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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2005年05月の日誌 ‥‥‥‥

2005/05/01/ (日)  他人と関係し合うことが「困難」となっているかのような現在?
2005/05/02/ (月)  「大型連休」の中日(なかび)で、「大型連休」について考える……
2005/05/03/ (火)  「歪んだ鏡」をフル活用する「反射鏡」であることが必須?
2005/05/04/ (水)  「江戸のかたきは長崎で討つ」のが定石なのかもしれない?!
2005/05/05/ (木)  連休中ならではの「待ち行列」を避けたはずだったが……
2005/05/06/ (金)  「部分が全体を含む」という「ホログラフィック・モデル」!
2005/05/07/ (土)  多少ヒヤヒヤしたり緊張する位の楽しさがちょうどいい!
2005/05/08/ (日)  種撒いたものをうまく刈り取るのはそれなりの方法が……
2005/05/09/ (月)  記憶に蘇ることができない「フラジャイル」なものは……
2005/05/10/ (火)  一年以上もの「空き家」が漸く埋まりそうだ……
2005/05/11/ (水)  うじうじせずに、「迷子」=「自由」なのだと思い定める!
2005/05/12/ (木)  なんとまあ、よく風邪をひいてしまうことか?
2005/05/13/ (金)  「会社への忠誠心」をしょうがない事実として見過ごしていていいのだろうか?
2005/05/14/ (土)  ハードボイルドで始まり、ハードボイルドで終わる……
2005/05/15/ (日)  「忘れるために」何をどうしておけばいいのかの段取り!
2005/05/16/ (月)  現代的便利の象徴であるケータイが占う明日のわれわれ?!
2005/05/17/ (火)  能力発揮の前提に、動機、初めにありき!
2005/05/18/ (水)  「自分は何をしていれば没頭できるか?」が職業選択の原点!
2005/05/19/ (木)  「過剰な市場主義」である現代社会と原義の「モラルハザード」……
2005/05/20/ (金)  「レガシー(legacy 過去の遺品?)・システム問題」を再自覚
2005/05/21/ (土)  「楽しくお茶を濁す」商品に溢れた現代?!
2005/05/22/ (日)  あの格好で、「一億年」もの間走り回っていた恐竜たち?!
2005/05/23/ (月)  本当に必要な「エンジン」は、何だと言うべきか……
2005/05/24/ (火)  「エッシャーのだまし絵」的世界が日常化しているような現代?!
2005/05/25/ (水)  それにしても、人間の記憶のメカニズムはどうなっているのか?
2005/05/26/ (木)  「わかり易さ」を拒否したはずの「スキゾ・キッズの冒険」の行方は?
2005/05/27/ (金)  ルールの無いスポーツ・ゲームに参加?
2005/05/28/ (土)  たまには、4時半起床も悪くない!
2005/05/29/ (日)  「渡り鳥」の悲惨さを見て「我が身を省みる」?
2005/05/30/ (月)  「ゼロ・サム(zero-sum)」原理と来るべき「Win & Win」の時代?!
2005/05/31/ (火)  「立ちすくむ」のではなく、「立ち上がる」ことを?!






 先日、十分な躊躇(ためら)いを感じながらひと(他人)に注意をした。
 事務所の前の駐車場に止めてあるクルマが、後部の跳ね上げ式ドアを開けっ放しにしてあり、歩道を走る自転車に乗った人が万が一頭部をぶつけて怪我をしてはならないと懸念したのであった。そのクルマが、事務所のビルの一階フロアーを工事中の業者のものだとすぐにわかったため、注意してみることにしたのであった。
 クルマをそんなふうにしていたのは、電気工事をしている年配の人であることがわかった。三脚に乗り、天井の電気器具を調整しているところであった。クルマのドアをあのようにしていると、運が悪いととんでもない怪我をさせることになる旨を説明したのである。
 職人たちの中には、他人から注意されることをひどく嫌う者も多いため、そんな職人業の者に注意をすることは躊躇いを感じたのであったが、いかにも危険な想像が打ち消せなかったため、注意をせねばと意を決したのだった。
 幸い、その年配の職人は、悪びれる様子もなく、「はいはい」といった調子ですぐさま善処してくれた。

 今時、赤の他人に注意をするということは、結構考えものだというのが相場であろう。先日も、駅のホームで、ちょっとした注意をされた者が悪態をついたことで、注意した者が腹を立て、進行してくる電車が来るにもかかわらず、相手を突き倒すという無謀なことをして、大怪我をさせたというニュースがあった。
 現在の社会関係には、人々が常軌を逸した気分でいるためか、一触即発のリスクが充満しているかのようである。注意される方も反抗的になりそうだし、また、注意する方にしても感情の動物であるから、売り言葉に買い言葉の結果、予期せぬ行動を誘発されてしまうこともあながち否定できないのかもしれない。

 むかしのTV番組に、「木枯らし紋次郎」という人気を博した番組があった。渡世人の主人公の決めゼリフは、周囲の者が助けを求めても「あっしには関わりのねぇことでござんす」と、さり気なくを通り越した冷淡さで返答することであった。
 都会でのクールな人間関係が一般化していく時代に登場したそうしたキャラクターが、奇妙な共感を得たのだったかもしれない。
 他人の困りごとをすげなく断わるということが共感を呼んだというよりも、都会人同士が、互いの自由を守るためにはほどほどの距離を置くべし、という点が「紋次郎」への共感の下地であったとするならば、何となく頷ける気もするのだった。
 確かに、社会人が互いに注意をし合ったりすることができない雰囲気というのは、互いの自由云々というレベルを下回って異常な状態だと言えそうである。しかし、逆恨みをしたり、すぐに暴力に走る輩が増えている現状では、おいそれと、みんなで注意し合いましょうというのは問題なしとは言えないかもしれない。
 わたし自身も、一時に較べると随分と控えめになったようだと自覚している。さし当たって、自分自身の不快感や苦痛に関しては、できるだけ「まあいいか」と我慢するようにしている。ただ、他の人の苦痛が重々わかりながら、見て見ぬふりをすることはできない。そうした「大義名分」がある場合には、動かなければならないと思っている。ただその場合でも、人質を取って立て篭もる犯人と交渉をする役の「ネゴシエイター」ではないが、極力冷静にかつ穏やかに対処すべきだと考えているのだが、この点が実に難しいことだと感じている。ストレス蓄積が通常の状態となってしまったこの現代にあって、何かの時に、冷静かつ穏やかであることほど難しいことはないのではないかと思うわけだ。

 ところで、他人に注意することが難しくなってしまった現代であるのだが、これに関してもうひとつ考えてみるべきこともありそうな気がしている。誤解を恐れずに言えば、「余計なお世話」を、無責任にしようとする人もまた困りものだという点なのである。概して、何事にも知らぬ顔をすることが問題となっている時に、こんなことを言うのは問題視されがちであり、はなはだ形勢不利なのだが、あえて書こうとしている。
 というのも、われわれ日本人は、長い間の共同体的文化の中で、自身の個人としての感覚が希薄であると同時に、他人に対しても個人の自由という部分を軽視して接してしまうことが多いような気がするのである。悪意はないのであろうが、結果的には他人の自由に対して土足でズカズカと踏み込んでしまう無作法を結構平気でしがちなのが日本人なのかもしれない。いや、オールド日本人と言うべきか。いわゆる「おせっかい」というやつなのだが、これを敢行する側は、自分では完璧に善意だと信じ切っているだけに、相手側にとっては始末に終えないことになるのだろう。
 以前、ある人と話したことがあったが、人間というのは、他人からお膳立てされて成功することを望む者ばかりではなく、たとえ失敗しても、自身で事を進めて失敗したいと思う者も少なくない、と。そう考えたり、そう感じたりする者がじわじわと増えていそうな気がしたりするのである。そうした矛盾めいたことも含めて、個人というものが存在するのだろうと思う。

 やはり、個人主義という伝統が浅いわれわれの社会にあっては、個人という存在と、そして社会という存在とを、議論のための議論というレベルではなく、生きるための切迫した課題として推敲する必要があると痛感する。そうしたことが脇に追いやられているがために、過激化する個人主義的傾向の中で、わけのわからない現象が跡を絶たないのかもしれない。今、自分が関心を持ってはいるのだけれど容易には踏み込めないでいるテーマのひとつに「公共性」というものがあるが、これも同じ土俵の問題でありそうな気がしている…… (2005.05.01)


 「大型連休」のはざ間の勤務日というものは何となくシマラナイと言うべきか。「義理チョコ」のようなものとでも言うべきか。「2日」も「6日」も休みにして、それこそ「大型」にしちゃえばいいのに……、という声も聞かぬわけではない。自身の心の内側からだって聞こえてこないわけでもない。しかし、カレンダーどおりで押し通している。
 特に何か訳のある人は、「2日」、「6日」を有給休暇とすればいいのではないかと思っている。今時、そうした選択をしたからといって、「睨まれる」ものでもないはずではないかと思っている。
 むしろ、あまりにダラダラと連休が続くことは却って心身ともに調子が狂わされてしまう人の方が多いような気がしている。いや、極端な言い方、「国民を愚弄する(?)言い方」をすれば、現在、日常生活にまがいなりにも「秩序らしきもの」を与えているのは、仕事そのものではないかという気がしたりもする。その「手堅い」地点から離れるとろくなことがないようにも思う。そこには、自由があると言われるが、その自由は、特別な消費によって「毟り取られる」自由であったり、自身の器では処しがたい放逸めいた自由であったり、あるいは、掴み所のない自由であったりするような雰囲気がないでもない。

 そう言えば、幼い頃の遊びで、こんなものがあったのを思い出した。要するに「鬼ごっこ」なのであるが、「鬼」でない子たちは、ただ逃げ回るのではなく、「安全地帯」というものが設定されていたのである。良くは覚えていないが、「石」だとか「木」だとかに触れている時には、「鬼」はその子を捕まえられないとかであった。だから、道路が舗装されていない頃であったから、家々の玄関の敷石やコンクリートは「安全地帯」となったようだ。「鬼」の子が遠のくと、そうした部分を急いで渡り歩くというのが妙味であったのだろう。
 子どもの遊びの中にも、「鬼」が思い通りになる空間があるならば、その逆に、「鬼」とてままならない空間もあるのだという、そうした両面設定のなされていたことが興味深い。

 こうした昔の遊びを引き合いにすると、現在のわれわれにとっての「安全地帯」の空間とは、一体何にあたるのであろうか。
 先ず、わたしは、仕事に関与する時間帯というものがそれに当たるのかという例を出してみた。働く男たちにとって、確かに仕事はラクではない。「鬼」に追いまくられたり、「鬼」に取って食われそうな危うさがつきまとう「非」安全地帯だと言えるのかもしれない。特に、「JRの運転手」のような高ストレス環境に置かれたら、毎日が戦場のようであるかもしれない。いや、文字どおり「戦場」を仕事場とせざるを得ない兵士たちもいるわけだ。
 だから、仕事場こそが「鬼」が蠢く空間であり、家族や友人たちと過ごす休暇こそが、「安全地帯」なのだと見なすことができるかもしれない。いや、そう見なされてきたのがこれまでの普通の見方であったのだろう。

 だが、家族や友人たちと過ごす休暇のような空間が、決して「安全地帯」とも言えないような気がするのは、何もムチャクチャな映画「ダイ・ハード」で、 ブルース・ウィリス扮するジョン・マクレーンが、いつも決まったように休暇の非番の際に事件に遭遇するからというだけではない。
 もともと、特にこの国の働く男たちは、確実に、「職場」をこそ「安全地帯」だと見なし続けてきたはずではなかったか。それが、「ワーカホリック(仕事中毒)」と指摘された事実のもう一面の事実でもあったのだろうし、「組織ぐるみ」の犯罪の隠れ蓑にもなってきたのかもしれない。こうした状況が、堺屋太一ふうに言えば「職縁社会」だったのであり、それは社会の構造的条件があっただけではなく、そうした構造を支持した主体側の条件、すなわち、仕事をする男たちがそうした構造を「よし」とした部分も合わさってのことだったのだろうと思うのである。
 おそらく、その構造を「よし」とした根拠のひとつには、その空間での人間関係が、他のどの集団社会よりもスムーズであったことが挙げられるのではないかと思う。なぜ、スムーズであったかと言えば、時代環境が、その空間に「最優先」のプライオリティづけをしていたこと、そして、男たちが他のどの空間でよりも多大な時間をそこで過ごしたこと、そしてまた、家庭という場の出来事の一切からまぬがれていたという事実などがあったに違いない。こうして、「家庭を顧みない働き者」の男たちという人種が大量生産されたわけなのでもあった。

 こうした状況のまずかったことが、現在では百もあきらかになっている。
 仕事中毒の男たちが、自分たちだけが「安全地帯」で「充実感」に満たされている間に、「非」安全地帯たる、「非」職場=生活と消費の現場(地域社会も含む)は、荒れ放題に荒れて(?)しまったのかもしれない。男たちが、「生産の場」で力めば力むほどに、「消費の場」は「草刈り場」と化して行ったような印象が否めないのである。
 「父親不在」の家庭は、なるようになって行ったかもしれないし、父親たちが関与せずに来た地域社会も同様、消費の空間である場も常に第二義的な位置づけに甘んじてきたのかもしれない。いや、これらすべてを、仕事中毒の男たちが現場に不在であったということだけで説明するのは無理があり、「生産(者)主導型」社会が伴った歪が同時に見つめられなければならないはずではある。
 しかし、「生産(者)主導型」社会は、概念なのであって、それを担った生身の人間は誰だったのかを考えれば、仕事中毒の男たちと、それを黙認した妻たちと、放り出されて来た子どもたち以外ではないことになる。

 とにかく、言い古された慣用句である、荒海を避ける港のような「安全」な空間だとされてきた家庭やその周辺というものが、いつの間にか「安全地帯」ではなくなってしまっているというのが、認め難い事実ではあっても、現状のリアルな状況なのかもしれない。
 不甲斐ない男たち(自分も……)は、再度、職場にかつての「安全地帯」を再構築する思いも捨て切れないでいたりするものの、もはや、それとて現実的ではなくなっているに違いない。『プロジェクトX』が、激しい郷愁の対象ではあっても、リアルさに欠けるのは、そうしたことと関係しているのかもしれない。
 そして、よんどころなく、「非」職場の空間、家庭をはじめとした消費空間などにそれを見出そうとするものの、そこに横たわる現実は、容易に手がつけられないほどに、傷だらけの状態として目に入る……
 今年の「大型連休」では、海外を中心とした旅行が多勢を占めると聞く。旅行というものは、スポーツとまったく同様に、気分を発散させる最良の効果がありそうだ。特に、一時的にではあれ、身を縛るようなリアルな現実から解放してくれる。その勢いで、労働者の祭典「メーデー」や、「憲法記念日」もついでに忘れたってしょうがないことになるのが現状なのだと言うべきか…… (2005.05.02)


 皆が、白熱するサッカー・ゲームを観るかのように加熱した「ホリエモン騒動」はいつの間にかクールダウンした。もはや誰も、「この後どうなるの?」とも言わなくなったようだ。「終わってみれば、どこにでもいる買い占め屋、ありふれたグリーンメーラーの一人にすぎなかった」(『週刊朝日』2005.5.6-13 吉田司 「堀江貴文研究 チープな反射鏡」)ことがのみこめるようになったのかもしれない。
 所詮、大衆が熱くなれそうな素材に飢えているマス・メディアが、勝手な状況証拠とシナリオをでっち上げて、恰好な「食材」としたという後日談が当を得ているように感じられる。そんな後日談の中で、「ホリエモン」が、「時代の熱気や光をうけてキラキラ浮かび上がる<反射鏡>」だという表現が妙に説得性を持っていた。ちなみに、次のとおりである。

「まず第一、堀江貴文という人物像はナルホド、いま時を得て、昇るサンライズ(太陽)のように輝いて見えるが、社会装置的に言えば、これまで指摘したように、<自ら発熱する物体ではない。>(傍点)時代の熱気や光をうけて<キラキラ浮かび上がる≪反射鏡≫。>どこかニヒルでルナティック(お月様的)な物体だと、ワタクシは思いますね。熱気や光を受けとめるセンサーの敏感度が少しでも故障したら、たちまち失速する。
 その彼の「ハイリスク・ハイリターン」のマネーゲームに麻薬的にハマる人って、結構いるのではありますまいか。つまり彼は、自分で新しい時代を開くフロンティア(太陽精神)ではなく、逆に時代環境の進化に助けられた<後発者利益>(お月様精神)を誰より早くいただいちゃうという仕業において、当代ピカ一の経営者なのだろう」(同上)

 確かに、「ホリエモン」がして見せた「手品」のタネの「大道具」は、インターネットのブロードバンド時代であり、世界的なカネ余りを契機とした巨額マネーであった。そして、前者については、日本の場合どちらかと言えば、あの孫正義氏が多額の投資をして露払いを行ったものだと言えそうだし、後者については、原油価格のつり上げに向かった投資と同根の「余剰なカネ」以外の何ものでもない。
 「ホリエモン」は、こうした、誰もが手控える傾向となりがちな「大道具」から、チープといえばチープな手品のタネを作り出し、危ない橋を渡ったということになる。また、マス・メディア上での一連の彼の動きを見てきたものにとっては、マス・メディアがバカみたいに翻弄され、利用されていたことがわかる。つまり、今回の騒動の立役者は、「ホリエモン」という素材と、「ホリエモン」を、恰好な「食材」として大衆受けをする料理で儲けようとしたマス・メディアとの「見事な」二人三脚であったと見える。
 上記の「週刊誌」の記事では、そうした「大道具」という背景や、「手品」の仕業のプロセスでのマス・メディアが果たした効果などを含めて、「ホリエモン」とは「チープな反射鏡」以外ではなかったのだ、と述懐しているわけである。

 以前、わたしは、この「ホリエモン」が、誰かと似ていると書いた覚えがある。(2005.02.20) つまり、「ツキも実力の内」なんですか、と言ってやりたい、とある首相のことである。彼も、マス・メディアとの二人三脚がなければ到底持つはずがない実力のタイプではなかろうか。幸い(国民にとっては不幸なのだが)、バカなマス・メディアが終始一貫して彼に現代的な「ツキ」を提供してきたし、彼自身はそうした「ツキ」をかもし出す点では「当代ピカ一の政治家」だったのだと言えるのではなかろうか。さらに本質論を言うならば、彼も<後発者利益>(お月様精神)に敏感な者であっただろう。「自ら発熱する」というようなリスキーなことはいっさいやらずに、米政権の「熱気や光をうけ」ることにのみ神経をとがらせてきたからである。
 そうして考えてみるならば、現代の「成功者」たちというのは、「フロンティア」であってはならず、むしろ「ルナティック(お月様的)」でなければいけないようである。そう言えば、北朝鮮の政権だけではなく、この国も、「二世」「三世」の政治家たちがやたらに増えている。「親の七光り」の「反射鏡」的政治家なのだろうか。それが「チープ」であるかどうかは、言わずと知れているが……。「二世」「三世」と言えば、政治家だけではなく、高級官僚たちもその傾向の強い事実があるらしい。

 いや、「反射鏡」という切り口に関心を持ったのは、「親の七光り」云々という凡庸な事柄の再確認ではなかった。そんなミクロな視点ではなく、現代という環境は、どうもその環境に見合った特殊な「反射鏡」であることが、とりわけ重要な要素であるかのような、そんな印象が拭い切れないという点なのである。
 「情報(化)社会」といい、「グローバリズム」時代といい、どうも、「既成事実化」した環境に対してこだまのような「反射光」を返すこと、さもなくば「保護色」的な光彩を放つことが、何よりも重視されているかのようである。「個性化」時代なんぞという触れ込みほど胡散臭くて眉唾なものはないと言うべきなのかもしれない。「ホリエモン」にしても、「時間外取引」の虚を突くようなカネ儲けの手法の一部以外に、どこに「個性的」な言動があっただろうか。スーツをまとうことを避けている彼は、七・三分けのヘア・スタイルに戻ろうとしない首相と同様に、「見てくれ」を常軌に戻せば「一般」へと埋没しかねない自身の没個性を、十分に自覚しているからではないかと思ったりもする。

