人間は、自然を優越し、超克した生物だと目されているが、どうも、「自然の方がまだまし!」と思わせるような社会状況、世界情勢になってしまっていそうだ。これが実感として湧いてくるほどに醜い世相である。人々にとっての問題は、「美的感性」なんぞといった高尚なものではないかもしれない。
人は見るに堪えない、聞くに堪えない事柄を称して「畜生道」と言ったりしてきたが、それでは「畜生」たちが気を悪くするような悪辣なことが罷り通っていそうである。自然の生きものの水準未満の地獄模様を展開しているのが、現在の人間たちなのか。
先ず、「やっぱり!」という不快な思いが突き上がってくる事件であった。秋田県で引き起こされた、33歳の母親による、我が子の殺害、その後の隠蔽工作と思しき別の子どもの殺害やそれに絡んで不可解な行動を重ねた事件のことだ。
子殺しの動機として伝えられている情報では、自分が生きるために「疎ましくなった」とあるが、さらにかまびすしいマス・メディアは、保険金殺人ならぬ、「犯罪被害者給付金」(1,573〜320万円)制度の悪用まで意図していたのかとも伝えたりしている。
こうなると、まともな人たちが乱された心を癒すには、「一服の清涼剤」では済みそうもない。「清涼剤」のプールにでも飛び込んで、溺れるようにでも飲まなければ治りそうもなさそうだ。
昨今は、事もなげに子が親を殺害する事件が頻発している。また、親が子を殺害する事件でも、今回のケースのちょっと以前に、浪費癖の強い母親が娘さんを殺害するという痛ましい事件もあった。よくはわからないが、この母親の殺害動機もまた、自身だけが生き(延び)る意図と無関係ではなさそうだとかだ。
自然の生きものが保持している「母性本能」が、人為的に作り出された文化・文明という人間環境によって脆くも打ち壊されてしまっているように見えるのである。
これらは、決して犯罪者たちの生物学的個体の異変によるものなんぞではない。明らかに、人間個人を異常行動へと追い込む本末転倒した人為的環境、文化・文明そのものが垂れ流している害毒による汚染以外ではないはずだ。さらに各論的に補足するならば、常識的な文化・文明に、特殊な味付けをした現在の政治自体が作用していることを強調したいと思う。
「政治の目的は善が為し易く悪の為し難い社会をつくることである」(グラッドストーン、19世紀英国の政治家/この格言は後述のサイトにて発見)という言葉があるようだが、現在の、とりわけ小泉内閣組閣以来の政治は、「悪が為し易く善の為し難い社会」環境を、まやかしの言辞を弄して急速にでっち上げて来たと言うべきである。
昨今はこの種の糾弾を事細かく述べることに新鮮な気分が失われがちとなっているため、以下の引用にて代替したいと思う。それは、自分が最近目を通すことになったとあるサイトからの一文であり、なぜ人々は、このサイトの主催者である「森田実」氏のような「まともな感性」が持てないのだろうかと訝しく思っている。
<7月7日、小泉内閣が閣議決定した「骨太の方針」は、「官から民へ」のまやかしのスローガンのもとで行ってきた小泉内閣の無責任政治の集大成である。2007年春の統一地方選挙と同年夏の参議院議員選挙を意識して、本心ではやりたいのに消費税の引き上げを先送りし、その代わりに、地方財政をさらに圧迫し、社会保障予算を減らし、その上国民の共有財産である国有財産を投げ売りしようという計画である。国有財産の投げ売りは、新たな利権集団を生み出している。ひどいことが行われようとしている。監視しなければならない。アメリカ大資本への投げ売り的大安売りが行われるおそれがある。
小泉政治とは、ブッシュ米大統領を喜ばすだけの政治であり、日本国民の利益に反する政治である。こんな「売国的政治」を日本のマスコミは支持している。マスコミの罪は大きい。マスコミは国民の敵である。
「財政再建」の美名のもとで行われている日本国民窮乏化政策を、暴かなくてはならぬ。>(サイト:「森田実の時代を斬る」http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/TEST03.HTML より)
社会面で報道される奇異な事件は、決して何の脈絡もなく発生するものではないと思われる。それは、社会環境がかく汗のようなものであり、昨今の汗には血が滲んだものが多く、それほどに社会環境自体が疲弊して病んでいるということに違いない…… (2006.07.18)