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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2005年03月の日誌 ‥‥‥‥

2005/03/01/ (火)  この時代風潮は、あまりにも「セクシー」なものとは言えない!
2005/03/02/ (水)  過去のいっさいを手本とはしない?!
2005/03/03/ (木)  魔が差すように怠け心が生まれるとろくなことはない!
2005/03/04/ (金)  顧客との間で「温度差」を作らないのが仕事師の定石!
2005/03/05/ (土)  「可愛げのない」オヤジたち……
2005/03/06/ (日)  神経質そうで、実はマイペースの生き方をしているものたち?!
2005/03/07/ (月)  人々が「悪」を見逃してしまうにはそれなりの理由があるのかも……
2005/03/08/ (火)  貴重な税金を、ムダなものにぶっ込まないでくださいね!
2005/03/09/ (水)  「イノベーター」のジレンマ、「毅然さ」と「寛容さ」!
2005/03/10/ (木)  「子どもよりも仕事の成果の方がかわいい気がするね」!
2005/03/11/ (金)  放り出される「世代」がひょっとしたら、「砂山」を崩すかも……?
2005/03/12/ (土)  年配自営業者は、条件さえ合えば屋根の上でもがんばるさ……
2005/03/13/ (日)  なんとか良い「仲人」役が果たせたら……
2005/03/14/ (月)  <カタチ>の変化を過剰に増幅するツール類の蔓延と「盲点」!
2005/03/15/ (火)  「学歴(資格)」偏重社会は終わったのか?
2005/03/16/ (水)  箱根の富士と箱根の湯……
2005/03/17/ (木)  「お台場」や「つわガキ」どもが夢の跡……
2005/03/18/ (金)  「真に受ける」人々と「真に受けさせよう」と奔走する人々!
2005/03/19/ (土)  「もったいない」という言葉が飛び交う時代とはどんな時代か?
2005/03/20/ (日)  就寝前に頭脳を緊張させるのは、あまり健康的ではなさそうだ……
2005/03/21/ (月)  愚者の後知恵、先に立たず。あちらを立てれば、こちらが立たず……
2005/03/22/ (火)  「筋違い」になってみて、「筋違い」なアクションについて考える?
2005/03/23/ (水)  犬を愛する者は、人間が知るべきことを知っている?!
2005/03/24/ (木)  相手を失意と無念さに追い込んで支配権を獲得する勝利者の責務!
2005/03/25/ (金)  永久凍土から掘り出された「マンモス」は何を見ているのか?
2005/03/26/ (土)  その闘いに向けて、ウォーミング・アップが始まった?!
2005/03/27/ (日)  華やかで見栄えのするアクションと、労多くして地味な作業……
2005/03/28/ (月)  「損をするたち」なんてものがあるものか!
2005/03/29/ (火)  『パーキンソンの法則』の視点から「官」の問題が覗ける!
2005/03/30/ (水)  「コミュニケーションが“課題”として人々の前に姿を現し始めた、そんな時代」
2005/03/31/ (木)  どうして「完璧」志向が「鬱」的症状に結びついてゆくのか?






 最近では、何か買い物をする際に「ネット」情報を検索して参照することが増えたはずである。いわゆる「インターネット通販」ということになろうか。
 私自身の「インターネット通販」といえば、書籍購入が中心であり、「amazon」を頻繁に活用している。本来ならば、近隣の書店、レジでひまそうに猫の背をなでて暇をつぶしている店主なんぞがいる店で、そのオヤジから、
「へぇー、お客さん、最近はこうした本が面白いんですか……」
なんぞと軽口を叩かれながら買いたいものではある。
 だが、書籍の価格はどこでも同じであることと、近隣の書店を探し回ってもその本がない場合の徒労感がいやで、ネットを利用することになる。送料がもったいないわけだが、購入が一定金額以上の場合には送料無料のサービスがつくため、その金額以上の買い物となるように調整している。
 あと、「インターネット通販」で購入するモノといえば、エレクトロニクス関連の製品であろうか。これは、「どこで買っても価格は同じ」という観点とは逆に、最も安い価格をつけているショップを「検索」するのである。「どこで買っても同じ」なのは、製品自体なのであり、だから問うべきは「価格」という結論になってしまうわけである。
 手数を省こうとすれば、「代引支払」という支払方法をとってしまうわけで、その分「手数料」が七、八百円かかり、おまけに送料もばかにならないため、その製品がよほど割安でなければ合わないことになる。それでも、十分に引き合うケースがままあるのが実情かもしれない。

 この同一製品に関する販売価格が「検索」されるというシステムは、その「検索」システムを活用する側は便利でありがたいわけだが、ショップや小売店側では、この上なく「厳しい仕組」だろうと思う。実際、かつてPCショップをやっていた時、まだ「インターネット通販」はさほど熟してはいなかったが、それとほぼ同等の機能を果たしていた「秋葉原価格」というものがあったため、その対応に歯軋りしたものであった。来店客は、マニアが多かったこともあり、「秋葉原価格」は周知の前提となりやすかったのである。
 だから、この店での価格は、これこれこういう理由、根拠があってのことなのだという部分をアピールする必要があったと言える。それは、顧客の相談にのれる製品知識に関するプラスアルファであったり、初期不良の防止策であったり、秋葉原に行っても「品薄状態」で足を棒にしなければならないようなパーツをとり揃えたり……と。
 つまり、「価格外サービス」にどう説得力を持たせるのか、という観点の問題であったわけだ。それともうひとつ、わたしが考えていたことは、「秋葉原」がこうした仁義無き低価格化競争をこぞって続けていたら、きっとその存立基盤自体を食い潰してしまい、破綻するに違いない、という予想でもあった。
 次第にインターネットでの価格情報が多数のマニアの目をとらえるようになって行った時期であったから、その各店の競争ぶりは過激さの上に壮絶さまで加わって行った様相を呈したのである。で、結局は、「秋葉原」PCショップの多くは壊滅的な打撃を蒙ることとなったようである。

 今、こうした、インターネットにおける価格情報が、消費者にとって重要な参考材料となる環境や時代を考える時、一方で、消費者としてのありがたさを感じるとともに、こうした時代そのものの何か「恐ろしさ」とでもいうものを禁じえないのだ。何を今さらそんな当たり前の時流に驚いているのかと、いぶかしく思われそうだとも思う。
 その前に、これと関連した別の話題について言えば、インターネットではなく、TV番組なのだが、視聴者参加番組で、その参加者が持ち込んだ骨董品などを、「鑑定団」と称されたその道の専門家が、価値を鑑定するという話なのである。
 日曜日の午後という時間帯もあり、わたしも気を許してついつい見て、楽しんでしまう。が、ふと考えたことがあった。この番組のお陰というか影響で、全国の骨董品らしきものは、その筋の者たちやTVを見た人たちによってことごとく手をつけられてしまう状況になっているのではなかろうか、ということなのである。いわゆる、「掘り出し物」というような偶発的ハッピーなどは消滅させられてしまったのではなかろうか、金銭的価値なぞに揺らがずに人々の鑑賞眼を楽しませてきたモノまでが、市場経済に引きずり降ろされてはいないか……、というような思いを抱いたのである。

 マス・メディアやインターネットによる、「価格情報」という代物(しろもの)は、何よりも早く、何よりも勢い良く伝播するものであろう。まさに、スーパーマンのごとく、「弾よりも速く、力は機関車よりも強く、高いビルもひとっ飛び」「鳥だ! 飛行機だ!」「いいえ、<価格情報>です!」といった按配なのではなかろうか。
 何が言いたいのかというと、こうした「安値価格情報」が超スピードで飛び交う事態こそが、この時代の最大の特徴ではないか、そして、結果的にはそのことによってすべての存在がマネーの額という数値に置換えられてしまい、その数値群がこの世のすべてであるかのような幻想が蔓延すること、これがこの時代の「輝かしい」特徴なのであろう。
 この時流は、とにかく「爆発的な」説得力を持つ。わたしだって十分に巻き込まれている。得をした気分にもなっている。しかし、これらの動向は、<何の犠牲もなし>に進展しているわけではないことにも注意を払う必要があるのかもしれない。ただし、この部分についての説得力は、残念ながらきわめて薄弱なのが実情ではある。要するに、インターネット・サイトの実情は、得をするための「安値価格情報」とそれに類するものが八割、九割だといってもよさそうである。そして、ものを考えるための素材を提供するようなサイトは少なく、またアクセス数も少ないのかもしれない。

 <何の犠牲もなし>にの犠牲の、その中味を書くべきであるが、今日のところは「取り逃がす」こととする。ただ、先日経験した「ウヒャー」という事実だけを書いておきたい。わたしのネット通販に関する「検索」では、どう力んでも「6,300円」(定価は確か8,200円)プラス送料などが1,500円ほどで、合計7,800円となるモノがあったと了解してください。ところが、近隣の何でもない小売店で、わたしは5,250円でそれを購入することができたのである。金銭的にも、実にこうしたケースもあるということなのである。強引に値切った結果ではなかったのだ。ダメ元と思い、そこの店主に、ネットでの実売価格の話などを腹を割って話してこの製品が自分にとっては貴重なモノだとも話したのである。そうしたら、その店主は、いついつに卸し業者が来るので交渉してみると応え、そして上記のような価格が可能だと言ってくれたのである。
 わたしが言いたいのは、何といえばいいか、値切れば安くなるということではなく(いや、それも無くはない。わたしは、値切る交渉を必ずといっていいほどするし、その前にそれができるような関係の店で買うことをモットーとしている)、モノを買うという行為も、「全人的」な行為なのかもしれない、という気がしているのである。アフター・ケアの問題もあれば、副次的情報収集の点もあるし、その行為は、条件が許せば単に商品とカネとの交換という法的一事だけではないと解釈したいのである。
 この点が、「カネさえ払えば……」という時流によって陰が薄くさせられてしまったところであり、かと言ってむきになって主張するには説得力が伴いにくい点でもあるわけなのである。しかし、法的売買契約さえ成立するならば、そのスタイルは任意だと言い切る時代風潮というものは、あまりにも「セクシー」な社会の風潮だとは言えないような気がする…… (2005.03.01)


 「その種の眼で見る」からなのかもしれないが、余裕のある企業というものは、顧客対応においても、何となく余裕を感じさせるようなところがある。
 先日、国内最大手のクルマメーカーのディーラーへ行く機会があった。クルマの修理見積りに関して出向いたのだが、建物の脇にクルマを着け、近辺にいた女性従業員にその旨を告げると、何とも過不足のない対応が返ってきた。早速、点検のためにクルマを工場内へ運び込み、わたし自身は待合フロアーと案内され、やがてコーヒーまで出された。
 担当の整備士が、テーブルに近づいてきて、何と、まるでナイトクラブの女性スタッフのようにひざまずくような姿勢でクルマの症状の聞き取りを始めたのである。久しくナイトクラブなんぞには顔を出していないので、今なおそんなスタイルがとられているのかどうかは知らないが、そうした、顧客に優越感を感じさせる作法というものをこんなビジネスの場で活用しているとはちょっとした驚きであった。
 また、言葉使いなども整備士としては実に上々である。わたしは、さすが増収増益で、海外市場でも明るいことだらけの「T」社だから、こういう従業員教育もしっかりと徹底できるのかなあ、と感じ入ったものだった。
 そこで、整備士たちが担当案件が終了するたびに伝票処理をするためにやってくるオフィスの一角が良く見えるテーブルに席を取り、待っている間しばしその一連の動きを眺めることにした。誰もがムダのないスピィーディな行動である。どんな職場でもよく見かけがちな「じゃれ合う」ようなしぐさなどは、まず見受けられなかった。

 いくつかのことを感じ、思ったものである。
 まず、最近至るところで見かける何とはなしに暗く、そして無気力な職場の雰囲気とはなぜこうも違うのだろうか、という点であった。「その種の眼で見る」からなのかもしれないとは思うが、明るい展望を持っているかに見える企業は、企業側も従業員側も「近未来への安定感」が現時点の前向きなスタンスを押し上げているかのようである。
 いつぞやも、郊外に出店したばかりの大型ホームセンターを覗いた時、パート従業員をも含めたスタッフたちが、一様に明るく気力満々のような印象をうけたものである。近隣の小売店舗や、いつ出向いても客よりもスタッフの数の方が多いといった家電ショップとは対照的であったかと思う。
 経営が困難となってくると、企業側も「貧すれば鈍す」のたとえどおり、やたらに目に見える数字ばかりを追っ駆けがちとなるのだろう。そして、そのピリピリとした空気の中で、スタッフたちは安心感が損なわれ、モラールが低下の一途をたどってしまうのかもしれない。表情は暗くなり、行動は機敏さが失われ、連携は乱れ、端的に言ってプロとは思えないような顧客対応ばかりが眼につく事態となる。どうせ、がんばったって事態が変わるとは思えない、というような敗戦気分がみなぎり始めているかのようだ。つまり、悪循環やマイナス・スパイラルが確実に起動し始めていることになる。

 こうした空気になってしまうと、スタッフ教育ということもなかなか難しくもなるはずである。かえって、「締め付け」の強化という印象ばかりを増幅させてしまい、功を奏さないことにもなりかねない。
 ここで思うのは、やはり「勝ち戦(いくさ)」を体感してもらう何らかのビジョンなり、ポリシーなりが無くてはならないということかもしれない。前記の「優良企業」のスタッフたちは、確かにものわかりいい人材たちなのではあろうが、彼らがもっともわかっていることは、自分たちが「勝ち戦」に参戦しているという点であるに違いないのである。自分の努力なり、配慮のすべてが、企業の安定とともにほぼ確実に報われるという予感が、限りなく前向きな姿勢を鼓舞しているはずである。

 しかし、現状のマクロな経済状況を見るならば、「安定した近未来」を持つと見える企業なぞは一握りの量でしか過ぎない。大半の企業が、現状維持でさえ悲鳴をあげる事態だと観測できる。多くの小規模、零細規模の企業が、現実を反映してしまう悲観的気分をどう払拭するのかでリキんでいるに違いない。それはあたかも、「無」から「有」を生み出すほどの大変さであるのかもしれない。
 ただ、翻って観察してみるならば、恐らくはこの試練は小規模、零細規模の企業だけが直面しているのではなく、すべての企業が例外なくこの事態に向き合っているはずだと言うべきなのかもしれぬ。むしろ、この試練からは逃れていると錯覚している企業こそが、早期に本当の「無」へと移行していくことになるのかもしれない。
 残念ながら、「決め手」は「……である!」と軽々に決めつけたり思い込んだりするには、あまりにも状況は不透明である。もし確からしいことがあるとすれば、「過去のいっさいを手本とはしない」ということにでもなるのだろうか…… (2005.03.02)


 今日は慌てて帰宅することとなった。
 明日あたりから大雪になるという予報は聞いていたが、仕事に忙殺されてそのことをすっかり忘れていた。ネットでのニュースを見ていて、そうだそうだと思い出したのである。今夜は早めに帰って、いつもの通りクルマのタイヤチェーンを付けなければならないと考えていたのである。ニュースによると、今回の積雪量はかなり多い模様である。ちなみに神奈川県の積雪予報は30センチだとかである。そうなるとタイヤチェーンなしでは身動きがとれないはずだ。それにしても今年の冬は雪が多く、タイヤチェーンの取り付け、取り外しで大忙しである。
 急いでの帰宅途中、ふと手抜きの発想が生まれ、多少の手数料を払ってもガソリンスタンドでタイヤチェーンを取り付けてもらおうかと考えた。家に帰って、作業着に着替え、重いジャッキを引っ張り出し、寒い中を身をかがめて行う作業のことを思うと、ふと怠け心が生じたのである。
 そうしようそうしようと思い、帰路にあるガソリンスタンドにクルマを滑らせた。タイヤチェーンの取り付けだけを頼むのもなんだと思い、ガソリン給油をまずは頼む。そして、有料でのタイヤチェーンの取り付けをやってもらえるのかと尋ねた。
「いいですよ」というこころよい返事が返ってきた。しめしめと思った。またどうせ1000円から1500円ぐらいであろうと踏んでいた。車に積んでいたタイヤチェーンのボックスを取り出し、
「取り付け方はわかるよね」と、私はスタンドの兄ちゃんに言った。兄ちゃんは、任せておいてくださいよ、と言わんばかりにうなずいていた。そして、
「有料になりますけど、いいんですよね」と言う。
「もちろんさ」と、私は口にした。だが念の為と思い、
「ちなみにお値段を聞いておこうか。終わってからとんでもなく高かったら困るもんね……」
 すると、兄ちゃんはやや恥じるような表情で、
「4200円なんですよ」とつぶやく。私は、ウヒャーと思った。
「そいつは高いよ。申し訳ない、キャンセル、キャンセル」
と、わたしは畳み掛けるように言わざるを得なかった。すると、
「じゃあ、2000円にしておきますよ」と、兄ちゃんが言いかけた時、事務所の方から上司と思われる女性がやってきて、その兄ちゃんに向かって首を横に振っているのがわかった。そして、
「あなた、店長に怒られるわよ」と、言い足している。
「いやー、悪かったね。ジャッキ・アップなど危険な部分があるから結構高くなっちゃうんだ。じゃあ、家へ帰ってから、自分でやって4200円分を稼ぐことにするワ」

 しかし、それにしても破格のプライスだと思わざるを得なかった。多分、いま時ガソリン・スタンドを経営していくには、ガソリンの価格では利益が出るはずはないので、副次作業で収入を図るしかないのだろうな、とも思えた。きっと、アルバイトの兄ちゃんは、自分でも、そいつは高いや! と感じていたに違いない。だから、客の反応を見て急に半値以下に是正したのであろう。わかるなあ、という気がした。
 かといって、店長の姿勢も重々わかってしまう。それが高かろうがどうであろうが、他店との競争でガソリン自体を高くすることは不可能である以上、稼げるところで稼ぐ算段をしなければ、アルバイトの給金さえ支払えなくなってしまうからであろう。しかも、タイヤチェーンの取り付けといった、本来自分でやるべきことを他人任せで済ませようなんぞという横着者からはカネをとってやればいい、という凄く真っ当な感じ方があったやもしれぬ。
 そんなこんなで、わたしは、なんだか波風を立ててとても悪いことをしてしまったような気分で、家への帰路をクルマで走らせていた。

 家に着くと、食事は後回しにして、さっそく「4200円」也の作業に取り掛かった。 しかし、今年の冬はもう何度もジャッキのお世話になっていたものだから、この作業にはまさに習熟しており、流れるような手順と身のこなしで20分ほどで難なくこなしてしまった。こうして、何の困難もなく自分でできることを、まるで「金持ち父さん」のような気分になって他人の手を煩わそうとしたことが妙に悔やまれたのだった…… (2005.03.01)


 「おんどさ【温度差】」という言葉がある。ちなみにその意味は、「一つの物事に対しての熱意の差を比喩的にいう語。〔「行政改革に対する温度差がある」などと用いる。1990 年代初頭から用いられるようになった〕(三省堂提供「デイリー 新語辞典」より)」とある。
 おそらくは、大いに共通点があるものと考えられるのだが、「速度差」(「時間感覚」というほどの意味であり、こんな言葉があるのかどうかは知らない)という言葉も、あって然るべきだろう。つまり、ある人にとっては「一週間位で」という感覚が、別の立場の人にとっては、6日なのか、7日なのか、8日なのか、できれば時間の単位で知りたいというような、そんな違いのことなのである。
 もっと身近な例で言えば、「少々お待ちください」と言われた際に、頷ける人と、「少々」とは何分程度のことなのかが気になる人という違いのことである。
 確かに、こう書いてみると、後者の人の時間感覚は「せっかち」であるような印象が否定できない。何をそんなに急いでいるのか、もっとのんびりと行こうや、と言いたくなる向きもわからないわけではない。

