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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2006年07月の日誌 ‥‥‥‥

2006/07/01/ (土)  コンパクトなマルチメディアとしてのDVD(とその編集)になじむ
2006/07/02/ (日)  生きもののベーシックな感情を思い起こさせる存在たち……
2006/07/03/ (月)  自身の「腹の虫の居所が悪い」ことで振り回されるやっかいさ……
2006/07/04/ (火)  「セレブ」とは、とりわけ盗人たちから羨望の目で見られる人々のこと?
2006/07/05/ (水)  「挑発」的行為は、どんな場合でも誰をも勝利者にはしない最悪の選択だ!
2006/07/06/ (木)  破鍋に綴蓋? 機械的コンピュータ処理と人間の凡庸な発想力……
2006/07/07/ (金)  「俺はついてるぜ」って、あのブッシュがついてんのかい?
2006/07/08/ (土)  なんだかんだ言ってもTV時代の申し子であったわけだ……
2006/07/09/ (日)  生活を地味な視点で考える一日であったか……
2006/07/10/ (月)  いろんな者がいろんなことを考える……
2006/07/11/ (火)  考えを進めること、伝え切ること、わかること……
2006/07/12/ (水)  この暑さで白昼夢? みんなが「点滴」を受けている図?
2006/07/13/ (木)  知的生活は低コストで推進されなければならない?
2006/07/14/ (金)  暑さに振り回されて過ぎる一週間……
2006/07/15/ (土)  左手で救命、右手で殺生、という矛盾に満ちた人間……
2006/07/16/ (日)  失われ行く「惻隠(そくいん)の情」、「美的感性」……
2006/07/17/ (月)  「金では買えない」ものとしての「美的感性」
2006/07/18/ (火)  「畜生道」にも劣る時代風潮を、結果的に煽ってる者は誰だ!
2006/07/19/ (水)  「美的感性」乏しき猫を通して垣間見るもの……
2006/07/20/ (木)  いやはや、大変な商いの世界となったものです……
2006/07/21/ (金)  政治問題の背後で金が動いているのは常識に属する?
2006/07/22/ (土)  たっぷり朝寝の休日には気分に余裕が……
2006/07/23/ (日)  人生に有意義な「切り口」を与えるのは「自分なりの視点」が……
2006/07/24/ (月)  今問うべきは、「より確かな」「視点」!
2006/07/25/ (火)  今こそ、「赤頭巾ちゃん気をつけて」の時代か?
2006/07/26/ (水)  まやかしの現実と真実の現実……
2006/07/27/ (木)  え〜、ご破算と願いましては〜 ……
2006/07/28/ (金)  本当に「方向感」を欠いた傾向でなければいいが……
2006/07/29/ (土)  何かにつけて、サラリとは行かないのである……
2006/07/30/ (日)  季節感は人情と並んで双璧をなす……
2006/07/31/ (月)  この際、全国各地を渋谷駅前にしちゃえば?






 今日は、「柳田国男」のビデオ・テープをDVD化して遊んだ。これもまた、昨日の南方熊楠と同様に、10年ほども前にTV番組をビデオ録画したものである。作家・五木寛之が二人の対談相手とさまざまな視点から柳田国男を論じ、そして関連する興味深いフィルムも盛り込まれたもので、十分に知的好奇心が満足させられる作品である。よくぞこうした番組を録画しておいたものだと我ながらしたり顔しながらである。

 このところ、気に入っているいろいろなコンテンツをMy-DVDとして仕上げるという作業に入れ込んでいる。コンテンツは過去のビデオであったり、TV番組からのデジタル録画であったり、あるいは、これは内緒であるがレンタル・ビデオ屋からレンタルしたコンテンツのバックアップ作成であったりと種々様々だ。
 単にDVDに書き込み直すだけではなく、タイトル、メニュー、チャプターなどを編集して、より鑑賞しやすくすることに留意している。さらに、DVDレーベルもマジックなどで殴り書きするのを避け、インクジェットプリンター対応のホワイトメディアを使い、コンテンツにふさわしいデザインを施してプリントするという凝りようである。

 なぜそこまでするのかと言えば、先ず楽しいからというほかはない。
 デジタル画像の編集はもとより好きな方だが、デジタル動画プラスサウンドの編集はさらに楽しめるものがある。もともとこうしたジャンルには興味津々であったが、なんせ従来は、これらを可能とするような道具立てが簡単ではなかったし、仮に揃えたとしても処理速度その他がまどろっこしくてとても手軽に楽しめる水準とは行かなかった。と、自分は自分なりにそう判断していた。
 遠い昔には、8ミリ映画フィルムというようなアナログ・ツールがあった。若干試したこともあったが、いかにも「切り貼り細工」水準の手作業で使い物にならない。
 また、従来の「.avi」ファイルビデオは、やたらにファイル容量ばかりが大きくて、その編集ともなると、四畳半の部屋で自転車の組み立て作業をやるようなもどかしさがあった。性能の悪いPCに無理をさせ、多大な時間を費やしもしてそんな作業をやっていた人たちもいたが、自分はあえてそこまでやる気にはなれなかった。
 だが、現在、現時点では、PCの性能が飛躍的に向上したし、それを生かした編集ツール関連のアプリケーション環境も使い勝手さえ習得するならば、コストも時間もさほどかけることなく当該作業を可能としはじめているのである。こうなってこそはじめて、本命のコンテンツの編集自体にエネルギーの集中ができるというものなのである。

 ところで、わたしは常々思うのであるが、いろいろなジャンルの仕事、とくに情報関係の仕事というのは、本命が何かということが見失われがちになりそうだと。
 というのは、これらの作業には、大きく分けて「技術的処理過程」と「コンテンツ・メイキング」の二層があるわけだが、ともすれば前者の「技術的処理過程」に拘泥してしまい、それがこれらの仕事のすべてであるかの錯覚に陥ることが多い。
 確かに、そのプロセスも立派な仕事ではあるし、またそれを抜きにしていきなり後者の「コンテンツ・メイキング」に関与することは無謀であるとも言える。しかし、「技術的処理過程」の作業をやっていて、「コンテンツ・メイキング」をやっているつもりとなることほどやっかいなことはないように思うのである。極端な表現をするならば、前者の作業は「慣れてなんぼ」の世界であり、後者は「表現してなんぼ」の世界なのであり、異質な階層にあるものなのであろう。
 たとえば、Word や Excel というアプリケーションソフトは、それが使えるからといってどうということはないのであって、それらを使いこなしながらどんな個性的な表現作業をするかが問題なのではないかということである。よく言われるように、いくら日本語が堪能だからといってそれで小説家なのかといえばまったく別な話だということと同様なのであろう。

 何が言いたいのかというと、前述のビデオ編集にしても、「技術的処理過程」に問題がある環境ならばあえてやることはないのだ。まあ、制約された「技術的処理過程」の下でいろいろと試行錯誤することに楽しみを感じたりする技術的マニアがいたっていいし、いることもよく知っているが、それはそれである。
 わたしが望むことは、情報に関する作業というか、PCというものは、「何か新しいもの(コンテンツ)を表現する」ことにこそ向けられるべきなのではないかということだ。「何か新しいものの表現」が大それているとするならば、少なくとも、コンテンツ自体を「自分なりに編集する」ことや、それにこだわることがあってもいいと思うわけなのである。
 PC活用のマルチメディア・ジャンルは、メーカー、ベンダーに踊らされて、あれができるこれができるといった技術処理過程を「試用」することで満足し続けていたってはじまらないのであって、自分自身の知的コンテンツの充実のための新たな道具として「乱暴に」使いこなしてやることが大事なのだと思っている。
 自分は、現時点の簡便になった動画処理技術の恩恵を存分に利用して、自身の情報消化吸収能力を補うものにしたいと密かに期待しているのである。動画とサウンドを持ち合わせたマルチメディア情報メディアは、やはり効率的、効果的な情報吸収手段であるに違いないと思われる…… (2006.07.01)


 遊歩道を往くウォーキングでは、野鳥たちの姿が目に入るのが慰めとなるものだ。

 もっとも、野鳥の姿は水鳥を別にすれば、眺める気持ちさえあればどこでもウォッチングすることはできる。現に、事務所でも窓を通して、道路をはさんだ向い側の電線には随時さまざまな野鳥たちが姿を見せる。
 先日も、あれはモズであったのだろうか、まるで事務所の窓を通してわれわれの勤務ぶりを視察するかのように二、三十羽がこちら側を向いて電線にとまっていた。そんなに大群で訪れるのはめずらしいため、何事かとこちらの方が面食らってしまった。
 別にどうということはなく、彼らにしてみれば、集団で「散歩」中にちょいと休憩するのに持って来いの電線があっただけのことなのだろう。
 事務所にも、バードウォッチング用の望遠鏡を置いているので、さてさてと覗いてみると、こちらの動きを見ているわけでも何でもなく、それぞれが勝手気ままに羽繕いをしている様子である。その動作は、猫たちの毛繕いとまったく同じである。片や、くちばしで羽をくわえたり、つついたりしているのが野鳥たちであり、他方、長い舌で毛を嘗め回しているのが猫であり、くちばしを道具とするか舌を道具とするかの違いだけで、頭や首を動かす動かし方は何ら変わらない。

 いつぞやは、大きなカラスが電柱のトランスの上で羽繕いをしている姿をウォッチングしたことがある。翼を片方づつストレッチして、各所をくわえたり、つついたりし、また腹の部分の毛にも同じようなことをしていた。見ようによっては、人間が風呂場で石鹸のついたタオル片手に身体を洗っている動作にも見えたものだ。
 水浴びもするくらいだから、野鳥たちは綺麗好きなのかとも思えたが、随時そうしておかなければ、彼らの命綱である羽がもたないのであろう。なんせ、塵もあれば虫もいるであろう戸外、しかも風雨にもさらされるそんな戸外で年がら年中暮らし、全身の羽が一張羅(いっちょうら)なのだから、それらのメンテナンスは入念にやらざるを得ないに違いない。
 まして、野鳥たちにとっては、羽は単に衣装であるだけでなく、何よりもわが身を運ぶ翼でもある。それがもしメンテナンス不行き届きで汚れて腐ったり、抜け落ちてしまったりしたのでは命を失うことにもなりかねない。だから、丹念な羽繕いには成る程と納得させられもする。

 時々、野鳥が虫であるとか、ちょっとした餌をくわえて、嬉々として羽ばたいている姿を見ることがある。
 今朝も、スズメが、篤志家のどこかのお婆さんからもらったらしいパンのかけらをくわえてチョンチョンと跳ね回っている光景を見た。うれしくてしょうがない模様である。が、同時に、それを安心して味わえる場所を確保しなければならないという忙しそうな雰囲気でもあった。早く食べたいし、かといって油断していると他の動物や人間たちに襲われてしまうしと、どう見ても「うれし忙し」のてんやわんやの状態かと見えたものだった。

 普段は、米粒以下の些細な大きさの餌しか食べたことも、見たこともないスズメたちにとって、自分の顔ほどの大きさのパンくずをいざくわえて運ぶとなると、重さもさることながら、きっと庶民が百万円の札束を手にしたかのようなビビる心境ともなっていたのではなかろうかと、バカな想像までしてしまったものだ。
 で、スズメたちは、人影のないところまでしばらく飛んで距離を置き、遊歩道の脇の植え込みの元辺りに着地していた。そこで、きっと安心してついばんでいたはずである。

 こうした野鳥たちの、ささやかな餌に対しても真正面からの取り組む姿勢を見ていると、何とも心が洗われる。しんみりとそう感じた。それは、毎朝、玄関の外で家の住人が出てくるのを今か今かと待つわが家の「外猫」たちにも通じている。単なる条件反射の連鎖だと考えればそれはそれだが、餌を得ることの文字通りのありがたさを感じているそうした様子は、やはり、飽食の時代を生きる人間たちにキラリと光る何かを知らしめているようにさえ思えた。
 それは単に、食べ物をムダにしてはいけないという事に限らず、ありがたいという感情、生きるものが決して失ってはならないベーシックな、そんな感情を思い出させてくれるかのような気がしたのである…… (2006.07.02)


 今日の多摩地方の15時の天気は、曇りで気温は26.7℃、湿度は68.0%だ。さほど高い気温ではないが、やはり湿度が高いからなのだろうか、ムシムシとして不快さに苛まれた。こんなふうなら、シトシト雨の方が気温が下がり、まだましか、とも思えた。
 まだ夏本番でもないのだし、できるだけクーラーは使わないようにしているため、この蒸し暑さには応える。椅子の上の腰が汗ばんでしまい、思わず「そろそろ、畳仕様の座布団を手に入れなければ……」なんぞと年寄り染みたことを考えたりした。

 この天候の不快感をことさら感じるのは、体調のせいもありそうだ。寝苦しさもあってか、今朝の気分は上々とはいかなかった。そんな雰囲気は自覚できる。いわゆる不機嫌ということだ。何かにつけてつっかかってみたり、ひとくさりの文句を独り言ながら口にする按配だからである。「誰でもよかった……」という物騒なところまで行くものではないが、何となくイライラとしているわけである。
 こうした危なっかしい心境を客観視するためにも、念のために振り返ってみる。

 それは出掛けからはじまった。玄関の鍵をかけてクルマに向かおうとして、いつも身につけているウエストポシェットを部屋に忘れて来たことに気づく。「ン、モー」と先ず誰に言うともなく毒づく。そんなことは滅多になく、一ヶ月に一回あるかないかであろう。
 次は、クルマの運転時である。交差点手前で二車線に分かれる地点で、前のクルマがどっちつかずの走行をしている。これもまた癇に障ることとなる。「オイオイ、しっかりしろよなぁ……」とつぶやく。クラクションを鳴らすというようなリスキーなことまではしない。自分ですらこうしてイライラしているのだから、どんなキレたドライバーが運転しているかもしれないご時世で、他人を仮にも「威嚇」するようなことを避けるのはほぼ常識であろう。

 ほどなく走ると、別の交差点でまたまた、「コノォー」と言いたくなる傍若無人なドライバーに遭遇。前方の反対車線で、左折のために一時停車しているクルマの、その後続車が、そのクルマを避けて追い越そうと右折車線に大きく回り込んで、そしてこちらに向かって直進して来たのだ。それも一台ではなく、ニ、三台が続く。
 当然、それらは、右折のために交差点中央で待機しているわたしのクルマにかなり接近して走るキケンを冒していることになるわけだ。
 先行する左折車が停車しているのには歩行中の人がいたりするそれなりの理由があるのだから、待てばいい。それを、先行車の向こう側がどうなっているのかを確認できない状態で、何とかなるの見切りで追い越しを敢行しているわけである。
 わたしはふと、もし彼らが事故を起こした際、法的に何が責められるべき事由(じゆ)となるかというようなことを考えたりしていた。交差点直前での進路変更、右折斜線に入り込んでのそのまま直進などの違反になるのだろう……と。しかし、そんなバカ者のために当方側が大怪我をしたり、命でも落としたら違反がどうのこうのでは済まない、と考え及ぶに至り、「コノコノコノォー」というように苛立ちが倍増させられたのだった。

 事務所に着いても、気分は回復しなかった。早朝だと言うのに事務所内の空気はムッとする感じであったからだ。窓を開け、ファンを回して空気を入れ替えた。
 そして、仕事をはじめるも、こんなときに限ってというべきか、初っ端から自身が犯していたミスを見つけてしまう。今度は「やれやれ……」という凹んだ気分になった。
 この後も、いろいろとつっかかりたくなる事柄に出っくわすことが続く。何でそんなに煩わしい書類を要求するのかというようなことや、その他いろいろであった。
 今、こうして書いていると、どうしても気づかざるを得ないのは、すべての主たる原因は、対象側にあるというよりも、自身の「腹の虫の居所が悪い」という点に尽きる、そんな気配なのである。
 人というものは、こんなふうに、自身のいわゆる体調や心境の悪いことを原因にしていながら、もっぱら外に向かって八つ当たりをしようとする衝動を抱えたやっかいな存在なのかもしれない。今日は、そんな事情をつぶさに自己体験したものであった…… (2006.07.03)


 最近やたらに「セレブ」という言葉を目にする。
 相変わらず迷惑メールが跡を絶たないわけだが、そんなゴミ・メールの表題にも「セレブ」がどうしたこうしたというのが多い。
 ちなみに、サイトの「語源由来辞典」(http://gogen-allguide.com/se/celeb.html)にて調べてみると、以下のようになるらしい。

<セレブは、「celebrity(セレブリティ)」の略。
セレブリティとは、著名人や有名人のことである。
略された「セレブ」や「セレブ御用達」のような表現は1990年末頃から見られ、海外の有名女優やスーパーモデルを「セレブ」、それらが身に着けるアイテムを「セレブ御用達」と言った。
セレブの意味が曖昧なまま広まったため、単にお金持ちになることやブランド品を身につけることも「セレブになる」などと表現されるようになった。
更にその意味解釈が拡大し続け、個々の持つ抽象的なイメージ表現として用いられるようになったため、セレブの定義は無いに等しくなった。>

 おそらく、今日の浅はかな世相と密着して広がっていることは容易に想像がつく。上記のサイトには、<セレブの関連語>としてご丁寧にも次の語群の説明もあった。
 「垢抜け(あかぬけ)」「イケてる」「お洒落(おしゃれ)」「金(かね)」「カリスマ」「キザ」「しゃらくさい」「スイートルーム」「玉の輿(たまのこし)」「タレント」「ドレス」「成金(なりきん)」「ハイカラ」「左団扇(ひだりうちわ)」「ブランド」「野暮(やぼ)」「リムジン」……。
 こうした言葉を見つめていると、どうしたって自分とは「別世界」の事だなぁ、と思わざるを得ない。反対語として挙げられている「野暮(やぼ)」だけが該当するからだ。

