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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2006年03月の日誌 ‥‥‥‥

2006/03/01/ (水)  読んでから観るか、観てから読むか、角番文庫「真偽の証明」!
2006/03/02/ (木)  お年寄りたちの目に、この金権世界はどう映っているのか?
2006/03/03/ (金)  そりゃあ、何トンもある鋼鉄の塊は、何でも轢き潰すでしょう……
2006/03/04/ (土)  昨日の、今日というわが身のクルマ事情は何かの警告か?
2006/03/05/ (日)  株式市場に窺える妙に冷めた空気は、今後の経済変化の予兆か?
2006/03/06/ (月)  眼の老化を補うツールあれこれに、熱い関心を向けた……
2006/03/07/ (火)  見ることが信じるための大前提とは大きなウソ?
2006/03/08/ (水)  知性が無力化しているかに見えるご時世では、野生の感性が?
2006/03/09/ (木)  " Dog Day Afternoon "とは、「くそ暑い日の昼下がり」では……
2006/03/10/ (金)  久しぶりの、あわや「バッテリー上がり」……
2006/03/11/ (土)  「リスク」管理と「相場師」のフィロソフィー
2006/03/12/ (日)  書面万能主義とでもいうような文書による証拠作り?
2006/03/13/ (月)  さまざまな苦痛のいなし方というものを心得る体質づくり?
2006/03/14/ (火)  もはや現代は、仙人が魔力を使ったり、人間的な杜子春が悩んだりはしない?
2006/03/15/ (水)  バージョンアップすべきなのは、われわれの人間観なのか?
2006/03/16/ (木)  度重なる「失敗」の構造とその克服への方途?
2006/03/17/ (金)  弊社の看板を見て電話をくれる方々……
2006/03/18/ (土)  気難しい大人たちの間でペットたちは十分に役立っている!?
2006/03/19/ (日)  日本人として平凡な気分で過ごした休日……
2006/03/20/ (月)  「死をみつめて」に重点を置いてチェックしたTV『愛と死……』番組
2006/03/21/ (火)  「言問い通り」での寸劇「言問い」問答?
2006/03/22/ (水)  輝かしさと鮮度のある時間を過ごすことが……
2006/03/23/ (木)  「仮想的有能感」と「自尊感情」で腹を膨らますだけ膨らましていると……
2006/03/24/ (金)  「中古役人」の「天下り」こそを取り締まれ!
2006/03/25/ (土)  いま時、信じられる存在は、優しく律儀な自然だと言うべきか……
2006/03/26/ (日)  朝青龍 vs 白鵬の一番でつらつら思ったこと
2006/03/27/ (月)  デジタル・システムと何億年かの成果たる人間能力とのコラボレーション!
2006/03/28/ (火)  くどくどしくも書く、年配世代の行動様式?
2006/03/29/ (水)  藤山寛美ならぬ「湯たんぽ」完備の猫小屋もシーズンオフとなるか……
2006/03/30/ (木)  「新物喰い」が試す抑制性の神経伝達物質「アミノ酸・グリシン」?
2006/03/31/ (金)  「さればとて……生きて 生きて どうでも生き抜かねばなりませぬ」






 現在、「真偽の証明」という問題が巷間をにぎわせている。大変素晴らしい風潮だと感心する。自分なんぞはオッチョコチョイだから、あのメールはてっきり真実だと思い込んでしまった。誰が推理したってそう思うに違いないと思った。
 あれだけ、金融疑惑の総合商社のような事を仕出かす者がいて、他方に、その者を「親族」扱いのパフォーマンスを仕出かした政治家がいらっしゃったとするならば、個室の真ん中に鰹節満載の皿を置き、その部屋へ猫を追い込んだら結果はどうなるかを推理せよ、という難問ほどに難しくはないと思ったものだ。
 しかし、現在の世の中では、歴然と証明できないことは口にしてはならぬらしい。だから自分は、某政治家とそのご二男とに深くおわびしなければならないのだ。
 おわびだけで済む話ではないので、そんな事実が無かったことを某政治家とそのご二男と一緒になって証明してあげたいとつくづく思ったものである。彼らと一緒になって、まるで「マルサの女」さながらに、家宅捜索さながらに、ありとあらゆる銀行通帳を精査して、それぞれの記帳跡までをしっかりと確認し、決してそんなやましいことなんぞ微塵もなかったことを、調査し証明してあげたいと思ったわけだ。
 また、それだけでは不足であろうから、税務署がよくやるような「半面調査」とやらもやってあげたい、と。つまり、メール送信側とされた者の「選挙資金使用状況」をしっかりと調べ、政治家方面なんぞに献金していないこと、そんないかがわしいことなんぞするはずがなかったことを証明してあげたいと思った。
 というのも、これは自分が無実の人々を疑ってしまった心の痛みがあるということだけではなく、オッチョコチョイな某議員が疑惑の真実を証明できなかったと同様に、無実側の証明もなされず仕舞いになっているからなのである。

 しかし、そう言えば、「真偽の証明」という難しい時事問題に関して言うならば、よくは覚えていないが、ちょいと前に、開戦前のイラクに「大量破壊兵器」が存在するのか、しないのかという、メール問題どころではないシリアスな大問題があったかと思う。その際にも、あるオッチョコチョイが、とある隣人から吹聴された気配に飲みこまれ、ある! と踏んで犯罪的決断をしたのではなかったっけ? その問題なんぞは、未だに一国の国民を地獄的状況へと追い込んだままになっているようだ。
 しかも、「ある」ことを吹聴した隣人側は、無いものを探し回った挙句に、無いと事実を追認し、当初の判断が誤っていたことを公表したのではなかったっけ? 
 が、しかし、当該のオッチョコチョイは、市中引き回しの上……、でもなく、今回のメール問題に対してあっけらかんとした厚顔さで、「事の真偽をよく調べもせずに……」と得意の他人事セリフを吐いていらっしゃるわけだ。
 自分としては、根が疑い深いため、無実らしき方々を平気で疑ってしまい、その結果、罪悪感と、自己嫌悪にしばしば落ち込んでしまう。その上、証明されない無実をものの勢いで証明済みのようなパフォーマンスをする方々がいらっしゃったり、自身が下した判断をコロッと忘れ去ったかのような方のド厚かましい素振りを拝見していると、ますます自分がすべて悪かったのだとただただ凹んでしまうのである。
 これは大変に、精神衛生上および身体に悪い事態である。したがって、精神衛生と身体のためには、お偉いさんのなさることを見て見ぬふりをするとともに、気合なんぞどこかに捨ててしまったマス・メディアのわけのわからない報道なんぞには接することなく、ただただフワフワと生きるに越したことはないと思ったりするのである…… (2006.03.01)


 高齢である、知人のお母さんが、転んで、脚ではなく、右腕にギブスを使用する怪我をされたとのことであった。かわいそうなことだと同情した。右腕が使えない状態だと何かと不便なことであろうかと思う。ただ、不幸中の幸いと言うべきか、脚の骨折でなくて良かったと思えた。
 お年寄りにとって脚を患うことは、何としても避けなければならないことだと思うからである。先ず、その治りが遅いということもある。若い世代の者の骨折は、大変だとは言え、そこそこの期間で治癒するようだ。しかし、お年寄りの場合は、完治までに結構な時間がかかると聞いている。
 さらに、歩くことから遠ざかることに伴う身体全体に訪れる不調にも留意せざるを得ない。やはり、太腿を使って歩くという運動が、身体全体の調子を保つための決め手であるようだからだ。歩けない状態となった場合、最悪のケースではそのまま床に着くということにもなりかねないようである。

 お年寄りにとって冬場は「鬼門」の季節だと言っていいのだろう。われわれでさえ、いや自分でさえ、よほど気合を入れないと寒い時期には身体の動きがこじんまりとして、アクシデントを起こしやすくなる。
 冬場には神経痛が……、というセリフを完全に他人事と見なしていた時期はいつの間にか過ぎたようで、昨年の晩秋には、モロ「神経痛」(脊柱管狭窄症)となってしまい、寒さがなおのこと神経の痛みを増幅させるという実体験をしたものであった。
 そいつは、どうにか治ったのであるが、長年の右肩の五十肩はいまだに引き摺っているありさまだ。これがまた、患部を冷やすと痛みが増すという厄介なものなのである。よくはわからないが、四十肩らしきものが発生した時に、適切に対応しなかったため、妙にこじれてしまったのではないかと後悔している。

 いや、年寄り地味たことを書いてしまったが、自分がようやく年寄りの域に接近しているからか、お年寄りのことが他人事とは思えなくなっているのであろう。
 そして、何よりも、現在の時代環境がお年寄りを「埒外」に置いて成り立っていそうな空気を痛感せざるを得ないでいるのだ。いや、お年寄りばかりではなく、人間らしく生きようとする者たちを「埒外」に突き放していると言っていいのかもしれない。
 多くを責め立てるのは面倒だから端的に言えば、カネが無くてものんびりと暮らせる環境(自然環境や伝統文化など)をさんざん破壊しておいて、カネが無くては苦労するような仕組みばかりをでっち上げている時代、それが現代という時代であるからだ。こんな環境と、それを斡旋している国は決して文明国とは呼びたくない。生活保護世帯を百万世帯をも作り出し、そこに含まれるお年寄りや子どもたちを惨めな気持ちに追いやっておいて、そのどこが文明国であるのか。
 また、われわれでさえ、報道番組を見るに堪えなくなっている昨今の犯罪状況は、さぞかしお年寄りたちの感覚にとっては残酷過ぎるものだと言えないであろうか。あるお年寄りは、自分は長く生き過ぎた……、ともらしていたが、こんな世相では妙に説得力を持っていそうだ。

 お年寄りたちには失礼かもしれないけれど、ものの道理ではやがて遠くない将来に自分自身も同じ定めとなるから言うのであるが、こんなにもこの世とあの世の違いを強調し過ぎてはいけないはずだと思うのだ。つまり、カネに執着させるのがこの世ではあるが、あの世にカネを持って行けるわけではないではないか。
 自分でもヘンな表現だとは思うが、あの世に通用するとは考えられないような金権社会や世界だけを信じるというのは、やはり人間としてかなりのムリをしているに違いないと思うのである。つまり、どんな宗教であれ、そんなものは事実上不必要だと宣言しているかに見える人間社会は、とてつもなく不自然なことをしているに違いないと…… (2006.03.02)


