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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2005年02月の日誌 ‥‥‥‥

2005/02/01/ (火)  仕事や生活の「澱(おり)」を処分することは大変なこと!
2005/02/02/ (水)  「希望」の有無の確認よりも、パワー全開こそを!
2005/02/03/ (木)  新たに調達した「音声入力ソフト」をいよいよ使ってみる!
2005/02/04/ (金)  今年の景気は芳しくなさそうだ!
2005/02/05/ (土)  「聞き間違い」と「思い込み」
2005/02/06/ (日)  道具の「使い勝手を知る」こと、「面倒みいみい使う」こと
2005/02/07/ (月)  人間は孤立すれば「エラー!」になるだけではないのか……
2005/02/08/ (火)  「市場の論理」にだけ任せていいのだろうか?!
2005/02/09/ (水)  「鬼平犯科帳」的世界は遥か遠くになりにけり……
2005/02/10/ (木)  現在のこの「アノミー」状態をマジに見つめるべきだ!
2005/02/11/ (金)  エンドレスで「揺らぎ続ける」者だけが……
2005/02/12/ (土)  やむを得ず、天へ天へと目指した「蔓たち」を裁断する!
2005/02/13/ (日)  はげ鷹やハイエナが、超スピードで駆け巡る美しい環境?!
2005/02/14/ (月)  なんでもない日常的な事柄に対して行動的になるべきか!
2005/02/15/ (火)  昨日の再論 ―― 忙しく、行動的であることは幸いなり!
2005/02/16/ (水)  何十年ぶりかで、「市民社会」について考える……
2005/02/17/ (木)  打たれ強くなることが緊急課題?!
2005/02/18/ (金)  冷え冷えとした夕刻の光景と対照的に熱い者たちの姿……
2005/02/19/ (土)  「利田神社」に寄りそう町内会館で催された素晴らしい葬儀!
2005/02/20/ (日)  庶民は、本当は「蚊帳の外」の住人ではないはず……
2005/02/21/ (月)  「我消費する、故に我あり」が重みを感じさせるこの時代!
2005/02/22/ (火)  「閉所」=「うちわ」の空間を過ぎるとそこは「渡る世間は鬼ばかり」?
2005/02/23/ (水)  人と人との「インターフェース」は? そして言葉は?
2005/02/24/ (木)  「可愛がられ抱きしめられた子どもは世界中の愛情を感じとることをおぼえる」!
2005/02/25/ (金)  静かに累積していく「つまらん!」という得体の知れないもの……
2005/02/26/ (土)  身の回りのモノの故障発生やその修理で思うこと……
2005/02/27/ (日)  再び「ホリエモン」騒動と「お上」の判断?
2005/02/28/ (月)  「(個人)成果主義評価」方式が見直され始めている……






 日本列島を極上の「寒波」が襲っているらしい。冷たい風が吹いていることと、西方に望める山々が格段に鮮明な姿を見せていることで、まさしく寒波が到来しているのだという実感が深まる。
 ところが、こんな日に今日はほぼ一日戸外の寒さにさらされる段取りとなってしまった。ひっくるめて言えば、過去の積もり積もった「澱(おり)」を処分する作業だと言える。
 ひとつが、これまで事務所で使用してきたPCのブラウン管型モニターを廃棄処分にすることである。場所を取らず、消費電力も小さな液晶モニターが一般的となった今時、もはやブラウン管型モニターでもないはずなのである。十台近い台数の古いモニターを、一気に廃棄処分にしようということにしたのだが、これがまた厄介なのである。リサイクル処理法制定後、やたらに捨てることはできないし、まして企業という立場であるとさらに厳しいことになる。結局、調査の末、とある廃棄物処理業者のところまで運送しなければならないということになった。
 そこで、さし当たって仕事のスケジュールに追われていないわたしが、1トン積みのトラックをレンタルして若い者と運び込むことにしたのだった。

 ただ、せっかくトラックをレンタルするならモニターを運ぶだけではもったいないと感じ、自宅の庭や物置に退避させていた仕事関係のガラクタも処分しようということになり、こうして朝一番から「小さな引越し」のような作業スタイルとなったのだ。
 トラックが向かった先は、モニターなどを専門に処理する廃棄物処理業者と、その他一般のゴミを処理する公営のリサイクル・センターの二箇所となり、距離の離れたそれらへと寒空の下、トラックを走らせたのであった。
 それにしても、昨今は、モノを処分するということにも、相応のコストと労力を必要とする時代となったものである。実際、各人が勝手にモノを捨てて知らん顔をしていては始末に負えない事態となるのだから当然といえば当然のことなのだろう。

 ところで、これで寒空の下の作業が終わったわけではなかったために、今日は身体が冷え切ってしまったのである。
 実は、昨晩から、自宅のキッチンの流し台の下が、配水管の詰りで惨憺たる状態となっていたのだ。家内が、何とかしてほしいとアラームを上げていて、「トラック運転手」のついでに、下水工事もやっつけ仕事で対処しなければならなかったのだ。
 たまには、肉体労働の一日があってもよかろうとイージーに考えていたのである。ところが、こいつがとんでもない「くせもの」であったのだ。
 結論から言えば、さんざん試行錯誤を重ねた上で、これは素人の仕事ではないと判断するに至り、「タウンページ」で調べた専門業者を呼び、専門的なツールを駆使して解決することになったのである。
 実は、わたしは、排水管の詰りというものを素人考えに高を括っていた。金物ショップで入手した排水管の詰りを除去する「ワイヤー」でそこそこ突いてやれば簡単に「開通」すると思っていたのだ。現に、流し台の下に顔を突っ込み一時間、表の小マンホールに回って一時間、とにかく突っつきまわした。しかも、この寒さの中でである。そして、右往左往すること一時間、計三時間以上も生活汚水のヘドロと闘ったのだが、「ワイヤー」の先でコツコツする手応えは、まさに無情なものでしかなかった。あたかも、「オマエなんぞのドシロートに歯が立つもんじゃないぞ!」と罵られているような感じでさえあった。
 で、しょうがなく専門業者に来てもらうことにしたのである。が、それが正解であったことはまもなく否が応でもわかることになったのだ。

 ワンボックス・カーに様々な道具類を積み込んで到来した業者は、すぐさま状況認識をかため、颯爽と作業を始めた。積み込んでいるエンジンで水圧をかけたホースと詰まったものを溶かす薬品と、前述の「ワイヤー」の強力なものなどを駆使し始めたのである。
 やがて、わたしが驚くようなことが起きた。小マンホール側の排水口から、何と石膏の塊のようなものがゴロゴロと出てきたのである。排水管は直径50ミリだそうだが、その中から、石鹸大の大きさの石のように硬くなった石膏のようなものがまるで手品のように出てきたのにはあきれてしまった。
 どうも、それらが排水管のある箇所で幅2〜30センチほどを埋め尽くしていたようなのである。ちょうど、人間の身体でいえば、血管を「血栓」が詰まらせるようにである。また、血管を詰まらせる原因がコレステロールという油であるのと同様に、排水管の内側で石膏のように固まっていた物質の成分も、実は流し台で流された汚水に含まれた油だと、業者は説明していた。
 それにしても、年月が重なるとこんな症状になるものかと、ただただ驚かされたものであった。そんなゴツイ物質が「通せんぼ」をしていたのだから、市販の「ワイヤー」でチョコチョコと小突いてもびくともしないわけだったのだ。
 結局、出張費込みの全体で3万円を支払うことになって、若干の痛手ではあったが、あの石膏もどきの塊が十数個見せられては、「まっ、しょうがないか」というのが実感なのであった。

 この寒い一日、寒さに加えて、肉体疲労も存分に味わうことになったわけで、何気なくついさっきカレンダーを見たら、今日は「仏滅」とあった。なるほどという思い以外ではない…… (2005.02.01)


 あるローカルな新聞が、「希望格差社会を考える」というコラムを載せていた。
 「一億総中流社会」と呼ばれてもきた「格差」の小さい社会が、今「格差」がみるみるうちに広がる社会へと変化してきたという。景気回復局面の中でも「景気の三格差」と指摘される事実があるという。つまり、「製造業・大企業・三大都市」の活況とは裏腹に、「非製造業・中小零細企業・地方圏」は停滞が目立っているとのことだ。
 そして、山田昌弘著『希望格差社会 「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』が見つめた問題、「希望の持てる人と、持てない人の格差が現代社会の最大の問題」が、地域の若い世代にも見出せると記述している。
「正規雇用された一部の勝ち組と、就職に失敗しフリーターから抜け出せない大量の負け組に若者の職業の二極化が進行し、平凡な能力では努力しても報われないと感じる人が増えている……」(2005.02.01『相模経済新聞』)

 「希望格差社会」という言葉については、この日誌でも 2004.11.30 に着目したことがあった。週刊誌(『週刊朝日』2004.12.10)の書評から次の引用をしたのだった。
「経済格差は他のあらゆる面での格差と連動する。生活が不安定だと結婚もできないし、努力しても報われる保証がなければ学校に行って勉強する気力だって失われる。それが山田さんのいう『希望の二極化』である。<現代社会においては、希望は、誰でも簡単に持てるものではなくなっている。希望をもてる人ともてない人、その格差が歴然とひらいているのである>と」
 何だかヘンだ、何がどうとキレイに説明できないがそれにしても大きな変化に見舞われたようだと感じることが、これまでも度々あったかと思う。そして、人々のそうしたモヤモヤ感が、流行語のような新しいタームによってうまく掬い上げられることがあったりもする。
 そう踏まえてみると、今、確実に暴走している社会風潮は、おそらく「希望格差社会」という言葉によって集約されそうな気がするのである。グローバリズム経済の浸透を野放しにした社会というものは、「勝ち組」「負け組」という現象を一過的に作りだすだけではなく、なかなか「抜け出せない」二極化構造を生み出し、やがて、「負け組」の人々からは、人間の意識ならではの「希望」をすら奪い去るという最悪の事態へと導いてゆく気配が感じられる……。
 もっとも、ほんの少数の超富裕層が、社会の富の大半を所有し、大多数の人々が底辺近くで蠢くという社会は、まさに米国社会にお手本があり、米国ではそれが当たり前と見なされてきたわけである。
 それが「自由と競争」の社会の現実の雛型であるのだろうが、「一億総中流社会」のような擬似平等社会の経験が長かったこの国にあっては、やはり、「寝耳に水」のようなパニック状態で進行しているものと見受けられる。
 しかも、時の政権、小泉政権は、あまりにも無策の成り行き任せ内閣である、あったがため、従来の状態との亀裂にドロップしてしまう人々の苦悩は完璧に黙殺されてしまったと言っていいだろう。いや、黙殺ではなかったかもしれぬ。「痛み」がありますという藪医者未満の荒っぽい「インフォームドコンセント(?)」はあったのかもしれない。ただ、これが事態の最終局面ではないことに注意を払わなければならないだろう。まだまだ、国民にとって悲惨なシナリオの続編がたっぷりと用意されているということである。国民が、「現状の辛さを嘆いているだけ」であれば、事態はますます悪化させられ、ほぼ確実に数十年以上前の悲惨な出来事へと回帰していく気配が濃厚であろう。

 「希望格差社会」から抜け出す方法はひとつしかないだろう。難しいことは先の話として、まずとにかく「現状の辛さを嘆いているだけ」であってはならない、ということだ。「貧すれば鈍す」に陥ってはならないわけだ。なあーんだ、そんなことか、と言い、何かハウトゥもののような解答を期待している者は、いつまでも底辺で座布団を温めていればいい。
 「希望を持つ」と言って、希望という言葉を空々しくは使いたくないから、先ずは「貧して」も萎縮せず、平静な感情と怜悧な頭脳活動を維持しなければならないと思う。打たれ強くある自分に変えていくことも必要なのかもしれない。ロッキーのように、ソ連が作り上げた最強のボクサー、ドラゴ(ドルフ・ラングレン)のパンチを平気の平左のごとく振舞うことが敵へのダメージに繋がるし、自分の自信をも生み出す。自分で自分のポテンシャリティを削ってしまうようなことは絶対に禁物だ。
 こんな最悪の時期に必要なものは、自身のベスト・パワーなのだろうと推察する。しかも、「希望」が持てないというワナに嵌り込んだ場合、自身のパワーは極少状態に陥ってしまうはずだ。では、どうすればそのワナに嵌らないで済むかと言えば、結果や目的を一時、取り外してしまうことだろう。こうならなければならないという目的は、それへのプロセスでのパワー・アップに貢献するとともに、ある種の状態にあっては逆にパワー・ダウンを招来してしまう。むしろ、ただひたすらパワーを発揮しているその状態だけを自己目的にしてみることが重要かもしれない。何にせよ、パワーの全開状態は、確実に次のステップを生み出さずにはおかないはずなのである。逆に、パワーの不完全燃焼は、それこそ「貧すれば鈍す」以外の結果にしか至らないこと請け合いである。

 環境は決してよくない。しかし、動かないこと、行動しないこと、自身のパワーを全開状態に持ち込もうとしないことはもっとよくない。
 おそらく、「ニート」や「フリーター」といった若者たちだけの問題ではなく、例えば停滞しているとされる「非製造業・中小零細企業・地方圏」という当事者たちもほぼ確実に該当するだろうと推定している。そして、これを書いている自分自身とて同じ立場にあるわけだ。とにかく、「希望」の有無などを落ち着いて確認しているひまがないほどに、自分がパワー全開状態であるかどうかに関心を向けたいものだ…… (2005.02.02)


 やっと、「音声認識ソフト」をインストールして使い始めている。通常のソフトと比較すると破格に高額なものであっただけに、いやがおうでも期待感が高まる。
 最初に驚いたのは、インストール時に、パソコン内の文書テキストを解析し始めたことである。おそらく、ユーザーがよく使う単語や言い回しを解析したのであろう。それに基づいて、ユーザー向けの辞書を作っていたはずである。しかも、かなり膨大な量に渡って行っていたのが、なるほどなあ、と感じさせた。とにかくこうしたアプリケーションでは、変換のための辞書が豊富であることが決め手となるはずである。こうしてしょっ端から期待度はますます高まることとなった。
 実は、今この「日誌」もそのソフトを使って、練習がてらに打ち込んでいるのである。まだ、マウスやキーボードなしで全面活用することはできないが、それらを併用することで何とか入力できつつある。こうしたことを重ねていけば、やがて「口述筆記」がまずまず可能になっていくものと考えている。

 まだ慣れていないために、正直に言って非常に煩わしい感じが否めない。まるでリハビリを行っているような気がしないでもない。ただ、この入力方法がスムーズに行なえるようになればどんなにか文書作成がラクになるかとわくわくした思いである。
 「ペンだこ」を作りながらガリガリと筆記用具で書くことから、キーボード入力へ移行した時には有頂天になったものだった。確かに、ワープロの漢字変換でイライラさせられたこともあったが、それでもなんと便利な道具だろうと感心したものだった。先ず「ペンだこ」ができなくなっただけでもありがたいと思ったが、その上スマートな活字で表示されることも感激であった。それよりも、出来上がった文章を自由に修正できるワープロ特有の便利さには快感さえ覚えたものであった。
 キーボード入力にすっかり慣れてしまった今は、キーボード入力がさほど煩わしいものだとは感じていない。さらに、キーボード入力と思考の速度とはマッチしているようでもあるので、入力しながら考え、考えながら入力するというスタイルはきわめて自然なことのように感じている。また、指を動かすキーボード入力は、頭脳を刺激する上でも悪くない動作だとも思っている。
 つまり、現状のキーボード入力に決定的な不満を感じているわけではないのである。では、なぜ「音声認識ソフト」なのかということになる。

 大学時代のことであるが、大変人気のある教授がいた。その教授の講義の際には、いつも講堂が学生達で満員になった。私自身もその教授には信頼をおいていた。ただ、学生達を不安にさせていることが一つあった。その教授の目がご不自由になり始めているという噂なのである。そして、その噂を誰もが知り始めるようになった頃、その教授は、講義のために演壇に上がる際、助手に手をとられて移動されるようになったのだった。
 その姿はお気の毒という感情を誘ったが、いざ講義が始まるとその説得力のある内容は、学生達を存分に魅了したものであった。だが、私は痛く考え込んでしまった。書物における文字と活字とを何よりの頼みとしてきた研究者が、突然目が不自由になるということがどんなにか辛いことであろうかと想像したのだった。聞くところによれば、優秀で人望のあるその教授であったから、研究の手助けは助手をはじめとして何人かの人たちが行い、その教授の研究が滞ることはなかったという。
 ところが、私は、大学院へ行くようになってからも全く同様の状況に置かれた大学教授を知ることになったのである。自分が信頼をおく教授が一人ならず二人も同じような境遇になったことは、やはり見過ごせない痕跡を私に残したのである。
 そうして、そんなことも忘れたかのように実業界に転身した私は、いろいろなソフトウェア・システムを視野に入れるようになっていた。そんな過程で、「音声認識ソフト」という「音声」と「文字」との相互変換を果たすソフトの存在を知ることになったのである。そして当然、このソフトに知らず知らずのうちに関心を寄せることになったのだった。

 元来、コンピュータ・ソフトウェアとは人間の通常能力の増幅機能を果たす道具である。迅速な計算能力にしても、詳細で正確な区別能力にしても、あるいはまた長時間にわたる継続能力にしても、限界のある人間の能力を増幅しているということになるわけだ。そう考えると、失われてしまった人間の器官の能力を肩代わりするソフトウェアは当然のごとく考慮されていいはずなのだ。
 この「音声認識ソフト」にしても、確かにキーボード入力を煩わしいと感じる人や、講演や会議の速記の代わりに意義をもつものだと言えるが、なによりも大きな意義をもつのは、視覚が失われた人の頼もしい支援ツールだというべきなのかもしれない。
 以前に、パソコン関係の展示会の際に、弊社のブースに盲目の方が立ち寄られたことがあった。その際、現在は介護の方の手助けによって行っているインターネットへのアクセスを、自身の手で進める環境を尋ねられたことがあった。その時にはまだこうした「音声認識ソフト」も進展を見せていなかったため丁寧に説明することはできなかったが、おそらく現時点ではかなり幅広い選択肢が生まれているに違いない。
 ちなみに、今使っているこのソフトは、入力の際にはしかるべき「エディタ(文章入力の『ノート・パッド』のようなもの)」を用いるのであるが、「保存」の際にも「音声操作」が可能であり、<ファイル>と声を出し、リストが表示されたら<上書き保存>と発声すれば、それで上書き保存されるのである。

