最近では、何か買い物をする際に「ネット」情報を検索して参照することが増えたはずである。いわゆる「インターネット通販」ということになろうか。
私自身の「インターネット通販」といえば、書籍購入が中心であり、「amazon」を頻繁に活用している。本来ならば、近隣の書店、レジでひまそうに猫の背をなでて暇をつぶしている店主なんぞがいる店で、そのオヤジから、
「へぇー、お客さん、最近はこうした本が面白いんですか……」
なんぞと軽口を叩かれながら買いたいものではある。
だが、書籍の価格はどこでも同じであることと、近隣の書店を探し回ってもその本がない場合の徒労感がいやで、ネットを利用することになる。送料がもったいないわけだが、購入が一定金額以上の場合には送料無料のサービスがつくため、その金額以上の買い物となるように調整している。
あと、「インターネット通販」で購入するモノといえば、エレクトロニクス関連の製品であろうか。これは、「どこで買っても価格は同じ」という観点とは逆に、最も安い価格をつけているショップを「検索」するのである。「どこで買っても同じ」なのは、製品自体なのであり、だから問うべきは「価格」という結論になってしまうわけである。
手数を省こうとすれば、「代引支払」という支払方法をとってしまうわけで、その分「手数料」が七、八百円かかり、おまけに送料もばかにならないため、その製品がよほど割安でなければ合わないことになる。それでも、十分に引き合うケースがままあるのが実情かもしれない。
この同一製品に関する販売価格が「検索」されるというシステムは、その「検索」システムを活用する側は便利でありがたいわけだが、ショップや小売店側では、この上なく「厳しい仕組」だろうと思う。実際、かつてPCショップをやっていた時、まだ「インターネット通販」はさほど熟してはいなかったが、それとほぼ同等の機能を果たしていた「秋葉原価格」というものがあったため、その対応に歯軋りしたものであった。来店客は、マニアが多かったこともあり、「秋葉原価格」は周知の前提となりやすかったのである。
だから、この店での価格は、これこれこういう理由、根拠があってのことなのだという部分をアピールする必要があったと言える。それは、顧客の相談にのれる製品知識に関するプラスアルファであったり、初期不良の防止策であったり、秋葉原に行っても「品薄状態」で足を棒にしなければならないようなパーツをとり揃えたり……と。
つまり、「価格外サービス」にどう説得力を持たせるのか、という観点の問題であったわけだ。それともうひとつ、わたしが考えていたことは、「秋葉原」がこうした仁義無き低価格化競争をこぞって続けていたら、きっとその存立基盤自体を食い潰してしまい、破綻するに違いない、という予想でもあった。
次第にインターネットでの価格情報が多数のマニアの目をとらえるようになって行った時期であったから、その各店の競争ぶりは過激さの上に壮絶さまで加わって行った様相を呈したのである。で、結局は、「秋葉原」PCショップの多くは壊滅的な打撃を蒙ることとなったようである。
今、こうした、インターネットにおける価格情報が、消費者にとって重要な参考材料となる環境や時代を考える時、一方で、消費者としてのありがたさを感じるとともに、こうした時代そのものの何か「恐ろしさ」とでもいうものを禁じえないのだ。何を今さらそんな当たり前の時流に驚いているのかと、いぶかしく思われそうだとも思う。
その前に、これと関連した別の話題について言えば、インターネットではなく、TV番組なのだが、視聴者参加番組で、その参加者が持ち込んだ骨董品などを、「鑑定団」と称されたその道の専門家が、価値を鑑定するという話なのである。
日曜日の午後という時間帯もあり、わたしも気を許してついつい見て、楽しんでしまう。が、ふと考えたことがあった。この番組のお陰というか影響で、全国の骨董品らしきものは、その筋の者たちやTVを見た人たちによってことごとく手をつけられてしまう状況になっているのではなかろうか、ということなのである。いわゆる、「掘り出し物」というような偶発的ハッピーなどは消滅させられてしまったのではなかろうか、金銭的価値なぞに揺らがずに人々の鑑賞眼を楽しませてきたモノまでが、市場経済に引きずり降ろされてはいないか……、というような思いを抱いたのである。
マス・メディアやインターネットによる、「価格情報」という代物(しろもの)は、何よりも早く、何よりも勢い良く伝播するものであろう。まさに、スーパーマンのごとく、「弾よりも速く、力は機関車よりも強く、高いビルもひとっ飛び」「鳥だ! 飛行機だ!」「いいえ、<価格情報>です!」といった按配なのではなかろうか。
何が言いたいのかというと、こうした「安値価格情報」が超スピードで飛び交う事態こそが、この時代の最大の特徴ではないか、そして、結果的にはそのことによってすべての存在がマネーの額という数値に置換えられてしまい、その数値群がこの世のすべてであるかのような幻想が蔓延すること、これがこの時代の「輝かしい」特徴なのであろう。
この時流は、とにかく「爆発的な」説得力を持つ。わたしだって十分に巻き込まれている。得をした気分にもなっている。しかし、これらの動向は、<何の犠牲もなし>に進展しているわけではないことにも注意を払う必要があるのかもしれない。ただし、この部分についての説得力は、残念ながらきわめて薄弱なのが実情ではある。要するに、インターネット・サイトの実情は、得をするための「安値価格情報」とそれに類するものが八割、九割だといってもよさそうである。そして、ものを考えるための素材を提供するようなサイトは少なく、またアクセス数も少ないのかもしれない。
<何の犠牲もなし>にの犠牲の、その中味を書くべきであるが、今日のところは「取り逃がす」こととする。ただ、先日経験した「ウヒャー」という事実だけを書いておきたい。わたしのネット通販に関する「検索」では、どう力んでも「6,300円」(定価は確か8,200円)プラス送料などが1,500円ほどで、合計7,800円となるモノがあったと了解してください。ところが、近隣の何でもない小売店で、わたしは5,250円でそれを購入することができたのである。金銭的にも、実にこうしたケースもあるということなのである。強引に値切った結果ではなかったのだ。ダメ元と思い、そこの店主に、ネットでの実売価格の話などを腹を割って話してこの製品が自分にとっては貴重なモノだとも話したのである。そうしたら、その店主は、いついつに卸し業者が来るので交渉してみると応え、そして上記のような価格が可能だと言ってくれたのである。
わたしが言いたいのは、何といえばいいか、値切れば安くなるということではなく(いや、それも無くはない。わたしは、値切る交渉を必ずといっていいほどするし、その前にそれができるような関係の店で買うことをモットーとしている)、モノを買うという行為も、「全人的」な行為なのかもしれない、という気がしているのである。アフター・ケアの問題もあれば、副次的情報収集の点もあるし、その行為は、条件が許せば単に商品とカネとの交換という法的一事だけではないと解釈したいのである。
この点が、「カネさえ払えば……」という時流によって陰が薄くさせられてしまったところであり、かと言ってむきになって主張するには説得力が伴いにくい点でもあるわけなのである。しかし、法的売買契約さえ成立するならば、そのスタイルは任意だと言い切る時代風潮というものは、あまりにも「セクシー」な社会の風潮だとは言えないような気がする…… (2005.03.01)