 今朝の通勤時に、日頃あまり見ることのできない光景に遭遇した。
 とある交差点に、缶コーヒーと思しきものが散乱していたのだ。その上、それらを通勤で急ぐクルマが、避けて避け切れずに、ブシーン、ブシーンという異音を立ててタイヤで轢き潰してしまうのである。そのたびに、音を立てて潰された缶から激しくコーヒーの飛沫があたり一面に飛び散るのだった。
 どうも、コンビニに輸送されるダンボール箱入りコーヒーが、トラックの荷台から落とされた結果のようである。

 折から、小学生の「通学ご一行様」が横断歩道を渡ろうとしていた。気の利いた子どもは、道路に転がっている缶コーヒーを、道端の方へ足で蹴って最悪の事態を少しでも緩和させようとしたりしていた。が、ほどなく、信号が変わる直前に、彼らは横断歩道を渡り切ったものの、相変わらず、ブシーン、ブシーンという音と、そのたびにコーヒーが勢い良く飛び散る様相が気になるらしく、皆、歩行を止めてこぞって振り返って見つめていた。よほどめずらしい光景だと目に映ったのかもしれない。あるいは、「あーあ、もったいないな」と感じていたのかもしれない。
 と、その時、近くにあるコンビニの方から作業服らしき格好をした若い人が小走りでやって来た。ひょっとしたら、そのコンビニに商品を配送していた運転手であったのかもしれない。が、交差点が惨憺たる状況となっていることを知ると、なぜだかクルリと背を向けて戻って行ってしまった。何か解せない印象を受けたものだ。もはや手遅れ、ノコノコとそんな場所へ顔を出すべきではないとでも考えたのであろうか……。

 何がどうだという光景ではないし、これを書いている今も、で、このあとどう繋いでいけばいいのか見当がついてもいない。
 ただ、クルマというのはスゴイ破壊力を持っているものだとまざまざと認識させられたことは確かだ。まさか、中身の入った缶コーヒーがペシャンコに潰されるとは想像していなかった。ひょっとしたら、脇へ弾け飛ぶのかと考えていたりしていた。が、さにあらず完璧に轢き潰され、ミルクコーヒーなんぞが、水溜りをクルマのタイヤが通り過ぎた時のように飛び散っていたのである。それは、小気味いいというよりも、かなりショッキングな光景であったかもしれない。
 というのも、クルマを運転していると否応なく、猫が轢かれて死んでいる姿をしばしば目にするからでもある。缶コーヒーが受けたような破壊力を彼らが被ったのかと想像すると、ぞっとした心境にさせられる。
 ちなみに、缶コーヒーを轢き潰したクルマの、その運転席の人物の顔を、見るとはなく見ると、ほとんど何事もなかったかのような表情なのには、いささか面喰らったものだ。

 そんな何トンもある質量の金属物体が、われわれの身のすぐそばを高速で走り込み、走り去るのだから、考えてみれば、都会の日常生活にはとんでもない危険が寄り添っていることになる。しかも、最近のドライバーはあまりにもそんな危険に対する感度が鈍いようだから不安だ。
 クルマ社会と現代経済の発展とはいわば表裏一体だと思われるが、ということは、われわれは死の危険と背中合わせの生活に身を置くことを余儀なくされているということになろう。どっちにしても、便利なことは確かだが、自分はさほどクルマを好きにはなれないでいる…… (2006.03.03)


 昨日、クルマのことを書いていて、今日はその自分が軽度の接触事故を起こしてしまい、対物保険で対応することになってしまった。相手側の搭乗者に被害を与えなかったのが不幸中の幸いだと胸を撫で下ろしている。
 場所は、とあるショッピング・センターの駐車場であり、屋上から降りて来て合流する側面の後部ドアに、自分のクルマの左側バンパーの先端をかすらせてしまったのだった。 直後は若干やりとりをしたが、自分側通路に一時停止線があり相手側進路が優先となっていたことを確認し、自分側に非のあることが判明した。そこでさっそく、地元警察の立会いやら保険会社への連絡を取り、事後処理の手続きを進行させることになった。
 民間管理のショッピング・センターの駐車場での、軽い物損事故であるため、警察の立会いというのは、後日のためと保険処理に必要な「事故証明書」を発行してもらう目的があった。民間管理のエリアで人身事故に関係がないケースだと、民事領域ということで警察は関与しないのが原則であるらしいが、保険での処理に「事故証明書」が必要なことから、警察は最低限の立会い要請には応じてくれる。
 双方が保険に入っていたことや、物損程度が軽いこと、そして何よりも双方が冷静に対処できる人間であったことにより、事は別段こじれることがなくはかどった。保険会社は何と言うか知らないが、自分としては自分側の非を認めて、当方側での弁済を宣言したため、相手側も理解を示してくれたのであろう。
 世知辛いこのご時世では、自分側に分があると思うとやにわに強硬姿勢を露わにしたり、居直ったりする人もいるわけだから、今回の相手方の良識あるスタンスはまことに幸いであったと感じている。
 そこで、自分の方もそれに報いるべく、警官の立会い・報告書作成や交渉の間、クルマで待つはめになっていた相手の奥さんやお子さんに、ホット・ドリンクと菓子を差し入れたりしたものである。しなくていい退屈さを強いたお詫びという意味でもあった。

 それにしても、もし、小さな子どもまで含めた搭乗者被害まで発生させるような大事故だったらと想像したら、思わず身がすくむ思いであった。
 昨日も書いたが、クルマはやはり十分に「凶器」となり得る存在に違いない。そして、事故というものは、発生確率を下げる努力はできても、絶滅することはほぼ不可能に近いと言うべきだろう。今日の接触事故も、もちろん、何も起こそうとして起こしたわけではなく、一瞬の空隙で起きてしまったと言っていい。先週からの疲れがどうこうと言っても、疲れはいつでもあり得ることだ。
 自分は、相手側のクルマに菓子などを差し入れた時に、「ママ、それなあに? それなあに?」とはしゃいでいたようないたいけな子どものことを思い起こすと、クルマを乗り回すというのはどうしたものかなあ、としみじみと感じてしまった。それが本当に必要な場合と、そうでもない場合ということが十分に考えられそうな気がするわけだからだ。
 せっかく、自転車通勤まで始めたことであるし、街中はできるだけチャリンコで走るべしかと思ったりした。そう言えば、今日の事故現場へ駆けつけた愛想の良い警察官は、例の懐かしいホワイト・チャリンコにまたがっていたものだった…… (2006.03.04)


 このところ、株式市場は冴えない。先週週末3日も、日経新聞は次のように伝えた。

<3日の東京株式市場で日経平均株価は3日続落。終値は前日比246円42銭(1.55%)安の1万5663円34銭と、2月20日以来の安値水準を付けた。3日続落は1月16―18日以来1カ月半ぶり。……日銀が8―9日に開く金融政策決定会合で量的金融緩和政策を解除するとの観測が強まった。前日の米株式相場が原油価格や米長期金利の上昇などを懸念して下げたことも嫌気し、朝方から幅広い銘柄に売りが先行。……東証1部の売買代金は概算で2兆1918億円と半日取引だった大発会・大納会を除くと2005年12月28日以来の低水準。売買高は17億3124万株と1月24日以来の水準にとどまった。東証1部の値下がり銘柄数は1269と連日で1000を超え、値上がりは345、変わらずは82。……>

 どうも日本経済は再びじめじめした雰囲気になるのではないかという感触がないわけでもない。公式見解では景気は回復し、デフレも収まりつつある、物価もジワジワと上がりつつある、だから金利上昇につながる「量的金融緩和政策の解除」が動き始めるのだと言う。
 しかし、あまりスッキリとし回復基調だとは思えないのだ。大手企業の収益は増大しているとのことだが、中小零細規模や地方都市の実情は必ずしも良くないようだ。また、消費者物価指数が上昇し始めているからデフレが後退していると言われるが、本当にそうだろうか。相変わらずモノは安い水準にとどまって、それでもさほど売れていないような実感がある。高値をつけているのは、需要が膨らんでのことではなく、たとえばまったく外発的な原油高に起因するガソリンや灯油ではないか。
 ちなみに、自分がクルマ使用にいろいろと懸念を抱くのも、安全性の問題もさることながら、また地球温暖化の危惧もあるが、このところのガソリン価格の高値どまりに嫌気をさしていることも小さくない。また、自分は暖房に灯油を使っているのだが、この灯油も18リッターで1400円以上の高値で止まっている。
 しかも、この石油関連製品の高値現象は、以前にも書いたとおり、大半が原油投資という人為的な原因に起因しているのであって、他の商品と一律に並べるわけにはいかないのではないか。現に、「生鮮食品」の消費者物価指数は低迷水準をたどっているようだ。
 つまり、人々が消費意欲を高めて需要を増大させ、その結果、物価がジワジワと上昇しているという景気回復現象と、どこか異なるように見えてならないのである。そんな時に、「量的金融緩和政策の解除」を行い、金利を上昇させる政策に転じるならば、デフレは二番底へと転がっていくのではなかろうか。

 で、株式市場の話に戻ると、この間の株式マーケットがややバブルっぽい加熱ぶりを示していたのは、いろいろと原因があろうが、端的に言えば「カネ余り」現象、つまり金融市場にカネの量がだぶついていたからだと言っていいのだろう。当然、ゼロ金利状態であるのだから、カネを運用する者たちは株式マーケットでのマネー・ゲームで収益を得るしか手がなかったはずである。
 だが、もしここで、日銀が「量的金融緩和政策を解除」して「カネ余り」現象に終止符を打ち、金利上昇を解禁していくならば、他の経済に抑制効果を及ぼすだけではなく、株式マーケットに流入するマネーを減少させることとなり、株式市場はさらに冷え込んでいくのではなかろうかと予想する。
 すでに、海外投資家たちによる買いが薄れていることが懸念されてもいるが、これに加えて、国内投資家の動きもにぶくなるに違いないと思われる。個人投資家たちが増えたとはいうものの、ライブドア・ショックで少なくない被害を受けて以降、個人投資家たちも元気をなくしている気配がある。
 従来以上に、株価が経済に与える影響が強まってしまった今、これから始まるかもしれない株式市場の興醒め空気が広がれば、これもまた、日本経済の足を引っ張り出すのではないかという気がするのである。
 最近は、株価チャートをオンライン、リアルタイムで観測することが多くなった自分の感触でも、どうも最近のマーケットは勢いというものを無くしている雰囲気を感じざるを得ない。場合によっては、ようやく米国のように個人投資家たちが積極的に株式にアプローチし始めた昨今の状況は、急速に冷めてしまうのではないか、という気がしないでもない。日本の経済を司る者たちは、一体、何をどうしようと構想しているのか、皆目見えない…… (2006.03.05)