 ここまで書き込むのに、いつもの2倍の時間がかかってしまった。だがこの入力訓練をこまめに続けてマスターし、早くこのソフトの可能性を吟味し尽したいものだと考えている…… (2005.02.03)


 デフレの特徴である価格下落は相変わらず続いていそうな気がする。
 つい最近のニュースによると、昨年の景気回復基調をけん引したはずのデジタル家電メーカーが、製品の売上量は出たものの、製品の価格下落によって必ずしも利益は上がらなかったという。中には赤字を出したメーカーもあるようだ。確かに、液晶テレビにしても、DVDにしても、それらの価格は出始めた頃と比べるとかなり低い価格で実売されていた気配がある。
 物が売れにくい時代にあっては、何らかの戦略をもって価格破壊に挑む業者が出てきても当然だ。テレビ報道で見たような気がするが、数10万円が価格帯であった液晶テレビが、ある業者の場合20万円台で販売されていたようだ。いわゆる国内メーカー品ではないようだったが、現在の国内メーカー品でもその実海外で製造されている現実を思えば、決定的な問題ではないように思われる。少なくとも一般消費者にとっては、そう受けとめられるのではなかろうか。
 また、販売店レベルでの過激な競争は容易に想像がつく。「他店よりも安く!」を売りにしている量販店が幾つもあるが、それらの店舗間ではどこに歯止めがあるのかと思わせるような値引き合戦が展開されてもいる。
 欲しいものを購入する時点でいえば、その対象商品が安ければ安いに越したことはないはずだ。まして、昨今では商品=製品に何の違いもないのだし、サービスのスタイルにしてもほとんど変わらない。だとすれば、より安い店舗からより安い価格で購入しようとするのは当然だろう。
 それにデジタル製品には、価格下落の原因が内在しているともいえる。つまり、製品の過激な開発競争で生み出されるネクスト製品は、現行製品よりもより高機能でより安いという傾向を持ちがちだ。この点を睨むと、店舗側は、あるいはメーカーは、現行製品を在庫で保持し続けることは不良在庫を増やすことになってしまうわけだ。よく、デジタル製品の領域では「アウトレット」商品という言葉を目にするが、このような上記の理由によって売れ残ってしまった製品の末路だということもできるのではなかろうか。
 まるで、生物(なまもの)を扱う生鮮食料品店が、夕刻になると投げ売りを始めるのと似ているかもしれない。こんな事情を実感を持って書くのは、かつてパソコンショップに携わった経験があるからなのである。以前にも書いたが、ハードディスクやサウンドカードなどなどイノベーションの激しいパソコンパーツの領域では、一、ニ週間のスパンで機能向上と価格低下が突き進んでいたのであった。だから売れ残った商品の価格表は毎日のように書き換えなければならなかった。利益幅が薄くなるどころか、赤字になることもしばしばであった。やがて赤字でも処分したいという心境にさえなるわけである。これが大方のデジタル製品価格下落の実情ではないかと思っている。

 デフレに関するこんなことを、もう一、ニ年も前に書いたはずで、なぜまたこの今に書かなければならないのかと不思議に思ってしまう。さんざん景気回復が叫ばれ続けてきた現時点において、かつてとほとんど変わらないデフレ現象が否定できないからである。
 デジタル製品にせよ何にせよ、販売価格が低下するということは一面ではありがたいにもかかわらず、それだけでは済まないのである。販売店舗に思うような利益が出なければ、その店舗の人件費は抑制されるだろうし、関係下請け業者への締め付けは厳しくなるであろう。つまり、経済的マイナス効果がじわじわと周辺に波及していくわけである。要するに経済的なマイナスの悪循環が動き出すということになる。
 今日の新聞の記事で、「大工や電気工の日給、13年ぶり1日1万3000円台に下落」というものがあった。どう考えても、大工や電気工という職人の供給量は多いはと考えられない。年季を入れなければやっていけないこうした職人業を今時の若い世代が望むとは思えないからである。先日、自宅の修理工事の見積もりに来てもらった業者も、そのことは認めていた。
 それにもかかわらずこうして日給が下落しているというのは、低迷状態の経済状況のシワ寄せ以外の何物でもないと解釈せざるを得ない。
 商売をしているどの業者からも、依頼されている仕事の受注額の水準が抑えられるという話を聞く。その点は我々も同様であり、これだけの予算しかないからこれでやってもらいたい、というような内情があちこちから聞かされる。どうも、今年の景気は芳しくなさそうだ。
 それにもかかわらず、能天気な政府は状況からかけ離れた政策を実施しようとしている。人の生活というものに関して素人であるだけでなく、どうも経済というものにも洞察力がなさそうな気配である…… (2005.02.04)


 「鬼平犯科帳」と表示させようと思って「音声認識ソフト」に向かってそう発声してみた。すると、表示された文字はなんと「おにぎりハンカチ」であった。思わず笑ってしまった。
 これは、「トレーニング」と呼ばれるソフトへの刷り込みをする前の見事な誤動作である。
 もっとも、「鬼平犯科帳」なんぞという特殊な言葉を試してみようとするユーザーがおかしいといえばおかしい。いや、何か音声入力をしてみようと思い、ふと脇の本棚を見たらたまたまそのほんの表題が目に入っただけなのである。
 いわゆる「聞き違い」という間違いは、人間にだっていくらでもあることだ。人間の場合、その言葉が発せられた時の状況のさまざまな事実が、妥当な言葉選びを助けることになる。いや、状況といってもその人がどんな風にその状況を認識しているがという主観的な事柄になるのだから、痛しかゆしというべきなのかもしれない。主観的でトンチンカンな状況認識をしている人は、とかく他人のいうことを間違って聞きとってしまうことになりそうだ。
 その点コンピューターには、なんの状況認識もない。もとより主観性もあるはずがない。音声の辞書のファイルに蓄えられたデータと照合するだけのことである。その際、ユーザーの特性、例えば言葉の使用頻度や発音の特徴なども判断材料となるに違いない。これらを下準備するというのが、「トレーニング」ということになるのである。

 「音声認識ソフト」の話は今後追い追いに書くとして、人が聞き違いをするということ、その原因が往々にして当人のその時の状況認識や主観のあり方に根差すのではないかという点に関心を向けてみたい。
 志ん生の落語にもまさしくこの点を面白くあしらった演目がある。
「えー、人というものは何かこう自分が思っているとそれに聞こえるということがありますな。何か欲しいな、と思っていたりなんかするとそれに聞こえたりするもんですな…… 寒いので羽織が一枚欲しいなと思っていたりすると、後ろの方から『羽織を着せる!』という声が聞こえたりするんですな。振り返るてえと『キセル屋』だったりする。また、女房のほかに気に入った女はいないかな、なんて考えていると、後ろの方から『お気に入りの妾!』と聞こえてきたりする。でよく聞いてみると 『ノコギリの目立て』だったりしてね……」
 といった枕話があり次のような本題に入るのである。

 「紀州(槌の音)」という演目の話であるが、八代将軍を決める朝、尾州公(びしゅうこう)には鍛冶屋の槌音が、「天下取る、天下取る」と聞こえる。しかし大評定の席で、「余は徳薄うして、その任にあらず」といったん辞退してみせる。次に、「下万民扶育のために任官あってしかるべし」といわれた紀州公も「余は徳薄うして、その任にあらず」と辞退しながら、すぐに「なれども下万民のためとあらば仕官いたすべし」と答えたため、紀州公に決まってしまった。
 がっかりした尾州公が、また鍛冶屋の前を通りかかると、やはり「天下取る」と槌音が聞こえる。「ははァ、紀州公は利口だから、一度受けておいて、まだ若年故、尾州公によろしく頼むと使者をよこすつもりだな」と思う。ところが、鍛冶屋の親方が真っ赤に焼けた鉄を、水につけたから、激しい音がするのだった。「き・しゅ・うーー」……

 「そのように聞こえてしまう」という、誰にでも起こりそうな錯覚を扱った話であった。こうした錯覚は「思い込み」がもたらす「いたずら」だと言ってもいいわけだが、昨今のご時世では単に「いたずら」といって済ますわけにはいかない事情もありそうだ。。
 「思い込み」と言ってもさまざまなレベルがあるわけで、覚せい剤常習者の幻覚による「思い込み」などの場合は、尋常ではない話となる。
 昨日も、唐突に母親の眼の前で幼児が惨殺されるという事件があった。ほどなく捕まった犯人が幻聴を聞いていたような供述をしているところをみると、覚せい剤中毒の疑いがあるのかもしれない。いずれにしても、ただでさえ「思い込み」というものに左右されがちな人間であるのに、その部分が薬物によって増幅されたのでは危険極まりない話となる。
 どうも現代という時代は、個人化という傾向が極度に強まるなかで、個人の「思い込み」が思わぬ役割を果たしているようにも見える。少なくとも現状では、狭隘な「思い込み」に起因する犯罪が多発しているように思われてならない。
 人間の感覚や考えというものは、孤立した個人の状態では正常に働かないという当たり前の事実を、もっと淡々と見つめ直す必要がありそうだ…… (2005.02.05)


 「使い勝手を知る」という言葉があるが、それが道具であった場合、道具側の特性を知るにとどまらず道具を使う際の自分自身の状態を自覚することでもあるような気がする。
 こんな事を言い出すのは、今日もまた例の「音声認識ソフト」の練習をしているのである。いわゆる「トレーニング」と呼ばれる作業なのである。要するにこの作業は、コンピューターまたはソフトに、ユーザーが使う単語やその発音をデータとして覚えこませるのである。そのために、これまでに作成した文書を解析させたり、使用頻度の高いと思われる単語を登録したりする。
 そのほかに、ソフト自体があらかじめ持っている所定の長文をユーザーが声を出して朗読するという作業も含まれる。20〜30分間もかかろうという長文を、昨日から何回も繰り返してのどがかれてしまった。そのため、コーヒーを飲んだり、のど飴をなめたりと結構苦労もしている。昨今は、一昔前ほどにのどがかれるほどに声を出すことがないため、久々に声を出すとこの始末である。いつであったか、ビデオの撮影のために声を出し続けた際、声がかすれて難儀したことを思い出したりした。

 この朗読という「トレーニング」は、ユーザーの発声の特徴をソフトに覚えこませるということなのであり、その意味でソフトに対する「トレーニング」だということになる。おそらく、ユーザーがどのようなアクセントを持っているかとか、読み上げる速度がどうであるとか、末尾の発音をどう処理するとか、そんな特徴をソフトに了解させることになるのであろう。
 確かに、この「トレーニング」を済ませた後の「認識率」はその前よりも向上しているのが分かる。だからこそ、のどをからしてでも敢行するのである。
 ところでこの「トレーニング」では、ソフトが用意した文章をソフトの指示に従って読み上げるのであるが、その文章は画面上に表示される。そしてカラオケではないが、読み上げる終わった場所が消えて行き、現時点の場所が矢印で表示されるようになっている。また、ソフトが認識できなかった部分は矢印がとまって表示されるようになっている。私の場合、しばしば分末の「である」の直前で矢印がたまったりした。つまり語尾がはっきりしないという暗黙のクレームが返ってきたというワケである。

 こうしたことを何回か繰り返しているうちに、この「トレーニング」というものは、単にソフトに対する「トレーニング」であるだけでなく、ユーザーの話し方の「トレーニング」でもあるのだと認識するに至ったのである。つまり、コンピューターやソフトが認識しやすいように、ユーザーも話し方を訓練してくださいよね、ということなのだろうと自覚させられるに至ったのである。ソフトもユーザーもお互いに歩み寄ることによってよい成果が出るのですよ、という訳なのであろう。
 このように「音声認識ソフト」を使いこなすということは、「音声認識ソフト」側に調整を強いるだけでなく、ユーザーである自分自身の話し方の癖を是正し、自分自身が標準化されて行かなければならないということなのでもある。これが、道具の「使い勝手を知る」とは、道具だけではなく自分自身を知る、という冒頭で書いた意味なのである。

 ふと、二つのことに考えが及んだ。
 その一つは、「人を使う」ということに関してである。落語に『化け物使い』という話があるが、その中に人使いの荒い男が出てくる。その時、一つのことわざが披露される。「人を使うは使わるる」ということわざである。つまり、人を使おうとすれば、いろいろ気を使ったり、働かせるためにお膳だてをしたりして気苦労をする。人を使うものは結局人に使われているようなものだ、ということなのである。落語の中では、人使いの荒い男は少しでもそのことを知るべきだと引用されたのである。
 「使わるる」とまでは行かなくとも、使うものが使われる側にかなりの程度譲歩していかなければことが進まないということは大いにあり得ると思われる。
 道具にあたっても、道具がうまく機能するようにその使い手が使い方を最大限工夫すること、場合によっては使い手側が配慮したり、譲歩したりすることさえ必要になりそうだと思われる。昔の人が、「面倒みいみい使う」という言い方をするのはこんな事情を含んでいたのではなかろうか。

 もう一つは、文字通りコンピューター・システムに関することである。
 よく、導入されたコンピューター・システムが、役に立つとか役に立たないとかという議論がなされることがある。確かに、システム自体の作りの善し悪しが問われて良い場合もあるにはあるに違いない。しかし、不思議に思うことは、人であったり組織であったりするユーザーの側の使う状況や実態の吟味が不問に付されがちなことなのである。
 本来的に考えても、どんなシステムも、それを活用する人間側のあり方とコンピューター・システムとが一対の関係となってうまく運用されるはずのものであろう。それなのに、コンピューター・システムだけを評価の対象とするのは、あまりにも偏った考え方だと言わざるを得ない。コンピューター・システムを最大限に活かすような、それを扱う人間側のあり方を見直すというようなことが当然あっていいと思うわけである。
 コンピューター・システムが使いこなせないというありがちな現実の、隠れたひとつの原因は、こうした人間側のそもそもの思い違いにもありそうな気がする…… (2005.02.06)


 今日のような天気は、花曇りとでもいうのだろうか。空一面が、白濁色の雲で覆われ、そのため地表で見えるものすべてが、彩度が乏しく、なんだか存在感が希薄に感じられる。これで、気温が低く冷えるようであったなら、完全に気分が滅入ってしまうところである。冬型気圧配置がやや緩んできたらしく、気温はさほど低くない。西日本の方は雨模様だそうで、関東地方も午後には雨になるのかもしれない。

 愛知県安城市のショッピングセンターで乳児が酷い殺され方をした事件は、「またか!」という思いを人々に与えている。つまり、容疑者と被害者との間に何の因果関係もない殺人という点なのである。とにかく、「誰でも良かった」というような殺人が多すぎる。
 確か今回の事件も、「いちばん最初に目に入った人を殺す」というようなことを容疑者は言っていたとかいう。とても人間の世界の出来事とは思えない。野生の動物の世界でも、これほどの不条理はないものと思われる。
 今回の事件では、容疑者が仮釈放からわずか一週間である点、保護観察中であった点などが注目されているようである。また、容疑者が服役中に模範囚であったことに着目する者もいたりする。要するに服役者の出所後の社会的対応のあり方に関する疑問ということであろう。性的犯罪者の出所後の扱いについて議論もされているようだが、凶悪な犯罪が多発する現代にあっては、人々がそうした点に関心を寄せるのは当然だと思われる。

 犯罪が発生してからの社会的対応という問題も、現代のような犯罪多発社会では必須ではある。ただ、犯罪の発生そのものが抑制される社会が目指されるべきなのは言うまでもなかろう。別に、犯罪者を擁護するつもりは全然ないが、現代という時代は犯罪を誘発する要因に満ち満ちているごとくである。
 常々思うのであるが、人間が孤立するということは考えられている以上に恐ろしいことだと思う。「一匹狼」という言葉があるが、本来社会的動物である人間が孤立するということは、人間的側面が殺ぎ取られるということであり、その姿が一匹の狼に似ていようとも、そんなものではなくそれ以下の壊れ物なのである。狼は一匹でも本能を全うして生きることができるが、人間は孤立すれば「エラー!」になるだけではないのか。
 現代では、「自立」とか「個人責任」とかがやたらに叫ばれる。そして実体的にも、「個人間競争」が激しく展開されている。つまり、「個人であれ!」という風潮が一般的だと言える。これは間違ってはいない。ただし、個人と個人とのつながりが健全に維持されている社会であれば、という条件付きではあるが。
 私の直感では、現代における「個人化」は、「孤立化」以外の何物でもないように思われる。そして、「孤立化」した個人は、「エラー!」のような意識状況を強いられ、一歩誤れば谷底に落ちるような稜線を歩くよう強いられているかのようではないか。
 谷底というのは、何も犯罪ばかりではない。無気力やうつ状態、うつ病といた病的状態もあるだろうし、他人の言うことやマスメディアの報じることを、自分を捨てて盲信する行動も含めて考えていい。「ケータイ」を握り締め、まるで「他人とのつながりの命綱のコネクター」を握っているかのような人々の姿は、現代における個人の孤立という事実を前提にしなければ理解できようがない。

 冒頭の容疑者についても、マスメディアは、いつものように彼の過去をトレースして報道していた。それを見ていて思ったのは、彼の過去に際立ってアブノーマルな何かがあったわけではなく、ごく普通の青年の半生以外ではないという点であった。あえて言うならば、孤立した若者の寒々とした半生、とでもいうべきか。
 寒々としたという点で言えば、郷里から都会へ出た彼が、一人再び郷里に戻ってきた時の様子が印象に残った。郷里で借家に住む両親はすでに亡くなっており、彼は、廃屋同然となったその借家に、夜明かりをともし一人滞在したというのであった。なんと寂しく、寒々とした光景であろうか。そして、再び都会へ戻って行ったという。
 くれぐれも言っておけば、私は、酷たらしい殺人をしでかした容疑者をかばうつもりなどはない。これからの輝かしい人生の1ページ分だけを読んで聞かされ、後のページはすべて焼き捨てられてしまった乳幼児の無念さ、不運さを思うと胸が締め付けられる思いなのである。
 ただ、最後の酷たらしい殺人を除けば、この容疑者と共通点を持つ若者たちが何十万人と存在するような気がしてならないのである。孤立して、危ない足取りで歩んでいる現代の若い世代を視野に入れず、この容疑者だけを極悪人として取り除いたとして、果たして市民の安全が取り戻されるのだろうかという不安も残るし、そもそも問題らしい問題が解決するようには到底思えないのである。
 何をどうすればいいのか、という点が何も書けない歯切れの悪い文章になってしまった。願わくば、殺される理由のない人が殺されたり、理由もなく殺人へと暴走する者が登場する「地獄篇」の舞台は早く幕を閉じてほしいものだ…… (2005.02.07)


