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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2005年07月の日誌 ‥‥‥‥

2005/07/01/ (金)  ただ事では済まされなくなった現代ストレス事情?
2005/07/02/ (土)  「カネのためなら」という現代の可燃性「ガス」充満と犯罪!
2005/07/03/ (日)  「ノーマル」なバッタと「群生」バッタのカラクリ!
2005/07/04/ (月)  異常梅雨 ― 地球環境問題 ― 都議選低投票率 ― 政治家たちと有権者!?
2005/07/05/ (火)  もう一度、「モノが売れるメカニズム」の原点に返るべきか……
2005/07/06/ (水)  「弱肉強食」と「二極階層分化」の雪崩れを頻発させる社会・経済構造!
2005/07/07/ (木)  ジワジワと広がる「一億総経営者」化とも言うべき風潮?!
2005/07/08/ (金)  「かわいらしい」ものを見て毎日を過ごしたいという贅沢な願い?!
2005/07/09/ (土)  如何にも休日モードの頭と前代未聞の赤っ恥!
2005/07/10/ (日)  転げ落ちていく「こなし」仕事を食い止めるものは……
2005/07/11/ (月)  行き交う人に「ついでに買って貰う」というありがたさ!
2005/07/12/ (火)  「ビジョンなくして改革なし」と「将来に関する言いようのない不安」!
2005/07/13/ (水)  地元・町田もヘンな空気に染まっているのか?
2005/07/14/ (木)  言葉遣いの正確さとともに、実態の異常・異変にも感度を持つべき!
2005/07/15/ (金)  「何事も小から大へひろがる。小を見捨てて大が成ろうか」
2005/07/16/ (土)  蚊取り線香の匂いがかき消してくれる悪臭……
2005/07/17/ (日)  苦しい家計を踏ん張るための「足場固め」?
2005/07/18/ (月)  痒いけれど、それもまた夏の風物……
2005/07/19/ (火)  システム屋は、ますます「ユーザ・オリエンティッド」なアプローチを!
2005/07/20/ (水)  裸にされてパチンコ屋を出ると、そこはまたパチンコ屋であった……
2005/07/21/ (木)  相次ぐ「未知との遭遇」を淡々とやり過ごす風潮?!
2005/07/22/ (金)  「重箱」と「タッパーウェア」の文化的対照?
2005/07/23/ (土)  夏休みの「絵日記」から始まる「自分探し」への一生の道のり……
2005/07/24/ (日)  人々の頼りない「求心力」と、逆に強靭な「遠心力」を発揮する時代?
2005/07/25/ (月)  「拡散」する世界の事象を自分なりに掌握する「圧縮」方法?
2005/07/26/ (火)  「そんなことが言い出せる『空気』じゃなかったんですよ……」
2005/07/27/ (水)  汗をかくことの効用について思う……
2005/07/28/ (木)  やっぱり「臥薪嘗胆」もどきが必要かもしれない現代生活!
2005/07/29/ (金)  インターネットへの攻撃に抗して、IT技術者たちはレジスタンスを!
2005/07/30/ (土)  ひとまずはホッとした気分になり切ってもいいんでしょう、きっと……
2005/07/31/ (日)  「良き動機」の行動は万事うまくゆくもの!






 「知に働けば角が立ち、情に棹差せば流される」とは漱石の言葉だが、まったくいつの世も変わらないものだと痛感する。
 いろんな人間が蠢(うごめ)いているわけだからそんな組み合わせの中でいろんなことが起こって当然なのかもしれない。そして、時代環境がきつくなれば、それぞれの人が余裕を失い、自身の「最悪の面」を曝け出して生き延びようともする。まるで、戦時下のドタバタような気がしないでもない。
 いや、愚痴を書くつもりではない。書いたところでしかたがないので、多少とも前向きな方向にアレンジして書くべしである。

 この時代では、いろいろなものに警戒心を働かせなければならない。まあ、しょうがないかとも思ったりする。ただ、以前から予想していたように、その警戒すべきことがらは、何も自身の外側だけに潜伏しているわけではなさそうである。
 ストレスがひとつの例となる。これを貯め込むことを強いられてしまっているのがわれわれ現代人であるが、こいつがやはり多くの人の身体を蝕み始めている気配がする。
 わたしとて、細かいことはおくとして、ストレス発の身体の不具合を二つや三つは抱えている。幸い、日常生活に支障をきたすものではないので助かってはいるが、いろいろと気の毒な話を聞かないわけではないのが昨今である。
 しかも、「現代医学(西洋医学)」の切った貼ったの手法やクスリ漬けに慣れてしまっているわれわれは、目には見えないストレスというものに高を括ってしまっているようだ。「気持ちのせい」という言い方があるように、「気持ち」の持ちようで何とでもなるかのように見過ごしがちなのがストレスなのであろう。
 しかし、コンピュータで、本体のハードウェアに対してソフトウェアが重要な役割を果たすのにも似て、人間の身体というハードウェアに対する気持ち(精神、マインド……)というソフトウェアのあり様は、極めて重要な役割を果たしているに違いないはずである。そうしたソフトウェアのあり様によっては、ハードウェアが予想もしない破損・破壊(自損・自壊)に陥ることがままありそうである。
 昨今のわたしは、どちらかと言えば「東洋医学」にすこぶる好意的となり始めているから、「気」というような内的状態がボディの機能に少なからぬ影響を及ぼしているのだろうと直感している。ストレスの有無が、交感神経・副交感神経のバランスに影響を与え、その結果、単に気分の良し悪しに止まらない病状につながることがめずらしくなさそうである。
 つい先日も、公的機関による調査では、増えつづけている自殺という哀しい事実の背景に、睡眠不足(あるいは不眠)の継続という事実が横たわっているとのことであった。そもそも、睡眠自体が、ストレスの有無に左右されていることは誰でも気づいていることであろう。
 そこまでの悲劇には至らずとも、ストレス発の現代病がかなりありそうな気がする。若い時にはこんなことは考えにも及ばなかったが、歳をとると、こうしたメカニズムが理論ではなく体験によってもわかるようになってくる。

 それから、ストレスというのは、必ずしも「自覚的」なストレスとばかりとは限らないようである。「参ったよなあ、こんなにストレスを背負って……」と自覚できるのは、ある意味では単純な部類であるのかもしれない。人知れずというか、自身でさえ明確に気づかずに、いわゆる「仮面的」に進行するというか、蓄積させてしまうようなストレスというものが、場合によってはやっかいなのかもしれない。
 医者から、「何かストレスを感じるようなことがあったのではありませんか?」と問われても、「いいえ、特に最近、変わったことはありませんが……」と応える類がひょっとちしたら重症であるのかもしれない。つまり、当人自身、潜在意識に貯まり続けてしまっているストレスを通常の意識が自覚できない、というのは恐いことであるとともに、存外ありそうなことでもあるからだ。几帳面で、やり手で明るい性格の人であっても、それらがあいまって強い自尊心などを形成している人は、意識の上では「そんなことはストレスにつながりはしない」と強気で臨むようだが、心のすべてがそれに賛同しているわけではなく、結局、自覚なしでそうした負の感情が潜在意識に潜り込むとするならば、そいつはやっかいな症状をもたらすことになるのかもしれない。
 「心的後遺症」という類のものもあることだし、あるいはこれまた増加の傾向をたどっている「鬱」病もこの辺のメカニズムに関係しているような気がする。あるいは、これは軽々しくは言えないことだが、「癌」の発病の背景に、こうした「仮面的」なストレスの継続が潜んでいるのではないかという推測も、まんざら的外れではないような気がしている。

 ところで、ストレスの原因というのは、アバウトに言うならば、結局は、対他的人間関係によって生じているのではないかと推測している。いろいろなことをきっかけにはしていても、人の心で重きを占めるのは人間関係以外ではなさそうだからである。
 で、人間関係とは、相手や周囲の対象だけで成立しているのではなく、当方側の対応と表裏一体となって展開しているわけだ。だから、ストレスからの脱却とは、ストレスが与えられない環境を期待するのも一手ではあるけれども、自身の姿勢や言動のあり方に踏み込んだ見直しをかけなければ解消しないという事情もありそうな気がしている。
 それにしても、何かにつけて便利な現代には、やっぱりと言えるような、奇妙な落とし穴があるというように感じている…… (2005.07.01)


 「悪事、千里を走る」(悪い噂や評判はたちまちのうちに広まってしまうこと)ということわざがある。もとの意味は、悪い噂にかぎって早く伝わるということであり、ここにも人の心理の妙な部分を見つめる視点があろうかと思うが、それとは別な意味で、「悪事」それ自体もまた広がることに時を待たないようだ。
 つい先頃まで、お年寄りを狙った「振り込め詐欺」が世間を騒がせていたかと思えば、今度は、同様に独居老人を食い物にする「リフォーム詐欺」が横行しているとのことだ。大々的にたぶらかしていた連中が警察の捜査を受けているようだが、きっと、これもまた被害は氷山の一角が露呈しているに過ぎないのではないかと思える。

 こうした、「悪事」が瞬く間に広がっていく事態を見るにつけ、「善行」の広がりは遅く「悪事」の拡大は猛スピードという情けない世相に気づいてしまう。
 「悪事」の拡大が猛スピード化という傾向に対しては、端的に言って、なぜ、関係当局の取り締まりは遅いのか、悪者に出し抜かれないしたたかな頭脳と迅速な行動がなぜ伴わないのか、と素朴な疑問を抱いてしまうのである。
 カード詐欺にしてもそうだし、犯罪の巣と同義語となりつつある「出会い系サイト」の問題も、さらにはコンピュータ・ウイルスについてもそうだ。悪意を持った連中の方が、頭脳と行動力を秘めているということなのであろうか。確かに、旧態依然とした警察当局の実情は、現代の犯罪に対して乖離し過ぎていそうな気配がする。

 「悪事」の拡大と猛スピード化の原因は、端的に言えば、当事者たちが頭脳と行動力に優れているかどうかは別として、「金銭欲」が天井知らずに刺激された現代の社会的仕組が基盤となっていることは間違いないだろう。そんな中で、「金銭欲」という度し難い動機が、他の要素に比べて群を抜く「強靭さ」を持ち、七難八苦を突破させてしまう性格を持っているに違いない。
 その「強靭さ」の前には、お年寄りたちへの同情とか、弱者からむしり取ることへの恥とか、あらゆる良心は麻痺するのであろう。もちろん「反社会性」というようなものは、端から意識に遡上していないに違いなかろう。まともな市民であっても、現在のこの「社会」の不公正さや異常さに腹を立てているくらいであるから、「悪事」を働くものたちがこの「社会」に「反する」ことに何の躊躇もするはずがなかろうと推定せざるを得ない。だから、この辺の事情を、「社会」を司ると自任する政治家たちは心すべきなのであろう。

 「社会」という場合、犯罪抑止の効果があったと思えるのは、「世間」という存在であったかもしれない。いわゆる「世間が許さない」というような「世間」である。犯罪行為へと下降しようとする者が、日頃自分と馴染んできた家族、親族、知人、友人などとの関係で「世間体」がなくなることを強く意識したのが、従来の一般的な状況であっただろう。
 しかし、この辺もまた、「世間」というものを構成してきた日常的関係の濃度が薄まり、存在感を希薄にさせているという事情があるのかもしれない。その代わりに存在感を増していると思えるのが、TVのニュースで、容疑者逮捕を報じる場面なのかもしれない。多分、従来の「世間」というものを意識しない若い世代であっても、逮捕された姿が一気に報じられてしまうことは無視できない恐怖であるに違いないだろうと思える。本来を言えば、「容疑」という段階で「さらし者」のように扱われるのは人権侵害とも思えるが、犯罪抑止力がとことん低下してしまった今日にあっては、止むを得ないのかとも……

 「悪事」の拡大と猛スピード化が、クルマ社会や、ITをはじめとする現代の技術的成果を最大限悪用している事実にも当然目を向けなければならないだろう。ただ、ここでも、関係当局の技術的後進性は嘆かわしい。「科学捜査」なぞ、言葉に出していうのも恥ずかしいほどに当然のことだと思える。一般市民の日常生活が、もはや「科学」の恩恵に浴していないものがない環境となっているからである。関係当局の職場環境は、もっともっと一般的水準に迫る「科学」化を図るべきだし、そうすることにより、組織自体のあり方やスタッフのセンスも現代に見合った合理的なものへと変わってゆけるはずである。

 それにしても、犯罪をめぐる現在のわれわれの環境は、古い言葉で言えば、「猫に鰹節」状況、ありていに言えば「一触即発」のガス充満状況、だと思える。「カネのためなら」どんな労をも惜しまない空気というのが、現代の可燃性「ガス」なのかもしれない…… (2005.07.02)


 何度か「バッタ」について書いてきた。「ノーマル」なバッタと「群生」バッタについてである。単独では臆病で大人しい「ノーマル」なバッタが、特別な条件に遭遇すると、猛烈な繁殖力を持つとともに、羽が大きくなり大群で大空を飛べるようになり、あっというまに農作物を食い荒らす「群生」バッタに豹変する、という問題である。
 この「ジキル博士とハイド氏」のような変貌の仕方、個と群れとの対照的な差異が、人間の個と集団とのあり方に暗喩的であることからか、興味が尽きないのだろう。
 都議会選挙の投票から戻って、何気なくつけたTV(NHK教育TV)で、米国の科学者が、この「バッタ」の豹変の不思議を研究しているというものであった。その科学者の研究動機は、わたしのような暢気(のんき)なものではなく、アフリカで今なおこの「群生」バッタによって食糧危機が発生しているからなのだという。極めて実利的な緊急性を要する課題なのだそうだ。

 番組では、科学者たちの「バッタ」研究の実態がいろいろな角度から紹介されていた。そこでは、「ノーマル」なバッタが「群生」バッタへと豹変していくきっかけというのが、「バッタ」たちが「食糧難」となり狭い地域に集中して群れ始め、互いに後足を触れ合わせてしまうことだというのが興味深い。後足への刺激が、神経を通じて脳へと伝わると、そこで体型その他の変貌のスイッチがONとなるそうなのである。そうした構造がDNAに刻み込まれているとのことだ。
 こうした実験的成果に加えて、歴史上の「群生」バッタ被害にも言及されていた。というのも、北米でもこの種の被害と闘った経緯があったそうであり、それがある時期からパタリと途絶えるという興味深い事実があったのだそうだ。つまり、北米での「群生」バッタは絶滅したそうなのであり、そうした事実を検証することで、「群生」バッタの駆除についての何らかのヒントが得られるかもしれないという関心なのである。
 一連の研究から、北米での「群生」バッタの絶滅は、何と、あの「ゴールド・ラッシュ」で、「バッタ」たちが産卵する場所と決めていた渓谷に、多くの人間たちが移住して、おまけに開墾までし始めて産卵した土壌を踏み荒らしたからではないかと推定されていた。このことから、「群生」バッタたちにも「無防備な弱点」があり、それは産卵期だというのである。膨大な数の成虫となってしまうと、もはや恐いものなしで手がつけられなくなるのに対して、産卵後の卵の時点で一気に対処するならば、絶滅に至らせる打撃を与えることも不可能ではないというのである。

 こんな経緯で、その科学者たちは、先ずはそうした彼らが無防備な時期に「攻撃」のねらいを定めること、そしてその方法は、いまだ研究中ではあるそうなのだが、「群生」バッタへと変貌できるDNAのある部分を遮断してしまうことが有力視されているらしい。彼らは、土中に産卵をするのだが、その際、卵とともに土中に注入される「泡」が当該のDNAを伝えているとの読みがされていて、ここに何らかの変化を与えれば、「群生」バッタへと変貌するチャンネルを閉ざしてしまうことができるのではないかというわけだ。 生物のDNAを操作するというのは、ちょっと危険な印象を拭い切れないわけだが、現にアフリカでの深刻な食糧難を解決しなければならない緊急課題がある以上、この研究の成果が待たれるわけである。

 長年、この「ノーマル」なバッタから、パワフルな「群生」バッタへの豹変という現象に関心を持ってきた自分としては、なるほどなあ、と番組の推移に目を釘付けにされてしまった。しかし、あの「仮面ライダー」の「ヘンシーン(変身)!」の背後に、国際問題から、歴史上の問題、そしてDNAのメカニズムの不思議など、膨大な問題が裾野を広げていたのだから、道理で何かあると匂っていたはずである。
 それにしても、「食糧危機」に遭遇することで「群れ」の濃度を高め、そのことが「君子を豹変」させる「スイッチ」となっていたというDNAロジックには、目を見張らされたものだ。やはり、長久の時間をかけた自然の試行錯誤というものは、決してあなどれないものだと感じざるを得なかった。と同時に、そうしたカラクリを究明してしまう科学、人間の頭脳(科学者たちの頭脳)の優秀さにはさらに驚嘆してしまうわけだ…… (2005.07.03)


 今年の梅雨は、気圧配置の「乱れ」による梅雨前線の右往左往(?)によるものか、異常な結果をもたらしているようだ。カラ梅雨的な日々が続いたかと思えば、新潟や愛媛などに集中豪雨をもたらした。海外でも、中国のある地域に豪雨が襲ったとの報道もある。今晩あたりは、東日本にも強い雨をもたらすのではないかと予想されている。やはり、じわじわと地球温暖化の影響が気象に少なからぬ作用を及ぼしているのであろうか。そして、この傾向は今後どうなってゆくのであろうか。現在の環境問題への取り組み状況を見回す時、急遽好転するとは到底思えない。ただ、この悪化の速度をどうしたら緩やかなものとすることができるのだろうか。

 こうしたことを書いていると、足元が抜け落ちるような虚しさに襲われるのも事実だ。地球全体の未来のことを思い浮かべる以前に、身の回りの生活状況、仕事環境、そして経済状況、政治状況といった比較的手のつけやすい空間においてさえ、無力感を強いられるような不透明さの時代だからである。
 こうした環境に対して有効な手が打てないでいるわれわれが、その何百倍、何千倍もの広がりと難問を抱えるグローバル空間の将来を、まともに憂えることができるのか、という思いなのである。
 昨日書いた「バッタ」の話ではないが、おそらく、今すぐにでも、「後足(まあ、人間の場合足ということになるが……)が刺激され」その信号が脳に伝えられ、「群生」モード、つまり全人類がこぞって人類という括りに目覚めるというような意識改革がなされないかぎり、この地球環境は、あと百年とてもたないのではなかろうか。そんな悪い予感が脳裏をよぎる。

 昨日は都議会選挙であった。上記の環境問題をこれに関連させるなら、ふたつのことに着目したい。
 ひとつは、相変わらずの「低」投票率の問題である。43.99%と、過去二番目の低さであったそうだ。最低限の政治行動である選挙に参加しない人を、感情的に言えば、わたしは軽蔑する。いっさいの言い訳に対して聞く耳を持ちたくない。
 あとでも述べるように、政治家たちにろくな人間がいないのは、投票に行かない人たち以上にわたしは痛感している。都政のトップである都知事からして、どんなに聖徳太子のような超人的能力がおありなのかは知らないが、執務すべき日数の半分程度しか登庁していないというのであるから、現状認識のお粗末さ、投げ遣りさは言語を絶する。何も現場に行かなくても、考えることは考え、怠りはないとでも言いた気であるが、どうもその傲慢さがいただけない。現場にこそ問題の癌があったことは、副知事の言動が何よりも示していたのではないのか。そもそも、政治家たるものが、現場というものを軽視して、観念的な言辞に酔っていてどうなる。政治家に試験があるのなら、「一次試験」で外されるべきかもしれない。

 いや、「低」投票率の問題に戻る。現状の庶民の政治意識全体を云々することは差し控えたいが、冒頭の環境問題に即して言えば、公的に認められた権利でもあり、またある意味では義務でもあるその投票に参加しない人が多いという事実は、社会環境というものを取り違えている人々が多いということになろう。「ただ乗り」と言ってもいいが、快適な「乗り物(社会環境)」であれば、まだ話にもなるが、その「乗り物」が劣悪で危険でもあるのだから、シャレにもならないと言うべきであろう。何のことはない、住民税という代金だけを取られて、乗り心地の悪さをじっと耐えている絵に描いたマヌケ以外ではないではないか。
 人間、憤るべき時におさまり返っているのは、現状の環境を是認していることとまったく同じなのであり、そうしたこともわからないようであれば、「乗り物」、「ゲーム」から降りるべきなのかもしれない。権利を活かそうと願う者たちにとってはなはだ迷惑至極であるに違いないからだ。
 たかが、都政という、身近な空間の出来事ににらみ(チェック)が利かせられないようでは、目が行き届かない世界各地で垂れ流される環境破壊物質の阻止なぞできるわけがない、つまり、地球破壊は見て見ぬフリをするしかないではないか、ということになる。
 要するに、好むと好まないとにかかわらず、現代のわれわれは他の人間たちと「運命共同体」なのだという厳粛な事実が差し迫った事実となっているわけなのだ。単にその事実は、根拠のない楽観性と、虚飾に塗りたくられた「マイ・スペース」のガラクタによって覆い隠されているに過ぎない。それは、あたかも、地球がすっ飛んでも何の影響もないとでもいうような閉ざされた虚構をかもし出しているかのようだ。

