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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2005年06月の日誌 ‥‥‥‥

2005/06/01/ (水)  昼下がりの歯医者で知らされた「無」の境地?
2005/06/02/ (木)  二子山親方の死が、静かに問いかけるものは……
2005/06/03/ (金)  小規模零細企業はいよいよ自立に向かった進路を決定を!
2005/06/04/ (土)  年寄り住いの旧式冷蔵庫故障が投げかけたもの……
2005/06/05/ (日)  「ネアカ」なワンちゃんたちへの羨望?
2005/06/06/ (月)  「夏のビジネス軽装( クール・ビズ)」を行動様式そのものに!
2005/06/07/ (火)  またも、団塊世代が起因する「2007」年問題……
2005/06/08/ (水)  団塊世代の今後の生態図…… (その2)
2005/06/09/ (木)  「大言壮語」より「事実に即した」政治がほしい……
2005/06/10/ (金)  現代という時代と、「自己」「自足」「自信」という言葉……
2005/06/11/ (土)  「共同性」を欠いた「個人主義」、「市場主義」礼賛?
2005/06/12/ (日)  埼玉の奥地、東上線「鶴瀬」のことを思い起こす……
2005/06/13/ (月)  新規需要にばかり眼を向けていてはいけないのかも……
2005/06/14/ (火)  じっくりと堪えて「考える人」が少なくなったご時世……
2005/06/15/ (水)  マス・メディアの「公式的」情報よりも、「対面的」情報の方が……
2005/06/16/ (木)  「タイム・ラグ」という視点で現代を考えてみる……
2005/06/17/ (金)  「バブル期の後遺症」という視点での「タイム・ラグ」問題
2005/06/18/ (土)  「ものの見方の基準」=「スタンダーズ」の改変が必要か?!
2005/06/19/ (日)  湯船の中で聞くラジオ番組は何がいいか……
2005/06/20/ (月)  刹那的過ぎる「問題据え置き」型卓袱台(ちゃぶだい)方式!?
2005/06/21/ (火)  わが家を裏庭から窺う不審者がいた……
2005/06/22/ (水)  これじゃまるで『役人独り勝ちゲーム』じゃありませんか……
2005/06/23/ (木)  見えない壁の中で悪化する隠れた真実……
2005/06/24/ (金)  拉致被害者家族を炎天下に「座り込み」をさせたかに見える不甲斐なさ!
2005/06/25/ (土)  「昭和」時代に心を馳せた「銭湯」行き
2005/06/26/ (日)  「ヒート・デバイド」とトレランス(tolerance、耐性)!?
2005/06/27/ (月)  「市場主義」経済と「利己的」行動、そして「抑止力」は?
2005/06/28/ (火)  「知らないからこそ立ち向かえる」人生が数値予測される時……
2005/06/29/ (水)  修理されて蘇ったり、修理すること自体の喜び……
2005/06/30/ (木)  軽い言葉が乱舞する風潮となり切ったこの情報化時代……






 歯茎に「麻酔」処理をして虫歯治療をした。
 あの「ドリル」のような器具を使った治療は、誰でも想像するだにゾッとするものだが、虫歯部分の「研削」前に「麻酔」処理がなされると、痛みは皆無となり、ただ「ドリル」の高回転音、低回転音だけが違和感を与え、恐怖感を刺激する。
 「知覚過敏」と取り違えて治療を受けることが遅れてしまった歯の治療がまだ継続中であるというのに、左右反対側の箇所も同様の痛みが始り、その旨を医者に告げたところ、現在治療中の歯とほとんど同様の症状にまで進んでしまっていることが判明した。
 手遅れになって前回のようなケースにならないようにと思ったにもかかわらず、すでに虫歯の進行は容赦がなかったのだった。歯医者だったら、虫歯の進行くらい「指摘」してくれればいいじゃないか、という勝手な思いが込み上げたが、黙って、予定していなかった治療を早速受けることにした。
 進行度合いが神経に触れつつあるということで局部的な(当たり前だが!)「麻酔」処理を施すことになったわけだ。

 「麻酔」というのは、治療中の痛みがまったくないために、患者にとっても、また手際良く事を進める医者にとっても合理的な対処だとは言える。痛がる患者の表情を見ないわけにはいかないかたちで、削る部分は削るという作業を進めなければならなかったら、どんなにか治療は難航することだろうかと想像する。患者にしたって、「ドリル」の異音さえ聞こえなければ、痛みどころか何をされているのかさえ感じ取れないのが「麻酔」であるから、合理的治療と言えばそういうことだと納得させられる。
 ただ、治療中はほかに考えることもないので、「麻酔」というのは一体何なのだろうかと考えたりしていた。
 当該の患部が、まったく感知できない状態となっているわけだが、それはほとんどそこには何も存在しない、と言って差し支えない現象が生じているのである。まあ、時間が経てば知覚が戻り、痛みなりなんなりの存在感が戻って来るのではあるが、「麻酔」が効いている最中は、その部分が「色即是空」の「空」のように何もないごとく感じられるのが不思議と言えば不思議だと思えた。

 ヘンなことをいろいろと考えていた。
 まず、身体の「部分」、たとえば手足などがなくなったとしたら、「麻酔」箇所の「空無」感と同様な感覚として自覚することになるのだろうか、とか、しかし、聞くところによれば、「失われた足」が痛むことがあるとも言うので、またちょっと違う可能性もあるのだろうかとか……。つまり、「失われた足」の痛みという事実は、人間の感覚というものが、単に抹消神経だけで機能しているのではなく、末梢神経の機能とともに、脳内部での末梢神経への「追認」感覚とでも言うようなプラスアルファの働きがありそうだからなのである。おそらく、そうした働きがあるために、「失われた足」が痛んだり、睡眠中のちょっとした刺激が夢の中で針小棒大的に感じられたりもするのかもしれない。
 しかし、そうだとすると、末梢神経を麻痺させることになる「麻酔」というのは、脳の側での働きを「騙す」ものということになりそうである。脳は、末梢神経から突然に「ノー・レスポンス」となった状態に戸惑っているのかもしれない。都内の本社本部から、札幌支社への連絡に対して、支社側から突然なんのレスポンスもなくなってしまった騒動に似ているのかもしれない。
「佐藤君、札幌はあれだけ大変だ、大変だと騒いでいたのに、何の応答もないというのは一体どうしたというのかね……」
とでもいうような不思議さに包まれてしまっているのかもしれない。

 さらにヘンなことへとわたしのイマジネーションは向かって行ったのである。
 「麻酔」処理を受けた歯の箇所から唇の部分は、舌でまさぐっても、舌側の感覚はあるのだが、舌がふれている対象側は「何もない」ごとくなのである。突然、「麻酔」が効いている直系3センチ程度の球体ごとき空間が、まるで姿を消してしまったかのようなのである。
 これまた、ヘンなたとえをするならば、もし日本列島が人の身体だとして、千葉県あたりが患部だとしよう。そして、千葉県を外科手術するために、千葉県全域に「麻酔」処理が施されたとする。すると、突然に、千葉県が「行方不明」となってしまうのである。その部分に別の存在としての海、海水が流れ込むのでもないから、その分、東京湾が大きくなるというわけでもなく、ただそこが「無」の状態となってしまうのだ。
 こんなたとえをしながら、我ながらアホラシイ思いがしないわけでもないが、要するに唐突に行き着いた思いというのは、こうした「無」こそが、「死」ということなのかもしれないという思いなのであった。
 そこまで、ヘンなイマジネーションを野放しにすることもないと言えばそうなのだが、日頃、「無」という事態をどう考え、どう感じればいいのか思いながら、結局は棚上げにしてきた。クルマのガソリンが無くなったり、財布のお札が無くなったりするのは、確かに情けない「無」ではあるけれど、人間の「死」を類推させる「無」ではない。それらに対して、「麻酔」箇所の「空無感」は、決してその箇所自体が「死」の状態に成り果てたわけではないにしても、何か慄然とさせられるような「無」という存在を予感させてくれたように思えたのだった。

 肉体の一部に対して、「電気ドリル」をあてがうという「野蛮な」歯医者においては、人は唐突に「白昼夢」を見せられるのかもしれない…… (2005.06.01)


 去る30日に亡くなった大相撲、二子山親方(元大関貴ノ花)の葬儀の様子がTVなどで報じられている。日本の伝統的スポーツにおいて多くの人を楽しませてくれながら、55歳の若さで、しかも癌の闘病生活の末に亡くなったことが寂しい。
 グローバル時代の朝青龍もそれはそれでいいのだが、やはり大相撲は日本人がこの国の伝統文化を背負いながら活躍してほしい、というのがホンネである。そうした点では、初代若乃花からの相撲ファミリーの存在は心強いものがあったはずである。そして、即断することは避けるべきかもしれないが、二子山親方の死は、現代の相撲界から、何か伝統的な柱のようなものが失われてしまったという観がある。
 たとえ伝統的スポーツと言えども、時代時代で相応の変貌を遂げていけばいいのだろうし、そうでなければ興業が成り立ちもしないはずだろう。だが、こだわりを禁じ得ない者たちにとっては、何か寂しさが隠せない。

 自分は、薀蓄(うんちく)を傾けるほどに相撲のことを良く知るわけではない。単に、この国の日常的な文化として親しみ、大相撲放送にしても生活に溶け込んだ、あたかも「壁紙」のような感覚で受け容れてきた。
 小学一年生の頃(昭和30年頃)であったかと思う。まだTVが大衆化していたわけではなかったが、当時羽振りの良かった叔父の家には白黒TVが置いてあった。父の仕事の都合で、われわれはその家に間借りして暮らしていた。
 学校から戻り、叔父の家の居間でいとこたちと遊ぶ頃には、誰が見ているというのでもなく、四本足の白黒TVが大相撲中継を放映していたのを覚えている。まだ小さな子どもの自分たちにとって、間合いばかりが長く、「ひが〜し〜、○△山〜、に〜し〜、□○〜……」とのんびりし過ぎた雰囲気は、じっとして見ていられるものであったはずがなかった。一緒になって相撲ごっこをしたり、あるいは「トントン相撲」とかいった紙で拵えた力士をテーブルや紙箱の上で向かい合わせて並べ、周辺をトントンと揺さぶる遊びに興じていたような覚えがある。
 夏場所の頃であったのだろうか、夕方に近い午後とはいえ、開け広げられた庭の方はまぶしいほどに明るく、時折、熱い風が吹き込んで来た。道路に面してはいても、ほとんどクルマは通らず、外は物静かである。そんな静寂の空間に、「ひが〜し〜……、に〜し〜……」という眠くなるような相撲中継の響きだけが聞こえていた。

 つまり、自分にとって、相撲とは、静寂と沈滞の空間、それはほとんど農村的な生活空間と言っていいのだと思えるが、そんな空間の中で大方は緩慢に繰り広げられる儀式めいたものとして感じとっていたのだろう。そして、それがこの国のスポーツの文化的特質でもあると受けとめていた。
 相撲はやはり、儀式性というか、印象やイメージが重要な要素になっているのだろうと思う。強く逞しくあり続けることを「売り」とする部分が大きい。
 落語に出てくるほどの昔では、関取たちはご贔屓(ひいき)筋がなくてはやってゆけなかったらしいが、そうしたスポンサーたちは、まさに非日常的な「強さ」という姿やイメージに投資したものと思われる。そうした、「強さ」の塊たる関取に、「ごっつぁんです」と言わせるのがこの上ない喜びと、見栄になったのであろうか。

 いろいろな感じ方があろうが、海外出身力士である朝青龍が、「実力主義」的に横綱を張るのが現代の大相撲である。
 そんな中で、決して元大関貴ノ花だけがそうだとは言わないが、日本の文化(部屋)を背負い、現代文化との軋轢の中で苦闘して、そしてその結果、現代文化において最もナーバスな問題でもある家族問題における泥沼状態までを衆目にさらすこととなった。
 元大関貴ノ花が、若く、甘いマスクで活躍していた当時と、癌にまでおかされて苦悩の表情となった最近の姿とのその間、その過程には、さぞかしひと(他人)には言えない地獄が横たわっていたに違いないはずだと感じてしまった。
 我が子たちをともに横綱にまで育て上げた業績の偉大さは誰もが認めるところではある。が、それにしても、死の直前の姿からはその栄光が感じ取れなくて残念でならないのだ。それを、癌という病がそうさせたのだと言ってしまうには、同時代のわれわれはあまりに多くの「共通苦悩」を知り過ぎているような気がするのだが…… (2005.06.02)


 自宅の建物の修理の必要が生じて、とある小規模業者に見積りを依頼しているが、話が中々具体化しない。大工、左官、水道その他他業種にわたる作業となるため難航していると見える。
 さらに、個人に近い小規模業種では、目先の日銭を稼ぐための継続中の作業もあり、新たな仕事の見積り作業に当てる時間も容易には得られないのかもしれない。
 せっかちな方である自分は、多少いらつきを覚え始めている。

 こんなことから考えることがいくつかある。
 かねてから、建築関係の仕事がソフト業界の仕事と似ていると感じてきた。仕事の中身ではなく、やり方においてである。典型的な点が、いわゆる「人日、人月」という労務コストの単位である。「一日働いて、一ヶ月働いて」という勘定方式である。いま時、誰が考えたってその勘定方式はアバウト過ぎるはずである。出来の良い作業者とそうでない者との差は一体どうなるの? という疑問が発生するからだ。
 それはともかく、ほかにも類似点は多々ある。両業種に携わっている者に個人自営業や零細規模が多いということも挙げられる。腕を頼りにする業種という点もあって、分散と独立が繰り返される事情もあろうか。
 さらに、元請け、下請けという構造が色濃く、下請け構造にあっては、第何次下請けという非合理な階層構造が存在し続けている点も挙げなくてはならない。元請けやその下の階層当たりでは、ほとんど「丸投げ」(実質作業なしで「上前をはねる」!)で、ただただ末端価格を引き上げているに過ぎない、あるいは末端業者を泣かせているに過ぎない大規模会社も少なくないのが実情である。
 そして、景気が悪くなると、そのしわ寄せを喰らうごとく仕事量とコスト面において、末端の小規模零細業者はますます泣かされることにもなる。

 こんなところから、ソフト業界においても、「下請け体質」からの離脱! という経営改善スローガンが幾度も掲げられてはきた。しかし、これは言葉で示すほどには容易なことではなく、結局は、仕事が皆無となるかもしれないリスクを避け、ますます上層から渋られる単金水準を不承不承承諾する形で、現状の非合理な階層構造に埋没しているようである。
 他の多くの業種をつぶさに知る自分ではないが、おそらくは、この構造と体質は、建築やソフトに限られるものではないかもしれない。
 なぜ、こうした非合理な構造が累々と継続してしまうのかということであるが、どうもこの問題に真っ向から立ち向かうことこそが、本来の意味での「構造改革」なのであろうと思っている。しかし、現状は、ほとんど何も手がつけられていない実態なのかもしれない。この構造とおそらく不可分な形なのであろう「談合」も「健在」のようだからである。税でまかなわれる公共工事などは、発注額・受注額は少ないに越したことはない。「丸投げ」的企業の利益まで、なぜ税金で支払わなければならないのかということになる。

 では、こうした構造が維持されるのは、一体誰が悪いのかとと問いたくもなるわけである。そして、こうした問いを発する時、とかくこの構造で「得」をしている者が悪いという指摘が出てくる。当然のことではある。だが、それだけでは済まないように思われてならない。
 最近の自分の思いでは、悪い現象が成立している背景には、悪い輩が蠢くだけではなく、これにしっかりと「加担」することになっている者の役割りが無視できないという点が大いに気になる。たぶん、現在のこの国のやり切れなさはそんなところから来ていそうだと考えている。そして、両義的な性格を持ち続けてきたマス・メディアが、現時点では時の支配層によって「より効果的に」利用され切っていることは否定できない。マス・メディアが大いに手を貸すかたちで、旧態依然の構造を維持することへの「加担」勢力が再生産されていると。

 話題は一般的な問題へと流れてしまったが、ここでの焦点は、仕事の流れの「垂直的」構造であった。不正と非合理という謗りも否定し切れないこの構造を、「構造改革」という名のもとに是正できないものかという点であった。
 で、そのためには、構造の底辺に甘んじている小規模零細企業が、自身もこの構造維持に「加担」しているという事実を、やはりしっかりと自覚、自認すべきであると思うのである。おそらく、ソフト業界にあっても、中国・インドといった低コスト勢の参入によって、単金水準の低下傾向は歯止めがなくなっていくものと思われる。つまり、ソフト業界の下層に待ち受けているのは、度重なる円高不況によって悲惨な結果に追い込まれた蒲田・川崎などの京浜工業地域の小規模経営者たちの姿と同様な末路ではなかろうか、ということなのである。
 いま、小規模零細企業がやるべきことは多々ありそうである。先ずは、仕事は、元請け側に向かってポカッと口を開けていればいい、という受け身の姿勢は禁物となる。また、特別なセールス・ポイントがなく単価引き下げしか対抗手段のない経営も禁物であろう。
 そして、冒頭の業者の事情ではないが、新しい顧客に対する積極的でスピーディな対応がなくしては、みずからチャンスを潰すことになりかねない。業者間の連携や、見積り能力、そして能動的なスケジュール管理など、これまで元請けに甘えるかたちとなっていた部分(これが「加担」の内実!)を着実に克服していかなければならない。
 ところで、こうした課題は、とかく「営業」活動という名でひと括りにされ、そして、安直にもホームページの設定だけで、万事、効を奏すると短絡的に期待する向きもないわけではなかった。だが、それはちょっと違うのではないかという強い予感が捨て切れないでいる。

 IT時代は、スケール・メリット狙いで薄利多売こそがビジネスの秘訣だとは、大方が想定する事実であろう。手堅く狙えるのならば華々しくてそれもいい。しかし、それはあくまでも「おまけ」的なケースと考えた方がいいのではなかろうか。特に、小規模零細企業は、それよりも前にやるべきことがあるように思う。元請け的存在の力を借りず、自立して、「エンド・ユーザー」と着々と仕事を詰めていける複合的なパワーであろうと考えているのだが…… (2005.06.03)


 お年寄りの慎ましい生活ぶりというのは、いろいろな意味でしんみりと心に染みるものがある。もっとも、現在では、お年寄りに限らず、多くの人々がいやでも慎ましい生活を余儀なくされているとも言えようか。
 ただ、お年寄りの場合は、戦時中の体験もあるし、モノ不足状態が基本体験であるため、慎ましく生活することにことさら悲痛感もなければ、卑下するふうでもないのが、逞しく見える。とかく、豊饒な生活をスタンダーズとしてしまった現代人は、「慎ましい」状態を「豊饒さの欠如」としてしか受けとめられず、そうした状態に惨めさの気分をかぶせてしまいがちかもしれない。
 そんなふうにしか受けとめられない自身の短絡的な発想をこそ「惨め」と考えるべきなのかもしれない。