 現在の経済情勢の動向を見ていると、巨額のマネーが天空を飛び交うように動き、巨額マネーを動かし得るものたちのみが勝手放題に振舞っているように見える。
 われわれなんぞは、呆然としてフリーズ状態になってしまったり、思わず「ごまめの歯軋り」に及んだりというところであろうか。
 今日もそんなニュース報道があった。M&Aを得意技として規模拡大路線を突っ走ってきたインターネット関連会社の「ライブドア」が、ラジオ局のニッポン放送の株を35%取得して筆頭株主になったという。しかも、「ニッポン放送は『今朝のニュースで初めて知った。ライブドアからの説明もなく、どのような意図かつかみかねている』(総務部)」(asahi.com 2005.02.08)というから、買収は「頭越し」のアクションであったようだ。

 そうかと思えば、先日、「産業再生機構」が関与する運びとなっているダイエーが、全国で53の非採算店舗を、閉鎖・売却するためにそのリストを公表した。経営再建のためにはいたし方のない選択なのではあろうが、これもまたあまりにも消費者の意向を度外視した「頭越し」のアクションだと言える。
 例えば、北海道のある閉鎖予定店舗の場合、現在の顧客の中には、クルマが使えない地域高齢者が多く、もし店舗が閉鎖となればすぐにでも消費生活に困る人たちが多いという実情があるらしい。すでに、地元商店街も「シャッター通り」となっていたりして、日常的な買い物に深刻な支障が生じるというのだ。

 あるラジオ番組で、経済評論家の内橋 克人氏がこうした事実に批判を加えていたものである。その批判の矛先は国の政策にも及んでいた。
 経済の高度成長期には、多くの住民を目当てとした大店舗の地域進出を国は許してきた。その陰で、地元商店街がさびれる被害は黙殺されることになった。そして、今度は経済が低迷し、住民の人口も少なくなり、大店舗が成り立たなくなると、大店舗は「市場論理」に従って出て行こうとする。後には地元の商店さえなくなってしまった「ゴースト・タウン」的状態が残されてしまう。
 企業が市場主義で行動することは当然だとしても、地域住民の生活に責任を負わなければならない国や地方行政が、あまりにも市場の論理だけに引きずられていたのでは問題ではないか、というのが内橋氏の言い分なのである。同氏は、全国の地域の実情を見つめているため、こんなことがあちこちで発生しているのが実態だとも付け加えていた。
 そして、このように市場の論理の成り行きに任せているならば、結局、「地方には住むな!」と言っているのと同じ結果導かれていくに違いない、と警告していたのである。

 現在の一連の社会事象には、ますますある特有な構図が浮かび上がってきている。それを「市場の論理」優先とか、「市場主義」と言ってもよさそうだが、事態はもっと深刻だと思われる。というのは、「市場の論理」は今始まったものではなく、資本主義経済が展開されてからこの間ずっと息づいていたはずである。ただ、「市場の論理」は時として社会に混乱を招くおそれがあるとして公共的なコントロールがなされてきたのが従来であったといえる。
 ところが、グローバリズムという自由主義経済の一層の拡大と、ここへ来ての国家財政の逼迫状況などから、手間も費用もかかる「公共的なコントロール」を可能な限り抑制しようという動き(「小さな政府」!)が叫ばれるようになった。つまり、単なる「市場の論理」以上に、「市場論理至上主義」へと強化すべし、というのが現在の大きな特徴のはずなのである。小泉政権の「構造改革」というキャッチフレーズは、まさにこの動きに拍車をかけるものであったわけだ。
 また、現在、首相が執拗な執着心で叫んでいる「郵政民営化」問題にしても、基本的にはこの流れの話だと考えられる。

 民間のショッピング・センターが、採算割れするとなればその理由だけで、消費者たちの生活なぞお構いなしに閉店してしまう、というのが、「市場の論理」にだけ任せていたのでは問題も起こってしまうという現実のサンプルだと思われる。「郵政」が民営化された際にも、過疎地域の郵便配達などは採算に合わないとして、ビジネス的視野から外されないと一体誰が言えるのだろう?
 図らずも、ダイエーの非採算店舗の閉店に伴う問題は、「郵政民営化」に伴うはずであろう問題の予告編を見せてくれているし、政府が推進しようとしている「市場論理至上主義」の政策が、弱者とマイナーな立場の人々を確実に切り捨ててゆくに違いないという「お告げ」を表しているのではないか、と受け止めたのである…… (2005.02.08)


 久々に、TVの「鬼平犯科帳」を見た。番組が惜しまれて終了してから、もう四年が経つらしい。その間に世の中は随分と変わってしまったが、「鬼平」の魅力は寸分の変化もないかのようだった。いや、世の中がますます、「反・鬼平」的(?)方向に堕落した分、ドラマの隅々に滲み出る人間の誇りと美意識には、いちいち感じ入ることとなった。
 それぞれの登場人物は、一言で言ってのければ、「いま時、絶対にいない!」と言わざるを得ないのであるが、それだからこそ、束の間のフィクショナルな世界に恍惚として酔わされてしまうのである。
 いや、「鬼平犯科帳」の魅力をたらたらと述べればきりがない。もっと暇を持て余した折にでもゆっくりと書くべしである。一点だけに着目して後の話につなげるとしたら、やはり、「美意識」ということになろうか。
 とにかく、悪人にも危険な魅力を感じさせられてしまうほどに、悪人たちも「粋(いき)」という名の「美意識」を持ち合わせているのである。とてもじゃないが、現代の気持ち悪いだけの悪党たちとはわけが違う。上は、政治家、権力者たちから、下は悪ガキに至るまで、悪事を働く現代の半端者はまさに中途半端である。コソコソしている上に、恥も外聞もない偽りを平気で口にし、言い逃れようとばかりしている。ならば、そんな悪事はするな! と言いたくなる。要するに、止むに止まれぬ思いを秘めて、万事覚悟の上で悪事に踏み込むの図ではなく、見つからなければラッキー! といった軽薄で、上擦った所業でしかない。だから、ただただみっともないだけなのである。

 悪人の描写にも「美意識」の視点が貫かれているくらいであるから、「鬼平犯科帳」の登場人物のそれぞれは、いずれも「腹に一物背に荷物」といったものを「美意識」と絡めて抱えた者ばかりである。物語は、目に見えるストーリーと、目には見えないが静かに流れる「美意識」ストリームとの二階層で進行させられている、といっても過言ではない。どんな鈍感な視聴者にでもわかるビジュアル・ストーリーを、大通りを走るダンプカーのように単純に突っ走らせる「水戸黄門」やその他の時代劇ドラマとは、一線も二線も画しているのである。
 今回も、そうした場面が多々あった。
 時として、「面目ねえ」とか「すまねえ」とかといった、自身の不甲斐なさを恥じたり、自身を許せない思いで発せられる言葉が登場する際に、「美意識」ストリームは、ビジュアル・ストーリーの階層に突然吹き上げてくるわけだ。
 仰々しいといえばそうなのだが、それは、唐突に土下座の格好に改まることから始まる。
「すまねえ、このとおりだ……」
と言って、当人は、相手が自分を責めているかどうかに関係なく、自分で自分が許せないという一事にとことんこだわるのである。この、まるで自閉症のような思い込みを、わたしは「美意識」と呼びたいのである。他人がどうこうではない。まして、客観性がどうこうでもない。もちろん、法的、道徳的にどうこうなんぞであるわけがない。自分が、そうでありたいと願い続けた世界の基準がすべてなのである。そこから逸脱するものは、たとえ自身であっても許せない、自身であればこそ許し難いのだ。
 「そこまでこだわることはないじゃないの」という声が聞こえてきそうである。しかし、そうした声を発した途端に、「よく、ぬけぬけとあそこまでできるものだ」という極限に向かうべく急な坂を転がり落ちるのが世間の現実でもありそうではないか。きっと、「美意識」に依拠しようとする者たちは、その現実の危険への感度が極端に鋭いのかもしれない。が、いま時、そんな者は少ないと言うべきなのだろう。

 「反・鬼平」的(?)世界へと堕落した現代の特徴は、言うまでもなく「美意識」の雲散霧消であり、あるいは「美意識」どころか並みの認識力と感受性の鈍化だということになろうか。
 TV番組で、話し言葉にさえスーパーの文字を流す流儀の現代は、やがて、「水戸黄門」のような一目瞭然のストーリーのドラマにさえ、番組の冒頭でストーリーの解説を入れるといったバカさ加減にまで至るのではなかろうか…… (2005.02.09)


 ある会話の中で、まるで吐き出すように、つぶやいている自分がいた。
「人間をそう買いかぶっては、いけないんだ。まともな人間なんて、そうそういるもんじゃない。多くを期待するから、幻滅して、腹立たしい気分にばかりなるわけだ……」と。
 そんなことを口にしたそばから、実にいやな気分となった。何時からこんなに、人間不信になってしまったのか、という思いに直面したのである。実に不幸なことだと実感した。
 こんなことを思い出していたら、二つのことに思い至った。
 人間は、「苦し紛れにいろいろなことをしてしまう」という点が一つ、もうひとつは時代環境は確実に、善良で優れてもいたであろう人々を苦境に陥れているという点である。どちらも、まじまじと見つめたくはない事実ではある。しかし、現実は、いや現実の一面はこれらの点を度外視しては語れないほどに窮地に追い込まれているように思われてならない。

 当然といえば当然のことだが、人間はこれといって不自由なく余裕もあれば、ほぼ間違いなく妥当で、穏当な正解にたどり着く。だが、希望も余裕もない苦境にはまり込むと、自分でも予想しえなかった選択肢をつかむことが往々にしてあり得る。それが人間というものなのだろう。笑い話風にいえば、深夜の火事に枕を抱えて表に飛び出す、という例示ができる。だが、現実には、笑えない苦い経験を思い出す人も少なくないのかもしれない。今でもあと味悪く思い出すのは、ある知人に貸したお金を踏み倒されたことである。いざ借りたいとの申し入れの際には、便箋十数枚の泣き言を連ねながら、返済の段になると誠意を見せず、結局自己破産を選んだとんでもない男であった。
 私にもそんな記憶がいくつかあるのだが、どちらかといえばそれらは、やはり「特殊な人」との関係でのいわば特殊な出来事であったと締め括っている。
 しかし、最近感じることは、別に「特殊な人」とも思えない普通の人たちが「苦し紛れにいろいろなことをしている」ようだという点になる。なぜ、あのような人があのようなことを言うのか、あのようなことをするのか、と不思議に思うことが多くなったというわけだ。
 そんなことは、勝手に相手へのイメージを作り、そのイメージに合わないからといってわがままを言っているようにも思えないわけでもない。そうした一人相撲を仕出かしかねない自分の性格をまんざら気づかないわけでもないからである。だが、そればかりでもなさそうだ。厳しくなった世間の情勢のため、多くの人たちが余裕のある落ち着いた判断ができなくなっているような気がしてならないのである。

 どうも世の中が尋常ではなくなっている。しかも、そうした事実に注目するのでもなく、「何食わぬ顔をして平静さを装っている」分、深刻さを感じる。
 さまざまな凶悪な犯罪が多発していることだけを言っているのではない。確かにそうした犯罪は、いやでも目に見える氷山の一角である。しかしそうした事象の背後には日常的なレベルでの「故障、エラー」とでもいうべき出来事が累積されていると思われる。おそらく普通の人々は、そうした出来事にあまり着目しようとしないのが常であろう。一瞬、不愉快だとか不快だとか思い、そんなことは早く忘れてしまおうと流しているに違いない。あるいは、いつの時代でも年輩の人たちがそうするように、「今どきの世の中は……」と、あきらめ顔で大ざっぱな括り方をしているのかもしれない。
 それで済むことであれば、どんなにか気が楽であろう。しかし、どうも現状で展開している事態は、もっと根が深いように思われてならない。

 フランスの社会哲学者デュルケムの用語に 「アノミー」(人々の日々の行動を秩序づける共通の価値・道徳が失われての規範と混乱が支配的になった社会の状態)というものがある。社会体制やその環境の激変に伴って、文化や人間・社会関係が錯乱的な状況になることを指しているわけだ。現在のこの国の状況はまさしくこれに当てはまる。
 この国の歴史は、これまでにも何回かそんなことを経験してきたに違いない。終戦直後にも「アノミー」はあったはずだ。ただ、悲惨な戦争の終了と、非人間的な戦時体制からの開放が、「アノミー」を突破してゆくエネルギーを生み出していたのではなかろうか。
 それに較べると、現状は不利な状態が重なっていそうだ。
 まず、少なからぬ人々が、右肩上がりの経済成長という「宴(うたげ)」を経験してしまったし、若年世代たちも、それらの「酔い」を引きずる親世代から影響を受けてしまった。「豊かな社会」というもはや幻想になりつつあるイメージを多くの人々が引きずっているに違いないのである。
 そこへ持ってきての、「先行きの見えない!」経済情勢である。ここで、念のために言っておけば、景気回復なんぞという言葉はまやかしである。仮に、そうした一面が大企業などの経済のトップ・レベルの収益増というかたちで現れていようと、それが庶民の生活に良い影響を及ぼすというようなことはもはや決してない時代なのである。それが、「二極化」時代というものなのである。
 「ほろ酔い加減」の気分から、突然の過酷な事態への転落が、「アノミー」を一層深刻なものにしていると思われる。
 加えて、「これからどうなるの?」という将来社会のイメージなり、目標なりが、一貫してはぐらかされ続けていることが、国民にとって最大の不幸だと思う。「痛みを甘受すべし」とは、小泉首相がかつて吐いた言葉である。「痛みの甘受」とは、当然、「その先は明るい」との含みを残す表現である。しかし、小泉氏は、先のことは一切語らない、語れないていたらくであった。子ども騙しに騙された子どもたちは、最初の痛みを精一杯耐えたにもかかわらず、消えないどころかますますしびれるような痛みに苛まれているのが現状ではないだろうか。

 今ひとつ、この「アノミー」を根深いものにしているのが、マス・メディアの「裏切り」だと言いたい。NHKの不祥事が、ようやく明るみに出始めているが、本来、まともなジャーナリズムとは、一時の政権に媚びるのではなく、長い目で社会の遠い将来を見つめながら権力と闘う姿勢のものである。まして、この国の将来が危ぶまれるこの時期に、権力と「同衾(どうきん)」(ぬくぬくと一つの夜具に寝ること)してはばからないのがNHKである。視聴者からはしっかりと受信料を取っていながら、ジャーナリズムとしてのプライドを捨て去り、国民の目から真実を隠す愚を犯しているのがNHKであるとしか言いようがない。
 巨体であるために、未だに右肩上がりやバブル時に喰らった酒の酔いが抜けきれていないというのが実情なのだろうか。仮に、NHKが民間の一企業であるのなら好きなようにやりなさい。そして、顧客から愛想尽かしをされればいい。しかし、くれぐれも忘れてならないのは、高い「受信料」を徴収しているという点だ。今日もまた発覚した、内部の不正経理などは、まだまだ酔いでしびれた巨体に隠匿されているのだろうが、やはり一から出直すことなしには済まないようだ。一層のこと、受信料なしの「国営化」にするか(そんなものは誰も相手にしないだろうが)、郵政よりも先に完全「民営化」をするかである。じわじわと外堀から、内堀へと迫る「受信料拒否」の動向を、早くしらふになって感じ取らなければ手遅れになるだろう。
 余計な道にややそれてしまったが、こんな「アノミー」の時代こそ、ジャーナリズムやマス・メディアは、国民に真実を伝え、庶民を苦しめる権力による危ない選択を食い止めなければならないはずなのである。それなのに、権力のお先棒を担ぐようなことを「何食わぬ顔をして」やっていてどうなるというのか。
 マス・メディアは、取ってつけたような災害番組だけではなく、この国で今響き渡っている悲痛な叫びをしっかりと国民に伝える責務がある。「何食わぬ顔をして平静さを装っている」ような番組ばかりでお茶を濁すのはやめなさい。海老沢元会長の出身地が茨城県だからというので、会長就任直後の大河番組が、水戸の「徳川慶喜」に決められたという話を知った時には、「喝! いいかげんにせい!」と憤慨したものだった…… (2005.02.10)


 ある知人が、ビジネスの契約相手会社が倒産して、百数十万円の債権をふいにしてしまったと聞いた。当人は、随分とショックを受けていた。昨今は、ただでさえ受注量が少ない上に、倒産という事情では結局は回収し切れない結果となるわけなので、確かに大きな痛手であろうと推察している。
 決して、その知人がイージーな性格ではなく、むしろ用心深い性質(たち)であっただけに、どう受けとめていいかと戸惑うものを否定できなかった。結果的には、今ひとつの警戒が不足していたということになるわけだが、そうした警戒の水準は並大抵のことではないと思われる。
 仕事をしていれば、いかに社会変化が激しいとはいえ、慣行的にこなしていかなければならない諸条件というものもある。杓子定規な仕切り方を主張すれば、その唐突さを嫌われたり、スムーズであるべき仕事関係に大きな波風を立てることにもなりかねない。「郷に入っては郷に従え」との無視しがたい空気もある。その辺がいわく言い難く難しいところである。

