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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2005年09月の日誌 ‥‥‥‥

2005/09/01/ (木)  ハリケーンの猛威と、人智の集約たる政治のあり方……
2005/09/02/ (金)  「構造改革」=「アメリカ国民の1%がアメリカの富の90%を握っている」!
2005/09/03/ (土)  他国の被災状況でありながら、思うことしきり……
2005/09/04/ (日)  真の「構造改革」とは、「だましと詐欺の構造」の粉砕なんじゃないですか!
2005/09/05/ (月)  「ハイパーリンク(hyperlink)」の発想が照らす人間の脳活動や現代社会!
2005/09/06/ (火)  「五感」(=センス)やその記憶を大事にするということ
2005/09/07/ (水)  この際、「ご投票は、計画的に!」と言うのがピッタリか?
2005/09/08/ (木)  ハリケーンや台風の被災者が貧困層や高齢者であったのは偶然か?
2005/09/09/ (金)  「誘導尋問」的(!)選挙にやすやすと引っかかっちゃあ、おしまいよ!
2005/09/10/ (土)  「勝ち組」「クレバー( clever )」がいいのか? これが選挙の争点!
2005/09/11/ (日)  「現物」なしの「空手形」を使っての必勝法!?
2005/09/12/ (月)  タレント集団「コイズミ新喜劇」ではなく、鉄面皮の官僚機構こそが……
2005/09/13/ (火)  現代環境での教育の難しさを「本質的」(?)に考える……
2005/09/14/ (水)  「楽しく考える」という方法論をもっと真面目に追及!
2005/09/15/ (木)  「誤解」が渦巻き、それで商売をしたり、政権をとったり……
2005/09/16/ (金)  自身の頭でとことん考え抜くことが、全ての基本!
2005/09/17/ (土)  自分たちよりもひ弱で、不運なものたちには寛容であって当然でしょ!
2005/09/18/ (日)  「壊さない」という「臆病さ」もあっていいように思う……
2005/09/19/ (月)  久々に気分の悪さに襲われてしまった……
2005/09/20/ (火)  こんなアンバランスな時代なのだから「自律神経」には留意すべきか……
2005/09/21/ (水)  マス・メディアから距離を置いて現状認識に努めるべきかも?
2005/09/22/ (木)  「 MP3 」、「 iPod 」、「オーディオ・ブック」的世界……
2005/09/23/ (金)  トンボ浮かぶ秋の日の墓参あれこれ……
2005/09/24/ (土)  台風、ハリケーンを悪者にしたって始まらない……
2005/09/25/ (日)  「強い存在」に対して遇するにはそれに負けない集中力が必要?!
2005/09/26/ (月)  最近、気になる問題のひとつ ―― 現代人の「欲望」の行方
2005/09/27/ (火)  ジワジワと広がる「一億総『投資家』」化とも言うべき風潮?!
2005/09/28/ (水)  固定観念にとらわれない、モノの「分類」枠について考える……
2005/09/29/ (木)  「小泉チルドレン」よりも「戦後平和チルドレン」が気になる……
2005/09/30/ (金)  マス・メディア横行時代には「潜在意識(サブリミナル)」に再度注目すべきか!?






 今日は「防災の日」(1923年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災を忘れることなく災害に備えようと、1960年に制定)ということだ。
 ちなみに、最近の調査で「関東大震災」の被害状況が再把握されたようだ。
 死者・行方不明者は「10万5千余」、「住家全潰10万9千余、半潰10万2千余」、「焼失21万2千余(全半潰後の焼失を含む)」だということで、当初に公表されていた数字よりはやや小さくなったらしい。が、それにしても膨大な被害であり、なおかつ、この災害が再来する可能性が高いということになれば、やはり暗澹たる思いとさせられる。テロも恐いが、自然災害はさらに恐い。

 それにしても、つい先頃の米国ルイジアナ州のハリケーン(台風と同じで、発生地がことなるだけらしい)「カトリーナ」の猛威には驚かされた。
 報道によれば、
<大統領は会議後、「米国史上最悪の天災の一つ」と記者団に語り、「復旧には数年かかる」との見通しを示した。死者数は「数千人に上る」(ニューオーリンズ市長)との見方も出ており、01年9月の同時多発テロ以来の被害規模になりそうだ。>
<被害総額は …… 数兆円規模という見方も出ている。>
<ハリケーン被災地で略奪・撃ち合い 住民避難で治安悪化>
などという悲惨な状況が伝えられている。( asahi.com 2005.09.01 )

 自然災害であることは間違いないわけだが、それだけで済ますにはちょっと釈然としない気持ちも残る。二つの点で引っかかるのだ。
 ひとつは、<カトリーナは過去最大級の強さに発達し、大きな被害が予想されたにもかかわらず、大統領の対応が鈍かったという批判が広がっており、政権の危機管理能力が問われていた。>(同上)という点に関係している。
 ハリケーン自体の猛威を制圧することなどできるわけがないとしても、地震災害に較べると多少の「時間」的余裕というものはあったはずではないかと考える。つまり、地域住民たちの「避難」であり、そのための「誘導」という点である。
 現在では、発達中のハリケーンや台風の実態はかなり性格に把握する科学技術が進んでおり、これだけの猛威を振るう規模が予想されたなら、事後対策以前に、事前対策こそが打ち出されて然るべきなのではないかと……。こんな場合にこそ、米軍が危機に曝された住民たちを可能な限り救出すべきではなかったのか……。

 もう一点は、ややロングレンジの話である。
 このところ、日本でも台風に対する警戒度はにわかに高まってきたようだ。これは、気温上昇やその他の異常気象とあわせて、地球温暖化傾向に伴うものではないかとささやかれていることと無縁ではないと思う。
 ちょうどそんな折り、以下のような報道記事が目についた。
<温暖化進むと…日本は集中豪雨、中国・米国は渇水も
 地球温暖化が進むと、豪雨は全体的に激しくなる一方、年間降水量の変化は地域差があり、北米や中国などで渇水と水害の危険性が同時に高まる地域もあることが29日、国立環境研究所の江守正多室長の研究で分かった。
 日本は年間降水量が10%、豪雨の強度は20%も増加すると予測され、集中豪雨による水害の危険性が高まる。……
 降水量は日本を含む中・高緯度地域と熱帯の一部で増え、亜熱帯で減る一方、大気中の水蒸気が増えることで豪雨は広い地域で激しさを増すことが分かった。降水量に比べて豪雨強度の変化が特に大きい北米の中、南部や中国南部、地中海周辺などは、一時期に雨が集中するため、水害とともに渇水の危険も高まる。>( 読売新聞 2005年8月30日4時12分 )
というものである。

 今回のハリケーンが、地球温暖化現象とどの程度深い関係を持ったものだったのか、そうではなかったのかは定かではないが、多くの科学者が、決め手を欠いた歯がゆさを抱きながらも、異常気象現象と地球温暖化現象との因果関係を睨んでいるのは常識化しつつあるのではなかろうか。
 地球温暖化現象に対する国際的対応としては、CO2 の排出規制を定めようとした「京都議定書」の動きがあった。温室効果ガスの排出量を先進国全体で2008年から2012年までに5.2%削減することが約束された、という。
 ただ、この動きに対して、米国のブッシュ政権が反対を表明し続けた事実は、世界中の多くの人々の理解を苦しめたはずではなかったか…… (2005.09.01)


 今朝の朝刊で目に飛び込んだ言葉は、「貧困層直撃」というものだ。

<ハリケーン、100万人が避難生活 貧困層直撃
 ……約100万人が避難生活を強いられている。
 米テレビが現場を延々伝えた31日、水没した建物の屋根で手を振って助けを求める姿は、アフリカ系の人々が目立った。
 「避難しろと言われても、できなかった」とミシシッピ州のバス運転手は語った。避難命令後、車も現金もない貧困層では、自宅にとどまった人が多かった。市外に泊まる場所がない人も多く、そうした人々の多くは濁流にのまれたようだ。 ……
●滞った治水対策
 市当局が最も心配していたのは雨だった。同市の堤防と運河を組み合わせた治水システムは、水位が7メートル上がれば破綻(はたん)することが分かっていたからだ。
 ニューヨーク・タイムズ紙によると、もろい治水構造を改善すべきだとの議論が長年あった。今年はハリケーンが多くなることも予測されていたが、治水関連予算は逆に減らされていたという。>

 このように、自然災害でも、真っ先に「貧困層」が多大なダメージを受けるというのが現代の社会、いや米国社会の現実なのであろう。多分、大義のない悲惨な戦争に駆り出される兵士たちについても、同じ事情があるものと思われる。とかく「貧困層」が割りを食い、最低限の「公平」をも踏み躙るかたちでの傲慢な「自由」、空疎な「自由」という言葉が闊歩しているのが、この社会であることが思い知らされる。
 米国には特殊な歴史的背景(新天地での開拓から始まった歴史)があるため、一概に評価し切れない側面もあるかもしれない。
 だが、今、日本という国にビルトインされようとしている「構造改革」路線とは、この米国風世界観・価値観を荒っぽく採用するということなのであろう。言われてきたように、当然、経済状況をはじめとするあらゆる視点での「二極分化」が驀進することになる。大きな比重の「貧困層」と、少数の「富裕層」という構図である。
 「弱肉強食」の原理をシャープに遂行するグローバリズム経済=「構造改革」路線が、少数の「富裕層」の「ために!」準備されていることを、われわれこの国の庶民はもっと頭を働かせて見抜かなければならないはずだろう。
 米国のリアルな現実、「アメリカ国民の1%がアメリカの富の90%を握っている」(5年前の米大統領選挙でブッシュ現米大統領と争ったゴア民主党大統領候補による指摘)こと、そして、「米国では富裕層と貧困層の住むところもはっきりと区分されていて、富裕層は貧困層の地域に近づかない」(http://www.janjan.jp/)ということだ。だから、今回のハリケーンでの「貧困層直撃」は、自然現象としては偶然性が左右したわけだが、人間社会の悲劇としては、きわめて必然性の高い事実であったことを了解すべきだと思われる。
 今ひとつ、次のような最新報道もある。
<米国勢調査局が30日発表した04年の米所得調査によると、貧困層は前年比110万人増の3700万人に達し、4年連続で増加した。総人口に占める割合も0.2ポイント上昇して12.7%になった。米国の景気は堅調に拡大し続けている一方で貧富の格差が拡大している実態が浮き彫りになった。 ……
 同局による貧困層の定義は、4人家族で世帯年収1万9307ドル(約214万円)以下。……>(毎日新聞 2005.08.31)
 「約214万円以下」で、4人家族が暮らしてゆく現実が、猛威を振るう自然災害に大して無防備な地域に住まざるを得なくさせているのであろう。
 こうした「貧困層」を放置している「構造」を一体誰が称賛できるというのであろうか。今、日本で、安易に「何かいいものらしい」と勘違いされている「構造改革」という言葉の真意は、実のところ米国社会の「二極『構造』」の「構造」だと言っても間違いではないわけだ。

 現在、選挙運動の中で、虚しいというよりも「だまし」そのものとしか受け取れない言葉が乱舞している。つまり、「構造改革」や「改革」という言葉である。まともに、頭が働く人であれば、何百回、何千回と叫ぶ言葉であればその言葉の吟味を精一杯するものだろうが、かの人の場合には無頓着である。いや、吟味した上で、お年寄や女性、子どもから人気を得るごとく吹聴していたとするならば、とんでもない「だまし」以外ではないだろう。
 その点も見過ごせないのではあるが、今、大いに気になることは、情報化時代とは言われながらも、言葉という最も重要な情報が、想像を絶する無責任さで利用されている現実なのである。「改革」という言葉が大流行であるが、この言葉のもとに、人々が苦しさと切なさを増している現実は、言葉に依拠する人間自体を取り返しようがなく破壊することだと思えてならない。言葉を尊重しない政治家、言葉を手玉に取って弄ぶ政治家は、庶民、国民によって拒絶されるべきではなかろうか…… (2005.09.02)


 行きそびれていた理髪店にようやく出向いた。
「この暑いのに、随分と伸ばしましたね」
と、オヤジは皮肉めいたことを言っていた。忙しいもんでね、と言い訳をすると、いつもどおり、同じことを口にしていた。
「こんな時期に、忙しいのは羨ましいですよ」
と。
 忙しくたって、儲かってないんじゃ情けないよね、と言うと、
「いやー、最近はそう言う方が増えてますよ。利益が薄くなったってことでしょうかね……」
 昔から床屋というのは、情報交差点だと言われてきたが、なるほど現在でもエッセンシャルな情報はしっかりと引っ掛かっているようだ。川の杭に引っ掛かるゴミのように。
 また、いつものごとく、ウトウトとしてしまい、
「お客さん、冷たいものでもどうぞ!」
という声で目覚めた。氷がたっぷり入った、ストローつきのアイスコーヒーが、チェアーの脇の移動式テーブルの上に置かれてあった。
 いつもながら、いつの間にか寝入ってしまった後の、コーヒーは美味くないわけがなかった。こうして、いつもどおりの作業の流れが、つつがなく終わる。
 支払を済ませて表の道路に駐車させたクルマへと戻った。夏の日も夕暮れとなっていた。まだ蒸し暑さは残っていたものの、何となく秋が遠くない感触を覚えた。
 そんな時、ふと、この何でもないいつもどおりの時間の流れが、貴重でありがたいことのように感じられたのだった。散髪を済ませて、ほのかに化粧水の匂いを漂わせながら、暢気な気分で床屋のドアから出る自分が、とにかく幸せな人間なんだろうな、と唐突に思えたのだった。

 今日は、何度も、米国、ニューオーリンズのハリケーン被害のことを思い起こしていた。まだ何万人もの被災者たちが、被災地で取り残されているということや、海抜マイナス7メートルの地域が、水没してしまっている惨憺たる状況が気になってしかたがなかった。ウォーキングの際にも、鉄塔を見ては、7メートルの深さというとあの辺までが水に浸かってしまうということだろうかとか、その、ほとんど湖になってしまったような水没はどのように復旧させるのだろうか……。そして、何よりも、きっと暑さもあるに違いない被災地で、何万人もの被災者たちが、まともな暮しどころか、食べ物や飲み水さえ無く、おまけにレイプや暴力騒ぎという地獄絵図のような事態のただ中に置かれているということ……。
 事態を報道で知った直後は、反射的に、現代という時代にそんなにも酷い状況をもたらしたのは「人災」に違いないというような批判的な思いが強かったが、時が経つうちに、もし自分たちがあの被災者の群集の中に置かれたとしたならば……、というような実感的レベルでの想像が刺激されてきたのである。しかも、家族や親しい知人が命を落としたり、行方不明というようなことになっていて、いや、勝手なことを言っているがひょっとしたら自分自身が運悪く帰らぬ人、ホリエモンならぬドザエモンになっていたりするのかもしれないが、とにかく、最悪の肉体的状況と過酷な精神的状況とが重なってしまっているとしたならば、それはどんなに地獄的であろうか、と沈痛な思いで想像したのだった。

 それにくらべて、いつものようにいつもの状態で週末をのんびりと過ごせる自分が、幸せの部類に属するという心境が働いたのであろうか。床屋からの帰路、いつも立ち寄るホームセンターに寄ったが、子ども連れの家族たちでごった返していたものだ。
 それぞれ、内心ではいろいろな不幸感を醸成しているのかもしれないけれども、少なくともあのハリケーンでの被災者たちよりかは、はるかに幸せなんだよ、と言ってみたくなった。表の通路につながれたペットの子犬にも、そんなこと位でキャンキャン騒いでどうするの、ニューオーリンズだったらお前なんか……、と諭したい気さえした。
 ちなみに、店内では、防災関連グッズに少なくない人影が見受けられた。この地震国日本の現在も、決して他国の被災地を他人事とできる立場にはないはずだなあ、と再認識させられる思いがしたものだった…… (2005.09.03)


 町田街道が笛や太鼓の音で賑わっていた。
 選挙運動関連なのだろうと思い、それでも出向いてみた。道すがら、Tシャツの胸に「この改革を止めるな!」というあほらしい文字をプリントしたものを着込んだいかにもモノを考えないような顔をした男とすれ違ったりした。「この改革」って何のことだ? 君は、「この」というからには「改革」とやらにお目にかかったようだが、どのことを指すのかしっかりと説明してはくれないか、とでも言ってやりたい思いであった。
 こういう連中の馬鹿騒ぎかと、不愉快な気分で歩を進めるたが、どうもそうではなく、町田市が主催する恒例のパレードなのだった。良くはわからないが、地域に根ざす組織・団体が年に一度町田街道をパレードするものらしい。

 ちょうど、目の前を「町田流」とか称した琉球衣装で身をかため、太鼓と踊りの列が行過ぎるところだった。
 まず、その太鼓の音(ね)が、なにがしかの感動をさえ呼ぶように鳴り響いている。
 わたしはどういうものか、太鼓の音に弱い。すぐ感動してしまうのだ。原始的な血が流れているのかもしれない。正月の川崎大師参詣の際にも、坊さんの説教はともかく、本堂で鳴り響く大太鼓の音で「ハハァー」という気分にさせられてしまうのである。
 その感動的な太鼓を打ち鳴らす列が行過ぎると、これまた目を見張るような鮮やかな列が続いていた。高校生くらいの若い女性たちが、真っ赤な絣の着物を着て琉球の踊りを披露しつつ行進しているのであった。わたしは、感極まり、思わず拍手をしてしまった。誰もそんなことはしていなかったが、ただ、歩道から、まるで「交通事故」を覗き見るかのように第三者的に眺めるのはどうかと思えたのだった。
 すると、その中の女の子が、踊りながらこちらを見て微笑んでくれた。これもまたうれしかった。彼女たちは、これも衣装のひとつであるのかもしれないが、真っ黒なおかっぱ風の髪型で揃えており、それが赤い着物と実にマッチしていた。そして夏の陽射しで照らされた燃えるような笑顔は、わたしをして、たとえ一人でも拍手を続けたくなる心境にさせていたのである。

 この琉球風の行列の前後にも、いろいろな団体の行列が続いてはいた。だが、わたしはこの琉球の太鼓の音プラス赤い絣の踊り姿の行列がとにかく気に入ったものだった。
 どうして太鼓の音というものは、人を、いやわたしを感動させたり、情感をみなぎらせたりさせるものなのであろうか。ひょっとしたら自分の前世は、何か太鼓の音に縁のある素性であったのかもしれないと、冗談に思うくらいだ。
 おそらく、太鼓あるいは大太鼓の音というものは、豊饒な空気振動が、耳で聞く単なる音以上の作用を聞くものに与えるために、共鳴的なインパクトを及ぼすのではないかと想像する。
 とかく、個人空間での生活が一般的な、現代のわれわれにとって、周辺の者たちと一緒に空気振動をともなう大音量を共有するということは、ベーシックな感情を呼び覚まさずにはおかないものなのかもしれない。いわゆる「祭り」と呼ばれるものには、こうしたロジックが潜んでいるはずである。