 一昨日、母からケータイに電話があった。何事かと思いきや、冷蔵庫が壊れたようだというのであった。独り住まいの母には、もし電気器具やその他の故障なんかがあったらいつでもそう言ってくれと日頃伝えていたからである。
 そして夕方、さっそく冷蔵庫の具合を見に行くことになった。自宅内の同様の故障に対しては日延べをすることはあっても、独り住いの母からのアラームに対してはこまめに対処すべきだと考えていた。八十を超えた年寄りが独りで生活しているのがそもそも心細いはずなのに、生活必需器具などが不便になったのではさぞかし……と思う心境がそうさせることになる。
 母は、楽観的気性で、マイペースの人間であるため、身の回りの不便ささえなければ愚痴を言うわけでもなく、愛猫のマミと気楽に過ごしていると見える。未だに、週に二日ほどペン習字を教えることを生き甲斐にして、あとはテレビを見ることで社会と接しているようである。だから、テレビが壊れたとのアラームを上げた時が一番ションボリとしていたことをよく覚えている。

 いざ、壊れたという冷蔵庫をまじまじと見てみると、日頃は気づかなかったが、結構な年代ものであった。何でも、製氷ができなくなったと言って嘆いていたので、冷凍室の方を覗いてみると、製氷皿の中は水であった。また、サランラップで包んだご飯が、本来は冷凍されていなければならないのだろうが凍ってはいなかった。
 それらから、冷凍機能が故障していることは歴然としていた。それにしても、おにぎり大の大きさの冷凍ごはんが所狭しと詰め込んであった。独り生活なので、焚いたご飯が常に余ってしまうのであろうか。
 そうした光景を見るや、何としても修理してあげたい心境となる自分であった。基本的には、耐用年数に伴う冷媒ガスの希薄化が原因であるとはわかっていたし、母も買い換えをしようとしているとも言っていたのだが、なぜだか、自分はこの冷蔵庫を無性に修理してみたくなったのだった。再度、製氷皿に氷ができる状態にさせたくなった。
 それから、ニ、三時間の修理作業が始まったのである。最初は、冷凍室の霜取りを進めたのだったが、旧式の冷蔵庫であったため、冷凍室背後のパネルを取り外す「解体作業」をもせざるをえなくなっていった。パネルを外してみて驚いた。冷気が作り出される部分が、霜がガチガチに凍りついて密閉されていたのであった。製氷どころではなく、庫内が冷えない原因は、冷却部分そのものが氷で被われてしまっていたからである。それらの氷結部分を本体のパイプなどを傷つけないように外し、湯をかけて解かした。冷気を送るファンも取り外したり、その際に配線を再点検したりもした。
 これがニ、三時間の修理作業の中味であるが、母は、そばに居て「ありがたそうに」していた。ダメならダメでもいいんだから、とは言いながら、自身のように「年老いた」冷蔵庫が復活することを心の底で望んでいるふうにも見えた……。

 やれることはすべてやり終え、一応、瀕死の旧式冷蔵庫は、容態を見守ることとなったのである。「おクスリ三日分を出しておきましょう」とは言わなかったが、
「明日の朝、氷ができていれば直ったことにはなるけれど、これから夏になることだし、買い換えた方がいいのかもしれないね」と言い、もし、買い換えたければ明日勤務の合い間をみて来るから、家電ショップに見に行くことにしよう、と言い残して帰宅することにしたのだった。たぶん、氷はできるだろうとは予想していたが、これから食べ物が痛みやすい季節になるわけだから、しっかりと冷えるものに買い換えた方がいいのだろうと、自分なりに思っていた。
 その翌日、結局、冷蔵庫は買い換えることになった。やはり、氷はちゃんとできていたそうだ。すでに、夜の時点でできていて、母はひとり「うれしい!」と思ったそうである。だけど、それはそれとして、なんせ旧式の冷蔵庫をこれからも使い続けるのは不安だからこの際買い換えることにしたいということだったのである。そこで、母をクルマに乗せ最寄の家電ショップを見て回ることになり、幸いに、一回り大きくて手ごろなものを見つけることができたのだった。
「これで、わたしと一緒にあと10年は大丈夫かね。もう一回買い換えることになりそうかもね」
と、冷蔵庫の寿命の方を思い遣るタフで頼もしい母なのであった。

 結局、昨晩のニ、三時間の修理作業の意味は何だったのかということになりそうだが、ひとつは、新・冷蔵庫の配送までに一週間かかるという事情に対してのその間のつなぎとしての最後のご奉公という意味、そして、もうひとつは、「寿命」というのはがんばり次第で伸ばすことができるのだという「暗喩」めいたものであったのかも…… (2005.06.04)


 犬を飼う人が多くなったせいか、時々、コンビニの駐車場の片隅に犬がつながれているのを見かけることがある。ご主人が買い物をしている間、しばらく待たされているものと見える。そんな場合のワンちゃんは、とても不安な様子となっている。それはそうだろうと思える。ワンちゃんの頭脳では、ご主人が五分、十分の買い物をすることと、周囲が見慣れない場所に置き去りにされてしまうこととの区別はつけにくいはずである。
 自分も以前、レオを連れて散歩に出たついでに買い物をと思い、できるだけ人が近づかないような柱にロープを結んで待たせたことがある。最初の時は、非常に抵抗をしていた。こんなところに置いていかないで! との意思表示であったのかもしれない。それもニ、三回経験すると、ちょっとの間座って待ってればいいんですね、とでもいうような落ち着きようとなったものである。
 それにしても、ご主人がショップの中に消えて行くと、大体、そちらを向いて座り、その入り口方面を心配気に見つめていたりするのがかわいいものだ。そして、ご主人が買い物を終えて姿を現すと、ちぎれるばかりに尻尾を振り振り、安堵の素振りを全身で表現する。さあ、おうちに帰るんだ、とばかりに、前足をつっぱって伸びの運動をしたりするのもおかしい。

 そんな犬を見ていると、犬たちというのは、今では死語となっているのかもしれないが「ネアカ」だなあ、と痛感してしまう。そして、彼らはどうしてそうなのかなあという思いにとらわれてしまうのだ。
 そういう動物なのだと言ってしまえばそれまでのことだ。が、そう言わずにお付き合いして考えてみるに、安定した「ポジショニング」という点と密接に関係しているのかもしれない、と勝手に思ってみたりした。
 「ポジショニング」と言うと妙な表現であるが、要するに硬直した序列認識と感覚のことである。元来が群れで生きる動物である犬は、群れとしての序列感覚が鋭敏であることは知られている。よく言われることだが、人間との生活においても、主人以外の人間で自分よりも遅れて自分の前に登場した子供たちは自分よりも下位に序列付けるのが犬という動物なのだそうだ。
 こうした序列認識と感覚の「ワン」パターン化によって、彼らは何の迷いもないかのような感情の安定性と楽観性、そして逞しい行動力をわがものとしていると言えそうである。

 かなりの単純化と短絡で話を進めているような気がしないではない。が、書こうとしていることは、犬たちにあって、現代のわれわれにないものを強調するためである。それは、序列や秩序であり、それらと密着する安定(感)である。裏返して言えば、現代に生きるわれわれは、さまざまな場面における序列や秩序を再構築しながらも、結局のところ解体し続けてきたようである。それを個人の解放、自由化と言ってみることは十分に可能ではある。しかし、人々の内面から失われた安定(感)が、見るも無残に、中途半端な状態と成り果てていることは容易には否定できないのかもしれない。
 もちろん、だからといって、過去の序列、秩序をリカバリーCDのごとく再インストールしたところで何も解決されないこともわかっているはずだ。
 それだから、過去における序列、秩序の破壊と超克を尻目にしながら、先が見えにくいこの路線上で、安定性の欠落と不安が慢性化しているのだと言えそうだ。
 現在、何よりも先に必須なのは、こうした不安定性と不安の常態化に対して、とりあえずタフに対峙できるサムシングのパワーだということになりそうな気がしてならない。
 犬たちの「ネアカ」的な振る舞いを見るにつけ、彼らが羨ましいという気がしないでもないのは、そんなことを感じているからなのかもしれない…… (2005.06.05)


 日が落ちて、窓から涼しい風が吹き込むのをありがたいと感じるようなそんな季節となってしまったわけだ。
 今日は、日中の日差しも強く屋内はやや蒸し暑い感触であった。その間、こまごまとした事務作業で追われ、一段落したら日が暮れていた。開け放った窓の外は薄暮となり、窓からは涼しい風が吹きこんでいた。今日はこんな涼風があるだけましで、これからは「不快指数」に悩まされる季節が始まるのだなあ、とさして意味のないことを考えていた。

 そういえば、6月1日からはいわゆる衣替えということであったわけだ。今年は、「夏のビジネス軽装( クール・ビズ)」とかという言葉で、ノーネクタイの軽装が政府サイドからもアピールされていたようだし、マス・メディアが、「要人」のそんな姿を取り上げでいたようだ。
 人のことは言えないが、どういうものか日本人の体格は、ラフな格好になると途端に様にならなくなるような気がする。それは「要人」にしても同じことで、街のチンピラ風であったり(誰だとは言わないが……)、あるいは不動産屋のオッサン風であったり、とにかくスーツを外すと途端に中身が「額面通り」となってしまうのがおかしい。
 軽装化の目的は、もちろん地球温暖化防止やエネルギー対策であることは誰もが承知している。それに異論反論があろうはずはない。ただ、政府要人がこの流れを推進させるのであれば、もうひとつ目的を持たせてもいいのかもしれない。つまり、「形でなく中身で勝負しろ!」と言いたいわけなのである。

 いわゆるスーツとネクタイというユニホーム以外に、彼らを彼らたらしめているのは、まるで甲殻類のような外側の甲殻であり、仰々しい「パッケージ(包装紙)」であろう。つまり、一連の職歴、肩書、当選回数、ハッタリなどなどのことである。良い意味での現代スタンダーズにあっては、そんなものは通用しなくなっているのではなかろうか。
 厳しい世界では、「実績」ですら、「現状はどうなのだ」というリアルタイム性の観点によって評価の価値を下げているかに思われる。たとえばビジネスの世界では、「年功序列」の慣行が「実力主義」に置き換えられているごとく、「年功」というものが第二義的な取扱い方をされ始めているわけだ。
 以前に、いわゆる「プロジェクト」方式と、官僚制組織を代表とする従来の仕事の進め方のあり方を比較して考えたことがあった。前者にあっては、参画するメンバーの資格は、「現時点での能力」がすべてなのであり、後者ではありがちな「過去において何を為したか=実績」を過大に評価する考え方とは大きな開きがあることに納得したものだ。
 「実績」を軽視することは、ややリスキーであることは事実であろう。過去に「実績」を生み出した能力というものは、当然残存しているのであろうし、それによって同一の条件や環境が整えば、現時点ないし今後において同様の成果をあげることは期待し得るからである。

 しかし、現在われわれが迎えている時代というものは、想像以上に激変の中にある。さまざまな環境の変化は、刻一刻と累進的に進み、そのスピードは目を見張るものがある。現在持てる力であっても、それが今後どの程度有効であるのかは誰にも想像できないと言うべきだろう。まして、過去の「実績」からうかがえる能力というものが、今後どの程度アクティーブに発揮されるのかを想像することは、極めて難しくなっている。
 ひところ、現代にあっては「成功体験」にこだわるべきではないということが盛んに言われた。「2匹目のドジョウ」はもはやいない、ということであったのだろう。そして、「成功体験」を基準にすることは、新しい変化を見逃すリスクにさえ結びつくと見なされたのかもしれない。そうでなくとも、「成功体験」を口にするものは、そのことによって後進に対する何らかの人的影響力を発揮しようとしているのだから、後進の歩みを抑圧する可能性が十分にあることは誰もが知るところだろう。
 要するに、激変する時代にあって、過去の「実績」のような「甲殻」をもって重々しさを誇示する仕事のやり方、政治の進め方をこそ、スーツ姿がどうだこうだ以上に「軽装化」されて然るべきだと言いたいわけなのである…… (2005.06.06)


 「2007年問題」というのが次第に注目されてるようになってきた。要は、団塊世代が停年退職することの波紋問題ということらしい。
 最初は、技術関係職の人たちが企業からリタイアすることによる人材不足が懸念されたようだ。すぐに念頭に浮かぶのは、いわゆる熟練工の技術者であろう。一時期にリタイアすることになるのだから、その後継者がしっかりと育っているとは言い難いのではなかろうか。
 もちろん、単なる頭数の問題ではないだろう。団塊世代も、もちろん他の世代と同様に玉石混交のはずであり、高齢化しても企業にとって不可欠の存在である者たちと、そうではなく、むしろ若い世代のお荷物や重石と成り下がってしまった者とがいたに違いない。
 そして、リストラ・ラッシュの時期の強制的リタイアを掻い潜って残った優秀な技術者だけが、停年退職というゴールに辿り着くのだから、停年までを全うした人たちは企業にとって必須の人材であったはずだと考えられる。そんな人材が、とりあえずは一気に生産人口から外れることになるわけだ。

 やはり、「2007年」以降にはどんな余波が生じるのだろうかと興味津々となる。とりあえず、気のつくままに書き出してみる。
 団塊世代が消費人口へと回ることによって生じる消費需要への影響、という点が、かまびすしいビジネスサイドからは見つめられているようである。リフォームを含む住宅建築需要とか、旅行関係の需要といった目論見なのであろうか? しかし、社会環境が先行き見通しが悪い状態では、財布の紐は固く結ばれがちなのではなかろうか……。
 退職金の支払という事実が金融経済に与える影響というものはどんなふうにあるのだろうか? それよりも、大量の生産人口が抜けることによる、社会保険や税(所得税)の収入減に伴う影響の方が大きいのではなかろうか。
 退職者側の方に目を向けると、団塊の世代という自分のことを振り返っても、生き方の難しさに直面することになるのではないかと懸念する向きがある。すでに、停年退職した人たちが、家族や地域社会との関係でギクシャクしたりすることが懸念されてきたわけだが、団塊の世代の大量退職となれば、ちょっとした社会問題に「発展」しないでもないような気がしている。場合によっては、職業人から生活人への転換に戸惑うことによる「鬱」状態になる者の大量発生? という事態が、あながち否定できないのではないかと……。

 そのほかに懸念することは以下の点である。
 団塊世代が抜けた後の企業サイドの問題である。すでに機械化・自動化が十二分に達成された主力の生産場面でのパワー・ダウンというのは、ほとんどないだろうと想像できる。むしろ、人的に補完しなければならないような作業における、歯抜け的な不足状況が、思わぬ影響を広げないとは言えないのかもしれないと観測している。
 昨今では、やたらに「ヒューマン・エラー」の類の事故が企業サイドで発覚しているという事態もある。そうした「ヒューマン・エラー」というものに長く対処してきたのが団塊世代であったような気がするのである。機械環境と人的・組織的環境の混合体の中で長く就労してきたのが団塊世代であったかもしれないからである。やや気になるところではある。
 また、同様の文脈で、すでに「縮小・変質」しているとも言われる労働組合やその活動も「最終局面」を迎えることになるのやもしれない。そもそも、団塊世代は、労働運動を知る最後の世代(?)であったかもしれないからだ。先日、「ホリエモン」騒動に直面したニッポン放送の従業員たちが労働組合としての団結で意思表示をしたようであったが、そうしたことさえ見受けられない時代へと変わってゆくのであろうか……。

 おそらくは、停年退職後の団塊世代たちは、ほぼ確実に第二の職業活動を始めることになるのであろう。停年後に待ち受ける生活環境の悪化や、停年というゴールまで辿り着いた「エリート・サラリーマン」である習性を前提にすると、第二の職業活動を選ぶであろうことが強く予想されるわけである。このことによる社会的影響も当然想定しておいた方がいいのかもしれない。
 すでに、潜在的パワーを残した高齢者の社会参加(経済参加)については着目されてきた。たぶん、団塊世代の停年退職と少子高齢化に伴う労働人口の縮小によって、パワーを残した高齢者たちの社会的貢献がますます強まらざるを得ないのではないかと予想するわけである。
 そして、この事による社会的影響がどう広がるのかが注目される。いろいろとあろうかと思うが、以前にも書いたように、「第二の社会参加」というかたちでの職業、経済活動が広がっていくならば、賃金やサービス価格水準が低下傾向を辿っていくのではないかと予想できる。というのも、「準」職業的スタンスで臨む仕事での賃金であれば、高くはなりそうにないからである。
 そうなると、一般の賃金水準やサービス価格水準も下降気味とならざるを得ず、デフレ傾向は尾を引くことになっていくのであろうか……。

 こんなことを書いていると、この国は、まさに「出たとこ勝負」で時代の変化に立ち向かっているようにさえ感じられ、はなはだ情けない思いが禁じ得なくなってしまうのだ…… (2005.06.07)


 昨日は、団塊世代にまつわる「2007年問題」について書き、「第二の社会参加」についても触れた。今日も引き続き、この周辺に関することに注目したい。何と言っても他人事ではないのだし、また、やはり人口比率が高い団塊世代の動向に眼を向けておくことが、社会趨勢を掴む上で欠かせないと思っている。

 ひとつが、団塊世代の「第二の社会参加」に関して、<派遣社員、50歳以上100万人に・2010年見通し>という記事が眼にとまった。

< 50歳以上のシニア派遣社員が2010年に80万―100万人に達する見通しであることが、人材派遣業界の調べでわかった。07年以降、団塊の世代が一斉に定年退職を迎えるのに加え、派遣職種に昨春加えられた製造業務での派遣期間が、07年から3年間に延長されるなどの緩和措置のため。大手派遣会社は今から人材の確保や組織づくりに乗り出す。
 厚生労働省によると、03年度の派遣労働者数は1998年度の2.6倍にあたる236万人。うち50代以上は約1割の約23万人を占めたもよう。派遣各社によると、派遣社員の増加ペースが鈍ったとしても2010年には500万人を超え、このうち50歳以上の比率は15―20%に達するとみられる。>( NIKKEI NET 2005.06.08 )

 団塊世代の「第二の社会参加」のあり方としては、自営業的な動きや、低単価による「半」ビジネス的スタイルなどへと向かうことも想定してみたのだが、やはり、オーソドックスな形態としての「派遣社員」という部分が少なくないのかもしれない。
 退職者にとっての経済環境がいま少し明るいのであれば、例えば貯蓄額の金利が意味を持つのであれば、生活の切迫感も緩和されようというものだが、現状の推移では少しでも多くを稼がざるを得ないという状況であるのかもしれない。まして、企業側にとっての習熟した労働力の必要性という点も考慮するならば、停年退職者の「派遣社員」化というケースがリアリティを持つのかもしれない。
 たとえば、ソフト業界にあっても、高齢者の技術を頼みにせざるを得ないといった事情もありそうなのである。ビジネスの現場には、ハイ・エンドなIT環境があるとともに、古いコンピュータ・システム(=「レガシー・システム」)を引きずっているケースも少なくない。そうした「レガシー・システム」の保守・メンテ作業というのは、若い世代は無理であろうしまた敬遠する向きもあろう。そうなると、高齢者に、「レガシー」技術と「落ち着いた」勤務とを要望したいという企業側からの要請も大いにあり得ると思われる。
 ただ、ひとつ気になることは、現状でも少なくない若い世代の「フリーター、ニート」の存在であり、これらのブロックがそのまま継続しつつ、高齢者のUターンが進行するとするならば、いろいろな問題が先送りとなる可能性も否定できないかのようだ。