 「別世界」の事と言ったのは、もし、これらのどれかひとつでも自分に当てはまるようになったとしたら、うれしくないとまで飾るつもりはないが、それでもきっと、「居心地」の悪い思いをするだろうと想像するからだ。
 先ず、苦労性の自分は、そのリアリティの無さから、これにはワナがあるに違いないと感じ、考えるはずである。仮に、「成金(なりきん)」と呼ばれるような境遇になったとしたら、そんなはずはない、これには誰かが仕掛けたワナがあるに違いないと考えるに決まっている。あるいは、妙な「罪意識」に苛まれるのかもしれない。ゼロサム環境のいま時、濡れ手で粟のごとく儲けるということは、どこかで死ぬほかないと落胆するほどの者を生み出しているに決まっているからだ。
 こうして、手放しで喜ぶどころか、ツケがいつ回ってくるかとオドオドするに違いないと、くそリアリストは考えるわけである。

 こんなことを書いていたら、志ん生の落語にある「水屋」という演目を思い出した。
 井戸水が唯一の生活水であった江戸時代に、清涼の意も含めて飲み水を売り歩くというのんびりとした商売があったそうだ。もちろん、その労力に見合わず、しがない稼ぎにしかならない商売だ。だからそんな商売をして歩く「水屋」となる者がどんな人間かはおおよそ推測がつくものである。
 その「水屋」をやっていたある男が、「富くじ」に当たってしまう。それこそ、突然「左団扇」の「成金」ということになるわけだが、しかしそれで「お洒落(おしゃれ)」したり、「リムジン」乗り回したりはしないのだ。
 あちこちの長屋で自分の来るのを待っているおかみさんたちのことが気になってしかたがないのだ。そこで、辞めようとすれば「水屋」はいつでも辞められるのだから、しばらく様子を見ようということになる。
 が、手に入った大金が自分の留守中に盗まれやしないかと気になってくる。そこで隠し場所をいろいろと思案するものの、思いつかず、結局、床下にぶら下げることとした。それにしても、夜は夜で、盗賊が押し入る夢でうなされたり、いざ出かける際には、誰かも彼もが自分の金を狙っている盗人のように見えて、家からなかなか離れられなかったりと、まったく調子が狂ってしまうのである。そして、何日もそんな生きた心地のしない日々を過ごし、ある日、「水屋」の商売からヘトヘトになって戻って来る。そして、いつものように、隠した金が安全であることを確認する。が、あるはずの場所にない。ずっと心配し続けてきた盗人にやられていたのである。
「あー、ない! 何ということだ! …… だけど、これでゆっくり眠れる……」
というのが落ちなのである。

 あくまで落語のネタである。しかし、こうしたネタが引き継がれて来たということは、こうした感覚がまんざら庶民感覚とズレてはいなかったということなのかもしれぬ。庶民というものは、理不尽な災難にあっても、どこか、それで良かったんだという受けとめ方をもする仏様神様のような存在なのかもしれない。
 しかし、そうだからと言って、そんな庶民からむさぼり取れるだけむさぼり取るという悪辣さは、悪党であろうが政府であろうが許されてはならないだろう。貧しき者からは奪わず、が急ぎばたらきを嫌う筋金入りの盗人の大原則であったことは、「鬼平犯科帳」が口を酸っぱくして語るところである。
 ところで「セレブ」とは、こうした点から言うならば、筋金入り盗人たちにとっての太ったカモだと言えるのかもしれない。この定義の方がわかりやすそうだ。現に、つい先頃にもそんな事件があったようだ…… (2006.07.04)


 どうしてそこまでやるかなぁ、と理解に苦しむ。そこまでやると言うことは、もはや破れかぶれとしか映らない。現実策としての対米交渉の道を、後先省みず潰しているとしか見えないからだ。破れかぶれや狂気の沙汰を売りにして、相手側に下駄を預けるような最後の賭けに出ているのだろうか。失うものはすでにないと実感しているのだろうか。それが恐い。

 恐いと言えば、日本国内のタカ派たちを存分に刺激したことや、常にマッチポンプ的な軍事拡大路線をひた走る米国に、まさに塩を送るかのような結果へと雪崩込む流れができそうな点もまた恐い。
 米国側は、盛んに「挑発」だと表明しているようだが、たぶん、その言葉にはリアリティがあるのだろう。米国内の政治・軍事的空気の中には、「点火剤」(=「挑発」!)さえあれば、いつでも爆走するような危険な揮発性の気体が充満しているのだと推測できるからである。

 しかし、「挑発」的行為というのは、どんな場合でも誰をも勝利者にはしない最悪の選択だと思う。
 学生時代にも、例の学園紛争時にさんざん実感させられたものである。闘争が文字通りの過激な闘争へとエスカレートして行く、いやさせて行く戦術は、大体がその中に「挑発」的行為を含んでいたように思う。
 いわゆる闘争の間口を広げて「戦線」を拡大しようとするために、過激な「挑発」的行為が展開されたようだ。闘争の間口を広げるとは、状況の矛盾に無自覚な者たちを引き込むために狙われるわけであるが、間口というよりも「傷口」と言った方が妥当なようである。
 しかも、そうした「挑発」的行為というものは、諸刃の剣そのものであり、闘争の参画者を拡大したり、問題や矛盾の見え方をより鮮明にさせるとともに、もうひとつの可能性を拡大することになる。
 むしろこの点をこそ聡明に計算に入れなければならないはずだと思われるのだが、それは、既存勢力側の「反動的巻き返し」という力学なのである。まさに、プロレスの演出そのものである。やりたい放題の過激な「挑発」的行為をさせておき、観衆の心理が「いくらなんでも、こりゃやり過ぎっちゅうもんだよ」という空気が充満したところで、その意に沿うかのごとく、正義を装って制圧にかかる、という定型パターンなのだ。

 残念ながら人間の歴史は、常に闘争の歴史だと言わざるを得ず、それを自覚する者たちは、握手をする時にも以後の勢力拡大の目論見を胸に秘めている。そして、その口実を探し回っているのだと言える。
 こんなきな臭いことは考えたくもないことではあるが、不安定な政治情勢の波間で姿を見せるいろいろな事件を見てしまうと、それが現実なのかと知らされることになる。
 こんなことに思いを寄せるならば、今回の「ミサイル発射事件」も、事の両面に焦点を合わせざるをえない。言うまでもなく、ひとつは、北朝鮮が踏み切ってしまった「挑発」的行為が何と愚かしく危険なことかという点であり、もうひとつが、これをテコにして米国軍事勢力と、日米軍事同盟が「巻き返し」的に一段深みにはまり込んで行くだろうという点である。
 やはり、日米軍事同盟に匹敵する中国が、今まで見て見ぬ振りをしてきたこの北朝鮮問題で何らかの現実的な選択をするのを待つということになるのであろうか…… (2006.07.05)


 <王監督、胃の腫瘍手術で休養へ>という気の毒なニュースを読んだ。
 <プロ野球ソフトバンクの王貞治監督(66)が5日、胃の手術のため休養することを表明した。福岡ヤフードームで行われた西武戦後に記者会見し、「胃の検査をしたところ、手術をしなければならない腫瘍(しゅよう)があると診断を受けた」と話した。……>( asahi.com 2006.07.06 )
とある。いかにも神経を遣い使い尽くしているかのような同監督なので、やっぱりなぁ、と頷かされた。
 同記事をサイト「 asahi.com 」で読み、そして、そのページの下の方に目を移すと、「広告記事」で以下のようなものが目にとまる。

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 ……>

 気の毒な王監督の胃潰瘍手術の記事に関連付けられて、「胃痛には新発売の胃腸薬」の広告が載せられるというのは、「バカんすんなよ〜!」と言ってみたい気がしないでもない。
 どうもこれが「 Google 」の新ビジネスの一端のようである。
 サイト主の朝日新聞社側は次のように説明している。
<この広告はGoogleが提供する「AdSense」という、コンテンツ連動型広告です。
 「AdSense」 はサイトのコンテンツに合わせて、読者にとって関連性の高いと思われる広告を自動で配信するシステムです。 表示結果の内容はGoogleの広告掲載基準を満たしたものですが、一切の責任は広告主及びリンク先サイトの運営者にあります。朝日新聞社は、その内容について一切の責任を負いかねますのであらかじめご了承ください。
Googleの広告についてはwww.google.co.jp/ads/をご確認ください。
 また、リンク先の広告主等のウェブサイトで行われるクッキーの使用は、各サイトの方針に従って行われるため、朝日新聞社では責任を持つことができません。各サイトでプライバシーポリシーやクッキーに関する説明をご確認ください。>
 どこか、売上は上げたいが責任は回避したいという意向が見え見えの言い訳である。
 また、Google の説明は次のとおりだ。
<アドワーズ広告
Googleが提供するアドワーズ広告は、検索サイトのみならず、貴社サイトの業種と関連性のあるウェブサイトにも効果的に掲載できるのが特長です。
貴社のサービス・商品に関連するキーワードを設定し、ピンポイントで見込み顧客にメッセージを伝えることができます。また、広告費はあらかじめ 1 日単位で上限設定できるため無駄な出費を抑えられます。>

 ちなみに、今日の他のニュースでは次のような例もある。
<身代金目的誘拐容疑、3容疑者を再逮捕 女子大生誘拐>
に関する記事には次のような関連付け広告が載せられている。
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 催涙スプレー、警棒、スタンガン等 ”ホンモノ”をプロが厳選。送料無料
 ……
エクサイト・セキュリティ >
 また、よくわからないのが次の例である。
<北朝鮮、「テポドン2」2発目の発射準備か 米TV報道>
に対してなぜだか「DVD」や「英語教室」が来る。
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 ……
フルメタルパニック
 ふもっふのDVDを借りる。 DMM:初月無料の借り放題レンタル。
 ……
子供英会話ヤマハ英語教室 >

 記事の主旨に沿った最適な関連付けがなされるかどうかが、この広告方式の眼目なのであろう。ただ、関連付けの処理は人間が洞察力をもっていちいち行うものではなく、「キーワード」をトリガーとしたコンピュータによる自動処理なのである。当りもあれば、当然マヌケ処理も大いにあり得るということだ。
 そんなイイカゲンでいいのかと目くじらを立てる向きもあるだろうが、よーく考えてみると、今の世の中、人間としての洞察力を持った人々がどれだけいるのかという情けない現実にも突き当たる。表面的なタームに飛びついて底の浅い理解をしたり、連想をしたりする人々だって少なくないはずだ。だからおかしな世論が出来たりもするのだろう。
 そうしてみると、コンピュータがはじき出す関連付け広告を、「そうそう、こうしたものを探していたの」と飛びついて、「新発売の胃腸薬」を買う人もいたって全然不思議じゃないのかもしれない…… (2006.07.06)


 どこだかの「将軍さま」も最低のありさまなら、この国の「首相さま」も何と薄っぺらで恥ずべきことか。他国からのミサイル飛来に不安感を寄せる一般庶民をよそに、「俺は待ってるぜ」ならぬ、「俺はついてる」ぜ、とほざいておられたそうな。
 報道統制か、マス・メディアの御用自主規制かは知らないが、主要一般紙が「目をつぶって」いるようなので、あえて下記を引用しておきたい。

<小泉首相「俺はついてる」
 小泉純一郎首相は6日夜、武部勤幹事長ら自民党幹部との会食で、北朝鮮のミサイル発射に関連し、「オレはついている」などと自らの“運の良さ”を自慢していたことが分かった。テポドン発射が、先の「プレスリー邸訪問」と重ならなくてよかったと振り返ったもの。この日、北朝鮮が同国北東部のミサイル基地で、ほぼ完成した新たな「テポドン2号」1基が確認されたばかり。小泉首相の危機管理意識の低さに非難の声が高まりそうだ。
 日本中が不安と困惑に覆われているときに「オレはついている」って…。北朝鮮がミサイルを連発したとき、小泉首相は無責任発言を連発していた。
 関係者によると、小泉首相は自民党幹部との会食で、大ファンを自認するエルビス・プレスリー邸などを満喫した米国訪問の直後にミサイルが発射されたことに「プレスリーのところに行っているときに、(ミサイルの)テポドンを撃たれたら、格好が悪かった」と振り返ったという。
 さらに、先の通常国会を延長しなかったことにも触れ「もし、延長していたら国会はテポドンで大変だった。みんな結果的に延長しないでよかったと思っているのではないか」。国会会期中以外のミサイル発射を容認するとも取られかねない“失言”まで飛び出した。……>( 2006年7月7日10時40分 スポーツ報知 )

 どうも、主要一般紙各社は、くだらない「番記者」(注)制度に拘束されて書けないのかもしれない。この辺がかねてから指摘されてきたように由々しき問題であり、ここを突破して行かない限り国民の知る権利は保証されないわけだ。

 (注)< 官邸には、総理担当の記者、いわゆる「総理番」と呼ばれる人たちがいます。総理番は、通常、総理の動静取材を行っており、訪問客に総理との話の内容を聞いたり、総理自身にその時々の重要政治課題について質問したりします。
 ニュースで、総理が記者に囲まれて立ったままインタビューを受けているシーンが映し出されますが、あの取材を行っているのもこの総理番の記者たちです。
 このインタビューを「ぶら下がり」といいます。総理を中心に沢山の記者が、集まっている様子が、まるで総理にぶら下がっているように見えることから、この名前がついたようです。
 この他にも、官房長官や官房副長官などにも、それぞれの担当の記者がいます。これらを総称して「番記者」と呼ばれています。
 「番記者」は、官邸1階にある永田クラブ、通称「内閣記者会」に所属している記者たちです。なかでも「総理番」は、常に総理の動向を追いかけている体力的にもキツイ仕事のため、各社とも若手が起用されるのが通例のようです。>(サイト「首相官邸」より)
 ちなみに主要一般紙は「朝日新聞」だけが、次のようにお茶を濁していた。

<首相、テポドン「プレスリー邸の時でなくてよかった」
 「プレスリーの館に行っている時にテポドンが飛んで来なくて良かった」。小泉首相は6日夜、公邸で自民党の武部勤幹事長らと会食した際にそう語り、出席者からは「首相は運が良い」と声が上がった。複数の同席者が明らかにした。
 首相は訪米中の先月30日、ブッシュ大統領夫妻とともにエルビス・プレスリー邸を訪問。歌ったり、物まねをしたりと大はしゃぎした。>( asahi.com 2006.07.07 )

 まあ、余りのお粗末さに、主要一般紙各社は書く気にもなれなかったと弁護できないこともない。しかし、今回の事件は、かつてのあの「キューバ危機」を想起してもいいほどの深刻な出来事ではないのか。まかり間違えば悲惨な核戦争への引き金となりかねない。そんなことはあり得ないと断言できないところが恐いわけだ。
 そんな時に、まともな危機管理意識もなく個人的感覚ではしゃいでいる政治家が危機管理体制のトップだと思うと、やたらに恐さばかりが増幅させられるのである。きっと、はしゃげる人というのは、米国が何とかしてくれるという「傀儡」政権ならではの感覚を持っているからなのであろう。
 北も脅威であるが、この国の政治的メイン・フレームがとっくに「米国製」となってしまっていることがもうひとつ不気味だと言うほかない…… (2006.07.07)


 最近は、休日というと例のごとく「DVD制作」で遊んでいる。
 「制作」と言っても大したことをやっているわけではなく、先週も書いたように手元にあるコンテンツをデジタル化して、それらを若干編集してDVDメディアに書き込んでいるだけのことである。
 当然のことだが、編集や書き込みのアプリケーション・ソフトも使い慣れてくると何の造作もないようになってくる。
 当初は使い勝手が会得できずに、一枚数百円当たりのDVDメディアをレンチャンで書き損じて失敗することがあった。手間ヒマをかけて、それで安くはないメディアまでふいにしてしまうと情けなくなったものである。PCのハードディスクのように、思い通りに行かない時には消去してリトライすればよいものと違って、一度書き込みに失敗するとゴミとなってしまう種類のDVDはその辺が厄介なところである。デジタル・コンテンツを搭載するものでありながら、それ自体は至ってアナログ的性格を持っているわけなのだ。

 「DVD制作」に手馴れて来ると、保存していたビデオ(テープ)などが一応消化できてしまい、今では、DVD化するためにTV録画をマメにやるようになっている。
 「DVD制作」を始めるに当たって、USB仕様の簡易型ビデオ・キャプチャー装置などを入手したのだが、それに付随していたソフトにTV録画を自動予約でき、圧縮データでハードディスクに記録してくれるという便利なものがあったのである。
 そこで、これを活用して、「NHKスペシャル」、「その時歴史は動いた」、「新日本紀行」などもっぱらNHKのドキュメンタリー番組を録画しているのである。そして、これらをヒマを見つけて順次DVD化しているわけだ。
 こうして、メディアの中では比較的コンパクトな質量であるDVDによって、「マイDVDライブラリー」というか「マイ・アーカイブス」というか、とにかくお気に入りの情報コレクションが蓄積されつつある(?)わけだ。

 こうしていると、ふと気づくことは、自分は何につけても「映像が好き」なのだなぁ、ということである。活字も、音声も好きであるには違いないが、やはり映像(スチールと動画の双方)が体質的だと言えるほどにお気に入りのようだ。
 しばしば、昨今のTVについて悪口雑言を吐く自分であるが、それは中身が低俗で貧困過ぎるからなのであり、決してTVというメディアそのものが嫌いなわけではない。だから、なんだかんだと言いながら、結構TVをかけっ放しにしているし、高性能化して行く高解像度、大画面のTV映像にも関心が強い。
 なんと言ったって、映像メディアが普及していく頃に好奇心旺盛な子ども時代を過ごしたわけだから無理もないのかもしれない。小学校低学年の頃には、校庭や公園の大スクリーンで「映画大会」なるものに胸を躍らせたものだったし、その後は、言わずと知れた「お茶の間TV」時代の開幕であった。いずれもであるが、モノクロから「天然色カラー」や「カラーTV」となった折には、世界はこんなにもビューティフルだったんだと感激し魅了されたものであった。