 ただ、冒頭の「この改革を止めるな!」という政治スローガンのことで言えば、小泉ポリティックスは、人々の理性を眠らせ、荒っぽい感情の力を借りるという点で、異様な感じがしてならない。政治は「まつりごと」と言われ、どこかに「祭り」と似た危ない部分がつきものではある。けれども、過去の歴史において、何度もこの手が使われて残酷なことが行われてきたことを思い起こせば、十分過ぎるくらいに警戒してちょうどいいと考える。
 たぶん、小泉氏自身に加えて、小泉支持の立場をとる人々の頭の中にあるものは、彼が振り撒いた荒っぽい図式、短絡的な知識もどきしかないのではなかろうか。
 なぜ、まるで「レッドパージ」のように、「赤いポスト」を悪者に仕立てあげなくてはならないのか。つい先頃、ふと昔の戯言を思い起こしたりしたものだった。確か、昔、こんなセリフが流行ったかに覚えている。
「どうせわたしが悪いのよ。電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも……」というものである。この開き直った物言いといい、赤い郵便ポストが引き合いに出されることという、なぜだか連想的に思い出したのである。

 小泉氏の選挙演説は、まるでこのレベルの低次元ではないかと思うのだ。
 現在の政治状況には、複雑多岐にわたる難問がある。それらの関係は、複数の原因があり、解決方法の入口も出口も、決して単純ではないと言うべきだ。
 にもかかわらず、「郵政問題」をすべての問題の「本丸」だと馬鹿げたことを言い放ち、この問題の決着が、唯一の入口、出口なのだと妄想めいたことを主張しているのが小泉氏ではないだろうか。まるで「唯物史観」ならぬ「唯郵政史観」とでも言うべきか。
 世の中には、こうした物事の独り善がりの単純化によって、人の良い人々を欺く輩がいるものである。いつぞやも、新興宗教の教祖で、腐敗し続ける死者を、死んだのではないと言い張って世間を驚かせた事件があった。歯に衣を着せずに言えば、小泉氏は、ほとんどこの種の妄想を「政治的信念」と称して振り撒いているに過ぎないかに見える。

 ただ、小泉氏をそこまで単純化して「妄想の人」と考えてはならないかもしれない。そうした面のあることは事実としても、計算ずくでこの手法を利用している面こそが、ペテンであり、ほとんど詐欺に近いと思われてならないのだ。
 つまり、自身を「善玉政治菌」と印象づけるために、何としても「悪玉政治菌」を必要としたのであり、それが「抵抗勢力」の場合もあったし、「郵政反対派」でもあったし、そして権力と財力にあぐらをかくからつぶさなければならないとされた「郵政公社」だと誇張するに至ったのであろう。そして、いつの間にか、<小泉=「改革」推進者>と、<「非」小泉=「改革」を止める者>という幼稚園児のような言い回しにまで這い登っているわけだ。
 だが、いつもわたしの結論はここに至るのだが、詐欺師はどこにでもいるし、いつの時代にも現れる。それは、詐欺にかかる、ある意味では「考えることに怠惰な」者たちが絶えないからだと思える。それを一錠服用すればダイエットできるようなものがないと同様に、自分たちが考えることをせずに頼ればそれで事足りるような政治家や、政治集団なぞあるわけがないのである。だから、すべて任せなさいと迫ってくる連中ほど厚かましく、怪しいわけであるが、それを見抜けるのは自身が「考える人」であったればこそのことであろう。
 小泉本舗は、厚顔にも「郵政民営化」剤の一服で万病が治る、と詐欺めいた商法を展開し、自分の身体のことを自身でまともに「考えない」イージーな消費者は、「それじゃ試してみるか」と乗ろうとする。国民を見くびる小泉氏もどうかと思うが、見くびられたとおりに反応する国民もどうかしているわけだ。
 真の「構造改革」があるとすれば、こうした「だましと詐欺の構造」をこそ粉砕することを言うのではないかと思ったりする…… (2005.09.04)


 「ハイパーリンク(hyperlink)」(注1.) の発想と手法は、ある意味では脳活動の「ニューラルネット」(注2.) と非常に親和性を持つものであろう。つまり、人間がものを考えていくプロセスとなじみやすいということである。

―― (注1.) ネットワークである箇所から他の参照箇所へと即座に移動できるようにすること。テキストファイルや画像データ、音声データ同士を分掌中で結び付けること。これを利用して作られた文書をハイパーテキストと呼ぶ。インターネットの Web ページはこの代表的なものである。

―― (注2.)人間は脳の神経回路網(ニューラルネットワーク)を使って、非常に優れた情報処理を行っている。人間や動物の脳には、非常にたくさんのニューロンがあり、それらは非常に複雑に絡み合って情報をやり取りしている。そうした複雑な神経回路網の上でのニューロン間の情報のやり取りによって、優れた情報処理が実現されているわけだ。

 だから、「ハイパーテキスト」の手法を上手に駆使するならば、理解しにくい事柄に関しても、わかりやすく説明することが可能であろう。そんな点から、わたしは、こうした「ハイパーリンク」や「ハイパーテキスト」に少なからぬ好感を抱いている。
 ホームページだけでなく、手製の教材に、「ブラウザ」方式を採用しているのは、そんなところに理由がある。
 ものを学ぶ学習教育のジャンルや、あるいはモノやサービスのプレゼンテーションでも、もっともっと「ハイパーテキスト」の良さというものが工夫され、追求されていいと思っている。
 ただ単に、便利だからということだけではないし、印象的だからという点を加えても、まだあまりあるような気がしている。

 こうして考えながら文章作成をしている場合でも、思考というものは、複雑な観念の動き、スピーディなイメージの動きによって構成されているのではないかと推定できる。そうした状況をうまく操作できれば、モヤモヤとした頭の中は整理される。
 だが、自分の頭であっても、そうそう思うようにはならない。考えたり感じたりしていることが、納得のゆくかたちで交通整理できないことが多い。そんな場合に感じることのひとつとして、脳内での、イメージや観念のネットワーキングは、「淡い姿でかつ猛スピードで展開している」ようなのだが、そのスピードに表現が追いつかないために捉えそこなってしまうというエラーが少なくなさそうだという点なのである。
 つまり、「淡い姿でかつ猛スピードで展開している」というのは、直観といったものを思い浮かべればわかりやすいが、直観を直観のままにしておいたのでは考えるということにはならない。それを、第三者にもわかるように再構成できてこそ、考えたということになり、仮にも価値あるものが生み出されたということになるはずである。
 この「第三者にもわかるように再構成」するというのは、「対象化」するということであるわけで、それは「文章化」という方法によって定着することになる。

 だが、「文章化」というのは、実にやっかいな作業だと常々感じるものである。それは、美文をしたためようとか、貧困でしかないボキャブラリーを豊かに見せようとするところから来るものなんかではなく、別なところに原因があると感じている。
 とにかく、文章が書き上げられればいいというのであれば、それほど簡単なことはないはずである。そこそこの常識的な内容を含み、文法的にもまずまず問題がない文章などというものならば、文章を書くことを誰もが何も恐がる必要はないだろう。
 問題は、文章を書くことの「原材料」が十分に活かされたのかどうかという点なのだと思っている。「原材料」というのは、妙な表現であるが、その当事者の頭、脳の中で展開した観念とイメージの目まぐるしいネットワーキングのプロセスのことを言っているつもりだ。そのネットワーキングというものは、前述したように、希薄な度合いで、瞬間と言っていいほどの猛スピードで展開し、あっという間に他の様相に転じてしまうようなものなのかもしれない。
 これを、適時、額面を損なわずに掬い上げ、定着させるのが文章化表現だと言っていいのかもしれない。だから、本来、文章化作業というものは、まるで「速記」のような俊敏さが要求されているものなのかもしれないのである。
 「文章化原論」のような小難しいことを書いてしまったが、こんなこととて、文章にすれば何行にもなってしまったわけだが、考えたのは一瞬のことなのである。

 わたしが思うに、冒頭の「ハイパーリンク」手法に行き当たった人というのは、やはり「思索者、考える人」であったのだろうと想像する。考え、表現し、他者に伝えることの尋常ではない難しさというものに腐心した人であったに違いないと思うのである。
 ところで、文章を書いていても常々感じるのだが、文章表現というのは、クルマも通れば、人も往来し、自転車も走れば、犬も散歩させられているそんな交差点の「交通整理」だと思えてならないのだ。ひとつのことにこだわり続けていれば、まあ、つまり、ひとつの言葉やイメージのざらつきに拘泥していると、全体の流れをストップさせてしまうものである。どうしても、各部分の不十分さ、あるいは発展的な可能性をペンディングにしたまま先へ進まざるを得ないのが、「時系列」形態である文章の宿命なのであろう。
 しかし、各言葉や部分が秘めた流れに収まり切れない可能性を無視することは忍びないわけで、それはどこかに「リンク」することで発展可能性をキープしてやりたい。また、そうすることが、当面の流れ自体も充実することになるに違いない。これが、「ハイパーリンク」手法のひとつの動機ではなかったかと、勝手に想像するわけなのである。

 今日、唐突に、こうした「ハイパーリンク」手法について書いた動機はふたつあった。 ひとつは、不勉強であったが、必要に迫られて、「 MicroSoft Word 」の中に組み込まれた「ハイパーリンク」ツールを使ってみたことである。「 Acrobat Reader 」でのそれは以前から活用していたが、「 Word 」でも単一文書内での「ハイパーリンク」が使えるのは、今さらながらにも有難いと思えたのである。
 もうひとつは、昨今の不愉快な「小泉ポリティックス」のことである。なぜ、国民が持つ、当然の感情、思考であるさまざまな政治的不安の関心を、小さな政治的問題でしかない「郵政問題」に閉じ込めてしまうのか。政権への権謀術策であることはわかるのだが、さまざまな問題が互いにリンクし合っており、人間のまともな思考にとっては、リンクし合う総合的な(政策)情報が必須だということではないだろうか。とてつもなくも非寛容で狭隘な発想を、現代情報化社会のただ中の国民に押しつけているわけだ。
 「構造改革」路線を推奨して、グローバルなレベルでの国民の活躍を奨励すべきはずの者が、想像を絶するほどに了見が狭すぎると見えてならないわけだ…… (2005.09.05)


 子ども時代の思い出というものは、何にも増して貴重なものだと感じている。
 楽しい思い出もあれば、苦しいものも、恥ずかしくなるようなものもさまざまであるが、何はともあれ、それらすべてが、現在の自分という存在をあらしめているれっきとした「構成要素」であることには間違いがないと思われるからである。
 いや、それだけではなく、何があったというわけではなく「未来だけしかなかった」子ども時代の、その健気(けなげ)で、がむしゃらな生き様を思い起こすことは、とかく今を生きるために欲しくなる勇気の、貴重な補給先となるものではないだろうか。
 これは、決して単なる感傷ではないだろうと受けとめている。
 人間の身体や脳は、いつでも成長と変化を続けているわけだが、それらは年齢によって一様ではないと思われる。そして、子ども時代というのは、同じ時間の経過であっても、極めて密度が濃い時間の経過であったように思う。
 それは、ちょうど「扇子」の骨に似ていると譬えることが可能かもしれない。扇子の根元付近の、骨が密集して重なっている部分が、幼少時代であり、骨の開きが大きくなった縁の部分が成人、老人の時間経過に似ていると……。
 多分、年齢による脳の可塑性(かそせい)、柔軟性という観点に立つならば、子ども時代の経験から得た情報、その時に形成された感情の萌芽などは、その後の内的存在の発酵に対して多大な作用を及ぼしているのではなかろうか。
 また、新鮮な「五感」(=センス)という観点でも、子ども時代のそれらに優るものはないと言えようか。大人たちのセンスというものは、子ども時代に得た「その種子」に水をやり培養をしている結果であるのかもしれない。

 今日、小学校当時のなつかしい情報がメールで届いたのである。このサイトには、上記のような意図もあって、小学校時代の同窓生向けのページも公開しているが、そのページの協力者から、同期のクラス会開催の模様が文章と写真で送られてきたのだ。さっそく、それらを閲覧可能なかたちに編集したものだった。それというのも、こうしたことは間を置いてしまうと、繁忙を極める日常の隙間に落ち込んでそれっきりとなってしまいがちだからでもある。
 ただ、過去の思い出を大事にしたいと思う気持ちがあることは事実である。
 昨今思うことのひとつに、良きもの、価値あるものというのは、必ずしも「将来にある」と限ったものでもないのではないか、という思いがある。いや、むしろ、何でも新しいものには価値があり、過去のものには価値がないと盲信してしまったことに、現在のこの社会の失敗が潜んでいそうな気もしないではない。
 この点への深入りは別の機会にするとして、ここで思うことは、一身上の問題なのであるが、過去の可塑的で、柔軟な「五感」(=センス)をもっと積極的に取り戻すべきだということなのである。
 よく、いい歳をして、若い世代が口にしている言葉を仲間入りした気分で遣う人がいる(「言葉の若作り」とでも言おうか……)ものだが、自分はなじめないし、意味がないと考えてしまう。それよりも、子どもの頃や若い頃の「五感」の、その記憶を蘇らせることが貴重だと認識している。これが、自分自身が若くというよりも、新鮮であることの必須条件ではないかと推測しているのである。
 先日も、台風一過の草木に接した際、そのみずみずしい香りが、確か三、四歳くらいの時に覚えた野原の香りだと気づき、非常に感動的であった。こうした、過去の感覚の記憶を掘り起こすことが重要だと思っているわけなのである。

 情報化時代の環境の中で、われわれは、「記号」を通して環境なり事物なり事件なりを認識している。それはそれでいいのであるが、それだけでは、人間の認識としては圧倒的に不十分ではないか。いや、それだけではあまりにも虚しいのではなかろうか。いや、さらに言えば、不安定に過ぎるがゆえに危険だとさえ思える。
 「五感」に根ざした認識、「五感」を媒介としたコミュニケーションが健在であってこそ、「記号」に基づく認識、コミュニケーションがまともに機能するものなのかもしれない。
 この点は、「生きる実感」を損ねた人々(この中には、鬱病と呼ばれる人たちもいれば、ニートと呼ばれる若者もいれば、ヤクに走る青少年もいる……)の問題とともに、「記号」の持つ宿命である不確かさを巧みに操り、人をだます者たちの問題を考える上でも、何がしかの基点になるのではないかと考えたりしている…… (2005.09.06)


 もう何回も書いているような気がするが、人間にとっては、身体の栄養とともに、脳や心、精神と言ってもいいがそんな側面の栄養が必須なはずである。
 ただ、身体の栄養に関しても、不足が急に発覚するわけでもないし、怖い症状がにわかに表れるわけでもない。まして、飢餓状態や栄養失調が発生する環境ではないのだから、そう心配する人もいない。しかし、ある程度長い間、偏食が続いたりするときっと思わぬ影響をこうむるものなのであろう。ちなみに、同年の知人で、酒ばかり飲んで暮らし、ろくなものを食べていなかった男が、「骨粗鬆(そしょう)症」の診断を受けたと騒いでいたことがあったものだ。

 こんなことを考えた時、脳や心、精神にジワジワと悪影響を及ぼしているものとして、現在のTV番組環境を挙げてもいいのではないかと思うことがある。
 わたしが、日頃しばしばマス・メディアについて批判めいたことを書くきっかけは、主にこの現在のTV番組環境の劣悪さだと言っていい。個人的には、要するに見なければいいのだから、それまでの話である。だが、TVというメディアの公共性を踏まえる時、個人的な観点だけで済ますことはできないと考えている。
 上述の「栄養」の話で言えば、米やパンという主食が身体の基本的栄養を補っているとするならば、TVは、栄養となっているかどうかは別にして、身体にとっての米やパンほどに、人々の日常的な脳や心、精神に少なからぬ影響を及ぼし続けているはずだからである。

 時代が変化するにしたがって、TV視聴の比重が低下し、インターネットなどのニューメディアへの関心の移行が急速に進むものと考えられてもきた。しかし、現実はどうもそうでもないらしい。
 バカにされるはずのTVは、相変わらずの愛着を持たれているようでもある。
 その証拠のひとつとなるかどうか、PCにTVチューナー機能が搭載される傾向が、再び、三度、目につくのが昨今の状況である。たぶん、DVDの用途のひとつとしてTV録画が注目されていることとも関係しているのであろう。とかく、ニュー・メディアが、活用の対象探しの末に、古いコンテンツに行き当たるという現象があるが、ここでもそれが見受けられるわけだ。さながら、「むかしの名前で出ています〜♪」というところだろうか。要するに、「容れ物」だけが新しくなり、中身は古いものがイージーに使い回しされているということになる。
 視点を転ずれば、IT分野で儲けてきた「ホリエモン」が、今更のようにTV(フジTV)領域に首を突っ込もうとしたのも、今更と言えばそうも言えるTVには、まだまだそれなりのうまみがあるからだと言うべきなのであろうか。

 いずれにしても、「イージー」さというものがTVというものを長らえさせているのだろう。番組を作る側も、また視聴者の側も、合言葉は「イージー」ということなのかもしれない。しかし、「ただより高いものはない」ということわざもある。実際そのとおりではないかと思う。
 視聴者側にとっては、「ただ」のTVに大きな代償を支払っていそうな気もしてならない。最近の民放のCMは、煩わしいという以上に、「ど厚かましい」攻撃的な様相を呈しているようだ。「カネを出しているのだからスポンサーのわがままも聴いてもらわねば」という暑苦しさがやり切れないわけだ。
 スポンサーの「顔の出し方」というものには、もっと効果的なものがあるのではなかろうか。静かに、奥ゆかしく視聴者の心を捉えるというアプローチが……。
 わたしなんぞは、時々、CMの際にはリモートを使って「サイレント」ボタンを押すこともある。さらには、CMタイムの時には自動的に「サイレント」となるようなコントロール・ボックスを作ってみようかとさえ考えている。録画コンテンツから、CMを取り除くツールは市場に出回っている(これに対して、バカな発言があるそうだ。日本民間放送連盟の日枝久会長[フジテレビ会長]が記者会見で、「DVD/HDDレコーダーのCMカット機能は、著作権違反の可能性がある」と発言したと報じられている。そんな横恋慕は法的に通用しない!)が、リアルタイムに「消去」できないものかと……。

 現時点では、まだ「イージー」さで生き延びているTVメディアであるが、果たしてどこまでこの「横着」が通用するものであろうか? 視聴率を稼ぎに稼いだ「巨人戦」にしても、今では見る影もなくなったと聞く。「横着」を決め込んで見捨てられる速度というものは、予想以上に早いのかも知れない……。
 ところで、考えてみると「小泉劇場」や「小泉ポリティックス」というのは、こうしたTVの「イージー」な性格と、そこでやりたい放題のCMの「ど厚かましい」風潮との、その延長線にてどうにか格好をつけているものだと見るとわかりやすいはずだ。
 毎日のように映し出される、あの無内容なインタビューは、ほとんど「ご利用は計画的に!」というCMと肩を並べているし、突然の解散・総選挙に走り、「殿、ご乱心!」とさえ感じさせるような「大見得」の切り方も、「刺客」という唐突な言葉を出さずとも、十分にTV時代劇「水戸黄門」の世界と言うべきであろう。
 ひょっとしたら、今度の日曜日に、「小泉ポリティックス」が「視聴率」を上げることになるのかもしれないが、小泉さん、その結果をまさかご自分の政治的実績だなぞと決して思わないでくださいね。あくまで、TV番組投票か、冗談だとしか、TV漬けの人は考えていないのですから…… (2005.09.07)


