も同じ「壊れもの」的な人間なのだという歴然とした核心に目を向けるべきだと思われる。そして、そんな人間が、大胆さを振舞ったり、硬直したパフォーマンスに打って出たり、さらに「壊れないもの」であるかのような外面的強さを顕示したりするのは、相応の理由があることを、すかさず感づいて然るべきなのではないかと思える。

 政治というのは、決して粋がることではなく、何よりも「壊れものとしての人間」たちが、互いのその弱い部分をサポートし合える合理的方法を探る手順のはずである。
 それは演説口調で叫ぶスタイルに馴染むよりも、静かに語りかける口調こそがマッチしているはずであり、髪を振り乱し、拳固を振りかざす硬直さが表面化すればするほど、まやかしと嘘っぽさが振りまかれるものであろう。
 そもそも、こんなにも問題が同時多発している現代にあって、その処方箋が「郵政民営化」一本だというのは嘘も甚だしいであろう。それでは、まるで落語における、どんな病に対しても「葛根湯(かっこんとう)をお飲みなさい!」と言う笑い話でしかない…… (2005.08.29)


 昼近くのニュースで、ちょっと気になるものがあった。
 <「車で首相官邸に乗り付け、女性が腹など切る」>( asahi.com 2005年08月30日12時11分 )というものだ。
<運転していた女性は車内に立てこもり、持っていた果物ナイフのような刃物で自分の首や腹、手首などを切った。……女性は旅券などから長野市の主婦(50)とみられる。車内にはB4サイズのビラが20〜30枚あり、「小泉連立政権阻止」といった内容が書かれていたという。>
 どうも、「小泉連立政権阻止」に向けた抗議自殺(?)の気配がある。
 今日は、8月「30日」だが、「30日」にこうした「事件」が起きると、わたしのような世代の人間には、「三月三十日の日曜日 パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ」というフレーズを思い起こしてしまう。1969年3月30日の日曜日、この日の朝、当時二十歳だった女学生フランシーヌ・ルコント(Francine Lecomte)嬢は、ベトナム戦争とビアフラの飢餓問題に抗議してパリで焼身自殺したのだった。( 詳細は、当日誌、2002/02/18/ (月) を参照 )

 上記の「事件」の詳細は今のところわからない。しかし、彼女を思い詰めさせてしまったのであろう現環境のバカバカしさ、白々しさ、それらを操る「ちょっと頭の弱いポピュリスト政治家(2005.08.26)」への憤りは十分に共感できるところである。
ただ、どこだかの政党の選挙キャンペーン・スローガンではないが、「わたしはあきらめない」と踏み止まってもらいたかった。「壊れもの」という意味がわからない連中に対して、貴重な「壊れもの」としての身を投ずることは実に悲し過ぎる。
 また、わたしや、「フランシーヌ」のようにナイーブに物事を受けとめる人種は、めっきり姿を消してしまったのが、残念ながらこの国のこの時代の、程度の低い「喧騒」であることは、ほとんど常識化しつつある。少なくとも、マス・メディアの所産たる「喧騒」の中の人々は、自分の「痛み」がよってくるところもわからなければ、もちろんひと(他人)の「痛み」なんぞがわかるわけもないと言うべきかもしれない。厚顔無恥なマス・メディアは、悲しい焦りの思いを正当に汲み取ろうなどとはしないのではなかろうか……。 が、わたしは、「小泉連立政権阻止」という飛ぶ矢が目指した方向の正しさについては、その方とともに再度噛みしめたい思いではある。

 抗議と言えば、今、米国でのある母親の抗議運動が鮮やかで爽快である。
 最近、アクセスして興味深く読んでいる<立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」>のひとつ「第40回 全米にイラク反戦のうねり キャンプ・ケーシーに注目! (2005.08.20)」( http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050820_campcasey/ )を覗いてみた。

<ブッシュ大統領に徹夜で抗議する戦死兵の母親の話(そのときはホワイトハウス前で抗議と書いてしまったが、実際は、ブッシュ大統領が休暇になるとおもむく、テキサスのブッシュ牧場の前)は、その後ますます大きな話になり、主なテレビネットワークや新聞に次々に取り上げられ、さらに増幅されるので、評判が評判を呼び、いまや、その母親、シンディ・シーハン(Cindy Sheehan)さんは、イラク反戦運動のシンボルになってしまったようである。
 全米各地に次々に設置された、シーハンさんの抗議運動を支援する、「キャンプ・シーハン」(彼女はブッシュ大統領に徹夜で抗議するために、ブッシュ牧場のすぐ隣の土地にキャンプを張った)、「キャンプ・ケーシー」(ケーシーは死んだ息子の名前。シーハンさんは自分のキャンプにそう名前を付けていた)が、イラク反戦運動の核となって、ここ数日、全米各地で、シーハンさんを支援して、イラク戦争に反対するデモや集会が行われている。それがメディアに大きく取り上げられたので、このままいくと、イラク反戦運動がベトナム反戦運動のように大きく広がり、アメリカの政治に大きな転機をもたらす可能性がある。
 かつてニクソン大統領が悲劇的な退陣を強いられた最大の背景は、ベトナム反戦運動の燎原の火のような広がりだったが、ブッシュ大統領も、このままいくと、同じような運命をたどる可能性がある。>(同上)