 毎日、PCのディスプレイを見つめているせいもあってか、眼の疲れとともに、老眼がいっそう進んでしまっているようだ。読書をする際にも煩わしさを感じないわけではないが、まだ、書籍と眼との距離を調節すれば事足りるため、まずはよしとする。
 しかし、PC操作の際には何かと煩わしさが増す。先ず、ディスプレイが良く見える距離と、手元の資料やキーボードが良く見える距離が異なるため、その動作の往復をする場合である。ここ最近、眼鏡を新調していないこともあってか、何かと鬱陶しくてたまらない。

 昨日、しばしば訪れる近くのホームセンターを覗いてみたところ、特別セールのワゴンで、何やら生活小物類を販売していた。そうしたものはちょっと気になってしまい、そのワゴンに近寄ってみる。
 多種多様な爪切りであるとか、職人の手作りによる高級耳掻きであるとか、そして、携帯用の老眼鏡に、幅広く焦点の合う拡大鏡とかが、所狭しと並んでいた。きっと、中高年をターゲットにというコンセプトで設えられたワゴンなのであろう。

 自分ほどの年配者や、そうした夫婦らしき人たちが時々覗き込んでいた。自分はというと、先ず、冒頭に書いたごとく、日頃のPC作業で煩わしさを感じていたため、老眼鏡を見るとはなく見ていた。
 すると、面白いアィディアの眼鏡というか、眼鏡補強ツールに遭遇したのだった。
 よく、眼鏡の上にクリップのような仕掛けでサングラスをつけるというものがある。
 自分がはじめてそうしたものを使ったのは釣りの時であり、それは「偏光グラス」と呼ばれ、浮きの動きを見つめて気になる水面のギラギラを抑制するサングラスであった。それからは、ドライブの場合にも、度付きサングラスをあつらえるまでではないために、そうしたワンタッチ式のサングラスを使ってきたものだ。
 これらの方式とまったく同じ方式であり、ただ、レンズの大きさが猫にでも使わせるほどの小さなものであり、これらを使用中の眼鏡にかぶせるように装着させると、ちょうど「遠近両用」眼鏡のように眼鏡の下部の方が強めの老眼鏡になるという代物なのである。使わない時には、それを上に跳ね上げておけるし、しかも度数が何種類か揃えてもあった。
「うん、これは使えるかもしれない……」
 そう思った自分は、事務所でのPC作業のディスプレイと手元という空間を模して、かけている眼鏡の上に、それらのツールの異なる度数のものを試しにつけてみた。ますます、具合が良さそうではないかと関心を深めることになってしまった。で、一番度数の弱いものをひとつお買い上げ決定とした。
 が、度数の極めて強いものを装着してみると、これはこれで使えそうな気がしてきたのである。時々、腕時計のような小物の機械類を調整しようとしたり、大工作業でトゲを刺してしまい治療しようとするが、とんと不自由をしてしまう、そんな記憶が蘇ってきたのであった。そこで、その度数の強いものもお買い上げ決定となったのである。結果的に言い添えておくならば、後者のものは、帰宅して家内に見せたところ、実家のお母さんが新聞を読む際に使わせたいと言い出したため、都合二個買うことになった。

 買ったものはこれだけではなく、もう一つ、「幅広く焦点の合う拡大鏡(大きな虫眼鏡!)」というものまで買ってしまった。これも、PC操作関係で、画像度の細かいノートPCを併せて使用しているのであるが、置き場所の都合で日頃、極小の文字が見にくくて困っていたからである。このケースにはかつて、プラスチック製の平板レンズというものを取り寄せて試してみたのであったが、かなり見にくい上に、焦点距離が災いして結局は使い物にならなかったのだった。
 それに対して、この拡大鏡はレンズが明るく、売りとしている通りにかなり自在に焦点が合うため柔軟に使えそうであった。おまけに、普通のレンズよりもかなり軽いため、若干価格は高目ではあったが入手することにしたのだった。

 こうして購入したものを、帰宅してまざまざと点検してみたが、まあ、ねらいどおりの代物ではあった。が、今ひとつ気づいたことは、自分も、こうしたものを有難く思う歳になったのだなあ、ということである。
 ただ、視力が鬱陶しいことになったからといって、知らず知らずに文字から遠ざかることになるよりかは、前向きなんだからよかろう、とそうも思ったものであった…… (2006.03.06)


 昨日、老眼鏡関連のツールについて書いたが、今日も、取り立ててほかに書くことも見当たらないので、見ることを助けるツールについて書くことにする。
 時々重宝しているものに、「読書スコープ」という珍ツールがある。「王様のアイディア」辺りで売っていそうなものだが、自分が入手したのは<DIY>ショップであり、しかもハンパものとして特売されていたものを面白がって買った。
 これは、仰向けで寝て読書ができるというプリズム付きの眼鏡なのである。つまり、これをかけると、天井が見えるのではなく、横になった自分の足元の方が見えるヘンなものなのである。
 したがって、仰向けになり、胸の上あたりに読みたい本を両手で押さえて立てると、机上で本を立てて見るように良く見えるというわけである。この便利さというのは、先ず首が疲れないこと、また腕も疲れることがない。また、寝て読書をする際には、照明に気を使ったりすることが多いが、頭上の方から明かりを取れば実に明るい明かりで読書することが可能なのである。
 足元の方にTVなどを置くならば、仰向けの姿勢でTVの画面を見続けることも可能だと、パッケージには挿絵が載っていたが、そこまではやっていない。

 昨今は、「五十肩」の右肩を下にして読書などをすれば、やがてビリビリと痛んでくるため、時々これを使っているというわけだ。ただ、多少煩わしい気がしないでもない。
 先ず、人間の眼というものは、単に対象が見えればいいというだけではなく、手の動作やその他の運動神経と一体となっているため、この眼鏡をかけるとそうした感覚の統一性が撹乱されてしまうのである。
 これに類する話では、もともと、人間の眼の網膜には世界が倒立して映っているとのことであり、その倒立画像を脳が正常だと認識させているとのことである。つまり、「慣れ」で正常だと感じさせているらしい。したがって、二週間とか、一ヶ月とか、逆立ちした生活を続けると、その倒立画像が今度は正常だと受けとめられるようになるのだともいう。まさかそんなことをする人もいないと思われるが、実験的にも検証されているらしいのである。
 まあそんなことはともかく、前述の眼鏡をかけ続けていると、どうも運動感覚というか、空間感覚とでもいうか、そんなものにやや変調を来たすのである。が、まあ、一時間ないしは二時間程度の読書であり、またその後は大体眠ってしまうために、被る影響はさしたるものではない。

 が、こうしたヘンなツールというものを眼にすると、ついつい入手してしまうのが自分なのである。子どもの頃にも、奇妙なものに興味を示したものだった。棚の上とか、小高い塀の上の向こう側を覗けるという、潜望鏡のような珍ツールに関心を持ったこともあった。
 箱型の筒の両端に、プリズムよろしく手鏡を二枚斜めに向かい合うようにくっつけて、その片側の口から覗くと、他の口の鏡が向いている方向の様子が見えるというものである。まあ、いま時、こんなものを持って遊んでいたら、ちょっと前にお縄になってしまったとある経済学者のスカート内覗きと間違えられたりする可能性大なため、アブナクて使うことはできないかもしれない。

 普通は見えないものが見えるという触れこみには、とかく興味を持ってしまうものだが、そんなことに騙されておかしな玩具を買ってしまったこともあった。確か、小学校の頃、下校の子どもたちを待ち受けて、その通路の一角の空き地でちょっとした露店を開いている業者がいたものであった。
 そのひとつではなかったかと記憶している。どういう名称であったかは忘れてしまったが、何でもX線写真のように、モノが透けて見えるという代物であった。ライターくらいの大きさのボール紙小箱であり、その両端に5ミリ程度のレンズのようなものがついていて、それを通してモノを覗くと、対象が透けて見えるというのである。そして、子どもたちを信じさせるために、業者のおじさんは、鶏の卵を用意していたようだった。それを片手でもち、もう片方の手でそのX線箱を持って、子どもたちに覗かせたのである。
「ほーら、卵の中の黄身の部分が透けて見えるよねぇ〜」
と、言ったかに覚えている。確かに、その小箱のレンズを通して見る白い卵は、なんとなく外形が滲み、おまけに、中央部が丸く影になって見えたことを覚えている。愚かにも、それがてっきり黄身の姿だと思い込まされてしまったのであった。急いで帰宅して小銭を持って、それを買った記憶がある。
 その後のことはさして覚えていないが、きっと、いろいろなモノを覗いてみて、結局ガッカリしたのであろう。で、なんだこんなもの、それじゃ分解してやる! とでも思ったのであろう。その結果、この「X線小箱」の仕掛けが、鳥の羽を介在させることにより、モノを二重、三重に見せる仕掛けであったことを突き止めたものだった。丸い卵のような形状であれば、その結果中央部が画像の重なりで暗い影となり、あたかも内部の黄身の姿を思わせるに十分であることを知ったのである。

 わが眼で見ることがモノを信じる大前提となるケースが多い。だから、自分も、見るということに関しては最大限関心を持ったりする。しかし、モノを見るということは、物理的にモノを見るということではなく、大半が思い込みや先入観で見ていることが多いのかもしれない。いくらシャープに見える眼鏡をかけてみたり、いろいろな用途に使われるツールを通して見ても、結局、人は、先入観だらけの脳で解釈しているからである。さまざまなマジックというのは、この点を遺憾なく突いて構成されているのであろう…… (2006.03.07)


 闇金融業者の強引な取り立てに悩んだ夫婦ら3人が心中した事件が、3年前に大阪であった。そのヤミ金業者らが逮捕されたとのニュースが昨日あった。この事件がきっかけとなり、貸金業法と出資法の改正(ヤミ金融対策法)が行われたという。

< 調べでは、長野容疑者らは03年4月、八尾市の清掃作業員(当時61)の妻に約1万5000円を貸し付け、43日間で法定利息(年29.2%)の約270倍の13万5000円の利息を支払わせた。その後約1万8000円を貸し、17日間で法定利息の約134倍の3万2000円の利息を支払わせた疑い。>( asahi.com 2006.03.07 )
とあり、返済を迫る脅迫電話や、時には被害者の名で消防車を呼ぶという想像を絶する人でなし行為を重ねたらしい。
 これらに、ほとほと衰弱してしまった被害者たちが、鉄道心中におよんだというから、憐れでならない。