 マス・メディアとは、社会の「鏡」である、という表現があったかと思うが、確実に言えることは、それが「正確」であるかどうかではなく、膨大な「増幅」力を持った「鏡」であるという点であろう。そして、その「入射角」「反射角」さらにその「歪み」をも計算に入れた、「鏡」を写す巧妙な別な「鏡」を駆使すること(「反射鏡」!)が、この弱肉強食時代の勝利者の必須条件であるということだろうか…… (2005.05.03)


 <副題> 「おまさ、ちと遠くて悪いがのう、長崎へと足を向けてはくれまいか」

 連休の最中、戸外に出ても良さそうなものだが、書斎で読書を始めた。探し求めていた本が入手できたことと、気に入った新しい書見台を試してみたさがそうさせた。
 先日来「amazon」の「マーケットプレイス」というシステムで、もう10年も前に出版され現在は絶版となっているある本を「予約」していた。この「マーケットプレイス」では既に数冊の「中古本」を購入しており、いずれも良心的な「出品者」に遭遇して、丁寧な扱いで希望の本を手に入れてきた。
 が、今回は、3ヶ月程の「予約有効期間」の2ヶ月が過ぎても音沙汰がなく、諦めかけていた。もっとも、新刊当時の定価が3800円、現在の推定価格は4〜5000円とされていたのを、「程度良好で3000円」という厚かましい「予約」をしていたせいなのかも知れなかった。もし、それでダメなら諦めようと思っていた。
 ところが、連休前に、唐突に「amazon」からのメール連絡が入り、その待ち焦がれた本が届けられる運びとなったのである。しかも、「程度が良好」で「2500円」だというのであった。もちろん断わる理由は何もなかった。
 そして、届いてみると、どうもページを繰った形跡がない、何と「新品同然」なのである。わたしの気分は小躍りしたものだった。価値があるとかないとかという観点はもとより自分には関係がなかった。自分が持つ本は手放すつもりがいっさいないからである。というより、自分は、「綺麗に読む」習慣がないのだ。昔は、鉛筆やボールペン、蛍光ペンなどでやたらと傍線は引くは、メモを書き込むはで、ほとんど古本としての商品価値を台無しにしてしまうのであった。若い頃、一度カネに困って、古本屋に持ち込んだことがあったが、その時に店のオヤジに言われたものだった。
「お兄ちゃん、本を高く買い取ってもらおうと思うんだったら、汚してないのを持って来ることだね」と。
 その時に思ったことは、これからは絶対に傍線を引くのはやめよう、ということではなく、これからは本を売るというようなことはやめよう、ということだったのを覚えている。
 それはともかく、今回入手した本は、汚し甲斐のある「新品同然」であったので、よし、じっくりと読ませてもらうぞ、と楽しみにすることとなったのだ。

 ところで、今回の「マーケットプレイス」の「出品者」も、単なる個人の蔵書家というよりも、「中古本」を商う自営業者のようであった。今までの購入もすべて同様であったが、今回は、ホームページ上でこうした小ビジネスを楽しんでいる奈良県の女性のようなのである。発送案内のメールが先に届いたが、ウェブサイトのURLが表示されてあったので、確認のためアクセスしてみた。本が好きな人であれば、趣味と実益を兼ねたアクションというところかな、と思わされたものだった。
 わたしのような、読みたい本というものにはこだわる者で、なおかつ本の「汚し屋」(図書館から借りた場合には不可能である)がいるとすれば、古本の需要というのはそこそこありそうで、そこを趣味と実益両立派ががんばってみるという事情も存在しそうだと思えたものである。もっとも、本は嫌いだし、カネは大金でないと嫌いだといういま時の人たちに向くジャンルではなさそうだが……。

 しかし、「中古本」「古本」のジャンルにまでインターネットがしゃしゃり出るご時世だから、街角の古本屋さんも、新刊本の書店と同様に店仕舞せざるを得なくなるのが良くわかる。いや、もとより、読書をすること自体がマイナーとなってしまった時代の変化が大きいことは言うまでもない。
 聞くところによれば、街に何がしかの潤いを与え続けてもいた街角の(個人)書店が次々と店を閉じているらしい。売れ筋の新刊本は「配本」されないから読書派の足は遠のくし、週刊誌の類の客はコンビニなどに奪われるし、元来が「薄利」である商売だけに、遠のく客足傾向はもろに経営の足を引っ張ることになるらしい。「注文」という形式があり得るわけではあるが、いま時の客は「二週間」が待ちきれないし、片方に早ければ「ニ、三日」で入手可能なIT活用という手があれば、客がそちらに目を向けることはしょうがない現象だと言えそうでもある。何か起死回生の策はないものかと、他人事ながら気になってしまったりもする。
 上述の「出品者」の中には、「現・元」(個人)書店の店主も加わっているのではないかという想像もしたりする。確かに、「江戸のかたき」を江戸で討つごとく、ITに奪われた顧客を、ITを使って取り戻すというのは実に正攻法であるには違いない。

 ただ、書店という商売が好きだという人の中には年配の方も少なくないだろうし、ITに疎遠な場合も多いかもしれない。そんな場合、どんな対抗策が考えられるのであろうか……。この辺の問題は「やっかい」でありそうなので、触れずに通り過ぎるべしと思って書いて来たのだが、いつの間にか触れる成り行きになってしまっている。
 判官贔屓(ほうがんびいき)ということでもないのである。つまり、何も(個人)書店に限らず、あらゆる小規模業種というものが、大なり小なりこうした「袋小路」に追い込まれているのが、現在の深刻な社会現象であるからなのだ。こうした問題は、「やっかい」であるに決まってはいるのだが、「難しいですねぇ」と言って済ますわけにはいかないのも事実であるからなのである。

 「ホリエモン」の「時間外取引」のような「奇策」が自分にあるわけではない。しかし、いわゆる「奇策」を講じなければならないのが実情ではないかとは思っている。
 そして、この現時点において、何がもっとも「奇策」に値するかと言えば、誰もがIT、ITと目くじらを立てている最中に、「ITでは不可能なこと」に目を向けてテーマを掴み出し、かつ時代の恩恵を受けるためにその実現手段としてはITのおこぼれを活用させていただく、という策、これが現在の残された「奇策」の一般論ではないかと思う。
 ところが、「ITでは不可能なこと」というのが実はくせものなのである。たぶん、カネに糸目を付けぬのならば、ITに不可能なことは無いと言ってもいいのかもしれない。いや、この点こそが、実はITの最大の弱点であるのかもしれない。
 つまり、ITというのは、所詮カネ食い虫なのであり、それが隠され、いなされる(採算がとれる)ためには、数(顧客数)が揃わなければならないという、そんな宿命を持つものなのではないか。成り上がりスターのように、大勢のギャラリーが集まらないと妙味が発揮されないというものなのである。インターネットやケータイを思い浮かべればわかることである。大きすぎる「オーバーヘッド」は、膨大な数の受益者を前提にしてこそ賄われ得るものなのである。
 しかも、「数」を目当てにした動きは、当然それが扱う内容を限定せざるを得ない。つまり、大衆受けする「一般性」の強い傾向ということである。しかしながら、大衆は当初は「一般性」のレベルで満足しても、それが続くはずがなく、やがて「個性化」と称するきめ細かさを目指すという課題に直面することになる。これは、ますます「オーバーヘッド」の比重を大きくさせることや、採算性の問題からサービスの質の低下を選択することへとつながらざるを得ない。

 まあ、ITというのは決して絶対的な切り札なんぞではなく、矛盾に満ちた存在なのだと見ておいた方がいいと思う。「ITバブル」という言葉で騒がれたことがあったが、IT自体がそもそも「バブル」のような性格を秘めており、皆が株を買い続けるごとく、ITを便利で、意味のあるものと支持し活用し続けなければ、途端に「破綻」へと向かうものでもあるのかもしれない。仮に、皆が急にネット・ショッピングに飽きたり、インターネットそのものに背を向けたとしたら、たちどころに破綻を来たすのがITリスクの象徴であるのかもしれない。
 それはともかく、IT活用の経営は、「薄利多売」「スケール・メリット」路線以外の何ものでもない。それも決して前途洋々なんぞではなく、稜線を歩くがごとくにである。 で、小規模経営の活路は、という課題であるが、ここはことわざどおり「江戸のかたきは長崎で討つ」と考えるべきではないかという気がしている。つまり、ITに固執する必要はさほどなくて、むしろIT活用路線の逆に目を向けていた方がいいかもしれないと思ったりするのである。「数」をこなそうなんぞと考えずに、質の高いモノなり、サービスなりを目指し、その代わりに、そのコストが賄える顧客像を描かなければいけない。そのためには、自身の生業に関する顧客ニーズを想像力と調査を踏まえてとことん認識することが重要なはずである。
 たとえば、(個人)書店を例にあげれば、もはや「浮動顧客」を相手にしても始まらないと思われる。「固定客」への「御用聞き」行動を深化させ、また「新刊本情報」を徹底的にマークしながら、両者の「やり手ばばあ」機能をきめ細かく果たしていくことしかないであろう。IT戦略の「amazon」でさえ、データベース機能を駆使して、一人ひとりの顧客向けの「お勧め新刊本」情報を提供している「(擬似)個別サービス」ぶりである。血の通った人間であり、しかも本が好きな店主であれば、固定顧客との情報交換を密にして、相手の欲しい本を言い当てられるくらいにして、商売を成立させることでなければならないのかもしれない。
 いずれにしても、ITという「スケール食らい」の化け物に怖気づいていては始まらないのである。ラクして儲けようという輩たちが、しっかりと見過ごす「長崎」をこそ歩き回るべきなのだ…… (2005.05.04)


 考えてみると、現在の自宅の近くには食べ物屋が多いことに気づく。つい先ほどまで滞在していた焼肉屋のほかに、もう一軒別の焼肉屋があり、レストランが二軒、回転寿司屋が、本来の寿司屋二件のほかに二軒、ラーメン屋が一軒にカレー・ショップが一軒、蕎麦屋にうなぎ屋が一軒づつと、まあ、町田街道でもこれだけ寄り集まったエリアはそう多くはないのではなかろうか。
 何も自慢するほどのことではない。連休にどこへも行かない「罪滅ぼし(?)」でもないが、とりあえずの連休が終息するにあたって、家内を外食に連れ出したのである。家内の場合、何かうまいものが食べたいということもあるのだろうが、何よりも食事の仕度と後片付けの省略できることがうれしいようなのである。

 最初は、回転寿司を目当てに表に出た。おふくろを誘ったが、
「今日は子どもの日だから、きっと大勢が並んでるにちがいないので、アタシはいい。気持ちだけありがとうね」
と、ノーサンキュウの応えが返ってきていた。そんなおふくろの読みもあったか、その店には多くの期待が抱けない雰囲気であった。
 二人して歩いて、その店に近づくと、入り口の前で、キャッキャと騒ぐ子どもとその親らしき家族がニ、三組待っている姿が目に入った。入り口の中に待合室があり、さらに、店内の窓側に何人もが座って待てる駅のベンチのようなものまであることを思い起こしたら、入り口前の賑わしさだけで、コリャだめだ、という気にさせられてしまった。
「どうする?」
「帰ろうか……」
「じゃあ、久しぶりの焼肉ってぇことにするか」
「そっちも、同じじゃない?」
「まあ、覗いてみよう」
と、予期してはいたものの、いざ絶望的な待ち行列の存在を目にしてしまうと落胆の心境が隠せず、気の乗らない会話をすることになってしまった。
 焼肉屋に入ってみると、状況はさほどかわらないことがわかり、落胆の心境にはやや悲壮感が漂い始めたものだった。が、近場で焼肉の特有の匂いまで吸って、これですごすごと帰宅するのはさすがに惨め過ぎた。
「待つしかないかな……」
 いたしかたなく、硬い長椅子に腰を降ろすことにした。店員は、待ち時間はおよそ30分というところでしょう、とつなぎのためのセリフを言っていたが、あまり信じられなかった。

 誰だってそうかもしれないが、自分は、行列で何かを待つというのが大の苦手である。今までにも、しょうがないかと並び始めた行列を途中でいたたまれずに何度も放棄した覚えがある。そもそも、この大型連休でどこへも行かないぞ、と決心していたのは、何を隠そう、こうした行列、そしてクルマの行列たる渋滞がいやでいやでならないからなのだった。
 中には、行列にせよ、渋滞にせよ、「参ったなあ……」と言いながら、内心賑わう人込みのど真ん中にいる自身を許していたり、それはそれで楽しんでいたりするタイプもいそうな気がする。ゾロゾロと歩いたり、あるいはジリジリとしか歩けない三が日の初詣に出向く人というのは、そんなことが例年のことでありながらも敢行するのであるから、きっとその混雑を賑々しい雰囲気として前向きで受けとめているに違いないのだと想像するのである。自分も、小さな子どもの頃には、そんな賑々しさを変わった経験として楽しく思ったこともなかったわけではない。両親に手をとられ、大人たちの「林」に埋没して歩き、突如として見渡せる光景が開かれるという成り行きは、それはそれでおもしろく感じたりもしたはずである。
 しかし、そんなのんびりとした気分は、とうの昔にどこかへ置いてきてしまったようであり、無為に待つことの辛さばかりが先立つようになってしまったのだ。

 家内が、自身の退屈さを紛らす意味もあってか、唐突に、名古屋時代の食べ物屋の話を始めた。
「荒畑に居た頃、すぐ近くの通りの右側にあったお店は、あれは御蕎麦屋さんだった? うどん屋さんだった?」
「何言ってるの、それを言うなら『きしめん屋』さんだろ」
とか、
「大須のうなぎ屋さんの釜飯は本当においしかったわね」
「そこそこ時間が過ぎた頃に、お茶漬け用に土瓶にお茶を入れて持って来てくれるのが気が利いていたね。のりとわさびを合えて、『うな釜』のお茶漬けという趣向は、あの後どこかで味わった覚えがないもんなあ……」
といった「つなぎ」の会話を「せざるを得なかった」のである。腹はどんどん空いていくし、焼肉のいい匂いばかりが空腹を刺激するし、沈思黙考で待つのは、まさに落語風表現では「おひつを抱えて断食する」の苦痛であったからだ。

 漸く、店員が、
「お二人様でお待ちのヒロセ様、5番テーブルへご案内いたします」
と、笑顔を向けてきた時には、その笑顔が何と福々しく思え、思わず手を合わせたくなったりしたのが不思議であった…… (2005.05.05)


 以前に、自転車に乗るノウハウ(ノウハウと言うほどでもないが)というものや、よく知った人の顔の記憶などは、長い時間が経過して何年経っても変わらずに脳のどこかに記憶されるものだということを書いた。それは結構不思議なことなのではないかという動機で書いたはずで、その際に「暗黙知」という言い方をした。
 つまり、自転車に乗るという動作は、もしロボットにそれをティーチングするために、細かい制御動作に分解して、さらにそれを組み合わせる制御までまともに組み上げてゆこうとするならば、途方もない膨大な情報を要することになろう。
 また、人の顔を記憶するということもかなり難易度の高い能力が必要となるはずであろう。というのも、人の顔は表情があり、一日のうちでも千変万化しているはずである。どんなに笑おうが、しかめっ面をしようが、はたまた間抜け顔になろうが、その人なのだと判断することは、そう簡単なことではないだろう。さらに、女性の場合には化粧もするし、ヘア・スタイルも変わる。しかし、普通の能力があれば、知った人の顔というものは、さまざまな条件変化を超えて、ほぼ確実に識別できるものだ。
 しかも、二、三年どころか、数年、十年経ったとしても、面影などからその人であることを推断することだって不可能ではないのが、人間の能力の際立った点であろう。

 こうしたスーパー・パワーは、いわゆる「知識」、それは言語によって構成される知的構成物なのであるが、そうしたものとは異質であると考えざるを得ないところから、「暗黙知」というような、いわばペンディング的な表現が採られるのかもしれない。
 こうしたことと関係して、一体、人間の脳がモノを記憶するという過程が、どのようなメカニズムで行われるのかは実に不可解だし、興味津々でもある。
 一昔前には、ちょうどコンピュータのメモリ素子が情報を一対一関係で保持するように、人の記憶も、個々の脳細胞が記憶するという考え方が採られていたという。しかし、それが破綻した理由は、二つあると言われている。
 そのひとつは、平均的な人間の脳が一生の間に蓄積する情報量が膨大なものと推定され、とてもその数を担うほどの脳細胞の数はなさそうだということである。ちなみに、その数は、2.8×10の20乗(280,000,000,000,000,000,000)ビットだとも言われている。
 また、もうひとつの理由は、もし記憶がそれぞれ個々の脳細胞が担っているのだとするならば、その部分が「破損」した場合には、その記憶が消失してしまうことになりそうだが、生物の脳というものは、どうも脳の個々の場所に依存していないらしいのである。動物実験では、脳のパーツの位置を変えても、とり除いてもほぼ変わらぬ反応が返ってくるという。もともと、脳というのは、役割分担的な分化がありはするものの、ある部分が欠損するとそれを補うような機能が生じてくるものであるとも聞いている。だからこそ「リハビリテーション」という運動機能の再生療法も成立するのであろう。

 なぜ、わたしがこんなことを書いているかといえば、もともと脳の不思議さへの関心はあり続けたのであり、そしてまた、それと同値かと思われる「暗黙知」にも関心を寄せてきたからなのである。さらに、いまひとつ、同じ根っこの動機から関心を向けざるを得なかったものとして、「ホログラフィック」(「ホログラム」)というものがあった。過去にも何回か触れてはきた。
 「ホログラフィック」(「ホログラム」)というのは、あの「立体映像」を生み出す原理のことであり、最近ではそうした映像装置がTVのように実用化へと着々と進んでいるようでもある。また、「ホログラフィック・メモリ」という斬新な試みも浮上しているようだ。が、わたしの関心は、そうした「立体映像」ではなくて、その原理なのである。
 詳しいことは後日に回すとして、要するに「部分に全体が含まれる」という途方もない原理が「ホログラフィック・モデル」の興味深い点なのである。一般に、「部分は全体の一部であり、全体が部分を含む」というのが通念であるが、まさにその逆を照らし出そうとするのが「ホログラフィック・モデル」なのである。しかし、冷静に考えてみるならば、決して絵空事とも言えないような気がしてならないのである。たとえば、現在いろいろな分野で関心を呼んでいる「DNA」は、個々の細胞が、全体を保持していると表現しても間違いではないのではなかろうか。
 現在、楽しみながらそうした類の本を読んでいるのだが、こうした発想法が最も有効性をもちそうなのは、やはり脳の働き方なのかもしれないと思っている。「ニューラル・ネット」云々という話題が一頃持ち上がってその後「静かになってしまった」かのような経緯もあるが、「ホログラフィック・モデル」の研究が何がしかの突破口になるのではないかと思ったりしている…… (2005.05.06)