 いまひとつ、これも新聞報道なのであるが、<ネット株取引、証券大手が本腰 個人投資家の変化後押し>( asahi.com 2005.06.02 )というものにも眼が向いた。

< 大手証券が、インターネット戦略に本腰を入れ始めた。株式売買委託手数料の安さを売り物にしたネット専業証券と一線を画してきたが、個人投資家の注文の8割超はネット取引になっている現状を見過ごせなくなったからだ。大和証券が5月からネット証券並みに手数料を下げ、野村証券は今秋までにネット証券と同等のサービスができるシステムを整える。大手が体力勝負を仕掛けることで、薄利多売で利益をあげるネット証券の競争は一段と激化しそうだ。>

 ITバブルの崩壊後、思いのほか「株」取引が持ち直し、中でも個人投資家の取引が額は小さくともそこそこ伸びているのは、言うまでもなく、超低金利の環境のせいなのであろう。貯蓄での金利は無いに等しい状況で、これといった投資や金融商品も見当たらないとすれば、「株」取引に眼を向けざるを得ないのかもしれない。まして、インターネットというIT環境のインフラが熟してきた現状となっては、個人投資家たちが「ネット株取引」に眼を向けたとしても不思議ではないのかもしれない。
 ところで、証券会社が「本腰」を入れようとしているターゲットの塊としては、やはり、超低金利のこの時代に退職金を得る団塊世代の存在があるのだろうと思われる。
 統計によれば、必ずしも団塊世代はインターネットを使い込んでいる様子ではなさそうではあるが、「ヒマ」と「多少の元手」と、そして取引手数料が低い「ネット株取引」環境といったものが揃うと、団塊世代リタイア組の中に、相応に拡大していく可能性アリとの読みがなされているのであろう。これもまた、グローバリズム時代における、米国人たちの生活様式の浸透ということなのだろう。

 先日、ある同世代の知人と話をしていて、金利代わりの株取引で「老後資金」を準備しているという話が出た。その知人は、とりあえず現業の自営業でがんばってはいるが、言わずと知れた「浮き草」状況をも十分に自覚している。だからこそ、将来への不安を打ち消すためにも、多少の知識・経験を踏まえて小額ではありそうだが株取引に望みを託しているらしい。
 これまで、株取引が一般投資家にとって胡散臭く思えたのは、証券会社の営業の動きという点も大きかったように見える。証券会社はもちろん、株取引での利益を出さなければならず、取引手数料も稼がなければならないはずである。そして、情報に疎い立場を強いられていた個人投資家たちは、どうしても割りを食う結果に追いやられていたかに思う。自分にもそんな経験がなかったわけではない。
 それは、振り返ってみると、ひとえに隔靴掻痒(かっかそうよう)の立場に置かれ、おまけに人(証券会社の営業マン)に任せるかたちを取らざるを得なかったことにあったと言えそうな気がする。現在でも、決して株取引に関する情報が、完全に透明性を帯びているとは言えず、その分でのリスクはあるには違いない。また、素人の知識や判断がそもそもリスキーであることに違いはないであろう。
 ただ、「ネット株取引」という環境が、そうした従来の証券会社の独壇場であった環境に一石を投じる効果がありそうなことは事実かもしれない。そして、ほかにやることもないという閉塞感も含めた「それなりの条件」を背負った団塊世代リタイア組が、ジワジワと「ネット株取引」に関心を強めていく様子は、あながち想像外の出来事でもないようにも思われる。

 まあ、とにかくビジネスを「自転車操業」していかなければならないわれわれは、とりあえず、そんなこんなの団塊世代の動向をもしっかりと視野に収めてゆかなければと考えているわけである…… (2005.06.08)


公務を任せて不祥事に至った影の参謀を「個人的に」かばうかのような首都都知事などの零落していく姿を見せられていると、反面教師を据えられたようでいい勉強になるものである。いずれも、「エキセントリック」な存在として、庶民の、「この人ならば、現状を打破してくれるのではないか……」という儚い希望的観測を誘い、ポーズばかりを先行させてきた政治家だと見える。
 今なお、権力の座にあった者の付随物としての影響力を引きずってはいるようではあるが、時代の方は大方が「賞味期限」済みと見なしている気配を感ぜずにはいられない。
 彼らの共通点は、もちろん実質よりもポーズで売る点を挙げなければならないが、その小道具としては、「口達者」と空虚な「観念性」があるかに見える。たぶんこの両者は一対となっているように思えるが、どうもこれらは、「古い政治家」タイプの一変種のように思えてならない。
 確かに政治家という立場は、「総論的」大方針を構想できる見識を持つべきだと思われる。いわゆる「事務方」の視野では見えない深慮遠謀が必要なはずである。
 しかし、その重厚な見識と、大言壮語的観念性とは、似て非なるものだと知る必要もあろう。まして、現代の官僚機構は、政治家なしで「オートマチック」に動く位置にあるのだから、シャッポが何を煌びやかにほざこうが、政治・行政は動くことは動くわけだ。大きな流れが、シャッポの表明する通りに動いているのかどうかを見極めなければ、企業イメージが先行するTVCMと何ら違いがないことになる。その意味では、国政にしても、都政にしても、彼らがシャッポとなって何がどう変わったというのだろうか。
 「構造改革」と言いつつ、その実質は民間が進めたことであり、重要課題たる「行政改革」は泥沼から脱しているとは言えない。先頃の「談合」事件にも、道路公団の天下りがしっかりと段取りをしていたという事実は、なめられ切った「行政改革」をよく表していそうだ。
 都政にしても、何が良くなったのであろうか。むしろ、国旗掲揚、国家斉唱という復古教育方針で教育現場が混乱を招いていることが報じられてさえいる。これも含めて、都民の実直な生活に貢献する何が実施されたというのであろうか。やたら、マス・メディアに姿を現しながら、自身の存在アピール以外の何が庶民の評価眼に叶ったであろうか。

 現在の「ツー・トップ」にあえて苦言を吐くのは、彼らにどうこうというつもりは毛頭ない。両者ともに、「男」であることにこだわったタイプのようにお見受けするが、その「男」たるものは、何事につけ「引き際」というものを綺麗にすべきだと言いたいだけであろうか。
 むしろ、彼らが空虚な「観念性」を振りまいたことで、大事なことを軽視する風潮を助長したのではないかと懸念するのである。一言で言えば、政治は、「事実に即して」手堅く推進すべきだ、という点なのである。
 現代が、「脱イデオロギー(観念)」の時代だと言われて久しいが、そこに大事な点が潜んでいるとするならば、単純化して言えば、何よりも「事実」に即して現代課題に対処するという方法論でなければならない。もちろん、過去の「オールド・イデオロギー」なんぞを蒸し返す観念性などは論外のはずである。が、奇しくも「ツー・トップ」に共通するのは、靖国参拝をはじめとしたライト・イメージである。
 現代という時代は、何にせよ、閉じられた観念で一括処理できるほど単純な時代環境ではないはずである。だからこそ、高飛車な姿勢で事実群を見つめるのではなく、低い視線で地平を舐めるがごとく事実を凝視する必要があるわけだ。

 仕事であれ、生活であれ、現在にあって厄介なことはと言えば、決して技術的なことでもコストでもなく、関係者間の「意思疎通」不全以外ではないのかもしれない。これが、日常的なたわいない茶飯事から、国際問題に至るまで、不思議なほどに共通しているような気配ではないか。
 いろいろと難しい問題が絡んでいることは事実であろう。しかし、同時に、当事者たちが簡単な手順を飛び越えて、事態をわざとこじらせてしまっていることも大いにありそうな気がする。「簡単な手順」とは、「事実を事実として認め、共有する」ということである。こう言うと、すぐに、事態をわざとこじらせたい人々はこう言うに違いない。
「その事実というものを見極めるのが大変なことなのだ」と。
 哲学の議論にあってはそれも言えよう。また、現代のさまざまな立場には、「利害(インタレスト)」が絡まっており、事実を歪めて受けとめる可能性も大いにあり得る。
 しかし、事実を事実として共有するということを、そうこじらせていいわけではないであろう。もしそれをありとするならば、そこで生じる混乱のいっさいを引き受ける覚悟がなければならなくなる。
 誰もが、屁理屈と言い逃れをしてはばからず、一切の合意は破棄され、合意のもとに成立している秩序めいたもののすべては軽視されることになりはしないだろうか。もちろん、犯罪への動機づけが野放し状態となることも懸念される。まともな人たちが、まともに将来を展望する意気を引き下げることにもつながりうる。
 残念ながら、この国の現状(および、ひとりよがりの米国によって撹乱されている国際情勢)は、事実を事実として承認し合うことや、合意という近・現代の基本ルールをかなぐり捨てようとしている雰囲気を感じてならない。

 現代という難しい時代、その上で漂う苦渋に満ちた人々の生活。もし、これらに人間的な「正解」をもたらすものがあるとするならば、それは不透明な観念というよりも、理性的に承認し合った事実認識のはずであろう。そして、これらの当たり前の道理をはぐらかすいっさいのまやかしを退けていく人々の勇気なのであろう…… (2005.06.09)


 何かとストレスがたまる原因は、誰にとってもそうだろうとは思うが、腑に落ちない他人の言動ではないかと思う。確かに、時代や社会の環境や風潮は人々のストレスを、洪水の際の川の水位のようにジワジワと高めていることは否めない。それらが抗議してどうにかなりそうなものでもないところが始末に終えない。
 いつぞやも書いたことがあるが、現代人を支配しているのは、人格的な権力というよりも、非人格的で、抵抗しがたい「環境」的なものだと言えそうである。「環境管理型権力」(東浩紀・大澤真幸『自由を考える』NHKブックス 2003.04.30)とはよく言ったものだと思う。誰が悪いと人格的に特定しにくい仕組に、四六時中取り囲まれて、憤りや不快さをぶつけようがない状況が現代なのだろう。だから、「ガス抜き」がなされずに、ストレスは解消されるひまなく蓄積していくのかもしれない。

 そして、個々人たちは、「イライラ・ガス」で充満した自身を処しかねて、多くの場合「八つ当たり」行動に走ることとなる。心理学的に言えば、「代償行動(直接実現できない目標や手段を他のものにおきかえて、心的緊張を一時的に解放しようとする行動)」ということになるのだろうか。
 いわゆる「いじめ」の本質は、これなのかもしれない。「いじめられる」側に根拠があるのではなく、「いじめる」側にこそ根拠があるということになる。そのことは、「いじめ」の域を越えた「犯罪」の領域の事件では、あの、危害を加えるのは「誰でもよかった」というセリフが、そのことを顕著に物語っていそうである。
 また、「ドメスティック・バイオレンス」というのも、「八つ当たり」・「代償行動」ということになりそうだと思う。たとえ、幼児が激しく泣き叫んだからとか、言う事を聞かなかったからというような「他者」原因を挙げたところで、その説得性は希薄だと思える。過剰なストレスとそこから来るのであろう心的バランス崩壊といった「自己」原因こそが問題とされなければならないようだ。

 つまり、現代人のある部分は、自身では処理し切れないストレスを背負い込まされているものと思われる。しかも、ストレスを誘発する源泉が、昔は多くの場合、人格として素描しやすかったかもしれないのに対して、現代では上述したように「誰が」と特定しにくい状況となっている。
 ところで、心理学では、「恐怖感」が、その対象が明確に自覚されているのに対して、「不安感」は、その対象が把握されにくい、と言われている。そして、現代人の精神状況は、より「不安感」に左右されているようであるが、どうもストレスについても、その誘発源泉がはっきりしないという点では、それらとパラレルな関係がありそうに思える。
 つまり、現代人の精神・心理を蝕んでいるのは、人格的存在に還元しにくい「得体の知れない」「環境エイリアン」だということにでもなるのであろうか。
 と言うよりも、「環境」と「自己」との関係において、前者が後者を圧倒してしまい、「自己」が自信はもとより、セルフ・コントロールさえままならず、まさに「自己」が「エイリアン」と成り果ててしまっていると言ったら言い過ぎであろうか。

 先日、二子山親方の死に関連して、息子兄弟たちの「確執」云々という話題が報じられていたが、その際、あるコメンテーターがうがったことを言っていた。
「どこにでもあることじゃないですか。それと、問題は、双方がともに自信がないから生じていることのように見えます……」と。
 そうかもしれないなあ、と思えたものだった。いや、若貴兄弟がどうこうというのではなく、とかく現代のわれわれが、人間関係においてギクシャクしている最大公約数的原因は、「自足」したり「自信」を持てたりすることがめっぽう少なくなってしまったからではないかと直感したのである。
 比較と競争と、またそれらを刺激する情報の氾濫! は、少なくとも人が「自足」することを許さず、まして、たやすく「自信」を持たせたりはしない。そのことは、たとえ優れた能力を発揮している者にとってさえも同様なのであろう。比較と競争という尺度は、ひとたびその尺度を採用した者に対しては、間断なく激しい揺さぶりをかけてくるような、そうした執拗な性格を秘めた怪物であるに違いないのだ。
 だから、その怪物の餌食とならないようにするためには、「自足」し得る心の原理をどこかで確保しなければならないのだろうが、そうしたことを気づくひまがないのが、現代人だという気がする。まさに、この話題は、相撲界が一例とはなっているものの、現代の一般生活人の世界においても、決して無縁ではないようである。だから、「どこにでもあることじゃないですか」という言葉に説得力があったのだと解釈している。

 現代という時代は、「自己」「自足」「自信」という言葉から、その自然な内実を奪い始めている気配がしてならない…… (2005.06.10)


 昨日、母親の住まいの方に頼んだ新しい冷蔵庫が、運ばれることとなった。
 母は、独りで対応するのがいやなので、わたしに付き添ってほしいと言って来ていたので、昨日はその時刻に間に合うように出向いた。到着した冷蔵庫の据え付けやその他のセットアップをするためであった。が、冷蔵庫関連の作業をしながら見回すと、ほかにも、日頃の独り住まいで手入れが行き届かない箇所がありそうに見えた。
「今日は時間があるから、直すところがあれば、やるからね」
と言うと、じゃあ、ということで電球が切れた箇所とか、カーテン・ロープが緩んだ箇所とかが挙げられた。その他にもキッチン・ファンが使用不能になっていることや、その周辺の油汚れがひどいことなどに気がついたので手際良く「保全」(今、この言葉を使って思い出したが、確か中学の頃であっただろうか、各クラスに「保全委員」(「営繕委員」?)とかいう重宝な担当委員がいた。掃除道具の修理やら、木造のクラス・ルームのちょっとした不具合を直す役目であり、大工作業が得意な者が指名されたりしたように覚えている)処理をしてあげた。そのほかにも、ちょいと手を加えるだけで見栄えが変わるような箇所を何箇所か手当てした。
 それらのほかにも、わずかに時間と労力を割いてあげれば快適になりそうな部分がいくつか見つかった。独り住まいの寂しさを紛らすために飼い始めた猫は、それはそれで「お役目」を果たしていそうなのであるが、猫にも猫の立場というものがあるようで、襖や天袋の扉は破り放題に破っている。家の中での自分の隠れた居場所を作ろうと虎視眈々と蠢いているようなのである。が、その結果は、何とも見苦しくなっている。これらも、襖紙をベニア板にするなどしてそのうち修理しあげたいものだと考えたりした。

 それにしても、年寄りの独り住まいといった「慎ましい」生活に対しては、快く「奉仕」活動をしてあげたくなるものである。年老いた親なのであるから、そうしてあげて当然だとも言えば言えよう。しかし、強い個人主義の風潮と、人の好意を斜に構えて受けとめる人々もいないとは限らないご時世である。人の好意というものも、出先(発揮する対象)の様子を窺わざるを得ないというヘンな時代である。
 そこへ行くと、親たちのような旧い世代は、人の好意を額面どおり受けとめて有難がってくれるので、こちら側もいい気分になれるというものである。
 ふと思ったのは、このことなのである。つまり、人と人との関係においては、気持ちの良い「ギブ・アンド・テイク」のやりとりができなければいけないのであって、このことが上手く機能するならば、さし当たって「みんながハッピー」となれるはずなのではなかろうか。文字通りの「持ちつ持たれつ」の関係だということができる。

 そんなこと現に行なわれているじゃないかと、高を括ることができるだろうか。必ずしもそうではないからこそ、「アン・ハッピー」な現代の社会生活が繰り広がっているのではなかろうか。
 都会のど真ん中で、飢え死にする家族があったと報じられたのは、そう以前の話ではなかったことをすぐに思い出す。都市生活者たちが、個人主義の生活スタイルから、「隣は何をする人ぞ」という相互不干渉体勢が一般化しているのは周知の事実である。「ウチの子がどんな悪いことをしたと言うのでしょう?」という言葉が返ってこないとも限らないほどに、ヨソの子に注意をすることも禁欲視されている。青少年への注意は、恐くてできないというのも実態となっている。
 はたまた、道で困っていそうな人に声をかけることとて不審者と間違われる可能性が横たわってもいる。
 リサイクル関連にしてもそうだ。いろいろと理屈はあるのだろうけれど、いらなくなったものが、欲しい人の手へ、市場経済なんぞという媒介なくして渡っていいじゃないか、と思うのだが、現状はそうではない。その陰で、リサイクル可能なものが、きっと大量に破壊されCO2をただただ増やすことに繋がっているのかもしれない。

 要するに、現代の(個人主義的)生活スタイルは、最善というよりも、いろいろと深刻な問題を抱えており、結局のところ人々の自然な感情を大いに阻害している趣きがあるのではなかろうか、ということなのである。極端に言えば、阻害どころか、「窒息」させつつあるのかもしれない。
 問題の根底には、「共同性」を欠いた「個人主義」という傾向がどかっと居座っているのではないかと感じる。「個人主義」というのは、「共同制」を支える価値観の共有であるとか、共通の基本ルールであるとか、とにかく、「個人主義」を自ずから正すような「共同性」がベースにあってはじめてまともに機能するものなのであろう。しかし、いつの間にか、「個人主義」の発想は、市場経済の爛熟とともに、「野放し」とも言える状態に転じてしまったかのようである。
 こう言うと、個人の権利を制約するとは何事ぞ、と叫ぶ人も出てくるに違いない。そんなことは一言も言っていないし言うつもりはない。そうではなく、そもそも「個人主義」というアプローチ自体が「物理的に」と言っていいほどに、人々の「共同性」に根ざさざるを得ない構造を持っているわけなのであり、そのことを初心に返って知るべきだと言っているにすぎないのである。それは、人々は何のために都市で生活するのかをひとつ考えれば一目瞭然であろう。人里離れた山の中では自分独りで「生活できない」からであろう。人間は、「共同性」を大前提にしなければ存立できない動物なのだというわけである。
 今、時代や社会における成り行きの自然な流れは、「共同性」を欠いた「個人主義」ではないかと推察する。あえてこう極論する背景には、「市場主義」経済への盲目的な礼賛風潮があるからだ。土台、「オレがオレが」の個人主義の拡大版でしかない「市場経済」が、「神の見えざる手」によって予定調和が図られるなんぞと誰が信用するのであろうか。これを礼賛する者とて、そんなことは信じていないがために、ITを駆使した大規模な制御活動を推進しているのであり、「G7」だなんだと協議したりしているわけだ。
 まあ手に負えない規模の話はともかく、個人生活にあっては、もっと意識的に「持ちつ持たれつ」という絶対不滅の人間原理に眼を向けたいものだ。ただ、こう言うと、我田引水的に都合のいい「つるみ方」だけをする者が出て来たり、現にいるわけだから、「とかくこの世は住みにくい」…… (2005.06.11)