 「待てば海路の日和(ひより)あり」ということわざもあることだし、そうせかせかとすることはないわけだ。特に、クルマを運転していて右折しようと交差点で待っている時なぞ、信号が黄色の場合は言うに及ばず、赤信号に変わりかけても強引に直進して急ごうとする輩には腹の立つものがある。なぜそんなに急ぐのか、という思いとなる。
 ただ、急ぐという積極的な姿勢ではなくとも、イライラさせられることもままあるようだ。それは、「いたずらに待たされる」という状況の場合であろう。
 たとえば、「少々お待ちください」と言われ、相手の人が見えない扉の向こうへ行ったとして、向こう側の様子が皆目わからずに十分、十五分、さらには三十分と放置されたとしたら、果たしてイラつかない人がいるだろうか。
 それとは反対に、昨今のアプリケーション・ソフトのインストール画面などでは、操作者を大人しく待たせるために、進捗状況を説明するメッセージが出されたり、「進捗状況バー」を表示したりしている。こうして、進捗の事態が共有できると、人間というものは結構な長時間でも待てるものなのである。

 この辺の事情については、確か以前にも書いた覚えがあるが、今回は、冒頭の「温度差」という言葉と関係づけて書こうとしている。
 つまり、他人を待たせたり、または待たせておきながらそのプロセスを相手に知らせずに相手を蚊帳の外に置き去りにする人というのは、「速度差」というか「時間感覚」が麻痺しているだけではなく、相手に対する「熱意」や、ともに進めている仕事そのものに対する「熱意」が低いという謗り(そしり)を受けてもやむを得ないのではないかと思うのである。
 今、これは会社の仕事ではなく、自宅修復作業のある業者にそうした傾向が濃厚に見受けられ、腹立たしい思いにさせられている。結構人当たりは良いタイプなのではあるが、とにかくスケジュールの数字に関しては、ダラダラと遅れ、しかも一体どうなっているのかこちらからは推測できないほどに不透明のままで待たせるのである。単刀直入にいえば、二度とお付き合いしたくないタイプだと言える。そこまで言ってしまう理由は、「速度差」というよりも、自身以外の外に対して「温度差」を作り過ぎると思うからなのである。「待つ相手」、しかも相手は、どんな商売人も今や最大限に気を遣わざるをえない「顧客」という立場の人間である。その「顧客」に「温度差」を感じさせてしまう業者というのは、やはり間違いだと言わざるを得ない。業者の中には、スケジュールを遵守すべく、「インフルエンザ」にかかって38度を超える熱を出しながら屋根に登ってヒヤヒヤさせる業者もいるくらいだ。
 わたしも、仕事をまとめる立場の端くれであるから、いろいろと仕事の進め方というものには気を遣うのだが、顧客にいい物を提供することは当然として、ただそれだけでは済まないのが仕事だと思っている。何も、接待などということが言いたいのではなく、「顧客の立場に立って仕事状況を精一杯想像すること」が必須だと認識している。それが、顧客との間での「温度差」を作らずに、いい仕事を納めることにつながるのだと…… (2005.03.04)


 クルマのディーラーに、今日やっと、マイカーのオーディオを修理してもらった。自分が乗っているクルマは、オーディオ類がフロント・パネルと一体型となっており、いつもクルマの修理をしてくれている整備屋さんでは難しいということであったからだ。また、修理をすべきかどうか自体を躊躇していた私的事情も、修理に出すことを遅らせてきた理由でもある。
 なんせ、自分のクルマは平成3年型であり、すでに14年間も乗り続けているのである。一般的には、10年も乗れば買い替えを「検討する」のであろうが、わたしは、10年目には、「健闘して」乗り続ける道を選択したのだった。そしてあとは惰性であったともいえようか。

 理由は、三つほどあった。ひとつは、この型のクルマが気に入っていたこと、ふたつ目は、概して走らせずに来てしまい、今でもやっと5万キロを出たところであること。そして、三つ目は、三、四百万も出して新車を購入したいとはまったく思わず、また手頃な中古も見当たらなかったことなどであろうか。
 実は、ここしばらく若干の迷いの中にあった。オーディオのみならず「同時多発」的に故障が発生していたため、もうダメかと思い、同型の中古車を当たったりしたのである。しかし、その行動が逆目に出たのであった。結局、こうなったら徹底的に乗り続けるぞ、という意を強めさせることになったのである。
 それというのも、同型の中古車はなかなか見つけられず、あったかと思えば、年式は新しくとも、現在の自分のクルマの走行距離よりもはるかに上回るものばかりだったのである。そんなクルマに百数十万以上のおカネを出すことが当然ばかばかしい気がしてしまったのだ。しかも、自分のクルマは、別に贔屓目で見るわけではなくエンジンの調子は絶好調なのである。要するに、クルマ本来の機能の上ではことさら問題はなく、故障などは、オーディオであったり、クーラーであったり、オート・ウィンドウであったりと副次的な部分で発生していたのである。そして、それらも、「親切な整備屋さん」によってほぼ問題なく修理してもらっていたのだ。ただ、ボトル・ネックとなっていたのが、フロント・パネル一体型のオーディオの故障であり、こいつが、クルマ買い替えへの誘惑の源となっていたのであった。「親切な整備屋さん」からも、「ディーラーに出せば、7〜8万円は取られるんじゃないの……」と聞かされていた。

 ところが、これこそ「案ずるより産むが易し」であり、そのディーラーに相談したところ、そのオーディオ純正品を修理すればコスト高となるが、別メーカーの製品の安いオーディオを取り付けるという手もあり、それだと工賃込みで2万円代でできるというのであった。こうなると、さっそくその手に乗らせてもらおうと思ったとともに、そうであれば、これで一応、マイカーに関する不安はすべて解消したことになるため、当然、買い換えなんぞというムダ遣いは選択肢から外すことになってしまったのである。何があるかわからないこのご時世で、対してありがたい思いにもなれないクルマを手にして百数十万以上の出費をするのはまっぴら御免ということであった。
 こんな推移を家内に話していたら、家内が唐突にヘンな話を始めたのだった。
「このご近所で、10年以上一台のクルマに乗り続けているのは、Eさんとこのご主人と、Mさんとこのご主人、でウチを含めて三人ということ……」
 そんな近所の他人のことなんぞ考えてもみなかったが、言われてみるとそうなのであった。近所の家々はいずれも同世代に近いが、この三人もまさにそうである。ほかにもニ、三人同世代らしき隣人たちがいるが、その一人は至ってクルマ好きなオヤジであり、もう一人は、大手企業に務めているようで「体裁派」ということにでもなろうか。
 わたしを含めた「同士三人」はどういうことになるのだろう? 共通点といってもあまりなさそうでもあるが、要するに見栄を張るほどの甲斐性があるわけでもないのは事実である。また、クルマ自体への思い入れも激しい方ではないということもあろうか。走ればいい、乗れればいいというように。
 もうひとつ、今さら、いいクルマに乗ったからといって幸せな気分になれるとは想像しようとしない、「可愛げのなさ」という点もあるやもしれない…… (2005.03.05)


 やせた野良猫が尻尾を下げてヒョコヒョコと小走りに行く姿、決して颯爽となんぞしていない、どちらかといえばみすぼらしくもあるその姿を見ていると、じわっ、としたものを感じたりする。心が動かされるというほどではないが、それにしても、裸一貫この厳しい地上に放り出され、何の当ても虚飾もなく生き長らえている姿は、何事かを感じさせずにはおかない。
 人が来ると、とにかくどこかへ逃げ去るのだが、どこといって自身を保護してくれる定まった場所があるわけではない。人間の子どもたちなら、喧嘩したり、いじめられたりして惨めに泣く時は、逃げ帰る家がある。自分をなだめてくれる親がいる。しかし、野良猫たちが逃げ去る場合には、逃げ込む当てがあるわけではなく、とにかく油断のならない敵から離れるという意味での逃走であり、そこも安全だと思えない場合にはさらにまた逃げることになる。
 唐突にもそんな状況を人間にたとえるなら、「執拗な追跡を続けるジェラード警部」の手から絶え間なく逃げ続けなければならないあのTVドラマの「逃亡者」ということになろうか。人間ならば、不安とストレスでいたたまれなくなるはずであろう。

 しかし、野良猫たちは、案外、わが身の置かれた身の上を深刻視していないようでもある。いたって、ずうずうしく考え、振舞うことで生きることをエンジョイしている向きもないわけではない。この寒い季節の中では、どこが暖かいところかも察知し、人間さまのクルマが家に戻ってくると、暖かい座布団が戻って来たとばかりにクルマのボンネットに飛び乗りそこで暖を取る。わたしの、クルマなんぞは白っぽいカラーなのでいつでもボンネットには「梅の花模様」が賑やかに咲く始末である。まあ、野良猫たちのそんな足跡を気にするほどのクルマではないため知らん顔をしている。
 ただ、ドアを開けると、隙を見て忍び込んで来るヤツもいるから驚く。聞くところによると、わが家の庭にたむろする野良猫たちの元はというと、近所で飼われていた猫のようなのだ。その飼い主宅は、ある日忽然と姿を消してしまつたのである。ありていに言えば、夜逃げである。猫たちは置き去りにされてしまったわけだ。で、飼われていた当時、その真っ黒な猫は、どうもクルマに乗せてもらったりして可愛がられてもいたらしい。だから、ウチが餌を与えてやったりしているものだから「胸襟を開き」クルマの中にまで忍び込もうとするようなのである。まあそれでもいいようなものなのだが、わたしとしては、猫があまりクルマに懐いてしまうと、車庫入れの際に寄って来て危ないと思うため、彼らがクルマに近寄って来るとことさら邪険な追っ払い方をするのである。

 このところ、わが家は、屋根や壁の補修工事をしているため、家の周囲に足場が組まれている。また、種々業者の知らない者たちがいろいろと出入りしている。おそらく、数匹の野良猫たちは、これは何事ぞと思っているに違いない。しかし、家人が玄関を出ると、ニャオニャオと群れをなして寄ってくるところをみると、不穏な雰囲気ではあるが大勢に影響はないと判断して、他の場所への移動を考えているわけではないらしい。
 いや、足場なんぞをむしろエンジョイしているのかもしれない。キッチンの窓に、足場を悠々と歩いている猫たちの影を見ると、彼らは見慣れないそうした足場のパイプ類さえ、ちょっとした環境変化として楽しんでいないわけでもなさそうなのである。
 まあ、野良猫たちのそうした、神経質そうでいて、実のところはまったくあっけらかんとしたマイペースぶり、そんなところがわたしは嫌いではないのである。内心はどうなのかわからないわけだが、見ているかぎり、彼らは、人一倍(?)忍耐力もあるようだし、鬱病になるようでもなさそうだし、飢え死にしないように餌をやっていれば、あとは気楽に生きることをエンジョイする術(すべ)を心得ているようである。神経質にわが身を細らせたり、削ったりする現代人よりもずっと処世術を得とくしているのが野良猫たちなのかもしれない。彼らの後姿を見て、妙に感じ入ったりしているのは、実は人間自身のはかなさ、哀れさであり、わが身を投影してそんな心境になったりしているのかもしれないのだ…… (2005.03.06)


 事務所の前の道路で、行き交うクルマ同士のトラブルがあった。
 午前中のことだったが、窓の外、道路の方面から男の怒鳴り声が聞こえてきた。いつぞやも、接触事故のためにいざこざを起こしている騒ぎが窓の下で起きたことがある。その種の騒ぎであろうと思い、区切りのいいところまで仕事中の作業を進め、手が空いたところで窓際に近づいてみた。窓外の右手前方で、二台のクルマが道路のど真ん中に停車して、そのクルマの向こう側で二人の運転手同士が言い争っているようだった。
 それらのクルマが邪魔をして、二車線ともにクルマの渋滞が起きていた。迷惑な話である。いつまでもその状態が続いていたが、二人が何をしているのかはほとんど見えなかった。
 野次馬的気質と無縁ではないわたしは、さし当たって、その現場に近づくかたちとなるように、隣の部屋へと移動してみた。そこも社内の事務を担当する者たちがいる部屋なのである。
 ちょうど、家内が事務を手伝いに来社しており、わたしが顔を出すなり、
「110番通報したところ……」
と、興奮気味の口調で言い放った。
「だって、一人の方はものすごく悪いんだから。もう一人の運転手を、ドアを開けて引きずり出すなり、『頭突き』をかますやら、殴るやらで大変だったんだから……」
 わたしが目撃し始める前にそんなことがあったらしいのだ。
「だけど、パトカーが全然来ないんだから。こんなに遅くちゃ、大変な事が起きてしまってからということになっちゃうじゃないの」
 家内は、心臓をドキドキさせながら(自分でもそう言っていた)、興奮しているようで、デスクに就こうとはせず、ブラインダーの隙間から下を覗きっ放しである。

 どうやら、周囲のクルマから咎められたようで、二台のクルマはまさに事務所の真下辺りの道路脇に寄せることになった。どうやら、頭を冷やして話し合いでもするのだろうかと想像できた。それならば、やがてパトカーも来るのだろうし、まあ一件落着かと感じ、わたしは作業に戻った。
 ところが、再度窓の外を見てみると、『頭突き』をかますなどの暴力をふるった方のクルマはいなくなり、軽のワンボックス・カーだけが残されていた。その運転手がちょうど表に出ていたが、小太りの中年男であった。スーツ姿で、幾分髪の毛が薄くなり始めた観があり、眼鏡をかけていて、顔つきはどう見ても気弱そうな雰囲気である。相手のヤツになめられそうな相貌であった。やれやれお気の毒に、という感触があった。
 それにしても、頼りにならないのは、パトカーの到来である。その時点で、10分以上は経過していたにもかかわらずまだ姿を見せないのである。蕎麦屋の出前以上にイライラさせるものだと感じた。
 と、どこをどう「遠回り」(?)してなのか、やっと三台のパトカーが徒党を組むようにして滑り込んで来た。最悪の予備で来たのかもしれない一台は行過ぎて、二台が残った。これは後でわかったことだが、「110番通報」をしたのは、家内だけではなく、合計4〜5通が舞い込んだそうである。そんなところから、出動の「決裁」を仰ぐのに手間取ったのであろうかと勝手に想像したりした。

 それからようやく事情聴取が始まった模様である。取り残されたクルマの、気弱そうな運転手が、4〜5人の警官達に囲まれ、いろいろと聴かれているのが上からも見えた。
 そのうち、一人の警官が、「通報」した人の家を探すかのように、近所の家々の戸口に立っているのがわかった。しかし、どの家からも人は出て来ない。不思議だと思えたのは、あの三色の独自な電飾を回して営業中だとありありわかる店のドアを、その警官が開けようとしているのだが、結局、ドアが開かない様子であった。鍵がかかっているようで、警官は別の家の戸口へと向かって行った。門柱のインター・フォンから呼んでいるようだったが、人は出てこない。その警官は、結局、「通報」した誰とも会えなかったような気配であった。警官は、途方に暮れたような素振りで、道路を挟んだ向こう側の歩道に立ってキョロキョロとしていた。
 わたしはそんな姿をブラインダー越しに見ていて、なぜだかイライラしたものだった。なぜ、真ん前の事務所のわたしのところに、聴きにこないのだ。向こうから聴きに来たのなら、何でも応えようぞ。が、来ない。
 わたしは、自分のイライラを解消するべく、表に出ることとした。ちょうど昼時であり、表へ出向く必要もあったのだが、それでもし警官が積極的に尋ねて来たのであれば、見聞したことのすべてを、あの「気弱な中年男」のためにすべて話してやろうと心に決めていたのである。
 多分、多くの「通報」をした人たちは、事件に関わることで、「逆恨み」の被害を受けたりしてはいけないと思ったのであろう。しかし、わたしは、暴力行使の現場を見てはいなかったが、高が交通のいざこざくらいで暴力沙汰に走るバカものが許せなかった。そういうヤツは退治されて然るべきである、そのために市民は惜しみなく協力をしなければならない、とそう思っていたはずなのである。

 わたしが、表にでると、案の定、一人の警官がこれ幸いとばかりに近寄って来た。そして、ちょっと前にここであった騒ぎを目撃されたかどうかを尋ねてきた。
「ええ、見ましたとも見ましたとも。上の特等席から一部始終を遠山の金さんのようにしっかり見届けました」
とは言わなかったが、結局逃げ去ったクルマのナンバーは確認できなかったものの、車種と、そのボディに、きっと手掛かりになるに違いない「会社名」に代わるネームが書かれてあったことを伝えてあげた。暴力沙汰自体を目撃したのは家内であるけれど、わたしが代わりに話をすると言ったら、警官は納得したものであった。
 ちなみに、結局、「通報」した人たちから事情を聞くことができたのはわたし一人であったようだ。
 こうして、時ならぬ「プッツン暴力男」の人騒がせな顛末は終息したのだった。わたしの胸に不快感が残ったのは、三つ。もちろん一つは、「プッツン男」の存在自体であり、もう一つは、「通報」をしながら事に関わることを拒否しているかのような人々の弱腰であり、そして、最後は、パトカーというものが余りにも遅れて到来するものだという点である。要するに、この三つ巴が、全国津々浦々で凶悪な犯行が絶えない「三点セット」なのではないかと思われたのである。聞くところによれば、住民の数に対する日本の警官の数は、世界的にもかなり低水準であるらしい。そうした、事情がますます人々が悪を目撃しても事なかれに走る大きな理由なのかもしれない…… (2005.03.07)


 3月15日といえば「確定申告」の締め切り日である。毎年この日が近づくと鬱陶しい気分となる。何もこの日に税金を払うわけでもなく、すでに税金は徴収されているのだから、鬱陶しがらずともいいはずではある。だが、鬱陶しく、煩わしい。
 今朝は、よんどころなく早出出勤をしたものだから、時間のあるのに任せて、「エイ、ヤッ」とそいつを済ませてしまった。自宅の家の補修工事で、業者のクルマが複数台到来するというので、車庫を空けなければならないという事情があったのだ。

 この時期は、何かと忙しいところへもってきて、「確定申告」という、やや煩雑な作業を伴う記入処理の控えることが煩わしいということであるのかもしれない。しかし、最近は、幸か不幸か、取り立てて言うほどの収入もあるわけではないから、あっさりとしたものであり、記入処理もへったくれもあったものではないのである。
 強いて言うなら、年に一度のことであるため、その時は税の仕組みを理解し、記入方式に頷くものの、何やかやの一年の時間が挟まり、翌年になればケロリと忘れてしまっているから、煩雑だと感じてしまうのであろう。
 こうした「年に一度」の作業の類について書いたような記憶があったかと振り返ったら、例の「タイヤ・チェーン」の取付であった。それも、大した複雑さでもないくせに煩わしく思えるもののひとつである。ほぼ一年の時間という忘却が成立しがちな時間経過があって、「さあ、さっさとこなしなさい」とくるから、余計に煩わしく思うのであろう。
 人間の脳というものは、日々繰り返すこと、日常的に役立つこと、特別に重要視したいことなどは忘れないが、それ以外については、「さっさと」忘れるように出来ているに決まっている。まして、「納税」とか、「タイヤ・チェーン」の取付とかという決して歓迎したいとは思わない事柄については、「さっさと終わる」ことだけが目的なのに、忘れた頃にやって来て「さあ、さっさとこなしなさい」とくるから、逃げたくなるに違いないのだ。

