[ 元のページに戻る ]

【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2006年01月の日誌 ‥‥‥‥

2006/01/01/ (日)  「平凡なお正月」がいつもどおりに行えた安堵感?
2006/01/02/ (月)  お正月番組長時間時代劇ドラマを楽しむ……
2006/01/03/ (火)  人もまた、「クロ」のようなリアクションを学ぶべし!
2006/01/04/ (水)  犬は喜びチャリンコ走らせ、猫はハウスで丸くなる?
2006/01/05/ (木)  生煮えの思いとなってしまった念頭の挨拶
2006/01/06/ (金)  ネット通販で稼げる企業になりたいものだが……
2006/01/07/ (土)  川崎大師参拝および護摩焚きをしても「機嫌」はなおらない……
2006/01/08/ (日)  今年はどうして「11日目」に縁があるんだぁ?
2006/01/09/ (月)  ビデオ鑑賞、『亡国のイージス』と『隠し剣鬼の爪』
2006/01/10/ (火)  「自転車が来たからっちゅーうのー!」
2006/01/11/ (水)  記憶したいことだけを記憶するのが人間なのだ……
2006/01/12/ (木)  遭遇するプロブレム(課題)に果敢に挑戦して形成されるチェーン(連鎖)!
2006/01/13/ (金)  やはり、身体に適度な負荷をかける日常が良さそうだ……
2006/01/14/ (土)  「スパート」のかけ時、そのタイミングと強度について……
2006/01/15/ (日)  のんびりとした白鷺の行動を眺めていて……
2006/01/16/ (月)  いま時、「構造改革」「規制緩和」の抽象論を振り回すのは能がない証拠!
2006/01/17/ (火)  人が人の優しい感情にほだされる理由……
2006/01/18/ (水)  今度こそ、誰にとっても「想定外」の事変だったようだ……
2006/01/19/ (木)  IT環境という「レバレッジ、leverage(てこの作用)」的環境の……
2006/01/20/ (金)  「文明の利器」が人間から奪うものがあるとすれば……
2006/01/21/ (土)  日本海側豪雪被害報道で、すでに雪にはウンザリか……
2006/01/22/ (日)  「画竜点睛を欠く」とは仕事の終盤のみならず序盤においても……
2006/01/23/ (月)  身体も頭脳も、やはり日常的なメンテナンスが……
2006/01/24/ (火)  「ライブドア」事件と「オウム真理教」事件の類似性?
2006/01/25/ (水)  公的三畳部屋生活のエンジョイ法について……
2006/01/26/ (木)  本当の「心の問題」ならば、ジワッと真意が通じるものでしょ?
2006/01/27/ (金)  人の睡眠は、ありがたい「リセット」機能だと思えた……
2006/01/28/ (土)  人間にとっては、「リスク・テイキング」な生き方しかあり得ない?!
2006/01/29/ (日)  やはり、杜撰な「構造改革」路線がプロの「悪」を誘っている?!
2006/01/30/ (月)  現代という時代は、人間嫌いを日増しに増大させている時代なのか?
2006/01/31/ (火)  「それでも地球温暖化現象は、地球を『別な惑星』に変えてしまう!」






 実に平凡な元日を迎えた。一時は入院騒ぎで諦めかけていただけに、平凡過ぎる元日ではあるが、これでいい、といった納得感が伴った。
 陽が差さない曇天のためか、冷え冷えとした天候の元日である。
 昨夜は、10時には就寝したため、今朝は7時前にラクラクと起床できた。一年の計は元旦にあり、ではないが、さっそく身支度をして一時間のウォーキングに出かけた。異様にクルマの数が少ないだけが正月を思わせたものの、他のいっさいは何ら変わらず、ただ寒い冬の朝でしかない。夫婦らしき人たちが連れ立ってどこかに出かける姿を見かけた。おそらくは、初詣にでも出かけるのであろうかと思えた。今年の各神社への参拝者数は増えるのだろうかとも想像する。神頼みも、それはそれでいいとしても、やはり、ほかにやるべきこともしっかりとやらなければまずいよなあ、と思ったりもする。

 毎年そうであるように、正月の祝いをわが家で一緒にするために、おふくろをクルマで迎えに行く。伝えておいた時刻に迎えに行ったが、夜更かし朝寝坊のおふくろは「十分ほど待ってて」と言う。自分は、暇つぶしに、すぐ近くのホームセンターを覗いてみようと考えた。手頃な「福袋」でも揃えていたら、買うのも一興かと……。が、菓子の詰め合わせのようなものしかなく、こいつは「糖尿病」患者にとっては無用だと思った。せっかく覗いたのだからと、正月バージョンのやや上等な吟醸酒を一本購入する。正月なのだから一献くらいはよかろうとの意地汚さなのであった。
 正月の平凡な祝いを、10時半ぐらいから始める。今年のおせち料理は、例年以上に簡素である。一時は取り止めという空気もあったくらいだから当然のことと言わなければならない。自分も、「糖尿病」患者らしい箸のつけ方に終始した。

 毎年、おふくろは、それぞれの者にちょっとした衣類を年賀としてプレゼントしてくれる。今年も、自分にはウールのベストを、息子にはセーターを、家内には小物入れバッグを取り揃えてくれた。赤に近い海老茶色のベストは、少し派手だったかどうかすぐに着て見せてくれとおふくろはせがんだ。結局、「よく似合うじゃないの」ということになる。 自宅でも猫を飼うおふくろは、わが家の二匹の猫に大いに関心を向け、どっちがどういう名前だったかと確かめ、「ルル」のことは「三錠さん」と勝手に命名し、「三錠さん」をことさらかまっている。
 おふくろは、もの忘れを防止するために、忘れにくい言葉を覚えるようにするらしく、「ルル」は覚えにくいので「くしゃみ三回、ルル『三錠』」の「三錠」だというのだが、それを「三錠さん」と冗談で呼んでいたのだからおかしかった。
 何でも、孫が気に入ったお菓子の「鳩サブレ」を買いに行き、店の人に「ひよこサブレ」はどこに置いてあるのと聞き、店の者を困らせたとか言っていた。

 食後、トランプで「セブンブリッジ」をやろうということになる。わずかなレートのおカネを賭けて、例年やってきたが、今年はおふくろからやりたいと言い出した。おふくろがこのゲームにこだわるのは、自身がまだまだ若い者と頭で勝負ができることを確認したいがためだそうなのである。
 そうした意気込みもあってか、今年は、おふくろがトップとなり、みんなから小銭を貰うこととなる。ホントはわたしがみんなに小遣いをあげなきゃいけないのに、ワルイわねぇ、と……。しかし、勝てたことに内心ホクホクの表情が滲んでいた。
 ともあれ、あわや突然、奪われそうになった「平凡なお正月」がいつもどおりに、つつがなく行えたことがみんなうれしかったはずなのである…… (2006.01.01)


 肌寒く、冷たい雨まで降る正月二日は、TVの正月番組を観るしかない一日となってしまった。
 お定まりの早朝ウォーキングや食事後のそれまでも欠かすことはなかったが、「駅伝」中継と、「長時間時代劇」に張りついてしまい、ほぼ一日が過ぎてしまう。
 どうということもないわけだが、駅伝には何となく感じる接点がいくつかある。と言っても、母校「中大」が毎回頑張ってくれること、かつて馴染んだ北品川の「八つ山陸橋」付近が中継画面に必ず登場すること、しばしば骨休めで足を向ける温泉旅行が「箱根」であること、と他愛のない理由群でしかない。今日のように、寒く、おまけに雨まで降る日であると、暖房をきかせた茶の間で観るのは実に楽しいもの(?)である。冷房をきかせた部屋で、うだる真夏の甲子園球場の窮状を観るかのごとく気分優れる(?)のだ。

 年末年始に組まれる「長時間時代劇」は、よく以前から観てきたものだ。どうして年末年始が「時代劇」なのか、釈然としないものも感じてはきたが、定番である「忠臣蔵」が史実そのものが師走のものであったり、正月というもの自体が伝統的なものであったりするところからきているのであろうかと、漠然と許容してきたことになろうか。
 時代劇ドラマというものは、確かに、露骨な男尊女卑やら、単純化された精神主義など問題視される部分も多い。しかも、茶の間向けに作られた通常時の安普請ドラマは、時代考証もあったものではなく、ただただ時代劇ファンをいらつかせるだけでもある。
 そんな中で、年末年始向け時代劇ドラマは、いくらか「映画」水準に近く、お屠蘇気分で観る分には、まんざら拒絶すべきでもないかと……。

 昨今、とりわけ気づくことは、時代がここまで人の「マインド」というものを蔑ろにし始めていると、「武士道」であろうと、「職人気質」であろうと、「江戸庶民気質」であろうと、長く日本人が培ってきた「マインド」というものに、いたく感じ入ってしまうのである。もちろん、ドラマで描かれる「マインド」は、フィクショナルな視点で抽象化されたまがいものではあろうとは思う。が、二番煎じどころか三番、四番煎じのように水っぽく希薄となってしまった現代の「マインド」状況にあっては、時代劇ドラマは、ドラマゆえの鮮やかさがなおいっそう際立つというものではなかろうか。
 しかし、時代劇ドラマがわれわれを楽しませしめるものは、日本の伝統的「マインド」のあり様だけではない。今日の『天下騒乱』などを観ていても、「武士道」を軸とした時代背景の上で展開される、権力闘争をはじめとした欲と野望の蠢きについては、何ら現代のあり様と変わらないと思わされる点なのである。
 現代という時代は、一見ソフィストケイトされた穏やかさで状況が包まれているかのようである。だが、表面だけを見て、あって欲しくないことはあり得ないと勝手に信じ込んでいるわれわれに、生(なま)の現実の荒々しい本性を突きつけるのもまた、時代劇であるのかもしれないと、時代劇ファンの一人はそう思ったりするのである…… (2006.01.02)


 初仕事で汗を流した。と言っても事務所でではなく、自宅での日曜大工ならぬ「正月大工」である。
 以前から、外猫たちがこの寒さでかわいそうだと思ってきた。今朝なども、路面が霜で凍りつく冷え込みであった。いくら外の生活に慣れたものたちとは言え、身にこたえるに違いなかろう。まだ若い猫たちなら、この先何年も生き抜くためには、寒さをいなすことをも覚えなくてはならない。が、年老いた猫にとってはただただ辛いだけのことに違いない。
 外猫のうち、「クロ」は、実のところ年齢不詳ではあるが決して若いとは見受けられない。もう何回も子を産んでいそうだし、他の若い猫たちと比べても、歳の功とも言える落ち着きがあり物分かりも良い。その分、どことなく俊敏さに欠き、やはり歳なのだろうと思わせる。
 そんなことから、「クロ」には特別の「ハウス」を与え、家内は湯たんぽまで差し入れてやってきた。「クロ」の方も、他の若い猫たちは警戒して中に収まろうとはしないにもかかわらず、「クロ」だけは、そうした人間による配慮を素直に受け容れてきた。人間慣れしているのと、このところの寒さに限界を感じているのかもしれない。

 ところが、その「ハウス」とは、段ボール箱にブルーシートをぐるぐる巻きにした、どう見ても「蓑虫」ふうの、猫版ホームレスバージョン以外ではなかった。まあ寒さを防げさえすればそれでいいと言えばいいわけだが、これからは冷たい雨の日もあるだろうし、雪が吹雪くことだってありそうだ。しかも、家内が湯たんぽを差し入れるとなれば、毎回その「蓑虫」状態を解かなければならない。手間がかかり過ぎる点も難点である。そこで、近々何とかしてやろうと思ってはいた。

 今日もまた、駅伝を見ていたが、にわかに「クロ」のことが頭をよぎる。いつかいつかと思っていても、これで仕事が始まると、ついつい後回しとなりそうなことは目に見えてもいた。幸い、日中は陽射しもあり外での作業も不可能ではなさそうであった。ヨシ! と思い切り、「正月大工」を敢行することにしたのだった。
 冷え込むに違いない夕刻までダラダラと持ち込む愚は避けたかった。また、「クロ」にしても、日が落ちると、「蓑虫」ハウスに戻ってくるはずだから、それまでに「新居」を完成させておいてやれば、スンナリと「入居」するに違いないと思えた。したがって、一時から始めて、三、四時間の「短期工期」でリリースすべきだと考えた。

 まあ、平屋一階建てということもあり、「耐震強度」なんぞを配慮する必要はないし、見てくれもさほど気にすることはない。ただ、隙間っ風が吹き込む作りであってはならないこと、雨や雪が溜まったり、積もったりしない屋根の傾斜をちゃんとつけてやること、それからこれが大事なのだが、湯たんぽを狭い入口から入れるのではなく、サイドから差し入れられるように、サイドの壁は「蝶番」で開閉できるようにしたかった。
 こうした、設計構想をもとにして、なおかつ、庭の隅に転がっている半端木材を使用して低コストを図るべく、いざ作業を開始した。
 先ずは、角材で骨組みの柱や梁を組み立てる。寸法は、現状の段ボール箱を基準とすることにした。家内が後で、「これじゃ、湯たんぽが入らない」なんぞとクレームを言うことを警戒したのである。
 庭でこうした作業をしていると、「クロ」が、チョロチョロと覗きにきた。わかっているのかどうかは定かではない。
「おまえのおうちを作ってるんだよ」と言ったりする。「お手数かけます……」とは言うはずがない。

 初仕事は、万事スピーディーに順調に進んだ。が、どこかに買い置きがあるはずだと予想していた「蝶番」が見当たらない。物置を徹底的に探せばどこかにあるはずだとは思えたが、それは選ぶ手ではないと悟る。むしろ、ホームセンターまでひとっ走りした方がこの際妥当だと思った。また、混んでるかもしれないところへ、クルマで出かけるよりも、「電動チャリンコ」を飛ばした方が妥当だとも考えた。すべて、日が落ちるまでの勝負だという意識のなせるわざであった。
 「蝶番」の入手だけが「想定外」であったが、先ず先ず、さほどの「押し」もなく、暗くなる前の五時には完了することとなる。やはり、日が落ちると急に冷え込んでくる。「工期最優先」の作業進捗を図ったことが正解であったとほくそえむ。

 完成した「ハウス」を、玄関脇のプロパンガス収納ケースの上に載せてみた。もともと「蓑虫」ハウスを設えていた場所である。すると、タイミングよくどこからともなく、「クロ」が戻ってきて、「ありがとう!」と言わぬばかりに、極めて自然に、何気ない雰囲気で入口から中へと潜り込んだ。これ、こういう物分かりの良さが、「クロ」のかわいいところなのである。「何コレ?」というような訝しげな様子を一切禁じ、また、「ワーイ、やったー!」というような媚びもなく、実にナチュラルに、当然感に満ち溢れて、さっと中へ飛び込むという、このツーカー的アクションをピタッと選択できる猫、それが「クロ」なのである。だから、好きなのである。わたしの「正月大工」のちょっとした疲労は、気の利いた「クロ」のそのリアクションによって完膚なきまでに吹っ飛んだことは言うまでもない…… (2006.01.03)


