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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2006年06月の日誌 ‥‥‥‥

2006/06/01/ (木)  「ぱっと見」の外見ポーズをいけしゃあしゃあと……
2006/06/02/ (金)  掛け違ったボタンがどれだったかもわからなくなったか……
2006/06/03/ (土)  ノラ猫親子の必死の魔力?
2006/06/04/ (日)  『はだかっ子』のごとく、親を亡くしても元気に立ち上がるべし!
2006/06/05/ (月)  「キメラ」の忌避こそが大原理であったはずなのだ……
2006/06/06/ (火)  「巨額な資金と組織的なアクション」に対して、しがない個人たちは……
2006/06/07/ (水)  「正しく、美しい」「政治的動物」であることは可能なのか?
2006/06/08/ (木)  きっと、案ずるより産むが易し……
2006/06/09/ (金)  感動乏しき時代には、「自然」と「映画」でサプリメント?
2006/06/10/ (土)  文句なく、現代医学に感嘆!
2006/06/11/ (日)  ビデオ・テープ(アナログ・データ)のDVD化(デジタル化)
2006/06/12/ (月)  「健康、体力、気力」→「人生に必要なのは、愛と勇気と少しのお金」!
2006/06/13/ (火)  「この株価軟調は持続的」らしい……
2006/06/14/ (水)  「ランダムアクセス」と「シーケンシャルアクセス」
2006/06/15/ (木)  過去に遡ってでも「文化」を探す必要が生まれた現状?
2006/06/16/ (金)  「沈没船」さながらのこの国の末期症状?
2006/06/17/ (土)  何はともあれ……
2006/06/18/ (日)  「泣きっ面に蜂!」という按配の難事続き……
2006/06/19/ (月)  PCの振る舞いも人間と変わらないのかもしれない……
2006/06/20/ (火)  どこでもここでも「甘やかし」がまかり通る……
2006/06/21/ (水)  わからないことをわからないままに生きなければならないわれわれ……
2006/06/22/ (木)  1968年の昨日は何の日、「御茶ノ水カルチェラタン」!
2006/06/23/ (金)  「金で買えないものがある」という命題を、黒板にチョークで証明せよ!
2006/06/24/ (土)  「他愛のないこと」を取り除いた人生なんてものは……
2006/06/25/ (日)  ちょっとは、犬のようになってもいいのかも?
2006/06/26/ (月)  「次世代」家電製品だけでなく、「次世代」人間もまた……
2006/06/27/ (火)  「わかったつもり」でいることの方がはるかに問題だ!
2006/06/28/ (水)  デメリットは黙殺、潜在的メリットにこそ注目すべし!
2006/06/29/ (木)  「あたし、ワカンナーイ」を口癖にする「こいのぼり」ギャル?
2006/06/30/ (金)  「おのれの心の楽しみとす。これを智と称する」






 やはり、誰がウソを吹聴して事態を混乱させているのかを、細心の注意を払って見抜かなければ、時代状況は日毎に悪化していくに違いない。
 昨夜、「その時歴史が動いた」(NHK)を聴いた。TV番組を観たというのではなく、聴いたというのは、たまたま入浴する時間であったので風呂場にラジオを持ち込んで聴いたということなのである。
 こんなことを言っては何であるが、生活時間を狂わせてまで観る内容ではなかろうと端から疑問視していたのである。内容は、「第254回 これは正義の戦いか 〜ジャーナリストたちのベトナム戦争〜」なのであった。
 NHKに、「ジャーナリスト」がどうのこうのと言ってもらいたくはないというのがホンネの気分なのであった。
 報道番組の内容を歪め(「慰安婦」番組改変疑惑!)、自民党とのダーティな関係を匂わせたり、ニュース報道の最中に長々と朝日新聞を名指しで誹謗したりと見苦しい「ジャーナリスト」ぶりを曝け出してきたNHKが、どんな顔してこのような崇高な番組を展開し得るのか、そこが釈然としなかったのである。

 この番組のテーマは、

<ベトナム戦争では、当初アメリカのジャーナリストたちは政府が掲げた戦争の大義を信じていた。しかし、戦場でその実態を目の当たりにすると、次第に軍と政府に疑念を抱いていった。CBSニュースキャスターのウォルター・クロンカイトそしてニューヨークタイムズ記者のデイビッド・ハルバースタムやUPI記者のニール・シーハンらは、報道を通してアメリカ政府を追いつめていく。そして政府と報道の対決は、ついに連邦最高裁に持ち込まれた。ジャーナリストたちの葛藤と挑戦を通してベトナム戦争を描く。>

というもので、権力の横暴に抗(あらが)って、国民のために真実を追究した真のジャーナリストたちの勇敢な姿を描くものである。だから、番組としてはナンクセをつけるべきものではないのである。
 しかし、どうにもこの「いい子ぶった」スタンスが、「きむい!(きもい+さむい)」というわけなのである。あたかも、NHKは、クロンカイトやニール・シーハンと同じサイドで果敢に権力と抗っているかのような錯覚を与えてしまうではないか。特に昨今の「幼い」視聴者たちは、「そうか、さすがNHKは骨がある!」なんぞと、勘違いしてしまうに違いない。冗談じゃない、そんな骨なんぞ無いばかりか、小骨さえピンセットで器用に排除してしまっているのがNHKの上層部の体質だと言うべきだろう。ましな番組があるとするならば、それは皆、そうした上層部と抗う現場の職員たちの努力というべきであろう。

 ところで、あえてこうした「切り口」でナンクセをつけるのは、こうした「まぎらわしい手法」こそが、現在のメディア環境をどうしようもないほどに見通しを悪くさせていると感じるからなのである。
 つまり、真っ赤なウソ、真紅のウソでなければ、あるいは、「これはウソなのです!」という字幕が入らなければウソだと受けとめられないほどに、それほどに真贋力を喪失してしまった「幼い」視聴者が増えたご時世では、「ぱっと見」の外見ポーズをいけしゃあしゃあと形作れば、それはそれで通ってしまうからなのである。
 ここが、「アブナイ」時代の最も「アブナイ」実情なのだと痛感している。ウソも百回繰り返せば……とか、ウソも胸を張って躊躇することなく言い放てば……、というようなアンビリーバブルな現実が、思いのほか蔓延しているのが現状ではないかと痛感するからなのである。いや、何も、時の総理がその代表だなどとおこがましいことまでは言いたくはない。

 ところで、上記の番組の中では、ベトナム戦争当時の米大統領ジョンソンやニクソンが、真のジャーナリストたちをどんなに抑圧しようとしていたかも披露されている。
「ハルバースタムやシーハンのような青二才のまねはするな。彼らは祖国の裏切り者だ。」とか、「君の部下たちは昨日アメリカの国旗に泥をぬってくれた」とかというジョンソンの発言が公表されているわけだ。
 しかし、そのジョンソンでさえ公式的な場面では、「ぱっと見」の外見ポーズをいけしゃあしゃあと形作るのである。
 番組でも紹介されたのは、68年4月1日の全米放送人会議でのジョンソン大統領の発言である。

「この国がうまくいくかどうかは、真実を広めるメディアにかかっています。その真実に基づいて民主主義の決定はなされるのです。アメリカの報道機関は、真実を知らせる自由と誠実さ、そして責任を決して妥協することなく、保たなくてはならないのです。」

 まったくここまで「ぱっと見」の外見を決めるのだからあきれ返ってしまう。
 だから、人々は、疑り深いやつだと非難の眼差しが向けられるほどに、猜疑心旺盛な眼をしていなければならないということなのである。そこまで、権力に絡むウソというものは「華々しく華麗に」放たれるというのが現実なのである。

 しかし、ニクソンが拒否し続けた73年の終戦宣言は、ベトナムの人々だけではなく、米国国民、いや米国政府にとっても、最良の判断であったことは、歴史を振り返る者にとって周知の事実となっているはずである。これは、勇敢なジャーナリストたちの報道によって真実が知らされたからこそ実現された事ではなかったかと理解できる。
 湾岸戦争の際に、前述のシーハン氏はインタビューの中で以下のように語ったという。

「国民が政府の政策を支持すべきかどうか迷っている時、政府はその目撃者であるジャーナリストを排除したがる。だからこそ私たちジャーナリストは、勇気を持ち真実を追究し、戦い続けなくてはならない。いつも成功するとは限らないが、報道なしには成功もないのだ。」

 まさに、勇気あるジャーナリストたちがいなければ、国民は容易に間違った破滅的な判断へと引き込まれてしまう危険があるということである。

 だが、問題は、歴史的な過去に位置するベトナム戦争でも、湾岸戦争でもなく、未だに泥沼化しているイラク情勢とその今後こそが、真実を射抜く目で凝視されなければならないということになるのだろう。
 そして、日本の問題としては、自衛隊を使ってまでイラク戦争を支持し、その自衛隊の行動を合法化すべく「憲法改悪」にまで踏み切ろうとしている「アブナイ」今を、ジャーナリストたちは、もっと国民の立場に断ち切って真実を報道すべきだと考える。
 ドラマチックな勇気なんぞ必要ではないのではなかろうか。この国の悪慣行である「記者クラブ」や「番記者」というアンビリーバブルな仕組みを改革しさえすればいい。それらを「ぶっ壊す」ことができないとすれば、おそらく良識ある国民は、市場主義の原理の中でマス・メディアへの不買行動をジワジワと押し進めて行くに違いなかろう。
 本当に、昨今は、この国の将来を閉ざしているのは、米国でも現日本政府でもなく、何ら国民の聡明な判断のために役立っていないマス・メディアだと痛感することになった…… (2006.06.01)
 ※ 引用の部分は、NHKサイト( http://www.nhk.or.jp/sonotoki/ )より。


 民主党は、「共謀罪」法案の採決を「急ぎばたらき」的に急ぐ自民党に「共謀」しないそうだ。その方がいい。こうした悪法は自民党だけが躍起になっていることを国民に対して鮮明にしておいた方が賢い。今や、「わかりやすい」スタンスを示すことが何よりも大事なのである。と言っても、別に自分は民主党の支持者というわけでもない。ただ単に、絵に描いたバカたちの勝手放題が気に入らないだけである。
 国内の社会問題がとっくに危険水域に滑り込んでいるというのに、何が「テロ」だ、何が「国際平和」なんだ。まるで、自分自身の家庭で家庭内暴力や離婚問題や、はたまた失業問題とありとあらゆる家庭問題を抱えていながら、そんな切羽詰まったことは省みず、やれ町内の祭りだ、町内会で推す先生の選挙応援だと自身の面子のためだけに走り回っている能天気なオッサンの仕業と変わらないではないか。

 こう言うと、おまえは現在の世界情勢がわかっていない、テロ組織によって国際平和が撹乱されている緊迫した国際平和問題がわかっていない、とでも八つ当たりされそうである。
 冗談じゃない。国際平和を散々撹乱したのは一体、どこの誰なんだい? そんな先制攻撃的な手前サイドの過去は背後に隠しておいて、そうした挑発が遠因となっているとも見なせる不幸な事柄を、これ見よがしに吹聴して国民の恐怖感だけを煽り、ドサクサまぎれに一般国民を監視し、弾圧できるような悪法をでっち上げようなどというのは、ちょいとムチャクチャもいいところなんじゃないかい。
 自分が思い浮かべるイメージとしては、野生動物たちが棲息する原野に、何の権利があってのことか勝手に入り込み、自然秩序を壊し放題に壊し、それで野生動物たちが人間を襲うから危険だと叫んでいるバカそのものの姿である。生物界の「棲み分け」という基本原理まで、手前の都合でどうにでもなると思っているその傲慢さが何とも感性を逆撫でしてくれる。

 つまり、今、「共謀罪」立法化を意図するのは、「テロ」組織の連中が「テロ」行動を「共謀」する兆候を事前に把握したり、抑止したりということなんだろうが、それは看板の表側の問題なのであろう。
 法律とは、「おクスリ」のようなものだと了解している。それによって、病原菌自体を撲滅したり、身体側に免疫力その他の抵抗力をつけたりして病気を沈静化させるわけだ。だがしかし、「クスリ」は常に「副作用」を伴う。そうでない「クスリ」はあり得ないと言われている。
 これにたとえれば、「共謀罪」を取り締まる法というのは、従来から、犯罪というものが形として目に見えるものを指してきたのに対して、起こすかもしれないという内的な観念の問題に、乱暴にもお縄をかけようとするものだろう。いわゆる「未遂」罪以前の不確かもいいところである段階に踏み込もうというのだから、大したものである。
 まるで、国家は神にでもなったつもりでいるのだろうか。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」とは、イエスの有名な言葉だが、この言葉が似合うのは神の子イエスだけである。一体どうやって、内的観念と起こされてはいないが起こされるはずだとする犯罪との科学的因果関係を立証するのかである。
 こうした難問があるにもかかわらず、「エイヤッ」と立法化しようとするから絵に描いたバカだと表現するわけなのだ。「おクスリ」でいえば、多大な「副作用」があるがために使用を見送ってきた事実をかなぐり捨て、人体実験に及ぶ狂気としか言えないのではなかろうか。

 勘繰り深い自分としては、この法律を「急ぎばたらき」的にせっつく者たちは、何か別なことを目論んでいるんではなかろうかとさえ感じる。患者の身体の安全など眼中にないどころか、クスリ漬けで患者を自身の生業の配下に置こうとする、そんなありがちなドクターに通じるものを否定しかねるのである。
 そもそも、「改革を止めるな」という政治言語と同様に、「テロ」撲滅という言葉の絶叫自体に、有無を言わせぬ言葉の仕掛けが隠されていたはずである。これに異論を唱える者は、イコール、テロリストだ! と決めつけようとするのがその仕掛けの仕組みである。「じゃあ、ハイジャックした航空機を高層ビルに突っ込んでもいいって言うわけ?」となりそうである。これはまるで、意地の悪い女性が、ちょっとした理屈を言われたら、「要するに、アタシのことが嫌いなわけね!」と開き直ることと何と酷似している没論理であることかと思う。

 ※ <……米国の大統領が先日漏らしてしまったように、いまや世界は第三次大戦のさなか、だとか。戦時動員体制となれば、敵か味方かを一方的に迫るスローガンが重要になるのも、統治者の論理からすれば当然か。
 言葉はひとりひとりの間を切り裂きもするし、その間を結び直しもする。いま、人びとが一方通行で見聞きさせられる数々の「政治の言葉」は、これまで編み継がれて来た関係の網の目を、将来編まれるだろう網の目を、繋ぎ直し不可能なような仕方で切り裂く。>(東京外国語大助教授 大川 正彦「政治に奪われた言葉」 朝日新聞 2006.05.31 夕刊記事より。ちょうどわたしが今抱いている問題意識と同様の見解に触れて、存外の共感を覚えた。)

 こんなふうなことと同様に、「共謀罪」の立法化は、世界を「テロ」組織集団と、これを敵視する正義の市民たちとに、くっきりと色分けしたいという願望の表れではないかと読めるわけだ。

「『テロ』組織集団の方は、床にしるされた赤い丸の方に、『テロ』撲滅に賛成の方は、床にしるされた青い丸の方に、合図とともに移動してください。なお、移動に躊躇する方のために、『共謀罪』判定器がありますのでそのつもりでいてください……」
 こんなゲームが仕掛けられていそうな気がしてならない。

 これでは、「テロ」撲滅の根本的な道理である、「憎悪のチェーンを断ち切る」ことからはますます遠のいてしまい、世界は修復不能の地獄以外ではなくなる…… (2006.06.02)


 あんなに愉快なことがあるのかと、昨日は大笑いしてしまった。
 事務所で夕刻、社員のひとりが、
「社長、関係ないことですけど、裏の空き地にノラ猫の母子(おやこ)がいます……」
と言ってきた。
 そこは、事務所のある建物のちょうど裏手にある小広い空き地であり、長らく放置されていて草ぼうぼうとなった場所である。うちの事務所の裏の窓からそこがよく覗けるのであり、空き地の隅にあたる窓の下には、およそ一坪程度の物置だけがあった。
 その社員の言うことには、その物置の土台に、7、8センチ四方の小さな穴があり、そこを出入り口にして物置の縁の下にそのノラ猫「母子家庭」がほそぼそ暮らしているようだということなのだった。
 なぜ、その社員がそうした「報告」をこのわたしにしてきたのかは定かではない。わたしが自宅で犬や猫を飼っていて動物好きであることを聞き知っていたのかもしれない。また、以前、町田駅の近辺の小さなビルの二階にPCショップを開いていた頃、その社員は店員役も務めたことがあった。その時、何をどう間違ったのか、とある真っ白な迷い犬が階段を駆け上り、店内にうれしそうに飛び込んできたことがあったりした。客たちは驚いていたが、わたしとその社員は驚いたというよりも滑稽さで笑ってしまい、おもしろがってしまった。二人とも動物が嫌いではなかったのである。そんなことをその社員は思い出していたのかもしれない。

「どこどこ……」
 わたしはちょうど手すきでもあったので、その窓際の方へと駆け寄っていた。
「物置の下の方に小さな穴がありますよね。さっき、そこへ親猫と小猫が入っていったんです」
「うまいところを見つけたもんだ。えーと、何か、ここから投げてやれるものはなかったかな……」
 どうせ親子ともに腹を空かせているに決まっていると思えたからだ。で、買い置きの菓子でもあったかと思い返したのだ。いい按配に、魚肉ソーセージの買い置きがあった。なぜだかそんなものが買い置きしてあったのだ。
 実をいうと、昼に昼食の弁当を近くのスーパーへ買出しに行った際、偶然ソーセージの山積みが目に入った。懐かしく思えたのである。
 昔、貧乏学生であった頃、食費を何とか浮かさねばと思案した結果、日持ちが良くて、もっとも低コストのたんぱく質は何かと考えたのだった。そして魚肉ソーセージを有力候補に挙げたのである。よく、食パンや、インスタント・ラーメンのお供としてソーセージをかじったものであった。