 まあ、TVについては昨今の事情もあるし手放しで絶賛するつもりはないが、それは映像メディア自体の問題だと言うよりも、" How-to "の問題に違いない。もはや、マルチ・メディアによる情報伝達の方法を抜きにして、現代人における情報の入手と発信は考えられないと思われる。「映像+サウンド+α」というメディアを如何に上手に使いこなせるか(情報リテラシー)が人の生き方に大きな影響力を持っているのが、この現代という時代なのだと思っている…… (2006.07.08)


 家内が実家のお母さんの世話で内を空けているため、チョンガー暮らしの「えさ」を仕入れに出かけた。冷蔵庫や棚の中にはいろいろとあるらしいのだが、自分の「えさ」は自分でと思ってのことだ。
 もう二、三日も前から、「葱」を買うのを忘れてはいけないと思いながら忘れ続けてきたこともある。自分は、葱を必需食材と考えている。絶対になくていけないのが、蕎麦のつゆにわさびとともに添える刻み葱であり、納豆にからしとともに混ぜる刻み葱であり、具はなんであれ味噌汁を椀によそった際に加えるひとつまみの刻み葱である。熱い蕎麦つゆにも同様である。その他にも、何かと言うと葱を添えたがるのが自分流の味覚なのである。
 ほとんど米食の朝食時には、納豆を欠かさないようにしてきたが、しばらく前から葱が見当たらない。それで、朝食時に納豆を一時ストップしていた。すると、米食までストップしてパン食やら餅に移行してしまっている。してみると、自分の朝食を決定しているのは、何あろう葱だということに気づいたのである。

 どうも朝のパン食は好ましいと思えずにいる。旅行に行っても、家内などは洋食でトーストだのと気取りたがるが、自分は断固としてご飯、しかも納豆、味噌汁、おしんこ類を柱とした和食献立を要求してきた。
 日ごと生まれ変わる朝一番の自分の身体は、その「初期値」はやはり真正ジャパニーズなのであり、四本柱(ご飯、納豆、味噌汁、おしんこ類)が立っていないと、また寝てしまいたくなるのかもしれない。
 また、朝食がこの四本柱で構成されていないと何だか腹ごしらえをした気になれず、「んなこった、朝飯めいだい!」といった啖呵を切る元気も出てこないようなのである。そんなことで、ここ二、三日はパッとしなかった。

 それで、明日からは出直そうと思い、先ずは葱だ! ということになったわけである。 いつも出向く、ホームセンターとスーパーが寄り合い所帯となったショップへ足を向けた。忘れないように、「ネギ、ネギ……」とつぶやく、ことまではしなかったが、いざショップに着くと、足はスーパーではなく勝手にホームセンターの方に向いていた。やはり、「ネギ」よりも日曜大工用品の方がおもしろいらしい。
 が、そこで、自分は思いがけない人物と遭遇してしまった。と言っても、名だたる人物なんぞではなく、行き着けのパチンコ屋で以前は良く顔を合わせて情報交換をしたり、愚痴り合ったりするオッサンであった。昨今はパチンコ屋も不景気と見え、出玉を渋らせているため、自分も愛想を尽かしてここ最近は顔を出していない。しかし、さらにもっと前から、そのオッサンは顔を見せなくなっていたのだった。自分が顔を覗かせる時には必ず居るといった入り浸りの常連客であったため、「病気でもしたのかな?」と余計な心配をしないではなかった。あるいは、その負けっぷりの良さを知らないわけではなかったので、「破綻」という言葉が脳裏をよぎらないわけでもなかった。
 自分がホームセンターの通路で遭遇したそのオッサンは、何と当センターのユニホームである胸当て付きの前掛けをして、通路にかがんで棚の商品のチェックのようなことをしていたのだった。
 自分は、一瞬、「あれっ、ここはパチンコ屋か?」と錯覚する瞬間を通過し、そして、「ああ、あのオッサンは荒っぽいパチンコでとうとう『破綻』してしまい、ここで働くことになったのかな?」というありそうな推測をしていた。声をかけようかどうか迷った。が、もはや引き返すひまがないほど接近してしまっていた。
「あれっ? この頃、顔出さないじゃない?」
と、ほとんど反射的な言葉を口にする自分であった。先方も気づいたようで、その会話に応じて来た。
「だって、カネねぇもん」
と、彼は、苦笑いをしながら、別段悪びれる様子もなく自然な様子で応えた。
 その言葉ですべてが了解できた自分は、こんな時はどう対応すべきかの答えをはじき出して、おどけたように言った。
「あそこは出さないもんね。この前も、しこたまやられちゃったよ」
 オッサンは、そうだろそうだろ、といった顔つきをして、実感のこもった発言をしたものだった。
「もう、パチンコなんざやめた方がいいよ」と。

 自分は、明日の朝からの食生活を改善しようとして葱を買いにやって来たショップであった。だが、そのオッサンのように、食生活どころか歪んだ支出を改革するため、マジに前掛けをかけたりして「更正」しようと働く者がいるショップでもあったわけなのだ。
 自分も、こうした一円が勝負といったショップに来てみると、リアルな金銭感覚が蘇って来るようで、まるでクリニックに来るような気がしないわけではなかったものである。そんな空間を職場としたオッサンが、見事に地に足の着いた金銭感覚を身につけられればいいがなぁ、としみじみ思う。
 その後、野菜売り場で買い物をした。扱いがラクそうなので、「刻み済み袋入り」の炒め用野菜、そして本命の葱などを買った。ちなみに、葱は国内モノよりも中国産の方がはるかに安かったのでそちらを選んでしまった。金銭感覚の話の文脈からなのであろう。しかし、肥料や農薬などの点を考えると国内モノの方が安全だったかなぁと、ふと、後悔したりもしている…… (2006.07.09)


 現時点での北朝鮮問題に関して、比較的冷静な論調が耳に残っている。
 確か、NHKの「クローズアップ現代」での対談ではなかったかと思うが、ひとつが「『対話』よりも必要なのは『折衝』」という点、もうひとつは「北朝鮮は意外と孤立してはいない」という点である。
 いずれも、この間、政府、とりわけ阿部官房長官が吹聴する限りなく感情論に近い奥行き狭き論調に待ったをかける、きわめて冷静な視点であったかと思っている。
 やはり、今、この時期に必須な知性というのは、まっすぐに緊張の緩和と問題解決に向けられたものなのであって、意向を通すことは次のステップの問題ではなかろうか。

 えっ! 妙な親分肌の男が乱入して来たって? まあ、言いたいことがあるのなら言わせてみましょうホトトギス……。

 とかく「跳ね上がりの若造」は、てめえ(手前)の思いばかりをごり押しにせんとして、熱くなり過ぎるからいけねぇ、ってんだよ。
 確かに、相手さんのやることはいちいちが癇に障ることだらけにはちげぇねぇさ。だがよ、だからといってご法度のミサイルを打ち合うとこまで突っ込んでしまっちゃ本も子もねぇってもんだよ。どうでい、違うかい。
 えっ? そんなこたぁ分かってるってかい?
 なら、なんでよね(米)とべったりつるんで相手を頑なにする手立てばっかを重ねるんでぃ。そんじゃぁ、みんなしてミサイルの打ち合いしかない道を掃除しているようなもんじゃねぇか。しっかり考えろってんだよ。
 よねんとこは、相手さんから遠い距離だから、言ってみりゃ痛くも痒くもねぇだろうよ。たとえ、テポドン弐なんてもんがあったって、そいつがハンパもんだってぇことは宣告承知の介よ。こえぇのはあっしらじゃねぇのかい。近場だからよ、どんなハンパなミサイルだって届いちまうってぇ按配よ。そこんとこをよーく見据えろって言うんだよ。なあぁ?
 それともなにかい、こうやって追い詰めていきゃぁ、相手さんが、恐れ入りやしたと言って土下座でもして来るって、本気で考えてるんじゃあるまいな。そいつぁ甘ぇぜ。まずそいつはあるめぇ。
 だからここは、相手さんの血の気が上っちまった様を何とかしてやるっきゃねぇんだよ。えっ? いろいろと手を尽くしてやって来やした? 何をよ? 「対話」かい? 「対話」って何でぇ? こいずみの頭(かしら)もわざわざ「対話」に出向いたってかい? おいおい、待てやい。あんな顔見世興行が何で「対話」なんでぇ。あんなことでお茶を濁すことばっかやってるから、物事を本気で詰めるはずの「折衝」っつうもんができねぇんじゃねぇのかい。「対話」なんていう、吉原や品川の花魁(おいらん)っちともできるような遊びごとやってるんじゃねぇ、てんだよ。花魁ってぇのは、起請文なんざ何枚だって書くもんだよ。品川で書こうが、平壌で書こうが同じだってことよ。
 なんでぇ、じゃあ、「折衝」っつうのが何だっていうのかい? そんなことがありありと分かってりゃ、こんな日陰でくすぶっちゃいねぇよ。だがな、前にも言った覚えがあるが、相手さんの問題は、よね(米)のお頭(かしら)が撒いた種だってぇ点と、問題をこんがらがしたのがなか(中)のお頭だってぇことだな。だからよ、よねのお頭の言うままになって動いているだけじゃ相手さんと「折衝」なんてできっこねぇってことよ。
 なかのお頭のふところに飛び込む器量がなけりゃ何にも始まらねぇんじゃねぇかい。言ってみりゃ、よねとなかの両お頭たちをやきもきさせるような振舞い方ができるかってことなのよ。こいずみの頭(かしら)だか、蜂の頭だか知らねぇが、やつは了見が狭ぇから、よねに忠義を尽くしゃそれで済むとでも思ってやがる。相手方を両天秤にかけて、男一匹てめぇの足で大地を踏みしめて立つってぇことを知らねぇんだな。

 ところでよぉ、相手さんが「孤立」するとかしねぇとかよく言うわな。だがよ、それは大川を挟んだ手前側の話よ。川向こうでは、相手さんは相手さんで、結構いろんな頭衆とつるんでいるってぇぜ。しかも、よねのお頭んとこの威勢を快く思わねぇ人情ってぇのもこの広い世間にゃあるってことよ。
 だからよ、よねんとこの傘の下でよねに都合のいいうわさ話だけを材料にして、鼻の上のおまんまっ粒みてぇに勝手なことばかりほざいていたって駄目だってぇことなのよ。
 こいずみんとこの代貸(だいがし)で、如何にも考えが甘ぇっていう安倍川餅ってえのがいるじゃねぇか。こいずみのお頭が身を引くってんで、昨今、血の気の多いことをほざいて顔を売っているようだが、ありゃぁ、あぶねぇ。瓦版屋とのつるみがなけりゃ持たない口先野郎だってことさ。
 しかし、いま時の瓦版屋も気骨ってぇもんがなくていけねぇよ。みんなでお上にぶら下がって長生きすることだけをあくせく考えていやがる。もっともそんなきたねぇ生き様をおせえたのは、肩で風切るお頭連中だってことかぁ。ああ、えげつねぇご時世だ。邪魔したな。そんじゃ行くぜ……

 えーっと、どこの親分で? おざわのお頭でもないし…… (2006.07.10)


 アプリケーション・ソフトをマスターする自分なりの方法は、操作マニュアルなぞを決して逐一読み重ねるといった「正規」の方法を採らないことである。決して威張って言えることではないかもしれない。「正規」の方法で下積みをして、一通りの機能を隈なくモノにできればそれに越したことはないとも言える。
 だが、よく言われるごとく、そうした良質の操作マニュアルというものはまず無い。と言うのも、操作マニュアルを書く連中の動機が別のところにあるからだ。
 先ずは、言ってみれば「役人根性」と同様に、後日、他人から責められないことにだけ汲々として気を遣っているはずだからだ。要するにアリバイ的な説明もどきでお茶を濁している場合が多い。
 また、別なケースでは、技術者「エゴ」という場合もあろうか。彼らは、ユーザーのため、しかも当該ジャンルに不案内なユーザーのためなんぞに操作マニュアルを書くのではなく、自分の頭の中の整理のための一里塚として書いている気配がないでもない。
 土台、部外者のユーザーに、それもどんな理解力の水準かもわからない人たちが「なるほど、なるほど」と了解しながら読めるような操作マニュアルを書くということは、並大抵のことではないはずである。
 極端に言えば、当該の技術的プロダクト自体を世に出す以上に難易度の高い仕事だと言えるかもしれない。むしろ、そうしたインセンティブと理解可能性に富んだものこそが、価値あるソフトウェアだと言ってもいいのかもしれない。

 どうして、言われ尽くされて来たようなことをまた書いているかと言うと、今日、長年使い続けて来た「Photoshop」という画像制作関連のアプリケーション・ソフトで、ちょっとした技を偶然に会得したからである。
 それも、その技というのが、使い始めた当初の頃から「こうしたことがもっとスマートにできないか」と願い続けてきたことだったのである。ただ、必死になってその願いを叶えるべくマニュアル類を虱潰しに当たってみる、というほどのことでもなかったため、「まあ、いいか」で済まして来たのだった。
 それが今日、どうした風の吹きまわしか、ちょっとその気になって調べるつもりになったのである。そして、とあるマニュアルをパラパラとめくっていたら、ヒントを与えるような箇所に遭遇し、「うーん、待てよ……」と拘泥してみると、見事、長年願って来たとある技をモノにしたのであった。しかも、未知数であった二つの事柄が一気に氷解したのである。それは、何でもないことではあったのだが、ちょっとした感動をもたらすものであった。
 「これだ、これだ」と納得し、すぐさま忘れないように、手順を文章化しておくことにしたものだ。言うまでもなく、こうした技の解説は、お定まりの添付マニュアルには解説されてはいない。だから、いままでは、手がかかる上に出来栄えもパッとしない自己流のやり方で我慢してきたのである。

 ところで、分かりにくい事を他人に伝える、そして伝わるということは非常に価値あることだと思っている。他人の中には自分自身をも含んでいいかと思っている。そうすれば、ある事が分からないでいる自分が、突然、分かるようになるといった、ちょっとした感動的な事象も含めていいことになるはずである。
 最近、これに類似することを、とある本を読んでいて感じたものであった。どういうことかと言うと、その本は、自分にとってはよく見えないジャンルの話題を扱っていながらも、妙に「分かり易い」感触が持てたのである。不思議なくらいであった。
 わたしは、咄嗟に、うん、この筆者はできる! と直観したものだ。頭の中が極めて整理されているのはもちろんのこと、それだけではなく、筆者は、読者の思考や心理の動きを十分に想定して、いや、それと一体となって叙述を進めているというような感触だったからなのである。筆者は、比較的若いが、経歴に特徴があるとすれば、種々のジャンルに挑戦していて、いわゆる「マージナル・マン」(境界人)的正確を持っている点だと言えるかもしれない。
 よく、偉そうな文章を書いていながら、いまひとつ内容がしっくりと伝わって来ず、ぎくしゃくぎくしゃくした文面の書物がある。いや、そうしたものが多いかもしれない。そんな時、自分の理解力が不足しているのではないかと卑屈になりがちである。しかし、必ずしもそうではなく、筆者自体の文章の運びが下手だからだということも大いにありそうである。

 考えを進めること、そしてそれを自分を含めた他者に伝え切ること(わかること)というのは、現代にあってはどちらかと言えば地味なことではあるが、これ以外に人間にとって重要なことはないのかもしれない…… (2006.07.11)


 この日誌を書こうとする時、怠惰な力学とでもいうものが働くことに気づいたりする。限られた時間とエネルギーで書きまとめることができそうなこじんまりした題材に流れ込むという力学である。
 まあ、それはそれで必ずしも悪いことではないとも感じる。そうでもなかったら、収拾のつかない茫漠とした題材にかぶりつき、いつも入口あって出口なしというような文面となってしまいそうだ。
 また、昨今自分に戒めている点として、自分の頭脳のキャパシティや収集情報量では何とも消化しきれないような巨大なテーマについては安易に飛びついてはいけない、というものがある。結局は、他人の受け売りとなって終わってしまうからである。
 むしろ、自分の実感的環境から、あたかも這い登るような姿勢で何かを見つめたり、考え進めたりすべきだろう、と考えているわけである。

 ところで、全く別な話題を挿入するが、昨今、バイクにスピーカーを取り付けてバカでかい音量で音楽を鳴らしながら走っている新種のバカが登場している。
 昨日もこれを書いていた夕刻、そんなバイクが窓の下の道路を走行しており、何事かと思ったものだったが、ついさっきもそんなバイクが通り過ぎた。
 迷惑に決まっているが、そうしたことを咎めたいという気持ちよりも、そうしたバカの頭の中を覗いてみたいような気がしているのである。以前から、乗用車でラップ・サウンドかなんぞを大きな音量で吐き出しながら走る「私設宣伝カー」まがいは存在した。ところが、最近では、何を血迷ったか、バイク(中型、大型系)でそうしたバカをやる連中が湧いて来たのである。
 そもそもバイクで、意図的に騒音を巻散らかして暴走する連中は、いわゆる「ギャラリー」がいないと張り合いが出ないという「自己顕示クン」以外の何者でもないようだ。山ん中で、狸や狐を楽しませてやれや、と言ったっておいそれと乗って来るはずがないのだ。
 だから、「私設宣伝バイク」も、「自己顕示クン」の端くれなのであろう。世界が自分自身とは無関係に、勝手に、システマティック・ワールドへと更新されて行き、庶民個々人は、物言わぬ消費者という有効需要の一要素にしか見られないご時世ともなれば、何かして自己主張したい気持ちはわからないではない。しかしなぁ、他人様に不快感を巻散らかして自己の存在を証明したことになるんかい? そいつぁ、ちと虚し過ぎやしねぇかい? だが、どうもそうした輩が貧しい日陰から湧いて来るような時代なのかなぁ……