 いよいよ梅雨に入ったらしい。そして、今日は初っ端からの梅雨休みだとか。
 確かに、梅雨特有の蒸し暑さである。今朝のウォーキング時にも、草や木々で囲まれた農道を歩いたら、気温の高さと湿気の多さで植物のムンムンする香りが鼻についた。
 その感触は、真夏に野外でキャンプした際のことを思い起こさせたりする。と、ともに、ふいに、かつて埼玉の「奥地」(?)に転居していた当時のことを蘇らせもした。
 今は確か「富士見市」となっているはずだが、当時は「郡」であり、鶴瀬と呼ばれていた。そういう地名であるのだからうなづけるが、かつては鶴が飛来していたとも聞いたことがある。
 東武東上線は、池袋から川越方面に向かって3〜40分はかかる「奥地」であった。しかも、その家は鶴瀬駅から歩いてまるで農村地域に入ったような場所にあった。今では、ベッド・タウン的な性格がありありとしているようだが、当時は、駅の反対側に公団住宅があった以外は、十分に農村的な光景を残している環境であった。
 梅雨時から夏にかけては、まさに緑一色が支配的となり、夜などに鶴瀬駅で降りると、まるで鄙びた観光地にでも辿り着いたような空気の香りが出迎えたものだった。

 そもそも、なぜこの地に借家することになったのかは定かではない。言ってみれば、「お家の事情」とでも言うべきか。父がそうしようと言い出して、まあいいか、と家族が同意したということのようだった。
 それまでは、母方の実家に間借りする生活であったわけだが、いつまでもそうした「依存」的なあり方はどうも……、ということであったのだろうと思うし、そう一番強く感じていたのが父であったということなのだと振り返る。
 当時の父の置かれた立場を、今推測してみるならば、相応に理解できることであったと思っている。故郷大阪で、兄弟が絡んだかたちで仕事を失敗し、女房の実家である品川の家に居候住いとならざるを得なかった成り行きは、さぞかし口惜しいものであったはずである。祖父が寛大な性格であったことが救いではあったと思われるのだが、それに甘え続けるわけにもいかない心境もあったのだろう。
 ただでさえ、気兼ねをしがちなタイプの父の性格からいっても、できれば、早くその甘えの状況から離脱したかったであろうし、できれば新規巻き直しでやり直してゆくためには、品川から離れた場所も悪くないと考えたのやもしれない。これも今となってはわからないわけでもない。何かと親切にしてくれる女房方の父親の存在は、ありがたいとは言っても、別の受けとめ方がなかったわけでもないのだろうと思える。
 こうして、「ファット・ハプン?!」と言うがごとき転居が敢行され、唐突に、埼玉は鄙びた鶴瀬という新天地に一家して「遷都」したのであった。それが、自分が17歳の時であった。高校の担任に、転居して住所を伝えた時、
「随分と長い住所なんだね……」
と、率直な感想を披露されたことを覚えている。そりゃそうだろうと思う。「郡」は付いているし、「字(あざ)」も「大字」も確か付いていたのだから長い住所となるわけだ。

 そこでの生活は、先ず「緑一色」の背景があったことは書いたとおりである。これは、他の不都合を埋めて余りある事実であったかもしれない。二時間以上をかけての通勤となった父であったけれど、肩身の狭い思いをしていたかもしれない気分が解消されたことに加えての、田園都市の朝晩における「超」すがすがしい空気は、父に人生やり直しの意気込みを与えたのではなかったかと思っている。
 また、大げさに言えば「大草原の小さな家」ではないが、「緑一色」の背景、限られた「登場人物」の数という生活環境は、家族個々人の存在比重感を強めたのかもしれなかった。なんせ、品川に間借りしていた当時は、「登場人物」が多過ぎたものである。にぎやかと言えば聞こえはいいが、部屋を一歩出るとそこは「繁華街」というような住居内環境であったからだ。父が持ち前の気兼ね性の性格を処しかねたのもムリもなかったかもしれない。

 閑静な自然の中での生活、そしてそれを望んだ気兼ね性な父について振り返ってみることになったが、今の自分は、一方でそうした閑静さや自然を選びたい気分も山ほどあるが、どうしようもない喧騒や腐ったような社会関係があるにせよ、人と人とが関係し合っていく社会の中心部というものから離れてはいけないような気もしている。
 閑静な自然環境は、傷ついた者にとって何よりも癒しの場であることは確かだろうが、アクティーブに生きるための刺激がやはり決定的に欠落していることは否めないと感じる。言ってみれば、若者が、危険で、腐ってはいても都市の中心部を目指すのは至極当然のことだと思える。
 自然に囲まれての生活は、頭の中では憧れるものの、まだまだ都会のただ中で汚れて悪戦苦闘していくべきだし、そこから逃げたくはないようでもある…… (2005.06.12)


 先日、またまたソフト開発に関する「部外」ユーザーからの問合わせがあった。
 同業者間での派遣依頼という問合せは、四六時中入るものだ。これにはウンザリしているが、いわゆる「エンド・ユーザー」からの問い合わせというのは、喜ばしい情報であるとともに、大いに共感を抱いたりもする。他業種の「つて」というものはそうあるものではなかろうし、他業種であるとどの業者が「良心的」であるとか、「ぼる」業者であるかなど皆目わからないものであろう。
 この点については、自分の経験に照らしてもそういうものだろうと容易に想像できる。つい先頃も、よんどころない事情で「リフォーム」工事を検討することになったが、請負ってもらえそうな業者の情報については、そう多く得られるものではなかった。正直言って困ったものだった。タウンページであるとか、折込広告であるとか、そして言うまでもないネット検索であるとかを頼ってみても、今ひとつ「これだこれだ」といった情報に遭遇できなかったりする。

 一般的な製品・商品に関する情報であれば、その価格についてどこがどう安いかといったサイトは容易に見つかるのだが、いわゆるカスタム・メイド的性格を持つサービスに関しては、わかりやすく情報化しにくいというような事情があるからなのであろうか。
 そして、そうしたジャンルに限って、素人がよくわからないことをいいことにして「ぼる」業者も出没したりするのは、日頃見聞するところでもある。だから、なおのこと、業者探しに当惑するのでもあろう。

 ソフトウェアの開発といったジャンルも、多分に部外の一般の人々からは、何もかにもが見えにくい領域なのだろうと思える。ただ、昨今は、出来合いの量販アプリケーション・ソフトが出回っているため、価格なぞも想像できそうでもあるが、これがまた事情が異なるのである。
 量販される「汎用用途」のアプリケーション・ソフトというものは、とにかく開発費が、膨大な数の製品数で分散されるために破格の安さになるわけである。だから、ソフト・ユーザーの中には、そうした低価格の汎用ソフトを上手く組み合わせて自身の業務ニーズを満たすといった抜け目の無いユーザーもいらっしゃるわけだ。わたしも、そうすることが可能であるのなら、それが一番リーズナブルなソフト活用法だと思っている。
 どちらかと言えば、米国のビジネス・ジャンルではこうした発想が早くから一般化していたと聞く。つまり、低価格の汎用ソフトという既製品、「吊るし」のソフトに、自社業務というボディを合わせてしまうという合理性なのである。
 ところが、日本の多くの企業というのは、大から小まで、自社の業務フローなどの独自な側面にこだわりを強く持ち、とかく「いや、ウチの場合にはちょっと違うんだよね……」と言ってみたりしてきたようである。だから、業務のシステム化という課題についても、低価格のアプリケーション・ソフトやシステムを導入して、従来の業務フローを改革してしまう、というスタイルを採りたがらなかったと思われる。資金に余裕のある企業の場合には、現行の業務フローやその他の独自環境に見合ったソフトやシステムを、「カスタム・メイド」で構築しがちだったのである。
 こうした「カスタム・メイド」志向の企業の場合、確かに相応の独自メリットを享受してきた過去もあったはずだとは思うが、時代の変化に適応していくための改造その他の課題において、小さくないコスト負担をもしてきたのだろうし、今後のその負担は軽減されないことが予想される。

 いや、今日は、そうした「しんどいテーマ」について書くつもりはなく、要するに、「手間をかける」作業といったもの(リフォームなどのような個別状況に即した建築作業であったり、運用中のコンピュータ・システムの改造であったり……)を注文する場合、よほどそのジャンルに精通しているものでないと、適正な見積りは難しいということであり、もちろん、部外の立場から見てどの同業者がふさわしい業者であるのかもはなはだ難しい課題となる、ということなのである。
 この辺の小難しい事情を、上手く整理、処理していくならば、それはそれで、ひとつのビジネス活路を切り開くことになるのだろうと考えた次第なのである。新規需要にばかり眼を向ける一筋縄のビジネス地平から、傍目には、縄がこんがらがって手がつけられないようなアンダーグラウンドのお困り事に眼を向けることも、これからは必要なのだろうな、と予感させられたのだった…… (2005.06.13)


 昨夜、TVの報道番組で、企業情報に関するセキュリティ対策から、不要となったフロッピー・ディスクやCDを粉砕する小型器具が引っ張りだことなっている当世事情が紹介されていた。不要書類を細かく裁断するシュレッダーに、CDなどをバリバリ噛み砕く頑丈な刃を取り付けたボックスなのである。
 見ていて、なるほどなあ、と感じたとともに、なぜか滑稽な思いが込み上げてもきたのだった。いくらなんでもあそこまで砕けばデータの読み取りは不可能であるし、そのCDを投入した従業員は、バリバリという破砕音を聞きながら、「うん、これで機密漏洩はパーフェクトに防いだ!」と溜飲を下げるに違いなかろう。
 確かにそのとおりではあろう。しかし、そうした目の前で実感できるガードを堅くする物理的ツールができる一方で、個人データが満載されたHDD入りのノートPCが盗難にあったり、関係者によると思われるような個人データ流出事件などが跡を絶たないのも残念ながらの現状である。そんな皮肉な対比が、何か滑稽な印象を与えたのである。

 こういう事って、どうもありそうな気がしてならない。「気が利いて間が抜ける」というのだろうか、「一点豪華主義」と言ってもいいし、もっとわかりやすく言えば「自己満足」だと言ってみても良さそうだ。
 つまり、いずれにしても何か不安な事態に対処しようとするわけなのだろうが、不安をもたらしている環境の実相がうまく掌握されていないわけである。とかく雰囲気や、感触、または人々の不安な心境が溢れる環境に乗じて、幅を利かせたり一儲けをたくらんだりする連中に煽られて、手当たり次第の防御策を講じているようにも見える。
 もちろん、何もしないよりかはマシであることは確かだが、おそらくは、人々に不安をもたらす環境というのは、一筋縄では行かない多面的な危険をはらんでいると思われる。そこへ持ってきて、ある種のことだけを物々しく行なうということは、逆に、それで奇妙に安心感を抱いてしまい、「他の抜け穴」に対する警戒心がおろそかになるという逆効果も発生しそうな気がしないでもない。

 考えてみると、人の感情というものは、しばしば「単純化」を大いに好むような気がする。見知らぬ他人に対しても、いろいろな側面のあることを冷静に認識していくというよりも、要するに「いい人」であり安心できるのか、あるいは油断のできない「悪者」であり憎悪と警戒心を持つべきなのか、といった結論付けを急ぎたいのが感情的人間の仕業でありそうだ。
 おそらく、人間の実態というのは、良い面や、悪い面、あるいは凡庸な面と個性的な面などなど、あたかもモザイクのごとく多面的なのかもしれない。さらに、時と状況によっても変化するものであろう。
 だから、簡単にレッテルを貼ったり、ステロ・タイプや紋切型の視点で認識するにはあぶれるものが多過ぎる誤解をしがちなのであろう。だが、われわれはとかく、「ながーい目で」対象を見ようとしなかったり、多面的な要素と格闘しようとはせずに、白黒の決着を急ぎがちとなる。まさに「丁半ばくち」のごとくであるのかもしれない。

 つまり、われわれは、本来が多面的で複雑な対象や環境を、それに応じた分析的な視点で眺め、冷静に頭脳を働かせて思考におけるトライアンドエラーをしなければならないところを、何かと理由をつけて迂回しがちなのだと思える。考えなくともわかることだとか、忙しいのだからとか、あるいは快・不快に流されてとかで、「丁半ばくち」をしがちなのかもしれない。しかし、それは要するに、考えるというそこそこ「辛い」ことを避けているに過ぎないのだと言っていいはずである。そして、「辛い」プロセスを素通りすることで、子どものように、うれしいか、悲しいかというような単純な感情の世界へと埋没しようとするのであろう。いや、昨今では、そんな感情の位相をも走り下って、快感が享受できるか、不快感に襲われるかというボトムの位相へ向かいがちなのかもしれない。

 いろいろと考えるという作業は、物事の多面性や複雑さに翻弄されながら、結論めいたものが先送りにされ、その間、頭脳の緊張を強いられるというまさに「不快感」を伴う行為だと思える。しかし、そのことに忍耐できるのが人間であるはずだ。
 現代人は、知的に優れた位置にあるとは言え、それは他人の考えた「知識」を保有しているというかたちでしかなく、自身が「不快感」に堪えながら、分析的に、あるいは統合的に自身の考えを牛歩のごとく進めるという「考える人」ではなくなってしまったようである。
 感情的なレベルで、ちょっとした有効な「言い訳」めいたものを提供することができれば、意外とその「言い訳」に乗ってしまう人が多いのが、現在なのかもしれない。「考える人」がめっきり少なくなってしまったご時世は、とにかくどっちへ転んでゆくかわからない危険に満ち満ちているようだ…… (2005.06.14)


 このところ、顧客先へ訪問する際に限って雨天となっている。この何日か、梅雨に入ったと言われながら雨が降らなかったのにもかかわらず、客先に訪問するという今日に限って降る雨は恨めしい気さえする。まあ、そんなことはどうでもいいことではある。
 元来、わたしは客先に訪問することは嫌いではない。まして、営業的目的で初対面の顧客候補の会社を訪問することは、日頃見聞しがたい他業種の現状を拝聴できることもあり、興味津々となる。

 現在は、その気になりさえすれば、マス・メディアや、インターネットを通じてかなりさまざまな他業種情報に接することが可能ではある。
 しかし、いつも思うことだが、いわゆる「公式的」情報というものは、どうしても紋切型の一般論的情報となりがちであったり、あるいは、きわめて特殊な事例を針小棒大にアレンジしたものが多いようである。そこへ行くと、やはり現実の事情に即した「対面的」情報は、リアリティがあり得るところが大だと痛感する。
 だが、他業種の実態状況なぞをつぶさに知る機会というのは、そうそうあるものではないはずである。何の目的かもはっきりしないで、内情を話してくれたり、時間を割いてくれたりするビジネス関係者はめったにいないからである。
 ところが、「引き合い」を受けた会社への訪問という場合には、こちらが積極的になりさえすれば、結構、話がはずみ、案件には直接関係しない業界事情などについてもコメントをいただくことができたりするものである。だから、面白いと言えばそうなのである。 これは、逆に、他業種の営業マンが自社に訪問してくる場合にも同様に言えることだろうと思う。「営業お断り」と言ってシャットアウトしなければならない忙しい時もままあるわけだが、余裕がある時には、情報収集の一環としてお相手してみるのも無意味ではなさそうである。この場合には、こちら側が潜在的顧客という立場でもあるわけだから、こちらが訊ねることには結構少なくない情報を提供してくれたりするものである。
 いずれにしても、一般的に「対面的」情報というものは、「主観の手垢で汚れて」いそうな感じがないわけではないのだが、さにあらず、実情の一端をリアルに伝えてくれる貴重な情報だとわたしは受けとめている。

 最近は、TVの報道番組などで、その筋の人物に「単独インタビュー」をしたという触込みののものを目にすることもめずらしくなくなった。これなどは、一般視聴者が、「公式的」情報ののっぺりとした一般性と、さらに何か嘘っぽい、と感じる歯がゆい思いに迎合するかたちで企画されるのであろう。しかし、「やらせ」という手の込んだ虚偽があったりすることを知らされれば、それこそ「嘘っぽく」感じてしまうのも視聴者の立場であろう。
 その点、パーソナルな「対面」の場合には、こちら側にチェック能力が備わっていれば、嘘は嘘として除外できるし、嘘にまみれた話の流れにキラリと光る「真実」の言葉を漏れ聞くことも可能だということなのである。
 つまり、TV番組のように、舞台裏の確認が不能なシチュエーションとは違って、「対面」の情報収集の場合には、リアルタイムでチェックできる可能性があるということだけでも救われるということなのである。
 情報というものは、無いよりはあった方が良さそうであるが、ただし、いつの場合でも情報というものには、その「真偽」如何という難問がついて回るものであるだろう。そして、その難しさに決着をつけるのは結局自分自身でしかないのも事実であろう。
 なかなか、見ず知らずの人と話す機会というものには恵まれないのが通例だと思うが、仕事やその他、ちょっとした機会を活用して、人と話してみるという「肉弾戦」こそが、情報の真偽を見極められる能力を磨く絶好の機会だと思えてならない。活字やその他二次的な加工情報というものは、そう簡単に見抜けないものであろうが、「対面」から得られる情報というものは、その点多くの情報を曝け出してくれるために対処し易いとも言えるのではなかろうか。

 別に、他社訪問や、来社した営業マンとの会話を、こうした観点で楽しんでいるわけでは毛頭なく、まさに、知らなかった生きた情報に接することの楽しさが大きい。ただ、そんな場合にでも、情報の「真偽」性という点には素通りできない部分があるというだけの話なのである…… (2005.06.15)


 今朝は朝一番はすこぶる調子が良かった。目覚めも悪くなかったし、体調感も悪くはなかったため、小雨が降る中をウォーキングするつもりにもなったものだ。おまけに、久々に両足首にウェートを施して運動量を増す段取りまでしたほどである。そして、「大」汗をかいて、その直後はすがすがしさを満喫したものだった。
 ところが、午後となって、ただでさえ窓の外は鬱陶しい梅雨の天気であったことも手伝ってか、じわじわと気分に疲れめいたものが滲んできた。やたらに、イライラするのである。確かに、いつもながらではあるが、仕事の流れにそうそう喜ばしいことがあるわけではない。不平不満を言えば切りがないのが実態である。しかし、特段に嘆かわしい事柄があったわけでもないのに、イライラしがちとなっている自分なのである。
 と、背中あたりがややにぶく痛むのを自覚した。そして、ああそうか、今朝の朝一番のウォーキングの疲れが響いてきているわけだな、と気づいたのだった。
 中年過ぎになると、身体の疲れや痛みというものは、決してその直後には現れないものである。下手をすれば、忘れた頃の二日後あたりに「原因不明」のようなかたちで疲れなり、痛みなりが自覚されるわけだ。スポーツなどの場合、その直後というのは、爽快感などの気分だけはリアルタイムで訪れる。言ってみれば、ローンでの買い物のように、欲しいモノをとりあえず手にするものの、その翌月あたりから楽しくない支払が始まるようなものであろうか。つまり、何となく奇妙な現象としての「タイム・ラグ」というものを自覚するということなのである。