 昨夜は、久々に深夜まで事務所で過ごした。過ごしたと言うのがまさしく妥当なのであり、勤務という表現は適さないであろう。
 連休のはざ間ということもあり、古いノートPCの改造なんぞを手掛けてしまい、あっという間に時間が過ぎていたのだった。ひとりで黙々と作業を進めながら、こういう事が嫌いじゃないんだなあ、とひとりで納得している始末であった。
 やっていることは決して大したことではなく、ノートPCのHDDの容量拡大と、OSの入れ替えといったアップグレード改造なのである。ただし、ノートPCのHDDは、まるで隠されてでもいるかのように込み入った箇所に埋まっている場合が多い。とくに、モバイル系のPCであると、その内部は職人芸的なレイアウトの構成となっているため、作業を進めるべきかどうか躊躇させられる場合も少なくない。仮に、首尾よく分解できたとしても、さてうまく「再」組立てができるかどうかが心配になってくるのである。
 実は、昨夜の作業は、つい先ごろに経験したある別のモバイルPCの同じ趣旨の分解での「挫折」に端を発していたのだ。
 二度、三度と分解の挑戦をしたにもかかわらず、HDDを収めた周辺の構造が組木細工のようになっており、これ以上無理をすれば、「再」組立て不能となる恐れなしとはしないと判断せざるを得なかったのだ。
 これはまさに、頂上を目前にして下山する登山家、いやちょっと大げさではあるが、幾分そんな悔しさがあったということができよう。その悔しさの余韻が、昨夜のノートPCのアップグレードに目を向けさせたのだと言える。
 昨夜の場合、より古いモバイル系ノートPCであったため、幾分「攻略」可能性が高いと思われた。だが、サイトでのメーカー情報によれば、HDDの交換は不能とされていたため、挑戦意欲が掻き立てられてもいた。
 もうひとつこのPCの場合、HDDの交換ができたとしても、そもそもOSのアップグレードが可能かどうかの心配もあった。いざ、HDDの入れ替えに成功したとして、新しいOSを受け入れないとするならば、あまりメリットがなくなる。そこで、先ずは、現状のHDDで試しておいた方が無難であろうと考え、それはどうにかこなしていたのである。と言っても、これも「正規」な方法ではなく、危ない橋を渡るようにしてであったが。
 いざ、分解に入ると、やはり多少の緊張感が生まれてくるものだ。たとえ最悪、ただ「壊す」ことに終わったとしても、古いPCであるという点が、あきらめ感を誘ってはくれようものの、自尊心の瑕を癒すものは何もない。まして、先日の「頂上目前の下山」という苦い思いもある。
 幸いにも、どうにかHDDを取り出す手順が読み込めて、極小のビスも取り外すことができた。ここで用心しなければならないことは、似通ってはいるが異なるビスを、なくさないのはもちろんのこと、該当する箇所をしっかりと記憶しておくことである。それと同時に、はずしたパーツがどのような構造で収まっていたかを忘れないことも必須である。
 こんな幾分緊張した作業というのが、バクチのスリルにも似て、楽しさの根源なのかもしれないな、と思った。
 また、別のことをアナロジカルに想像したりもした。というのは、外科医の「オペ(手術)」のことである。基本的には、良く似ているものだと思えてならなかった。もっとも、当然のことながら、「オペ」の経験なぞあるわけがないが、「切開」して、患部に処理を施すに当たって、込み入った「配線」となっているのであろう血管や神経を誤って切断してしまわないことやら、患部に到達するまでに一時的に切り開いた部分を元通りに縫合することなどは、高い集中力と持続力、もちろん注意力を要するものなのであろう。
 しかも、相手が人体となれば、出血の問題や体力の点から、時間的な制約があるに違いない。PCの改造であれば、最悪、「まあ、今晩はこんなところでお開きにするか」も許されようが、外科医の場合にはそんなことは許されようはずがない。
 てなことを想像していると、楽しみを超えてやややっかいになり始めた自分の作業が、にわかに「余裕のよっちゃん」的気分に舞い戻り、再び楽しさが盛り返してきたりするのであった。
 確かに、こんな事をしたって、さしてタメになるわけではない。まして、何の「カネ儲け」にもつながらないことである。もっと、直接、ビジネスに実りがあるようなことに精を出すべきであるのかもしれない。
 ただ、言い訳や自画自賛をするつもりはないが、こうした若干のヒヤヒヤ作業で緊張感を持つということが、自身の脳の「襟を正す」ために定期的に必要だという気がしているのである。楽しみながら、ほどほどの緊張をすること、これが脳と気持ちのリフレッシュにとって悪くない材料だと思っているわけだ…… (2005.05.07)


 昨夜、この日誌を仕上げる過程で、ちょっとしたミスをして梃子ずってしまった。いつもは、デスクトップPCのとあるエディターで入力し、これを、自社サイトのCGIページに転記(コピー)してアップロードしているわけだ。
 しかし、気分を変えるために、ここニ、三日いじっているモバイルPCを使って入力してみたくなった。マンネリ気味の日誌も、入力環境が異なれば多少とも新鮮な気分になれるものかと、軽い動機で打ち始めた。すると何となく、功を奏するかのような気がしてきた。
 いつも見慣れたディスプレーと、そこに表示されるエディターの画面というのは、定番となっていることから、使い慣れた安定感というものがある一方、ウンザリした気分も伴わないわけではない。
 それに対して、モバイルPCのディスプレーは文庫本ほどに小さく、そこにフル画面でエディターのウインドウを表示してみると確かに趣きが変わった。しかも、通常の表示文字サイズでは小さ過ぎて見にくいため、フォントサイズを大きくしてみたりした。
 また、モバイルPCのキーボードでは打ちにくいため、日ごろ使用している通常のキーボードをつないだのである。なにも、そこまでしてそのモバイルPCにこだわることもないのであるが、とにかく遊んでみた。何だかワープロ専用機でも操っているようで、大いに好感が持てたのである。
 
 そして、いつものように日誌を打ち終えたのだった。さて、それじゃこのファイルをデスクトップPCに移し変えて、あとはサイトを開きそこからアップロードすれば終了だ、と考え至った時、ハッとある凡ミスに気づいたのである。
 自宅で放置していたこのモバイルPCには、ファイルを取り出す手立てがないようだったのである。通常のPCであれば、FDDがついている。この日誌の一日分程度のテキスト・ファイルであれば、フロッピーにコピーして、デスクトップPCのFDDへ移動させれば事足りたはずだ。ところが、外付けのFDDは事務所に置いてきていた。
 PCカード・スロットはついているものの、PCカードのメディアは事務所に置いてあった。USBポートはついており、実は、当初は普段持ち歩いて常用しているUSBメモリで対処できると思い込んでいたのだ。ところが、これは「ドライバー・ソフト」をインストールしなければ使えないものであることに気づいた。しかし、このソフトをインストールするには、FDDがなければならず、不可能の堂々巡りなのである。
 
 さて、困ってしまった。このファイルの取り出しを叶えなければ、日誌はいつまで経ってもアップロードできず、最悪、モバイルPCの画面の文字を、再度デスクトップPCで打ち込み直すという拷問のようなバカ作業をしなければならない。そいつはなんとしても勘弁してもらいたいと思った。
 書斎の中を見回し、何か良い手はないかと思案していたところ、このモバイルPCのPCカード・スロットにかつてCDドライブを取り付けたことのあることを思い起こした。このCDドライブの「ドライバー・ソフト」はインストール済みであったに違いない、もしそうであれば、「ひとつの方法」が成立する、と思い至ったのだった。幸い、CDドライブをつないでみると、難なくつながったのである。
 自分が、「ひとつの方法」として考えたのは、USBメモリの「ドライバー・ソフト」をこれでインストールしようという算段だったのである。その「ドライバー・ソフト」のCDも手元にはなかったのではあるが、デスクトップPCには「CD-R」ドライブが備わっているため、サイト検索からその「ドライバー」をダウンロードして、CDに焼き、それを使ってインストールしようという、「風が吹けば桶屋が儲かる」というまどろっこしい手順なのであった。
 
 やれやれ、と思いながら、机の上のUSBメモリを見つめながら一服タバコを吹かしたものだった。その時である、何かが閃いたのは。
『待てよ……。モバイルPCを利用していた当時に、使用していた<古いUSBメモリ>を、ひょっとしたらカバンのどこかに突っ込んでいたかもしれない……』
と思うやいなや、すぐさまに探してみた。と、まるでジャジャーンという音やら、パンパカパーンという音が聞こえてでもくるかのように、その古めかしいUSBメモリがカバンの内ポケットから見つかったのである。
 もちろん、これをモバイルPCと接続してうまくいかないわけがなかった。ここに至るまでの回り道で、優に1時間以上が経過していた。

 今、そんなことを思い返しながら、いくつかのことを考えている。
 先ず、そのひとつは、「万が一」に備えるということ。自分が、その<古いUSBメモリ>を通勤時に持ち歩くようにした動機というのは、いつ何時、自宅で作成したデータ・ファイルを事務所などに運ばなければならないかを、ちょっと想定したからであった。
 ただ、今回「役立った」のは、メディアそれ自体があったというよりも、このメディアが、容量は小さいけれども、より「汎用的」であったということによるものだっただろう。
 「万が一」に備えて何かを持つ場合、とかく「優れモノ」を選びがちであるが、そうしたものはとかく使用条件に制約を受けたりもしがちである。だから、むしろやぼったさはある古いものでも「全天候型」という性格のものが良さそうだということなのである。たとえば、バッテリーにしても、特殊な充電式よりも、「単三電池」というようなどこででも入手可能なものが一番安心できそうな気がするのである。
 
 もうひとつ考えたことは、ちょっと飛躍したテーマではある。今回の「小事件」は、PCに入力したデータを、どうやって取り出すかということであったと言える。これは、カメラが撮影したものをどうやってビジュアルな画像として取り出すかということでも同じである。さらに言えば、「エンコード(encode、暗号化)」したものをどうやって「デコード(decode、解読)」するかということにもつながる。
 こうしたことに思い至るのは、人間の脳がものを記憶することと、想起することという構造に関心が向いているからなのである。通常、記憶とは、結果論的に思い出されたことを指すようであるが、ひょっとしたら、人間の脳というものは、思い出せること以上に、より豊饒(ほうじょう)に記憶しているのであり、ただし、それを「思い出すための方法」に挫折しているのではないかと想像するのである。この点に関しては後日に…… (2005.05.08)


 日誌を書いていて時々思うことは、一日という時間経過を一応の対象としていながら、書いていることときたらなんと部分的なことを相手にして終わってしまっているのだろう、ということである。
 もっとも、小学生の夏休みの日記のような、その一日に何が起きたかとかどんな経験をしたかというような事柄の列記をしようとしているわけではない。むしろ、何を考えたのかとか、何を感じたのかというような、他の一日とは異なる内面に意を注ぎたいと思ってきた。だから、多くの出来事を書き漏らすことは先刻承知のはずではある。
 要するに、一日を対象として見つめながら、大幅な取捨選択を行い、なおかつ自分にとって意味のあるかたちに再構成して書いていることになる。言ってみれば、自分に関わりのある環境や、自分自身の内面などの移り行きを、一日という区切りで「編集」していることにもなるのであろう。客観的というような視点はもとより関係がない。主観的視点に基づいて、対象を絞り込み、主観的視点によって「料理」しているわけだ。

 なぜこんなことを書くかというと、そもそも人間というのは、外界との関わりにおいて主観的視点というものが働くものだろう。と言うよりも、むしろ客観的視点というものの方がまやかしでありそうな気がするのだ。
 人はよく、「客観的に言って……」という表現をしたがるものだが、そもそもそんなことは不可能なのかもしれない。自分の主観的視点を取っ払って、「公平公正」に見た場合にと本人は言いたいのだろうが、じゃあ、今そう言って話しているあなたは誰なの? と言いたくもなってしまう。急に、神様モードになったり、統計モードになったりすることがどうしてできてしまうの? と。あるいは、内面というものを持たないモノにでもなったつもりなの? といってもいいのかもしれない。
 とにかく、人間個人は、自分自身をも含めて、外界の世界を自身の主観的視点によって切り取って了解しながら生きていると言えようかと思う。

 それじゃあ、世界と言う存在は、誰が見ても同一な存在ではなく、それぞれの個人的妄想で照らし出された多面的な万華鏡のようなものなのだろうか。正確に言うならばそういうことになるのだろうと考えた方がいい。これだけ、いろいろなジャンル、さまざまなレイヤーで多発しているモメゴトを思えば、いっそ、そう見なして原点に戻った方が建設的なアプローチができようというものなのかもしれない。
 確かに、人間が一切の他者との関係を断つならば、まさに世界は個人的妄想のみの産物であり、客観的な側面なぞ生まれようもないと言うべきなのであろう。生まれてすぐに狼の群れの中で育った「狼少年」の場合には、主観や客観が派生する以前の「原始的」主観で世界と接していたのではなかろうか。ただし、その「原始的」主観とは、狼の群れをはじめとする自然環境と溶け合った、ある意味では「楽園」であったとも想像し得る。

 何が言いたいのかを急がないと話はますますわかりにくくなってしまいそうだ。
 われわれ人間は、一日を例に挙げても種々雑多な行動や経験をする。それは主に、主観的動機に基づくわけだから、主観的視点での世界を形成することになる。
 また同時に、われわれは、先ほどの「狼少年」ではないのだから、自分と同様に主観的視点に基づいて行動する他者との関係を欠かすことができない。この他者という別の主観的視点との関係によって、自身の主観的視点の歪みはかなりの程度是正されることとなり、いわば純粋な主観的視点ではない別の視点、たとえば仲間たちのものの見方や、世間一般のものの見方、さらには常識的なものの見方などという別の視点を想像したり、あるいはそれを是認したりすることになる。これが、「擬似」客観的視点ではないかと思われる。
 こんな当たり前のことでも、現在のおかしな社会風潮を考えるには有効な切り口となるような気がしている。つまり、個人の過度の孤立化状態では、自身の主観的視点から見える世界がすべてだと見なしてしまう可能性が生まれるからである。妄想であっても、それと気づけない孤立化環境が広がっていないとは言えないように思われる。

 さてさて、言いたいことはまだまだ先なのである。
 われわれは、主観だ、「擬似」客観だといいつつ、概ね主観的視点でものを見て、働きかけて、何がしかの経験をしている。当然、当人の内面に生まれるもの、たとえば記憶にしてもそのスタイルに沿ったものであるに違いない。
 受験勉強ばかりをさせられている子どもにとっては、その記憶もまた、算数の公式であったり、解法であったり、音便活用であったり、首都名であったりのいわゆる受験学習知識である比重が高いはずである。
 しかし、子供たちが、実はそんな知識で毎日が生きられるわけがなく、彼らは受験勉強のはざまで経験するなんでもない些細な行動、それはゲームであるかもしれないし、音楽を聴くことであるかもしれないし、友だちとの何でもない会話であるかもしれない。たぶん、そうした経験が許されている限りにおいて、彼らは「枯れず」に生きられるのであろう。だから、たとえ割かれる時間がわずかではあっても、そうした経験は記憶にも確実に残るはずだと思われる。
 しかし、さらに何でもない経験というものが、きっと彼らにあるはずだと思える。それは、ほとんど意識にも上らないか、あるいは上っても記憶というような市民権が与えられないかのような、さり気ない経験である。たとえば、雨上がりのすがすがしい朝の空気の匂いであったり、道行く人のうれしそうな表情であったり、あるいは気の毒そうな感じの人の姿であったり、無邪気でかわいい子犬のはしゃぐ恰好であったり……。
 こうした経験は、受験学習の知識の記憶でふうふう言っている子どもたちの頭の中には、記憶らしい確かさでは残らないのではなかろうか。しかし、だからといって、彼らが、そうした経験から得たものが脳のどこかに残っていないとはとても言い切れないような気がするのである。

 子供たちの生活を例にしてみたが、大人たちとて同じであろう。受験勉強という部分をビジネスや金儲けと言い換えれば、事情はすべて等しいと言えよう。そして、デジタル化情報が飛び交う現代にあっては、そうした脳内の「残存物」を容易には「記憶という地位に格上げ」さえしないのかもしれない。
 そうした脳内の「残存物」は、デジタル情報とはなじまないものにもかかわらず、「癒し系」というような、デジタル情報の分類用語でしか位置づけられないのが哀れとさえ思えるのである。
 ところが、実は、現在ではむしろ、記憶にならないような漠然とした「アナログ×アナログ×アナログ……」というようなかすかなもの、「フラジャイル」(!)なものこそが、人をして生かせしめる内的なものではないかと思えてならない。
 昨日書いた「通常、記憶とは、結果論的に思い出されたことを指すようであるが、ひょっとしたら、人間の脳というものは、思い出せること以上に、より豊饒(ほうじょう)に記憶している」ということで言いたかった点は、実はこうした点でもある。
 そしてさらに言えば、そうした「フラジャイル」なものが記憶に蘇るような環境、人間的関係も含めた環境こそが、今最も危機に瀕していそうな気配がするのだ…… (2005.05.09)


 事務所があるビルの下のフロアーに漸くテナントが入るようだ。われわれは、オーナーが替わり、新規巻き直しとなったビルの2階に最初に入った。そのうちに三階が埋まったが、一階は何度かまとまりかけたようではあったが実らず、結局一年半も「テナント募集」の案内が出続けていた。景気が芳しくないことやら、最寄の駅からそれなりの距離があることなどが災いしてのことであろうか。
 もともと、その一階のフロアーには、あるコンビニが営業していたらしい。しかし、コンビニというのは、まさに地の利があれば繁盛するもので、クルマの往来は激しいにもかかわらず、決して人通りが多いとは言えないこの通りでは、うまい商売にはならなかったようである。
 
 われわれにとって、同じビルの下のフロアーというのは、さほどの関係があるわけではない。もっとも、騒音を出すようであったり、「特殊な人々」がたむろするようであっては困る。だから、ビル管理会社には、いわゆる「水商売」の入居は断わってほしいと要望してきた。夜になるとカラオケが聞こえてきたり、酔っ払いが騒ぐようであっては、落ち着いて仕事ができないことになる。
 今回話がまとまって入居の工事を始めているのは、どうやら介護スタッフの派遣会社のような感じなのである。もしそうだとするならば、すぐ斜め前に同業の会社があることとなり、どういうことになるのであろうか。
 斜め前の会社は、実は、以前はわれわれと同業のソフト開発会社であり、ある程度のお付き合いをしたこともあった。介護関係のシステムを開発しているうちに、このジャンルには将来性があると考えたようで、次第に業務比重を移動させながら、現在ではこの領域のみで経営しているようである。
 以前、その社長と電話で話をしたことがある。
「将来が楽しみでしょうが、現在でも手ごたえがあるんでしょうね」
と言ったら、
「手ごたえは手ごたえでも、手間のかかるトラブルばかりが目立って、どうなることやら……」
とぼやいていたものであった。
 どんなビジネスでも、メリットがあればデメリットもあるのが実情なのだろうなと思わされたものであった。とは言うものの、高齢化時代の足音がますます高鳴るのであるから、その動向に照準を合わせて会社を衣替えしていくというのは、さすがに機転がきく社長なのだなあと感心したものであった。
 
 ただ、わたしはこの種のビジネスにさほど関心は持たない。福祉関係の仕事は大切な仕事だとは思うが、経営という点になると、所詮は派遣業に属すことになるのだろうと思えるからだ。
 われわれも、開発業務の関係上、技術者派遣にも携わってはいるが、どうも性に合わない思いである。これはこれで、大変な仕事ではあるのだが、派遣業はどこまで行っても派遣業なのであり、どう言えばいいのか発展性とでもいうものがさほど見出せないでいるのである。
 ただ、規模を大きくして儲ければいいという発想に雪崩れ込みやすいような気がしている。そのために、派遣スタッフを増やし、ユーザーを探す。それ以上でも以下でもないのが、派遣業なのであり、理不尽な苦労も絶えない。一方では、こうしたジャンルは、まさにスケール・メリットが課題となるため、大手派遣会社と間尺に合わない闘いをしなければならない。また、他方では、派遣スタッフの教育・管理面において、エンドレスの気苦労が続くことになる。規模拡大をねらえば、どうしてもスタッフの採用基準を緩めることとなり、そうすれば後日に禍根を残すという、きわめて当たり前の推移が待ち受けているのである。
 現代という時代は、とかく、スケール・メリットに依拠したビジネスが繁盛するようであるが、働く人の頭数という意味でのスケール・メリットを考えざるを得ない派遣業というのは、ほかにやりたいことがある者にとっては、あまり深入りすべきビジネス・ジャンルではないように判断しているのである。その点では、わたしも、いわゆる「モノ作り」派に属しているのかもしれない。
 