 仕事初め(会社としては明日からだが)の今日は、寒さをものともせず自転車での通勤を敢行した。所用時間はおよそ30分である。日頃、自転車をこぐ筋肉を使っていなかったので、平坦な道路でもやや違和感を感じるといった情けなさであった。まあ、一ヶ月も続ければ「チャリンコ・サイボーグ」になれるはずだと言い聞かせた。
 若い頃はよく自転車を愛用したものだったし、自転車は嫌いではないので、クルマを利用するようになってからも自転車の備えはいつもしていた。しかし、町田に住むようになった頃から次第に遠ざかってしまったのだ。原因は、起伏の多い地形である。とは言っても、名古屋在住の頃、坂の多い経路を大学まで自転車で通っていたのだから、あながち坂のせいとばかりは言えないのかもしれない。歳とともに、自転車からバイクへ、バイクからクルマへと、「文明依存型」へと雪崩れ込む生活を選択したことがすべてであるだろう。
 ただ、町田街道の狭い道路事情という点も災いすることになったのかもしれぬ。この点は、週末になると道路にクルマが溢れかえり渋滞してしまうというマイカーによるクルマ都市というあまり先進的ではない風潮と関係していないとは言えない。公共交通と自転車とが人々の足となるような都市が理想的なのかもしれないなぞと、我田引水的なことを思いながら事務所めざして走ったのだった。
 自転車通勤が軌道に乗れば、往復で1時間のサイクリング運動となり、運動不足の弊害を自然に克服することになりそうである。もちろんそれがねらいなのではある。長めの坂については、「電動」機能で支援を受けるわけだが、それとて原付やオートバイクとは違って、「自力救済」的運動を要するのだから、エネルギー消費量に遜色はないはずだ。悪天候や、仕事上でクルマを利用せざるを得ない場合などを除き、せいぜい自転車通勤を継続させたいものだと考えた。

 今日は仕事初めとは言え、事務所には自分ひとりであったため、とりあえず済ますべき作業を終えたあと午後は早めに退社することにした。休み中に済ませてしまいたい自宅での作業もあったからだ。というのは、昨日、突貫工事で仕上げた「ワンルーム」マンションならぬ外猫用の「湯たんぽ完備ハウス」の仕上げ作業のことである。
 夕べは、とにかく機能面だけを仕上げたわけだが、今朝、明るくなって眺めてみると、有り合わせの木材を活用したため、「外壁」の汚れが目立っていたのだ。それも、隣家から見える面がいかにも汚れがひどかった。ペンキ塗装をしてやるべきだと思ったのだ。
 すっかり、「クロ」は暖かい「マイホーム」を気に入ってしまったようで、いざ、ペンキ類を取り揃えて現場に来ても、なかなか中から出ようとはしない。そこで、ペンキの乾く時間を想定すると、かわいそうでも「一時退去」を迫るほかなかった。わたしは、その小屋を「クロ」諸とも地面に降ろしたのだが、ようやく不承不承「クロ」は外に出てきた。そして、小屋を設えていた場所にうずくまり、うらめしそうにわたしのペンキ塗りを見つめている。
 外壁はホワイト、屋根はブラックと塗り分ける。これは、わが家のコンビネーションとまったく同じなのであり、見る人が気付けば笑いのひとつも起こるのかもしれない。
 この後、思わぬ珍事が起きてしまった。全然考え及ばないことでもなかったのではあるが、「クロ」は待ち構えていたかのように、ペンキ塗装間もないハウスに飛び込んだのである。防寒その他のことを考えて、入り口は、鳥の巣箱のように直径15センチくらいの丸い穴状にしておいたのだが、その周囲のホワイトのペンキが、「クロ」のボディにたっぷりと付着してしまったのである。それはまるで、白髪のようにも見えた。
 が、猫は毛づくろいのために全身を舐める習性があるため、そのままにしておくわけにはいかず、家内の手も借りて、全身をしっかりと拭いてやることになったのである。幸い、ペンキは「水性ペンキ」であったため、湯で濡らしたタオルでしっかりと落とすことができたものの、「クロ」にとってもわれわれにとってもとんだハプニングとなってしまったのだった。小屋のペンキが乾くまで、しばし、「クロ」はいつも入りたがる様子を見せていたわが家の玄関で待機させた。家の中で飼ってもらえるという誤解がなければいいがと余計な心配までしたものの、ペンキがようやく乾いたと思われたため、湯たんぽを取り替えて暖かくなったハウスに戻すと、すぐに丸くなって眠り込んでしまった。
 これで、やっと外猫「クロ」の「越冬対策」が一件落着の運びとなった…… (2006.01.04)


 会社としては、今日からが仕事初めである。
 久々に、朝礼ふうに一時をもうけて挨拶をする。去年年末の突然の入院の件を詫びたい気持ちと、今年に向けての一言を述べた。述べるというほどの大仰なものではなかったが、二つの点について話した。

 一つは、仕事をする以上、インテリジェンス(知性)を働かしてがんばることは当たり前のことであり、意外と等閑(なおざり)にされているのは、「気迫」をもって臨むということではなかろうか、ということ。知識・情報を重要視することにばかり目を向けながら、まるで「ミッシング・リンク」のように「気力、気迫」といった「マインドなもの」を見過ごしてしまっているのが現在の危険な風潮であるように思えたからである。
 たとえば、われわれは、日々、未曾有に大量な情報に接していながら、知識・情報との接触とともにあるべき「感慨」のようなものがほとんど伴わないようだ。その姿勢を「クール」だと呼んでもいいわけだが、それは決して立派なことではないような気がしている。要するに、「不感症」となってしまっているに過ぎないと思われるからだ。

 わたし独自の考えでは、知識や情報というものは、怜悧な脳で受けとめるとともに、当然波風も立てば、波紋も広がる感受性豊かな心でキャッチすべきだと思うわけである。そんなことをしていたら身が持たないという向きもないでもないが、もし、知識・情報を脳活動だけで処理するとなれば、コンピュータとまるで違わなくなる。しかも、できの悪いコンピュータもどきである。
 それに、コンピュータは、人間をご主人様としてひたすら召使の役を果たせばいいのだから、情報処理能力だけあればいいが、人間は、問いかけをして、課題設定をして、何らかの目的を追求するものであろう。そうでなくては、人間としては情けない。いや、人間失格だと言ってもいい。
 それじゃあ、この、問いを発し、課題設定をし、目的設定と目的追求をしようとするモチベーション(動機)は、一体どこから生まれてくるのであろうか? まして、これからの時代では、ますますこの点が仕事面でも私生活でも決して外すことができない重要性を帯びてくるはずだと思われる。
 しかし、この難問に関してさえも、どこかにその知識・情報が出来合いであるに違いないと思っているのが、われわれ現代人ではないのかという気がするのである。そんなものは、吊るしや既製品でありはしない。過度なインテリジェンスへの盲信から一歩退き、不確かながらも自身の内に潜む、「マインドなもの」に近づかない限り、本当の意味で問いを発する姿勢は培われないのではなかろうか。また、そこからしか、「気迫」といった得体のしれない有意味なものも生まれようがないと思われる。
 多分、知識・情報が、スマートで快適な生活を支えてくれていたかのような幻想が崩れ始める時期が迫っているのだと感じる。知識・情報を有難がるがあまりに黙殺してきた人間の他の能力にしっかりと気づかなければいけないのではないか……。

 もう一つ、言葉足らずではあるが話したのは、「油断」ということにまつわる話である。このきっかけは、ある経済評論家が述べていたことに起因する。今年の経済を占うに、大企業は、昨年、リストラその他の方策によってこれまでにない収益を上げることができた。しかし、その方策の中身には、練り上げられた策ばかりではなくラッキーにも良い結果となったというような筋合いのものも否定できない。もし、それを実力だと勘違いして慢心するならば、とてもリスキーなことだ……、といった話だったのである。
 事実的に言っても、米国経済や、中国経済の順調さに依存してきたことや、まさに大リストラによって身軽な体質となったことなどが挙げられよう。しかし、これらは、それで一件落着なんぞではなく、米国経済の下半期の不安定要素や、リストラと二極分化に伴う国内需要の不安定化など、決して予断を許さない事実なのであろう。
 そんな中で、株価上昇=景気回復だと楽観視したり、当面の企業財務指標だけで将来に危惧なしとしたりする「油断」に陥れば、ひとたまりもないということなのだろうと思う。
 そんな企業経済のことだけではなく、社会的にも、いろいろな面で「油断」とも思われる原因による不祥事や事故が頻発しているかに見えるのである。
 そして、冒頭の話である知識・情報の活用が寄って立つべき人間のベーシックな能力(「マインドなもの」その他)が如何に衰弱しているかを想像するならば、「油断」という落とし穴は結構危険なものとなるのかもしれないと危惧するわけなのである。
 また、これを逆に言うならば、これらを想定しながら動くことが今年以降をサバイバルするひとつの対応策となるのでは……、と思ったわけなのであった…… (2006.01.05)


 ウェブサイトを閲覧の上で、当社提供・販売の商品やサービスを注文していただくと、それなりにうれしいものである。われわれとしては、サイトで紹介させていただいているものについては、閲覧していただければ商品の実体が先ず先ず了解していただけるように丁寧に紹介し、そのための工夫もしているため、「わかっていただけましたか……」という感慨が伴う分、これまたうれしいわけである。
 むかしは、新聞記事に紹介されたりすると、電話にて問い合せてくる会社が多かった。それはそれでいいのだが、対応する側は、何回、何十回となく同じことを説明しなければならなかったりする。まあ、問合せをいただくということはありがたいことではあるが、それでも「非合理」感を禁じえない。
 そこへ行くと、ウェブサイトでの商品・サービス紹介は、提供側にとっても、また閲覧する顧客側にとっても合理的かつ便利な方法だと思われる。
 ネット・ショッピングで自分が顧客となる場合も多い昨今であるが、購入検討中の商品が、ウェブサイトで丁寧に紹介されていると、十分に購買如何の判断が整うものだと感じている。

 ただし、商品やサービスの「プレゼン」に労を惜しまないことが必須のはずである。せっかくの良い商品であっても、ナルホドと思わせる説明コンテンツがなければ購買意欲に訴えかけることには至らないであろう。
 こういうと、いかにも大繁盛しているかのような口ぶりに聞こえるとまずいのであるが、顧客側、サイト閲覧側の立場で言うならば、中には当然顧客側が気にするような点が不明瞭な場合もないとは言えないからなのである。不明瞭な点は、電話などで問い合わせれば良いようなものだが、それでは何のためのウェブサイトであるのかわからなくなってしまう。一目瞭然、誤解なし、といった「プレゼン」であってこその、ウェブサイトでの商品紹介なのである。

 イカサマで売り切ろうなんていうのは論外であるが、肝心な点での間違いや誤解を与える表現にも十分に注意しなければならない。
 以前、PCショップを運営していた頃、PCパーツの商品紹介には気を遣ったものであった。顧客相手は、どちらかと言えばマニアの玄人筋が多かったからである。販売側のわれわれの商品知識に優るとも劣らない装備をした方々であったからだ。
 確か、CPUのあるクロックのものを紹介した際、詳細情報を問い合せてきた顧客が多いことがあった。というのも、そのCPUのある種の型は、オーバー・クロックといって通常仕様のほかによりクロック数を速めて使用することが可能だったからなのである。玄人筋が密かに探しあぐねていたCPUだったのだ。ただし、そのCPUのすべての製品がそのオーバー・クロックが可能だったわけではなく、一部の型だけが可能だったので、そのことをも説明しておく必要があったというわけなのである。
 このほかにも、PCパーツなどを商ったりすると、とにかく誤解を封じる詳細な情報提供が欠かせなかったことを思い起こす。だからこの時期に、結構、商品情報というものの提供についてはナーバスにさせられたかと思っている。

 最近では、通販サイトがめっきり多くなったものだ。宅配便環境の広がりもあって、購入希望者にとっては、さほど面倒なことではなくなったからであろう。ただし、トラブルや、「個人情報」漏洩などの不具合も、相変わらず少なくないと聞く。
 顧客の「個人情報」漏洩問題については、当社は当社なりにあえて「原始的な対応」をしている。注文を戴く際には、デジタルのメールで「個人情報」を添えて送信してもらうのではなく、サイトに用意した「注文書Faxシート」に記入して、アナログ・データとしてFaxしてもらうのである。これであれば、個人の詳細データが「デジタル」回路に残らないのでとりあえず不測の漏洩には至らないからである。その分、顧客側には面倒をかけることになるが、逆に安心していただくという効果もないわけではないのだ。

 年明け早々、「Assessment」関連商品のご注文をいただいたのであった。わずかな個数ではあっても、新春早々にということや、「良いものは良い」と認めてご注文いただけたことがうれしくないわけがない。
 こうした商品販売方法で一定程度の「上がり」が達成できればこんな有難いことはないのであるが、そのためには、「プレゼン」より何よりも、多くの顧客に関心を持ってもらえる「コンテンツ」作りにこそ邁進しなければならない…… (2006.01.06)


 毎年、新年の七日は川崎大師参拝および護摩焚きとお定まりとなっている。今日も、異様に寒い中を出かけてきた。そして、これまた恒例の「久寿餅」をみやげに買って帰ってきた。家族以外にも楽しみにしている人たちがいるため、複数個を大きなバッグに入れて持ち帰るので、結構重い荷物となってしまう。一度みやげに差し上げたりすると、継続させなければ何かヘンではないかと勝手に思い、重労働(?)をすることになっている。名古屋みやげの「ういろう」と同様に、貰う側は、好きな人であれば喜ぶものの、運ぶ側は手荷物だと正直言って迷惑モノだと言わなければならない。メールで大容量の添付資料を送信する際には「圧縮処理」を行うが、「久寿餅」も軽量化に向けた「圧縮処理」が行えればいいものをと愚痴ってみたりした。

 どういうわけだか、今日は一日中「機嫌」が悪かった。ちょいと疲れが溜まっているのかもしれないし、また、尋常ではない寒さが気持ちを凝り固まらせていたのかもしれない。寒さに腹を立ててもしかたがないようなものであるが、実を言うとこの寒さを自然なものとして寛大に受けとめる気になれなくなったのである。
 過剰なCO2排出=温暖化現象という、元を糾せば人為的な原因、しかも「今さえ良ければ……」「自分さえ良ければ……」という利己主義的な人為の集積が原因で「異常気象」が生じて、その影響で異常寒波が発生している……、と考え、無性に腹立たしくなっているのかもしれない。
 しかし、この事情は、冗談ごとではなく、何か暗澹たるものを感じさせないでもない。国内各地で数十年ぶりの異常な積雪があったり、日本海側では民家を押し潰してしまうような大雪が降り続いたりしている現象が、一過性のものではなく、もし、これから毎年起こることとなるのだとすれば、軽いお天気の話題では済まなくなるはずである。
 まして、地方の山間部降雪地域の住民は、今やお年よりばかりだそうであるし、さらに高齢化が強まることにより、降雪との闘いが日に日に難しくなっていくに違いないからである。

 そんなことを四六時中考えて「機嫌」が悪くなるわけでもないのだが、世の中は、弱肉強食的に奪うものは何でも奪い去り、優しい自然をも、辛い自然に変えてしまっているのかと想像するならば、誰に対する憤りということではないにせよ、人間の醜さに対する嫌悪感が打ち消し難く生まれてきたりするのだ。
 自然の「収奪」という点に関しては、決して絵空事ではないのであって、かつて、漁村においては、住民たちが生活のために自由に海岸に立ち入ることができたという。それは、住民たちが海岸を共同管理しつつ、その代わり海岸がもたらす実りを享受できるという「入浜権」として設定されていたわけである。
 ところが、現在の海岸の大半は、石油コンビナートやその他の産業の用途で私有化されており、「入浜権」なぞは消えてなくなっている。これなぞは、四方を海で囲まれた国の国民が、海という自然から排斥されてしまっている象徴的な出来事ではないかと思われる。

