「知に働けば角が立ち、情に棹差せば流される」とは漱石の言葉だが、まったくいつの世も変わらないものだと痛感する。
いろんな人間が蠢(うごめ)いているわけだからそんな組み合わせの中でいろんなことが起こって当然なのかもしれない。そして、時代環境がきつくなれば、それぞれの人が余裕を失い、自身の「最悪の面」を曝け出して生き延びようともする。まるで、戦時下のドタバタような気がしないでもない。
いや、愚痴を書くつもりではない。書いたところでしかたがないので、多少とも前向きな方向にアレンジして書くべしである。
この時代では、いろいろなものに警戒心を働かせなければならない。まあ、しょうがないかとも思ったりする。ただ、以前から予想していたように、その警戒すべきことがらは、何も自身の外側だけに潜伏しているわけではなさそうである。
ストレスがひとつの例となる。これを貯め込むことを強いられてしまっているのがわれわれ現代人であるが、こいつがやはり多くの人の身体を蝕み始めている気配がする。
わたしとて、細かいことはおくとして、ストレス発の身体の不具合を二つや三つは抱えている。幸い、日常生活に支障をきたすものではないので助かってはいるが、いろいろと気の毒な話を聞かないわけではないのが昨今である。
しかも、「現代医学(西洋医学)」の切った貼ったの手法やクスリ漬けに慣れてしまっているわれわれは、目には見えないストレスというものに高を括ってしまっているようだ。「気持ちのせい」という言い方があるように、「気持ち」の持ちようで何とでもなるかのように見過ごしがちなのがストレスなのであろう。
しかし、コンピュータで、本体のハードウェアに対してソフトウェアが重要な役割を果たすのにも似て、人間の身体というハードウェアに対する気持ち(精神、マインド……)というソフトウェアのあり様は、極めて重要な役割を果たしているに違いないはずである。そうしたソフトウェアのあり様によっては、ハードウェアが予想もしない破損・破壊(自損・自壊)に陥ることがままありそうである。
昨今のわたしは、どちらかと言えば「東洋医学」にすこぶる好意的となり始めているから、「気」というような内的状態がボディの機能に少なからぬ影響を及ぼしているのだろうと直感している。ストレスの有無が、交感神経・副交感神経のバランスに影響を与え、その結果、単に気分の良し悪しに止まらない病状につながることがめずらしくなさそうである。
つい先日も、公的機関による調査では、増えつづけている自殺という哀しい事実の背景に、睡眠不足(あるいは不眠)の継続という事実が横たわっているとのことであった。そもそも、睡眠自体が、ストレスの有無に左右されていることは誰でも気づいていることであろう。
そこまでの悲劇には至らずとも、ストレス発の現代病がかなりありそうな気がする。若い時にはこんなことは考えにも及ばなかったが、歳をとると、こうしたメカニズムが理論ではなく体験によってもわかるようになってくる。
それから、ストレスというのは、必ずしも「自覚的」なストレスとばかりとは限らないようである。「参ったよなあ、こんなにストレスを背負って……」と自覚できるのは、ある意味では単純な部類であるのかもしれない。人知れずというか、自身でさえ明確に気づかずに、いわゆる「仮面的」に進行するというか、蓄積させてしまうようなストレスというものが、場合によってはやっかいなのかもしれない。
医者から、「何かストレスを感じるようなことがあったのではありませんか?」と問われても、「いいえ、特に最近、変わったことはありませんが……」と応える類がひょっとちしたら重症であるのかもしれない。つまり、当人自身、潜在意識に貯まり続けてしまっているストレスを通常の意識が自覚できない、というのは恐いことであるとともに、存外ありそうなことでもあるからだ。几帳面で、やり手で明るい性格の人であっても、それらがあいまって強い自尊心などを形成している人は、意識の上では「そんなことはストレスにつながりはしない」と強気で臨むようだが、心のすべてがそれに賛同しているわけではなく、結局、自覚なしでそうした負の感情が潜在意識に潜り込むとするならば、そいつはやっかいな症状をもたらすことになるのかもしれない。
「心的後遺症」という類のものもあることだし、あるいはこれまた増加の傾向をたどっている「鬱」病もこの辺のメカニズムに関係しているような気がする。あるいは、これは軽々しくは言えないことだが、「癌」の発病の背景に、こうした「仮面的」なストレスの継続が潜んでいるのではないかという推測も、まんざら的外れではないような気がしている。
ところで、ストレスの原因というのは、アバウトに言うならば、結局は、対他的人間関係によって生じているのではないかと推測している。いろいろなことをきっかけにはしていても、人の心で重きを占めるのは人間関係以外ではなさそうだからである。
で、人間関係とは、相手や周囲の対象だけで成立しているのではなく、当方側の対応と表裏一体となって展開しているわけだ。だから、ストレスからの脱却とは、ストレスが与えられない環境を期待するのも一手ではあるけれども、自身の姿勢や言動のあり方に踏み込んだ見直しをかけなければ解消しないという事情もありそうな気がしている。
それにしても、何かにつけて便利な現代には、やっぱりと言えるような、奇妙な落とし穴があるというように感じている…… (2005.07.01)