 ふたつ目は、触れたくないほどいやな問題なのであるが、政治家についてである。気分が悪くなってくるので要点だけを書くにとどめたい。要は、もはや地球規模に広がってしまった環境問題のような、人類に課された難問が日常的課題になり始めている時代なのだから、政治家の資質というものは、「何十週遅れ」の単なる権力志向の人間、擬似カネ儲け目当ての人間たちでは全然間に合わないということなのである。彼らの存在は、部分的な利益集団の利益を絶対視することにより、事態をこじらせているに過ぎないのだ。
 地球環境保全の問題のような、今、クローズアップしつつある緊急課題は、政治家たちのような人間が、最も苦手とする問題であるに違いないのである。彼らは、背後に控えた現存する利益関係者たちに、目に見える利益をくすね与えることを仕事とする特殊なビジネス勢力だと言って間違いではないはずである。
 しかし、グローバル環境問題は、次世代以降の人間がこの結果を引き受けることになる問題であり、端的に言えば、現時点での「被害者」は現存しないと言える。むしろ、現時点では、環境を悪化させたり、そのことによって現実的な利益を得る具体的な「加害者」が存在することになる。政治家たちのビジネス・パートナーがそうした彼らであることは自明であろう。だから、環境問題と政治家たちとは離反的関係にあると強調したいわけなのである。「問題先送り」を合言葉とする日本の保守政党なんぞは、今でさえ、次期総選挙までのスパンのことしか頭になく、もちろん、日本人の子孫たちのこと、まして世界の人類の次世代、次々世代のことなんか、その狭隘な頭と胸のうちにおさめているわけがないと推定する。

 だから、そんな政治家という人種に投票なんぞしたくないというセンスは百もわかるのである。だが、そこを堪えて処すべきであろう。将棋をするのに、何も、「歩」や「桂馬」や「香車」に、別に愛や信頼を抱いていなくとも、将棋というゲームはできるはずである。それでいいのではないか。手頃な政治家を「手駒」のように利用するという寛大な了見を持ち、暫時「使い捨て」にしながら社会環境の改善に努めるのが、有権者たる市民、国民であっていいと思うのである…… (2005.07.04)


 このところ頭の使い方が、「文系」的分野に偏っていたようで、久々に「数理系」というほどではなく、「非」文系的分野の作業を日がな一日やっていたら、何だか頭がスッキリしてきたようだ。「右脳」にばかり負荷をかけていたのに対して、「左脳」にもお呼びをかけたことが効果てき面であったのかもしれない。
 なあに、やったことは大したことではなく、かつていじり回して作った社内業務用の小さな表計算システムを現状に見合った構造にリフォームしただけのことなのである。表計算ソフトの「Excel」で、何やかやと、社内業務管理用のデータ自動処理用のシステムを作ってきたのだった。「Excel」が普及する以前には、「MultiPlan」という表計算ソフトで、プロジェクト管理帳票、売上管理帳票、給与管理帳票、はたまた経理関係から資金繰りに至るまで、すべて手作りの自動計算システムで賄ってきた。「関数」の数式を適宜組み合わせると、ほとんど電卓なぞ使わなくとも瞬時に集計ができてしまうので重宝してきたのである。
 経理的な後計算のみならず、予想数値の入力によってシミュレーションまがいのことまでできるので、業務管理全体において無くてはならない道具立てとなっていたかと思う。
 現在では、ビジネス向けのさまざまなアプリケーション・ソフトが比較的安く出回っているので、もしそれらが自社の社内業務とマッチするのであれば大いに活用すべきかとも思う。
 ただ、そうしたものは、どうしても「押し着せ」的な点が拭いきれず、不便な思いをすることもままあるだろう。そこへ行くと、表計算ソフトであったり、「Access」などの簡易型データ・ベースソフトで自前のシステムを作るならば、気持ちいいほどに、使い勝手の良い道具立てを設えることが可能である。しかも、環境変化に即して、すぐにでもシステム・リフォームができてしまうため、便利なことはこの上ない。
 とともに、冒頭で書いたように、自分たちで使うシステムを自分たちで構築するというのは、何よりも、自分たちの頭の中が「耕される」のがおまけ的メリットだと言えるのかもしれない。
 道具というのは、その道具に対して「疎遠」な関係であるよりも、「精通」していた方が、良いに決まっている。できれば、使っていながら、ここにこう入力すると、こういった計算をして、あのカラムに結果を出すんだな、なんぞと操作する側の頭の働きも一緒に走って行けるならば、これに越したことはない。
 確かに便利だと感じることができたとしても、どんな処理過程が潜んでいるのかわからないような、他者が考案した「ブラックボックス」的なシステムというのは、やはり不安を伴うし、何だか「お客様」的な位置に押しやられているようで、要するに「疎遠」感が残ってしまう。しかも、何ら頭を使うこともないことになりそうだと、ラクだというよりも、ああ、こうしてメキメキと怠惰なバカになって行くのだな、と余計な心配までさせられてしまうことになる。

 とにかく結果を得るというアプローチというのは、必要に迫られてやむを得ず採るというのはいたしかたないだろうが、やはり、できれば、何事につけそのプロセスに立ち会うということが重要なのかもしれない。
 「餅は餅屋」ということわざにも真理はあるはずだろうし、そうすることがビジネスでは「大きく儲ける」ことにも繋がるのかもしれないとは思っている。「器用貧乏」という戒めもあるくらいである。
 ただ、「結果志向」だけのアプローチというのは、どこか「気が利いていて間が抜けている」ような気がしてならない。突拍子もないことを言えば、消費者というのは、ただ単にある種の結果が得られることだけを望んでいるのではないように思う。しかし、そんな商品、新製品ばかりがやたらに溢れ返っている。だから、いまひとつ売れないということもあるのではなかろうか。
 消費者、ユーザーというものは、自分が無視されたくはない存在のはずであり、自分も素人ながら大いに「参画したい」そんな存在のはずである。ただ、あまりにも専門的でありすぎると、閉口するのだろうけれど、サポートをしてもらってほどほどに「臨場感」なり、「実感」が伴うならば、「これはいい製品だ!」と口走るのではなかろうか。

 だから、完全自動化が、「完全に」達成された世界というのは、本当は「夢の未来」なんぞでは決してないと思えてならないのである。そんな世界では、メキメキと怠惰なバカになった者たちが、結局は何をしたいのか、何をすべきなのかに途方に暮れるだけの話ではないかと、そんなことを想像するのである。
 ひとつ、思い当たることが浮かんだが、数学などで「公式」を覚えるということは、痛し痒しなのではないかと思ったりする。確かに、「根の公式」などを使えば、容易に問題を解くことが可能となる。しかし、同時に、一切の思考の試行錯誤がスポイルされるとともに、得られる結果からも、解けて当たり前という心の振幅の無さが伴うはずである。
 別な例で「追い討ち」をかけるなら、昨今、俄然と軽視され始めている「道徳」というものもそうである。「人を愛することが善」という、いわば「公式」のようなものを覚えさせることは、人の思考、行動を速やかに運ばせる効果はあるかもしれないが、そのことが大事なことなのであろうか。そんな「公式」や「定理」のようなものが先行して、人は筆舌し難い感動を得るものであろうか。
 そうではなくて、自身が悪戦苦闘の果てに「人を愛すること」の感動的事実に気づいた時にこそ、本当の意味があるということになるのだと思う。
 かなり、強引なアナロジーを引いているが、つまり、人のすることは、結果だけに意味があるのではない、もちろん他者のお膳立てによってということであればなおのことそうであろう。プロセスに自身が参画し、自身の内側の脳であるとか、心であるとか、あるいは血潮であるとかが蠢いてこそ、事の意味や価値が得られるというのが相場ではないのかと思うわけである。

 決して、目新しいことではないのだが、モノや製品、あるいはサービスを売るビジネスは、「メキメキと怠惰なバカになることを望む」ユーザーなんぞを相手にせず、いつも参画意欲をウズウズとさせているアクティーブな顧客像をしっかりと思い描くべきなのではなかろうか。こんなところを煮詰めれば、いいビジネスのタネが撒けるのかなあ、なんぞと、捕らぬ狸の何とやらというわけだ…… (2005.07.05)


 昼食時には表に出るのだが、駅前あたりを歩いていると、こんな「田舎駅」であっても空間活用の「新陳代謝」が進められていることに気づく。つまり、うだつの上がらない店舗が立ち退いたり、付加価値を生み出せずにいる民家などの非・ビジネス建造物が取り壊されていたりするということなのである。
 それらに接するにつけ、考えさせられることは、現在の時流とは、少なくとも「金利」以上の付加価値を、日毎、確保してゆけない経済主体は、人であれ法人であれ蹴散らされざるを得ない「超」合理的な色彩を帯びている、ということであろうか。まあ、昔から人の世とはそんなものであり、今に始まったことではないのかもしれないのだが……。

 今、「新陳代謝」と書いたが、現実に即して歯に衣を着せぬ言い方をするならば、「弱肉強食」と「二極階層分化」の雪崩れ現象が確実に進行しているということである。その動向の速度には注意を要するはずだ。そして、あるところまで「悪化」するならば、まさに雪崩れのような「惨事」が引き起こされないとも限らないと想定しておくべきなのだろう。
 従来の時代では、社会の底辺を彷徨う「敗残者」とは、ある意味で限られた「人種」であったようにも思える。要するに、「あれだけ、酒だ女だ博打だとムチャクチャをやったのなら、ムリもないよ」とでも言われるような「人種」が「敗残者」と呼ばれていたのではないだろうか。
 しかし、今現在、大地にパックリと口を開けてアリ地獄さながらに、落下してくる者たちを待ち受けているような、この社会システムというものは、「ムチャクチャな人生」とは縁がない普通の人々をも、アリ地獄に突き落とす可能性を十分に備えた仕組みなのだと言うべきではないかと思う。それが、「弱肉強食」と「二極階層分化」の雪崩れを頻発させる社会・経済構造(米国型、グローバリズム型「構造改革」社会・経済!)なのである。えーっ、いつからそんな構造になったの? と言ってみたくもなるが、端的に言えば、ニヤニヤとした薄笑いの表情で、しかも来るべき社会像の明確な提示もなく始められた「構造改革」スローガンの小泉内閣が、これを加速させたわけである。
 その小泉内閣は、今、「構造改革」の「本丸」課題として「郵政民営化」問題で史上まれに見る「不様さ」を曝け出しているわけだが、何の政治理念もないからこそ、同じ党内から反旗を翻す部分をも生み出し、将来不安に怯える国民をなおのこと不安にさせているかに見える。

 おそらくは、大きな時代のうねりから言えば、現代環境は、「構造改革」的な社会・経済改革がなされないで済むほど甘くはなくなっていると思われる。歴史の一からやり直すべく、思いっきり過去へと遡ることが可能ならまた別だとしても、「ボタンの掛け違い」がここまで進められてきた以上、何らかの「大なた」の改革が必要なことは、周知の事実だと言えよう。
 しかし、「大改革」にはそれなりのビジョンというものが必須である。言葉では語り尽くせない不測の事態が発生するのが現実であるが、だからこそ逆に、言葉で詰められる部分は徹底的に詰めた上で、未知数に挑むのが定石なのであろう。
 しかし、言葉による詰めというものが、この内閣にはなかった。小泉氏の厚顔な屁理屈と、官僚たちによる作文教室はあっても、アブナイ時代をともに生きる人間の、全身全霊を託した言葉というものがいっさいなかった。そして、国民自身も、我田引水のイージーな期待感を抱くことはあっても、首相にこの国の将来を問い詰めていく、そんな真摯さがなかった。自分の子どもたちの将来を本当に案ずるのならば、十年、ニ十年後のこの国が一体どうなるのかを詰問していかなければならなかったはずだ……。

 ひょっとしたら、今のこの国の混乱の実態は、あのイラクの現状と大差ないのではないかと悲観視することさえある。確かに、自爆テロの頻発というような過激な現象はないに等しい。しかし、すべてが、「陰にこもって」潜伏しているに過ぎないとも思える。文明がもたらしている外面的環境が、平静さを装わせているものの、人間世界の本質でもある人々の意識や心理の荒廃ぶりは、もはや世界のボトムに位置するほどではないのだろうか。一向に減少しない自殺者の数にも憂えず、歴史的事実に対しても聡明とはなれず、経済・財政の将来に膨大なマイナスがあることをも直視できず、愚かな政治家にタレントに対するのに似たような拍手を贈り、そして……、いやもういい……。
 文明が与えている外面的環境は、束の間の「虚構」でしかないことにだって注意を向けておかなくてはならないかと思う。言うまでもなく、潜伏しているとされる巨大地震の可能性のことである。現都知事でさえ、その際の被害の規模には打つ手なしとでも言うような発言をしていたらしいが、こうした危険な将来に対しても、まるで他人事のような姿勢しかとれないわれわれは、やはり、「病んでいる」としか言いようがない。

 とにかく、まともな手掛かり足掛かりを失ったかのようなこの泥沼ごときの環境に、何かアクションの起点となり得るものを見出すなり、作り出さなければいけない。
 「きちんと」事が始まっていくような、きっかけ、トリガーというものが必須なのだと思われる。本来、政治に役割りというものがあるとするならば、そうしたトリガーを創ることだと考えたいが、残念ながら、現行の政界では、口は「きちんと」だが、為すべきことは「きちんと」外すというのが実態なのだから、何をか言わんやである…… (2005.07.06)


 いよいよ「生き馬の目を抜く」(すばしっこく人を出し抜き、ずるがしこくて抜け目がなく、油断もすきもならないこと)日常環境となってきた気配だ。これが「構造改革」時代の変化であろうかと、再認識させられる思いでもある。何がどうと、一々例を挙げるのは煩わしいが、要は、世間全体が、カネの数字に執拗にこだわり始めたと感じるのである。
 経営者という立場でありながら、恥ずかしくも結構、カネの数字に対するアバウトさを残してしまっている自分なぞは、こんなことではマズイな、と反省させられたりもする有様である。この環境に即したもっとリアルなカネ感覚というものを身につけなければ、ひょっとしたら、この時代の環境認識において大きくズレてしまうかもしれない、という懸念を抱いたりしている。

 消費税制度が実施されてからというもの、買い物において「一円」硬貨が不可欠となったのはもう大分以前からの話である。当初は、「一円」硬貨をやり取りすることが煩わしいというか、バカバカしいという受けとめ方さえしたのを覚えている。が、それもやがて慣れたものではあるが、本来であればその時点から、買い物においては「一円」でも安く! という感覚を身につけて然るべきであったのかもしれない。が、特に「カネ持ち」でもないくせに、鷹揚に構え続けてきた嫌いがあるのが自分であっただろう。
 ところが、昨今の新聞の折込広告にせよ、ショップの店頭価格では、「一円」単位の表示が一般化した、というよりもこれ見よがしに展開しているのが昨今だ。そこには、「一円」でも安く買いたいという消費者や、それで一人でも多くの消費者を掴まなければならないとする店舗側の、切実な思惑が託されているのであろう。
 今日も、ある駅近辺の角のビルの前をクルマで通りかかった際、あるひとつの印象を受けたのである。
 そこは、一番最初は、何と「銀行」であった。が、不良債権問題をはじめとして、銀行が店舗の統廃合をすることになったようで、銀行はそのビルから立ち退いた。
 そして、その後、「中古書籍」の売買で弾みをつけていた「中古品」販売のとある業者がテナントとなった。「銀行」から、「中古品売買」業者の店舗へと替わったことでも、経済情勢の推移が象徴的な感じとれたわけだが、やがてその店舗も移転して、今度は、「ドラッグ・ストア」兼「100円ショップ」という業者の店舗にチェンジしたのであった。
 どうも、「中古品売買」業者は、いま少し人通りの激しい別の駅の近辺に「ステップ・アップ」移転したようで、決して行き詰まったからという理由ではないように推定される。しかし、今度の店舗というのが、「一円」単位の値引き価格が焦点となるような「ドラッグ・ストア」であり、今日も、その安売り値札が覗けたものであった。しかも、「100円ショップ」といえば、「一円」単位の販売利益を積み上げようという商売なのであろう。
 わたしがその光景から得た印象というのは、まさに「一円」戦争ビジネスというものであり、現代ビジネスとは、こうしてかつての「難波(なにわ)のお店(たな)」の「ど厳しい」カネ勘定世界の地平へと滑り込んで行ったのだな、というイメージであった。

 今ひとつ別な話をするならば、ある新刊・新書版のことである。
 すでに書店でその本の広告ぶりについては感知していたのだが、先日、その本の大々的な新聞広告を見て、ちょいと関心を持つことになっていた。最近の、新書版の大ベストセラーといえば、あの『バカの壁』であり、出版社側も著者も予想外であったとも聞く。これに続けという目論見が見え隠れしていたのが、その新聞広告であったため、何か「時流を象徴するもの」が提起されてでもいるのかと、「知りたがり屋」の自分は関心を示したというわけである。
 その本とは、『さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学』(山田真哉著、光文社新書、2005.02.20)という「会計学」入門書なのである。言うまでもなく、「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」といった奇妙な題名が先ずは「売り」なのであろう。わたしなんぞは、誰もが自宅の昼下がりに一度は耳にしたことがある拡声器での売り声、また誰もが「あんなことしていて買う家があるのだろうか」という疑問を禁じ得なかった、あの「さおだけ屋」を、小難しいことが前評判の「会計学」へのイントロダクションに使っている機転の利きようは、先ずは「買い」なのだと思わされてしまったものである。
 まあ、中身の内容のことはおくとして、この「会計学」の「新書版」を「ベストセラー」にしようとしている(らしい)この出版企画自体に目を向けるべきだと感じたわけなのである。現在の企業というものが、程度の差こそあれ「構造改革」という課題の下で、経営上の利益というものにシビァにならざるを得なくなっていること、この緊張感を会社の全構成員に行き渡らせなければならなくなってもいるであろう現状に、何とストレートな反応であろうかと思えたのだった。しかも、ビジネス精神論ではなく、「会計学」という技術ノウハウへの誘いであり、素人の個人的観点でも接近し易い工夫が凝らしてある。
 いや、別に褒め上げているのではなく、こうしたねらいの本が企画されるほどに、世間は、カネ儲け志向とカネに関するマネージメントの関心で充満しつつあるのだろう、という予感なのである。

 もちろん極論に過ぎないが、まるで、「一億総経営者」化とも言うべき風潮が、巨大な将来不安の雰囲気の中で醸成されようとしているのであろうか。
 この現状を肯定するにせよ、あるいは批判・否定するにせよ、現在の金融・経済の仕組みがどうなっているのかの認識や、この仕組みに対して人々がどう取り込まれているのかの実態などを、直視して踏まえないかぎり、何も有効なことが語れないような気がしている…… (2005.07.07)


 昨日は「七夕」であった。ただでさえ、いま時そんな悠長なことを、と多くの者が気にとめることさえないのに、ロンドンでのテロ事件が発生して、完璧に衆目から外されてしまった観があった。が、天邪鬼な自分は、あえて「七夕」の方に目を向けようと思う。
 昨日の帰宅の帰路で、実に「かわいらしい」場面を見た。取り立てて言うほどのこともないのだが、クルマを一時停止させていた時のことである。
 何気なく左側の歩道の方に目をやると、そこには、「ヤクルト」の販売店があった。正面の玄関は、店舗ふうに数枚のガラス戸となっており、歩道に面した場所には「配達」用のバイクなどが停めてある。新聞配達店の表向き玄関と同じ作りである。
 その玄関の正面で、小学校一年生くらいの女の子がひとり、道路に面した前方の夕空を見上げ、小さな「七夕」の笹を掲げていたのである。その笹には、いくつかの色とりどりの短冊やら、折り紙細工のようなものが丁寧に飾ってあった。おそらくは、その日の日中に、学校の授業で一生懸命に作ったものなのであろう。
 その手作りの笹を掲げながら夕空を見上げ、何を言っていたのか、どんな願いをこめていたものかはわからない。が、単にそんなしぐさをしていただけではなく、何かを願うように、何かを言うように暫しの時間を費やしていたかに見えた。「お星様、こんなに綺麗に作ったのを見せてあげる」とでもつぶやいていたとも想像できる。
 そして、それで気が済んだかのように、背後のガラス戸を開け自分の親の店に入り、ガラス戸を丁寧に閉めていた。普段から、お店のガラス戸は、きちんと真ん中で揃うように閉めなさい、とでも言われていることを反芻していたふうでもあった。その後、その子は、まるで「これでよし」と頷くような格好で店の中へと消えて行ったのだ。
 ほんの十秒ほどのそんな光景が、クルマの運転席のわたしの気分を急に和ませてくれたものだった。小さな女の子の頭と心の中には、「他に」何もなく、ただ今夜は「七夕」! というその一事しか存在しないかのように思われた。
 それでいいんだよねぇ、くだくだとこだわらなければならないような重要なことなんてそんなにないんだよね、むしろ、ゴミのようなくだらないことをギュウギュウ詰めに頭や心に詰め込んで、渋い顔ならまだしも、まるで病人のような様子になっている大人たちってヘンだよね、とわたしの内側の子ども心は、賛同の拍手をしていたのかもしれない。