 で、話をもとに戻すと、「自分の実感的環境」を拠点にしてものを考えたり、感じたりしたいものだということである。
 そんなものは、もはやない、あるのは「ボーダレス」な世界経済社会という環境だけだと言う向きもありそうだ。それほどに、現代の個々人は、「ボーダレス」な世界経済社会環境に取り込まれ、それらと一体化したマス・メディアが、人体で言うならばまるで「血液」のような「情報」を提供し、循環させている。いや、マス・メディアが循環させているのは、「血液」というよりもこの際「点滴液」だと言った方が適切かもしれない。
 「情報」という名の「点滴液」は、その含有物さえ匙加減するならば、「点滴」を受けている庶民は「空騒ぎ」することにもなれば、また「静かに眠る」ことにもなる。
 そして、優良な「患者」(現代的エリート?)ほど、腕に刺さった「点滴」の針を後生大事にして外さないで、「点滴液」の効能を享受するということだろう。
 ところで、この「点滴液」は昔のように、患者の脇に置かれた支柱にぶら下がる「ボトル」のような「オフライン」状態ではなさそうである。「点滴液」が流れてくる「チューブ」は、「オンライン」状態でどこまでも結節されて、遠い他国、たとえば「米国」の権力中枢部にまで繋がっていたりする……。

 だから、たとえ貧弱であっても、「自分の実感的環境」を拠点にする、すなわち、お仕着せでしかない「点滴」の、その針を外して、自身の「血液」をこそ重視すべきだと、そんなバカなイメージを抱くわけである。
 自身の「血液」を重視した結果が、「私設宣伝バイク」での暴走というのだとすれば、これも情けない話だということになるが…… (2006.07.12)


 デスクの上の腕や手が汗でベタベタするといった気持ち悪さだ。梅雨なら梅雨らしく雨が降ればいいものを、次のステップの暑さと勝手に混ざり合って、ブレンド・コーヒーならぬ「ブレンド不快指数」なんぞを作るなっちゅうの……。
 また、運悪く、自宅の寝室のエアコンが壊れてしまい、この間の熱帯夜は窓からの隙間っ風だけで過ごして来た。
 そんなことで、今日はとうとう事務所付近の家電ショップで最安値のエアコンを注文することとした。別に、最安値でなくとも良かったのだが、念のため最安値を選んでしまった。安売りの商品は、在庫数を置かないようで「10日待ち」だということが言明されてあったが、それでいい、と判断した。「10日」も熱帯夜と悪戦苦闘するのかという一抹の不安がないわけではなかった。が、「快適さ」を首を長くして待つのも一興だと考えることとしたわけである。

 どうも最近は、モノは最安値でなければ買えない性分となったようだ。そのくせ、いろいろなところで浪費まがいのことをしているのにである。家内にもよく言われる。「お金がないわけじゃないんなら、上等なモノを買えばいいじゃない」と。それはそうなのだ。しかし、自分の衣類にしても、身の回り品や家具にしても、道具類以外の生活関連商品は安手のモノに手を出す習性がある。心の底で、そんなモノはどうでもいい、と思っているのかもしれない。
 それに対して出費を惜しまないのは、先ず、書籍であろうか。そして、第二に、各種の道具類である。要するに、「投資」という分野の「生産財」としてのモノに対しては出し惜しみしないという思い込みなのかもしれない。ただ、若い頃は、書籍にしても道具類にしても疑いなく「生産財」への投資なのだという信念があったが、昨今では、かなりその信念がぐらついている気配が強い。
 大工仕事や電気関連の道具類にしても、昨今ではその活用度が極めて低迷し、見る影もなくなっているからだ。自分でも、宝の持ち腐れ状態ではないかと恐れ入っている。
 また、書籍にしても、ふと、思い返すことがある。研究生活を選択したつもりとなっていた若い頃は、文字どおり、知的資産の増殖につながる書籍類は、金がかかってもしょうがないと考えていたし、いつかはきっとモトを取ってやるぞとも意気込んでいた。
 しかし、研究生活が職業という大義名分の色彩を失うこととなった時点から、実を言えば自分にとっての書籍は、趣味の範疇での「消費財」に変わったはずなのだ。だが、その辺の変化の事情がいまだに身体に馴染まず、書籍は別、といった感覚を引き摺っているようなのである。

 もっとも、書籍類を「生産財」だと見なす感覚は「セコイ」のかもしれない。と言って言い訳に転じようとしているような気もしないでもないが、つまり、書籍などの情報源は、知的生活のための「消費財」、昨今はなはだ意義が薄れているかのような「教養」のための「消費財」なのであって、それでモトを取る、取らないの次元の問題ではないだろうということが言いたいのである。
 ただし、世の中が急激に世知辛くなって来たことは否めない。要するに、富の再配分のあり方が狂い出した時代だということだが、いずれにしても、庶民は消費生活にできるだけコストをかけないように努力しなければならない環境に置かれた。それがたとえ、知的生活を充実させるためであっても、ほどほどにしなければならないということだろう。
 いや、考えようによっては、コストが嵩み過ぎる知的生活というのは、どこかが間違っていると言うべきかもしれない。というのも、もともとコストとは、ラクをして頭を使い切らないから嵩んでいくものだと見なせるし、頭を使いたくないがゆえにコストを支払うという現実の事情も十分にあると思われるからだ。
 ちなみに、頭や身体を存分に駆使することで、その結果コスト発生を最小限に抑制することになる生活というものが、ひょっとしたら長寿の秘訣につながるのかもしれない、と思ったりする…… (2006.07.13)


 先に事務所に来ていた社員が、とうとう音をあげてクーラーをかけていたからである。いつの夏であったか、その社員はクーラーは身体に良くないと放言していたことがあった。確かに言えてる話であったため、自分からクーラーをかけはじめることを躊躇していたのだった。まあ、なすがままにというふりをしていたのである。
 が、今日はクーラーがかかっていた。ならばこれを享受しようとしたわけなのである。窓のブラインダーは閉じたまま、もちろん窓を開けることもない。陽が射すと暑さが増すからであり、このところの外の明るさからは不快感だけしか味わってこなかったため、陽光もシャットアウトしてしまったのだ。
 また、昼休みにも表に出ることはしなかった。ほぼ毎日のように、昼休みには気分転換を兼ねて表に出ていた。外食にせよ、何か昼食用に買うにせよ、ぶらぶらと表を歩くわけだ。しかし、今日はそれもやめた。噴き出す汗を想像するとあえて出てみようとする気になれなかったからかもしれない。
 この辺が自分の妙なところかと思ったりした。これぞと決めると、徹頭徹尾、貫徹しようとする性癖があったりするからだ。今日は、不快な梅雨・夏を拒絶するぞ〜! と赤い鉢巻を締め、拳をあげて挑むかのような雰囲気だったかもしれない。まあ、それは大袈裟であるが……。
 夕刻になったため、ブラインダーを動かしてみると、ようやく薄日となっており、空は曇天でグレー一色となっていた。そう言えば、日中に雷が鳴っていたようだった。
 見た目には涼しそうではあるが、それはクーラーのかかった屋内にいるせいであろう。きっと、表に出ればその蒸し暑さにげんなりするはずに違いなかろう。

 明日からは三連休となる。デスクの前の壁のカレンダーには、翌月曜日が「海の日」だとかで休日だと表示されてある。何だかよくわからない。例によって「 Google 」にすけて(助けて)もらうと以下のようであった。

<●平成15年から「海の日」は7月の第三月曜日になりました。
 平成13年6月の国民の祝日に関する一部改正により、平成15年から「海の日」が7月の第三月曜日にあらためられました。ちなみに平成15年の「海の日」は7月21日に、また、平成16年は7月19日になります。
●海の日制定の由来
 私たちの国は、四面を海に囲まれた海洋国で、はるか昔から外国からの文化の伝来をはじめ、人の往来や物の輸送、産業、生活などの各分野にわたって、海に深くかかわってきました。
 最近では、海洋開発やウォーターフロントの整備、またマリンスポーツの普及など海を利用する機会は急速に多様化しています。さらに、地球環境の保全という観点からも、海の役割が重要視され、海洋汚染防止などの必要性が一層高まっています。
 7月20日は、昭和16年以来「海の記念日」として、海運、造船、港湾などの海事産業や船員等これらに従事する人々について国民の皆様に理解を深めていただくために、全国各地でいろいろな行事が開催されてきました。
 このような海の重要性にかんがみ、近年になって国民の祝日「海の日」を設けようとの国民運動が大いに盛り上がり、その結果、平成7年2月に国民の祝日に関する法律の一部改正が行われ、平成8年から7月20日が国民の祝日「海の日」として制定されました。>(財団法人日本海事広報協会サイトより)

 「そうなんですか」という域を出ない納得でしかないが、ひょっとしたら、こんな祭日を設けるのは、何にでも神が宿るとする日本の多神教的な発想のなすわざなのであろうか……。まあ、祭日は多いに越したことはない。しからば、受動的にではなく、能動的に汗をかくことにでもしようかと…… (2006.07.14)


 昨夜は夜更かしをしたものの、今朝はいつも通りの起床ができた。睡眠が深かったかららもしれない。あるいは、ここ二、三日さほど機嫌が悪くはなかったせいで、脳も疲れていなかったからかとも思えた。
 朝からうだるような気温ではあったが、雨天ではないため、久々にウォーキングに出ることにした。このところややサボり気味であり、体重増加も気にならないわけではなかった。天候がぐずつくとサボる言い訳ができてしまってよくない。

 ウォーキング中の天候の感触は、どう見ても梅雨が明けて季節はいよいよ夏に入ったかの印象であった。目に入る光景はややまぶしい。路面は強い陽射しで熱くなり、風がないこともあって、染み込んだ生活臭を発散させている。
 そんな臭いの中に、記憶をくすぐるものがあったりした。子ども時代の駄菓子屋かなんぞのちょっと酸っぱい臭いであった。あるいは、自転車でやって来た紙芝居屋の、菓子を仕舞った引き出しをも想起させるものだった。今風のセンスから言えば、決してスマートな臭いではないが、子ども当時には否応無く気分を高揚させる何かとても魅惑的な臭気であったかと覚えている。
 そう言えば、紙芝居屋の、「あの引出し」はよく保健所が咎めなかったものだと、ふと思えた。水飴が入っていたかと思うと、ウェファースのように柔らかで薄い煎餅があり、それに塗りつける杏だか何だか得体の知れないクリーム(みそ)があり、ソースまであったか。もちろん酢昆布もあった。
 ちょっと毛色の変わったものでは、3センチ四方で厚さ5ミリほどの石膏のような板菓子があった。それはまた、よくぞ企画したと思われる遊び方を提供していたのである。まず中心部に板を貫通する穴を開け、そしてその穴をナイフなどで削りながら次第に大きくしてゆくのである。が、菓子の材質は柔らかいので、扱いがまずいと壊れてしまう。うまく削り取ってゆき、なにあろう一円玉や五円玉、そして十円玉の硬貨がスンナリと通過させられれば賞品がもらえたのである。賞品が何であったかは忘れた。学校でもろくに鉛筆なんぞを削らない子まで、必死に慎重になってそのゲームに熱中していたのだった。小さい頃にこうした「訓練」をした子たちが、企業の現場で技術大国日本を支えたのだったかもしれない。

 明るい陽射しの中を歩いていると、歩道の路面も浮き上がるように良く見えるものである。蟻などの小さな虫が這っているのも苦労なく見えてしまう。そうなると、別段の慈悲のこころの有無に関係なく、それらを踏み躙ることは避けて歩くようになる。一寸の虫にも五分の魂という古風な表現を引き合いに出すつもりもないが、ああやって無心に這いまわって生きている存在を壊すこともあるまい、という思いが自然に生じる。
 そうこうしていたら、今朝は、ミミズが熱いアスファルトを横切ろうとしているのが目に飛び込んできたではないか。咄嗟に、しばしば見る、輪ゴムのように干からびて路上に張り付くあのミミズの惨めな姿が脳裏をよぎる。同時に、何とかしてやれ、という感情もぽつりと生じる。そのまま這い進んだら、確実に「輪ゴム」になっちゃうじゃないか、と思いながら、辺りに棒っ切れでもないかと見回す自分である。幸い(?)、手ごろな枯草が見つかる。自分はそれで引っ掛けるようにしてそのミミズを畑の土の方に戻してやる。それにしても、今日のような「日照り」がジメジメする梅雨の合間にやってくると、ミミズのようなシンプルな生きものは命を翻弄されてしまうのが気の毒か……。

 自分は殺生が嫌いなそんな「優しい」人間なんだろうかと、アホみたいなことを考えたりしながら歩いていた。それが矛盾に満ちた思いであることは言わずと知れたことだとすぐに気づく。大が小を食うという「食物連鎖」で生きもの界のピラミッドの頂点に君臨していながら、殺生がどうだのと言えたものではないわけである。ただ……
 そうした「哲学的・宗教的思索」(?)に浸っていながら、自分は、この後帰宅してから殺生をすることに直面することになってしまった。庭木の手入れをしている際に、「蜂の巣」を見つけたのだ。
 どうも、一匹の蜂が家の外壁のとある部分をウロウロ(歩いているのではないからこの表現はなじまないか?)しているのである。で、近づいてみると、壁の色に模した粘土質のもので作られた直系数センチほどの「巣」を見つけたというわけである。
 自分は、ウロウロしていた見張りの蜂が居なくなった隙をみて、箒の柄でそれを突き落とす。その塊の裏側からは、さなぎらしきものが何匹か見えている。さてさて、それをどうすべきかと一瞬躊躇したものだ。が、水道の蛇口の下に据え置かれたバケツの水が視界に入ったため、ほぼ反射的にそれをその中に放り込むことにしたのだった。
 事ほど左様に、殺生を嫌うという思いは、単に感傷的なレベルの実に底の浅いものでしかなかったということになるわけだ。が、殺生に伴う言いようのない後味悪さだけは確実に残る。こだわるべきは、理屈ではなくその感性だということになるのだろうか…… (2006.07.15)


 現在の日本から失われているものは、「惻隠(そくいん)の情」であり、「美的感性」だと、藤原正彦氏(ベストセラー『国家の品格』の著者)は喝破(かっぱ)していた。BS放送のブックレビューの番組であった。
 まったく同感であり、これらの喪失によって日本は日本ではなくなったと常々感じていたものであった。
 「惻隠の情」とは、憐憫の情であり、同情だと言ってもいいだろうし、さらに薄めて共感だと言えないこともない。こうした心情、感情が、古き良き時代の日本をしっかりと支えていたはずである。貧しい庶民同士も同情という心的絆で慰めあい力づけ合っていたことは疑いない。また、上下の階層を持つ社会でありながら、同質的な一体性を特徴とした社会を形づくってきた背景にも、上が下を気にかけずにはおかない憐憫の情が一般的であったからかとも思われる。権力を司る政治家たちにも、この情があったればこそ、庶民は政治というえげつない人間行動をも大目に見てきたのかもしれない。
 典型的な例で言うならば、武士が支配する封建社会にあっても、庶民が武士たちに幾分かの敬意を払っていたとするならば、武士たちが自己に潔さと厳しさとを持ち、また「惻隠の情」という文化を体現していたからだったかもしれない。武士たちは、原理的には、あの「同類相憐れみ」という心情を持つとともに、弱者に対する憐憫の情を持つことを特徴としてきたはずである。少なくとも「武士道」で律せられた時代の武士たちはそうであったと言えそうである。
 そう言えば、前述の藤原氏も、日本文化を支えた「武士道」という文化が消滅してしまったことを盛んに嘆いておられた。

 同氏が、いまひとつ嘆いていたのは、現在の日本の社会や文化から「美的感性」というものが脱色されてしまったという、これまた実感的にももっともな事態である。
 現在の日本を牛耳っているのは、そしてまた「惻隠の情」というような美しい原理を放逐してしまったのは、露骨な力や、強制力や、そして法律や理屈が闊歩してはばからない社会文化構造とその風潮だという。そして、それらをもたらしたのは、一言で言えば西欧文化の原理の安易な受け入れではなかったかと。
 東西文化云々という古い話はおくとしても、昨今の「構造改革」路線=「グローバリゼーション」=「アメリカン・スタンダーズ」を、何の深慮遠謀の構えもなく安易に受け入れて来た時の風潮が、「惻隠の情」というような美しい原理を過激に押し潰して行ったことは否定できないであろう。
 時の風潮の特徴である市場経済至上主義=野放しの競争原理が、弱肉強食傾向、そこに含まれる「いじめ」現象、共感性が根絶やしにされたかのような人々の孤立化などに拍車をかけていることは到底否定できないものと思われる。
 これらを見据えた上で同氏は、要するにわれわれ日本人から、日本人の大きな美徳であった「美的感性」というものが失われてしまったのだ、と集約する。
 確かに、法的強制力や経済的合理性によって構成された世界は、「美的感性」が呼吸する隙間を限りなく潰してしまうに違いないと思われる。人々の淡く、柔らかい存在である心情というものは、四角四面で境界線ばかりが妙に浮き上がって見えるさまざまな合理性によってズタズタにされてきたのかもしれない。そんな息苦しい空間の中で、死滅して行くしかなかったのが、日本文化の「美的感性」であったのだろうか。
 たぶん、日本の「美的感性」とは、目くじらを立てて闘うこと、そして勝利するといったことにはまるで馴染まない、そんな原理を保持したものではなかったかと考えられる。だからこそ、「惻隠の情」というような西欧人には理解しにくい心情をも生み出してきたのではないかと推理する。