 倒産という事態は、当事者の悪意によるものではないのだが、結果的には、周囲の関係者を騙したと同程度に被害を与えてしまうものだ。昨日も次のように書いたばかりであった。
「人間は、『苦し紛れにいろいろなことをしてしまう』という点が一つ、もうひとつは時代環境は確実に、善良で優れてもいたであろう人々を苦境に陥れているという点である。」と。
 確かに、猛烈な勢いでの倒産件数が世間を脅かした時期は過ぎてはいる。その当時の当事者、会社というのは、ある意味で安直な経営に終始していた傾向があったかもしれない。だが、持ち堪えてがんばり続けてきた会社でさえ、現在のこの時期は、「暗中模索」の苦境にあると言わざるを得ない。そして、不測の事態を招いてしまう結果ともなったりする。恐らくは、現時点でもそんな危機に瀕している企業が数知れず存在することだろうと思う。そして「連鎖」倒産なぞという悲劇も起こり得ないとは言い難い状況なのであろう。

 今、「暗中模索」と書いたが、まさしくその通りであり、わたしもそうした実感を抱いている。いや、今、そうした実感を微塵とも感じない経営者がいるとするならば、あまりにも「能天気」過ぎると思える。そうした人は、実のところ、経営という重責を担ってはいない者であるか、まもなく行き詰まる直前の人かのどちらかではないかと推察する。
 要は、それほどに、経営に関わる従来の知識・経験というものが「ぬか釘」のように利かなくなってしまっているのである。特に、右肩上がりの景気状況やバブル景気で仕事をしていたつもりになっていた者達にとっては、現状の環境はさながら「異国」か「別宇宙」ではなかろうか。何から咀嚼していいかわからないほどに、手掛かりが掴めない正体不明の対象であるに違いないのである。
 ビジネスは「ヒト・モノ・カネ」で織り成される世界だと言われてきた。だが、「ヒト」にしても、顧客像や顧客のニーズが掴み辛くなっている。また、同世代以外の若い社員・職員の考え方、感じ方、行動のあり方も掴みにくくなっている。また、冒頭の話ではないが、取引相手という対象の「ヒト」に関しても、従来通りの感覚では対応できなくなっているとみなければならない。しかもである、すべてが超スピードで対応しなければ間に合わないこの時期に、そんな掴みにくい存在がどかっと居座っているのだから、先ずは、「暗中模索」とならざるを得ないはずだ。
 「モノ」といえば先ずは製品ということになるが、顧客のニーズが掴み辛くて、どうしてスムーズな製品に着手できるだろうか。また、現在の「モノ」の特徴は、その種類の多様化であり、「情報」をも含むとするならば、それらを納得のゆくように掌握することはほとんど不可能に近い。また、今日ほどに、「スケール・メリット」の視点がクローズ・アップした時代はなかったのではなかろうか。それが、マス・メディアによるコマーシャリズムとインターネットが基盤となった経済社会の結果だろうと思う。
 最後の「カネ」という問題では、やはり「マネー・ゲーム」という現代特有な局面が持つ問題が大きいかもしれない。産業的、商業的レベルでの実直な「カネ」の動きが「惨め」に思えてしまうほどに、「投資」や「金融」のジャンルが大きな比重を占め始めているからである。(ヘッジファンド!)

 ざっと振り返っても、名前は同じでも中身がまるで異なってしまった対象を相手にしなければならなくなっているのである。
 しばしば、過去に成功体験を持った者ほど現在では失敗しがちだと言われる。バブル時に成功した経験を持つ者は、まったく異なってしまった現状でも、同じスタイル、方法によりすがろうとするからである。だから、勢い、年配者は第一線から退くべし、と叫ばれたりもするわけだ。確かに、時代の変化をトレースするシンドさを放棄した者は、過去の体験しか頼りにしないわけだから、古い皮袋に新しい酒を入れるというチグハグなことを仕出かすはずである。
 かと言って、それでは若い世代なら誰でもいいかと言えば、それは違うと思っている。わたしの見るところ、年配者が過去のある限られた事象しかしらないのと同じように、多くの若い世代は、現在の限られた、しかもフィクショナルに作られた事象を切れ切れにしか知らないというケースに陥っているかに見える。中身は違うかもしれないが、スタイルはまったく同一であるようだ。
 時代に密着した感性、センスは貴重ではあるが、ここでカン違いしてはならないのは、時代そのものがある目的をめざして直進しているわけでもなさそうだという点なのである。正直言って、時代の進路は不明なのである。である以上、感性、センスは流れに身を任せるという立場しかとれない、つまり付和雷同的にしか動けない。
 若い世代の感性、センスは、時代の進路を洞察する何かプラス・アルファの力を持たなければ、結局は、年配者と同列で時代の渦に飲み込まれていくだけのことだと思える。
 まあ、世代論はおくとして、老いも若きも進路不明の時代の渦に揉まれて、みんなが「暗中模索」であるとしか言いようがない。ただ、少なくとも言えることは、ひと頃のように、多くを生きた年配者がとにかく偉い、良い判断を下すはずだという暗黙の前提だけは木っ端微塵に打ち砕かれたということであろう。だから、そんな事実をどこ吹く風で番を張っている人々、「政界」や「永田町」の住人たちが「旧人類」そのものと見えるわけだ。

 どうも、目の前の新事象や周囲の途切れることのない変化に、エンドレスで「揺らぎ続ける」者だけが、時代の半歩先の眺望をえることができるのかもしれない…… (2005.02.11)


 今日は1日中身体を使った作業に根(こん)を詰めてしまい、これを書いている現在、身体中が「かったるい」。
 ところで、自宅の改修工事を控えているため、このところ休みの日には見積りその他で朝早くから業者と打ち合わせることが続いている。今日もそんなことで、朝寝はしていられなかった。
 その後、天気が良かったため気合を入れてウォーキングに出かけた。別に気合を入れるほどのことでもないのだが、なぜだか入っていた。
 休日の日は、「にわか」ウォーカーさんたちも遊歩道に出ていて、いつもの朝のウォーキングとは若干雰囲気が異なっていた。前を行く人がいるとやや気を遣ってしまう。先日のように、追いぬかれたことに気分を害してか「挙動不審」の行動に至る人もいるからである。

 額やこめかみに汗が滴るままに自宅に戻った。単に歩くだけではなく、両手の鉄アレーでのトレーニングを伴うウォーキングはかなりの運動量になるようで、冬の今頃でも、コースの半ばを過ぎると汗まみれとなる。それが爽快でもあるのだ。
 帰宅して門を入った時、ふと、改修工事のことを思い起こしてしまった。屋根の葺きかえや、外壁塗装のためには当然、作業用の足場を組む段取りとなるが、その際、壁際の植木などが邪魔になる可能性に思い至ったのである。特に、手入れなしに伸び放題に伸びてしまった葡萄の木を整理してやらなければならない。そんなことが突然気になって、玄関には入らずそのまま裏の庭の方に回る羽目となった。もし作業をやるとするなら、汗をかいたついでにそのまま着手してしまおうかと思いついたのだ。仮にウォーキングで疲れていたのならそんなことに思い至るはずもなかったが、どういうものか身体も気分も上々だったが故のことであろう。
 だが、枯れ枝が入り乱れた葡萄の木と、その葡萄の木にまつわり付き絡まっている無数の藤(ふじ)の蔓が、二階の屋根まで伸びている光景をまじまじと見上げた時、一気に「勇気」が萎えて行くのがわかった。別な日にしようか、という退却心が唐突に頭をもたげてきた。

 が、どうにかそれを堪え切った。どうせやらなきゃならない。ならば今日やるべしだ。そう言い聞かせ、かろうじて納得した。大型の植木挟みを物置から取り出していた。
 「複雑にこじれた物事」(葡萄の木の蔓と、藤の木の蔓とおまけに雑草の類の烏瓜[からすうり]のしぶとい蔓までが、あたかも、これが複雑さの手本です! と言わぬばかりにこんがらがっている光景!)は、絶対に一気に解決しようなぞと焦ってはならない。着手可能な局面から手をつけるべし、だと再び自分に言い聞かせた。
 梯子なんぞを持ち出して、高みの方からやろうなぞと考えてはいけないのだ。先ずは、余裕あり気にタバコをくわえながら、手の届く下の方からチョキチョキ始めるに限る。そうすれば、段々とカンも調子も上がってくるに違いない……。
 その通りに進めることとしたが、まさにその通りとなってゆくのがわかった。次第に本気になり始めたのである。もう、数年以上も手をかけなかった「蔓たち」は、これ幸いと、勝手気ままに伸びていたが、中には、壁を這う電線にコイルのように巻きつき屋根を目掛けて伸びているものもある。その蔓を小さい植木挟みで細心に裁断したりしたが、細心にならざるを得ないのも当然であり、間違って電線を裁断したなら感電死しかねないからである。
 そうして、集中度を高めて「蔓たち」を取り除いていったら、何だか、ただ単に「蔓たち」を「厄介者」として、「邪魔者」として敵意むき出しにしていた気分が、「こいつらは、どんな気分で上へ上へと伸びて行ったのだろうか……」というような同情じみた思いが生じてきたから不思議である。特に、日当たりの良いところの蔓に新芽が吹き出している部分を裁断する際には、罪意識めいた気分までが込み上げてきたりしたものだ。
 そこまで、集中し始めると、シメコノウサギであり、撤去作業には半端ではない熱意に似たものまでが随伴することとなったのである。脚立は言うにおよばず、屋根まで届くプロ用の長梯子をセッセと操作することにもなっていた。一生懸命に壁を這い、天へ天へと希望を持って伸びたに違いない「蔓たち」を撤去させるには、その希望に匹敵する使命感をもって臨むしかない、という本気ぶりになっていったのであろう。

 裁断した「蔓たち」の遺骸は、庭の隅にうずたかく積もった。今日では、こうしたものも通常ゴミと同様に半透明ポリ袋に入れて「燃えるゴミ」の日に出さねばならないのだが、なぜだか、土に返してやりたい衝動に駆られてしまった。と思うや、庭の隅に力仕事とならざるを得ない穴掘り作業を始めていた。土から伸びた「蔓たち」を土に返すことこそが当然だと思えたわけなのである。
 穴掘り作業を始めたら、一年前のことが蘇ってきた。飼い犬のレオが亡くなり、全力を傾けて、反対側の庭の隅に一メートルもの深さの穴を掘った時のことである。レオは、もちろん土から生まれたわけではなかったが、放し飼いにしていたこの庭で眠ることこそが最も妥当だと思い込んだからであった。
 わたしがこうして、久々の庭仕事をしていることを、買い物から帰った家内は好感をもって迎えたものだった。軍手をはめて、半透明ポリ袋を携えて庭に出てきたのだ。そして掘った穴に埋まり切らなかった枯れた蔓や葉をせっせと袋詰めし始めた。また、後で気づいたことだが、庭じゅうが、まるで舐めたごとくきれいに掃かれてあったのだ。多分、家内も、壁から屋根にかけて手がつけられないほどに繁茂していた光景を気にしていたのであろう。一体、誰がいつ片付けるのかと。それが、突然に綺麗に整理されたものだから、気をよくしていたのではないかと、勝手に想像したのだった。

 結構、今日の作業は全身の筋肉を使うものであっただけに、明日、あさってに出るであろう結果が心配でないわけではない。しかし、鉄アレーのオプションをつけているウォーキングは、中高年者にありがちなまるっきりの運動不足体質からはかろうじてのがれさせてくれているかのようである。以前ならば、あちこちの筋肉痛が出ても致し方ないところが「かったるい」という「軽症」感で済んでいるのがその証拠なのであろう…… (2005.02.12)


 M&A関連の株取引については、あまり知識を持っていないし、また持つ必要を感じていないので、先週話題となった「ライブドア」・「ニッポン放送」・「フジテレビ」の三つ巴の状況は概略しかわからない。
 なんでも、「ライブドア」は800億円の借り入れを起こし、「フジテレビ」への発言権(議決権)を持ちうるように親会社である「ニッポン放送」の株を所定比率買い占めたということのようだ。ところが、「フジテレビ」の方は、そうした「ライブドア」による経営への介入を快しとはせず、対抗策として「ニッポン放送」に対する株保有率を大きくしたとかである。それによって、「ライブドア」は、「ニッポン放送」を通じて、「フジテレビ」への実質的経営権を発揮しようとした当初の目論見が叶わなくなったとかなのである。

 ともかく、M&Aを経営戦略として重視してきた「ライブドア」は、外資さながらに、ビジネス・ライクに徹し切った手法で行動しているようだ。もちろん合法的な株取引によって戦略を推進させているため、誰も非難することはできない。もちろん、「非難」という言葉遣いをしてしまったように、わたしにも、またある人々にも強烈な違和感を与えなかったとは言えないであろう。もっとも、「ライブドア」側は、人々の違和感なぞは物ともしていないようではある。
 物ともしていないのは、部外者の人々の違和感だけではなく、「ニッポン放送」や「フジテレビ」という生きた組織と、その中で仕事をする人々の思惑に関しても、世間の人間が感じるような感性は持ち合わせていないようである。

 あるTV番組で、とある放送関係者がおもしろいことを言っていた。
 インターネットのポータル・サイトをやっている「ライブドア」にしてみれば、情報の流通に携わる立場として、「情報のコンテンツ」づくりをしているラジオ・テレビ放送局は欲しいと思うのだろうけど、コンテンツというのは言い換えれば人間が作っているのであり、要するにコンテンツ=人間なんだよね、と。その人間たちが、思い入れをしていいものを、いいコンテンツを生み出さなかったら意味ないんだよ。企業を買い取っても、その点を掌握しなければ意味がない……、と。
 わたしも、その通りだという思いが走ったものであった。
 銀行にしてからが、かつて、合併をした銀行には根深く旧銀行の仕切り、派閥が残り続けて、いまだに理想的な合併銀行というものがない、とも言われている。法規に沿った事務作業が中心の銀行でさえそんな実情だというのに、コンテンツづくりの企業組織を手中におさめ、「働いている人たちは、企業自体の所有が誰かなんて関係ないこと」と決めつけているM&A戦略陣営の読みは、本当に実際的であると言えるのだろうか。
 どこか、図式的に過ぎる思考と感性が前面に立っているように思う。さらに言えば企業組織というものを扱うのに粗雑過ぎると思わざるを得ない。

 確かに、企業組織のオーナーが誰であるかということは、現場の職員にはさほど関係のないことかもしれない。いや、そうした人も少なくはないだろう。
 しかし、必ずしもそうだと言い切ってしまうわけにはいかないはずである。オーナーとは、ただ一定比率以上の株を所有している所有者だと言い張るのは、まさに図式的言い草であろう。オーナーはやはり、独自な経営判断を持ち、その実践を企業組織に浸透させずにはおかない存在なのである。
 「ライブドア」とて、プロ野球チームを手に入れようとした際に、現行のチーム・オーナーたちの存在感や、判断にほうほうのていとなったのではなかったか。また、今回の株の買い付けに際しても、オーナーとしての意向を実践せんがために動いたのではなかったか。
 そのように、企業組織のオーナーというものは、言うまでもなく、企業経営の方向性の体現者でもあり、そうした点から、現場の人々にとっても並々ならぬ関心の焦点でもあるはずだと思える。それを、現場の人々にはさほど大きな問題ではないかのように扱うのは、どうも経営というものを図式的に考え過ぎるのではなかろうかと思うわけである。

 M&A戦略があっていけないものだと言っているのではない。行き詰まった経営とそこで働く人々を合理的に活かすためのひとつの有力な方法であろうと考えている。ただ、それを推し進める際には、単にこの国のウエットな風土がどうこうと言うレベルではなく、必然的に生じる無用な軋轢というものに対する細心の配慮と手立てが必要なのではなかろうかと考えているのである。
 有機体の身体には、異質なものを排斥しようとする拒絶反応というものがある。決してそれは、閉鎖的な偏見に満ちたものだとは言い難い、生きた有機体の自律性と尊厳に値するものでもある。組織にもまた、同様に考えていい部分があるのではなかろうか。
 若干、強烈な書き方をするならば、国際関係において軍事的に過剰なハイテク重装備で露払いがなされて行く時、一見新しい秩序が生み出されたかのように見えても、その実、泥沼のような混乱、ほとんど内戦状態のような事態が作り出されてしまう。イラクのことを言っているのである。
 国際関係の軍事情勢と、国内の経済情勢とは比較にはならないが、投資会社からの巨額なマネーを動かして、経営環境を方向付けるというラフな戦略戦術は、どこか米国の国際戦略と似たものを嗅ぎ取ってしまうのである。その共通項としては、グローバリズムという現在試されつつあるが、歴史の後世にあってはじっくりと再検討もされる可能性がある考え方を挙げることができそうだ。

 それにしても、グローバリゼーションの浸透は、あっという間に、さまざまな事象を巻き込んでいるようだ。はげ鷹やハイエナが徘徊ではなく、超スピードで駆け巡っている、そんな美しい環境が広がり始めたというわけか…… (2005.02.13)


 歳をとると体力気力の低下を理由にして、何かと他人にものを頼みがちとなる。受ける側も、頼む側の立場や年齢に配慮して断ることをしなかったりする。そうすると、いつの間にか他人に依存する体質と、怠惰にラクをする傾向のみが増幅されてゆく。これこそは老化を速める自殺行為をしていることになりそうだ。
 別に、老化、老化という歳ではないのだが、かといって老化の問題を全く視野の外に置いていていい歳だとも考えられない。チラリチラリとそうした問題の存在を意識して日常生活に対処することが自然なのだろう。