 自分は、こうした身につまされるニュースに触れると、被害者たちへの憐憫の情が掻き立てられるとともに、まさに極悪非道な加害者たちに、言いようのない怒りを覚え、身が震える(武者震い?)思いとなる。下世話に言えば、自身にあるかどうか知れたものではない知性なんぞに頼るのではなく、自身の内に潜む暴力性をあらん限り総動員して、加害者たちに最大の苦痛を与えてもやりたい、というような心境となってしまうのだ。
 不遇な人生の中で、今日、明日の食費、生活費にも窮する金銭的な苦痛を強いられた人たちを、同情するどころではなく、おのれの欲を満たす道具にしようというような、そんな外道たちには、上品な対応は禁物だと思えてならない。
 かなりの暴論を吐いていることはわかっているが、無念な思いで自らの人生を閉じた人たちのことを考えると、決して、綺麗事を言って人間としての感情を薄めてはならないと思ってしまう。

 ところで、なぜ被害者たちが、最後の最後の選択肢である「心中」に至ったのかという事情を考えると、やはり悲しい。周囲に相談できる者たちがまったくいなかったのであろうか。親族が助け合うというような時代環境でないことはわかるが、この現代にあって、公的機関や警察、あるいはマス・メディアでもいい、日頃、仮にも社会正義を看板にしている者たちが何と無力で頼り甲斐がないかという点こそが、加害者たちに次いで腹立たしい。
 先日、TV番組で、昨今の弁護士事情について報じていた。社会的ニーズの高まりに応じて、弁護士たちの輩出を増やすための制度改正がなされたというものの、本当に司法的救済を必要とする弱者たちには恩恵が受けられない状況であるらしい。
 弁護士志望者たちは、報酬の良い、都会とそこでの企業を目指して、地方であるとか、民間の低所得層には目を向けていないというのである。
 上記の、悲しい事件にしても、悪辣な金銭取引に関する問題であったわけだから、正義感の強い弁護士さえ身近にいたならば、被害者たちは死に急ぐことはまったくなかったはずなのであろう。

 ここでもまた、時代と社会全体が、カネだけに眼を奪われているという情けない現実が反映しているのだと思わざるを得ない。そして、こうした度し難い世相にあっては、もとより世の潮流に対するスマートな加担者と成り果てている知性なんぞは、ほとんど頼みにならないかのようだ。
 非人間的な光景に対して、激しい憤りをもたらすような、人間の奥底に潜む野生で正常な感性だけが、頼みに値するのであろうか…… (2006.03.08)


 " Dog Day Afternoon "という原題が、どうして「狼たちの午後」になってしまうのかというような杓子定規なことは言いたくはない……。昨夜、夕食の後、退屈しのぎに観てしまった衛星第2TV番組の話である。
 75年のアカデミー受賞作品であるが、先ずはセピア色的な感触はなかった。実に「人間的な雰囲気」の銀行強盗を演じたアル・パチーノの演技に好感が持てた。ちなみにストーリーは次のごとくである。

<銀行を襲い、警察の包囲網に追い込まれて行員を人質に立てこもった強盗の二人。報道陣と応答するうちに彼らは群集から英雄視され始め、人質たちとの間に奇妙な連帯感が生まれていく。>(朝日新聞番組欄より)

 冒頭の原題の話に戻れば、" Dog Day Afternoon "とは、「くそ暑い日の昼下がり」とでもいう意味なのではなかろうか。" Dog "と" Wolf "とは親戚だとはいうものの、あるいは「狼(たち)の〜」という見出しにすればミステリアスな暴力性で訴求できると考えてのことか(そう言えば、チャールズ・ブロンソン主演のイタリア映画「狼の挽歌」は、70年であった……)、いかにも商業主義優先のネーミングである。
 そんなことにこだわるつもりもなかったのだが、アル・パチーノ演ずる銀行強盗は、決して「狼」なんぞではないからなのである。むしろ、律儀でナーバスでさえあり、そこに主題がありそうにさえ思えたからだ。
 似た映画のあったことを思い起こしたが、マイケル・ダグラス主演の「フォーリング・ダウン(Falling Down 、1993)」(ロサンゼルスを舞台に、日常生活に疲れた平凡な男が理性を失い、数々の事件を起こしていく姿を描くサスペンス・スリラー)である。
 アル・パチーノとマイケル・ダグラスではまったくタイプが異なるが、律儀な生活に疲れさせられた男が「キレる」という点ではなぜか赤い糸で繋がっているように思えた。

 つまり、ここでも" Dog Day "=「くそ暑い日」というイメージが伏線にあると感じたのである。確か、「フォーリング・ダウン」のマイケル・ダグラスが「キレた」日も、真夏の" Dog Day "ではなかったかと記憶している。だから、「犬の日」ならぬ「狼」がどうのこうのと矛先を変えてしまったのでは身も蓋もないのだと思われるわけである。
 自分の解釈では、律儀な「世帯主」たる男が、律儀に自身の立場を全うしていこうとするならば、拭いても拭いても噴き出してまつわりつくような汗のごとく、家族関係その他の重荷が暑くてならなくなったりする、というイメージではないかと……。
 折りしも、突入した銀行では、クーラーが故障をしていて犯人たちも人質たちも皆汗だくの状態になる。それは、ひとつの象徴的出来事なのであって、実を言えば、アル・パチーノにとって暑苦しくてならないのは、彼を取り巻く人間関係に違いなかったのではなかろうか。
 細かいことを縷々書いている暇はないが、日常で彼を取り巻いていた人間関係と責任関係、そして、強盗をともに働く仲間に対しても彼は律儀であり続けようとするがために「暑苦しさ」から解放されない。また、人質たちに対しても、殺意どころか、いろいろと気を遣ってそこでも「暑苦しさ」を増幅させてしまうのである。

 自分が、ゾッとした場面がひとつあった。何かワケありで、強盗団を組んだ相棒(サルという名)は、どこか頭と心に病があるらしく、殺人に対しては抑止力が欠如していたようであり、殺人なぞは毛頭考えていないアル・パチーノも懸念していたのである。
 そこへ、地元警察からFBIへと担当が移行したことで、FBIの責任者が人質たちの無事を確認するために建物内に入ってくることになった。そして、出てゆく際に、彼は、アル・パチーノに冷ややかに囁いたのである。
「君はいたって冷静であり、問題はない。問題はあの男だ。(彼は、人質を殺すことなんぞなんとも思っていないようだ)が、ヤツはわれわれが始末するので心配するな……」
 この言葉は、アル・パチーノの心の奥底に横たわっている何かに向かって囁かれたようなのである。そして、エンディングでは、FBI責任者の言葉どおりに、「サル」は、額を撃ち抜かれて抹殺されるのだった。
 すべてが終り、空港で身を拘束されたアル・パチーノは、死体となった相棒が運ばれていく姿や、人質たちが保護されていく光景や、そして、すっかり陽が落ちて、多分涼しい風さえ吹いていたかもしれない空港の一角で、なんとも言えない表情をしていた。その表情が何であるかは定かには描かれてはいないが、" Dog Day "=「くそ暑い日」からも、そしてそれにも似たさまざまな重荷からも結果的に解放された、そんな安堵感のようなものも含まれていたのかもしれない……。そんな感触を抱いたものであった…… (2006.03.09)


 今朝、クルマのイグニッションがうまく行かず一瞬ヒヤリとした。何度か、注意深くイグニッションキーを操作したことで、まるで絡んだ糸の発端を微妙に引っ張り出すように、何とかエンジン起動にこぎつけることができた。
 要するに、この間、と言っても一週間弱であるが、クルマを使用せずに寒空の下に放置したからなのである。バッテリーの充電状態が悪くなっていたのであった。今週は、ずっと自転車通勤を通していたというわけでもある。
 が、今日は、雨天であったことと、診断証明書を取りに病院へ向かわなければならなかったため、クルマを使おうとしたのである。ヒヤリとした理由は、予定時刻に出発しないと、病院でえらく待たされてしまうという事情があったためである。それは入院時から先刻承知させられていたことだ。

 ところで、バッテリーが上がるというケースは久しぶりであった。
 若い頃、安い中古車に乗っていた頃には、頻繁に遭遇したものだった。特に、冬の寒い朝には、バッテリー事情が決まって悪くなった。そこで、電気自動車ではないが、AC電源を使うバッテリー・クイック・チャージャーなるものを購入し、充電したものであった。ただ、自宅で発生した場合にはそれで済むが、出先で起きてしまった場合には、自力ではお手上げであり、ブースターケーブルを使って、誰かのクルマのバッテリーに繋がせてもらうしかない。したがって、ブースターケーブルは必携であった。
 そう言えば、バッテリーが上がるのは、何もクルマを使用しなかったり、気温が低い時とは限らない。スモールランプの消し忘れなどによって知らぬ間にバッテリーを消費してしまった場合にも、悲惨なかたちで生じる。

 これも何度か経験したことがある。これが悲惨なのは、クルマを信じ切って、帰りの足は確保されているとのつもりで目的地で長滞在をしたりして、とっぷり日が暮れてクルマに戻ってみると、クルマがクルマでなくなっている場合なぞである。
 むかし、釣りに出かけて、夕まづめ時までねばり、ほとんど真っ暗になってからクルマに戻ってみるとそんな情けない状況になっていたことがあった。その時は、奇跡的にも、自分と同じような釣り人がいたことで助かった。暗い野っ原の片隅にその人のクルマがあり、自分はその持ち主が戻ってくるのを祈るような気持ちで待ったものだった。
 最近でも、事務所の前でそんなことを経験したことがある。ちょうど車検のために整備工場に自分のクルマを預け、代車を借りていた時のことだった。確か、その件についてはこの日誌にも記した記憶があるが、使い慣れない他人のクルマであったため、スモールランプのスイッチが入った状態であったことを確認できず、ギリギリ深夜まで仕事で詰めて、駐車場に出てみるとその始末であったのだ。
 既に時は、深夜となっており、前の道路を行くクルマもめっきり減っていた。時折、タクシーが通るので止めて頼んでみたりしたがあいにくブースターケーブルを持ち合わせていなかったりしたものだ。結局は、家人にケータイから電話をして、別のクルマでの応援を頼むしかなかったというお粗末さであった。

 最近は、ケータイの充電を乾電池で代用するツールが商品化されていたり、非常用ライト&ラジオの電源が、「手動操作」でできるものが出回ったりしている。クルマのバッテリーが上がってしまった際に、この状況をヘルプしてくれるような小型機器というものはあるのだろうか。もちろん、クルマに搭載して使うわけだから、多少の重量があってもいいことになる。何かありそうな気がするけどなあ…… (2006.03.10)


