毎日文章を書いていると、それなりに言葉・言語に対する感度がやや増すのであろうか。普通は何気なく聞き過ごしたりする他人の言葉遣いに、多少なりとも敏感となるのかもしれない。特に、他人によってさり気なく遣われた言葉に、「ほー、なるほど……」と妙に感心したり、言い得て妙だといった感じを持つことがある。
昨晩、入浴中にラジオを聴いていたら、NHKの番組で「ラジオ文芸館」という小説の朗読番組に出くわした。日曜日の午後10時過ぎに放送されるもので、しっとりとした雰囲気が好きでしばしば聴いている。
とりわけ、湯船に浸かりながらのんびりとした気分で聴くのは実に心地良いものである。もともと、落語も好きだが、小説などの朗読もどういうものか好きである。TVドラマを観るよりも、自由な想像力が働くからなのかもしれない。
ちなみに、小学校一、二年の頃、担任の先生(やさしい女性の先生)が、毎度昼食時に物語の朗読を聴かせてくれて、それが小さからぬ楽しみであったことを覚えている。確か、『蜜蜂マーヤの冒険』であったかと思う。ストーリーはほとんど記憶にないが、その先生が毎回、「それじゃあ、『蜜蜂マーヤの冒険』の続きを読みます……」と言われていたからか、題名だけはしっかりと記憶に残っているのだろう。
昨晩の「ラジオ文芸館」は、アンコール番組で、『果ての海』という、乙川優三郎作の『むこうだんばら亭』中の一作であった。自分は、乙川優三郎の作品を読んだことはなかった。ただ、好きな藤沢周平のタッチが濃厚だという評価は聞いていた。つまり、時代物であり、藤沢作品と同様に、歴史に埋もれた人々の人情をきめ細かく描く世界なのだ。
『果ての海』のストーリーは、房総の突端に位置する銚子を舞台に、江戸から流れて行き着いた男と女の話である。男も女も人生の気まぐれな流転を経ているのだが、とりわけ女は、女郎に身をやつすといった不遇さを背負ったりしている。そして、一度は荒んだ心境にも落ちるわけだが、そんな中で、人生の輝きを再び取り返す者もいる。そんな、経緯を淡々とした言葉運びで叙述している作品であった。
自分は、番組の中ほどで風呂を上がり、続きは寝床の脇のトランジスターで聴いた。
実に思い入れできる作品であったが、なぜだろうかと考えてみるに、ひとつの理由として、乙川優三郎の文章の言葉遣いが素晴らしいことにあると思えたのだった。
先ほど、「淡々とした」と形容したが、まさにそのとおりなのである。ムダな言い回しが殺ぎ落とされ、選び抜かれたシンプルな言葉が、決して読者や視聴者を迷わせることなく、著者のねらったイメージをすんなりと共有することができるかのようであったからだ。この結果、視聴者は、快感に近い納得感を次々に得ることになる。
それにしても、すぐれた作家というものは大したものだと思わざるを得なかった。
自分も、素人なりに、言葉遣いとはどうあるべきか、文章とはどうあるべきかに関して多少とも苦労を重ねているつもりではある。しかし、最も難しい課題は、ムリ、ムダを排して、的確な言葉のみを連ねて所定のイメージなり、メッセージなりを構成することではないかと感じている。いわば、囲碁における優れた手のように、最も簡略に勝利へと接近する必然性のような、そんな言葉遣いが最高に難しいように思う。誤解の余地を残すほどに手薄であってはいけないし、かと言って、ただただ不快感を刺激するだけの冗漫さや多弁であってもいけない。サントリー・ウイスキーではないが、「何も足せない、何も引けない」そんな言葉遣いや文章作成ができたら素晴らしい、と感じている。
それは何のためにか? 自分自身が、より充実してこの世界とともに在れることなんだろうと思う。それ以外を望むことは不必要だと思われる…… (2006.02.27
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「気が利いて間が抜ける」という言葉がある。他人事としていたが、今日は、まさしく自身がそうした愚を行ってしまい、ほとほと自身に愛想が尽きている。
実は、今日は何かと忙しくなりそうだと思い、気が利いたことをしたのである。大したことでもない。朝の通勤の途中、昼食の弁当を購入したのである。多少の待ち時間はかかったが、昼食時に外出したりして時間を失いたくなかったからであった。
ところがである。その弁当を、ホイッと、仕事関係の書類などを積み上げた箇所に無意識に置いて、すぐさま仕事に取り掛かってしまった。そして、忙殺される半日が過ぎて、すっかり「気を利かせた」特別措置のことをまさにコロリと忘れてしまったのである。 昼過ぎになると、さてさて、表に出て昼食をするのも時間がもったいないし……、といつものように考えていたのであった。ここら辺が実に恐ろしいところである。そこで、買い置きのコーンフレークに牛乳をかけてサクサクとその場をしのぐ応急措置に打って出ていたのであった……。
そして、夕刻となった。にわかに空腹感が訪れ、さすがに血糖値が落ちるところまで落ち、低血糖寸前のアブナイ雰囲気となってきた。そこで、再び、第二次応急措置が必要となり、またまた買い置きのカップぞうすいなんぞに湯を注ぎ、フハフハと食したのである。で、やや落ち着いた気分となったわけだが、タバコを吹かし何気なく辺りに目をやったその時、積み上げ書類の上に何かがあるではないか。どこか見覚えのあるベージュ色のポリ袋の包みがあるではないか。あっ、と気づいたのは、わざわざ朝一番に気を利かせて買ったほかほか弁当の包みなのであった。
これが、冒頭で書いた「ほとほと自身に愛想が尽きている」の内実なのである。そのまま捨てるのも、この「ほとほと」感をただただ増幅させるだけのような気がしてならなかった。これは「無かった」ことにしなくてはならないと決意した。その時、ほぼ腹の具合は充足状態ではあったのだが、とにかくその弁当に手をつけ、半分ほどを腹の中へと「無くす」努力をしたのである。
常日頃、ドタバタとした行動をとっている際には、記憶が定着しにくいことを警戒し、嫌でも当該のことが目に入るような場所に置いたりしてきた。だが、今日は、その措置を怠ってしまった。それが、「気が利いて間が抜ける」愚を犯し、「ほとほと」感を生み出した原因であったわけということなのだろう…… (2006.02.28)
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