 毎年、この「確定申告」の記入方式もちょっとずつ変化がもたらされているようだ。まあ、これ以上に記入レイアウトをわかりやすくすることも難しいような気もするが、ホームページではないが、帳票の各部分にカラフルな色を使ってみたり、記入マニュアルの小冊子の説明を工夫してみたりと……。だが、はっきり言ってこの帳票には、「お上」の、しかも「税務役人」の鼻持ちならない異臭が決して消えることはない。わかりにくいという部分が尋常ではない点も大いにある。
 が、仮にわかり易くなったとしたら、その時はきっと、「何でこんなに取られなくてはいけないの?」という自覚が促進されてしまうのではなかろうか。穿った言い方をするなら、記入上であっちこっちで躓き、首をかしげることが、ある意味で本質隠しのカモフラージュとなっているのかもしれない。巷にはよくいるはずである。己(おの)が胡散臭さを隠すかのように、やたらともったいぶった素振りをしてこけおどしをかけるヤツが! それと相通じるものがあるのではないかと、下衆は勘繰るのである。

 今回、ひとり笑ってしまったことが二点あった。
 そのひとつは、「インターネット」で申告処理ができるという記載を見つけた時である。確かに、こんな帳票への記入処理であれば十分にブラウザで処理できるし、ブラウザ上の表を、「エクセル」のように各欄のセルをリンクさせたり、計算式で関係付けたりするならば、手書きの際の電卓使用や同じ数字を何度も繰り返して記入する手間などが省かれるはずである。わたし自身、「確定申告」を始めた頃には、そんな簡易型プログラムを「エクセル」で作成したものであった。
 まあそれはよしとして、その記載を良く読むと、インターネットで「申告」する者は、「あらかじめ届け出て許可を取るべし」ということわりが書かれてあったのだ。何をバカげた仕組みを考えてるんだと、呆れ返って笑ってしまったのである。わざわざ税務署に出向いて、面倒な手続きをして、それから簡便なネット処理をするという手順を真顔で提案する「お役人さま」の発想を笑わずにはいられなかったのである。
 もうひとつは、かねてから、記入した帳票類を「郵送」するという方法は存在していた。これまで一貫して「持ち込みスタイル」を採ってきたので、「郵送」方式には関心を向けなかったわたしではあった。が、今回は、関心を向けたのである。というのも、まるで小学生向け月刊誌の付録のような「組み立て式」封筒用紙が同封されていたからなのである。点線表示に「キリトリ線」「山折り」「谷折り」といった昔懐かしい「付録」がついていたため、うん、今年は込み合う税務署への「持ち込みスタイル」はやめて、これで「郵送しよう」と思ったのである。いわばその「付録」を「御笑納」させていただいたわけなのであった。
 ただ、その用紙の内側になる部分に、同封するものにチェックを付けろ、といったこれまたすぐには了解しにくい文面が印刷してあり、せっかく「役人」もちょっとは可愛いところがあるかと思わされた気分であったが、それを見るなり途端に消え失せてしまったのである。「ドリフ」の「ダメだこりゃ!」である。まあ、そんな「頭隠して、尻隠さず」のような「役人」文面は、シカトする、ことにして、「付録」の封筒を丁寧に仕上げ、「申告」書類をその中にぶっ込んで、昼休みに、近所の郵便局にぶっ込んだのであった…… (2005.03.08)


 「イノベーター(innovator、革新者)」と思しき者は、必然的に難しいジレンマを抱えるもののはずである。「毅然とした姿勢」と、「寛容な姿勢」との両輪を推し進めなければならないからである。過去への訣別における「毅然さ」と、共に事を進める同志に対する「寛容さ」ということになろうか。
 「イノベーター」とは、言うまでもなく環境の変革者のことであり、惰性と古い因習とがこびりついた環境を揺り動かしたり、パラダイム(一時代の支配的なものの見方、考え方)の変換を迫る者のことである。
 歴史上にも、多くの「イノベーター」たちの歩んだ轍(わだち)が刻まれている。そうした者たちの轍を振り返るならば、凡人の眼から見ても、「毅然さ」と「寛容さ」との糸(意図)が巧みに織り成されていることに気づかされざるを得ない。

 「イノベーター」が「イノベーター」である必要条件は、新しい地平への踏み込みであり、その意味では「毅然とした過去への訣別」がなくては始まらない。そのアクションは往々にして唐突であり、意表を付くものであるはずだ。
 なぜなら、誰もが踏み出せるような緩やかなスロープやバリアー・フリーのルートを淡々と歩んで新規な世界を切り拓くというイメージは考えにくいからである。惰性を好む世の大半の者たちが容易に背中に手を伸ばすことができるような状況で、新しい世界へのブレイク・スルー(突破)が可能なほど現行世界に可能性があり余っているとは言えないであろう。「イノベーター」たる者は、可能性の範囲内にある急な傾斜度の段差なり、壁なりを一気に駆け上る俊足さを持たなければならず、その前提には、「毅然とした過去への訣別」がなければならない、ということである。それは、時として「奇襲」という姿をとることにもなるはずだ。

 ところで、環境の「イノベーション」というものは、先駆的な「イノベーター」一人で達成されるものではない。「イノベーター」に賛同して行動を共にする者たちや、その動向を是認する多数の共感者があってこそ、「イノベーター」のアクションは大掛かりな環境革新のうねりへと成熟してゆくものだ。いや、むしろこの趨勢にまで至らなければ、「イノベーション」の達成もなければ、「イノベーター」自身も「捨石」となってしまい、「イノベーター」という称賛や認識さえされないで終わってしまうのであろう。そうした類の例は、過去の歴史にも、われわれの知らないかたちで多数埋もれていそうだと推測できる。
 したがって、注目すべき点は、先駆的な「イノベーター」一人のアクションである以上に、その「イノベーター」がどれだけ同志、共感者、追随者を結集させることができるかという点となり、そうした組織論的戦略戦術なのだろうと思われる。

 こうした同志、共感者、追随者の獲得において、「寛容さ」とでもいうべき姿勢が必要だと思われるわけである。「寛容さ」という言葉の真意は、特別な理解力や洞察力を用意していない凡庸な人々に対して、わかりやすく説明を続ける忍耐強さだと言ってもいいと思う。ただし、それは大衆迎合でもなければ、人気取りのプロパガンダでもない。そうした表面的な手法では、腰の座った共感者や支持者たちを形成することにはならないであろうからである。あえて言えば、昨今、行政に関して要請されている「説明責任」と訳される「アカウンタビリティ(accountability)」というのが当てはまりそうな気がする。
 こうした対応は決してたやすいことではなさそうだ。そして特に、新規な事象を追いかけることを得意とする「イノベーター」にとっては、そんな手間のかかることは不得意であることが多かろう。また、「イノベーター」が「イノベーター」である発想の仕方や思考回路と、凡庸な人々の感覚や理解度というものはかなり異質でもありそうだ。だが、それでも「イノベーター」側から、凡庸な人々へと接近していくしか手がないのだから忍耐強さの滲んだ「寛容さ」とでもいうべきものがクローズアップされるわけなのである。
 「イノベーター」は、一方で急な傾斜度の段差を駆け上がるとともに、すぐさまそこに誰もが歩み上がれるなだらかなスロープを作り上げなくてはならないのだと言える。

 「ホリエモン」問題に限らず、現代という時代は、どんな領域でもどんな場面でも一方で「イノベーション」が問われ、同時にすぐさまその賛否が問われるという、上記の事情と同様の事態が広がっていそうだ。そして、後者の比重は決して小さくはないと見受けられるため、企業その他の組織的活動にあっては、優秀かつ好感度の高い「スポークスマン」が求められもするのであろうか。そう言えば、これはネガティブな社会現象であったが、かつて「オウム事件」で特有の「スポークスマン」的役割りで世論を撹乱し、ミスリードした上祐史浩のことを思い起こす。
 現代という特殊な時代では、個人生活にあっても自己の行動に関する「スポークスマン」的役割りを、自身が上手に果たしてゆかなければ辛い思いをする環境になっているのかもしれない。それほどに、個々人の受け止め方の異質性は拡大しているという印象を抱いてしまう…… (2005.03.09)


「やはり、取り付けておいた方がいい。ご主人が帰って来てパッと眼に入るんだからそこまではやり終えておかなきゃ」
 と言って、その大工さんは、疲れた身体を押して一区切りをつけてくれたそうなのである。
 自宅の修復工事の一環での台所の突貫工事のことなのである。
 キッチンの機材搬入を請け負った水道業者が、どういうものか段取りが悪く、いろいろな手配が泥縄的となってしまい、そのしわ寄せがその搬入当日に集中してしまったのである。わたしは事務所で、家内だけが在宅であったのだが、その当日は、まるで段取りの悪さの手本のような修羅場となった模様である。

 先ず、機材の搬入日が、まだ外壁塗装や屋根工事のための足場を残したままの状態であったため、台所に運び込むこともてんやわんやの騒ぎであったそうだ。
 また、キッチンの機材は、水道だけではなく、ガスも電気も当然のごとく関係しており、取り付けに当たってはそれらの業者にも来てもらわなければならないことも、取り付け当日に判明するという後手後手の連鎖が発生した。
 もともと、この部分の工事に、わたしは一番懸念を感じていたのだった。いろいろと事前準備がありそうだと感じざるを得ない予感が強かったにもかかわらず、搬入と水道工事担当の水道業者が、とにかく「他人事」のようなスタンスだったからである。別スケジュールで振り回されていたのか、身体の調子が悪かったのか、あるいはその両方であったのか、こちらからの連絡にも誠意ある対応がなく、イライラさせられどおしであった。おまけに、大工さんのスケジュールなどの他の業者の段取りのことは後回しで、自分サイドの日程を優先させた嫌いもあった。

 そして、当日、その水道業者の立ち振る舞い方は、家内の話によれば、当事者意識が薄く、何やら投げやりっぽく、またはオロオロするようでもあり、大工さんが一人先導して事を進めてくれたそうなのである。大工さんの知り合いの電気工事屋さんに急遽手配をしてくれたり、とにかく最低限は仕上げないと炊事ができないでは困るはずだと言い張ってくれたのだそうだ。
 時間が経過するうちに、その水道業者はますます「心ここにあらず」といった調子となり、しかも、翌日と翌々日は別スケジュールが入っているため続きの作業はその後、とかという自分の立場だけを主張していたとも聞く。
 そして、冒頭の情景に行き着いたのだそうだ。
 夕食の店屋物を食べてもらったあと、午後9時過ぎとなり、大工さんは区切りのいいところまでは仕上げようとしたのに対して、水道業者は、大人げもなく時間切れ的な態度に出て来たらしい。
 その時、大工さんが言った言葉が上述のとおりだったという。
 よろしくお願いしますと言って出勤して言ったご主人(わたしのこと)が、帰宅した時に、台所の壁面のキャビネット類が、収まるところに収まらずに中途半端であったのではガッカリするはずだろうから、仮止め的ではあってもそこまではやるべきだと主張してくれたというのである。
 その水道業者は、そこまでリキむことはないというような憔悴し切った態度でいたらしいのである。
 わたしは、家内からそんな報告を受け、何となく手に取るように情景を想像したものであった。

 わたし自身が関与するコンピュータ・ソフトウェアのシステム開発でも、時間との闘い、不具合との闘いで、現場の技術者たちの性根が試されるような修羅場は、あってほしくはなくとも発生しがちである。そして、そんな修羅場になると、一人ひとりの技術者の地金(じがね)を見せつけられる思いがするのだ。日頃、体裁のいいことばかりを口にしていた者が、見たくはないような体たらくを曝け出したりするかと思えば、日頃は地味で目立たないタイプの者がイニシアチヴを発揮したりすることもある。
 身体や気分が参ってしまっていて、最後までしぶとく息づいているのは、頭脳活動と、そしてプライドや使命感というプラスアルファの感情、信念なのだと常に感じさせられて来た。これらのパワーこそが、「プロ」や「仕事師」と呼ばれていい者たちのエッセンスだと思わされてもきたのである。

 昨夜は、その大工さんと飲んで話したものだった。労をねぎらう意味もあったが、久しぶりに、いい仕事っぷりを見せてもらってうれしかったからだ。
 冒頭の言葉に含まれた依頼主、顧客に対する最大限の配慮、依頼主だったらさぞかしこう思う、こう感じるであろうと豊かに想像する経験豊かな仕事師の姿が、ズッシリとした重みをもって胸にこたえたからである。
「この歳になっても、どんな小さな仕事でも、正直言ってピリピリした感覚でやってるよ」であるとか、
「ヘンな話だけど、子どもよりも仕事の成果の方がかわいい気がするね」
とか、
「仕事仲間は大事にしなけりゃね」
であるとか、未だこの国の良き「職人気質」は健在なり、という強い印象が与えられたものであった…… (2005.03.10)


 今回、自宅の修復工事をいろいろと行い、ニ、三のことを考えたものだ。
 そのひとつは、リアルに言って、建築関連業者の職人さんたちというものは「玉石混交」だという点である。職人的仕事をやっているから皆が皆「職人気質」の人たちばかりだと勘違いしてはいけないということだ。まあ、当然と言えば当然のことであろう。そして、その「玉石混交」ぶりはよく見極めなければいけないということと、それは結構難しいことでもあるということである。

 もうひとつは、ひょっとしたら、これからの時代、巷には小さな仕事を請負う個人事業主の人々が増えるのであろうか、ということ、そして、そうした業者に上手に仕事を請けてもらうユーザも増えるのかもしれない、ということでもある。
 相変わらずの長期デフレ経済が尾を引いており、さまざまな価格が低下傾向をたどっている一方、一般的に消費者とて所得はジリ貧状態にあると言える。かつてのように、モノやサービスの値段が多少高くとも、まあいいか、ではやり過ごせなくなっていると思われる。そう言えば、昨今、中古リサイクル店をあちこちで見かけるし、聞くところによればそこそこ成り立っているらしい。これも、庶民が出費を抑えようとしている傾向の表れではないかという気がする。

 つまり、率直に言って、さまざまな間接コストと儲けの利幅も厚い大手企業の価格水準は、今、「危篤状態(?)」にあるのではないかと推測するのである。しかも、もともと、大手企業のビジネスの進め方は、結局は下請け外注に仕事を出して自らは「上前」をはねるというスタイルが実情であったはずだ。中堅企業とて、同じスタイルで「中抜き」をする恰好であった。そんなことが何階層か重なり、価格は高いにも関わらず、現実に手を染める仕事師たちは低価格の日当で動く巷の自営業者であることが多かったのではなかろうか。
 実は、土木建築関係のこうした構造は、われわれのビジネスであるソフトウェア開発のジャンルのビジネスに非常に良く似ているのである。だから、他人事とは思えないわけなのだ。ソフトウェア業界も、大きな開発システムを窓口的に受注する大手企業と、その下に何階層も連なる下請け会社という不合理な<タテ型受発注構造>が現在もなお存在しているのである。技術者派遣にしたところが、エンド・ユーザの発注額が人月百ニ、三十万円の案件を、三次、四次の外注会社に数十万円で受注させているのが実態であろう。業界全体が、「ワーク・シェアリング」を行っているといえば聞こえはいいが、要は、「上前」「中抜き」で生存している企業が少なくない、と言っていいのである。
 こう言えば、システムというものは総合的にマネージメントして、またリスク・テイキングも必要であり、一次受注企業はその役割りの対価を報酬にしているのだ、ともっともらしき公式声明が返ってくるはずである。しかし、そんなことはない。それは、一次受注企業のサバイバルの方便でしかないのだ。多くの場合、一次受注企業は、営業活動を除いて実質的な場面での工数は限りなく無に等しい。本来の実質的マネージメントを担っている企業はほんの一部に限られているのが実情だろう。
 それというのも、技術的に難易度の高い案件なら実質的な経験を積んだ小規模で低い階層の企業でしかこなせないし、洞察できない。また、ポピュラーな技術水準のものであれば、そもそも現場技術者たちのみ、いや、それに加えた現場に精通したプロジェクト管理者たちがいれば、大手企業でございという看板なぞの出る幕ではないはずなのである。だから、営業活動以外での実質的な活動、末端価格に占める多大なコスト部分というのは「摩訶不思議」なものでしかないのである。言ってみれば、それは宗教界の「お布施」と共通するものがあると言えようか。
 つまり、そうした「摩訶不思議」なものをテイクする側があるということは、それをギブする側もまたいる、ということになるわけだ。ユーザ側の度し難い「他力本願」姿勢のことなのである。もちろん、コンピュータ・システム・ユーザは、アプリケーション内容には精通していても、、コンピュータ・システム自体には疎くて当然である。となると、どうしても「神頼み」となってしまうのが人情であろうか。つまり、大手企業という「ネーム・バリュー」イコール「高水準技術」、「高水準責任体制」、「きめ細かいサービス体制」だと信じたいのが、ユーザであるのかもしれない。
 しかし、それではまずかろうと思う。現に、技術的実質が、その大手企業自体によって担われているわけではないことを百も承知し、それでも高いコストを支払い、それが「自腹」であるならばそうした道楽を責めるわけにもいかないが、そのコストはすべて製品なり、サービスなりの消費者に転嫁しているのであるからだ。
 現在の経済構造は、「中抜き」の排除という原理によって合理化と低価格化とが推進されているはずである。そんな中で、まるで重箱のような<タテ型受発注構造>を温存して、末端価格の水脹れや、実質的責任の曖昧化を招来していたのでは、やはりムリが重なってどこかで破綻するのではなかろうか。

 本来、こうした「アンシャン・レジーム」が書きたかったわけではない。しかし、こうした実態が前提にされないと、これから書く部分が了解しにくいために書いた。
 それは、これからの数年間に、モノというよりもサービス関連の価格帯は漸次低下していくのではないかという点なのである。端的に言えば、迫り来る「団塊世代」の定年退職により、まだまだ働けるこれらの「賞味期限」オーバーの生産人口が、アンダー・グラウンドの経済環境をきっと生み出して行くはずだと思われるからである。
「大手企業に依頼すれば、『お布施』部分で高いものにつきますよ。わたしらが直接請ければこんなに安く上がるんです!」というオールド・エージェントたちが、地域生活の場で静かに蠢き始める予感がするのである。まして、小金(こがね)を持っていて支払能力のある者たちは「団塊世代」自身であろう。つまり、「有効需要」のある消費者自身が、同世代の業者にものを依頼するとなれば、話は早いし、トラブルも少ないことが予想される。「今時の若い業者は困ったものだ」などと愚痴ることも避けられよう。
 実は、こうした予感を呼び覚ましてくれたのが、今回の私事のマイホーム修復工事だったのである。この間、わが家に到来した職人さんたちの大半は、白髪混じりの年配職人さんたちであり、中には、脱サラで一念発起してバリバリと仕事をこなす職人さんもいた。どう見ても無表情、無気力の印象が拭いきれない若い職人さんとはバイタリティが違うと思えたものだ。

 ただし、こうした局面を過大評価しようとは考えてはいない。冒頭で書いたように、現在の職人さんたち、業者たちは、確実に「玉石混交」なのである。つまり、「人」だということなのである。「人」の違いによってマチマチだという点である。だから、「団塊世代」が第二の人生的に、安い価格のサービス自営業を始めたからといって、きっといい仕事が任せられると限ったものでもないわけだ。中には、大手企業の雑な仕事以上に手抜きをされてしまったというケースだってないことはなかろう。
 しかし、もし消費者が、「人」の吟味能力を練磨して、安くてよい仕事をしてくれる職人さんを選別する、その努力をしていくならば、立ち腐れた経済を「ホリエモン」以上に揺るがしていくことになるのではないかと期待したい。まさに、時代は<タテ型受発注構造>なんぞという「砂山」ではなく、<ヨコ型ネットワーク・コラボレーション>の「砂場」でしかあり得なくなっているはずなのである…… (2005.03.11)