 立花氏は、シーハンさんのような反戦運動を支えるものとしてインターネットの役割りが大きい点を指摘して、次のように述べる。

<イラク戦争における米兵の死者は、すでに1800人を超え、いまなお、着実に増加しつつある。アメリカのメディアは、その刻一刻の米兵の死の増加を克明に具体的に伝えている。
 たとえば、ここをクリックすると「CNN.com」の「米兵の死傷者の記録」のページにつながるが、そこには、顔写真付きで、一人ひとりの兵隊の死が、それがどのような兵隊(家族環境も含め)で、どのような状況下で死んだかが、記録されている。それが、開戦以来のすべての死者について残されているのである。この記録を「↓」ボタンでサーッと流して見るだけで、日本人のほとんどが抽象的にしか知らないイラク戦争が現実味を帯びて見えてくるだろう。ほかにも検索サイトで「war in iraq(イラク戦争)」「casualties(死傷者)」と入力すれば同様のものが多数出てくるだろう。
 デジタル情報革命によって、大量の記録をメディアが簡単に残すことができるようになり、それがクリック一つで簡単に検索できるようになったことで、昔なら、アッという間に歴史のうねりの波の合間に消えてしまった個人個人の死が、生きた情報となっていつまでも残ることになった。
 アメリカにおけるベトナム反戦運動の高まりは、テレビというメディアが戦場の生の現実を毎日アメリカの家庭の茶の間に送り届けたことによってもたらされたといわれているが、イラク戦争の反対運動の広がりは、おそらく後年、インターネットによってもたらされたといわれるようになるのではないか。>

 シーハンさんを支援するサイトのひとつである<「BUZZ FLASH.com」というインターネットの個人的インディペンデント・メディア(いまアメリカでは、こういうものがさかんにできている)>は、シーハンさんのインタビューを次のように紹介しているらしい。

<要するに、ブッシュが言っていたイラク戦争の大義などというものは、すべてウソっぱちであることがわかったではないか。では、自分の息子は何のために死んだことになるのか? あと何人のアメリカ兵の死者を出したら、イラクから米兵を引くつもりなのか? あと何人の息子の死に接する母親、自身の夫の死に接する妻を出したら、無意味なイラク戦争をやめるのか。ブッシュ大統領には三人の娘がいるはずだが、そのうちの一人がイラク戦争に行かされて死んだら、あなたはどんな気持ちがするのか?>

 当然なことであるが、立花氏は、ブッシュと歩調を合わせた小泉首相に目を向ける。

<ひるがえって日本はどうか。
 イラク戦争に大義がなかったことが判明した以上、あの戦争は国際正義の原則に反する侵略戦争といわれても仕方がない戦争である(それが独仏露などヨーロッパ主要国が参加を拒否した理由だった)。その戦争に自衛隊を送り出した小泉首相の政治責任を問う声が、日本でさっぱり聞こえないのはどうしたわけか。
 イラクに自衛隊をとどめておく積極的な理由は何もない。そもそも兵を出した大義が失われている。それに自衛隊が現地で果たしている積極的な功績など、ゼロに等しい。
 現地の情勢は、自衛隊からいつ死傷者が出ても不思議ではないほど悪化している。
 日本は一刻も早く兵を退くべきである。そうでないと、小泉首相は海外で日本兵を殺した戦後初の首相として永久に名を残すことになるだろう。>

 この最後の部分ひとつとっただけでも、「小泉連立政権阻止」を百回続けて叫ぶことができようというものではないか。
 この国を「あきらめない」で、しなければならないことはまだまだありそうな気がしている…… (2005.08.30)


<「全部ホントのことを言って、全体として錯誤に導く方法」――そんなことができるだろうかと思われるかもしれませんが、簡単なのです。
 太郎君が学校から帰って、お母さんに一日の出来事を報告します。
「あのね、今日は一時間目の国語の時間に短歌と俳句を勉強してね、二時間目の算数の時間は多角形の対角線の勉強したよ。それから三時間目の音楽の時間には『つばさをください』っていう曲を練習したんだ。四時間目は図工で、ポスターづくりをしたんだけど、あんまりうまくいかなかったな。それでね、給食は僕の大好きなカレーライスでさ、六時間目のホームルームの時間にはクラス委員を選んだんだけど、僕、図書係に選ばれちゃった。放課後は剛君とバスケットボールやって、そいで帰ってきた」。
 太郎君の報告したことは全部正しい内容ですが、今日、先生からテストの結果が発表されたのですが、太郎君は散々な成績だったことを言わなかったのです。お母さんは、太郎君がそれなりにまじめに授業に取り組んで、成果を上げていると勘違いするかもしれません。>(NHK人間講座 安斎 育郎『だます心 だまされる心』より)