 ともあれ、今、われわれ日本人は、これまで馴染んで来た文化的原理を踏み躙りつつ、かといって生きるためによすがとできるほどに手ごたえのある文化原理を確保したわけでもなく、言ってみればまるで浮遊するかのごとく当面の時代風潮に乗っかっている。
 確かに、カネを稼ぐことに追いまくられ、あるいは追っかけまわしていれば、生きること死ぬことを単純化したり、一面化したりすることはできそうだ。あたかもゲームのようにである。どんなに粗悪なゲームでも、何か人を魅了させたり、引き込む要素というものは備えているのではなかろうか。
 しかし、ゲームの外側に、ゲームなんぞを白けさせるほどに人間を人間として魅了させずにはおかない茫漠たる世界があることに気づけるならば、にわかにわれわれが捕らわれていると思い込んでいるゲームの化けの皮が剥がれるのかもしれない。正直言って、残念ながら自分はまだその実感を得るには至ってはいない。命のある間にそれが可能かどうかも定かではない。
 ただ、自分の予感としては、「惻隠の情」然り、「美的感性」然りであり、そうした日本文化に畳み込まれたキー・コンセプトを手繰って行けば、生きること(死ぬこと)の真髄が会得できそうだと感じている。少なくともその重要なきっかけは入手できるかと考えている。

 それにしても、どうも「現行」ゲームはそのルールにおいて、知らぬ顔して不問に付している条項があり過ぎると思われる。中でも、ゲームがエンドレスに継続することを暗黙の大前提にしている点から、多くの懸念事項に対して「ランディング(着陸)」特約条項(?)が欠落しているかのようだ。たとえば、地球環境問題に関する「ランディング」は? 世界核戦争勃発可能性に対する「ランディング」は? 
 そして、より卑近な事柄では、このゲームの個々のプレイヤー(個々の人間、個人)たちが必ず「死をもって退場すること」に関して、ゲーム主催側の処理方法はともかくとして、当人側の重要問題に関してはいかにもおざなりだという点である。つまり、死すべき存在にとって不可欠な精神的課題であるところの宗教・信仰問題のことなのである。
 かつての「資本主義経済ゲーム」では、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(M・ウェーバー)にもあるごとく、ゲームの存立基盤が宗教的倫理によって補強(?)されていたかと見える。これは一見古くてすでに乗り越えられたテーマであるかのようにも受けとめられがちだが、人間個々人の死という条件が乗り越えられたわけではないのだから、決して「時効」(?)となったテーマであるはずがないわけだ。
 ところで、「美的感性」と「死すべき存在としての人間」とは無関係な事柄なのであろうか。自分には、この両者は表裏一体の事柄であるように思えてならない。だから、「ゲームは永遠です!」と大見得を切ることで、死の観念を葬り去り、その結果宗教をも形骸化させた「グローバリゼーション」の世界から、「美的感性」が失われたり、それが大きく変質して行ったりするのはある意味で必然的な成り行きのようにも見えるわけだ…… (2006.07.16)


 昨日の題材であった「美的感性」について、徒然に続けることとする。
 毎朝、外猫二、三匹に相変わらず餌を与えている。最近は、母猫のクロと、その娘のグチャの二匹だけが玄関前に集合することになっている。この二匹のどちらかが何らかの都合で「欠席」することはほとんどない。たまに、クロの「ホーム」とは「別住居」でどこに隠れ住んでいるかわからないグチャが、寝過ごしてでもいるのだろう、「無断欠席」をすることがある。クロは、玄関付近に「(特別老人)ホーム」を構えているので、先ず姿を見せないということはない。
 ところで、この娘猫グチャのことなのである。どうも小さい頃から腹に寄生虫でも宿しているものか、いくら食べさせても一向に大きくならない。上から見ると、川のフナのように薄っぺらな始末である。グチャの子ども猫の方がすでに大柄となって、バカにされている体たらくである。
 そうした体型は別として、いつまでも「子どもっぽい」振る舞いを平気でし続けているのが気になるのだ。親子二匹が揃ったところで、複数の皿に餌を盛ってやるのだが、最初に餌を盛った皿に必ず顔を突っ込んで来るのがグチャなのである。それだけなら、いつまでも親と一緒だと子ども気分が残るものかと想像するに尽きるのだが、この後におまけがつくのである。クロの方は、グチャが勝手なことをしても、子どもが食い意地を張っているのだと思ってかいなしている様子だ。そこで、待っているクロに向けて餌を皿に盛ってやるわけだが、それをクロが食べはじめると、そこでグチャがいつも決まった振る舞いをするのだ。クロがゆっくりと食べ始めた餌の皿の方に急遽鞍替えをはじめるのである。
 最初は、クロの方の皿の餌も自分のものだと言い張っているのかと思えた。しかし、どうもそうでもなく、親猫が食べている餌の皿の方が「いいもの」だと解釈しているようでもあり、あるいは親猫と頭を寄せ合って食べたいとでもいうつもりなのか、いずれにしても、ガキっぽさがたまらないのである。
 例としてはいかにも不出来なのではあるが、自分はこのグチャの振る舞いを毎度毎度見せつけられる度に、こいつは「美的感性」が欠落してるなぁ、と思ってしまうのである。それは、年老いて、道理をわきまえて落ち着き払った振る舞いをするクロと対照的な雰囲気であるからそう感じてしまうのかもしれない。さらに、グチャの子ども猫が、そこそこの大きさに成長して、「自立」している様子(昨今は親たちとたまにしか「朝食」を共にしないようになった……)も、グチャの振る舞いを際立たせることになっているのかもしれない。そんなグチャがかわいいと言えばそう言えないこともない。しかし、ガキっぽさ丸出しの振る舞いが多少鼻につかざるを得ないのである。

 これは、人間の「千分の一」の価値付けにある猫(落語では、猫千匹を助けると人一人を助けたことになるとか言う。嘘つき志ん生による口からでまかせ……)の話であるが、昨今の人間界も、この「ガキっぽい」手合いが増えているような気配だ。それで、なるほどこのご時世の人様の「美的感性」は地に落ちはじめたものだと思ってしまうのである。
 クルマを運転していてもそう感じる。他人に先を譲るというような振る舞いが消滅してしまったかのようなのだ。たとえば、一昔前までは、ヘッドライトをアップして他のクルマに合図を送るのは、「お先にどうぞ」という意味であっただろう。自分などは、右折を待っているバス(公共交通!)があると、自分側に直進優先権があってもその合図をして「お先にどうぞ」を履行する。バス側から、「ありがとう」という意味の同合図が返ってくると「美的感性」がわずかにくすぐられたりもする。
 ところが、最近は、そうした合図をして来るのは、「すまんけど、オレに先を譲ってくれや」の意味となってしまい、「譲られる」方が厚かましくも合図をするのである。誰がそんなことをはじめたのかと腑に落ちないが、要するに「美的感性」のかけらもないジコチューの輩が先鞭をつけたのであろう。
 こうしたことに枚挙の暇がないのが現在の醜悪な日常光景なのだろうか。

 先日、ラジオのトーク番組で、布施明(往年の歌手)がちょっと「美的感性」の伴った話題を提供していた。
 とある横断歩道で、老人が道路を横断するのに躊躇っていた時、何人かの小学生たちがサポートしはじめたというのだ。子どもたちが手分けをして、老人に手を貸したり、両方向からやって来るクルマに手を上げお辞儀をして合図を送ったりしていたそうな。そして、無事にその老人を反対側まで送ったという。
 と、その時、停車に協力したトラックの運転席の窓からとある若い兄ちゃんが子どもたちに拍手を送っている光景が見えたのだというのだ……。
 これらの光景を何と評するかは別として、少なくとも、「美しい」と言って間違いではないだろう。そして、この光景を構成した各々の人物のこころの内側に凛として存在したものを、「美的感性」と呼んでもいいのではなかろうか。
 この子どもたちは、きっと、当たり前のことをしただけです、と言うに違いなかろう。しかし、こうした当たり前のことが、拍手を誘い、またこうした光景の話題がひとつの話題として成り立つのが、現在なのである。

 いつぞやの話ではないが「美的感性」もまた、「金では買えない」ものの有力なサンプルではなかろうか…… (2006.07.17)


 人間は、自然を優越し、超克した生物だと目されているが、どうも、「自然の方がまだまし!」と思わせるような社会状況、世界情勢になってしまっていそうだ。これが実感として湧いてくるほどに醜い世相である。人々にとっての問題は、「美的感性」なんぞといった高尚なものではないかもしれない。
 人は見るに堪えない、聞くに堪えない事柄を称して「畜生道」と言ったりしてきたが、それでは「畜生」たちが気を悪くするような悪辣なことが罷り通っていそうである。自然の生きものの水準未満の地獄模様を展開しているのが、現在の人間たちなのか。

 先ず、「やっぱり!」という不快な思いが突き上がってくる事件であった。秋田県で引き起こされた、33歳の母親による、我が子の殺害、その後の隠蔽工作と思しき別の子どもの殺害やそれに絡んで不可解な行動を重ねた事件のことだ。
 子殺しの動機として伝えられている情報では、自分が生きるために「疎ましくなった」とあるが、さらにかまびすしいマス・メディアは、保険金殺人ならぬ、「犯罪被害者給付金」(1,573〜320万円)制度の悪用まで意図していたのかとも伝えたりしている。
 こうなると、まともな人たちが乱された心を癒すには、「一服の清涼剤」では済みそうもない。「清涼剤」のプールにでも飛び込んで、溺れるようにでも飲まなければ治りそうもなさそうだ。
 昨今は、事もなげに子が親を殺害する事件が頻発している。また、親が子を殺害する事件でも、今回のケースのちょっと以前に、浪費癖の強い母親が娘さんを殺害するという痛ましい事件もあった。よくはわからないが、この母親の殺害動機もまた、自身だけが生き(延び)る意図と無関係ではなさそうだとかだ。

 自然の生きものが保持している「母性本能」が、人為的に作り出された文化・文明という人間環境によって脆くも打ち壊されてしまっているように見えるのである。
 これらは、決して犯罪者たちの生物学的個体の異変によるものなんぞではない。明らかに、人間個人を異常行動へと追い込む本末転倒した人為的環境、文化・文明そのものが垂れ流している害毒による汚染以外ではないはずだ。さらに各論的に補足するならば、常識的な文化・文明に、特殊な味付けをした現在の政治自体が作用していることを強調したいと思う。
 「政治の目的は善が為し易く悪の為し難い社会をつくることである」(グラッドストーン、19世紀英国の政治家/この格言は後述のサイトにて発見)という言葉があるようだが、現在の、とりわけ小泉内閣組閣以来の政治は、「悪が為し易く善の為し難い社会」環境を、まやかしの言辞を弄して急速にでっち上げて来たと言うべきである。
 昨今はこの種の糾弾を事細かく述べることに新鮮な気分が失われがちとなっているため、以下の引用にて代替したいと思う。それは、自分が最近目を通すことになったとあるサイトからの一文であり、なぜ人々は、このサイトの主催者である「森田実」氏のような「まともな感性」が持てないのだろうかと訝しく思っている。

<7月7日、小泉内閣が閣議決定した「骨太の方針」は、「官から民へ」のまやかしのスローガンのもとで行ってきた小泉内閣の無責任政治の集大成である。2007年春の統一地方選挙と同年夏の参議院議員選挙を意識して、本心ではやりたいのに消費税の引き上げを先送りし、その代わりに、地方財政をさらに圧迫し、社会保障予算を減らし、その上国民の共有財産である国有財産を投げ売りしようという計画である。国有財産の投げ売りは、新たな利権集団を生み出している。ひどいことが行われようとしている。監視しなければならない。アメリカ大資本への投げ売り的大安売りが行われるおそれがある。
 小泉政治とは、ブッシュ米大統領を喜ばすだけの政治であり、日本国民の利益に反する政治である。こんな「売国的政治」を日本のマスコミは支持している。マスコミの罪は大きい。マスコミは国民の敵である。
 「財政再建」の美名のもとで行われている日本国民窮乏化政策を、暴かなくてはならぬ。>(サイト:「森田実の時代を斬る」http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/TEST03.HTML より)

 社会面で報道される奇異な事件は、決して何の脈絡もなく発生するものではないと思われる。それは、社会環境がかく汗のようなものであり、昨今の汗には血が滲んだものが多く、それほどに社会環境自体が疲弊して病んでいるということに違いない…… (2006.07.18)


 今朝、玄関先の外猫たちに餌をやろうとしたら、グチャ(「美的感性」乏しきやつ!)の姿が見えない。クロが、専用ホーム(?)の前で、待ってました! とばかりの様子でこちらに顔を向けている。
 昨日からの雨天で、外猫たちもさぞかし難儀していることだろうと思いながらの餌やりであった。
 グチャは、どうせどこかで雨宿りでもしながら寝過ごしているのだろうと、専用ホームの出入り口の前に置いたクロ向けの餌皿に餌を盛ってやった。と、驚いたことに、ホームの出入り口から、のそっ、とグチャが顔を出してきたのである。これはこれはどうも、とでもいうような気配である。つまり、グチャはとうとうちゃっかりとホームにおさまっていたのである。クロも、雨降りだからしょうがないとでも思ったのであろうか、それを許容したようだ。
 冬場にも、寒さに堪りかねてか、強引に身をホームに押し込んでいたことがあった。冬場は、ホームの奥に湯たんぽを設置してやるため、内部が手狭になっており、クロ一匹の身だけで空間が埋まってしまうところを、ムリムリ入り込み、重なるようにして居座るのである。
 が、いま時は、湯たんぽが場を占めないため、二匹が「居住」できないわけではない。しかし、それにしても、甘ったれというか、「美的感性」乏しきやつなのである。
 自分の子どものように、親元から離れて独立展開を図ればいいところであるのに、ホームから餌まで、お母ちゃんはいいなぁ、とでも言いたそうに羨み、ベッタリとくっついている始末だからである。
 お前には、誇りというものがないのか? と感じたりするわけだ。たとえ、ひもじくても、不安でも、一匹で気ままに過ごそうとする猫本来の孤高さはないのか? と問い掛けたい気もするのである。が、どうも、返ってくる応えは、「そんなものはありません。お母ちゃんみたいに、ホームがあって、きちんと餌がもらえればそれに越したことはないんです……」となりそうな雰囲気だから、何をかいわんやなのである。

 だから、「美的感性」のひとつの要素としては、「誇り(プライド)」というものがありそうなことに気づくわけである。本来の自分、明日の自分というようなあるべき自分の姿を脳裏に刻印し、それに少しでも近づきたい、近づこうとする、そんなベクトルなのである。
 まあ、こう書くと、グチャのような猫風情にはムリかなぁ、と納得させられてしまいそうではある。ただ、これは自分の思い過ごしかもしれないが、年老いた猫のクロには、何とはなしの「誇り」をまとった雰囲気がないではない。もちろん、戸外を駆け回っているため、黒い毛並みに「埃」もまとってはいるが。
 そんなグチャが「かわいい」と、先日も形容したはずである。ところが、この「かわいい」というセンスがクセモノであるように思えてくるのである。この「かわいい」というセンスが蔓延(はびこ)る空間には、「誇り」という価値あるセンスが台無しにされ、枯れ果てていくような実感が湧いてくるのである。
 思えば、「カッワイイー」という叫びを繰り返してきたコギャルたちもいた。「どうも、あいつは『可愛げ』がなくてイカン……」と愚痴ってきたコ・オヤジたちもいた。また、そのとっくの前から、小さな子どもを見ると「まあ、かわいい!」とワンパターンのセリフを吐くご夫人たちがいた。
 これらは、六分が本心で、後の四分は、意識してかしないかは別にしても、相手を手なずけたいとする願望の現れ以外ではないかのようだ。「誇り」なんぞとはとっくに縁を切った方々が、相手を、自分らのチマチマとした世界の仲間に入れようと手なずけているのだ、と言ったら、きっと怒られるに違いない。しかし、どうもそう見えてならない。

 世の中から、「美的感性」のそのひとつである「誇り」というものが失われ、「恥」のセンスも失われ、とにかく美しくなくなった原因は、「誇り」を維持しようとする者たちが減っただけではなく、「誇り無き世界」へと足を引っ張る連中がどんどん増殖されているからに違いない……。
 とまあ、そんなことを猫の振る舞いを観察しながら感じたりしたわけだ。ただ、「誇り無き世界」の宣教師のような役割りを果たしている代表格は、言うまでもなく商業主義に徹した現在のマス・メディアではなかろうか。相変わらず、三文週刊誌はその「使命」と「路線」とを背負って荒稼ぎをしているようだが、それ以外のマス・メディアも大差はないかと思われる。人間の「かわいさ(卑小さ)」と「醜悪さ」とを、とっかえひっかえに前面に押し出しながら、人々の記憶から「誇り」の感覚を消去してしまいたいというのが彼らのホンネなのであろう。それというのも、人間の「誇り」という価値あるセンスが、大衆の間に広がってゆくならば、マス・メディア自体が疎んじられると予感しているからなのではなかろうか。まるで、ドラッグそのもののようだ、と言えばまた怒られそうである…… (2006.07.19)


 幸いにも、社員たちの奮闘努力によってわれわれの会社は維持されている。このことを改めてラッキーなことだと思わざるを得ない。
 もちろん、この先も末永く現状維持がなされると盲信してはいけないし、いま時そんな企業があると考えてもいけないはずであろう。そうしようとする意志と、トライアンドエラーがあるのみだ。
 現時点の経済環境は、景気がどうのこうのというような以前のごとく安定めいた常態ともいうべきものが影をひそめ、大河が日々流れて、固定という観念そのものを押し流してしまっているかのようである。ああすれば、こうすればこの先の見通しが立つというような、経営者ならば誰でもが喉から手が出るほど欲しいものなんぞは、そう簡単にありうべくもない。能力の問題も当然あるが、現在の経済環境は、まるで今回日本各地を襲った集中豪雨のように、従来のビジネスの存立基盤それ自体を、抉り取り、押し流しはじめているかのごとくである。
 どこに、何に活路を見出すのかを、あらん限りの知恵を絞って考えなければなるまい。
 今日は、たまたま、仕事関係でいろいろとお付き合いをしてきたとある社長が来社された。多少の情報交換が済んだ後、結局、話題は取り留めのない現経済のドラスティックな変化について流れ込んで行ったのである。
 その社長は、いろいろと付き合いが広く、今日来社された理由も、ある大手企業の役員クラス経験者が新会社を立ち上げたので、一度会ってみてはどうかという話なのであった。
 詳細は省かざるをえないが、何でも、大手企業同士の合併統合に嫌気をさした御仁が、それならばと自社設立に踏み切ったのだという。
 こうした類の話は、結構聞くものである。今日来られた当の社長自身もまたそうした経緯と無縁ではなかった。ほかにも、部長以上の立場にあった者が、トップ経営者とそりが合わなくなって飛び出すケースは掃いて捨てるほど耳にしている。
 経済状況が今のように、過酷となり、また従来では考えにくかった合併話も少なくなくなれば、言葉は悪いが内輪もめとて傷が深くなり、このようなスピンアウト組をも頻発させるものと想像させる。