 最近は身体の調子が決して悪くないので、いろいろと前向きに構えるようになっている。
 そうなると、万事行動的な自分が舞い戻ってくる。自分でやるべきことややれることは、できる限り自分でこなすべきだという思いがこみ上げてくる。
 体調が悪かったり、一時は気をもんだ頻繁にやってくる頭痛にさいなまれた時には、うっとうしい気分が先立って他人任せをよしとする傾向に流れていたかもしれない。人間は、体調が悪く気分が萎えている時には、どうしても非行動的となりがちなものである。自身でやれること、やればいいことまで他人に任せようという横着な構えが働いてしまうのだ。
 他人に任せる大義名分としては、自分はもっと難しいことをやるのだからというような言い訳もあったりする。誰にでもできるようなことをやって時間をつぶしていてはいけない、それらは他人に任せて自分はより困難なことをバリバリとやるのだから、と……。
 ところが、体調・気分がすぐれない時には、誰にでもできるようなことも、またより困難なこともともにうまくできないのが実情なのである。より困難な課題を目の前にして、一向に考えがまとまらない時間をずるずると過ごしてしまうわけだ。
 ふと、こんなことを考えた。
 スポーツのベテラン選手は、いきなり難易度の高いアクションに挑むのだろうか、いやそんなことはない。おそらく、ベテラン選手であればあるほど、しっかりとした準備体操で身体をウォームアップして、身体の調子が最高潮になってから難易度の高いアクションに迫るものであろう。その準備体操を、誰もができる簡単なものだからといって排斥してしまうだろうか、という点なのである。
 また、別な例をあげることもできる。書道の大家というものは、弟子あたりに墨をすらせて、自身は墨をすることなんぞ一切やらないのであろうか。おまけに、現在では優れた墨汁があっったりする。誰にでもできるようなことは他人に任せるという発想に立つならば、おのずからそういうことになるだろう。
 しかし事実はそうではなさそうだ。優れた書道の大家ほど、墨をするという平易な段どりを事のほか重視しているものらしい。簡単に言えば準備体操であり、心の準備ということになりそうだ。そうした事情はよく理解できるような気がする。

 人間の身体や心の調子というものは、一つの流れであるかのようだ。まとまった行動というものは、緩やかに始まり、集中力が高まりピークを迎え、やがてクールダウンして緩やかに終わる。このうちの、集中力が高まるピークだけを効率よく取り出すということは、期待したいことではあるが実際にはほとんど不可能なのかもしれない。
 集中度の高い良い仕事をするためには、それを生み出す上手な準備運動が必須なのだと思われる。さらに言えば、準備運動に匹敵するようななんでもないアクションを決して軽視してはいけないということでもある。
 さて、何がいいたいのかといえば、よい仕事を効果的に進めるためにも、また老化防止のためにも、なんでもない日常的な事柄に対して行動的になるべきではないか、ということなのである。
 考えてみれば、現代という時代はこうした部分を、ムダという名でことごとく割愛しようとする傾向が強いようだ。これらをどれだけ排除することができたかが、「効率化」のす指標だと言ってもいいくらいである。また、こうした傾向を促進するための便利な道具が市場にあふれているし、職業の専門分化はムダと思われる作業を肩代わりする人々を用意してもいる。その全てを否定するつもりはないが、それらを、あえて使わないという見識をも含めてうまくコントロールしなければ、仕事の効率とてあがらないだろうし、年配者の立場に即していえば、ただただ老化を速めるということに尽きてしまいそうでもある。

 日常生活の衣食住にかかわる平易な行動を粗末にしないというのが、あの「禅」の重要な教えだという。上記の点を考え合わせると、これはきわめて合理的かつ科学的な洞察でもありそうな気がしている…… (2005.02.14)


 昨日書いた「日常的な事柄に対して行動的になるべきか!」というのが、文字通り、そうしなければならないような忙しさとなってしまった。
 さほど大きな仕事でもないが、新しい仕事の打ち合わせが始まったり、社内の人員の変化が生じたり、また、巡り合わせで、複数業者が関係する自宅の改修工事が始まろうともしているし、決算の時期は近づくしと、いろいろな事柄が一気に吹き上げてきてしまったのである。
 半ばのん気なスタンスで「日常的な事柄に対して行動的になるべき」と書いたそばから、そうせざるを得ない実情を実感してしまったということになる。
 今、これを書いているのも、いろいろなやるべきことをとりあえず済ませた午後十時半から書き始めるというしわ寄せを喰らっている始末だ。
 まあ、昨日、そんなことを書いていただけあって、大変だと怖気づく以上に、ありがたいことだと考え、受けとめているようだと言えようか。

 昨日書いたことのもうひとつの真意には、生活における「行動的」姿勢の問題だけではなく、仕事に関しても、あるいは何か新しいものを生み出していく事柄に関しても、「動いてみる」という「行動面」での積み上げの課題が重要だという点があった。
 もちろん、現代のような情報化の時代にあっては、「考える」という「知的武装」が大前提であることは当然である。それが欠落していて、ただただ「犬も歩けば棒に当たる」のラッキーを望んだり、「案ずるよりも産むが易い」と言ってのけるのは楽天的に過ぎるであろう。
 しかし、情報化の時代にあっては、逆に「考える」といいながらエンドレスの情報収集に明け暮れて、情報の渦と、判断留保そして非行動というマイナス方向の螺旋階段を駆け下ってしまうワナも、また危険視しなければならないように思われる。
 しかも、とかく氾濫している情報というものは、ヒマで困っている人のヒマつぶしに役立つかたちのものが少なくないのではなかろうか。
 あーでもない、こーでもない、そーでもない、でも、だからといって手の打ちようもないとか、という「落としどころ」に誘ってしまう場合や、事の大変さをいやというほどまくし立てておき、その原因は、平凡なわれわれには関係のない特殊な人物の悪質さに由来するものだとして、われわれを平凡で、善良な観客だと思い込ませ、だから大人しくしていましょう、という落としどころに誘うとかである。
 要するに、「書を捨てて街に出よう」(寺山修二)ではなく、「行動せずに情報だけに接していよう」というのが、現代という情報化時代のホンネであるようにも見える。
 やたらに「評論家」が増えた時代だとも言われるが、そうした「評論家」たちの愚にもつかない情報を聞いて、「評論家」の二乗、三乗を行くような「非行動」性で身を処しているのが現代人であるのかもしれない。

 また、混迷した状況では、あらゆる「正解」らしきものが足を引っ張られて、「しかし、聞くところによれば……らしいぜ」ということになり、結局判断と行動とを阻止しがちになるのかもしれない。まして、もとより地に足のついた経験であるとか、自分の独自な考え方なぞがあるわけではないとなれば、情報は、行動を促すどころか、「非行動」的であることの言い訳をそれとなく提供することになるのではなかろうか。
 そして、一度そうした状況にはまり込むと、ますます自身の「非行動」的である点を弁護してくれる情報探しに躍起となり始めるのであろう。「行動」に関する「マイナス・スパイラル」傾向だと言えるのかもしれない。
 わたし自身、どうもそんな渦に巻き込まれていなかったとは言えないと感じていた。昨日書いたことの、より深層での実感は実はそんなところにあったのかもしれないと思っているわけなのである。
 場合によっては、今はやりの「引きこもり」にしても、あるいは「ニート」にしても、ひょっとしたらこんな文脈に関係しているのかもしれない気がしないでもない。

 自分を失って、忙しさに引き回されるというケースはやはり良くないとは思う。だが、忙しさに挑戦しようとする姿勢が一方で確保されているのであれば、忙しく、行動的であることは、悪くはない状態にあるということになるのであろう。
 いつぞや、トコヤのオヤジが言っていたものだ。
「へぇー、そんなに忙しいんですか? いいことじゃないですか。うらやましい限りですな」と…… (2005.02.15)


 仕事、ビジネスには必ず「プレ」活動ともいうべき、事前の擦り合わせの段階があるものだ。これを過不足なく確実にこなしていれば、後日、こじれてしまうことも少なくなるというものだ。
 たまたま今、私的な事柄でも、仕事面でも「見積り」であるとか「契約」であるとかの段階に直面している。もはや、ルーチン・ワークのようになってしまったかのような、継続してきた関係、慣れた関係にあっては、ことさら注目してみることもない事などをいろいろと気にとめたりしている。
 言うまでもないことであるが、とにかく人というものは、それぞれ異なったものの見方をするものである。日頃、お付き合いをしている馴染みの人でも、時として「えっ」と思わされるような予想外の言動に出るものだ。まして、初対面の人や、馴染みの薄い人と接触する際には、ひとまず、何が飛び出すかわからないと思っていていいような気がしている。
 そして、事が、双方の利害に関係している「契約」的なことであるならば、ますます注意を傾けていい。と言うよりも、そうしなければトラブルの伏兵を野放しにしているようなことになろうというものだ。

 そんなことを考えていたら、「エモーショナル(情緒的)」であることと、「ロジカル(論理的)」であることという二つの軸の問題に目を向けることとなった。
 特に難しいことてではなく、われわれ古い日本人は、感じ方、考え方の同質性に寄りすがる形で、人間関係というものを実に「エモーショナル」に処理してきたように感じるのである。「ロジカル」に何かを詰めて話し合ったり、取り決めたりすることを好まず、何となくという情緒的なものによって結局は事柄を曖昧に放置することが多いように思えるのだ。いわゆる「波風を立てる」ことを避けたり、その場の「空気」を乱さないというような言動をすることとも関係しているはずである。

 こんなことは、今までにもさんざん言われてきたことであるが、ふと次のようなことを考えるに至ったのである。
 ほかにもいろいろな理由を無しとはしないとは思うのだが、「エモーショナル」な行動で終始する人というのは、やはり、どこかに、何かに対する依存癖があるように思ったのである。結論から言えば、「きっと誰かが決着をつけてくれる」とでもいうような期待感がどこかにあるのだろうと思うのである。
 それは、自分以外の誰かなのであり、往々にしてあるのが、「お上」であったりしてきたのではなかろうか。場合によっては、「警察」と言ってもいいし、あるいは漠然とした「世間」と言ってもいいのかもしれない。もっと拡大解釈すれば、「バチを与える」ような神様、仏様だと言ってもいい。要するに、自分たち当事者があくせくせずとも、きっちりと決着をつけてくれる、そんな存在をいつでも期待していたのかもしれない。そして、自身は、問題解決に必須となるはずの「ロジカル」な考え方や、行動をしないで済ませてきたのではなかろうかと……。

 最近、ふと、もう何十年も前の学生時代に関心の焦点のひとつであった言葉、「市民社会」という言葉を唐突に思い起こした。その、きっかけというのが、上記のような思いだったのである。当事者である自分以外の誰かが事を裁いてくれるに違いないという「依存癖」と、西欧で培われていた「市民社会」の「市民」とは、まったく異質で正反対の関係なのではないかと思ったのである。
 「市民社会」の「市民」とは、当事者たる自分たち以外に、物事を進めたり、トラブルを解決するものはいないのだ、という追い詰められた自覚を抱いたもの達だと言えそうな、そんな気がしたのである。何もかもお見通しで物事を裁くような、そんな都合のよい存在はいないのかもしれないという醒めた自覚があったのではないかと思ったわけだ。
 そこから、何かにつけて当事者たちが前面に立って事の解決を図ろうとする姿勢が生まれ、そのための方法として「契約」という実に人間的な合意の仕方を発見して行ったように推測するのである。

 それに対して、われわれ日本人はとても長い間、当事者意識が頓挫したまま、誰かがきっとよきに計らってくれるというような感覚、意識を持ち続けて今日に至っているのかもしれない。まだ、「お上」なり、「警察」なり、「世間」なりが、そうした庶民の暗黙の期待感に沿って機能してくれた頃はまだ良かったかもしれないが、どう見ても、列記したそうした「裁き手」は、今やますます頼りなくなっているのが実情ではなかろうか。
 昨今のさまざまな社会的悲劇というものは、本来、しても無理である期待感が裏切られた形で生じているような気もするのである。
 今、「小さな政府」への流れが加速化したり、市場経済万能的風潮が強まったりして、そこで生じる問題解決に政府が着手しなければならない点も多々あることは事実だと思う。しかし、もう一方で、国民が、国民としての当事者意識を当たり前のように持って、妙なものに幻想的な期待感を抱くべきではないとも考えている。政府がダメならば、そんなものは相手にしない、というくらいの市民感情を持つべきなのかもしれない…… (2005.02.16)


 このところ必要に迫られて「行動的」となっている。そして感じることは、「案ずるよりも産むが易い」ということであるかもしれない。
 確か一昨日に、「ただただ『犬も歩けば棒に当たる』のラッキーを望んだり、『案ずるよりも産むが易い』と言ってのけるのは楽天的に過ぎる」と書いた。確かに、考えることがなく「歩く」だけであったり、「産む(行動する)」だけでは、楽天的だとのそしりを免れないだろう。
 だが、「案ずる(考える)」ことだけに終始するというのは、どうもまずいようだとつくづく思うようになっている。きっとバランスの問題なのであろう。「案ずる(考える)」ということも、度が過ぎるとよくない。「下手な考え休みに似たり」ということわざもある。よく、へぼ将棋仲間同士が、だらだらと考えている相手に向かって揶揄する言葉である。だが意外と当たっているかもしれない。
 考えるという行為が本当に意義を持つのは、具体的な結果や判断が導かれ行動を準備することであるに違いない。ところが、「下手な考え」というのは、具体的な判断材料もなく、ただ単に堂々めぐりをしているにすぎないことが多い。
 しかも、その際気をつけるべきは、そうした状況の際には、つかみどころのない感情、情緒によって思い患っていることが多いようだ、という実情である。たとえば、漠然とした「不安」という心境に支配されながら、考えているつもりになっていることが、どんなに多いかということなのである。

 あの解剖学者の養老孟司氏が、奇抜なことを言っていたのを思い出す。どんな言いまわしであったかは忘れたが、脳というのは末端神経が発達したものであるが、「その機能は元来、考えるために考えるというようなループをしてしまう危険」を伴っている、とかだったかと思う。
 そういえば我々の周辺には、「へ理屈ばかりを言う」そんな人も少なくない。また「評論家」という人種も例として挙げることができるだろう。体育会系人種のように考えることを忘れてしまったかのような人々も困ったものであるが、「考えるために考える」あるいは「悩むことを悩む」人種も願い下げのはずであろう。
 ここニ、三日気にかけている問題というのは、時代や環境が混迷して苦しいものとなると、人は、とかく非生産的に悶々としがちであること、そしてますます非行動的となりがちであること、そしてそれらは決して良い結果に結びつかないこと、まさに「下手な考え休みに似たり」という悲惨さに陥ってしまう、ということなのであった。これは単に周辺を観察しての観察結果であるばかりか、自身の体験的な自覚でもあった。

 昨日は、「『エモーショナル(情緒的)』であることと、『ロジカル(論理的)』であることという二つの軸の問題」などと構えて書いてしまった。要するに、現在のような環境のなかでは、一人考えると称して「エモーショナル(情緒的)」なものにどっぷりとはまり込んでしまうことが多いにありそうだと思ったのである。ところが、とかく現在の多くの人が持っている「エモーショナル(情緒的)」なものとは、こんなご時世では、ネガティーブなものであることが多いと直感した。つまり、「不安」、「恐怖」、「失望感」、「妬み」、「猜疑心」……。心の中のどこを探しても、「希望」とか、「情熱心」とか、「信頼感」とかという前向きなものは見いだしがたくなっているのかもしれない。
 そんなふうに、「エモーショナル(情緒的)」なものが歪んでいる心的状態で、ものを考えれば、まして孤立して考えれば、ろくな考えが浮かばないのが当然なのではなかろうか。まさに、「アリ地獄」にはまり込んだように、マイナス・スパイラルを下って行くのがオチなのかもしれない。
 人間生活においては、「孤立」=「エラー」なのだと確信しているが、そうした「エラー」状況がもたらす副次的症状というのが、以上のようなことになるのではないかと思っている。

 では、そうした「エラー」をどう修復するのかということになるが、これはこれで結構重い問題でもある。おそらく、奇想天外な犯罪に走ってしまう青少年の問題だけではなく、私のようないい歳をした中高年男性しかり、主婦もしかり、他人を押しのけることだけを強いられた働き盛りのサラリーマンしかり、塾通いが当然とばかりに押し付けられている子供達しかり、要するに、99%の人々が抱えた重苦しい問題でありそうな気がするわけなのである。
 そんな状況ではないかと状況認識しているわけだから、もちろん、さしあたっての処方しか思い当たらない。この際、「案ずるよりも産むが易い」と思い込み行動的に動いてみるのが良いのかもしれない、ということだ。とりわけ、人との関係においてそうすることが急務だという気がしてならない。
 もうだいぶ昔の映画で『普通の人々』というシリアスな映画があった。詳しいことはともかく、その中で精神科医が、対人関係を恐れ、自閉症になった患者に立ち向かう場面が印象的であった。確か、「人間は、喜びを感じる分だけ苦痛も感じる存在なのだ。喜びを得ようとすれば、苦痛をも引き受けなければいけない」というような道理を示していた。我々は、もっと打たれ強くなることが緊急に必要なのかもしれない…… (2005.02.17)


 つい先ほど雪の降る夜道を歩いて帰宅した。終電で帰宅するのは何年ぶりだろうか。すでに、2月18日の25時になろうとしている。
 「通夜」は、冷え冷えとする夕刻6時から始まった。京急北品川駅を降りると葬儀の式場を案内する立て看板が眼についた。それは国道沿いのルートを指し示していたが、わたしはあえて旧街道を歩こうとした。旧街道に出ると、さらにその下の通りを歩きたい衝動に駆られた。その道が、かつての、小学生の頃の通学路であったからだ。
 式場の場所はわかっていたし、時間にゆとりもあったため、日暮れて冷たい風が行き交うその通りをコートの襟を立てて歩いてみた。この北品川を訪れれば、どうしたって小学校当時のことを思い返さずに歩くことはない。
 八ツ山の祖父が存命であった頃は、正月には、川崎大師のみやげ物である久寿餅を携えて年始の挨拶に来たものだった。その時にも、小学校当時の思い出のシミが残り続ける光景に酔いながら歩いたものだった。時として、懐かしさと切なさに引き摺られて、涙が流れるままに夜道を歩いた覚えもあった。

 しかし、今日の薄暮は、その寒々しさもあってか、懐かしさの感情というよりも、寂しさばかりが刺激されたものだった。もちろん、「通夜」に向かうのに気分が浮かれるはずもないだろう。しかも、その「通夜」が、小学校時代の同級の女性の突然の死のためのものである事実は、なぜか、小学校当時の思い出そのものにかすかなピリオドが打たれ始めたような気分を誘っていたのである。こうして、思い出の当事者たちが一人、また一人と姿を消し、そしてやがて自分自身も……、というそんな切なさであったのかもしれない。 勤務帰りの若い人たちの家路を急ぐ姿が目に入ったが、その姿には、浦島太郎が変わってしまった光景に違和感を禁じえなかったようにと言えば誇張となるかもしれないが、それにも似た距離感を感じないではいられなかった。そんな、寂しさを促すに足る、寒い夕刻であった。