 「リスク」( risk )の語源は「今日の糧を得る」ということらしい。
 経営の神様ドラッカーの指摘だそうだ。
<事業家にとって「危険を冒す」ことと「日々の糧を稼ぐ」ことは同じことを意味している。リスクという語が、語源的には「今日の糧を得る」というアラビア語から出ているのは決して偶然ではない>と。
 さらに、次のようにも述べているという。
<将来に関する構想で、失敗するにちがいないのは、明らかに「確実なもの」「危険のない」構想、「失敗することのない」構想である。あすの企業が築かれる土台となる構想は不確実なものである>
 たぶん、ドラッカーの著『不確実性の時代』あたりで述べられているのだろうが、自分は、とある<株>関連の本で知った。最近の自分は、「リスク」管理というテーマを、観念的なお念仏ではなく、かなり実感的に受けとめようとしているごとくである。

 相変わらず、ネット株デイトレードの真似事を続けている。実利性など望みようもないわけだが、いろいろと刺激になって悪くはないという印象を持っている。経済万能傾向という現代の一大特徴が肌身で感じられること、多少なりとも金銭的「リスク」があるため、集中力や緊張感が喚起され、ダラーッとした気分を招きがちな日常に「火の矢」でも打ち込まれるかの観があるとでも言うべきか。
 なかなか思うようには行かないものだと実感するに至ると、次第に、そのテクニックに知的欲求が向くわけだが、同時に、トレイドあるいは商いといってもいいのだそうだが、その「奥義」とでもいうようなフィロソフィーにジワジワと興味が向かっていくのを自覚するのである。昨夜は、『相場の神様 本間宗久翁秘録』なんぞという江戸時代中期、酒田(山形県)に米相場で巨万の富を築いた相場の天才に関する本(マンガであるが)まで読んでしまった。「相場師」というものがいかに読みの深さと、自己(感情)抑制力という「脳」と「心」の両面に長けているかを知らされたりした。

 今、巷の書店では、ネット株取引や中でもデイトレイド関連の書籍が持てはやされている。しかも、安直に大金が稼げるかのような表題をつけて、もっぱら愚にもつかないハウトゥ・テクニックを前面に打ち出したものがいかにも多い。そうしたものを手にして浮かれて、どんなにか多くの損失者が生まれたかは想像に難くない。とくに、あのライブドア・ショック時にはそんな部類のビギナーが多かったと思われる。かく言う自分も、その時点では火の粉を免れなかったわけだが……。
 それはともかく、現代では、なんにせよ安直にテクニックを身につければ事が済むと見なしがちである。例の「あなたもいきなりプロなんとか……」というイージー路線である。
 確かに、エレクトロニクス、ITを駆使した自動化ツール群が至れり尽せりのビギナー環境をでっち上げ、初心者でもなんとか格好をつけることができるジャンルは広がってきた。道具環境が、未熟な新規参入者をかなりの程度サポートするそんな時代となったのである。これはもっぱら、仕掛け側による需要と市場の開拓以外ではないのだろう。

 しかし、趣味のジャンルにせよ、セミプロ職業ジャンルにせよ、はたまたネット株取引にせよ、イージー・ツール的環境力が支えとなってくれるアプローチはそう長くは続かないもののようだ。確率的には、ほんの数パーセント未満の成功者と大多数の敗残者とに峻別されて行くようである。何がフィルターとなっているかはいろいろであろうが、概して、テクニックというものは一人歩きできずに、その背後にフィロソフィーや信念といった一朝一夕には築けない重い課題が潜んでいること、それがフィルターとなっているような気がする。
 いくら、エレクトロニクス、ITなどが、プロの道の技を道具化してくれたとしても、それで、プロの道の中味、苦節何十年を賄えたと考えるのは虫がよ過ぎるというものだろう。いや、決してもったいぶった精神主義を持ち上げようとしているのではない。どんな道の技でも、それを制御する内的な力量というものは軽んじてはいけないだろうと思うのである。
 事、ネット株取引デイトレイドにしても、テクニック以上に、自身の欲望や不安や恐怖感という苦しい感情や心理を制御できなければ、良い結果を生み出すことはできないようだ。ここに、内的なものを重視する日本の人間「相場師」の出る幕もありそうだとつくづく思えるのである。
 が、こんなことを考えるもうひとつの理由は、こうした着眼が決して東洋に限られず、現在の米国の熟練トレーダーでさえ、「己を知る」ことや、セルフ・コントロールの力量の重要さを強調しているからである。
<心理学者によれば、創世の頃から人間は正しい行動が最も難しいものであり、間違った行動は容易なものであると認識してきた。これは、人間が快楽を追求し、苦痛による不快感を避けるようにできているからである。しかし、正しい行動はしばしば苦痛を提供し、間違った行動はしばしば一時的な快楽を提供するのである。>(オリバー・べレス、グレッグ・カプラ著『デイトレード』日経BP社、2002.10.21)
 これは決して、宗教家たちの弁ではなく、株の売買の判断で「値下り損失」を、自尊心や希望的観測(希望)などのごまかしによって「損切り」せずに、<一時的快楽>に安住するありがちなトレーダーを戒めたものなのである。
 仮に、<苦痛による不快感>を多大に伴ったとしても、根拠のない希望的観測(希望)などに逃げ込まないこと、危うい事実に対して果敢な対応をしていくことが、株トレードのすべてだと言っているのである。もとより、株トレードとは、上下動比率50%でしかあり得ず、損失は常につきものであるため、いかに少なく負けるかをコントロールすることが勝つための大前提だと言うのである。

 こうしたことを考えてみるにつけ、「リスク」というものに対してもっとシビァな姿勢を持つべきだと改めて感じるのである。人間の生活(「今日の糧を得る」)自体が、アラビア人たちが言うまでもなく常にフィフティ・フィフティの危険を伴った不確実なものであることは、今なお変わりはないと思われる。
 それがいつの間にか、「リスク」と無縁な生活・人生を希望的観測することに慣れてしまい、「リスク」とは物好きが挑戦する対象であるかのような錯覚に陥ってしまっているかに見える。
 株だけではなく、人間が生きるということそれ自体が「リスク」そのものなのであり、株の値が上がるように幸福を追うよりも、想定外に下がった株を早期に「手仕舞う」ごとく、不幸の「双葉」に対して早期に対処すること、それが文字通りの「リスク」管理なのかもしれない。早期発見、早期対処、先手必勝…… (2006.03.11)


 15日が「確定申告」の期限のため、今日は事務作業の一日となってしまった。
 大した作業でもないのに、重っ苦しい気分となる。たぶん、かつて経費の領収書その他が嵩んでいた頃に大変な思いをしたことや、一度、間際になって保険の支払証明書が見当たらなくて右往左往したことがあったことなどから、ろくな気分がバンドリングされていないせいであろう。
 今回は、医療費控除に該当する材料があるため、多少煩わしい作業が予想された。昨年の冬に腰を痛めて通院したり、糖尿病で入院したりと若干嵩んだ医療費支出があったからである。しかし、面倒な作業の割りには大した控除額にはならなかった。
 それにしても、役所関係をはじめとして、何らかの還付請求をする作業というのは面倒なことが多い。
 私的な保険の医療費給付の申請にしても、書類作成が煩わしい。それに、病院への支払の領収書のみならず、診断書まで新たに発行してもらわなければならないというのが、手間なのだ。つい先日なんぞは、昨年に入院した病院へわざわざ診療予約を取るために朝一番で出向かなければならなかった。おまけに、手違いがあってその診断書に不備があり、ゴタゴタまで生じるというおまけつきであった。
 保険の給付を悪用する者がいるこのご時世では、給付側の保険会社も審査をそこそこ厳しくしなければならないのはわかるが、不愉快な思いをさせられた。

 ところで、病気で苦しむわけでもなく診断書をもらいに出向き、まざまざと医者のデスクを見ていてわかったことがある。昨今の医者は、何とPCオペレーターそのものであるということだ。さり気なく、PCを操っているというよりも、PC操作に97%熱くなっているようなのである。患者に向けられる関心は、お余りの3%でしかない雰囲気だ。
 診断書の発行にしても、かつての診断結果のデータを呼び起こし、所定の項目の入力データをコピィして、" Excel " で描かれたフォーマット上の該当らんにペースト(貼り付け)して、ハイ完了となるのだが、その作業をパソコン教室の生徒のように実に必死で行うから……。別に不思議な光景ではなく、常日頃自分たちが行っているPCでの事務作業そのものなのではある。しかし、患者が医者に期待しがちなのは、PCオペレーターとしての熱心さではなく、病気からくる不安げな心境に対して、うそでもいいから自信満々の、あるいは多少の傲慢さをまじえていても許容するにやぶさかではない「人格的な語り口」で応じることではないかと思うのだ。人付合いが下手だから腕に技術をつけたいのだとつぶやくようなプログラマー志望者のような内向きの空気は絶対に漂わせてはいけないはずではなかろうか。
 また、PCのワープロ作文というのは、どうもいけない。それも、コピィ・アンド・ペーストという作業効率主義を目の前で見せられると、診療行為がいかにも切った貼ったの事務作業に雪崩れこんでいる印象を促されて、こんな治療スタイルで自分の病気は治してもらえるのだろうかと、凹んだ気分にさせられもする。
 というのも、日頃、コピィ・アンド・ペーストで事務的文章を作成する時というのは、自身にまとまった想念や判断が乏しく、とにかくやっつけてしまおうという気の乗らない事務の場合だからである。こちらにそんな体験ベースがあるからなおのことそう感じるのかもしれない。

 病院の医者が操作するデスク上のPC、ディスプレイ、キーボードは、病院内のLANに接続されているのであろう。そして患者のカルテ類はすべてサーバーのHDDに収納されているはずである。だから、診察室が変わったりしても、どこにあるPCからでも必要な患者のデータは読み出すこと、書き加えることが可能なはずである。
 こうしたシステムはこれはこれで、大勢の来院患者を効率的にさばく現在の医療機関では当然の成り行きなのかもしれない。ただ、医者は、医療という人間的な関係行為が、システムの効率性に押し流されないように常に注意していてほしいものだと思う。
 こうした傾向は、大きな病院だけにとどまらず、町中の診療所の医者も同じスタイルをとっていることにも気づかされる。そこでも、医者は患者と対面するよりも、ディスプレイとキーボードに向かっている場合がいかに多いことであろうか。
 やや毛色の変わったスタイルでは、PC上のコピィ・アンド・ペーストならぬ、はさみと糊を駆使してデスク上での切り紙細工に熱くなる医者もいる。あまりPC操作は得意ではなく、他の医療機器が打ち出したデータのある部分をはさみで切って、メインカルテの所定の箇所に糊付けなさっているのである。多少のかわいさはあるものの、これもいただけないスタイルである。ご本人は、数字の転記ミスもないし、見た目も綺麗にできあがるし、まずまず効率的だとお考えなのではあろうが、これもまた、患者の目にはいかがなものかと映るのではなかろうか。