 その電気工事屋さんは、約束どおり9時直前にやって来た。ワークショップで売っているようなモスグリーン色の作業着上下に身をかため、頭は白髪混じりで小太り、白髪の鼻毛をのぞかせた如何にも人の良い自営業者といった感じである。
 この方は、先日のシステム・キッチン取り付け修羅場騒ぎの際に、急遽助っ人をお願いして快く来ていただいたのだった。ただ、その際にはわたしは不在であったため、顔合わせは今日が初である。その時の対応が良かったため、今日は、屋根葺き替え後のTVアンテナ新調設置でもお世話になろうと、お願いしたのである。昨日も書いた、地元の年配自営業者なのである。
 実は、TVアンテナ新調設置については、あらかじめ近辺の商売商売した店に事前に工事価格を打診したところ、何だか高すぎる印象を受けていた。いくら、屋根の上で危険を伴うからといってちょっと高すぎると思った。と、その時、「また、何でもやりますから……」と電話で言っていたこの年配の電気屋さんのことを思い起こしたというわけなのである。
 早速、電話して、TVアンテナの設置工事はやりますか、とたずねてみた。がすぐさま前向きの声が返ってきた。ただし、「足場はまだ壊してない?」との条件がついてきた。年配のためであろうか、屋根の上の作業のため安全を気遣っているようなのだ。外壁塗装のための足場がまだ残っていれば大丈夫だと踏んでいるようであった。その気遣いはよく了解できた。いくら仕事とはいえ、身を危険にさらしてまでやるべきではなかろう。わたしとて、頼んだ業者が大怪我をしたりすることは絶対に避けたいところに決まっている。 幸い、ペンキ屋さんは塗装作業は終わったものの、他の掛け持ちの仕事の都合で足場取り外しは二、三日ズレると言って来ていたのだ。そこで、足場付きのかたちでのTVアンテナの設置工事をその電気屋さんに頼むこととなったのである。
 案の定、年配の電気屋さんは、どう見ても「身軽」な身のこなしというわけにはいかないようであり、足場を上る姿は、わたしに一抹の不安を抱かせたものだった。ご本人にも、心配のようであり、屋根の上用のシューズを別に持参しての作業であった。わたしも、これは眼を離さない方が良さそうだと考え、電気屋さんが「屋根の上のバイオリン弾き」である間は下から眼でサポートすることにした。が、まずまず問題はなく天井作業は終了し、壁や室内の配線作業へと進行することとなった。
 そうすると、年配の電気屋さんは、俄然調子が上がってきたものだ。たぶん、天井作業を無事やり終えてホッとしたからなのであろうか。どういう配線経路がいいかをいろいろと考えてくれて、自ら進んで仕事を運んでくれている。今、こうして書いている間にも、黙々と動いてくれている。
 でも、やはり「さすが年配!」と気づかされる場面もあるにはある。つい先ほども、何か探しモノをするかのようにして「あれーっ、……」と独り言を言っていたのだ。
「どうかしましたか?」
とわたしが聞くと、
「いやね、中付けの部品が見当たらなくてね。どっかへ置いたんだけど、どこへ置いたんだったっけか……」
ということだった。そこで、わたしは、彼が動き回っていた家の中をいっしょに探し、たぶん二階の部屋だろうと見当をつけると、ピンポーンの正解であった。まあ、年配ならではの愛嬌ある行動というであろう。
 朝9時に到来して、現在午後4時である。おそらくそろそろ完了となるはずだが、ついでに頼んだ作業もやってもらい、たっぷり一日仕事となってしまった。そのついでの作業の分を含めても、決して高くはならないだろうと予想しているが、きめ細かい作業を前向きでやってもらってのことだから、こちらも相応にお支払いしようと考えている…… (2005.03.12)


 今朝は朝一から、足場の解体が始まり、つい先ほど完了した。家の外壁塗装などで使ったものであり、これで漸く一連の自宅修復工事に一区切りがついたことになる。なけなしのカネも使ったし、結構気も遣ったそこそこの出来事であった。
 昨日は、その打ち上げの意味もあり、最も世話になった大工さんたちの労をねぎらうために、近所の店で酒席をもうけ久々に飲むことになった。
 夜、帰宅すると、知人からの連絡があり急遽そこへ出向いて、再び軽く飲むことになってしまった。しかし、どちらかと言えば、そこで飲んだビールの方がうまかったかもしれない。
 その知人とは、癌の闘病生活を強いられた人で、再発する病状と闘いながらすでに三度、四度の入院を繰り返していた。その都度、強力な抗癌剤が投入され、生きた心地のしない副作用を耐え続けてきた。そうした病院での治療の間隙を縫って、一昼夜の帰宅が許されたというのであった。
 その知人は、どこから嗅ぎつけたのか、わたしの家で屋根の葺き替え工事をしていることを知り、自分の家も相応の年数が経過しているため、この際、屋根の葺き替えを検討したいので話を聞かせてほしい、ということなのであった。

「廣瀬さんのお宅が頼んだ屋根屋さんなら、これは信頼できるはずだと思ったもんですからね。とにかく、その屋根屋さんに見積りをしていただこうと思ったわけですよ」
 彼はそう切り出し、ビールを注いでくれた。本来、病状からいって酒を飲んだりすることはご法度であるのだろうが、根っからの酒飲みの彼は、医者からも「しょうがない」という黙認を与えられているとかだそうなのである。
 話を聞かせてもらうと、すでに見積りをもらっており、若干自分の予算枠から出てしまうのだそうであった。その過程で、いろいろと内情に関する話も聞くこととなった。
 病状再発に対する抗癌治療一回の費用は、3〜4百万円も要すると聞き驚いたものであった。だから、自身の余命に関する不安と、抗癌治療の凄まじい苦痛とに加えて、まとまった金額が預貯金からすり抜けていくという三重苦の現状だそうなのである。
 そんな中で、彼は呟いた。
「まあ、わたしの寿命がもったとしてあと3年ないし5年というところでしょうね。そんなこと考えると、ここに残る家内たちのために、すでに雨漏りが始まっているこの家の屋根だけでもちゃんと直しておいてやりたい、ということなんですよね」
 こたつを囲んで座っている奥さんの顔をわたしはチラリと見てしまった。歳に似合わないあどけない表情の奥さんの顔が、如何にも頼りなさそうに見えたものであった。
 彼は、元気な頃には、四六時中日曜大工作業をするほどに、自分の力というものに何がしかの自信めいたものを持つタイプであった。そんな彼であったが、日毎にその自信を放棄せざるを得なくなって行ったのが、この数年の闘病生活であったに違いない。
 そんな時、自分と同じように日曜大工作業をこなしていたわたしが、業者を頼んで屋根の葺き替えをしていると、彼は小耳にはさんだのであろうか。そして、その時に、いつかは身体が回復して自分で屋根の修復をやろうとしていた思いが、朝日の中の氷のように融けて行ったのかもしれない。もうそんな時間的な余裕はない、この機を活かして業者にでもやってもらう手配をしておかなければ、あとあと、段取りが決してうまいとは言えない家内たちがきっと右往左往することになる……、と彼は考えざるを得なかったのかもしれない。
 わたしは、総合的な事情の中で、自分が何をすべきか、できるかを、ビールを口にしながら、タバコを咥えながら考えていた。
「□□さん、屋根屋さんに、見積りの件、ちょっと掛け合ってみますよ。使う材質のグレード・ダウンなどを考慮すれば、ひょっとしたら□□さんの希望額で収まらないとも限りませんからね……」
 当該の自営業者の屋根屋さんも、苦労人の職人さんで良い人であったため、あまりゴリ押しの交渉をすることは憚(はばか)られたが、わたしなりに感じ取った事情を話せば、きっと誠意ある調整をしてくれるのではなかろうか、とわたしは考えていたのだった…… (2005.03.13)


 ライブドアとニッポン放送(フジテレビ)との応酬を見ていると、一般株主の存在軽視や、ニッポン放送の従業員の存在といういわばひとつの「盲点」に気づかされる。
 一般株主や、ニッポン放送の従業員というのは、生身の人間個々人を象徴する存在だということになるが、そうした存在が、それとは異質な次元の<モノ的>論理によって蹴散らされてしまうという事態と、生身の人間個々人の姿などがその陰に追いやられてしまうという構図が見て取れるということなのである。そして、それだけならば「盲点」という言葉には至らないが、そうした陰の存在が結局は無力であるどころか、最終局面では事態のキャスティング・ボートを握ることになりはしないかと、そんな予感がしてならないからなのである。
 また、わたしは、そうしたことが、今日の時代のひとつの特徴をよく表現しているような気がしてならないのである。

 詳細な話を繰り返したくもない気分ではあるが、要するに攻める方も守る方も、巨額資金を動かすことにのみ汲々としており、文字通り、事態を動かすのは<モノ的戦略>でしかないと決めつけているかのような気がする。
 わたしには「法的ジャッジメント」さえ、生身の人間個々人の思いから相当に距離のある次元の、いわば<モノ的>ジャンルの出来事だと見えてくる。というのも、法的事実というものは、決してそれが単独で一人歩きできるようなものではなくて、それを前提にした生身の人間の体温あるアクションが伴ってこそ現実化されるものだからである。現に、憲法の条項でさえ現実の事実と距離を持つものも少なくないように思われる……。
 要するに、現代という時代は、科学技術やIT技術であるとか、巨大組織であるとか、巨額マネーであるとか、とにかく<モノ的>論理を駆動できるツール類が凌駕しており、それらを駆使して、事態の<カタチ>が自在に変えられると思い込む風潮が強すぎるように見えるのである。
 いつぞやも書いたことがあるが、人の教育でさえ、知識やノウハウというモノを、教育者が被教育者に「トランスファ(転送)」することであると、安直な<モノ的>過程として見なされている向きさえある。結果をとらえてそう表現すれば妥当なようにも見えるのだが、事実は、その「トランスファ(転送)」と見えるプロセス自体に複雑かつ不思議なメカニズムが潜んでいるのである。それこそがジックリと見つめられなければならないにもかかわらず、まるで宅急便でモノが配送されるごとくに図式化されるところが怖い点である。いわば、そこに「盲点」が潜んでいることになる。

 ライブドアとニッポン放送の応酬の話に戻るならば、今後も含めて、結局この成り行きによって達成されることは、インターネットと放送メディアの融合などという、さながら政府や役所が描く綺麗事白書の観念的図式の前進なんぞでもなければ、グローバリズム時代のM&A現象の露払いでもないと思われる。前者が内実をもって進められるには、あまりにもそのビジョンは観念的かつ貧弱であるし、後者にしても、おそらく今後の後続のケースではもっとスマートに進められることとなるのではなかろうか。
 結局、今回のケースは、下手なクロール泳法のビギナーのように、ただただバシャバシャと壮絶な波飛沫を立てながら、それでいて推進力が伴わないといったはた迷惑でしかなかったのかもしれない。なおかつ、一般株主や、ニッポン放送の従業員たちという生身の人間個人たちが、計り知れない苦悩にさらされたはずであろう。今後の成り行きでは、さらに残酷な事態にもなりかねない。その上、最終局面では、そうした生身の人間個人たちの体温を伴った努力によって事が収拾されることになるのだろうと思う。

 こう書いていると、わたしはかつての「相続調停・裁判」のことを、ふと、思い起こすのである。以前にも書いたのだが、わたしの親戚関係では、祖父の遺産をめぐりおよそ10年という長期にわたり、時間と労力、気苦労が湯水のように費やされたものだった。そして、それぞれが手にしたものは、予想を下回る金銭と互いへの憎悪でしかなかった。まさしく徒労だとしかいいようがなかっただろう。
 なぜ、そうなってしまったのか? いろいろと考えられるとは思うが、上記に関連して言えば、「手順が逆さまになったこと」だと言えようかと思う。調停や裁判という「外科手術」に入る前に、その時期、その時期でやるべきことがあったはずだったのだ。不可能にさえ見えた<対話>の段階を、今しばらく相互にねばる必要があったわけだ。その時点では、公的機関での「調停・裁判」に非現実的な過大評価をしていたこともあり、親族同士の<対話>というものを軽視した嫌いがあった。しかし、今となって考えれば、結局そうした<対話>以外に何の収拾策もなかったはずなのである。極端な表現をすれば、公的機関が成したことは、双方が疲弊してどのような内容であれ、もう決着を付けたい、という諦念(ていねん)を誘い出すことであったかもしれないのだ。
 <対話>と言えば綺麗事にしか聞こえないかもしれないが、要するに実態的な人間関係を生かして歩み寄るということであり、最初から、<カタチ優先>の金銭争奪合戦に傾くようなアクションは慎むべきであったわけだ。これに傾斜して行くならば、もはや出口はますます遠のく一方だったのである。

 現在、経済問題だけではなく、国際紛争でも同種の問題が展開している。そこでは、巨額マネーの代わりに、最新兵器が<カタチ>の決着のためのツールとして採用されていたりする。アフガンやイラクでの一連の紛争がそのことを如実に示してきたわけだ。
 しかし、それで何がどう解決されたのであろうかという点になると、多くの人々が虚しい結果に目を向けているはずではないか。非常に平凡な言い草ではあるのだが、<カタチ優先>の決着の付け方というものは、どうしても予想を上回る禍根を残さざるを得ないかのようである。
 米国などでは、M&Aは日常茶飯なのだという論調も耳にする。しかし、果たしてそのプロセスや結果の実態はどうなのであろうか。まして、「敵対的」M&Aの場合にはどうなのか。そんなことをジックリと吟味する必要もあるだろうし、そもそも、米国スタンダーズのグローバリズムが絶対的に正しくて、それに近づくことが「新しい」動向だと決めつけるのも、あまりにも軽佻浮薄なのではなかろうか。
 ものごとの成否は、当然<カタチ>の変化を伴うものだが、<カタチ>の変化だけを過剰に増幅するツール類が蔓延した現代にあって、それらに簡単に依存することは、「盲点」と、それに由来する禍根とを積み上げることになるのかもしれない。常々「盲点」となりがちな事実にこそ、冷静に目を向けて行くべきではないかと思ったりするのだ…… (2005.03.14)


 「学歴偏重」時代は終わったと耳にすることもあるが、実態はどうなのであろうか。相変わらず、街のあちこちで「進学塾」は盛況ぶりを示してもいそうだ。時代の表面の風は「実力社会」とかのスローガンが聞こえたりする変化が見られたりしても、「学歴」という「小・神話」は根強く生き残っていると見た方が妥当なのかもしれない。
 この「学歴」という言葉は、「資格」というわかったようでわけのわからない言葉とも共鳴しながら、昨日も書いた<カタチ>至上主義の現代で色濃く生きているようだ。そして、なんだか「宗教的」とさえ言っていいような「小・神話」社会を形成しているのかもしれない。

 先日、ある人たちと話していて、自分の子ども達に「資格」を取らせることを進めたい、という話題が出た。就職難のこの時代にあって、つつがなく生活していかせるためには、「資格」を取らせておくことが必須だという主張を耳にしたのである。
 その意味がわからないわけではなかったが、わたしはあえて、いわゆる「実力主義」路線が望ましいという、正攻法の論陣を張ってしまった。
 現に、われわれの仕事であるシステム開発のジャンルでは、準「公的」な「資格」やベンダーが供与する「資格」が入り乱れて存在するが、必ずしもそれらを仕事の「実力」だと見なすわけにはいかないことを話したりもした。中には、実作業で学ぶことを軽視して、勤務時間中に「資格」試験の勉強をするといった考え違いの者もいて、人物評価する側は目を凝らして実力や可能性を見極めなければワナにはまるというような話までした。

 はっきり言って、人生いかに生きるべきか、また子ども達にそれをどう伝えるのか、というようなナイーブなテーマを掲げている人は実に少なくなってしまったかのようだ。時代が、弱肉強食の厳しい競争社会に変貌した現在、多くの人々が、どうやってサバイバルするのか、という「ミニマムな課題」にとらわれてしまっていると言ってもいいのだろう。理想を実現するとか、人生いかに生きるべきか、とかといういわば「マキシマムな課題」は、どうも棚上げにされてしまっている気配をうすうす感じたりもするわけだ。
 とにかくはじき出されないガードを張ることこそが切迫した課題であり、どう良く生きるかという問題はそのあとのことだと言わぬばかりなのであろうか。
 もちろん、そうした「段取り」的発想がわからないほど青臭いことを言うつもりはない。ただ、気になるのは、そうした「段取り」は果たしてうまく働くのだろうかという点なのである。ここにも、聞こえのいい図式的な考えがあるように思うのだ。
 それは、たとえば、受験勉強重視という教育路線を歩まされる子ども達のことをひとつ考えても不安が募る。どのように生きたいか、どんな理想を追求したいかという上述の「マキシマムな課題」(本来は当たり前の課題であるのだが)に没入することは、受験という「ミニマムな課題」を達成した暁に存分にやればいい、とそう諭された子ども達は、「段取り」を真っ当するであろうか。

 そもそも、受験という事柄は、どこで終わるのであろうか。有名中学の先には、有名高校があり、大学があり、大学院があり、その先にも一流企業があり、さらにポスト争いも引き続くことになろう。いわば、一度乗ったエスカレーターなり列車は、ほぼエンドレスの勢いで子どもや青年たちを運び続けるのではなかろうか。
 また、受験至上主義という発想に慣らされると、しかも、頭が柔軟な若い頃に刷り込みされるならば、その頭脳構造はその後の人生に多大な影響を及ぼし続けると思われる。それが、知識はあっても、自主性や創造力が乏しい日本人というお定まりの人種定義なのではなかったかと思う。
 つまり、ご都合主義的に、「ミニマムな課題」を達成してから、「マキシマムな課題」への挑戦をすればいい、とはいかないのが実情なのではないかと懸念するのである。

 今ひとつ、気になる事実がある。「学歴」や「資格」に誘うのは誰なのか、という問題なのである。ひっくるめて現在の経済構造だといえば当たらずとも遠からずということになろう。もっと抉った言い方をして、教育ビジネス界であるとか、進学塾業界だと言っても同じであろう。
 しかし、わたしは隠れたエージェントがいると推測している。それは、親たちなのであり、しかも、自身が「実力主義」的に満足して生きてこれなかった親たち、「学歴(資格)がないから不遇な人生を送った」と思いこんでしまった親たちの影響力は甚大であったと、そう思うのである。つまり、世の中の否定できない事実の一面ではある「学歴(資格)偏重」傾向を、増幅して過大に受けとめてしまった親たちというものは、子ども達に是非とも「学歴」や「資格」を取らせたいと念願してしまう。それは、悪意ではなく、善意の切望でもあるため、その影響力は大きいと言わざるを得ない。
 もちろん、医者や、高級官僚のように、自らが「学歴」や「資格」で人生をエンジョイできた親たちも、子ども達にそのハニー・ドリームを味わわせたいと思うはずである。それが、わが人生の終りなき輝きを維持することでもあるのだから、なおさらのこととなるのであろう。昨今は、さまざまなステイタスで、「二世、三世への継承」が進行しているとも聞く。何も、「北の金さん」の話だけではないのである。

 世の中は、グローバリズムだ、新経済だ、新しい時代の到来だと、きらびやかな言辞が飛び交っている。しかし、もう片方で、飛び交う表現とは正反対の旧態依然とした実態が再構築されている事実もまたあるようではないか。事実を丹念に見つめなければ…… (2005.03.15)