 先日、入院した際に、例の寒風吹き荒ぶ喫煙所で知らない患者同士が雑談に興じた時、ある年配の人が、現在の地方の自然が手がつけられないほどに荒廃してしまっていることを嘆いていたものである。
 一言で言えば、過疎化と住民の高齢化で、かつての自然の姿が無惨なほどに荒れ果ててしまっているというのである。一時期の自然の破壊問題は、地域開発と称するデベロッパーによる自然破壊であったが、現在は、やむを得ない人手不足に起因する「不作為」によって、自然が驚くほどに荒廃しているというのである。
 これもまた「入会権」に関するのであるが、山林にしても、かつては住民「入会権」が行使されて手入れが行き届いていたものだったところが、現在では、高齢者ばかりとなってしまい間伐を行う者もいなくなり、山林は鬱蒼とした闇になってしまっているという。いわゆる「里山」が事実上崩壊していると、その方は嘆いていたのだ。
 われわれが、TVのニュース番組などで見る、自然地の動物たちが住宅地域に降りて来るという現象の背景にはこうした「里山」の荒廃という事情が潜伏しているのだと思えた。
 わたしは、これもまた、自然が、自然を必要とする人たちから奪われてしまっている現象のように思えるのである。直接的には、そうした地域の人たちがかつての自然を必要としているのであるが、決してそれだけではない。山間部の自然が崩壊することは、河川と河川周辺の体系である「水系」的視点で言うならば、下流の都市部地域にも水害その他の点で重大な関係があることになるのだ。つまり、直接的に自然と暮らす人々の生活を、事実上成り立たなくしてしまうような社会の経営(経済社会)は、結果的に、人々から優しい自然を遠ざけて、自然を猛々しいものへと変貌させてしまっているということなのである。

 昨今、「搾取」だとか、「収奪」という言葉は「死語」となってしまった観がある。労働運動や学生運動が当たり前のように行われていた当時には、盛んに使用された言葉であった。当時は、これらの言葉は、もっぱら、人が人を、あるいは「資本(家)」が「労働(者)」を、「搾取」するとか「収奪」するとかと言って使われたものである。
 ところで現在、われわれが次第に目を向けざるを得なくなっているのは、どうも誰のものでもないはずの自然というものが、「収奪」されている、という事象ではないかと気づくのである。そして、その結果、誰のものでもなかったがゆえに、それらに依存し、それらによって守られて、育まれてきた弱者たちが、大変な被害を被っている、つまり「収奪」されているのではないかということなのである。
 一々例示する余裕はないが、唐突感を伴う例で言えば、幼い子どもたちをめぐるむごたらしい犯罪の多発とて、自然の「収奪」の路線上で起きていることだと考えられる。人々の脳や心の病の広がりもまた、人間の「内的」自然の破壊と「収奪」に起因するように思われる。
 では、一体、その「収奪」を突き進めているものは誰なのか? 相変わらず「資本(家)」であるのか? それとも、正体不明となってしまった「文明」であるのか? おそらく、熱い情熱と怜悧な分析を重ねるならば、決して単純ではないとしても、その正体というか、メカニズムは見えてくるはずではあろう。
 が、今現在は、「犯人」は特定されず、その結果、人々に、「時効」になってしまうのではなかろうかとの諦めさえ与え続けていそうだ…… (2006.01.07)


 毎年、マス・メディアが報じる新年の話題のひとつには、デパートなどが売り出した「福袋」の様子が入っている。今日も、あるTV番組で、大阪心斎橋のデパート「そごう」が企画した「福袋」の話が取材されていた。通常の「福袋」のほかに、「福箱」という、昔の人ならありがたがった「茶箱」入り乾物詰め合わせセットの行方が報じられていた。結局、20箱準備されたものが7箱売れ残る首尾に終わったという。
 夕食時に家内と観ていて、やはりちょっと無理のある企画じゃないかという評価に落ち着いたものだった。家内が言うには、確かに、昔の主婦にとっては、湿気や虫を寄せつけない「茶箱」の有り難さはわかるけど、最近ではどうなのかしら? と。
 「茶箱」のことは良くは承知しないわたしも、「福袋」というのは、買った袋を携えて帰って、何が入っているかを帰宅後すぐに確かめるところに妙味があるのであって、後日宅配便で送られてくるという「スロー・レスポンス」では、興味が半減してしまうんだろうな、と酷評したものだった。ゲーム好き、ギャンブル好きなわたしならではの観点からの評価であった。
 しかも、価格は、当初1万5千円が予定されていて、うるさい上司の提言で1万1千円に落ち着いたということらしい。戌(いぬ)年にちなみ「11」で「ワンワン」となったとかなのである。うーむ、というあまり感心できない感情に落ち込んでしまった……。

 その後、ニュースが始まった。
 今年も新年早々、犯罪の種は尽きまじ、ということのようである。仙台の生後間もない「赤ちゃん誘拐」事件は、無事に「赤ちゃん」が保護されて良かった。
 この寒さが尋常ではない時だけに、もし犯人が「粗野」な者であったなら、いや、こんな誘拐事件を引き起こすくらいだから「粗野」であると十分に想像されたわけだが、そうだからこそ赤ちゃんの健康や生命が心配であった。報道によれば、解放された後の体重は、何百グラムだか増えていたので、ミルクなどがまともに与えられていたらしい。
 そんな報道に接しながら、わたしは、突然、昨日の川崎大師の護摩焚き前に恒例で行われる僧侶の説教話のことを思い起こしていた。
 昨日の話のテーマは、成仏するとは、死ぬことではなく平穏な心に至ることなのだということだったかと思う。そのことを説明する過程で、僧侶は、「徒然草」の第五十七段だかで、吉田兼好が、人が憎しみを誘われるものはいろいろとあれども、そうしたものが一切ないのが赤子の顔であり、誰が見てもかわいいと思えるものだ、と述べていると指摘していたのである。そして、成仏するには、そうした赤子の心境に近づくことが大事なのだと……。
 わたしが、そんな話を思い起こしたのは、今回の「赤ちゃん誘拐」事件の犯人たちは、そんな無垢でかわいい赤ちゃんを誘拐してしまい、どんな「場違いな」(?)心境に追い込まれてしまったものだろうかと想像したからである。何らかの憎しみをトリガーにした犯行であったに違いないのだろうが、いざ手にしてみた赤ちゃんの無邪気な顔に接するや、何やら「仏ごころ」へといざなわれたのではなかろうかと……。
 わたしが、そんなことをちょいと口にしてみたら、家内はノーと言わぬばかりに首をかしげたりした。

 それはともかく、わたしはまた別のことを思い起こしていたのである。
 誘拐された赤ちゃんは、報道によれば「生後11日目」であったらしい。しかし、この「11日目」という語感が何やら耳に残っていたのである。何だったかとしばし考えることになってしまった。
 その時、ニュースは、今回の犯行は「周到な計画」に基づくものであると報じた。いやこの言葉の語感も耳に残っていたため、あれ、あれーという心境になった途端に、あることを思い出したのだった。
 これも新年早々に報じられた犯罪であった。保険金目当ての殺人事件であり、クルマを海中に沈めて夫を殺害したというものである。確か、犯人の妻と共犯者たちは、「周到な計画」の上で保険金を詐取しようとしたと報じられていたはずであった。
 が、わたしは、警察発表であると思われるこの「周到な計画」という表現はいかがなものか、似つかわしくないのではなかろうかと思ったものであった。というのも、生命保険「約定後11日目」に犯行に及んでおり、あまりにも「急ぎ働き」に過ぎる。こんな見え見えの犯行を「周到な計画」によるものと表現することが妥当なのだろうかと思った次第なのである。こんなことを感じていただけに、「11日目」という語感が耳に残っていたのであった。

 夕飯の茶をすすりながら、わたしは、家内にぽつりと言った。ほとんど返ってくる応えを予期した見え見えの質問をしたわけである。
「新年早々今年の犯罪は、どうして『11日目』に縁があるんだぁ?」
 家内は、予期したとおり得意げに応えるのだった。
「だって、『ワンワン』の年だもんね」
…… (2006.01.08)


 大体、やることが思いつかずに、近所のレンタル・ビデオ屋を覗いてみようかと思うのは、年に何回もない。その証拠に、いざ借りる段になると、
「お客様、会員カードが去年の〜月で切れておりますが、更新なさいますか?」
ということになってしまうのだ。今日も同様であった。
 今日は、朝一番に、零下の寒さをおしてウォーキングをしたまではよかったが、睡眠が不十分であったためか、その後急速に気力が失われ、ダラ〜ッとした気分になってしまったのである。そして、庭の水道口のバケツの水や、猫用の飲み水さえ凍ったままとなって融けることもない、そんな冷え冷えとした寒さの中に出て何かをする気にはなれなくなったのだ。
 かといって、ゴロリと昼寝をするのはもとより選択肢にはない。こんな場合なのである、近所のレンタル・ビデオ屋を思い出すのは。
 年末年始、その店は、日中のみならず、深夜にも大勢の客がつめかけていた。そんな気配に接しては、暮れは暮れで、何もこんな忙しい時にビデオ、DVDでもなかろうがと思ったし、年始にも、正月早々ビデオなんぞ鑑賞しなくともほかにやることがあるだろうにとも思った。しかし、やはりビデオを借りに来て路上駐車をしているクルマが跡を絶たないありさまであった。

 が、今日あたりは自分がその退屈男となってしまい、のこのこと訪れることになったわけである。
 しばらく覗かない店内には、最近のコンテンツ事情がまるでわからなくなってしまい、並べられているビデオやDVDのパッケージがよそよそしいものばかりであった。何としても観たいと思ったわけでもなく訪れただけに、やれやれという気分となってしまったものだ。
 しかし、寒い中を出て来た以上、何も借りずに帰る気にもなれず、なんぞ二番手、三番手程度のものでも借りようという妥協的な気分となっていた。
 そこで手にしたのが、真田広之主演の『亡国のイージス』と、原作:藤沢周平、脚本:山田洋次の『隠し剣鬼の爪』ということになった。あまり気乗りがしなかったのは確かである。『亡国の……』は、どうも自衛隊PRフィルムもどきのように思えたし、『隠し剣……』は、前作『たそがれ清兵衛』以上の出来だとも思えなかったからである。

 結果は、予想どおりであったようだ。
 『亡国の……』は、<今、この国の未来に不安を抱かぬ者は一人としていないだろう。未曾有の経済的発展を享受しながら、理想も持たず、国家としての責任能力も自覚せぬまま世界進出を遂げた日本。バブル崩壊が経済を袋小路へと迷い込ませたとき、そこに我々が誇るべきものは何ひとつとして残らなかった。…… 語るべき未来も見えず、守るべき国家の顔さえも失った「亡国の盾」に果たして意味などあるのか。この国に生きる者すべてに関わりながら、その誰もが真剣に考えることを避けてきたテーマを……>といった部分に、多少なりとも興味を持ったのだが、「亡国」の中味に言及するものが希薄であり、なぜだか、何十年も前の『日本沈没』(小松左京原作)でも観ているかのような印象であった。(そう言えば、このリメイク版が今年の夏に公開されるとか)
 『隠し剣……』は、何といっても『たそがれ清兵衛』の「二匹目のどじょう」という感触が否めず、藤沢周平ファンであっても、いまひとつ新鮮さに欠くという印象だった。
 藤沢作品は、どちらかと言えば、定型的な筋立てによるものが多いため、個々の作品での特徴と新鮮さは、よほど巧みなフォーカスをして表現しなければマンネリ感が払拭できないような気がする。「かつての奉公人との実ることのない恋に心揺れる姿を丁寧な筆致で描く」とあるが、この辺のテーマがいまひとつ観る者にじっくりと伝わってこないのが残念であったかと思う。

 二つに共通していると、無理やり決めつける感想は、テーマを際立たせる背景的事実、前者で言えば「亡国」的な現代日本の事実、後者で言えば「奉公人との実ることのない恋」という身分制度の事実を、やはり観客としっかり共有するという演出が望まれる。まして昨今の観客は、歴史認識はおろか必要最低限の前知識とて希薄なのであるから、なぜこのテーマがテーマとして成り立つのかがわからないのではないかと心配するのである。
 落語では、「落ち」の笑いを取るために、「まくら」話から延々と前提情報を流し込むようである。まあ、そこまで「作為的」となるのも考え物であるが、映画では、さりげないシーンによってでも背景的事実を観客に覚らせることがもっとあってもいい。それがテーマに関わる部分の説得力を増幅することに繋がると思えるからである。そこまで力むこともなく、エンジョイすればいいじゃないかという向きもあろうが、昨今の観客は、エンジョイすることにも贅沢となっているに違いないと思われる…… (2006.01.09)


 今朝は東京地方に雪または雨の予報が出ていたため、せっかく始めている自転車通勤がストップしてしまうかと危ぶんでいた。何事も継続することが重要であり、特に身体に関することは、身体に覚え込ませる必要があるため、できれば長期間継続させてみたいのである。
 しかし、幸いのことに天気予報ははずれてくれることとなった。雨や雪が多少なりとも降ったのかどうかは知らないが、路面も濡れていなかった。ということで、ほっとして、自転車をこぎ出したのだった。
 が、ひとつ問題と感じることを発見することになった。
 高校生たちの自転車通学が始まったようなのである。三連休があったためか、今朝からあちこちで自転車通学をする高校生たちを見かけることになった。問題というのは、彼らの登場によって、歩道がやたらに混むのである。しかも、遅刻を恐れてか、やたらにスピードを出している。今朝も、曲がり角から猛スピードで飛び出してきて危うく衝突しそうになったものだった。

 自転車に乗り始めて、今さらのように気づいたことは、自転車にとってクルマは非常に危険な「敵」だということであった。クルマは、さほどの幅もおかずに、かなりの高速で通り過ぎようとする。また、信号の無い交差点では、横断歩道にまで突き進むクルマが多い。いずれにしても、接触すれば自転車に乗っている者の方がはるかに不利な立場となってしまう。そうだから、自転車の方が譲るはめとなり、随所でストップすることになってしまうわけだ。
 それにしても、自分がクルマに乗る立場の際には意識できなかったが、クルマは自転車に乗る者や歩行者に想像以上の脅威を及ぼしているようである。
 自分がクルマを運転する場合に気をつけているのは、一つが、できるだけ裏道は走行しないということであり、もう一つは、自転車や歩行者の脇を通過する際には意識してスピードを緩めるということである。自転車であろうが、歩行者であろうが、クルマ側に倒れてこないとは言い切れないからである。
 しかし、そんな常識を踏まえていないクルマが何と多いことかと気づかされた。よほど、高速で走るクルマを止めて、「あなたは、何か突発的なことがあった際に急停止できる自信があるのか!」と言ってやりたくなるほどである。ただ、そんなことをしていたのでは、あちこちで喧嘩をすることになってしまうので、自己防衛的に自転車を走らせるしかない。
 こうして、クルマへの警戒心を抱くことにしたのであるが、自転車同士でも結構危ないものではないかと、今朝気づかされたのである。まあ、予防策としては、チャリンコ高校生たちが疾走する時間帯を避けるしかないかと考えてはいる。
 それにしても、外気をふんだんに浴びて走る自転車というものは、寒い風もあれば、暴走する心得違いのクルマもあれば、さらに自分のことで精一杯で走っている同類の自転車もあり、結構、注意力と運動神経が要請されるものだと思わずにはいられない。
 そんな中で、今日、可笑しかったというか、感心したことがあった。
 二組ほどの親子が歩道を歩いていたのである。子どもはまだ三歳くらいであっただろうか、女の子であった。わたしは、念のために、ハンドルにつけたベルを「チーン」と鳴らして速度を落とし、彼らが脇に寄ってくれることを期待した。
 すると、その子が、後方のわたしを見ることもなく、大声で連れの者たちに叫んでいたのである。
「自転車が来たからっちゅーうのー!」と。
 「チーン」と鳴れば、振り返らずとも、それは自転車が来たということだとしっかりと認識していたわけなのである。わたしは、思わず、「聡明な子だなあー」と感心し、また、なぜだかこころ暖まる思いがしたものだった………… (2006.01.10)