「そうそう、ちょうどソーセージがあったから、そいつをちぎって投げてやろう」
「えっ、何でソーセージなんかを社長が?」
 不審がるその社員そっちのけで、わたしは、ポリ袋に入ったままのソーセージを急いで取りに行き、それを手際よく剥いた。
「よしっ、あの穴だな。あの近辺に落としておいてやればにおいで食べに出てくる。うまく落ちるかな……」
 とは言っても、その物置は斜め下方にあり、当該の小さな「出入り口」までの距離はおよそ10メートル近くはあった。結構コントロールが難しそうな感じがした。いっぺんに丸ごと投げてとんでもない方向へ飛んでは情けないので、四分の一にちぎったものから投げることにした。
「それっ」
 と、投げてみた。やや手元が狂った感じで、「出入り口」から1メートルは離れたかと思しき地点に飛んだ。
 が、これがとんでもなく愉快であったのだ。ソーセージはまるで「ゴム」のように柔らかく弾力性がある。まるで、ゴムボールのごとくバウンドしたのである。しかも、ホップ、ステップ、ジャンプのごとく。そして、何あろう、そのソーセージの欠片は、母子猫たちの念力、魔力に引き寄せられたかのように、小さな「出入り口」の中へと飛び込んで行ったのだった。
「おいおい、ホールインワンになっちゃったよ。中の猫たちはきっと驚いてるぜ。はっはっはっは……」
「お見事! うまく入っちゃいましたね」
 その後、残りの切れ端も周辺に落としておいてやったというわけである。
 しばらくしてから、再度窓の下に目をやると、茶系統の親子猫たちが、鼻をクンクンさせながら「出入り口」近辺で、うれしい興奮が冷めやらぬ様子でうろついているのが覗けた。それはあたかも自宅のポストに札束が投げ込まれた民家の人々が狐につままれたようになる姿とでも言おうか……。
 ただ、今後、自宅だけでなく、事務所に来てまでも野良猫たちに餌の心配をしてやることになりそうかと思いやると、若干ではあるが気が重くなるような気配ではあった…… (2006.06.03)


 以前に、邦画『はだかっ子』( 創作少年文学・近藤健原作、田坂具隆監督、木暮実千代、有馬稲子出演、1961年作品 )について書いた。
<これは小学生当時に原作も映画もともに鑑賞して元気づけられたものであったが、その当時のなつかしい生活風景がまさにリアルに映っているのにはうれしい驚きであった。>と。
 確かにそうなのであるが、今日は多少のんびりとした気分に任せてこのビデオをじっくりと鑑賞してみた。そして、痛感したことは、この作品に残り、残念ながら現在のこの国から失われてしまったかに見えるものは、ただ単に<当時のなつかしい生活風景>だけではなさそうだ、ということであった。
 実は、この作品は、単に母を亡くすことになりながら元気に生きようとする少年をめぐる物語であるだけでなく、二度と悲惨な戦争を引き起こすまいとする当時の人々の願いと決意が込められた格調高い映画だったのである。戦後の傷跡が否応なく浮き彫りにされながらも、戦後民主主義の初々しいばかりの前向きな空気、その文化と、戦争を憎む気風とが、まるで新緑が映えるように全編にみなぎっている。その几帳面と言えるほどに前向きな印象は、「悪びれてしまった」かにも見える現在のわれわれからすれば、多少気恥ずかしい気分さえかもしださずにはおかないほどかもしれない。

 つまり、昭和30年代にはあって、現在失われてしまったかもしれないものとは、単に<当時のなつかしい生活風景>だけではなく、真正面から戦争の再来を許さないというその気風と決意ではないのかと自問したのであった。
 当時の反戦意識は、戦争で被害を受けた不幸な人々の実感と、平和憲法や国際平和運動という高く掲げられた御旗によって受肉していたと言える。この映画でも、戦争で親を亡くした子供たちが前者を表現し、ユネスコ村への遠足という象徴的な場面が、後者を見事に指し示している。UNESCO(United Nations Educational,Scientific,and Cultural Organization 国連教育科学文化機関。教育・科学・文化を通じて諸国間の協力を促進し、それにより平和と安全保障に寄与することを目的に、1946年に成立)は、国際平和推進の中心たる国連のひとつの重要な顔であったはずである。
 前者については、戦争体験の「風化」という情けない事態が広がりつつあるし、国際平和運動についても、そのリーダー格であった米国自体が国連を無力化させる動きに出てしまうほどに混乱してしまっている。

 現在の日本政府が、どんな大義名分を掲げているのかは何とも理解に苦しむのであるが、そんなことをもって、羅針盤を失ったかに見えてならない米国の外交姿勢に諸手を上げて追随している。その挙句に、国民の多大な犠牲のもとに到達した「平和憲法」を「改悪」するリアルな段取りを着々とごり押ししているありさまである。
 すでに、戦後の決意とその体制は、換骨奪胎されはじめている、いや、「基礎工事」はあらかた済んでいる状況なのかもしれない。「靖国参拝」なぞというのはアナクロニズム以外ではないはずなのに、まことしやかな顔をしてそのパフォーマンスを演じている者は、単なる個人的な跳ね上がりなんぞではない。しっかりと「お墨付き」を得ながら、「くそリアルポリティックス」のレールを走っているに違いないと言うべきだろう。「靖国参拝」は、「自衛隊の交戦権」と対をなし、「平和憲法」を覆すテコ以外ではないはずだ。そしてそれらが、もはやフィニッシュ! を決め込む寸前のところにまで来ているというのに、それを凝視している国民はいかほど存在するのであろうか……。
 これが、前述の、昭和30年代の邦画の記念碑的映画のひとつである『はだかっ子』には脈打っていたが、もはや失われたに等しいと残念に思う点だったのである。

 ところで、今日という日曜日、御用提灯を掲げたマス・メディア、政府がプロデューサーのマス・メディアは、三点セットで国民視聴者を囲い込むようなアクションを繰り広げていた印象を受けた。
 その1、「村上ファンド」総帥村上氏に捜査の手が及んでいることを報じ、国は決して経済の「行過ぎた」自由主義を許してはいないぞ、とでもアピールしているかのように見えるのだった。
 その2、「秋田県の男児殺害事件」に関して、「任意」の段階でありながら家宅捜査に及んだことである。ここでも、治安の乱れに警察は遅れをとってはいないというアピールがなされたかに思えた。なぜ、「任意」の段階で? という点と、なぜ今日という日曜日でなくてはならなかったかということなのである。成り行きか、偶然か、それとも……。
 その3、次期首相と目される「安部」氏が、早朝から各局の報道番組で生出演して、大々的なキャンペーンを張っていた。タカの牙丸出しの現政権にとって、どうしてもその後継者はやはりタカの子でなければならないのだろう。そのアピールは、国家権力「健在」を強調できる上記二点と共鳴し合ってなされるのが上々と誰かが考えたとしてもわからぬではない。
 まして、来週ともなれば、国民の関心は政治なんぞに集まりようがなくなってしまうからだ。「ワールドカップ」のバカ騒ぎが始まるであろうから……。それにしても、マス・メディアをとことん駆使する現在の政権の蠢きはハンパではない気配を感じる…… (2006.06.04)


 メディアを賑わせている話題のひとつに、とある画家による「盗作疑惑」というのがある。この画家には、文部科学省が芸術選奨文部科学大臣賞(美術部門)を付与しているだけに、その杜撰さへの驚きも含めて衆目を集めているのだろう。
 TV報道などで紹介されるのを見る限り、テーマから構図、色調に至るまで疑惑を呼ぶほどに酷似しているかと思われた。
 まだ若い画家であればまだしも、かなりの年配者の画家であり、また、疑惑を呼ぶその制作枚数も多数に上っているとかで、一体何をどう考えてのことか見当がつきかねる。

 ところで、著作権のあるメディア商品などの違法な複製も跡を絶たないようである。また、「偽ブランド」商品もあれば、「偽札」まで視野に入ってくる。もちろん、いずれにしても犯罪であり、悪いことに決まっている。が、何となく、こうした悪事にも、われわれはヘンな免疫性ができているのかもしれないと思ったりする。
 とにかく、「コピー」ツールが尋常な水準ではなくなってきている現状が注目されていい。何によって構成されたものであるのかがわかれば、その複製を作成することは決して難しくはない時代となっているわけだ。コンピュータ技術は、いや、DNA科学も含めなければならないだろうが、人工的に作り出されるありとあらゆるモノの複製を容易にしているはずである。
 まして、さまざまな情報、コンテンツが、インターネットによって普及する時代は、それらの構成要素が画一基準に従っているだけに、基準さえ了解してしまうと、いわゆる「プロテクト」という防御策が脆い存在となりかねないわけだ。

 しかし、こうしたコンピュータの画一的基準に従う対象だけではなく、冒頭のようなまさしく人為的構成物である芸術にまで「贋作」が忍び寄っているご時世であり、また知的勝負の小説や学術論文などでも「盗作」騒ぎが目につくというのが昨今の現状となってしまった。これらには、「出来心」なぞという弁解はいっさい無縁のはずである。そこに、精巧なスキャナーがあったからとか、プリンターがあったからとかの言い訳が成り立ちようのない世界であろう。「自己」の労作と、「他者」の労作とが厳格に峻別されなければ成立しない世界であるからだ。
 これを仮にたとえるならば、生物界での、細胞レベルにおける「自己」と「非自己」との厳格な峻別という原理に似ている。要するに、種の異なる生物間での「臓器移植」などが、「拒絶反応」の原理によって叶わないという事実のことだ。

<……異なった種の動物細胞がひとつの個体内に共存する状態を、キメラという。言うまでもなくギリシャ神話に出てくる顔と体がライオン、胴体から山羊の頭が生え、蛇の尾を持つ怪物キメラから来ている。……
 洋の東西を問わず、異種の動物が同一個体内に共存することは、恐ろしい忌避すべきことである。キメラがペガサスに乗った勇士ペレロポンによって退治され、鵺(ぬえ)が頼政によって簀巻き(すまき)にされ空(うつ)ほ舟で流されたように、生物の世界からは厳格に追放されなければならなかった。ルネサンス以来、ひそかに行われたらしい体の一部の移植というような行為は、じっさいすべてうまくゆかなかったし、反自然な行為として隠蔽されなければならなかった。>(多田 富雄『免疫の意味論』青土社、1993年)

 つまり、「自己の個性」をこそ表明し合い、競い合うジャンルにあっては、この「キメラ」の忌避こそが大原理であったはずなのである。
 ところが、現代のエセ文化人の中には、軽佻浮薄なコピー文化の空気を吸い過ぎて、「キメラ」の忌避という根本原理さえ忘れてしまっているということなのであろう。
 「病んだ」文化ならではの出来事だとしか考えられない…… (2006.06.05)


 日経平均株価が大きく下落している。
<6日の東京株式市場で日経平均株価は大幅に続落。大引けは前日比283円45銭(1.81%)安い1万5384円86銭で、1月23日以来ほぼ4カ月半ぶりの安値を付けた。前場は前日5日に米国株相場が利上げ継続観測の高まりを背景に急落したことが嫌気され、後場は香港やインドなどアジア株が全面安となったことが売りの材料となった。>(NIKKEI NET 2006.06.06)
 こんな中で、ディーラーなどの機関投資家の動きが目に余る。巨額の資金にモノを言わせたいわゆる「仕手株」としての振る舞いのことである。おそらく、機関投資家たちも、このように低迷する株式市場にあって、なりふり構わぬアクションをとっているものと見える。

 デイトレードの真似事をしているといろいろな銘柄の取引状況を観察するともなく観察することになる。特に、奇異なチャートが現れる銘柄は、後学のためにウォッチすることになるが、それらから読み取れる気配というものは、巨額な資金でマネーゲームする勢力と、ちまちまとした株数で臆病に動き回る個人投資家たちという構図であろうか。
 もちろん、「手前勝手」とも言えるような独善的なアクションを繰り広げているのが、「巨人」投資家であり、その動きに引き摺り回されたり、便乗しようとして成功したり、失敗したり、いや結局は失敗しているらしいとしか見えないのであるが、そうしたダシにされているのが「小人(こびと)」個人投資家たちなのであろう。
 ちょっとした例を出してみよう。市場全体が「軟調(低迷)」な中にも、「値動き」が活発な銘柄も無くはないのである。「値上がり幅」が大きな銘柄も、証券会社などが提供するマーケット情報などを参照すれば容易に見つけられる。

 そうしたものをウォッチしていて気づくことは、その「値動き」が「ファンダメンタルズ」(各株式企業の現状の経営的指数など)にほとんど無関係な場合が多いことである。
もっぱら、投資家たちが「手玉」にとりやすい状態にあることだけが動機であるような気配を十分に見てとることが可能なのだ。
 いわゆる倒産目前の企業やら、以前のライブドアのような上場廃止企業などが放り込まれる「整理ポスト」に入った銘柄が、まさしくマネーゲームの対象とされていたり、海のものか山のものか検討がつくわけもない「新規株式公開(IPO)」直後の銘柄が持てはやされたり弄ばれたりしたり、さらには、単にその時の株価が手頃であったり、信用売買状況のバランスなどが理由となり、これもまたマネーゲームのおもちゃにされたりといった現象のことである。
 そして、これらの現象を制しているのは、巨額マネーを保有し、売買アクションが組織的に行える機関投資家たちなのである。個人投資家たちならば、チャートの微妙な動きから「買い気配」であるとか「売り気配」であるとかを緊張感をもって察知しなければならないはずである。株の売買こそは、自分一人がどうのこうのではなく市場の気配がどうであるのかを洞察することがすべてでありそうだからである。
 だが、巨額マネーを動かす機関投資家のあるものは、ほぼ完全に一日のチャートの動きの「シナリオ」を描き、それによって赤子の手を捻るがごとく操作できそうなのである。いわゆる「仕手株」操作というものなのである。

 先日も、ありありとした形でそうしたものをウォッチすることができた。というのも、その銘柄にはこれといった「ファンダメンタルズ」上の変化もなければ、もちろん「材料」と呼ばれるようなニュースもない。にもかかわらず、急騰しているのである。しかも、二日連続でである。そうした銘柄が、ここしばらく低迷している株式市場にいくつか見受けられたのであった。
 自分は、これは「仕手」くさい、と目星をつけて近寄らなかったのだが、その推移だけは見届けてやるべしと注視していたのである。案の定、そのいくつかの銘柄は、いずれも見事とさえ言える馬脚を現したものだった。
 ニ、三日の急騰を続けて連日「ストップ高」を達成したチャートが、いや早いものは一日だけであったが、その直後に、大暴落した(させられた)のである。しかも、明らかに仕組まれた急速な「ストップ安」やら、「特別売り気配」に持ち込んでのことなのである。こうなると、値上がりに便乗して買いに走った他の投資家たちは、急速に値下がることだけがわかっていても、どん底に至るまで身動きがとれず売りの選択さえできないのである。
 これをたとえれば、快適な上りの「登山列車」が、少しでもラクをしようとする多くの乗客を、停まる駅ごとに載せて行き、ある程度の高度に至ったところで、途中下車できないスピードで急下降をはじめるようなものである。
 つまり、「仕手株」投資家たちは、何らかの理由でさも「急騰」しているかのような上りのチャート図を演出して、欲をかく多数の個人投資家たちを引き込みながら株価を吊り上げ、目論見どおりの値上がり利益が得られた時点で急旋回して「売り(抜け)」に出るということなのである。
 このシナリオでの「登山劇」で大きな得をするのは「仕手株」投資家たちであり、大損をするのが、途中から乗り込んだ個人投資家たちであることは一目瞭然である。

 ところで、こうした「惨劇」は、株式市場にあっては決してめずらしいものではなく、いたるところに仕掛けられていると言えそうだ。自分もしないでもいい経験を何度かしてしまったが、この「惨劇」の構図が、「不健全な」現在の株式市場なのであり、また、その典型が、この間、株式売買で犯罪だとマークされたライブドア事件であり、村上ファンドであったと言えるのだと思う。いや、彼らの場合は、より悪辣であったからこそ逮捕に至ったのであろうが……。
 いずれにしても、どんなに利口となり、注意深くあっても、「騙される」時には「騙される」のが、現在の株式取引であるといった印象がぬぐい切れない。そして、「騙される」立場に立つのは、いつも個人投資家たちなのであり、巨額な利益を手にするのが機関投資家たちであるということだ。両者の間には、「巨額な資金と組織的なアクション」という、諸個人がどうすることもできない歴然とした事実が横たわっているからである。
 ただ、こうした構造は、何も株式市場にだけ見出される特殊現象ではなく、現代社会のあらゆる分野においてあまねく見いだされるものだという点が再認識されてよいのかもしれない。
 一部のものだけにしか享受されない「巨額な資金と組織的なアクション」に対して、しがない個人たちはどのようにしたら対抗できるのだろうかと、ふと考え込んでしまう…… (2006.06.06)


 高村 薫 原作の推理小説が映画化された『レディ・ジョーカー』のDVDを見た。その中に若干気になる言葉が埋め込まれていたので、それについて書くこととする。おそらく、高村 薫 自身がこだわった言葉なのであろうと了解した。