 芦ノ湖に面した箱根神社の鳥居のかなたに、雪化粧をした富士の上半身がとても綺麗であった。それを偶然に見出したわたしは、いろいろと構図を変えて何回もデジカメのシャッターを切った。
 いかにも寒々とした湖面や、湖面に接する周囲の山がとても暗い。そして明るい空を背景とした、雪で覆われた富士の姿は白っぽく明るく、両者の間には強烈なコントラストが生じていた。そのため、湖面や暗い山々といった下方の光景で絞りを決めてしまうと、明るい富士の姿は、背景の空と一緒くたになって「白く飛んでしまう」だろうことが懸念された。そこで、その懸念を払うべく、上方の明るい光景をレンズの中心に置くよう努めたりした。
 カメラの背面にある液晶ビューワーで、撮ったばかりのショットを慎重に確認してみる。まずまずの映りであり、ホッとする。それほどに、突然遭遇した富士山の姿は美しく思えたし、まったく予期していなかった光景であっただけに感激したのだ。
 こうした、クッキリとした富士の姿が見えるということは、それほどに今日は、肌寒くかつ風もあるということになる。いや、そんな他人事ではなく、芦ノ湖の冷たい湖面を渡って吹く風は実に冷たい。カメラを支える両手がしびれるほどに冷たくなっていた。ジャンパーの襟も立ててあごまでファスナーを閉じているが、それでも寒さがこたえてしまう。まあ、この二、三日続く寒さは事前に了解していたし、それを承知で戸外を歩くことにしたのだからやむを得ない。旅行に出る前に話していたとおり、温泉に入ることだけをねらいにして、宿泊施設内でごろごろしていれば、時ならぬ冷え込みを気にすることはなかったのだろう。が、この寒さゆえの見事な富士には会えなかったことになるが……。

 今週は、月曜から三日の休暇をとり、いつもながらの保険組合の箱根の保養施設に滞在していたのだ。「温泉だけを生きる支えにしている」(?)おふくろのために、時々、家内と三人での温泉旅行を計画するのであるが、今回はこの間の家の修理工事などで、わたしも家内も心身ともに疲れがたまってしまい、その骨休めという意味もあった。いわば文字通りの「湯治」というところである。
 実際、正真正銘の温泉(?)の湯というものは、身体の血行を思いのほか良好にさせてくれるものだ。確かに、「温泉に来た!」という心理的な開放感が果たす効果も小さくはないのだろう。だが、温泉の湯自体がもたらす効能にも確かな実感を覚える。湯から出る度に、さっぱりとした感じがするのはもちろんのこと、妙にぐったりとして、眠さに襲われる。夜も、睡眠の前に湯に入るとぐっすりと寝込むことができる。さすがに温泉の湯だと感心させられてしまう。

 おふくろは、歳をとってから大の温泉好きになってしまった。そのきっかけは、住居の近所にあったラジウム温泉に通うようになってからのことである。わたしも時々出かけたことがあるが、通常の銭湯とは異なり、やはり特殊な効き目があったようだ。骨の芯まで温まるという形容が当たるほどに、入浴後は火照る感じがしたものだ。
 おふくろは、その温泉が、歩いて十分程度の距離にあったことも手伝い、年間会員となって週にニ、三度は通っていたかと思う。ごろ寝ができる座敷もあったりしたため、居心地が良かったせいもあり、近辺のお年寄りたちが喜んでいたようであった。しかし、この温泉の経営状態は次第に悪くなってしまい、一度、どこかの経営コンサルタントが梃入れしたことがあったが、その努力も虚しく、結局別の経営者の手に渡ってしまった。
 おふくろは、馴染んでしまった温泉が新装開店になるというので当初は喜んでもいたのだが、次第に入ってくるうわさによって、老人向きの温泉から、サウナなどを主力とした若い人たち向きの店舗に変わってしまうことを知りがっかりとしていたものだ。
 それ以降というもの、温泉入浴で維持してきた(というつもりとなっていた)身体の調子を整えるため、バスに乗ったり電車に乗ったりしてでも比較的近場の手頃な温泉へと出向くようにもなった。また、昨今は、スーパー銭湯のようなものもオープンされるようになるご時世だが、町田市内にそんなものができると試しに出向いたりしているようでもある。
 しばしば、温泉好きのお年寄りの中には、温泉の湯自体が好きというよりも、温泉宿の雰囲気が好きだという人もいるようだ。ただ、おふくろの場合は、それもあるにはあるのだろうけれど、温泉の湯が持つ効能に主たる関心があるかのようである。だから、往復の時間と労力を割いてでも、ひとりででも出掛けるのであろう。

 こうした温泉好きのおふくろであるから、わたしがクルマを運転しての、このようなドア・トゥ・ドアというかたちでの温泉旅行はうれしいものなのだろうと思う。
 一泊三万円もするような、一般のホテルなどを使った温泉旅行ならば、いささかの贅沢感に苛まれようもするが、健康保険組合の保養所の場合は圧倒的に安いためその点は気がラクでもある。
 ただ、こうやっておふくろは何回か連れて来たにもかかわらず、亡父には親孝行らしいことを何もしてやれなかったことが悔やまれたりする。先日も、生活に追われたある年配の人が、「たまには、温泉にでも行きたいよね」とホンネをもらしていたのを聞いたが、この国のお年寄りたちの温泉旅行というものへの思い入れは破格のものがありそうな気がしている…… (2005.03.16)


 もう、半世紀近い昔の話である。
 アスファルト舗装はされていたとは思うのだが、やたらに砂埃が立ち、大型トラックなどがビュンビュン走る「産業道路」(確か当時はそう呼んでいた)を越すと、大きな橋があった。その橋を渡るのはなぜか緊張が伴ったものだ。その橋の向こう側は、当時「四号地」と呼ばれていた。子どもたちだけでそこへ遊びに行くことが学校から禁じられていたからだった。にもかかわらず、その一角に設けられた野球グラウンドには、こぞって何度か出向いていたものだった。そして、ある日の放課後、野球をそこそこに切り上げ、グラウンドとは反対側にあった「未踏」の地を探検しようということになった。

 自分たちが通っていた小学校である「台場小学校」とは、言うまでもなく、幕末に幕府が国防上作成した大砲の砲台である「台場」に由来している。幕府は、遠浅の海岸を埋め立てて、いくつもの「台場」を造ったのだった。「四号地」とは、小学校近辺に造られた「台場」のさらに外側、海寄りに造られていた「台場」のひとつなのであった。そこは、いま風に言えば「お台場」の一角であり、さらにその外側の「十三号地」とでも言ったのだろうか、そこは海浜都市として整備され、いまや東京の名所のひとつにもなるほど全国的にも注目されたり、話題を提供するスポットとなっている。海浜公園をはじめとして、何かとマス・メディアが取り上げる地域となり、あのうわさの焦点にもなっている「フジテレビ」の本社ビルも建てられている。
 当時、その地域は、潮風だけが吹き荒び、どちらかと言えば見捨てられた場所であったかのように覚えている。まあ、ぼちぼちと整備して行きましょうやといったふうで、今で言う、年度末の予算消化のための工事が行なわれていた気配があったかもしれない。

 野球チームが二つできるほどの数のガキたちが向かった「未踏」の地とは、薄っすらとなった記憶によれば、警察か何かの射撃訓練にでも使われていたような場所なのであった。それこそ「台場」の名残であったのだろうか、数十メートル四方に広がって土手のような堤が「ロの字」型になっており、その堤はいずれも、子どもたちの背丈を越える高さの笹の茂みで覆われていた。
 そこを探検しようということになったのである。堤を乗り越えると、内側は平地となっていた。射撃訓練場を想像させるような、何か標的のようなものがあったのかもしれないし、場合によれば、薬きょうをいくつか拾ったのかもしれない。
 周囲が、笹の茂みで覆われた小高い堤で囲まれたその空間は、子どもたちが気分を変えるには恰好の場所であった。見回しても、見慣れた建物が何一つ見えない空間は、まさに、「未踏」の地に踏み込んだようであった。しかも、大人たちはおらず、そこにいた誰もがちょっとした「十五少年漂流記」のメンバーのような気分になっていたのだろうと思う。
 内部の空間をさんざん楽しんだ後、誰言うとはなく、海側の堤を上れば外海が見られるはずだということになり、みんなが這い上がることになった。ところが、それが不運のはじまりであったのだ。誰かが、悲鳴を上げた。と、そのあと再度悲痛な悲鳴が聞こえたのだった。それから、みんなで大騒ぎとなった。
 小柄な身体のM君が、何かで驚いて駆け下り、運悪く駆け下りた先で折れた笹の茎に、運動靴の上から足の裏を突き刺してしまったのであった。それはそれは痛々しい姿であった。皆で、応急手当をして、一刻も早く帰宅することとなった。
 ちなみにその時、M君が何かを見て驚いたものは、実に気味の悪い大きな虫であった。薄ら覚えであるが、アゲハチョウか何かの幼虫ではなかったかと記憶している。数センチ位の大きさで、赤と黒の毒々しい色をして妙に目玉が大きかったかもしれない。気の弱いM君は、笹の枝にそんなものがはりついていたのに度肝を抜かされたようだった。

 M君を代わる代わる背負い帰宅するわれわれは、一様に罪意識に苛まれていた。それは、学校から「四号地」には子どもだけでは行ってはいけないと言われていたからというよりも、何だか、人知れず眠り続けていたかのようなあの「ロの字」型の堤の場所が、決して立ち入ってはいけない場所であったにもかかわらず、踏み込んだがゆえの、その「祟り」ではなかったかと鳥肌を立てていたのであった。
 その後しばらくM君は、体育の時間は、校庭の隅で「見学」というかたちであったことを薄っすらと覚えている。そして、その後何十年も経ってのことだったが、M君が病気で早死にしたことを伝え聞いた。

 以前から、こんな思い出も残された「四号地」やその周囲が、まるでディズニーシーのごとく「お台場」「お台場」と持てはやされるのは、内心、心地が良くなかった。砂ぼこりが舞い、見捨てられた場所のようでもあった自分たちの思い出の場所が、跡形もなく、けばけばしい光景で上塗りされてしまったからだと言って言えなくもない。
 しばらくはそんな心地も忘れていたのだが、最近、あの「フジテレビ v.s. ライブドア」の騒ぎで、フジテレビの本社ビルの姿をニュースなどで見るに及び、またまた不快感が蘇ってきたというわけなのである。
 フジテレビ関係者にしても、はたまた「ホリエモン」にしても、現時点での光景と「経済的資産価値」としての「お台場(フジテレビ)」の機能だけを、当然のことながら視界に入れているはずであろう。歴史や過去がどうのこうのという視点は、無意味なことであるかのようである。それは、企業経営というものに関しても、株の比率や経営権のみが焦点となり、それ以外は視野には入らないといういま風の姿勢と相通じているのだろう…… (2005.03.17)


 「真に受ける」という言葉に注目してみたい。この言葉の意味が、「ほんとうにする。ほんとうだと思う」(広辞苑)ということは誰にでもわかる。
 「ひと(他人)の話を『真に受ける』とろくなことはない」というように使われていることも誰にでもわかる。しかし、この現代という時代が、「真に受けてはいけない」ことが多すぎるということにどれだけの人が気づいているだろうか。
 相変わらず、「振り込め詐欺」被害は跡を絶たないようであり、そのことひとつを取り上げても、善良な人を「真に受けさせて」悪事を働く者が決して少なくはない風潮が了解できようというものである。

 では、時代環境の何がどう変わったというのだろうか。
 いろいろと考えられるとは思うが、その一点だけに着目するならば、現代という時代は、個人の自由が謳歌できることと裏腹に、個人が大なり小なり孤立しているという点を挙げてみたい。
 物事の真偽を判断するのは、結局、個人ということになる。ただし、個人という存在ほど環境に左右されやすく、不安定なものはない。
 たとえば、「群集心理」という事態があるが、それは、「群集」という状況の中では、一見人が大勢いるからそんなことはなさそうにも思えるが、実は個々人は孤立した心理状態に置かれるのである。そのために、周囲の人々の行動に盲目的に迎合してしまう結果となる。その非合理的な傾向を説明するのに、「群集心理」という心理的メカニズムが持ち出されるわけだ。これなぞは、個人というものは、たったひとりの判断主体として置かれると、きわめて頼りないことを証明していると思われる。

 それでは、個々人は、どのような状況にある時、まともな判断主体として立ち現れるのであろうか。一概には言えないが、抽象的に言えば、良好なコミュニケーションと信頼関係によって成り立っている集団や共同体の一員である時ではないかと思う。そうした場では、判断に迷った際に、相談もできれば質問もできるし、他者の率直な意見も聞けるし他者の顔色をうかがって判断材料を吸収することもできる。つまり、個人的な判断は、さまざまな素材によって支援を受けることができるわけだ。
 さらに、人は孤立状態に置かれると、きわめて不安定な心理状態になるものだが、信頼できる集団に帰属していると、逆に、不安感が取り除かれ、合理的な思考がしやすくなるという点も大きいはずである。
 おそらく、現在ほどに人々が個人主義化したり、孤立化したりすることがなかったひと昔前の時代にあっては、個人の自由は乏しかったはずではあるが、はるかに安定したかたちで何らかの集団(家族、地域社会、仲間集団……)に帰属していたと思われる。そして、その分、人々は、中身の問題はともかく安定した常識的な判断ができていたのかもしれない。もちろん、帰属する集団や社会自体が、閉塞的で、因習的であった場合には、その限りにおける常識的な判断をしていたには違いなかろうが。

 そうしたひと昔に前に較べると、何といっても現代の人々は孤立気味だと言わざるを得ない。それは、個人の自由と引き換えにした代償だとも言える。
 簡単な話が、電話であり、TVである。ひと昔前は、それらは一家に一台というのが相場であり、それらの活用は家族という集団で共同利用していたわけだ。そして、その環境が、煩わしさを感じさせながらも、個人の心理や判断を明に暗に支えていたのだろう。
 個人でケータイを使う現代人は、個人的自由を謳歌しながら、誰もアドバイスを与えてくれない状況の中で、判断の主観性をじわじわと深めて行ってしまう。TVやネットからの情報に関しても、ズルズルと狭い主観的受けとめ方へとはまり込んで行くことになるのだろう。
 こうした現代環境に加えて、こうした人々の孤立化を読み込んででもあるかのように、さまざまな情報の発信側は、孤立した個人に、その提供する情報を「真に受けさせる」戦術を駆使するのが通例である。その類は、決して「振り込め詐欺」の悪党だけではないのである。
 孤立して、いわば「判断能力に欠く」状態に置かれた現代人に対して、情報を提供する立場にあるあらゆる存在が、てぐすねをひいている! というのが残念ながら実情だと見なさなければならないように思われる。商業主義が普遍化した現代にあっては、問われる効率を損なってまで、正攻法でアプローチすることは考えにくいからである。
 商業主義の権化であるかのようになってしまったマス・メディアは、もちろん、本来の「公共性」(公共的役割!)なぞを単にお題目として、視聴率獲得を媒介にした儲け主義をひた走っている。正しいこと、事実を事実として、というよりも視聴率が上がるようにという原理が優先されることは、当然視されるわけである。これは何も、民間のマス・メディアだけのことではなく、この間、視聴者の不払い運動で窮地に立っているNHKですら、「公共性」よりも、組織温存・拡大が至上命令となってしまった観がある。
 かつての日本が仕掛けた戦争という事実を、できるだけ和らげて報道するとするならば、それは、視聴者たちに、「日本は悪くなかった」「やむをえない戦争というものもある」というとんでもない考え方を「真に受けさせる」ことになるはずではなかろうか。

 実は、この「真に受ける」という危ないテーマに思い至ったきっかけというのは、あの「フジテレビ v.s. ライブドア」騒動であった。現在のマス・メディアの、この問題に関する取り上げ方というのは、やはり間違っていると思うのである。
 正直言って、この問題は、要するに「巨利を貪る企業間戦争」なのであり、言ってしまえば暴力団抗争と五十歩百歩なのだと切り捨てたい。まして、「ライブドア」が言うところの「インターネットと放送メディアの融合」なぞという取ってつけた理屈を「真に受ける」ことは愚かなことであり、「ホリエモン」を変革の獅子だなぞと取り違えることは愚の骨頂だと思える。要するに、目的不明のグローバリズムと同様に、何のためという目的不明で荒稼ぎをする投資家でしか過ぎないのだ。まあ、この点では、自民党サイドが「カネで何でもやろうとするのはけしからん」と言っている言辞の肩を持つようでもあるが、それは区別しておきたい。さんざん今までというか、今でもというか、右手で「カネまみれ」になりながら、左手で奇麗事を言うような言葉をこそは「真に受けて」はいけないのである。
 「フジテレビ」にしても、さんざんテレビ局の「公共性」を蔑ろにして薄らくだらない番組を垂れ流しにしていて、断固既得権を守るでもない、とそう感じるのがホンネである。

 わたしが思うことは、われわれ庶民は、われわれの生活とその明日に切実に関係することにこそ関心を向けるべきなのであって、庶民とは縁のない「巨利を貪る」連中のドタバタなんぞに付き合っている必要は毛頭ないだろう、ということなのである。いや、そんなことを心配する必要は毛頭ないのかもしれない。庶民は、単に、そんなドタバタを、幾分リアルなサッカー・ゲームとしておもしろがっているだけなのかもしれないから。だとすれば、もうそろそろ飽きはじめてもいるだろうから、エンター・テイナーの当事者たちは観客たちを飽きさせないよう、そろそろ決着を急ぐべきなのではなかろうか…… (2005.03.18)


 お彼岸ということで、今日は、墓参りに出かけた。連休初日で、天気が良く行楽日和ということからか、16号線周辺の道路が目一杯混んでいた。いつもならクルマで30分程度の道のりであるのに、1時間以上も掛かってしまった。そう言えば、街に繰り出したクルマの数が多いのに加えて、年度末の予算消化の道路工事が何箇所かで行われていたことも、渋滞の理由であったのかもしれない。
 まあ、クルマの話はともかくとして、今週は、おふくろと話す機会が多かった。当然、墓参りにはおふくろも一緒なのだが、今週は週初めに温泉旅行へ一緒に行ったばかりであった。
 今日も、クルマの中で、または外食をしながらたわいない話をしたものだ。そんな話の中に、おふくろが着てきた洋服の話となり、洋服の生地のことをよく知らないわたしが、「その服は、何だか色褪せてるようだ」と余計なことを言ってしまった。
「そうじゃなくて、そういう染め方をしてるの」
と、おふくろは不服そうに言ったものだった。それから、洋服の話が始まり、
「古くなったものは捨てればいいんだけどね。いざ捨てようとすると『もったいない』という気持ちが込み上げてくんのよ。しょうがないのよね」
などと言っていた。
 わたしも、モノを捨てるのに潔くない方であり、とかく、家内から顰蹙を買ってしまう。何でも利用できるという貧乏性の頭が働いてしまい、こいつはここの部分が活かせるとか、こいつはこういう時に役立つとか、そんなTPOなんぞめったにないことを理由にしてとっておくという判断をしてしまうのである。確かに、頭のどこかに捨てるのは「もったいない」という思いがあるに違いない。