 中熟年の身体だけでなく、「タイム・ラグ」という現象は、結構くせものでありそうな気がする。
 誰しもが、連続した因果関係の出来事であれば、事情を納得して受け容れるものだ。しかし、原因と結果との時系列に相応の「間」があったりすると、目の前の事態が、原因なしで唐突に生じたように受けとめてしまいがちであろう。
 世に言う原因不明の出来事などのケースは、ひょっとしたらこの「タイム・ラグ」という現象に根ざすことがあったりするのではないかと想像したりした。
 考えてみれば、「マジック」や「手品」というのも、要するに、この「タイム・ラグ」というロジックを駆使していると言っても過言ではないのかもしれない。つまり、意表をつくような見せ場の現象は、その直前に仕掛けられたのであれば、容易に見破られてしまうに違いない。だが、結果の現象なぞが念頭に浮かばないはるか前の文脈で、何気なくそのタネが仕組まれたとするならば、通常は見過ごされてしまうことだろう。つまり、観衆の目を欺く処理技術の巧妙さとともに、「時間差」(「タイム・ラグ」)が小さくない役割りを果たしているのが「マジック」だと思うわけである。
 さらに、ややこじつけめいて言うならば、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」とか「人の噂も七十五日」という世間によくありがちなことも、要するに、「時間差」がおかれることにより十全な道理感覚が発揮されなくなるという点で、「タイム・ラグ」ロジックが底に横たわっているとも言えそうだ。
 事ほど左様に、要は一定の時間経過が、因果関係の認識や、それを反映した道理感覚をマヒさせるということであり、ここにいろいろな「珍事」が生まれるということなのかもしれない。

 スピード時代の現代に生きるわれわれは、とかく何かにつけて「クイック・レスポンス」を望みながら、どうしても「せっかち」な行動をとることとなっているはずだ。そして恐らくは、現時点の短い前後の時間幅での因果関係感覚(道理感覚?)は鋭敏となっていそうだが、その「外側」の比較的幅広い時間経過を含めた因果関係認識は盲点となりがちなのではなかろうか。つまり、これが、「タイム・ラグ」でやってくる事態の認識に「弱い」傾向を作り出しているのではないかと推測させる理由なのである。
 人間に比べて他の動物というのは、本能的行動や反射神経的行動が中心なのであるから、当然、物事の因果関係認識においても、短絡的水準でしかあり得ない。「風が吹けば桶屋が儲かる」なんぞという長ったらしい因果系列の認識はムリであろう。
 が、果たして、現代のわれわれは、動物たちの水準をはるか凌駕するほどに、長い時系列の因果関係を見通しているのかどうか、なのである。歴史感覚・認識というのは、まさに、動物たちには望むべくもない高度な能力であり、それこそ人間だけの特殊能力であるに違いない。けれども、現代人は、その歴史に関する能力をかなり放棄しはじめている気配はないのだろうか。
 ますます、微分のような発想で現時点ではどうかという鋭さばかりが問われる時代が展開しているが、それはそれで良いとしても、物事が時間をかけて熟しつつ変化していくそのスパンを見通せる人間ならではの能力を損なってはならないはずであろう…… (2005.06.16)


 昨日は、「タイム・ラグ」というヘンな視点について書いたが、要するに、因果関係における「原因」と「結果」との関係の中には、誰が見ても直結しているような場合と、両者のつながりがしばし潜伏しているために結び付けにくい場合とがありそうである。
 この後者のような場合なのだが、世の中には、そうした時間差を介在させて物事が関係しているということがままあるわけであり、それを「タイム・ラグ」という視点で再確認したかったわけなのである。

 短いスパンでものを見ること、評価すること、悪く言えば「近視眼」的な観察ばかりが一般化する現代にあっては、「タイム・ラグ」的に発生することが見過ごされがちであるし、そもそもそうした現象なり、事象なりがスポイルされているのが現状でありそうな気がする。
 しかも、そんな風潮が強いため、物事の原因は、直前に発生していた事柄にのみ関係づけられ、真の原因というものへ遡及していく当たり前の調べ方も無視されたりする。それで、直前の事柄にそれらしき原因がないとなると、勢い、「原因不明」としてさじが投げ出されることにもなる。
 昨今見聞する社会的事件をちょっと振り返ってもそんなことが容易に目につきそうである。

 先日も、相変わらず「いじめ」が原因と思しき子どもの自殺があった。こうしたことでも、死を選ぶ流れの過程には、十分「タイム・ラグ」というものが想定されて当然なのかもしれない。その直前に、別に背中を押すような事件なりがなかったから、「いじめ」はなかったとする関係当局の判断は余りにも杜撰に過ぎる。まして、教育の場である。子どもたちの心の内側をゆっくりと流れる状況推移を、教育者の目で見つめ続けなければいけないのが教育現場のはずである。
 仮に、モノを作る工場のラインであっても、熟練工であれば、ラインを流れる半製品の概観などを観察するだけで、良、不良を識別するのではなかろうか。
 要するに、自身がプロとして扱うべき対象を、「見つめて」いないのではなかろうか。せいぜい、誰だって気がつく直前・直後の関係だけを、まさに「近視眼」的な目で顔を向けているに過ぎないのか。

 これも、つい先だっての事故である。「ビル外壁タイル785キロ崩落、2人が重軽傷」( asahi.com 2005.06.14 )というものがあった。崩れた壁というのは、5階から6階にかけての外壁、ただし垂直の壁ではなく、強い傾斜があり、半分屋根の役割りを果たすような外壁であったらしい。
 専門家の話では、そうした外壁というのは、垂直のものとは異なって、屋根と同様に最下層に防水シートが施され、その上にモルタルを張り、そして表面のタイルなどが張られるとのことである。そして、今回のようなモルタルとタイルが剥がれたのは、防水シートとモルタルとの接合部が劣化して滑るように剥がれたのではないかと推定されている。
 おそらく、15年前の新築当時には、その接合部は何ら問題視されるはずもなかったのであろう。が、年月の経過が、防水シートを劣化させ、まさに「タイム・ラグ」的な事故を発生させたということになる。
 結果論といえばそうなるが、防水シートの劣化という点が、建築基準法で一体どのような耐久性で見積もられていたのであろうか。素材が新しい時点でのみ、そうした工法が承認されたのではあるまいな、という疑問が禁じ得ない。素材の劣化にともなう「タイム・ラグ」的な因果関係がどこまで見据えられていたのか、という疑問なのである。

 まあしかし、こんなことは都心の建築物にあってはめずらしいことではなく、まさにごまんとある氷山の一角に過ぎないのかもしれない。まして、十数年以前といえば、バブル期近辺でもある。想像したくはないが、「手抜き」に近い建造がなされたとの想像は決して困難ではない。セメントにしても、海砂が使われたりしたという噂も聞かないわけではないくらいだ。
 いや、書いている話題は粗製濫造建築の問題ではなく、「タイム・ラグ」についてである。すでに、いろいろな事柄に関して、「バブル期の後遺症」という視点がとられてきたわけだが、「バブル期」のいろいろな問題点が、まさに「タイム・ラグ」的に現在いろいろと影響を及ぼしている、と考えてみてもいいのかもしれないと思う。事態の広がりは、「不良債権」という一事に尽きるとは到底思えないのである…… (2005.06.17)


 以前から書いていることだが、おふくろたちの世代は、いわゆるモノ不足をはじめとした万事が不便であることを常態とする時代に生きたためか、現代という時代を基本的には「ありがたい」時代だと受けとめているようである。生きる上で苦労をするということが当然視されていたかのような時代の人々の目から見れば、何かにつけて不自由さが解消されている現代は、極端に言えば別天地ということになりそうである。ただ、凶悪な犯罪が頻繁に起こされることとか、人々の情がなくなったこととかといったまさに現代ならではの風潮については不安感、不快感を隠そうとはしない。
 同じ現代の事象を受けとめるにしても、その人の原体験や、そこから来る基本的な感じ方、考え方の違いによって、大分事情がことなるのかもしれない、と思わされるのである。つまり、その人の「ものの見方の基準」=「スタンダーズ」が異なれば、同じ対象や世界であっても、かなり異なって受けとめられることになりそうなのである。

 こんなことを書くのは、現代という時代の環境は、尋常ではない耐えがたさをを日増しに増大させているように常々感じるからなのかもしれない。そして、現代を生きるにあたって、先ず何が必要かといって、現代風の知性や行動力もさることながら、忍耐力こそが必須だと思うことさえあるのだ。さもなければ、破格の鈍感さが必要、多少こ綺麗に言うならば強靭なタフネスが欠かせないと言ってもいい。
 そんなことを考えているから、おふくろたちの世代、いやすべてがそうだとは思えないのだが、苦労を人生の伴侶としてきたかのような人たちがうらやましくさえ思ったりするのかもしれない。
 われわれというか、少なくとも自分なぞは、何かにつけて苦労を目の仇にして取り除こうとする生活をして、苦労はないことが当たり前という「スタンダーズ」を身につけてしまっているように思う。そして、これが逆に、時代環境の悪い点ばかりに目に向けることにつながっているのかもしれない。その結果、悲観的な感情を累積させてしまっているのかもしれない。

 ここいらで、自身のひ弱な「スタンダーズ」の見直しをかけた方がよさそうではないかとさえ感じているのである。「平和ボケ」というあまり感触のよくない言葉があるが、翻って考えてみると、現代のわれわれは、「文明ボケ」とさえ言っていいような、現実知らずの錯覚の中で生きているのやも知れない。しかも、モノとサービスを湯水のように溢れさせた特殊な経済成長期の「過保護(?)」的な「特殊な」文明によって、堪え性の無さを骨の髄から染み込まされたのかもしれない。
 問題は、モノの豊饒さだけではない。モノの豊饒さは、消費経済すなわち市場経済の拡大とともに展開されたわけで、そのプロセスでは、人々はおカネさえ出せば、何でも他人まかせによるラクが可能だと考えたり、「消費者」として奉られることを人間としての自分自身が保護され尊重されているかのような、そうした「錯覚」をしっかりと身につけてしまったはずである。
 人間が生きるということが、決してそんなことでは済まないという基本的な事実を、消費材と一緒に回収ごみ置き場かどこかへ放り投げてきてしまったのかもしれない。ヘンなたとえで言えば、昨今の報道で頻繁に出てくる「死体遺棄」という犯罪の異常さは、ここに端を発しているのではないかとさえ妄想したりする。
 そんなことはおくとしても、人間が生きるということを、あまりにも「ソフィストケート」(「上品」という意味ではなく、「卒が無い」と言ったらいいのか……)され過ぎているかのように思うのだ。うまく表現できないもどかしさを自覚するのだが、人間の生き方というものが、まるで市場に登場する体裁の良い商品と同等であるわけがないじゃないか、と思うのだ。
 何をいまさら常識的な事実に噛みついているのかと思われそうでもある。国際舞台で「人身売買」禁止法という話題が出てくるようなとんでもないこの時代にあって、現代という時代の実態が、人間を商品と同等に見なす例にいとまがないことは誰だって知っていることであろう。人間がモノのように扱われている事実については、大の大人がいまさら云々することでもないのかもしれない。

 やや話が逸れてしまったようだが、事の焦点は、「過保護文明」(本当は、現代の市場経済は人間個々人を「保護」なんぞはしていないのであり、ただ商品を受け容れる消費者として見なしているに過ぎない!)を無批判に受け容れていくことで、「自分は保護されている」という根拠のない人間観を持ってしまっている点なのである。
 たとえ、経済的に消費者として、また法的に権利主体としての市民として「公式的」に謳われ、「保護」されていても、必ずしもリアルな現実がそうではないことを知らない者は少なくないと言うべきであろう。現に、こうした「公式的」見解の礎たる憲法自体が平気で改悪されつつあるのが現在のこの国なのである。
 「自分は保護されている」という根拠のない人間観を「スタンダーズ」としていてはやってゆけない時代となりつつあると感じているのであるが、今日、書きたかった「スタンダーズ」の本命は、実はもっと根源的なレベルでの話であった。
 人間が本当に生きるということは、恙無く(つつがなく)安定、安心して生活するということだけでいいのか、それを後生大事に「スタンダーズ」としていていいのか、という疑問だったのである。確かに、現代の「過保護文明」は、杜撰さはあるものの、そうした安定、安心の生活を目指している。しかし、人間がそれを心のうちの最上の「スタンダーズ」としてしまう限り、人間は本当の意味では幸せにはなれないのではないかと「妄想」するのである。
 わたしが関心を持っているある作家が、自分にとって大事なものは「危機と遊び」だと言ってのけていたことがある。まさに、現代の「過保護文明」が「パージ(放逐)」し続けているものを、最も大事にしたいものだと述べているのが痛快なのである。まさに、人間の喜びと尊厳がそこにあるからだと見抜いているような気がした…… (これについては後日書きたい) (2005.06.18)


 入浴する際は、いつも大体「防滴加工」のラジオを浴室に持ち込む。「名人寄席」などが聞けたらご満悦となれる。名作の朗読というのもいい。正直言ってニュースはあまり聞きたい気がしない。社会関係は凶悪さと悲惨さだらけであるし、政治関係は歯がゆさと憤りだけが刺激されるので、リラックスの妨げとなるからだ。
 入浴時に聞くにふさわしいラジオ番組は、何はさておきNHK第2放送で毎日報じられる「気象通報」だと信じて疑わない。別にそんなに大げさに言う必要はないのだけれど、ちょっと強調してみたかったのだ。

 以前にも書いた覚えがあるが、再度引用してみよう。
「気象庁予報部発表2月22日18時の気象通報です。まずはじめに各地の天気をお伝えします。石垣島では東南東の風、風力3、天気は曇、気圧1013hPa、気温24℃。那覇では……
 日本のはるか東の北緯42度、東経162度には988hPaの発達中の低気圧があって北東へ毎時55キロで進んでいます。中心から閉塞前線が北緯39度、東経162度に達し、ここから温暖前線が北緯35度、東経165度にのび、寒冷前線が北緯33度、東経156度を通って北緯30度、東経147度に達しています。中心の南側……」
 今も、これをアナウンサー気取りで読み返してみると、何ともすがすがしい気分となってくるから不思議だ。
 冒頭の「気象庁予報部発表2月22日18時の気象通報です。」は、ちょいと戦時中の「大本営発表」を連想させないでもない雰囲気がある。いや、もちろん戦時中のそれを生で聞いたわけはないが、多分そうなのだろうと思っているに過ぎない。ただ、よくありがちなBGMもなく、何の飾りもない単なるアナウンスが、逆に、真っ白の開襟シャツのような清潔さを感じさせる。あるいは、佐田啓二主演の映画『喜びも悲しみも幾年月』の灯台守のような実直さをイメージさせて、気分の汚れを洗い落としてくれそうなのだ。
 「石垣島では東南東の風、……」と聞く時には、湯船に浸かりながら眼を閉じ、何度も行った沖縄の海岸のことを思い浮かべたりする。「そうだよなあ、『南南東の風』なんだよなあ、涼しい風とちゃうんだよなあ……」なんぞとほとんどなんの意味もないことを考えたりもする。
 「日本のはるか東の……」というところでは、そうそう、「FEN」という放送局は、「ファー・イースト・ネットワーク」とかいったはずだよなあ、「ファー・イースト」は「極東」とも訳され、あの「極東軍事裁判」というのもこのことだったはずだけど、「日本のはるか東の」という表現はなんと美しい響きを持つのだろうか、と感じたりする。「気象通報」という報道番組にあって、客観的事実をのみ伝えるのかと思っていたら、「日本のはるか東」という極めてアバウトで、主観的とさえ聞こえる形容を使うのが、実に気分がほぐされるのである。まさか、こうした形容を多用することは、航行中の船舶にとっては迷惑なのかもしれないが、湯船の中で聞いているおっさんのために、もっと多用してもらえないものかとも思う。
 「石垣島では、細かいことはともかく生暖かい風が心地よく吹いています。」とかになるのかもしれないが、しかし、やはりこれでは「清潔・静寂・清貧(?)」を売りとする「気象通報」独自の良さが半減してしまうことになってしまいそうだ。同「通報」は、あくまでも、「いま時こんな無味乾燥の放送コンテンツってあるかあ〜」というような朴念仁(ぼくねんじん)ぶりで押し通してもらうべしなのだろう。

 ところで、これは「気象通報」とは違うのであるが、「明日の『日の出時刻』をお知らせします」というのもいとおかし、である。はじめの頃は、一体誰が「日の出時刻」に関心を持っているのだろう、と考え及んだものだ。江戸時代ではあるまいし、「日の出」に合わせて旅籠を出立する人もあるまいに……。
 漁業関係者はやはり関心を持つのだろうか? 釣りの用語に、一日の時間帯で良く釣れるのは日の出直前の「朝まづめ」、日の入直前の「夕まづめ」というのがあり、魚の食いがいいのがその時間だと相場が決まっているのである。ただ、漁業関係者のためだけでもなさそうだという気がするが、「日の出時刻」にこだわる職業がほかにどんなものがあるのだろうか……。
 ただ、これも聞いていてなんとなく面白い。「札幌の日の出は午前(午前に決まっていそうだが……)……、仙台の日の出は……、東京の日の出は……」と各地の主要都市の時刻が報じられ、今ごろだと、日毎に早くなっていくのが確認できるのである。
 ちなみに、この何日かは、東京の場合「4:25」が続き、変化がなかったのである。どういうことかと、調べてみると、確かに6/5から6/21までは長きに渡って「4:25」となっているのだ。まるで平らな山頂のように、これが一年で最も早い「日の出」の時期だということになるわけだ。
 別に「日の出」とともに起床する習慣を持っているわけではないからどうということもないのだが、「日の出時刻」が早いというのが、なぜだか明るく喜ばしい季節であるような気がしてしまうのである。したがって、6/22以降、次第に「日の出時刻」が遅れていくのを聞くことは、これから夏が始まるというのに一歩も二歩も早めに「衰える」季節を先取りするような気配を感じることになるのであろうか…… (2005.06.19)


 概して景気の先行きが不透明なためか、相変わらず「人材派遣」業が好調なようである。<NIKKEI NET>の「業界天気図」では、「人材派遣」業は、「晴れ」から「晴れ」への変化で、「営業・販売で派遣を活用する動きが定着」との拡大基調のコメントまで付されている。
 ソフト業界でも、相変わらず「派遣スタッフ」への需要は大きいようだ。
 弊社も、既存ユーザからの要望に沿うかたちで技術者派遣業務に関与はしているが、拡大する方針を持ってはいない。諸般の事情で発生する当業務は消化するとして、メインに据えるべき業務かどうかについては消極的な構えなのである。
 「派遣」業務というのは、本来的にはその社会的需要もあり、相応の業種ではある。まして、時代は、先行きの見通しが不安定であり、各企業は、ノーマルな状態(常態)で発生するテンポラリーな人材へのニーズ以上に、固定費削減という事情で、これに依存しようとしているに違いなかろう。
 いわゆる「正社員」採用によって、「終身雇用」体制で人材を維持してきた従来のあり方が、より短期に収益を向上させることを必然的に要請する「構造改革」路線によって見直され始めた現在、ひょっとしたら、人材確保の「定石」は、「派遣スタッフ」の活用というスタイルになってしまうのであろうか。