 米国のハリケーンによる膨大な数の死者、被害者、そして巨大な被害が眉をひそめた衆目を集めている。多くの被災者が黒人や貧困層であることが、批判や非難の強度を強めてもいそうである。
 そしてこの国でも、同じ台風14号という自然災害によって少なからぬ人々の命が唐突に奪われた。しかも、<年齢がわかる24人のうち、17人が65歳以上の高齢者だった。>( asahi.com 2005.09.08 )という事実は、痛ましさとともに、現代という時代の「歪(ゆが)み!」を照らし出しているように見える。
 「弱い者が自然災害で亡くなるのはしかたないじゃないか」と安易に頷く人の心の荒(すさ)び方をも含めて、時代の「歪み」は行き着くところまで行き着いているかに思えてならない。

 経済の「構造改革」路線と、こうした寂しい事象とを直結させるのは、いささか短絡的な趣きがあろうか。しかし、あながち的外れではない、と言い切るだけの合理的発想と想像力とを持ちたいと思っている。
 イラクへの無意味な戦費を発生させ、国内の貧困層居住地の自然災害防止予算を削った事実、そもそもイラクへの介入が、原油・石油という経済の一大資源を睨んでのことであった事実、そんなことまでをすかさず視野に入れることが必要ではなかろうか。
 この国にしても、台風による土砂崩れで亡くなった高齢者という悲惨な事実の背後には、人間の生活を暖かく見つめる姿勢よりも、市場主義経済のなすがままを是認する、そうした現代の風潮がどっかと居座っていると言うべきではなかろうか。ここでは、過疎地での独居老人たちの生活と、市場主義経済優先との因果関係を縷々述べる余裕はない。折りしも、そうした過疎地で暮らす高齢者たちに、駄目押し的な突き放しをするがごとき動き、「郵政民営化」が迫っていることだけで十分だろう。
 「民営化」とは、要するに経営を「市場主義経済のなすがまま」にするということである。だが、社会生活とは、そんなに単純なものであるのか? 市場経済とはそんなに「万能」なのであろうか? 多くの人々が選ぶものは自然に正解へと突き進むものであるのか? そんなわけがなかろう。現に、この期におよんで諸悪の根源とも言いたい自民党に少なくない人々が期待を寄せるのは決して正解だとは思えない。

 まあそんなに矛先を散らすことはやめ、当然の「正解」と目されている「構造改革」というものを、人間らしい生き方と対比して見据えるべきであろう。
 思うに、現政権が「構造改革」と言う場合、何もかもを米国に追随すること以外に、一体どんなビジョンを示したであろうか。この国を将来どんな国にしたいと、これまでにコイズミ氏は胸の内を語ったであろうか。不思議なほどに、何も語ってはいない。「ぶっ壊す」とは言った。しかし、それは、「おんぶされた!」幼児が、「かあちゃんをぶっこわしてやる」と言ったに等しい響きしかなかった。
 要するに、コイズミ氏が言いたいのは次のことになるのであろう。
「そんなこと言わなくてもわかるじゃありませんか。日本が『ビフォア』(使用前)で、米国が『アフター』(使用後)ということですよ」
 であれば、われわれは、「構造改革」の『アフター』(使用後)である米国の現状をこそしっかりと見つめるべきだということになろう。
 少なくともわたしは、、「アメリカ国民の1%がアメリカの富の90%を握っている」(5年前の米大統領選挙でブッシュ現米大統領と争ったゴア民主党大統領候補による指摘)ような貧富の差が激しい国を望みたくはない。すでにその兆候はありありだと見えるが、おそらくそれは、日本という社会、古来からの文化を根こそぎにしてしまうものと思われる。いや、良くも悪くもそうした「柔構造」の仕組みに依拠してきたこの社会だけに、混乱と腐敗は想像を絶するものとなるのかもしれない。

 米国のハリケーンと、日本の台風14号の、被災規模の差こそあれ、放置された弱者に残された傷跡は、これから始まる本格的な「弱肉強食」社会のほんの一ページを見せ付けてくれた思いがしたのである。
 「民間にできるものは民間に」という暢気で馬鹿げたセリフを言っている場合じゃあないでしょ。もはや、「官」にできないことはあっても、「民間」にできないことは何もない時代だと言うべきである。「官」が得意である怠惰や隠蔽さえ巧みにこなす力量を持つのが「民間」ではないですか。能力の問題ではないわけだ。
 公共的な自覚と責任を担保として、市場経済から排除された弱者を救済したり、市場経済そのものの歪みに配慮することこそが、政治だと言うべきであろう。市場経済に飼われた番犬が政府だというのでは、いかにも情けないじゃないですか…… (2005.09.08)


「じゃあ、アタシのことが嫌いなのね!」
と言って男を困らせる困った女性がいるらしい。もっとも自分にはあまり縁のない話ではあるが……。
 つまり、並みの人であれば気にして当然の実際の細やかな感覚や判断を、無理矢理、好き、嫌いという範疇へと引き込み、結局は、有無を言わさず思い通りの返答へと誘導するという、ある種のペテンなのである。まあ、他人が介入すべきではない男女間の出来事であれば、勝手にしなよ、と言ってすましてもよかろう。
 だが、こんなことが、一国の政治問題で仕掛けられたのではたまったものではなかろう。まずは、良識を旗印にする(?)マス・メディアや知識人たちが諌めてしかるべきである。が、この国の情けなさは、そうした「わがまま娘」を、やれ熱意があるだの、決断力があるだのと、おだてて、あやすところである。この部分一点に目を向け、すかさず「喝!」とでも言って糾さなければ、道理は地に落ちる一方である。

 ところで、この国でも「裁判員制度」(陪審員制度)が始まろうとしているので、ちょっと法的な角度でこの話をしてみると、「誘導尋問」というビミョーな事象がある。
 その「誘導尋問」とは、「質問者が希望する内容の答弁を暗示して、その供述を得ようとする尋問。法廷においては刑事訴訟規則により誘導尋問は一部の例外を除き原則禁止されている。」ということである。だとすれば、先ず、注目すべきは、質問内容の「レトリック」(言葉遣い)もさることながら、質問提起自体が、回答を「誘導」するという点に注意していい。
 ある質問をするということ、さらにその質問が二者択一の質問であればなおのこと、被質問者の自由な選択範囲を限定して、被質問者の幅広いはずの意向を、質問者が狙う狭い範囲へと「誘導」することになるわけだ。
 つまらない例であるが、もし、とある日曜日、夕刻になって唐突に、その家の主婦が、次のように家族に話しかけたらどうだろう。
「夕飯は、焼肉屋さんに食べに行こうと思うのだけどどう? それとも回転寿司がいい?」と。
 まあこれは、差しさわりのないひとつの提案として受けとめても良さそうだ。が、考えようによっては、自宅でホームメイドの夕食をすることを完璧に度外視した、外食を既成事実化したところの「誘導尋問」だと言ってもいいのだろう。

 今回のコイズミ式解散と総選挙は、おそらくこうした類の「誘導尋問」的選挙だと言っていいはずである。「郵政民営化」に賛成か、反対かと勝手な絞り込み(=誘導)をして総選挙の意義(=政治全体への国民の関心と信任)を手玉に取っているからだ。
 しかも、設定された設問が形式的にも正しいのであればまだしも、「郵政民営化」の中身が、シャープに切り分けられてもおらず、「出題形式」的には二者択一の体(てい)をなしていない。となれば、さしずめ試験問題ならば「採点対象外」の扱いとなるところではないか。
 そしてぬけぬけと、「郵政民営化」=「改革の本丸」という取って付けた理屈を最大限に持ち込んで、賛成へと「誘導」しようとしているのが見え見えである。これほど歴然とした「誘導尋問」はないと言うべきではなかろうか。
 国民という証人は次のように発言すべきであろう。
「裁判長、ただ今のコイズミ検察官の発言は、証人の自由な発言を封じて、検察側が望む対象へと関心を逸らさせるための『誘導尋問』の疑いがあります!」と。
 もともと、政権政党の党首ならば、「実績で判断してください」とだけ言えば良かろう。それが言えないから、愚者の言い訳終始のような悪あがきとだまし手法ばかりが目につくことになるのだろうか。

 また、こうしたアンフェアな選挙で「結果」だけを手中にしたものが、今後どのように居直るのかは容易に想像できるところであろう。当該の郵政問題にとどまらず、「白紙委任状」を得たつもりでサラリーマン増税、消費税アップを粛々と推し進めるであろうし、対米追随外交を省みることもなく危ない外交の轍をさらに深く刻むであろう。自衛隊は、イラク国民や国際世論に反した危険水域へとますます歩を進め、憲法9条改悪の露払いをさせるであろう。いや、憲法改悪それ自体に手を汚す可能性も十分に考えられる。
 おそらく、平和愛好の国民は、そこまでは望んではいないかもしれないが、コイズミ式政治がそこまで突き進んだ場合には、国民はどのようにしてそれを食い止めることができるのだろうか。
 まして、コイズミ氏は、その際に国民や世論が批判に及べばきっと次のように居直るにちがいないタイプである。
「だって、国民はあの時、小泉に思うようにやれと支持してくれたじゃないですか。これらが嫌だったのなら、なんであの時投票したんですか?」と。
 すでに、これとほぼ同様のセリフが、「郵政民営化・反対派」自民議員に対して発せられたことはよく知られているし、はぐらかしが常套手段であることも周知の事実だ。

 世の中には、誤解を恐れるあまり寡黙になる人も少なくない。それがまともな人格というものかもしれない。しかし、誤解やら「誘導」やらをことさらに利用しながら、意を通そうというアンビリーバブルな御仁もいらっしゃることになる。まあ、権力闘争にまみれて平衡感覚を失った永田町の人種にそんな御仁がいても不思議ではないのだろうが。
 だが、そうした御仁に、まんまと一杯食わされる国民が少なくないらしい実態には、さすがの自分もアンビリーバブルと呟かざるを得ないでいる…… (2005.09.09)


 夜となれば、窓の外から虫の音がよく聞こえるようになった。今、こう書きながら耳を傾けていたら、急に一瞬鳴きやんだ。まさか、誰かが噂をしていると感づいたわけではあるまい。
 きっと、さえずりと同様に、伴侶を得るために鳴いているはずだが、どんなことを考え、どんな顔つきをして鳴いているのかに興味がわいたりする。それにしても、デジタル音の味気なさに較べて、明らかに不規則でばらつきがあるためか、実に味わい深い。
 思えば、彼らは何百年、いや何千年と言ってもいいのだろうが、ほとんど変わらずにああして鳴いているのだろう。もちろん、一匹の個体のことを言っているのではなく、その種族(?)のことを言っているわけだ。何の進化もないどころか変化というものに縁がないような気がする。そんなものだから、「改革」が必要だなぞと叫ぶやつもいるわけがなかっただろう。「改革」とは何かを考えてみる必要がなかっただろうし、わかっちゃいないはずだ。いや、この点では人間様とて大した違いはないようではあるが……。
 しかし、少しくらいは変化を遂げてきたかもしれないことが想像できる。きっと、異性への「訴求力」のある鳴き方をしたやつは、見事に子孫を残し、その子孫たちは親世代のDNAを受け継ぎ、「訴求力」をさらに向上させてきたのかもしれない。今、鳴いている連中は、そうした生存競争に勝ち残った「勝ち組」の虫たちだと言うべきなのかもしれない。道理で、自慢気に鳴いているように聞こえないでもない。また、鳴き声が途絶えた。ちいとは恥じているのかもしれない。いや、鳴き疲れたか。

 明日が「いよいよ」選挙だ。と言っても、あまり「いよいよ」という緊迫感がない。それと言うのも、度重なる有権者の意向の事前調査がすでに大勢予測を報じているからだ。「自民圧勝」という、それだけは避けてもらいたいと願い続けていた結果になりそうで、甚だ不愉快この上ない気分である。
 一有権者という立場以外には、何も選挙とは関係のない自分であるが、この不愉快さを持て余し、できることなら明日は、人里離れた、秋の虫の音しか耳にはいらないような場所へでも行きたい思いである。コイズミ氏の「高転び」寸前の様子なんぞ見たくもないし、良くバカバカしさを耐えて奮闘努力した岡田氏を初めとする野党党首たちの悔しさを堪えた表情を見るのも辛い。
 だが、これが「勝ち組」と「負け組」とが、まさに「不条理」とさえ思えるように際立ってしまう現代であり、今後はますますこの種の「不条理」だけが鮮やかになっていく時代の門出だと言うべきなのであろうか。
 確か、米軍がイラク侵攻を開始した時にも、世界中の平和主義者たち、とりわけ反戦を訴えた者たちは、言いようのない「無力感」を味わったはずではなかったかと思う。決して、唐突に言っているわけではなく、そのイラク戦争を、この国の心ある国民の反対を押し切って「前面支持」したのが、コイズミ氏その人であったからだ。
 もっとも、この選挙運動期間中に、彼は、そのような事実には完璧に口を閉ざしていた。そうしたやり方があってこその「勝ち組」だという点を、どれだけの人が感じ取っているのだろうか。国民が不安に感じていたり、疑問に感じていることに一切応えようとはせずに、あるいはある人の指摘では、考える暇を与えずに、自身の特権をもって既成事実を作り上げてしまう、そんなやり方があって、彼の「勝ち組」入りが叶ったと言わなければならない。スポーツの世界では、それを「アン・フェア」と言うし、巷ではそれを「卑怯」という一言で切り捨てるはずである。

 しかし、そうしたやり方が違法行為には当たらないのだから、愚痴る方が「マヌケ」だということになるのであろう。そのとおりである。「マヌケ」は、「先憂行楽」のごとく事態を先んじて掴み、憂えるわけであり、「マヌケ」以上のお人好しは土壇場になって嘆くものであろう。不幸なことに、現在のこの国には、マヌケが少なく、お人好しとその他が多いということなのであろう。
 「マヌケ」と言って卑下した表現をするのは、とかく、コイズミ氏のような「勝ち組」特有のやり方を、斬新で、現代にフィットした「クレバー( clever )な方法」だと評論するわけのわからない者がいるからなのである。「クレバー」に見えるその反面に、事実を隠蔽したアン・フエアでトリッキーな薄汚さがへばりついているのを見ようとはしない者がいるからなのだ。彼らは、自分自身も現代風の「クレバー」な人種であることを言いたいがためであるかのように、「勝ち組」特有のやり方を称賛するわけだ。まるで、「裸の王様」の見事な衣服を称賛するかのごとくである。
 穿って考えれば、今回の選挙の隠れた争点は、「クレバー」を原理とする社会(弱肉強食の「構造改革」推進社会!)を選ぶか、そうでない、事実を事実として凝視していく、いわば「マヌケ」な作法で作っていく社会を選ぶかであったのかもしれない。「郵政民営化」問題は、まさにコイズミ氏の「ヘア・スタイル」のように、意味ありげな見てくれを持ちながら、どうということもないこけおどしでしかなかったのであろう。

 そう言えば、グリム童話にしても、アンデルセン童話にしても、童話の中では「クレバー」な存在は、悪者だと決着がついていたはずだ。現実のキツネやカラスは気の毒ではあったが、人間社会の平和と正義のためであったのだろう。こんなことを「クレバー」な人々に言ったら、きっとこう言われるに違いない。
「<童話>みたいな、<マヌケ>なことを言ってるんじゃないよ」と。
 まだまだ戸外で鳴いている秋の虫たちは、どう考えても「クレバー」だと誉めてあげるわけにはいかないようだ。でも、そんな基準よりも大事な共に生きているという事実を、しみじみと実感させてくれる愛しい生きものたちなのである…… (2005.09.10)


 子どもの頃、正月に親戚の家へ行くと、挨拶や一通りの話が済むとトランプ遊びに興じることとなった。そして無礼講ということもあり、トランプを使った小さな「賭博」が始まったりもした。お年玉を貰った子どもたちに一人、二人の大人が交じるかたちで始まるのだった。考えてみればかなり「立派な躾(しつけ)」(?)であったわけだ。
 「おいちょかぶ」というもので、配られたトランプの数の合計が、9により近いと勝ちになるというもので、初めは大人が「親」となり、複数のカードの箇所に、「子」としての子どもたちが、一円、五円、十円を「張る」。そして、「親」が負ければ、「子」のカードに張られたそれぞれに同額を上乗せしてくれるし、「親」が勝てば、みんな没収されてしまうことになる。「親」がわざと負けてくれたりして、子どもたちがお年玉を幾分増やすことになったようだ。
 興に乗って子どもたちが「親」となってビクビクものでゲームを進める場合もあったが、そんな時のことである。わたしが、その「親」となった時、酒もほどほどに入っていたある叔父が、奇妙なことをしたのだった。隅っこのカードに、最初は十円だかを張ったのである。ドキドキしながらゲームを進めてみると、運良く自分が勝ってしまったのだ。ニコニコしながら叔父のその十円を没収して、次に進めると、叔父は言ったのだった。
「じゃあ、同じところへ二十円としよう。細かいのがないから、『張った』ということでいいな」と。
 で、「口約束」を認めるかたちで進めたのだが、また運良く、親の自分が勝ってしまったのである。だから、その時、叔父には二十円を貸したことになるわけだ。
 ホクホク顔となった自分は、次のゲームのカードを用意したところ、おせちの余りでちびちびと飲んで赤い顔をしていた叔父は、
「ついてるねぇ。じゃあ今度も同じところへ四十円を『張った』ことにしておくれ」
と言ったのだ。叔父さんは酔っ払っていて大丈夫かな、と思いながら、シメシメ、今度も勝てば最初の十円とあわせて七十円の儲けになるな、なんぞと「捕らぬ狸の皮算用」なんかをしていたら、この回は負けてしまった。だから、結局は、十円の持ち出しとなってしまったというわけなのである。
 何かヘンだと感づき、「叔父さん、これからは『現物』がないとダメということにしよう」と忠告したような記憶がある……。

 これぞ、「空手形」とでも言うのであろうか。しかも、確率から言えばいつかは勝つことに遭遇する可能性があるわけだから、その叔父のとった方法は、まさに「必勝法!」だったと言える。職人気質の叔父であったから、きっと苦い体験を使ってか、ちょっとわたしをからかったものだったのであろう。
 こんなことを思い出したのは、言うまでもなく、今回の選挙について思いを巡らせた時のことである。現在は午後七時で、まだ開票速報は始まっていないが、おそらく、コイズミ式の総選挙は、上述の叔父の「必勝法!」よろしく、今の政治を憂える国民が何かヘンと感じるような結果になるのであろう。
 それにしても、四年にわたるこれまでの在任中に実績と言えるものがなく、むしろ行ったことは、膨大な財政赤字を上乗せと、エスカレートする「張ったりサプライズ」だけだったにもかかわらず、思い通りのシナリオを展開したのは、一体どういう経緯であったのか、ということなのである。
 開票結果が出た後、いろいろな者がいろいろともっともらしく解説もどきをするに違いなかろう。この間の推移で、考えを深める者が増えることになれば「高い買い物」をしてしまったことにはなるが、まあ「してやられた」のだから仕方ないということになる。
 そして、「してやられた」原因は、「『現物』(実績!)がないとダメ」という当然のルールに準拠しなかった国民側に非があったことであり、それを重々認識したいものだと思っている。
 敵さんは、「シメシメ、今度も勝てば最初の十円とあわせて七十円の儲けになるな」というような「捕らぬ狸の皮算用」にも似た、ムードだけでの期待感が国民の中にしっかりと浸透していくことなんぞは、百も計算に入れた海千山千、人の言う事聞きません、なのである。