 やむにやまれぬ事情がそれぞれにあるはずであろうが、よほどのメリットとしての資源を持ち合わせていないと、これまで経営に近い階層で過ごしてきた者が新会社設立で成功する確率は低いのではなかろうか、というのが自分の率直な感想である。
 まず、第一点は、おざなりな見解であるが、年齢の問題である。現在のビジネスには、ほとんど格闘技的だと言っていいほどの猛烈なパワーが必要でありそうだ。格闘技的とは、もちろん体力・気力においてもピーク前が望ましいということであり、また、知的にもそのことが要求されそうだ。蹴倒されてもダメージの少ないコンディションが必要なのであり、強敵と出会う前から頭が痛いのとか腰が痺れるとか嘆いているようではどんなものであろうか。
 精神力においても、それまでの社内の海千山千の輩たちと、くんずほぐれつの闘争を辞さないようなアグレッシーブさがあってこそ、外に出ても奏効するというものであるのかもしれない。外に出れば、何とかなるのではないかと「隣の芝生」を期待する軟さがあったのでは何ともならないのかもしれないのだ。

 第二に、人脈というものが、思うほどに効き目がなくなってきたような気がしているからである。
 確かに、従来のビジネス環境では、部長クラス以上の者たちが培っていた人脈というものが一定程度迫力を持ったものであろう。ただし、それとても、バックに会社の「印籠」が見え隠れしていたからだとも言える。外に出れば、もちろんそれもなくなるわけだ。
 思うに、人脈というようなヒューマンな要素が影響力を発揮するようなビジネス環境であれば、これほどにドライな変化も起こらなかったのではないかと感じている。そんな要素よりも、目に見える現物(目先の経済的メリット)だけがものを言う時代になったと言うべきなのかもしれない。
 だから、外に飛び出す者が、自分にはこれまで培ってきた人脈という強い見方があるんだ、と豪語してみても、それはかなり当て外れの観が拭い切れないのかもしれない。

 では、ほぼ絶望的ではないか、そんな殺生なことを言わんでくれよ、と聞こえてきそうだが、そんな虫のいいことを言わんでくださいよ、と言いたいわけなのである。
 「外海」を泳ぎたいのならば、それが十分に可能である年齢に、防波堤に守られてその内側でいい気になっていないで、荒海で揉まれる訓練が必要だったのである。
 たぶん、ビジネスとは、能力の問題もさることながら、ほとんど生活習慣的要素がものを言うのではないかと感じている。転んでもタダでは起きない習慣とか、人の顔を見ると当然お客様は神さまと言ってパーフェクトな作り笑いができてしまう習慣とか、他人の欲しがっているモノがジワッと感じ取れてしまうような勘働きの習慣とか……。
 そしてこの習慣作りから最も遠い地点でふんぞり返っていたのが、大手企業の部長職以上のおエライさんではなかったかと推測する。ついでに言えば、課長職以上の国家公務員であろうか。「天下り」という特別ルートがなければ、箸にも棒にもかからない人々だからこそ、手前味噌でそんな邪道を作ったりしているのだろう。

 いやはや、よしこれから奮起するぞと構えている方に大変失礼な感想をもらしてしまったものだ。ただ釘を刺したかったのは、新規社長が悩みはじめるのは、悩むことでは引けを取らない何百万の中小零細企業のオヤジ社長たちの行列の最後尾だという点なのである。ただし、「彼らには能力というものがないから順番はいつでも抜けるさ」なんぞと世間知らずなことをほざいていては話になりませんぜ、ダンナ…… (2006.07.20)


 どう感じ、どう考えたって当たり前のことじゃないか。「美的感性」以前の「常識的感性」に基づけば、現在の「靖国神社」に首相が参拝することは明らかに間違っている。
 議員や首相というポジションが公の範疇そのものであるというイロハのイの字が、どうしてわからないか。意図的な公私混同という悪質さ以外ではなかろう。狙っているものは何なのだ。まどろっこしいことをせずに、馬脚を曝け出せばいい。
 仮に私人としての参拝であっても、「戦争犯罪人」(=膨大な数の戦没者を生み出した張本人!)をも紛れ込ませた神社側の、その杜撰さ、および意図的な「好戦」姿勢に対して違和感を感じないというのは、何ともいただけない。
 こんなにも物議をかもし、私人としての心の問題だと言い張るなら、すっきりと私人に降りればいいことだし、あくまで公人であることに執着したければ、文字通り、私人の密かな心の問題として伏せておくのが定石であろう。参拝を善とするならば、善を為すにひけらかす振る舞いをするのは最低であって、人々ならず神々も最も嫌うところではなかろうか。
 首相は、「信念」とか「節操」とかを売りにしたいようであるが、それらの徳を根底で支えているのは、差異の識別とでも言うべきものではなかろうか。自己が奉ずる甲は乙に非ずとする識別感こそが、それらの徳を純化させるものと思われる。
 ところが、「戦争犯罪人」と「戦争被害者」との識別がつかず、おまけに「私人」と「公人」の区別がつかないような有って無いがごとくの識別感では、その「信念」とか「節操」とかも推して知るべしと判定されよう。
 まあ、常識的センスでものを判断する人たちの目から見れば、国会答弁などで、ああ言えばこう言い、屁理屈に屁理屈を重ねて強弁する見苦しいほどの往生際の悪さは、「信念」とか「節操」とは縁の無い人だと見えていたものであったはずだ。

 いやいや、ついつい毛嫌いする輩について目を向けると脳の言語中枢が活性化されてしまい、ムダな時間を使ってしまうこととなる。
 今日書こうとしたのは、「日本経済新聞」の以下の「初発」の記事である。とりあえず先に付言しておくなら、なぜポーズをつけ続けている「朝日」などが先鞭をつけられなかったのであろうか? この辺がマス・メディアへの不信感をかき立てさせるわけだ。
 「日経」は「日経」で、現状の経済的視点の問題(「靖国問題」=対中国経済にシコリ!)を、財界から突かれてのことだとかと聞く。

<昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ
 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。 (07:00)
>( NIKKEI 2006.07.20 )

 そして、ちなみに、次のような「連鎖」記事にも目がとまった。

<日経本社に火炎瓶? バイクの男が逃走
2006年07月21日10時34分
 21日午前2時15分ごろ、東京都千代田区大手町1丁目の日本経済新聞東京本社の通用口に火炎瓶のようなものが投げ込まれるのを同社社員が目撃し、警備員を通じて110番通報した。バイクに乗った男が瓶を投げつけて逃走したといい、警視庁は火炎瓶処罰法違反の疑いで調べている。瓶は破裂したが着火せず、けが人はなかった。
 丸の内署の調べでは、ワインの瓶にガソリンを詰めたものとみられ、建物南側の通用口の中に投げ込まれた。
 同社社長室によると、犯行声明などは届いていないという。>( asahi.com 2006.07.21 )

 コイツらにも言いたいものである。
 「人は心の中では何を考えたっていい。首相も同様。靖国参拝だって何だって勝手に考えればいい。しかし、いざ形にしてしまうと、法的、道義的にマズイばかりか、否が応でも背後での金の動きに衆目を集めさせるじゃないか……」と。
 いま時の政治団体もどきが、主義主張だけで運営されると一体誰が想像するものであろうか。目立ったことをすればするほどに、金の流れや経済的脈絡の線を浮き彫りにするだけであろう…… (2006.07.21)


 今朝は思いっきりの朝寝をした。プラス3時間といったところか。涼しさも手伝ってかいい気持ちで惰眠をむさぼった。
 先週は、寝不足症状が激しく、日中も眠気に襲われ続けて困ったものであった。朝は朝で、いま少し寝ていたいという気分が連日続いていた。
 そこで今朝は、身体の言うなりになったというわけである。「寝貯め」というのは、若い頃はよくやったものだったが、本来は良くないらしい。たぶん、体内時計などを狂わすからなのだろう。しかも、自分の場合は、偏頭痛の誘い水にもなりかねないので、警戒なしとはしないのであった。
 が、久しぶりで朝寝を堪能したため、気分はぼんやりとした柔らかな基調となり、のどかな休日を過ごすこととなった。天候の方も、曇天で、雨でもなく、また蒸し暑さもなくボヤーッとしており、万事が気分と適合していたようだ。

 夕刻、書店に出かけた。
 最近は、もっぱらネット通販の「Amazon」で用を足してしまうため、書店を覗くことがあまりなかったからだ。ヘンな理屈だが、何か特定の本が欲しい場合には街の書店にはあまり期待がかけられず、手っ取り早くネット通販を利用する。むしろ、さして欲しい本があるわけでもない場合に、暇つぶしにちょっと覗いて「掘り出し物」でも探すか、となるのである。
 今日もそんな「斜(はす)に構えた心がけ」で書店に向かった。しかし、結論から言えば、購入した合計額は数千円を超えており、「斜に構える」と却って出費が嵩むものかと気づかされた。

 休日の日の広い書店は、家族連れのサラリーマンの息抜き場所となるのであろうか。半ズボンの若いお父ちゃんに、涼しそうな格好のママさん。そして、自分ちよりも、広くて明るい空間なのではめをはずしたくてしょうがない気配のおガキちゃんたち……。
 今朝のウォーキング帰りにも、このところ「立ち寄り」場所となってしまった100円ショップに顔を出したのだったが、どうも、店内の雰囲気は共通している。買おうと思えば、清水の舞台から飛び降りることもなく買えるような種々雑多な賞品が、さわり放題、見放題可で並んでいる。まあ、昨今のショップはどこでもそうであるわけだが、書店と100円ショップの共通点は、大人でも子どもでも好きなコーナーに赴いて、それぞれにタダで、あるいは100円程度で楽しめるという格安時間つぶし性にあるものと思われる。

 自分も、金に不自由せざるを得なかった若い頃には、土曜日の夕刻なんぞは家族揃って書店を覗いたり、「安物」量販店に足を向け、そしてその後はその付属店である「安物」食堂で安物中華を食べて、中古「安物」カローラに乗って何となく満足しながら帰宅したりしたものであった。金がない若い家族にとっては、金を使わずにそれぞれがまずまず満足できる時間の過ごし方となるとパターンが限られてしまうのかもしれない。
 まあ、しかし、その「安物」パターンも子どもが小さくてわけのわからない頃までしか通用しないのかもしれない。子どもが世間をそこそこ見聞して「物知り」になってくると、裕福な家の子の家庭事情なんぞを視野に収めるから話がややこしくなってきたりする。加えて、成長する子どもは親たちといつまでも一緒に行動しようとは思わなくもなってくるから、さらに話はこじれてくる。
 そんなことを、ふっと思い起こしていた。
 書店の明るいスベスベした通路を滑るようにして走り回っているよその子を見るとはなしに見ていたが、そっとそれとなく親御さんたちに語りかけたい衝動にかられた。お子さんが滑るから危ないですよ、じゃなくて、時は滑るように過ぎ行くもののようで、今がひょっとしたら一番幸せなひと時なのかもしれませんよ、大事に味わってくださいよと…… (2006.07.22)


 「新しい視点」とか、「斬新な切り口」という表現をしばしば耳にする。
 同じ事実や対象が扱われても、独自な、新しい視点から観察されたり、思いもよらなかった断面が切り取られたりして提示されると、まるでまったく新しい事実や対象が現れたように受けとめられるようになることから関心が持たれるのだろう。確かに、「視点」や「切り口」というものは、思わぬ効果を上げそうである。極端に言えば、それらが異なれば、異なった分だけの新しい世界が生まれるとともに、それらが同一であれば、たとえ異なった事象を扱ったとしても同一の対象を扱ったような印象を与えるようだ。

 そんなことを考えさせられたのは、昨日書店を覗いた際に相変わらず多数の新刊本を目にした時である。まず、よくも次から次へと手を変え品を変えて新刊本を出すものだと関心したのである。新刊本であるからには、当然「新しい」何かを扱ってまとめたに違いないはずだろう。よほど世の中には、「新しい」何かに目をつけるのがうまい者がいるらしい、と。
 と、そこまで考えた時に、「新しい」何かはどうやって見つけ出されるのであろうかと想像してみた。要するに、どうやって「新しい」何かを発見するのだろうかという素朴な疑問なのである。
 そうしたら、本にされるような「新しい」何かとは、必ずしも科学的事実などが「新たに」発見されるというような大それたことばかりではなさそうだとも思えてきたのだ。いやむしろ、昨今の新刊本とは、そんな上等な出版姿勢で生み出されるというよりも、ムードで売りまくれる可能性を画策したものの方が多そうだとも思えてきたのである。
 が、まあ中を採って、それにしても売れそうな「新しい」何かをセールスしようとしているには違いなかろう。では、それは一体何だろうか、と疑問が次々に転がりはじめたのであった。
 それで行き着いたのが、「新しい視点」とか、「斬新な切り口」とかというものであったというわけだ。

 ただ、言っておけば、新刊本に関するならば、これらが額面どおりのものであるかどうかは必ずしも信用できるとは限らない。出版社がそういう触れ込みで売り出そうとしただけの場合だって往々にしてある。それは現物を手にするものが「読者の視点」で判断するほかはない。
 が、時として、なるほど「新しい視点」であり「斬新な切り口」だと感嘆せざるを得ない場合もあるには違いない。これは、新刊本に限らず、さまざまな新製品や映画などの新コンテンツにも当てはまる。
 こうした場合、次に浮かんで来る疑問は、これはこれが扱うところの「対象や材料」が新しいからなのか、それとも文字どおりに「視点」や「切り口」が新しいからなのか、ということになる。大まかに言えば、その両者があいまって新しいということになるのだろうが、自分には、どうも「対象や材料」よりも「視点」や「切り口」の新しさの方が気になるのだ。後者があっての前者の発見というような筋道の方が納得しやすいということなのである。

 思えば、さまざまなジャンル、たとえば学問でもいいし、エンタテイメントでもいいし、あるいはスポーツでも料理でもいい。いろいろなジャンルというものは、一体何によって仕分けられているのかと問い詰めると、対象側の差異やその性質に大きく依存している場合もあるものの、特殊な「視点」によってこそ括られるという側面が気になってしようがないし、それこそが重要であると思われるのだ。
 今日の話題は、はなはだ抽象的なレベルを舞い上がり続けているのはわかっているが、これこそ「視点」についての「視点」的な思考なのかもしれない。いずれ具体的な例をもって考えてみようとは思っている。
 なぜこんなことに拘泥するのかと言えば、「視点」というのは、つまるところ「自分なりの視点」ということなのであり、これは他人と比較すべきものではなく、もし優劣を競うとすれば、それをもってどれだけ世界を深遠に掴むことができるかということではないかと思うのである。優れた「視点」は、世界の持つ可能性をあますところなく汲み尽くすであろうし、拙い「視点」は、世界の可能性の多くをムダにするのだと思える。
 「自分の視点」をどう定め、どう研ぎ澄ましていくかという課題こそが人生における結構重要なテーマであるような気がしている…… (2006.07.23)


 物事は、見ようによってはどうにでも見える。その点をしっかりと頭に入れておく必要があろう。さもなければ、どうにでも見えることをいいことにして、クロをシロと言いくるめる者たちにまんまと真実の認識を奪われてしまうことになりかねない。バーチャル・リアリティが張り巡らされた現代にあっては、そうしたことは日常茶飯で起こり得る。
 そして、どうにでも見える可能性が潜んでいるからこそ、対象をどのように、どんな角度から見るのかという「視点(viewpoint,angle)」にこだわりたいのだ。

 気のつくままに例示したい。
 このところ、九州などの地域で、異常な集中豪雨が発生し、痛ましい惨劇が広がっている。梅雨前線の活動が活発化しているためだと言われている。
 こうした災害を見るにつけ、釈然としない気分に襲われる。確かに自然現象であることには違いないのだけれど、だからといって、為す術もない出来事だと見なされる空気がたまらなく苛立つのである。
 「為す術もない」自然現象だからしょうがない、と百年も前の前近代人がつぶやくのならば、納得しないでもない。しかし、現代という科学の発達した時代にあって、前近代と同じような諦めが支配しているかのような一般的空気は、問題アリだと思わざるを得ない。
 ここで、「視点」の問題を考えてみたいのである。
 まず、地球規模の異常現象である「地球温暖化」に関するその「視点」が欠落すると、この先、年々深刻化していくであろう異常気象に対しては、泣き寝入りするしかなくなってしまうという点なのである。どうも、根本原因に視線を向けさせるようなマクロな「視点」の存在が、まるで蚊帳の外となっていそうである。一国が騒いでも埒があかないのはわかるが、その状態をただ続けることは、築後年数の経ち過ぎるマンションが個別テナントの心配をよそに刻々と傷みを激しくさせていくだけの悪循環とまったく同じであろう。
 毎年毎年、「今回の降水量は、測定開始以来過去最高となります……」と、同じせりふを重ねて繰り返してどうするのか、と思える。たぶんスケールが大きくなるばかりなのだから、土木災害対策にしたってやがて歯が立たなくなってしまうのではなかろうか。