 しかし、企業の人材を「派遣スタッフ」に依存してゆく体制には、いろいろと問題が内在していることも事実でありそうだ。
 時代環境そのものが、「安定」した目標を失ったかのようであり、企業も「テンポラリー」であれば、時々刻々の仕事も「テンポラリー」と、まさに「テンポラリー」的様相を強めているとするならば、人材もまた「テンポラリー」なスタッフで事足れりとなるのであろうか。だが、この文脈こそが気になると言えば、気になるところなのだ。万事、「暫定版」が闊歩するような、そんな風潮への疑問ということになるのかもしれない。
 再度繰り返せば、変化に次ぐ変化といったこの時代の激動が、比較的静止安定していた過去とは異なった姿勢で臨まなければならないことは当然である。弊社の社名の由来である「アドホクラシー」(「アドホック」な現象が優位を占める時代にあっては、組織自体も臨機応変なスタイルが要請されること)な時代となっていることは否定できない事実だと思われる。この点を見逃して旧態依然とした考え方で臨むことは間違いであろう。
 しかし、やや誇張して言うならば、ここで求められている「テンポラリー」な資源(人材を含む)と、現行提供されている「テンポラリー」な資源との間には、残念ながら大きな開きがありそうな気がしてならない。

 とかく、イージーなわれわれは、あるものが「新しい命名」で呼ばれたら、途端にその中身も自然に相応の変化を伴うものと錯覚してきた嫌いがあるのではなかろうか。言葉の勢いで言うならば、それは、旧い話だが「明治『新』政府」から始まっているのかもしれない。かたちは変わっても、薩・長という藩閥政治がしっかりと温存された点や、民権が言葉だけであった点など、パチンコ屋のリニューアル(新装開店!)とそんなに違わないと言うべきかもしれない。最新の話題では、「売春」を「援助交際」と銘打つものもある。「新しい! 新しい!」と騒ぎ立てる軽佻浮薄な人間はいつでもどこにでもいるわけだし、そんな連中がいるからこそ、「新」命名の名前だけが、人々の錯覚とともに一人歩きするのかもしれない。この国の、万事、「問題据え置き」型卓袱台(ちゃぶだい)方式!(感極まれば、いつでも引っくり返されてしまう方式!)は、度し難いものだと思うわけである。

 話を元に戻せば、「テンポラリー」な時代だから、「テンポラリー・スタッフ」と銘打たれた人材を導入するというのは、余りにもイージー過ぎるのではなかろうか。「テンポラリー」な時代にふさわしい「テンポラリー・スタッフ」とは何であるのかなぞは吟味されているのであろうか。単に、企業の固定費がシュリンク(圧縮)できるだけの大義名分で事が進められていると、そう思えてならない。こんな対処は、単なる辻褄合わせでしか過ぎないようだ。
 「テンポラリー・スタッフ」活用の実態を言うならば、先ずは、派遣契約における「多重構造」(何重にも下請け化される状況)は非合理極まりない。一時期は「二重派遣」の禁止などと騒がれたこともあったが、現状ではどうなのであろうか。
 請負作業でも、「多重構造」の契約はさまざまな非合理性があるが、派遣契約の場合は、「低い単価」となっている現場の派遣スタッフと、「高い単価」を支払っていると感じている派遣先現場担当者との間の感覚のズレがさまざまな問題を引き起こすようである。 そもそも「テンポラリー・スタッフ」の活用とは、一時的に発生する「特殊な能力」を暫時拝借するというものであったはずだ。しかし、現状は、そんな筋合いではなく専ら日常的で通常の人材不足を「低コスト」で補充しようとするもの以外ではなさそうである。労働者保護の観点で云々することが十分可能ではあるが、その点もさることながら、企業側にとっても、一見「コスト安」の恩恵を被っているように見えながら、やはり「暫定版」的な問題含みの方策以外ではないように思われるのである。

 それにしても、「暫定版」的方策が一人歩きしているような現状は、安心できない事態が潜伏させられている時代だと言わざるを得ない。結局、「暫定版」的方策を講じるということは、目先の収益尊重以外の何物でもなく、リスクを踏まえながら長期的なバリューを追求することを回避しているわけだ。そしてそれらは、短期間での収益には換算しにくい性格を持っていたりする。「安全性」の問題や「セキュリティ」の問題がその代表例であるのかもしれない。
 収益追求を急ぐ企業活動が、「安全性」や「セキュリティ」(頻発する個人情報漏洩の実態!)を、「暫定版」的方策の積み重ねの過程で必然的に発生させていると考えるのは、邪推であろうか? これらへの予防対策は、「運が良ければ」当面はいくらでも削減できるという性格のものではなかろうか。「暫定版」的方策は、楽観的な「運だのみ」の姿勢と表裏一体となって、あたかも「成り行き任せ」街道を驀進する乗り物のような気配だ…… (2005.06.20)


 メール・ボックスを開くと、迷惑メールが何十件も入っている。表題だけをダウンロードしているので、それらにチェックを入れ、すぐさまにデリートしてしまう。それらは、あつかましい営業メールと、いかがわしいビョーキ(むしろ漢字で「病気」というべきだろう)的メール類である。
 これらを見るたびに、世の中はメキメキ悪化していると実感する。まあ、時代と社会の悪化は皆が野放しにして、加担してきたのだから、こんなものかと気持ちを静めることにしている。それにしても迷惑メールに接する限り、性的変態、金権変態が増えているようで嘆かわしい。もっとも、国会に「ほろ酔い加減」で出入りする議員たちを野放しにしている国民なのだから、確実に「スタンダーズ」が低迷していることは疑う余地がない、と思ったりもする。もう完全にシニカルになり切っている自分である。

 が、昨夜、シニカルでは済まされないと感じたことがあった。
 夕食時に、家内がお隣さんから聞いたコワイ話をし始めたのである。わが家の裏庭の柵から不審な輩が家の様子を窺っていたというのである。しかも、かなり執拗に、三箇所からそんなことをしていたというのだ。最初は、最も近づきやすい箇所である、裏隣のお稲荷さんが奉られてある箇所、そして次が裏隣のアパートの二階の廊下に上がり、わが家の二階の様子やベランダの様子を確認していたようだ、と。さらに、お隣さんの庭越しからも覗いていたという。
 もちろん、お隣さんはこれらに気づき、何気なく庭に出てそれとなく観察していたという。そして、二度目に「目が合った」時、相手は警戒して立ち去ったという。やや、追いかけるようにして通りに出てみたもののもはや姿はなかったという。宅急便の配達人のような恰好をしていたとの話であった。

 これらの話を家内から聞いて、自分は、無性に腹が立ってきたものだった。『おのれ、<火盗改め方>を自任する者の屋敷を狙うとはなめやがって……。どうしてくれようか……』とワナワナと武者震いがしたものである。
「とっ捕まえて、ひどい目に合わしてやるウー」
と興奮して口走ると、
「それはそうとして、鍵をふやさなきゃね」
と家内はいたって冷静であった。まあそうだな、と矛を収めざるを得なかったわけだが、それというのも、盗人をとっ捕まえるために、何日も公務を放り投げて賊を待ち伏せするような小説まがいのことができるわけがなかったからである。まあここは、信頼厚きお隣さんが、密偵「相模の彦十」よろしく見張ってくれるのを期待する他ないのだ。あとは、とかく人目が及ばない裏庭側の柵に「有刺鉄線」なんぞを設えるなどして、自己防衛するしかないものと自覚した。

 しかし、飼い犬のレオが亡くなってもう一年以上が経つが、こうした事態に直面すると如何にあのレオが番犬として活躍してくれていたかがよく分かる。レオときたら、人一倍というか犬一倍というか、臆病であった。その臆病さときたら、家内が散歩をさせていて前方から威勢のいい兄ちゃんが歩いてきたら、家内の後ろ側に回ってやり過ごすようにするというから、頼りにも何にもならないと嘆かせたほどである。面白いことに、帽子をかぶっている人が恐いようであり、自分が散歩をさせていた時も、道路の反対側の歩道を野球帽をかぶった人が歩いていると、歩き進んでも、その人の方ばかりを見つめたり、振り返ったりしていたから情けなかった。しかし、そんな臆病者であったがため、放し飼いにされていた庭に近づく人がいたら、容赦なく、いや恐くてしょうがなくて吠えまくったものだった。これが、「優れた番犬」としての役割りを果たしたわけだったのだ。
 相変わらず、門扉には、「猛犬注意!」の札をぶら下げてはいるものの、プロの賊にはもはや効き目がないものと見える。

 番犬がいない現状の防犯対策を考えていたら、昨晩は寝床に入ってからも、あれやこれやと思案して、久々に寝付きの悪い夜になってしまった。
 お隣さんの話にリアリティを覚えるのは、現に、近所で複数件の空き巣狙いが発生していたからでもある。そのうちの一件は、住人が昼寝をしていた際に侵入され、カードを持ち去られて、100万円近く被害を被ったとかであった。人目につかない家の裏側からの侵入という手口が、同一の輩ではないかと推定させるのだ。
 いよいよ本格的な防犯対策を講じることは講じるとして、それにしても、「自分だけは例外」で安全なのだと感じる、根拠のない楽観性はもはや無意味どころか、落ち度にさえなってしまう、そんなおぞましい時代となったわけだ。
 事を為す連中に良心なんぞという「高級品」を期待してもムリな話であろう。多分、こんな時代でもあるから、しっかりと仕事と位置づけているに違いない。楽勝で稼げた日には、「今日は『いい仕事』をしたものだ」と泡立つビールで乾杯しているに決まっているだろう。
 そりゃ、人の家に土足で踏み入るヤツへの憎悪と憤りは頂点に達するのも決まっているし、とっ捕まえたらこっぴどく憂さを晴らしてやりたいとも感じるが、しかし、これもまた「テロに対するブッシュ」と同列に並ぶ愚作なのかもしれない。良心なんぞに縁のないヤツであれば、腹いせで放火というような「急ぎ働き」をしないとも限らないからだ。だから、ここはまあ、「この家は、カネも無さそうなのに妙にガードは堅そうだ……」と賊を遠のける策が最上ということになりそうである…… (2005.06.21)


 どんなしがらみがあってのことか知らないが、「アホでマヌケで怠惰な」現政府を支持するとは聞いて呆れる。とにかく、これを許している国民が、結局悪い。どこまで「貢いだら」気が済むというのか? またまた政府が政治的無能を自認する「増税」(サラリーマン増税)だという。
 ただでさえ、近隣諸国との関係では「独りよがり」の言動で後先省みない波風は立てているし、重要課題が山積しているはずの国会にあっては、これまた「独りよがり」の郵政民営化問題に血眼となる勝手放題だ。国民の生活向上という「ユーザー・ニーズ」への責任感は一体どこへ捨ててしまったのか。そして、次々に着手することは、頭も身体も使わずに、机上の数字合わせでしかない国民への負担転嫁で事足れりというのだから、政権および行政関与者たちの絵に描いたような「無能さ」が、まさにアンビリーバブル! である。「あってはならないこと」ばかりが目白押しの時代は、「不思議の国」となりつつある。そんなことあり? と聞けば「アリス」と……。

< そんな調子だから、国民の税金を平気で垂れ流す「談合」つうもんがまかり通ることにもなるってんだい。いいや、官僚が官僚OBとつるんで発注予算額とかいう丸秘情報を「横領」しているようなもんだから、「無能さ」ちゅうよりも、「知能犯」だと「褒めて」やるべきなのかい?
 いいかい、悪党ども! 世間にゃ、親のすねかじるバカ息子というのがいるそうだが、役人どもがだぜ、国民の血税を啜ってどうなるってんだい! てめぇっちも、役所を一歩出りゃ国民の一人だってぇことじゃねぇのかい。なのによぉ、どおしてこんな非道ができるんだい? お天道様に恥ずかしくねぇのかい。
 てめぇっちの頭ん中じゃ、国民と江戸時代の「農民」とがごっちゃになってるってぇことなのかい? 「生かさず、殺さず」「絞れるだけ絞り取る」ってぇ心根がちぃいとも変わっちゃいねぇぜ。まあ、いまだに、「お役人さま、お役人さま」ってぇ調子で一目置いているような国民もだらしねぇもんだがな。元来、役人てぇのは、「公僕」とも言ってな、要するに国民の「サーバント(servant、下男・下女)」とかいうもんなんじゃねぇのかい。その立場で、お預かりしたカネをいいように遣うってぇのは、どういう魂胆なんでぇ?
 まあな、仮にこのご時世がな、みんなが左団扇で過ごせるようなじでぇ(時代)であればよぉ、こんなにくだくだとみっともねぇことも言わないですんだかもしれねぇぜ。だがよぉ、てめぇっちも、なけなしの頭とはいえ、でいがく(大学のことです。田楽ではありません)を出たんだろうから、今のご時世が、経済的状況とかっていうやつからすればてぇへん(大変のことです)なことになってるのは、先刻承知じゃねぇのかい。
 なんてんだい? 「で・ふ・れ」っつうのかい? 要は、無い袖は振れねぇ、っつうことなんじゃねぇのかい? まあ、でいがく出てねぇオレっちにゃこまけぇことはわからねぇがな。つまりだよ、そんなじでぇによ、国民をいじめちゃぁ、まずいんじゃねぇかっと、オレっちはけんげぇえる(考える、ということのようです)んだよな。そんなことを続けたひにゃ、国民を「生かさず、殺さず」どころか、この国のよぉ、経済そのものが回らなくなりゃしめぇかって、しんぺぇ(心配)してるっつうわけよ。
 どうも、見てるとよぉ、昨今のてめぇっちのやってることはよぉ、ケチで了見のせめぇ(狭い)女房衆がよ、だんなの小遣いをとことん渋る図に似ていそうだよ。だんな衆がよ、働くのも嫌気がさすようにまねまでしちゃあ、そいつはてめぇの首を締めることにだってつながりゃしねぇかい。バカなことよ。
 そりゃそうとよ、女房衆の話をしたからついでに言わしてもらうと、女房衆が家計を切り詰めるようによぉ、てめっち(たまごっち、ではありません)の役所の中ではよぉ、どのくれぇ倹約っちゅうもんをやってんだい? この前によぉ、ある先生がよぉこんなこと言ってたぜ。
「財政赤字が危機的状況というが、公務員の給与や経費に相当する政府最終消費支出の対GDP比率は、20年前に13・5%であったが、90年代になって水膨れし、今や17%台に高まっている。政府も民間並みにリストラし、この比率を元に戻せば、増税も低金利の押し付けもなしに、毎年20兆円の赤字削減が出来る。それもせずに放漫財政による足らずまいを国民から収奪するなら、国民はいつまでも寛容ではない。」( asahi.com 2005.06.06 )
 たぶんホントなんだろうけど、こいつぁまずくねぇかい? それこそよぉ、こんなことが続いて行きゃ、「農民」がいなくなって、「二本差し」の連中ばっかの世の中になっちまうじゃねぇか……>

 こうした、庶民のホンネの感情をもっともっとぶちまけていかないと、息苦しくなるのは自分たちはもちろんのこと、後続世代もかわいそうなことになりそうだ。いや、カンのいい若い世代は、万事を先取りしつつ、「ジョーダンじゃねぇや、やってられねぇよ」と、『役人独り勝ちゲーム』から降りてしまったのだろうか…… (2005.06.22)


 開けてビックリ玉手箱、とはまさにこの事だと思えた。
 漸く、業者のスケジュールがまとまり、シロアリ被害と思しき浴室の解体工事が始まった。もとをただせば、外壁塗装に伴う雨樋の取り替えの際の、柱がある場所への釘止めが全然きかないことから始まったのだった。しかも、一頃、浴室内のタイルの目地の割れ目からアリがゾロゾロと侵入していたことがあった。そんなことなどから、これはどうも世間で言うシロアリ被害ではないかということになったのである。
 はじめは、希望的観測もあって、壁を部分的に壊して、柱を挿げ替えることでなんとかなるのではないかと踏んでいた。ただ、その筋の建築業者は、当該の柱以外にも他の柱や梁への被害拡大を懸念していた。
 そこで、この際、現行の浴室全体を「ユニット・バス」に取り替えてしまおうという計画が進行することとなった。シロアリの被害であると、ちょっとした手直しという暫定策では、まさに問題据え置きとなり、後々のことが心配となったのである。まして、浴室というのは、年月が経つと「水」洩れや湿気などで思いの外傷むものであるらしい。
 そんなことで、今日が、解体工事の第一日目となったわけなのである。今日は、現場の傷み方を直接確認すべきだと考え、仕事は自宅で行うことにしていた。

 工事が始まって一時間ほど経った頃、業者のひとりが、居間で待機していた自分を呼んだ。先ずは、当該の柱の様子を確認してくれ、ということだったのだ。ひと目見て、愕然とした。既に、崩れ落ちていた部分を取り出して見せてくれたのだが、そいつは「柱」の原型をとどめてはいなかったのだ。どぶ川に漂流する朽ち果てた流木のような姿であった。そして、良く見ると、アリさんたちが蠢き、せっせと白い粒々の卵の世話をしているではないか。こりゃダメだ、と観念したものだった。
 その後、浴室の内側のタイルや内壁が手際よく壊され、これまでとりあえず何事もないかのように被われていた壁や床のその内側が露呈してきたのである。
 まず、ぐるりと見回してその惨憺たる状態に対して言葉がなかった。被害はシロアリだけではなかったのだ。まさに、浴室ならではの「水と湿気」で、柱、梁と言わず壁内部の桟まで、よくぞ持ち堪えているという風情で腐食していたのである。漸くもらす言葉を見出して、自分は業者に向かって言ったものだった。
「いやぁー、思い切って始めてよかったよ。このままにしておいたら、ちょっと大きな地震でも来たら大変なことだった……」
「まあ、風呂場っていうやつは、年月が経つとこうなるもんですがね」
と、業者は慰めとも合いの手とも聞こえる言葉を返してきた。

 さしあたって、当該の角の崩れ落ちた柱の場所に、新しい柱を固定したところで自分は、書斎に入った。それというのも、書斎は浴室の真上に位置しており、新しい柱が差し入れられないうちは、どんな最悪の事態が訪れないとも限らないからであった。
 今も、足元から、ガァー、バリバリ、ドドー、トントンと多種多様な騒音が聞こえている。まあ、頼もしい音として聞こえないでもない。
 それにしても、今日わたしが感じたことは、「真実は予想以上に酷い!」という衝撃的事実であった。人は、どうしても目に見える表面的事実から楽観的にものを見るようである。あえて、「まさか」というような悲観的な状況を想定しようとはしないものなのであろう。事実に遭遇する前の、勝手な想像にまかされているうちは、どうしても自身に都合のいい楽観視をしてしまうもののようだ。しょうがないと言えばしょうがないことなのかもしれない。
 だから、現時点で確認できる、事の兆候的な小さな事実をしっかりと見つめられる洞察力というものが、やはり貴重なのだと痛感したわけである。まして、何事につけ、昨今のご時世では、表面の見てくれを飾るという風潮があり、これがくせものなのであろう。真実が洞察しにくいところへもってきて、さらに洞察しにくい「表面加工」がされてしまっては、蓋を開けるまで真実は眠り続けるという怖い状態が続くのである。

