以前に、自転車に乗るノウハウ(ノウハウと言うほどでもないが)というものや、よく知った人の顔の記憶などは、長い時間が経過して何年経っても変わらずに脳のどこかに記憶されるものだということを書いた。それは結構不思議なことなのではないかという動機で書いたはずで、その際に「暗黙知」という言い方をした。
つまり、自転車に乗るという動作は、もしロボットにそれをティーチングするために、細かい制御動作に分解して、さらにそれを組み合わせる制御までまともに組み上げてゆこうとするならば、途方もない膨大な情報を要することになろう。
また、人の顔を記憶するということもかなり難易度の高い能力が必要となるはずであろう。というのも、人の顔は表情があり、一日のうちでも千変万化しているはずである。どんなに笑おうが、しかめっ面をしようが、はたまた間抜け顔になろうが、その人なのだと判断することは、そう簡単なことではないだろう。さらに、女性の場合には化粧もするし、ヘア・スタイルも変わる。しかし、普通の能力があれば、知った人の顔というものは、さまざまな条件変化を超えて、ほぼ確実に識別できるものだ。
しかも、二、三年どころか、数年、十年経ったとしても、面影などからその人であることを推断することだって不可能ではないのが、人間の能力の際立った点であろう。
こうしたスーパー・パワーは、いわゆる「知識」、それは言語によって構成される知的構成物なのであるが、そうしたものとは異質であると考えざるを得ないところから、「暗黙知」というような、いわばペンディング的な表現が採られるのかもしれない。
こうしたことと関係して、一体、人間の脳がモノを記憶するという過程が、どのようなメカニズムで行われるのかは実に不可解だし、興味津々でもある。
一昔前には、ちょうどコンピュータのメモリ素子が情報を一対一関係で保持するように、人の記憶も、個々の脳細胞が記憶するという考え方が採られていたという。しかし、それが破綻した理由は、二つあると言われている。
そのひとつは、平均的な人間の脳が一生の間に蓄積する情報量が膨大なものと推定され、とてもその数を担うほどの脳細胞の数はなさそうだということである。ちなみに、その数は、2.8×10の20乗(280,000,000,000,000,000,000)ビットだとも言われている。
また、もうひとつの理由は、もし記憶がそれぞれ個々の脳細胞が担っているのだとするならば、その部分が「破損」した場合には、その記憶が消失してしまうことになりそうだが、生物の脳というものは、どうも脳の個々の場所に依存していないらしいのである。動物実験では、脳のパーツの位置を変えても、とり除いてもほぼ変わらぬ反応が返ってくるという。もともと、脳というのは、役割分担的な分化がありはするものの、ある部分が欠損するとそれを補うような機能が生じてくるものであるとも聞いている。だからこそ「リハビリテーション」という運動機能の再生療法も成立するのであろう。
なぜ、わたしがこんなことを書いているかといえば、もともと脳の不思議さへの関心はあり続けたのであり、そしてまた、それと同値かと思われる「暗黙知」にも関心を寄せてきたからなのである。さらに、いまひとつ、同じ根っこの動機から関心を向けざるを得なかったものとして、「ホログラフィック」(「ホログラム」)というものがあった。過去にも何回か触れてはきた。
「ホログラフィック」(「ホログラム」)というのは、あの「立体映像」を生み出す原理のことであり、最近ではそうした映像装置がTVのように実用化へと着々と進んでいるようでもある。また、「ホログラフィック・メモリ」という斬新な試みも浮上しているようだ。が、わたしの関心は、そうした「立体映像」ではなくて、その原理なのである。
詳しいことは後日に回すとして、要するに「部分に全体が含まれる」という途方もない原理が「ホログラフィック・モデル」の興味深い点なのである。一般に、「部分は全体の一部であり、全体が部分を含む」というのが通念であるが、まさにその逆を照らし出そうとするのが「ホログラフィック・モデル」なのである。しかし、冷静に考えてみるならば、決して絵空事とも言えないような気がしてならないのである。たとえば、現在いろいろな分野で関心を呼んでいる「DNA」は、個々の細胞が、全体を保持していると表現しても間違いではないのではなかろうか。
現在、楽しみながらそうした類の本を読んでいるのだが、こうした発想法が最も有効性をもちそうなのは、やはり脳の働き方なのかもしれないと思っている。「ニューラル・ネット」云々という話題が一頃持ち上がってその後「静かになってしまった」かのような経緯もあるが、「ホログラフィック・モデル」の研究が何がしかの突破口になるのではないかと思ったりしている…… (2005.05.06)