 役所関連の仕事や、それに近い領域では、とかく書面万能主義とでもいうような文書による証拠作りが重視されている。これが、事務の流れを煩雑にしているわけだが、医療の現場にも、こうしたちょっと違うんじゃないかと思わせるような傾向がジワジワと浸透してきている気配を感じざるを得ない。
 そう言えば、看護士たちの負荷の中にも、ドキュメンテーション作業の比重がかなりの割合を占めていると聞いたことがある。
 世の中は、ちょっと狂い出しているのかもしれない。今、何が起ころうとしているのか、速やかにどう対処すべきか、というような最重要課題よりも、後日どう釈明するか、そのためにどんな書面を残しておく必要があるか、というようなことばかりに意を注がなければならないように仕向けられているようだからである。
 自分も、どう生きるかという最重要課題に挑むよりも、結局どう過ごしたかというようなことを日誌に書く本末転倒にならぬよう留意したいものである…… (2006.03.12)


 午後4時くらいから小雪が舞っている。ふと、かつて口ずさんだある歌の出だしが蘇ってきた。<♪春いまなお遠く〜>となる。窓外に舞う雪を見ていると、まさに「春はまだ遠いようだ」と自覚させられてしまう。
 ちなみにこの歌の歌詞は次のごとくである。
<春いまなお遠く 風すさぶるところ 冷たき冬の水 この身をしずめ 力なき者らが スクラムくんで 男の心すべて 捧げて悔いなき 君よその名をあげよ 若鷲よ>
 実は、これは、二十数年前に参加した「管理者養成学校」(13日間地獄の特訓!)の校歌なのである。
 選りにも選ってちょうど、先月の後半、富士山麓(オームは鳴いていなかった)の最も寒い時期に、「肝試し」感覚で参加したのだった。とにかく、何よりも寒さが応えた。40キロ夜間行進の際には、青木が原にそう遠くない林道を深夜に歩き通したのだが、いざ、持たされた弁当の握り飯を食べようとしたら、カチンカチンに凍結していたくらいであった。
 また、小雪が舞っていたこともある四時半の早朝に、毎朝、校庭に出て乾布摩擦をした、というよりもさせられたのである。ほとんど、死んだつもりにでもならないかぎりやれたものではなかった。
 あの時ほど、寒さと自身の無力が身にしみて、「春いまなお遠く〜」と思い続けたことはなかっただろう。それに較べれば、大抵の寒さなんぞはどうこう言うべき筋合いのものではない。

 人の感覚や思考というものは、相対的なものだと言える。その人のベーシックな体験がどんなものであるかによって、目の前の同じ状況にしても評価が違ってくるということなのである。真底辛い経験をした者は、多少の苦痛も軽くいなすことが可能になるようだ。
 以前にも書いた覚えがあるが、とある修羅場的状況に遭遇した時、居合わせたある知人が奇妙に落ち着き払っていたことがあった。不審に思って訊ねてみると、
「いやー、職業柄とでも言うのでしょうか……。わたしは、損害保険の事故調査を仕事にしていまして、人間関係の修羅場的空気は日常茶飯なんですよ」
と、抑制の利いた声で話していたものであった。
 天候などの自然環境から来る苦痛のみならず、人間関係の不快感やそれに伴う感情についても、幸か不幸か酷い水準のものに慣れてしまうと、どうということもなくなってしまうようなのである。

 「打たれ強くあれ」とは、いろいろな場でしばしば聞くところだ。要するに、環境(とくに社会環境)に対して「タフ」であれということなのであろう。多少のいざこざやごたごたにびくともしない泰然自若さが求められてのことに違いない。
 人(他人)との関係を避けがちな現代にあっては、ことさらにこの「タフネス」が重要な意義を持つのではないかと思う。
 ただ、いつもこの問題を考える時、では、求められる「打たれ強さ」と、「図太さ、鈍感さ」とは同値のものであるのかどうかという点が気になったりする。「打たれ強さ」とは、「傍若無人」な振る舞いなどと同じなのかと言ってもよい。
 非常に良く似ていて、見分けがつかないことが多いようにも思えるが、やはり異なるものなのであろう。「図太さ」がゆえにめげない者は、たぶん発展性に乏しく、苦痛を苦痛として自覚しながらこれをいなす者は、正確な状況認識を持つがゆえに問題解決にたどり着きやすいと言うべきなのかもしれない。
 ともあれ、現代という尋常ではなくなった時代環境にあって、生き抜くためには、さまざまな苦痛のいなし方というものを心得る体質が必要だろうと思われる…… (2006.03.13)


 昨日は、<♪春いまなお遠く〜>と、冬場の天候に戻った寒さを嘆けば、今日は何という春めかしい陽気となったことだろう。空は澄み切って穏やかな白雲が浮かび、陽射しもやわらかく暖かい。申し分のない春先の天気であった。
 何はなくとも「江戸むらさき」ならぬ、こうした陽気であれば、それだけで人々は身ににじり寄る不幸せを、ふと忘れるのではなかろうか。少なくとも、日頃のアホーな鳴声を放っているカラスたちも、いつもになくあっけらかんとした呑気な声を出しているように聞こえたりする。

 昼休みに、家電量販店をうろついていたら、展示TVから昼のニュースが流れていた。ライブドアの粉飾決算事件で、東京地検が、同社前社長の堀江貴文容疑者ら5人と法人としての同社を証券取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の罪で追起訴・起訴したという事件である。容疑者堀江氏の取り調べ状況も報じられていた。
 「『赤字はだめだ、黒字にしろ』とは言ったが、粉飾はしていない」とか、「すべて専門家たちによって『合法性』を確認して進めたのだから、一体ボクはどうすれば良かったと言うんですか」とか、まことに往生際の悪い発言をしているらしい。
 片や、すでに報じられているライブドア株保有者たち20万人あまりの人々が、どんなに悲痛な思いでいるかなんぞは「想定外」ならぬ「考慮外」のようである。
 昨日、自分は、<「打たれ強さ」と、「図太さ、鈍感さ」とは同値のものであるのか>という問いを立てたが、まさに容疑者堀江氏は、「図太さ、鈍感さ」においても天才的だと言うべきか。

 ただ、昨日は、東京証券取引所が、ライブドア社株を上場廃止にすると発表し、いわゆる「整理ポスト」入りを果たし、来月14日には、証券市場から同社の名が消えることになった。ライブドア株保有者たち20万人あまりの人々にとっても、アンビリーバブルな推移となってしまったわけだが、ライブドア関係者にとってもこれ以上の「しっぺ返し」はないであろう。
 昨夜、家内と一緒にTVニュースを観ながら夕食をとっていた際、家内はボソッと言ったものだった。
「まるで、小説『杜子春』の杜子春みたいな感じね……」と。
 つまり、仙人の魔力によって一夜のうちに大金持ちとなった杜子春は、同時にあっという間に一文無しに転落したということが言いたかったようなのである。まさに、堀江氏の場合には、仙人は登場してこなかったものの、インターネット環境と提灯持ちのマス・メディアとが仙人に代わる役割りを果たしたとも見える。
 ただ、「杜子春」は、大金持ちになることの虚しさを自覚したし、その上、一度は望んだ仙人になることをも人間的な感情ゆえに拒んだわけである。つまり、「仙人になる訓練中」に、自身の両親がいたぶられる光景に対しても声を出してはならぬという掟に従えなかったわけだ。
 これに対して、堀江氏は、ちょっと異なるようだ。大金持ちとなりすぐさま一文無しになろうとしている点や、声を出すことならぬ、事実告白を否認している点では似てもいようが、同社株購入者のうちの老後資金で購入した老人たちをも失望のどん底に追い込んだ点などは、杜子春とは似ても似つかぬ別人であろう。

 そんな堀江氏であっても、若い世代のある部分の者たちは「英雄視」しているらしい。 ただ、そうした若い世代の者たちは実に甘いと言わざるを得ない。先ずは、自分と彼とが同じサイドにいると感じている錯覚が恐い。
 堀江氏は、言うまでもなく、「株式の申し子」だと言っていい。あえて、「ネット、インターネットの申し子」だとは言わない。後者には、Linux や Google の動向の内に見出せるような気高い理想もあるからだ。人間社会の共同性をしっかりと意識した動きである。
 「株式」という制度にしても、本来は経営と資金の関係に関する極めて合理的な思想が脈打っているはずである。が、堀江氏が興味を持った部分は、株式の「梃子の作用(レバレッジ、leverage)」であり、判断能力を欠いたマス・メディアとそれによって操縦されてしまう民衆ではなかったかと推定する。だから、彼を「英雄視」したり、支持したりする若い世代というのは、彼が、自分たちを袋小路に追い込んでいる既成秩序の、その破壊者と見ているのかもしれないが、たぶん、彼の方ではそう見られることを仕掛けているだけの話なのであろう。
 それというのも、「株取引」の世界では、取引の際に「希望(的観測)」を持つことはビギナーだとされ、プロは、そうした「希望(的観測)」を周囲に作り出し、それによって「売り抜け」を行ったり、自身の取引の仕掛けを作り出すのである。典型的には、「仕手株」の手口であるが、「粉飾決算」(有価証券報告書の虚偽)によって自社株の購入動機づけをねらったとするならば、彼を自分と同じサイドの「英雄」と見なすなんぞはとんでもない話であろう。自身をも騙してかかろうとした相手サイドの人間だとどうして気づけないのかと不思議に思うわけである。
 既成秩序がわれわれの味方サイドのものでないことなんぞは百も承知している。問題はどうやってそれを、「後戻りしないかたちで変革」していくかなのであって、ライブドア関係者たちが行ったことは、「仕手株」志向を持った者たちがただ単に自分らがもうけようとしただけに過ぎない。しかも、結果的には既成秩序を奉じる者たちを喜ばせただけと言ってもいいのかも知れない。

 仙人の魔力も、杜子春の人間性も、この時代ではほとんど縁のないいろいろな存在によって置き換えられてしまったのかも知れない。そして、もっとも情けないことは、敵と味方の区別がつかない人々と、その状況が浮上していることになるのかも知れない…… (2006.03.14)


 ファイル交換ソフト「ウィニー」を使っているPCから、知らぬ間に個人のデータなどが外部に流出していたという事件が相次いでいるようだ。警察関係者のPCからもデータ流出があったと報じられていたはずである。そして、ようやくそんな事件に対しての防御対策が講じられ始めたようだ。

