以前に、邦画『はだかっ子』( 創作少年文学・近藤健原作、田坂具隆監督、木暮実千代、有馬稲子出演、1961年作品 )について書いた。
<これは小学生当時に原作も映画もともに鑑賞して元気づけられたものであったが、その当時のなつかしい生活風景がまさにリアルに映っているのにはうれしい驚きであった。>と。
確かにそうなのであるが、今日は多少のんびりとした気分に任せてこのビデオをじっくりと鑑賞してみた。そして、痛感したことは、この作品に残り、残念ながら現在のこの国から失われてしまったかに見えるものは、ただ単に<当時のなつかしい生活風景>だけではなさそうだ、ということであった。
実は、この作品は、単に母を亡くすことになりながら元気に生きようとする少年をめぐる物語であるだけでなく、二度と悲惨な戦争を引き起こすまいとする当時の人々の願いと決意が込められた格調高い映画だったのである。戦後の傷跡が否応なく浮き彫りにされながらも、戦後民主主義の初々しいばかりの前向きな空気、その文化と、戦争を憎む気風とが、まるで新緑が映えるように全編にみなぎっている。その几帳面と言えるほどに前向きな印象は、「悪びれてしまった」かにも見える現在のわれわれからすれば、多少気恥ずかしい気分さえかもしださずにはおかないほどかもしれない。
つまり、昭和30年代にはあって、現在失われてしまったかもしれないものとは、単に<当時のなつかしい生活風景>だけではなく、真正面から戦争の再来を許さないというその気風と決意ではないのかと自問したのであった。
当時の反戦意識は、戦争で被害を受けた不幸な人々の実感と、平和憲法や国際平和運動という高く掲げられた御旗によって受肉していたと言える。この映画でも、戦争で親を亡くした子供たちが前者を表現し、ユネスコ村への遠足という象徴的な場面が、後者を見事に指し示している。UNESCO(United Nations Educational,Scientific,and Cultural Organization 国連教育科学文化機関。教育・科学・文化を通じて諸国間の協力を促進し、それにより平和と安全保障に寄与することを目的に、1946年に成立)は、国際平和推進の中心たる国連のひとつの重要な顔であったはずである。
前者については、戦争体験の「風化」という情けない事態が広がりつつあるし、国際平和運動についても、そのリーダー格であった米国自体が国連を無力化させる動きに出てしまうほどに混乱してしまっている。
現在の日本政府が、どんな大義名分を掲げているのかは何とも理解に苦しむのであるが、そんなことをもって、羅針盤を失ったかに見えてならない米国の外交姿勢に諸手を上げて追随している。その挙句に、国民の多大な犠牲のもとに到達した「平和憲法」を「改悪」するリアルな段取りを着々とごり押ししているありさまである。
すでに、戦後の決意とその体制は、換骨奪胎されはじめている、いや、「基礎工事」はあらかた済んでいる状況なのかもしれない。「靖国参拝」なぞというのはアナクロニズム以外ではないはずなのに、まことしやかな顔をしてそのパフォーマンスを演じている者は、単なる個人的な跳ね上がりなんぞではない。しっかりと「お墨付き」を得ながら、「くそリアルポリティックス」のレールを走っているに違いないと言うべきだろう。「靖国参拝」は、「自衛隊の交戦権」と対をなし、「平和憲法」を覆すテコ以外ではないはずだ。そしてそれらが、もはやフィニッシュ! を決め込む寸前のところにまで来ているというのに、それを凝視している国民はいかほど存在するのであろうか……。
これが、前述の、昭和30年代の邦画の記念碑的映画のひとつである『はだかっ子』には脈打っていたが、もはや失われたに等しいと残念に思う点だったのである。
ところで、今日という日曜日、御用提灯を掲げたマス・メディア、政府がプロデューサーのマス・メディアは、三点セットで国民視聴者を囲い込むようなアクションを繰り広げていた印象を受けた。
その1、「村上ファンド」総帥村上氏に捜査の手が及んでいることを報じ、国は決して経済の「行過ぎた」自由主義を許してはいないぞ、とでもアピールしているかのように見えるのだった。
その2、「秋田県の男児殺害事件」に関して、「任意」の段階でありながら家宅捜査に及んだことである。ここでも、治安の乱れに警察は遅れをとってはいないというアピールがなされたかに思えた。なぜ、「任意」の段階で? という点と、なぜ今日という日曜日でなくてはならなかったかということなのである。成り行きか、偶然か、それとも……。
その3、次期首相と目される「安部」氏が、早朝から各局の報道番組で生出演して、大々的なキャンペーンを張っていた。タカの牙丸出しの現政権にとって、どうしてもその後継者はやはりタカの子でなければならないのだろう。そのアピールは、国家権力「健在」を強調できる上記二点と共鳴し合ってなされるのが上々と誰かが考えたとしてもわからぬではない。
まして、来週ともなれば、国民の関心は政治なんぞに集まりようがなくなってしまうからだ。「ワールドカップ」のバカ騒ぎが始まるであろうから……。それにしても、マス・メディアをとことん駆使する現在の政権の蠢きはハンパではない気配を感じる…… (2006.06.04)