 その前に、一応、ストーリーをおさらいしておく。
<業界最大手の日之出ビールの社長・城山(長塚京三)が誘拐される。犯人は〈レディ・ジョーカー〉と名乗り、身代金5億円を要求。ただし、それは警察の目を欺くためのもので、実際の要求額は20億、人質は350万キロリットルのビールだ。城山はすぐに解放され、ほどなくして出荷された商品の中に、赤い液体のビールが見つかり、世間は異物混入事件に騒然となる。捜査にあたる合田刑事(徳重聡)は、犯人側と城山の裏取引を確信。加えて、警察を出し抜く犯行の手口から、内部の関与を疑い、半田刑事(吉川晃司)に目をつける。
 〈レディ・ジョーカー〉の狙いは何か。5人の競馬仲間が大企業相手の勝負に挑む理由について、観る側も深く考えさせられる。渡哲也演じる老人・物井清三には、兄や孫を通して、日之出ビールに遺恨がある。しかし、それは身代金をせしめることで復讐が成立するほど、単純な問題ではなく、結果として、何かが劇的に変化することなどないと、物井自身承知している。
 それぞれがままならない事情を抱え、たとえ、大金を手に入れても、彼らの地獄は終わらない。脚本家・鄭義信と平山秀幸監督は、高村薫の長大な同名ベストセラー小説を2時間に収めつつ、警察、企業、ひいては、社会全体という大きな組織の中で生きることの矛盾を巧みに浮かび上がらせている。また、吉川晃司のふてぶてしい半田役をはじめ、配役も秀逸だ。丸の内TOEI1ほか全国東映系にて>(「goo 映画」http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD5594/story.html より)

 上記の解説にあるとおり、<5人の競馬仲間が大企業相手の勝負に挑む理由>に否が応でも関心が向く。そして、<それぞれがままならない事情を抱え、たとえ、大金を手に入れても、彼らの地獄は終わらない>というのがリアルである。だが、<警察、企業、ひいては、社会全体という大きな組織の中で生きることの矛盾を巧みに浮かび上がらせている>とあるごとく、原作者の視線は、矛盾を秘めた現代の組織のあり方に張りついている気配であった。
 そして、その視線を向ける原作者の思いは、「人間は政治的動物か」という言葉に凝縮されていたかのように感じられたのである。
 <渡哲也演じる老人・物井清三>は、〈レディ・ジョーカー〉のリーダー的存在であるが、彼の動機は、<日之出ビール>に勤めていた兄が、いわれなき理由(差別問題)で解雇されたことに端を発していた。そして、その兄が退職後、会社に書き送ったとされる一通の手紙をめぐって物語が展開していく。
 その手紙の中で、兄は、自分は「政治的動物」ではない、と言明していたのである。つまり、人間と人間との自然な関係を引き裂き、「絶対的な貧困」の者たちをを生み出すために、「政治的動物」としての人間は、「差別」という仕組みを持ち込んでいる、と主張されているかのようであった。
 〈レディ〉と呼ばれていた身体にハンディキャップを背負う少女の父親、在日韓国人、社会から弾き出されている若者、尋常ではない上下関係が罷り通る警察組織の中で腐ってしまった刑事などが、犯人グループを形成するわけだが、自分たちを自嘲気味に〈レディ・ジョーカー〉と名づけた点がおもしろいと思えた。それは、身体にハンディキャップを背負って、社会から差別を受け続けている少女に名づけられた〈レディ〉に、〈ジョーカー〉という自嘲としたたかさの両面を持った言葉を上乗せしていそうだからである。
 いずれにしても、上手に「政治的動物」とはなれない者たちが、それゆえに実質的に差別の被害にまみれ、それでも一矢報いたいとする蠢きに焦点を合わせたのがこの原作であり、その映画化だったのかもしれない。

 もちろん、こうした「一矢」が美化されてはならないわけだが、逆に、現代の社会や組織というものが、巧みな「政治的動物」たちによって牛耳られており、そこでは、狭義・広義の差別というものが梃子として使われている、と聞こえてきた感触があった。
 「正しい」政治、「美しい」政治というような言葉は、「矛盾」そのものでしかないとでも、原作者は感じ取っているのかもしれない。概ね了解できる洞察だと思えた…… (2006.06.07)


 もう40年ほど前のことになるだろうか、中学生か高校生の頃であった。夏休みに工場でアルバイトをしたのである。よくは覚えていないが、鉄鋼部品か何かの加工工場であり、自分はその部品にサンダ(電動回転研磨器)をかける段取りであった。
 サンダの操作は、その後大学生当時に親戚の叔父が経営する鉄工所でいやというほど使い慣れたものだったが、当時は、はじめて扱うものだったため、おっかなびっくりであったのだろう。はじめてすぐに失敗をやらかしてしまったのだ。
 たぶん、防塵グラスもつけてはいたはずだが、サンダで削られ、飛び散った鉄の粉が目に飛び込んだのである。痛さと驚きとが交錯して、さっそくアルバイト先の人に連れられて近くの眼科医に走りこんだ。幸い軽症であり、目の「水晶体」の表面に小さく突き刺さった鉄の粉はすぐさま除去してもらい、傷はすぐに元に戻ると言われたものであった。
 が、その時、医院で順番を待っていた際に、とんでもない光景を、「片目」で目にしたのである。それは、目のどんな病気であるのかは知らないが、眼球に注射針を打たれるという、いかにも痛そうで気味の悪い光景なのだった。ひょっとしたら、自分の治療もそんなことになるのかという想像があったから、なおのことびくついたのかもしれない。それ以来、目の病気というと、その光景が思い出されたりする。

 明日、おふくろが「白内障」の手術をうける予定となっている。もう一ヶ月以上も前から話は聞いていたが、検査や病院のスケジュールなどの都合でようやく実施されるのだという。明日は、姉夫婦が付き添い、明後日の術後検診にはわたしが付き添うことになっている。
 検査の際に付き添った姉の話では、良心的(インフォームド・コンセント?)な医者であるからか、どんな手術をするのかを事細かく当人に説明したのだそうだ。それがかえって当人を「びくつかせる」ことになったようだというのである。
 まあ、現在の「白内障」手術は、日帰りで済むほどに手軽なものとなっているらしい。麻酔も、点眼薬で間に合うようになっているようで、冒頭の話のような「眼球に注射針」というオドロオドロシイことにはならないようである。
 が、やはり、目にメスを入れることには変わりがない。「水晶体」の脇を数ミリ切開して、濁りはじめた「水晶体」の中身を吸出し、そこに人工のレンズを挿入するというのが手術の大筋だそうだ。

 そういえば、おふくろは今まで入院をしたこともなければ、身体にメスを入れた経験も一度もない。だから、糖尿病で通院している医院の医者から、
「息子さんみたいに『体験入院』をすればいいとおもうけどなあ……」
などと言われた時にも、
「しつこく入院を勧めてきたら、アタシは病院を替えちゃうんだから……」
と息巻いていたものだ。
 入院なんてもったいない、という昔の人ならではの発想が脈打っているのだろうが、その分、自分が入院したり手術を受けたりするということが想定外なのであり、同時にそこには一抹の不安や恐怖がまとわりついているのかもしれない。
 そんなおふくろが、この歳になって、いやこの歳になったからこそ「白内障」という加齢現象としての不具合が生まれてしまったとも言えるわけだが、手術を受けるというのは何だかかわいそうな気がしないでもない。

 姉から、おふくろが心細そうにしていたと聞いたので、昨夜、おふくろに電話をしてみた。励ますというような意味合いだったのだろう。
 おふくろの口調からは、やむを得ないことだろうがどことなく気にしている様子が見え隠れしていた。が、やがて弱音を吐かないいつものおふくろに戻ったようで、
「もういいの。どうせ、まな板の上の何とかなんだから、気に病んでもしょうがないと思うことにしてるの」
と言い放った。
 百まで長生きする、というのが口癖のおふくろである。あとニ十年近くもがんばるつもりならば、ここいらで、「磨耗パーツ」を「新品パーツ」に取り替えておくのが賢い方策なのだろう、大らかに考えることにした…… (2006.06.08)


 最近のメディア・コンテンツは、そのストーリー性もさることながら、画像としての素晴らしさと、さらにいえば斬新な驚きが必要なのだろうと思う。
 ひと昔前のコンテンツは、物語自体に平凡さ、冗漫さがあるだけでなく、今さらのように気づくのは画像自体の凡庸さということになろうか。往年の映画や、ビデオなどを鑑賞してみると、残念ながらそうした印象が拭い切れない。ストーリーやアングルの素晴らしさがあれば、何とか我慢できるというところであろうか。
 こうした事情は、何と言っても映像というものを撮ったり、再生したりする技術がさまざまな点で隔世の感があるからだとも思える。たとえば、映像の再生で言うならば、大画面液晶TVで観るデジタル放送の画面は、美的感動をさえ与える。とはいっても、まだわが家のTVはブラウン管TVであり、家電ショップの大画面液晶TVを指をくわえて眺めてのことではある。

 昨夜、以前にも一度放送されたものを観て感動したのであるが、再度、感動を伴って観た映画がある。BSで放送された、さすが芸術の国フランスで制作された「芸術作品!」だと言うほかない『 WATARIDORI 』なのである。
 例によって、紹介文を引用する。

<第75回アカデミー賞 長編ドキュメンタリー部門ノミネート/2001年セザール賞編集賞
それは、""必ず戻ってくる""という約束の物語。
本国フランスでは280万人以上を動員するという記録的大ヒット!!
世界各国でも、熱狂的な賞賛と感動をもって迎えられ、セザール賞も受賞!!

北半球に春が訪れると、鳥たちは、生まれ故郷である北極の地を目指して飛び立つ。
昼夜を問わず、休む暇なく飛び続ける鳥たちもいれば、宿泊地を定めながら、はるか彼方約束の土地を目指す鳥もいる。一度も経験したことのない数千キロにも及ぶ空の道を間違えることなく飛び続け、約束の地に到着する神秘、これはいったい何か?
撮影期間3年、世界20ケ国以上を訪れ、100種類もの渡り鳥の旅物語を映画化。世界トップクラスのスタッフが、命懸けで渡り鳥たちと共に地球全土を旅した。CGはいっさい使用せず、多くの危険と戦いながら人類が今だかつて目にしたことのない鳥たちの視点から、空、海洋、そして地球の姿を捉えている驚異と感動の映像。
総監督は、日本でも大ヒットを記録した「ニュー・シネマ・パラダイス」の名優ジャック・ペラン。映画を超越した全ての生き物たちのドラマを作り上げた。
世界各国を巡る渡り鳥たちに合わせて独創的で映像と一体化する音楽を作りだしたのは音楽監督ブリュノ・クーレ。ラストシーンのニック・ケイブの歌声は、観る者すべての心を癒し、きっと何かを残すだろう。>(WATARIDORI オフィシャルサイト / http://www.herald.co.jp/official/wataridori/ より)

 何と言っても全編の映像のカメラ・アングルが、まさしく「オーマイゴッド!」的な「アンビリーバブル!」なのである。
 陸上100メートルで、競り合う強豪たちが横一線でゴールに突入する場面があろうかと思う。各コースの各スプリンターの横顔なり、疾走する姿が全コース分映し出されるとまことに壮観である。これらは、難しい撮影といえばそうもいえるが、コースに平行してカメラをそれなりの速度で移動させるならば、それはそれで撮れるものだろう。
 が、高度な上空を飛翔するカモなどの「 WATARIDORI 」の群れ、への字型のフォーメーションで飛ぶ鳥たちの姿を、真横からのアングルで撮れるとは誰も考えられなかったはずである。しかも、チラリと一瞬の光景を撮るといったちゃちなものではなく、それらの鳥たちの飛ぶ姿を画面中央に収め続けるのである。あたかも、観る者は、鳥たちの群れと一緒になって飛んでいる錯覚にさえ陥ってしまう。

 実は、わたしは、二回も観ているのに、昨夜もまた思ったものであった。この映像は、CGによる合成でなければ作れない、と。上記の公式サイトを覗くまでは、てっきりそうでしかあり得ないと思い込んでいた。だからといって、それがこの映画の価値を低めることには決してならないとも考えていた。
 だが、上記公式サイトの情報によれば、「すべてが実写」だというのだから「オーマイゴッド! & アンビリーバブル!」以外ではないのである。
 その感動的に美しい驚きの映像は、群れの「 WATARIDORI 」たちと「平行に位置し続ける」ことと、なおかつ「彼らをおどかさない」ことという二大条件を満たさなければ不可能なはずである。わたしはそんなことは不可能だと考えてしまっていた。
 ところが、その難問は次のような「挑戦」的事実によってクリアされていたのだ。
 ひとつが、<撮影のために特別に造られた超軽量航空機のパイロット17人>などであり、もうひとつが、<一方、物語の主軸を成す鳥たちに関しては、フランス郊外に約40種類1,000羽を集めてトレーニングを行った。といってもいわゆる調教ではない。ジャック・ペラン率いるスタッフたちは、鳥たちがより自然に動けるように卵の頃から人の声や機器の音に慣れさせたのだ。お陰で鳥たちは、スタッフが用意した超軽量航空機が群れの真ん中を飛んでも平然と飛行できるようになった>という事実なのである。

 このように書いてしまうと、この映画は、くそリアリズムの「科学映画」でしかないかのような印象を漂わせてしまうかもしれない。
 ところが違う。これは立派な「総合芸術作品」なのである。映像を構成した者たちのしっかりとしたヒューマンな視点が、確実に観るものの胸に伝わってくるからである。「 WATARIDORI 」たちの生きる喜びと哀しみ、生命を持つものたちのそうしたものが、芸術的映像群とその編集によって遺憾なく伝わってくるのである。そうした視点を持つ制作者たちがいたことを、何ともうれしく思えてしまうと言ってもいい。
 こうした映画としては、かつてここにも書いたことがある『小熊物語』(2005.04.05)という名作があるが、この『 WATARIDORI 』は決してそれに優るとも劣らない名作だと言い切れるかと思っている…… (2006.06.09)


 昨日受けたおふくろの「白内障」手術は、つつがなく終了し、わたしもホッとしている。今回は「より悪くなった」左眼で、これが終わると二週間後に反対側の右目も行う予定なのでまだまだ気になるしばらくではあるが、先ずはよかった。
 手術の成功は、昨日のうちに姉からの電話で聞いていた。おふくろは、かなり緊張したとのことだったが、不測の事態は何もなかったらしい。昨晩は大事を取って姉夫婦の家に泊めてもらっていた。
 今日午前中に、術後検査があるということなので、自分が病院までクルマで送ることになっていた。朝、姉夫婦の家へ迎いに出向いた。おふくろがどんなふうであるか興味津々であった。
 玄関から出てきたおふくろは、いつもどおりのさりげない表情であった。
「よくがんばったね」
と、自分は挨拶代わりに声をかける。
「うん、まあ大変だったけどね、これで片方が無事終了」
 てっきり、いわゆる眼帯でもしているのかと思っていた。左眼を覆っていたのはシルバー色のお皿のようなものであった。プラスチックか軽量アルミか、何やら丈夫そうな材質の、穴だらけのこ奇麗な板である。それを左眼付近に粘着テープで固定していた。それは、どこか痛々しい感じを伴う従来の眼帯と較べて、いかにも現代の簡便な「白内障」手術を象徴するかのようにスマートな形状をしていた。

「今日から生まれ変わったつもりになるんだわ、あたし……。お天気もちょうどあたしに合ってる。昨日はあんなひどい雨だったのに、今日はこんなにいい天気だもんね」
 おふくろは、よほど「人工水晶体」が気に入ったようである。病院に向かうクルマの中でも、再び付き添うことになった姉とわたしに対して饒舌に話しまくっていた。手術の結果良く見えることはすでに確認して知ったようである。定期的に目薬を点(さ)すように医者から指示されていたようだから、その際に知ってきっと小躍りしたのであろう。
 病院の待合室で待つ間も、自分と同様の立場にある「白内障」手術後の患者と開けっ広げな話をするおふくろであった。
「これが、うちの娘と息子の二人。こっちが姉、この旦那が昨日クルマで送ってくれたの。で、そっちが弟。今日の運転手。朝、迎いに来てくれて、開口一番、『よくがんばったね』って言ってくれたの……」

 わたしは、姉が付き添うというのでクルマの中で待つことにした。わたしひとりで付き添うのかと思っていたのだが、おふくろはどういうものか、自分が心細い時には馬鹿を言い合って気が置けない姉を頼るようなのだ。無骨なわたしはどうもいけないようである。 窓ガラスを叩く音で目が覚めてみると、姉がおふくろを連れて駐車場のクルマに戻ったことがわかった。わたしは、つい、クルマの中でうたた寝をしていた。
「どうだった?」
「手術は成功だって。おめでとう、ってお医者さんに言われた」
「よかった、よかった」
 すでに、おふくろは眼帯ならぬスマートなアイ・マスクさえはずしていた。そんなおふくろの顔を見ていたら、現代医学ってスゴイもんなんだなと、ふと思ってしまった。昔の老人たちは、白濁となった目で余生を苦しんだはずだろうに、たった一日、しかも二、三十分のオペで、翌日にはもう「生まれ変わった」かのような視界を得ることになるのだからスゴイものだと文句なく思ってしまったのだ。

 帰りの車中では、「目先が開けて」俄然、強気となったおふくろの、実に気分よさそうな話声を聞き続けることとなった。
 よほど今までの視力は落ちていたようであり、自分の腕のシミも見えなかったとかである。良く見えるようになると、自分自身の姿にも気になり出すようである。物事の裏腹の関係だからいたし方ないというべきだろう。
 わたしは、ふと、ある落語のことを思い出していた。それは、吝嗇な男が、ものを見るのに目は二つもいらないと考え、何十年も片目を使わずに過ごしたという。で、そろそろ使い古びた目を休ませ、他方の目を使いはじめたら、浦島太郎のように「見知った者」たちが誰もいなかった、という話なのである。そんなバカな〜、という話ではある。しかし、見ることと認識することとの絶妙な関係について考えさせたのかもしれない。