 グローバリズムの一連の動向が一挙に展開したこの間において、やはり人々の環境変化への対応力が、かなり追いついていないことを露呈させた選挙だったとつくづく思う。国民自身が、何がコア(核)な問題であるのかを射抜くセンスを身につけていかない限り、この国は劇(場)的な壊滅に至る…… (2005.09.11)


 今回の選挙結果は、ふたつの視点で考える必要がある。
 ひとつは、「小選挙区比例代表制」という特殊な選挙制度、つまり、得票数と当選との関係がアンバランスとなる制度、大政党が有利となる制度のもとにおいてこのような議員数の結果となったという点である。
 簡単に表現すれば、当選議員数と比例を含んだ得票率との関係は以下のようになるようだ。

 【自民】当選議員数:296人=62%,実際の得票率:43%
 【民主】当選議員数:113人=24%,実際の得票率:33%
 【公明】当選議員数: 31人= 6%,実際の得票率: 7%
 【共産】当選議員数:  9人= 2%,実際の得票率: 7%
 【社民】当選議員数:  7人= 1%,実際の得票率: 3%

 つまり、選挙制度の特殊性によって実獲得投票率がこんなにも比率の異なった議員勢力分布に変貌してしまうわけなのである。得票率にそくして言うならば、与党勢力が50%、野党勢力その他が50%となり、拮抗状態だと見ることができるわけだ。国民が、途方もなくバカになったわけではないのだ。

 アミノ式ではなくコイズミ式ポリティックスが「圧勝」と言われる今回の選挙の水面下が、実はこうした状態であったことを知っておいて悪くはない。
 それにしても、釈然としない思いが残るわけだが、事実を事実として受け容れるためには、作用したと思しき社会環境変化に目を向けておく必要があろうかと思う。
 選挙結果を踏まえて、TVではさまざまなことが取り沙汰されている。上記のような選挙制度自体の問題点といった玄人レベル(?)の指摘もあれば、さすがのわたしも目を背けたくなるような「泣き言」的発言もある。
 そんな中で、ちょっと関心をそそられたものを書いておく。これらが、ふたつ目の視点として挙げたい点で、社会変化がもたらした、いよいよと言うべき新しい現象とも言えるのかもしれない。

 選挙関連のあるTV番組で、コメンテーターにコピーライター出身の天野祐吉氏が興味深い指摘をしていた。そもそも、CMの評価などの場に顔を出す同氏が、国政選挙結果を云々する場に出ていること自体が興味を引くわけである。
 つまり、政治というジャンルも、市場経済の出来事と同列に考察しようという発想が透けて見えたというわけだ。
 天野氏が、指摘したのは、今回の選挙を評した当選者たちの一言に対してコメントをした時のことである。東京の選挙区で民主党として唯一当選した菅 直人氏が、今回の選挙を称して「小泉氏による『催眠術』!」というような表現をしていたのだ。これに対して天野氏が苦言を呈したのである。
 「催眠術」を悪いものと決めてかかったのではまずいのではないか、選挙では、催眠術さえ駆使されてもしかたがないのではないか、言葉の力を最大限に駆使する必要がある……と、さすがコピーの秘めるパワーに日頃関心を注ぐ天野氏ならではの指摘をしたわけである。
 もちろん天野氏とて「催眠術」を絶賛しているわけではなく、激しい「舌戦」が当然の元党首たる者が、そんなやわなことを言っていてどうするという意図だったのかもしれない。

 わたしが興味深く受けとめたのは、現在では、選挙とて特別のジャンルではなくなっており、人々が日常的にドップリと浸かっている市場経済の出来事そのものだという現実なのであった。人々はこれを「何でもありの時代」と言うのだろうが、コイズミ氏がこの点をいち早くゲットしていたことは間違いないはずだ。通常なら違和感を感じて当然の「ホリエモン」をも起用したコイズミ氏の頭の中には、政治と市場主義経済との間に境目がなくなっている現状をしっかりと読み込んでいたのであろう。
 民主党だけではなく、「まとも」な人々ほど、政治とは、あるいは選挙とは「襟を正して、うがいをして、『特別』な観点で」対応すべきものと見なしていた、いるのかもしれない。それはひょっとしたら、政治の「政」を「性」と書き直したとしても、同じことが言える世の中になってしまっているのかもしれない。
 現在の「市場主義万能」経済が、あらゆるジャンルに染み渡るご時世にあっては、特殊なジャンルや、それ向けの特殊なスタンスというものを思い描いたり、要求したりしても、悪くはないにしても、通用し難いのだというリアルな認識は必要なのかもしれない。
 確実に、政治も、「好感度」や「ワクワク感」といった「商品」の属性がものを言う環境となってしまったということなのであろう。

 いまひとつ、コメンテーターの発言で興味を覚えたのは、鳥越俊太郎(ジャーナリースト)氏が、唐突に、
「小泉氏には、『セックスアピール』があったのかもしれない。それが、『ヨン様』のようにおばさんたちを引き寄せたわけで、こうした点もいよいよ視野にいれなきゃいけないのかなあ」
と述べていた点だ。わたしは、小泉氏はどちらかと言えば「煮干し」( by 田中真紀子 )だと感じる。が、もし何がしかの『セックスアピール』があったとするならば、それは「やぶれかぶれ」的なきわどい解散をあえてしたことに窺えるのかもしれない、とは思う。つまり、身を捨てているかのような印象を振りまくいわゆる「不良」が持つ匂いということになろうか。品行方正な優等生の岡田氏に対して、おばちゃん連中には、「不良」が秘めた『セックスアピール』を演出することにでもなったのであろうか。

 いずれにしても、最大限の浮動票をゲットした背景には、「何もかもが商品」という市場主義の感覚、またそれを疑ってやまないマス・メディアの日常的波動攻撃、そして今や、自身が所属する集団というものが乏しく、概して「孤立して情報環境に対峙する」ことになっている現代人たちが、結局のところ情報の包装紙だけで「嵌って行った」のが今回の選挙だったのかもしれない。
 ただ、こうした政治ジャンル自体の「商品感覚」化が成立する背景に、実質的政治判断が官僚機構によってしっかりと横取りされている現実があることを見ておく必要はある。本当に警戒すべきは、タレント集団「コイズミ新喜劇」ではなく、鉄面皮の官僚機構であるに違いないのだから…… (2005.09.12)


 ちょっとした企画的案件の打ち合わせをしたお客さんと話しをしていて、妙な事で意気投合をしてしまった。この時期の教育というものがとてつもなく難しいね、という話題であった。
 小中高、大学といった学校での教育がさまざまな社会的しわ寄せを喰らって難しい上に、企業内教育とて問題を挙げれば切りがないほど厄介この上ない状態であろう。ここでそれを多面的に言及するつもりはなくて、ただ、ちょっと気になることだけを記しておきたいと思った。

 人間の知的能力というものは、個人的な空間だけで発揮されるものではなくて、周辺の人々との関係や、もっと広く言えば社会的関係や時代環境との関係などで大きな影響を受けるものらしい。
 何に書いてあったか忘れてしまったが、歴史上の天才たちというものは、まるで<くし団子>のようにある時代、ある時代にかたまって輩出されてきたらしい。そして、その塊の中の天才たちは相互に影響を与え合っていたというのである。その結果、天才たちの時代というような期間が形成されたとかである。
 学問の世界でも、「学派」というものの存在の意義は小さくないらしい。政治家たちの派閥には、切磋琢磨以外の異なった意図が見え隠れしているが、学問の世界の「学派」というのは、相互批判を含めてまさしく鎬(しのぎ)を削り合うことによって相互に高めあう機能を果たしてきたようである。
 こうした前向きな相互関係の持つ意味が、能力の向上にとってはかけがえのない環境なのだろうと思う。これはいわゆる「競争」とは異なっているようだ。
 それに対して、現代が「競争社会」だと言われる場合の「競争」とは、何か相互にそらぞらしいものがありそうに思える。もっぱら、数字的な結果にのみ関心を抱きあい、プロセスでの豊かなライバル関係がそぎ落とされてしまっているように見える。こうした「競争」の闘いというものは、必要以上に孤独を強い、人間の能力というものに無理強いをかけるのかもしれない。だから、いわゆる「受験競争」という環境は、どこか陰湿で、また当人たちにとっても辛いだけの環境のように思える。

 何が言いたいのかというと、人間の能力というものはたとえ個人の能力であっても、出所は社会共同体だということであり、知識にしたところで、誰が知識を創り出したのかを探れば、行き着く先は社会共同体とでも言うしかないはずである。
 つまり、個人の能力というものを過度に個人自身の責任や所有対象と考えることは道理に合わないかもしれないということなのである。もちろんこうした、現代の個人主義を否定するかに響く物言いは受け容れ難いことはよくわかっている。
 天才の出現についても、現代ではその天才個人が称賛されることで終わってしまうわけだが、前述した「天才たちの時代」というような現象を視野に入れるならば、人間の能力発揮というものを、個人を超えたもう少し大きな括りで見ていく必要がありそうな気がするのである。

 現代という時代環境が、人の能力を発揮させる教育という点で、仮にも暗礁に乗り上げているとするならば、いろいろな原因があろうかとは思うが、あまりにも、能力というものを個人に「還元」して見る見方が災いしている可能性がありそうだと、そんなふうなことを考えたのである。
 まして、個人の「独創性」というようなムリっぽい視点まで持ち込んで事態を緊張させているのが現代の環境でありそうな気もする。そもそも、「個性」「独創性」というのは、個人を超えて「共有」された「一般性」「普遍性」のようなものが前提として認められて初めて云々できる特性であるはずだろう。「共有」されるべきものを問わずして、初っ端から「ユニーク」さというものを持ち出しているのが、現代の作法であるような面も気になるところなのである。

 坂本龍一氏が、「著作権」をテーマとするあるところで、自身の作曲活動がいかに過去全体の音楽家たちの成果に負っているか、自身の独創性などは恥ずかしいほどに微々たるものだ、というような実に聡明な見識を示していたことがある。
 「著作権」なぞは、まさに「知的」なものに対する「個人所有」を表明する極めて現代的な現象であろう。これはこれで、個人の「創造的」活動を支援し、保護する重要な一面を持つものだと言うべきではあろう。
 しかし、だからと言って、「知的活動」というものを、個人に「還元」してしまうようなさまざまな風潮が称賛されていいとは思えない。「過去全体」の社会共同体に依拠する本質的な部分や、「同時代」の社会共同体から受け取っている社会性というこれまた本質的な部分にしっかりと目を向けるべきだろうと思う。
 こうした点を見過ごさないことが、現代が「意図的に」生み出しているかもしれない「人工的な」孤独(!)というものを粉砕していける力になるのだろうと思う。
 囲われた小さな畑に、ただ一本だけ植えられた苗のような教育環境は、あまりにも寂しく、当然、本来的な勢いがそがれてしまうのではなかろうか…… (2005.09.13)


 夕べの蒸し暑さにもこたえたが、今日日中の暑さにもうんざりとした。これが残暑というものなのだろうが、残暑とは要するに、無いはずのものが残っているという埒外(らちがい)の事象なのであり、人々の気持ちを逆撫でする分、不快感が倍増するのだろう。
 これも埒外であったはずの選挙も暑苦しいものであっただけに、ここは、静かに涼しげに秋めいていくことを望みたいものである。
 この暑さばかりが原因ではないのだろうが、今日は、どうも思考力が集中せず拡散気味の気配を感じ続けた。

 昨日は、大上段に振りかぶり、「知」というものが集団的・社会的・歴史的なものであるのに対して、現代特有の「孤立・個人主義」的スタイルの行き過ぎは、弊害こそあれ、見込まれているほどに生産的ではないような気がすると書いた。
 これにも関係するのだが、思考という脳活動は、より生産性を高めるためにはそれなりの付随条件を設定してやる必要がありそうだと思う。
 ことさら特殊なことを念頭に置いているわけではないのだが、要は、「楽しみながら(=意欲的に!)」思考するという点なのである。小難しいことを言えば、活性化する脳波の違いということになるようだが、そのほかにもホルモン分泌のあり方や脳内物質の作用に依拠して、いわば心のあり様が脳活動の水準を左右するようなのである。
 「楽しみながら」思考することに勤しめば、ムリなく成果を上げることが可能であり、「しなければならない」といった強迫観念的な動機に背中を押されていたのでは、上がるべき成果も上がらずに終わってしまうということになる。
 昨日書いた点というのは、過度な競争環境というものが、脳の生理的状態に決して良い効果をもたらさないということ、逆に、知的成果を共有しながらの、共に考えるというあり方が、心と脳との良いコンディションを作り出しながら脳活動の水準を引き上げる、という点でもあったのである。

 今、思うことは、時代や社会環境のまずさに嘆くだけではなく、個々人がどうしたら思考の活性化を高めたり、良い循環を作ったりすることができるか、というようなことである。偉そうなことを望んでいるのではなく、自分自身のためにもこうした自衛策を案出する必要があると思っているわけである。
 また、この辺の問題は、一方で生産人口にとっての知的生産性向上に寄与するだけでなく、高齢化時代できっと深刻化するに違いない「鬱」や「認知症」にも役立つはずに違いないだろう。
 しかし、この辺の問題は、当然シンプルではないと思われる。
 「頭の訓練」といった類のものもあって悪くはない。現に、そうしたツールによって「認知症」などの悪化が食い止められることもないではないようだ。
 しかし、思考というものは、さまざまな事柄が絡み合っていて結構一筋縄では行かないようでもある。特に、心(精神分析的対象!)の問題とも密接に関係している点が奥深いわけであろう。しかも、その心というものは、対人関係から広い社会関係までを背負い込み、そこいらにただならぬ不安などの「震源地」があれば、そうしたことが回り回って思考そのものに深刻な影響を及ぼすはずである。

 思考力、知的思考力の活性化や生産性向上という問題は、追求して行けば興味深いジャンルであろうが、それは追々に進めるとして、今、自身の課題としては、さしあたって「楽しく考える」という方法論をもっと真面目に追及する必要があろうか、という点なのである。社会や政治の時代的欠陥に目くじらばかりを立てていても始まらないかなあ……
 (2005.09.14)


 だいぶ以前に、ある会社の社長が、やや手を焼いている部下を評して次のようなことを言っていた。
「困った部下が管理職にいるんですよ。しかも、その彼を慕うものが結構いるようなのでなおさら困っているんです。」
 わたしは何事かと思ったものだが、良くうかがってみると次のようなことであった。
「その管理職は、人当たりがよく愛嬌もあり概して社員から好感を持たれているようです。中には、見当外れの買いかぶりをする者もいます。やれ『大胆にして、繊細!』とか言って持ち上げるんですな。しかし、わたしの目からは、単に『ずぼらで、臆病!』という表現しかできないんですよ……」
 なるほど、ありそうなことだと思えた。どうしたら良かろう、という相談であったのだが、わたしはそうした「誤解」というものはなかなか厄介なものだと思い、「人の口に戸は立てられぬ」ということわざを引き合いに出して、話を適当に切り上げたかに覚えている。

 要するに、「誤解(misunderstanding)」、しかも期待感を込めたプラス方向での「誤解」というものが奇妙な状況を作り出すということはままあるものであろう。当の本人はと言えば、策士的にそう振舞う者もいるが、意図性はないにしても自身を飾らぬ者はいないと言っていいわけだから、プラス方向で「誤って解釈する」人が周囲に発生するわけである。
 時々、ああ、この人はその人物を買いかぶって(=プラス方向で「誤解」して)いるな、と気づくことがあったりする。そんな時は、結構居心地が悪いものである。
 「いや、あなたはその人のことを『誤解』していますよ。その人は実はとんでもない<悪人>なんですよ」とまではとても言えないからである。ちょっとした怪訝(けげん)な表情をして見せることが精一杯であり、あとは当事者が、ささいなことから早く「誤解」から脱出してほしいものだと願うだけとなる。

 今回の総選挙では、ほぼ完璧な「誤解」が発生したと言っていいのだろう。いや、「誤解」が並外れた策士によって誘導されたと言える。その上、能天気なマス・メディアは、自身が大いに加担していたことをも棚に上げて、「一点突破」の戦略が優れていたとか、やれ「信長」的であったとか、恥ずかしげもなく無定見ぶりをさらけ出している。つまり、そんなに呑気なことを言っていられる場合ではなくなっていることをリアルに受けとめていないわけだ。
 この「現代日本の悲劇!」の推移を「誤解」という視点で振り返るならば、大雑把に言えば、「三重の誤解」がまかり通ってしまった、あるいは「三重の誤解」が画策されたと言っていい。それらは、「構造改革」であり、「郵政民営化」であり、そして「改革」だったと言える。この三つの抽象的なままの言葉がとっかえひっかえ「アイ・キャッチャー( eye-catcher、広告の中で、見る人の目をまず引きつけるもの)」として差し出されて、「誤解」の渦が引き起こされたと分析できる。
 論理学では、「トートロジー( tautology、同語反復 [ 定義する言葉が定義されるべきものを言葉通り繰り返す定義上の虚偽のこと ] )」という概念がある。例えば、「正義」とはなにかを説明するのに、「正義とは、正義に反するものではないもののことを言う」といったマンザイ的な言い逃れだと考えていい。

 どうして、「構造改革」や、「郵政民営化」や、そして「改革」が、「トートロジー」であったかと言えば、コイズミ氏の口から、これらのどれひとつとっても真摯な定義づけが聞かされていなかったからだ。それでいて、これらのひとつが説明される時には他の言葉を自明のごとく使い、逃げ回ってきたからなのである。
 「改革」という言葉で思い起こされるのは、「改革なくして成長なし」というワン・フレーズであっただろう。ここでも、しっかりと「改革」の定義は避けられている。「成長がないのは困るなぁ」という漠然とした印象だけを与えているわけだ。
 何人もの子持ちのオヤジさんの頭の中では、一国経済の「成長」、会社の「成長」、子どもの「成長」、そして丹精込めた庭木の「成長」などのイメージが一緒くたになって押し寄せていたかもしれない。そして、「改革」とは、そんなこんなのすべての「成長」のためのおクスリなんだと括った理解、すなわち「誤解」が成立していたに違いない。
 そして、まず、この「誤解」が浸透することで、「構造改革」は説明がなくともわかったような気分にさせられていく。「『改革』を『構造的』にやるんだろうから、悪いものではないらしいな。下手に、王様は裸だ、なんぞと言うようにバカをさらすこともない……」と、「誤解」のうちに押し黙らされてしまったに違いない。
 「構造改革」には、次のような見解もあり得ることが消し飛ぶことになってしまうのである。
<構造改革政策は日本の経済社会を生きにくい社会にしてしまうおそれがあります.日々の生活が株価の動きに大きく左右されてしまう社会,不安定で不合理な社会,お金本位でお金を稼ぐことが第一とされる社会,貧富の差の広がる社会,職に就いていても常に失業の不安におびえていなければいけない社会,そうした下で言いたいことも言えない社会,力のない人や貧しい人が切り捨てられる社会――そうした社会になってしまうおそれがあるのです.>(山家悠紀夫『「構造改革」という幻想』岩波書店)