 さてさて、「下の」業者のお手並み拝見というところであるが、いつまでも、一階フロアーが無人であると物騒でもあるので、先ずは良かったと言うべきなのであろうか…… (2005.05.10)


 この日誌も、今日から5年目に「突入」する。これは、画期的なことだと言えばそうも言えるし、「だから?」と問われれば返答に困るものでもある。まあ、そんなことはいい。この日誌にかけた時間の跡というものは、自身の脳の中に蓄積されているに違いないのだから、それ以上でも以下でもないわけである。ともかく、最近は、自身の思いの核になるものが、幾分でも照らせるように表現できるかのようになれた実感があるので、それだけで十分だと感じている。

 今日書きたいことは二つあり、おそらくどこかで接点を持っているのであろうが、さし当たっては、別々の事柄である。
 ひとつは、「東京湾のクジラ」の話であり、もうひとつは、「現時点での転職の難しさ」という話である。
 「東京湾のクジラ」の件とは、連休中に千葉県袖ケ浦市沖で見つかった例の背中にフジツボを付けたコククジラのことである。アゴヒゲアザラシの「タマちゃん」の出現などから、こうした珍獣の出現に、マス・メディアが騒ぐのは慣わしのようになってしまっている。人間界では、そのめずらしさから、「面白半分」で明るい話題として取り上げてきたわけだ。しかし、今回、「東京湾に仕掛けられた定置網」にかかって死んでいたことを知ると、珍獣が人間界の近くに迷い込むという事実の、その明暗が見えてきたような気がしている。
 子どもたちをはじめとして、人々がめずらしさ余って喜ぶことは、無理もないし悪いことではないだろう。ただし、相手のことを思いやることもなく、クルーザーなどで追いかけ回すのはどうかと思ってきた。
 やはり、当人、いや当の珍獣にしてみれば、「迷子(まいご)」だったのであろうか。悲痛な表情であったかどうかはわかりようがないのだが、住み慣れぬ環境に紛れ込み、ひょっとしたら途方に暮れて、パニック的心境に陥っていたのやも知れない。しかし、そんな心境がわからないということもあったのだろうが、第三者の人間たちは、自身の関心からただただ連休中のアミューズメントとして騒いできたわけだ。
 万事が万事こんな調子でやり過ごすのがわれわれだから、そこに何かちょっとした「悲劇」的なものを感じてしまうのである。

 「東京湾のクジラ」と言えば、今から二百年以上前にも同じようなことがあったという。
 1798年(寛政10年)の6月14日(旧5月1日)、暴風雨のため品川沖に迷い込んだ鯨を、品川州崎(すさき)の漁師が総出で捕らえて、江戸市中で大評判となった、という話である。
 そして、その痕跡は、現在の北品川に現存する「利田(かがた)神社」の鯨塚に残されている。この社は当時、東海寺の沢庵和尚が弁財天を勧請したのが始まりともいわれ、洲崎の弁財天と呼ばれた、漁師町の守護神としてまつられていた。わたしの通った小学校、台場小学校がすぐ近くにあっただけに、この鯨塚は印象深く記憶している。当時のクラスメイトのお葬式のために、この社の裏手にある町内集会場に訪れたのは、つい先だってのことであった。

 ここで、まったく別な話である「現時点での転職の難しさ」という話題に移る。
 ある知人が、ソフト関係の現職から、税理士の資格を取得して会計関係のジャンルに転職しようとしている。ソフト関係の仕事を続けながら、専門学校に通い、「分割して」資格試験に挑戦しているのである。
 「見上げたもの」だと感じていたので、何かと支援しようとしてきた。ある知り合いの会計事務所に、こんな人はどうだろうかと紹介したりもした。ようやくその返事が届いたのだったが、それは厳しい現実を知らしめるものであった。
 結論から言えば、NGであったのだ。実務経験なしで、資格取得も途中であり、しかも年齢が行過ぎるという点も指摘されることとなった。会計事務所での専門性を発揮する場というのは難しいでしょうね、一般会社の経理部門をねらうという方が可能性があるのではないでしょうか、というアドバイスがついてきた。
 当人にその話を伝えたが、ひどく落胆したという様子はなかったものの、「やっぱりそうですか……」という反応が返ってきた。
 現在は、どんな業種でも一筋縄ではいかない経営状況の難しさを抱えているものだ。欲しい人材というものは、有体に言えば、そんな人なんていないよ! と一蹴されるような贅沢さがありそうである。それほどに、経営課題とその実態とがかけ離れているということになりそうだ。
 だから、こんな環境の中で新たなポジションを、しかも自分が未知な領域において獲得しようとすることは、まかり間違えば「迷子」となるに等しい、と思えたのだった。

 ただし、じっくりと考えてみてもいいことは、「安定した道」あるいは「王道」を歩くことと、「迷子」になるリスクを負うこととは何がどう違うのかということである。
 先ず気づかなければならないことは、前者のような道や立場というものが、この激動の時代に存在し得るものかどうかという点である。その象徴とも思える「寄らば大樹」という言い方も、現代では当てにならなくなっている。
 むしろ、「安定した道」あるいは「王道」に固執することは、無理をし過ぎることになりはしないか、とさえ思うのである。この無理に関しては、昔から「ひと(他人)を押し退けて」という言い方がなされてきたかに思うが、現在では、単に「押し退ける」では済まない<過激さ>が要請されているかに思われる。「競争」という言葉は同じでも、それを成立させている環境は激変しており、おのずからその「競争」の内実も変わったと言うべきなのであろう。
 また、「迷子」というものが、例外的に起こる事柄なのかという点にも意を注ぎたいような気がしている。わたしが思う「迷子」でない状態とは、動物たちが自然の摂理に従って、自然の秩序の中で生きる姿であり、人間界でも、それに近い形で自然と共同体との密接な関係の中でうずくまるような姿勢で生きていた人々の生活が思い浮かぶ。
 しかし、現代という時代は、一方で自然から著しく離れ、もう一方で個人主義生活様式が過激化して、かつての「迷子」でない人々の状態はとっくに消え失せてしまっていると言うべきなのだろう。つまり、現代人の多くは、端(はなっ)から「迷子」だと言っても差し支えないのではなかろうか。ただ、人間たちの仕業によって、自然が変調を来たして、それによって望まずして自然の摂理からはみ出してしまった動物、たとえば冒頭の「東京湾のクジラ」なぞは「悲劇」的な「迷子」なのだと見なさざるを得ない。

 「迷子」で上等! そうでしかあり得ないのが人間なのであって、うじうじせずに、「迷子」=「自由」なのだと思い定めて生きるしかないはずなのである…… (2005.05.11)


 連休中にひいた風邪が尾を引いている。
 一足先にこの風邪をひいた社員が、言っていたとおりの病状で推移している。最初に「頭痛」が来て、次に「のど」がやられ、「せき」がひどくなり、やがて「鼻」に来ると……。
 確かに最初、ここしばらく経験せずにいた頭痛が来たので、どうもおかしいとは感じていた。例の漢方薬「丹参(たんじん)」の効き目も衰えてきたのだろうかと心配した。
 すると、しばらくして「のど」に変調を来たすこととなり、「風邪か?」という懸念に及んだ。と、疑うひまもあったものではなく、その晩から「せき」がひどくなってきた。床に就いて眠るとまもなく、眠りを妨害するかのごとく「せき」が絶え間なく続くのだった。紛いもなく風邪そのものの症状であった。
 
 やれやれと思わざるを得なかった。特に、かぜをひくような状況、たとえば寒さのただ中で耐えていたとか……、そんなことは何一つとしてなかった。そんなことがなくとも、最近の風邪はウイルス性のものであることが多いため、まるでコンピュータ・ウイルスのごとく(話は逆のようでもあるが)当人が知らぬ間に忍び込んで来るようだ。
 昨今の風邪が憎らしいのは、妙に長引くという点である。そして、その間、風邪薬を服用したりし続けるものだから、胃腸やその他の部分が重苦しい事態となってしまう。
 長引く原因は、性質(たち)の悪いウイルスのせいもあるが、風邪をひいたからといって喫煙を抑制することをしないためでもあるのだろう。風邪で気分が優れない時には、逆にタバコに手が出てしまったりする。味もまずいし身体にもまずいとわかっていながら、それで紛らわせようというあさましい根性が剥き出しとなってしまう。
 
 しかし、それにしても、ある種のウイルスが、人の身体に入ると同じ「行動」をし始めるというのは、不思議がることもないけれど、「そーなんだ」と頷きかえってしまう。これもまた、コンピュータ・ウイルスと共通性を持つ。コンピュータ・ウイルスは、まさしくプログラムであるのだから、シーケンシャルに事を進めて当然であろう。だが、本家本元のウイルスが、人の身体を攻撃するのに、「第一次攻撃目標」「第二次攻撃目標」のように、じわじわと「進軍」するかのようであるのは、小憎らしい限りである。
 今回のわたしの風邪は、その「初期捜査」というか、「事件発見」において躓いた観が否めない。頭痛持ちの者に頭痛がやって来たからなのである。それはあたかも、日頃、夫婦喧嘩でどなりあって近所迷惑が絶えない家に、押し込み強盗が入ったようなものだ。たとえ、尋常ではない叫び声が聞こえて来たとしても、「やれやれ、夫婦喧嘩もいい加減にしてほしいもんだ……」と、受け取られることと同じようなものかもしれない。
 昨今のウイルス性の風邪に対しては、「水際作戦」をこそ留意してきた自分ではあったが、今回のケースは、「水際」で脇を甘くしてしまい、まんまと賊を取り逃がしてしまったようなものであったのだ。そして、表れる症状に対して、万事が後手後手の「捜査」になってしまっている。
 
 いまさら、近所の「風邪専門医(?)」に行って、「じゃあ、おクスリ三日分出しましょう」と言われに行くのもマヌケっぽい気がして、行く気にはなれないでいる。それでいて、以前に貰って残っている風邪用のクスリ袋をガサガサと探したりしているのだから、マヌケ以上に惨めさを感じたりもする始末だ。
 おまけに、朝から市販の風邪薬をのんだりするものだから、どうも一日中、頭も気分もくすんでいる状態なのが困りものである。ふわふわーとした風邪特有の気分であり、とげとげとした気分であるよりかはましで、これはこれで悪くはないのではあるが、こんなことが長引いては仕事に支障が生じかねないと心配になったりもする。
 しかしまあ、熱が出るというようではないのが不幸中の幸いと言うべきなのだろう。淡々とやり過ごすしかないかと思ったりしている…… (2005.05.12)


 確かに、いま時「忠誠心」でもないのかもしれない。
 ある調査によると、日本人の「会社への忠誠心」は、世界最低なのだそうである。次のような新聞報道があった。
 
< 会社への忠誠心、日本が世界最低 「非常にある」9% (asahi.com 2005年05月13日)
 日本人の会社への帰属意識や仕事への熱意は世界最低水準――。そんな結果が、米世論調査会社のギャラップの調べで明らかになった。帰属意識や熱意が「非常にある」と判定された人の割合はわずか9%で、調査した14カ国のうち最低。4人に1人が「まったくない」とされ、職場に反感や不満を感じているという。………
 その結果、仕事への忠誠心や熱意が「非常にある」が9%、「あまりない」が67%、「まったくない」が24%となった。03〜04年に同じ調査をした他国と比べると、「非常にある」はシンガポールと並んで最低、最も高い米国(29%)の3分の1以下だった。一方、「まったくない」はフランス(31%)に次ぐ2番目の多さだ。 >

 一頃は、「会社」とベッタリというような風潮があったかのように認識していたが、どうしてこんなことになっているのだろうとやや不思議感が生じた。
 ちなみに、同記事は次のように締め括っている。
 
<同社は「米国は不満があれば転職する。日本は長期雇用の傾向が強いこともあって、相当我慢しているのではないか」と分析している。>

 かつて慣行とされていた「終身雇用」こそが、日本人の「会社への忠誠心」を成立させていたということになるのであろうか。そして、この「終身雇用」慣行が破棄された現状にあって、それでもなお、いくらかでも「長期」にわたる就業を志向しようとする時、「我慢! 我慢!」の意識が働き、その結果「会社への忠誠心」なるものも素直に芽生えてはこない、ということなのであろうか。それとも、あまりにも過激に社会変動する時代の中で、日本人は、「忠誠心」なぞという精神的な存在とはなじみにくくなってしまったのであろうか。いや、そこまで悲観視することもないような気がする。
 「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」ということわざがある。「一度の失敗に懲りて、それ以後必要以上に警戒したり用心したりするたとえ」という意味である。
 つまり、「終身雇用」慣行の中で、粉骨砕身、十二分に「会社への忠誠心」を鼓舞してきたにもかかわらず、企業社会はそれに応えることもなく大規模なリストラを推し進めたために、もう金輪際(こんりんざい)「会社への忠誠心」なんぞは持たんぞ、というリアクションに出ていないとは限らないような気がしないでもないのである。

 やはり、働く者たちの傷は深かったと、先ずは言うべきなのかもしれない。リストラが、平常時にもしばしば見受けられた社会環境があって、規模が大きいリストラが実施されたというのであれば、まだ違った受けとめ方がなされたかもしれない。
 しかし、「終身雇用」が慣行となっていた社会にあって、大小の規模にかかわらずリストラ、人員整理という事態は、まさしく慣れない事柄であったはずだ。言ってみれば、そんなことアリという想定で「会社への忠誠心」を発揮してきたのではないんです! と叫びたい者たちが多かったと想像される。いわば、企業というものを「身内同然」の感覚で受けとめ、根こそぎの献身的努力をしてきたのだということになるはずだろう。やはり、まるで手のひらを返したようなこの間のリストラ敢行という事態は、終戦に匹敵するほどのインパクトを与えたのかもしれない。

 ところで、過去の、「会社への忠誠心」はややもすれば「組織ぐるみ」の企業犯罪とも接触しかねない濃度の濃いものでもあったかと思われる。そして、そこまでの「忠誠心」なるものが必要なのかどうかは問題であろう。もとより、「愛国心」の議論と似たようなところがあり、「会社」という言葉の内実が問題にされていいのだろう。法人としての形式に対する「忠誠心」なんぞ考えられるわけがなく、仮にも「忠誠心」というからには人格的な対象となるはずで、同僚たちや上司たち、そしてそうした者たちの努力が積み上げてきたヒストリーというようなものがそれに当たるのかもしれない。
 もしそうだとした場合、働く者たちにとっても、そうした会社の人的側面への前向きな思いが培えない状況というのは、決して好ましいことではないという気がする。ある意味で言えば、それは、「愛国心」を否定して、同時に「郷土への愛着」をも否定することと同じ不自然なことになりかねないと思える。
 「国」や「法人」という形式的側面への思い入れなぞを強調することは、何かいわくありの考え方に決まっているわけだが、そうではなくて、自然な愛着心や信頼感などまでを頑なに拒む環境というものは、決していい仕事を成し遂げる環境ではなかろうと思うのである。

 問題は、こうすればこうなるという当たり前の選択を行なって今日を迎えている企業が、壊滅的に壊してしまったかもしれない企業風土というものをどう再建するのか、ということに尽きるのであろう。
 確かに、企業がよって立つ経済環境は尋常ではない状況に突入している。しかし、だからと言って、「背に腹はかえられぬ」とのお定まりのアクションを企業が取り続けるならば、きっと企業は、確実に「よって立つ」別な重要な構成基盤を掘り崩してしまうのではなかろうか。現在、表れている冒頭の数字の意味を聡明に見つめる必要がありそうだと思っている…… (2005.05.13)


 自分の身体のことは自分が一番よく知っているという言い草の間違いが、再びよくわかった。一昨日は、風邪による頭痛を普段の頭痛と取り間違えて、風邪の自覚が遅れてしまった。今日は、歯の痛みを勝手に、歯の根元がしみる「知覚過敏」だと判断して、虫歯の進行を早めていたことがわかった。
 先日来、冷たい飲み物や熱い飲み物が歯にしみて困っていた。確かに、歳とともに、歯茎が後退して、歯の根元があらわになってはいた。だから、てっきりそこがしみるのだろうと思い込んでいたわけだ。それで、歯磨きの際にはそれ向けの薬用歯磨きを使って対処してもいたのだった。
 ところが、昨晩は歯の痛みで夜中に目が覚めてしまうほどであった。どうにも耐えきれず、バッファリンを服用してやっと眠りにつくことができた。ところが、朝に目覚めてもいっこうに痛みは消えていない。しかし、今日は土曜日である。相場を考えれば、休診日となる。しかしひょっとしたら、あの歯医者はやっていたりするのではないかと、懸かりつけの歯医者の予約カードをまさぐってみた。と、幸運にも、休みは日曜・祭日だけであり、土曜日は営業(開業?)日となっていたので、先ずは安堵した。
 電話をしてみると、本日の予約は一杯です、という無表情な受け付けの女の子の声が返ってきた。どうも、あそこの受け付けの女の子はサイボーグのような口調でいけない。
 そこで、こちらもサイボーグになってやれと思い、自分はつい先頃まで週に一回は通っていた常連客(患者?)であることを強調し、昨晩は痛みのために「一睡もできなかった」(うそ!)、何とか診てもらいたい、と低い声のハードボイルド・タッチで迫った。
 女の子は、ちょっと待ってください、と音を上げ始め、先生の方の様子をうかがいに行ったようだった。そして、ようやくOKとなったのである。

 歯の痛みのため、今日は何をすべきだったのかもどこかへ飛んでしまう気分であったため、とりあえず歯医者に向かった。予約時間の二時間も前であった。歯医者の駐車場が混んでいたことを思い出したのと、歯医者の近辺には、時間がつぶせるような店がいろいろとあったことを思い浮かべていたのだ。
 駐車場は空いていたので、ホッとして、時間をつぶす店へと向かった。そこは、マンガ類やビデオ、DVDなどの中古や、キャラクター・グッズの中古などの買取と販売を中心にしている店であり、昨今よく見かけるものである。一般書籍の中古も置いてあるので、いくらでも時間はつぶせるものと思えたのであった。
 それにしても、中古とかリサイクルとかの店が繁盛するご時世なんだなあ、と不況を再確認するように店内をブラブラした。これで歯が痛くなければ、のん気な土曜日なんだがなあ、とも思っていた。これから、どんな「拷問的」治療が始まるのだろかと想像しつつも、何冊かの古本を買った。

 歯医者の待合室には、その店で買った古本の文庫本を一冊持って待ち時間に備えようとしたが、以外にも素早く自分の名前が呼ばれた。
 そして、それからわたしは「まな板の上の鯉」のように無抵抗なまま、これぞまさしくハードボイルド・タッチの料理をされてしまったのである。
 「知覚過敏」ではないかとわたしが冒頭陳述すると、それを聞いたのか聞かなかったのか、「はい、あーん」なんぞと言われ、即座に判決が下されてしまった。
「虫歯ですね。表側からは見えないけど、裏側の歯と歯の隙間っから……、結構進行している様子ですね。針を入れると中が空洞になってますね」
 わたしは、この「針を入れると中が空洞に……」という言葉に一瞬ドキリとしたものだった。つい最近、このフレーズを聞いてショックを受けたばかりだったからである。
 そうなのだ、あの屋根屋が雨樋を取り付けた際に、
「ダンナさん、驚いちゃいけませんよ。風呂場の隅の柱が、シロアリでやられているようですよ。『釘を入れると中が空洞になってますね!』」
と警告していたからである。
 ああ、ムシに冒されていたのは、風呂場の柱だけではなく、少なくなってきた歯だから大事にしようと思っていた矢先のこの部分の歯まで、虫歯になっていたとは……。
 そんなわたしの感情の動きにはおかまいなく、レントゲン写真で中の空洞ぶりを調べましょう、さっそく麻酔をして「洞窟」を開陳しましょう、神経を抜いてしまわなければなりません etc. と矢継ぎ早の突貫工事が始まってしまったというわけである。
 我に返った時に、凄腕の医者が言った言葉が、心にグサリと刺さった。
「虫歯の部分を取り除いたら、歯の方も大半がなくなってしまいましたよ」
 そりゃそうなんだろうけど、何かほかにも言いようがあるんじゃないのかい、そのハードボイルド・タッチは気にいらないなあ…… (2005.05.14)