 事務所の前の道路を跨ぐ電線には、しばしばさまざまな野鳥が飛来しては、にぎやかにさえずっている。今日も、昼食時の外出から戻ってくると、何事かと思わせるほどに大きな鳴き声を発していた。道路には、クルマが行き交い、そこそこのクルマの騒音を立てているにもかかわらず、そんな音を逆に掻き消すほどに目立っていた。
 目を凝らして鳴き声の姿を探すと、二十メートルほどの距離を置いて、二羽の野鳥、オナガドリであろうか、が強烈な声でさえずっているのがわかった。近場の電線上でさえずっているその鳥の姿は、ドンヨリとした雲ばかりとはいえ、まぶしいほどに明るい空を背景にして、さえずる姿が黒いシルエットで良く見えた。くちばしを顔中に広げて(?)相手に向かってあらん限りの大声でメッセージを送っている様子だ。無我夢中というか、一心不乱というか、傍若無人というか、唯我独尊というか(まあこの辺でいいか)、ここでも頭や心に「他に」何もないかのごとく、その事に「専念」する鳥の姿に、何かすがすがしさ以上の小さな感動を覚えたのであった。
 彼らの頭の中には、偉そうな顔をして支配者気取りでいる人間たちの頭の中で蠢いている、ほとんど雑念・妄念であろうが、その何千分の一、何万分の一ほどの量の情報量しかないはずである。でも、元気に生きるには困らず、ここぞという場合には、ちっぽけな姿にはまったく似つかわしくないほどの大音量を発することができるのだ。
 さえずっている彼らは、決して幼鳥ではないはずだ。親鳥が餌を運んで来るのに対して必死の姿で、それこそ顔中を口にして待ち受けるひな鳥ではない。言ってみれば「いい歳をした大人」、成鳥に違いない。しかし、その「一途さ」において、実に何とも「かわいらしい」と感じさせたのである。

 「かわいらしい」ものばかりを見て、毎日を和やかな気分で過ごしたいものである。
 ロンドンの無差別テロはもちろん「かわいらしく」ない。かと言って、「バクチ場」から「ショバ代」を巻き上げている親分衆の寄り合いであるような「G8」というものも、決して「かわいらしく」ありようがなかろう…… (2005.07.08)


 久々に、夕飯を近くの「回転寿司」で済ませることにした。
 夕飯の仕度が割愛できる家内はもちろん、大賛成である。何度も、立ち寄ってみようかと思う店なのであるが、何ぶんにも、ネタが良いせいか、いつも混んでいる。とりわけ、土日となると30分以上待つ覚悟がないとエントリーする気にはなれない。
 夕刻、急に雨が降り出した。梅雨前線が東へ移動するとは聞いていたが、やや早目に訪れたようで、にわか雨ふうのどしゃ降りである。その時、うん、こんな状況では根性の入っていない者なら外食を諦めるはずだから、あの「回転寿司」は場合によっては空いているかもしれないぞ、と如何にも休日モードの頭ならではの発想がよぎったというわけなのであった。

 案の定、午後6時を回った頃だというのに、待ち客は少な目であった。これならヨシと思い、長椅子に座って待つことにした。
 待ちながら、カウンターに座って黙々と皿を重ねる人々の背中を眺めることとなった。しかし、よくこんなシステムを考案した人がいたものだなあ、と他愛のないことを考えていた。レーシング・カーが好きな人だったのだろうか、いや、別にレーシング・カーでなくとも、競馬でも、競輪でも差し支えない。要するに、コーナーを回って待望の姿を現すようなものであればなんだっていい。そんなものを見ていて、ふと、このシステムを思いついたのだろうかと、休日モードの頭は空転していた。手が震えるような空腹時に、目の前のコーナーを、美味そうなものを乗せた食い物がグングンと近づいて来る、というイメージは、きっと人々に「感動」を与えるのではないか、これはいけるぞ、とそのアイデアマンは手を打っていたのかもしれない。
 しかも、子どもであったなら、きっとやみつきとなり、「パパ、回転寿司に連れてってよー」となる。もとより主婦は、「回転寿司」であろうとなかろうと、とにかくキッチンに立たなくて済むのなら何だって妥協の余地ありであるに違いない。となると、子どもの一声が、一家もろとも外食へと釣り上げてしまう重要なきっかけになる。こいつは、一儲けできるぞ、とその金儲けに目ざといヤツは考えたのかもしれないな。何とも小憎らしいヤツであることか。

 やっと、番が回ってきて寿司屋の大きな湯飲み茶碗が用意されたカウンターに取りすがることができた。久々であるためちょっと勝手の悪い思いがしないでもなかった。久々であるため、寿司もさることながら、アルコールなんぞもいただいちゃおうか、と言う気分となり、「梅入りお湯割り焼酎」なんぞを一番手に頼む。そして、寿司もさることながら、つまみなんぞも欲しいものだと気づき、眼下のレーシング・コースを走るものに目をやり、「おっ、これこれ」と言って、「イカのげそ揚げ」の皿をピック・アップする。
 やや冷めてしまっているようではあったが、竜田揚げふうのそいつはイカにも美味そうであった。が、何かヘンであった。冷めてしまったからいくらか硬くなってしまったか? ピック・アップしたものをコースへ戻すのも気が引けるし、まあいいか、醤油をぶっかけて、「梅入りお湯割り焼酎」のつまみにすりゃあいいんだ……。が、なお、ヘンなのである。「げそ」とその下に敷いてあるレタスとが密着していたその剥離作業が難航したのである。箸ではムリなので、えいくそっ、と「梅入りお湯割り焼酎」を携えていた手も添えて本格作業に取り掛かろうとした。
「それって、ひょっとして『見本』なんじゃない?」
と家内が、いまだ「物色中」のために手にした茶を啜りながら言った。
 自分は、一瞬、われに返ったものだった。てこずっていた当のそいつは、良く見ると合成樹脂で作られた「まがい物」の「イカのげそ揚げ」であったのだ。わたしは、自身の愚かさをも省みず、吹き出してしまった。合成樹脂の作り物に醤油までかけたことをも思い返し、完璧に大笑いしてしまった。その皿をどうするといって、どうしようもないので、チラチラッと周囲を窺い、もう一度走り回るしかないな、と言い含めてコースへとリリースしてやったのだった。何とも、前代未聞も赤っ恥であった…… (2005.07.09)


 そう言えば、以前のTV番組で『貧乏脱出大作戦』とか称するものがあったかと思う。その「建物」版とでもいうのが『大改造!! 劇的ビフオーアフター』ということになるのだろうか。
 現在、一方で、「リフォーム詐欺」なるものが横行している貧しい日本の住宅事情であり、多くの人が我慢我慢の住宅で生活していることは容易に推定される。
 わが家も、浴室がシロアリによる被害と、湿気による腐食とによって眼に見えない部分が予想以上に傷んでしまったため、その部分の改築を余儀なくされた。ようやく、その工事も終盤を迎え、取りあえず入浴することが可能となったものだ。
 そんな文脈もあったため、今日の番組は、何だか他人事とは思えず晩飯をとりながら見続けてしまった。見ていて、いろいろなことを考えさせられたが、「匠(たくみ)」(確か、『貧乏〜』では、「達人」と呼ばれるものが登場していた)と持ち上げられていた、改築の設計・施工を進める建築士の発想が見ものだったと言える。

 今回の視聴者依頼主は、大阪の古い四軒長屋の住人であり、築七十年と老朽化が行き着くところまで行き着いた倒壊寸前の建物の「大改造」がテーマとなっていた。そして、今回の「匠」のセールス・ポイントは、単に現代風にリフォームするだけではなく、かつての生活での伝統的なものや、愛着のあるものを極力継承しつつ活かす発想であった。この点は、自分も全面的に賛同したいと思った。人が住むというのは、まさに思い出や馴染んだものとの共生以外のなにものでもないはずで、そこへの十分な配慮があってこそ、建築家の仕事だと思える。
 そう考えると、巷には、詐欺は論外としても、建築家の本来の使命をどこかへ置き去りにしてただ機能的な点だけで仕事を進めたり、もっと多いのがカネのためだけで仕事を進める者があまりにも多いということではなかろうか。
 名立たる建築家の中には、文化的に意味のあることを話せるような有名人も存在するが、建築という分野に限って言うならば、本来、建築というのは人が住むという総合的な空間を構成するのであるから、建築技術というのは、当然、人間に対する総合的な洞察力を伴って然るべきなのだろうと想像してきた。

 いや、もう一歩アバウトな言い方に踏み込むならば、本来、どんな仕事であっても、人間が生きるということの総合性への鋭い洞察がベースにあって当然なのではないかと考える。おそらくは、著名な仕事師たちというのは、そうした資質を十分に踏まえたその上で得意技、専門性を発揮しているのではなかろうか。
 TV番組を見ていると、そうした洞察力のある仕事師に自分の大事なものをお任せすることができた人というのは、望外の幸せだと痛感させられた。と、同時に、では自分も仕事に携わる者として、人々から頼られるそんな仕事をしているのだろうか、という点がにわかに気になり始めるのであった。
 思うに、仕事に携わる者たちの多くは、青雲の志を抱いて仕事師としての門口に立った折には、仕事本来の「良い仕事とは何だ」というこだわりにまみれていたはずであろう。だが、やがて、「こなす」次元へと踏み込んでしまい、さらに昨今では「とにかくあぶれずに食っていくこと」にほとんど心を奪われる世知辛い状況となったりしているのかもしれない。
 また、過度な市場主義経済構造は、当事者たちに収益の回収を急がせ、過剰とさえ言える収益回収構造への注意とてこ入れに関心を向けさせ、「豊かな仕事」追求という本来あるべき方向性を曇らせているのかもしれない。
 現代は「創造性」の時代であり、ビジネスにとってそれは不可欠だと公式的には叫ばれてはいるものの、厳しい現実においては、「数字計算」が他を窒息させる空気を醸成していそうだ。
 つまり、「良い仕事」を重ねて、その評判や名声が、確実な仕事の可能性を作り出していくに違いないにもかかわらず、多くの企業や巷の仕事師たちは、「良い仕事」のために注力する以前に、「良い(収益の)数字」を追求できるために意を払い過ぎて、結局のところ「悪循環」陥っているのかもしれない。

 卑近な話に戻ろう。我が家の浴室改築は、ちょいと「冒険」をしてみることにしたのであった。もちろん、シロアリに荒らされた柱や土台の修復はしなければならない。しかし単に、水周りの安全性が確保されるユニット・バスに替えるだけでは、如何にもシロアリに負けたという印象で終わってしまう。それが「悔しい」! 「リフォーム」したのだと思い込める要素がどこかに欲しかったのである。
 そこで、ちょいと変わったある職人さんに賭けてみようという意味合いが生まれた。
 その職人さんは、決して今回の仕事全体の専門屋ではなかったのであるが、何よりも自宅でも風呂場には凝った挑戦をしているというヘンな人であり、そこから単なる「こなし」仕事でお茶を濁すタイプの人種ではないと睨んだのだった。そして、「狭い圧迫感のあるユニット・バスを如何に広く感じさせるか」という要求に対して、「窓を複数にすること」と「ひとつを広い出窓とすること」という提案をしてくれたのだった。
 いろいろと支障やらトラブルがないわけではなかった。スケジュールの乱れやら、不慣れな作業管理において、われわれを悩ませたり不安がらせたりもした。だが、自分が、それでもこの職人さんに任せて間違いではなかったと思っているのは、予算範囲内で「良い仕事」をかなり本気で考えてくれたということ、そのことであったかもしれない。多分、ただただ「高収益」に向かってスタンスを定めていて、客と一緒になって何かを追求する姿勢が希薄な街の工務店なんぞに頼まないで良かったと振り返っているのである。

 ところで、「リフォーム詐欺」という事件が非常に気分が悪い事件であるのは、それが弱者かもしれない高齢者を狙って行われたものであることもひとつではあろう。だが、もっと根深いところでは、今現在の時代というものが、「収益」に対して過剰とさえ言える過敏さを強烈に強いて、あらゆるビジネスにおいて、「良い仕事」を希求する姿勢をあいまいなものにさせている、というそんな風潮が気になるからではなかろうかと感じている。
 つまり、「良い仕事」を追求するという事のエッセンスが薄まって行くということは、限りなく「詐欺」的業務行為に接近していくということ以外ではなさそうだと思えるのである。「水で割った酒」が「酒で割った水」に接近し、やがて「酒臭い水」に転がり至ることは、バリア・フリー的、ボーダレス的、即ち境目無しの連続線上の事象以外ではなさそうに思えるからなのである…… (2005.07.10)


 この蒸し暑い戸外の道端に、スチール製の椅子を二つ並べて、二人の男が座っている。帽子の下には、手拭いをかぶり少しでも頭部に照りつける直射日光を防ごうという涙ぐましい意図が窺えた。その場所は、駅前の通りに面した、通行者の往来が良く見える地点である。彼らは、重連のカウンターを膝の上に置き、「通行量調査」を行っていたのだ。
 日除け傘でも差せばいいものをとか、もう少し日陰になった場所に陣取ればいいものをとか、余計なことを慮ってしまった。さらには、何でも自動化がなされているいま時ならば、赤外線活用なり、画像処理技術の活用なりで、歩行者やクルマの通行量くらいカウントできそうなものだが……、いや、目視観測のアルバイトを雇った方が安上がりとなるのかもしれない……などと、さらに余計なことまで考えることになった。
 若い頃にはいろいろなアルバイトをしたものだったが、この「通行量調査」ばかりは経験しなかった。きっと、その「単価」に魅力がなかったからに違いない。居眠りしてしまうことと闘う以外には、これといってアルバイト単価を引き上げる材料を持っていないというのが事実だと思える。しかし、季節と場所によっては、「しまった、こんなはずではなかった」と後悔させる場合もあろうか。あのように炎天下で、サウナ・ルームに座っているように汗を滴らせる場合とか、木枯らしがピューピューと足元から吹き上げてくるような真冬の街角で実施する場合とかは、じっとしていなければならない作業だけにこたえるに違いなかろう。

 ところで、とかく賑やかな都心やラッシュアワーの駅に足を運ぶことが少なくないわれわれにとって、人通り、通行量というのは、「何でこんなに混んでるんだ。歩きづらくてしょうがないじゃないか……」と、その混み具合に不平を言いがちなものである。
 ところが、通行量が多ければ多いで不快なものでもあるが、逆に少な過ぎても不安とさせられるのが、通行量というものであるらしい。いや何も「痴漢にご用心」というポスターが貼り出された薄らさみしい裏通りのことではない。れっきとした商店街近辺でも、めっきり少なくなってしまった人通りが悩みの種というケースも、昨今ではめずらしくなさそうである。
 ちなみに、「通行量調査」というキーワードでサイト検索をしてみると118,000件がヒットした。(by "Google") 如何に「通行量」という一見なんでもない事柄に実に多くの人々が関心を寄せているかということである。
 もちろん、地域商店街が売上低迷の苦い現状を何とか改善したいと願い、買い物客数の分母とも言うべき「通行量」に関心を向けることは当然であろう。検索結果でも、圧倒的に「〜商店街云々」という文字が目に入り、「〜商工会議所調査」の文字にもやたらぶつかることとなる。これを見ているだけでも、全国津々浦々の小さな商店街が、日ごと売上が落ち込んで、地域商工会に「何とかならんのかね」と泣きついている光景が彷彿としてくる。

 既存商店街にとっては、残念ながら、ジリ貧の売上状況を再確認させられるような「通行量調査」なのであろうが、新たにとある場所で出店しようと計画しているものにとっては、出店計画の是非を検討する重要な判断材料になるのが、この「通行量調査」なのかもしれない。いわゆる「立地条件」はどうか、ということである。
 確かに、「オンリーワン」的商品を扱い、遠方からのクルマによる客を呼び寄せられるのならば、何の問題もなかろう。しかし、商売というものを知らない手前勝手のうぬぼれ屋でなければ、やはり、フラリと訪れる客が大事だと考え、そしてわが店の前の通りの人通りというものは一体どんなふうであるのか、に強い関心を持つことになろう。
 以前、この日誌にも書いたが、「美味しいパン屋」さんなのに、「惜しいパン屋」さんになってしまった事務所近辺のお店も、どう見ても人通りが芳しくないという立地条件の悪さが足を引っ張ったのだと観測した。つべこべ言わせぬほどに美味くて安いという自信があっても、いま時の小売業は、スーパーを目的に買い物に出た客を、どうやってわざわざ立ち寄らせるかという強烈な「惹き」がないならば、結果OKにはなりにくいという難しさがあるのだろう。
 それに対して、電車から降りての帰宅途中で、フラリと立ち寄って衝動買いするという事態は、なんでもないことなのではあるが、低くない確率があるわけで、そうなるとやっぱり「通行量」という平凡な事実が競り上がってくるわけだ。

 夥しい「通行量」と言えば、毎年正月に参詣する川崎大師のことを思い起こす。いつもその帰りに思うことである。仲見世には多くのみやげ物屋が競い合っているが、何といっても山門近くの「久寿餅」屋が、それこそ「棚からぼた餅」といった立地条件を持っているという点についてである。お大師さまの人気が健在であるかぎり、未来永劫そのお店は繁盛する可能性が高いからである。
 ちなみに、自分もかつてはそこで買うしかないと思ってそうしていた。が、川崎大師の「久寿餅」の本家本元は、仲見世を出た郵便局の並びの店がそれであると知るに及び、そこまでは通り過ぎて、その本家本元店で買うことになった。しかし、自分のようなケースは稀であり、多くの参詣者たちは、山門に隣接した店で買うことになるのであろう。まあ、ご利益(ごりやく)が大きい分、寺への寄付金も大きいのだろうからそれこそつべこべ言うこともない。
 要するに、人通りの流れの中で「ついでに買って貰う」というありがたい事態の原型が、山門脇のみやげ物店というシチュエーションに、その典型があると思ったまでのことなのである…… (2005.07.11)


 今日は、土砂降りの雨でもなく、また身悶える蒸し暑さでもなく、ホッとさせられるような天候である。事務所でも、窓を開け放っておけばクーラーなしでも済ますことができたのはありがたかった。
 過ごしやすい天候がくれる「ホッとした気分」というのは、ただでさえイライラさせられがちな昨今にあっては、希少価値があるものだと思える。

 思えば、現在の経済・社会状況は、人々の心からこの「ホッとした気分」というものを奪いとることに長けているようだ。サバイバルのために過激な競争を強いることは言うに及ばず、将来に関する言いようのない不安を煽り立ててもいる。
 まあ、「過激な競争」という点では、「過激」さに問題が潜んでいるとはいえ、「競争」なき環境というものがこれまたダラーッとした緊張感なき状況を生み出さないともかぎらないので、一応、是認することにしよう。
 しかし、「将来に関する言いようのない不安」という点は、確実に願い下げたい状況である。このドンヨリとした空気が、如何に非生産的な社会環境を作り出しているかということなのである。

 人間から「不安」という感情を無くすことは困難であろう。また、多少の「不安」感というものは、食べ物における「薬味」のように、人の心境や行動に、プラスの味わいを与えるものでもあるはずだ。
 まったく「不安」感がない対象ほど、マンネリ感に支配されて退屈なものはないと思われる。「不安」感は、事の新しさ、事の未知数性に必然的に伴うものであるから、要するに、人の感情を活き活きとさせ、生きている実感を喚起するものだとさえ言えよう。挑戦心もここから生まれるに違いなかろう。
 しかし、こうした「薬味」的存在も、どんぶり一杯に盛られた唐辛子のようであっては、げんなりさせられるのもまた事実であろう。が、ここまで大袈裟な環境認識をしているわけではないものの、現在のこの国の経済・社会環境は、過剰な「不安」感を撒き散らかしているようにも思える。
 つまり、これからこの国なり、この社会なりが一体どうなって行くのかが、まるで棚上げにされているからである。年金問題や介護問題で、接近している「少子高齢化」社会の姿がテーブルに上げられたことは上げられたが、いかにも貧弱な予告編でしか過ぎない。 確かに、ばら色とは言い難い社会環境を、リアルに明示することは、人々の感情を逆撫ですることにもなりかねない。しかし、人口問題ほど確実に推定できる事実はないわけであり、また、それに伴う周辺の因果関係からの事態はさほど外れることのない予想が可能なはずである。
 これと同様な対象は、財政問題である。七、八百兆円にも膨らんだと計算される国の財政赤字にしたって、そのことが、具体的にはどんな作用を与えるのか、これを解消するためにはどんな選択肢が存在していて、今、何をすべきなのか、こうしたことが必ずしも明示されていない。唐突に、税など国民が負担すべき事柄だけしかないような対策が並べ立てられようとしているのもおかしい。