 そして、「郵政民営化」という取って付けた「緊急課題」を「改革トートロジー」の文脈に引き込み、有権者の「誤解」をさらに煮詰めたと言うべきであろう。
 人々の生活において、個人的な人間関係や消費生活上でまま発生する「誤解」は、笑える材料として微笑ましくもある。しかし、福祉の切り捨てや、軍事問題も含む、いわば人命に関わる案件を扱う国政にあって、有権者の「誤解」という問題はシリアスに見つめるべきものであろう。
 しかも、選挙後のマス・メディアのあり方に接していると、そうした「誤解」を「演出」したコイズミ氏を、優秀な「リーダー」だと言って「誤解」を増幅してさえいるかのようで、むしろそこに危うさを感じてしまうわけである。「訴求力」の王道的パワーと、「誤解」誘導へと踏み込んだ禁じ手とを「誤解」してはならない。
 それにしても、「誤解」というものは、必ずいつかは解かれるものであろうが、できれば、多くの者が「誤解」に陥っている最中にそれをそれとして見抜く自立性や先見性を持ちたいものだ…… (2005.09.15)


 薄曇で、気温もほどほどの今日あたりは、気分まで落ち着かせてくれる。何かと世知辛い昨今は、こんな日和(ひより)が実にありがたい気がする。
 事務所からちょっと外出した際に、時間帯によるが、近所の教会付属の幼稚園児たちが親御さんたちの迎えで家に帰る姿を見かけることがある。母親の自転車の前や後ろの籠に収まって、はしゃいでいる小さな姿は実にかわいいものだ。
 今朝は今朝で、ベビーカーに乗せられた赤ん坊が、突き出した両足を、おもしろがってのことであろう、思いっきり上下にブランブランと振り続けているのを見かけた。クルマの窓越しに思わず覗き込んでしまったが、本人はまじめくさった顔をしていた。ベビーカーの進行で弾みがついてなのかそんなことができるのを得意がっていたようである。

 小さな子どもは、かわいいし、何をするにも一生懸命であるような素振りが見ていて楽しい。だが、そんな姿を見るにつけ、こうした子どもたちがいろいろな社会矛盾によって萎縮し、悲痛な顔つきや、寂しげな俯き加減の姿へと次第に変貌していくことになるのだろうかと想像してしまう。考え過ぎといえばそうなのであろうが、子供たちの天衣無縫な明るさが、選ぶことのできない社会環境の拙さなどによって、猛烈なスピードで汚染されていくことを、どうしても懸念せずにはいられない。

 昨晩のTVの報道番組(筑紫哲也の「NEWS23」。今、報道TV番組で「気を許して」観ていられるのはこれくらいしかなくなった!)で、筑紫哲也氏が、フィンランドの教育環境をレポートしていた
 筑紫氏が、「フィンランドが自慢して輸出しているものは、『木材』と『頭(=優れた人材)』ということですね」と首相に問うと、「いや、それは昔の話です。現在では『エレクトロニクス(携帯端末でシェアのあるアキア!)』と『頭』です」と応じていたのが印象的であった。
 が、もちろん最も印象に深かった点は、いわゆる「落ちこぼれゼロ」を目指す教育の制度と環境であり、これと対をなす「先生が尊敬される社会的空気」ということであった。子どもたちの学力という点での国際比較でも、フィンランドは、「読解力」で世界一、「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」でも上位を独占する水準だそうで、その秘密が、「落ちこぼれゼロ」に向けた国中こぞっての努力ぶりだという。
 まず、「読解力」という思考の基礎的かつ包括的な能力を重視している点が見事だと思えた。自国語でしっかりと考え抜ける力をこそ何よりも大事にするという姿勢が卓見だと感心したのだ。
 そのために、読書を推奨し、図書館がこどもたちにとって楽しい空間となるように工夫もしているようだ。子どもたちは、それぞれ読後に、「五つ星評価」をすることになっているらしい。「みんなはいい本だと評価しているようだけど、ぼくには合わない本だと思った」などと独自評価をする子どももいるらしい。

 「落ちこぼれゼロ」というキー・コンセプトが素晴らしい。日本の教育や社会の現状の拙さと比較するならば、この点をこそわれわれはもっと凝視すべきだと思えたのである。 フィンランドは、「頭」を輸出する(?)「人材大国」を目指しているらしい。いわば「教育立国」の国だと言えるのかもしれない。で、その第一歩、大前提が、「落ちこぼれ」を生み出さない、という鉄則となっているそうなのである。
 これは実に、未来を見つめ、個々人を大事にする政策に違いないと思えた。この国で「登校拒否児童」や、そして「ニート」などの比率が一向に減らない根本原因は、教育というものが、個々人の生き方を豊かにするものとしてではなく、競争と選抜のために、極論するならば「弱肉強食」のために「利用されている」からではないのか、と……。
 すべての人が「知的」な状態を確保する時、ますますインテリジェント化傾向を辿る産業の、その国際競争力はおのずから発展するはずであろうし、国の政策自体にしても合理的な選択がなされるのであろう。また、この国のように、結果的には限られた情報しか与えられなかったり、「誤解」と「煽動」がまかり通る現実というのは、本を正せば、教育が粗雑に扱われている結果ではないかと思えてならない。
 とりわけ、知識獲得偏重の愚を退け、自身の頭脳でものを考えるという基本中の基本を子ども時代から培わせることが何よりも求められていると、そう思う…… (2005.09.16)


 いよいよ朝晩が涼しくなった。今朝のウォーキングでは、半そでのシャツで涼しい風を感じたし、ほんの少し前には、シャツもまるで水に浸けたように汗でビショビショとなったものだが、今日はやや湿ったかという程度でおさまってしまった。汗をかくことが決して運動量のバロメーターというわけでもないのだが、いざシャツがビショビショにならなくなると、なんだか物足りないというか、遣り甲斐がそがれるというか、今朝はそんな妙な気分となったものだ。
 猛暑だった頃には、朝と言えどもまぶしい陽の光と暑さで、周囲の風景を落ち着いて眺めるといったふうではなかった。が、今日当たりは、幾分目に入る光景に意を注ぐことができたような気がした。遊歩道に沿った植樹の中にはキンモクセイが混ざっているのだが、まだ、黄褐色のつぶのような花は見かけることはできない。しかし微かにその特有の香りが漂っていたかもしれない。秋本番になると、キンモクセイのあの澄んだ香りが立ち込めるようになるのだと思うと、小さな期待感が生まれてくるようでもあった。

 ウォーキングから自宅に戻って、居間で一服していた時、首筋にかゆみを感じて手をやると、5ミリほどの小さな青虫が指に付いていた。何という昆虫の幼虫だかはわからなかったが、しゃくとり虫のような動きを見せていた。もっと大きいものであったらドキッとでもするはずだが、あまりに小型なものだったのでかわいらしくさえあった。きっと、街路樹の下を通った際にでも、落っこちて来たのだろう。
 指に乗せたまま表の庭に出て、植木の葉の上に逃がしてやることとした。別に、慈悲深いといった心境なんぞではないのだが、ちっぽけな生きものでも命あるものを勝手に抹殺することはないと思ったりする。
 庭の植木の手入れが行き届かないせいもあって、時々、屋内に小さな昆虫が舞い込んだりする。見つけた際には、概して紙っぺらで囲うようにして庭へ放してやるようにしている。
 いつぞやは、風呂場にコガネムシのような昆虫が侵入していたことがあった。当然、紙っぺらが風呂場にあるわけはなく、捕まえるのに苦労した。結局、湯を汲む手桶の中に掬い取るようにして捕まえ、窓から逃がしてやった。そんなふうにして風呂場への侵入者を逃がしてやった覚えがあるのは、このほかに、蜘蛛、ナメクジ、ムカデなどであろうか。

 わたしに限らず、家内も生きものに手をかけるのがいやな方なので、わが家に侵入した昆虫たちはみな「命拾い」をしていることになる。
 その「命拾い」の代表格が猫たちだと言えようか。現在、内猫として飼っている二匹の猫たちは、いわば「よんどころなく」面倒を見ることにしたものたちである。一匹は、犬の散歩の途中で、捨てられた畑から道路へとミャーミャー鳴きながら這い出てきたところに遭遇してしまったのだ。まさに「よんどころなく」拾って帰ることにしてしまった。
 もう一匹は、どこぞの家からか追い出されたかのような猫で、飼ってくれとせがむ様子がありありであったため、「よんどころなく」家の中に入れてしまったのだ。
 この後にも、近所で「夜逃げ」をした一家が飼っていた猫たちが、腹を空かして庭に入り込んできたため、餌だけは毎日与えることになってしまった。さすがに、数匹を家の中で飼ってやることはできなかったからだ。しかし、すっかりなついてしまって、その中の真っ黒な母猫は、夜わたしが帰宅すると、待ってました、とばかりに玄関までついて来て、餌をねだる。それどころか、その黒猫については、家内もそう言っていたが、クルマのドアを開けると車内に飛び込んで来て、シートでおさまり返ろうとするのである。たぶん、「夜逃げ」さんたちは、そんなことを許すような飼い方をしていたようなのである。
 猫にしても、幼い時代に可愛がられた思い出が忘れられないのかもしれない。自分たちを捨てたご主人であっても、ひょっとしたらいつまでも待つ気持ちがあってこの近辺から離れないのかもしれない。そんなことを想像すると、情が移ってしまい、もはや内猫用のキャッツフード以外に、外猫たち用のそれらも買い揃えることとなっている。

 昆虫たちにしても、猫たちにしても、これらを嫌う人たちも少なくはない。嫌うだけならばともかく、「無きものとする」薄情な姿勢もまま見受けられたりする。決してわからないわけでもないのだが、何と言っても彼らよりも人間様は強くて、かつハッピーなんだから、その「おこぼれ」を少し施してやったって決してどうということもないんじゃなかろうか…… (2005.09.17)


 午後6時を知らせる鐘の音、と言っても市内を流れるスピーカーの音であるが、窓の外から聞こえてくる。もう外は薄暮以上の暗さとなっている。ちなみに、今日の東京地方の「日の入」は17:45だそうだ。道理で、6時なら暗いわけだ。朝の日の出も、とっくに5時より遅れて、5:25になっているようだ。
 今日の日中は決して秋を感じさせる涼しさではなく、むしろ蒸し暑くさえあった。秋と言うならば、この日暮れの早さ、今、リンリンと聞こえている虫の鳴き声、そして日中に見かけるとんぼたちといったところであろうか。

 とんぼと言えば、今日とある畑で、笑ってしまった。しばしば見かける光景に、農作業用としての黒いビニールシートが地表を覆っているのがある。所々に種だか、苗だかを埋め込む直径数センチの穴があけられたビニールシートである。
 その上をとんぼが飛んでいたので、やっぱり秋なんだよなぁ、と思い眺めていたら、どこかで休もうとでもしたのだろうか、そのシートの上に着地しようとしたものらしい。
 ところが、ビニールシートのため「掴みどころ」がなかったためであろう、とんぼが一瞬コケてしまってぶざまな格好となったのだ。「オット、いけねぇ」とでも言っていたかもしれない。すぐに体勢を整え、近くの苗の葉の先端に掴まり、ホッとしているようであった。

 時々思うのであるが、われわれ人間も、時代環境の激変で右往左往しているわけだが、昆虫をはじめとした小動物たちも、結構、不慣れな環境で目を白黒させているのではなかろうか。彼らが、環境の変化に対して順応していくのは、いわば「適者生存」や「突然変異」によって形態変化をするものだろうと推測するのだが、そのためにはかなりの年月を必要とするはずである。ところが、人工的になされる自然環境の激変は、彼らにしてみれば、「エッ、そんなこと聞いてないよ〜!(DNAで伝えられてないよ〜)」ということになるのであろう。
 だから、とんぼとて、畑という空間には自分たちの手だか足だかの爪にて掴めないようなモノはないと、そう信じていたのかもしれない。ところがどっこい、地べたが突然、アイススケート場の氷のフィールドか、高級なビルの床のようにツルツルとなっていたとしたら、どうしてもその行動にエラーが生じてもいたしかたないのだろう。
 こんなことはありえないことのようも思えたりもするわけだが、もっとシリアスな話としては、森などの中に立てられた建物で、採光用の大きなガラスの壁に、森の野鳥たちが激突して死んでしまう例など枚挙にいとまがないと聞いたこともある。
 また、釣り糸であるとか、プラスチックなどの自然還元性のない人工物が、魚類や鳥類に地獄の苦しみを与えていることも例示できる。

 自然環境保護という言葉は、実のところ耳たこができるほどによく聞くものである。しかし、その場合の環境保護どちらかと言えば、人間の生活の安全のためという括りで云々されていそうである。森林伐採問題にしても、下流地域の洪水との関係で水系管理の問題として議論される。まあ昨今では、CO2 の問題というマクロな視点でも関心がむけられてはいるが、強い関心は、人間生活への直接的影響という点での自然環境保護というのが一般的なのではなかろうか。
 こんな風潮であるがために、いわゆる地球上での生物における「絶滅種」という壮絶な事態が物凄いスピードで進んでいるようである。ひとつの「種」が発生・分化していくには、多分途方も無い年月がかかったと思われる。それが、近代・現代という、地球環境にとっては一瞬の時間幅のうちに取り返しのつかないかたちで消去されてしまう、というのはやはり納得し難いことだと思えてならないわけだ。
 昨今では、ITの発展によるロボット製造のハイエンドや、バイオ・テクノロジーの発展による生命の「加工」技術が人々の関心を誘ってもいる。それはそれでいいような部分もあるが、もっと、生物や命というものの深遠な背景にこそ目を向け、そしてそれらを「壊さない」という「臆病さ」もあっていいように思うのだ。

 話はやや横道に逸れるが、昔は、ヤクザのような日陰者しか口にしなかった「ぶっ壊す」なんぞという言葉を、軽々しく口にするのは「壊される」ものが何であれいいとは思えないということにもなる。多分、「創造的破壊」という「レトリック!」がいつの間にか無責任に言われ、受け入れられてしまった流れがあってのことなのだろうが、歴史上で単なる破壊的な革命というものが成就したためしがあっただろうか。そこにあったのは、知性の聡明さへの侮蔑でしかなかったはずではないか。
 現代という「壊れた」時代にあって、もっとも重要で単純なことは、「一寸の虫にも五分の魂」であるのかもしれない。そこから、取り返しようのない「破壊」ではなく、すべてを生かしたままでの「制御」という方向が垣間見えるように思う…… (2005.09.18)


 自宅の敷地はもと竹藪であったらしい。だから今でも庭の隅に竹の根が這い、五、六月には筍とは言えない細い竹の芽があちこちから出てくる。
 竹の姿は嫌いではないので、大体、三、四メートルに育つまで放置していることが多い。それから、あまりにも鬱陶しいということで切ることになる。一センチ、ニセンチの直径の竹のため、利用するといっても難しく、そのまま捨ててしまうことが多い。
 しかし、どうしてももったいないという気がしてならなくなり、もう何年も前のことだが、玄関脇に、半間ほどの「竹垣」なるものを作ったことがあった。黒い縄で編むようにして竹を活用した物隠し用といった垣根は、まずまずの見た目であり近所の人の評判も悪くはなかった。が、もう何年も風雨にさらされ、ひどく痛んでしまった。
 なんとかしなくてはと思っていたら、時々出かける日曜大工センターで、そこそこの値段の手頃な出来合いの物を見つけることとなり、購入した。自家製の竹を活用するという未練もなくはなかったが、丹精な手作りのもので、さぞや心ある年配の職人さんが作ったものという感じであったので、活用させていただくことにしたのだった。

 あいにく今日は、作業日和(びより)というわけには行かず、目一杯の残暑であった。
朝のウォーキングを済ませた後、今日は「敬老の日」ということもあったためおふくろへのちょっとしたプレゼントを見繕い、そしてせかせかと作業に取りかかった。空腹もそっちのけで事に当たって、作業は順調に進んだのだったが、急に気分がおかしくなり始めたのである。まさしく気持ちが悪いとしかいいようのない症状であった。
 通常であればとにかく空腹感が急きたてるはずのところだが、それがまったく感じられず、ただただ気分が悪くなってしまったのだ。変わったことをした覚えがないかを振り返ってみると、今日に限ってアイスコーヒーを立て続けに飲んだことに思い当たった。汗をかいてやたらに喉が渇くところから、空腹であったはずの胃袋にやたらとアイスコーヒーを流し込んでしまった。ひょっとしたら、それがきっかけとなっているのかもしれないと感じている。
 ただ、久しぶりに朝から、偏頭痛らしきものを感じていて、そんな時にはコーヒーが効き目があることもあり、そんな無茶なことをしてしまった嫌いもある。とにかく、今これを書いていながらも、不快な気分である。まあ、今日はこんなところで無理をせずに閉じることにしておく…… (2005.09.19)


 昨夕に生じた気分の異常は、夜には収まったものの、久々に困り果てた。
 結局、原因はつかみかねているが、持病の偏頭痛が引き金となって、どうも「交感神経」に乱れが生じたようだった。多分、昨日は調子に乗って朝から身体を酷使した上に、食事もとらずにムリをしたことが、偏頭痛の兆しに拍車をかけてしまったのかもしれない。 ちなみに、作家の五木寛之氏も偏頭痛で悩んでこられたそうだが、処方としては、兆しを制することだと書かれていた。五木氏の場合、兆しが表れたら、まるで台風が通り過ぎるのを待つがごとく仕事をやり過ごして引き篭もるとかである。
 確かに、症状が始まってしまうと、頭痛薬などを飲んでも一向に効かないし、おまけに自律神経のバランスまで崩してしまうと何とも惨憺たる気分に突入してしまう。まるで「台風」のような被害を、いかに小規模に抑え込むか以外になさそうである。
 この間、しばらく偏頭痛から遠ざかっていたため、例の漢方薬「丹参(たんじん)」の服用を怠けてしまっていた。そこで急いで服用を再開したのだが、今朝ほど右脳に感じていた痛みがやや軽減してきたような感じである。血液をサラサラにするという効能の漢方なのである。また、しばらく几帳面に飲み続ける必要がありそうだ。

 それにしても、人間の身体はナーバスであり、その上、神経系やホルモン系のメカニズムはなおのこと微妙なものだと痛感する。もっとも、それらのメカニズムというものは、感情の動きとオーバーラップしているのだから、当然のことなのかもしれない。
 ところで、昨日の症状はそこそこ冷静に確認していたが、どうも、偏頭痛の余波として、確かに自律神経の乱れを誘発していたようであった。具体的に言えば、「交感神経」をやたらに高ぶらせていたようだ。その証拠に、空腹であったにもかかわらず、一向に空腹感が生じなかったのである。
 ものの本を開いてみると、次のような文面に遭遇した。

<筆者は長年、剣道をたしなんできたのですが、今でも強い相手と試合をすると思わず緊張します。この時の身体に起こる変化を思いつくままにあげてみると、次のようになります。
1 目の瞳孔が広がる――相手の動きをよく見るため
2 心臓の鼓動が速くなる――筋肉と脳に血液を大量に送り、その働きを高めるため
3 呼吸が速くなる――エネルギーを出すために大量の酸素が必要
4 体がふるえる(武者ぶるい)――筋肉に力が入るため
5 手に汗が出る――竹刀を持ちやすくするため
6 顔が青くなる――顔の血管が収縮するため
 細かく見れば、このほかに、毛が逆立ったり、胃が働かず胃液の分泌が止まっていることもあるかもしれません。このような身体の変化は、剣道の試合に限らず、ひどく緊張したときには誰にも起こることです……>(貝谷久宣『脳内不安物質』講談社 1997)