 昨日だかであるが、ラジオを聞いていた時、この「もったいない」というフレーズが、昨今流行っているとか、この日本語の言葉が国際的(?)にも注目を浴びている、とか言っていたのを耳にした。
 そう言えば、日常会話の中で、しばしば聞くこともあったかもしれないと思い起こした。おふくろの場合は、ほとんど「常套句」のようなので、それは除外しても、最近、若い世代からも、「それじゃ、もったいないじゃないですか」とか聞いた覚えがあったからだ。
 すると、にわかに、この「もったいない」というフレーズが、日常会話で飛び交うという現象は一体なんなのだろうか、と気になりだしたのである。

 当然、みんなが、モノの価値やおカネを強く意識している、あるいはそうせざるを得ない状況になっているからなのだろう、と類推してみた。確かに、そう言えなくはないだろう。なんせ、相変わらずの、出口を見失った不況状態はそのままだし、誰にとっても将来は不透明そのものである。そんな中で、確実に間違いではないことと言えば、贅沢の回避・拒否と節約なのかもしれない。そうすることのみが、とりあえず正しいことをしているという手応えを感じさせてくれるものなのかもしれない。
 しかし、ほんとうにそうなのだろうかという疑問が消えたわけではなかった。周囲を見回してみると、いいクルマに乗っている人は多いし(何も、自分が古いクルマに乗っているからといってひがんでいるわけではない……)、大型液晶TVなどの高級家電製品も売れているから店に並んでいるのだろうし、海外旅行へ出向く人々も決して少なくないし、贅沢品としか言えないような品々だって目を向ける必要がないから見ていないだけで、それはそれで結構、流通しているようでもある。それらの事実を踏まえると、何が「もったいない」と言える状況か、といぶかしげに思えてしまうのである。

 で、さらに考えてみるに、あることに気づいたのである。ひょっとしたら、「もったいない」という言葉が流行っているということは、「もったいない」と感じたり、思ったりする人々が多いのだろうけれど、「すべての人」がそう感じたり、思ったりしているわけではないだろう、ということなのである。もし、「すべての人」がそうだとすれば、「もったいない」と感じさせるような事象はなくなっているはずであり、あえて、この言葉が発せられるケースというものがなくなっているのではないか、と。
 つまり、「もったいない」という言葉が飛び交う状況というものは、そう感じる人々が多いだけではなく、そう感じさせる「もったいない」ことを平気でやっている人々もまた存在するからなのではなかろうか、という平凡な事実なのである。屁理屈に近い推論ではあるが。
 それは、「バカ」という言葉が飛び交うためには、「バカ」と罵ることのできる「バカ」ではないリコウな人たちが存在するとともに、文字通りの「バカ」がいなくてはならないのと同じではなかろうか。

 そして、わたしの推論が到達したイメージというのは、ひょっとしたら、現在の状況は、一方に「もったいない」という言葉を発せざるを得ない人々が累積されているとともに、他方に、他人に「もったいない」という感情を刺激することとなる贅沢な人々が立ち上がり、その両勢力が拮抗している、というものであった。いわば、「もったいない」という言葉をはさみ、それを「実感で言う」階級と、それを「実施して言われてしまう」階級とが二極分化して、今その階級闘争が、静かにかつ「はじめチョロチョロなかパッパ」の物凄さで始まらんとしているのではなかろうか、とまことしやかにわたしは考えた次第なのである。
 これが、真実味を帯びるのは、今まさに、経済環境が激変し、「一億総中間階層」社会は、持つ者と持たざる者、「過剰に持つ者たち」と「過少にしか持てない者たち」とに「二極分化」社会へと驀進しているからでもある。
 さらに、「もったいない」という言葉が飛び交う状況を精査していくならば、次のような事実にも目を向ける必要が出てくる。それは、「過剰に持つ者たち」とて「もったいない」という無縁としか思えない言葉を発する場合があるということである。それはどういう場合であるかと言えば、「カネ持ちほどケチだ」という世間一般が納得する逆説を思い起こせばわかるケースである。人間の欲のあり様は、海水を飲むがごとく、とはいにしえより言われてきた。多くの財宝を集めた者ほど、さらなる儲け口のチャンスを「もったいない、もったいない」と見逃さないのであろう、「ホリエモン」に限らず。
 また、「過剰に持つ者たち」は、とかく他人から妬まれる危険をも持つため、それをどういなすかに気を遣うものらしい。そして、「過剰に持つ」ことを気取られないためにカモフラージュする必要に迫られる。そこで、本心ではない言葉を庶民と一緒になって言う必要も出てくるのである。そんな「もったいない」ことは、わたくしなんぞにはできません、とか何とか言うわけである。

 かくして、「二極分化」社会到来とともに、俄然、「もったいない」という言葉が、「階級」の垣根を越えてあちこちで飛び交うという現象が蔓延することになるのであろう。
 しかし、この言葉を、昨日の話ではないが、「真に受けて」はならないのである。上述のごとく、これを口にする者が、必ず「過少にしか持てない者たち」=「言う」階級だとは限らないからである。
 しかも、仮に同じ「階級」だとしても、なお不可解な問題が残るからでもある。そもそも、何を基準にして「もったいない」と言っているのかは、個人個人によってまちまちの可能性が十分に残されているからなのである。自分自身の財布に関する「もったいない」感を、他人の場合には決して適用しない人もいるだろうし、とにかくおカネだけと限定する人もいるだろうし、あるいはモノを焦点にする人もいる。はたまた、おカネにこだわりつつ、時間の浪費には無頓着な人も少なくない。さらに、あらゆる財貨に「もったいない」感を発揮しながら、「もったいなくも」自身の名誉や尊厳をドブに捨てる人さえもいる。
 事ほど左様に、「もったいない」という同一の言葉を発しながらも、そのホンネは個々まちまちであるのが実情なのであり、それだからこそ、たとえ現象自体は顕著ではあっても、決して「もったいない」階級という概念は成立しないし、ましてその「階級闘争」なんぞは決して始まることはない、と最終的には結論づけざるを得ないのである…… (2005.03.19)


 この何日間かは、成り行きで10時過ぎくらいからこの日誌を書いている。
 とかく休日の日は、日中は何かとほかのことで忙殺(?)されるため、押せ押せで、結局は就寝直前に、そこそこ頭を使う文章作成作業をやることになってしまう。昼間はさして頭を使わないで、眠る直前に頭を使うというのは決していいことではないようだ。

 最近は、さほど寝つきが悪いほうではないが、どうも支障はそれだけではなさそうだと気がついたのである。因果関係については定かではないのであるが、眠る前の一、ニ時間くらいに頭の方の根を詰めると、どうやら見る夢がにわかにリアリティを帯びてしまうようなのである。と言うか、頭の方が、本気で夢の生成活動をしているようで、夜中に目が覚めたり、朝、目が覚めた時に、夢を見たことで頭が疲れた感じを持つのである。
 勝手な類推をするならば、眠る直前にそこそこ集中して文章作成などを行うと、出来上がる文章以外に副次的にさまざまな想念が頭の中に生成されるのではないかという気がしている。そして、夢というのは、覚醒時の頭脳活動を「整理整頓」する活動だというから、次のようなことが、頭の中で起こっているのではないかと想像するのである。

 大工の棟梁が、時間に急かされて、それなりに気合を入れて何かを仕上げるならば、当然、角材といわず板といわず、木屑が大量に発生するはずである。また、急ぐ仕事では、いちいち道具をきちんと片付けるということもなかろう。したがって、作業場は、木屑や鉋屑で足の踏み場もないほどに散らかり、また鋸や槌から、鉋や、大小さまざまなノミなども使いっ放しの状態で置かれていることであろう。
 そして、作業を完了させた棟梁は、自身の仕事はそこまでとばかりに作業場を満足げに出て行き、ひとっ風呂浴びるべく湯殿へと向かうのであろう。しかし、棟梁の仕事は一段落したとしても、弟子たちの仕事も終わるわけではない。むしろ弟子たちの役割りはそこから始まるのであり、木屑や鉋屑で散らかった作業場の掃除から、道具を所定の場所に戻したり、あるいはその暫定的な手入れもしなければならない。次の朝、また棟梁に気持ちよく仕事に就いてもらうための裏方作業は、それはそれで重要な仕事なのである。

 と、まあ、大工の棟梁の仕事が、頭の働きで言えば覚醒時の頭脳活動だとすれば、弟子たちの後片付けや道具の整理整頓作業というのが睡眠時の夢ということになるのだろう。したがって、棟梁の仕事が、夜更かしとなれば、弟子たちはそのあとでてんやわんやとなるわけだ。鉢巻を締め直して事に当たらなければ夜が明けてしまうことになる。きっと、本腰を入れた掃除と整理整頓作業になるはずであろう。そして、夢を生成してしまう頭脳の裏方活動も同じ事なのだろうと、そんな風に考えるわけなのである。

 昨夜も、明け方近くに目を覚ましてトイレに行く時も、また、朝に目をさました時にも、いずれも妙に現実感を伴った夢から覚醒したのだった。そんな風であったから、睡眠で頭の疲労が解消したというよりも、逆に、夢を見ることで、頭がというか気分がというか、それらが疲れたようになっているのを自覚したものであった。これがひどい場合には、俗に言う「夢にうなされる」ということにでもなるのであろうが、そこまでには至らず、見ていた夢の内容も別段うなされるといった種類のものではないし、恐怖感を伴うようなものではない。あえて言うならば、夢の中でもマジに考えていたり、やたら気を巡らせていて、決してのんびりとはしていない模様なのである。だから、目覚めて疲れの感じがどっと押し寄せるわけなのである。
 そんなわけで、今夜は、このくらいのところで矛を納め、のんびりとした夢を見るべく、このあとのんびりと湯船に沈もうかと思っている…… (2005.03.20)


 何でもないことであるが、これが生活の知恵かと再認識させられたことがあった。
 下水の臭いが排水管から這い登ってくるというのは、たまらなくいやなものである。いざそうなってみて、はじめて気づかされ、そしてその周辺のいろいろなことを考えさせられ、渋々対処するというようなことがあったのだ。
 以前、キッチンから裏庭のマンホールに至る排水管が詰まり、大騒動となったことがあった。キッチンの床と、流し台との間に、汚水が溢れ出して、プールのように溜まるというとんでもない事態が起きてしまったのである。主たる原因は、排水管が詰まったことであり、そのまた原因は、排水管内部に流しから排出された生活汚水に含まれた油類が、まるで歯石のような固形物となり、ほとんど完璧に排水路を塞いでしまっていたのだ。
 そして、そうなったさらに原因をさかのぼると、ある特殊な形をした排水管の形状に問題があったことがわかった。図ではなく、文章でそれを表現するのははなはだやっかいなのであるが、あえて表現するならば、キッチンから、外の直径30センチほどのマンホールに至った汚水は、滑り台を下る雨水のように直線的にそのマンホールに落下するのではないのである。マンホール内部で、いわば、噴水のようにやや吹き上げて落下するのである。つまり、マンホールに接続された配水管の先端が、上向きになっているのだ。そして、その上向きになった口には、当然常時汚水が溜まって配水管を塞いでいることになる。
 この排水口の先端から2、30センチほどの間の排水管がいつも汚水で塞がれているという事態が、汚水中の油やその他の汚物を滞らせ、沈殿し易くさせていたというわけなのである。そして、この推移こそが、配水管内部に流れを妨害する固形物を生じさせるひとつの見過ごせないメカニズムだということだったのである。

 しかも、その排水口の形状は、市の行政指導によるものだったと、下水道業者から聞かされた。何と馬鹿げた話であろうと思い、先日の台所改修工事の際に、その排水口の上向きの口を切り落としてもらったのである。これで、汚水は勢い良く一滴残らずマンホールに注ぎ込まれ、排水口が詰まる心配はなくなったことになる。
 ところがなのである。その日の夜から、とんでもない「怪物」が、家の内部を彷徨し始めたのだった。異様な悪臭が立ち込めたのである。今までそんなことがなかっただけに、最初は何事かと戸惑うばかりであった。野良猫が縁の下で行き倒れにでもなっているのではないかという妄想まで生まれた。
 が、やがてその悪臭は、要するに下水の臭いであり、その原因が、配水管の空気の流れによって逆流してくるからだとわかったのだった。つまり、いままでは、配水管の先端に溜め水があったことにより、配水管は常にマンホールの空気を遮断していたのである。ところが、その配水管の先端の溜め水を取り除いたことによって、配水管は、汚水の流れを良くしたことは当然としても、同時にマンホール内の悪臭を含んだ空気を逆流させて、家の内部にただならぬ悪臭を忍び込ませるということまで併せ行い始めたのだった。
 市の行政指導が狙っていたことは、まさにこの悪臭の遮断だったということが、愚かにも後の祭りというかたちで納得できたのである。せっかく、業者に、配水管の「減らず口」を削除してもらったのだったが、その途端に、堪えようのない副作用に悩まされてしまうとは、何とも皮肉かつ不幸なことであった。それはともかく、急がねばならないことは、排水口の再度の詰まりは警戒するとして、先ずは、何としても悪臭退治に手を打たざるを得ないということだったのである。

 そこで、今日は、その「減らず口」の「削除」という処理を、「取り消す」あるいは「もとに戻す」という作業をせざるを得なかったのだ。PCでの「削除」を誤動作として、「取り消す」あるいは「もとに戻す」のは、所定のボタンのクリックひとつでできることであるが、ドブの配水管の場合は、やる前から大変な作業であろうことが十分推測できることであった。
 つまり、汚水の流れを、ただ単に良くするというのならまだしも、逆に、その汚水が出口で一時滞留すること、長ければ「一泊」の滞在をするように段取りするわけだが、そこには、やっつけ仕事ではかなわない難易度の高い作業が隠されていたからである。というのは、先端で排水が溜まるように「蟻の這い出る隙間」どころか、「一滴の水も漏らさぬ」加工を配水管先端部分にしなければならないからなのである。しかも、相手は、水物であり、なおかつ、その部分は、業者によって乱暴に切り取られて、切り口はギザギザだらけである。
 わたしは、先ずは、役立ちそうな水道部品を入手すべくホームセンターに駆け込んだ。そして戻ってから、おもむろにマンホールの蓋を空けてみた。その瞬間わたしは、その悪臭を嗅いだことと、これから始まるであろう悪戦苦闘を思い描きながら、一瞬、フラッとした目眩を覚えたものだった。
 が、幸い、入手してきた塩化ビニールパイプの部品がうまく活用できたこと、かねてより「水中ボンド」なる水に強い接着剤が手元にあったこと、そして何よりも、何としてもこの悪臭を家の中に浸入させるものかという不退転の決意などから、気持ちまで腐る(?)ほどの長時間を掛けずに、「一滴の水も漏らさぬ」加工を、そこそこ迅速に成し遂げることができたのであった。
 まあ言うまでもなく、ニッポン放送株の買占めなんぞに較べれば、実に、「屁」のようなチマチマした作業ではあった。しかし、「屁」よりも臭いその「悪臭」を根絶することを完遂し、妙に、ささやかな満足感に浸っている連休最終日だったというわけなのである…… (2005.03.21)


 どうしたことか、起き抜けから背中が痛く、その上虚脱感も伴い、とんだ連休明けの朝となってしまった。風邪をひいたのかとも考えたが、そうでもないらしい。どうも、寝ている間に、背骨周辺の筋肉の「筋違い」か何かを起こしてしまったらしいのだ。そう自己診断すると、よく経験する「寝違え」による首筋の痛みと似ていることが自覚できそうだった。後方を振り返ろうとしたら肩甲骨が挟むあたりの背骨周辺に痛みを感じたので、いよいよ「寝違え」による「筋違い」だと判断するに至った。
 昔から、まっすぐに天井を見て眠るというような行儀正しい眠り方ができないで、寝相が悪いため、しばしば「寝違え」のようなことを起こしてしまう。おそらく、身体が柔軟ではなくなり始めていることもあり、そんなことが起こりやすくなっているのかもしれない。

 今日は一日中気分が冴えず、洒落なんぞ言っている場合でもないのだが、洒落っ気を発揮して昨今の世相を見回すならば、「筋違い」なことが多過ぎるような気もしてくる。いわゆる「おかどちがい」という意味での「筋違い」の現象のことである。
 先ず思い当たるのが、例の「誰でもよかった」とうそぶく犯罪であろう。相手に対して特別の恨みや憎しみなどの感情があるわけではないにもかかわらず、危害を加えたり、酷い場合には命まで奪うというのは、あまりにも「筋違い」がはなはだし過ぎる。
 また、「逆恨み」というのも「筋違い」の代表例であろう。
 先日、の報道で「『非行少年、見て見ぬふり』5割超す 内閣府世論調査」(asahi.com 2005年03月19日19時57分)というのがあった。

「不良行為をしている少年を見かけた時、『見て見ぬふりをする』と答えた人が5割を超えることが、内閣府が19日公表した世論調査で明らかになった。少年による重大な事件が『かなり増えている』と感じている人は全体の3分の2を占めた。
 『見知らぬ少年が喫煙しているのを発見したり、深夜に少年のグループが公園などに集まっているのを見つけた場合、どうしますか』との質問に『注意したいが、見て見ぬふりをする』との回答は54.0%に上り、01年11月の前回調査の49.8%より4ポイント以上増えた。『警察官に連絡する』が14.2%、『注意する』は11.5%だった。
 見て見ぬふりをする理由については『少年に暴力を振るわれるおそれがあるから』が78.8%を占めた」
とある。

 要するに、注意をされて、「逆恨み」という「筋違い」のアクションをしてはばからない者たちがやたらに増えたということなのであろう。

 わたしは、かつて、飼い猫に足を噛まれて入院騒ぎとなったバカな経験をしている。猫が病気となったため、家の外には出さずに見守っていたところ、その猫はスキを見て表に飛び出してしまったのだった。そこで、心配になり、家に戻そうと動いたところ、その猫はパニックとなり、わたしの足を思いっきり噛んだのであった。痛くはあったが、大したことはなかろうと油断をしたら、見る見ると腫れ上がり、病院に駆け込むや否や、「入院してもらわなければ責任が持てません」ということになってしまった。そして、全治一週間の入院にあいなったのだ。一週間の入院であったため、会社の部下たちが見舞いにも来てくれたのはいいが、日頃、小難しいことをほざいていた者が、飼い猫に噛まれてその毒が回り入院という「事件」は、笑いもの以外の何ものでもなかったのである……。
 いや、横道に逸れてしまったが、つまり、飼い主の足を噛むなどという破廉恥な「筋違い」アクションは、まさに畜生外道の専売特許だということが言いたかったのである。

 この現代に、それに類似した犯罪はあったとしても、畜生外道以下の人間が増えたと考えたくはない。というのも、おそらくは、そうした者たちがいつでも、誰にでもそうであったということではないと思われるからなのだ。きっと、自分が大事にしたい友人たちや、仲間たちの中では、場合によっては心を砕いたアクションで報いていたのかもしれない。ありそうなことである。
 が、ひとたび、そうした集団の外に出ると、打って変わった野蛮人的行為を平気でやるようになる、というのが真相ではないかという気がするわけだ。かつての戦争での、日本軍の残忍さがすぐに思い起こされたりするのだが、所属する集団や組織の「質」というものが大きく作用しているのではないかと考えさせられたりする。閉鎖的で、かつ権威主義的な風潮が強い集団、組織の所属メンバーは、自身でも処理し切れないストレスや怨念を累積させ、それを外に向かって、「筋違い」であろうがなかろうが発露させるということになるのではなかろうか。
 「筋違い」なアクションの前提には、おおくの場合「筋違い」とも思われるような非合理的なストレスの蓄積が潜んでいるような気配を感じるのである…… (2005.03.22)