 昨夜、帰宅したら家内の様子が変であった。わたしの話を上の空で聞いていることは歴然としていたのである。と、まもなく、
「大変なことになっちゃった」
と、事情を説明し始めた。
 要するに、「健康保険証」を紛失させてしまったというのだった。
 まともに構えていても、他人のキャッシュ・カード類の情報を盗み取る悪者がはばかっているご時世である。「健康保険証」なぞという身分を証明するようなカードは、消費者金融その他で悪用される可能性は容易に想像できた。
 家内もそれを恐れてのことなのであろう、ひどく取り乱していた。財布の所定の箇所にあると思って確認したところ、無かったため、一瞬「頭の中が真っ白状態」になってしまったと「供述」していた。
 最後に使ったのがいつなのかとか、どこなのかとかを尋ねても要領の得ない返事しか返ってこない。家の中で、置き忘れそうなところは一通り探したけれど見つからない、というばかりである。
 それでも、わたしの会社の事務所で保険番号を照合するために使ったのが最後らしいという返答を得た。
 じゃあ、クルマですぐに事務所へ行ってみようとわたしが言い出す。もう午後十時が過ぎていたが、こうしたことは気がかりな状態で無為に時間を過ぎさせることは好ましくないと思えたことと、家内は「いつものように」何でもない場所に置き忘れていたりすることがよくあるので、それが事務所のデスクの片隅だったりするのではないかと思えたのだった。
 
 静まり返って、真っ暗である事務所を開け、家内が手伝いの作業をしているデスクへと向かった。
「何だかドキドキしてる……」
と、家内は独り言を言っていた。二人とも笑い転げるような場所から唐突に見つかることを期待したし、そんなことになるような気もしていた。
 先日も、これに似た大騒ぎがあったばかりであった。クッキーほどの薄く小さな「ゴム社印」が見当たらないといって皆で手分けして探したのだ。書類に挟まったまま仕舞ってしまったのではないかと、ファイル類を広げてみたり、床に転がったのではないかと、くまなく床を覗き込んだり……。
 いい加減探して、今夜はもう遅いから明日にしようと、それぞれが帰り仕度をしていたら、しぶとく探す家内が、
「あっ、こんなところにあった!」
と、見つけたのである。さすがに、どんな場所に「隠した」のだったかと聞いて、皆で大笑いをしたのである。何と、スタンプ台とその蓋との間に挟まったまま閉じられていたというのである。わたしは一瞬、どんな考え事をしながら作業をしていたのだろうかと、不思議さで包まれてしまった。
 そんなことがあっただけに、今回も思わぬ場所から紛失物が顔を出すような気がしていたのである。
 しかし、「健康保険証」のカードはとうとう見つからなかった。二人して、クルマで帰宅したが、帰りの車内での会話は乏しいものとなった。
「事務所には無いことがわかったのだから、その分自宅を集中的にさがせばいい……」

 自宅に戻り、家内は再度自宅内の心当たりの箇所を探し、わたしは書斎に入り別のことを始めた。もし、最悪、外で紛失させたとしか考えられなくなった場合には、「組合」に連絡するほかに、「悪用防止」のための連絡先というとどのようなところがあるのだろうかと、漠然と想像したりしていた。
 と、その時、書斎の扉をトントンと叩き、家内が顔を覗かせた。
「あった!」
「どこに?」
「探したはずの机の上の書類の間から」
 家内は、満面の笑みを浮かべて安堵していた。わたしも言うまでもなくホッとしたが、やれやれ、こんなことはまた起こるに違いないな、と感じていた。
 こうしたことは、よくある事だし、歳を取ればなおのこと起こりがちにはなる。しかし、家内の場合、どういうものか「無意識のうちに」何かの動作をすることがよくありそうな気がしている。
 自分としては、「無意識のうちに」やったことは、ほぼ思い出せないという苦い経験をした結果、少なくとも、あっ、これは忘れそうだな、という自覚だけは喚起するようにしている。そして、その場合には、あとになっての自分がいやでも関心を向けるように、わざと目立つような痕跡を残す、というように。しかし、それでも、バタバタとした作業をしている際には、後ポケットに突っ込んだペンチをどこへやったとしばし探すようなこともないではない。
 ど忘れだとか、忘れっぽいとかという嘆きを聞かないわけではないが、むしろ、今という瞬間の脳の状態を、時間とさまざまな経験を経た後日の自分の脳に期待することの方が、ひょっとしたら希望的観測に過ぎるのではないかとも思っている。
 コンピュータにしても、ファイルとして保存すれば別ではあるが、電源を落としてリブートすれば、完璧に以前の記憶内容は消失している。そのリフレッシュがあるからこそ、現時点の処理能力が保たれるわけだろう。
 人間の脳の場合も、何でも覚えておこうとすればきっとオーバーヒートすることになるに違いない。だから、「忘れるために」何をどうしておけばいいのかを段取りすることが生活者の知恵ということになるのだろう…… (2005.05.15)


 もうずっと以前からパソコンを手がけていたのに、どうも馴染めないようで、メールひとつ出そうとしない家内であった。だが最近、PHSから、ケータイに機種変更をしてメール発信を覚えたようで、今は面白がってメールを飛ばしてくる。ちょうど、TVコマーシャルの年配向けケータイに出演している小林圭樹のようだと言えば気を悪くするに違いない。
 わたしはと言えば、ケータイを後生大事に持ち歩いていながら、あまり使わないし、人から掛かってきても大体、留守録でやり過ごしてしまう。帰るコールのようなことはしないどころか、何か不規則なことがあってもほとんど自宅にコールしないことが多い。だから、家内はきっと、こんなわたしに対しては、ケータイ・メールで一報を入れておけば意が通じるようになったと一安心しているのかもしれない。

 ケータイは、eメール機能も含めて、確かに便利である。わたしなどは、モバイルPCに関心が向くのだけれど、よくよく考えてみると、ちょっと込み入ったHP運営のような作業がなければ、大半の連絡はケータイのeメールでも済みそうな気もする。バッテリーの消費問題さえ解消されるならば、万事、事足れりということにもなりそうである。
 ただ、こうした便利なものを活用するに当たっては、やはり相応の配慮が必要でありそうだとも感じている。
 そのひとつが、便利であるのは、自分にとってだけではなく、「悪を志す者」にとっても同様であるということであり、いまひとつは、かたちの便利に慣れ過ぎると、事のエッセンスがはぐらかされて見えなくなる傾向があるということかもしれない。

 「悪を志す者」にとって、やはりケータイという道具は、恰好の武器になっているに違いない。
 相変わらず、「出会い系サイト」に端を発する犯罪が絶えないようである。言ってみれば、その原因は、きわめて単純かつ明快であると思われる。
 ケータイというのは、「パーソナル・ユース」の道具であり、あくまでも個人が一人で占有的に使うモノである。そして、個人がたった一人となることは、不安定この上なく、気持ちのブレが最大限になるもののはずである。かの宮本武蔵も、先が読めずに怖い敵とは、多勢の軍勢ではなくたった一人の敵なのだと喝破している。まことに古い話で恐縮ではあるが……。
 気の弱い者はより気が弱くなり、気の強い者は手がつけられなくなり、悪人はその破天荒さに止めどがなくなるのが、たった一人というシチュエーションなのではないかとわたしは日頃思っている。
 誰であれ、自身の姿見の鏡のような他者、他者たちが周囲にいると、気を遣う分だけ客観的視点というものがかもし出されて、個人的感情のブレを抑制したり、常識感覚が呼び覚まされたりもするはずであろう。ところが、たった一人でいる状況というのは、多くの人にとって、いろいろな意味において冷静さを欠く特殊な空間になってしまうということである。
 そこへ持ってきて、「出会い系サイト」とは、そんな不安定な個人に、不安定さの「増幅」をもたらすものなのだと言える。そもそもが、「出会い」という言葉に惹き寄せられるというのは、初っ端から「不安定」以外ではない。それはちょうど、「飛んで火に入る夏の虫」の虫のように、火に入る以前から朦朧として正体がない状態にも似ているし、夕闇の赤提灯に惹き込まれる中年サラリーマンのごとく瀕死のヨレヨレ姿にも似ている。
 精一杯準備して、思い切り知恵を働かせてもうまくゆかないこの世の人と人との関係なのに、そんなことは百も承知しているくせに、偶然に生まれる「出会い」に何かいいものが残っていそうな気になるというのは、ほとんど尋常な気分ではないと言うべきなのではなかろうか。クールに言うならば、いま時「出会い」なぞという言葉に、目が向く者たちは、そんな「サイト」に近づくよりも先に、「心のクリニック」サイトへこそ向かった方がいいように思う。
 まあ、そんなことで、「ケータイ」&「出会い系サイト」関与者たちがが、限りなく犯罪のぬかるみに滑り込むのは、オッチャン連中が、パチンコですられる確率よりもなおリスキーだと言えそうな気がしてならない。

 ふたつ目の「かたちの便利に慣れ過ぎると、事のエッセンスがはぐらかされて見えなくなる傾向」についてである。わたしは、むしろ、この問題の方が「出会い系サイト」なんぞよりも深刻な文明病のような気さえしている。
 そもそも、便利であることに何の疑いも持ちえなくなっていることや、それどころか、理性というよりも感性の奥深くに、この便利感というものが根を張ってしまっており、それが理性を無視してうごめき出す、という多くの人の現状それ自体が、深刻だと思えてならない。
 この点は、根深い問題が控えていそうなので、日を改めてということにしたいが、ひとつだけ言えば次の点が示唆的である。
 よく、古人(?)は、こう言ったものである。
「電話ではなんですので、直接お目にかかって……」
と。ところが、いま時は、「メールで結構ですので……」と、「直接お目にかかる」ことを敬遠しているのが普通である。要するに、ビジネスも含めて、多くの事柄が、「直接お目にかかる」ほどのことではないレベルに引き下げられてしまっていそうだ。
 じゃあ一体、「直接お目にかかる」ほどの重要かつ本質的なことはどこに棚上げされているのであろうか。意外とそんなものは無かったりするのではないかと、皮肉を言いたくもなってしまう。いや、皮肉ではなく、便利さやその根拠たる効率主義の渦の中で、大事なものが何もなくなってしまっているという逆説こそが蔓延しているのかも…… (2005.05.16)


 人の才能が発揮されるというのは、その人があり余る潜在能力を持っているということとは別の要因が作用してのことであるのかもしれない。
 考えてみれば、潜在能力なぞという言い方ほどいい加減なものはないようだ。いわゆる「愚者のあと知恵」に似ており、発揮された能力をまざまざと眼前にしてから、「この方には潜在能力があったに違いない」と結果論的な言い草として言うからである。
 発揮された能力が歴然としたあとで、その元になる能力が潜在していたはずだと言うのは、モノを落とした際に、「やはり引力があるんですね」と言うに等しく馬鹿げたことのはずだ。
 実のところ、潜在能力という言葉で人が知りたいのは、能力を発揮した試しが毛頭ない段階においてであるはずだろう。いわば自身を励ます意味でちょっと知りたいのが人情というものだろう。しかし、こうした段階での切実な関心には、概ね親切に回答しないのが普通である。もっとも、逆に、意味ありげな道具立てでまことしやかに云々する者がいれば、訝(いぶか)しがって然るべきなのではないか。潜在能力アリとさえ言っておけば、オールマイティだからである。
 その言葉によって能力がメキメキ発揮されたなら、「ねぇ、言ったとおりでしょ」となるし、仮に、潜在能力アリとされた当人のうだつが上がらなければ、「潜在能力があるのにねぇ……」とつけたせば、当人も悪い気はせず、「あとは努力あるのみか」と前向きになるものだ。
 
 思うに、本当の問題は、潜在能力の有無というよりも、能力発揮に向けた絶え間ない努力とチャンス以外ではないように思われる。
 世の中には、その潜在能力アリというような「状況証拠」を存分に持ちながら、平平凡凡の人生に甘んじている人は少なくないと言われる。しかし、それは惜しいことだと言うよりも、「状況証拠」の方がまやかしだったのであり、潜在能力云々の方が早とちりだったと言うべきなのかもしれない。
 何だかこう書いていると、人事考課のいわゆる「実績主義」を賛美しているかのようで居心地が悪くなってくるのだが、そういう筋合いの話ではまったくない。

 書こうとすることに説明的となると、余計なことに字句が割かれ、本題がぼやけてくることにいつも悩んでしまう。
 実は、昨日ある本を読んでいて、夏目漱石が小説を書いた動機は、自身の「神経症」を癒すためだとあったことに遭遇した。特に、『我輩は猫である』や『坊ちゃん』は、小説でも書いて没頭しなければ、イギリスで仕入れた不安症におさまりがつかなかったというのである。
 この叙述の真偽のほどはわからないが、この視点の持つ意味はきわめて重要だと感じたのであった。つまり、われわれ凡人は、漱石のような天才は、『我輩は猫である』や『坊ちゃん』などは、才余る故の余裕のヨっちゃんで書きなぐった、と思わないわけでもない。もっと言えば、いろいろ難しいことをクリアして、達観した上で、それらをブレイク・ダウンして、庶民がなるほどと思うように書いた小説ではないかと……。
 ところが、前述の視点によれば、漱石は、そんな余裕の中で書いたのではなく、むしろ書かざるを得ない必然性があったということになる。「神経症」に象徴される不安の中で、小説を書かなければ自身の精神的存在が危うくなると思っていたふしがあるということだ。
 これが天才と呼ばれる人にとっても、真実だったのではなかろうかと、妙にリアリティを感じたのである。
 
 能力の発揮というのは、何も、あり余る潜在能力が湯元の源泉から湯が噴出すように流れ出てくるものなんかではなく、何か切実で必然的な動機によって引き出されてくるのではなかろうかと、素人は考えたのである。その切実かつ必然的な動機が何であるかは人さまざまということになるのだろうが、この仕業によってこそ、多大な能力が導き出されてくるのであり、その結果、そこからの遡及的推測物でしかない潜在能力というものが想定されたりするのではないかと……。
 だから、能力の発揮というものは、潜在能力が機動力となっていると言うよりも、むしろその時点での切実かつ必然的な動機こそが起爆力となっているのであり、動機、初めにありき、だと言えそうな気がするのである。
 禅の修業と「警察の犯罪捜査」では、とにかく動機というものが最重要視されるが、それもまた同じ文脈からなのかどうかはわからない。ただ、現代という時代では、どんな場面においてもどうもこの動機というものが薄らぼやけがちとなっているような気配もありそうだ。それとも、カネという動機が席巻してしまい、動機はすべてカネの支配圏に組み込まれ、他の動機候補生は影が薄くなってしまったからなのだろうか…… (2005.05.17)


 以下は、今日書いた、ある社員応募者へのメールの返事。
 
「 ○○ △△ 様
                株式会社アドホクラット 廣瀬

 早速、技術経歴書などを送付いただきありがとうございます。
 とりあえず、面談なぞという堅苦しいものではなく、お目にかかって、ざっくばらんな話ができればと考えています。ただし、ここは、お互いに時間をかけてじっくりと見極めた方がよさそうですね。お互いが納得できれば、きっといい結果へと進むことになるのでしょう。
 
 それにしても、現在の時代環境は恐ろしくメチャクチャな状態ですね。そんな中で、○○君のような若い人たちは何をどう考えればいいか、さぞかし大変なんだろうと思います。
 とにかく今までどおりに考えたり、感じたりしていてもまともな応えが返ってくる環境ではないのだと見ています。だから、いろいろなことに対して誠実に対応していこうとすれば、迷いばかりがふくれ上がるというのが実情だろうと思っています。経済全体、そしてソフトウェア業界にしても、不透明きわまりない状況でしょう。これまでのように、今までの教訓を生かして邁進すればほぼ大丈夫という時代ではなくなっているわけです。
 こんな時代にあっては、とにかく周りに振り回されてはいけないと考えています。できれば、ホームポジションとでも言えるような自分のエリアやスタイルを大事にし続けることが唯一のサバイバル策ではないかとも考えています。
 
 ○○君が、どんな事情で現在の職場から離れようとしているのかはわかりませんが、まあ、大げさに考えることもないでしょう。職業社会が見えなかった大学生が単なるカンで選んだ就職先なんですから、当たりもあればハズレもあるはずです。
 そして、昔のような、終身雇用時代ではないのですから、居場所を替えることは、損でもなければまた得でもないわけです。得でもないと言うのは、結局、問題は自分自身であるからです。会社環境を替えることで、自分自身を大きく変えられれば、サクセスということになるのでしょうし、良いと思われる会社に入ったからといって、自分自身が以前のままであるならばきっと何も変化は訪れないことになるはずでしょう。
 
 さて、余計なことをいろいろと書きましたが、今、○○君が直面しているのは、自分自身が何をやりたいのか、ということに尽きるのだと想定しています。その部分は、誰にとっても、仮に、わたし自身にしても、決してすっきりと自覚できるものではありません。むずかしいことです。しかし、人生においては、何回か、それをマジに見つめなければならない時機というものがありそうです。今がきっとその時なのでしょう。
 とりあえず、そんなことをじっくりと考えてみませんか。もしよければ、
「自分は何がやりたいか? 自分は何をしていれば没頭できるか? 自分は何をしていれば余計な雑念に邪魔されないですむか?」
というようなことについての考えをまとめて、わたしにメールをくれませんか。一週間ほど、そんなことを考えてみてください。メールを楽しみにしています。

 うちの会社は、今のところちっぽけで大した会社ではありませんが、余計なものが一切ない! という点ではスッキリしています。「作り込んでゆける」会社ということです。 遊びに来たければ、事前に電話連絡しておいてくれればOKです。
 そんなことで、よろしくお願いします。」
 (2005.05.18)


「今、大工はてんてこ舞いにさせられてますよ。なんせ、工期が一日遅れるごとに一万円の罰金、逆に早められたらプラス一万円上乗せだと言うからね。それで、手抜きまがいの安い建売を粗製濫造しているのが実態のようで……」
 これは、今朝、ある建築関係の知り合いと話をした際の「内部告発」(?)であった。つい先頃、リフォーム悪徳業者によって埒外の費用を請求された事件がマス・メディアでも報道されていたが、どうも、問題の根源は、個々人の職人の良心というようなレベルだけにあるようには思えない。
 「他人を騙してでも結果を得る」というような風潮が、「大河の奔流(ほんりゅう)」にも似た動きによって運ばれているごとく感じる。
 以前、『「うそつき病」がはびこるアメリカ』という本について書いたことがある。(2004.08.27 「うそつき病」と「過剰な市場主義」とは、事の両輪なのか?!)
 「いまやアメリカではあらゆる人がうそをつき、ズルをしている。罪悪感はほとんどない。理由はただ『みんながやってるから』。そうしないと生き残れない極端な競争社会になってしまったのだ。この国のいたるところに蔓延する不正は、どんな将来を指し示しているのか。」という点を引用し、次のような感想を書いた。
「前述の著作は、『過度な市場主義』という社会構造に焦点を合わせているような気配であるが、どうもわたしも、モラルハザード(倫理の欠如)の大きな原因は、その辺にありそうだと目星をつけている」と。
 事態はますます悪化の一途をたどっているかのようである。
 先日の「JR西日本」の大事故に関心を寄せざるを得なかったのも、歯止め無き「大河の奔流」への懸念がベースにあったがゆえだった。しかし、あのように大量の犠牲者を出した事故があったのにもかかわらず、その後の世論の動きからは、希望めいたものはさほど感じ取れない。むしろ、「そうは言っても、現状を維持することが……」とでもいったまことに歯切れの悪いホンネのようなものが垣間見えるに過ぎない。