 別に「緊張」すべき場面に遭遇したわけではないにもかかわらず、これらに似た体内変化があったかもしれない。とりわけ、「胃が働かず胃液の分泌が止まっている」というのは、空腹であったことは確かにもかかわらず、空腹感がいっさい生じなかったという点において決定的であっただろう。以前の、程度がひどい場合には、「非現実感、自分が自分でない感じ」(同上)という始末に負えない気分を経験したこともあるが、いずれも「交感神経」の暴走(?)だということになりそうである。

 昨日の場合のトリガーは、身体的ストレスを軽く見てしまった点にありそうだが、自身の「耐用年数」のこともしっかり頭に入れたセルフ・コントロールを心がける必要がありそうだ。そう言えば、昨日はこともあろうに「敬老の日」であったわけだ…… (2005.09.20)


 言うまでもないことなのだろうが、現在、大半の人々がビジネス指針、生きる指針に右往左往したり、うろたえたりしているものと思われる。かく言う自身も、こうした分野には強いと自負していたにもかかわらず、正直言って右往左往気味である。
 原因は、やはり、現状把握の難しさということになるのかもしれない。経済動向だ、消費動向だに限らず、いやそれら自体もつかみ所がないわけだが、それら以外にも見えないことや、従来の発想の延長では理解し難いことが多すぎる。また、時代の鳥瞰図を示すといった大胆で有能な哲人もいなくなったと言ったら言い過ぎなのであろうか。
 細分化と専門分化とが時代をズタズタに引き裂いている現状では、「じゃあ、現代とは一体どんな時代だというのか」という切実な問いに答えようにも答えられないのが実情であるのかもしれない。みんながみんな、断片的で印象的なちっぽけなイメージを手にして、茫漠とした時代環境を不安げに見上げている、というのが現状ではないか。
 まあ、そんな中で、無責任なハッタリ屋だけがのさばり、気弱な人々が引き回されたりしているのかもしれない。とかく、こうした混迷の状況においては、事態が客観的に掴みづらいだけでなく、知ったか振りをしつつハッタリをかます者たちの言動が、余計に事態を撹乱しているはずなのである。
 そして、困ったことに、不安にさらされた者たちは、事態が正確にとらえられているかどうかよりも、白黒ハッキリした断言を好むものでありそうだ。だから、なおのことハッタリ屋の出番となってしまうわけだろう。しかし、政治家たちやマス・メディアなどの無責任ぶりにはもはやウンザリ気味だと言うべきか。

 こうした状況にあっては、何よりも状況認識、現状認識という点に比重を置かなければならないと痛感している。昨日、一昨日と、自身のちょっとした身体のトラブルから、身体の内部の不可解さに目を向けたが、不可解なのは、身体の生理的な仕組みについてだけではなく、この時代や社会とて、立派に不可解かつ不透明極まりないと思える。
 苛つく気分や、投げ遣りの気分さえ助長されもするが、ここはやはり、可能な限り冷静になって現状掌握に努めなければならないようだ。身体にあっても、自覚症状をどれだけしっかりと追求できるかで、誤診が防げるというものであろう。
 関心が向くのは、決して政治状況だけではない。いやむしろ、経済領域、ビジネス領域の変化とその掴みにくさに手を焼いているのが実情である。そして、それらへのヒントを得るという意味においても、いわゆる社会現象に対して否が応でも目が向くわけなのである。

 時代の変化は、特にこの国の場合には、種々の制度の変化によって上から引き起こされる場合が少なくない。金融制度の変化によって経済状況が一変してきた昨今の状況はそのいい例だと言える。その延長線上に、不況と「構造改革」路線という経済政策が、ダイナミックに経済社会を変貌させてしまったはずである。貧富の差が激しい「二極分化」経済が着々と推進されていることにもなる。
 また、ケータイの普及やインターネット環境のような技術的な環境変化が時代と社会の状況を大きく変えていくという場合もある。これとても、関連法制度の変更を契機にしていたということができるかもしれない。
 こうした構造的な枠の中というか、下にあって、さまざまな社会事象が生じていると言える。残念ながら、人々による社会事象が制度を変えていくという、オーソドックスなあり方がどうも希薄な時期が続いているような気配ではなかろうか。
 急激にもたらされた環境変化は、今のところ、人々の苦痛と不安を掻き立てることだけに終わってしまっているのかもしれない。バカなマス・メディアは、スポンサーの圧力で現状を覆い隠していそうであるが、環境変化の下での人々のリアクションは、多くの場合社会病理や犯罪の深刻化によりつながっていそうな雰囲気でさえある。

 やや極端に言うならば、自分は、あるいはわれわれは、現在この国が蝕まれてしまっている客観的な現実をほとんど知らないでいる、あるいは知らせられないでいる、と見なした方が当たっていそうな気がしてならないのである…… (2005.09.21)


 「デジタル・レコーダー」に音楽以外の情報コンテンツを書き込んで聴くという方法には、以前から関心を寄せていた。( ex.2004.09.11 「情報処理ツールとして注目したい『デジタル・レコーダー』!」)
 関心を寄せるに足るテーマとなることができたのは、「 MP3 」のような高音質の圧縮ファイル方式の普及と、これを活用できる「 iPod 」のような携帯プレーヤーの登場ということになろうか。もっとも、自分は、圧縮ファイルとしては、「 MP3 」よりも高圧縮な「 .wma 」ファイル=「Windows Media Audio」ファイルを使っているし、携帯プレーヤーでは、特に大きな理由はないが、アップルの「 iPod 」ではなく「Createve」の「 Zen touch 」なるものを使っている。
 このアップルの「 iPod 」が登場した際には、さすがアップルだけあって目のつけどころがいい、これはいけるな! と直観したものだった。かつての、SONY の「 Walkman 」と並ぶアイディアだと思われた。やはり群を抜く売れ行きだそうであり、おこぼれに預かろうとして SONY を含む多くの他メーカーも同様の製品を作っているようだ。
 インターネットのサイトから、「 MP3 」の音楽ファイルをダウンロードして、自分の好みに応じたファイル集を作ることができるというアイディアこそが好感を持たれたのであろう。「 iPod 」は、製品のハード面がどうこうというよりも、アップルならではの製品の斬新なコンセプトによってヒットすることができたと言える。

 わたしがこの種のツール環境に関心を持つのは、多くの人がそうであるような、音楽への強い興味というのではない。興味がないというのではなく、それ以上に「耳から文字コンテンツを」取り込みたいという動機がある。
 TVもさることながら、子ども時代から青春時代に至るまでラジオ番組に結構親しんできたということもあるのかもしれないが、ジャンルを問わず情報を耳から聴くことに親近感があるのだろうか。小説の朗読、ラジオドラマなども楽しいし、講演番組や、座談会なども十分に楽しめる。TVは目も「奪われて」しまうため行動が拘束されてしまうが、ラジオやその他の聴覚メディアは、「聴きながら」という「ながら」性がありがたい。
 いや、おそらくそうした「ながら」性というメリットにとどまらず、想像力や思考のメカニズムという観点からいっても、何がしかマッチするものがあるのかもしれない。
 たとえば、自分は「落語」を聴くことが大好きであるが、どうもこれは観るよりも「聴く」に限るのではないかと独断している。演芸会の舞台中継などをTVで観ることも、それはそれとして悪くはない。落語家の表情や身振り手振りが興を添える効果は確かにある。
 が、音声のみによって、純粋に「話術」対「聴き手の想像力」という関係に没頭するのが、わたし流の「落語鑑賞」なのである。

 ところで、最近の米国では、「 MP3 」−「 iPod 」といった環境の浸透もあってか、音楽以外の「オーディオ」コンテンツを聴くという動きが広がっているという。いわゆる「オーディオ・ブック」ということになるのだそうだ。

< オーディオ・ブックとは、カセット・テープ、あるいは、CDによる録音方式の耳で聞く雑誌である。これは昔からあったが、最近これに、新方式のMP3メモリ方式のデジタル・ブックが加わって、新しい世界が広がっている。これらデジタル・ソフトは、アップルのiPodなどで聞く、あるいはネットでダウンロードしてコンピュータで聞くなど、利用者が好きな所で聞ける。……
 日本ではMP3プレーヤー(ここではiPodなどを含む携帯型デジタルプレーヤーのこと)は、もっぱら音楽のプレーヤーと考えられているが、アメリカでは、少なからぬ人がそれを使って、オーディオ・ブックを聞いているのだ。……
 「どういうとき、どういう場所で聞くか」という問いに、圧倒的に多かった答えが、「車の中(53%)」である。アメリカ社会は車社会だから、通勤も基本は車である。その他の仕事と生活で車の中で過ごす時間を合わせると、1日数時間は車の中という人が多いから、車の中で労せずに本が読めたら、こんないいことはないわけだ。……>(立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」 第43回 「車社会アメリカが切り開くiPod&ネットの近未来」 [2005.08.25])

 立花氏は、米国での「オーディオ・ブック」的世界の広がりは、「アメリカ社会は車社会だから」、「MP3プレーヤー」の普及によって拍車がかかっていると言い、日本に関しては、次のように観測している。

<この商売、日本ではどうなのだろう。アメリカ同様に流行るかといえば、そうはならないのではないか。車での生活時間が少ないということもあって、本は聞くより目で読むほうが日本では主流だ。本はやはり紙の本を持ち歩いて読むという生活スタイルが、今後とも日本では主流でありつづけるのではないかと思う>(同上)

 ただ、必ずしもそうとばかりは言えないような気もしている。若い世代の「活字離れ」傾向もある。「老眼」進行の高齢世代も増える。立花氏も、
<アメリカでもそうだったが、語学の学習教材などから一挙にマーケットが広がるかもしれない。>
と、結びで書いているが、この国での「オーディオ・ブック」的世界の広がりは、決して埒外ではないような気もしている…… (2005.09.22)


 お彼岸の墓参りで菩提寺に出向いた。いつも通りの自分の役割りである墓の掃除を終え、おふくろと家内が花や供え物をあしらっている間、タバコを吹かしてぼんやり空に目をやっていた。すると、トンボが群れをなして飛んでいるのに気づいた。
 ふと、「極楽蜻蛉(ごくらくとんぼ)」という言葉が浮かんできた。うわついたのんき者をののしっていう言葉である。
「ウチの人ときたら、まったく頼りなくて『極楽蜻蛉』なんだから……」
というように、世の女房族たちの不平不満の合言葉のように使われていそうである。
 世の旦那たちは決して「うわついたのん気」をやっているわけではなく、結構、おのが立場で四苦八苦しているのだろうが、なんせ、世が世だけに奮闘努力はしていても、傍目からは「何やってんだか……」と見えてしまうのかもしれない。
 群れのトンボたちを見ていると、確かに「何やってんだか……」というふうに見えてしまう。ぶつかりこそしないで、距離をとって浮かんでいるが、一体何をしているのだろうか、短い一生のくせに、と思わされる。中には、しっかりと伴侶を得て、繋がった格好で飛んでいるものもいる。多分、そのカップルたちの目からも、他のチョンガーのトンボたちの姿は、「何やってんだか……、まるで『極楽蜻蛉』そのもの!」と映っているのかもしれない。

 菩提寺の金泉寺(こんせんじ)という寺は、相模川に近い相模原市の外れにある。中世の時代に開かれた真言宗の寺で、そう遠くはない八王子の高尾山の末寺だということである。
 実を言うと、決して先祖代々からの……というわけではない。20数年前に突然父が亡くなり、当時、自分たちは名古屋で暮らしていて葬儀その他の段取りも見当がつかないでいたのだった。そして、どうにか葬儀場は決まり、その葬儀場と縁のある真言宗の僧侶にお世話になったわけだが、その僧侶の寺がこの金泉寺だったというわけなのである。
 考えてみれば、縁と言えば聞こえはいいものの、突然の推移でバタバタと事が運ばれ、結果的にこうなったというのが実情であったわけだ。ただ、幸いと言うとヘンであるが、この寺の代々の住職もいい方であったし、お墓に関しても特に気になることもなく、また場所的にも、さほど住居から遠くなく、周辺にはやや自然が残された閑静な環境でもあるため、まずまず結果オーライというところなのである。
 もちろん、亡くなった父は、この寺のことは何も知らず仕舞いであり、仏さまは一体どう受けとめているのかが気になると言えば気になる。おふくろに言わせれば、気兼ね性な人だったから、石塀に沿った隅の位置で安心しているんじゃないの、ということになっている。

 寺の規模も、ほどほどであり、この地域の古くからの檀家たちによって支えられているようである。特にネームバリューのある寺でもなさそうであるが、むしろこうした地元密着型の落ち着いた寺であって良かったと考えている。
 境内には、行脚する姿の弘法大師像があり、失礼な言い方ではあるが、これも気に入っているひとつである。墓参りに来ると、帰りにはわたしも、おふくろも賽銭を供えて必ずお祈りを欠かさない。真言密教の祖である弘法大師こと空海の像が鎮座しているのは、とにかく心強い(?)と言うべきなのである。
 ところで、亡父もそうであるが、弘法大師さまも、一体このご時世をどんなふうに眺め、どんな感想をもらしているのだろうか、とふと考えてしまう。そう思うと、あれこれとこの時代のローカルで、細々(こまごま)としたことに関して願い事なんぞをしてはいけないんじゃないかと思ったりするのである。「それは、何のこっちゃ? 生憎、理解し難いため、自身で研鑚の上解決すべし!」とでも言われそうな気がしてならないのである…… (2005.09.23)


 秋の貴重な連休だというのに、台風の接近でぐずついた天候となっている。何となく腹立たしい。庭木の手入れをしなければならないと考えていただけに、その予定を潰されたことに腹を立てているのかもしれない。
 確かに台風は自然現象であり、腹を立ててもしょうがないことはわかり切っている。しかし、なぜだか不愉快なのである。
 不愉快な原因を探ってみると、何も自分のスケジュールを狂わされたという点だけでもなさそうだ。最近は、自然現象を、致し方のない自然現象としては受け取れずにいるのである。温暖化現象のような人為的なものの影響が無関係ではない現象を、さも自然現象だからしょうがない、というように素知らぬ面持ちでいる、そんな世相が気に入らないということになりそうである。
 これだけ台風やハリケーンによって被害が頻発しているわけだから、いわゆる「異常気象」の一環としてもっと重大視すべきだと思うし、地球温暖化現象との因果関係をより前向きに調査、研究して然るべきだと思う。
 米国にしても、続けて二度も大規模な被害を被る現状をよりシリアスに受けとめるべきではなかろうか。自然環境が、まったく従来と変わらず、まさしく自然による偶発的な出来事というのであれば、起こった自然現象からどう被害を防ぐかという点だけに終始することになったとしてもしょうがないであろう。しかし、ハリケーンの巨大化や、ある程度の台風の頻発化という現象は、やはり最近の特徴だとは言えないのであろうか。

 どこだかの新党が「信じられる日本」を、というスローガンを掲げていたようだが、どうも、現在およびこれまでのこの国は、「信じられない」と言うべきであろう。何がと言えば切りがないが、それらを貫いていたと思われるのは、「正直ではない」という点ではなかろうか。
 今頃になって、少子高齢化対策と称して大騒ぎをしているが、少子化にしても統計的数字の傾向ははるか以前から掌握できていたはずである。まして、高齢化の事態なんぞは数十年も前からわかっていたはずである。そうした事実と、それによって引き起こされる介護や年金問題などの社会現象は、なぜ時の政府が当然のことながら「先手」を打って広報し、来るべき社会問題として政治課題のテーブルに上げなかったのか。
 また、わかりやすい例で言うならば、昨今深刻化している「アスベスト」被害にしても、その事実が発覚して対応が迫られたのは何十年前の話であろうか。狂牛病にしても同様であるし、HIV(エイズウイルス)関連の血液製剤問題にしても然りだ。因果関係などが皆目見当がつかないのであればやむを得なかったが、事実を隠蔽もしくはないがしろにしてきた政府と行政の誤った体質は、不信感ばかりを助長してきたのではなかったか。その結果、「信じられる日本」であって欲しいと思う人々が出てきたり、どんな綺麗事を聞かされてもどこか安心しては信じ切れない思いが残るのではあるまいか。

 今のこの国には、世界のどの国にも負けないほどの難問が山積していると言われるが、もっとも大きな問題は、政府や官僚機構が、現状および今後の問題や課題を公明正大なかたちで国民に知らせ切っていないという点ではなかろうか。
 そして、本来は、その監視役でもあるはずのマス・メディアが、さまざまな商業的しがらみと不甲斐なさとによって、「政府広報」的役割りしか果たしていない現状がまた不幸なのだと痛感している。
 今回の総選挙にしても、確かに国民の多数は「バカ」以外ではなかった。ただ、そうあらしめられたお膳立てがあったことに目を向けなければ、情けなくて話にならない。そのお膳立てというのが、この国の現状と近未来にかかわる重要な情報が、日頃、国民の前にフェアに行き渡っていない構造なのだと思う。事実を事実として認識できなければ、どんな身勝手な思い込みによる期待感や判断が出てきても不思議ではないだろう。
 昔から、あきれるような「バカ」さ加減の人というものは、近辺にいたものである。ところが、似非「情報化」社会の現代では、指針を持たないマス・メディアが「バカ」さ加減を不用意に増幅しているがために、途方もないアンビリーバブルな現象が発生してしまうのに違いない。
 もっとも、マス・メディアには、「大衆が求めるものを与えよ」という原則もあるそうだから、「バカ」さ加減をめぐる持ちつ持たれつ関係は、ただただこの国の墓穴を深く掘ることに寄与するのだろうか。

 台風、ハリケーンをはじめとする異常気象が発している未来への警告に、しっかりと耳を傾け憂える政治家は……、いないはずだろうなグローバリズム経済諸国には…… (2005.09.24)


 「琴欧州(ことおうしゅう)」に勝たせてやりたかった相撲の千秋楽を見た。
 しかし、やはり「朝青龍(あさしょうりゅう)」の強さは尋常ではない。今場所、琴欧州は強かったとはいえ、どうしても外人相撲という印象が拭い切れないのと、今ひとつ周囲を圧倒する何かに欠けているような雰囲気に対して、朝青龍の類いまれな機敏さ、勝負の場を制するがごとき迫力は、やはり凄いとしか言いようがない。相撲全盛期の頃に登場していたとしても、その時はその時で頭角を現していたはずであろう。
 とにかく強さを納得させる存在というものは、瞬発力を存分に発揮することに長けていると思われる。しかも、その発揮のしどころを不思議なほどに的確に掌握している。
 こうした相手に挑むためには、その瞬発力を封じ込める状況作りを先ずは考えずして勝ち目はないのかもしれない。
 ちらちらと、先の総選挙における「コイズミ方式」と「朴とつ岡田方式」のことを振り返ったりしているわけだ。やはり、先制パンチを打たれてしまった「岡田」が、機敏に鋭いカウンター・パンチを打ち込むことが必要であったとは、誰しもが思ったことであろう。
 とともに、勝負運を引き寄せるには、プラス条件というか、ボジティブ条件というか、そうした性格のもので身を固める必要がありそうだ。
 朝青龍の表情をTVで拝見するかぎり、強気は強気で間違いないのだが、その表情はいかにも「福々しい」という印象が拭い切れない。運が運を呼ぶと言うが、六連覇を成し遂げる数珠繋ぎの成功の膝元では、「福々しさ」が自動生成されるようになるのだろうか。 民主党の隠れ参謀役を引き受けているのかどうかは知らないが、あの宮台真司氏が先の選挙中に、「岡田」氏の表情の中に「楽しさ」といったものを要求していたらしい。敵を批判する苦しい表情を超えて、自らが「楽しそう」であることが有権者を動かす上で必要だと述べていたようである。これは確かにもっともなことであり、この世は「正しい」ことへと動いていくのではなく、「楽しい」ことへと動いていくものなのであろう。
 世直し運動にしても、「しかめっ面に汗」という雰囲気から、「余裕の笑顔に汗」というムードに包まれたポジティブ条件が備わった時に、どんどん周囲の者を巻き込んでいく、ということなのだと思われる。60年代のヒッピーや反戦運動はその点ではポイントを突いていたはずであろう。運動論、組織論を考える際には、主義主張を実践することが「楽しさ」に繋がるという点のアピールが欠かせないもののようだ。