 この他にも、この国の将来像が見えないことによって、若い世代が落ち着いて勉学に励んだり、将来を想い描いたりすることにも支障が出ているとは考えられないであろうか。漸増しているフリーターやニートの数字の塊は、将来が見えにく過ぎる現状と無関係ではないはずであろう。
 じゃあどうするか? このグローバリズム時代にあって、国や社会の将来は、グローバリズム環境の従属変数でしかないのか? そんなわけはない。もしそうだとするならば、それは国家というものの放棄以外ではなかろう。
 グローバリズム経済というひとつの流れを流れとして認識し、対処するのはそれはそれで良しとしても、その流れが自然調和的にこの国の未来を作り出してくれると考えることは、あまりにも無責任で投げ遣り過ぎるではないか。
 誰だかが、「改革なくして成長なし」と言ったような気がするが、正しくは「ビジョンなくして改革なし」ではないか。この国の将来ビジョンというものが一貫してはぐらかされ続けてきた。これが、「将来に関する言いようのない不安」を増幅させて、人々の自然力を低迷させている…… (2005.07.12)


 「町田」という名が新聞に出ることはそうめずらしくない。「町田」も、めっきり物騒な町となってきたようである。新聞を賑わした「町田」「相模原」といったわが地元での(殺人)事件、事故については今すぐにでも思い出せるものがいくつかあるほどだ。
 ある週刊誌の記事でも、空巣狙いや事務所荒らしなどの頻発地区のひとつに「町田」が挙げられていたかとも思う。それなりの理由がありそうだけど、どういうわけなんでしょうかね。
 それはそうと、今朝の朝刊をチェックしていて、「アリャ、これは何だ?」と思わされる「町田」関連記事があった。社会面と隣り合わせのページの隅に、「東京・町田 靖国・遊就館ツアー市教育委後援 小中学生向けに青年会議所企画」(朝日新聞 2005年7月13日)という見出しがあったのだ。
「靖国神社の博物館『遊就館』に小中学生を連れて行く歴史探索ツアーを東京都町田市の町田青年会議所(JC)が企画し、同市教育委員会が後援していることがわかった。同館は明治以降の戦争を『自存自衛のため避け得なかった戦争』と位置づけ、『殉国の英霊を慰霊顕彰する』ために兵器や兵士の遺品を展示している。……」

 「そうじゃないだろ」と言いたくなるほどに、昨今の一部の反動勢力による「靖国」がらみの愚考=愚行に不快感を感じていただけに、「おいおい、町田でもアナクロニズムの上塗りをするのかい?」といったあほらしさがこみ上げてきたものだ。
 バカな大人が、もはや取り返しのつかない腐った脳で、何をほざこうと、何をしでかそうと、それは今はやりの「自己責任」でやるんなら、勝手にするがいいことだろう。しかし、言っておくが、この国とこの社会の未来を担ういたいけな子どもたちに手を出すのはやめてもらいたいものだ。
 もっとも、こんな企画に大事な夏休みの一日をお付き合いしようとする子どもたちがいるかどうかだって荒っぽい読みをしている。「殉国の英霊を慰霊顕彰」なんて、読んで意味がわかる小中学生がいるものだろうか。いい歳をしたわたしにだって、よくはわからないし、ワープロの辞書でさえまともに変換してくれない。要するに、あまりにもムリがあり過ぎるっていうことなんじゃなかろうか。

 この記事での問題点を挙げるなら、先ずは地域の教育委員会が、当然「宗教活動、政治活動またはこれに類する活動」に対して「中立」かつ慎重でなければならないにもかかわらず、故意にか、能天気にか、この企画に「後援」の承認を与えたという点ということになろう。
「同市教委教育総務課は今回の後援について『ツアーが基準に反しているとは言い切れない。JCの事業は何度も後援しているので、すんなり承認された。遊就館が靖国神社の施設とは知らなかった』と説明している」(同上)
 なんだか教育関係者とは思えない支離滅裂な説明のように聞こえる。あるいは、小泉総理の委員会答弁のようだ、と言ってもいい。教育委員会という存在が、本当に、教育というものに精通しているのかどうかというような野暮な疑問は持つまい。ただ、あなた達も人間ならば、いたいけな子どもたちがどんなささいなことから将来への道を踏み外してしまうかもしれないというようなナイーブさは持ってしかるべきではないか。

 先に、「そうじゃないだろ」と書いたのは、今のこの国が、「自尊心」を発揮したいのならば、すでに半世紀以上も前に「悔い改めた」事実を「あれはそうではなかった、間違いであった」とみっともなく強弁する愚行のことなのである。そうじゃなくて、今現在、そして今後確実に降りかかってくる国益が損なわれつつある事態に対して、この国が毅然とした選択と進路を示していくことが、「自尊心」に値すると思うわけだ。
 昨日も書いたとおり、アメリカン・グローバリズムを布教する米国には、米国の国益最優先というロジックが貫徹しているのは当然のことであり、これに対して唯々諾々と従いながら、もう片方でもうとっくに済んでしまった「戦勝国」による裁判がどうのこうのというような寝言を言っていてどうなるというのか。
 もしそのことにこだわりたいのであれば、現在の米国が、この日本という国と社会を、今後どう「従属国」として操っていこうと画策しているかという高い蓋然性のある事実にこそ目を剥くべきであろう。
 と言っても、ガキのように反米的表情を露わにする必要なぞはない。この国独自の、将来ビジョンを明示して、対等な国と国との関係で対処していけばいい。少なくとも、誰だって承知している「ポチ」的形容をそのままにしておいて、羽織袴での「靖国参拝」という光景は、どこだかの成人式で羽織袴によるご乱心模様を繰り広げる新成人の姿とダブって見えてくるだけではないか。

 やぶれかぶれの心境に支配されているとも受け取れる「青年会議所」について触れることは割愛する。ただ、地域の経済的下部組織というものが本当に斬新で、柔軟な発想を形成していけない限り、地域経済は出口なしの袋小路から脱出することはできない。この地獄のような苦しい時期に、具体的な一歩一歩を踏みしめていく姿こそが、子どもたちをヘンなツアーに連れていくよりもはるかに良い教育効果を生み出すのでは…… (2005.07.13)


 「卒業前の学生に対し、企業が早い時期から採用内定を出すこと」を意味するのは、「青田※※」と言う。さて、「※※」には何がくるのか。そんな国語に関する世論調査が文化庁で行なわれたらしい。そして、何と、中高年ほど“誤用”が多かったということらしい。
 「汚名返上」を「汚名挽回」と思い込んでいたり、「伝家の宝刀」を「天下の宝刀」と誤用し、上述の正解「青田買い」を「青田刈り」と決めつけているのが中高年の人々であるらしい。もっとも、若者に“模範解答”が多かったのは、益々強まる「青田買い」の風潮の中での受験勉強で頻出する四字熟語だからではないかと……

 実を言うと自分も、フライングの採用活動はてっきり「青田刈り」だと思い込んでいた。文化庁によれば、「青田刈り」は、辞書によっては容認されているそうなので、100%の「汚名」ではなさそうだ。ちなみに、「青田刈り」とは、軍事作戦の一つで、敵が兵糧不足になるように、敵地のまだ青い田を刈り取ってしまうことを指していたそうである。
 そうしてみると、「青田刈り」で学生に採用通知を出すということは、実る前にむざむざと枯らしてしまうことになり、「青田買い」の場合には、実りの時期を待機したり、あるいはより首尾よく実るための支援をしたりするという含意があるということなのであろうか。
 実情に照らしてみると、「青田買い」の場合にしたって、ただでさえ勉強や学習を手段視している現在の風潮からすれば、就職というゴールが早々と確定されれば学校や大学には用はないとなってしまうのではなかろうか。「実った」と勘違いするのが落ちではなかろうか。要するに、五十歩百歩の差であり、より吟味すべきは、「青田」に目をつけて教育現場の畑を無用にざわつかせている現実のはずであろう。

 しかし、それにしても恐ろしきは、経済領域の都合に、万事を合わせてしまおうという現代の「急ぎ働き」(?)傾向であろう。その際、相手が植物という自然の理で成育するものであっても、「促成栽培」という荒技(もはや、裏技なんぞではなく正攻法となっている)はアリだし、DNAをいじって食材としての品質向上を図ることさえ当然視されている。そして、植物の生育にも似た人間の教育においても、「刈り取り」時期を早め、生育期間を圧縮させているわけである。
 この事態は、今後ますますおかしな結果につながっていくのではないかと危惧の念を抱く。先ず、少子傾向の本格化によって、大学全入時代(=質の低下傾向)が始り、大学の「レジャーランド」化は、一方でお客様から熱烈に期待されてしまうとともに、他方で、大学側は顧客獲得のためにこぞって推進させていくに違いなかろう。こうして、ろくに勉強なんぞすることもなくなるかもしれないところへもってきて、出口方向からは、ゴールがどんどん前倒しにされるなら、昨今のTVドラマじゃないが、増え続けるCMによって本編が限りなくお粗末なものになっていくことは目に見えている。
 また、高齢化傾向と大量リタイアとによって、労働人口の急激な減少が懸念されている昨今にあっては、若年労働力確保のために、「青田刈り」的「青田買い」の動向は強まることはあっても、自粛されることは考えにくい。

 おそらく、一定の時間をかけなければならないことから不用意に時間を抜き取るならば、おのずから結果は劣化していくに違いなかろう。人間の教育などにおいては、そのことを原因にして、目も当てられない低水準化が待ち受けているのかもしれない。
 しかも、現在、主流と化している学習・教育における「テクニカリズム」、つまり、知識・技法がトランスファー(伝授?)されれば事足れりという安直な楽観主義は、事態をリアルに掴むことを妨げていると思われる。ひょっとしたら、「テクニカリズム」教育の誤算が一気に露わになるのは、団塊世代の仕事師たちが現場からリタイアしてしまった時点ではないかという気もする。つまり、団塊世代たちは、生産性に貢献していないとか、古い発想にとらわれ職場を混乱させているとかと、いろいろと非難も浴びているが、確かにそうした副作用はなしとはしないと想像するものの、彼らが職場の重要な「つなぎ」になっていたことは否定できない。それは単に、人間関係レベルだけではなく、職場の専門分化によって切れ切れとなりがちな、だからトラブルも発生しがちな状況にあって、情報と情報のまさに「つなぎ」的役割りを果たしてきたことの意味なのである。
 どう考えても、わけがわからなくなりつつあるTVドラマのような中身の貧弱な教育を受けた若い世代が、実業の場、職場で見事な連携プレーを推進させていくことを想像するのは、かなりしんどいと言わざるを得ない。

 いつもながら、主たる関心事に至る前の話のお膳立てだけでスペースが埋まってしまう。書きたかったことは、こんなふうに、自然の時間を費やさなければならない領域、それは教育であったり、経営組織的な営為であったり、あるいは研究領域もそうであろうが、そんな領域からも経済的成果を急がなければならないがゆえに、時間を抜き取ってしまうシステムというのは、どう考えても尋常ではないと思えるのだ。タコが自分の脚を食って生き長らえるのとどこがどう違うのかと思う。「構造改革」、グローバリズムという、今、流行のトレンドは、誰かがどこかで制御しなければ荒れ野のみを将来に残す残酷さになりはしないか…… (2005.07.14)


 今日、竹中平蔵経済財政担当相は、閣議に2005年度の年次経済財政報告(経済財政白書)を提出したそうだ。そこでは、景気の現状が「緩やかな回復局面」となったとの判断もさることながら、「労働力人口減に備え生産性の向上急務」という点が強調されているらしい。( NIKKEI.NET 2005.07.15 09:00 )

<07年から人口減少、団塊世代の退職が始まり、現役世代の経済的な負担が高まると分析。企業は人材育成や技術革新を通じ、労働生産性の向上が急務になると訴えた。公共サービスの改善に努め「小さな政府」を実現することを課題として指摘した。>(同上)

 ここでの「労働生産性の向上が急務」といった、いかにも学者、評論家的な指摘に、このクソ暑い時期にもかかわらず、「寒々としたもの」を感じてしまった。一体、誰に向かって何が言いたいのだろうか、と。かつて、竹下首相に対して「言語明瞭、意味不明」という言い得て妙! な揶揄があったものだが、ここでもまた、「言語明瞭、責任不明」とでも言ってやりたい思いがする。
 とっくに推定されていた少子高齢化傾向に対して、政府は一体どんな聡明さを発揮してきたのか? もっと卑近な問題で言えば、さんざんご都合主義のリストラを黙認して、「過剰な雇用」の整理を推奨してきたのは政府ではなかったのか。現に、今回の「白書」では、
<バブル崩壊後、日本経済の重しだった雇用、設備、債務の過剰という「負の遺産」からほぼ脱却したと明言>
しているというではないか。
 「過剰な雇用」や「労働力不足」というセリフを、激変する環境変化に振り回された町工場の経営者が口にするならばまだわかる。しかし、一国の経済の舵取りをする立場にあるものが、経済の根幹たる労働力人口の過不足をコロコロと言辞を換えて言ってほしくないものである。
 もちろん、低い労働生産性での「過剰な雇用」が国際競争に勝てないという理屈はわかるし、リストラしてさらに労働力の国内供給量の絶対数が縮小するのだから、労働生産性を上げるべしという理屈だって、言われなくとも百も承知だ。わからないのは、じゃあ、政府の役割りって一体何なんだ? ということであろう。
 政府の責任だと一方的に言うつもりはないが、フリーター、ニートに身をやつす膨大な数の若者たちがいる現実に対して、何も責任を感じないほど政府というものは超然たる存在でいいのか?
 また、労働生産性の向上と言うが、一体何を指して言っているのだろうか?
 まさか、中国の人件費コストの低さと戦えと言っているわけではあるまいが、デフレ経済の現状では、労働生産性の向上が更なる過剰生産につながり、デフレ深刻化に至る可能性はないものなのか。
 問題の焦点は、単なる労働生産性の問題ではなく、知的生産性の向上、いやもっと言えば新たな市場開拓やビジネス・チャンスの拡大ということではないのか。が、しかし、この辺の問題こそは、民間企業に下駄を預けただけで効果的に進む問題ではないと思われる。一方で、相変わらずの土建領域への少なからずの公共投資をしていて、一体、政府が、この国の経済の何に力点を置こうとしているのかの真意がはっきりとしない。「e-Japan (イージャパン)」などというお祭りスローガンを掲げただけで事態は動きはしない。町内会じゃあるまいし……。

 ところで、すでに、迫り来る「労働力人口減」現象については産業界では愁眉(しゅうび)の関心事となってきた。

<少子化が進み、出産後の女性の職場復帰が難しい現状がこのまま続いて、国が新たな対策をとらない場合、2015年の労働力人口は現状(04年、6642万人)より約410万人減るとの推計が13日、厚生労働省の研究会の報告で明らかになった。経済成長率も年率0.7%程度に押し下げるとしている。研究会は対策として、高齢者や女性の再雇用などの積極的な支援策を提言している。>( asahi.com 2005.07.13 21:22)

 もちろん、この2015年における約410万人の「労働力人口減」の背景に、約700万人の団塊世代の定年という事実が組み込まれていることは言うまでもない。
 そして、上記報道によれば、
<こうした労働力の減少と、個々の能力や意欲を生かしづらい状況が続けば、労働生産性も低下するとし、経済成長率は99〜04年の過去6年間での年率1.3%の半分の伸びにとどまり、04〜15年で実質年率0.7%程度と見込んでいる>
となっている。
 ここで、この「研究会」においては、単に「労働力の減少」という点に止まらず、「個々の能力や意欲を生かしづらい状況が続けば労働生産性も低下する」と言及されていたらしいことに意を払いたいものなのである。
 おそらく、現代の経済における労働生産性というものは、肉体作業効率・事務作業効率如何よりも、知的独創性に溢れた総合的な営為がそれを押し上げるものだと確信する。そして、その促進策というものは、従来の作業効率向上のために援用されていたあらゆる制度・環境と同一だと考えられてはならないと思われる。
 ここには、まるで無関係かと思われるような、国や社会の将来像の輝かしさやそこでの人々の人間らしいライフ・スタイルのイメージなども重要なトリガーとなるのだと思う。ややもすれば、儲けるためという動機だけに縛られた観のある現在のワーク・スタイルが、他の人間や社会のためという動機にも触発されていく、豊かな職業人動機づけがあって、見違えるような労働生産性に到達できるのではないだろうか。
 もちろん、使い捨て技能・スキルの切り売りに明け暮れる教育ではなく、ライフ・ワークをも支えるような、そんな教育が必須であることも言うまでもなかろう。

 しかし、こうした真に飛躍した高い労働生産性のための条件づくりを、もっとも妨げているものが見直されなければ、いつまでも「醜いアヒルの子」は白鳥には豹変できないと言うべきかもしれない。
 その妨害とは、昨日も書いたところの、現代の「急ぎ働き」(?)傾向である。金融資本が、企業経営のリアルなあり方をも軽視して、短期に収益を回収し、資本の回転速度を極限化しようとする「急ぎ働き」傾向である。市場競争主義のアメリカン・グローバリズム経済は、このことを避けることはできないはずである。だから、そうした方向に舵をとりながら、「生産性の向上急務」と叫ぶ竹中平蔵氏の言葉が虚ろに響くのである。
 わたしは、同じ「平蔵」でも、「鬼平」こと「長谷川平蔵」の次のような言葉の方が断然好きである……

「浮浪の徒と口をきいたこともなく、酒をのみ合うたこともない上ツ方に何がわかろうものか。何事も小から大へひろがる。小を見捨てて大が成ろうか」(『鬼平犯科帳 殿さま栄五郎』より) (2005.07.15)


 蚊取り線香の匂いは、どちらかと言えば好きである。
 もともと、線香の香りが嫌いではなく、一時期には、香を焚くというほどでもないが、よい香りが漂うその種の線香を買ってきて焚いたりしたくらいだ。
 現在、蚊取り線香の匂いを好ましく感じるのは、別な理由があるといえばある。もちろん、緑が多い方であろう庭から忍び込む蚊を撃退しなければならないという実利的な理由があることはある。
 しかし、もうひとつ、これもまた実利的傾向が強いと言えそうではあるが、現在わが家のキッチンや居間は、ちょっとした「悲劇」に襲われている。「悪臭公害」とでも言おうか、ただならぬ臭気が漂っているのだ。原因ははっきりとしている。飼い猫の仕業なのである。
 二匹の飼い猫のために、家内は、猫用トイレを二つ用意して、甲斐甲斐しくそれらの清掃もきちんとしているにもかかわらず、どうも、片方かもしくは両方の猫が、相手の猫への「牽制」かどうか、やたらに「マーキング」というやつをしているらしいのだ。
 現に、目撃したこともある。両方の猫は、いつも自分の居場所を探し、結構神経をつかっているようなのだが、時には、居心地良さそうなスポットをめぐって争う。とりわけ、若い方の猫ルルは、神経質なリンが落ち着き払っている場所に無神経に入り込み、横取りするようなことを平気でやるのだ。そんな時、大体、フーと牽制し合って喧嘩となる。
 振り返ってみると、大体が、ルルの方が甘え半分の横着なわがままで事を起こしている観がある。冬場などは、くっついて寝た方が暖かいということもあってか、喧嘩騒ぎに至る前に、妙な和解をし、やがて二匹が互いを暖め合う格好で眠ったりしている。
 しかし、他の季節だと、冷たい床に寝そべって体温を放出したいくらいだから、互いに「自我」を主張し合って喧嘩騒ぎとなるわけだ。
 そんな、騒ぎが鬱陶しくてならないのが、神経質なリンなのであろう。そして、家人の迷惑を省みず「マーキング」という「野蛮な行為」に走るようなのである。それは、犬だけの得意技ではなさそうであり、猫とて、自分のエリアを強調したいがために、その場所に放尿するのである。
 何回か、目撃した事もあるが、まさに「何てぇことをするんだ!」と叱りつけたくなるほど大胆な行動なのである。遠慮なんてものは微塵もないがごとくだ。漏らしちゃった、と言って泣く幼児のいたしかたなさなんてものではない。いわゆる「確信犯」的な素振りであり、贔屓目に見ても、「だって、しょうがないでしょ。ルルちゃんが、わがままばっかするんだから!」とでも主張しているような気配なのである。
 それをまた、ルルの方も真似をしてか、向こうをはってか、陰で同じことをしていそうなのである。こうして、彼らの行動エリアが、まさに「小便臭い」臭いで充満してしまうのである。家内は、その度に、消毒兼消臭の市販噴霧器で対処するのだが、そう簡単には消臭されないのが、「マーキング」の「マーキング」たる痕跡なのであろう。
 こんな事情で、蚊取り線香の匂いが、この夏はとりわけありがたいと感じることになっているのである。猫たちは、部屋に蚊取り線香の煙や匂いを立ち上らせると迷惑そうな顔をしていないでもないが、迷惑なのはどっちだ! とわたしは彼らを睨みつけるのである。
 どちらかと言えば、わたしは嗅覚に敏感であり、いやな臭いから喚起される不快感には耐えられない方である。昔、ラッシュ・アワー時に、ギュウギュウ詰めの車内ですぐ脇の通勤客が、わたしの大嫌いなシナモンの香のガムを無神経にクチャクチャと噛んでいて、わたしは地獄の3、40分を耐え抜いたことがあった。
 蚊取り線香の匂いで、わたしはいくらか不快感を相殺してはいるが、おそらく家内が、ダンナがまき散らかすタバコの臭いと、恩知らずの猫たちが仕出かすことの双方で、大分いらついていそうなのは十分に察知できる…… (2005.07.16)