 ところで、上記で使った「モラルハザード」という言葉なのだが、現在、激しく混乱した時節柄もあってか、「倫理崩壊」というほどの意味でしばしば耳にする。だが、本来の「モラルハザード( moral hazard )」という言葉は、以下のように、もっと特殊な意味を持つ用語なのだそうだ。
 
<保険用語としての moral hazard
 片仮名語の「モラルハザード」の語源は、保険の世界で使われる moral hazard である。たいていの経済用語辞典にでているほど有名な語であり、「道徳的危険」と訳されてきた。どの辞典をみても、実体的危険(physical hazard)と対になる用語だと書かれている。
 この語の意味は、火災保険の例を考えてみるとよくわかる。普通なら、自分が所有する建物が焼ければ丸損になるが、火災保険に加入すると、いわゆる焼け太りの可能性が生まれる。損得の計算が変わるのだ。このため、普通なら、自分が所有する建物に放火する人はまずいないが、火災保険を掛けると、保険金目当てに放火する場合もでてくる。火災保険は本来、建物で加入者の故意によるものではない火災が発生する危険(実体的危険)に対するものだが、保険によって逆に、火災の確率が高まるという側面があるのだ。この部分の危険を、保険会社は「道徳的危険」と呼ぶ。
 このように、「モラルハザード」の語源である英語の moral hazard は、「若者を取り巻くモラルの空洞化」とか「倫理の欠如」とかを意味する言葉ではない。保険という特殊な世界で起こる厄介な現実を示す専門用語なのだ。>(http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/kotoba/katakana.html 山岡洋一「日本語のために 片仮名語の悲惨 『モラルハザード』と職業倫理の欠如」より)

 自分なりに咀嚼(そしゃく)するならば、「モラルハザード」とは、「人間性や心理に依存するリスクであり、従来常識的には考えられなかったものだが、<過剰な損得計算の時代>には、見過ごすことのできないリスクである」ということにでもなろうか。
 家財に対する保険どころか、生命保険における「モラルハザード」が度重なって増大した事実、保険金殺人・詐欺事件は、現在のわれわれはいやというほどにマス・メディアから知らされ続けてきたはずである。

 大雑把に考えるならば、「モラルハザード」=「倫理崩壊」としても総論的には間違いではないようにも思われる。現に、引き起こされた保険金殺人・詐欺事件が世間から顰蹙(ひんしゅく)を買っている事態は、「倫理崩壊」の典型的事例以外の何ものでもないからである。
 ただし、各論的にというか、より事実に即して考察しようとするならば、こうした事件を、勢い「倫理」一般の次元に解消してしまうと、どうも問題を捉えそこなってしまうような気がしてならない。
 あえて極論をするならば、残念ながら現代という時代にあっては、「倫理」の再建が近々叶うとは信じられないからである。ということになれば、この種の事件が、「倫理崩壊」によるものとしてしまうのは、あまりにも投げやりな対応だと思えてしまうのである。いま少し現実的に、犯罪抑止的に考えられないものかと……。
 その点、原義の「モラルハザード」の方がリアリティのある視点のように思われる。<過剰な損得計算の時代>という点に着目して、<損得計算>に算入され得る「抑止的」な要素を組み込み、<損得計算>に踏み込むならば詐欺を敢行すること自体を思い止まらせるようにするしかない。

 「過剰な市場主義」と「極端な競争社会」、それらに翻弄される人々の不幸な現状(騙される者と騙す者)の抜本的改革は、そうした構造の改革以外にはないであろう。しかし、虚しさを自覚せずにそれを言うことは難しい。
 ならば、せめて不幸な事態が発生しにくい「システムの精緻化」に尽力すべきである。「モラルハザード」が極小化するようなシステム化をすべきである。もし、それができないのであれば、その時には、システムの「初期前提」に立ち返らざるを得ないということになろうか…… (2005.05.19)


 先日、ソフト開発分野でのユーザーから、過去に納めたシステムの今後の運用のために、そのシステムを稼動させる古いPCの予備を探しておいてもらいたいという要請が入った。
 実は、そのPCは、かつての国産メーカー機種であり、もうとっくに生産中止・サポート終了となっていたのである。
 しかし、そのPCのユーザーは未だに減ってはいないはずなのである。というのも、製造業がこぞってコンピュータ・システム化という情報投資を展開した頃、PCと言えばその国産メーカーのものが大きなシェアを占めており、まさか、現在の主流であるDOS/V機がこんなにも一般化して、国産メーカーがリタイアするなぞとは誰も想像できなかったからである。
 
 当時、情報化投資を行った多くのユーザーは、たとえ製造ラインの改変やアップグレードはしなければならなくなるにせよ、そうしたアプリケーション・ソフトを稼動させるOSや、さらにその基盤たるPCそのものが、市場から消えて入手不能になるなぞということは、想像を絶していたに違いない。
 しかも、製造業の生産自動化のためのアプリケーション・ソフトというものは、簡単なコストでまかなえるものではない。五年、十年といった比較的長期の稼動期間と、少なくないユーザー数があってこそ負担できるコスト規模だと言える。
 ところが、システム投資をした当時の好景気が、泥沼のような不況期に突入した。そして、PC環境も、時代変化を牽引するかのように素早いWindowsのアップバージョンの動きによって、まさにドツグズ・イヤーの速さで変化した。
 ここに、PCの新環境に適合した「新」アプリケーション・ソフトを、再び高コストで負担することがはなはだ困難なユーザーが、いわば「取り残される」といった現象が避けられなかったと言える。
 近未来の好景気が予想されるのであれば、PCなどのハードウェア環境に見合った「新」システムへの積極的投資にも躊躇しないところであろうが、現在のような状況ではリスキーさが拭い切れないというのが実情であるのかもしれない。
 ここに、いたし方なく、従来のシステムを使い続け、もはや市場からなくなり始めたPCなどのハードウェアを中古でも確保しておこうという特殊な事情が発生するわけなのである。
 
 ところで、こうした古い世代のハードウェア・ソフトウェア環境を伴うシステムのことを、業界内では「レガシー(legacy 過去の遺品?)・システム問題」と呼んでいる。決して笑い事ではない深刻な内実をはらんでいるのである。
 とりあえず、現状動いていれば先ずは胸を撫で下ろす、と言いたいところではあるが、それはそれで問題含みでもある。システムのメンテナンス(保守)を担える人材すら希少となりつつあるからである。古い、当時のシステムの開発に参画した技術者たちは、年配となりつつあると同時に、すでにリタイアした者たちも少なくない。
 同時に、現在の若い技術者たちは、とかく注目度の高い新技術に群がりつつある。また、新技術というのは、別な角度から見れば、手間がかからないような新しいツール類が盛り込まれており、かつての技術者たちが頭を使った部分が割愛されてもいる。と言う事は、「レガシー・システム」は「難解」過ぎて手に負えない若い技術者たちが増えているということにもなるわけだ。しかも、システム化投資がゴールドラッシュであったかのような当時に作られたシステムというのは、全部が全部というわけではないにせよ、ドキュメントというシステムの骨子を記した文書が無い、または少ないという事情まで加わっているようである。
 
 こうして、ハードウェア条件とマンパワー条件の両面から、「レガシー・システム」はまさしく「レガシー」の状態に取り残されている! と想像される。
 冒頭で書いたように、つい先頃、われわれのユーザーから、「レガシー」なPCの確保の要請を受けたことで、こんな問題をも再自覚することになったわけである。
 また、この間、「レガシー」なノートPCなどを再点検したり、チューニングしたりしているのだが、たまたま Windows の「95」から、「98」へ、さらに「98 Second Edition」、さらに「2000」への流れを体感的に再確認している。そうすると、ブラック・ボックスとなったPCを使うユーザーにとっては有難いこの推移ではあるが、過去のシステムへと遡っていかなければならない立場の技術者(「レガシー・システム」対応技術者)にとっては、骨の折れる仕事だろうなあ、と痛感した次第なのである…… (2005.05.20)


 やるべきことがあっての休日出勤であった。が、しかし、そのやるべきことには手がつかず、別のことをダラダラとやっている始末である。昨日の「レガシー・システム」ではないが、手近の古いノートPCの再生をやり始めたら、ちょいと引っかかることに遭遇してしまい、それが気になってはまり込んでしまったのだ。
 もとより、「えっ、どうして?」というような疑問にぶつかると、「まあ、そうしたものか」とは流してしまえずに、好奇心旺盛な究明姿勢が喚起されてしまう「たち(性質)」である。よほど、切迫したことがないかぎり、こうした局面に行き当たると、大体がはまり込んでしまうのが常であった。今日も、その例にもれない。
 今日の場合、事が始まったのがまだ午前中であったからまだしも、昔は、日が落ちてからそんなことになり、止めるに止められず、結局は窓の外からカラスやら小鳥のさえずりが聞こえてくる夜明けを迎えたことも少なくなかった。

 パソコンのソフト、ハードをいじり始めてからは、この「たち」は恰好の素材を得たというべきなのであろう。まして、パソコンショップなどという、パソコンいじりにとっての大義名分を得たりもしてからは、「仕事なんだかんね!」と言わぬばかりに、「知りたがり屋」のこの「たち」は「水を得た魚」というような奇麗事ではなく、野放し、やり放題という「悪質」なものとなっていったのかもしれない。
 ただ、この「たち」というのは、何もターゲットをPCに限るものではないようだ。
 確かに、メカニックなものというのは、いわゆる「知りたがり屋」傾向を持つもの者にとってまさしく恰好の対象となり得る。何がどうなっているのかに関して、実体的な素材を提供してくれるからである。まして、PCは、ソフトにおいては当然のこと、ハードにおいても、言ってみれば論理性のかたまりだと言える。したがって、論理によって構成された対象というのは、「疑問の持ち甲斐」があると言ってもいいのである。当方側が、正しく疑問を発して、正しくアプローチするならば、先ず大抵の疑問は氷解され、知的満足に到達できるからである。
 だから、「知りたがり屋」の「たち」の者が、PC関係にはまるのは無理からぬことだという気がする。ただし、偉そうなことを言うわけではないが、論理性のかたまりとして人為的に構成されたPC関係といった対象は、所詮、人工物なのであり、ある程度の疑問を持ち尽くすと、その限りの対象だと言えそうである。つまり、不可解で、摩訶不思議と感ぜられるようなことが無限に続くわけではないのだ。人間と、その周辺の事態の方が、はるかに際限のない摩訶不思議さが残り続けるものであろう。

 だが、人間と、その周辺の事態というのは、それらに対して疑問を持ったり、探求するのは、結構「疲れる」もののようである。また、即時的な知的自己満足というものも得にくいのかもしれない。
 自分も、自分の「知りたがり屋」の「たち」というものが、決して人工構成物であるPCにだけ向かっているのではないことを良く心得ており、他のいろいろなジャンルに関心を向けてもいるのだが、気分が「疲れている」ような時には、人畜無害でかわいらしいPC関係の作業に目を向けると、何となく充足感が得られるごとくなのである。何かもっともらしいことをこなしている、といった「錯覚」が得られるということなのであろうか。厳しい自戒的な表現をするならば、「お茶を濁す」所業だということにでもなるのであろうか。

 しかし、皮肉っぽい見方をするならば、現代という時代状況は、大多数の者が仮想の自己満足を得るための「お茶を濁す」所業に明け暮れているのかもしれない。心の奥底では、こんなことをしていたって、自分が抱えている問題の解決に近づくわけではないとは薄々感じてはいても、その問題は厄介過ぎるために、とにかく少しでも自分自身を元気づけられるようなことを先行させようとしているかのようでもある。
 厄介過ぎる問題というのは、人間と、その周辺の事態なのであり、人間とその社会のあり方だと思われる。それらを漠然と政治領域と言うこともできるが、たぶん区切られたジャンルの政治だけにかぎられず、人間の日々の生き方にも深く関係しているのだろう。
 そして、こうした重っ苦しい問題をはぐらかすことをターゲットにしたかのような「楽しくお茶を濁す」商品こそが良く売れるというのが、この現代の際立った特徴なのであろうか…… (2005.05.21)


 すぐ前を行くトラックの荷台に、鋭い歯と頑強なあご骨をさらした「恐竜の頭蓋」が横たえられてあった。と見えたのである。良く見ると、建築現場で使われる重機であるフォーク・ローダーの先端のフォーク部分であった。しかし、それらしく見えたのがおかしかった。
  トラックの荷台の対角線上目いっぱいに置かれた薄汚れたそれは、頭部と言ってもごつい上あごと下あごとだけで形作られた恐竜ティラノサウルスか何かの頭部のようであり、いつも遠目にしか見ないフォーク・ローダーの、先端のフォーク部分だと気がつくまでにはやや時間がかかった。おそらく、特殊な現場のニーズに応えるために、巨大過ぎる重機本体ごとを運ぶのではなく、必要な先端部分のみを運ぶ途中だったのであろう。いや、あるいは、現場で使用中の先端部分の故障か何かで取り替える必要に迫られたためなのかもしれない。

 重機の部品を、恐竜ティラノサウルスか何かの頭部だと見誤ったのは、つい先ごろ、TVで「恐竜展」の案内・宣伝をする番組を見ていたからかもしれない。

「全長12.8m、世界最大のティラノサウルス“スー”の全身複製骨格を日本で初めて公開します。
 “スー”は、史上最大級の肉食恐竜ティラノサウルスの中でも最大で、最も完全な個体です。9割以上の骨が発見された希少性から、オークションで約10億円で落札され、一躍有名になりました。所蔵先のアメリカ・フィールド博物館から『門外不出』だった実物化石の一部も、初めて館外に貸し出され、公開されます。」(『恐竜博2005』国立科学博物館)というような……。

 その完全な姿の骨格の化石も驚嘆に値するが、その番組を見ていて「ウヒャー」と驚いたのは、恐竜から鳥への進化に要した年月が「一億年」だったという気の遠くなるような数字であった。年数にかぎらず、「一億」なぞという数字は、一般庶民にとってはちょっと縁のない数字であろう。宝くじの1等の賞金レベルであり、企業にとっても、中小零細規模のわれわれにとっては年商レベルの話になる。あとは、HDDの容量をバイト数に直した世界の話ということにでもなるのであろうか。
 もっとも、一個体としての恐竜がその「一億年」を生きたのではないのはもちろんだが、それにしても、ティラノサウルスのような恐竜たちが「一億年」もこの地上世界を生存し続けていたという事実たけでも、まさにカルチャア・ショックである。いや、この際、恐竜にカルチャアなんぞ関係ないから、無垢のショックであった。過去の話とは言え、「せっかち」な現代人には到底「許せない!」「超」ノンビリぶりであるからだ。

 「せっかち」と言えば、現代人の中でもわれわれ日本人がこれまた飛び切りの「せっかち」民族となっているという。
 JR西日本の巨大事故以来、これまで、美徳的に語られていた鉄道の「時刻表」が肩身の狭い思いをし始めているとかだ。欧米では、鉄道においては15分程度の遅れは「想定範囲内」だそうである。もちろん、この国のような鉄道側からの「遅延証明書」発行なんてものも無縁であるのだろう。
 この辺の事情は、鉄道側だけの問題ではなく、その鉄道の「時間厳守」を前提としてか、一体としてか成り立った社会環境全体の問題なのであろう。遅刻に対して厳密な企業風土もそうであろうし、そんなことに慣れてか生活感覚が「分単位のムダ排除」というふうになってしまっているのも重い事実なのだろうと見える。現に、自分自身のことを思い起こしても、3分はカップラーメンで慣らされてはいても、5分待つとなればイライラし始めるという「せっかち」感覚となってしまっているように思う。
 だから、安全環境づくりのために、鉄道の「時刻表」の緩和は検討されるべきだとは思うものの、そのためにも、社会環境全体と各人の時間感覚というようなものが見つめられてしかるべきなのだろうと思ったりしている。
 この問題においての要は、「とにかくカタチ」という「形式主義」の横行が見直されるべきだ、という点になるのかもしれない。もし、「時間厳守」もこの「形式主義」の一環でなされているとしたならば、問題はカタチより実質なのだ! という当然の考え方が広がっていくことにより、ジワジワと変化していくのであろうか。

 それにしても、恐竜たちが、あの走行スタイルで「一億年」も走り続けていたのかと想像するだけで、驚きとともに、妙な安堵感が訪れたのだった…… (2005.05.22)


 今頃の時季になると、ディスカウント・ショップでは、そろそろキャンプ用品のコーナーを整備し始めるようだ。どこへ行こうというのでもないが、足を止めてみるのも楽しい。見ていながら、若い頃に経験した自然の中での経験を思い起こしたりする。
 自然の中には、のびのびとしたすがすがしさがある一方で、都会でしか享受できない便利さがなかったり、また天候の崩れに遭遇したり、夜ともなれば、何がしかの心細さというようなものを味わうことにもなる。しかし、それらが逆に新鮮な感情を呼び覚ましもする。日常の都市生活では当たり前であるものが「無い」という条件によって、いわば、日常生活では眠らされていた感覚や頭脳活動が活性化されるとでもいうのだろうか。いや、そんな小難しいことを言わずとも、要するに新鮮な気分がかもし出され、リフレッシュされるということなのであろう。

 ニ、三日前の報道での新製品紹介記事に、「キャンプ用にお手軽発電機 重さ32キロ、○○○から」というのがあった。

< 電子炊飯ジャーでご飯を炊き、ホットプレートでバーベキュー。キャンプ場でも家電製品が使われる傾向に目を付けた○○○発動機は20日から、新型発電機「※※※※※」を売り出す。
 電子制御で電圧を安定させ、電子レンジやドライヤーなど大半の家電製品が使える。ガソリン6リットルで2000ワットを5時間分供給できる。アルミを多用して重さ32キロに抑えた。業務用が大半の従来型に比べ半分以下だ。
 希望小売価格は税込み26万400円。「販売の3分の1以上はレジャー用」(広報)と期待する。調理家電を持ち込んで料理の手間を省くなど、自宅にいるような感覚でキャンプを楽しむ人が増えている。電源を備えたキャンプ場もあるが、同社は発電機の需要が増えると見ている。>(2005.05.18 asahi.com )

 いま時の企業にとっては、新市場の「開拓魂」は逞しくなければならないだろう。誰がなんと言おうと、「売れる」となれば通念なんぞにかまってはいられない、というのがホンネかもしれない。
 しかし、この製品のコンセプトには何かなじめないものがあった。極端かもしれない表現を許してもらうならば、風光明媚な自然地に、突如として観光ホテルを建設して、自然環境を台無しにするディベロッパーの無思想と共通するものがありそうだと感じたのである。
 ガソリン使用の発電機であれば、当然、排ガスも騒音も出し放題であろう。キャンプ地とはいえ、自然のただ中を、そうした要因によって汚染させ、もとよりクルマを使うに決まっているのだから、汚染は極度に進行するはずであろう。
 この辺の企業のヘンなセンスというものがこの国ではあるのだなあ、と再確認せざるを得なかった。CMなんぞでは「自然を愛し、自然と共にある○○○……」という嘘八百を並べ立ているのかもしれないが、製品のコンセプト自体が馬脚を現しているとしか言えない。もちろん、この企業に対しては何の含みもあるわけではなく、ただ、現在求められているハイ・センスな製品・商品という観点からすれば、ちょっと違うんじゃないかと感じたまでである。