 これからしばらく、毎週土曜日は、通院のためにおふくろと姉を運ぶ運転手役を続けることになりそうである…… (2006.06.10)


 この間、個人的分野でのことだが、アナログ・データのデジタル化という作業をやっている。と言っても何のことはない、ビデオ・テープをDVDに焼き直すこと、そしてその前提作業としてビデオ・テープのデータを「.mpeg」ファイルに変換、編集する、という作業である。もちろん、そのためのPC環境を整え、これらの作業を支援するツール・ソフトを駆使することになる。

 これに類似した作業としては、過去に、アナログ・データである落語テープをデジタル加工したことがあった。その際の動機は、落語テープをこのまま持ち続けるのは「劣化」が激しく問題がありそうだという点がひとつであった。
 テープの中には、もう二十年、三十年も前にラジオやらTVから収録した、自分にとっては価値ある内容のものもある。何とか、現状の状態を保持したいとすればデジタル化以外にはないと思われたのである。
 もうひとつの動機は、今時、テープ・レコーダーでもないか、という視点であった。何よりも、嵩張る点が問題である。もっとコンパクトな再生機器を使いたいと思った。最初は、CDであった。しかし、音声などのアナログ・データをデジタル化しただけでは、データ・サイズがバカでかいものとなり、CDに焼いたからといって大してありがたい結果とはならない。

 デジタル化のメリットは、劣化しにくいメディアに収納できることと、もうひとつが、デジタル化を行うと、より進んだデータ圧縮技術の恩恵を受けることができ、想像以上により大きな収録量がかせげる、という点である。
 あの「iPod」というサウンド製品はそこに着目して、「mp3」というファイル圧縮技術を駆使し、タバコの箱ほどの大きさしかない再生機器に何千曲もの音楽、しかもハイクォーリティな音質の音楽を収納しているわけである。さらに加わるメリットは、それらを一瞬のうちに検索して望む曲をスピーディに選び出せるという点であろう。テープのように「早送り」「巻戻し」などという余分な操作をしなくても済むということだ。
 自分は、さしあたってサウンドといえば、ミュージックもさることながら何といっても落語サウンドがお気に入りであったため、これを素材にしてとことん現在のデジタル・サウンド技術の恩恵に浴することを試みたのであった。
 まあ、到達した結果は、志ん生の落語演題100選をポケットに忍ばせ、どんな場所でも退屈することはないという高が知れたものでしかなかったのではあるが……。

 今回のビデオ・テープのDVD化(デジタル化)というのは、そうした落語サウンドという対象が映像データという対象へと矛先が変わったということになるわけだ。その際に、よしやってみるかという気にさせた動機はいくつかあるが、最も大きなものは、ビデオ・テープの操作性という点であったかもしれない。
 やはり、ビデオ・テープは「見たいところを探す」という点においてあまりにも段取りが悪過ぎると言わなければならない。いわゆる物語を最初から最後まで通して観るという鑑賞であれば、ビデオ・テープで十分であろう。しかし、ビデオ・テープの活用は、決してドラマに限られるものではなく、ドキュメンタリーや科学番組、さらに教材的なものまである。そうした、情報検索的な活用がしたくなるコンテンツであると、テープ形式ではどうしてもまどろっこしさという点で辛いのである。その点、DVDという形式は、「見たいところ」を自由に探せる「ランダム・アクセス」が可能であるためありがたいというわけなのである。
 思うにメディアというものは、その活用において至れり尽くせりの便利さがあって欲しいものだと思う。ちょっとした不便さがあると、億劫さを誘い、結局は「まあいいか……」と活用の機会を逸して、その挙句は「積読(つんどく)」ではないが、嵩張る「ビデオ・ライブラリー」の棚はあっても埃まみれになっているというもったいないことになってしまうのかもしれない。

 今、DVD化を始めているのは、かつてビデオ録画した科学ドキュメンタリーTV番組で、結局眠らせてしまっていた、たとえば『驚異の小宇宙 脳と心』シリーズなどや、ビデオ教材などである。この作業は結構手間がかかることになるが、DVD化しておくときっと後日活用頻度が高まると見越しているのである。
 また、DVD化の編集技術を習熟させていくにつれて、自分にとって何か新しいコンテンツ作りへと接近していくことになるのかもしれないとも感じている…… (2006.06.11)


 天候が定まらなかったこともあり、ここしばらくは自転車通勤を控えていた。しかし、そんな怠惰をしていると途端にウェイト・コントロールが乱れて来るから油断ができない。
 今日は思い切って自転車通勤を再開させることとした。これからが本格的な梅雨となるようなので、今後、おそらくは雨天で撹乱されることになりそうである。だが、可能なかぎり初志貫徹を目指したい。
クルマを使ったりしてラクをしてしまうと、身体はもっぱら甘えてしまい、切りがないように思われる。それでいつの間にか後戻りができないほどに体力が低下してしまうのであろう。
 せっかく、一時期には下り坂の体調を有無を言わせず制御し切ったわけなのだから、ちょっとした怠惰で再び下り坂に転がり込んでしまうのは惜しいと言わざるを得ない。ここがふんばり時なのかもしれない。

 ただ、今朝も往生してしまったが、自転車こぎは結構「汗」をかいてしまう。雨天という弊害もさることながら、これからは「汗」対策も念頭に置く必要がありそうだ。まあ、要するに着替えのシャツくらいは用意しておくべしということだろう。あるいは、汗をかいても問題のないスポーツウェアの格好で疾走してもいいはずであろう。事務所側に正装を準備しておけばいいことなのだ。
 何を優先させるかですべての選択は決まるものだろうが、健康、体力、気力こそを最優先させた生き方を鷲掴みすること以外に大事なことはなさそうである。

 考えてみれば、現代社会において組織の一部として勤務することが、最も身体に良くないのかもしれない。確かに、大きな組織に属することは、経済的観点での何がしかの安定を確保することにつながるようだ。もっとも、終身雇用慣行が健在であった過去はいざ知らず、現状では必ずしもそうとばかりも言えなくなっているようだが。
 自分のように、個人の自由というものを額面どおりに追及したい人間にとっては、何はともあれ組織の一部となることは、何にもまして苦痛(ストレス!)であり、それは内面を撹乱させずにはおかないと思われた。そして、人間というものは、「気」が充実している状態の元気であることが健康の大元なのであり、「気」が滅入る状態は、とにかく健康を損ない続けるに違いないと思ってきた。
 そんなことを考えてきた自分であるから、本来は、個人の営為で勝負するいわゆる自由業であることが最適であったのかもしれない。がまあ、成り行きで、しがない会社の「かしら」というか「蜂のあたま」というかの立場についてしまった。
 それでも、とても、大きな組織の中で何かにつけて妥協を強いられるような状況に組することなぞできない自分にとっては、必然的な成り行きであったのかと納得している。

 しかし、こうした「自由への逃走(ex.自由からの逃走)」は、単に尻尾を丸めて逃げる負け犬と同じではない。いや、そんなものを選んだつもりはない。つまり「組織嫌い」という動機だけがすべてであるとするならば、それは単なる負け犬と変わらないということでもある。
 「組織嫌い」の正当な選び方というのは、それを選ぶ以上避けられないさまざまなデメリットを潔く引き受けるということのはずなのである。要するに、大きな組織が「売り物」としてきた「安定」を拒否したからには、いろいろな意味での「不安定さ」を甘受する、いや、その「不安定さ」こそを梃子にするぞという覚悟めいたものが必須なのである。と言ってもこれは、偉そうな話なんぞではなく、こうでしかあり得ない類の人間がいるということでしかないのだろうと思っている。
 ここで、「健康、体力、気力」の話に戻るわけである。
 「不安定さ」こそを梃子にしてサバイバルしてやるぞと「心に誓った」(?)者たちにとっては、何が欠かせない重要な条件かと言って、これらをおいてほかにはないと思うのである。長年この道を歩き続けてみると、ますますこの点を痛感せざるを得ない。
 「人生に必要なのは、愛と勇気と少しのお金」とは、チャップリン『ライムライト』の金言であるが、自分はその前提が「健康、体力、気力」であるに違いない、とシンプルに考えているのである…… (2006.06.12)


 いよいよ株価がおかしなことになってきた。
 ここ最近、軟調な傾向が続いていたが、今日の日経平均は、前日終値に比べ614円安の1万4218円という惨憺たる状況となった。年初来安値を大幅に更新したことになる。率直に言って、いろいろな点において警戒を要する事態なのだと思われる。
 その筋の人の評論を覗いてみると次のようになるらしい。

<「好調な経済、低迷する株価」
 株価の下落が目立っている。日経平均株価は、4月7日の高値から2カ月間で20%近くも値下がりした。株価下落は、日本だけの現象ではない。この1〜2カ月、先進国、途上国を問わずほとんどの国で、株価が下落している。
 世界経済は順調に拡大しているように見えるのに、株価が下落しているのはなぜか。
 第一に、近い将来において、世界経済の成長鈍化が予見されることがある。たとえばアメリカでは、住宅市場が減速感を強め、雇用の伸びも低下した。住宅価格上昇に伴う借り入れ余地の拡大や雇用増加によって経済成長を遂げてきたアメリカ経済は、大きな転機を迎えている。
 第二に、グローバルマネーの拡大にブレーキがかかっていることがある。グローバル経済化の進展とともに、世界を巡るマネーは急拡大した。この15年間で、世界のGDPは1.6倍になったが、対外ポートフォリオ投資残高は7.6倍とそれをはるかに超えて増えた。このような投資マネーの急増が、世界経済の成長や株価の上昇を支えてきた。
 しかし最近はインフレ懸念の高まりを背景に、世界中で金利が上昇している。日銀も、プラス金利復帰への地ならしに余念がない。それがグローバルマネーの膨張を止め、株式市場への資金流入を抑制し、また経済成長への期待を冷やしている。
 つまり、これまでの株価上昇は、経済・収益の拡大という実体とマネー膨張という増幅機能が組み合わさって実現してきたものであり、その原動力たる両者が転機を迎えたことによって下落に転じていると考えられるのである。だとすれば、この株価軟調は持続的であり、市場が一過性のショックを一通りこなせば活況を取り戻すという性質のものではない。
 株価下落は、世界経済と金融市場の変調を正直に映し出しているのである。(山人)>(朝日新聞 2006.06.13 「経済気象台」より)

 いろいろな利害関係者が、我田引水でさまざまなことを言うわけだが、この寸評は比較的わかりやすい。
 現時点での日本経済、世界経済はさし当たって順調であるらしい。ただし、株価は、世界各国で低迷した状態となっている。
 この矛盾するような事態はどういうことか、ということになるわけだが、大きく分けて二つの理由があるという。
 ひとつは、「近い将来において、世界経済の成長鈍化」が到来することへの警戒だという。その予兆が米国ですでに現れているという。米国での「住宅市場の減速」はかねてからマークされていた事実であり、いよいよ米国経済は「転機」を迎えようとしているらしい。
 二つ目は、株への「投資マネー」が抑制されつつある、という事態だ。これは、経済が低金利状態の時には、低金利で調達した資金を株式市場に投資して利益を上げることが可能であったのに対して、インフレ気味の経済となると金利が上昇し、資金調達にブレーキがかかり、「カネ余り」現象が冷やされるということになる。そうなれば、株式市場への投資を手控える動きが出てきて当然ということだ。

 いずれにしても、今はじまっている経済事態は決して「一過性」の出来事ではないらしい。「この株価軟調は持続的であり、市場が一過性のショックを一通りこなせば活況を取り戻すという性質のものではない」という観測は、妙に重みを持つがごときである…… (2006.06.13)


 先日、ビデオ・テープ(アナログ・データ)とDVD(デジタル・データ)について書いた際、後者のメリットが、「データの圧縮」、「検索の容易さ」、そして「ランダムアクセス(random access)」※(注) が可能な点などにあるとした。

※(注)
<記憶装置にアクセスする手法の一つで、読み書きしたいデータの場所をインデックスなどの位置情報をもとに割り出し、直接その場所にアクセスする方法。必要な部分だけにアクセスできるため、データにランダムにアクセスした場合、平均所要時間は短くなる。
 ランダムアクセスを行なうデータは一定長ごとに区切られており、区切られた領域ごとにIDを振って管理されている。そして、IDとデータの内容を対応させた管理領域(インデックス)を用意し、データを読み込むときにまずインデックスを参照して実際にアクセスする領域を決定している。>(『IT用語辞典』http://e-words.jp/ より)

「シーケンシャルアクセス(sequential access)」
<記憶装置にアクセスする手法の一つで、データを先頭から順番に読み込み、あるいは書き込みを行なう方法。必要な部分を直接読み書きする手法は「ランダムアクセス」と呼ばれる。必要とするデータがどの部分にあるかに関わらず先頭から読み書きを行なっていくため、データにランダムにアクセスした場合、読み書きにかかる平均時間は長い。読み込みたいデータの位置を示す情報(インデックス)がない場合は、シーケンシャルアクセスを行なって目的のデータが見つかるまで読み込みを続けるしかデータにたどり着く方法はない。>(同上)

 やはり、PCに慣れ親しむと、いろいろなデータ、情報の処理(鑑賞を含む)にあっては、「ランダムアクセス」以外に考えられなくなってしまう。そのデータなり情報なりがどこにあるのかを、まるで「犬も歩けば棒に当たる」がごとく最初から最後まで探し回るのは辛過ぎるからだ。
 データ、情報は、「データベース」的に、スピィーディに検索したいものである。「データベース」はまさに、この「ランダムアクセス」の原理を採用して便利さを強化したものだと言える。
 また、そもそも人間の脳活動というのも、きっと「ランダムアクセス」的に機能しているのではないかと思う。たとえば、記憶に関しても、何かを思い出そうとする際、決して脳の中が空間的にくまなく探し回られているという動きがなされているようには思えない。そうではなく、当該の記憶対象を引き出すための何かキッカケのようなものが模索され、それをトリガーにして当該対象が抽出されるような気がする。そのキッカケは、千差万別であろうが、匂いであるとか、あるいはちょっとした感覚的刺激であったりするのではないかと思う。

 「ランダムアクセス」という方式は、このように検索する上で非常に賢い方法だと言える。ただ、この方法は、何の前提もなく実現されるものではなく、ある種の前作業が必須なのである。脳活動で言えば、キッカケをそのデータ、情報と結びつけておいてやらなければならないのだ。コンピュータ処理で言えば<IDとデータの内容を対応させた管理領域(インデックス)>を作っておくという前作業なのである。いわゆる「キー」にあたるものをつけておかなければ検索ができず、したがって探したいものも探せないというわけである。
 「ランダムアクセス」方式においては、この前作業が結構面倒な作業だということになる。また、この前作業の精緻さによって、いざデータ、情報を探す時の手間が全然違ってくるということにもなる。

 まあ、ラクをするためには、そのために一定の苦労をあらかじめしておかなければならないというのが道理だということになる。昔からの言葉に「下積み」という言葉があるが、まさに「下積み」作業が快適な便利さを支えるということだ。
 ならば、その苦しい「下積み」作業だけを他人に「外注化」すれば良い、という発想も生まれて然るべきかもしれない。ただし、込み入ったデータ、情報については、あるいは人間の脳の記憶情報については、あながち他人に代わってもらった作業では奏効しそうもないのがこれまた道理なのかもしれない…… (2006.06.14)


 「新日本紀行(しんにほんきこう)」というNHKのTV番組があった。日本各地を訪れ、その土地の風土やそこで生きる人間を描いた秀作のドキュメンタリーである。
 調べてみると、<1963年10月7日から1982年3月10日に放送されたNHK総合テレビの番組。18年半続いた番組で、制作本数は計793本にのぼる。>(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)という。
 最近再び、単なるアンコールではなく、舞台となった全国各地の現状との比較という視点で放送されている。

 わたしはこの番組が大変気に入っていた。冨田勲の作曲のテーマ音楽が良かったこともある。そのテーマ音楽に引き寄せられ「さぁーて、観るか!」という気分にさせられたようだった。ちょうど、興味心旺盛な青春の頃であったこともあろうか、全国各地の原風景を食い入るように観たようだ。
 現在、同種のTV番組があったとしても、過剰に観光的色彩が強く、観光客を来させるためという商業主義的下心が見え見えでいけない。
 「新日本紀行」は、<NHKアナウンサーが日本各地の原風景を訪ね、それにナレーションやインタビューを加えるという体裁>であり、ニュース映画ほどの作為も感じさせない自然で素朴なタッチに好感が持てた。

 今、NHKはさまざまな問題を抱え、また指摘され続けており、手放しで称賛を送るわけにはいかないが、事「アーカイブス」に限って言えば、絶賛できる資産を保持していると思われる。いや、公的な立場という恵まれた条件もあってのことか、貴重で、質の高い番組を作り続けてきたと言っていい。
 上述の紀行ものだけではなく、昨今の科学ドキュメンタリーなども、民放ではなかなか作れないのではないかと思える優秀作が多い。
 ちなみに、そうしたNHK制作作品で市販されているライブラリー(c.f. NHKエンタープライズ)を覗いても、ドキュメンタリーのジャンルを中心にして興味をそそる作品が目白押しである。純粋な民間企業の商品並みに、ちょいと高いかな、と思わされるのが難点ではある。一度放映されたものが素材となっているのだし、国民は概して「受信料」を支払い続けてもきたのだから、もっと割安で量販しても良さそうに思えるわけだ。