 今日はそう言えば「ぞろ目」の日付である。ついさっき、何を書こうかとあたりを見回していたら、日付入りの置時計が「1月11日」と示していた。いつもそう思ってしまうのだが、ふとデジタル時計を見て、数字が「ぞろ目」であったりすると、「おっ、何かいいことがあるぞ」と感じる。パチンコが嫌いではない自分のしがない習性であろうか。
 それで思い出したが、先日入院した際、面白いことがあった。決まった時刻に「血糖値」を測定するのだが、入院患者たちは、ナース・ステーションの脇に設えられた仮設のデスク(「血糖値測定および申告デスク」?)の前に集まり、看護士と一緒に順番に測定などを実施するのである。
 自分は、通院時の時からすでにその測定器を与えられ慣れていたので、自分の病室で測りその結果を報告することもできた。が、皆と同様にその「仮設デスク」に集まって実施してくださいということであったのでそれに従っていた。
 治療効果がその数字から推し量れるわけであり、自分も、食後のウォーキングの効果に関心を持っていたため、何となく結果の数字には興味を寄せていた。

 ある時、「ぞろ目」が出たのだった。「111」、つまり血糖値が「百十一」と出たのである。看護士に向かってわたしは報告した。
「百十一です」と。
 すると、一人の看護士が、
「一が揃いましたね。きっと何かいいことがありますよ」
と冗談を言う。そこまでは、ありそうなことであった。
 と、すかさず、もう一人の看護士、コイツはいかにも今風の遊び人タイプの女の子であり、その彼女がボソッとつぶやいたのだった。
「『確変』じゃないの……」と。
 わたしは思わず噴出してしまった。

 ここで、昨今のパチンコ事情に疎い人のために注釈を加えておこう。
 最近のデジタル式パチンコは、魚であったり、その他のキャラクタであったりどんな図柄が伴うにせよ、「1」から「9」までの数字が基本となっており、その数字の三列が同じ数字になって揃えば「当たり」ということになっている。しかもである、多くの場合、奇数の数字が揃う場合には、次のゲームも当たる「確率」が大幅に高くなるのである。それを、「確率変動」、略して「確変」と称し、愛好家たちにとっては胸がときめくラッキー現象ということになる。と言うのも、その次にまた「確変」が出ることも否めず、そうすれば「三レンチャン」ということになる。さらにまた出れば「四レンチャン」、「五レンチャン」と、「ドル箱」がうずたかく積み重ねられることが、もはや誰にも止められなくなる、いやそんなことはなくて、先ず先ず、ちまちまとした回数で自動的に止んでしまうのではあるが……。
 で、先の「遊び人・看護士」が口にした『確変』とは、わたしのその時の血糖値「111」を、奇数の「ぞろ目」であるからそう言ってはばからなかったわけなのである。人気機種「海物語」で言うならば、かわいい「タコ」が三つ子よろしく揃うケースなのである。
 わたしは、内心、「コイツも、『ドル箱』を積み重ねる快感の虜になって、随分と『授業料』を払っているヤツに違いないな」と思ったものだった。が、神聖なナース・ステーションを、パチンコ談義で汚すつもりもなかったし、また、「その『カクヘン』って何よ」とカマトトぶるのもヘンであったため、一笑に付すにとどめたのであった。

 しかし、どういうものか、自分は何気なくデジタル時計に目をやるとやたら「ぞろ目」に出会うことが多いような気がしている。多分、それは偶然というよりも、「ぞろ目」以外の数字列の場合には「黙殺」してしまったり、意識しなかったりするがゆえの単なる「心理的」結果によるものだと、「冷静に」判断してはいる。
 きっと、度し難いギャンブラーたちの場合も、稼いだ時のときめきだけを記憶に残し、負けた時のことは「黙殺」するという、同様の「心理的」トリックの虜となっているに違いなかろう…… (2006.01.11)


 先日、TVのトーク番組で、そこそこ信頼のおけるあるコメンテーターが、肺がんとタバコ喫煙との因果関係は本当に証明されている事実なのか、排ガス汚染などの方が濃厚であるようにも思えるが……、と分が悪い意見を披露してばつ悪そうにしていた。きっと当人も愛煙家なのであろう。
 財源不足で、国民から取れる税は何でも取ろうとし、誰もが反対しそうもないタバコの値上げの件が話題となった際のことであった。政府側は、喫煙にプレッシャーをかけることで国民を肺がんから守ろうとしたり、医療費の増加を抑制しようとしているのだと、誰かが「正論」ぶった強弁をしたから、愛煙家としては一矢報いる必要に迫られたというところなのであろうか。
 自分も、一頃までは「肺がんとタバコ喫煙との因果関係」を、疑う姿勢を示していた。例えば、肺がんとなった人を、遡及的に調査して喫煙習慣があったとしても、それが直ちに肺がんの原因だとは考えられないのではないか、他の隠れた要因が作用していなかったとは言い切れないのではないか……、といったふうにである。
 だが、今でも多少の疑いを残してはいるものの、その因果関係は、概ね妥当なものなのだろうと認めつつある。むしろ疑おうとする姿勢には、肺がんそれ自体を恐れる感情が影響を与えているように思えるからである。要するに、肺がんは恐いけど、タバコは止められないというジレンマを、姑息にも解消しようとしているわけなのであろう。

 昨日の新聞報道で、<血液で肺がん早期発見 オリンパス、08年実用化目指す>(asahi.com 2006年01月10日)という記事に目が止まった。もちろん、「姑息な愛煙家」ならではの居心地悪い心理が働いてのことであろう。

< オリンパスは、初期の肺がんによる病変(生体の変化)で現れる特有な遺伝子10種を発見した。早期発見が難しいと言われる肺がんを血液中の遺伝子を検出することで診断できる機器を08年を目標に実用化する。
 同社は、尿による膀胱(ぼうこう)がん診断法を開発中の米ベンチャー企業「キャンジェンバイオテクノロジーズ」と昨年4月から共同研究していた。
 患者200人の病変を調べて特有な遺伝子10種を見つけ、それらを目印に70〜80%の精度でがんを診断できる技術を確立した。今年4月から、血液中に漏れ出た遺伝子を検出できるかどうか研究を始め、08年ごろに高感度の検出器を米国で実用化することを目指す。
 顕微鏡やカメラなど光学技術を得意とするオリンパスは、消化器がんの発見に役立つ内視鏡では世界シェアの約7割を占めている。しかし、肺がんの場合、肺の奥まで内視鏡は届かないため、X線などによる画像診断に頼らざるを得ず、早期発見には限界があると指摘されていた。>

 この記事に関心を寄せた理由は、確かに愛煙家としての心理によるものもあるにはあった。が、他にも理由があった。以前、同社の「内視鏡」システムの画像処理部分に関してソフト面で協力させてもらった経緯があったからである。今でこそ、「内視鏡」システムはあらゆる医療分野で当たり前のように活用されているが、われわれが関与させてもらった頃は、まだまだ試行錯誤が多々残されていた状況であったかに思う。
 また、システムを納入する先は、とかく唯我独尊のスタンスをとりがちな博士先生の現場であり、何かと独特で細かいリクエストを提起するもので、われわれはその都度カスタマイズの作業でてんてこ舞いとなった記憶がある。
 が、同社はもともとアナログ・カメラ・メーカーの雄であり、世の中の風潮がアナログ・カメラからデジタル・カメラへと推移して行った経過で、随分と苦戦を強いられているようでもあった。
 その後、同社関連の仕事からは遠ざかって何年も経過したが、今回のようなバイオテクノロジーとの共同開発で大きな衆目を集める成果に至ったとは、驚きとともに、まさにビジネスというのは奇想天外だと感じたのであった。しかし、考えようによっては、決して突拍子もない展開なのではなく、「内視鏡」技術を梃子にして医療分野を対象とし、やがて「がん」という先端医療課題が対象とならざるを得なくなり、そして「遺伝子」とその検出技術が対象となってゆく、というきわめて必然的なチェーンが作用していたのであろう。
 かつてのユーザであるからというお世辞ではなく、このように、一筋にビジネス課題を追求して、決して遭遇するプロブレム(課題)を避けたり、素通りしたりせずに邁進することが、やがて時代が称賛する成果に辿り着いて行ったのだと思える。
 さてさて、目先のお駄賃にあくせくしているわれわれは、どんなチェーンを手繰ってゆくのであろうか…… (2006.01.12)


 仕事に夢中となっていたら、結局、昼食抜きで夕方となってしまった。いよいよ、さほど空腹感が伴わない「仙人」の身体(?)となったのであろうか……。
 冗談はさて置き、実際、昼食をとるのを忘れていた。というのも、今朝は、朝食がえらく遅かった。十時過ぎ頃であっただろうか。血液検査をするため朝食を抜いて医院に向かったためである。
 入院を勧めてくれた近くの医院に、再度診て貰う段取りになっていたのであり、入院した病院の医者が書いてくれた「経過報告書」を持参して出向いたのであった。入院による効果が著しいものであったため、その医院の医者もやや驚いていた。今後、インシュリンを打ち続けなければならないかもしれないと予想していたようなのである。
 それが、今日の血液検査によっても空腹血糖値が「93」という上出来の数字であったため、いま少し体重を減らすならば、飲み薬さえ不用となるやもしれないと診断してくれたのだった。

 その医者は、前述の「経過報告書」を読んで聞かせてくれたが、今回の発病の原因は、摂取カロリーの問題とともに、運動不足とストレスの蓄積だというようなことが書かれてあったようである。一々もっともなことだと了解できた。
 ちなみに、この間の経過が良好な理由は、もとよりカロリー制限に気をつけているからなのであろうが、今ひとつ、意識的に行っている「運動」ということもありそうである。
 実は、今朝、起きぬけで「血糖値測定器」による自己測定をしてみたのだが、その時の数字は、確か「130」ほどであった。昨晩は事情があって夕食を3時間も遅れさせたためなのだろうと判断していた。
 よりにもよって、もとの医者のところへ報告に行く時に、いつもよりも高目の血糖値を示すのは好ましくないように思われた。そこで、最初は、空模様が悪そうなので久々にクルマを利用しようかと思っていたのだが、急遽、自転車で向かうことにした。少しでも、血糖値が下がることを期待したからである。
 するとどうだろう、その医院での採血と測定結果は、「40」近く下がっていたのであった。15分ほどのサイクリングが、そうした結果をもたらしたとしか言いようがないわけだ。以前にも、食後に、軽い筋肉運動を行って、その前後に試しに測定したことがあったが、その時にも「2〜30」の低下が確認できたのだった。

 要するに、身体を動かす「運動」というものが、ほぼ確実にインシュリン機能を刺激しているということなのである。逆に言えば、デスク・ワークで一日中身体を使わずに、その上、あーだこーだと悩むふり(?)をしてその結果ストレスを貯めてしまうならば、どんなにか「インシュリン」が出る幕を奪い、顔を潰しているのかもしれぬ。それで「なら、勝手にするがいいさ!」ということにでもなるのではなかろうか。

 たぶん、ストレスの方は、こんな時代環境では早々回避する手立てはありそうにないと予感している。その分、「健全な精神は、健全な肉体に宿れかし」という言葉にそって、せいぜい肉体に適度な負荷をかけ続けようかと考えているのだ。朝、起床する際に、やや身体のあちこちに疲労感を覚えるくらいがちょうど良さそうではないのかと感じている…… (2006.01.13)


 仕事の進捗が思わしくないのと、体調がまずまずであったため、今日は早朝から、休日出勤している。まだこの地方は雨となっていないが、ほぼ確実に雨となるとのことなので、通勤は自転車をやめてクルマとした。(午後一時過ぎにとうとう降り出した)
 久しぶりにクルマに乗って感じたことなのだが、ラク過ぎるということと、視界が低いということである。妙に地べた側から見上げている印象を持ったものである。この間、自転車による高い視角に慣れてしまったからなのかもしれない。人間の感覚というものは、たった二週間ほどでもこんなに変わってしまうものなのかと、ちょっとした驚きであった。

 仕事の進捗もさることながら、どうも最近は「根を詰める(集中する)姿勢」が緩んでいる気配が気になったのだ。ここいらでちょいと「スパート」をかけないとダラダラ傾向が常態となりそうに思えたのである。もちろん身体のことへの配慮は必要である。しかし、こうした前向きな気分となっているということは、気力が充実しているということであり、むしろいつまでも「入院もどき」にこだわっていてはならない。
 よく考えることであるが、マラソンや駅伝のランナーは、特に競い合うライバルと競り合っている時、いつ飛び出す「スパート(全力投入)」をかけるかということに集中しているようである。そして、それは非常に重要なことだと同感する。「スパート」するからには、目に見える成果を獲得しなければ意味がない。ライバルとの間に水をあけ、グングンと差を広げていく成果である。
 しかし、それが可能になるのは、自分側に余力があり、ライバル側が心身ともに限界に迫っていることを察知できた場合に限る。もし、ライバル側にも十分な余力があり、自分側が「スパート」をかけた時、優るとも劣らない度合いで相手も「スパート」をかけたとしたらどうだろうか? 確かに、ラップ・タイムの向上はあり得るが、心身ともに誰よりもダメージを受けるのは自分側ではないかと思える。つまり、「ぬか釘」状態を、厳しいステイタスの際に味わう羽目になることは、何よりも大きな損傷を受けるに違いないからである。
 ボクシングでも、効かないパンチを出し続けることになった場合には大きく消耗してしまうわけだ。そう言えば、先日観たビデオ「隠し剣」でも、戦術のひとつとして、序盤戦では徹底的に身をかわし続けて、敵の消耗を誘うという技があった。
 いや、問題は、自身が消耗しないことがどうこうということよりも、そうならないために、状況観察を的確に行う必要があるということなのである。

 相変わらず、ネット株の「デイトレード」には関心を持っているが、株のチャートの変化を見ていても、「スパート」のかけ方が上手い投資家と、下手な投資家との違いを頷かされる場合がある。「上手い!」と思わず感心させられるケースというのは、どこから見ても、この辺で一気に駆け上がるという空気をしっかりと踏まえ、畳み込むように「買い」を入れて、入れて入れまくる「スパート」をかけるわけだ。すると、「提灯買い」の個人投資家たちも興奮させられて、便乗的な「買い」に誘われ、するとチャートは、まさにうなぎ上りで上がってしまうのである。残念ながら、そんなタイミングを、傍観者的に見せつけられるのが自分であるから情けないのではあるが。
 下手な投資家の「買い」の「スパート」というのは、何とも中途半端でいけない。ちまちました額や回数で仕掛けてみて、もののニ、三秒も経たないうちに「売り」投資家の反撃に飲み込まれ、犬死してしまうのである。状況認識が甘い! 詰めが甘い! と叫びたくなる思いである。

 余計なことをくどくどと書いたが、要は、何でもない日常生活にあっても、「スパート」をかけるタイミングと、息を抜くタイミングとを上手く管理すべきだという話なのである。
 むかしの言葉には、「緩急よろしきを得る」というのがあったが、まさに以上のような理屈をそれとなく諭していたのであろうか。
 いずれにしても、世は未曾有の競争時代であり、それ以前に、人の能力やパワーというものには大して差がない上に、絶対量も限られている。持てるささやかなリソース(能力、パワー、資産……)の管理と運用に意を払うべきであり、その際の要点が「スパート」を上手くかけるということなのであろうか…… (2006.01.14)


 随分と暖かい一日であった。また、昨日の雨が乾き続けていた空気をほどよく湿らせたようで、ウォーキングの際には、草木の香りが漂い、時ならぬ春の雰囲気を味わった。まだ暦は1月半ばであり、これからが寒さ本番なのであろう。雪も何回か降ることになるに違いない。
 しかし、新年となってから冷え冷えとした日々ばかりであったため、ようやく明るく穏やかな新年を迎えたかのような気がしたものだった。何がどうなったというわけでもないのに、こうした天候を仰ぐと、漠然と幸せな気分となったりする。不思議だと言うべきなのか、あるいはそれが当然だと言うべきなのか。