 こうしたことに関心を向けるのは、やはり現在のこの国が、上から下まで「だまし」が横行する「だまし」天国だという印象が拭い切れないからである。真っ向から「虚偽」を言い張って「だます」作法もなくはないようだが、もっと目立つのが、上述のようなケースではないかという気がしている。
 それというのも、このケースが成立してしまいやすい現代時代環境があると思われるからだ。
 要するに、伝えられるべき事柄が溢れ返っている環境があり、人々があまりにも忙しいということだと言えようか。
 また、あらゆるジャンルが専門分化してしまい、煩雑さを増しているとともに、素人がひょっこりと顔を突っ込むことが難しいという様相まで呈していることも理由として挙げられようか。
 さらに言えば、人々における情報に対する「感度」というか、洞察力というか、情報を吟味する姿勢がかなり問題含みであるようにも思われる。

 「ミッシング・リンク【missing link】(「失われた環」)」という言葉がある。「生物の系統進化において、現生生物と既知の化石生物との間を繋ぐべき未発見の化石生物。これが発見されると、進化の系列がつながる」(広辞苑より)というような意味である。
 つまり、われわれは、情報が溢れる環境に接していたならば、状況からある程度、伝わってこない「ミッシング・リンク」とも言うべき情報を想定することができるはずである。それはカンによってというよりも、なぜその部分の情報が抜け落ちているのだろうと自然に気がつくものだと言ってもいい。まさに、「ミッシング・リンク」が気になるという表現がピッタリするのである。

 どうも、この国では政府もマス・メディアも、かなり意図的に「ミッシング・リンク」を作り出しているように思われる。
 たとえば、国会中継などを見ていると、野党側からのきわどい質問に対しては、質問時間潰しもかねて、どうでもいいことや一般論に終始して巧みに核心部分を「ミッシング・リンク」とさせてしまう。小泉首相は、その意味ではこの種の話法の達人だと言えるかもしれない。
 冒頭の「太郎君」の話で言うならば、「テストの結果が発表」された事実を、パーフェクトな「ミッシング・リンク」とさせるべく、小泉首相ならば、一日の他の出来事をもっと「サプライズ」イベントを持ち込んで興味をそそらせるはずである。「社会の時間」には、北朝鮮がどうのこうのとか、郵便局は公務員がどうのこうのとか、まさに「人生いろいろ」の話を拳を振りかざしてするのではなかろうか。必死に、「テスト結果」の話題だけには話が向かってゆかないようにである。ただ万一、そこに話題が向かったとして、こう言うかもしれない。「テストの結果(国債発行額?)なんて大したことじゃないんだ!」とね。

 考えてみれば、今回の衆院解散・総選挙にしたって、国民にとっては隠し通された、さまざまな「ミッシング・リンク」が気取られないために、「郵政」の一事に国民の関心が集中するよう、「猫騙し」(相撲の立会いで、相手の目の前で両手を打ち合わせて相手を驚かす奇襲技のこと)をしてみせたとしか言いようがないであろう。
 ただ、問題なのは小泉首相だけではなく、マス・メディアの使命感のなさでもあろう。 端的に言って、空虚な小泉人気を仕立て上げたのは、首相インタビューと称して、腰の据わった質問もせずに毎日TV露出をさせていることだというのは、常識化しつつある。散歩する暇なオッサンのような雰囲気で、言いたいことだけ言わせていれば、誰もが、「この人に責任がある」とは思わなくさせられるのではなかろうか。とにかく、「小泉劇場」は、連日のオン・エアーであったわけだ。
 それはともかく、小泉首相なりマス・メディアは、北朝鮮拉致問題にしても、イラク戦争の実態にしても、そして財政破綻や年金問題にしても、事実の総体を克明に国民に知らせるという義務を傍らに置いて、都合のいい差しさわりのない部分だけを提供し続けたと言うべきであろう。法律には、「不作為の作為」というビミョーな範疇もあるはずだ。
 さすがに、虚偽を報じることには控え目であったかもしれないが、国民が正しい判断をするための重要な判断材料を取り揃えたのかどうかが問われるところであろう。イラクの自衛隊派遣先サマワの状況についても、昨今は誰も公式報道をしないのはおかしい。
 「知らしむべからず依らしむべし」という古風な国民像を、一刻も早く脳裏から取り除くことを、小泉首相にはお勧めしたいものである…… (2005.08.31)