 で、次に、その土木分野の災害対策である。やはり、自然災害(特に水害)に対する洞察力のある統一的「視点」というものが一貫して欠落して来たのではなかろうか。そうした「視点」の欠落するところに、妥当な災害全貌予想とて描けないはずである。毎年、同じような流水土砂災害が起きているところを見ると、未然に、人為的な対策でどれだけ防げているのかが疑わしく思えてしまうのだ。
 はっきり言えば、異常気象に伴うような巨大災害に対しては、それに匹敵するマクロなプロジェクトが必須のはずだと思われる。だが、これは難しい課題だと言うよりも、これを阻み続けている構造が気になる。それは、言うまでもなく政府の「縦割り行政官僚機構」のことであり、「縦割り」となった各省庁がどれだけ国民にとっての統一的課題に有効に結集できるかという難問のことである。
 行政組織の問題は今はおくとしても、危機的事態を事前に描き出し、対策を講じるには、それにふさわしい「視点」というものが必須だということなのである。国民を自然災害から守り切るという使命感に溢れた「視点」は、一体誰が、どの組織が担っているのだろうか。

 昨夜、NHKのTV番組でようやく痛いところに手が届くような切実なものを観ることができた。<NHKスペシャル:ワーキングプア 〜働いても働いても豊かになれない〜 >である。
 ちなみに、NHK側の紹介は以下のとおりだ。

<働いても働いても豊かになれない…。どんなに頑張っても報われない…。
今、日本では、「ワーキングプア」と呼ばれる“働く貧困層”が急激に拡大している。ワーキングプアとは、働いているのに生活保護水準以下の暮らししかできない人たちだ。生活保護水準以下で暮らす家庭は、日本の全世帯のおよそ10分の1。400万世帯とも、それ以上とも言われている。
 景気が回復したと言われる今、都会では“住所不定無職”の若者が急増。大学や高校を卒業してもなかなか定職に就けず、日雇いの仕事で命をつないでいる。正社員は狭き門で、今や3人に1人が非正規雇用で働いている。子供を抱える低所得世帯では、食べていくのが精一杯で、子どもの教育や将来に暗い影を落としている。
 一方、地域経済全体が落ち込んでいる地方では、収入が少なくて税金を払えない人たちが急増。基幹産業の農業は厳しい価格競争に晒され、離農する人が後を絶たない。集落の存続すら危ぶまれている。高齢者世帯には、医療費や介護保険料の負担増が、さらに追い打ちをかけている。
 憲法25条が保障する「人間らしく生きる最低限の権利」。それすら脅かされるワーキングプアの深刻な実態。番組では、都会や地方で生まれているワーキングプアの厳しい現実を見つめ、私たちがこれから目指す社会のあり方を模索する。>(サイト「NHKオンライン」 http://www.nhk.or.jp/special/onair/060723.html より)

 こうした番組によって、現実のリアルな「視点」を提示することこそが何よりも今必要なはずなのである。正直言って、これらを政治的にもたらした張本人小泉首相が幕切れとなる今頃ではやや遅きに失した観がなきにしもあらずではある。
 ただ、ここでも強調したいのは、現実を見つめる確かな「視点」というものをこそ、責任のあるマス・メディアはしっかりと提起すべきだということなのである。
 いまだに、景気は回復したという能天気な「視点」がまかり通っている現在である。そうした、どうとでも見える見え方の一部分をこれみよがしに吹聴するような与太「視点」ではなく、きっとすべての国民が影響を受けるような、そんな全体の動きが視野に収まるような包括的な「視点」をこそマス・メディアは投げかけるべきなのである…… (2006.07.24)


 最近のいかがわしい「迷惑メール」は、二手に大別されるようである。もっとも、そのいかがわしさにおいては瓜二つの共通性があることは言うまでもない。
 ただ、自分は、タイトルだけを一瞥して、サーバー・サイドでのデリート処理を行ってしまうので、中身の詳細はわからない。今ひとつ探究心を燃やして中身を吟味したい気にならないわけでもないが、そんなことをしてウイルスを戴いたのでは修復のために余計な手間と時間を費やすこととなるため自粛している。
 さて、その「二手」とは、いつの世にも変わらぬ「色」と「欲」という二本柱のことなのである。新鮮な気分の朝っぱらから、ぬめぬめ、ぎらぎら的なそうしたメールタイトルを目にするのは、はなはだ不愉快、不快なのであるが、「掃除」はしておかなければならない。

 前者の「色」関係に関しては、ますますもってえげつなさが増している気配がありそうだが、おまえらはビョーキだ! と一喝して、まあ放っておこう。
 やや気になるのは、後者の「欲」絡みの「お誘い」メッセージである。要するに、窮乏感を深めつつある庶民に対して、甘言を弄して「ワナ」に嵌めようとする人でなしたちがこのところめっきり増えたかに見えるのである。
 一昨日のNHK番組の「ワーキングプア」ではないが、今確かに、「働けど働けど……」といった憐れな人々が増え続けている。そして、哀しいかな、ふと「美味しい話」はないか、いや美味しくなくとも不味くはない話はないかとキョロキョロしているだろうことは容易に想像される。
 まあ、最初に言っておけば、善人たちにとって「美味しい話」なんてものはありっこない。もし、「美味しい話」があるとすれば、それは他人を騙して平気でいられる悪人どもにとってのみ、束の間、かりそめに存在し、朝露のごとく消え失せる、そんなものとして在るだけであろう。ゆめゆめ、「美味しい話」を「幸せの青い鳥」のごとく追い求めてはならぬと心得るべし。

 しかし、人間というのは度し難いもので、常に、自分だけは別という、気づいてみれば何の根拠もない「視点」で動いてしまうものである。逆にこれがあるから生きられるというものなのかもしれないが、それにしても危ない。高層ビルの屋上の縁に目をつむって立つほどに危ないことである。
 そこを冷ややかに睨むヤツが、他人を「食いもの」にしようとさまざまな新手の「ワナ」を仕掛け、虎視眈々として蠢いているわけだ。
 ちなみに今朝のゴミ・メールの「欲」絡みの一端を記せば、以下のとおり。(いずれも、「未承諾広告※」の表示がなく、「特定電子メールの送信の適正化等に関する法律」(特定電子メール法)違反のメールであり、総務省の措置命令に従わない場合には「50万円以下の罰金」に相当するものだという点も併記しておこう。)

<【独占広告】そろそろ、安心、確実な収入目指しませんか?>
<■ワーキングプアの時代がくる?>
<★ 41歳、シングルママがはじめた在宅ワーク ★>
<★ こんな私にもできた!在宅ビジネス! ★>
<完全自宅で副業 最新版>
<子育てママも週給生活です!!>
<【独占広告】これで人生復活できます!>
<【独占広告】●本物の権利的収入を得るチャンス!●>
<◆即金1万円支給!! ビジネス代理店急募!!>
etc.

 さっそく「ワーキングプアの時代」がやってくるとして「ファイナンシャル」を勧める厚顔さには恐れ入る。また、「在宅」というワードで孤立した主婦を狙う悪の常套手段も嫌悪感を逆撫でする。
 こんなバカな手口に引っかかりはしないと高を括ってはいけないのかもしれぬ。反応が無ければ敵も手を引くはずだが、何がしかのレスポンスを無しとはしないのであろう。だから、発信を続けているのだと見える。

 自分の「勘ばたらき」では、こんなに荒廃した世相にあっては、貧する弱者がまるで蟻地獄に落ちるかのごとくますます悪の食いものにされていくものと想像する。そんなことはあってほしくないのだが、残念ながら起こる確率の低くないのがシビァな現実でありそうだ。希望を抱くという人間本来のメリットが、こんな時代環境では裏目に出てしまうのであろう。まやかしの、些細な可能性にも過剰な期待をしてしまうからだ。
 現に、ある知人が、逆境の中で、さらなるまやかしビジネスに関与しそうになっている話を聞くに及んだものである。その藁にもすがる挑戦が、裏目に出ないことを祈るばかりである。

 現在は、とにかく危ない時期なのである。株の話でも、相場全体が不安定で渋っている状況、つまり「地合(じあい)」が悪い際には、万事、読みが外れて裏目に転じることが多いという。それなりの根拠がありそうな気がしている。
 何によらず全体環境が悪い時にこそ、人一倍欲の皮が突っ張った連中は、真っ先に蠢きはじめるものと見える。もちろん、まともな手段でではなく、悪の限りを尽くした画策をもってである。
 欲も悪知恵もこじんまりとしているに違いない庶民、それが健全で良いのだが、そうした庶民は、勝手のわかった日常生活を地道に守ること以外に目をくれてはならないのだと思う。不器用でも、貧しくとも、その路線で押して行くほかはない。そして、それをも壊そうとする政治的暴力が訪れている場合には、静かに「ノン」という意思表示を突きつけてさえやればいい…… (2006.07.25)


 「知らない」「知らされていない」という状況に愕然とする思いがした。
 昨夜、先日放送されたNHKの番組『ワーキングプア』の録画DVDをじっくりと観直して得た主たる感想である。現時点のこの国のデタラメさがどんなに酷いものであるか、大方の国民はまったく知らされておらず完全に蚊帳の外に置かれていたことになる。
 この「手口」が、現代のまやかしの典型なのだと思えた。コイズミ劇場のまやかしとは、その背後でより大きな構造的なまやかしが展開されていくための露払いであったということなのである。

 つまり、一方で社会環境の深刻な真実を国民に知らせずにおき、楽観をも許すムード作りをしておく。シビァな社会現象には目を向けさせないようにしておくわけだ。
 「景気上向き」「景気回復」という呪文の言葉も最大限に吹聴され続けた。
 もとより、「景気」という言葉の内実が、大きく変質していることだって伏せられて来たわけだ。かつてのこの国の経済であれば、「景気」が良くなれば、多くの国民がその恩恵に与れる性格のものであっただろう。だから、庶民もひたすら「景気」が良くなることを願い、そのための我慢や努力であれば惜しまなかったはずである。

 しかし、ここへ来て明々白々となっていることは、言われるところの「景気」とは、大企業群の収益向上以外ではなく、そのために中下層の経済活動がしわ寄せを喰らっているという事実である。最下層に至っては、まさに「生活保護」水準以下の貧困に追い込まれているという、とんでもないしわ寄せなのである。
 上記番組に登場したのは、路上生活を余儀なくされた30代の若者たちの姿や、不安定な条件で生活費かつかつを稼ぐ父親や、そのもとで将来への希望も奪われた中・高生の子たちの姿、さらに家庭崩壊で施設に預けられている子どもたちの様子。そのほかにも、さびれさせられた地方都市で自営業を営む多くの人たちが、税金支払い能力さえなくなる困窮状態に追い込まれ、生活保護を受けるには認知症の妻の葬式代のための貯金も取り崩さなければならない不合理。見ていて、ここまでの「悪化」が、なぜもっと早く取り上げられて来なかったのかと、重病の患者を診る医者の心境のようになったものである。

 人が好いために、「みんな」が良くなることをいつも優先させがちな美徳を持ったこの国の庶民たちは、ひたすらに、「みんな」が良くなる「景気回復」に期待を寄せ、そのために「痛み」に耐えることも辞さないできたはずである。にもかかわらず、「みんな」という言葉の内実は、いつの間にか「自己努力をしたものだけ」に置き換えられて行った。そしてやがて「国際競争力のある企業だけ」に摩り替えられたと見える。
 そして、現実に気がついてみると、自分たちは抜き差しならないほどの苦境のただ中、失地回復不能な袋小路に追い込まれていた、ということなのである。
 そこまで「いじめられ」「無視され」ることとなった人々は、「自己努力」が不足した者たちなのだと、現在の政治と社会は決めつけたいようである。あるいは、そこまで言わないとしても、「財政難」という「印籠」だけは突きつけずにおかない。

 経済不況であえぎ続け気持ちに余裕を失った国民に、真実を知らせずに気を逸らさせたり、まやかしの絵空事を並べ立てつつ、あっと言う間に、這い上がれない「経済的・社会的格差」をしっかりと既成事実化した、それが、コイズミ「構造改革」路線であったということになる。
 決してそこまで小泉首相に「力量」があったわけではないと見ているが、その彼に息吹を吹き込んだのは、米国政府による「日本改造路線」(「日米構造協議」−「年次改革要望書」 c.f.関岡英之『拒否できない日本』)であり、そしてこの国の不甲斐ないマス・メディアだったと強く確信する。現在のマス・メディアこそは、国民が環境の真実を知るための重要な責務を担っているにもかかわらず、万事、政府権力に迎合しつつ商業主義的メリットだけを追求する、あたかも重病を抱えた患者に「お為ごかし」で応じる悪徳医者そのもののように見える。
 もうすぐ終戦記念日だが、今、最も警戒すべきは、戦争協力の役割りを果たした当時のマス・メディア、ジャーナリズムが、決して自己の過ちを是正してはいないと思われる点である。
 ジャーナリストたちすべてがおかしいわけではなかろう。たとえば、今回のNHKの番組にしても、まともな職員たちの努力がなければ果たせなかっただろうとは、十分に想像できるからである。真実を追究し、その向こう側にしか「みんな」が希望の持てる未来はないと心得るジャーナリストが増えることを願う…… (2006.07.26)


 蒸し暑さは相変わらずであるが、曇天で陽射しがないだけいくらか過ごしやすいか。また今日は、昨夜の睡眠が良好であったためか、気分に透明感がある。眠りの質いかんでこんなにも様子が変わってしまうのだと、いまさらのように気づかされた。
 眠りの質を高めるためには、早く床に就いた方が良さそうだが、必ずしもそうではない。ヘンな表現であるが、むしろ睡眠を「両端から圧迫する」のが良策のようだ。つまり、夜更けは眠くなるまでギリギリ起きていること。そして、朝はいま少し寝ていたい気分を振り切り眠いままで早起きをしてしまうこと。こうして、睡眠の両端から「圧縮」を加えると、あわよくば睡眠の質が高まることになるのである。下手をすれば、睡眠不足で次の日をおじゃんにするリスクもなくはないが……。

 昼食のために表に出て駅前の方に向かうと、赤ん坊をベビーカーに乗せた母親や、幼稚園以前の小さな子を伴った親子連れをしばしば目にする。
 そんな赤ん坊や小さな子の姿を見ていると、保護者である母親に頼りきったその無防備さが何とも感動的でさえある。自らが被ることはあっても、決して他人には危害なぞを加えるはずのない、その弱々しさが「立派だ」とさえ見えたりするのである。
 重そうな頭を載せるにはあまりにも貧弱なボディが、それに見合ったちっちゃなTシャツを羽織っており、プックリと膨らんだ四肢がそこから延びていて、まるで細長いゴム風船のようなか弱さを感じさせる。
 外界を、真面目に、まっすぐに見つめているその顔も、表情が不足しているとは思えるものの、大人たちの苦渋で歪んだ複雑な表情とはまるで異なる。これらを総称して、かわいいと言うのだろうが、確かに、実にかわいいものだ。

 そうした汚れ無き子どもたちと、だからこそ惜しみない情愛を注ぐ親たちの様子を見ると、このプロトタイプ(原型)が、どのような事情を重ねながら、TVなどで報じられる極悪事件の容疑者たちへと変貌して行ってしまうのかと、ふと考えることがある。
 よく言われるごとく、親たちは、決してそんなはぐれ者になってしまうことを望んではいなかったどころか、想像だにしていなかっただろう。
 また、本人も、もし「プックリと膨らんだ四肢」を持つ小さな、小さな自分自身を思い出せていたならば、過ちをより大きな過ちで塗りつぶすだけのようなわけのわからない半生を過ごし、行き止まりに逢着することもなかったのかもしれない。
 要するに、「プックリと膨らんだ四肢」を持つ小さな子どもたちは、どこかで「迷子」となってしまい、世界が新鮮さと優しさで輝いていたことをすっかりと忘れ去ってしまうのだろうか。そのプロトタイプの原点が、まるで束の間の夢でしかなかったかのように忘れ去られ、大事な原点が忘れ去られてしまったほとんど無意味なポイントと脈絡から、それしかない連鎖を伸ばし伸ばししながら、そしていつの間にかとんでもない場所へとたどり着いてしまうのだろうか。

 世間を騒がす容疑者たちのことだけを念頭に置いているわけではない。極論するならば、誰だって、自分とて人生のプロトタイプの原点から、すっきりとトレースできるような線の上を歩んでなぞ来なかったと言わざるをえない。
 せいぜい、歩んだ足跡に見いだされる確かなものは、一定の歩幅くらいなのかもしれぬ。それ以外は、その場とその時の事情の、言ってみれば「関数」以外ではなかったとしか言えそうにない。内側に秘められた「独立変数」(≒意志)なぞがあったとは到底言えないだろう。品悪く言うならば、成り行きであり、飾って言っても臨機応変というところであろうか。
 要するに、人の人生とは、二乗(事情)の二乗(事情)の二乗(事情)……だと感ぜざるをえないということなのである。

 こんなことを書きながら、脳裏に横たわっていた事柄は次のことであった。
 しつこいようだが、先日、気合を入れて観たTVドキュメンタリー「ワーキングプア」のいくつかの場面なのである。
 まだあどけなさを残してもいそうな30代の路上生活者たちの表情、定住する住所がないために、まともなというよりも職そのものにも就けず、たまたま見つかった面談のチャンスさえ電車賃がないために見送らなければならない惨め過ぎる惨めさ。
 繁華街のゴミ箱から捨てられた雑誌を拾い、それを一冊50円で買い上げてもらうことで命をつなぐ青年。4時間もかけてその日は8冊をさばき、カップ焼きそばを主食としていた。「4時間も歩き回って、食べるのはほんの5分ですよ」と自嘲。

 彼らにも、プロトタイプが確実にあったはずに違いない。穏やかな陽射しの中、母の慈愛に満ちた眼差しに包まれて過ごした、輝けるプロトタイプの時間が……。
 が、やがて二乗(事情)の二乗(事情)の二乗(事情)が重なってゆき、ついに本人にも信じられない現実にたどりついてしまった、というのが、彼らだということなのであろう。そして、彼らは氷山の一角でしか過ぎない模様である。
 思うに、これまでの時代にあった人生という不可解な「数式」にも、確かに込み入った四則(+−×÷)が入り乱れてはいたと思われる。が、その末尾で「ご破算と願いましては〜」というごとき意味を持つ「×ゼロ」で駄目押しをする惨いケースは多かったであろうか。残念ながら、現代のこの国では、そうした非情なことが行われはじめているかのようである。人生のプロトタイプの感動すら遠目でやり過ごそうとする若いカップルたちがいたとしても不思議ではないと言えようか…… (2006.07.27)


 つい先ほどから、一羽のカラスが電柱のてっぺんで遊んでいる。デスクに向かって座っていてひょいと見上げると窓から見える電柱である。
 時々、独り言のように小声で「カァー」と鳴いては、ブツブツ……、と言っているように見える。目を凝らすと、電柱のてっぺんに張られた電線の結節部分を、所在なくかじったりしているようでもある。

 今日は、ろくな食い物が見つからなかったナァ。近頃、人間どもはオレたちの餌になるものを徹頭徹尾隠すなんていうとんでもないことをしていやがる。よくねぇことだ。どこへ飛んでったって、ちょいと前までは食い物になるものを山積みにしていた箇所が小奇麗になっちまってるんだよナァ。中がどうなってるのか皆目見えないポリ袋の塊が積んであるだけときてる。おまけに、どっちかといえばオレたちが好きになれない網なんぞまでぶっかけていやがる。そんじゃ、手、いやくちばしの出しよう、挟みようがないんだよナァ……。あー、腹空いた。これじゃ、棲家まで飛んで帰れるかしらん……。チェッ、なんだこれは? この出っ張りはなんだっちゅーんだ。エイッ、かじったれっ。おっ、結構硬いぜ。歯、いやくちばしが立たないやんか。あーあ、やることなすこと、腹の立つことばっかだ。いや、腹が空き切ったから、腹は立たないか……?