 いつも西方には丹沢の山並みが臨める。今日は、その山々から幾分かの距離を置いて平べったい雲が帯状に山々に被っていた。昨日激しく降った雨に関係しているのであろうか。それらが、明るく真っ青な上空に映えて存在感を誇示していた。そう言えば、積雪で被われていてもよいはずの山々には雪の気配も見えなかった。これもまた雨によって解かされたものであろうか。そう考えると、やはり天候の変化が、なだらかではなく、段差のある、いわばデジタル的な様相を呈しているかのように思えた。そうした変化に特徴づけられた天候を異常気象というのではないのかとも思った。

 白鷺がゆっくりと、境川の浅瀬を歩いている姿に目をとめる。小振りで、やせているような印象を受けた。その白鷺が、水中からゆっくりと片足を上げ、前方に伸ばして着地し、また反対側の足を上げて前方に伸ばす、という何とものんびりとした歩行をしながら餌を探している。時々、細長い首をしなやかに伸ばし、黄色く長いくちばしを俊足で動かし、小魚でも捕捉するような動作をしている。
 大してめずらしい光景でもないが、川べりのフェンスに寄りかかりながらしばし眺めることにした。その度外れたスローモーションに関心が向いたのかもしれない。これで、空腹を癒すに足るほどの餌を得ることができるのだろうかとか、いやもともとが小食で慣らされているのだから大きな空腹感も伴わないのかもしれないとか、そう言えば彼らは、人間さまのように、食事の時間とその他の働く時間や遊ぶ時間が区別されているわけではなく、眠る時間以外はすべての時間が渾然一体となっているんだなあ、なぞと、どうでもいいようなことを考えたりしていた。
 彼らは、つまり、餌をとる行動、それが労働でもあり食事でもあるようだが、それをしながら、実のところ遊んでもいることとなり、「境目なしで同時多発的な」機能の行動をしていることになる。だから、あれをしてから次にこれをして、その次には……、とあくせくした気分に急かされる必要などとは無縁であり、それだからこそのんびりと、悠然としていられるというわけなのかもしれない、なんぞと、何の役にも立たない「哲学的思索」をしていたというわけである。

 しかし振り返って考えれば、時間の流れに「境目」なんぞがあるわけではない。また、生きもの本来の行動に、目的が単一であるということはないし、また、その目的に区別を持ち込むというようなことが非常に不自然なようにも思われた。
 卑近な例では、身体を動かさないという健康に悪いと見なされる労働と、ウォーキングやジョギングといった健康管理のための運動とが、別々な時間として存在させられているということが挙げられる。どうも、効率というものを求めつつ、自然な調和というものをズタズタにしてあくせくしているのが現在の人間のようにも思われたのである。
 こうしたことは、時間の問題だけでないだろう。他にも、行動の目的というような点でも、結構、無理やりな区別や仕切りを持ち込んで不自然なことをしているのが人間社会であるのかもしれない、と…… (2006.01.15)


 先日、タクシー業界における厳しい実情に関するTVドキュメンタリーを観た。
 小泉「構造改革」によって、タクシー料金が「規制緩和」され、タクシー業界が「仁義なき闘い」となっていることが、大阪の実情によって紹介されていたのである。(再放送のようであった)
 要点は、タクシー需要のパイが決して増大しているわけではないにもかかわらず、配車されるタクシー台数とその乗務員(タクシー・ドライバー)の数は膨れ上がり、おまけに「規制緩和」に伴って「料金」の自由化が展開されたことにより、ダンピングまがいの料金水準がまかり通っているというのだ。(初乗り料金が「ワンコイン(500円)」というケースが大阪では広がっているらしい)
 そのしわ寄せは、タクシー会社にも及ぶのであろうが、より直接的には「タクシー・ドライバー」が概ね引き受けることになるらしい。年収が、300万円を軽く割ってしまうのが実態だそうである。月収にして25万円に届かないとすれば、まさに生活苦が目に見えているはずだ。

 ところで、この時期、「タクシー・ドライバー」を担うのは、クルマが好きだとか、独りでできる仕事なんぞという浮いた話ではあり得ない。多くが、リストラで職を奪われた中高年者や、経営破綻に追い込まれた自営業者が、ほぼ「終着駅」に近い形で手にする職らしいのである。容易に想像できるところである。
 それで、まずまずの労働条件と収入が確保されるのであれば、それもまたひとつの選択肢だと見なされてよかろう。しかし、このドキュメンタリーの表題は、「タクシードライバーは眠れない」であったことを思い起こせば、労働条件と収入の過酷さが自ずから推察されようというものである。
 つまり、「規制緩和」が誘った低料金、そこから必然化した「タクシー・ドライバー」たちの低収入を、克服しようとするならば、走行時間と客取り回数の量を増やすしかないことになるわけだ。しかも、上述したごとく、出回っているタクシー台数は減るどころか増えているのが現状であるため、激しい競争の中でそれを行わなければならない。

 また、タクシーというのは、公共的な乗り物であるため、安全面が重視され、法律的にもクルマと乗務員を、会社が日毎管理しなければならない。クルマの始業点検や、乗務員の健康管理などであろう。だから、タクシーは、営業終了後には会社の車庫に戻る必要があり、営業開始時は会社からでなくてはならない。
 ところが、前記の「ワンコイン(500円)」タクシーで経営をしているタクシー会社は、クルマをドライバーが買い取る条件付けをしており、その代わり、営業終了後は自宅にそのまま帰ってよしとしているというのだ。営業開始時にも、自宅からそのまま巷に出てよいということである。
 これは、一見非常に合理的な外見を呈する。少しの時間でも「稼ぎ」の時間を多くしたい「タクシー・ドライバー」たちにとっても、「合理的」であるかのように見える。しかし、ここには、大きな「罠」が仕掛けられているのである。つまり、「タクシー・ドライバー」たちの過重労働(「タクシードライバーは眠れない」!)であり、そして、安全の度外視! である。現に、「規制緩和」が行われた以降のタクシー事故は増加していると言われている。

 ここで、考えるべきことは、当然「規制緩和」(=「構造改革」路線)という問題以外ではないのだ。政府側、および能天気な市民ならば、自由競争というものを「抽象的議論」のレベルで想定して、「お互いに切磋琢磨して、より良いモノがより安く提供されるから良いこと!」と言うに違いないだろう。首相自体がそうである。
 しかし、抽象論、一般論の地平に人々は暮らしているのではない。学者ならいざ知らず、政治家という存在はこの点をこそ見つめる役割りを持っているのではなかろうか。理論と現実の推移を区別してかからないならば、政治家なんぞは無用の長物でしかない。
 こうした点を強調するのは、別に、「タクシー・ドライバー」たちに肩入れしているからではなく、同じロジック、安全性を犠牲にするロジックが、JRなどでも、また建築業界などても、そしてあらゆる業界で大なり小なり危ぶまれているからである。
 常に、安全対策というものは直接利益を生み出す性格のものではないだけに、コスト削減という荒っぽい第三者的掛け声のもとにおいては犠牲とされがちなのであろう。この現実にこそ、感度のよいセンスを働かせて面倒みいみい事を進めるのが一角の御仁だと思えるのだが、そんな政治家はどこにもいない…… (2006.01.16)


 昨日の「タクシードライバーは眠れない」の話の続きとなる。実は、「規制緩和」=「構造改革」への憤りもさることながら、書きたかったことは次の点であった。
 リストラされて、再起を図るべく何十回、何百回と会社面談を試みた末にタクシー・ドライバーに落ち着いた熟年のドライバーの呟きだったのである。
 帰宅した際に、奥さんが彼に話したそうなのである。
 その日、奥さんは、表通りの歩道を歩いていて、道路側の花壇の花に目がとまったという。あまりの可憐さに、思わず間近に見ようと近寄ったところ、それをどう勘違いしてか、タクシーが歩道側に寄って来て止まったという。タクシーは、自分が呼ばれたのだと考えて道路側に近寄ったらしいのである。
 その時、奥さんは、ああ、きっと自分の主人も同じような行動をとっているに違いないと思ってしまい、そう思うとなぜだか涙が止まらなくなってしまったらしいのである。
 この話を、彼は運転をしながら、カメラの前で紹介していたのだ。そして、静かに語る。確かに、毎日の勤務と情けないほど少ない収入は辛い、しかし、こんな立場になってこそ、家内の優しい思いに真底感じ入ることができたのであり、そう考えると、惨めさを感じないわけでもないこんな生活も決して悪いことばかりではないなと思うのです……、と。

 人は、どうしようもなく苦しく切ない境遇に身を置かれてしまってこそ、心のひだに染み入る人の優しさを感受したり、人の心のさざなみに共感したりすることができるのだろうと思う。不思議と言えば不思議なことであるが、このことは、まるで人間を超えた存在が、「哀れな弱者」に対して周到に用意した奇跡的な道理であるとさえ言って良いのかもしれない。
 しかし、そうした「フラジャイル、fragile [breakable]」なものに対する感性とその歓びを享受する者が、いわゆる「哀れな弱者」だけだと踏んでかかり、その上、自分はそんなものがなくても済むのだと決めつける心境は、果たして「まとも」なのかと思うことがある。
 こう言うと、宗教家かなんかを気取っているかのような印象を与えそうであるが、そんなつもりはない。
 自分が関心を向けたいのは、「哀れな弱者」を他人事だと勘違いしている、あるいは「哀れな弱者」であってはいけないのだという強迫観念に支配されてもいそうな現在の風潮そのものだと言えるのかもしれない。
 あるいは、人の優しさや人の心の優しいさざなみのような「フラジャイル」なものと人間の存在とは切り離すことができない宿命にあるにもかかわらず、そんなものとは無縁であるかのような勘違いを促進させている時代風潮なのかもしれない。

 そんな霞みのような「フラジャイル」なものよりも、あたしゃ現金が欲しい! というのが大方の現実であることは百も承知している。自分自身も、六四、いや七三くらいの割合で、不自由しないカネがあればなあ、と日毎感じているはずである。それが、毒されたと言うべきか、時代に順応していると言うべきか、いずれにしても現代の生活者であるのだろう。
 ただ、十割まるまるカネまみれの人生であることを拒絶したいと思う気持ちもまた確認できる。時代環境が、ますます、カネのためなら何でも……、と強いれば強いるほど、そいつはイカサマだぜ、という直感的な洞察が働くというものである。
 自分は、「フラジャイル」なものをあえて求め続けるほどに青臭くはないだろう。それは、人間の「フラジャイル」性を実体験するために、一度死んでみようとはするべくもないのと同様である。
 ただ、時として遭遇する「フラジャイル」なものを偶発的で、余計なものとは決して思えない。人間にとっては宿命的な「フラジャイル」性が、日常生活からはひた隠しに隠されているにもかかわらず、時としてひょっこりと顔を現すそんなものだと思うからである。

 人間の優しい心や感情のよすがは、人間自体の宿命的な「フラジャイル」性に棹差しているのであろう。そして、現代という時代は、カネをはじめとするバリューもどきの総動員によって、そうした消しようのない事実をあらん限りの必死さで曇らせているわけだ…… (2006.01.17)


 どこまであの「ブタ面」の男は人騒がせなのだろうか。そうぼやいている人が決して少なくないのではないかと想像する。昨日、今日の株式市場の動転ぶりのことである。
 ただし、当のご本人も、1000億円に及ぶ株価下落の損失による衝撃に、「想定外」の動転をしているに違いなかろう。今度こそは、「白馬の騎士」もしゃしゃり出ようがないし、場合によっては、「耐震構造」を持っているとは言い難い日本経済全体が、ぐらつくきっかけになってしまうのではないかとさえ感じている。そんなことはあるまいと高を括る材料をさほど持っていないのが、現・日本経済ではないのかと懸念するのである。

 わたしは、以前より、この国の現在の経済における「株(価)」の持つ意味にそれとなく関心を示してきた。構造改革路線の一環と言えるのであろう、「簿価会計」から「時価会計」への変貌によって、「株価」が異様に偏重される「株価経済」が到来してしまったからである。(c.f.<「時価会計」と「株価経済」、そして「帳尻合わせ」?> 2005.11.25 参照)
 また、それに呼応してか、「ネット株」に関与する「個人投資家」もうなぎ上りで増加してきた。こんな状況下であるため、新しいことに目がない自分も、後学のためとばかりに、「デイトレイド」の真似事までやってきた。何事も現場に身を置いてみなければ、要領を得ないと思えたからである。
 そんな実感から言うならば、今回の事態は、ただ事ではなさそうな感触が漂う。一般に、「日経平均」が二日で1000円程度の下げだと言われるわけだが、それは指標化した象徴的な表現なのであり、わかったようでよくはわからない指標かもしれない。しかし、その背後には凄まじい実態が控えているのだ。つまり、大方の企業の株価が軒並み急勾配で下落しているのである。
 もちろん、「ライブドア」およびその関連会社なぞは、何億株もが投売りされて落ち着くべき下値が定まらず、「ストップ安」という売買停止措置がとられたものだ。そればかりか、そうした限定的な措置では売買システム自体が処理許容量に耐え切れないということなのだろうが、今日の後場終了前20分頃には、東証をはじめとするいくつかの市場自体が売買停止措置を講じたのであった。
 「ライブドア」などは、言ってみれば個人投資家たちをこの世間に出した張本人とさえ言えるのだろうが、その「生みの親」に向けて、何億という株が叩きつけられたわけである。しかしまあ、同社は投資家たちを欺くようなことをした嫌疑がかけられたのだから、何をかいわんやであろう。
 しかし、昨日、今日の売買状況を覗くと、決して売りの勢いは「震源地」周辺にとどまってはおらず、ほぼ全面的に売り傾向が支配してしまっていた。これが、心理的な要因にナーバスに反応する株売買というものの恐さなのだろうと思えた。

 以前にも書いたが、「時価会計」が適用されるような経済となって、各社は、自社株の株価水準に激しく思い入れをするようになったはずである。「デイトレイド」に参画してみると、あらゆる手立てを駆使して株価を買い支えようとする蠢きが見えるようでもあった。ところが、今回の「騒動」は、そんな小動物の蠢きと、また何かを求めて群がった一般の個人投資家たちという小さな昆虫の群れに、突然雷雨でも降り注ぐかのような事態をもたらしたのではなかろうか。「ライブドア」社は別にして、他の企業群は、決して回復不能な打撃を受けたことにはならないにせよ、まさに「想定外」の事変を迎えたことは否めないであろう。
 これらがボディブローのように効いて連鎖的な不幸が起きなければいいがと懸念するのは、わたし一人ではないのではなかろうか…… (2006.01.18)


 「ライブドア」事件は、立花 隆氏によると<検察の事案としては簡単なケース>なのだそうだ。
< 東京地検が捜査令状を取って、公然捜査に踏み切るのは、その前段階の予備調査、内偵で、これはモノになるとよほどの確信が持てた場合に限るということである。
 確信は持てないが、とりあえず怪しいようなので、証拠集めのために、見込み捜査をやるなどということは、地検は絶対にやらない。検察は非公然予備調査の段階で、秘密裏に証拠を集める強力な手法を沢山持っている。……
 検察は捜査に踏み切るにあたって、相当慎重にすでに入手している証拠の証拠評価と法律的な詰めをしているはずである。これほど堂々たる捜査に踏み切ったということは、検察当局がすでに立件するに足る証拠を手にしているからだと考えてよいだろう。
>(立花 隆の「メディア・ポリティクス」 「ライブドア粉飾決算事件でITバブルは弾けたのか」より http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/060118_itbubble/ )
 で、表題の「ライブドア粉飾決算事件でITバブルは弾けたのか」については、<ライブドア事件はIT業界全体には波及しない>と判断している。
<この事件で、IT関連株がいっせいに売られているらしいが、それはもっともな部分と、過剰反応の部分がある。>とのことであり、<もっともな部分>とは、<IT業界の一部には、ライブドアと同じように自社の株価が高いのに気をよくして、時価総額に依拠しての冒険主義的経営手法をとっているところが結構ある。>という部分であり、そうしたところは<弾ける>のだろう、と。
 そして、<これ[ライブドア事件]はIT業界全体にダイレクトに結びつく話ではない。私は反対に、IT業界はこれからますます栄えていくだろうと思っている。>として、いわば「健全」な潮流に期待をたくし、その例として「グーグル( Google )の業績」を縷々紹介している。