 それとも、現代の消費者たちというものは、こうした製品に支援されてまで、都会的条件が無い、いや都会的条件を「選ばずにいる」自然というものがなじめなくなってしまったのであろうか。いや、恐ろしいのであろうか。
 わたしは、むしろ、そうなのかもしれないと考えることの方が、若干恐ろしい気分となってしまうわけだ。自然に対して都会的条件や環境を持ち込まなければ居ても立っても居られないという現代人の習性こそが、エンジンを付けてでも鍛えなおさなければならない部分ではないかと思ったりするのである。
 いつも思うのであるが、人間の生活環境がどんなに「非自然」的なハイテク、サイバーなものになろうとも、人間のボディは「自然」属性からは離脱できないのであり、その点では、自然を知らなかったり、なじめなかったりする事態は、非常にリスキーなことに違いないと思える。何も、災害時でのサバイバルのことだけを言っているのではない。サイバーな都市環境の中で、自身も他者も本質的には自然に根ざしていながら、自然というものの道理を心得ないからこそ、わけのわからないような犯罪が多発するのかもしれない。動物虐待、幼児虐待、女性蔑視、生命蔑視の根源のひとつは、確実に自然への無知といものが横たわっているような気がしてならない…… (2005.05.23)


 多くのメディアで、もはや当たり前のように登場するバーチャル(仮想的)な映像というものに、われわれは慣れ切っている。SFのアミューズメントには当然のごとくそんな場面がふんだんに盛り込まれている。かつては、「えっ、あんな光景をどうやって撮るのだろう?」と不思議がった覚えもあるが、もはやそんなことに一々反応してはいられないほどに一般的なケースになってしまったようだ。
 最近では、TVコマーシャルにもそうした手法が多用されていることに気づく。ことによったら、バーチャルな映像手法の方が制作費を圧縮できるという事情もあるのかもしれない。映画などでさえ、ロケよりもミニチュアの撮影、それよりもIT技術を駆使したバーチャルなコンピュータ・グラフィックス映像の方がコスト圧縮が可能だと思われる。

 先日も、あるTVコマーシャルで、砂漠のような地平に無数のクルマが走るというそんな光景が映っていた。まさか、そんな場面を実写でやっているわけがないな、コンピュータ・グラフィックス映像を使ったバーチャルな合成映像なんだろうな、とすぐさま推測したものであった。何気なく見させられているTVコマーシャルであるが、このように、何を見せられているのかという自覚的観点(?)に立って見直してみると、やたらにバーチャル手法が使われているように思われる。むしろ、特別な撮影手法が採用されていないナチュラルな撮影だけのフィルムの方が少ないとさえ見える。
 何秒間という短時間で視聴者の関心を呼び起こすためには、とにかくアテンションを喚起しなければならないのだろうから、見慣れた映像ではなく何か違和感を感じさせるほどの新規性のある映像に仕立て上げたいのだろうことは容易に想像できる。そして、コンピュータ・グラフィックスは、現時点ではかなり低いコストで制作できるようになっていそうだ。そうなると、TV・コマーシャルも、契約料が破格に膨張する有名タレントを使うよりも、奇異な印象をコンピュータ・グラフィックスで生み出し、それでアイ・キャッチを叶えようとするアプローチが採られがちになるのであろうか。

 ところで、コマーシャリズムと広告規制については、これまでにもいろいろなことがあったかと思う。すぐに思い出せるものでも以下のようなケースがある。
 可視的な映像と映像の隙間に、ほとんど視覚的認識が及ばないようなかたちで何がしかの映像を割り込ませて、それで潜在意識への刷り込み効果をねらうという「サブリミナル効果」手法というものもあった。もちろん、規制を受ける対象となった。
 また、商品がどのようなかたちであるにせよ何か映像を映し出すようなものである場合、パンフレットなどにそれを紹介する際、見栄えを良くするためにその映像画面の部分を「ハメコミ」画像で置き換えた場合には、誤解を与えないためにそのことについて「ことわり」をしておかなければならない。「これは、ハメコミ画像です」というようにである。
 つまり、コマーシャリズムというものは、放置しておけば、消費者を「騙す」行為(詐欺!)へと限りなく接近していく可能性が存在するということなのだろうと考えられるわけだ。

 よく、TVドラマの最後で、何となく「間抜け」な感じがしないでもないテロップが表示されることがある。「このドラマはフィクションであり……」というものである。これは、当該ドラマが、実在する人や組織の権利を侵害しないようにという配慮から行われているのだと思われる。
 一頃は、まさしく「そんなこと断らなくても了解できるよ」と多くの人たちが感じていたはずであるが、現在のように、際限なく膨張するバーチャル空間の肥大化があったり、また「事実は小説より奇なり」という状況が出現したりして、リアル空間とバーチャル空間とが交錯する現代にあっては、何となく複雑な心境でそのテロップを見つめることになるのだ。
 それで、コンピュータ・グラフィックスが多用されるようになったTVコマーシャルの件なのである。さすがに、商品自体の直接的性能や機能に関する誇張はしないのではあろうが、その誇張に限りなく接近しているかのようなイメージ刷り込み作戦として、バーチャル次元のイメージがコンピュータ・グラフィックスによって存分になされているのではなかろうかと考えるのである。
 上述した「サブリミナル効果」というのは、思うにこの情報(化)時代の隠れた危険の氷山の一角に過ぎないのだと推測する自分にとって、コンピュータ・グラフィックスによって日常世界の視覚空間が「再編成」されていく事態は目が離せないと感じている。

 昔、「エッシャーのだまし絵」というおかしな絵に注目したことがある。中世の建物で、高さの高低が錯綜した階段をグルグル回り続ける人々、あるいは人々ではなく、水路を流れる水を描いたものである。
 何だか、現代という時代は、「エッシャーのだまし絵」的世界が日常化しているようだと言っていいのかもしれない…… (2005.05.24)


 先日、TVを見ていて、ある男性タレントのヘアースタイルから誰かを思い浮かべた。ありありとイメージは思い浮かぶが、名前が出てこない。後になって漸く思い出したのが、あのエルビス・プレスリーである。
 別に、プレスリーがどうこうというのではなく、何年も思い起こさない人名というものは、確実に脳の「検索インデックス」から外されてしまうもののようだ。思い起こした方法は、例の「アイウエオ」探索隊であった。プレスリーの場合、幸いにもア、イ、ウ、エと進んだところで、「エルビス……」という早期発見につながった。
 それにしても、人名の探索難航という事態が時々発生する。それも決まって突拍子もなく、しばらく考えてもみなかったジャンルのことに気まぐれに目を向けた時が多い。あるいは、TVなどを見ていて、あっ、だれかに似ているな、誰だったっけ? というような思いつきの文脈の場合もある。

 PCでも、「ディスクのクリーンアップ」といういわばディスクのスリム化ツールがあり、これを起動すると、不要なファイル類の候補が挙げられ、ユーザーがそれを承認すれば消去してくれるのである。その時、一時保管的なファイルが候補に挙がるだけでなく、「使用頻度の低い」ファイルも指摘されることになる。
 PCの場合には、保管したファイル類を「使用頻度」の統計値までを含み几帳面に記憶しているのだが、人間の脳の場合には、「使用頻度」が低下してくると自動的に「検索プライオリティ」が下げられてしまって、「検索不能」状態に至るのであろうか。
 ただ、わたしの推測では、一度記憶されたものは、消滅することはないのではないかと考えている。PC関連のメディアでは、いくらデジタルであっても、データを担うメディアの物理的耐久性のために消滅することはあり得る。それに対して、脳は基本的にはそうしたことはなさそうだという気がしている。何かの拍子に、現在の状況とはまったく文脈のない古いことを想起することがあったりするからだ。
 
  以前に書いたかもしれないが、脳による記憶というのは、記憶される対象が、脳細胞という物理的実体に刻み込まれるのではなくて、脳細胞間の連携プレーであるある種の関係性(ネット・ワーキング?)に託されるからなのだと思う。もちろん、よくはわからないで言っているのだけれど、そこで問題となるのが、そうして記憶されたものが、どう再現されるのかということになるわけだ。つまり「検索方法」の問題ということになる。
 餌を棲みかの近辺のあっちこっちに埋め込む森の小動物ではないが、餌のように埋め込まれた記憶という対象も、必要な時に再度入手されなければ意味がないことになる。これが、記憶を「想起する」ということになるのだろうが、やはり問題は、どう検索されて再獲得されるのかということに尽きると思われる。

 ところで、何かを思い出そうとしたり、思い出した時、ちょっとしたあることを自覚することがある。これは何回も検索に失敗してきた、つまり、何度も「えーと、なんだったけかな」と躓く記憶対象というものがあるということである。
 自分の場合、単純な例を挙げると、タレントの「竹中直人」という名であった。決して嫌いなタレントというわけでもないのだが、しばしば思い出せないことがあり、思い出してもその直後に、またきっと忘れるに違いないというヘンな自己暗示をかけてしまう。それでまた再び躓くということにもなったりする。
 何が言いたいのかというと、思い出しにくい対象というものは、何か特定なものがありそうだという点がひとつ、またそれは記憶の「濃度」(?)という条件に依存しているというよりも、思い出し方、つまり検索の仕方に不具合がありそうな気がするのである。というのも、何度も想起に躓く対象というものは、それだけ回数を重ねて想起したり覚えようとしているわけだから記憶の「濃度」が薄いはずがないと思えるからなのだ。
 そして、さらに推定し得ることは、記憶=想起し難い対象というのは、記憶=想起を阻む何か構造的なものと結びついているのではないかという点である。とりあえず言えることは、想起できないのではないかという不安な自己暗示のメカニズムであるが、そのほかにも何か不快感とか苦痛のメカニズムとリンクしてしまっているのではないかという点が推定される。こうしたことは、あくまでも自身の自覚に基づく推定にすぎないが……。

 先日来、イギリスで見出された記憶喪失の謎の「ピアノマン」が話題となっているが、記憶喪失というのは、どうも記憶そのものが消失されるのではなく、記憶を検索するプロセスに支障が生じるもののようである。そしてその支障というものは、記憶が呼び覚まされることに伴う激しい苦痛から身を守るために、防御機構が働くためだと説明されることがある。
 そうしてみると、やはり記憶というものは、想起のされ方(検索のされ方)こそがほとんどすべてであるかのような印象が強まる。そして、脳のどこかに記憶を貯蔵するストレージのようなものがあるというよりも、「ニューラル・ネット」のごとく、無数の脳細胞間に繰り広げられる「ネット・ワーキング」のその形状自体に記憶の内実が担われているのかもしれない。そんな説もあったかに思う。
 また、その「ネット・ワーキング」は、不安や恐怖その他の感情的要素(≒感情ホルモン?)がいろいろなかたちで影響を及ぼしているということにもなるのかもしれない。唐突な話題に転じるならば、死の直前に、まるで「走馬灯」のように多くの記憶が呼び覚まされる、と言われるのは、死の直前に放出されるというホルモン、エントロフィン(?)が、脳内に瞬時の間に無数の「ネット・ワーキング」を生み出す結果だとこじつけることも可能なのかもしれない……。
 いずれにしても、脳内部での記憶というものが、PC世界のように何がしかの磁気メディアの空間にスタティックに情報が保存されるというような原始的な様相ではなさそうだとの想像ができようか…… (2005.05.25)


 ひと(他人)の話で、「よくわかる」とか「わかり易い」「わかりにくい」ということがある。「わかりにくい」よりも「わかり易い」方に軍配を上げてしまうのが人情であろう。あえて「わかりにくい」方に肩入れすることは普通はできないことかもしれない。
 ただし、「わかり易い」ことの方に、ありきたり過ぎて魅力を感じなかったり、もっと言えば、逆に何か胡散臭さ(うさんくささ)を感じるということはありそうな気がする。そこから、「わかり易い」方に対して、何となく「頭で考えると、それはそうなんだけど、でも、ちょっと違うかなぁ……」という思いに至ることはありそうだ。

 他人に対して何かを説明する際に、「わかり易さ」という点に配慮することは当然のことであろう。しかし、だからといって、「わかり易さ」という方針に屈服して、「わかりにくい」かもしれない自身の真実を放棄することはあまりしないはずである。
 しかし、ひと(他人)のこととなると、「わかり易さ」を求めて「わかりにくい」ことを排除しがちになりそうである。「わかりにくい」ことの背後に、クリアに表現され難い新規な何かが潜んでいるとは考えようとしないのが、よくあることと言うか、一般的であるのかもしれない。

 日常生活から、政治状況に至るまで、「わかり易さ」という観点が幅を利かせて、効率は高まっているのかもしれないが、人間が充実して生きるという環境からは次第に遠のいている可能性がありそうだ。「わかり易さ」の原理で構築される環境は、高度な効率性が達成された世界ではあるが、「閉塞した世界」であり、「おもしろくない世界」であり、そして、「強者(=鈍感な者)たちのための世界」であるという戯言を言ってみたくもなる。
 日常生活から、政治状況に至るまで、「対話」がない状態となっていると言われて久しいが、「対話」を成立させないでいるのが、性格的に特殊な人々だけだと考えるのは楽観的であるような気がしてならない。現状にあっては、ほんの一部のマイナーだけが「対話」的な人間関係に勤しみ、私自身を含む大半の現代人が、「わかり易さ」を過度に追求しながら、「対話」の入口である「わかりにくさ」を蹴散らしていそうである。
 「わかり易さ」に巣くうものは、ほかにもあるとは思うが、何と言っても「紋切型」口調であり、その思考なのだろうと思う。いわゆる、「低燃費・エコノミカル」思考である。あるいは、どこでも誰にでも通用するという意味で「貨幣」的思考だとふざけていいのかもしれない。

 もう二十年も経つのかと驚いたのは、「パラノ型」・「スキゾ型」という切り口で現代を料理した「天才」・浅田彰の一連の著作である。最近、ふとしたことから再読した『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』に、現時点の社会現象にも十分符合するものだと感じ入った箇所があった。引用すると以下のようになる

< 最近の子どもたちは表現力に乏しい。きちんとした対話ができない。これまた耳にタコができるほど聞かされる決まり文句だ。けれども、パラノ人間おとくいの「表現力」というのは、紋切型をパラノ的に反復する能力にすぎないし、「対話能力」というのも、予定された総合に向かう弁証法(ディアレクティック)のパラノ・プロセスに安んじて身を委ねることのできる鈍感さ以外の何物でもない。国会の演説や質疑応答でもきいてみれば、そんなことはすぐにわかる。
 むしろ、スキゾ的な面に着目するとき、最近の子どもたちの表現力には驚くべきものがある。自分自身を含むありとあらゆるものをやすやすとパロディー化してしまう軽やかさ。パラノ的な問いをあざやかにはぐらかし、総合から逃れ続けるフットワークのよさ。重々しい言葉を語っているつもりで、その実うすっぺらな紋切型を反復しているだけのパパたちに比べると、うすっぺらな言葉を逆手にとっていわばオブジェとして使いこなし、次々に新たな差異を作り出しては軽やかに散乱させる子どもたちの能力の方が、はるかに大きな可能性をもっている。彼らはまさしく差異化の達人なのだ。そうした能力はメディアさえ与えられればいくらでも伸びていく可能性を秘めていると言ったら、いささかほめすぎになるだろうか。>(浅田彰『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』筑摩書房 1984年)

 「国会の演説や質疑応答」については、ニ十年前と何も変わっていないと言うべきであろう。小泉首相が、脱・パラノであって欲しいという切ない庶民の願望も、見掛け倒しというか、新種・パラノですぎなかったことはカンのいい人は了解していそうだ。
 ただ、浅田氏も、当時は「いささかほめすぎ」をした嫌いがないではないと感じている。「スキゾ・キッズ」たちへの過度の思い入れである。ちょうどそれは、宮台真司が、次のように書いたことと類似していそうだ。

<90年代前半から広がる「ブルセラ・援交」の子たちに僕は「軽々と生きる」新世代の可能性を感じた。社会の流動性が高まっても、「やりようで」若者たちが感情的安全を得られると思ったのだ。
 見込み違いだった。彼女らの多くは疲れ、メンヘラー(精神科に通う人)になった。付き合いが苦手というより、つまらないから退却するというタイプの引きこもりも増えた。>(参照 → 2005.02.25)

 現代の文化状況は、やはり、かなりの「危なさ」を秘めたり、露呈したりしながら驀進しているのであろうか…… (2005.05.26)

 以下に、「パラノ型」・「スキゾ型」の説明を念のため引用しておく。

< パラノ型というのは偏執(パラノイア)型の略で、パラノ人間はすべてを積分=統合化(インテグレート)して背負いこみ、それにしがみついているようなのを言う。パラノ人間は《追いつき追いこせ》競争の熱心なランナーであり、一歩でも先へ進もう、少しでも多く蓄積しようと、眼を血走らせて頑張り続ける。他方、スキゾ型というのは分裂(スキゾフレニー)型の略で、そのつど時点ゼロにおいて微分=差異化(ディファレンシエート)しているようなものを言う。スキゾ人間は《追いつき追いこせ》競争に追いこまれたとしても、すぐにキョロキョロあたりを見回して、とんでもない方向に走り去ってしまうだろう。
 言うまでもなく、子どもたちというのは例外なくスキゾ・キッズだ。すぐに気が散る、よそ見をする、より道をする。もっぱら《追いつき追いこせ》のパラノ・ドライブによって動いている近代社会は、そうしたスキゾ・キッズを強引にパラノ化して競争過程にひきずりこむことを存立条件としており、エディプス的家族をはじめとする装置は、そのための整流器のようなものなのである。>(同上)


 「情報ソフト関連企業、会計処理にルール」という新聞記事に眼が止まった。

< 会計処理の基本ルールを定める企業会計基準委員会や経済産業省はIT(情報技術)関連企業を対象に、情報ソフトウエアや関連システムの売上高計上などに関する会計指針の策定に着手した。会計処理の基準を明確にし、売上高の水増し計上などを防ぐ。
 情報ソフトや関連システムの会計処理は不透明な事例が多いとの指摘が出ている。他社から仕入れたシステムをそのまま転売した場合も、仲介手数料だけを売上高に計上するのではなく、システムと手数料の総額を計上することが他の業界に比べて目立つとされる。特にソフト会社は中小企業が多く、見かけ上の売上高を膨らませることで金融機関から融資を受けやすくする狙いがあった。この慣行は一部の大企業にも広がり、売上高が実体に比べて膨らんでいるといわれる。>(日本経済新聞 2005.05.27)

 今さら……という気がしないでもないが、これは裏を返せば、「不透明な会計処理」が問題であるとともに、それによって融資する金融機関が負うリスクが大きくなったということであろう。さらに言えば、これまでは「情報ソフト関連企業」は先ず先ずの成長業種だと目されて、「優遇」(?)されていたかもしれない慣行に、シビァな視線が注がれるようになったということなのだと思われる。それほどに、景気の低迷ぶりが裾野を広げているということなのであろう。
 そうした実態は、当事者であるわれわれからすれば実感でわかるところだ。不況業種と成長業種を分ければ、「情報ソフト関連」業種は後者に区分けされていたはずである。
 しかし、ドラスティックな経済構造の変化の中で、IT不況という事態もあったわけだし、その後の構造変化の激化の中で、「情報ソフト関連」業種もじわじわと他業種の低迷に引き寄せられる推移をたどってきた観がある。

 同業者たちの苦境を時折耳にするが、先日、事態はそこまで来たのかという話を聞くことになった。とある若いソフト技術者が、ある会社を辞めるということで、その理由はというと、処遇問題であった。ところが、それは、よくありがちな不公平な評価云々といった類ではなく、異常な話、いや違法な話であったのだ。
 ソフト会社にとっては、主要な経費といえば人件費ということになるが、それをギリギリ圧縮するために、「年俸制」と称して「時間外手当」を負担しないは、そればかりではなく、いっさいの社会保険を無視し続け、さすがにそれは違法だということで「善処」されるようになったという。が、その「善処」とはかたちだけのことであり、何と、総額の半分を会社が負担しなければならない分も、当人が負担すべし、ということらしいのである。
 これでは、いくら世間知らずであったかもしれない大卒から間もない新人クラスであっても、この会社は危ないゾ、と気づくはずである。そして、会社を辞することを考えるのもやむを得ないと思ったものだ。
 そして、じわじわとこの業界も厳しさを増している実情を振り返る時、経営者はついにそこまで追い込まれてしまっているのかと、背筋の寒い思いになったものだった。
 まあ、この業界に長く居ると、とんでもない実話をいろいろと聞かされるものだ。あるフリーの技術者から聞いた話では、派遣契約をしていた危ない会社から、ある日、脅しまがいの借金申し入れがあり、百万円以上を貸すことになったら、やがて倒産してしまったという。結局、自身の派遣業務の報酬の複数カ月分と貸したお金の両方が返ってこないことになってしまった、という信じられない話であった。また、フリー技術者同士で労務提供をしたのだが、その何か月分かの報酬を無視され、逃げられてしまったという話も聞いたことがある。