 どうも、そんなふうに愚痴っていたようだったが、つい今しがた、気を取り直してお宿の方へなのだろうが、飛んで行った。

 このところの株の値動きについては「方向感のない……」という表現がしばしばなされているようだ。なんとなくわかるような気がする。
 もっとも、株の値動きというものについては、今までは、マーケット関係者や専門家諸氏が言うようなもっともらしい事象で牽引されているのかと思っていたが、どうも、意外とチャートの上下動の気配だけに引き摺られているようにも見える。評論する者たちは、「方向感のない……」動きだとばかり言っていては商売にならないので、比較的説得力のありそうな事象を無理矢理関連づけていそうでもある。それは屁理屈というものだよ、と言いたくなってしまうような解説を目にしたこともしばしばあるからだ。
 しかし、このところの株の値動きは、まさしく「方向感のない……」という表現を使いたい衝動に駆られるような不安定さがあるようだ。米国市場も国内市場も双方が同じであるようだ。やはり、米国経済の先行き不透明さや、原油価格に直接影響を及ぼす中東情勢の悪化など、決していい材料がないためであろうか。

 この「方向感」という言葉に、今日は関心を持とうとしているようである。
 今日の自分は、まさしく「方向感」が薄らぼんやりとしたままに一日を過ごしてしまった印象がある。
 こうしたものが、たとえ大したものではなくとも明瞭な状態になっていると、いわゆる「遣り甲斐」や「張り」というようなものが何がしか生まれてくるはずである。買い物に出かける人にしても、今日は、アレとアレとアレを買わなくちゃ、というふうにターゲットが定まっていると、べつにろくなものを買うわけじゃなくとも、さぁ行くべし! という気合が生まれてくるようだからおもしろいものだ。これが「方向感」と言っていいものなのである。

 たぶん、今、みんながこの「方向感」といったものを切に求めているのではなかろうか。走る方向はあっちだ! いや、そうではなくてこっちなのです! とかを言われたり、あるいは内なる声としてそんなものを聴きたがっていると思える。
 つまり、あまり魅力があるとも思えないありきたりの「方向」以外には、これといった熱い「方向感」が見当たらないのが、残念ながらの現状のような気がするのである。先に言っておけば、<あまり魅力があるとも思えないありきたりの「方向」>とは、稼がなければ生きてゆけないぞ! という脅し的であり、また信号のように分かり切ったメッセージのことなのである。こればかりが、際立つ時代なのかもしれない。きっと、子どもたちが親から聞くメッセージ、「勉強しなさい! そうしないとホームレスになっちゃうんだから……」というお定まりの文句と双子のメッセージのはずである。
 思うに、そのメッセージもまた人に「方向感」を与える大事なものであるに違いなかろう。「おかねは大事だよー」というふうに。

 にもかかわらず、現時点でなんとはなしに「方向感」というものを希薄に感じるのは、分かり切った<メイン・メッセージ>が、かつてのそれとは異なって「骨と皮だけ」になってしまっているからなのかもしれないと、ふと思ったりするのである。つまり、仕事や職業の持つ総合性、すなわち報酬を得るだけではなく自己能力の向上や社会的貢献という性格が、形骸化されてしまい、金を得る側面だけが肥大化してきている風潮のことなのである。その例としては、企業が社会的責任を放棄してユーザー、消費者を被害者に追い込んだりする事件や、マネーゲーム化した金融領域の傾向、そして庶民や若い世代が株取引を特別なこととは思わなくなった風潮などが思い当たる。
 これらが、「金がすべて」という空気の濃度を高めているのかもしれないが、同時に、このことによって人間が社会生活で感じ取ってきた生きることの「方向感」を蝕んでいるのかもしれない。
 金は稼がなければならないが、それだけを生きる「方向」として感じなければならない時代というのは、結局のところ「方向感」を欠いた雰囲気を必然的に随伴させるのかもしれない…… (2006.07.28)


 このところ、すっかり「ビデオ編集-DVD作成」に凝っている。今風に言えば「はまって」いる。昨晩から今日にかけても、その作業で書斎のPCの前に座りっきりだ。ただ、休日に汗を流さないわけには行かないので、作業の合間をぬうようにしてウォーキングだけはこなした。隣の町内会が盆踊り大会の準備に余念がない様子であった。
 上記作業にひき込まれている原因のひとつは、関連するアプリケーションツールのソフトをまだパーフェクトに使いこなすところにまでは至っていない点が挙げられかもしれない。まだ見えていない部分の残されているところが、挑戦心をくすぐられる理由でもありそうだ。そんなことで、昨晩は、ズルズルと夜更かしをさせられたりした。

 現在では、ひところに比べるとおおよそのアプリケーションソフトというものは、特別な専門知識やその種の経験がなくともそこそこのアウトプットが出せるというご時世になっている。そうでないと、ソフトユーザの裾野が広がらないし、ひいてはソフトを走らせるPC周辺ハードのユーザも増えないからであろう。これほどに、デジタルカメラやケータイが普及したのも、関連ソフトが限りなく扱い易くなり一般素人の守備範囲に収まることとなったからだと言える。いわゆる「バカチョン」方式の普及である。
 しかし、そうは言っても「バカチョン」方式のハード、ソフトが、台所用品ほどに何の懸念もなく手軽そのもので使える、とまでは言えないかもしれぬ。まあユーザ側の期待度にもよるのだろうけれど、お仕着せのレパートリーだけを楽しむのであれば問題は起こりようもない。

 だが、ああしたい、こうしたい、できればこんなこともやってみたい、といった自分側の希望を捨てきれない者には、何かとグレーゾーンな機能が目につくものである。そしてそれらに踏み込んで、ちょっとした冒険をしてしまうものである。
 ベンダーやメーカーにしたところが、「お仕着せのレパートリー」以外にユーザが踏み込んで、ややこしいことになるのを好まないわけだが、さりとて、それらにタッチできないようにしてしまうのもまた手数がかかり面倒だという事情もありそうだ。
 バカな話では、まさかそんな者がいるとも思えないのだが、CDを「かじる」ユーザを物理的に阻止する技術的な手立てを講じることはとんでもなく手間がかかるか、ほとんど不可能であろう。そこで、「これは食べ物ではありません」といったメッセージでお茶を濁すことがあるとか聞く。

 自分は、アプリケーションソフトに対して、どちらかと言えば過剰な期待を持ち込もうとするタイプである。つまり、ソフトに対して「欲張り」なのかもしれない。
 ある事を処理する場合には、こういう手立てがあってほしいと思ったり、いやなければならないはずだと決めつけたりするのである。それで、そうしたことが可能であるのかどうかを、マニュアルの行間を読むようにして探したり、あるいは実際にその種のことを試みてみたりするのである。
 そうすると、マニュアルには不問に付していたことが意外と可能(ベンダー側は責任を背負い込みたくないため不問に付していた?)であったり、そうでなくとも、そのソフトの使い勝手を自分なりに近道で体得したりすることにつながるのである。
 もっとも、事態はこうしたバラ色のケースばかりとは限ららない。いわゆる「余計なこと」をしでかしたがゆえのトラブルという惨めさになだれ込むこともないではない。

 そんなこんなで、「ビデオ編集-DVD作成」という趣味の作業を、今、関連ソフトをあれこれと試行錯誤しながら進めているわけである。
 こうしたことをやっていて感じることは、アプリケーションソフトに対するポジショニング、すなわち、どう対処するのかという事柄は、「対人関係」とほとんど同じことなのかもしれないと……。
 相手側が明示的に口にしたり、依頼したことだけに対応する分には、当方側の味気なさは残りつつも、トラブルらしきことは発生しようがなかろう。が、もし、自分側が期待したり望んだりすることにこだわるならば、思わぬ「お宝」を相手側に発見することもあるかわりに、差し出がましいと一蹴されるようなトラブルに帰結してしまうことも十分にあり得るからである。
 いま時の若い世代は、概して前者のポジショニングを好むようだが、自分の場合は、暑苦しい後者の方を断じて選びがちである。何かにつけて、サラリとは行かないのである…… (2006.07.29)


 梅雨明けになったそうだ。確かに今日の空は入道雲に似た夏らしい雲が発生しており、梅雨時の曇天とは異なっている。ウォーキングの際にも思わず、そんな雲を背景にした夏らしい光景にデジカメを向けたりしたものだ。さほど冷たくもないのだろうけれど、流れる川の水中を行き交う鯉たちに多少の羨望感を持ったりする。川に足を浸からせて嬉々として騒ぐ小学生らしき子どもたちも見かける。
 昨晩は、隅田川の花火大会でもあったことだし、いよいよ夏本番といった気配が濃厚となってきた。
 しかし、この間の気候はさえなかった。五月晴れがあったのかなかったのかという5月から、日照時間が短いという日が続き、そして梅雨に入ってしまった。曇天の日やら、豪雨の日はあったかに思うが、梅雨といってもしとしととした雨の日が続く梅雨らしい梅雨でもなかったのではなかろうか。
 こうして、この季節にはこんな天候といった常識的な季節の感覚までが裏切られるかのように自然が推移すると、ただでさえ季節文化が希薄となっているのに、あいまって支離滅裂となってしまうのであろうか。ますますもってさみしい思いとなる。

 夕飯時に見るともなくTVをかけると、アニメーションの「サザエさん」が映っていた。そのまま見ていると、マンガの世界というか、子ども向けの世界には豊潤な季節が現存していることに気づかされたりした。
 「タラちゃん」が、友だちから暑中見舞いの葉書をもらったことがきっかけとなり、「タラちゃん」もまた、朝顔の絵を描いたりして返事を出したり、あわせて隣のおじいさんには日毎伸びる朝顔の蔓を利用した短冊ふうの暑中お見舞いを出すといった話なのであった。
 先日も、七夕の前夜であったか近所の保育園の前をクルマで通った時、子どもたちにとっての季節文化がいまだ健在であることを知らされた。建物の玄関口の両側に、色とりどりの短冊をぶら下げた大きな笹が設えられてあったのだ。児童たちはどんな願いごとを書いていたのだろうかと思いをめぐらせたりしたものだった。

 言ってみれば、季節という自然に対して、子どもたちが最も寄り添っているのかもしれない。お次が、お中元、お歳暮セールなどを筆頭にして季節に便乗して商売を活気づかせる商いの業者たちということになろうか……。
 大人たち、とくにサラリーマンたちは、仕事に要求される効率性などから「脱(超)・季節」の一年間を過ごしがちなのかもしれない。どんなに戸外が暑かろうが寒かろうが、一定の室温のオフィスで季節にかかわりのない仕事効率を上げなければならないからだ。
 それに対して、子どもたちは、夏休みだ、冬休みだというものが指し示しているように、季節を肌身で引き受ける環境で過ごすことが一般的である。クーラー設置済みの教室という話も聞かないわけではないが、常温環境での学習生活が一般的なのだろうと思う。
 われわれが子どもの頃なぞは、まさに季節の移り変わりに寄り添って生活せざるを得なかったはずである。それが一年間の生活と生活観に、そして生活文化にリズムと彩りとをしっかりと与えていたかに思う。また、季節に密着した学校行事が、否応なく季節感を増幅させていたという事情もあろう。

 だが、生活環境の電化、合理化が進展するにおよび、なんとはなしに季節感が薄れる風潮が色濃くなって行ったかに思う。象徴的に言えば、扇風機とコタツが影をひそめて、クーラーやエアコンディショナーが普及することになったり、果物や野菜が季節に依存しなくなってしまった状況などから、季節感は次第に薄れて行くはめになったのかもしれない。
 ただ、そんな過程でも、子ども文化の中では、お定まりの季節感が年間季節行事などとセットになって再生産され続けた印象が残っている。
 自分も、子どもの頃を思い起こすと、子ども向け月刊誌やそのほか子ども向け漫画雑誌などを読む時に、希薄化しつつある自分の季節感が強化された覚えがある。とくに、夏休み、冬休み・お正月といったイベント向けの雑誌内容は、季節感をことさらに刺激するものだったかと記憶している。
 つまり、事実としての季節もさることながら、季節ないし季節の行事を前面に押し出す文化風潮が、子どもたちの季節感をアクティブにさせていたのかもしれない。

 やはり言うまでもないことだが、人間の生活にとって、自然の移り行きという季節の変化は必須の条件だと思う。とくに、この国で暮らす者にとっては、伝統文化との関係もあり、季節感は人情と並んで双璧をなす根底的な感性ではないかと思っている。だから、いずれもが有名無実化して行くかのような気配を感じるとさみしい思いがするわけだ…… (2006.07.30)


 昨今は、「不快感」を刺激されるニュース記事ばかりである。が、なるほどね、とホッとするような記事を見つけた。こういうのは、一服の清涼剤のようでいいなぁ、と思えた。ただ、昔の話だそうだが。

<昭和初期の消防犬「ぶん公」、小樽運河近くにブロンズ像>( asahi.com 2006.07.31 )というものだ。

< 昭和初期に北海道小樽市で人気者だった消防犬「ぶん公」のブロンズ像が7月、観光スポット「小樽運河」近くの市観光物産プラザ前広場にお目見えした。語呂が東京・渋谷の「ハチ公」と似ていることから、関係者は「若者や観光客の待ち合わせ場所になって、街の活性化に一役買ってくれれば」と願っている。
 ぶん公は雑種のオス。時期ははっきりしないが、火事の焼け跡でうろついていたところを消防士に拾われ、当時の市消防本部で飼われていた。消防士の行動をまねし、火事があると真っ先に消防車に飛び乗った。「出動」回数は1000回を超え、火災現場ではほえてやじ馬を追い払ったり、よじれたホースをくわえて直したりしたという。
 その活躍ぶりは当時、新聞やラジオで紹介され、死んだ後も、児童向けの本になった。 死んだのは1938(昭和13)年2月。24歳だったという。葬儀は消防葬として執り行われた。その後、剥製(はくせい)にされ、所蔵先の小樽市博物館が定期的に公開してきた。
 死後68年を経過し、名犬の存在を知る人が少なくなってきた。「イヌ年の今年、ぶん公の功績を後世に伝えよう」と、元消防団員らが中心になって記念碑の建設期成会を2月に立ち上げ、傷んだ剥製の修復費用を含めて約400万円を集めた。……>

 <ぶん公は雑種のオス>というのがまたいい。剥製にされた<ぶん公>の写真も掲載されているが、なるほど何の変哲もない、平凡な中型犬である。高齢化して死を迎えての剥製だからだろうか、どちらかといえば貧弱な様子でさえある。まさしく、その働きを売りにして必死で一生を駆け抜けた、という雰囲気が伝わってくる。働き者の「庶民犬」といったところだ。
 <火事があると真っ先に消防車に飛び乗った>というのも、何ともほほえましい。賢い犬にはありそうなことだ。恩返しという気持ちもあったのだろうが、自分を拾ってくれた消防士たちととにかく一緒に行動したかったに違いない。
 <火災現場ではほえてやじ馬を追い払ったり>というのは、可笑しい。「さぁさぁ、あんたたち、邪魔だってばさぁ。そんなこと人間なのにわかんないの、バァーカ。ハイハイ、あっち行ってあっち行って!」とでも言っていたのだろう。
 <死んだ後も、児童向けの本になった>とあるが、これもよし。こういう賢い動物の話が好きなのは、自分のような世を拗ねたオヤジだけじゃない。子どもたちこそは喝采あげて褒め称え、そしてそうした動物に負けまいと張り切るのだ。

 しかし、拍手喝采ものが、「大昔」のワンちゃんであったり、<ど根性ダイコン>であったりと、とにかく同じ種族の人間じゃなくなっているのが、またまた可笑し、哀し…… (2006.07.31)