 いや、今は、NHKの経営に関して書こうとしているわけではなかった。NHKの過去の番組には優れた作品が多かったという点、そして、それが「アーカイブス」というかたちで残されていることが貴重だと言いたいのだ。
 ありていに言って、現時点でのこの国の文化は飛行機ならば「腹」を擦ってしまうほどに「低空飛行」を続けているごときだ。特にTV番組は、観るに耐えないほどの低俗ぶりである。それが、視聴率競争の結果であるのかどうかは知らないが、番組制作者たちは人間性や人格までを放棄しているのではなかろうか、とさえ感じる。また、スポンサーも当然の権利として質の向上を口にすれば良かろうものなのに、これもまた視聴率が悪くなければ何でもいいというのであろうか。わたしに言わせれば、当然「視聴者を愚弄するのもいい加減にしてくれ!」となるわけだが、「破れ鍋に綴じ蓋」よろしく、視聴者たちも坂を転がるように眼力を低俗化させているようだから何をかいわんやである。

 このような低俗文化状況の中では、こころある人々は、惰性でTVなんぞを観る愚は絶対に避けるべきであり、贅沢な自身の好みに徹して行くべきではないかと思う。いや、当たり前のことである。番組を選択することは当然であるが、さらに、自身で選んだビデオやDVDなどの作品で目を肥やすべきだと思う。
 まあ、そうは言ってもレンタルビデオショップにも、TV番組に優るとも劣らない低俗でくだらないコンテンツが溢れているのが実情である。ただ、その都度、対価を支払って低俗コンテンツを買う者にはやがて「飽き」と「拒絶感」いう救いが訪れるのではなかろうか。
 要するに、食べ物以上に、カルチャーの摂取には意を払うべきであり、必要とあらばカネを払うべきだと思うのである。食べ物に関しては「グルメ」なぞという言葉があるにもかかわらず、精神的文化に関しては「戦後の闇市」的水準から大して出ていないのが意外と事実だったりするのではないかと邪推したりもする……。
 それと言うのも、様々な文化施設や文化に接する機会がありそれらを享受している人々がいるにもかかわらず、日常的に接するTVの番組をここまで酷い状態で放置しているのは、残念ながらそれがホンネであり実態なのではないかと思わされるからである…… (2006.06.15)


 もう、この国は「骨の髄まで腐っている」ようだ。
 金融領域での「信用秩序の維持」を基本理念とする「日銀」(※注) の、その総裁(福井総裁)が、こともあろうに現在、株式の「イカサマ取引(インサイダー取引)」の容疑を受けている村上ファンドに、1000万円を数年にわたり投資し、毎年、数十万から数百万円という高い利回りを得ていたことが、表面化して問題視されている。
 「信用秩序」というものは、とりわけ大きな影響力を持つ金融界のそれについては、かつての公職に就いていた者にとっては絶対的な重要性を持つものではなかったのかと思う。「信用秩序」というものは、物理的必然性や強制力によって成立しているものではなく(ただし、警察などの強制力を担保としている事実はあろうが)、人々の意識、意思に大きく依存していると思われる。したがって、政治に携わる側にある者にとっては、気にしても気にし過ぎることがないほどに重視するものであるはずだ。
 それにもかかわらず、あの小泉首相は、例の調子で「問題ないんじゃないんですか」と述べたという。要するに、何ら問題意識のない彼にとっては、何もかもが「問題ではない」ことになるようだ。いい加減なチェックの米国産牛肉で国民が発病しようとも、それだってさしたる問題ではないのであろう。うやむやのままに、米国産牛肉の輸入再開が合意されようとしているとも聞く。
 こうした、立場としての責任感を微塵とも引き受けようとしない者たちが、勝手放題のことをしているのだから国の内実はおろか、「国家の品格」までも失いかけるという腐敗ぶりとなるのであろう。
 船長は「沈没船」と命運をともにするか、脱出するとしても最後だというのが常識のはずである。が、現状の政治経済領域の「船長」たちは、我先に利を追求する醜態のように見える。

(※注)
<日銀法は、日本銀行の目的を「物価の安定」と「信用秩序の維持」とし、金融政策における日本銀行の独立性を強化すると同時に政策決定過程の透明性を強化することを基本理念としている。>(「日経 経済・ビジネス用語辞典」より)

 で、最初に「目くじら」を立てて強調しておくべきは、こうした事件が発覚した際、一般庶民が「ダラシナク」反応してしまうその大間違いについてであろう。
「まあ、お偉いさんたちはみんなやってんじゃないの……」とか「そんなことに目くじら立てていたら身が持たないよ……」とか言って、妙な「寛容」ぶりを示すものだが、要するにこの種の庶民のこの「ダラシナサ」が、結局この国をここまで腐らせてしまったと推定されるからである。
 ここで、この振る舞いについて深入りするつもりはないが、「悪の温床」というものは多くの場合、無責任な大衆が手を貸して加担しているという背景がありそうだということなのである。ここにも目を向けないかぎり、すべては上滑りして行きそうだと感じている。

 先ほど、この国に関して「沈没船」というような不吉な例を出したが、あながち突拍子もないことだとは思っていない。国の財政そのものがそれに匹敵するような事態となっていることは周知の事実であろう。
 それに加えて、そうした事態を抜本的に解消するのではなく、単に帳尻合わせをするがごとく、国民しかも弱い立場にある者たちにすべてのしわ寄せを被せて、強い立場にある者たちは、まるで「火事場泥棒」のごとく醜い利益追求に走っている。
 人間社会の大原則である「共に生きる」という理念を踏み躙り、「弱肉強食」をスローガンとして憚らなくなった国や社会というものは、まさに船舶としての本質である浮力を失いつつある、そんな「沈没船」以外ではないのではなかろうか。
 こうした状況が、「沈没船」のイメージを否が応でも引き寄せることになるのである。 昨日、「自殺対策基本法」なるものが成立したそうである。だが、これを良いことだと受けとめることなぞはできない。そう確信した。こんなことをしなければ間に合わなくなるほどに、この国この社会に絶望する人々が多くなってしまった事実をこそ、嘆かわしく再認識させられるからである。
 やること為すことがチグハグだ。また、奏効するなぞとは到底思えない。目先の処方箋でどうにかなるような水準ではなくなっていることをこそ、冷静に凝視すべきではなかろうか。
 まあ、今やれることは、これ以上「火事場泥棒」をのさばらせないことなのかもしれない。また、「マッチ・ポンプ」さながらに軍事的危機を煽りあう狂気の火遊びもやめてもらいたいものである。北朝鮮が長距離弾道ミサイル「テポドン2」を発射台に据え付け、スタンバイOKの状態になっているとか…… (2006.06.16)

2006/06/17/ (土)  何はともあれ……

 先週と同様に、朝一でおふくろと姉を眼科医院へと運んだ。病院では都合二時間以上も滞在することとなる。
 白内障手術をしたおふくろの左眼は、この一週間経過してきわめて良好であるとの結果が出た。また今日は、もう片方の右目の同手術のための検査も行ったようだが、こちらの方は問題なしとはしないとのことであった。
 よくはわからないが、糖尿病が原因で、瞳孔の開き具合が悪く、白内障手術を難しくしているとのことなのである。今しばらく遅れていたら、手術そのものが不可能になったらしく、現状ならば手術の難易度は高くなるらしいが何とか進められるとのことだ。左眼の手術の際にも、同種の傾向があったようであり、前回の手術中には、執刀医が「困った」様子の会話をしていたのをおふくろは聞いていたらしい。
「大丈夫よ。左眼の方だってうまくやってもらったんだから、ねっ」
と言う姉の言葉に励まされていたおふくろであった。
「多少梃子摺っても再手術という手もあるようだし、そう心配しても始まらないよ」
 わたしはそう言ったが、昨年末に入院した際に、白内障の再手術のために来院していた患者さんのことを思い起こしていたのだった。そしてちょいと悪い冗談まで口にした。
「万が一のことがあっても、すでに左眼が良く見えるようになっているんだから心配しない方がいいよ」
「まあ、そう言えばそうだけどね……」
 おふくろは、消せない不安の前でやや立ち往生しているような様子でもあった。

 しかし、白内障というのは徐々に進行していくため、いつの間にか視力が落ちて行くものであるようだ。突然のことであれば、その差異に気づきやすいものの、なだらかに悪化する症状は驚きがないことは救われるものの、いつの間にか見知らぬ地点に立たされるということになるみたいである。
 今日は、手術後の左眼が「0.3」から「0.8」以上に回復したことを喜んでいるおふくろであった。
「良く見えるようになったら部屋の中のあっちこっちが汚くなっているのがわかってね。今まではそんなことが全然気にならなかったのにね」
 そんなことをおふくろは言っていたが、昨年の夏に、あまりの汚れ方に業を煮やし、わたしはトイレや風呂場を修理してあげたのであったが、その時にはすでにかなり視力が悪化していたのかもしれないなあ、と振り返ったりしたものだった。
 おかしなことも言っていた。
「良く見えるようになったら、マミ(飼い猫)が綺麗な色の毛並みだって改めてわかったの。今までは、薄汚れた汚い猫だなんて思っていたんだけどね」
 手術のお陰で、マミも一気に「名誉挽回」したということなのである。

 病院からの帰りは、昼食時ということもあり、またどこかで食事をしようということになり、「旧」家族団欒の時を持つことになった。
 手術というような、決して喜ばしい案件ではないにしてもである。その事で互いに心をひとつにし、気遣い合う時間ができる。こうした、しばしの屈託のない共通の時間を過ごすということは、そう滅多にあることでもないのだから、精一杯味わっていいことなんだろうな、と、ふと感じたりしたものだった…… (2006.06.17)


 立て続けにPCトラブルが3連チャンにもなると、ほとんどキレそうになる。そして何かタタリでもあるのかと、弱気になりそうな気配が……。
 先ず、昨夜から根を詰めた作業が失敗していた。とあるツールを使って、過去の気に入ったビデオコンテンツをDVD化する作業であった。何か不明な原因があって、昨夜試みた時点では失敗の憂き目をみた。そこで、結構な時間もかかるため、夜の段階で仕掛けて、朝に出来上がる段取りをとった。そして、さあ、出来たかな、と書斎へ行ってみるとまたまた失敗であることが判明したのである。朝一でガックリとなってしまった。
 DVDへの書き込みは、長時間かかる上にメディアとて安くはない。引っ張られた挙句に、「不明な原因でこの作業は失敗しました」との報告表示をもらっては、ガッカリしない方が不思議であろう。

 まあ、しょうがないと思い切り、別な案件に目を移した。自宅で、サブPCとして使っているインターネット環境がどうもおかしいのだった。これは、事務所へ持って行って本格的に調査、修復する必要がありそうだと見込んでいたのである。大した時間はかからないものと考えていた。
 ところが、事務所に持ち込んで調査してみると、事はいささか深刻であった。ウイルスが原因で、インターネット接続部分が機能不全となっていたのだ。
 そのPCは、自宅にあってもほとんど使わないサブPCであったため、Windows の「セキュリティ・ホール」の修復・更新を怠っていたことが原因であったようだ。
 そして、結局、気持ち悪い感触であったため、新規撒き直しでOSの再インストールをすることにしたのである。
 相変わらずのウイルス攻撃を仕出かすバカたちに腹が立つとともに、その防備でマイクロソフトが提供している修復ソフトや、その種のウイルス防止用ソフトなどの、その更新プログラムダウンロード量が日増しに大きくなっていくことにも腹が立った。自宅のPCは使用頻度が少ないため電話回線を使用しているのだが、そのため更新プログラムダウンロード量が多いとどうしても後回しにしてしまうからだ。

 自宅サブPCの修復を行っていた矢先、事務所のこれまたサブPCに異常が発覚した。何と、データ・ドライブのハードディスクがクラッシュしていたのだ。週末に作業を終えた時までは何でもなかったものが、今日立ち上げてみるとそのドライブが消失していたのである。
 このサブPCは長年使用してきたもので、今ではそれぞれのパーツがやや古くなっており耐用年数に問題があったのかもしれない。まあ、データ・ドライブとはいうものの、ちょっと前に新しいPCに大半をバックアップしておいたため甚大な被害というわけではない。それにしても、直近のデータの何がしかが消失したことになるのだから悔しい気分がこみ上げたものだった。

 今までにも、PCのトラブルが生じる際、それが重なって生じるという記憶を持っている。偶然とはいうものの、実にいやなものである。
 そう言えば、昨夜は、作業が思い通りに行かないこともあり、気分がやや凹んでしまい、それが引き金となってか、これからの時代状況は暗雲垂れ込めているようだなぞとめっぽう悲観的になっていたようだ。おまけに、昨日の夢もまたその種のグレーがかった内容であり、朝から何ともうつむき加減であったものだ。そんな、悲観的気分というものが次々とアンラッキーを引き寄せてしまうものなのであろうか……。ならば、逆に楽観性でもってラッキーをグイグイと引き寄せねばならぬ。
 今日は休日だというのに、まるで「泣きっ面に蜂!」という按配の難事続きで、ほとほと疲れてしまった…… (2006.06.18)


 PCのトラブル修復でほぼ一日消費することになってしまった。だが、突然、原因不明の不具合発生だと思っていたところへ、にわかに原因が「名乗りを上げてきた」のである。つまり、納得のゆく原因が判明したということである。それで、思わぬ手間がかかってしまったものの、今は爽快感すら感じるほどにスッキリとした気分でいる。

 ハードディスク修復作業は、まずはデータの修復に関心が向いた。が、それを進める過程で、OSからのハードディスクに対する異常反応が再び生じたのであった。どうもこれは、当該ハードディスクの周辺に問題がまだ残っていそうだと目星をつけざるを得なくなった。
 そこで、念のためPCケースの「腹を開き」、「内臓」(内蔵機器)を覗いてみることとした。その時、遅ればせながら、ふたつのちょっとした異変に気がついたのだった。
 ひとつは、当該ハードディスクと対に接続していたセカンダリーのハードディスクが異常に過熱していたことである。確かに、ハードディスクは熱を持つものではあるが、今までに味わったことがないほど、つまり、持てないほどに熱かったのだ。
 そして、もうひとつは、PCの「腹の中」がいやに静かなのである。いつもだと、電源ケースに付けられたファンの回転音が直に聞こえてくると、結構うるさく感じるものである。ここで、当然、あれっ、ひょっとしたらファンが止まっているのかな? という推理が成り立った。
 と、そこまで推理すると、これまで謎と思われていた現象を説明するひとつのロジックがにわかに見えはじめたのである。

 先ずは、電源ケースの空冷ファンが確かに止まってしまっているのかどうかの確認を行った。暗くて見えにくかったものの、風の流れはほとんど感じられず、確認のために回転部分に紙っぺらを差し込んでもファンが回転している気配はなかった。
 これだ! と思わざるを得なくなった。
 要するに、PC内に強制的に空気の流れを作り出し、内蔵機器が発熱するのを防ぐべく空冷作用の機能を果たしているのが、そのファンの役割りなのである。それが、ダンマリとなったとすれば、内蔵機器は長時間のうちに「のぼせ上がって」しまうわけだ。
 上述の、熱くなったハードディスクの原因はまさにこれであったと思われた。そして、ついにこのハードディスクが音を上げてしまい、これの「伴侶」ともいうべき当該のハードディスクが引き摺られるかたちで不具合に陥ってしまったというのが、どうもトラブル連鎖のロジック、真相ではなかったかと思えたのである。
 こうした推理に辿り着くと、これまで過去に起こっていた小さな不具合の現象などが、まるで一本の糸で縫い通されるかのように収斂してくるようであった。それらの現象は、言うならばアラームを上げていたのだったが、鈍感な使い手である自分は、残念ながら見過ごしてきたということになろう。大したことではないと高を括っていたのかもしれない。

 とかく、PCという複雑なエレクトロニクス製品に対しては、不具合の原因もまた目視やその他の感覚では推し量れない複雑さがあると思い込んでしまうものだ。ところが、そうした場合もあるにはあるが、複雑なエレクトロニクス製品とて物理的ボディを持つ物理的存在なのである。人間が感受できる熱や音やその他の力と無縁ではない。これらに関して何か異常が認められたならば、その奥に何らかの軋轢が潜んでおり、そこに原因が隠れているということがありそうなのである。
 知的に追求を続けるならば、原因にはさらに深い原因が作用していて、さらに……ということになるのだろうが、一般のユーザーにとっては、第一次原因を突きとめ、当該トラブルを解消するならばそれでOKのはずであろう。
 つまり、複雑なエレクトロニクス製品と接する時にも、ちょっとした注意力、つまり、異音、異臭、異常振動などに敏感であることが必要なのかと再認識させられたということである。こうした必要性は、何らかの苦痛、苦悩にある者が、ちょっとした変わった所作でアラームを発し、それをレシーブする者がいるのかどうかという人間世界と、かなり似た現象なのかもしれない。

 さっそく、修理作業に取り掛かったのだが、幸い、かつてPCショップをしていた頃の「不良在庫」の電源ケースの新品があったため、難なくパーツ交換を果たせたのだった。 ファンが威勢良く回転し始めたのはいいが、ややうるさい気配を再び覚えるようになった。人間と同様に、元気であるということとうるさいということとは、どうも紙一重の差であるような気がした…… (2006.06.19)