 だが、小学校の正門が見えるほどの距離にある式場に近づいた時、寒々とした心境が、次第に融け始めるような気がした。突然目に入った暖かい感触の明かりと、決して少なくない参列者たちの姿が、周囲の寒々とした風景からは隔絶されているように感じ取れたからなのである。一人の友人の死を痛み集った多くの者たちの姿が明かりの中に浮かんでいる光景は、冷え冷えとした空気に引きずられて寒々しい気分となっていたわたしを確実に勇気づけるものであった。ここには、人の冷酷な死と果敢に対峙する人間たちの暖かい息づかいがある、と思えたのだった。(明日に引き続く) (2005.02.18)


 わたしが「通夜」の主人公としての、小学校のクラスメートであるM・Mさんの死を知らされたのは、昨夜のことであった。仕事で事務所に詰めていた時、家内からの電話が入ったのだ。最初の電話は、小学校時代のM先生がM・Mさんの自宅の連絡先を知りたいということであり、同窓会関係か何かで先生が、M・Mさんと連絡したいのではないかと推測した。一時やりかけの仕事をストップさせ、電話番号を調べた上で家内に伝えた。
 その後再び家内からの電話が入り、実はM先生は、「通夜」や「告別式」への参列に関してM・Mさんのご遺族に確認したいことがあったということが分かった。つまり、クラスメートであるM・Mさんが、誰もが予期しない形で亡くなったということだったのだ。家内からそれを知らされたわたしは、もはや仕事を続ける気にはならず、M先生にさっそく電話連絡を取っていた。
 さすがにM先生は驚きと落胆を隠すことで精一杯のようであった。よく、「M・Mさんが、M・Mさんが……」と口にされるM先生であっただけに、驚きがひとしおであったのだろう。突然死の原因としてしばしば聞く「くも膜下出血」ということであったらしい。
 M先生は、ここニ、三年腰痛を患い、歩くことにも難儀されていた。しかし、その腰痛にもかかわらず、タクシーで教え子の「通夜」に駆けつけるつもりですと話されていたのである。
 私自身も、クラスメートの葬儀の日程を事前に知ることができた以上、スケジュールを調節して参列したいと思った。そして「通夜」の方に参列すべきだと考えた。腰痛を抱えた高齢のM先生を気遣うことが、亡きM・Mさんの遺志でもあるだろうと思えたからだった。

 冷え冷えした夕刻の北品川界隈の中で、葬儀式場あたりだけはまるで鎮守の森の祭りのような雰囲気で参列者たちの心を温めていたのが不思議でもあった。そのことがすでに、故人の人柄をしのばせるものであったのだろう。
 M・Mさんは、小学校のわれわれのクラスおよび同期の同窓会幹事として精力的に活動してくれた人であった。段取り上手で、気遣いにたけた性格が、優しいようで難しい同窓会幹事の役割を見事に果たしていた。幹事仲間にあっても評判は上々で、深い信頼感を得ていた。
 ところで、われわれは、台場小学校の第一期卒業生であり、世代も「団塊世代」そのものである。また、この小学校を支えた北品川商店街が隆盛をきわめた時代の子供達でもある。そんなことが背景にあってか、小学校への思い入れはひとしおのものがあるのかもしれない。また、仲間意識や人とのつながりを大事にする習性が色濃いと言えるかもしれない。
 そんな中で、第一期卒業生たちの同窓会幹事は、他の年度の幹事たちとは異なった「熱さ」とでもいうべきものを持っていそうだ。確実に、後輩の世代との間に「温度差」とでもいうようなものを形成していそうである。私自身は、早い時期に北品川から離れてしまったこともあり、こうした熱意の渦に距離を置くことになってはしまったが、地元に在住する一期生たちの熱っぽい姿勢については随時聞くところであった。
 M・Mさんは、そんなメンバーの有力要員として動いてきたのであった。仲間うちでの懇親会では、日本酒をぐいぐいと飲み、乱れることもなく話の筋を通す冷静派であったとの評判である。

 そのような彼女であったがゆえに、昨日、今日の葬儀が、小学校が間近である町内会館で催されることになった推移なのだと言える。
 彼女はすでに、大田区に転居しており、葬儀がなぜこの町内会館で行われるのかをいぶかしげに思う人も少なくなかったに違いなかろう。現に、このわたしもそう思った。が、いろいろな事情が分かるに従って、ただただなるほどと思わされてしまうばかりなのである。
 現在、小学校は、大きな改築工事を控え、合わせて同窓会活動も活気を帯びている。
彼女も、緊急入院するほんのニ、三日前まで、会員たちへの封筒詰め作業に精を出していたとのことだ。
 そんな推移もあって、同窓会幹事仲間の面々たちが彼女の死を悼み、また彼女が納得するようなこの場所、小学校間近の町内会館での葬儀という運びに至ったもの、と私は了解したのである。
 この町内会館は、「利田(かがた)神社」の真裏に設けられ、長く町内の人たちに活用されできたニ階建ての木造建物だ。そして、この「利田神社」は、「弁天社」として地域の人たちから慕われてきた社(やしろ)なのである。古くは、江戸前の海を背景とした漁民たちの営みを見守った弁天であり、近くは、ノリ養殖に携わる地域の人たちとともにあった弁天様なのである。また、この、「弁天社」は安藤広重作 『名所江戸百計/品川すさき』として描かれ、知る人ぞ知る歴史的なポイントでもあるのだ。ついでにいえば、もう一つ歴史的な由緒としての「鯨塚」(江戸時代に、江戸前の海にまぎれ込んだ鯨を捕獲して話題となったが、その鯨を供養するために作られた)がある。
 いずれにしても、この「利田神社」は、江戸の頃から今日に至るまでのこの地域を見守り続けてきた隠れた歴史的ポイントなのだ。私も、このことに強い興味を持ち、当ホームページ上に公開した歴史小説「心こそ心まどわす心なれ、心に心心ゆるすな」に、自分の思いを込めてこの社を登場させてもらった。
 こんな「利田神社」に寄り添って立てられ、利用されてきた町内会館にて、M・Mさんの葬儀が行われることになったのが、わたしには、実にM・Mさん似つかわしいことのように思えてならなかったわけなのである。

 参列者たちは、明るく微笑むM・Mさんの写真を見ながら献花をした後、建物の二階に用意された供養の会食場へと向かうこととなった。そこでは、同窓会幹事の仲間たちが甲斐甲斐しく動き回っていた。
 わたしは、M先生に付き添うようなかたちで席に座り、懐かしい面々とあっという間の時間を過ごすこととなった。その間に、M・Mさんの息子さん、娘さん、そしてご主人というご遺族ともお目にかかりお話をさせてもらうことができた。とりわけ、われわれと同い歳のご主人の悲痛な表情に心が戸惑う思いであった。恐らく、誰よりも大きな悲しみを背負うことになったのがそのご主人であろうと考えずにはいられなかったからである。

 会館での後片付けが済んだあと、誰言うともなく、同期の者だけで一献(いっこん)傾けようということになった。懐かしい北品川商店街を歩き、新馬場駅近くの飲み屋にやがてたどり着く。わたしとしても、クラスメートの葬儀を、たとえ同期だとはいうものの、他のクラスの人たちが真心を込めて運んでくれていることに、言い知れないあり難さを感じていたのだ。とても「それでは」と言って立ち去り難い気分となっていたわけだ。
 M・Mさんの思い出話をはじめとして、二時間ほどもワイワイと飲んで騒いだ。もし、この場にM・Mさんがいたなら、同じことをしたであろう、と皆が感じていたに違いない。
 わたしは、帰路に二時間はかかるために、終電を逃さないタイムリミットを見計らい、まだまだ飲み足りない地元の友人たちに礼を言って店を出ることとした。
 その帰路で、独り振り返ったことは、こんなかたちは残念極まりないことではあるにしても、M・Mさんが多くの同窓友人たちとの思いもよらなかった再会の場を作ってくれたのだということがひとつだった。また、彼女自身のことでいえば、いろいろとやろうとしていたことが山積していたに違いないはずだが、そのすべてを途中とするかたちで突然この世を去ることになったのであろうと思い、その無念さを悼んだ。人生というのは多くの場合、そんなふうに「やり掛け」の状態でストップをかけられてしまうものなのであろうか。だとすれば、その宿命への対抗手段としては何があるのだろうか? せめて、その時その時を、決して後悔しないという裸の気持ちで生きることしかないのではないかと、幾分酔った頭で考え、納得していた。
 終電が降りるべき駅に着いた時、冷え冷えとした夜は、とうとう雪が舞う夜に変わっていた。わたしは、酔いをさますためにも、あるいは何かの気分に支配されてしまったかのように、タクシーを拾わずに雪が舞う夜道を三十分ほど歩き続けた…… (2005.02.19)


 この時代の今という時点が特に難しいのは、既に大きな雪崩現象が起きてしまっているという事実であるに違いない。それは一言でいえば、グローバリズムという形での市場経済の驀進ということになるであろうか。
 このところ、マスメディアは「ホリエモン」騒動に明け暮れているようだ。今朝もテレビ各局は「ホリエモン」生出演という触れ込みで視聴率稼ぎに奔走していた。確かに、「ホリエモン」騒動は、いろいろな立場の人のさまざまな思惑をフックするきわめてトレンディーな話題であるに違いなかろう。
 最新の情報では、政府官僚を含めた保守系議員たちが、「ホリエモン」に不快感を示しているとのネタが報じられている。経済界の面々も同様のようである。
 もとより、時代の経済の大きな流れの「蚊帳の外に置かれた庶民たち」は、面白い話題として興味を抱いているようだ。おそらくは、プロ野球再編問題への興味の延長だと見なしていいのだろう。庶民にとっては、さしあたって、フジテレビであろうが「ホリエモン」であろうがどちらでもいいわけだ。「蚊帳の外」の住人としては、どっちに転ぼうと、痛くもかゆくもないはずだ。その意味では、野次馬として楽しむ材料としては、スポーツゲーム以上にリアリティーがあって楽しめるのであろう。

 あるいは、「ホリエモン」側に肩入れする心境にさえなっている庶民も少なくはないのかもしれない。そういう人たちの心根には、自分たちを「蚊帳の外」に置いて涼しい顔をしている、またはそうしてきた現在の環境に「風穴を開ける」ものを期待する向きがあったりするのだろうか。そういう点でいえば、「ホリエモン」側の動きによってオロオロとうろたえるかのような現行経済勢力・政治勢力の姿を見ることは、溜飲が下がる思いになれるものなのかもしれない。
 少なくとも、テレビへの露出度を高めている「ホリエモン」側が読んでいるポイントは、プロ野球騒動の時と同様に、庶民は自分たちに好感を持つはずだという点に違いない。たぶん、概略的にはそういう傾向になるものと思われる。マスメディアが好んで「ホリエモン」を登場させるのは、そんな庶民感情の動向を踏まえた商売上手だといわざるを得ない。おそらく、もし「ホリエモン」側の敗北となったとしても、それはそれで庶民は「お気の毒に」という観点で関心を持ち続けるだろうということまで読んでいるのであろう。

 ただ、庶民感情というものはまさに「感情」なのであって、先を読み込んだり環境を読み込んだりしているものではない、という点にも注意をしておく必要があろう。つまり、「ホリエモン」が推進させていることは、決して庶民が期待している方向性ではないはずなのである。「ホリエモン」の口からも時々出てくるように、というよりも、巨額のマネーを使った証券市場での経済活動とは、まさしくグローバリズム経済の象徴的活動であり、そうした方向がますます貧富のニ極化構造を強めてゆくもの以外ではないからである。庶民を、ますます「蚊帳の外」の住人へと追いやってゆくの潮流以外の何物でもないわけだ。
 ところが、庶民感情は物事を深く考えないことを最大の特徴としている。現行の経済政治エスタブリッシュメント(既存勢力)が困ることは良いことだと感じているようだが、必ずしも「敵の敵は味方だ」ということにはならないのである。
 だが、「ホリエモン」側は、たぶんこうした事情を百も承知の上でマスメディアへの露出度を高めているに違いない。こうした流れを、見ていると、なぜかある人物の動きをいやがおうにも思い出すのである。
 「自民党をぶっ壊す!」という庶民感情受けする旗を掲げて、庶民感情の応援を背にして登場してきたあの小泉首相のことである。その後の動きで、その旗印が庶民が期待したことと同じではないことは十分に周知の事実となったはずである。むしろ、政治家としての小泉氏はそれを旗印とすることが、国民の支持を得る有力な要因であることを百も承知の上であったに違いない。「抵抗勢力が、抵抗勢力が……」と叫べば叫ぶほどに国民を味方にすることができると重々承知していたわけであろう。
 しかしその彼が、推進していったのは、米国よりお達しのあった「構造改革」(←グローバリズム経済)の露払い以外ではなかった。
 そういえば、小泉氏もまた毎日のようにテレビに出る手法を最大限に活用し、庶民に真実を知らせる以上に庶民感情に訴えたものであった。まあ、今では「もういいよ……」と言われかねない飽きられ方をしている向きもなしとはしないが……。

 それにしても、現時点の状況は、誰もが止めがたいグローバリズムのうねりがもたらすいろいろな問題も重ければ、この機に乗ずる屈折したいろいろな思惑の動きも半端ではなく、万事、よほど注意深くしていてもそれで安心というわけにはいかないようだ。
 少なくとも、傍観者的(「蚊帳の外」的)スタンスで楽観していることだけは戒めたいと思っている…… (2005.02.20)


 先日、仕事の打ち合わせの外出でJRを利用した際、ある駅で乗り換えのためにしばし待つこととなった。ちょうど学校の下校時でもあったためか男子高校生たちの一団を見た。
 学生服の詰め襟をはだけ、ダボダボのズボンをはいて、いかにもかったるいといった足取りでホームの隅っこの方へ歩いて行った。そこで何人かがタバコをふかしている。やがてまたぞろぞろと戻ってきた。
 見るとはなく見ていたが、ボスクラスの者も無気力そうであったが、取り巻き的な様子で後につく者たちは、無気力を絵に描いたような風情であった。どんな気分でその集団に属しているのだろうか、という思いが浮かんだ。離れると「いじめ」でもされるのであろうか。ほかにやることもないので、退屈紛れに一緒にいるのだろうか。自分というものが掴めないのかなぁ、と考えたりもした。
 思春期の時期というものは、自己というわけの分からないものに振り回される時期でもある。子供時代のように、自己が仲間たちの中に溶け込んでしまっているわけでもなく、かといって一人静かに毅然として自己の空間に立つというわけでもない。感覚的にいえば、一人でいることの何とはなしの寂しさだけがで自覚されるのだろう。だから、何がどうなるわけでもないにもかかわらず、集団らしきものを形成したり、そこに滞在したりするようだ。
 もちろん、いつの時代でも自己を確かにつかみ、その上で友人関係や、友人仲間の集団をつくる者たちもいないわけではなかろう。だが私の目にした高校生たちは、どう見ても限りなく緩やかな、平板な仲間関係としか見えなかった。

 自己というものが不安定なのは、何も思春期の時期だけではないのかもしれない。現代という時代において、思いのほか粗末にされているのがこの自己というもののような気もする。先日来、「孤立=エラー」という奇妙な表現をしてきた。孤立した人間関係のなかで、痛ましい事件を起こしたり、みじめな病的症状に陥ったりする社会現象があまりにも多く目につくからなのであった。だが、「孤立」を即「エラー」と結びつけてしまう判断の足元には、「孤立」には耐えて行けない「自己の不確かさ」があるように思うのである。そこに問題があると思える。
 いつの時代であっても、「確かな自己」というものを持っていた人は決して多くはなかったであろう。むしろ、「自己」というものにとらわれていた人は、逆に周囲から疎んじられるほどに、多くの人は自然風景のような集団に溶け込んでいたのだともいえる。それらは家族であり、親族であり、地域の地縁仲間であり、会社の職縁仲間であったことだろう。それらが生き生きとした集団としての内実を備えていたのである。そんな中では、個々人は、あえて「自己」というものを意識する必要もなかったし、仮に意識したとしても重きを置かなかったと言えよう。
 ところが、現在に置いては、「自然風景のような集団」なぞというものは存在し得なくなってしまったと言っていい。したがって、個々人は、溶け込んで身を寄せる場を見出しあぐねて、宙に浮いている浮遊物のような位置づけにあるのかもしれない。決して思春期の子供たちだけではなく、長い年月多くの経験をしてきた大人たちも同様でありそうだ。

 ある本に次のような一節があった。
「現代では、人は生きる意味を剥ぎ取られた状態で日常生活を営んでいるのだ。作家のサルマン・ラシュディが言う。『現代人の自己は、スクラップブック、独断、子供の頃に受けた傷、新聞記事、深い意味のない発言、古い映画、小さな勝利、大嫌いな人、そして愛している人から作られる、実にもろい構造だ』」
 一瞬、「自己」が作られるのは,そんなものじゃないの? と思えてしまうかもしれない。それ以上に一体何があるの? ということにもなりそうだ。
 しかし、これらだけだとするならば、やはり雑多過ぎるし、何か脈絡が欲しい。つまり「意味」と言ってもいいし、「価値観」といってもいいようなものが欲しい。そうしたものがフレームとしてないからこそ「実にもろい構造だ」となってしまうのであろう。
 じゃあ、なぜ現代人は「意味」だとか、、「価値観」だとかいうものと無縁になってしまったのであろうか。しかも、それでいながらどうして「自己」というものがあるように「錯覚できている」のだろうか。そんなものは「自己」でもなんでもない、と切り捨てられたとしても不思議ではないとさえ感じてしまう。
 上の本の著者は、こんな現代人を表現して、「我消費する、故に我あり」ということになると書いている。また、「人は誇示的浪費を通して自己表現しているのだ。人は存在を自覚するために消費する。これまで以上に、人は消費を通して自己表現と自己確認をしているのだ」とまで言っている。おそらく、当たっているどころか、むしろ核心をついているようにさえ思う。

