情報や経済の「グローバル化」に伴い、各国「固有の」文化、「多様な」文化がいろいろな意味で危機に瀕することが当然予想される。いや、予想しなければいけない。
「グローバル化」=「標準化」(?)は結構なことじゃないの、と呑気なことを言う人は、ひょっとしたら、世界の動植物の「絶滅種」についての深刻な話題を耳にしても、「環境に合わないのだから、しょうがないんじゃないの」と言う人かもしれない。自分自身が、「絶滅種」側に追い込まれた際にも、同様に「しょうがないんじゃないの」と言ってあきらめられるのであれば、あるいはそうした覚悟までできているのであれば、それこそそれはそれでしょうがないのかもしれない。
ただ、それでもなお、わたしなら、次のように考える。「固有」で「多様」な存在が、永い歴史から言えば偶発的としか言いようがない一時代の勢力によって、「なぎ倒され」「均一化」させられていくことは、世界の将来の豊富な可能性が「なぎ倒され」、開かれた豊饒への可能性が「閉ざされて」しまうがゆえに、勝手なことをすべきではない、と。
ところで、わたしは、昭和三十年代に対してそこはかとない郷愁を捨て切れない人間である。確かに、当時の社会は貧しく、汚く、まどろっこしく、そして何よりも生活の不便さが当たり前の状況であった。今、それが再現されたとしたら、正直言って果たして自分には耐えられるかどうか疑問である。
しかし、それでもなお、心躍らされるものを確実に味わえるのではないかと思う。それは、全国各地に、固有の伝統と文化が息づいており、日本の文化の多彩さを享受できるということである。少なくとも、今のように、国内旅行をする際に感じる、ああ、どこへ行っても大差がなくて味気ない……、という落胆はしないで済むはずではないかと思う。
昭和三十年代を過ぎて、この国は国内各地の差異が、文化の中央集権的構造強化の過程で、いわば「JIS規格」ふうに単一色で塗りつぶされてしまったと言えるような気がする。ラジオ、TVの全国放送の浸透と徹底、経済の発展にともなう再開発とその際の画一的な土木・建築技術の適用など、あれよあれよという間に、全国各地の文化がのっぺりとしたものへと誘われてしまった観が否めない。その背景には、地方を中央に従属させて当然とする「粗野でまぬけ」な発想がまかり通っていたことがあろうかと思う。
「多様な文化」について考える時に、わたしが先ず思い起こすのは、この国は平然と文化の「多様さ」というものを踏み躙る傾向があるのではないかという感触なのである。
さて、昨日触れた「文化多様性条約」についてである。
これについては、10月17日にラジオのNHKのニュースで小耳に挟んだのである。そして、いずれ後で新聞記事で確認すればいいと思いきや、何と、その日及びその後の新聞記事では扱われなかったのだ。いや、小さな記事でしかなかったために見逃したのかもしれない。
それにしても、わたしは、このテーマ、要するに「グローバリゼーションと文化多様性」ということになるが、現在の国際情勢にとって決してどうでもいい話題だとは思わない。民族、宗教の問題が、紛争の大きな原因とされている現状にあって、さらには、人類の文化の将来にとってかなり重要な、いわばベーシックな課題だと思っている。
この内容を、ちょっと調べてみると、次のようになる。
<情報や経済のグローバル化に伴い,民族的,宗教的な対立が激化する一方,従来の国民国家の枠組みにとらわれない,地域的,文化的な運動が世界各地で広がっている。 ユネスコでは,異なる文化間の相互理解を深め,寛容,対話,協力を重んじる異文化間交流を発展させ,世界の平和と安全に結びつけるため,平成13年に「文化多様性に関する世界宣言」が採択された。さらに,平成15年10月の第32回ユネスコ総会では,平成17年秋の次回ユネスコ総会に向けて,文化多様性に関する国際規範の策定作業を開始することが決議され,具体的な検討作業が開始されている。>(政府・文化庁作業部会報告書より)
つまり、わたしがラジオニュースで小耳に挟んだのは、「ユネスコ(United Nations Educational,Scientific and Cultural Organization、国際連合教育科学文化機関)」の「平成17年秋の総会」において策定された「国際規範」のことであったわけだ。そして、ユネスコ加盟国のうち、「米国とイスラエル」だけが反対して可決されたということらしい。
両国ともにに、異文化の衝突が原因とも見える紛争の当事国であり、また、米国は自国文化の「布教」を主旨とする「グローバリゼーション」戦略を展開しているのだから、同条約に反対する意図はわからないではない。
しかし、それにしても、米国政府は、地球の将来に関して何と冷淡なのであろうか。地球温暖化現象への国際的対応としての「京都議定書」にも反対していたのが米国であった。とても、明日を生きるお子様たちにお薦めしたい国ではなさそうだ。
「文化多様性」というのは、さまざまなレベルに波及する、いわば人間生活における普遍的なテーマであろうと思う。もちろん、「人権」にもかかわるわけだし、「創造性」の問題にも直結する。「創造性」とは、「多様性」を基盤とする「組み合せ」の問題の一種であるからである。
日本は、ユネスコの条約には賛同したらしいが、今、国内で展開していることは、どうも「文化多様性」に逆行するような気配である。多くを付言するつもりはないが、首相による「靖国参拝」とて、多様な宗教の自由を保障した憲法に反することはもちろんのこと、要するに、思い上がったコイズミ氏が、自身の文化を国民に強制しているということにはならないのだろうか。このアクションは、当然、永い歴史によって「誤字脱字」として修正されるはずのゴミでしかないとは思われるが…… (2005.10.19)