 昨日は、自分もやや「過剰な」不安を抱いたものだったが、今日の株価の「戻り」方を見ると、事態を冷静に観察すべきだと思えたし、立花氏の見解に概ね説得力があると思えた。「IT業界」にも、「善玉」企業と「悪玉」企業とがあり、この際、後者が打撃を被り、前者が注目度を高めるというのは、大筋において否定したくはない傾向である。
 しかし、こうした立論は、だから、ITなんぞという胡散臭いものは信じちゃいけないんだよ! と言ってはばからなかった保守派の尻馬乗り的発言を牽制することにはなるだろうが、事はそんなに簡単なことではないような気もしている。
 わたしが懸念するのは、世の風潮が、「善玉」と「悪玉」とを熟慮の上で峻別してかかるほど知性的とは思えない点がひとつであり、もうひとつは、そんな風潮を見透かすように、「粉飾」であろうと何であろうと見てくれを良くするためには何でも使うべし、とでも言うような、相互呼応的な別な風潮も根強く支配的となっているかに見えるからなのである。
 現に、昨日の大暴落的な株価の「右肩下がり」チャートは、今日は完璧に近く反転していた。軒並み、「右肩上がり」チャートとなっているのだ。当の「ライブドア」関連企業は別であるが、その他の企業はわたしの見た限り、全面的に「戻して」いたようである。「悪玉」企業を排除しようというような知性的な配慮なんぞあったものではないかのようだ。安ければ買う、ただそれだけのように見えた。
 また、ちょっと長いスパンで振り返るならば、そもそも、かつての「バブル崩壊」がどれほどに知的に考えるという風潮を生み出したのか、という点なのである。現時点もいわば、やや小型の「バブル」現象だと言われているが、かつてのそれと、現在のそれに一体どんな次元の相違があるのだろう? 単に、10年〜20年の歳月が挟まっているだけであり、その構造は何ら変わっていないのではなかろうか。さらに言えば、それは、数十年前の戦前の「きな臭い社会風潮」を経験していながら、現在確実に存在する、その「きな臭さ」に危機感を感じる人がいかに少なくなっているか、ということにも似ている。
 まさに、われわれは、「人の噂も七十五日」的民族のような気がする。しかも、時代は時間の尺度が圧縮された「ドッグズイヤー」だそうだから、社会的事実を忘れてしまうのはもっと早く、昨日のことでさえ、一晩眠ればチャラになってしまうのかもしれない。

 ただ、時代特有の「見てくれ」経済(「時価株価」経済)の風潮にしっかりと乗って、それはまるでアラジンの絨毯による高速飛行のようにであるが、短時間で一気にでっち上げた「ライブドア」ばかりは、おそらく同じ速度で「原点」へと引き戻されるに違いなかろう。
 株価を急速に肥大化させた環境は、同時に、その株価を一瞬にして元へと戻す環境でもあったわけである。IT環境という「レバレッジ、leverage(てこの作用)」的環境は、望むことを一瞬にして増幅するとともに、望まぬことをも限りなく増幅させるのに一瞬で事足りてしまうわけだ…… (2006.01.19)


 自転車通勤の朝、「大寒」と呼ばれる今日あたりは実に寒いものだ。一応、防寒対策は万全を期し、防寒コートに防寒手袋、マフラーも上品に巻くのではなく、とにかく首を冷やさないために包帯のようにグルグルと巻きつけて首を隠す。だが、顔は隠すわけにはいかないから冷たい風がもろに吹きつけてくる。まあ、こんな季節なのだからしょうがないことである。
 ただ、自転車というのは、漕いでいるうちに当然身体全体が温まってくるものである。そこへ行くと、バイクというのはこんな季節には「我慢大会」のような乗り物であろう。一昔前、バイクを愛用していたことがあったが、これは寒かった。身体の運動をせずに、ただただ跨って静止状態にあるのだから、寒風吹き荒ぶ極寒の庭で座禅を組んでいるようなものとも言えよう。
 だから、時々、バイク通勤をしている人と出会うのだが、自転車と較べてラクなんだろうななんぞとはついぞ思わない。さぞかし、寒くてしようがないのだろう、風邪をひくことを心配しているんだろうな、と同情さえするわけだ。
 バイクが快適なのは、冬場と夏場を除いた季節である。夏は夏で、風を浴びるとはいえ照りつける直射日光がきついからだ。おまけに、バイクを運転する場合には、薄着は禁物であるからだ。レザーの繋ぎを着用するところまではいかないにせよ、肌を出すような薄着では、万が一転倒した場合には目も当てられない怪我をする。自慢ではないが、かつて「転倒後悔」したことがあったが、その時は皮ジャンを着用していたので酷いことにはならずに済んだものの、厚い皮ジャンの袖が引き裂かれていたものである。もし、その着用がなかったならば、と考えるとゾッとするのである。

 自分が、人力(プラスα)活用の自転車で通勤し始めたからということになりそうだが、バイクを「あざ笑って」みたりするだけでなく、「文明の利器」のマイナス面をことさら探そうとしているかのような自分がおかしい。
 今朝も、どういうわけだか目に入る、とある駐車場のクルマに搭載された「カーナビ」を見ては考えたものだった。
 確かに、「カーナビ」はあれば便利であろう。特に、不案内な土地をドライブする際には心強いはずである。しかし、自分は意地悪く考えようとしていたのである。便利な「カーナビ」を取り付けることで、逆に失われるものはないのか? と。
 そんなふうに、「文明の利器」を頼って便利さを味わうのは結構なことだが、その行き着く先は、「ボケ防止」のために、「頭のトレーニング」になるとか言われている「液晶ゲーム器」のようなものに別途依存することになるのではないか、と。
 道に迷う不安と闘ったり、頭の中で地図をシミュレーションしたりすることは、思考を空間的に展開することによって頭脳の活性化に大きく役立つらしい。だから、オリエンテーリングというのは、身体のスポーツであるだけでなく、頭脳にとってもほどよい刺激になるとかを聞いたことがある。
 そんなわけで、便利な「カーナビ」というのは、頭脳訓練の大事な機会を失わしめているとも考えられるということなのである。

 現代の「文明の利器」たるIT機器は、もはや無くては済まないような実情となっているに違いない。ただし、人間自身の本来的な能力が、それらによって萎縮させられている事実をいろいろと洗い出してみてもいいのかもしれない、とそんなことを考えたりしたのである。
 自分に照らして言えば、今、自分はもはや文章化においてはキーボード無しでは済まない身体になっていることに気づく。随分と便利さを感じ、この「レバレッジ、leverage(てこの作用)」的効果を享受してもいる。しかし、めっきり漢字を忘れつつある。肉筆で漢字混じりの文などを書くことが甚だ苦手となってしまったのである。
 これも由々しきことには違いないが、いまひとつ懸念するのは、象形文字である漢字に関するセンスが失われることは、ひょっとしたら記憶力そのものを減退させているのではないか、という不安なのである。この点はまだ思いつきに過ぎないが、象形文字や、筆記という行為が記憶と何か関係がありそうな気がしないでもないのである…… (2006.01.20)


 本来、朝一番に眺める雪の光景は麗しいものであるはずだ。日頃、取り立てて関心を示すはずのない近所の見慣れた風景が、雪に覆われた明るい光景に変ることはそれだけで小さな感動を呼ぶはずであろう。
 しかし、都市生活者にとっての視点は異なる。降雪によって日常生活の乱れることが問題視され、懸念される。まして、この間の日本海側の地域での豪雪被害の報道は、雪が降り、積もることを必要以上に忌み嫌うようになっているのかもしれない。

 自分の場合も、起床後、まだほの暗い外の光景を覗いた際、やれやれ、という気分に支配されたものだった。特に、降雪で迷惑を感じる予定があるわけでもなかった。強いて言えば、せっかく今のところがんばっている自転車通勤が難しくなったりするのではないかということくらいである。
 しかし、予報によれば長時間にわたる降雪だということであったし、しかも東京地方に降り出す時刻がかなり早まっていたため、何だか鬱陶しい気分になってしまったのである。
 その後の降り方がどうであるか、ちょっと外に出て確認してみると、十一時現在、かなりの降り方であり、朝、若干の除雪を行ったものの、すでにすっかりその上に雪が被っているありさまだ。これがもし半日、一昼夜と降り続くとすれば、かなりの「後遺症」が残されるようで、ますます気分が沈むようである。

 すでに、念のためのいつもの作業であるクルマへのチェーンの取り付けは完了している。というのも、以前にも同様のことがあったと記憶しているが、今日は家内が知人などとともに「手作り味噌」の教室だとかで、昨夜からその「資材搬入」の件でバタバタしていたからである。もし、雪が降ったらタクシーを呼ぶとかどうとかと言っており、わたしが知らん顔を決め込む空気でもなさそうだったのだ。
 そこで、クルマを出してやるつもりで、そのためにチェーンを取り付ける必要が生じたわけなのである。毎年、このチェーン取り付けに関してはなにがしかのことがあり、そのためこの日誌にも記してきたように思う。
 今回も、ちょっとしたことがあった。というのは、朝一ということもあり、もとより一年前のことであるため、チェーン関係のことをいっさい失念してしまっていたのだ。先ず、チェーンやジャッキの所在確認でえらく手間取ってしまう。あるはずだと思っていた場所に無く、どこかへ仕舞ったという記憶も蘇ってこないのであった。そしてニ、三十分も寒い戸外でウロウロとする情けなさであった。
 が、ようやく、満杯状態の物置の奥に仕舞い込んであることが判明する。自分自身の仕業であるにもかかわらず、まったく記憶になかったのだ。おそらく、何か別なことをしていて、事のついで、という経緯で対処したのだろうか……。我ながら情けなくなったものである。

 一年ぶりのチェーンの取り付けにも若干手間取ったものの、ようやく完了し、家内と同じ教室の知り合いとを、資材もろとも現場へと運ぶことになった。その場所は、クルマで五分程度の地域センターであった。
 道路脇の建物や木々はすっかり雪で被われて完全な雪景色と変わっていた。
 今現在も、書斎の窓からはとめどなく降りしきる降雪の様子が見える。何かと人間社会でのゴタゴタが絶えない時期でもあるわけで、できれば自然現象だけでも人々に優しくあってほしいものだと勝手なことを考えたりする…… (2006.01.21)


 昨日、今日と、積雪の天候や足元が悪いことなどから事務所に出向くことはなかったが、ほぼ両日仕事モードで過ごした。その甲斐あって、抱えている仕事の「起爆部分」は済ませることができたかのようだ。きっと明日以降の進捗度合いはハイペースとなるだろうと予感している。

 仕事をこなすのにはいろいろなアプローチというものがあろう。自分の場合は、メイン・コンセプトがイメージできれば、まるで巨大な重量の機関車がジワリジワリと滑り出すかのように、その後は弾みがついて前進し、やがて驀進して行く(はずだ)。
 しかし、メイン・コンセプトのイメージ化に辿り着くまでは、地面に吸い付いたかのように静止した慣性力が、ただただ重苦しくめげそうにもなる。気分が逃げ道を探し、当然気力が萎える。あとは、他力本願的に迫り来る期限のプレッシャーが作用してくれるのを待つという情けなさである。

 事務的に手がつけられる部分から、さして頭も気力も必要とはならないスタンスでこなしてゆけばよさそうなものでもありそうだが、どうしてもそうした意向にはなれない。そうした方法も採ったことがあったが、結局、メイン・コンセプトのイメージ化という「起爆部分」が遅ればせながらやって来た時には、そうした事務的作業の成果の大半が役に立たず、たんなるアリバイ作りであったことに気づくのである。
 つまり、メイン・コンセプトのイメージ化という「起爆部分」とは、仕事モードにおける「次元の飛躍的上昇」を意味するものであり、まさしく「次元上昇」のための「起爆」なのであろう。それがあるのと無いのでは、仕事の出来栄えもさることながら、仕事への意気込み、情熱そのものが雲泥の差となる。

 「画竜点睛を欠く」(竜を描いて睛[ひとみ]を点ず。中国梁[りょう]の絵の名人が竜の絵を描き、最後に竜に瞳を描き入れたところ、たちまちのうちに竜が天に昇ったという故事から、大事な仕上げの意。その仕上げを欠いてしまうの意から。――広辞苑)とは、仕事の終盤の話であろうが、同様の道理が仕事の序盤においても十分にありそうだと感じているわけなのである。
 考えようによっては、その中国梁の絵の名人は、竜の姿を描いてから、あるいは描きながら竜の瞳のイメージを構成したというよりも、先ず、そのイメージが先行していたのではないかと想像するのだ。その、瞳のイメージこそが、それにふさわしい竜の姿を描かしめ、そして、いよいよ実体化した瞳のイメージを具現化して最終盤で「点ず」というのが事の真相なのではなかろうか……。

 仕事のことで偉そうなことを言えた柄ではないが、どんな仕事であれ、序盤そのものから勘違いをしている場合が少なくなさそうである。この瞳のイメージや、メイン・コンセプトのイメージ化がなく、いやそんなものがあり得ることすら念頭に浮かべず、淡々とした事務作業の積み重ねというか、連なりというか、そうした平坦なものを仕事だと取り違えている場合がありそうだと思われるのだ。
 昨日、今日、TVの報道番組では、「ライブドア」事件で、「カネ儲けだけの虚業」云々という言辞が飛び交っている。確かに、そう表現されて仕方がない実態であったのかもしれない。
 しかし、逆に、心配することは、では「実業」と呼ばれる領域での仕事の実態とはどんな状態であるのかということなのである。
 「ライブドア」的虚業には「カネ儲け」への狂気染みたモチベーションがあり、無難な実業には眠そうなマンネリがある。そして、両者がともに欠いているのは、仕事それ自体への情熱であり、それを駆動するに違いない仕事自体の「瞳のイメージ化」なのではなかろうか…… (2006.01.22)


 残雪の路面凍結で転んだりしてはシャレにもならないので、今日の通勤は自転車をやめてクルマとした。今日の日中の陽射しで路面が正常化したようであれば、明日からはまた自転車通勤に復帰するつもりである。
 自転車通勤をしている社員が、
「社長、今日はクルマなんですね!」
と、半分、揶揄するかのような口調で言う。雪がやんだのだから自転車でいいじゃないですか、と言わぬばかりである。まして「電動付き」なのだから、ひるむことはないじゃないですか、とでも聞こえてきそうであった。
 大体、社員たちは、わたしの自転車通勤は、三日坊主とは言わないまでも、一、ニ週間で放棄されるものと見ているようなのである。そこまで見くびられては、我慢ならないので、続けられるだけ続けてやろうという気になっている。

 さてさて、クルマを使うと、その分通勤時間が何やかやと短縮され、仕事の着手時間が早まるし、帰りの「労力」を懸念することもないため、こうして夜も平然として作業をすることができる。これはこれでいいが、ただ、そんなメリットを安易に受け容れていると、結局、身体のメンテナンスがおろそかになり、またまた気がついてみると病院にいた、なんてことになりかねない。その辺の「バーター」取引関係をしっかりと見つめなければならない、「入院経験者」としては……。