 梅雨の最中だとは思えないほどの夏日である。気だるさまで夏の日の午後のごとくである。おかげで今朝はとんでもない夢を見て目が覚めた。
 夜空に、何機ものUFOが飛び交う光景に驚いていたのである。場所はよくわからないが、どうやら知人宅に訪れていたようだ。すると、背丈のある窓の上部に、まるでわれわれを覗き込むように、UFOが接近していたのだ。その形状は、円盤状であり、上部に大きな半円球、下部に足のようなこれまた小ぶりの半円球が3個ほどついた典型的な円盤型UFOなのである。
 知人ともどもあわてふためいていると、まるでわれわれの驚きを嘲笑うかのように、一機ならず数機の円盤が飛び交っていることがわかった。自分は咄嗟に、かつて見たTVでのUFO番組を思い起こしていた。円盤の下部から光の柱のようなものが伸び、その下に居る人間が円盤に吸い込まれて拉致されるという場面である。
 夢をみている時に、もしそれが夢だとわかっていれば、話の種に円盤内部に「拉致」されてみるのも一興かと思うのかもしれないが、不思議なことにいつも夢ではそれがどんなに突拍子のないことであっても夢だという自覚に至らない。避けることのできない現実だと思い込まされているのである。で、とにかく知人と二人して逃げ隠れに奔走していたのであった。
 最近は想像力が凡庸となったせいか、そのあとの発展性はなく、UFO出現の夢はそこで幕切れとなった。暑苦しさに目覚めて時計を見ると、午前5時前であり、ああもう一時間は眠れる……、と思っていた。

 そんな夢を見たのは、ここ何日か前からか北朝鮮での「テポドン2」発射準備か? という報道が原因していたからなのかもしれない。まことに人騒がせで支離滅裂なお国のようである。
 自分は、TVに映し出される「その人」の姿を見ると、決まって暴走族を思い浮かべてしまう。それもマンガに出てくるツンツンヘアスタイルにサングラス、もとよりマンガなので顔デカという格好である。さすがに「その人」は、暴走族たちのようなプロレス風のガウンをまとってはいないが、その美意識に首をかしげてしまうようなファッションというかイデタチでよくぞ身をかためているぞ、と思ってしまう。
 誰か、ちゃんと教えてやれよ、その格好はとてもおかしいですよ、と、そう思うのである。まさしく「裸の王様」ってことなんだな、とも思ってしまうのだ。
 しかし、すべての問題は、実はここに起因しているのであろう。つまり、誰にもとがめられず、誰にも文句を言わせないその環境が、とんでもない環境の産物を析出するということである。この点は、暴走族の兄ちゃんたちも同じと言えば同じなのかもしれない。本人たちは、もとより視野や頭の奥行きが自慢できるほどに狭いわけだから、これがカッコイイと思い込むと、周りの者が何と言おうと聞く耳を持ちはしない。また、これを信念なんぞとおだてる無責任な者がいたりするから、なおのことフリーズしてしまうことになるわけだ。
 さらに、こういう輩に限って、自身の内部に生じるかもしれない揺らぎに対処するのに、知性なんぞは使わずに、もっぱら手っ取り早い暴力をよしとしている。だから周囲はさわらぬ神に祟りなし、を決め込まざるを得なくなる。そして、環境もまたフリーズしてしまい、絶対零度の世界が支配するということになるに違いない。

 「テポドン2」発射か? というところまで来てしまった現状は、確かに深刻であるが、わたしの脳裏をよぎる言葉は、やはり「甘やかし」ということに尽きる。
 厳しく制することがすべてだとは言わないまでも、孤立と錯覚の悪循環を突き進むことになった者は、その過程でどんなにか周囲の者たちの「甘やかし」という敷石を踏んで行ったかと推定せざるを得ない。その「甘やかし」にも、いろいろな動機があろうかとは思う。だが、善意によるものは少なく、むしろ、無責任、恐怖、悪意などなどの濁った動機が大半ではないかと考える。国際環境で言えば、諸外国の利害関係に基づく政策的な状況も大いにあり得るのであろう。
 ところで、「テポドン2」などに関しての国際問題もさることながら、この「甘やかし」という点においては、国内世論、マス・メディアによる政府与党の「甘やかし」という点は、もっとシビァに注目されていいはずである。要するに、政府与党が提起する時事情報しか取り上げずに、時代を大局的に見つめない現在のマス・メディアは、権力者をとことん「甘やかして」いるということである。小泉政権のこの5年間はまさに、見苦しい限りの「甘やかし」でしかなかったのではなかろうか…… (2006.06.20)


 使い慣れたPC環境に、先日のような不具合が発生すると、非常にナーバスとなってしまうようだ。
 これは、ちょうど長年付き合ってきた人が急に態度を豹変させて驚かされ、そしてその人間関係に過度に神経質になってしまうことと似ているかもしれない。
 今日も、PC環境に接していて、そんなナーバスな一日を送った。

 先ず、データ消失「事件」の「後遺症」とでもいうべき心境に突っ込んでしまった模様である。
 先日のPCトラブルによって、ある程度のデータ消失が発生したわけだったが、まあまあ対処可能な範囲だと見込んでいたものだ。結果的にはそうであったのだが、えっ、ひょっとしたら想定外の損失を被ったのかもしれないと脅かされてしまったのである。
 今日、久々に、とあるソフト製品の注文が飛び込んだのであったが、それを用意するにあたって必要なデータ・ファイルが、ちょっとした錯覚でPC内からなかなか見つからなかったのである。
 先日のトラブルがなければ、検索などを行うなりして落ち着いて探し出したことであろう。ところが、そこがトラブル後の「後遺症」とでもいうべき心的状況であったのだろうか。そのトラブルの際に、同時に失ってしまったのではないか、という余計な心配が先立ってしまったのである。
 そして、もし、これが消失していたとしたならば、再度新たに作り出すことは不可能ではないにしても、かなりの手間とそれに伴う徒労感なしでは済まないだろうと、そんな最悪ケースに捕らわれてしまったのである。何度も、ため息が出たものであった。自己嫌悪感に苛まれもした。
 が、もう一度、ハードディスク内の無数のフォルダやファイルをしらみつぶしに調べてみることにした、というよりそうせざるを得なかった。と、自分が思い込んでいた箇所とは別の箇所に、そのフォルダは「すまし顔」で潜んでいたのである。ホッとしたことは言うまでもない。落としてしまったとばかり思いガッカリしていた財布が、思い違いであり、別のカバンの隅っこに「涼しい顔」をして収まっていたのと同様の図であったと言えよう。
 まさに、PTSD(心的外傷後ストレス障害)とでもいうべき心境に陥り、血相を変えてしまっていたのである。それで、事態を最悪のケースで悩むワナにはまり込んでいたようなのである。

 今日は、このほかにも、PC関連作業での躓きが何件かあった。その際にも、通常の気分以下の凹みかたとなってしまい、そこでもPTSD的な影響が尾を引いているかのように自覚したものであった。
 物事の背後には、すべてケース・バイ・ケースの客観的な個々の原因なり、因果関係なりがあるはずである。落ち着いた平静な気分でそれらに対面するならば、何ということもなく気分に左右されずに対応できるものだ。
 しかし、自分の内的状態が何らかの理由で波立っていると、その不安定な色調が対象を悲観的に塗りつぶしてしまうかのようである。人は、度し難く主観的な存在なのだとつくづく感じさせられた。

 いまひとつ思いを寄せた問題があった。それは、PC環境をはじめとして現在のわれわれの環境は、不明なことやブラックボックスの事象が多過ぎ、われわれは、そうしたブラックボックス群の森の中で、手探りと勝手な解釈によって場当たり的に身を処しているのかもしれないという事情についてである。
 もっぱら、アナログ的な素朴な物体とその物理的諸関係とに対面していたであろう昔の時代は、何かトラブルに遭遇したとしても、日常生活で得とくしている体感的推理力で多くを納得することができたのではなかろうか。きっとそうであったに違いない。
 しかし、現代の環境は、いざ何らかのトラブルに遭遇した時、その原因を推測するにもあまりにも複雑過ぎるかのようだ。しかも、原因を構成しているパーツ類が、その内部構造を曝け出してはおらず、いわばブラックボックスとなっている場合が多い。だから、何がどうなってトラブルが生じたのだか、誰にもわからないというようなケースが頻発するのであろう。
 これは、エレクトロニクス関連製品周辺のことに限らず、組織や社会の制度類にも、また現代人という人間存在自体についても共通したきわめて現代的なことであるような気もしている。
 とにかく、わからないこと、理解できないこと、納得できない不可解さに囲まれて、それでも「まともっぽく」生きなければならないというのが現状であるかのようだ。
 現代人が、感情に動かされやすくなったり、「幼稚」っぽくなっているかもしれない大きな理由は、わからないことをわからないままに生きることを強いられているからだ、と推量するのは見当外れであろうか…… (2006.06.21)


 昨日の朝、ラジオ番組「今日は何の日」で、懐かしい言葉を耳にした。「カルチェラタン」という、パリ大学のあるラテン地区の名である。昨日、1968年の6月21日は、御茶ノ水駅前及び本郷三丁目付近に全共闘系の学生たちが集まり、日本医科歯科大などの付近の大学から持ち出された長椅子などで道路を塞ぐバリケードが築かれ、「解放区」さながらの空間が作り出された日、ということであった。自分も、そうして聞かなければ、もはや記憶の下層でしっかりと化石化していた事実であった。

 当時、フランスの学生運動は世界各地に先行するかたちで過激化しており、「カルチェラタン」には学生たちが占拠する「解放区」と呼ばれる空間が構築されていたのである。そして、日本でも折から全国各地へと広がる気配を見せるほどに学生運動が高まっていた。
 ところで、御茶ノ水駅前及び本郷三丁目付近といえば、周辺には、中央、日大、明治、法政、東大などなど多くの大学が密集しており、先ずは学生街であり、御茶ノ水駅近辺はその中心的位置を占めていたのである。フランスのラテン地区に匹敵する地域だったのかもしれない。そこで、フランスの「カルチェラタン」に倣えとばかりに、「解放区」さながらの空間が作り出されようとしたのであろう。
 とまあ他人事のような書きようとなってしまったが、「御茶ノ水カルチェラタン」の現場には自分も紛れ込んでいたのだった。学内で調達してきたメットを被り、催涙ガス弾で涙ボロボロさせながら、おまけに機動隊の兄ちゃんの楯でメットの上から張り倒されるというお粗末まで経験していたのである。まあ、ぶち割れた敷石のそのかけらの一つや二つ、三つや四つは雰囲気の勢いに乗って投石もしていたのだから、しょうがないといえばしょうがなかった。

 当時のことを思い起こしていけば切りがない。その詳細を書こうというつもりはなく、昨日がそういう日であったということなのである。
 そんな昨日、偶然にも、こんな話が多少とも通じるとある同世代人と話をすることになったのである。仕事関係の知人であった。以前から、多分、同世代の団塊世代ではないかと思わないでもなかったが、案の定図星であった。
 そんな推測をしていたのは、団塊世代特有(?)の匂いがしていたからである。特有の匂いといえばヘンであるが、よく言えば「人懐っこさ」、ありていに言うならば人間関係面での「暑苦しさ」というような面に注意を寄せていたのである。

 その知人は、良いも悪いも、まさにその典型だと思えた。営業畑に居ついたせいもあるのか、「その匂い」は尋常ではないグレードアップがかけられていたかのようだった。
 昨日もいつもながら、互いに崩れた口調で話し込むようになり、何がきっかけだったか、歳の話に雪崩れ込んだ。
「多分、私と同じ団塊世代なんでしょ?」
と、わたしはぶつけてみた。
「そう、社長よりはちょっと兄さんというとこですよ」
 彼はそう返したが、この「社長、社長」という呼び方も匂いなしではないし、どこかでちゃんとわたしの生年月日なんぞを調べ上げて記憶しているところも匂いプンプンなのであった。
「23年の1月だから、ちょいとね、兄貴にあたるわけですよ」
 と、言葉を足し、それから彼は、訊いていないにもかかわらず、採れた場所から、出身大学、最初の就職が銀行であったこと、そして家業に戻りそのあと別な業界へと挑戦し、そんなこんなで現行のしがない業種にはまり込んでいるのだと、実に楽しげに「報告」するのであった。
 その「報告」で、彼も「御茶ノ水ラテン区」のとある大学出身だとわかったのだった。そんなものだから、冒頭の「今日は何の日」の話が話題とできたのである。ただ、彼は両手でマージャンの手つきをして、
「当時、わたしゃ、どっちかというとコレばっかやってましたからね」
と学園紛争の話には乗ってはこなかった。が、それでも当時の御茶ノ水界隈の雰囲気やら、その後の、団塊世代が歩んだ時系列やらをいろいろと共同追体験したものであった。

 別に、血液型と同様に、いくら世代が同じだからといってそれゆえに同種だと一括りにするつもりなんぞは毛頭ない。だが、若い世代を「異邦人」と感じはじめてから久しい昨今、同世代で、多少なりとも共通体験がある者と話をするのは、ある種の希少価値があるのかな、と思ったりしたのである…… (2006.06.22)


 「金で買えないものはない」という思い込みが、現代の大きな特徴なのであろうか。
 『バカの壁』の流れにある養老 孟司著『超バカの壁』を流し読みして、ちょっと考えてみた。ところで、米国映画がヒットすると、『〜 パートU』とか『〜 パートV』となるものだが、こちらは『超 〜』となったわけだ。三度目の場合はどうするのだろうか、と余計なことに気を回したりした。
 最近は、『ダ・ヴィンチ・コード』でも指摘されたように、タイトルのネーミングがヒットのための大きな前提であるとか……。まあ、そこまで商品売り込みの手立てに手が込んできたということなのだろう。

 「金で買えないものはあるのかないのか」「金がすべてなのかそうでないのか」といった問いは、あまりにもナイーブ(素朴)過ぎるような気がしないでもない。つまり、現実は、「金で買えないものはない」ような、「金が(人々の関心の)すべてである」ような事態へとひた走りに走っているようだからである。一応誰もが、ホリエモンのようなあからさまな発言を抑制して、「金はすべてではない」とは言ってみるものだ。しかし、そのタテマエを決定的に崩すに足る、「金で買えないもの」に関する実体験の乏しさに、はたと気づいてしまったりする。ホンネは、「金さえあれば何でも叶う」と思っていそうな自身がクローズアップしてくるのを抑えられなかったりするのかもしれない。

 また、金がなければ苦しい思いをするような現実が、極度に深まっているという時代環境の変化もあろう。昔は、無一文の者をも、共有( ⇔ 私有 )の環境が、あるいは優しい人たちの善意が、生かしたのではなかったか。
 しかし、都市に代表される現代社会は、いずれをも駆逐してしまい、金がなければ最低限の人格さえも許容しないかのような非人間的環境を構築してしまったかのように見える。大都市のど真ん中で「餓死」した家族の報道が、今でもあるというのが現実の一端であろう。

 前述の養老孟司氏は、逆説的に、「金で買えないものはない」というのは真実だと言ってみせる。つまり、こういう理屈になる。
 「金で買えないものはない」と考える者は、要するに、「金で買える」範囲内の世界しか視野に入っていないのだから、「金で買えないものはない」としか言いようがない、ということである。
 紛らわしい言い方をすれば、「猫に小判」ということわざがあるが、その意味は、猫にとっては鰹節その他の食い物こそがすべてであり、「小判」なんぞは視野の外、「想定外」、もっと言えば存在しない世界なのだということであろう。
 ちょうどこれの逆であり、「金で買えないものはない」と断言できる者は、「金で買えるモノ」しか見えていない、あるいはそんなモノにしか存在意義を認めていないのであるから、存在しないと言い切ることも可能であって当然なのだろう。自分にとっての世界は、「金で買えるモノ」によって構成されていると考えているわけなのだ。
 では仮に、「金では買えない」という難儀に遭遇した場合にはどうするのであろうか。まあ、「存在しない」と自身が決め込んだ対象に遭遇することは稀なのであろうが、その時はその時で、「金にものを言わせる」かたちの媒介的手段でも駆使するのであろう。「金でいうことをきかない」者がいたとした場合、その者の「親しい関係者」の中に「金でいうことをきく」者を探し出し、その者に一役買ってもらうとでもいうことになるのであろうか……。「金でいうことをきく」者は、うなぎ上りで増えてもいるのだから、あながち不可能な手ではないのかもしれない。

 しかし、それにしても、「経済万能的」なこの現代社会は、あらゆるモノ、存在を「金」に換算して、商品としてしまう、したたかな「錬金(かね)術」を作り上げてしまったものである。商いというか、ビジネスというか、それらは単なる名称であって、要は、「金で買えるモノ」の裾野を限りなく増やし続けていることになる。
 いつぞや、「ニュー・ビジネス」の一例ということでTV番組が紹介していたものに、「家族代行」とかというビジネスがあったようだ。つまり、自分の家族を亡くしてしまった「クライアント」に、お望みの通りの家族もどきの迫真の振る舞い(演技)をご提供して、それでナンボという商売なのである。
 こうして考えてみると、想定し得るあらゆるモノや事柄がビジネス対象化されていくならば、まさに「金で買えるモノ」だけの世界へと変貌して行くのであろうか? 「金で買えないものはない」とうそぶく輩に対して痛撃を及ぼしたいと感じている者は、今こそ、「金で買えないものがある」という命題を、黒板にチョークで(別にそうでなくともいいのだが、高校の頃の数学の授業のことをちょいと思い出してしまったまでだ……)、明々白々に証明しなければならない! あるいは、自身の身を賭けて立証する必要がありそうな緊急時なのかもしれない。自分も、しばしこの命題をあたためてみようと思う。
 ただし、「愛はお金では買えない」というような使い古された表現では、シニカルな現代人たちを説得することはできないかもしれない。なんせ、「お金で買える程度の愛」しか知らない人々にとっては、「お金で買えない愛」とは「猫に小判」でしかないのだから…… (2006.06.23)