 久々の日曜大工作業を、思い通りに進めることができたので多少気分が良い思いをしている。戸外の作業であれば、汗だくを覚悟しなければならなかったが、場所はキッチンである。そこで、作業に集中できるよう、キッチンのクーラーを「強」にした上で、おまけに扇風機まではべらせることにした。その甲斐あって、涼しい気分を維持しながら、結局作業の方も涼しくこなすことができたというわけだ。
 とかく、暑い思いをしながら大工作業などをやると、うまくゆかない場面や、手順の間違いなどで次第に気分が撹乱されてきて、虫の居所が悪い場合には、破滅的な気分に突っ込んでしまうこともあり得る。そこで、今日は、滅法丹念に環境整備に意を払ったのである。

 作業は、新調したシステム・キッチンのすぐ手前の床の一部が、床板の破損でミシミシとへしゃぐので、その部分の床板をうまく挿げ替えるという作業であった。一見、大変そうでもあり、また、考えようによっては大したことがないようでもあった。
 実は、浴室のシロアリ騒動で自宅に対して大きな不安感と不信感が、わたしや家内の頭の中を支配していた頃、家内が、その部分を発見し、そこもシロアリによって食い荒らされているのかと仰天していたのである。
 決して、そうではないと言い切れないものもあったが、わたしは、その部分を踏みしめてみて損傷の度合いを確認した結果、単に、何かで集中的な重量が加わったために合板の床板の一部分が破損したものだと診断していた。要するに、自分自身の腕でも修理が可能だと踏んでいたのである。家内は、浴室の工事で来ている大工さんに頼みたいようであったが、頼めば頼んだで出費が嵩むことはわかっていたし、ただでさえ、浴室工事の方では当初の予算を上回る結果となっていたため、わたしは、自分でやれるのならそうすることに決めていたのである。

 と言っても、なんせ当該の床がどのように破損し、それはどう修理するのが「正しい」方法であるのかは正直言って未知数なのであった。ニ、三日前に、見当をつけるために、とりあえず床のビニール・カーペットに切り込みを入れて、当該箇所が見える段取りをしてみた。すると、幸いにも大体の作業手順が見えてくるようでホッとすることになった。 ちょうど、傷んだ部分の床板は、「根太」(床板を受けるために床下にわたす横木)の上で二枚が両側から合わせられている片側だとわかり、その傷んだ部分を含む床板が隣の「根太」に釘止めされているところまでを切り取り、その床板部分を同質の丈夫なものと挿げ替えればよいことが、ざっと了解できたのである。
 簡単に言えばそういうことになるのだが、これを具体的な作業にブレイクダウンすることは決して簡単なことではない。先ず、破損した床板部分をクリア・カットすることも一筋縄ではいかない作業となる。まして、日頃、家人が体重を載せる箇所でもある。表面的に仕上がっているだけでは済まない。「また、ミシミシと音がする」などとクレームを上げられては、わたしの面目も丸つぶれになってしまう。したがって、「根太」の補強も必要となってくるし、なんやかやと、やるべきことが次から次へと数珠繋ぎに思い浮かんでくるのである。先ずは、この作業場をクールにしておいて正解であったことに気づくのだった。もし、ムシムシとする厚さ、滴り落ちる汗というシチュエーションであったなら、作業を始める前から、重圧とイライラで破滅的気分にはまり込んでしまうはずだからである。

 想像される作業に必要となりそうな道具類を取り揃えることから始めることとなる。この点については、日頃「道具マニア」的でさえある自分は、気の利かない大工であれば持っていないかもしれない道具さえ取り揃えているのだから、鬼に金棒、馬の鼻ッ面に人参ということになる。やがて、キッチンの床の当該「手術」部分の周囲には、メスやピンセットではなくて、各種電気ドリル、各種鋸、各種ノミなどの各種道具類が、「患者」の容体を気遣う親戚一同のように集まったのである。
 とりあえず、へこみ加減でひしやげた床板部分のど真ん中に、直径20ミリ程度の木工ドリルで穴を空けることとした。劣化した合板の板は、一応まともな木材のようなベリベリという音を立てたが、その抵抗力は弱っており、簡単にに穴が空いた。指がつっこめる程度の穴が空き、真っ暗な床下が覗けた。
 しかし、なぜこの部分の床板だけが傷んだのだろうか、という疑問が突然沸き起こった。体重がある自分が跳びはねた覚えもないし……、とその時、周囲にあるものが「重機」もどきだらけであることに気づいた。先ずは冷蔵庫である、そして、目の前はシステム・キッチンである。いや、それらが、跳んだりはねたりしたというのではもちろんない。これらを移動させたり、取り付けたりしたのがつい先頃であったのだ。その作業をした者が、ここに重心を置いて踏ん張ったとしたなら、大いにありそうなことだと思えた。ただでさえ、かつての洗い台の前であり湿気で床板は劣化していたはずである。
 なるほどなあ、なんぞと合点しながら、さらに穴をいくつか空け続けた。別におもしろがってやったわけではない。それらの穴を活かして、細い鋸を活用しようという段取りなのであった。こうして、「B4サイズ」程度の「暗闇」が現れることとなった。

 もちろん、この「B4サイズ」の「穴」に、板を乗せたのでは「バリア・フリー」ならず、小高い台地であり、これでは「大工の仕事」ではなく、家内の応急処理ということになってしまうわけだ。
 同じ「B4サイズ」の新しい床板が、きっちりとフラットに嵌り、なおかつ「落とし穴!」とはならないための工夫が当然必須なわけである。ここで、ニュートンとまでは行かないまでもオールドトン(古豚)程度の「力学的」な深い考察が出番となる。さらに、日曜大工愛好家を自認するもの「小細工能力」がにわかに脚光を浴びることとなるのである。まあ大げさに言えばの話だが、要するに、既存の「根太」とリンクする新しい補強の「根太」をかませたということなのである。
 こうして、わが身を跳んではねさせても大丈夫なほど堅固で、かつ見た目もフラットな床が「小細工」されたのである。今晩は、木部用パテが硬質化するために乾かしているが、明日にはビニール・カーペットを接着剤で貼り付けて「足場固め」は完了ということになる…… (2005.07.17)


 ようやく関東も梅雨明けとなったらしい。朝から強い陽射しが照りつけている。書斎のクーラーもいつも以上に効かない。家猫も、野良猫たちも、脱ぐわけにいかない季節はずれの毛皮をまとい、身を処しかねて冷たいところを探してはべたりと寝そべっている。わたしはといえば、ちょっと探し物をすべく、庭の物置へ行っては、汗はダクダク、足は蚊にさされボコボコというありさま。ほうほうのていで書斎に戻り、今一息ついている。

 ショートパンツで庭に出るのは、野良猫に餌をやりに行くのと同様、「血に飢えた」蚊たちに餌をくれてやりに行くようなもので、「ムヒ」というクスリをつけたものの、まさしく両足の脛(すね)がボコボコとなって痒さがおさまらない。
 つげ義春の漫画に、夏の千葉の方の場面で、おかっぱ頭の小さな女の子がスカートからニョッキリと出した両足をあちこち蚊にさされて、痛々しく庭に立っているというのが思い出される。昔は、全国どこでも夏といえば蚊、蚊といえばボコボコと相場が決まっていたようだ。
 しかし、都市化されてアスファルト道路にコンクリートの庭というのが一般的となり、蚊の繁殖が不可能となった環境で、蚊が出没するというのは、喫煙組が希少となりつつある現象と同様に、マイナーな風物となっていそうな気がする。
 わが家が、蚊の被害とその心配に明け暮れている(それほど深刻なものでもないが)のは、おそらく、狭い庭ではあるが、そこを「土」のままにしているからかもしれない。植木の部分や飛び石以外をコンクリートで敷き詰めてはどうかという案も浮上したことは浮上した。だが、さほど積極的にではないが、「土」の地肌がそのまま残される結果となっている。

 雨の日が続いたりすると、その庭はドロドロにぬかるみ、玄関の白いタイルが泥靴によって惨憺たるありさまとなったりする。また、飼い犬を放し飼いにしていた頃には、犬があちこちに穴を掘り、夏場には大きな穴を掘ってやや冷たいその場所で涼をとろうと言わぬばかりに埋まっていたりした。よその飼い犬も同じことをしているのは、散歩をして土のままの庭に飼われた犬の生態を見ると了解できるところだ。あちこちに無秩序な穴が掘られた庭というのは見苦しい。おまけに、その影響で植木が掘り出されてしまう被害も発生したりする。これもまた、庭を土のままにしておくことの副産物なのであろう。
 しかし、もっとも大きな被害は、やはり蚊の「培養」ということではないかと思える。これで、もし小さなものであれ池のようなものまで拵えていたなら、手のつけられない蚊の被害が生じることになっていたはずである。そこまでのお人好しはしないが、「土」のままにしてあることだけでも、きっと蚊を「培養」していることにつながっていそうな気がしている。
 前述の飼い犬も、穴が掘れるという楽しみがある一方で、やたらに蚊にさされて痒そうにしているという裏腹さを被ってはいたようである。犬小屋の近くに、蚊取り線香を置いてやっても気休めでしかなかったようだ。

 先日も蚊取り線香の匂いについて書いたが、思えば、自分が大阪から東京は品川の祖父の家に転居してきたのも、ちょうど夏休みの時期であり、そして、夜行列車で早朝に祖父の家に辿り着いた時に一番最初に気づいたのが蚊取り線香の匂いであった。
 目黒川下流のすぐ脇にあった家であったためか、祖父の家はよほど蚊による被害に神経をとがらせていたと見える。早朝の家は、やたらにアースの匂いやら、蚊取り線香の臭いが漂っていたものだった。おまけに、祖父は、あの深緑色の蚊帳の中から顔を出したものである。
 そう言えば、当時はまだ家の前の道路やそれに続く広い道路も未舗装であった。道路脇やら空き地には草も生えていた。雨が続けば、あちこちに水溜りもできていた。目黒川の湿地とともに、蚊が繁殖する環境がいたるところにあったと思われる。
 ただ、子ども当時に、蚊にさされて痒くてたまらなかったという記憶はあまりなく、したがって蚊を不愉快極まりないものと見なした覚えもさほどない。当てずっぽうではあるが、当時は当時で、蚊に対する免疫のようなものがひょっとしたらあったのかもしれない。

 蚊の出没頻度は、居住環境の都市化、文明化の度合いを推し量る一種のメルクマールだとも考えられそうである。蚊のいない空間、蚊取り線香なぞという原始的な匂いがしない空間、それが現代空間なのだと言う人は言うのであろう。
 しかし、自分のような古い人間は、蚊にさされてみたり、蚊取り線香の香で夏という季節の重要な側面を実感したりするわけでもある…… (2005.07.18)


 あるソフト会社の代表と話していて、教えられることがあった。
 わたしなりに解釈し直せば、いずれも、「ユーザ・オリエンティッド」なビジネス・スタンスに属するポイントだと言える。第一は、ユーザの困りごとにこそ宝あり、それを聴かせてもらう関係づくりこそ重要という点となる。
 そして、第二は、ユーザ側の「アプリケーション」の問題・課題は、とことん煮詰めて、整理してから、技術フェイズの土俵に乗せること。とかく技術屋は、前段の部分を踏み込んで検討せずに、ユーザが訴えるままに問題状況を固定的に受け入れて、やたら難しくて大きな技術の土俵を作りがちな傾向が強い。現場での問題をより単純明快な命題に再加工した後に、より軽装の技術の仕組み、つまりより小さな土俵設定をして事に当たるべきだということになろうか。これらについては後述したい。

 彼は、制御系のシステムに長く携わってきた。国内製造業が今ひとつくすぶり続けているために、東南アジアの日系企業の工場にねらいを定め、そちらの企業にいろいろと提案的な売り込みを図っている。
 これも、なんとなくわかる。「大企業病」という言葉があるが、ひょっとしたら、国内大手企業ないしそれに準ずる企業というのは、発注契約をめぐる組織的構造や制度などにおいて、どうも副次的部分において旧態依然のおり(澱)を残していそうな雰囲気である。技術的課題が、中心にありながら、それに勤しむメンバーの意向よりも、購買部門の仕来たり的な意向や面子の張り方が横行して、言うなれば外部リソースとのスムーズなネットワーキングが機能不全のままであるのかもしれない。
 常日頃痛感するわけだが、何と言っても、ヘッド・クオーター(headquarters、司令部)に「おり(澱)」となって逆機能を果たしている役員たちに牛耳られているせいか、相変わらず無意味な遠慮による事なかれ判断に流しているかのようである。ここでは、この問題には深入りしないが、こうした「おり(澱)」の問題は、どこでもやっかいで悩ましい問題として蔓延っているのであろう。これらが「洗い落とされる」だけで、経営が改善されることだってあながち冗談ではないのかもしれない。
 それはともかく、こんな風潮が未だに支配している国内企業であるから、あるいはまた、それに媚び入る外注構造が出来上がり、受発注構造が固定している国内産業であるから、彼は海外でのリスク・テイキングに踏み出したものと見える。
 もちろん、海外の日系企業とて、大きな予算については、国内本社のHQに判断を仰がざるを得ないのは型どおりではある。しかし、とかく現地での外注企業の層は薄く、技術担当メンバーも実利志向の姿勢が強いらしい。そんなことで、国内よりかは、まともな技術的打合せもできるようなのである。

 さて、冒頭の点に戻る。
 第一の「ユーザの困りごとにこそ宝あり、それを聴かせてもらう関係づくりこそ重要」という点である。
 現在のシステム屋は、ひょっとしたらとんでもない不遜な間違いを犯しているのかもしれないと思うことがある。そこそこの努力で先ず先ず使いこなせるようになれる流行の「技術要素やツール」をマスターしたら、それで「宝」に近づけたという気になってしまうという点である。
 確かに、「とにかく一刻も早くシステム化だ!」といった情報化投資というシステム屋にとっての需要が無限と見えた時期には、それで商売となったはずであろう。だが、ユーザを待ち行列で待機させ、「じゃあ、そろそろ始めますか」とシステム屋がのさばった時代は、まさに「兵(つわもの)どもが夢の跡」になってしまったのである。
 やはり現時点では、極端に言えばシステム屋は過剰気味であり、有効需要のあるユーザとの接点にのみ「宝」が潜むと言うべきだと思われる。
 また、勝手にシステム製品を作って、「捕らぬ狸の皮算用」をすることも虚しい事情と成り果てている。技術屋が「傲慢」な我田引水の発想ででっち上げた製品なんぞは、シビアな経済環境にあるユーザの歯牙にもかからないのが実態だと言えそうなのである。
 そんな現実を踏まえてか、彼は、言っていた。
「ユーザに自社製品を携えて話し込みに行くのは、それを売り込もうというよりも、お土産代わりなんですよ。目的はむしろ、そうすることで、ユーザが、『実は、こんなことで困ってるんだけど……』と、打ち明け話をしてくれること、それに食い下がっていくということなんですね」
 これこそが、「海老で鯛釣る」可能性もあり得るリアルなアプローチだと思われる。ビジネスというのは、当方側が提供できるものも重要ではあるが、何と言ってもユーザが欲しがるものを性格に捉えること以外ではないはずだからである。

 第二の点、技術の適用以前に、アプリケーション課題を可能な限り整理するということ、これもますます重要さを帯びた手続、段取りだと思える。
 彼の話してくれた話は、機密問題の点からそのまま書くわけにはいかないが、要するに、一見複雑かつ高度な技術処理が必要だと見える現場状況も、問題を整理していくならば、行き着くところ極めて単純な技術処理を施すだけで当初の問題状況が解決される、そんな可能性があるということなのである。

 これはまるで、「大岡裁き」(であったと思うが)のごとくでもある。あるものを盗んだ者が誰であるかを見つけるために、大岡は、壷であったか何かを用意して、言う。
「これは、現場にあったものであり、何もかもを見知っている。嫌疑を受けた者各位は、順次これに触るべし。必ずや、これが真犯人を告げてくれるはずである」と。
 ここで、そうした「犯人発見器」のような壷を創るとしたなら、当時のエレキ技術ならなおのことであるが、何千万両をかけても難しいであろう。仮に、真犯人が触ると、ゴトリと揺らぐ単純なものを創るとしてもである。ところが、大岡は、問題状況をクリアに整理して、その上で単純な技術(カラクリ)を施したのであった。
 一通り、容疑者たちが言われたとおりにしてお白洲に戻って座した時、
「ご苦労であった。さて、それでは今触れた手を見せて頂こう」
と言った。そして、
「真犯人は判明した。そちが犯人だ!」
と叫んだのだと。
 無用に嫌疑をかけられただけの者たちは、犯人ではないのだから安心して壷に触れ、そして壷に施された「墨」を手に付けてしまった。が、真犯人は、発覚を恐れて触った振りをして触らなかったために、墨の跡が無かったというのである……。現代の法的環境では、自白に追い込む材料とはなっても、証拠能力は乏しいようにも思えてしまうが……。

 やや、位相が異なって「いそう」な気もしないでもないが、要するに、意を払うべきは、小道具(技術要素、ツール)の複雑さではなくて、複雑そうにも見える現実問題自体のロジカルな整理だということなのである。あるいは、問題自体の焦点は何かという点を探すことだと言ってもいい。
 願わくば、この辺に意を払って、世のため人のために尽くすと同時に、大儲けもしたいものである…… (2005.07.19)


 今、どんな商売でも「ポイント・カード」という、固定客づくり、顧客の囲い込みの方法がとられている。誰でもが気づいていることであろう。
 買い物やサービス利用時に、その率はまちまちであるが、割引という意味でのポイント還元がなされるわけだ。これをちょっとした楽しみにしている顧客も少なくないらしい。購入額の10%分のポイント還元ともなると、まとまったものを買えばそこそこのポイントが戻ってきて、ちょっとした別のものが買えるため得をした気分になれる。

 事務所の近くに、PC関連商品が揃えてあるためしばしば利用する家電ショップがある。そこでもお定まりの「ポイント・カード」が発行されていて、買い物のたびにポイントがマークされていく。
 最近、このショップでは、その「ポイント・カード」にある種の付加価値をつけ始めた。それが何とも、時代風潮を反映しているようでおかしい。
 「ポイント・カード」を活用した「スロット・マシーン」を備え始めたのである。ATMよりやや小型の大きさの「マシーン」が、複数台ショップの片隅に設置されたのだ。見下ろせる位置にカラーディスプレイが組み込まれてあり、ATMと同様に、カード挿入口もある。「ポイント・カード」を挿入すると、一日につき一回、スロット・ゲームが楽しめて、なおかつその「出目」によって、ポイントが追加されるのだ。二種類のモードがあり、そのひとつは、最高4000ポイント、外れで100ポイントが当たりカードにつくというもの。もうひとつは、現在の顧客の持ちポイントを150%増し、200%増しにするというものである。
 スロットの図柄は、通常の「スロット・マシーン」のような「BAR」「ベル」のほかに、その家電ショップの「ロゴ・マーク」などがあり、タッチ・パネルのスタート・ボタンに触れると、スロット・ゲームのように回転して、やがて自動で止まる。ちょっとした、期待感とスリルが刺激されて、三角くじよりはスマートに楽しめそうだ。
 自分も、昼休みに昼食を調達しがてら寄ってみる。もとより、ゲーム好きで、パチンコも楽しんだりする方なので、何だか「バクチ好き」な心根が見抜かれたような気がしている。そして、このところ、今までは、客よりも店員の数の方が多いのではなかろうかと観測していた店内に、客の数が増えたような感触がある。そして、当該マシーンの前には行列ができたりしていて、中年のオッサンたちは、子どものように騒いでいたりする。
 この企画は、まずまず効を奏しているのかもしれない。新聞の折込広告では、自慢気に大々的にアピールしていたり、同業他店もほとんど同様の企画を追随的に始めたところをみると、「快進撃」なのであろうか。