 仕事に没頭して一日を過ごすと、この日誌を書く段となって急遽取り繕おうとしても、書くべきテーマやきっかけというものが容易には見つからない。そういうと、普段は仕事に没頭していないから、ダラダラと書けるのかということになりそうだが、半分は当たっており、半分は違う。仕事の種類によるのである。
 今、手掛けているものは些細なものではあるが、どちらかと言えばジャンル的には「技術的」作業である。こうしたものが、いけないのだ。常識的な分別とか、世事のいろいろなことなどへの関心を、どうしても希薄にさせる。度を越した場合には、過ぎ行く時間を忘れさせ、深夜へと突入させる場合もある。今日も今日とて、昼飯を食べそこない、手近なもので空腹をやり過ごしてしまった。
 つまり、頭脳活動が、「求心的」なものになりがちなのである。その逆に、営業的な仕事であったり、企画的な仕事、あるいは経営全般にかかわる仕事の場合には、「遠心的」とは言わないまでも、一定の概念的思考を働かせるためには視野を幅広く保たなければ思考が前へと進まない。こうした仕事をした日には、いろいろな思考残渣(ざんさ)が脳内に転がっており、この日誌のテーマ探しにも事欠かないというわけなのである。

 こうして考えてみると、やはり、「技術的」仕事や、「スペシャリスト」的仕事に携わる人々は、気をつけなければどうしても世事には疎くなるという傾向にあると言えるのかもしれない。そして、気がついた時には、ものを考える材料をも失い、自分自身で考えるという当たり前のことがとてつもなく困難になってしまうのかもしれない。
 身体も頭脳も、やはり日常的なメンテナンスをしていかなければ、悪癖によって取り返しのつかない硬直化が起きてしまうのかもしれない…… (2006.01.23)


 「ライブドア」事件の報道に接し、わたしは何故だか、同じような事件に接したことがあるような「感触」を抱いてきた。2001年米国の「エンロン事件」ではない。確かに、会計スキャンダルという点では同じ穴の(むじな)には違いない。
 しかし、日本にはもっと比較されてよい事件があったかに思う。わたしが思い起こした「感触」とは、「オウム真理教」事件がその諸悪を白日の下に曝け出し始めた頃の雰囲気と、それを無防備で受容することになった頃の感触なのである。

 まったくジャンルの異なる事件であるには違いない。だが、わたしに蘇った「感触」は、まさに「オウム真理教」事件で得たそれだったのである。何故そうなのかを論理的に説明するには至っていない。
 構成メンバーたちのジェネレーションという点があるのかもしれない。しかも、片や、宗教、片や金融ビジネスという違いはあるものの、メンバーたちのファナティックに身構える姿勢の異様さについてはどうしてもオーバー・ラップする。
 もちろん、跳ね上がったままの意識を継続させるリーダー自身の人柄にも共通項が窺える。表の顔と、裏の顔が使い分けられる点についても同様であろう。胡散臭さというやつである。

 事件の報道の過程で、思わずハッと思わされたのは、事件自体の核心部分を担った人物が沖縄で自殺したと報道された時であった。「オウム」事件では、自殺ではなく報道陣のカメラの前であったはずだが、同様のポジションにいた人物が無残に殺害された。
 両者の類似性を定かに詰める材料を持つはずのないわたしだが、何か「闇の力」を感じさせる嫌な「感触」を覚えたものだった。未だに、自殺であったとされる状況証拠の重みが実感できないでいる。

 株購入者にせよ、信者にせよ、カネを集める(「儲」ける=「信」+「者」!)には、当然のことながら、「広報活動」に異常なほどのてこ入れがなされるものだ。この点においても、マス・メディアを最大限に利用する必然性があったかと思われるが、両者ともにその形跡が濃厚であった。加えて、加熱する「広報活動」のその行き着く先が、「政界進出」だったという点でも類似性が否定できない。
 彼らにとって有難かった事実とは、マス・メディア、知識人、政界などから「身を摺り寄せてくる」人物や組織であったに違いないだろう。そういう連中とは、十分な「広報」的「シナジー効果」が発揮できるからである。確か、「オウム」事件の際にもそうした輩が、その後面目を無くしたはずである。
 そうした点では、ただただ騒ぎまくったマス・メディアの定見なしの動きや、小泉首相も身を乗り出した自民党の浅ましさは厳しく批判されなければならないと思う。

 わたしが、両者の共通点で最も危険だと感じる点は、彼らが、現在の若い世代の意識の「空洞化」部分を巧みに利用しているということである。
 「カネさえあれば……」という衝動に対して、それに代わる何が意識の「空洞化」部分を埋めていると言えるのだろうか。さしあたって、大きな説得力を持つものがなかなか見当たらないというのが、残念ながら現状なのかもしれない。
 そんな中で、<堀江社長逮捕にネットも騒然 目立つ擁護の声>( asahi.com 2006.01.24 )という報道があり、<「逮捕は嫌だなぁ。堀江社長にはいろいろ話題を作ってもらって楽しかったのに、またつまらない日本になるのか」「つらいと思うけど、必ず戻って来て!」「堀江さんはここで終わるような人ではない。また這(は)い上がることができる人だと思っています」>なのだそうだ。

 場合によっては、「オウム」事件裁判がそうであるように、法廷での事の進捗もまた途方もなく遅れるのであろうか。もし、最後尾の問題に何がしかの方向性を示すのが公の立場の為すことであるとするならば、人々の関心が冷めやらぬ前の、より迅速な処理こそが必須のはずであろう…… (2006.01.24)


 今日もまた、「スペシャリスト」的仕事に没頭し、つい先ほど切りの良いところで終わることにした。先日も書いたごとく、こうした状態の時は、ほぼ頭の中が真っ白というありさまであり、何を書くべきかを考えずしてとにかく書き始めている。
 好きな作業に没頭していると、とにかく時間を忘れ、そして充実する。これで、「上がり」の方も充実していれば言うことなしであるが、なかなかそうもいかない。充実した「上がり」というのは、金融ジャンルできわどく「エッジ(刃)の上を行く」ようなことをしないと叶わないのであろうか……。

 昨夜、笑ってしまったのは、ライブドアの取締役面々が逮捕の後、東京拘置所での滞在となるということから、あのスズキムネオ氏が、「先輩づら」して拘置所での「厳しい生活」状況を話していたことである。コンクリート壁に囲まれた、暖房もない三畳程度の「個室」で何週間も拘束されることは、誰が想像しても大変なことに決まっている。快適であるわけがない。しかし、そうはいうものの、一般人にはリアルさが欠ける。
 そこでというのであろうか、実体験者のコメントをいただこうとした報道側に対して、彼氏は、実に丁寧に応対していたのであった。曰く、あんな尋常ではない「個室」に拘束されていては精神的なバランスが崩れるとか。そして、自分は、子どもの頃には、こんな三畳の「個室」なんかよりはるかに環境の悪い住居で住んだ経験があるため、その時に較べればどんなにマシであるか、ということを必死に考え続けて耐え切った、と。
 言わんとすることはよくわかるが、拘置生活がどんなに厳しいものであるかについてなんぞに、政治家がいちいち応えていてどうなるの? という思いで吹き出してしまったのであった。

 ただ、常々思うのだが、どんな犯罪を犯せば、どんな罪となり、そしてどんな受刑生活を味わうことになるのか、については、しっかりと周知徹底させていいのではないかと……。これは、死後の世界がどうのこうのという丹波哲郎氏流の話とは違って、はるかに意味がありそうな気がする。つまり、犯罪抑止力という点においてである。
 これだけ、モノの値段に精通した市場社会主義者たちが一般化している時代にあっては、「ペイ」するかしないかという感覚は研ぎ澄まされているはずである。ところが、犯罪という「テイク」をしてしまえば、どんな過酷な刑という「ギブ」で支払いをしなければならないのかという段になると、はなはだ抽象的かつ漠然としているのが現状ではないかと思う。
 昔のように、「見せしめ」として刑を執行するというような野蛮なことを考えているのではなく、どんなショップにもあるような「メニュー」というか「価格表」のようなものがあってもよさそうに思うのだ。犯罪行為とそれに対応する刑罰内容とを、貸借対照表のごとく明示してはどうなのだろうか。
 「頭の中が真っ白」という状態で殴り書きしているため、どっかに問題がありそうな気がしないでもないが、倫理とか、道徳とかという啓して遠ざけるような思考にお任せする部分はできるだけ軽くしなければもたない時代にとっくになってしまっているのではないかと感じているのである。

 しかし、そのうち「受刑生活コンサルタント」とか、「それでは、『拘置所生活』に大変お詳しい※※先生に、公的三畳部屋生活のエンジョイ法について……」とかを耳にすることになったりして…… (2006.01.25)


 時々経験することなのであるが、社外との関係、つまり営業的事案や見積依頼、そして発注依頼などが重なる時には重なって到来するのである。別に自分ひとりのことではなく会社全体のことであるため、偶然だと見なすのが妥当なのであろう。
 しかし、自分一身に引きつけて考えると、ひょっとしたら時間の波動のようなものや、濃密な時間帯というものがあり、そうした時間帯には事が進捗し易いというようなことがあるのかもしれない。
 社外との関係で、良いことも悪いことも、とにかく何もなく過ぎる日々というものが結構ある。本来、ビジネス組織というものがそんなふうであってはいけないのだろうが、残念ながら「無風」の日々も少なくない。それに対して、事が重なる時には重なるもので、今日などは4〜5件の「What’s New」が重なった。今日は、そんな一日であった。

 他愛もないことを書くついでに書いてしまうと、物事を呼び込む精神的スタンスというようなものがあったりするのであろうか? 気力が萎えている際には、何をも呼び込まないが、気力が充実している場合には、偶然と言った方がいいような事柄をも含め、いろいろな物事を引き寄せる、といったような現象のことなのである。
 こんなことを書いていると、ここニ、三日のTVニュース・ショーで取り上げられている「十名以上の若い女性と同居生活をする男性!?」という話題を思い起こしたりした。チラリと耳を傾けると、モテナイ自分が、女性を引き寄せることに至ったには理由があり、ある日夢でみたことをきっかけにして、何か呪文を唱えたら思わぬ結果が訪れたのだと……。いかにもまやかしに満ちているが、この当人に限らず、「念ずれば叶う」ということを主張する怪しげな人物は枚挙にいとまがない。
 「念ずること」と「叶うこと」との因果関係を、そう易々と信じるわけにはいかないのは当然である。ただ、逆に、何ら自身の主観的(主体的)状態を、コントロールもしくは高揚させずして、環境に何かを期待するという関係にも信じ難い矛盾を感じるのも否めない。いや、「複数の若い女性と同居する」ことを「念ずる」云々のことではない。あくまで一般的な、自身側の内的状態と外部環境との関係のことを言っているのである。

 今日、ポジティブなことが重なったとともに、実は、いやなことにも遭遇した。ある会社を訪問した際に、これはわたしのミスであったのだが、隣の会社の駐車スペースに停めてしまったのだ。後で聞けば、同様のことが何回もあったという。複数回ということもあってか、その会社のとある人物が、激怒して感情的な対応に及んだのである。わたしと、訪問先の会社の担当者とは、平謝りに謝り、とにかく常軌を逸したかに興奮する相手様を刺激しないことに努めた。
 その方の、感情的かつ攻撃的な対応(若干の暴力行為もあり)に接していると、よくあることではあるが、われわれに対する憤りと、自身の内で処理しかねている日頃の鬱憤とが渾然一体となっていることに目を向けざるを得なかった。だからこそ、こちら側もキレそうになる心境をとにかくねじ伏せたものだった。
 後で考えてみるに、その方のようにそうした内的状態で攻撃対象を「探して」いるかのような人は決して少なくないのが実情なのかもしれない、と思った。これが、現在の「巷」の恐い現状なのであろう。
 が、もうひとつ考えられることは、内面に憤りや、憎悪や、その他ネガティブな感情を充満させていて、周囲から呼び込むものといえば、それは非生産的で、アン・ラッキーなことしかないのではなかろうか、ということなのである。自身側の内的状態と外部環境との関係の問題のシリアスな例ではなかろうか。その逆でありたいものだと考えさせられたわけである。

 今、国会では、小泉首相の「靖国参拝」問題も話題となっている。小泉氏は、例のごとく詭弁を弄し、「心の問題」を他国からとやかく言われる筋合いはないと強弁している。一国の首相が、女学生じゃあるまいし、「心の問題」を楯に取るのは滑稽だと思われるが、わたしが上述の流れに沿って言いたいのは、本当の「心の問題」であるならばそれは自ずから誤解なく通じるものであるはずで、「邪心」は通じないどころか反駁を誘うだけなのだろうということである。
 まあ、小泉氏のこの問題に関しては、あるコメンテーターが奇しくも口にしていたごとく、「心の問題であるならば、そっと心に仕舞っておいてもらいたかったですね」と言っておきたい…… (2006.01.26)


 最近は、朝6時に起床している。昨年末に入院して、病院での日課をそのまま踏襲しているわけだ。しかも、リンリンと鳴る目覚まし時計は使わない。といっても、ある種の道具を使っている。ケータイでもマナーモードとして活用されているところの振動が発生する、そんな腕時計なのだ。
 これも、入院時に活用したもので、他の患者さんに迷惑とならないようにと、思い起こして活用したのである。その腕時計は、もうずっと以前、そう、およそニ十年ほど前であろうか、サラリーマン時代に入手したものである。入手の動機は、通勤時、特に帰りの電車の中で眠ってしまった時、つまり乗り越さないための何か良い方法はないかと思案して、その腕時計を見つけたのである。実際、当時は、時々、居眠りの末に下車駅を乗り越してしまうことがあった。それも、終電の場合もあったかに覚えている。結局、終着駅からタクシーでの帰宅という大変な出費となってしまったことが痛かった。そんなことがあり、その腕時計をセットして、安心して居眠りすることになったのである。
 こうした活用のほかに、仕事中に人と会う約束を忘れないためとか、セミナーの講師を仰せつかった際などで、ついつい長話となってしまうために、制限時間をセットしたりして、随分と重宝してきたものである。それを、今では、日常的な起床のために再度使っているのである。が、最近は、6時起床に慣れはじめたためか、腕に、ビリビリッと来る前に何となく目が醒めることも多くなった。

 さて、本題は、振動型腕時計の話ではなく、睡眠それ自体の話なのである。
 今朝も、そう思ったのであるが、睡眠というのは不思議かつありがたいものだと思う。前日の夜に、疲れのためにどんなにか身体や気分がすぐれなくとも、まともな睡眠がとれると、翌日はまるで「リセット」されたように異なった自分となることができるからである。とは言っても、もちろん睡眠の質が良いこと、それが前提条件ではある。熟睡に至らない中途半端な睡眠は、前夜の身体の疲労と気分の損なわれ方を引き摺ってしまうことになろう。
 今、「リセット」と書いたが、まさにエレクトロニクス機器のその機能と酷似していそうな気がする。よくPC、とりわけノートPCでも、メモリーやリソースの関係でフリーズしてしまうことがある。そして、キーボードからの終了コマンドをも受けつけなくなるほどに、「過労状態」と見受けられるケースである。そんな場合には、初期状態に戻すための所定の「リセット」ボタンを活用する以外に手はない。だが、そのボタンを利用すると、まるでウソのようにリフレッシュされた状態が復帰することになる。まさに、PCに「強制睡眠」をとらせたような気配だと言っていいだろう。

 そんなことを考えながら、自身の睡眠の質の向上を積極的に考えなくてはいけないと思ったことがひとつと、もうひとつは、どんどん「疲労度」を昂進させているような社会や時代環境の、その「リセット」ということは何とかできないものであろうか、という思いが浮上してきたのであった…… (2006.01.27)