 朝からの夏日であった。例によって、朝一でおふくろと姉を眼科病院まで送迎した。
 昨日受けた右目の白内障手術も幸い無事に推移したとのことであった。医者はやや難儀をして、手術は30分を越したらしい。そのため、本人も大分ストレスを感じたようで、念のため泊めてもらっていた姉夫婦の家で、昨夜は夕飯後、気分を悪くしてもどすなどのリアクションをもたらしたということであった。
 無理もないことだったかもしれない。80を超えた年寄りが、短期間に二度の手術に耐えたのだ。それも、目の手術であるために、局部麻酔はあるものの意識も視界もしっかりした状態で耐えるのだから精神的ストレスは決して小さくはなかったはずだろう。
 ましておふくろは、明朗快活ではあるものの、どちらかといえば物事をシリアスに受けとめる性質(たち)である。表向きは平静を装っていても内心は別の人である。手術前や手術中の緊張度はいかばかりのものであったかと推測してあまりある。また、日頃、孫やひ孫に対しても、「『しっかりしたおばあちゃん』なんだかんね!」と「演出」しているおふくろにとっては、面子というものもないではない。泣き言を言うまいとする部分、内に篭ってしまうストレスはどこかで発露されるのかもしれない。

 例によって、送迎中のクルマ内では後部座席で、母娘の「親子漫才」が華やかであった。
「だから、お母さんはもっと『いいかげん』になればいいわけよ」
と、姉は、とかく物事をシリアスに受けとめるおふくろに向かって物申している。術後に点さねばならない何種類かの目薬の話であった。
「お母さんときたら、3分経ってから次の目薬と言われたら、きっちりと3分を計ってるんだから恐れ入っちゃう」
「だって、そういうとこきちんとやらなきゃ気がすまないのよ」
「そんなのねぇ、大体の『いいかげん』でいいものなのよ」
「いや、あたしは『いいかげん』っていうのは嫌いなの。きちんとやりたいの」
「違うのよ。お母さんの言う『いいかげん』というのはちゃらんぽらんということでしょ。そうじゃないの。『いいかげん』というのは『良い加減』といって大事なことなのよ」 「なるほど」と、運転しながら耳にしている自分は思っていた。「きちんとやりたいの」と言い張るおふくろだから、これまでも、何か行事があったりすると何日も前から念頭に置いて「緊張しはじめる」わけなのであった。手術のことにしたって、多分、内心は悶々としてきたに違いない。まあ、かといって、それ一辺倒でもなく、どこかでサラリと払拭してしまう思い切りの良さもあったりする。そうした気性を受け継いでいるのがわたしなのであるが、その辺がどういう構造になっているのか未だによくはわからない。

 片や、姉の気性である。姉の口から出た「いいかげん」という言葉にことさら食い下がったおふくろの心境には、姉に対するおふくろの「レッテル貼り」的な感覚があるのやもしれない。
 いつだったか、おふくろの部屋の襖を直してやった時だったか、ポロリと口にしていたものであった。
「だめなのよ。あのこ(娘)に頼むと『大雑把』になっちゃって、あたしが気に入るようにはならないのよ。やっぱりヤスオじゃなきゃきちんとならない……」
 とまあ、これは手先の器用不器用の類の話なのであろうが、手先以外に関しても、姉はどちらかといえば「ラフ」なタイプであるのかもしれない。それは決して悪いことではない。現に、気弱になった際のおふくろには、姉の口から出るセリフが最も良薬なのかもしれないと感じることもあるからだ。おふくろも、ついつい度が過ぎたかもしれないと自認せざるを得ないような落ち込みの気分の時には、姉のハードボイルドなセリフを心地よく受けとめて、「そうね、ま、あんまり気にしない方がいいかもね」なんぞと受けていたりする。
 母と娘とはいえ、気性がやや異なっている点がありおもしろいといえばおもしろいし、それが両者にとって意味のある関係を作っているようにも見えるのである。

 姉の気性はどことなく亡父のそれを受け継いでいると言えばそう言えないこともない。 ところで、おふくろはやはり亡父を心の拠所としているようである。亡父が存命の際には、と言っても何十年も前の昔のことになるが、しばしば愚痴ばかりをもらしていた記憶が鮮明だ。両者の気性の違いによって生まれるいろいろな不一致をこぼしていたということであろう。
 しかし、父が亡くなってからは、もちろんそうした不一致も消滅したからだとシニカルに言って言えないこともないのだが、仏となった父を俄然頼りにしはじめたかのようなのであった。とにかく、何か心の迷いが生まれると、仏壇に手を合わせて、「どうか、おとうさん何とか見守ってやってください……」と泣きついて(?)いるようなのである。
 今日も、今回の手術のことで何度「おとうさんに頼む」ことがあったかと、白状していたものであった。「あいつも長生きして結構辛い思いをしてるって、おとうさんがきっと助けてくれてるのよ」とぬけぬけと言ってはばからないありさまである。「『八』の数字に出っくわすと、あっ、おとうさんが助けてくれる、って思っちゃう」とまで言う始末である。「八」というのは、亡父の名の「喜八郎」の「八」であることは言うまでもない。
 ただ、こうした「他愛のないこと」って有っていいんだよな、とつくづく思えるようになった。いや、こうした「他愛のないこと」を取り除いてしまったら、人生なんてものはとんでもなく味気なく、そして価値少ないものになり下がるものではなかろうかとさえ思ったりした。
 たとえば、「あの世」があって、つれあいが先立たれた者は、そこできっとあの人は自分をいつまでも待っていると信じたりする。文句なく、異議なく、それはいいんじゃないか、と考えたい。そこには、そこはかとないリアリティが確実に存在するのであって、科学的にはどうだこうだと言うことの方が、むしろ迫力も説得力もないように思えたりするのである。
 昨日の話、「金では買えない」ものに関するベスト・サンプルが、ここにもしっかりと鎮座していたように思えた…… (2006.06.24)


 近所で飼われている犬と顔なじみになろうとしている。先日も書いた関西の漫才コンビ「大助、花子」の「大助」にどことなく似ている愛嬌のあるやつのことだ。
 ただ、まだ子供だけれども実に頑丈そうなあごをしており、うかつに手を出して噛まれてはシャレにもならないと多少警戒している。一応、「ハルク」(そういう名であるらしい。「大助」のほうがずっとぴったりだと思っているが……)は、わたしのことを認知しているようだが、まだ油断はできない。そこで、猫にやっている餌をひとつまみ、挨拶がてらに献上したりしてみた。時々、手なずけるための下工作でもしておいた方が安全かと思ったりしているわけだ。
 というのも、以前、近所の家にいた犬は、とてもお天気屋で、しっかりと認知しているはずの人に対してもしばしば威嚇行動に及んだ覚えがある。それも、家内の話では、人間側が内心で「今日はちょっと危ないかな?」と思ったりすると、ほぼ確実にそれがその犬には伝わってしまうようであり、それに対する的確(?)なレスポンスとしての威嚇行動が返ってきたのだという。

 この辺のところは、微妙な問題ではあるが、どうもそういうことというのはありそうな気がしている。つまり、犬、いやひょっとしたら他の動物もそうなのではないかと推測するのだが、言語を使わない動物たちというのは、その分、相手の無意識な状況を洞察してしまう能力があるのではなかろうかと思うわけだ。それを「テレパシー」と言うかどうかは別にしてもである。
 そしてまた、人間というのは、自身で意識の上で自覚する以前から、自身の心理や感情というものを身体じゅうで表現してしまっていそうな気もするのである。人間同士であれば、勘が鋭い者以外は容易に見逃してしまうような内的環境に関する情報を、それぞれの人間は言葉以前に発信しているのかもしれない。
 だから、一般に言葉による「対話、会話」と呼ばれるものが人間同士のコミュニケーションだとはされてはいるが、実はその「レイヤー(層)」は全体の一部なのであって、膝を交えた「対話、会話」の実態には、他の重要な要素としての「レイヤー(層)」が潜んでいるのかもしれないのだ。
 そして、犬や動物たちは、人間の言葉の「レイヤー(層)」の情報は後付け的に受けとめて、それよりも先に、言葉以外で発せられる他の「レイヤー(層)」での情報を察知するという、そんな事情があるのかもしれないと考えるのである。
 きっと、言葉という手段が今のように整備されていなかった太古の時代には、人間もまた、犬や動物たちのように、豊かな察知能力を維持していたのではないかと想像する。その能力が、「テレパシー」をも支えていたのかもしれない。

 養老孟司氏は、同様の事情を、言葉を司る脳の部分と脳全体との関係として以下のように説明している。

<脳は勝手に動く
 実は意識的自己がすべてだという西洋的な考え方は、脳科学の視点から見ても限界があります。たとえばあなたが何か喋るとする。…… 実はその言葉を意識する瞬間の一秒前に、あなたの脳はもう動き出している。意識する前に脳が勝手に動いていると言ってもいい。実は意識してから喋っているのではなく、その前に脳は何かをいうように動きだしているのです。……
 脳が勝手に動くというのは身近な例でもわかります。火に手を突っ込んだら、反射的に手を引っ込める。「熱い」と感じて「アチッ」というのはその後です。
 手が引っ込むのは、脊髄を通った反射だから速い。同じ刺激が脳に行って、それから「アチッ」というまでに大体一秒かかっている。
 我々の意識というのは、たとえてみれば国際電話かテレビの衛星中継みたいなものです。国際電話ではこちらが話してから向こうが反応するまでタイミングが少しだけ遅れます。
 大事なのは脳をどういう状態に置いてやるかなのです。だから身体を変な状態に置いたり、極限状態に置いたりすれば、人間というのはすぐ狂うし、とんでもなく悪いことをする。>(養老孟司『超バカの壁』より)

 言葉やそれを介した自意識が人間のすべてではないということなのである。
 ところが、現代という時代の環境は、あまりにも言葉での情報と意識を肥大化させたかたちで構成されている。ここに、現代という時代の危うさの根源があるのだとも言えそうだ…… (2006.06.25)


 <世界第2位の富豪とされる米投資家ウォーレン・バフェット氏(75)は25日、同1位のビル・ゲイツ・マイクロソフト会長の夫妻による慈善財団などに合計で約370億ドル(約4兆3000億円)分の株式を寄付すると発表した。個人資産の約85%にあたるとみられ、ロイター通信によると米国の寄付金額の記録としては過去最高となる。>( asahi.com 2006.06.26 )という記事は、福井日銀総裁も当然読まれているのであろう。ご感想を聞きたいものである。名誉ある公職に就きながら、私財に拘泥しているこの国のリーダーたちの情けなさに気づいてもらいたいのである。日頃、米国米国と、自分の国の将来よりも「本国」に目を向けているのならば、「本国」には使い切れないお金を合理的に処分するスマートな人々もいることを知ったらいい。

 しかし、自民党政府、および腐り切った官僚たちはまことに「えげつないお考え」しかお持ちではないようだ。
 <生活保護費を削減、母子加算の要件厳しく 厚労省検討>( asahi.com 2006.06.25 )という記事を読み、不快感が頂点に達してしまっている。ちなみに、主旨は以下のとおりだ。

<厚生労働省は社会保障費削減策の一つとして、生活保護制度を大幅に見直す方針を固めた。一人親の家庭の給付に上乗せされている「母子加算」の支給要件を厳しくするほか、持ち家に住むお年寄りには自宅を担保にした生活資金の貸付制度を利用してもらい、生活保護の対象から外す方針。給付の基本となる「基準額」の引き下げも検討する。同省は、これらの見直しで国費負担を最大で年間500億円ほど削減したい考え。早ければ07年度から実施する考えだが、「最後のセーフティーネット」のあり方にかかわるだけに議論を呼びそうだ。>(同上)

 「格差社会」を野放図にでっち上げておいて、その最低限の「セーフティーネット」もまともに作り出せず、挙句の果てには、先進国だと呼ばれるには恥ずかしい「社会保障費削減策」に雪崩れ込むのだから、自民党政府の無策無能には恐ろしささえ感じる。
 以前にも書いたはずだが、「格差社会」の肯定は、結局「コスト高」となってしまうのである。現に、生活保護制度の<受給者数は95年の88万人から06年1月には149万人に急増。>だ。
 記事によれば、<生活保護の基準額は、東京23区内に住む一人暮らしのお年寄りで月約8万1000円。国民年金の満額(6万6000円)より高いことから、自民党などから「引き下げるべきだ」との声が出ていた。>とある。これが自民党なのであろう。
 同記事によれば、<東京23区内に住む3人世帯の場合、住居費や医療費を除いた生活費(生活扶助)の基準額は月約16万7000>とあり、まずは、<国民年金の満額(6万6000円)>自体がみみっちいことになぜ目が向かずに、みみっちい額を基準にして恵まれない人々からさらに毟り取ることに関心が向くのかということである。了見が狭くなければ採り得ない発想であろう。

 財源難を言うのであれば、しっかりと「懐具合」の全体を公明正大に明るみに出し、ムダな支出やイカサマや、不要不急の出があるのかないのかを国民に納得してもらわなければならないだろう。
 厚労省にしたって、年金基金を無能さによって目減りさせたことや、相次ぐ不正支出や贅沢な宿舎建設などの不明朗な事実を抱え、果たして財源難をテーブルに上げる資格があるのかと疑わしく思うわけだ。
 また、つい最近の自民党政府の例では、「米軍再編で3兆円にのぼる経費を負担」という、一体何を考えているのか理解に苦しむという問題があるはずだ。軍事問題に関して云々し始めると長々しくなるので避けたいが、要するに責任を持つべき国民に対してよりも、米国政府に対して気をつかい頭が上がらないという話に過ぎないではないか。国民をなめ切っているわけだ。
 ブッシュとの首脳会談の「みやげ」に、国民の将来に不安をもたらす「米国産牛肉の輸入再開」合意を持っていくのが、これまた小泉首相のアンビリーバブルな政治家ぶりである。なんでこんな不甲斐ない男を国民は支持して来たのかと今更のように嘆かわしく思えてくる。

 今、ほぼ確実に言えることは、政治悪をしっかりと見つめ、監視する国民が少なくなってしまったことだろう。とりわけ、若い世代が危うい自分たちの将来がのしかかろうとしているにもかかわらず、あまりにも政治領域の問題に距離を置き過ぎている点である。
 先日、韓国に関する報道で、学生たちが抗議行動からかつて60年代の学園闘争のようなやや過激な政治行動にまで及んだというシーンを見た。世界は決して平和で、問題のない社会となっているわけではないのだから、そんなことがあったとしてもむべなるかなと感じたものであった。
 で、その時、この国では社会矛盾がますます深まっているにもかかわらず、学生たちが政治的行動をする気配がまったくないことに改めて気づいたものである。いや、政治的行動どころではない。政治的関心すらどこかに置き忘れてきたかのようである。
 この傾向は、わたしの推理するところ、決して自然発生的に生じたものではなく、一定の年月をかけてしっかりと「仕掛けられてきた」ものだったのであろう。いや、いつの時代もそうであったとも言えるが、政治のジャンルから「批判意識」を骨抜きにするには、学生たちからはじめるに如くはないと、権力側の参謀が考えたとしても全然不思議なことではない。そして、そのためには、大学から「批判意識」が芽生えないような環境作りが必須となり、それがこの2〜30年の間に着々と進められてきたかのようである。
 「憲法改悪」に象徴されるような、歴史逆行的な「反動」的政治状況が差し迫っている推移は、決して「千載の一隅」として保守勢力が飛びついているものと言うより、プログラミングされた所定の準備の上で運ばれようとしているのであろう。
 また、きっと「金で買えないものはない」という思い込みが浸透している現状も、この政治的アパシーの絶望に近い風潮と固く結合しているかのようである。

 「右」だ「左」だという主義が歴史から遠ざかってしまった現在、これまで「左」サイドが担ってきたかもしれぬ現状への「批判意識」は、新しい何に依拠すべきなのだろうか。そうした新しい「批判意識」で身をまとった若い世代は、一体どのように登場してくるのであろうか…… (2006.06.26)


 今、なぜ「バカの壁」が衆目を集めたのかという点を振り返ると、やはり現代という時代における重要な問題を照らし出しているからであるように思える。
 ちなみに、「バカの壁」という表現をおさらいしておく。

<養老孟司氏の『バカの壁』が言わんとすることは、本来人間とその社会というものは、人間個々人によるこの「デジ」・「アナ」変換が暗黙の前提であったにもかかわらず、現代「脳化社会」(都市社会)では、「デジタル」一辺倒の環境、つまり脳の所産である言葉によって人工的に構成された状況、環境が支配的となり、人々も「デジタル」という言葉だけで「ものがわかったような気になっている」という、そんな不自然さの指摘であったはずではなかったかと思う。その実、「わかってはいない!」ために、人と人、人と集団組織、集団組織と集団組織との間に埋めようのない溝が「壁」のようにできてしまう、ということだったかと了解している。>(当日誌 2004.10.31より)

 つまり、昔から人と人とが容易には理解し合えないという「壁」のような現象はあったはずだと思える。しかし、言葉以前の生活体験の共通性、共同性が濃厚であった時代には、それらが言葉によって生じる「壁」に「風穴」を開けて、相互理解を促進させていたのではなかろうか。
 しかし、現代という時代環境は、「言葉以前の生活体験の共通性、共同性」の度合いを薄める一方で、情報化社会と呼ばれるように知識・情報が一人歩きするかのように人と人との間を飛び交うようになった。
 それは、まさに、「金本位制」のように「金(きん)」によって担保されていた通貨が、現在のような必ずしも「金」との「兌換(だかん=交換)」を前提としない通貨制度となったことと似てもいる。
 このたとえで言うならば、言葉や、知識・情報は、「言葉以前の生活体験の共通性、共同性」に担保されることなく、あるいはそれらに「兌換(だかん=交換)」されて了解されることなく、巷に溢れ返ってしまったまさに「インフレ」状態の貨幣のごとくなったかと言えようか。