 自分が、業者に呼ばれて、腐った浴室の実体が一通り目にできる光景を見せられた時、ふいに思ったことは、工事費の膨張という点もなかったわけではないのだが、なぜか、現代という時代の恐ろしさのようなものでもあった。いや、あくまでも連想の話であり、うちの風呂場と現代とが関係しているというのではもちろんない。
 いつか現代という時代が、今、自分が目にしているような、想像を絶するような愕然とした真実を唐突に露呈するように、その真実が隠され続けているのではなかろうか、という戦慄めいたものなのであった。大いにありそうなことだと思えるのだった。
 国家財政の破綻的現実、経済の実勢をも省みず国民への大増税を打ち出そうとしている兆候、政治家たちによるコントロール圏を逸脱してしまっているかのような官僚機構の暴走、右傾化風潮と期を一にする「靖国参拝」への固執……。そして、何よりも真実の動向を直裁に国民に伝える役割りを果たさないどころか、時の政府に迎合して表面を繕い続けているかのようなマス・メディアの現状などは、表面とは似ても似つかぬ立ち腐れの実態を、いつか唐突に曝け出すのではないかという究極の悪い予感を誘うのである。
 予感ついでに言うならば、今、なぜ「軍事裁判」の是非に目を向ける必要があり、戦争責任そのものを相対化する必要があるのだろうか。憲法「改悪」への露払いなのであろうか。また、国連理事国の問題も、今なぜなのか。ひょっとしたら、米国の軍事政策にとっての今後の日本の役割りに関して、こうした一連の目くらまし的なデマゴギーが必要だとでもいうのだろうか。

 いずれにしても、いつまでも、「だいじょぶダァー」なんぞと言って能天気な楽観性で高を括ってはいられないほどに、隠れた空間での立ち腐れ状態は進行しているのかもしれない。自分が思うのは、われわれの「スタンダーズ」は、現実を認識するにはあまりにもズレ切ってしまっているようだということなのである。現に、これもひとつの現実である、「15歳の少年」による両親殺害事件を、一体誰が説明可能であろうか。
 多分、現実が物凄いスピードで「悪化」しているのだと考えるが、それを視野に入れたり、射程に入れたりできないで取り残されていることに問題が尽きるように思う。おそらくそれは、問題含みの現実の生々しさを見て見ぬふりを決め込んできた、マス・メディアが、愚にもつかぬ世界の虚像を描き続けているからだろうと思える。現代人が、マス・メディアが提供する「食材」を「主食」としていることは誰も否定できないからだ…… (2005.06.23)


 今日は真夏の暑さが訪れている。クール・ビズなんていう浮ついた言辞はともかく、まだクーラーを控えているため、ネクタイを外してラフな格好で仕事に臨んでいる。
 こんな中、ネットのニュースを覗いて気にとめたのは、「拉致問題解決へ『北朝鮮に経済制裁を』 家族会座り込み」という記事であった。既に、日焼けしたような顔の横田さんご主人の写真が目に入る。26日までの三日間の「座り込み」だと伝えられているが、ご高齢の横田さんご夫妻が、この暑さの中で身体に支障をきたさないように祈りたい。
 こうして事務所の中にいてさえ、この蒸し暑さはこたえる。それなのに、アスファルト歩道の上、コンクリート壁を背にしてとなるとさぞかしこの暑さを、政府に対して感じる無情さと同様に、心無きものと感じる、いや気品ある横田さんご夫妻は感じずとも、自分は下衆であるから大いに感じてしまう。

 ところで、現代人の袋小路に迷い込んだような不幸が贖(あがな)われるとしたら、それは、自分のことばかり考えていないで他者の不幸せに目を向けることに違いない。他者の痛みが自身とは無縁でないことを想像できるようにならなければ、欺瞞だらけの個人主義と、動物以下の金権主義の地獄から這い出る機会は永遠に来ないというわけだ。
 横田さんご夫妻の悲しみと憤りは、果たして彼らの個人責任なのであろうか。そんなわけはない。では、天災による不運なのであろうか。そんなバカな話もない。これは、明らかに政治が生み出した悲劇以外ではない。そして、他者の苦悩を自身で感じることができなくなってしまった感受性の腐った日本人の見て見ぬフリ体質の結果でもある。
 自分の家族が、「国家の体裁をもなさない」キング・オブ・ヤクザな組織に奪われたなら、国民の自由と生命、財産を守る義務のある国家は、何をさておいても全力を尽くさなければならない。ここには、何の言い訳も成立しない。なぜなら、もしこの点を曖昧にしたならば、国家がどうこうと言う言い草のいっさいが信用するに値しなくなるからである。国民の最低権利を守ることができない国家というものがあるのか、と言われた際に一体どんな回答があるのかということだ。

 今朝のあるTV番組で、現代の親子の絆、なおかつ親の、子に対する姿勢をめぐって、非常にナイーブな内容ながら当を得ているかと思える発言があった。
「父親が子どもに暴力を振るうとするなら、子どもを命懸けで守るという覚悟の有無をも振り返るべきだ……」
といった主旨であっただろうか。何かあった際に子どもを「命懸けで守る」という姿勢が、子に伝わっている場合、無謀な暴力さえ子どもは受け容れる可能性がある、ということであっただろうか。もちろん、暴力礼賛の方向においてではないが、守る際には命懸けでも子を守ろうとする親の責務は強調されて然るべきかと思えたのだ。これは重い課題ではあるが、当然の道理だとも感じた。
 これが、国家と呼ばれる存在にも欲しいのである。愛国心だ、国があっての国民だと「口幅ったい」ことを言う者たちには、ならば国は、国民の生命を真底守ろうとしているのか、窮地に至った国民を何としても救出するという責任性を、能書きではなく行動において徹底しているのか、と問いたいものだ。
 少なくとも、北朝鮮による「拉致問題」においては、何ら進展がない。こう言えば、「核」問題がある以上、刺激すべきではない、という「公式」声明が返ってくることは目に見えている。しかしそうじゃない。核問題の悪化は、小泉訪朝のはるか後のことではないか。なぜ、もっと早期に、国民を「命懸けで守る」と言わぬばかりの基本姿勢が貫けなかったかということなのである。敵(あえてこう言わしてもらいたい。日本の同朋を勝手にさらって、人権無視の処遇をする者たちをどうして敵視してはいけないか)に、完全に足元を見られており、性根が座っていない実態を見透かされているとしか言いようがない。 「靖国問題」で気を吐く総理であれば、そんなところで息巻くよりも、外務関係者を引き連れて平壌に再度出向き、こぞって当地の歩道で「座り込み」を試みてください、とお願いしたいものだ。そんなことで心を動かす(無い心は動かせないかもしれないが)相手ではなかろうが、少なくとも、日本国民の世論が一丸となって「拉致問題」を糾弾することに発展していくであろうし、国際世論が振り向くことが期待できる。「半身」に構え続けている米国とて、そのままでは済ませられなくなるのではないか。
 とにかく、現総理のやっていることは、単に事態をこじらせているに過ぎないように見えて残念である。「靖国問題」にしても、韓国をより北朝鮮寄りに仕向けているに違いないし、韓国から北への支援物資ルートが太くなるならば、「経済制裁」策とて有名無実化するのではないか。やってることが、まさに何をやっているのかわからない。いや、ご本人自身がそう思っておられるのかもしれないが……。

 動物でさえ、子のために親は命を賭して防戦する。慎ましい戦前の国民は、国のためだと信じ込まされて命を献じた。また今、国はテロから国民を守るとの大見得を切っているではないか。なぜ、自国の領土から、国権を侵犯するかたち(=テロ!)で拉致された国民を、無条件で取り戻すことができないのか。言い訳ではないその弱音をじっくりと聞かせてもらいたいものである。どうせ、目の覚めるような深慮遠謀なんぞが現政府サイドから出てくると想像しているものはいないし、目下、お見立て違いのテーマたる郵政民営化問題で大変お忙しくあられるようではあるが…… (2005.06.24)


 十何年ぶりというよりも、何十年ぶりと言った方が妥当なのかもしれない。久しぶりで銭湯に出かけた。自宅の風呂が工事中のためである。無意識に毎日入っていた風呂をもう二日も入らないでいた。しかし、今日の真夏日のような暑さは、さすがに入浴なしでは済まないと思えた。
 建築関係の業者さんたちが引き上げた後、かれこれ八時になっていたであろうか、歩いて20分ほどの距離の見知らぬ銭湯へ、家内と向かった。駐車場がないこともないのであろうが、もしスペースが埋まっていた場合を懸念して徒歩でゆくこととした。家内も手提げ袋をぶら下げていたが、自分も、手拭い・石鹸・剃刀・下着などを押し込んだビニール袋をぶら下げて歩いた。帰りに夕食をとろうということになったので、空腹でまだ暑い歩道をあるくのが、なんとなくかったるい気がしたものだ。
 銭湯から遠のいていたのは、もちろん「内風呂」、この言い方も年代ものであるが、それがあるためではあるが、今ひとつの理由は、今回の銭湯よりも近くに、トロン温泉というラジウム温泉があり手軽に利用できていたためであった。今回ももしそこが「健在」であったなら、「内風呂」が使えない間の埋め合わせとしては当然そこを利用したはずである。が、あいにくとそこは半年以上前に潰れていたのだ。それでしかたなく、比較的近所の銭湯はどこだ、ということになり判明したのが今日出向いた銭湯なのであった。

 いい加減歩いたところで、ようやく「合掌」作りのような銭湯特有の玄関が目に入った。背後には、当然と言えば当然の塔のような煙突を背負っていた。その昔に馴染んだ定番の銭湯光景であった。定番の玄関の引き戸を開けると、これまた定番の下駄箱がわれわれを迎えてくれた。そして、やはり定番の下駄箱木札を取り扱って、おもちゃのバンダイではなく、ボーとしたオヤジなんぞが番をしている番台へと向かった。が、昔風の番台とは趣きが異なっていた。男湯、女湯の境で、両世界が見渡せる番台ではなく、田舎の安ホテルの小さなロビーのような部屋に面してカウンターっぽい番台なのであった。元気そうなおかみさんが受け付け嬢よろしく待ち受けている。大人二人で800円也であった。
「早く出たらここで待てばいいんだ」
と家内がつぶやいていた。そう言えば、名古屋で住んだ当時、「内風呂」がなくて、家族三人で銭湯に通った頃、風呂から出るタイミングで気を遣いあったものだった。幼稚園に通っていた息子がしばしば伝令役を果たしていたものである。
「お母さんもう出たよ」
と、「両世界」の潜り戸を、火照ってテカテカの顔となった伝令が走ったのだ。

 今日の銭湯で、まるで昔に引き戻された実感を何よりも覚えたのは、脱衣前にトイレに入った時であったかもしれない。古い建物のトイレ特有の臭いと、強い香りの防臭剤入り混じった臭いが、過去の銭湯活用時代当時の思い出をにわかに蘇らしたのである。畳一畳のその空間は、なぜだか「昭和」の時代臭をぷんぷんと匂わせているような感じであった。
 思い切って、いや何も思い切ることもなかったのではあるが、今日は「内風呂」工事でしかたなく銭湯へ来たのではなく、タイムスリップして「昭和」にまぎれ込んだのだと思い込むことにしてみよう、と。そう思うと、脇に見えるトイレの窓も、年代もののように見えるし、ドアの握りもメッキがはげかかってチクチクする手応えも、「昭和」だと思えてきた。
 脱衣場は男たちばかりであった。当たり前ではある。いや、子どもの姿が見えないということなのだ。わざわざ銭湯に子どもが来る必要がないということなのだろう。すると、にわかに、じゃあ、いま時銭湯に来る人種というのはどんなものなんだ、という素朴な疑問がわいてくる。まさか、みんなが「内風呂」工事中ということはあるまい、と了見の狭いことを一瞬考えてしまった。では、どんな人種が……。そんな疑問を抱いて周囲をそれとなく観察するものの、大した手掛かりは得られない。みんな裸同然の格好であったため手掛かりがないわけだ。アパート住いのチョンガーであろうか。そう言えば、そんな風にも見える。今風の青年らしき者は見当たらず、若いんだか年配なんだか定かでない「もっさい」ヤツが目立った。

 まあそんなことはどうでもいいかと、カーペットではなく、ニス塗りとはいえ昔ながらの板の間に素足を乗せながらの脱衣を終えた。脱衣箱の鍵は、例のアルミ板のそれではなく、コイン・ロッカーのそれであった。さすがに、あのアルミ板の鍵では、無用心もはなはだしいということなのであろう。昔のように、その鍵つきの輪っかを左足首にあてがい、手拭い片手に手軽に風呂場へと向かう。と、その時、来る際にぶら下げて来たビニール袋に石鹸箱が収まっていたことを思い出したのである。それというのも、風呂上りの者が、片手にシャンプーやら何やらを入れた洗面器を携えていたのが目に入ったからであった。待てよ、石鹸箱を家内が持たせたのは、ことによったら風呂場には石鹸なんぞが備え付けてないのかもしれないぞ、と気づいたのである。ガラス戸越しに風呂場の方を覗いて確かめてみた。やっぱり置いてない。置いてあるのは、客が各自で持ち込んだもののように見えた。そこで、脱衣箱に戻り、持ってきた石鹸を手にすることとなるのである。
 でも、どうであっただろうか、「昭和」時代の銭湯に石鹸は置いてなかっただろうか、あったような気もするし、持ち込んだような気もする。そう言えば、「昭和」も「昭和」、自分が幼かった頃、まだ母親と女湯に入っていた頃、喉が渇いたと言って石鹸箱の蓋をコップがわりにして水を飲んだことを覚えている。とすれば、端から石鹸などは「自己負担」「個人責任」であったということになりそうだ。だが、手拭い一本ぶら下げて銭湯に向かった記憶がないわけでもないし……。

 最近は、「スーパー銭湯」とか称して、やたらに煌びやかになった湯が多いようだが、当銭湯は、昔ながらを地で行く内装であった。あちこちに「昭和」が見え隠れしている。見ようとせずとも目に入る「昭和」は、富士を望む三保の松原風の「壁画看板」であった。若干得体の知れない景色のようでもあったが、まあこんなもんだろうと思えた。ただし、昔はやたらに「広告」があったはずだが、それは見当たらなかった。「広告」メディアとしての価値は沈下してしまったのかもしれない。
 三つ、四つに分かれた湯船は、当時のものと同じであった。ただ、どこで「悪知恵」をつけられたか、湯の中から赤系統、青系統の光が輝いていたのには、「反・昭和」を感じさせられてゲンナリとした。せいぜい噴出す「バブル」どまりであってほしかったのだ。その「バブル」を背にして、湯に浸かると、さすがに二日入浴しなかったからか、じんわり心地良さが込み上げてきたものだった。脱衣場の方に目をやると、TVがかかっていて、巨人・阪神戦がまだ続いていた。この辺は、まるで取ってつけたような「昭和」そのままだなあ、と思えた。
 家内よりも早く上がったため、田舎の安ホテル風ロビーで一服することとなった。傍らに、「明治牛乳」のお店用冷蔵庫が置いてあり、ビン入り牛乳や「コーヒー牛乳」が並んでいた。これも、「昭和」ポイント1を付けてあげようとカウントした。壁には、七夕の笹が短冊付きで添えられており、その脇には、どこの祭のものかわからないが熊手の飾りが、同じく壁に飾られてあった。うーん、こういう季節と伝統尊重の姿勢も「昭和」ポイントとカウントしてあげていい、と暇つぶしに考えたりしていたのだ…… (2005.06.25)


 今日も夏日の暑い一日であった。もうすぐ午後九時になろうとしているが、クーラーをかけた書斎の中は一向に涼しくならない。古いウインドウ型クーラーで、性能が落ちているからなのかもしれないが、クーラーの周辺に多くのモノを置いてしまっているため、新しいものと取り替えるのが面倒でそのまま使っている。
 朝のウォーキングでは、熱射病にならぬよう注意しながら、まさに滝のように汗を流してきた。だが、あいにく浴室工事中のため、汗は水で濡らしたタオルで拭うほかなかった。ウォーキング途中に何度も見かけたのであるが、子どものいる家では、子どもにせがまれてなのか「ビニール・プール」が設えられて、兄弟らしい小さな子たちがはしゃいでいた。家に着いたら、庭の水道で頭から水をかぶりたいという衝動にかられたりしたものだ。が、まあ大人しく濡れタオルで静かに汗を拭くことで我慢することになった。

 ウォーキングでの汗はともかく、それにしてもこのうだるような暑さは何としたことであろうか。気が滅入るような梅雨の長雨もいやなものだが、梅雨入り宣言がなされたかと思ったら、途端に夏日の連続とは、どうなっているのかと首をかしげてしまう。
 もし、これでこのまま梅雨前線が南下したままだと、暑い日々が大幅に増える夏となるのだろうけれど、今度は「水不足」が懸念されるはずである。すでに、各地のダムの水量が減って水没していた部分が露呈したり、川が干上がって鮎たちが緊急避難させられたとのニュースが伝えられているほどだ。
 夏の暑さといえば、今でこそどこの家にもクーラーが備え付けられているものの、ひと昔前にはもっぱら扇風機の世話になったものである。そして、今日のようないわゆる夏日ともなると、扇風機の威力ははなはだ低下したとの覚えがある。熱い空気を浴びたところで、何ともならなかったわけだ。
 そうした中で、受験勉強などをしなければならないハメにある者は辛い思いをしたものである。遊んだり、スポーツをしたりする分には、天候の暑さもしのげるものだろうが、精神を集中させて頭を使う勉強をするとなると、ジワジワと汗が噴出す暑さというのは大きな妨げとなる。集中力というのは、どうも暑さを「天敵」としているような気がする。沖縄へ何度か足を運んだ際、こうした破天荒な暑さでは、さぞかし頭脳労働に携わる者たちは辛かろうと思ったりしたものだった。と、ともに、南方に居住する人たちが、どちらかといえば「楽観的」な気質の人が多いと思えたのも、そんな事情と無関係ではないのかもしれないと考えたりも……。
 相変わらず、街のあちこちで学習塾の看板が目につくのであるが、今は、「夏期講習受付中!」という広告が張り出されている。
 そんなものを見ると、子どもたちも夏休みを楽しみにしていながら、そんなところへ通わされるのかと思うとかわいそうに、と思わされたりする。ただ、教え方のうまい、下手はどうだか知らないが、いま時の学習塾ではエアー・コンディショニングはきっと完璧であるはずだろう。そして、みんなもやっている、という牽制的空気と相まってそこそこ無難に勉強がはかどるのかもしれない。
 こんなことを言うのも、かつて大学受験を控えた夏休みに、わざわざ「夏期講習」なんぞに行くよりも独りでがんばればいいさ、と高を括り、猛暑と自堕落さに足を取られ完敗してしまった経験があるからかもしれない。
 しかし、「学習塾」や「夏期講習」というのも決して小さな経済的負担で済むものではないはずである。自宅にクーラーもなく、もとよりそれらに通う経済的ゆとりもない家庭の子どもたちは、結構大きなハンディをつけられてしまうのが、無情な夏の暑さなのかもしれない。「デジタル・デバイド」という言葉があるが、猛暑により貧困家庭の子たちの学力が振るわなくなる事実が仮にあるとすれば、それは「ヒート・デバイド」とでも言われるのであろうか。
 ただし、快適な環境で、機械的に受験知識を吸収した子どもたちが、生涯を豊かに生きられるのかどうかは、まったく別問題であることにも注意を向けておくべきなのかもしれない。劣悪な環境をものともしないタフネスさや、思い通りに事が運ばれない事態に対して冷静でいられることなど、トレランス(tolerance、耐性)というマスターするにはやっかいな能力がこれからはますます必須となりそうだと予感するからである…… (2005.06.26)