 「お金がすべて」という風潮が、青少年の間にさえ広がっていると聞くのは、こうした次元の文脈なしでは理解できない事実のはずであろう。昔からあった言葉、「金亡者」とはどうも次元が違うかのような気がする。多分、現時点で進行している事態は、この風潮がますます強く構造化していくということなのであろう。
 昨日私は次のように書いた。
「この時代の今という時点が特に難しいのは、既に大きな雪崩現象が起きてしまっているという事実であるに違いない。それは一言でいえば、グローバリズムという形での市場経済の驀進ということになるであろうか。」と。
 これは、この時代を非難する言葉でもなければ、あきらめでもない。この事実を、しっかりと凝視することから始めるほかないという思いなのである…… (2005.02.21)


 もうだいぶ前になるが、「MRI(エムアールアイ。磁気共鳴画像法)」での検査を受ける際、オペレーターから唐突に言われたことがある。
「閉所恐怖症のようなことはありませんね」と。
 それというのも、まるで「棺桶カプセル」のような所へ滑り込まされ、そのまま10分程度身動きせずにじっとしていなければならないからなのである。
 私の答えは、
「いやまあ……、しかし大丈夫でしょう、たぶん……」
という歯切れの悪いものだった。
 実を言うと、たぶん「閉所恐怖症」の仲間なのだと思っている。かつて、怖い夢といえば私の場合「閉所」がらみの夢であった。トンネルのような場所から脱出しようと、亀裂のような狭い空隙を這うように進むと、やがて身動きがとれないほどに狭く圧迫感のある場所に行き当たってしまう。
 あるいは、建物の廊下を逃げ惑い、やがて出口とおぼしき地点にたどり着く。ところが、その換気道のような通路は明らかに狭すぎる。きっとどこかで身動きがとれなくなってしまうのだろうと懸念するのだ。
 こうした夢を見る所をみると、「閉所」に閉じこめられてしまう事への恐怖心が並大抵のものではないのだと思ってしまう。
 以前、「中越地震」の際、土砂崩れのため車の中に母子3人が閉じこめられて結局最年少の男の子だけが奇跡的に救われたという事故があったかと思う。亡くなられた二人も気の毒でならなかったが、ニ、三日もの間「暗い閉所」に閉じこめられて救出された男の子の恐怖心はいかばかりであっただろうかと、強く同情したものであった。タフそうな顔をした男の子であったのを見て、なるほどなあ、と納得したものであったが……。

 「閉所」への恐怖とは一体何なのかと思う。
 家の中で、猫の行動を観察していると、どうも彼らは「閉所」をより好んでいるような気配である。段ボール箱であるとか、紙袋であるとか、自分一人がいや自分1匹だけがかろうじて収まるそんな場所を探しては丸くなって眠っているからだ。確かに、眠ってしまえばどこであろうと問題はない。上記のような夢を見ない限りにおいては。
 ギンギンと意識を高揚させている場合に、恐怖という感情が立ち上がってくるのかもしれない。その状況に逆らわずに為すがままになっていればいいものを、そんな時に限って、全く反対の衝動を自覚したりするのである。ここから、今すぐに出よう、というような。
 今でこそ、そうした衝動をいなせなくてどうする、という状態になっているが、子供当時は、そんなすべも知らず自分で自分の恐怖感を増幅させていたような気がする。
 こうした「閉所恐怖症」的傾向の根っこには、行動への自己の意志が束縛されることに対する激しい拒絶感が横たわっているのかもしれない。束縛の拒絶、自由への希求なぞと恰好つけるべきではなく、要するに生きていることの実感を失いたくない、というほどのものなのであろう。

 正直言って、こうしたワガママで偏屈な自分をもてあましてもきたのだが、最近ふと思うことがある。
 現代という時代は、自分のようなタイプの人種を確実に、増殖している、と。少なくとも、個人としての自由を渇望していると見える人々が確実に増えてきたかのようだ。若い世代はもちろんのこと、年配の世代にあっても、これまでのように因習に従い個としての自分を押し殺すような人々は確実に減ってきたように見える。
 むしろ、年配世代にあっては、これまでが「押し殺してきた」という経緯があってか、あたかも露骨過ぎるかのような嫌味に思える場合さえ見受けたりする。ひところ言われた、「ジコチュウ」という現象のことである。
 昔の日本人には、「うちわの者」と「よそ者」とを仕分ける意識があったようだ。つい先日の節分の豆まきではないが、「福は内、鬼は外」が象徴的であり、要するに、「うちわ」の空間では自分を押し殺してでも「和」と「団結」とを追求するが、「よそ」の空間では、「旅の恥は、かき捨て」で表現されているように、徹頭徹尾アナーキーとなりがちのようだ。
 そして、若い世代はもとより、「うちわ」の空間の経験は希薄で育ったため、いわば「よそ者」同士の関係で人間関係を処理していると言えそうだ。これに反し、始末に負えないのが、年配世代だと言えるのかもしれない。「うちわ」の空間で自分を押し殺しながらそこでの身の処し方を会得してきたにもかかわらず、もはやそんなノウハウは何の役にも立たなくなってしまった。そう気づくと、一気に反転しようとするのだが、その方向には何のノウハウもない。如才なくスマートに人間関係を進める手だてが上手くないというわけだ。
 「うちわ」の空間の者同士という関係にまで進むなら、まだかつてのノウハウが生かされるのであろうが、いかんせん「よそ」の空間での関係という時点では「鬼同士」のとでもいうような関係しか取り結べないのかもしれない。

 多少誇張した言い方をしてきたため語弊もありそうだが、要するに「うちわ」という閉ざされた空間に慣れた者にとって、開かれた時代の開かれた空間は、ただただアナーキーな空間と見えてしまうのではなかろうかと思うわけである。
 私のような「閉所恐怖症」気味な人間として齢を重ねてきた者にとっても、広がり過ぎた「広所」スペースの現代は、いささか閉口しているのだから、「閉所」を居心地よしとしてきた人々にとってはスタンスの決めがたいスペース(宇宙)だと目に映っているのかもしれない。
 しかし、人間が生きる今後の生活空間は、「よそ者」だらけの社会空間となるに違いないのだ。良い悪いの問題ではなく、時代の流れがそうなっているとまずは認識しなければならない。「福は内」にしかないとながらく確信し続けた日本人にとって、この現実はまさに「渡る世間は鬼ばかり」ということになるのであろうか…… (2005.02.22)


 PCのハード、ソフトをメンテしているとやはり「インターフェース」(機器や装置が他の機器や装置などと交信し、制御を行なう接続部分のこと)ということをいろいろと考えてしまう。
 一番わかりやすいのは、PC本体と周辺機器や部品との関係において、機能上問題なく接合させるには、「ドライバー・ソフト」という言うならば「インターフェース」ソフトが必須となるという点であろう。LANなどの基板をPC側のスロットに挿入しただけでは始まらず、これを問題なく機能させるための「ドライバー・ソフト」をインストールしなければならないわけだ。
 こうしたハードとハードとを接合する「インターフェース」ソフト=「ドライバー・ソフト」も重要であるのだが、それをインストールする際に、PCの操作画面を見ながら妥当なインストール操作をしていく作業の側面も、十分に注意されていい。前者のような、コンピュータと周辺機器との関係で「インターフェース」が問題となるばかりでなく、後者のようにコンピュータと人間との間(コンピュータ側のモニター画面での操作説明の表示と、人間側の理解)での「インターフェース」というものも、勝るとも劣らないほどの重要な局面なのである。ここがコケてしまったら、ハード v.s. ハードの「インターフェース」が万全であっても、事は成就しないからである。
 しばしばこういう事態は発生するのである。コストを下げんがために、PCパーツを「バルク」(ばら売り)で入手した場合などは、「取・説」(マニュアル)は不親切な原文であったりする場合が多い。そうなると、「インターフェース」の役割を果たすべきマニュアルは数々の誤解をこそ生み出しこそすれ、橋渡し的役割は期待できないことになる。
 こんなことを考えてみると、何も原文の「取・説」だけではなく、立派な日本語のそれであっても、十分に誤解を与える可能性が多いことに気づいたりするものだ。昔から言われ続けてきたように、技術屋さんが作ったマニュアルほど、ユーザーにとってわかりづらいものはなかったりするのだ。
 ここまで話を進めてくると、コンピュータと人間との間の「インターフェース」、つまり「マン・マシーン・インターフェース」というのだが、それは「マン」と「マシーン」との「インターフェース」というよりも、結局のところ人間と人間との間の「インターフェース」だということになりそうである。
 製品を作ってその使い方を説明する技術サイドの人間たちにとっては、如何にユーザーにわかりやすいようなマニュアルが提供できるかが課題なのであり、またユーザー側にとっては、持ち前の理解力に注意力を上乗せして如何に精一杯洞察力を働かせるかが課題であるはずなのだろう。このどちらがまずくても、達成されなければならない橋渡しという作業は完了しないことになる。

 今、職場でも家庭でもどこでも、個人と個人との「インターフェース」というものが、極度に劣悪化しているように感じている。「意思疎通」が悪くなったと言ってもいいし、「コミュニケーション」が悪くなったと言ってもいいのだが、どちらかと言えば、これらは人の心と人の心との関係で言われてきたように思う。ところが、現状を問題にしたいのは、心といった上等な次元での話ではなく、脳が事実を認識し合うという即物的な次元での話だということになる。
 たとえば、共同作業において互いに連絡し合ったり、指示し合ったりするといった何でもない会話自体が成立しにくかったり、誤解と軋轢ばかりを発生させるという実情のことなのである。これは、もはや「意思疎通」だの「コミュニケーション」だのという上等な言葉を使うよりも、モノとモノとの関係にも使われる言葉、「インターフェース」と言ったほうが事実に即していると思えたのである。
 もうだいぶ以前になるが、「インストラクション」という言葉の重要性について書いたことがあった。この言葉は、まさに「意思疎通」や「コミュニケーション」という言葉が、抽象的であるがゆえに事態の深刻さを的確に掬い上げられない部分を、うまく取り扱う言葉だと思ったものだった。

 日本の社会は、長らく「同質性」社会だと言われてきた。確かにそう思うし、だからこそ、感じ方の「微妙な」差異、「繊細な」次元での異なった感覚などが珍重され、そのために「微妙な」「繊細な」言葉というものも生み出されてきたのかもしれない。そうした文化こそは貴重なものだと思っている。
 しかし、現在にあっては、そうした「微妙で、繊細な」ものをどう理解し合うかということよりも、もっと単純で事柄的なことをどう誤解なく伝え合うかがクローズアップしているのではないかという気がするわけだ。
 言葉が崩れ、粗雑に使われている現状、形骸的な個人主義が蔓延して、元来が集団や共同性に根ざす言葉というものが危機に瀕してもいそうなのが現代なのだろうか。たぶん、言葉のメルト・ダウン的風潮もまた、個人の孤立化の傾向に拍車をかけてゆく、といった悪循環なのであろう…… (2005.02.23)


 久々に心温まる報道に接した思いがした。
 昨日は、皇太子さまの45歳の誕生日であり、記者会見をされたそうである。いろいろと語られた中で、次の部分に注目させていただいた。
「長女敬宮(としのみや)愛子さまの養育方針については、『可愛がられ 抱きしめられた 子どもは 世界中の愛情を 感じとることを おぼえる』という内容の米国の家庭教育学者、ドロシー・ロー・ノルトの詩を引用し、『どのような立場に将来なるにせよ、一人の人間として立派に育ってほしい』」(毎日新聞)
 「女性天皇問題」への関心からというよりも、「養育方針」として「ドロシー・ロー・ノルトの詩」を引用されたご見識に感動したのである。
 ちなみに、その詩を引用させてもらうと次のようになる。


     子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる
分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ
やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、
子どもは、この世の中はいいところだとおもえるようになる
                                      」
(PHP研究所:ドロシー・ロー・ノルト著:「子どもが育つ魔法の言葉」)

 世間は、今、青少年の動向が掌握できずに右往左往していることが否めない。そして、ただただ「強圧的」な対策だけが成り行き任せで走っているかのようだ。青少年の非行や犯罪にしても、その理由や原因を埒外のところに求めて、探しあぐねている気配もある。 そんな経緯の中で、上記の「詩」は、実に「直球、ストライク!」だと思わずにはいられない。子どもたちが問題である以上に、親たちが問題なのだ、という当たり前の事実に直面させてくれるからである。さらに言うならば、親たち個々人の人間としての課題であるとともに、多くの親たちを苦境に追い詰めているかもしれない社会や世界のあり方に注意を向けさせてくれるからである。
 親たち自身が、「人をけなさず」「とげとげせず」「不安」ではなく、「他人を羨まず」「広い心」でいられたら、<悪の連鎖>は断ち切られ、子どもたちはおのずから望ましい時代を形勢していくのであろう。

 しかし、現状は、「幼児虐待」、「ドメスティック・バイオレンス」が目に余る広がりを見せているかのようである。そうでなくとも、「ゆとり教育」は早々と撤回され、きっと家庭教育への間違った圧力へと跳ね返るに違いない「競争社会教育」へと再編されつつある。
 一体、この国の将来を誰がまともに考えているのかと、激しい憤りが隠せない。また、人間が育ち、能力が形成されていく合理的な道理というものを一体誰がクールな頭脳で認識しているのかという疑問も払拭できない。
 当たり前のことなのだが、「問題解決」というものは、どれだけその「問題」の正体というものを正確に認識するかという洞察力にかかっているはずである。その正体も掴まぬうちから、別の「輝かしき処方」を持ち込んだところで、それは問題状況をこじらせるだけに終わるのではなかろうか。
 青少年のネガティブな行動や、また子どもたちの「学力低下」といった事実は、何に根ざしているのか、を正確に把握すること、認識することが、今の大人たちに問われているに違いないのである。

 今、詳細な問題点を洗い出すゆとりはないのだが、とりあえず今日の暫定的「出口」としては、次のように書いておきたい。
 指導する者たちが本当の意味で「解放」されなければ、<悪循環>は断ち切れないに違いない! 親たちは、自身に潜む、自身が抱えたさまざまなネガティブなものから、自身を「解放」する課題にもっと積極的にならなければいけない! また、さまざまなジャンルで指導的役割りを果たしている者たちは、偉そうな恰好をつける前に、自身を「解放」するための地道な努力にこそ注力すべきなのであろう。自分自身についても戒めなければならない…… (2005.02.24)


「つまらん。お前の話はつまらん!」
と、叫ぶTVコマーシャルがある。「水性キンチョール」とやらのCMである。演技派の大滝秀治が扮する「やもめの老人」が、これまた演技派といえる岸部一徳扮する「やもめの中年」に向かったセリフなのである。もう少し、詳細に追えば、

大滝「キンチョールはどうして水性にしたんだ」
岸部「それは地球のことを考えて、空気を汚さないように……」
大滝「つまらん。お前の話はつまらん!」

となるわけだ。<この「つまらん」の陰には大滝さんの、「地球のこと、環境のこと、人間のことを考えるのは当たり前のことじゃないか。何を分かりきったことを言うんだこの男は、いい年になってまで」のメッセージが隠されています。>(CM企画側)とのことだが、わたしも、岸部が演じる中年男は現役の役人かなんかだろうと想像したし、そう言えば、こういう「つまらない」男がよくいるものだと共感を覚えたりもしていた。
 このCMは、2004年TCC(東京コピーライターズクラブ)賞グランプリを得たというが、時代の風潮のある部分を鋭く抉り出していると思われた。

 現代人の心の内というか、胸の内というか、あるいは腹の底と言ってもいいが、この「つまらん!」という思いが知らず知らずのうちに累積しているのではないか、と気づくのである。
 ちなみに、この「つまらん」というワードで、ブラウザでの検索をかけてみると、出てくるわ出てくるわ、何と225,239 件のヒット数があった。これだけでも、大多数の人々が「つまらん」という言葉を意識していることがよくわかる。
 わたし自身も、TV番組を見ていては「つまらん」とつぶやき、国会中継を見ていては「つまらん」と吐き捨て、eメール・ボックスを開いては、多くの「迷惑メール」を見つめ「つまらん」と言ってしまう。「つまる」ものが圧倒的に少なくて(先頃「詰まって」困ったのは、流しの下水管くらいであった……)、「つまらない」ばかりが大手を振って歩いているのである。

 戯言(ざれごと)はともかく、現代人のこの「つまらなさ」を実にシャープな切れ味で語っている文面に遭遇した。
 『つまらなさ一段と深刻』 宮台真司 東京都立大学助教授(社会学) (2005年2月25日金曜日朝日新聞)という記事であった。「地下鉄サリン事件」が来月で早や十年になるということで企画された記事である。宮台氏は、独特の視点と切り口で社会事象に切り込み、説得力のある学者であるが、今回も、誰もが感じていながらそれに「市民権」を与えるところまではゆかない言葉「つまらなさ」を見事に照らし出していたように思えた。

<事件後の95年6月、オウムに惹かれる若者を論じた「終わりなき日常を生きろ」を出した。主題は成熟社会の「つまらなさ」にある。しかし当時のぼくは、問題の深刻さを見通せていなかった。
 オウム信者の特徴がある。まず、かつての宗教と違い、「貧・病・争」の激烈さを背景としないこと。次に、世を考え抜いた末の神秘主義でなく、誰にでも生じうる神秘体験に軽薄に吸引されること。
 要は、つらいのでなく、つまらないから、現実を全否定し、別の世界を夢見た。それを多くの人々が直感したから生々しく感じた。実は人々もつまらなさを知っていたのである。特に若者たちは「まかり間違えば、自分がそうしていたかも」と感じ、他人事として切り離せなかった。
 先進国は70年前後に物の豊かさを達成し、後期近代、つまり近代成熟期に移行した。「革命で世界を変える」という発想はリアルさを失い、「システムの外」は想像不能になった。他方、地域や家族の空洞化で社会の流動性が上昇し、個人がますます「入れ替え可能な存在」になる。つまらなさの感覚は、こうした流れが広げたものだった。
 90年代前半から広がる「ブルセラ・援交」の子たちに僕は「軽々と生きる」新世代の可能性を感じた。社会の流動性が高まっても、「やりようで」若者たちが感情的安全を得られると思ったのだ。
 見込み違いだった。彼女らの多くは疲れ、メンヘラー(精神科に通う人)になった。付き合いが苦手というより、つまらないから退却するというタイプの引きこもりも増えた。僕は、成熟社会のつまらなさの問題をより深刻に受けとめる必要に迫られた。高い流動性がもたらす殺伐さをどうするか。それが、課題としてこの10年で明確になってきたことだ。>