 そんな動きがあるところへ持ってきて、今朝の新聞報道では、「『777』で時間外手数料タダに 大垣共立銀ATM」( asahi.com 2005.07.20 )という記事が目に入った。

<大垣共立銀行(岐阜県大垣市)は、営業時間外に現金自動出入機(ATM)で現金を引き出す際、スロット画面が現れ、「777」など目がそろうと時間外手数料を無料にするなどのサービスを、8月8日から始める。全国でも初めてのユニークな試みで、個人客の取り込みを狙う。数字の「7」が三つそろう「スリーセブン」が出ると、時間外手数料105円が無料になる。また、同行の特典付き口座「ゴールド」「スーパーゴールド」のロゴが三つそろうと、レシートに「大当たり」と記載され、店頭で現金1000円がプレゼントされる。>

 記事には、わたしなんぞは良く見慣れている「オール・セブン」の図柄まで紹介されていて、わたしは思わず意味不明に「ウーム」とうなってしまった。仮にも、いや失礼、銀行という「石橋叩いても渡らない」存在が、「ギャンブル」をするかあ? という感じ方であったのかもしれない。
 家電ショップの「珍」企画をパクったと考えたとしても、この種のゲームライクというか、バクチライクというか、いずれにしても「蓋然性、偶発性」に身を任せる方式をお堅い銀行業が採用するという現象が何かを考えさせずにはおかなかったということだ。

 「3億円」宝くじにせよ、巨大なパチンコ市場にせよ、はたまた増え続けるネット株にせよ、昨今の現代人は、大いに「射幸心」(偶然の利益を労せずに得ようとする欲心!)を煽られている気配がする。少なくとも、現代のユーザは、そうした無視できない傾向を強く持つと堅い銀行がお墨付きを与えるほどには、顕著になっているのかもしれない。
 もっとも、顧客を得ようとする企業側の仕掛けづくりはともかく、人々が何ゆえに「射幸心」を煽られているのか、という点については、わかりすぎるほどによく分かる気がしてならない。
 もともと、ゲームや賭け事とは、「自由への逃走」(「自由からの逃走」ではない)の気分で構成されるアクションである。必然性の論理で縛られた「非or不・自由」の日常を飛び越えて、偶然の織り成す仮想の「自由」へと逃走することだと思われる。
 ますます緻密に計算され管理される現代の日常にウンザリする者が増えたとしてそこに何の不思議もないであろう。

 また、もうひとつ、「労せずに得ようとする」という射幸心のもうひとつの構成要素も、実にわかる気がするのである。現代という時代は、寄ってたかって「労する」ことの意味を叩き壊し、「労せぬ」ことのカッコよさをぶち上げているかのようである。「労せず」に稼ぐ「悪党」たちは、決して道徳的善悪の規準によって裁かれているというよりも、「ッきしょーめ」といった激しい嫉妬心によって叩かれているのが実態であるかのように見える。法廷処理はともかく、その前段でのマス・メディアによる非難という現象はまさにそれだと考えた方がわかりやすい。
 増幅された嫉妬心というものの根底には、大体、不公平感で苛まれた経験や不遇な過去が累積しているかに想像されるが、やはりこの国の庶民たちは大いにそんな経験をさせられてきたのかもしれない。
 そんなこんなで、現代という時代環境は、「労する」ことの意味を天知る地知るという道理が、完璧に反故にされてしまった時代なのかも知れず、「労せず」に事を為すことが当然視される時代だということになるのだろうか。

 ただ、こんな奇妙な時代は虚しいと言えば虚しいものだ。日常生活から政治にいたるまで、必然的な混乱に「労を惜しまず」体当たりするならば、手ごたえのある自由を手にすることだって夢ではないのに、それは選択肢ではないがごとく諦めてしまい、あくまでも仮想の「自由」空間を彷徨い、結局はそこにおいてさえ丸裸にされてしまう哀れな現代のギャンブラーもどき庶民たち……。 (2005.07.20)


 現在、2007年問題として、団塊世代のビジネスマンなどの大量リタイアによってどんな問題が発生するかが懸念されている。懸念の中心は、技術系職員のリタイアとそのノウハウが後継者に継承されているかという問題であるようだ。
 たぶん、もっともな懸念だと思われる。と言うのも、現場の実情というものは、もはやリタイア組の技術ノウハウなんぞ不必要だと言えるほどにスッキリしているのかどうかという点が気になるからである。
 必ずしもそうではなかろうと推測するわけである。
 先ず、もしも既にスッキリと継承されていたならば、当該停年退職予定組は、前倒し的に早期退職の処遇を受けていたのではないかと思われる。それがリストラというものであったはずだし、なおかつ現在でもどこの企業とて余剰人員を抱えていられる余裕はないからである。
 また、当該停年退職予定組が保持しているであろう技術分野は、今流行りの最先端のものではないであろう。どちらかと言えば、ひと世代もしくはふた世代前のもの(レガシー・システム! 何もコンピュータ領域に限られたものではない)であるかもしれない。だからこそ、上記のごとく引継ぎや継承が等閑(なおざり)にされたりもするのかもしれない。
 しかし、だからと言って、そうした技術分野が用済みとなってしまったわけではない。何も最先端技術領域ばかりが持てはやされるわけではないのが世の常である。事実、ユーザ側は、どこもここも最先端の技術を追っかけているわけではない。むしろ、使い慣れた古い技術をこそ愛好しているユーザも少なくない。コスト面でもその方が負担にならないであろう。従ってそれをマイナーに改良してほしいと望むこともある。
 これらは、ドカッと大きく稼げる仕事には結実しないにせよ、こうした従来からのユーザによるちょこちょことした問合せへの対応というものが、当該世代技術職ならではの責務なのかもしれないのである。こう言うとろくなことをやっていないように聞こえる。しかし、もし、信頼を売り物にする企業がこうした対応から手を抜けば、途端に悪評が広がることになりそうである。そしてまた、こうした対応の中から、システム・リプレイスなどを含めた新需要を確保することだってあり得るはずだ。決して馬鹿にはできないことなのである。
 そんな部分が、一気に停年リタイアとなって各企業から姿を消すとなれば、やはりゴタゴタなしでは済まないのではなかろうか。

 すでに、その前兆のような経験をしている人々も少なくないのではないかと想像する。つまり、大規模停年退職ではなく、大規模リストラによって同種のことが展開したはずだからである。
 現に、自分の身近でもそんな経緯があった。われわれの顧客側でのリストラによって、顧客側が知っていて当然の技術内容やその推移の掌握が、既存担当者の退職(リストラ)によって「行方知れず」となってしまったのである。むしろ、長く継続してお付き合いをしてきたわれわれの方が事態に精通するというチグハグな事が起きているのである。
 また、ある新規顧客側の実情としては、逆のケースもあった。これまで、継続的にお付き合いをしてきたソフト会社が、経営が立ち行かなくなって現在稼動しているシステムの改良やメンテナンスが宙に浮いてしまったというのである。このケースは実に複数件あったものである。リストラによる担当者の消失どころか、不景気によって担当会社そのものが消失してしまったのだ。
 代替性が利く一過性の製品であれば、メーカーやベンダーが消失したとしてもユーザはさほど困らないが、特注ものである技術的所産は何かと後々で面倒なことになりがちなものである。できれば、社内に「生き字引」が「生きている」ことが望ましいわけであろう。にもかかわらず、大規模リストラや、そして団塊世代の巨大リタイアなどは、こうした不都合の傷口を広げることになる。

 考えてみれば、仕事の担当者の異動というのは避けられない現実であろう。だから、当初から、どんな「歯車」に取り替えられようとも問題が生じないような組織システムや、後継者育成が配慮されなければならないわけだ。
 が、しかし、この国というのは今までそういうふうには作動してこなかったのだ。端的に言えば、「属人的」なものに依存する割合が強く、組織とは、システムであるよりは「属人性」が絡み合ったまさしく「(有機的)組織」以外ではなかったのであろう。それはそれでいいところも十分にある。まして、終身雇用慣行が伴うところでは、それは絶妙な組織力を発揮したりもした。
 ところが、欧米の組織、少なくとも米国流の組織というものは、組織というよりも無機質なシステムに近く、全体は「歯車」という代替可能なパーツによって構成されている、と見た方が妥当だ。それは、労働力市場の流動性と対を成しているはずである。それが、企業の都合によるリストラをも恐れない体質を作ってきたとも言える。
 それらに比べて、やはりこの国は何から何までも異なっていたと言わざるを得ない。しかし、そこへ持ってきて、一気にグローバリズム、「構造改革」、「大リストラ」という米国流儀を受け容れることとなり、さらに自然現象的な団塊世代大量リタイアが始まろうとしているわけである。これを、「未知との遭遇」だと言わずに何というべきであろうか…… (2005.07.21)


 「四十の五十のと『重箱』のように歳ばかり重ねて、ムダなことばかり言いなさんな……」というセリフが文楽の落語「寝床」だかにあったと記憶している。大店(おおだな)の旦那が、年配の番頭に小言を言う場面である。
 もちろん「重箱」とはあの「重箱」のことである。
「食物を盛る箱型の容器で、2重・3重・5重に積み重ねられるようにしたもの。多くは漆塗りで、精巧なものは蒔絵(まきえ)・螺鈿(らでん)などをほどこす」(広辞苑)

 年配の番頭であるから、まるで漆塗りの色彩にも似た落ち着いた風合の羽織でも着ているのであろう。また、座る風情や立ち振る舞いも、妙に律儀っぽい雰囲気を漂わせ、見ようによっては四角四面でもあり、ひっくるめて、どこかおさまり返った「重箱」を想像させないでもない。
 また、その中に盛られるご馳走は当面埒外(らちがい)であり、専ら見た目の器としての外観だけに責任を負う点も何やら共通していなくもない。
 そこへ持ってきて、駄洒落の角度から「重箱」のように……と言い放つのは、やはり落語の名人芸ならではのことである。

 この文脈からは、「重箱」というものは、中身がなく見てくれだけで積み重ねられた空疎なもの、というような批判的響きが聞こえてきそうである。その点は確かにそうだ。
 が、自分は、正月の膳に出されるおせち料理が詰まった「重箱」には大いに好感を抱くものである。高価な美味い料理が詰まっているからなのだと言えばそう言えなくもない。ただ、実に合理的だとは思える。空間活用に意が払われていて、都市空間での建造物の高層化に匹敵すると見なせるからである。皆で箸をつける場合には、水平的展開をして、一段落したら、「高層化」へと変貌させられるのは、とかくゴチャゴチャとなりがちな狭い都市エリア(お膳の上)を実にスッキリとさせるための卓見であろう。「重箱」が評価されていいひとつの理由はここにある。
 しかも、蒔絵の「重箱」ではなくとも、黒っぽい和風塗りの「重箱」が鎮座していると、何か重厚感と期待感がかもしだされ、決して悪い印象ではない。
 つまり、これが、「重箱」の第二の売りなのである。そこそこ凝られた「外見」によって、「さぞかし中身は……」という想像力を刺激することで、その見る側の想像力とセットとなって、いわば「視聴者参加」的な好評を博する、それが「重箱」というものの長所なのかもしれない。「中身が見えず」外見が凝られている点、これは他の和風の「器」にも共通しているが、なんせ「重箱」は「高層建築」であるだけにその長所が増幅されることになるわけなのである。

 ところで、「重箱」が伝統的な「器」であるならば、それとは対照的で現代的な「器」というものもある。あの「タッパーウェア」である。半透明で中身が見えるプラスチックのスケルトン容器、しかも、彼らは「密閉性」という機能をもセールス・ポイントにしながら、とにかく便利であるなら「趣き」なんぞはノー・サンキューという現代の「乾いた」茶の間に猛攻勢をかけている模様である。
 確かに、「まとめ買い」の一般化によって不可欠となった大型冷蔵庫と実に相性がいいという点が、その「タッパーウェア」が時代の寵児となり得た最大の根拠なのであろう。「タッパーウェア」はまるで、冷蔵庫の「親類」、「甥っ子」でもあるかのようであり、場合によっては、実は冷蔵庫の「落し胤(だね)」なのだと暴露しても頷く人がいたりするほどかもしれない。

 わたしは、何をうだうだと書いているのかといえば、食材容器である「重箱」と「タッパーウェア」との関係、あるいはその対照、さらに言い迫るならばそれらの闘争という、そんな光景は、現在のオールド世代とヤング世代との関係に酷似しているのではないかという点なのである。
 歳を重ねた者たちは、自身の中身を曝け出すようなことは、謙虚さから、あるいは世間体から、はたまた中身自体がなかったりするから、人目につかないようにしている。そして、その奥ゆかしさが、接する者をして「さぞかし……」という錯覚に陥れているやもしれない。
 それに対して、「タッパーウェア」世代は、これまた隠すものもないからかもしれないが、何でもかんでもスケルトン・タッチで曝け出す。多少とも、接する側に想像力が働くくらいの神秘性がほしいような気がしないでもない。「タッパーウェア」自体が冷蔵庫あっての存在ならば、若い世代の人たちは、会話場面までも字幕スーパーを入れるようになった「あけすけ」なテレビの申し子たちだと言えそうだ…… (2005.07.22)


 子どもたちは、もう夏休みを過ごし始めたはずだ。自転車を連ねて走る子たちもいる。いかにも慣れていないことが見え見えの大きなリュックを担いで歩いている子もいた。しかも、サンダルをつっかけていたりするものだから、ちょっと妙な格好に見えた。きっとキャンプに行くために、リュックに入れるものは用意できたものの、果たして担いで歩けるかどうかを試してでもいるのであろう。そんな想像をさせた。
 いずれにしても、子どもたちにとっての夏休みとは、塾通いというようなものを除けば、ちょっと次元の異なった「人生」とでも言える期間なのだろう。大抵の場合には、あり余るほどの自由時間が与えられ、そんなことはできっこないであろうに「自己管理」という課題が提起される。先ずは、日頃、タイム・アウトでできないこと、たとえば、TVゲームなどをこころゆくまで、飽きるまでやるのだろうか。
 そう言えば、いつもの家電ショップに買い物に行った際、三人ほどの小学生の兄弟姉妹らしき子どもたちが、母親に付き添われレジの前でワイワイ騒いでいた。一体何を買ったのだろうかと覗いてみると、「決まってるジャン」と言わぬばかりのモノが見えた。書籍ほどの大きさのゲームソフトのパッケージをそれぞれが手にしていた。母親も、「これらがあれば、ちぃーとは家ん中で大人しくしているはず」という読みをしているのであろうか。あっちこっちへ連れて行けとせがまれてはかなわない、という背景の思いも透けて見えるようであった。

 子ども時代の夏休みと言えば、いろいろな宿題が思い起こされるが、何といっても「絵日記」がダントツの印象で浮かんでくる。色鉛筆を使ったりして、挿絵まがいの絵を描くことは苦にはならなかった。お定まりの朝顔の花やつるを描いたり、花火、盆踊り、スイカ、そして海やプールに連れて行ってもらったことなど、文章などがどうであったかはすっかり忘れてしまったが、描いた絵についてはおぼろげながら浮かんでくる。
 もっとしっかりと浮かんでくることといえば、夏休みの最初の頃はよしとして、8月に入ったりした頃には、書くべきことは一通り書いてしまったために、何を書いたらいいやらわけがわからなくなったりしたことだろう。
 そもそも、子ども時代の日記というものは、「イベント」のようなものがないと書けないわけである。感じたり、考えたり、思い出したりという内面的事柄はどうしても存在感が希薄なのであり、自分が特別な何をしたかとか、自分を含めた周囲の環境でどんな変わったことが起きたかという、言ってみれば「ニュース」のようなものがないとお手上げになってしまうものだろう。しかも、それらは、マス・メディアのニュースと同様に、誰が見ても「ニュース・バリュー」があると思えるような、そんな「イベント」でなければならない。
 しかし、どこかへ連れて行ってもらうにしても、当然、毎日の日記のネタにこまらないほど頻繁に連れて行ってもらえるわけではなかろう。だから、要するに、書くネタがなくなってしまうわけだ。そんな苦労は、記憶に残っている。ただ、そんな時にどうやって穴を空けずにページを埋めたのかについてはよくは覚えていない。平凡な出来事の中に、新規性を見出し、それをめぐって自分の感想や考えを縷々綴るというような高等なワザを発揮したはずがなかったことは確かだ。

 現在でも、こうして毎日「日誌」ふうに書いていると、やはり、いつも何を書こうかと悩ましいものである。一日という時間の流れの中で何をしたとか、何があったかとかでよければ、しかも、何がしかのまとまりも必要なく、事柄の羅列でよければ何の苦労もない。ただ、そうした覚え書のようなものを書くべきではない、書きたくないと言い含めているために難しい。
 この日誌のスタイルは、冒頭に「表題」らしきものを掲げている。つまり、何を書いたか、何について書いたかを再確認する思考とセットになっているわけである。テーマのある文章を、日次というスパンで書こうとしていることになる。それ以上の負荷はかけてはいないのである。
 しかし、これは結構大変な頭脳作業であることは間違いない。いや、毎日のことなのでおのずから手を抜く結果になることは否めない。がしかし、概ね淡々と過ぎてゆく日々にあって、なおかつ「いい歳」にもなれば、生き方そのものに変化が乏しくもなる。フォーカスすべきテーマを喚起するようなイベント的事柄が起き続けるわけがないのだ。
 いや、さらに、仮にイベント的な事柄と思しきものとて、それがマンネリ的相貌しか持っていなかったと判断したものについては、自身の中の「編集長」はそれをボツにしてはばからない。そのイベント的ことがらについて書き進めたとして、何も自分の内面にさざなみを立てないかもしれないと思えば、書かないわけだ。
 はたまた、すべて条件が整ったテーマであっても書かないこともあり得る。そんなことは何回も経験している。それはどうしてかと言えば、書き出せば「大変な労力」を要すると予期した場合である。ちょっと込み入った事柄である場合は自主規制というか、敬遠するというか、見送ることになるのである。その頻度は、昨今は、比較的少なくなったかと意識してはいるが、当初はそんなことも多かった。
 それというのも、こうしてまあまあの長期間書きつづけていると、考えることと書くこととがかなり馴染むというか、擦り合わされるというか、歩調が整うようになってきたように感じるのである。

 ところで、人というのは、まさしく不可解な存在であり、自分が事実としては何をどう考えているのか、なかなか認識できないものだと思っている。おそらくその理由は、その時その時の断片的な感覚や瞬間的な思考で過ごしていて、ありていに言えば常に「やり過ごす」ことで時の流れるままに身を処しているからに違いない。「お天気屋」という表現があるが、言ってみれば、大半の人は「お天気屋」なのだと言えそうだ。つまり、自身の比較的定まった考えというようなものはほとんどなく、またそうした自身のありようについてもあまり意識していない。
 自己認識が甘い、という厳しい表現もあるが、どうであろうか、大半の人々はほとんど何も根拠を持たずに自分自身をおぼろげなイメージで捉えているに過ぎないのかもしれない。しかし、それは無理からぬことではないかと考えたりする。

 極端な話が、人間の脳の働きというものは、瞬間、瞬間に対応することに大きなエネルギーを割いているのではなかろうか。もし、脳の働きがそうした構造を持つとするならば、「時系列」的にそうした断片的想念を統合するということは、決して自然に行われるものではないという気がする。いや、脳生理学的に統合する機能というものはあるらしいが、それは、「自己とは何か」というような込み入った水準ではなく、「認識障害」や「多重人格」に陥ることを防ぐといったレベルなのだろう。
 つまり、人はよほど意図的に、かつ継続的に自身の内面に漂ういろいろな想念にチェックを加えてゆかなければ、「自己」らしき存在に対してさえ近づけないのかもしれない。大体、われわれが自分を自分としてイメージしているその材料は何かと言えば、他者の観測の結果(周囲の他人から言われたり、評価されたりすること)ばかりだと言ってもいい。あるいは、家族関係での立場(父親、母親……)であるとか、職業であるとか、何らかの地位であるとかといった、自分の社会的属性を有力な材料にしていることも多い。これらを低く見ることはなかろう。だが、それらをいくら収集してみても、自分の外見がわかるだけであり、しかも他者が見た概観がわかるに過ぎない。まあ、それでいいんだと言えばそう言えないこともなかろう。

 ただ、「最近の若い女の子は、自分で何かを決めなくてはならない時は必ず『占い』で決める」というような話を聞いた時、笑えない気分となった。「占い」というのがやや滑稽なニュアンスを持つわけだが、じゃあ、他の人々は何に依拠して自分自身の大事な物事を決めているのかということなのである。さまざまな「知識」だと結論づけた場合、事情は本当に異なるのであろうか。
 つまり、しなければならないことが、「判断」からさらに難易度の高い「決断」ということになった場合の話なのである。妥当な判断に近づくために参考となるものは多い。「占い」も然り、まして合理的外見を持つ「知識」も役に立つ。だが、「判断」ではなく「決断」をしなければならない時、必ずあってほしいと思えるのは、「自分が自分を知っている」ということ(自己認識!)なのだろうと思うわけだ。

