久々の秋晴れはやはり気持ちがいい。ややひんやりとした空気と、明るい日差しに幾分長めの影は、いかにも秋の深まりを思わせる。
昼食時に表に出た際、秋ならではの光景が目に入った。通りの街路樹を剪定する作業である。市からの委託を受けた作業なのであろう。高所作業用のエレベーターが装備されたクルマを使用して、ポプラ並木の一本一本の枯葉を湛えた枝を切り落としていたのである。おそらく、ポプラや銀杏の枯葉は、質量的にも嵩み、放っておけば歩道や車道に積もるからなのであろう。そうした落ち葉の堆積が雨で濡れると、歩道を歩く人が滑ったり、またクルマがスリップしたりもしそうである。
そんなことからなのであろうか、枯葉が舞い降りる前に、小枝ごと剪定してしまって片付けてしまおうという対処のようである。その合理性には頷けるものもあるにはある。しかし、ポプラ並木が黄色一色に染まる前に、寒々しい真冬の樹の姿のごとく「散髪」してしまおうというのは、いかにも味気ない都会の仕業だとしか思えない。
こう書き始めると、またまた止め処なく世相批判、政治批判、そして文明批判へと流れ込みそうなのを自らが警戒している。結構、言いようのない虚しさに行き着いてしまうからである。とりわけ、現行の政治状況への批判に及ぶと、エンドレスになりかねないし、そうしたところで「ぬか釘」のような荒廃ぶりに気づくと、ただただ徒労感のみが残ってしまい、結局、勝手にするがいい、と思ってしまうのだ。昨日のフジ子女史の言葉である「この世界は自分のためにあるものではない」に寄せれば、「この国の政治は、国民のためにあるものではない」と断言できる。
しかし、この言葉もまた虚しく響くのは、こうした現実に対して激しい憤りをぶつける国民がまた少ないように見えるからなのかもしれない。
そして、その大きな原因のひとつとして、この情報化社会という「間接的情報」のみが飛び交う環境にあって、マス・メディアが本来果たすべき役割をかなぐり捨てて商業主義にうつつを抜かしていることがあるに違いないと感じている。
「一人勝ち」という言葉がある。ひょっとしたらこの言葉には、二重の含みがありそうだと思っている。「一人勝ち」なぞしたことがないから定かにはわからないが、ひとつはもちろん、羨望の眼差しを受けるような優越であろう。太宰治に引きつけて「恍惚」と言ってもいいのかもしれない。
知られているように、太宰治はヴェルレーヌの詩にある「選ばれてあることの恍惚と不安と、二つ我にあり」という言葉を好んでいた。下世話な言い方をするならば、「選ばれてあること」(エリート?)の分かりやすい現代的意味合いは、「一人勝ち」ということになるのかもしれない。
とすれば、「一人勝ち」のもうひとつの含みとは、「不安」でなければならない。妬みによって襲われるかもしれないという物騒な予感もこの際含んでいいだろう。要するに、多くの他者を敗者に追い込んで「一人勝ち」した者や、多くの名もなき人々の間から「選ばれてあること」を得た者は、その「対他的」事実に何らかのかたちで報いなければならないと感じるのが、通常の人間心理だと思う。
もっと、骨のある表現をするならば、「ノーブレスオブリージュ [(仏) noblesse oblige]」( 高い地位や身分に伴う義務。ヨーロッパ社会で、貴族など高い身分の者にはそれに相応した重い責任・義務があるとする考え方。)だと言うこともできる。
わたしは、現代の「政治屋」さんに、こんな高度なことを要求するつもりはない。そうではなくて、「一人勝ち」の様相を呈する現代のマス・メディアにこそ、「選ばれてあることの恍惚と不安と、二つ我にあり」を思い知ってもらいたいのである。
放送局が「一人勝ち」の様相であることは、政府認可を得ている排他的立場があることや、またM&Aの好材料として放送局が相次いで狙われていることを考えるだけで了解されるはずだろう。
しかも、もっとシビァな現実を言うならば、現代の情報化時代にあって、孤立した現代人たちは、<無いに等しい批判力>という「丸腰」で、TVなどからの影響をもろに被ってしまっているからでもある。商業的にも、政治的にも、今やTVの影響力は「一人勝ち」と表現して余りある専横ぶりを発揮しているはずではなかろうか。
だからこそ、「恍惚」だけではなく、「不安」や「ノーブレスオブリージュ」をしっかりと自覚すべきだと考えるわけだ。自身の影響力によって、時代の方向を歪める可能性が十分にあることを真摯に認識しなければならないわけだ。
邪魔なポプラや銀杏の「枯葉」が災いしないために、事もなげに小枝ごと排除してしまうようなアクションが、「言の葉=言葉」の世界を操る放送メディアによっても行われるようにもなれば、味気ないどころの騒ぎではなくなるはずだろう。
「言の葉=言葉」の目立った排除はしないまでも、目立たなければならない「言の葉=言葉」を喧騒の中に隠すような手法もまた、いかがなものかと案じている…… (2005.11.01)