 「地下鉄サリン事件」をグローバルな地平に移すと、いうまでもなく「9・11テロ」ということになろうが、これとても、

<国際テロの背景に原理主義があるとされるが、核心は先進国の近代化が周辺に蓄積した「歴史的怨念」と、近代を知った上でつまらないとする「再帰的(あえて選ぶ)感受性」だろう。「狂信は怖い」というとらえ方は誤りだ。>

と述べ、近代の延長である現代が汗のように滲み出させる「つまらなさ」の重みに目を向けさせようとしている。
 われわれはとかく、「つまらない」という感覚、おそらくそれは「個人」の「正直な」感覚なのであるが、それをまともにとらえる術(すべ)を知らないできたかもしれない。「子どもっぽいことを言うな!」と一蹴するのが常ではなかったかと思う。ところが、いつの間にか、この感覚「つまる、つまらない」「面白い、つまらない」という感覚が、実質的には時代の寵児になっていたことを気づかざるを得ないのではなかろうか。
 わたし風に考えれば、端的に言って、市場経済の爛熟によって、消費者的個人主義が頂点に達したこと、しかもモノ離れとソフト化の昂進によって、個人の感覚は空けられてしまった「パンドラの箱」(ゼウスがパンドラに、あらゆる災いを封じ込めて人間界に持たせてよこした小箱)のように、予測不能の拡延を始めているのだろう。
 ところが、社会体制や制度や、そして文化は、ますます巧妙な管理強化へと突き進んでいる。その環境が、個人の感覚からするならばどうしても「つまらない」と自覚されてしまうに違いなかろう。
 とりわけ、感性が先取りされる青少年にあっては、「つまらなさ」は、犯罪を引き起こす原因として機能してしまうこともあるのかもしれない。現に、インテリ予備軍の若者たちが、オウムに身を寄せて数々の犯罪を引き起こした事実は、宮台氏の直観を裏付けているようにも思えるのである。

 今、「ホリエモン」騒動が、守り側の旧勢力と、野次馬半分の興味に走る庶民とに二分されているかに見える。この後者にあっては、多分に、現代環境に対する「つまらなさ」と、それに揺さぶりをかける「ホリエモン」側の「面白さ」という要素に着目している気配を感じてしまう。宮台氏も次のように述べている。
<つまらなさは深刻だ。若者から見れば、世界のトップも経済界のトップもつまらなそうな顔に見える。トップか否かに関係なく、数少ない「面白そうに生きている人」に注目が集まっている。そこに処方箋のヒントがある。>と。
 いずれにしても、「つまらなさ」と「面白さ」という基準は、もはや目が離せないタームとなってしまっているようだ。しかも、その根は意外と深い地層にまで降りているのかもしれない…… (2005.02.25)


 マイカーの故障がいろいろと発生して情けない気分となる。
 つい先日も、ブレーキ・ランプの片側が、修理して間もないにもかかわらず、再び切れている。察するところ、電気系統自体に何かトラブルがありそうな気もしている。
 そして、今日は、運転席のオート・ウィンドウが、ガリッという音を立ててまさしく故障してしまった。夜の帰宅時のことだった。車庫入れのため、窓から顔を出すべくウィンドウ・ガラスを下げようとしたところ、その途中で発生したのである。多分、ウィンドウ・ガラスと、ドアの中のモーターを接続している部分の破損だと思われた。
 戸外に面した車庫のため、とりあえず閉めておかなければ物騒なので、隙間があいた状態で透明ビニールテープで塞ぐという、涙が出てきそうな応急措置をした。
 もう十年以上乗り続けているクルマなので、あちこちに故障が発生しても当然といえば当然なのではある。走行距離が数万キロで、エンジンの調子はいたって良い状態のため、いまだ廃車にするつもりとはなっていない。しかし、状態は、これでもかこれでもかというほどに悪化してきている。すでに、カー・ラジオも壊れてしまっている。
 買い替えへと踏み切れないでいるのは、こんな景気不安定な状況ということもある。また、築二十年となりかけたマイホームの方の傷みが気になり、ここへ来て屋根の葺き替え、壁の塗り替え、キッチンの取り替えと、出費の多いことを始めてしまったためでもある。幸い、雨漏りまではしていないが、築年数からいっても、補修はして当然のことなのだ。そんなこんなで、クルマの買い替えまで手が回らなくなっている状態なのである。ただ、5月の車検までには、なんらかの結論を出さなければならない。

 人間様の身体の方もガタが出始めてはいるものの、このところまずまずの調子であるが、ともに時間を過ごした周囲のモノたちが、家にせよ、クルマにせよ、その他家電製品にせよやたらと不具合や故障を続発させているのである。そんな事態と向き合うと、あっという間の月日の経過を思い知らされてしまう。
 ただ、モノの故障や修理ということに直面する時、本体を生かした補修や修理はいいとして、そうしたことがきかない、またはする意味がないというようなケースには実にいやな思いを抱いてしまう。
 そのいい例が、パソコンをはじめとするエレクトロニクス製品である。
 理由のひとつが、製品自体の「陳腐化」であり、もうひとつが、直すよりも新しいモノを買った方が安くつくという事情であろう。先日も、古いPCとモニターを然るべき業者に持ち込んで処分した。一時期は、PCショップもしていたため、そんなモノは、ジャンクとして店の片隅に並べておけば趣味人が何がしかの値をつけて持っていってくれたりもしたものだが、今はそんな状況もなくなった。却って、運搬して、処分費用まで払って整理しなければならなくなったわけである。
 地球資源のムダ使いなぞとおおげさなことを言わないとしても、もったいない、という感覚が拭い切れないでいる。つまり、使えるパーツや部分が多々ありながら、最も弱いパーツの故障などによって、丸ごと寿命が尽きたと判断されてしまう今日の製品の運命に対してなのである。いつからこんなことになってしまったのであろうか。

 おそらく、製造過程の合理化が極度に進められ、分解不能ともいえる一体型製品の製造方法になっていったからなのであろう。故障した部品を随時、容易に取り替えられる製品アーキテクチャーの方が、あらゆる点で合理的ではないかと思われてならない。
 パソコンについても、普及し始めた初期の頃、わたしは確実にそう考えたものだ。だから、「組み立て」式パソコンを高く評価し、「自作パソコン教室」などにも熱を入れたものだった。安く仕上げられるというよりも、部品のイノベーションに応じて組み換えて「進化」させられるという点に注目したのである。
 ところが、その「部品のイノベーション」の速度はあまりにも目まぐるしい速さであった。例えば、スタートの頃は、CPUが66メガヘルツ、100メガヘルツであり、ハードディスクの容量も300、500メガバイトであった。今では、CPUは800メガヘルツだ、3ギガヘルツだと飛躍的に向上し、ハードディスクにしても当初の100倍、200倍の容量がザラに使われるようになった。そうした急激な変化になると、CPUだ、メモリだとまさに部品を取り替えるだけでは済まずに、ベースとなるマザーボードまで入れ替える必要に迫られるようになったのである。つまり、部分品を入れ替えるよりも、丸ごと買い換えた方が手っ取り早くなり、しかも価格も安くなってしまったのである。
 こうなると、取り残された性能の低いパソコンは、古きよきモノという意味合いは吹っ飛んでしまい、ただただ場所を取る厄介モノになり下がってしまったことになる。

 しかし、存在するもののこうした「丸ごと陳腐化」という運命は、何も製品、モノだけに限らないようにも思える。ものの考え方、思想、歴史的事実、そして文化全体が、部分的に再把握されたり、継承されたりというのではなく、何だか丸ごと廃棄されつつあるような気がしないでもない。まさに、歴史の断絶が敢行されている気配もある。
 そうはいうものの、人の身体は、一生の間「全取っ替え」というドラスティックな出来事にさらされず、部分の新陳代謝によって持ち堪えているわけで、これは大したことだと言わなければならない。ただ、どうみても、誰の場合も、頭の中のコンテンツは入れ替え、入れ替えでメチャクチャに混乱の極みとなっている模様ではないか…… (2005.02.26)


 大げさに言えば、今、いたるところで「二つの陣営」が拮抗して、いざこざと不愉快さと「やや不毛な」争いを引き起こしている。どちらも、悔しいことに「決め手」を欠いているのが実情ではないかと思う。「決め手」を欠く背景には、残念ながら将来に向かっての誰の目から見ても明瞭な方向性というものが浮かび上がっていないからであろう。もっとも、そもそもが誰の目にも明瞭な方向というものが存在するのか、ということ自体も問われていいテーマのはずである。
 とかく、われわれは今までは、未来に真っ直ぐに伸びた方向性というものを暗黙のうちに信じてきたようだ。どんなにアナーキーな考え方をする者であっても、心底の甘えの中にそうした思いが温存されていたとも言える。
 ところが、現代のこの時期は、そうした時代の方向性というものが何度も叩き潰された経緯で、消去法で残された方向をさし当たって事実として見ているに過ぎない。消去法で残ったという情けない位置づけの、漠然とした将来への方向だけが、われわれの指針といえば指針となっているに過ぎない。だから、「決め手」に欠くという雰囲気が何事にもつきまとうのであろう。

 抽象度の高い思いから書きはじめてしまった。
 わかりやすい具体例をあげれば、いうまでもなく例の「ニッポン放送」株問題ということになる。マス・メディアが異常なほど取り上げている理由のひとつには、NHKをはじめとして皆「脛に傷を持つわが身」という立場もあるため、目くらまし戦法という視点もなくはないのだろう。
 だが、ものは見ようであり、この問題は、郵政問題なんぞよりはるかに、現在のこの国が孕んださまざまな問題の「交差点」的意味合いを帯びているように思われる。先日も書いた「つまらなさ」増殖時代との関係という視点もあり得る。また、落ちるところまで落ちて立ち腐れ状態となっている組織マス・メディアとの関係の視点もあるだろう。
 「構造改革」なぞと言語明瞭意味不明のスローガンを口にしてきながら、その路線の大元であるグローバリズムの当然の帰結として「外資」が本格参入してくると慌てるといった日本経済陣についての視点もあるに違いない。これについてはさらに言えば、日本の大企業が、高度資本主義でござい、その「構造改革」でございと耳障りの良いように気取りながらも、「同族的」色彩の強い体質が温存されているという摩訶不思議の問題という視点も関係してくるのだろう。

 そればかりではない。片や、現存勢力に対して揺さぶりをかけているかに見える側、「ニッポン放送」株問題についていえば「ホリエモン」側ということになるが、こうした「攻め側」のあり方についても、いろいろな問題が含まれていると思われる。
 「マネーがあれば何をしてもいいのか」という「非難」が一人歩きしている向きもあり、当たらずとも遠からずではあるが、「非難」する勢力がさんざんしてきたことでもあることを思い返せば、「CO2 排出規制」をめぐって「第三世界」が、「先進国が勝手なことを言えた立場か!」という事情と似たところがないわけでもない。いまさら、アンタたちに言われたくはない、と言いたげなのが「ホリエモン」側のホンネであろう。

 ただ、わたしが思うのは、「マネー」で可能なことと、事を成就し尽くすこととは別物なのだろうという点なのである。簡単に言えば、昔から、革命というものが「武力」だけによって成された場合、はなはだ不安定な結果に終わってしまうと言われてきたものである。本当の課題は、革命後の建設的な政治であり、それを進めるビジョンであり、またそれを担い切る人材パワーの成熟であるわけだ。つまり、リアルな革命とは、日常的なパワーがあり余る勢力が、腐敗した現勢力を押し退けるかたちでなされるものであり、武力という一要因はキッカケを作るに過ぎないということなのであろう。
 この武力という部分を「マネー」に置き換えても同様のことが言えそうな気がする。しかも、「時間外取引」でという今回のケースは、武力に即して言えば「クーデター」だという解釈もされかねない。たとえ合法的ではあってもである。

 なぜ、この点にこだわるのかといえば、環境変革というのは、「実の力、実勢」によってこそ完遂されるものだと信じて疑わないからなのである。武力でもなければ、「マネー」でもなく、また「イデオロギー」でもない。現状環境の制度を十分にはみ出して現に活動している「実勢」を発揮したマン・パワー以外ではないはずなのである。もちろん、そうした者たちは明瞭な新しいビジョンによって支えられているに違いなかろう。これが伴わない場合には、「一石を投じた」という称賛の結果はあっても、ねらいの成果を刈り取ることは難しいように推測するわけなのである。
 「ホリエモン」側は、マス・メディアへの露出度を高め、「辻説法」をしているつもりで視聴者の賛同を得ようとしているかのようであるが、しかし、本当に求められる「実勢」マン・パワーはTVの前に座っているものだろうか。TVの前で「やれー、やれー」と憂さ晴らし気分で同調している方々は、こう言ってはなんだが違うところに関心があるに過ぎないのである。泣く子も黙るほどの支持率を栄耀栄華したかの首相も、今や賞味期限が過ぎたのをなだめるのに精一杯ではないか。

 わたしは、環境変革を仕掛けることの足を引っ張るつもりは毛頭ない。むしろ、やるからには、後戻りしない形でやるべきだと考えるだけである。
 古い環境を維持しようとする側は、当然、ありとあらゆる「悪あがき」をするものである。白を黒と言うことなぞ平気で敢行するのが、崩壊目前の権力であり、勢力であるのは、日本海を隔てた空間を見ていれば一目瞭然であろう。
 つまり、よりいっそう歴史を逆戻りさせてしまう反動を呼び寄せてしまうだけに終わるような、単なる「挑発的」行為に終わってもらっては困る、ということが言いたいわけなのである。司法闘争は、最高裁まであるが、果たして、この国の司法ジャッジはしっかりとこの国の将来を見据えた判断ができるのであろうか。不遜なことを言うように聞こえるかもしれないが、感想と意見を表明することは自由であろう…… (2005.02.27)


 そもそも「グローバリゼーション」(アメリカン・スタンダード化)が、何の問題もなくスムーズに展開すると考えることに無理がある。どの国にも独自な文化があり、それが様々な問題点と成果の土壌となってきたに違いない。
 とりわけ、個人と集団との関係に関する微妙な問題については、表面的で型通りの発想を振り回すことは馴染みにくい。その顕著な例が、人の評価すなわち「人事考課」であろう。

「富士通は、幹部社員の成果の評価を従来の個人単位からチームワークなど組織単位の成果を重視する方法に転換した。給与には05年度から反映させる。個人が立てた目標の達成度で評価する目標管理制度による成果主義賃金で先駆けだった富士通だが、正当に評価されていないといった不満が社内で強く、社の業績低迷も続いた。バブル崩壊後、日本企業が導入を急いできた成果主義賃金が曲がり角に来たことを示している」(asahi.com 2005/02/24)

 ようやく、「(個人)成果主義評価」方式が冷静に受け止められるようになってきたようだ。この方式は、バブル崩壊後の各企業が、功を焦るかのように、あるいはリストラ推進の伴奏曲として、あたかも雪崩現象的に採用されたものであった。思えば、その雪崩現象は、「イラク人質」問題の際に、「個人責任」コールが沸き起こった風潮と酷似しているかもしれない。
 「成果を上げたものに厚い処遇をする」という響きはまことに聞こえは良いのだが、はたしてその「成果」をいかに的確にとらえるのかという問題がおざなりにされたわけである。もちろん、ここでいう「(個人)成果主義評価」方式とは、単に「成果」を重視するという視点ではなく、「個人主義的」評価方式のことである。そして、個人の成果をよりシャープにとらえるためには、個人の職務自体の輪郭がクリアーにカットされていなければならないはずである。
 しかしそもそも仕事というものは、周辺作業を含み「コラボレーション」の塊のようなものである。別に、日本の「集団主義的」スタイルを思い浮べずとも、ジョブ範囲の不明瞭さがあってこそ成立するという向きもあるのではなかろうか。

 もちろん、「職務範囲」というものは可能なかぎり厳密に定義されなければならないだろう。そうでなければ「職務責任」という視点が成立しない。にもかかわらず、周辺ジョブとの相互乗り入れ、相互協力という視点なしに仕事をとらえようとすると極めて非現実的なものとなりかねない。こうした実情の中で、「成果」だけを個人に帰属させようとムリをするならば、生木を引き裂くが如き軋轢を生み出すのは至極当然である。ここで生じた軋轢と不快感は、職場に必須のコラボレーションの空気そのものを希薄にさせ、職場を息苦しいものとするに違いない。
 スポーツの個人競技のように、個人の努力と成果とが見事に区分けされるような職務スタイルの業種では、これもまた、自己啓発心と前向きな競争心を刺激し、企業としての全体成果をあげることにつながるのであろう。しかしそうした業種は極めて限られていると見なければならない。
 また、時代の風潮が「グローバリゼーション」の進展によって、集団主義の後退と個人主義の浸透が深まったとはいえ、それは個人主義化がなされやすい生活(消費生活)の場での顕著な話なのであって、職場(生産の場)にあっては組織構造そのものが集団的性格を色濃く残していた、いるのではなかろうか。フロアーに「個人ブース」を設けたからといって仕事スタイルが個人主義になったと考えるのは浅薄過ぎる。

 だからといって、復古主義的にかつての「集団主義的」スタイルに遡るべきだと考えるわけではない。主として個人に焦点を合わせる時代の流れは否定できないであろう。ただ、現状の歪んだかたちとなりやすい個人主義の弊害を直視すべきだと思える。言い換えれば、生産の場にあって不可欠な「コラボレーション」の局面を決して過小評価すべきではないと考える。
 いやむしろ、職務の専門分化の深化がやむことを知らない以上、単なる協調性といった職務姿勢の問題ではなく、実際的な連携の問題として「コラボレーション」の課題からは目をそらすことができないと確信している…… (2005.02.28)