<ファイル交換ソフト「ウィニー」を悪用してパソコンから情報を流出させるウイルスの被害拡大を受け、インターネット接続企業などの業界団体が感染者に警告メールを送る対策を始めた。まず6月末まではニフティ、IIJ、OCNの利用者を対象とし、効果が確認できれば対象を拡大していく方針だ。>( asahi.com 2006.03.15 )

 自分は、そもそもファイル交換ソフト「ウィニー」なるものは便利そうだけれども、「アブナイ」と<直観>して遠ざけてきた。こんなことは<直観>で十分なのではなかろうか。部外者が調べたり研究したところで、正確な構造がわかるものでもなかろう。
 ただ、ネットを通じて外部の匿名的第三者とデータ交換をするという点を考えただけで、「アブナイ」可能性が髣髴とするわけだ。まして、ネット上で「匿名的」に悪事を働こうとするものたちは、悪い頭であっても、たっぷりと時間がかけられるヒマと、異常な執着心を備えているはずだから、他人のPC内に潜む「アブナイ」可能性を秘めたプログラムを、手なずけることくらい朝飯前だと考えられる。ウイルスやスパイウェアなどを送り込んだ上でのことである。

 思うに、知らないことに対する警戒心がなさ過ぎることが大きな問題点ではないか。便利さを享受することは、それはそれでよいが、その便利さが一体どんな隠れた危険を代償にして成り立つのかに、もう少し関心を持ったり、想像力を働かせていいのではないかと思うわけだ。
 また、われわれの人間観がつねにタイムラグを持ち、現実よりは「古いバージョン」となっていることを凝視するのも必要かもしれない。古い共同体世界では、他人のものを盗んだり、まして他人を騙して欲を通すことは、無かったわけではないにせよ、ごく限られていたはずである。信頼し合った人間関係があったということもできるが、要するに、人間各個人は、今の監視カメラどころではない「相互監視状態」の状況にあったことが大きいと思える。
 村ではなくとも、都会の町内であっても会社のような組織であっても、お互いのことを熟知し合う社会関係があったはずである。そして、このことが、世間体とか体面とかを刺激して、バカなことに走ることを抑止していたのではなかろうか。
 しかし、現代という時代は、大なり小なり「匿名的」社会となり切っているようだ。もちろん、インターネット環境などはその典型だと言える。元来、どこの誰だかわからない環境のただ中で、恥ずかしい事、善くない事をしないという動機づけの問題は、そう簡単な問題ではなさそうである。
 とくに、神という空間を超絶した絶対的な存在を信じない日本人にとっては、他人の目が唯一、規範の根拠となっていたはずである。それが「匿名性」というかたちで、他人の目、視線が外された空間では、やりたい放題、し放題という状況が発生したところで、あながち不思議なことではないのかもしれない。この国の古来にも、「旅の恥はかき捨て」というかなり露骨な指針があったわけだから、現代生活のような「年がら年中が旅」のような環境では、恥も善悪もますます感知しない状況となっているのかもしれない。

 とにかく、現代という時代が提供している社会条件、時代条件を、かつてのそれらとの差異において注目し、吟味して、その上で、われわれが心なり脳なりに刻んでいる人間観を、現実に即したかたちにバージョンアップすべきなのかもしれない。そうすることで、ひょっとしたら様々な不可解な社会事象の謎が解けるのかも…… (2006.03.15)


 何度も何度も同じ失敗を繰り返す、ということ。これは情けないことだ。ある若手技術者が、技術的な手順の間違いを繰り返してある種の残念な判断を下されてしまった。自分もその彼を知っていたが、何がどうと細かく指摘することはできないとしても、そうしたことを仕出かす予兆を感じないわけではなかった。強いて言えば、誰にでもある失敗をするという経験に対する、受けとめ方というか、感度というか、そんなものが不足していたのかもしれない、とそう感じていた。

 ひと(他人)のことを言っているわけだが、しかし、正直言ってあながち他人事ではないと思っている。自分にしても、結構、同じ失敗を繰り返して、気が滅入ることがしばしばある。自分で自分が嫌になるものだ。一応、反省をしてみたりするのだが、それでもなお繰り返してしまうことが多い。
 で、どうしてそうなるのかと、マジに振り返ってみて、気づくことがひとつだけある。 それは、何にせよ失敗を仕出かす際の脳と心の状態は、その失敗を客観的に反省したりする際の脳と心の状態とは異なるのではないか、ということである。それはあたかも、「失敗モード」の脳と心が働くレベルがどこかにあり、またそれらを冷静に反省するモードが働く別のレベルがどこかにあり、それらは階層が異なるかのようである。

 よく、平静な場合にはなんでもないことが、人前に立ったり、急かされたりすると、上がってしまったり、焦ってしまったりして、やること為すことが杜撰になるというケースがあるものだ。これなどは、まさに、脳と心のモードが複数存在するかのごとくであり、したがっていくら「冷静モード」の時にこんこんと自分に言い聞かせたところで、それはそのモード内であれば有効であっても、「モード・チェンジ」が発生したら何の意味も持たなくなるのかもしれない。
 上がるとか、焦るとかという典型的な心理状態のみならず、超リラックス・モードであるとか、手抜きモードであるとか、あるいは、気分散漫モードであったりもするかもしれないが、いずれにしても、われわれは、事後に冷静に判断するような脳と心のモード、これを「理屈モード」と言ってもいいのかもしれない。だが、そこにいつも立っているとは限らないのが現実ではないかと思う。要するにこの「理屈モード」は、机上の空論、自己満足になりがちなのだと思える。

 じゃあどうすればいいのかということだが、一番良いのは、失敗を仕出かしてしまうさまざまなモードの最中にあって失敗をした時に、リアルタイムでキツイお叱りを受けることではないかと思われる。つまり、「現行犯」逮捕をしてもらうわけである。こうなれば、失敗モードの脳と心の状態で失敗を見つめることにもなるし、苦しいながらもそのモードの中で失敗克服の可能性を模索できるというわけである。
 ところが、昨今の若い人たちは、仕事でも何でも「独り」で気軽にやることを好むものだ。昔のように、先輩からどやされながらやるのは真っ平ご免ということなのであろう。これが、しかし、失敗の温床となることは目に見えて明らかではなかろうか。「独り」で対処すると、どうしても、「理屈モード」の自分が反省してますます理屈っぽくなりはするが、「現行犯」をいつも取り逃がして、「失敗モード」の脳と心を無罪放免で泳がせ続けること必定ではなかろうか。

 とかく「独り」で、自身の「失敗モード」の脳と心を更生させるのは、リハビリ・トレーニングのごとく至難の業だと言うほかない…… (2006.03.16)


 時々、事務所の看板を見て唐突に電話をくれる人がいる。看板は、社名と電話番号とを記載した通常の縦長のものと、それ以外に、通りに面したガラス窓にちょっとした業務案内のパネルを掲げたりしている。
 ホームページではいろいろな問合せがあり、直接仕事に結びつくこともある。が、通りがかりの人で看板を見て電話をくれる場合には、まず、そういうことにならないケースがほとんどであろうか。
 どちらかといえば、トンチンカンな話となることが多い。電話受け付けの社員が手を焼いて、「ヘンな電話が入っているんですけどどうします?」とわたしに回してくることになるのだ。
 わたしも、よほど手が離せないことをしているのではないかぎり、気分転換にもなるので電話に出るようにしている。

 これまでにも、いろいろとあったが、そう言えばホームページを作りたいというのがあつた。中年の自営業者のようであり、ホームページを作ってもらえるのかという問いからはじまった。そして、あーだこーだといろいろ話すうちに、虫のいいことを考えていることがわかった。自分のホームページを開き、そこにいろいろと宣伝広告のアイコンを置いて、閲覧者がクリックしたらスポンサーから回数に応じた謝礼金を取るという小遣い稼ぎがしたいというのである。確かに、そうしたことをビジネス・システムとして依頼するスポンサーがいたりするものではある。現に、弊社のサイトにもそうしたアイコンを載せる契約をしないかという話をもらったこともあった。
 しかし、その人のいかにもイージーな発想にあきれ返り、ちょいとたしなめるような話をした覚えがある。スポンサーだって選ぶ権利があって、アクセス数が一定以上の数でなければ話にならないし、当然、それなりのアクセス数を生み出すだけの何かユニークな売り物がなければなりませんよ、そうしたセールス・ポイントがおありですか……、と。

 昨日も、こうした類の問合せ電話があった。しばしば、弊社の前の歩道を通ると言っておられた。看板の内容のひとつに、「アイディアのソフト化支援!」といった文句を謳っている。つまり、事務関連や生活関連、あるいは生産装置の制御関連で、手作業でのグッド・アイディアなどをコンピュータのプログラムに置き換えてみたいというような場合に、そのシステム作りやプログラム作成で肩代わりいたしますよ、というほどの意味なのである。
 その方は、「アイディアのソフト化支援!」とは何を意味するのでしょうかと、真顔で、といっても電話なので顔は見えないが、声の調子からいってそうした様子で尋ねるのであった。こちらは、いろいろと説明するのだが、いまひとつわかってもらえないもどかしさを感じたものであった。
 この場合、その方の動機をそれとなく探らなければ埒が明かないと思い、まずは、「お仕事は何をなさっておられるのですか」と聞いてみた。自営業だと言われた。次に、パソコンなどはお使いでしょうかと尋ねると、まあ、ありきたりのことをやっています、と返答された。
 そうしていろいろと話すうちに、「アイディア」という言葉がキーワードであり、その方の頭の中には、いろいろなアイディアが充満しているのかどうかは別として、「アイディア」という言葉だけは、まるで、それが平凡で、しがない生活を魔法のように革新してくれるナイトさながらに輝いている気配なのであった。
 下世話に言うならば、「アイディア」は持って行き方によれば金儲けにつながる! ということなのかもしれない。それは誰しもが考えることであり、わたし自身も、ひところよりかは熱が冷めたものの、頭のどこかにそうした白馬に乗った輝かしきナイト像が今でも残存する。
 その辺からわたしが話し始めたのは、「アイディア」で金儲けをするということは、時として流れ込みやすい発想ではありますが、これが意外と大変なことなんじゃないでしょうか、という意味の話であった。要するに、「アイディア」が何らかの製品、商品となる過程には途方もない労力と時間がかかる、あるいは資金もかかったりするわけで、ポンと「アイディア」を出してそれがまるで水戸黄門の印籠のようにすぐさま奏効するということではないでしょうね、という冷ややかな調子の話なのであった。これは、自分もそこそこ経験してきたことでもあるため、別に冷や水をかけるつもりではなく、実態をお知らせしたまでなのであった。