 度外れた「利己的」行動は何によって「抑制」されるのか、というテーマが頭の中を浮遊している。残念ながら、もはや道徳的機能は落ちるところまで落ちてしまった観があり、これを嘆いたり、この機能を再構築しようとすることは、かなりのムリがありそうな気配である。
 しかし、それではあまりにも人間社会に未来がなさ過ぎる。が、多くの人々は、巨大なうねりがこうした「利己的」行動を促していることを実感的に認識しているに違いない。そして、人々のその認識がさらにこのうねりを活性化させているというのも実情なのかもしれない。
 その「利己的」行動は、現在、「市場主義」という美名のもとに、まるで「解放軍」のような持てはやされ方をしている。そんなわけがないだろう、とは気づこうとはしない。

 今朝の報道でも、「全能」だと見なされる「市場主義」が、もし「全能」だとするならば、「殿、ご乱心!」とも言うべき事態を招いていることが報じられていた。
 「NY原油、一時60.47ドル 最高値更新」がそれであり、その結果の、「原油高で大幅下落、東証株価」(いずれも、asahi.com 2005.06.27 より)と続くニュースである。
 原油問題は、イラク問題によって生産量が懸念された事実はあったにせよ、それが「言い訳」となった投機的現象のごとく見えてならない。もう一年以上も前から、その種の機関投資家たちの活発な動きがあったことは周知の事実である。いわゆる世界的な「カネ余り」状況への「最適解答」と言わぬばかりの暴挙であった。
 この原油高値が、米経済の足を引っ張ることは誰もが知っている。だから、「東証株価」が「大幅下落」という結果になるわけだ。株価もさることながら、現代人の足となり切ってしまったクルマであるだけに、その給油代負担の増加は、まるで税や年金負担と同様の「公的負担」にも似る固定費増として庶民に打撃を与えているに違いないのだ。
 イラクやサウジアラビアなどの産油国の供給状況も問題なしという状況でないことはわかるが、投機的「買い」による世界的な原油高状況が生じてしまうと、産油国とて、「便乗的」行動を拒否して価格正常化への努力をすることは、「辛い選択」となってしまうに違いない。たとえ、「高止まり」状況が米国経済、ひいては世界経済に大きな悪影響を及ぼそうと、「高止まり」状況の持続というのが、見苦しい実態となりそうである。つまり、「投機」は、自身の足元さえ崩すかもしれない「一人勝ち」に至る可能性があるわけだ。

 こうした推移があるだけに、原油への「投機」なぞを「利己的」行動と裁断したいのである。と言っても、こうした「投機」的行動は、現在の世界経済が「市場主義」原理を採用しているのだから、いわば「優等生」的行動なのであり、表立って咎めることはできないことになっている。「ライブドア」の「時間外取引」云々の問題と変わらないわけだ。 自分も、いまさら道徳的地平に立っての糾弾をするつもりなんぞはない。それはほとんど無意味に等しいからであるし、そんなに自分も清くはないからでもある。
 だからこそ、その「利己的」行動に歯止めをかけたり、「抑制」させたりするものを早急に見出さなければならないような気がしてならないわけなのである。つまり、「利己的」動機そのものが、「利己的」行動を「抑止」するような、そんなロジックだけが、リアルな「見えざる神の手」ということになるのだろうと思うわけだ。
 このケースのような「投機」において、そうした「見えざる神の手」の「抑止」効果があるとするならば、それは、コンピュータを最大限に駆使して先を見通したつもりの「投機」筋が、事態のコントロール不能に陥るという大失敗の経験ということになるのであろうか。(1997年、東アジアの通貨危機を生み出した投機家:ジョージ・ソロスの大失敗!)
 ただ、周辺への大被害を伴う、まるで戦争のような事態を迎えてしまってから、「抑止」効果がどうこうと言っても虚し過ぎる。何らかのかたちでの「未然抑止」がなされるような機構こそが、道徳発ではなく、もはや後戻りができなくなってしまっている「利己的」動機そのものに根ざしたかたちで考案されるべきなのであろう。

 未来がなさ過ぎる、現時点の人間社会に、もし未来が期待できるとするならば、現代人が最も根強くしてしまっている「利己的」行動様式がそのまま、「利他的」行動を発生させざるを得ない社会システムを何らかのかたちで創り出す以外にはないのかもしれない。 それをある人たちは、「囚人のジレンマ」や「反復ゲームの理論」(ゲームが反復して行なわれる場合、利己的行動は「協力的行動」を生み出す可能性が出てくる。わかりやすく言えば、「談合」的行動の発生であろうか)を例にとりながら考えているようである。(佐和隆光・浅田彰『富める貧者の国』ダイヤモンド社、2001.02.08 )
 とにかく、何を根拠にしてか、「市場主義」経済は万能である、というような、まるで「尊皇攘夷」論と同程度に荒っぽい議論の地平は、五、六段、隆起した丘になって行かなければ話にならないのであろう…… (2005.06.27)


 きっと今でもそうなのだろうが、一頃よく言われた事実に次のようなことがある。生半可な知識を持つがゆえに逆に積極的行動をにぶらせる、というようなことである。特に青少年に見受けられることが多いとかいうようなことであったかと思う。
 たとえば、これこれこうしたジャンルに向かって努力してみてはどうか、と言えば、そこはすでにかくかくしかじかの既成勢力がはばを利かせていて、うまくは行かないはずだ、だからそんなムダなことはしたくない、とくるのである。
 そう言えば、そんな傾向は、何も青少年に限ったことではなさそうでもある。企業内で、企画会議なぞをやっていて、誰かがアイディアを出した際に、そこにはこれこれこうした難問が控えているため云々と、すぐにそのアイディアを潰しにかかる者がいたりするのは、多くの人が経験しているかもしれない。

 事に臨むに当たって、「批判意識」を持って吟味をする姿勢は決して悪いものではなかろう。「当たって砕けろ」、「案ずるより産むが易し」で行動を律するだけではいかにも「非」現代的だと言われそうである。事に臨む前に、十分な情報入手とその吟味作業があって然るべきだと思われる。
 しかし、意外と落とし穴になりがちなのが、知識・情報が、行動や挑戦意欲そのものを萎えさせてしまうという本末転倒なのである。本来、それらは首尾よく行動なり、挑戦なりを叶えさせる材料であるべきところだが、逆に前向きな行動をスポイルする機能を果たしてしまっている場合があることになる。
 情報化時代というのは、一方で、ある種の情報の伝播によって多くの人々を刺激して大動員などを作り上げたりすると同時に、その逆に、行動を踏みとどまらせてしまう作用も果たしていると思われる。そんな両面があることは、ことさら注目するほどのこともない当たり前のことであるのかもしれない。
 ただ、必ずしもそうとばかりは言えない事情もありそうである。

 昔から言われていることで、「知らないからこそ立ち向かえる」、という言い得て妙な表現があるわけだが、この種の「メリット」が、何もかも情報として知らせてしまうかのような情報化時代には潰されてしまっているかのように見えるのである。
 「知らないからこそ立ち向かえる」という事情の最たる好例は、人の人生だということになるはずである。そんなことはあり得ないわけではあるけれど、将来の事が何もかも分かってしまっている人生ほど、やる気が失せるものはないはずであろう。
 しかし、情報化時代における経済や社会というものは、コンピュータ技術を駆使することによって近未来制御を達成したかに観測されるし、実際はそうではないにしても公式的触込みにおいては、将来の予測可能性がかなりの程度自負されているようである。少なくとも、予測情報発信源からマス・メディアで加工された情報が一般向けに伝えられたりすると、予測情報は一人歩きをし始めて、未来はまるで予測情報どおりに展開していくかのような動きを示したりする事実はあながち否定できない。
 真偽のほどは別としても、コンピュータ技術などを駆使することによって未来が予測できるとする発想が広まったことで、「知らないからこそ立ち向かえる」という「半面の真理」さえもが「棄却」されてしまうことが、この情報化時代の副産物だと考えられるわけであろう。

 「植物人間」化してしまった患者さんの奇跡的回復、経営がかなり悪化した企業の土壇場勝負的な踏ん張り、若気の至りで道を誤り、やがて正気に返って人生を取り戻そうと努める者の将来……、こうした人間的「未知数」というものが、容赦なく「四捨五入」で切り捨てられて行きがちなのが、この時代のひとつの現実なのであろうか。
 「フリーター」や「ニート」の増加の背景には、「知らないからこそ立ち向かえる」環境というものが、時代と社会からますます縮小している現実が横たわっているのであろうか…… (2005.06.28)


 古い「モノ」には、愛着が残っているものだ。まして、それなりの歳となると、昨今の新しい「モノ」に対してはどこか疎遠さを感じてしまうことも原因となって、自身とともに歳月を重ねてきた古い「モノ」に、愛おしさを禁じ得ない。
 昨日、気に入って使ってきた古い腕時計を修理に出そうと試みた。リュウズが破損していたのだ。店員は、首を傾げながら、
「メーカーに出すことになり、一ヶ月くらいはかかるかもしれませんが……」
と言った。思わず、『ウッソー』という気分に支配されてしまった。
「問い合せてみないと分かりませんが、この手のものだと数千円はかかるかもしれませんね。それに、部品があるかどうかも……」
 店員がメーカーに電話をしているのを、待ちながら聞いていると、その腕時計は結構古いモノであるらしい。自分は気に入っているという観点で勝手に評価していたから、製造年月など気にもしていなかったが、客観的に見ればそういうことになるらしい。
 電話での話では、店員自身もまた、先方のメーカー担当者も、そんなものの修理という事態に当惑している気配が濃厚であるように思えた。そこで、電話応対が終わらないうちに、心の中では、『その時計は諦めることにしよう。修理の倍ちょっとでもまともな腕時計が手に入る時代だからな……』と思っていた。そして、店員がショーケースの場所に戻ってきた時、わたしは言った。
「その修理はもういいことにしますよ。で、この際、安いのをひとつ買うことにする」
と。それで、ショーケースを覗き込んで、修理費の三倍ほどの価格のもので、まずまず使えそうなモノを買うことにしたのだった。気に入っていたその時計は、実用品としての位置から、記念品としてのステイタスに配置転換されることとなったわけである。

 それにしても、現在は、新しい「モノ」の価格が下がり、逆に古い「モノ」の修理代が思いのほか高くつくようになってしまったのである。腑に落ちないといえば腑に落ちない時代環境である。
 自分はどちらかと言えば、素性の良い「モノ」をその都度修理して永く使うことが好きな方だ。故障したり、破損したりした箇所が修理され、その部分だけが「修理したんだかんな!」と言わぬばかりに、目立って光るような光景が好きなのである。丸ごと全体が新しくなっている姿よりも、大半の部品が古い環境に一部分だけ何が原因であったかは別としてまるでリリーフ投手が登板されるように新しい部品が投入される光景が、何となく好きなのである。モノがシステムとして動いているというリアリティが感じられるからなのかもしれないし、あるいは、かつて、壊れたモノが直ってきた時の喜びの記憶が強烈であった名残なのかはわからない。

 今日、かつてパソコン・ショップもやっていた当時のお客さんが、PCの故障について相談に乗ってほしいと来社された。もう十年になろうという昔のお客さんであった。停年退職をして時間にゆとりができてしまったため、PC三昧の生活をしているそうだが、突然PCの不調に襲われたというのであった。
 じゃあ、とにかく様子を診てみましょう、ということになり、事務所内のテーブル上でPC環境を立ち上げることとなった。結局、PC内の電源ボックスという変圧器が寿命となっていることが判明した。もとより、商売っ気を出した対応はすまいと思っていたので、社内に中古の電源ボックスが転がっていたならそれを流用してあげようと思っていた。何せ、停年退職の身だと宣言されていたのだから、ことさら負担を強いることはしたくなかったのである。が、あいにくと中古の手頃なものがなく、買い置きのものしかなかった。で、どうしようかと一瞬躊躇したが、
「△△さん、電源ボックスの交換を含み、修理全体で三千円ということでどうでしょうかね」
と、大サービスの提案を切り出すことにした。
「はい、そうであれば是非お願いします」
と、その方は喜んで応じてこられた。
 パソコン・ショップを商売として継続していたのであれば、倍以上の修理費としなければならないところであったが、今はショップも過去の話となったし、お年寄の趣味ということもあり、原価割れ覚悟の対応をさせていただくことにしたのであった。
 古いPCが、まったく死んだようになったにもかかわらず、修理されることにより、蘇ったということを大いに喜んでもらえれば、これはこれでいい、と思えたのだった…… (2005.06.29)


 一言で言えば、「有効な知識・情報とは何か」ということにでもなるのだろうか。
 知識・情報が溢れているという環境が基盤にあることは言うまでもない。しかし、憂ふべきことは、それに尽きるわけではない。イージーに入手したそれらを見境もなく垂れ流して、そうすることで自分の意見を述べているかのような錯覚している人たちが少なくない事情も、結構、罪作りというか、無責任であるという気がしている。
 何がどうという個別の具体的な事例におさまり切らず、現代の一般的風潮が多分にそうした傾向に汚染されているように見える。かく言う自分自身も、その例にもれないのではないかと振り返らなければならないほどだ。

 しばしば「評論家的」な言動が良くないというような会話を耳にする。確かに、そうした言動の人が増えたように思われる。しかも、そうした者に限って、自身の経験に根ざした知識を口にするのではなく、マス・メディアなどからちょいと聞きかじった知識・情報を、ただ単に「運んでいる」に過ぎなかったりするのだから恐れ入る。
 もとより、知識・情報とは、それらが活きる文脈であるとか、前提条件とか、環境とかと一体となって当然のものではないかと思う。つまり、知識・情報の価値とは、無前提でオールマイティで決まるものではなく、ベスト・フィットする状況というものがあるわけであり、もし、本当に当を得た人ならば、マス・メディアが垂れ流す知識・情報をとりあえず「一般論」として括り、自身の固有な考え方や感じ方としっかりと練り合わせるものだろうし、それらの活用に当たっても、個別の適用対象との対応関係を吟味するものであろう。犬も歩けば棒に当たる、式に、マス・メディア垂れ流し知識・情報を右から左へと吐き捨てるように口にすることを慎むのではなかろうか。
 しかし、現実はそうではない。マス・メディアによって、安普請ででっち上げられた知識・情報を、人々はまるでエコーのように、オウムのように反復しているに過ぎないのではなかろうか。咀嚼したり吟味したり、というようなやっかいなことは一切しないかのようだ。とにかく、人前で「らしき」ことが口にできればいいという感じすらする。まるで、何かの祝儀の場での挨拶文句を、その種の市販本からコピーして済ますイージーさそのものであるかのようだ。

 どうしてこんなことを書いているかというと、次のような思いがあるからだ。
 自分は常々、仕事をはじめとして物事が達成されることは思いのほか大変なことだと実感している。まして、集団なり組織なりという複数の人間たちが、提供できる自分が持つ資源(技量なり、パワーなり)を持ち寄って、何らかの目的を達成するということはますます大変なことになっていると実感している。大げさに言えば、「プロジェクト」と呼ばれるものなどがそれであるが、そこまで行かなくとも、日常的場面にもそれに類する困難さを伴った共同作業というものは枚挙にいとまがないほどありそうだ。
 これらは、一頃に比べると概して難易度を高めているのではなかろうか。個というものを押し殺して献身的に努めることが、何の疑いもなく受け容れられていた時代とは異なっているからかもしれない。それぞれが、それぞれの立場で自己主張することが当然のこととして考えられているはずである。それはそれでいい。しかし、そのままでは「予定調和」的に事が運ばれるはずがないことを、どれだけの人が、どの程度の覚悟を持って想像しているのであろうか。そこが疑問なのである。
 おそらくは、仮にも責任者であるとか、リーダーとか、あるいは束ね役とかを経験したことがなく、もっぱら指示を仰ぎながら参加してきた人たちには、そんなことを想像すること自体が困難なのかもしれない。いろんな「意見」は言った方が「貢献的」だとただただ信じているのかもしれない。現代にあっては、「民主主義」という「錦の御旗」があることにより、皆がそれぞれ思うことを率直に述べるのが大歓迎されているわけである。それでも上手くゆかなければ、「多数決」という仕掛けまで用意されてもいる。

 しかし、いい加減、「観念的」民主主義の呪縛からは自由になるべきなのではなかろうか。いや、誤解を招くといけないので補足するならば、「民主主義」がいけないのではなくて、このシステムが万能だと寄り掛かり過ぎることを考えたいのである。まして、欧米に比べて「民主主義」にも「個人主義」にも浅い歴史しかないこの国では、「民主主義」というものが、その「形式」に対して過剰な期待が寄せられてしまっているかのように感ぜずにはいられない。もともと、「民主主義」が最大限に有効なシステムとして機能するためには、制度やシステム骨格以外に、人々が背負わなければならないこと、というものがしっかりありそうだと思えてならないのである。
 そのひとつが、「発言することの当然の重み」を自覚することであり、もうひとつは、「個人」であるとともに、集団なり組織なりのその時々の目的をしっかりと認識することだろうと思う。急いで言葉を足すならば、これは過去の「全体主義」へと接近することなんぞでは決してないはずである。
 それと言うのも、この国の現在の状況は、上は国政レベルから卑近な日常生活まで、「お客様的個人主義」(劇場型個人主義と言ってもいい)が蔓延して、もはや二進も三進もいかなくなっているかに見えるからだ。片や観劇する側にしても、片やパフォーマンスする側にしても、「その場だけ」という姿勢に終始しているかに見えてならない。たまたま今は、都議選の選挙活動もあり、「その場だけ」パフォーマンスがあちこちで見受けられもする。要は、軽い言葉が乱舞して、重要な課題が一向に前へ進まず空転するという光景なのである。
 黴の生えたような古い言葉であるが、「有言実行」、言葉や発言の重みを取り返すこと、この点から離れてしまえばしまうほど、情報化時代はウソと無責任とを増幅させるだけの時代に成り果てていくように思われる…… (2005.06.30)