 ニュースその他で、悲惨な事件や事故を知る昨今だが、そうした陽の目を見る事柄のほかに、仕事上での被害者が結構出ていそうなのが最近のご時世なのかもしれない。切羽詰った者が選択する手段というものは、やはり想像を絶するものがありそうである。
 そんな折も折、今日、突然に「一元の顧客」が、当社に飛び込んで来た。自分が外出しようとしていた時に、
「ソフト会社の方ですか? あの看板のソフト開発会社の方ですか? ちょっと、開発見積りに関してお聞きしたいことがあるのですが……」
といったふうであった。
 景気が悪いと、営業目的の電話だけではなく、仕事依頼の電話にも要注意の姿勢をとらざるを得ない。それというのも、われわれの仕事は、結局、「信用供与」的に先に労務を提供して、最後に支払を受けるからである。警戒すべきは、悪意に限らず、不測の事態が発生して経費を回収し切れないという問題も十分にあり得るからだ。
 とは言うものの、まあ、話を聞く分には差し支えないだろうと、対応したのだった。詳細はまた後日という結果となったわけだが、いざ具体化する時には、軽々しく踏み込むべきではないと戒めてもいる。

 それにしても、このとんでもない時代にビジネスを維持していくということは、アグレッシーブな創造力も必要だし、防御のための想像力、警戒心も欠かせない。また、いずれにしてもそれらをスピィーディにこなさなくてはならない。まさしく、ルールの無いスポーツ・ゲームに参加しているような錯覚にとらわれるわけだ…… (2005.05.27)


 今朝は、まさに夜明けとともに起床した。4時半であった。ちなみに、今日の東京地方の公式「日の出時刻」は「4時28分」であり、現時点の日の出は、最も早いはずの来月の夏至に向かって早まり、いわば「早い朝」の頂上付近の位置にあると言えようか。
 別に意図して早起きをしたわけではない。初夏の「早い朝」にウォーキングをし続けたらどんなにいい気分であろうかと考えないわけではなかった。
 今朝の早起きは、最近は常態ともなっている睡眠中のいわばトイレ休憩、あるいはインターミッション(幕間休憩)であったのだ。窓の外を見ると、薄っすらとばら色に染まった戸外の様子が窺え、さぞかし気持ちが良さそうだと思えたことと、3、4時間は眠っていたはずなので思い切って起きてしまうことにしたわけだ。

 早朝のウォーキングで感じることは、やはり空気の匂いが違うということである。クルマの排気ガスが漂っていないからということもあるのだろうが、草や樹々といった植物たちの吐息とでもいうのだろうか、新鮮で青臭い香りが何とも言えずいいものである。
 そうした早朝特有の空気の香りは、ほぼ確実に、過去になじんだ香りであり、古い記憶を呼び覚ますものだと言える。
 ただ、早朝の草木の葉の香りと結びついた記憶のイメージは、もはや名状しがたいほどに霞んでしまっている。この香りはいつ、どこで得たものだったかと振り返ってもそう簡単に腑に落ちるイメージに辿り着けるものではなかったりする。まして、寝不足の頭であると、おぼろげな記憶のイメージをまさぐることがまどろっこしく思われてならない。
 ただ、それらは単なる記憶の一部であるという気がせずに、むしろ何か非常に貴重なもののような気がしてならなかった。つまり、自分という樹木が、目に見える地上の姿を保つために、地下に根を張っているとたとえれば、そうした記憶というのは非常にベーシックな(基礎的な)根っこではないかと思えたのである。

 朝の空気のさわやかさに酔って境川の遊歩道を歩き続けていたら、川原の方から、バシャッバシャッと鯉が騒いでいることに気づかされた。覗き込んでみると、鯉たちが浅瀬に「のっこんで」いたのだ。いわゆる「のっこみ」、つまり産卵行動なのである。
 そうか、春から初夏にかけてのこの時期は、鯉たちの産卵期だったのだ、と改めて気づいたものだった。と思うや、歩く先、十メートル間隔を置いたくらいごとにその「のっこみ」の光景が見受けられたのである。
 この川の、この辺に放流された鯉たちは、決して色とりどりの体色というわけではなく専ら基本色の黒である。だから、さして綺麗とは言えない川の浅瀬で騒いでいても、バシャッバシャッという音と水しぶきだけが周囲からの注意を引くだけで、何が起きているのかの詳細はよくつかめないふうではある。もっとも、ただ事ではない雰囲気が十分に伝わってくる。産卵後には衰弱して死ぬ鯉もいるわけであり、まさに厳粛な生命交代の行動なのである。
 それにしても、もっときれいな川であったなら鯉たちにとっても良かったものの……、と感じないわけにはいかなかった。

 もともと「釣り」が好きな自分は、魚たちにも好意(?)を抱いている。先日も旅行に行った際、大きな池に面した部屋に宿泊することになったのだが、菓子を与えたら喜んでいた池の鯉たちがとてもかわいいものであった。水面に浮かぶ餌を、大きな口を開けて水ごとゴボゴボと飲み込む恰好がおかしくて一向に退屈しなかったものだ。食傷気味となるほどに、人間様たちは飽食の環境にあるのに対して、池の鯉たちは、庭を管理する者から朝に一回だけ水面に撒いてもらう一握りの餌を楽しみにしているようである。何とも慎ましく従順な生きものかと妙に感心をしたものであった。

 年寄り染みた表現となってしまうが、川や池の鯉たちにしても、街中の草木にしても人間以外の生きものたちというのは、実に可憐でいじらしいものだと再認識させられてしまう。だからどうだということもないが、さわやかに生きたいと思えば、そうした自然に眼を向け、早起きをして、三文どころではない得をすべきなのかもしれない…… (2005.05.28)


 今朝も早起きで一日をスタートした。昨日よりかは遅いものの、5時半に目が覚めた。昨日の寝不足のせいもあり十分に眠さが残ってはいたが、起きてしまうことにした。本当に疲れていたのなら、起きてしまおうとは思わないはずであり、要するに体調は悪くないということだと了解したわけだ。
 そして、たっぷりと汗をかくウォーキングを済ませ、早々と事務所に出かけることにした。実は昨日も一日中事務所で作業をしていた。いろいろと遣り残していた雑事がたまっているし、体調が上向きの際には多少負荷をかけ気味にしてでも遣るに限ると思ったからだ。
 メイン作業のかたわらで、PCやノートPCのチューニングをすることがよくある自分だが、それらの作業は結構ペースにはずみをつけてもくれるし、ちょっとした仕事上のヒントを与えてもくれるものである。まして仕事柄、PC周辺のノウハウは体験的に得ておく必要もあるため、暇をみてはトライアンドエラーに勤しんでいる。
 今日も、そんな作業でひとつの教訓を得た。具体的事例を書くことは込み入ってしまうので省くとして、方法というものは随時選びなおす必要あり! とでも言えそうな教訓であった。
 あることを達成するために順当な方法を採用して進めたのだが、その方法は冗漫過ぎて、とてつもない時間がかかりそうだと分かったのである。極端な言い方をすれば「一生かかって」しまいそうなほどに遅いのだった。また、他の方法に替えることは多少のリスクはあったが、そこがトライアンドエラーの出番だったのである。そこで、やってみるべしと判断した。すると、難なく、効を奏する結果となった。

 そんなちょっとした出来事から唐突に感じたことは、トラブルという意味での問題というのは、「方法(解決方法)」が見出せない状態、ということになるのかもしれないということであった。
 何を当たり前のことと思われそうだが、問題に直面して困惑することが少なくないこのご時世にあっては、それこそ問題への対処の仕方(=方法)というものを見つめ直す必要が大いにあると思えるのである。いささか過剰な言い方をするならば、「解決不能な問題はない」ということであり、「解決不能」に見えるのは、その「解決方法」が見出せないからなのであり、さらにその前に、「何が問題なのか」という「問題定義」が放置されているところに原因がある、ということになりそうである。
 知性(単なる知識ではなく)を駆使するところに最大の特徴がある人間にとって、それを最大限に発揮して「問題」に対処するならば、人間にとっての不幸の多くが取り除けるという希望的観測をしたいと思っている。
 そうした点で言えば、このご時世に不幸で悲惨な現象が溢れているのは、知性と言われるものが発揮されにくい社会環境こそが問題視されるべきであるし、個々人にあっては、知性の力(知は力なり!)を知ることに辿り着くべきなのだろうと、凡庸なことを再確認するわけなのである。

 とにかく、現時点でのこの国の社会環境は歴史上まれにみるほどに悪化の一途を辿っているとしか言いようがない。「A級戦犯」という言葉さえ辞書から無くそうとする発言が政府の人間の口から飛び出すのであるから驚きも頂点に達する。まあ、バカはどこにでもいることだし、政府の中にそんな者がいたとしても驚いていてはいけないのかもしれない。むしろ、これをも何事もないかのように受け止めているような国民意識に幻滅をすることになる。ここに至っては、政府の動向をチェックする国民の知性の貧弱さを感じないではいられない。これでは、「憲法改悪」にせよ、再びの「戦争」にせよ、何の抵抗もなく突き進んでゆけることになりそうな気配だ。成り行き任せで悲惨さを呼び寄せる人間未満、人間の「動物化」の事態かと見える。

 昨日の新聞報道で、「渡り鳥、海岸で大量死 餌捕れずに衰弱か 千葉〜福島」という悲惨なものが眼についた。

<千葉県から福島県にかけての海岸で、渡り鳥のハシボソミズナギドリが大量に死んでいるのが確認された。千葉県などによると、九十九里海岸や茨城県の鹿島灘などで計1000羽近くが見つかっているという。太平洋を北上中、風で流されて沿岸に近づき、餌が捕れず弱ったらしい。 …… 千葉県立中央博物館の桑原和之研究員は「繁殖地のオーストラリアからシベリアに向かううち、今年生まれた幼鳥が南風に流されて列島に近づきすぎ、小魚やエビが捕れなくなったのではないか」と話している。>(asahi.com 2005.05.28)

 なんとかわいそうな事故かと思うと同時に、現代のわれわれ人間は、こんな悲惨なことから果たして無縁なほどに知性的か? と反芻したのだった。つい先頃の列車転覆事故は、人間の冷静な知性発揮でも避けられない悲惨さであったのだろうか? 連日のようにニュース欄をにぎわす悲惨な犯罪は? そして政治であるが、いがみ合い、殺し合うイラクの情勢、国民の人権を守るという国のミニマムのこともできない拉致問題、深まる経済関係に水を差し、逆のことをやってはばからない日中外交……、とても知性的な振る舞いだとは思えないのである。知性に名を借りた屁理屈はいろいろと聞くわけだが、展開している事態の深刻化は、歴然とした知性の空洞化を物語っていると思われる。
 渡り鳥たちは、人為的に撹乱されたかもしれない気象状況の変化がのみ込めなかったがゆえに気の毒なことだったと思う。しかし、人間たちは、すべてとは言わずとも大方の事は知り得るにもかかわらず、事態を成り行き任せにしようとしているだけに、罪深いものがあろう。
 次第に募る思いというのは、時代や社会の状態悪化の最大の原因は、限られた数の悪党どもではなく、その画策に対して「加担してしまう」無数の人々なのではないか、という逆説なのである。そのことの原因を考察することはもちろん可能だと思う。とりわけ、マス・メディアの不甲斐なさには嫌悪感さえ覚える。
 しかし、個人主義の現代というからには、その個人が知性的な判断能力を追求してゆかない限り何も始まらないのだろう。にわとりが先か、卵が先かで言うならば、卵であり、各個人であり、知性でしかない! と今日は強調してみたい思いである…… (2005.05.29)


 梅雨到来の予告編のような雨降りの一日となった。
 たまたま今日は、客先に出向く用があった。しかも、その用件はやや深刻な折衝ということになりそうであったため、気分も文字通り、「傘マーク」以外ではなかった。
 しかし、こちらも誠意を尽くす姿勢を示し、先方も理解ある立場に立っていただくこととなり、先ず先ず双方にとってリーズナブルな選択肢に落ち着きそうである。
 昨日書いたことではないが、早速、問題を、合理的方策を模索しながら対処することになったのは、皮肉である。いや、昨日は、今日のこの件を十分に意識していたからだったのかもしれないが……。
 それにしても痛感することは、環境が厳しくなればなるほど、問題というものは発生し易くなり、ちょっとしたことが関係各サイドの利害関係に揺さぶりをかけることになり、その状態が放置されるとそれぞれの利害関係が一人歩きを始め、誰もが望まない方向を用意してしまいそうだ、という推移である。

 よく利害関係において言われることは、誰かが得をすれば誰かが損をするという「ゼロ・サム(zero-sum)」(合計すると差し引きゼロになること)原理であろう。社会全体の経済情勢が、右肩上がりで成長を続けている場合、つまり「パイ」が膨らんでいる場合には、損をする立場を極小化して問題を処理することが可能だったはずである。
 しかし、低成長、成長停止状態での問題解決においては、誰かが一方的に「得」をしようとすれば、誰かがその分「損」をしなければならないことになる。ただし、それは一時的、瞬間的な出来事であり、一方的な「得」をした者が永続的に「得」をし続けるかどうかははなはだあやしいことだと思われる。というのも、「得」をしようとする立場の者が、まったく他に依存することがないのならば別かもしれないが、多くの場合、実態においてはしっかりと他の立場の者に依存することによって「得」をしていることが多いからである。その依存する相手を「損」ばかりさせ続けるならば、おそらくは、基本的関係自体が成立不能となっていくに違いない。
 たとえば、ひところの「大手企業」と「下請け」との関係で、円高不況のしわ寄せなどをもっぱら「下請け」に引き受けさせ、単価の切り下げを一方的に押し付けていた「大手企業」は、結局のところ、「下請け」各社を疲弊させ、最悪は潰すという望まない結果を招いてしまったからである。
 したがって、「ゼロ・サム(zero-sum)」原理というのは、まさしく「諸刃の剣」の可能性が伴っているということなのだろうと考えられる。しかし、現在爆走し始めている「弱肉強食」の世相は、まさに「ゼロ・サム(zero-sum)」原理の強化だと見える。

 「情報(化)社会」というのは、「ゼロ・サム(zero-sum)」原理の時代ではなく、「Win & Win」つまり双方が「得」をすることができる環境なのだと言われて久しい。確かに、物質の世界では、誰かが食ってしまえば、誰かがひもじい思いをしなければならない掟がまかり通る世界である。それに対して、情報というものが比重を占める環境では、その使用において「消滅しない」情報という特性から、双方のみならず多数の者が情報から「得」をすることが可能性としてはあることになる。
 こうした点から、「情報(化)社会」は、「ゼロ・サム(zero-sum)」ではなく、「Win & Win」の時代だと言われるのであろう。
 ただ、これはあくまでも「原理的」可能性なのであり、現実にあっては、「Win & Win」の関係でやりましょう! というスローガン倒れになっていることがめずらしくはないようである。飽くなき利益追求、貪欲な「得」の独り占めの傾向がそう簡単に放棄されるはずはありようがない、と言うべきかもしれない。

 ただ、何をすればどうなるという冷静な知性的な発想に立つ者たちががんばり、増え始めるならば、「Win & Win」の原理が次第に濃厚となっていくのだろうと希望を持ちたいものである。そう、希望が大事なことなのであり、希望の無い者は目先の、瞬間的な「得」のみにしがみつくものであろうし、希望の姿勢が持てる者たちは、一歩先、二歩先、一段上、二段上の現実を描きながら、相手方との共通の目標を捉えることで瞬間における寛大な譲歩をすることができるのかもしれない。
 ビジネスのことを念頭に置いて書いてきたのだが、日中関係、日韓関係、そして唐突にも夫婦関係もまた、みな同じ事なのかもしれないと、雨音を聞きながらひとり頷いたりしている…… (2005.05.30)


 荒んだ世相にあっては、無邪気な動物たちの姿や表情が人々の心を癒すようだ。そして、何かにつけて賛成だ、反対だと割れるギクシャクした世評が丸くひとつにまとまるようでもある。
 東京湾や川に出没したあざらしもその例であったが、現時点では、「立ち上がった」市民たちではなく、「立ち上がった」レッサーパンダの「風太」のようである。それにしても、千葉の動物園の「風太」が着目されると、全国各地の動物園のレッサーパンダが一気に注目されているというのもまたおかしい。やはり、「みんなで渡れば……」民族なんだなあ、と感じることしきりである。

 そんなレッサーパンダ「ブーム」の中で、<レッサーパンダの「風太」、千葉市が商標登録へ>という新聞記事がおかしかった。

<立ち姿で脚光を浴びている千葉市動物公園のレッサーパンダ「風太」の名前と肖像について、同市は商標登録する方針を決めた。人気に付け込んだ商品の乱売を避けるのが狙いだ。
 風太には現在、コマーシャル出演や写真集、縫いぐるみの制作など数社からの打診があるという。風太を貸し出している静岡市立日本平動物園も同意した。
 登録が認められれば、千葉市が商品の製造、販売会社を選定。グッズ販売などの利益は両園で分配するほか、動物愛護団体などに寄付するという。
>(asahi.com 2005.05.31)

 「人気に付け込んだ商品」というのはどうかと思うが、これもまた「売らんかな」で焦る現在のビジネス界の風潮がよく現れている。
 しかし、急に着目されたかのようなレッサーパンダの立ち姿に、皆がドッと目を向けるという現象がおかしくてしょうがないわけだ。
 立ち姿といえば、今までにも、草原で敵の接近を手をかざして(?)見張る、あれは何という動物であったか忘れたが、あれも愛らしかったし、さらに前にはエリマキシカゲという奇妙な動物もいた。
 今回のレッサーパンダは、一体何が人々に好感を持たれたのであろうか。
 耳が大きく、猫のような顔つきをしていて、それで、立ち上がった姿というのが、所在無く立ちすくんでいる子どもの姿にも通じるところがあるからなのであろうか。呆然とといった感じがなきにしもあらずであり、ひょっとしたら、この「立ちすくむ」姿というのが、現代の、360度不安だらけの環境の真っ只中で立ちすくむわれわれ現代人に合い通じるところがあるからだと言ったら、ちょっと考え過ぎであろうか。

 上記のニュースのおかしさは、何の意図もない動物のレッサーパンダが、図らずも「金儲け」をすることになってしまったというおとぎ話的な点がひとつである。また、「非営利」団体たる千葉市が、「商標登録」に踏み込んだという点も、深いことを考えないならやはり笑ってしまう。その利益が、動物園の動物たちの待遇改善に繋がるのなら、まあいっか……、という笑いである。
 おとぎ話的に言うなら、「風太」は、動物園の他の動物たちの輝かしいヒーローということになり、それぞれの動物の子どもたちは、「ボクも立ち上がろーっと!」と目を輝かせ始めたのかもしれない。
 そう思うと、われわれは「風太」の愛らしい姿を楽しんでいるだけではなく、どん詰まりまで来てしまったこの世界の中で「立ちすくむ」ばかりではなく、世直しに向けて「立ち上がるのだ」ということを、ちぃーとは考えなくてはならないのかもしれない…… (2005.05.31)