 で、今日書きたいことは、次の点なのである。
 「(バカの)壁」のようなものができあがってしまっている原因は、言葉や知識・情報の流通に較べて、それらの「暗号」を「解読(デコード)」する装置でもある「言葉以前の生活体験の共通性、共同性」が希薄となってしまった現実という側面が、確かに大きいと言えよう。
 しかし、それだけではなく、いまひとつ注目してよい問題がありそうな気がするのである。それは、言葉や知識・情報を「わかったつもりとなる」ことではないかと……。
 言葉や知識・情報をあたかも「一人歩き」させるがごとくであるのは、人々がこの「わかったつもりとなる」ことを平気で仕出かしているからではないかと邪推するのである。 ちょっとした例を出せば、昨今書店に行くと最近しばしば見かける本の題名に、「今さら(他人に)きけない……」というものがありそうである。これなぞは、人々が一時は「わかったつもり」となっていた(か、あるいは聞き流していた)のに、はたと気がついてみると皆目わからないでいたという、ありそうな事情をうまく表現しているように思えるわけだ。

 かねてより、「わかる」ということは一体どういうことなのかに関心を寄せてきた自分であったが、今日、ネットで「 Amazon 」の書籍紹介のコーナーを覗いていたら、ハッと目が止まる本に出会った。
 西林 克彦著『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』というものであり、その宣伝文には以下のような記載があった。

<「わからない」ことよりも、
「わかったつもり」でいることの方がはるかに問題だ!
理解力・読解力を磨くための一冊
 後から考えて不充分だというわかり方を「わかったつもり」とこれから呼ぶことにします。この「わかったつもり」の状態は、ひとつの「わかった」状態ですから、「わからない部分が見つからない」という意味で安定しているのです。わからない場合には、すぐ探索にかかるのでしょうが、「わからない部分が見つからない」ので、その先を探索しようとしない場合がほとんどです。
 「わかる」から「よりわかる」に到る過程における「読む」という行為の主たる障害は、「わかったつもり」です。「わかったつもり」が、そこから先の探索活動を妨害するからです。(本文より一部改変して抜粋)>

 何でもないことのようであるが、われわれの思考行動の「盲点」が突かれたような、そんな快感が走ったのである。

 われわれは、溢れるごとく乱れ飛ぶ言葉や知識・情報に対して、「自衛的」な一方法として、「わかったつもり」となり済ましているのかもしれない。そして、「そこから先の探索活動」を放棄しているのかもしれない。と言うのも、「わからない」部分を明確にして、その解決を課題とし続けることはかなりシンドイことに違いないからであろう。
 「わかったつもり」でいることは、ある種の人たちのように「知ったかぶり」をする不道徳なふるまいによるものだけではなく、シンドイことを避けたいというそんなメカニズムも十分にありそうな気がするのである。
 しかし、この「わかったつもり」症候群が、「バカの壁」をいっそう聳え立たせるとともに、自身の知的不安をますます悪化させることにつながっているのかもしれない…… (2006.06.27)

<P.S.>
 以前から、『菜根譚(さいこんたん)』の一節で今ひとつ理解に苦しむ部分として、
「知ったかぶり」という部分があった。これも、上記の解釈を援用するならば、知的探索の放棄という点で馴染みそうな気がした。

<利益を求める心は、さして人の本心を傷つけるものではない。それよりももっと恐しいのは偏見にこりかたまることだ。愛欲の心は、それほど人の成長をさまたげるものではない。それよりももっと有害なのは知ったかぶりの独善だ。
【原文】利欲未尽害心、意見乃害心之ボウ賊。声色未必障道、聡明乃障道之藩屏。
(利欲はいまだことごと尽くは心を害せず、意見はすなわち心を害するのぼうぞくボウ賊なり。声色はいまだ必ずしも道をさまた障げず、聡明はすなわち道を障げるのはんぺい藩屏なり。)>(洪自誠 著『菜根譚』 神子侃・吉田豊 訳 より)


 今日はちょいとわがままをさせてもらうことにした。
 今ひとつ気分(機嫌)が優れないため、午後から気分転換を行ってみたのだ。確かに、朝の起床時にも床離れが良くはなかった。もう少し寝ていようかという臆した気分が確かにあった。しかし、それは身体の疲れというよりも、じわっと忍び寄る気疲れ感とでも言うべきか……。泣き言を言ってもしかたがないが、この時代環境のイヤラシサに押され気味となっているということなのだろうか。

 さしあたって急を要する事案もなかったため、今日は仕事場から離れてみようとしたのである。先ずは、この梅雨休みの蒸し暑さが応えたため、先送り先送りにしてきたトコヤに行ってさっぱりしようとした。
 一両日中に、とある葬式に参列することもあり、むさくるし過ぎるこの頭ではまずかろうという思いがないではなかった。その葬式とは、取引先大手企業の社長が亡くなられたということなのである。面識はないのだが、意を傾けることとなったのは、享年59歳ということで、自分とはひとつしか違わないという点からであった。あまりにも早死であると思わざるを得なかった。死因は心不全と伝えられて来た。しかも、その社長のお父上の訃報が入ったのがわずか一ヶ月ほど前であった。仕事上のご心痛に、身内の方を亡くされた悲しみやご苦労が重なり極限状態に立たされてしまったのではないかと、その気の毒さを想像させられたのである。

 そうした知らせが自分の何かが揺さぶられたとの自覚はないにしても、うかうかとはしていられないとでもいった気分をグッと引き寄せたのかもしれない。だからと言って何をどうするといった確かなものを自覚したわけでもないのだが、ただひとつだけ、ふと、思い至ったのは、自分に責任が持てるのは自分しかいない、というようなことであったかもしれない。別な表現をするならば、自分のすべての調子を整えるのは自分だということでもある。これらは、誰がどうだとか、周囲や環境がどうだとか言ってみてもはじまらない。それらをすべて呑みこんだ上で、自分自身で自身をコントロールして行かなければならない。
 そのようにうっすらと再自覚した時、自分は、とある漠然としたことに目を向けていた。
 人の境遇には、メリットとデメリットとがあるはずだろう。まずデメリットばかりということもないとともに、メリット尽くめということもあり得ない。とすれば、人が意を傾けるべきは、デメリットに捕らわれ過ぎて嘆かず、小さくともメリットと思しきものに目を向け、それを最大限に活かすことだろう、と。そんなことは当たり前と言えば当たり前のことではあるが、とかく自分が置かれた環境については、あれやこれやと難癖を付けてはみても、その逆のメリットや潜在的可能性については積極的に探索しようとはしないようである。むしろ、この面にこそ、貧弱で限られたパワーを集中投下すべきなのだろう、とそんなことを考えていた。

 社会環境、時代環境の悪化は、もはや全面展開的なところまで来てしまっているようだ。しかし、その事実をあげつらってそのことで疲弊してみても愚かしい。「九死に一生を得る」かのごとくの生きる道、生きた道をこそ探り当てることである、大事な事は。そんなことを感覚的に自覚するに至った今日なのであった。
 気分転換にとトコヤへ行ったり、その後、思いっきり汗を流すべく蒸し暑い夕刻に足早のウォーキングをしたことはムダではなかったようだ…… (2006.06.28)


 やはり、「わかる」「わからない」という思考活動のグレー・ゾーンに、何か問題が潜んでいそうな気がしてならない。
 一昨日、「わかったつもり」という思考過程が、きわめて現代的な問題だと思われる「バカの壁」現象の遠因になっているのではないかと書いた。それも、「わかる」「わからない」という人の思考に介在する見過ごせない問題だと思われたからだ。

 自分の「勘働き」では、この時代の多くの人々は、真底「わかる」という納得をした上で事をなしているというよりも、「わからない」ままに成り行きで事を進め、それがさまざまな齟齬をきたすことになっているのではないかと思える。何も他人事として評論しているつもりはない。自分自身もこうしたワナにはまって悪戦苦闘していそうな気がしている。

 物事を納得できない状態(=「わからない」)のことが、しばしば「腑に落ちない」という言い回しで表現されてきたことはよく知られている。この「腑」とは、「はらわた、心。心の働き」だそうであり、要するに、とある外界の事態が、自分の「はらわた、心。心の働き」に、消化して落ち、浸透するようなイメージが、「納得できる」ということになるのであろう。
 とすれば、多くのことに納得できず、「わからない」ままに蠢いているわれわれは、外界からの知識・情報と、自身の「はらわた、心。心の働き」とを一体化させることに頻繁に挫折しているということなのであろうか。ありそうなことである。
 いや、もっと悲惨な場合には、そもそも、自身の「はらわた、心。心の働き」というもの自体がナイというケースもあながち否定できない。「はらわた」がナイ、五月の空に舞う「こいのぼり」のごとく、パックリ開いた口から知識・情報とやらを吸い込み、風に身体を泳がせながらそれらを尻尾からそのまま流しているという図である。
 いずれにしても、元来が「腑」と一体化してなじむべき知識・情報を、さまざまな理由で取り逃がしてしまっている、つまり「わからない」でいるというような状態が、残念ながら慢性化しているのではないだろうか。
 NHKの人気番組「ためしてガッテン」は、そんな「腑に落ちない」症候群に苛まれた現代人に対する「ハイ、お薬3日分!」なのかもしれぬ。

 では、「はらわた、心。心の働き」とは何ぞや、ということだ。
 今、「ためしてガッテン」を引き合いに出したが、この番組に関してひとつの邪推を持ってみた。ひょっとしたら、ゲスト出演する役者、タレントたちは、概して年配者が多いのではないかという点である。
 こうした番組の視聴者が概して年配者が多かろうからという推測も成り立つ。しかし、わたしの邪推は、「ガッテン」できる若いタレントは、きわめて少ないからではないかといううがった推測をしている。
 この条件に合うタレントは、「山瀬まみ」という一風変わったタレントくらいなのかもしれない。彼女は、若い部類のタレントだと見なしても、彼らとは一線を画する「はらわた」豊富な人材でありそうだ。まるで、世間の荒波を掻い潜って生きのびてきたお婆さんの雰囲気を湛えている。ちなみに、あえて今ひとり適任者を挙げるとするならば「えなりかずき」という「若年寄」タレントがいるかもしれない。
 今の若いタレントたちは、あまりにも生活体験が貧弱で、内的空間の幅も奥行きもチマチマし過ぎていはしないか、そう感じている。たとえ彼らをゲストに選んだとしても、ヤラセならともかく、ホンチャンではとても「ガッテン」なんぞできそうにないような気がするのだ。

 つまり、「はらわた、心。心の働き」とは、濃密な生活体験や、そこから来る自分の感覚なりで整理された情報システムだと言ってみていいのかもしれない。それが、外界の新たな知識・情報を迎え入れる器なのであり、これをそれなりに保持している者が、「ガッテン」したり、「わかる」という感動をしたり、はたまた「わからない」という悔しさを表明したりするのだろう。自分の回答が外れた時の「山瀬まみ」の悔しがりようは、彼女の「はらわた」の豊富さを物語っているのであり、だからこそ「はらわたが煮えくり返る」のであろう。
 「あたし、ワカンナーイ」を口癖にする「こいのぼり」ギャルは、もう少し、「わかる」「わからない」という人間ならではの妙味に歩み寄るべきなんだろうね…… (2006.06.29)


 現在、人々は「年金」制度に関心を寄せている。しかし、同じ「ネンキン」でも別の「ネンキン」にファナティックな興味を抱いていたものがいた。その名を「南方熊楠(みなかたくまぐす)」といい、興味を注いだのは「粘菌」という生物であった。
 と言うと、生物学者かなんぞのように聞こえるが、何と言うべきかは人によって異なるようだ。下記の紹介文のごとく「巨人」と称すれば比較的なじむのかもしれない。

<南方 熊楠 (みなかた くまぐす) 1867年4月15日〜1941年12月29日
 幼い時から驚くべき記憶力の持ち主で歩くエンサイクロペディア(百科事典)と称された反骨の世界的博物学者。19才の時に渡米、粘菌の魅力にとりつかれ、その研究に没頭、サーカス団に入ってキューバに渡るなど苦学しながら渡英。その抜群の語学力と博識で大英博物館の東洋関係文物の整理を依頼される。一方、科学雑誌「ネイチャー」に数多くの論文を発表。また、孫文と知り合い意気投合、以後親交を結ぶ。33才で帰国、紀州は田辺に居を構えると精力的に粘菌の研究に打ち込み、その採集のため熊野の山に分け入り、数々の新種を発見。一切のアカデミズムに背をむけての独創的な学問と天衣無縫で豪放轟落な言動は奇人呼ばわりされたが実はやさしい含羞の人であり、自然保護運動に命をかけて闘いぬいた巨人であった。(前進座創作劇場 およどん盛衰記 より転記)>(南方熊楠記念館サイトより http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/kumagusu/index.html )

 もう10年ほども前に録画したTV番組のビデオ・テープを先頃DVDに収録し直したのである。南方熊楠には以前から関心を持っており、そのテープも何度か観てきた。
 今回、再度観ることになり、改めて、その日本人離れした「巨人」さに舌を巻く。中でも「知」(学問)というものに対する姿勢の素晴らしさが、今日のような時代であるからこそなおのこと輝いているように思えた。
 先のビデオ・コンテンツでも、その冒頭に次のような文章が紹介されており、スケールが尋常ではないことがわかる。

<宇宙万有は無尽なり。
ただし人すでに心あり。
心ある以上は
心の能(あと)うだけの楽しみを
宇宙より取る。
宇宙の幾分を化して
おのれの心の楽しみとす。
これを智と
称することかと思う。
      南方 熊楠>

 ここには、「知」(「智」)というものが、人間にとって最上の楽しみであることが、何の衒いもなく率直に表明されている。また、それだけで今日の無数のエセ学者たちや、知識を笠に着て了見違いを仕出かしている輩たちとの雲泥の違いがよくわかりもする。
 確かに、知識はいろいろと役に立つ。むしろ役に立たせるために知識というものを尊重する向きが強いと言える。それはそれで良いとして、果たして「知」というものはそういう役に立つという手段的な効用だけが期待されるものなのであろうか、と思うのだ。
 人は、食べ物を食する。それは何のためかと問えば、身体に栄養を摂らせて命を長らえるためだと一体だれが本気で言うだろうか、現代では。たとえグルメではなくとも、食事で味覚を楽しむことを度外視して、命を長らえるという目的のためだけだと考えたり、口にしたりする者は先ずいないはずである。
 しかし、事、知識というものは何のためにと問えばどうだろう。多くの人が「役に立つ」という点を、いや、現代ではもっと直裁に「金を稼ぐため」という点を強調するのではなかろうか。決して熊楠のごとく「おのれの心の楽しみとす」なんぞとは、寝言にも言わないはずである。
 しかし、これは大きな間違いであろう。知識が、役に立つという効用面だけに限定されて行く時、その視野の狭さと「急ぎばたらき」的なプロセスは、必ず「知」を司っている脳の可能性を萎縮させるに違いないと思われるからである。

 昔、自分は若い頃、「ディレッタント(dilettante、学問・芸術を慰み半分、趣味本位でやる人のこと)」という立場を蔑視していたことをよく覚えている。カッコよく言えば、学問・芸術は人間社会の発展向上のために「役に立つ」べきなのであり、自分の楽しみなんぞというのは贅沢きわまりないことだと、マジに考えたものだった。
 おそらく、盲点となっていたのは、「人間社会の発展向上のため」という点を非常に近視眼的に思い描いていた点であったのかもしれない。
 たとえば、社会を改善したり、直接的悪である犯罪を阻止したりするための法的知識のような知識こそが、知識の本質だと考えていたのかもしれない。言ってみれば、開国明治のリーダーたちが、何はさておき近代国家の器を作り出すためには、何の役に立つかがおぼろげな文学なんぞより、その実用的効用が明確な法と医学の知識摂取こそがすべてだと見なした発想、それを漫然と踏襲していたということなのかもしれない。

 しかし、現代のように、西欧近代の基本概念があちこちでほころびはじめた時代、そしてそれがゆえに知識というわかり切ったかのような概念すらも再吟味される時代になってみると、知識や知というもの自体がいろいろなしがらみから解き放たれなければならないのかもしれない。
 そうでなければ、現代という時代が陥っている袋小路のような閉塞状況を突破して行く知的可能性が切り開かれない、と考える向きもある。
 知識や知を手段視せずに、「おのれの心の楽しみとす」という感触でそれ自体を楽しむことができれば、それらを司る脳みその可能性が飛躍するのではないかと思うわけなのである。
 相変わらず子どもたちや青少年たちの「受験」のための知識習得という、絵に描いたような知識や知の手段化が罷り通っている。いいかげんに、これではこの国のこの先が危ないとお偉いさんたちに言ってやらねばならないはずだろう。
 しかし、たとえ言ってやったところで、彼らは、「じゃあ、勉強というのは何のためにするのか?」と、途方に暮れてしまいそうである。そこで「何のため、という硬直した問いそのものを溶かしてしまうため」とでも言ったら、張り倒されるであろうか。
 どうも、南方熊楠は、当時の知的エスタブリッシュメントからは「張り倒され」続けていたようでもある。いつの時代も、「何のため」という目的を後生大事に叫ぶ連中が世相を牛耳ることになるのは変わらないようである…… (2006.06.30)