 人の生き方というものは、所詮、「リスク・テイキング」なものでしかないのではなかろうか? ふと、そんなことを考えたものである。
 現代という時代は、さまざまな「リスク」に満ちており、折り紙付きの安全というものは見当たらなくなったとさえ言われている。
 また、安全志向はそれはそれで良しとして、「リスク」を回避し過ぎる選択は、「挑戦」を回避するに等しく、当然「テイク(得る)」することが乏しくなる、とも言われる。「リスク」とは、あたかも「必要悪」的存在であるのだろうか。まあそれはともかく、「リスク」と無縁ではいられないのが事実であり、そこから、「リスク・マネージメント」という発想も生まれたものと思われる。

 今書こうとしていることは、投資をするとか、経営的な挑戦をするとかという「リスク・テイキング」の話ではない。これらはこれらで興味深い対象ではある。特に、昨今、ネット株などに群がる個人投資家たちが増えている状況でもあり、それぞれがどのような「リスク・テイキング」感覚を身につけているのか、あるいは、従来の日本人のように、株の購入でさえ「元本を保証してくれ」という感覚を引きずっているのかなど興味のある事柄である。
 今話題にしようとしているのは、カネに絡む問題以前に、人の生き方において「リスク・テイキング」なものと、そうでないものとがある、無いというような話なのである。
 一般的に言って、冒険的な「リスク・テイキング」に満ちた生き方と、石橋を叩いて渡らないというような非「リスク・テイキング」な生き方とがあると思われてきたふしがあろう。
 確かに、かつての日本の環境は、現在と異なり、経済領域にしても社会生活領域にしても、安全一色の様相を呈していたかもしれない。だから、常軌を逸しないかぎり、非「リスク・テイキング」な生き方というものが現存し、そんな立場から「あんなにリスクをおかさなくてもいいものを……」と言うこともできたのかもしれない。
 ところが、現在では、常軌を逸しない人々に対しても、突然に何らかの「リスク」が襲いかかる場合がめずらしくない。そこから、従って、非「リスク・テイキング」な生き方なんてものはなくなったのだと言うことも可能である。が、そういうことが言いたいのでもないのである。

 人間世界の「リスク」というのは、もちろんカネに絡む事柄や、身体の安全に絡む事柄などが主たる対象となるものであろう。しかし、考えてみると、人間世界というのは、人間が意識と感情を持つ分、そうした意識・感情特有の種々の問題が引き金になることが少なくないはずである。過大な期待が寄せられ、それが裏切られたであるとか、誤解が渦巻いて感情の縺れが肥大化したとか、代表的な例で言えば「怨恨による犯行」で「リスク」を引き受けてしまう、というようにである。
 現代社会の「リスク」と言う点では、確かに物理的環境からの「リスク」も少なくない。しかし、同時に、「怨恨」的な、人間が意識と感情の存在であるところからくる「リスク」も決して少なくないと思われるのだ。特に、「価値観の多様化」であるとか、「コミュニケーション不全」であるとか、人々の「孤立化」であるとかの世相の中での、意識・感情の縺れというのは、決して軽くない比重で人間関係に作用しており、それらがさまざまな「リスク」を過剰に生み出す原因にも至っているのかもしれない。

 簡単に言ってしまえば、波風が立ちにくい「同質的」社会が、現在のような過剰とも見える個人主義的な社会へと変貌した以上、そこでは、「共感」よりも「誤解」が頻発し、「誤解」の肥大化と一般化が今度は、コミュニケーションへの挫折を生み出して人々を孤立化させてしまうのかもしれない。つまり、人々は、「誤解」を撒き散らすかたちで生きることとなり、その分「リスク」と密着して生きざるを得ない、というイメージを思い浮かべるのである。
 もともと、人間が、揺りかごのような「共同体」から一歩踏み出して「個々人」となっていくことは、まるで「エデンの園」から出立するように、不可解な「リスク」の満ち溢れた世界へと旅立つことであったと比喩できる。これは、架空の話ではないのであって、子どもたちが、家族という「共同体」から飛び出して、大人としての「個人」へと成長していく過程が現実的に日々展開しているわけである。
 他人との意識・感情における齟齬という「リスク」無く生きるということは、ほとんど不可能なことであったはずだ。それは、他人に迷惑をかけずに生きることがほぼ不可能であることと同じであろう。そして、現代という時代や社会にあっては、この事実がますます先鋭化しているのだと思われる点から、非「リスク・テイキング」な生き方なんぞというものはほとんど存在しないと感じるわけなのである。

 「リスク」を冒さない、踏まないというような抽象的で観念的な生き方があるのだと想定したり、それを選ぼうとするのではなく、自身が引き起こしてしまう現実を責任を持って引き受けていこうとする姿勢しかあり得ないのかもしれない…… (2006.01.28)


 現在、建築行政での耐震偽装問題、証券行政でのライブドア事件、食肉輸入行政での杜撰な輸入などが衆目を集めている。そして、それらの問題が「小泉構造改革」路線と関係があるのではないか、いやあるいはその推進の結果ではないのかという議論が噴出しているようだ。
 結論から言えば、関係は大ありであろうし、むしろ必然的な結果だと言っても良いかと思われる。問題の本質は、あまりにも「構造改革」という謳い文句(概念・政策なんぞと言える水準にはなかった!)自体が安直で、かつそうしたものが一人歩きするならばどういうことが起きるかに対する、あって当然の構え(「セイフティ・ネット」然り、「監視・検査」体制の強化然り!)さえ杜撰そのものであったということだろうと考える。
 こうした杜撰一色の政府のあり方が、米国の食肉輸出体制や、建築業界の「悪」やら、ライブドアなどによって、しっかりと見透かされて、そしてなめられた、というのがわかりやすい推移ではなかったのか、と見える。

 「構造改革」というものが、「規制緩和」や政府事業の「民営化」を骨子とするものだと解釈するならば、先ず最初に考慮されて然るべきは、もともと「規制」というものや、「官営」ということがなぜ存在しなければならなかったのか、という基本的な事柄であろう。
 小泉氏は、「民間にできることは民間に……」と、例のとおりの「ワンフレイズ」をぶち上げたものだった。それはあたかも、「官」に対する「民」の能力もかつてに比べれば高まっているのであるから、と言っているように聞こえた。まさに、開国明治の旧い時代における「官」と「民」との能力格差への感覚が下敷きにでもなっているかのような時代錯誤を感じたものだった。
 むしろ、今日における「規制緩和」や政府事業の「民営化」の選択において十分に配慮すべきであったのは、そんな能力問題なんぞではなく、高まった能力によってなされる不正や不平等にまつわる問題ではなかったか。そこからそれらをどう牽制したり、監査したり、防止したりするのかという課題であったことは、誰だって思い浮かぶことではなかったのか。
 それを能天気にも、開かれた市場主義経済はすべてを淘汰するという、これまた時代錯誤な思い込みによって処していたことになる。日本というこの国、この社会は、かつてに比べて「善意」や「善人」が増大して、「性善説」復活の兆しでも見てとったのであろうか。そんなはずはあるまい。政策選択の詰めも甘ければ、時代認識、環境認識、つまり状況認識さえ甘く、杜撰であったというだけのことであったに違いない。

 ただ、小泉氏の状況認識で、唯一「正確」であったことは、一般国民が以外なほどに「チープ」なパフォーマンスに乗り易いという事実であったのかもしれない。彼が、神経を使ったのは、「内閣支持率」の数字だけであったのかもしれない。そして、その数字は、「サプライズ」と呼ばれた派手なパフォーマンスで、結構、奏効することを心得てもいたのであろう。
 この辺の事情というものが、現在のこの時代と社会の危ういところだと言うべきか。つまり、一方で社会事象の客観的情報は隠匿されていたり、非公開となっていたり、いずれにしても一般国民は「蚊帳の外」に置かれる状況が存在し、他方で、マスメディアは受け手に「受ける」材料に傾いた大衆迎合的な情報を垂れ流す。つまり、見えない舞台裏と、華やかな舞台上という、まさに「劇場」構造である。この構造さえあれば、「内閣支持率」の数字でさえ、あるいは「株価」でさえ意外と思うようになってしまうと言うべきなのかもしれない。
 今、「株価」と書いたが、次々に明らかとなるライブドア事件のひとつの本質もまた、まったく同様の「劇場」構造を駆使して「株価」が吊り上げられていったということ以外ではなかったのであろう。

 抜本的には、一般国民が不正を監視すること以外に有効な監視はありえない、と考えるべきなのであろうし、そのためには、自身で考えることと、考えるための事実の公表を常に求めてゆくことが必須なのであろう。それらが、国民がなめられない唯一の方策なのであろう…… (2006.01.29)


 今日は久しぶりに寒さが遠のいた。だが、これも長続きするわけではなく、すぐにまた冷え込む天候が戻ってくるらしい。
 今日のような気温だと何となく気分が和みがちとなる。何かとささくれ立った気持ちとなりやすい昨今であるだけに、気紛れな天候であってもほんのわずかな慰めにはなる。
 それにしても、ふと気づくと、これは決して自分一人ではないと観測しているのであるが、何と不安定な気分、憂鬱な気分を背負わされてわれわれは毎日を過ごしていることなのだろうか。これでは、たとえ季節が文字どおりの春となっても、柔らかい春爛漫の気分とはなり難いのではなかろうか。こんな気分が支配的だとするならば、やはり時代はどこか基本的な部分において大きな欠陥があると言わざるをえないのかもしれない。

 わたしはしばしば思い出すのだが、息子がまだ小学校低学年の頃、家で飼っていた猫のトラを称して、「トラちゃんを見ていると、ふわふわーっとした気持ちになってくる……」と言っていたことがあった。
 その時にも、言い得て妙という共感を覚えた。まさに、天衣無縫で、人間世界の状況に無頓着な動物の振る舞いとその姿こそは、人の気持ちを無条件に和ませる。
 そんな感想を吐露していた小学生の息子もまた、当時は、いろいろと身に余る不安やストレスを感じ続けていたのかもしれない。転居により転校を余儀なくされたり、放課後は学童保育に預けられたりといった生活で神経をすり減らしていたのかもしれない。また、私自身が、大学院での馬鹿げた業績主義の風潮の中で刺々しい気分に追い込まれていたのもよくなかったように思う。

 昨晩、就寝前に動物たちの様子を扱ったTV番組を観て、こういうものが今、人々にとって必要なのだな、と実感したものであった。もちろん、ペット・ブームも同じ背景から生まれているのであろう。
 いろいろと可愛い姿があったが、笑い転げてしまったのは、動物園で飼われているアナグマのような小動物であった。飼育員が掃除をしていると、防水用のパンツの裾から中に入り込んで、飼育員の足を這い登ったり、腰のゴムの部分から顔を覗かせたり、やりたい放題をやり、キョトンとした顔をしているのだ。なんでも、彼らは袋のようなものに潜り込むのが大好きなのだそうだ。

 以前から、動物たちの真摯で、かつあどけない振る舞いや姿を観ることは好きであった。くだらないTVドラマなんぞを観るよりも、はるかに心が洗われるからである。
 先ず、動物たちには、人間たちのような凶暴さがない。野獣たちであってさえ、無益に命のやりとりをするわけではないし、仮に相手の命を奪う場合でも、自然の掟である食物連鎖の一環としてでしかない。
 また、動物たちは、たとえ人間の目から見て滑稽であるとしても、それは受けをねらったり、媚びたりした結果ではなく、実に真摯そのものである。自然の厳粛さを決して疎かにしない崇高ささえ感じさせるというものだ。

 本来、人間は人間の振る舞いや姿を見て感動したり、心が洗われて然るべきなはずである。人間のドラマや、ドキュメンタリーが、人々に生きる勇気を与えなければウソであろう。だが、人間が主人公のドキュメンタリーは、えげつないものが多すぎる。また、人間が演じるドラマは、手垢にまみれたり、不信感を誘うものが少なくない。
 こうしたことを考えてみると、現代という時代は、人間をして人間嫌いにさせる要素を日増しに増大させている悲しい時代だと言えなくもないようだ…… (2006.01.30)


 異常気象と見られる現象がいろいろと報道されている。
 ポーランドでも、巨大な展示場の屋根が積雪のため突然崩落して多数の死者が出たという。北極圏の寒波が張り出す異常現象がもたらしているとかである。
 日本でも、日本海側での異常な積雪量は多くの被害を出している。気の毒なのは、お年寄りたちが大量の積雪の中に危険な状態で取り残されたり、雪下ろしの最中に事故を起こすことだ。
 先日も、鳥取在住(当社のサテライト・オフィス)の当社社員のお父さんが、雪下ろしの際に落下して、片目が失明するという悲惨な事故に遭遇した。また、新潟に親の遺産である家を持つ社員もいるが、異常な積雪量のことを深刻に心配していた。ほとんど出向くこともないため、なおのことどうなっているのかが心配であるらしい。

 人間界のさまざまな人為的問題(犯罪)でさえ、シロクロを明瞭にできないでいるもどかしさがあるわけだが、自然現象の因果関係となるとなおのこと曖昧化させられるのであろうか。しかし、地球温暖化現象と最近の異常気象との関係の問題は、早急に対処していかなければ、まさに取り返しのつかない巨大な不幸をもたらすことになるのだろう。
 こんな状況の中で、気になる新聞報道があった。

 <温暖化研究発表に「NASA圧力」 米の第一人者が告発>( asahi.com 2006.01.30 )という信じ難い内容のものである。

 < 米国での地球温暖化研究の先駆けの一人である米航空宇宙局(NASA)ゴダード宇宙研究所のジェームズ・ハンセン博士(63)が、研究成果の発表に関して当局から圧力を受けている、と米紙ニューヨーク・タイムズが29日報じた。
 ハンセン博士は米地球物理学連合の年次総会で昨年12月6日、二酸化炭素などの温室効果ガスの大規模排出削減は現在の技術でも実施可能だと訴え、米国が主導的な役割を果たさなければ、地球は「別の惑星」になってしまうと警告した。さらに同月15日に「05年は19世紀末からの過去100年余りの間で、最も暖かい年だったとみられる」とする研究結果を発表した。
 ニューヨーク・タイムズによると、それ以降、博士にNASAの広報担当者から本部の意向を伝える電話が何度もあり、外部での講演や報道機関からの取材を制限された。さらに、同様の発言を続ければ「恐ろしい結果」を招くことになる、と圧力をかけられたという。
 これに対してNASAは「科学的発見についての議論は自由だが、政策に関する発言は政策担当者に任せるべきだ」と反論。研究者に規制を課したのではなく「調整のようなもの」としている。>

 地球温暖化を昂進させてしまうような人間の生活様式が自粛されるべきであることは当然であろうが、そのためには、危機的状況の真実こそが広く知らしめられなければならないはずである。当然、科学者たちによる「政治的利害」を超越した発言や広報活動は必須だと思われる。
 しかし、上記の報道記事が真実だとすれば、NASAは、地球人全体の利害に反することをしているということにはならないであろうか。
 「科学的発見についての議論は自由だが、政策に関する発言は政策担当者に任せるべきだ」と反論しているそうだが、「政策担当者」たちは、科学に携わる者たちからのアドバイスを受けずしてどうやって客観的状況を掌握し、政策判断にたどり着くのであろう? 滅茶苦茶なことを言ってはいけないと思う。

 去年、この国日本では、くだらない問題で、ガリレオの「それでも地球は動く」という言葉を引用した能天気な人がおられたが、この言葉は、「政治的弾圧」に直面している上記の「博士」こそが引用して然るべき言葉なのだと思う。「それでも地球温暖化現象は、地球を『別な惑星』に変えてしまう!」と…… (2006.01.31)