 「犬は老いても、我が身の老いを嘆いたり将来を思い煩ったりせず、現在を満足して生きる」というくだりが眼に飛び込んだ。今朝の「天声人語」の文面である。
 東大教授で獣医学の林良博さんの言葉だそうだが、文面は、そんな「相棒と共に老いを重ねたい。そう望む人は、この少子高齢の時代に減ることはない気がする。」と結ばれていた。
 「全国で飼い犬は1200万匹を超え、老人世帯は4軒に1軒ぐらいが飼っている」とのことらしい。物騒なご時世だから「番犬」を飼うという意味合いもないではないのだろうが、ここはむしろ、この文面に引用されていた作家の中野孝次さんの思い入れこそが妥当だと思われる。
「老いてから飼う犬という存在は、たんなるペットという以上に……世話をやいてやるべき被保護者であり、そして何よりも安心してひたすら愛することのできる対象なのであった」(『犬のいる暮し』文春文庫)。
 昨夏亡くなった中野孝次さんが、その晩年を、愛犬の柴犬「ハラス」とすごし、どんなにハラスに対して愛情を注いでいたかは「ハラスのいた日々」というベストセラー本で多くの人が知るところだ。これは、言い換えれば、中野孝次さんのようなお年寄りで、こよなく飼い犬を愛している人がどんなに多いかということでもあるのかもしれない。

 自分は、まだお年寄りとは自認したくはないが、中野孝次さんの想いがいやというほどよくわかる。「清貧」であることを望み、「古典」を尊重して薄っぺらな世相を厭い、TVや電話などをも避けた同氏が、「囲碁」にのめり込むとともに、素朴な生きものである犬に限りない共感を覚えていたことが、だんだん身に染みてわかるようになってきた。
 わが家で、十四年も一緒に暮らした飼い犬レオが亡くなって、あと一週間ほどで一年が経過することになる。どうにか、この間、レオがいないさみしさや空虚感は薄らいだものの、中野氏が、「ハラスの死後、犬のいない生活に耐えられず再び飼い始める」(「天声人語」)ことになったように、再度、犬を飼ってみたいという思いは消えていない。死んだレオには、若干気がひける思いもあるが、「いいんだよ」と言ってくれそうな気がしないでもない。「猫なんかより、犬の方がいいですよ」とでも言ってくれそうな気が……。
 確か、英国では、共同住宅ででも犬を飼うことが権利化されているらしい。それを知った時、直感的に、さすが文明国だと感心したものであった。人間個人の孤独感というものを、しっかりと見据えている文化こそが、深遠な人間社会の文化だと思えたわけなのである。
 この国の場合、住宅事情の悪さが決定的だからだなのであろうとは推察するが、それにしても、埋めても埋めてもあまりあるような人間個人の孤独感に対して、さり気なさ過ぎるのではなかろうか。人間社会でできることならば何でもやればいいと考える。
 逆に言えば、さり気なさ過ぎたり、不感症であるがゆえに、その苦痛に耐え切れない者たちが、さまざまな不測の事態を引き起こすとも想像できる。人間個々人が抱えた、宿命的でさえある孤独感にさえ、現代の時流は、「自己責任」論を持ち出すのだと言っていい。それを言っちゃ、おしまいよ! と嘆かわしく思うのは、何も、捻くれ者のわたしだけではないように思うのだが…… (2005.03.23)


 「ライブドア」の活動を「進駐軍」だと見出しで表現した週刊誌があった。なるほどなあ、と考えるきっかけとなったものだ。
 先ず、この「進駐軍」という表現は、M&Aを常套戦略とする「ライブドア」という企業の活動を、当たらずとも遠からずのかたちで揶揄(やゆ)しているのだが、もっとマクロに言えば、アメリカン・スタンダードの拡延・強要としてのグローバリゼーションのうねりそのものが、「進駐軍」だと思えてならない。
 「ヘッジファンド」などの巨額なマネーが、軍事行動さながらの秒速単位のスピードで経済状況を制覇していく姿は、まさに「進駐軍」だと言っても間違いではなさそうではないか。もちろん、軍事行動もマネー・ゲームも、所定の法やルールを逸脱するものではない。しかし、所定の法やルールというものが、絶対、万能ではないということを想像できる人は少ないし、それらが、時として、現支配勢力の意向を最大限に弁護するものであるという本質を凝視するものはもっと少ないだろう。

 わたしは、常々、「自由と民主主義」という一見反論しがたいようなスローガン、それはおどけて言うならば、「この葵(あおい)の御紋が眼に入らぬか!」の有無を言わさぬ威力のような感じでさえあるが、そうしたものを前面に出しながら、米国流の経済活動スタイルを浸透させていくところのグローバリズムというものを、怪訝に思っている。どれほどの違いがあるのかは定かではないとしても、まだ、いろいろな要素に配慮しているかのようなヨーロッパ・スタイルの方がましだと見なしている。
 一言で言えば、「自由」を押しつけているようなパラドックスが気に入らない。
「ほら、『自由』に食えと言っとるんや! 何でそれがわからんとね!」(若干、訛ってます。TV番組『青春の門』を見ていた影響か?)と言ってもいいように見える。特に、「イラクの解放劇」ではそう思わざるを得なかった。

 ところで、60年前の「進駐軍」は、もう少しだけ、「知的」努力があったのではなかったかとふと考えた。つまり、戦勝国米国による日本占領は、さまざまな「社会・文化」諸科学(ex. R・ベネディクト『菊と刀』。そもそも、文化人類学をはじめとする文化諸科学は、軍事戦略と歩調を合わせて発展させられたという見解もあるほどだ)によっての、敗戦国日本の歴史的実態を研究し尽くした上で、ムリの少ない占領統治策が推し進められたと聞いている。
 その代表的政策が、天皇制の温存ということになるのであろう。つまり、「合理的」な占領支配を完遂するためには、「進駐軍」による制圧だけではムリであり、日本人の心情をいかに懐柔すべきかに配慮されたということなのである。この点では、60年前のマッカーサー率いる「進駐軍」は、概ね、当初の目的をつつがなく達成したと言っていいのだろう。そして、その陰の立役者は、日本文化や日本人の内面を照らし出した文化諸科学であり、それを尊重したトップの洞察ではなかったかと考えている。
 それに関連して言えば、米大統領ブッシュが、60年前当時の日本への占領政策を見習えと言ったことが印象的であった。要するに、60年以前の日本占領統治は、軍事力に加えた「文化の科学」の力によって歴史的な大成功であったわけだ。今回のイラク占領と統治の道筋が、誰の目から見てもたどたどしいことを知るとき、ブッシュならずとも、その推進が杜撰だと思えるし、軍事力に頼り過ぎて、占領統治下の人々の心に向けた「知的」努力がお粗末だと感じるのである。
 確かに、単一民族国家日本に対して、イラクは多民族、多宗派国家である点が難しい点なのだろうが、それは開戦時からわかっていたことであり、統治可能との見通しがあったからこそ開戦、占領に踏み切ったのではなかったかと……。

 言いたいことは、いまさらグローバリゼーションが、世界各国の色とりどりの固有な文化を蹴散らすはずだと嘆こうということなぞではない。仮にも、グローバリズムの推進者たちが、もし世界の素晴らしさを丸ごと温存する意思があるならば、その「やり方」というものにもっと細心の注意を払うべきだろう、ということなのである。「進駐軍」が、より大きな勝利品を勝ち取るためには、それなりの「やり方」というものがありそうだということなのである。それは、「合法的」かどうかというような次元の話でもなければ、「相手が閉鎖的なのだから」というようなガキの喧嘩レベルの言い分でもないはずである。
 相手を失意と無念さに追い込んで支配権を獲得する勝利者は、預かり受けた領土を決して枯らしてはならないのは当然として、さらに幾重ものプラスアルファを創造し、拡大再生産をしなければならないということなのである。事を始めた動機が吟味されなければならないとともに、大きな責務を背負い込むことになるはずである…… (2005.03.24)


 もう午後五時を過ぎているのに、戸外は実に明るい。青空が広がり、雲といえば白い浮雲が夕日を浴びて、ピンク色に染まり流れている程度であるからなのであろう。
 天気が良ければ、午後六時までは十分に明るい季節となったわけである。ちなみに、今日の東京地方の日の入り時刻は、午後六時五十七分とある。日の出時刻も、いつの間にか早くなったもので、今日は午前五時三十八分だったという。(気象サイト調べによる)
 ここしばらく体調を崩してしまっている。背筋の筋違いやら、何とはなしのダルさやらで、気分が今一であり、まあ、季節の変わり目なのだろうから身体もそれに準じていそうなものだと思っている。こんな時は無理をせず、と思いウォーキングなども小休止したりしている。
 しかし、これからは日の出が早くなり、早朝の時間帯が「三文の得」以上に価値あるものとなっていく。どこかで聞いたことがあるが、早朝の日の光は身体や脳活動にとてもいいとかである。いや、そんな科学的事実である以前に、体験的、体感的事実として百も了解できることだと思う。夜な夜な不健全に時間を浪費せず、早寝早起きの習慣をつけて、輝ける春や夏を迎えてゆきたいものだ。いかにも、年寄りっぽい言い草ではあるわけだが、ますます最近は、自然の摂理に沿って生活することの貴重さが身に染みつき始めていそうである。

 「愛知万博」が開催されたようで、各パビリオンの様子がTVで紹介されている。TVでの紹介がそうであるのかどうかはわからないが、やたらにロボットの姿が目につく。オーケストラの演奏者の総勢がロボットであったり、受付嬢が人工皮膚を持つようなロボットであったり……。それはそれで楽しくないことはないのだが、わたし自身としては、今ひとつ食傷気味でもある。もっとも、「万博」という博覧会=大規模「見世物小屋」に過剰な期待なんぞしてもはじまらないが、それでも「見世物小屋」であるのなら、「ホリエモン」以上に意表を突いて、アッ、と言わせてほしいものではないか。精巧なロボットが何をしてくれようと、もはや現代人はちっとも驚かないし、感動もしないのではなかろうか。
 映画やその他のフィクショナルなイメージ世界で、フィクションと現実の区別すらボーダレスになっているかもしれない子どもたちなどにとっても、驚きの対象というよりも、あればいい玩具程度の印象に止まるのかもしれない。
 また、小難しく考える理屈屋の大人にとっては、人間の思考が単純化(?)している現代にあって、それを模したにしか過ぎないフェイクのロボットなんぞ、「うるさいから、あっち行って寝てたら!」と言いたくなる代物なのではなかろうか。
 人生の辛酸を嘗め尽くしてきた御仁にとっては、人間の内に潜む未知なる不思議こそがほしいのではないんでしょうか。それは、現実の、あるいは自然の人の姿(生きものの姿)の中にしか見出せないのであって、閉じられた世界に収まってしまう範囲の出来事の再現をプログラミングされたって、「へぇー、そうですか、良くできてるね……」としか言いようがないだろう。

 ただ、今回の「愛知万博」の目玉は、「シベリアの永久凍土から掘り出された約一万八千年前の『マンモス』」だとも言われており、これはひょっとしたら大規模「見世物小屋」としては掘り出し物なのかもしれない。わたしの興味基準からしても、まさに寡黙でありながらやるときにはやる自然が創り出した存在であるのだから、一見の価値はあるかもしれぬ。
 その巨大な「マンモス」を見て、現代人は、あることを考えねばならないそうなのである。永久凍土に埋没することになった「マンモス」が、何に負けたのかということ、すなわち、激変した自然環境について、だそうである。そりゃそうだろうと思う。地球環境の危機、その寿命までを心配させるほどに現時点最優先の文明を野放しにして、自然環境に目もくれないなら、人類こそが永久凍土の中でコチコチになるのだから。
 だからこの点も、わたしの価値基準から言って同意できる点である。もしも、「環境を旗印にした万博が『環境破壊』ではシャレにもならない」と皮肉られる、万博会場決定に至る経緯がなければ、もっと素直に同意できたであろう、とも思うが。

 それにしても、何にも驚かなくなった「耳年増(みみどしま)」のような現代人を前にして、昔ながらの大見世物小屋イベントを開催するというのは、中身はどうあれその敢行自体が先ずは驚きの的であったのかもしれない…… (2005.03.25)


 家庭の排水まわりの臭気というものは実にしぶといものである。先日、大元と思しき箇所を「小工事」してそれはそれで首尾よく完了させたのだが、注意深く臭いの点検をしてみると、別の箇所にも原因が残っていることがわかった。細かく言えば、キッチンとは別の洗面台側の洗濯機の排水回路に、臭いが逆流してくる隘路があったのだった。ほんのわずかな隙間でしかないにもかかわらず、室内と床下の空気圧の差で臭いが浸入してくるようなのだ。
 そこで、今日は、天気も良く、気分もまずまずであったことから、日曜大工デーにするかと決めたのであった。
 この間、家の外壁も塗り替えて、居住環境が何となくリニューアルされたこともあり、まるで焼けぼっくいに火がつくがごとく、この春は、しばらく遠ざかっていた日曜大工に勤しむことになるやもしれないと思ってはいた。庭の手入れもとんとせずに来たここ何年かであったため、何かきっかけさえあれば毎週でも日曜大工に没頭できる流れにあった。
 ところで、ここへ来て日曜大工に関心を向けつつあることには、別のそれなりの理由があったとも言える。実は、先日の屋根の葺き替え、雨樋の付け替えの際に、ちょっとした驚きの事実が判明したのである。
 それは、かねてより不安視してきたことなのであるが、どうも、家の中のとある柱がシロアリで蝕まれていそうなのである。そのことに警鐘を鳴らしたのは、屋根屋さんであった。雨樋を取り付けようとして留め金具を打ち込んだところ、柱があるべき箇所に手応えがなく、「ぬか釘状態」になっていたのだった。そこで、屋根屋さんが、これはひょっとしたらひょっとしますよ、と言って注意を促してくれたのである。
 幸い、その周囲の壁にクラックが見当たらないため、その柱に掛かる荷重はさほどのことではなさそうではあるが、それにしても大事に至らない前に何とか補強策を講じなければならないはずである。
 おそらくシロアリの仕業であろうことはほぼ確実であると思われた。というのも、その柱は、風呂場の隅の柱なのであり、一頃は、湯船の隅のタイルの隙間からアリが行列で風呂場に侵入してきては、風呂に落ちておぼれていたのを目撃しているからなのである。
 こうしたことがある以上、日曜大工仕事に関心を持たざるを得なくもなっているのである。いや、この補修作業が、日曜大工作業の範囲内のことかどうかは定かではないが、自分としては、何らかのかたちで挑戦せずにはいられないとも考えている。
 さし当たって、シロアリの仕業かどうかの点検だけでも、その箇所のモルタル壁を剥がして暴くべきだとは目論んでいるわけである。
 今日、排水回路に潜んでいる隙間を埋めるパッキンを探しに出向いたホームセンターにて、わたしは、これから始まるであろうシロアリとの「闘い(?)」に備え、とうとう、とある道具を購入してしまった。それは、モルタルなどを削って切断するサンダーという工具なのである。
 サンダーについては、決して馴染みがない工具ではなく、学生時代に鉄工作業のアルバイトに根を詰めた時、十分にその使い勝手を得とくしていた。その回転板によって、鋼鉄をも削ったり、切断したりすることが可能なこの工具は、回転板をその種のものに取り替えさえすれば、セメントやブロックなども切断可能であり、モルタルなぞわけもないことなのである。

 まだ、しっかりと腹が据わったわけではない。しかし、先ずは、シロアリの暴挙を暴くための前提作業をするための、その前提の「武器」だけは手に入れたわけだ。きっと、次第に肝も据わっていくことになるだろうし、現に、知らず知らずのうちに、日曜大工作業を厭わないウォーム・アップを始めたりもしている。
 たぶん、近々、天気の良い、また気分も良い休日あたりに、塗りなおした家の外壁の一部に向けて、高速回転するサンダーの刃を立てることになるに違いない…… (2005.03.26)


 ブラインダーの掃除というのは、結構大変である。しかも、ブレイド1枚1枚の幅が、1センチ程度のブラインダーは、見た目にはスマートだが、いざ汚れが目立ち始めると、始末におえない。
 春の陽気で外が明るくなってくると、どうにもブラインダーの汚れが目につき気になる。しかしその清掃を始めるとどんなに大変かが想像されると、ついつい見て見ぬ振りをする。以前に、こうしたブラインダー清掃向けの「新兵器」を購入したことがあった。それは、手のひらのような格好で、指の1本1本が大きな毛虫のような形状になった道具であり、その「指」で複数枚のブレードを挟んで汚れを落とすというものであった。しかしいざ使ってみると、決して使い勝手の良いものではなかった。こびりついた汚れが一向に落ちないのである。
 ところで、私は掃除をする時に、ある種の快感を期待しがちである。ただ黙々とするというのではなく、こびりついた汚れなどが心地よく一気に落ちたり、想像以上に手早く処理できたりするといった爽快感とでも言おうか。だから、何か掃除をしなければならないところを見つけると、まずはどうしたらそれを合理的に進めることができるかについて考えようとする。必ずしも道具に頼ろうとはしないが、これならどうだ、と思えるようなアイデアが産まれるまでは手をつけたくないのである。それはちょうど、何かそれなりの食材があったとき、どうしたらそれをもっともうまく食べることができるかを考える料理人の発想と似ているかもしれない。
 逆に言えば、そうしたアイデアが生まれないといつまでも着手しないのである。ブラインダーの清掃が放置されたのは、そんな理由によるところが大きい。しかしいつまでも放置しておくわけにはいかない。明るいホワイト色のブラインダーが今やベージュ色に変わり果てている。
 もうこうなっては、合理的な方法もアイデアもあったものではない。やるしかない。エイヤッと、気力で武骨にやるしかないのである。せめてもの合理的方法として浮かんだのは、ヘナヘナと折り曲がってしまうブラインダーを、浴室に持ち込んで立て掛けて洗うのではなく、駐車場のセメントのうえにひろげて洗う方がまだましという、実に平凡な方法でしかなかった。
 やはり特別のアイデアがない気力だけの清掃作業は、実に味気なくしんどいものであった。取り外したブラインダーを広げて、駐車場のコンクリートの上に寝かせる。洗車用のホースを活用しようと思っていたところ、蛇口のコネクターが故障しており、いよいよ丸腰スタイルで気力のみを頼るしかなかった。バケツに水を汲み、植木用の柄杓(ひしゃく)で水をかけるという何ともお百姓さんスタイルになってしまった。
 その後は、腰をかがめて手には洗剤をつけたスポンジを持ち、ゴシゴシとこする何の変哲もない作業を続けた。しかし長年にわたってへばりついた汚れは思うように落ちず、徒労感がこみ上げてきた。

 こうした作業を続けながら私は考えていた。世の中には、労多くして見栄えがパッとしない地味なことというものがあるに違いない。またそうしたことをしか仕事として割り当ててもらえない、いわば不幸とも見られがちな人々も少なくないはずだ。現代という時代は、合理性をスローガンにして、誰も彼もが労少なくして見栄えが華やかなことばかりに目を向ける。自分も例外ではないことを認めざるを得ないが、度を越す者たちが多すぎるようだ。
 身の回りにもそんな人間は掃いて捨てるほどいそうだが、TVなどのマス・メディアではそんな連中ばかりがしのぎを削りあっているようだ。評論家は、「見てきたような嘘をつき」で闊歩しているし、企業コマーシャルは、掴みどころのないイメージのイメージを吹聴している。タレントたちは、演技だとはいうものの、もう少しリアリティのある表情や仕草ができないものかと、視聴者をしらけさせている。