 子どもたちの夏休みの「絵日記」の話から、この日誌の話、そして、なぜ書くのかという問題へと右往左往してきた。自分を自分で掴むためだと言えようか。ただ、それでもなお、想念というものは捉え難く、また文章というものは操る者を裏切らないとはかぎらない。精進、精進…… (2005.07.23)


 日曜日は混んでいるはずなので敬遠するのが常であるが、日曜大工作業関連でちょっと気になるものがあったため、ある「スーパー・ホーム・センター」へとクルマを走らせた。 街のやや郊外にある、巨大な「ホーム・センター」である。売ってないものに何があるだろうかと考えると逆に困るほどに多品種を品揃えしているビッグ・ショップである。まあ、衣類はレパートリーになかったかもしれないが、生活に関わるものならば、「ホーム」の内側のさまざまな道具や道具立て、もちろん家電製品も含み、外側の建築関係素材から植木や庭のさまざまなモノ、そしてアウトドア関連、もちろん食品から酒類もあり、簡易食堂や宝くじ売り場まである。こう書いていたら、要するに百貨店、デパートじゃないかという気もしないでもないが、それらと異なるのは、決して高くないという点と、ショッピング・カートを押しながらセルフ・サービス的にショッピングをするというその種のスタイルが決定的に異なるはずである。

 各階を結ぶのはエレベーターではなく、なだらかなスロープとなったエスカレーターである。ショッピング・カートでの移動を考慮してのことであろう。そのショッピング・カートにしても、小さな子どもを一緒に運ぶことも可能であり、今日気づいたのは、連れてきたペットたちを運ぶ種類のものもあったことであり、時代の変化なんだなあと驚いた。
 そのなだらかなスロープで、クルマをとめた屋上から売り場へと降りて行く際、まさしくだだっ広い売り場の光景が一望できた。もう何回も来ているのにもかかわらず、今日は、その光景を目にして何か異様な感じを受けたものだった。
 夏休みで、しかも日曜日ということだからであろうか、子どもを連れた家族連れ客がごった返していた。ラーメンやお好み焼きなどを食べさせる簡易食堂の発券カウンターの前には長蛇ができていたし、「溢れる」商品が展示された箇所を除く店内通路も立錐の余地無しといったところであろうか。大型の窓から覗けるショップ前庭にも、観葉植物から各種植木に、リフォーム用の夥しい建材が配置されている。「溢れる」商品と、まるでそれらに翻弄されるように蠢く大勢の人々という光景を、何か異様に感じてしまったのである。とっさに思ったことは、人々の感覚、意識は、こうした「溢れる」商品群によって支配されているのだろうか、という思いであった。
 もし、こんなところで、「罪を悔い改めましょう……。神はひとり子イエスをこの世に送られました……。」と宗教家が叫んだところで、ぬか釘となるであろう。「郵政民営化は切実な課題なのでしょうか……」と政治家が訴えたところで、聞き流されてしまうであろう。ショッピングに訪れている顧客たちは、気ままなプライベート茶の間の個人的意識を引きずってここへ来ているのだから、そんな次元の異なる話に耳を貸すわけがないだろうな……、と。
 かと言って、それじゃあ、ショート・パンツに突っ掛けのお父ちゃんたちが次元の異なる立場に立ち切って、まあたとえば「公共的」な問題をまじまじと考える時というものがあるのだろうか?
 そうしてみると、こうした消費行動が、人々の心と頭の99%を占めてしまっていると言っても過言ではないのだろうか……。そんなことを、瞬間的に思い巡らせていたのだった。

 わたしは、日曜大工作業関連の目当てのモノがどこにあるかを探したが、あまりにも「多品種」のモノが洪水のように展示されているため、探し当てるのにほうほうのていであった。今日のように混んだ日には、さっさと買い物を済ませるのが定石だとは言い聞かせてはいたものの、好奇心が刺激され「あっこれもおもしろそうだな」「あれっ、これは何に使うんだろう?」とか、まるで川を流れるゴミがあちこちの杭に引っ掛かりながら流れるように寄り道をしてしまった。
 そうしている過程で感じざるを得なかったのは、次のようなことであったかもしれない。「やっぱり。モノは『溢れている』、個人が処理できる範囲を超えて、過剰に『溢れている』。選ぶというまともな行動を成立させないほどに『溢れている』んだ……」

 モノが溢れる時代、過剰なモノ、そして過剰な情報というようなことをしばしば耳にしてきた。この事は、おそらく大変なことのはずである。人のさまざまな生理的処理能力というのはもちろん小さな限界があり、また感覚や意識という柔軟さを持った内的処理能力にしたところで、おのずから限界のようなものがあるように思える。
 たとえば、生理的処理能力でいうなら、のどの渇きにしても食欲にしても、意外と単純かつ淡白であろう。極端な空腹時に、あれもこれも食べたいと思ったとしても、そんなに食べられるものでもない。のどの渇きにしたところで、あっという間に満足することになる。
 また、あれが欲しい何が欲しいという願望や欲にしても、大半の人の実情で言えば、高が知れているのかもしれない。現に、突然(でなくともいいが)、「何か欲しいモノがありますか?」と問われると、そんなに膨大なリストを作れないのではなかろうか。
 さらに、頭を使うことにもなる情報や知識を得るということになると、欲しい情報・知識の量たるや実に慎ましい量なのではなかろうか。

 こうした事実に目を向けてみると、やはり現代という時代が、「溢れる」モノと情報を吐き出しているところの極めて特殊な環境だと言っていいのだろう。
 この辺から、モノが「溢れる」社会ではモノを粗末にしたり、モノへの愛着が薄れると言われてみたり、情報が「溢れる」社会では逆に情報に無関心となると言われたりもする。要するに、モノや情報への「アパシー(apathy)」(意欲に乏しく無感動な状態。政治的無関心)が生まれるという事情である。
 過剰に溢れるモノや情報の中で、人々は、やはり「撹乱」され続けているというのが現実なのであろうか。頼りない「求心力」をもはや問うことも放棄して、強靭な「遠心力」に身を任せて拡散の一途を辿っているのが、われわれ現代人なのであろうか…… (2005.07.24)


 コンピュータ・ファイルの「圧縮(解凍)」では、「LZH」や「ZIP」の方式をはじめとして様々なものが活用されている。デジカメなどで使われる「JPG」や「GIF」というファイル形式も、ある意味では「圧縮」方式のファイルである。正確に言えば、「BMP」などの元の密度のファイルには戻すことができない種類の「圧縮」なのである。
 こうしたファイルの「圧縮(解凍)」は、以前ではごく限られた技術よりの人たちだけが使用していたはずである。なにしろ、昔は、ストレージ【storage】(デジタル情報を記録・保存するハード-ディスクや光磁気ディスク-ドライブなどの記憶装置の総称)のサイズが小さく、要するに、物置が極めて貧弱だったからである。現在のように、100ギガバイトのHDDなどを想像することもできなかったに違いない。
 が、現在ではHDDにせよ、CDからDVDにせよ、ストレージのサイズは飛躍的に大きくなっている。しかし、活用されるファイル自体もけた違いに大きくなっていることにも気づかなければならない。画像であるとか、動画やサウンドであるとか、とかくマルチメディア・ファイルは途方もなく巨大である。そのため、それぞれのメディアごとに、「圧縮」方式が考えられなければならなくなったわけである。
 ストレージの容量が巨大化したにもかかわらず、インターネット時代には、ファイルのやり取り(転送)が当たり前の事態となったため、やはりファイルの大きさは気にせざるを得ないことになる。

 今日、自分は、サイトのホームページ用サーバににアップロードしていたファイル類の整理をし始めた。すでに、許容量に近い状態となり、若干のシステム的不具合(オーバーフロー現象)も発生しているため、見直しをかけたのである。
 データやオブジェクトをアップロードする際には、そのメーキングのためにそこそこ労力を割いたため、無碍(むげ)に削除してしまうのはやはり辛くなる。できれば、ファイルのサイズを小さくして、サーバに残して置きたいという気分に引きずられるわけである。
 そこで、逢着するのが、ファイルの「圧縮(解凍)」方式ということになる。
 ただ、ホームページとしてサーバに置いているファイルは、閲覧者に随時ダウンロードしてあげなければ意味がないため、年に何回も使わない生活道具を、庭先の物置に仕舞い込むというようにはいかない。閲覧者の求めに応じて、使い勝手が悪くならないようなファイルの設置をしておかなければならないのである。
 いろいろと検討した結果、わたしがたどり着いた方法は、閲覧者からリクエストされ、「クリック」された際、「圧縮」して小振りにしておいたファイルが、閲覧者の手元に「ダウンロード」されるとともに、「ダウンロード」が完了した時点で、「解凍」されアプリケーションたるブラウザが自動的に呼び出され、新しいブラウザ上で開示されるという方法であった。いわゆる「自動解凍」方式というものである。
 これならば、閲覧者が、ダウンロードした「圧縮」ファイルを、「解凍」して、そのファイルをブラウザで呼び出すという手間のかかる作業が簡略化されることになるのだ。やはり、閲覧者にわずかでも負荷をかけるような環境設定をしないというのが、サイト運営の工夫のひとつなのだろうと考えているわけである。

 それにしても、昨日の話ではないが、現代はまさしくモノと情報に「溢れた」時代である。そのため、それらの処理方法なり、保管方法なり、あるいは転送などを含めた全体の処理方法などに相応の工夫が必須となってくるわけだ。
 いらないモノは捨てるというのも、この時代ならではの重要な処し方だと思われるが、その前に、モノを「圧縮」するという考え方に大いに関心が向く。布団や衣類を「真空パック」にして嵩張らないようにするというのも抜群におもしろい。家の建て方においても、「収納」という点に工夫が施された設計は、おそらく多くの生活人たちが羨ましく思えるところなのであろう。まだまだ、工夫され、奇想天外な発想が生み出される可能性がありそうな気配を感じる。
 また、「溢れる」情報の個人的処理においては、ツール類の問題にとどまらず、情報への「感度」や、「ブリーフィング【briefing】」(要約して、要旨を掴むこと)能力を磨く必要性も高まっているに違いなかろう。
 これは、物理的「圧縮」とは次元もロジックも異なり、言ってみれば「エッセンス」を「数珠繋ぎ」にするということだろうが、これほどに難しいことはないと思っている。ただ、人間という「種」は、あらゆる生物の中でこの世界に最も適したかたちへと「凝縮」されてきた存在なのだろうと見なせるし、また、脳というのは、そんな人間の生理的構成物の中でも、神秘性をも秘めるかたちでの「圧縮」的構成が仕上がった構成物なのだろうと考えることもできる。
 そんな人間の脳の働きが、現在は、専ら「多元性」の開発に向かって突き進んでいるようだが、そうした「拡散」的傾向から、「求心」(漢方「救心」ではない)と「凝集」を深める時代が到来しないとも限らない。
 いや、そんな途方もないマクロな話はともかく、等身大的世界にあって、「拡散」する世界の事象をどうやって自身に繋ぎとめていくか、それは結構切実な問題なのではなかろうか。結局、昨日とほぼ同一のテーマの周辺を歩き回ることになってしまった…… (2005.07.25)


 システム開発を請負う仕事に二十年も携わっていると、さまざまなトラブルにも出会う。いずれのトラブルも、精一杯の注意や配慮をした上でのことであるから、一様に苦しいものばかりであったと言える。
 そんな中で、ひとつの共通した「辛さ」というものがあったかもしれない。
 構築中のシステムの成否というのは、顧客側にとってはもちろんのこと、ベンダー側にとっても最大の関心事である。従って、構築過程で発生するトラブルは、その原因がどちら側にあろうとも、「われわれ」(=顧客&ベンダー)のトラブルであり、解決課題だということになる。
 原因は、顧客側の仕様に問題があったり、ベンダー側の力量に拙さがあったり、あるいはその両方が絡む場合があったりするわけだが、その責任追及をしたところで、トラブルが氷解するとは限らないのであるから、「われわれ」の課題という立場に立って解決に向けて臨むべきなのである。それはそれで正しいアプローチだと言える。
 だが、往々にして、顧客側による仕様未凍結状態、曖昧なかたちでの仕様変更など、顧客側担当者による意思決定の拙さに起因するトラブルも決して少なくないのが実情である。顧客側担当者にもいろいろと事情があり、一概に責めることもできない。

 しかし、ここに、ちょっと扱いにくいけれども避けて通るわけにはいかない問題が生じるのである。「われわれ」の課題を協力して推進する一方で、超過して発生することになる「オーバー工数」を、ビジネスの土俵できちんと清算しなければならないという問題なのである。システムが「社内開発」の位置づけにあれば、予算の出所は同じであるのだから問題はないであろう。だが、顧客側と「請負」ベンダー側との契約で始まる開発の場合には、話は異なる。開発過程にあっては、緻密な相互協力によって「われわれ」の課題を解決するという雰囲気が必要であったとしても、費用の件に関しては別次元で処理しなければならないのは当然のことである。
 つまり、「われわれ」の課題を一致協力して解決しよう! という、それはそれで大変ではあっても「麗しい」雰囲気、「空気」に、それと較べればクールで「逆撫で」的なリアルな課題を持ち出さなければならない、ということなのである。
 もちろん、大半の現場技術者は、こうしたリアル過ぎる問題に関与することは避けたがる。もともと技術者というのは、気持ち良く技術的課題にのめり込みたいという動機に満たされた存在なのである。したがって、現実には、マネージャーなり、営業が対処することになるはずであろう。
 だが、いずれにしても、「麗しい」「空気」に、それとは馴染みにくい「逆撫で」的なリアルな課題を提起するという困難さが存在することには変わりがない。

 なぜこんなことを思い起こしたかというと、現在、妙に「一方的空気」というものが、あちこちで「事実上機能している」ように思えたのだ。原因はそれぞれ違ったものがあるかもしれないが、「われわれ」というような奇妙な「一体的空気」が、個別の立場からの発言を暗黙のうちに封じ込める機能を果たしていることになる。
 すぐに想起するのが、言うまでもなく今日、北京で開かれている「北朝鮮の核問題をめぐる第4回6者協議」であろう。確かに、この会議の緊急課題は「北朝鮮の核問題」であることは周知である。この課題を据え置きにして、他のいかなる課題の議論も虚しく響く実情はある。
 しかし、日本側にとっては、北朝鮮の核問題は喉元に突きつけられた鋭利な刃物的脅威ではあるが、今ひとつ「拉致問題」の未解決という事態が愁眉の課題であるはずだ。未だに、絶望的な状況で生きている日本人がいるであろう事態と、北朝鮮による度重なる非人道的な外交というとんでもない現状は、「今回は先送りにすべき」で済むということでは決してないと確信する。
 しかも、そもそも核問題にしたところが、「非人道」的兵器という点こそが焦点であるはずで、「拉致問題」と根は共通している。それなのに、「拉致問題」は棚上げという「空気」を作ってしまうことは、すでに「駆引き至上主義」で臨む北朝鮮の大前提を黙認していることになるだろう。この「空気」が、拉致被害家族の人々の喉から手が出るような思いを、いかに踏み躙っているかということなのである。

 国内問題で言っても、現在の国政での「郵政民営化」課題一色のような「空気」は一体何だ、と思える。まさに、「勝手なところで」緊急課題がでっち上げられ、それがすべてであるかのような「一方的空気」「一体的空気」が、本来言えばそれこそ緊急課題であるはずの他の政治課題を封じ込め、それによって国民のリアルな苦悩と、そこから生まれる叫び声を封じ込めている。
 わたしは、こうした、無言の「空気」づくりというものを警戒すべきだと直観している。そもそも、「二大政党」時代という「空気」にしても、決定的におかしい。いつの間にか、そういう選択肢しかないかのような「空気」が作られ、能天気なマス・メディアはそれを助長してきた。「二大政党」が政治課題としないであろう社会の底辺に降り積もっていく人々が今後増大していく必然性があるにもかかわらず、それらの人々の声が封じ込められる政治形態がどうして良いということになるのだろうか。ここから生じるのは、社会体制への「マイナス・エネルギー」の沈殿であり、その非合理化であり、そして「テロ誘発」という誰もが望まない悲劇であるのではないかと想像される。

 現在進行している、「非合理」は、かつてのようなビジュアルな抑圧機構ではなかろう。より「有効な強引さ」というものを、考える連中は考えているはずである。時代はムダには時間を失っていないのは、狡猾な連中は、なおのこと狡猾に仕上がって行くからである。確実に進行しているのは、「支配」から「管理」へ、そして「管理」から、「管理」せずともひとつの流れが誘導されていく、そんな方法なのであり、そのひとつとして、マス・メディアも加担して醸し出される「空気」というものが気になるところなのである…… (2005.07.26)


 台風一過の澄み渡る青空、夏日、猛暑というような言い回しは、いかにもステロタイプな表現だ。だが、今日はまさにそんな天候である。南国の地方へ出張にでも出かけているような気分である。八王子では36.9度と、体温並みの気温になっているらしい。
 とにかく陽射しの強さが尋常ではない。こんな日に泳ぐならば、どんな水場であろうとも気持ちがいいに違いないとか、こんな日の景色の輝きを、偏向フィルターをつけたカメラや、とことん「絞り」を絞り込んだ条件で撮影すれば、さぞかし普段とは異なった写真が撮れるのだろう、とかを、クラクラするような眩しい歩道を歩きながら考えたりしていた。また、そのすぐ後で、こんな日に営業関係の仕事で、外回りをしなければならないセールスマンはご苦労なことだなあとも思ったりした。

 ほかの人のことはよくはわからないが、自分はとにかく「汗っかき」の部類に属する。現在でも、朝のウォーキングの際には、一リッター程度の汗をかいているんじゃなかろうかと思う。ビフォアー、アフターの体重差がかれこれ一キロ弱の差があるところからそう推測するのだ。
 昔は、仕事関係で、夏場も客先へと出向いたものだったが、昨今のような「クール・ビズ」でもなかったし、まして営業的立場だったりすると、スーツの上着も欠かせなかった。もちろん、途中の道すがらから上着を着るようなことはしなかったが、客先の会社に着くと、汗の収まらないところへ上着をまとうのが何とも辛いものであった。だから、「汗っかき」であることを恨めしく思ったりしたものである。
 そう言えば、最近ではあまり使用しなくなったが、当時は「扇子」が必需品であった。夏場の顧客訪問においては、やや時間にゆとりを持たせて、近くの喫茶店などに飛び込み、そこで「扇子」をパタパタとさせて「空冷」作業をしたものだった。まるで、「田中角栄」ライクな格好であったことなのだろう。「まあ、その〜、下駄を履いてはおらんかったがねぇ〜」

 そうして汗をかきまくったその当時というものは、当然のことながら、ビールがうまかった。部下たちとも何かといえば、飲んだものだった。「まず、ビール!」という言葉が、ごくごく自然に口に出て、ビールが出されるとゴクコグ飲み干したものだった。
 しかし、ビールとかアルコール類は、あまり有効な水分補給とはならないと聞く。つまり、利尿作用があってすぐに体外に排出されてしまうからのようである。まあ、それはともかく、水分を補給した気になり、おまけに定番のつまみである、塩の効いた「枝豆」を食べたりして、「ヨシ、これで本日の過剰な発汗への修復は万全だ!」と心地よく勘違いしていたのであろう。

 最近の夏は、やはり、汗をかくことが控え目になってしまったはずである。意図的に汗をかこうとする朝のウォーキングを除いては、極力、発汗作用を抑え込んでしまっているのかもしれない。クーラーというもののお陰というか、それが理由だということになるのだろう。この事情というものは、何か現代を象徴していそうでもある。
 よく、キモチワルイ(キモイ?)政治家の発言で、「……と言うようなわけで、その案件に関してはみんなして『汗をかこう』やと申し合わせているんだがね」というようなものがある。要するに、「努力しよう」ということであるらしい。
 ところで、彼らが口にする「努力」がいかばかりのものかは別にして、現代という時代環境が、「努力」というイメージを遠ざけてしまっている傾向は、ありそうな気がするのである。クールであること、涼しげであることこそが現代という時代の要請であるかのようである。これがひとつである。
 もうひとつは、実は「汗をかく」というのは、体温の放出というわかりやすい事態のほかに、もうひとつ重要な役割があるらしいことに関係する。
 「自然治癒」を重視した昔は、たとえば、風邪をひいた際には、「玉子酒」なんぞをいただいて、布団をかぶって寝込み、ビッシリと汗をかいて「毒素」を排出して治したと言う。汗とともに「毒素」が排出された証拠になるのだかどうだかは定かではないが、たとえば、愛煙家の場合には、その汗に「ヤニ」の色が出たと聞いた覚えがある。ありそうな気がしないでもない。つまり、発汗というのは、体温調節以外に、体内毒素を排泄するという別の役割りもありそうなのである。
 となれば発汗作用を抑止している現代という時代環境は、知らず知らずのうちに体内に毒素を蓄積させている危ない環境なのだと言うこともできそうである。