 ところで、今日は、自分も「強い存在」を味方にして事をなした。と言っても社会変革なんぞには無縁の微々たる野暮用である。
 実は本来は昨日に予定していた庭木の「荒療治」なのである。いつの間にか数メートルにも伸びてしまった梨の木の背丈を半分ほどにしなければならなくなったのだ。上層部の枝が隣家の庭にまでせり出し、迷惑を及ぼすに至ったからだ。またもうひとつの理由もあった。来月から、ゴミ収集の仕組が変わるそうだからである。有料となる上に、収集日が減少し、しかも各家が自宅前に出さなければならなくなるのだそうだ。
 これに、家内が神経を尖らせ、質量ががさばる庭木の剪定ゴミは今月中に始末して欲しいというのであった。
 しかし、十年以上の成長を遂げた梨の木は、見るからに「立派」になり過ぎてしまい、仮に実がなったとしても手が出せない高さになってしまったのである。もっと早めに枝の剪定をしてやらなければならなかったのだが、怠けてしまったわけだ。
 大変な作業となるであろうことは薄々感じ取っていた。のこぎりを持ち出しての手作業では、高さもあるし、上部の決して細くはない幹を切断しなければならないし、これは大変だと見積っていたのである。

 そこで一計を案じたのが、小型の「チェーンソー」を使うことであった。といっても、それとて十分にリスクがあった。ホラー映画などでそいつを振り回している悪者の姿は頭にあっても、使ったことがなかったのである。見るからにアブナそうだという印象があったものだ。それも、長い梯子と枝とを不安定な足場として操作するというのは、常識人であれば却下する選択であるかもしれない。
 だが、たまたま、ホームセンターにて「展示品大処分」で破格の値段で展示されている「チェーンソー」を見つけてしまったのである。それが、昨日であった。
 ところが昨日は小雨混じりでぐずついた天気であり、今日はといえば、台風の影響で大きな梨の木は、ゆさゆさと揺れているではないか。かなり躊躇する気分が支配したものだ。が、やるしかない、との覚悟をしたわけである。

 先ずは、「チェーンソー」というものが、どの程度の威力で木材を切断するものかを知る必要を感じ、地上において手近な木材を「試し切り」してみる。実に素晴らしい切れ味なのである。朝青龍の類いまれな機敏さに匹敵するほどに、木材は見事土俵の外へ蹴散らされるような感触であった。
 しかし、その分、操作ミスがあれば、かけがえのない自分の腕、指、下手をすれば首までアッという間にちょん切ってしまいかねないとも思えた。正直言って、ゾクゾクとする不安と興奮であった。これを、不安定な足場で、枝が邪魔をする中で操作するのはかなり注意を要すると感じざるを得なかった。
 梯子の高さが三、四メートルはあろうかと思える箇所に立ってみた時、折からの強風で梨の木が左右にゆさゆさと揺さぶられた。不安は募る一方であった。
 そして、いよいよ「チェーンソー」を携えてその足場に身を構え、先ずは、邪魔になる枝を切断した。アッという間の瞬時に枝は落下していった。で、いよいよ幹の切断である。切断箇所から上部には三メートルほどの幹と枝葉がついているため、それがどのようなアクションとなるのかも不安であった。上部の幹の重みで、「チェーンソー」が挟まったりして不測の事態が起こることも十分に考えられた。
 切り込み自体は、実にスムーズに進んだ。さすがに切れものの「チェーンソー」である。しかし、最後まで切り込むことは危険かと思い、「二皮ほど」を残すことにしてみた。危ないと直感したことは避けるべし、である。いや、「チェーンソー」を用いること自体が端っから危ないと直感されたのではあったが、それは不問に付す。
 「二皮ほど」を残す深手を負った上層部の幹は、折からの風で左右に大きく揺れた状態となってはいたが、へし折れることはなかった。そこで、ロープを掛けて、地上から力を加える方法を採ることにしてみた。で、そいつは、ゆさっという格好で地上に落ちてきたのであった。

 その後、かなりの緊張が立て続けのタバコを促し、一息ついてみると、よくもまあこんな危ないことをやるものだ、と実感するとともに無事に事がなせてホッとしたものであった。その後も、山となった枝や幹を、今度は気軽な気分で「チェーンソー」を操りながら、収集ゴミに匹敵するサイズに切断し続けなければならなかった。
 「強い存在」を、集中力をもって操るならば、手作業の仕事は効率的、効果的にこなし終えてしまうものである。だが、「強い存在」というものは、扱い方を間違えた時にも、「強い存在」としてのマイナスの威力を発揮してしまうものであるがゆえに、集中力が欠かせないものなのである…… (「強い存在」ばかりに目を向けての叙述となってしまったが、今日、予想だにせずして「痛み」を負うことになった梨の木や、その他「荒療治」の剪定をされた樹木たちには誠に気の毒であった。ここに、詫びの気持ちを添えておきたい……)(2005.09.25)


 わたしは、従来から人間の「欲望(欲求)」というものに大いに関心を持ってきた。研究生活の時代にはそれを一つのテーマとしていたぐらいであった。その動機は、たぶん、人間の行動は「欲望」によってもたらされるものだという大ざっぱな前提的判断があったからであろう。たとえば、消費行動においても、その決定要因の大きなものは「欲望」だと考えられたし、政治的選択の行動も、根底には「欲望」というものが控えていると見なされたからである。
 ただ、「欲望」といった思い切り漠然とした概念を扱うことは必ずしも生産的なアプローチではなかった。あたかも「人間とは何か」というような途方もないテーマにかぶりつくのとさほど差がなかったからである。
 しかも、人間の「欲望」というものは、生物的レベル、社会的レベル、歴史的レベルといった複雑なレベルからなる混成物である。その上、混成のされ方も一様ではない。
 また、「欲望」というものに関心を持ったもう一つの理由に、「欲望」というものは、個々人にとって<自発的なもの>だというナイーブな思い込みがあったのかもしれない。。しかし、人間個々人に<自発的>な「欲望」を想定することには無理があり過ぎた。

 大量生産経済社会の時代が成立するためには、大量消費をこなす巨大な「胃袋」(巨大な社会的「欲望」)がなければならず、そんなものは自然に生まれるものであるはずはなく、広告宣伝をはじめとする人為的、意図的な「刺激」がなければ生まれようがない。
 ここから、かなり露骨な「欲望」操作の手練手管からはじまり、さまざまな人為的な「欲望」喚起の社会的仕組みが当たり前のように広がったわけである。つまり、現代の人間にとって、個人自身の比較的純粋な<自発的>な「欲望」というようなものを想定することは、都会において地価がゼロ円の土地を探すに匹敵するほど稀有なことがらだということなのである。
 他の何者かによって<操作>されているとまでは言わずとも、いや、現実にはその可能性が濃厚だと言いたいが、<非・自発的>に培ってしまった「欲望」によって、日々の生活を送っているのが普通の現代人であるかもしれないと感じるのだ。
 現代の個々人が、仮にも自身というものを感じ取るとすれば、何がしかの消費生活をおいてはあり得ないほどのことを思い浮かべると、いかに自分というものが、あるいは自分の「欲望」というものが、この社会の消費の場、つまり溢れる商品の市場とコマーシャルの空間に依存してしまっているかということなのである。
 いや、そんなことはない、自分はTVも見ないし、ショッピングにも興味はない、という人もいなくはないだろう。しかし、ロビンソン・クルーソーではない限り、社会生活を営むことになるが、その社会生活の隅々にいたる場面が、実は消費とは縁が切れない仕組みになっているのが現代都市空間なのである。

 つまり、消費生活とは腐れ縁となったわれわれ現代の個々人は、自身の「欲望」を、時代の「意志」が湛えられた大河の水中に、どっぷりと浸からせているのだと考えてもよさそうである。
 その上、何への「欲望」があるのか、ないのかさえが不明瞭になり始めている最悪の事態に近づきつつあるのかもしれない。
 この国では、長い間の消費一般の低迷が問題となり、その原因は将来不安の社会環境だとも言われており、確かにその比重も大きい。しかし、長い期間の消費低迷傾向の一つには、現代のわれわれの「欲望」の姿が捉えどころがなくなっていることも十分に考えられそうな気がするのだ……。
 この点は、現代経済の「隠れた難問」であるだろうと思っている。まして、「構造改革」という発想は、「サプライサイド(生産側)強化策」(山家悠紀夫)でしかないのだから、「需要側」をどうすることもできないのであり、勝手な期待感を持っているに過ぎない。だから、現代人の「欲望」の問題は、「隠れた難問」だと思えるのである……

 こうしたことを書くに至らせたある本の一部分を覚書として引用しておく。

< 近世から産業革命にいたる時期、この「欲望」というパッションをたきつけたものは、異文化、異文明に対する好奇心であった。20世紀の大衆社会では、パッションを刺激したものは、人々の間の相互の視線であった。いわば相互に欲望刺激しあうことによって「相互的消費」が行われた。今世紀末の、このナルシシズムの時代には、欲望のパッションを刺激するものは何であろうか。……
 現代社会は、ほとんどこの「好奇心」だけで動いているようにさえ見える。人々は、本当に何か欲しい、手に入れたい、知りたいといった「欲望」で動いているのではなく、ただちょっとした「好奇心」だけで動いている。
 もちろん「欲望」はたいてい「好奇心」から出発するものである。しかし、現代では、もはや「好奇心」は「欲望」にまでいたらない。あるいはそれこそが現代の欲望のかたちなのだ。未知のモノ、手に入らないもの、そうしたモノに対する「欲望」というより、ちょっとした「好奇心」、すぐに飽和し、移り変わってゆく「好奇心」が、現代の情報化の時代を支配している。消費者は、メディアが仕掛ける情報によって「好奇心」をくすぐられているだけだ。「好奇心」はいつも小規模なバブルである。しかもそれはすぐにはじけ、また次の対象に移ってゆく。
 たとえば、すこし前に、あるアイドルスターの写真集が大変な前評判を呼び、発売と共に完売となった。これは、新聞に掲載された前例のないヌード写真の広告と、ヘアーの露出禁止というタブーに挑戦した(らしい)という前宣伝の効果であった。しかし、この写真集は、発売と共に完売はしたものの、すぐにまったく売れなくなってしまった。つまり、ほとんどの人は、この写真集を手元においておきたいという「欲望」をもっていたのではなく、ただタブーに挑戦したということが「好奇心」を刺激したにすぎないのである。
 メディアはこうして人々の「好奇心」を刺激する。あるいはキー(ウィルソン・ブライアン・キー)が述べたように、潜在意識を刺激する。とりわけ視覚的、映像的な情報は、言語的なメッセージのかたちをとらずに、直接に人間の感覚を刺激する。テレビ、雑誌、写真集、それに街の情景そのもの、こうした情報装置が我々のまわりにははりめぐらされている。
 こうした情報装置から入ってくるさまざまな視覚的映像が、たえずわれわれの感覚をマッサージし、たえず「好奇心」の流れゆく方向を左右する。そして逆説的なことに、情報はほとんど洪水のようにあふれ、あの手この手で「好奇心」を刺激すればするほど、「好奇心」はますます「欲望」には結びつかなくなる。次から次へと対象をかえる「好奇心」が情報回路の中をぐるぐるとまわるのだ。……>(佐伯啓思『「欲望」と資本主義 終わりなき拡張の論理』 講談社現代新書 1993.06.20) (2005.09.26)


 このところ、株式市場は大商いが続いているようだ。景気回復への期待が強い外国人投資家の買い注文が続いているとかで、昨日は、日経平均株価も今年の最高値をつけたらしい。外国人投資家たちの動きにも気にはなるが、今ひとつ気になるのは、この最近、国内の個人投資家たちが増えているとかという話である。
 バブル崩壊での痛手が癒された(?)のかどうか、あるいは「ネット株」への関心と実行が加速しているのか、とにかく個人投資家が増加の一途をたどっているらしい。
 もっとも、こうした傾向が表れてくるのには、やはりそれなりの背景があるということであろう。この国の「構造改革」路線経済は、好況であったとされる「8〜90年代の米国経済」の後追いだとも言われている。そして、その当時の米国の景気好循環の背景には、規制緩和その他の「サプライサイド」の強化策と合わせて、「株価上昇」(ITバブル!)への強い働きかけがあったとも言われている。もとより、米国国民には貯蓄よりも投資、という意向が根強いため、株価はみるみるうちにバブルに至ったわけである。
 だから「構造改革」というものが、この米国を手本とするかぎりは、一連の「サプライサイド」強化策と合わせて、「株価上昇」をも達成したいと目論むのが当然の方策なのであろう。

 現に、森内閣、小泉内閣での「緊急経済対策」においては、「株式市場の活性化」が大々的に打ち出されている。
<個人を個人投資家に変え、株式市場に受け入れるために、税制上の、考えうる限りの優遇措置を使っての施策が講じられようとしている。少額譲渡益の非課税化、長期保有株式の譲渡益に対する減税、申告分離課税の税率引き下げ、相続税の減免、等々であり、サラリーマンが長期保有の目的で株式を取得した場合は奨励金を支給する案が浮上したりもしている。
 「構造改革」論は、その本質がサプライサイド強化論で …… 当然にして、「構造改革」論はサプライサイドそのものである株主(資本拠出者)を支援する施策を多く含んでいる。間接金融主体の日本の金融制度を直接金融中心型へと変えようとする金融「構造改革」(金融ビッグバン)の実施、株主の立場から企業経営を見やすくする時価会計の採用、また、個人の投資家化を図ろうとする確定拠出型年金制度の導入、などがその代表的なものだが、ここに来て、その方向性は一段と明確になった感がある。>(山家悠紀夫『「構造改革」という幻想』岩波書店 2001.09.21)

 以前に、「ジワジワと広がる『一億総経営者』化とも言うべき風潮?!」(2005.07.07)と題して、次のように書いた。
「いよいよ『生き馬の目を抜く』(すばしっこく人を出し抜き、ずるがしこくて抜け目がなく、油断もすきもならないこと)日常環境となってきた気配だ。これが「構造改革」時代の変化であろうかと、再認識させられる思いでもある。何がどうと、一々例を挙げるのは煩わしいが、要は、世間全体が、カネの数字に執拗にこだわり始めたと感じるのである。」
 しかしその時にも、書いた後で思ったのは、「一億総経営者」ではなく「一億総投資家」と書くべきではなかったかという点であった。つまり、今、もてはやされている「株式投資」などは、モノづくりのために実体的なモノやヒトとの関係に腐心する「経営」という範疇ではなく、まさに「投資」なのであって、「カネ」を投資して、「利ざや」を稼ぐという正真正銘の「資本(家)主義」だということである。
 いまさら、これを、いい、悪いと言っても虚しい話ではある。<好き嫌い>の問題にかわして、自分は<好きになれない!>としか言いようがなさそうである。だが、経済社会が、ますます「金融経済社会」化していく時代だという点はしっかりと凝視しておくべきかもしれない。この余波が、社会のさまざまなことがらに影響を与えていそうだからである。カネこそすべての「金権体質」は、時代の特徴になりつつある……

 なお、これに関連して「資本(家)主義」の正体が、「他人の褌(ふんどし)で相撲を取る」ことに近似している点を書き添えておく。

<最初の資金はどこからきたのだろうか。投資家や事業家はそれを借りる以外にない。それを大きな資金にして返し、さらに膨らませてゆくということだ。つまり、資本主義とはもともとは借金経済である以外にない。資本主義は負債から始まるのである。負債をいつも先送りにして、資金をいっそう膨らませてゆく。この負債を無限に先送りにしてゆくこと、ここに資本主義の発展の自己運動の手口がある。そのことをケインズは次のように述べている。
 ある教授が仕立て屋に借金している。仕立屋が取り立てに来ると教授は言うのだ。「君、もう1年待って、それを2倍にしたいと思わないかい。そうしたら、どんなにお金持になるかを考えてみたまえ」。もう1年たって仕立て屋がきても、教授は同じことを言うだろう。仕立屋のほうからすれば、まさに資金の回収を先にのばせばのばすほどよい。それをケインズはまた次のようにっている。「彼はかわいがろうとしているのは、自分の猫ではなく、その子猫、いやその子猫の子猫……というふうに、猫族の果てるまでに求め続けているのである」。むろん、猫とは元手となる資金、子猫は利子である。>(佐伯啓思『「欲望」と資本主義 終わりなき拡張の論理』 講談社現代新書 1993.06.20)

 ※ 実は、この引用の上段については、つい先頃、「『現物』なしの『空手形』を使っての必勝法!?」 (2005.09.11) と題して、「おいちょかぶ」で「負け」を「先送り」する人の思い出話を書いたところであったため、なんとなく可笑しい気がしたものだ。 (2005.09.27)


 片付け上手という人がいるものだ。また逆に、苦手な人もいる。どこに違いがあるのかと思うことがある。
 たとえば、大小も種別も雑多になったモノ類が散乱した部屋があったとする。これを、片付けなければならなかったとする。片付け上手な人はどうするか、また片付けに苦手な人はどうするか。たぶん、苦手な人は「別な日にしましょうよ」とか言って、まずは逃げることを考えそうである。
 上手な人はといえば、とにかく「ある事」を始めるのではないかと推測する。
 「ある事」とは、モノの「分類」もしくは「グルーピング」のことである。いろいろな「分類」の基準というものがありそうだが、慣れた人であれば、まずは「不要なモノ,捨てていいモノ」をまとめ始めるのかもしれない。そして、とりあえずそれらを部屋の外に出すならば、幾分でも部屋の中が広くなるというものであろう。
 それから、再び、目についたモノを眺めながら、何らかの「分類」基準を設定して、基準に合うモノを一箇所に集めたりするかもしれない。たとえば、日常的によく使うものとそうではなく滅多に使わないモノという仕分けをするのかもしれない。
 こうして、手足をフル活動して片付けが進行する。しかし、この片付け作業でフル活動しているのは、実は手足というよりもむしろ「頭脳」ではないかと思うのだ。つまり、散乱した多種多様なモノを片付けるとは、何らかの「分類」基準に則って仕分けをして、それらを見た目よく並べ替えることなのであろう。「どのように」片付けるのかという部分が片付ける作業のほとんどすべてと言っていい比重を持ち、それを遂行するのは、手足の筋肉ではなく頭の「頭脳」だということである。
 バカなたとえとなるが、もし、モノの色で分類して片付けるようなことがあったらどうであろうか。白い色のモノは一箇所に集め、青い色のモノも一箇所に集めという基準で片付けようとしたら、途端に破綻することになるはずだ。モノ類は、何も一色で塗りつぶされたものばかりではないからだ。