 それらよりももっと素朴な疑問を抱かざるをえないのは、経済世界の「金融化」現象であるかもしれない。現在の米国経済では、モノづくりという「製造業」の比率が日増しに低下しており、全体の2〜30%だったかが、いわゆる金融であり、マネーを動かして利益を得ているという。GMなぞも、製造業の赤字を金融領域で補っているらしい。
 確かに、モノづくりを実直な生業(なりわい)だと見なし、金融関係の活動を浮ついたものと見なすのは、ソフト化経済、情報化経済にあって時代遅れも甚だしいというべきかもしれない。しかし、金融が、モノづくり経済なくしては存立し得ないことも事実ではないかと考えられる。華やかにマネーが舞う金融経済は、その足元も含めて、もっと客観的に見据えられていいと思う。
 現在、マネー・ゲームがことのほか取り沙汰されるのは、実経済に較べてマネーが余っている=過剰であることが原因だといわれてもいる。確かに、確たる客観的根拠もなく原油価格が高騰したり、M&Aに対する巨額の資金流入が目に付くのも、まさにマネー余りが原因のようでもある。これもまた、グローバリズムが持つ顕著な特質なのであろうか…… (2005.03.27)


 しばしば政治家たちの発言(失言)は、世論の批判を浴びると、微妙に修正されるものである。その際に、必ずといっていいほど場つなぎとして利用されるのが、「説明不足であった」とか「舌足らずであった」という言い訳であろう。
 そして、なんとなく「そうか、そうだったのか」と表面的には落ち着いたりもする。また、そうした段階で、「まったくあの先生は、個性が強いから誤解されるんですね。その点では『損をするたち(性質)』なんですね」と媚びへつらう者も登場したりする。
 今日の昼のTV番組で、政治家に関してではなく、ライブドアのスポークスマンが同じようなお追従を口にしていた。番組側のインタビュアが、敵対的M&Aを仕掛けた者として「ホリエモン」の発言はエクセントリックだったのではないか、また途中から急に「ニッポン放送の従業員様」などと慇懃な表現に変わったのも奇妙に感じたとの発言に対してである。
「そういう点では堀江は『損をしております』。短いフレーズで事を表現しようとして、どうしても強い口調になって誤解を招いてしまうのです……。」と。

 わたしは、この「損をするたち」という表現が嫌いである。犬猫やあどけない子どもの言動に関してならまだしも、大の大人、しかも物議を醸すことを商売だとも目論む人物に対して言う弁護の言葉としては、あまりにもお追従的であり過ぎるからだ。
 揚げ足を取るようだが、「損をするたち」を言うのなら、世間騒がせなきわどい表現をあえてすることで当人が「得をした」部分にもしっかりと目を向けなければならない。
 「アフォリズム(aphorism,簡潔鋭利な表現、警句、箴言。)」というレトリックは、それを好むタイプの人間によって頻繁に利用されるものだ。そして、それを活用するタイプの者は、多少、性格もあるのだろうけれど、それが戦術的に有効だと信じるからこの方法を採用するわけである。実利的に利用するわけなのである。
 もし、これを性格に起因する、止むに止まれぬ発露だとするなら、そんな「心神耗弱状態」(?)になりがちな者を公衆の面前で発言させることをこそ、側近たちは管理すべきだということになりはしないかと思う。
 ふと思い起こすのは、一昔前の「親分衆」の慣用的な言い草である。
「いやー、ウチのわけぇもんが、とんだことをしてしまいました。なんせ、ヤツらは腹ン中は空っぽなんですが、すぐに頭に血を上らせてしまうたちなんで……。アッシから十分に言い聞かせておきやすんでどうかこの場は……」
 しかし、昨今ではもはやこの言い逃れは法的には通用しないらしい。その種のトップはしっかりと手下たちへの「管理責任」とかが問われることになったからである。

 自分が口にした言葉への責任というものは、もっと厳粛に受けとめられるべきだと思っている。後で撤回することになるような言葉は、シッカリと自分の腹に飲み込んでしまうべきであろうし、誤解を招く可能性があるならば、その場で十分に補足すべきであろう。それでもTVなどの、許される時間の限られた場によっては誤解を招きがちだと判断できればその発言を慎むくらいの慎重さをもつべきなのではなかろうか。それが、公共の場で発言する機会を持った者の基本的なマナーではないかと思う。それらが杜撰であるならば、そもそもメディアの統括者たらんと考えるべきではないと思うし、後からなんと誤解を受けて批判されようともいたし方ないであろう。これが、当人は「損をしている」というような「くすぐったい」お追従の表現が不愉快な理由なのである。
 つい先日も、ある人と飲んでいて、昨今ますます酒癖が悪くなり、飲むと悪口雑言を吐く人に注意をさせてもらったことがあった。すると、脇にいた者が、「損をする」からやめた方がいいと言っていたのを聞いた。わたしに言わせれば、そんなお追従の表現をしているから、当人の悪癖はなおらないのだと思ったものだった。口にすることは、紛いもなく自分自身なのだと思うことからしか、手堅いことは始まらないという気がしている…… (2005.03.28)


 消費が今ひとつ停滞し、必然的に売上が伸び悩む時代であり、だからと言ってもいいようにモノの価格も下がり気味(デフレ傾向)である時代、それが現在だろう。
 そうなると、コスト面をよりシビァに見直す必要に直面する。仕事の合理化を徹底的に推進しなければやってゆけない。
 より、競争力のある製品なりサービスなりを提供できる戦略戦術を練ることの起爆力は重要に決まっているが、同時にいかに低コストの企業体質に仕上げてゆくかという方策は、平凡なことではあるが現在では不可欠だと思われる。
 「競争力のある製品なりサービスなり」と言っても、それはある種のチャンスに恵まれた結果の事実であって、企画力だけで生み出せるものではない。たとえて言えば、変化する環境に適合した「突然変異」のようなものであり、意図したり、構えたりしただけで可能なことではなさそうである。むしろ、変化する環境に抵抗力のある体質づくりをこそ、まずは地味でも推し進めることであろう。その過程で、「突然変異」的なチャンスを見逃さない、というのがリアルな現実なのかもしれない。

 ところで、企業財務の帳尻合わせ的に人件費を削減する「リストラ」は、この間、派手になされてきたわけだ。それによって、果たして各企業がパワー・アップできたのかどうかは定かではない。それを機にして、いわゆるムダを省き、仕事の実質的な効率化を推進した企業は、おそらく厳しい経済環境への抵抗力を培い、今後を闘ってゆくためのエントリーを果たしたということになるのであろう。
 しかし、単に企業が人件費比率を落とすためだけに行なった「リストラ」であった場合には、若い女性が減量のためだけにダイエットをムリに進め、体力をも落としてしまうという本末転倒の結果と類似した結末を迎えているのではないかと想像せざるを得ない。

 あまり評判の良くない「リストラ」という方策についてここでやや考えてみようと思うが、仕事の実質面をリアルに見据えるならば、ビジネス界では以前から指摘されてきた『パーキンソンの法則』というシビァな面があろうかと思う。
 これは、「仕事の事務量はそれに携わる人の数に比例して増える」と表現されることもあるし、「仕事は与えられた時間をすべて埋めるように拡大する」と指摘される場合もある。つまり、本来は、仕事の総量の測定があってから携わるべき人の数量が決められるべきところが、現実では、携わる人の現状の人数分の仕事量が、仕事そのものの総量であろうと見なされているということである。さらに、携わる人が増員されるならいつの間にか仕事自体が増えていくということでもある。
 このあたりの分析は、実は詳細に検討されるべきであり、種々の性格の作業が発生していると思われる。たとえば、実質的に仕事が増加するであろうと目されるのは、人の数が増えれば、コミュニケーション比重が増大するという点の周辺である。ソフト開発の現場においても、コラボレイトする要員数が増えれば、全体の作業を分割したり、結合したりということのために、指示や連絡のためのアクションが馬鹿にならなくなるのだ。
 この側面とは別に、仕事集団の実態を厳しい目で見る者からは、別の点が指摘されてきた。つまり、携わる人が仕事量に比して過剰である時には、ありていに言って「余計な」仕事が発生するというのである。
 わたしも、若い頃に、とある上司からやんわりと言われたことがあるが、たとえば、帳票作成などの作業であり、仮にそれらがあれば「より役に立つ」かもしれないが、労力をかけて作成するほどに必須であるのかは、実態に即してシビァに判断すべきだというわけだったのだ。
 新しく帳票を作成するならば、その活用方法についての文書も必要になるだろうし、関係者への説明の必要も生まれる。さらに、その保管や管理についての仕事も生まれるといえば生まれる。果たして、こうした流れは「担当者の積極性!」という点だけで評価されていいのか、という玄人筋の判断なのである。

 こうした実態が、ある意味で典型的に見出されがちなのが、いわゆるお役所仕事だということになろう。パーキンソンも、しっかりと見つめていたようである。
「役所(あるいは企業)が拡大するのは、業務量の増大(あるいは職員の怠惰)のためではない。むしろ、組織が拡大するがゆえに業務も増大するのである」
「役人の数はなすべき仕事の軽重、時には有無にかかわらず、一定の割合で増加する」と述べ、その原因は、役人は部下を増やすことを望み、しかしながら、ライバルは望まない。また、役人は互いのために仕事をつくり合うのだ、と皮肉まじりの考察をしている。
 実のところ、今日わたしが、こうしたことを書こうとした動機というのが、この点に関係していたのである。
 自社では、「給与処理」をとあるソフトを使って行なっているが、担当者の話によれば、より煩雑な作業というのが、コロコロと変化する社会保険料、健康保険料などの料率変更とか、税率変更とかを勘案しての処理であるという。毎月のように、そうした料率変化を盛り込んだバージョンアップCDが、ベンダーから送付されてくるのだという。もちろん無料サービスなんぞであるわけがない。年間保守サービス契約料を支払ってのことである。担当者も、こうした煩わしい変更があるために、保守サービスから離れられないのだと言っている。

 わたしの目からは、こうした実態がいかにも不合理であるように思われたのだ。
 「民営化」だの、「規制緩和」だのと、時代受けするような浮ついた言辞は飛び交うものの、「官」は、仕事を簡素化したり、減らしたりという世間のニーズに応えずに、逆に自分たちの組織と仕事のアリバイづくりのために、民間企業の手を煩わすような巻き込み方をしているように思えてならないのである。
 今現在、「官」がやるべきことは、まさに自身の「リストラ」なのであり、そのことによって民間の、関連した仕事量が軽減されることであろう。残存する「規制」のために発生している煩わしいだけの仕事量は、民間でそれを商売とする「〜士」というビジネスの引き金にはなっているのかもしれないが、大多数の企業にとっては無くていい煩雑さだけだと言ったら言い過ぎであろうか。
 経済活性化のために、民間企業の新たなチャレンジが必要とされているこの時期に望まれることは、仕事のための仕事というような形式的な作業を、極力、民間企業から取り除き簡素化することのはずである。
 やっぱり、現在のこの国の閉塞状況の陰に潜む、「官」を蝕む「無用の長物」という側面の存在が、気になってしょうがない…… (2005.03.29)


 「インターネット」と「コミュニケーション」とは無縁なものなのであろうか? いや、あえて反語的な言い方をしてみたのである。
 常識的に考えれば、「インターネット」とは「C&C」、つまり「Computers and Communications」(そうした名の財団法人も存在する)の有力な環境基盤であり、グローバルな「コミュニケーション」を推進するものだと見なし得る。
 しかし、「インターネット」がその張本人だと言うつもりはなくとも、一方でのその隆盛ぶりと、人々の「コミュニケーション」の困難ぶりとが、奇妙に符合しているかのような印象が拭い切れない。

 昨今のニュース事例では、「インターネット」と「放送」の融合と旗印を掲げた者が、「ニッポン放送」の従業員や関係者との対話(コミュニケーション)に無頓着であったことが話題となった。それが「敵対的M&A」の作法だとはしても、「インターネット」を旗印として掲げる者の立場と「没交渉」とはいかにもそぐわないと思われる。「インターネット」という「コミュニケーション」通路が、その本質を曇らされて、ビジネス推進側にとっての利益追求手段としての面のみが前面に出ているかのようである。「コミュニケーション」抜き、省略といったかたちのビジネス・イメージが髣髴と浮かび上がるわけである。

 また、昨今のサイト状況に関して言うならば、多くのビジネス・サイトが、問合せなどに関してはメールを指定しており、電話による問合せを「拒否!」しているかのような印象を受ける。間違いのない対応や、24時間対応、そして、事務合理化という点を考慮すれば、理解できないわけではない。
 しかし、デイタイムであれば、電話による問合せこそがユーザにとってはありがたいこともありそうな気がする。そうすると、問合せの電話番号さえ明示しないというようなサイトというのは、あたかも、「インターネット」環境をタテマエにしながら「コミュニケーション」を拒絶しているかのような印象さえ与えかねない。

 さらに、昨今の「迷惑メール」というのは、「インターネット」環境を完璧に悪用している気配が強い。発信者自身の姿や身元がわからないことをいいことにして勝手放題なエゴイズムを通している。
 このほかにも、本来が「コミュニケーション」の発展を促すはずの「インターネット」が、逆に「コミュニケーション」そのものを阻害しているかのような実態が気になるのはわたしだけではないだろう。
 もちろん、これらの現象は、「インターネット」自体の責任だと言うべきではない。活用する側の人間性の問題以外ではないからだ。もともと、ツールというものは、良くも悪くも人間の能力を何らかのかたちで拡大、増幅するものだといえるが、使い手が愚か者であればただただ愚かさだけが増幅されることになるわけだ。

「コミュニケーションが“空気のように当たり前に存在した時代”は終わったのかもしれない。いま私の中にあるのは、コミュニケーションが“課題”として人々の前に姿を現し始めた、そんな時代への予感である」(『引きこもる若者たち』[塩倉 裕著、朝日文庫、2002.06])という洞察力のある指摘が目についた。
 その時、ふと、「インターネット」環境というのは、その「課題」達成を支援するものなのであろうか、それとも腰砕けの状態を助長することになるのであろうか、という疑問を抱いたのであった。そして、いや、やはりこの「課題」は、ツール的位置にある「インターネット」環境でお茶を濁さず、身元などを隠しようもない対人関係での直接的なコミュニケーションそれ自体に立ち向かうことでしか達成されないのではなかろうかと思えた…… (2005.03.30)


 やっぱり「鬱の症状」の人が増えていそうだ。ややもすれば、自身も「鬱」の「境界型」(糖尿病ではないが)ではないかと思うことがないわけではない。
 しばしば、「完璧」志向の人が「鬱」になりやすいのだと聞く。自分も、だらしなくいいかげんなところも少なくない点で、まさしく「完璧」にではないのだが、「完璧」ということにこだわる時にはこだわってしまう。
 どうして「完璧」志向が「鬱」的症状に結びついてゆくのかといえば、たぶん、「完璧」を望むことの裏腹に、そこへは到達できない自分の不甲斐なさを嘆き、無力感をより多く招いてしまうからなのであろう。そして挙句の果てには、万事が投げ遣りとなったらシメタもの(?)であり、もはや「鬱」の有資格者だということになるのだろう。
 こうしたいきさつを興味深く述べたものがあった。

「それではいったい何が鬱病かというと、鬱の症状で目立つのは億劫という現象である。テキパキ動く者は鬱にはかからない。
 何かを決めたり行動しなければいけないのに、なんだかだとグズグズしているのは、鬱の初期状況か、すでに進行しているかのどちらかだから、早く処分したほうがいい。こういう連中は会社にいても何の訳にも立たない。
 (斎藤)茂太さんは、本屋で本を買おうとしていろいろ迷っている連中の大半が、おそらくは自律神経失調症か鬱病だとおっしゃる。これはすごい目だ。たしかに本屋で迷っている連中は多い。ただし、こんな連中には仕事の能力は、まずないだろうと思ったほうがいいらしい。
 鬱病の核心は、決断力の放棄なのである。……
 けれども鬱は治る。一番の処方箋は「少欲知足」の状態をつくること。欲を小さくして、知ることをふやしていく。…… 完璧な睡眠、完璧な食事、完璧な集中を欲望としてもちすぎているということで、まずはこれを壊さなきゃいけない。
 完璧を望まないようにするには、簡単に完璧なんてできないことをする。たとえば学習なんていつまでたっても完璧にはならないから、これは鬱に効く。ただし学習意欲もない鬱もいるので、こういう人は花でも育てるといい。花を完璧に育てるのはたいへんなのだから、かえっていい。ちょっとずつ育てるということが、そのうち鬱を放逐してくれる。そういうことをして億劫を解消する。」(サイト:「松岡正剛の千夜千冊」より、斎藤茂太『女のはないき・男のためいき』から)

 翻って考えてみると、「完璧」とは一体何なのだろうか? 
 ひょっとしたらそれは、極めて「自虐的で、残酷な観念物」なのではないかと疑ったりもするのである。
 ところでよく、古典芸能での国宝級の名人が、「精進すればするほどに、自らが未熟者であること(「完璧」からほど遠いこと)を知らされます……」なぞと言っているのを聞く。そうすると、実に謙虚なのだなあ、とか、とにかく先ずは評価眼が厳しく練磨されているんだ、などと感じさせられ、やたらに感心したりもするものである。だが、ここには、絶えざる精進に明け暮れる人と言えば聞こえはいいが、要するに「自虐的」なマゾヒストがいると言っても外れではないのかもしれない。まるで、「アルキメデスと亀」の法則のように、「亀」=「完璧」に迫ろうとする「アルキメデス」=「国宝級芸能家」は、到達することがあり得ないのかもしれない。それで不思議に思うのは、そんな「完璧」主義的マゾヒストが、なぜ「鬱」にならないのかという点なのである。
 このように、喰らいついて「国宝」となるのか、はたまた、転がり落ちて「鬱」と成り果てるのかの違いのはざ間には、一体何が潜んでいるというのであろうか。

 よくはわからないが、「国宝」級クラスの者たちも、「鬱」予備軍も、「完璧」という「観念物」で、残酷に「自虐的」となっている点では同じだとしても、おそらく前者は、その「観念物」を日々の行動の刺激へとブレイクダウンできるほどに、「観念物」を具体的に把握しており、後者は、その「観念物」を漠然と捉えている可能性がありそうだ。
 漠然として捉えた「観念物」ほど恐ろしいものはないのであって、それは当人が弱気になればなるほど図に乗って膨れ上がり手の届かないところへと舞い上がるはずである。その分、ますます無力感を与えずにはおかないに違いない。
 つまり、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というたとえを引くならば、「完璧」という「観念物」は「幽霊」のように人々に恐れを抱かせるが、「国宝」級は、しっかりと「枯れ尾花」を見抜いているのかも知れない。「営業戦略」上、未熟であることを口にしても、場合によっては、「このオレが完成品!」だと自負しているのかもしれないし、そうではなくとも、その具体的構成要素をシッカリと見据えているのかもしれない。それに対して、「鬱」予備軍は、ただただ「幽霊」としての外観だけに眼を奪われて、恐れおののいているのやも知れぬ。だから、無力感を抱いて尻尾を丸めて逃げ腰にならざるを得ないのかも……

 こんなことにこだわってみたのは、「完璧」志向の性格うんぬんという点もあるのだけれど、現代の情報化時代が気になるのである。この時代は、過剰で、中途半端な情報を撒き散らかし、観念度の高いイメージを増幅させることで、それらが、手の届かない「完璧」もどきの環境を作り出しているのではないかと推定するからである。増えつづけていると言われる「鬱」の問題もそうだが、「引きこもり」や「ニート」なども、情報化時代の、そのネガティブな副産物なのかもしれないと感じている…… (2005.03.31)