 努力することを敬遠し、排泄されて然るべき毒素を専ら体内に蓄積させているという、そのイメージが、何とも現代人のある一面を象徴しているかのごとく思われるということなのだ。
 定期的に、まとめて汗をかいて、体内毒素とともにストレスをも流し去ることを大いに心がけるべきなのであろう。そうすれば、努力するに値する対象もおのずから見えてきたりして…… (2005.07.27)


 ニュース報道に話題を求めることは本位ではない。自分なりに話題やテーマを設定したいところである。が、あい感じることでもあるため言及したい。
<災害対策住宅の都職員に退去要求「震度5でも登庁せず」>(asahi.com 2005年07月28日13時45分)という件である。次のごとくである。
<東京都は23日夕にあった千葉県北西部地震の際、都庁本庁舎(東京都新宿区)の徒歩圏にある災害対策住宅に住んでいるにもかかわらず、緊急呼び出しに応じなかった職員を同住宅から退去させる方針を決めた。緊急対応の業務要員で同日待機の当番だった34人のうち、登庁したのは13人だけ。都防災対策課は「これだけ多くの職員が緊急対応できなかったことは重大」としている。>
 <新宿周辺で3LDKが家賃5万円弱で、一般の都職員の家賃の約半額>ということらしいが、それはともかく、あまりにも「使命感」とでもいうものがなさ過ぎる。都民や国民の「公僕(こうぼく。公衆に奉仕する者)」としての意識が、お粗末過ぎる。

 現在の深刻な社会問題のざっと6〜7割くらいが、役人、すなわち公的職員(政治家、官僚を含む)のあり方に起因していると受けとめている自分にとって、こうした事態は、またかと思いながらも情けなくなってしまう。
 先日、あるTV番組で、とある自治体の職員が、顔を「モザイク」で隠した上であるが、公務員の意識に緊張感や不安、そして危機感はいっさいない、と言い切っていた。責任追及も無いがごとくであり、また民間企業のように倒産がないため、何も取りっぱぐれがない環境だからだとか……。そのとおりなのであろう。
 今、「市場競争主義」のトレンドであるとか、「構造改革」であるとか、さらに「自己責任」であるとかの言葉が盛んに飛び交う割りに、全体として実態が追いついていないのは、ひとえにそんなこととは無関係な巨大な「聖域」が厳然と存在しているからなのではなかろうか。言うまでもなく、「親方・日の丸」部隊、つまりオール公務員チームのことであり、法的立場ではそうではなくともこれに準じた特権を持つ者たちを含めた者たちのことである。
 現に、「道路公団」の「現職」を含めた連中による「談合」(「背任」と言ってもいいし、国民の税金への「たかり体質!」と言ってもいい)もいいかげんにしろ、と言いたい。経済産業省の「裏金」づくり(<経済産業省の大臣官房企画室が外郭団体「産業研究所(産研)」の調査・研究委託費で裏金を作っていた問題> asahi.com 2005年07月25日)も然り、厚生労働省傘下の組織では自他のカネの区別がつかないけじめ無さ(<保険料収入で局長公用車購入 厚労省の出先機関> asahi.com 2005年07月27日)などなど、枚挙にいとまがないのが現実である。

 実は、こんな旧態以前の愚かしさを糾弾しようと書き始めたのではない。正直言って、バカは行き着くところまで行き着くしかなかろうという投げ遣りな気分なのである。
 そんな気分の中で、最近、ふと思い浮かべる四字熟語は、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」というものである。

 ※ 中国の春秋時代、呉王夫差(ふさ)が越王勾践(こうせん)を討って父の仇を報じようと志し、常に薪(まき)の中に臥(が)して身を苦しめ、また、勾践が呉を討って会稽(かいけい)の恥をすすごうと期し、にがい肝(きも)を時々なめて報復を忘れまいとした故事。そこから、仇(あだ)をはらそうと長い間苦心・苦労を重ねること。転じて、将来の成功を期して長い間辛苦艱難(しんくかんなん)すること。(広辞苑)

 つまり、安逸な環境に慣れると、人間というものは、とことん堕落するものであろう。政治家たちは、任期がきれたり解散となったりすれば、「チェック」が入るため、まだ神経を遣い「上手なウソをつくため」緊張感が走るはずだ。
 しかし、官僚や役人たちは、パーフェクトな「ノー・チェック」体制である。いろいろと苦労や気苦労があると言いたげであろうが、そんなものを聞く耳を民間人は持っていない。緊張感というものが無縁となってしまった者ほど、鼻持ちならない者はいないし、もちろんこの国の美意識から言えば醜悪なものはない。

 今日、わたしが書きたかったことは、「ぬか釘」的な官僚や役人たちを云々したかったからではなく、人間の本姓は、「臥薪嘗胆」というような自戒的な環境を意図的に作り出さなければ自然に堕落する存在なのだろうという点がひとつなのである。
 「臥薪嘗胆」という言葉が歴史に残されたこと自体が、そうでもしなければ、人間というものは安逸な周辺環境に順応しながら、結局のところ堕落の一途を辿るということなのではなかろうか。
 で、官僚や役人たちは、その典型であることは繰り返さないが、翻って考えれば、それでは自分を含めた民間人たちはどうなのか、という点なのである。
 いやあ、結構、苦しくて緊張感に引きずり回されていますよ、という声が聞こえてはくる。しかし、緊張感があればいいというものでもなかろう。悪事を働くヤツでも、きっとその行為の瞬間には猛烈な緊張感を抱いているはずである。
 そうじゃなくて、「良き信念」を育むために、どう緊張感を維持させているか、ということなのである。この現代という「市場主義」万能環境は、とにかく買ってくれる人がいて、モノやサービスが売れれば、結果オーライ以外ではない節操なき環境だと、ひとまずは事実認識しておこう。そんな環境に距離を置かずに順応するならば、民間人とて偉そうなことは言えないということなのである。単に、官僚や役人たちの「安定性」に嫉妬しているにしか過ぎない、ということにもなりかねないわけである。

 本来を言えば、中野 孝次氏のように「清貧の思想」に充実して生き、その素晴らしさの実感で退けるべきものを却下していけたなら言うことはない。しかし、自分のような下衆でなおかつ忘れん坊は、それでいいのか? と自戒を与えてくれるような環境が必要なのかもしれぬ、と思うわけである。そこで浮かぶのが「臥薪嘗胆」という四文字熟語だということになるわけである…… (2005.07.28)


 やはり気掛かりでならないことのひとつに、インターネット上での「個人情報流出」事件がある。つい先頃も、インターネット上の仮想商店街「楽天市場」で商品を購入した顧客の情報が流出していた問題が発覚している。「個人情報」の中に、クレジット情報が含まれる場合は、ダイレクトな個人被害が発生する可能性が高いだけに、気分的なプライバシー侵害問題では済まないことになる。あっと言う間に、事態はここまでリスキーな局面に昂進してしまったかという観がある。
 インターネット上でのセキュリティに関する犯罪は、この種の「個人情報流出」に限らず、すでに、ウイルス問題から、「サイバーテロ【cyber terrorism】」(国家や社会基盤の混乱を目的に,それを維持するために必要な情報システムへの侵入・破壊工作を行うこと)に至るまで、百花繚乱の様相を呈している。

 正直言えば、ネット犯罪者たちのエネルギーにはある種の脅威を感じざるを得ない。おそらく、そうした連中は、比較的時間も自由になるのだろうし、場合によっては時代や社会に対するルサンチマン[(仏) ressentiment](怨恨。被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること)があったりするのかもしれない。そして、何よりも、IT関連技術が好きで好きでならなかったり、好きこそものの上手なれ、ではないが、比較的高度なスキルを保持しているのであろう。
 言っては何だが、日の当たるビジネス世界で、オブリゲーション的意識に引きずられて型どおりの仕事をしている技術者とは対照的な位置と環境で、猛烈なエネルギーをもって善悪の一線を踏み越えているのであろう。大して好きではないことを、生活費を稼ぐためにしかたなくやっている者たちと、ビョーキのように好きで事をなす連中とは、はっきり言って比べものにならないと言うべきかもしれない。
 決して、人々を泣かせる悪を称賛するつもりなぞ毛頭ないが、奴らのギラギラとしたエネルギーだけは、しっかりと認識しなければいけないと感じている。インターネットという、人の善意溢れる知恵で構築された技術環境を、要するに、エゴイスティックに利用して己が欲望を満たそうとする下心の卑しさは、どんなに飾っても隠しようはない。その意味で、彼らのやっていることは、軽蔑すべきこと以外の何ものでもない。かと言って、その善悪水準が、ものごとを為すスキルを決定することにはならない。悪の動機を持って、ハイ・エンドのスキルをこなすことはもちろん可能なのであろうし、ネット犯罪者たちというのは、まさにそうした人種なのだろう。

 社会に対する「怨恨」はおろか悪意なぞ毛頭持たないIT技術者たちは、ネットワーク上のセキュリティの実態にもっと強い関心を向けるべきだと感じている。もっと身を入れて学習なり研究なりを旺盛にすべきだと痛感している。多分、「闘い」にたとえるならば、このネット・セキュリティ戦線が今や主戦場になりつつある観があり、ひょっとしたら、今後、この戦線がどんどん後方へと拡大して広範囲を巻き添えにしていくのかもしれないと思われる。
 それと言うのも、先ずは、素人からは見えにくいジャンルだからという点がある。IT関連業務に携わっているわれわれでさえ、技術的真相を掴みかねる部分が少なくない。したがって、一般のユーザにあっては、当該の技術環境が安全であるのかリスキーであるのかの判断がつきかねるのも無理はないと思える。ひたすら、シェアの高いベンダーが提供するシステムやツール類をとりあえず信用するしかなかったりする。で、そんなベンダーの環境が、後日、犯罪者によって意のままにされたと聞かされたりするのだから……。
 また、仕掛ける連中の素性については前述したとおりだが、片や「王道」をいく技術者たちはいつも後手に回りがちな環境に置かれている、という事実がある。
 つまり、どんなジャンルでもそうであるが、問題やトラブルを未然に防止することの価値や評価は、常に不当に低くあしらわれるというのが現実なのである。未然防止のために、キリキリと知恵を絞ってみたところが、冷ややかな当然視でいなされることが少なくないのが現実なのかもしれない。
 確かに、これだけさまざまなネット・セキュリティの犯罪が吹き上げている現実は、それを未然にプロテクトする営為の価値を高めてはいると思われる。しかし、いまだに、トラブルは無くて当然という一般論は消えてはいない。

 今日、わたしが痛感したことは、こんな時代環境を踏まえて、何らかのかたちでのIT技術関係者は、もっとこの問題に傾注すべきだという点なのである。セキュリティ問題は専門ではない、とかの言い訳をすることなく、全く部外の位置にある一般ユーザに対して事態の実情を説明する責任を感じてもいいのではなかろうか、という点なのである。
 上述の比喩ではないが、今や、「ネット・ウォー」が始まっているかのようであり、善意のIT技術者たちは、あの反ナチス「レジスタンス」のように、「人民」(善意のユーザ)の側に立って可能な限り事に当たらなければならないと、思ったりしたわけである…… (2005.07.29)


 晩飯の時間、TVでは隅田川の花火大会風景が映し出されていた。こればかりは、日本の夏の風物として、文句なく絶賛できると思う。「花火」とは良く言ったものだと思う。同じ漢字を使っても、「火花」では物騒さが先に立ってしまう。やはり、「花のように煌びやかな火」を表して「花火」でなければならない。
 また、この音もいい。どこか、くすんだような、単純にして間が抜けたような、それでいて人を脅かす程度には轟くボリューム感などが、いかにも花火の素性にふさわしい音だと言える。爆発音でありながら、まろやかに仕上がっているのは、きっと、距離からくる残響のなす技なのであろう。花火の音で、爆撃が続く戦争を思い出す人はまず少ないと思われる。せいぜい、子どもの頃の運動会や、町の行事の日の朝に打ち上げられた音だけの花火を思い起こしたりするのではなかろうか。
 一概には言えないかもしれないが、やはり打ち上げ「花火」は、夏の風物としては最高であり、納涼の催しとしては不可欠の存在に違いない。

 町田近辺でも、先週の土日あたりに行われていたようだ。子どもたちの夏休みが始まった最初の土日だからなのかなあ、とか考えてその音を聴いていた。子どもが小さかった頃には、近くの団地自治会主催の花火大会を、わざわざ見に行った覚えがある。
 その時に、「一発一万円!」の費用がかかるとか聞いて、それじゃ自治会も寄付を仰いだりして大変なんだ、と妙なことに思いを巡らせたものだった。費用という点で言えば、隅田川の大会で打ち上げられる上等な花火は、決してそんな桁じゃ済まないはずだろう。十倍、百倍の値になっているに違いない。
 いやいや、日本人の美的感性に及ぶ花火の話をしていながら、一発いくらだとかという下世話なことになってしまい、やはり下衆のせこさは困ったものである。

 夏の納涼風物といえば、この時期、盆踊りも目につく。花火大会にくらべてやや口調のトーンが落ちるのは、「遠くの花火」に対して「近所の盆踊り」であるからかもしれない。つまり、「遠くの花火」はいかにも納涼に値するが、その日の午前中から、拡声器を使ってガンガンと音頭を振りまく町内の盆踊りは、ちょっと暑苦しかったりする場合も無きにしも非ず、なのだ。でも、そう目くじらを立てるつもりはない。
 むしろ、陽が落ちて、近所のご婦人たちが、どういうものか晴れがましい気分ありありのゆかた姿で行き交う光景は、実にほほえましいと言えばほほえましいと思う。似合う似合わないの問題ではない。皆が、晴れ着のゆかたを着ることで、「ヘンシーン!」と言って気合を入れているのだろう。その上向きな緊張感は、決して悪くはないと陰ながら感じているのである。当人が「粋(いき)」であろうとすることで、それで十分達成される部分の生まれるのが「粋」というものなのかもしれない。
 もはや無意識の素振りが「粋」な人という、羨ましい人もいるにはいるが、そうした「粋」の天才に対して、凡人は、とにかく「粋」であろうと前向きに、上向きに秀才型努力をするならば、その姿勢が「粋」のかけらくらいは確実に生み出すもののようだ。

 世界がどう転ぼうと、この暑い夏の日の暮れ方、あいも変わらず花火が上がり、町内には音頭が鳴り響き、「粋」をめざした年齢不詳の姐さん方が行き交う光景があったりする。いろいろと深刻に考えることは別の日にしてでも、ひとまずはホッとした気分になっても、いや、なり切ってもいいんでしょう、きっと…… (2005.07.30)


 先日、冷蔵庫を新しいものと取り替えた際に、おふくろの家の中を久々にまじまじと見回した。襖紙という襖紙が、継ぎ接ぎだらけなのに驚いた。破く犯人はおふくろと同居している飼い猫のマミに決まっている。我が家の猫たちも、家人の気持ちもどこ吹く風で、出入り口の襖であろうと、押し入れの襖であろうと、向こう側へ行きたいという一心で、爪を立てて破きまくった。昨年の暮れには、猫の爪でも破れないという透明ビニールシートで被われた襖紙を貼り、なんとか無事な状態が保てているありさまである。

 おふくろの住居まで手が届かなかったのが申し訳なかったと感じた。
 襖は、昔風のものであり、骨組みの桟の両側から襖紙を貼るかたちのものであり、猫は、表面を破くだけではなく、穴を空けて押し入れの中などに入り込んでしまうらしいのだ。そして中のモノをいろいろといたずらするらしい。だから、まさに目も当てられない光景を作り出すのだそうだ。単なる襖紙で被うだけでは焼け石に水ということになるようで、その都度、おふくろはボール紙を貼り付けたりして「無法者」の仕業の後始末をしていたようなのである。
 綺麗好きな方であるおふくろではあるが、押し入れ内部への侵入を食い止める手立てだけで精一杯で、「見た目」については二の次という結果とならざるを得ないわけだ。
 一頃は、近くに住む姉が寄っては、その修復作業を手伝っていたりもした。大胆な発想がある姉は、床用のビニールシートを襖の下半分に貼り付けたりもした。確かに、猫の爪では歯が立たないようである。
 しかし、それも加わっての「見た目」は、何とも落ち着きのない、壮絶な雰囲気となっているのである。何とかしてあげなくては……、という感情が込み上げてきていたのだった。

 ちょうど、お盆には、母の住いに親戚の者が集まることになってもいるため、わたしは、よ〜し、抜本的対策を講じよう、と密かに考えていたのだった。そして、昨日、材料を仕入れ、今日夕刻から「工事」にかかったのである。
 工事というほどではないが、この間自宅のリフォームで業者が出入りしていたりしたものだから、ついつい、大げさな表現となってしまうものか。
 が、まあ、単なる襖の貼り替えの安易な水準ではないであろう。というのも、仕入れた材料は、ホワイト系の塩化ビニールを貼った薄手のベニア板8枚なのである。厚手の襖紙を貼ったところで、引き続く被害は根絶やしにできないことは火を見るよりも明らかだ。そこで、襖の桟に、つや消しの風合いがあり壁風の感じのベニアを打ち付けてしまおうという算段なのであった。
 この仕様にしてしまえば、猫の爪もキュルっと滑って歯が立たないに違いない。また、「見た目」も悪くなく仕上がるはずである。まあ、作業上の難易度はそこそこあると推定された。

 まず、畳大のサイズのベニアを襖に合う形に鋸がけする作業である。決して広くない部屋で、寸法通りに鋸がけすることは結構骨の折れる作業となる。
 また、猫の爪が立たないツルツルとした表面であるだけに、襖特有の、手をあてがう丸い金具を付けることは外せない。となると、内側の桟に取り付けられた板の丸い穴と同様の穴を、ピッタリ同じ位置に揃えてベニアにも穴を空けなければならない。この点が、昨日から気になっていたのだ。ベニア板と言えども、カッターナイフで切り込むという人力では、何とも考えただけで汗が吹き出す思いとなる。
 うまくいくかどうかに大きな不安があったのだが、電気ドリルの先に装着して、まるで高速でコンパスを回すようにして板に穴を空ける道具があることに気がついた。実を言えば、忘れるほど前に、入手していたのだ。が、まともに使ったことはなかった。一度だけ、お試しふうにどうでもいい板で挑戦したことがあったかもしれないが、その仕上がり具合は覚えていなかった。
 物置のがらくた入れからそれを見つけ出したが、何と、その替え刃はベニア板に適したものではないことが判明。さっそく、近くのホームセンターへ足を運び、ベニア板用の替え刃を求めようとした。いやーな予感がしていた。そうしたモノはあることはありますが、注文となり、一週間ほどかかります、とか何とか言われそうな気がしたのである。  だが、それでは、お盆までに仕上げようとしているのに間に合わなくなりかねないじゃないか。しかも、マイ・ペースの計画では、明日一日とることにした夏休みを含め、今日明日で対処したかったのである。
 ところが、やはり「親孝行」という動機は、天知る地知るで偉大なご利益が伴うものなのであろうか、その種の売り場を覗いてみると、な、なんと、たった一個だけわたしのためにその替え刃の部品が展示されていたではないか。わたしは、心の中で合掌しながら、それを引ったくるようにして掴み、レジへと急いだ。

 おふくろの住いに戻ったわたしは、今晩は、明日のメイン作業のための目処を得るために、天袋という小さな襖二枚で、ウォーク・スルー的作業をしてみることにした。
 小さ目のサイズであるため、ベニアの鋸がけも先ずは楽勝。問題は、例の「まん丸の穴あけ」作業である。もし、想定どおりの綺麗な穴が空かずに、ベニアがバリバリと崩れるようであれば、わたしの良き動機も、おふくろの無邪気な期待も、流れ出る汗とともに地に落ちることとなる。果たしてどうなるか……。
 予想以上に綺麗な切り口の穴がきっぱりと空いたのだった。わたしは、小さな感激を覚え、
「ほら、こんなに綺麗に仕上がった」
と、くりぬいた数センチの円盤をおふくろに見せた。
「へぇー、メンコみたいだね」
 おふくろも突拍子もないことを言うのだった。そして、とりあえず仮止め的なかたちで仕上がった天袋の二枚の違い戸(もはや襖とは言えない)を見て、目を輝かせていた。
 明日の作業の見通しが立ったため、わたしは道具類を片付け始めたが、張本人の猫のマミが、物陰からじっとこちらを見つめているのに気がついた…… (2005.07.31)