 夏目漱石であったか、いずれにしても著名な小説家が、新しいお手伝いさんを雇い、ゴタゴタに遭遇したとかいう。ご主人の書斎が、あまりにも書籍や書類が散乱していると単純に判断したそのお手伝いさんが、とにかく見た目だけの観点で片付け、整理してしまったのだ。そして、その後、そのお手伝いさんはこっぴどくご主人から叱られたというのである。
 つまり、ご主人の部屋は、第三者の目から見れば「散乱」していたのであるが、実は、「散乱」しているかに見える書籍や書類の配置は、ご主人の仕事のための「頭脳」においては、思考のあり方に沿ってしっかりと「分類・整理」されていたというのである。
 この辺の事情は、自分にもよくわかるような気がする。仮に、書籍が乱雑に置かれているように見える光景にしても、それが「わざと」という場合があり得るのだ。良く理解できて、一件落着の書籍は、座って手の届く範囲の比較的遠方に置いて、不可解な部分が多い思案中のものは手近に置くとか、仕事を始めて即座に着手すべき案件の書類は、「わざと」机の上に広げっ放しにしておくとか……。頭の中の思考状態に即した作業環境を作っておこうとすることは、往々にしてありがちなことであろう。

 これらのことは、いわば、多種多様な周囲のモノと「頭脳」における「分類」基準との関係の問題である。すでにここでも、「分類」という仕分け基準というものが少なからず重要であるらしいということがわかる。
 ところで、今日書こうとしたことは、さらに進んで(いや、退いてとなるのかもしれないが)、その「頭脳」の中の多種多様な観念というか、想念というか、あるいは記憶というか、要するに脳という部屋の中に散乱している有象無象は、「どのように」片付けられたり、整理されたりするものかという問題なのである。
 先ずはじめに、なぜこの問題が気になるかというと、ますますこの時代にあって重要度を高めていると思われる「創造的」思考にとって、ものごとの「分類」の仕方というものは決定的な意味を持つのではないかと思うからなのである。
 思うに、「創造的」に生み出された何かというのは、その創造物のある部分が、従来の「分類」枠から解き放たれて、新規に設定されなければならない「分類」枠を生み出すということなのだろうと考えるわけである。

 たとえば、「iPod」という「創造的」なヒット商品は、その「創造的」部分はいろいろとあるだろうが、今かりに「MP3」という「音声圧縮方式」がトリガーだったと考えてみる。
 「MP3」とは「人間の感じ取りにくい部分のデータを間引くことによって高い圧縮率を得る非可逆圧縮方式」ということである。ここには、ひとつの「発想の転換」、すなわち「分類」基準の転換が潜んでいたと言うべきなのであろう。
 従来、「良いオーディオ・サウンド」というのは、楽器や音声など音を発する源から生じる物理的な周波数が、そのまま聴き手たる人間の耳に届くよう再現されることだと考えられてきたはずである。つまり「良いオーディオ・サウンド」=「忠実な再現」ということになろうか。
 ところが、その観点に立てば「良いオーディオ・サウンド」を収納するメディアは膨大な大きさとなってしまう。こうした状態では、そのデータをインターネットを通じて送受信したり、ポータブルな再生装置で聴くことは不可能に近い。
 そこで、「良いオーディオ・サウンド」=「忠実な再現」という「分類」基準を揺るがす事柄が気づかれたのであろう。「忠実な再現」であれば「良いオーディオ・サウンド」ではあっても、「良いオーディオ・サウンド」はいつも「忠実な再現」でなければならない、ということはないのではないか、ということなのである。
 つまり、「良いオーディオ・サウンド」だと感じて聴いている人間は、全ての物理的周波数を感じ取っているわけではないという点なのであり、その感じ取ってはいない「無用の長物」の部分は割愛したところで同じことだ、ということなのだ。「忠実な再現」という「分類」基準枠に閉じ込められていた「良いオーディオ・サウンド」という概念は、いうなれば「ダイジェスト版」「レプリカ(模造品)」という「分類」に入れても、結構「イケル」ということになったわけだ。
 この辺の事情は、フォトでも同じことで、何も自然方式の「.BMP」でなくても、人間の目の識別能力からすれば「.JPG」「.GIF」などの「間引き」データでも十分に「イケル」ということから、デジカメという一大ヒット商品が可能となったはずである。

 すでに、「発想の転換」という「創造性」にとってのキーワードを使ってしまったのだが、では「発想の転換」とは何かと言えば、ある事を従来の「分類」枠、基準から解き放ち、新たに「身の立つように」してやることだと考えてもいいはずである。
 で、問題なのは、<従来の「分類」枠、基準から解き放つ>ということであろう。というのは、「固定観念」にとらわれる、という状態こそが極めて一般的なあり方だからである。さらに、何でもそうなのだが、「慣れ」によって「効率的」にものごとを進めるためには、とかく「固定観念」にとらわれ、従来どおりの「分類」枠、基準に依拠していた方がスムーズにいくという事実もありそうである。だから、<従来の「分類」枠、基準>に対して、いかに「面従腹背」でいることができるかが勝負どころだとも言えよう。
 また、ものごとを「柔軟に」考えるということも、それぞれのものごとに従来どおりのレッテルを貼った「分類」をするのではなく、それらが持っている潜在的可能性を読み込みながら「ボーダレス」ともいえる「分類」をすることではないかと見なせる。これとても、「中途半端」な「分類」をキープするのであるから大変なことであろう。

 現在、急激な社会変化の中で、確実に、従来どおりの「分類」枠、基準に依拠した発想を続けることが有効ではなくなっている。とは言っても、新たなそれらが明瞭になっているわけでもないし、また人々の発想は、どうしても従来どおりのままを引きずりがちなのだと思われる。不可解な社会現象はこのズレから生じているのであろう。
 とりあえず、自分としては、現代という時代環境がシャープに見渡せる「分類」枠、仕分け方、事実の括り方、要するに現代という時代の観方(みかた)とでもいうものを研ぎ澄ませたいと思ったりする…… (2005.09.28)


 能天気なマス・メディアが、昨今撒き散らかしている言葉に、「小泉チルドレン」というものがある。小泉氏は「養子縁組」でもしたのと、これまたバカなことを言ってはいけない。要するに、小泉氏の「お陰で」国会議員となれた者たちのことを指すのだろう。
 「チルドレン(children)」というのは、いうまでもなく「子ども」の意であるが、そのほかにも「子どもじみた人、幼稚な人」という意味があり、また「[人・神などの]崇拝者、信奉者、弟子」、あるいは「[時代・風潮・作用などの]生み出した人間、落し子」という意味がある。さしずめ、「小泉チルドレン」とは、後一、二者、もしくは後一、二、三者の意味だと見なしていいのであろう。

 しかし、マス・メディアは何の危機感もなくそんな呑気なことを言っていていいのだろうか。この辺が、現在のマス・メディアが信用できない点のひとつでもあるわけだ。
 戦争体験の風化することが嘆かれているが、戦争体験の何を風化させてはいけないのかをじっくりと考える必要がありそうだ。生命が脅かされた空襲やモノ不足状態を忘れないことも重要ではあろう。
 しかし、もっと聡明さを発揮するならば、なぜ戦争への動きが加速されてしまったのか、どのように国民が巻き込まれてゆき、身動きがとれなくなってしまったのか、というそれらのプロセス自体を忘れないことの方がはるかに重要なことではないかと確信する。
 現在でも、社会的不祥事が発生した際、責任者は、「こんなことはあってはならないことで、二度と起こさないよう……」と釈明している。そんな「決意表明」は何の意味も持たないのであって、肝心なことは、発生プロセスの解明とその轍(てつ)を二度と踏まないための方策こそが、科学的に必要だと言うべきであろう。
 戦争体験も、どのようにして国民が望まなかった悲惨な戦争への急接近が行われたのか、という状況、事情こそが焦点とならなければならないのだと思う。どのようにして国民の自由な言論が封じ込められ、自由を願う国民たちが弾圧されていったのか、というようなことである。

 こうした観点から言えば、われわれがしばしば耳にしてきた言葉として、「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)」というものがあったことに気づく。現在でも、多数横暴が敢行された時に、
「それじゃまるで『大政翼賛会』のようじゃないか!」
というように使われる。

(注)「大政翼賛会」
<1940年(昭和15年)10月、第二次近衛内閣の下で新体制運動の結果結成された国民統制組織。各政党は解党、また産業報国会・翼賛壮年団・大日本婦人会を統合、部落会・町内会・隣組を末端組織とした。45年5月解散、国民義勇隊に吸収され解消。>(広辞苑より)
(注)「国民義勇隊」
<太平洋戦争末期に本土決戦に備えて編成された国民の総動員組織。1945年3月閣議決定され、大政翼賛会・大日本翼賛壮年団などを吸収・統合。8月敗戦により解散>(広辞苑より)

 要するに「個人の自由」「生命」が、合理的説明が困難な「全体」(国家)のために犠牲を強いられる、そうした組織機構だったわけである。

 こうしたことを書く理由は、「憲法改悪」というジワジワとせまる時事状況もあるが、それ以前に以下のようなことがあるからなのである。
 最近、立花隆氏の「メディア ソシオ-ポリティクス」には目を通すようにしているが、<戦時下の大政翼賛選挙と酷似した政敵抹殺の手法>と題する節で以下のように述べている。
< この選挙を見て、私が思い出したのは、東条英機首相が昭和17年に行った大政翼賛選挙である。当時、すべての政党が解散させられて、大政翼賛会に吸収されてしまっており、日本の社会から政治的自由はほとんどなくなっていた。国会が開かれても、議員には、政府を批判したり、政府提案に反対したりする自由は事実上なく、戦争遂行という大政を翼賛するために、政府提案になんでも賛成するロボット議員たることだけが求められていた。
 それでも大政翼賛会ができる以前から議員になっていた政府批判派の議員が多少はいたため、東条は、それを選挙ですべて落としてやろうと考えて、当時の468選挙区のすべてに、翼賛政治体制協議会という政府御用の選挙運動団体を作り、そこが推薦する候補者を各選挙区に一名づつ立てた。その選挙運動を役所から警察までが支援して、ほとんど政府直営選挙のごとき状態にした。
 自由選挙の体裁を保つために、翼賛政治体制協議会の推薦を受けない人間も立候補することを自由にしたが、非推薦候補の選挙運動は役所も警察も徹底的に妨害して、落選させようとした。>(立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」第46回 衆院選自民圧勝で見えてきた小泉05年体制の危険な兆候 [2005.09.27])

 つまり、歴史認識が無いバカなマス・メディアが「刺客」がどうのこうのと言って騒いだ今回の選挙の様相は、実は、戦争遂行内閣の内閣総理大臣東条英機の行ったそれと酷似しているというわけなのである。
 もっとも、こうした事実を知ったとしても、そこに何かを見つめようとする人とそうでない人がいることはわかり切ったことだ。
 立花氏は次のように結んでいる。

< 政治というのは、せんじつめれば、「あいつは敵だ。あいつを殺せ!」の一言に集約されると喝破したのは埴谷雄高だが、小泉首相は05年選挙においてそれをやってのけたといえる。そして、昭和17年の大政翼賛選挙以上の成功をおさめたといえる。
 なにしろ昭和17年選挙では、非推薦議員が85名も残り、大政翼賛会による議員の完全制圧はならなかったのだが、05年選挙では、自民党内部にかぎっていえば、反対派は、非公認あるいは除名によって、完全に排除され、いまや18名の無所属(あるいは6名の新党所属)議員が残るのみである。
 要するに自民党の内部は、完全大政翼賛会状態になってしまったのだ。その状態に国民大衆が無邪気に喝采を送っているというのは、危険な状態だと思った。昨日の小泉首相の所信表明演説に拍手喝采を送る小泉チルドレン議員たちの姿を見ながら、私は、いま日本の政治はとても気味が悪い状態になりつつあると思った。>(立花隆、同上)

 わたしが思うのは、「小泉チルドレン」なんぞに現(うつつ)を抜かしている場合じゃないということである。むしろ、国民自体が、「戦後平和」を無邪気に信奉し永遠のものであるかのように錯覚し続けている点が気になる。と言っても「国防力」を持てなんぞと取り違えてもらっては困る。むしろ逆で、「戦後平和」は、「免疫注射」のように一回体験すれば永続するものなんぞではなく、平和を守り抜くという永続的決意がなければならないということなのである。能天気に「戦後平和」を「免疫注射」のように見なしているかもしれない少なくない国民は「戦後平和チルドレン」以外ではないと、そう思ったりする…… (2005.09.29)


 「勘が鋭い」「勘がいい」「勘が働く」「勘に頼る」という「勘」は、あながち軽視できないと考えている。
 「勘」というのは、言語によって構成された「意識」からはみ出ている「潜在意識」が脳活動にスクッと立ち上がった姿だと言えそうである。もちろん、「意識」からはみ出ているのだから、言語へ翻訳(?)はできない。自分に対して、まして他者に対しても、どうしてそうなのかを説明することができない。にもかかわらず、漠然としたある種の誘因、動機のような方向性を自覚させられる、というのが「勘」であろうか。
 もちろん、「勘」だけに頼って社会生活を送ろうとすることははなはだ危険なことであろう。社会生活の環境のほとんどすべては、「意識」という言語レベルの要素によって構成されているからである。
 しかも、われわれは言語レベルの「意識」を駆使して生活できるように教育されてきたのであり、「勘」や「潜在意識」の働きを研ぎ澄まして生きる方法(こうした生き方というのも十分に考えられると思う)の訓練をしてこなかったはずである。

 ただ、情報化時代の現代という時代環境を見つめる場合、<人間=「意識」主導型存在>と括り切っていていいのか、という疑問が生じないわけではないのだ。
 それと言うのも、現代の情報化環境は、「マルチ・メディア」情報環境であり、情報という中身は何も「言語的」なものばかりではない。いや、むしろ「言語」を介する脳の部分を「頭越し」にして「ショート」していく「感覚的」情報(イメージ情報!)の方が多いくらいだからである。
 そうした「感覚的」情報(イメージ情報!)は、人間の能力(脳力)でいうならば、「言語的な「意識」よりも、むしろ「潜在意識」と呼ばれる部分と親和性があり、関係が深いのではないかと考えられる。
 ところが、こうした側面、「潜在意識」という領域は、言うまでもなく訓練や教育の対象とはされてこなかったし、されていない。つまり、完全に「無防備」な状態を曝(さら)していると言えそうだ。中には、スポーツ選手や宗教家などの中にこの辺の訓練をしている者がいるのかもしれないが、先ずは何も手がつけられていないと言っていいのではなかろうか。
 それでいて、現代の「マルチ・メディア」情報環境は、「感覚的」情報(イメージ情報!)を、視聴者の無防備な<感覚 ⇔「潜在意識」>に対して、矢継ぎ早にインプットを続けているわけである。
 この状況に対しては、その実態の解明も多くはなく、だから社会的抑制の機能も働かず、ある意味ではほとんど「無政府状態」だと言っていいのかもしれない。

 自分が、こうした分野に関心を持つ理由はいくつかある。
 ひとつは、日頃、自分を含めた人間は「意識」の領域だけでは到底説明できるものではなく、意識下すなわち「潜在意識」と思しき領域の作用がかなり大きいのではないかと感じている点がある。だから、その表れのひとつであろう「勘」というものに存在意義を認めたくもなるのである。
 動物たち(猫である場合が多いが)の行動を見ていると、もちろん「言語」レベルの脳活動はないのだから、大雑把に言えば「潜在意識」だけで動いていると考えられるが、概ね環境に対して「迅速かつ正確」な対応をしていると見える。きっと、突発的な環境危機に遭遇した場合には、彼らの方が無難な選択をするのではないかと思わされるほどだ。ある意味では「羨ましい」(?)と思えるほどである。
 人間は、言語的「意識」の世界を構築して他の動物から抜きん出る存在となったが、その分、おそらくかなり大きな割合を占めるはずである「潜在意識」の働きというものをあまりにも度外視してきた嫌いがありそうだ。そして、この点が、大上段に構えて言うならば、西欧近代社会の延長としての現代文明全体にどんよりとした影を落としていそうな印象を持つのである。

 ふたつ目の理由は、前述したとおり、現代のマス・メディアの問題である。以前から関心を持ち、ここでも何回か書いてもきたのだが、「サブリミナル【subliminal】」(「潜在意識の」の意。テレビ・ラジオの放送や映画などに,通常の視覚・聴覚では捉えられない速度・音量によるメッセージを隠し,それを繰り返し流すことにより,視聴者の潜在意識に働きかけること。)という典型的な視聴者操作方法というものがある。これは、たぶん氷山の一角の問題であって、マス・メディアおよびテクノ環境が「潜在意識」に刷り込んでいる影響というのはもっと大きいのではないかと推測している。例の「ゲーム脳」という問題とて、この問題の範疇だと予感する。
 そして、三つ目の理由は、人々の政治意識、または政治選択の危うさに関するもので、これは、言うまでもなく先の総選挙で国民の政治的判断に関するものだ。
 「コイズミ・ポリティックス」のワナにまんまと嵌っていった推移はいろいろと言及されて然るべきだとは思う。しかし、小泉首相が、就任以来ほぼ毎日のように、ぶら下がり記者からの「インタビュー」に応じるというかたちでTV出演をしてきたこの間の経緯は、決して見過ごされていい事実ではないと見なせる。もっと直裁に言うならば、小泉首相の空人気というものは、ある意味で「潜在意識」への刷り込み効果という「サブリミナル」効果以外ではないように思われるのだ。
 TVからの頻度の高いメッセージが、視聴者の「潜在意識」に食い入る効果というものは、何も商品のCMだけではなく、同じ手法を使うならば、政治的宣伝効果も十分に奏効するものだと考えられるわけである。

 今、社会は、核家族という孤立分散状況どころではなく、さらに分解してしまい孤立した個人が溢れるような実情となっていそうであり、そうした状況の上にマス・メディアの巨大な影響力が行使されている。ちなみに、かつての社会環境では、視聴者側にさまざまなかたちでのコミュニティなり集団があり独自な影響力を発揮していたと思われる。(ex.「準拠集団」etc.)
「バカなこと言ってるよねぇ」
と言い合いながら、TV画面が仕掛けてくる内容を評価し直すことが可能だったというわけだ。が、現時点では、孤立した個人がストレートに、仕掛けだらけのさまざまなメッセージを抱きかかえてしまう、という構造になっているのではなかろうか。
 このような状況があるだけに、現在のマス・メディアのあり方に注意を向けなければならないし、「意識」操作のみならず、「潜在意識」への働きかけ、刷り込みといった手の混んだ技法に目を光らせる必要があるわけだ。
 自由で、自立的な判断をしているつもりでありながら、実は巧妙に操作されているという事態ほど哀しくもおぞましいことはないだろう…… (2005.09.30)