 人というものは、自身を取り囲む、拭っても拭っても拭い切れない味気ない現実の生活を耐えるために、心の中の、あるいは頭の中のどこかに、「白馬のナイト」に値する自己救済の光明を設定したいものであろう。それを、心底信じている自分を信じてはいないにせよ、そうした光明があると思うことで、何かスーッとした心境になったり、マアいいか、と思えたりするものなのであろう。それまでを、捨てるべきだとは言うべきではないのだろう。
 ただ、ならば、「白馬のナイト」をいつまでも暗闇に「寝かして」おいてはいけないはずだと思われる。それを、「ささやかな希望」だと思い続けてはいけないのかもしれない。「着手」あるのみ、どんなにわずかな一歩ではあっても、具体的に踏み出すことがより確かな実感につながって行くのだろうと思える。
 わたしが、電話のその方に言ったのは、飲んでいる時でも、眠ろうとした時でも、浮かんだ「アイディア」を、ちゃんとメモする習慣をつけることが大事なのかもしれませんね、というささいなことであった…… (2006.03.17)


 お彼岸の墓参りを早目に行ってきた。21日には、家内のお父さんの49日の法要を行うこともあり、「古い仏さま」の方への墓参は前倒しにしたということになる。
 家内とおふくろとの三人という通常パターンで菩提寺までクルマにて向かった。
 おふくろは、いつもながらクルマの後部座席に乗り込むと、さっそく他愛もないことを話題にしてあれこれと喋り出す。独り住まいで暮らしているためか、われわれと接すると、とにかくいろいろと喋る。ここしばらくは遠のく結果となっているわれわれとの旅行の際にも、ひとりで喋り捲る。それが厭だというわけでは毛頭なく、自分は黙って聞いている。家内が相づちを打ったりして対応している様子を、これだけ喋れるのなら元気な証拠だと感じたりするわけだ。
 が、おふくろは、根が開放的ではあるが、まるっきりの開けっ広げというわけでもなく、気難し屋のわたしやら、家内がどう反応するかというようなことを一応は気にかけて話をしているようではある。まあ、おふくろと家内とは、姑と嫁という間でもあるわけだから互いに気を遣うことがあっても不思議なことではないし、息子のわたしもお天気屋で気難しい男ときているから、時々おふくろの住いに顔を出す姉との、女同士の気楽なお喋りというケースとはどこか区別しているようでもある。

 そんなおふくろにとって、安心して喋れる話題がいくつかある。たとえば、持病の糖尿病に関するクスリの話や、通院している診療所の先生の話がそれである。それというのも、わたし自身もその同じ診療所に通っていたりするからである。今日も、「息子さんは、優秀(な経緯)なのに、お母さんの方はいまひとつですな」と言われたと、にがにがしそうに話していた。
 もうひとつ、おふくろが安心して喋る話題としては、「猫」の話があると言えようか。わたしのうちでは飼い猫が二匹に、よんどころなく世話をしている外猫が数匹いるわけだし、おふくろもマミという名の猫を飼っているから、他愛ない共通項となり得るわけなのである。

 おふくろは、はじめ、猫を飼うなぞ面倒くさいと言い張っていたのだが、姉から、猫でも一緒に居ると寂しさが紛らわされていいわよ、と説得されてようやく飼うことになったようだ。猫は嫌いということではなくどちらかといえば好きな方だと思われる。だが、「猫っかわいがり」をするようなタイプではない。おまけに、猫を「内」猫として飼う場合、どうしてもストレスを貯めて定期的に暴れたり、家の中のものを壊したり破いたりといった乱暴もするので、それが厭なようである。
 今日も、おかしなことを言っていた。
「猫って、何のためにいるのかしらね。餌もらって、寝てばかりいて、何にも役に立ってなんかいないしね。むしろ、家ん中の物を壊したりしてばかりいるんだから……。猫は、いくつになったら大人しくなるもんなのかねぇ。もう十歳になるのにね。
 わたしは、はじめ猫というのは、縁側なんかの日当たりのいいところで、静かに大人しく丸まっているものと思っていたんだけど、ウチのマミなんか部屋中走り回るし、物は引っくり返すし全然違うんだから……」
 しかし、そんな愚痴を言うかと思うと、猫用のこたつの電源をつけてやるのを忘れていてかわいそうなことをしちゃった、というようなことも言う。
 手がかかったり、煩わしいことが伴うという部分と、独り住いの空虚さ、寂しさを紛らわせてくれて余りある部分との両面をしみじみと受けとめているのが実態なのであろう。

 わたしが今日こんなことを書くのは、猫にしても犬にしても、人間世界、それも大人たちの間で飼われることというのは、もはや不可欠な事象になりかかっていそうだと、そう感じたからなのである。大人たちのいろいろな意味での孤独感を癒し、また、気難しい大人たちの間に入って、格好の「クッション」となってもくれるし、気が和む「話題」をも提供してくれるペットたちの存在は、やはり人間社会にとって居なくてはならない存在であるように思えたのである…… (2006.03.18)


 今日は、いつもながらのウォーキングということではなく、買い物がてらブラブラ歩くことになった。というのも、やや睡眠不足で疲れが残っていたからかもしれない。
 昨夜は久々に夜更かしをしてしまった。床についたのが午前2時半ぐらいであっただろうか。ここ最近は、午後10時前後には寝床に入る習慣となっている。昨夜は、自宅のパソコン環境の整備で思わぬ時間がかかってしまった。
 例の「ウイニー」に絡む新たなウイルスの出現を警戒し、自宅のパソコン環境のセキュリティーをチェックしていたところ、思いのほか時間がかかってしまったというわけだ。ダウンロード作業など、途中でやめるわけにはいかない作業のためいつになく就寝時間が遅れてしまったのだ。

 実は今日は、早起きをしてクルマの免許の書き換えに出かけようかとも考えていた。だが、寝不足による疲れもあったし、また一つ気にかかることが生じて、免許書き換えの方は先延ばしにすることとした。
 気にかかることとは、ほかでもないTVで野球中継を見ることである。「2006ワールドベースボールクラシック」準決勝、日本対韓国の若干興味ある試合のことだ。前二回の残念な対韓国戦があんな風であったため、今日のゲームは想像だにできなかったが、まことに他力的なかたち、米国の自滅によってタナボタ的に日本の準決勝進出が決まった。
 対米国戦では、王監督も抗議した審判の不祥事があったり、対韓国戦では常日頃冷静なイチローが感情をあらわにしたりと、いろいろな伏線があっただけに、これは気にならざるを得なかったというわけだ。王監督とかイチローとかの、どちらかといえばひたむきで、シリアスなものたちが熱くなっている姿を思うと、勝たせてやりたいという気にもなる。
 さらに気分的には、先のオリンピックの結果が冴えなかったという凹んだ感触も残っていたのかもしれない。それは多くの日本人たちの一般的心理なのかもしれない。

 しばらくテレビを見ていたが、これはどうもどちらも「流れ」が作り出せず両者互角の関係が続くように思えてきた。また例によって8回戦あたりまで均衡・膠着状態が続くような気がしたのだ。
 いつもそう思うのだが、勝負というのは、どちらかが自分サイドに有利な「流れ」のきっかけを掴んだ方がほぼ勝ちとなりがちなものだ。一番始末が悪いのは、相撲でいえば「水入り」となってしまうような互角・均衡の状態である。てっきりそうした状況かと判断してしまった。
 そこで、野球観戦はポケットラジオでチェックすることとし、ウォーキング代わりのブラブラ散歩に出かけることにしたのだった。二、三の買い物のあてもなくはなかった。
 まずは、一番近い距離にあるドラッグストアに向かった。ちょっと試してみようかと考えたサプリメントがあったからだ。味の素食品が最近開発した「アミノ酸グリシン」主成分のそれで、「眠りの質」を向上させるというある種画期的な製品だと思えたからである。いろいろと探したり、店員に尋ねたりしたがそれは置いてなかった。
 店内では、野球観戦のポケットラジオは雑音ばかりで判然としなかったが、何やらアナウンサーが興奮しているような気配を感じたため、表に出てみた。
 すると、7回の表でどうも日本が均衡状態を破り、松中の出塁が「流れ」の口火を切り、代打福留の2点本塁打で先制と攻め込み、一挙に計5点を先取したらしい。

 「そうか、よしっ!」と、自分は、日本チームの勝利をほぼ確信し、歩きながらひとりニヤニヤとしていた。
 次に向かったのは、いつかは覗かなければいけない(?)と思っていた「100円ショップ」であった。ある知人が、最近の同種類のショップは、へぇーこれが100円? と思わされるようなものが山積しているとのことだったからだ。
 確かに、文具や小物から、食器やなべ釜(釜はなかったがフライパンまであった)掃除用具まで揃い、もしこの春から一人住まいを始める学生や新入社員などがいたら、とてつもなく安い費用でとりあえずの生活用品は揃ってしまうなあ、なんぞと納得したりしていた。 で、最後に向かったのは書店で、三冊ほどの単行本を購入して、何となく充実したかのような気分で帰宅したものである。ただ、もし日本チームが三度韓国チームに惨敗していたとしたら、そんな気分はなかったはずであろう…… (2006.03.19)


 昔から言われてきたことに、風俗が乱れ切ると純愛ものが浮上してくる、というのがあったかと思う。自分の世代でも、『愛と死をみつめて』(1964年)であるとか、『ある愛の詩』(1971年)とかがすぐに思い浮かぶ。
 この土日に、TVではあの懐かしい『愛と死をみつめて』のリメイク版がオンエアーされていた。で、まず想起したことは、ああ、やっぱり風俗が「ストップ安」に至ったことの証しであり、その「反発」(どうも最近は株式用語がポロリと出てしまう……)としての純愛ものの再登場ということか、ということだった。

 今さら『愛と死……』でもないかという気恥ずかしい気分もあったが、ロケ・セットで昭和30年代末の街並みが再現されているということなので懐かしさもあり観るとはなく観てしまった。
 まだ目頭を熱くする感性が自分に残っていたことに気づかされた。不思議なことに、なぜか、懐かしい感情というよりも、新鮮な感情が浮上してきたかのように感じたものだった。
 そんな自分を振り返ってみて思い当たったことは、「韓国にあって日本にない……」いや、それはWBCの話であり、ここでは、現在にあって当時(1964年頃)になかったもの、それは何かという問いであった。そして、その答えは、「死」というものに対する実在感ではないかということに思い当たった。それだけに、『愛と死……』のドラマが、当時とは同じ受けとめ方ではなく新鮮に受けとめられたのかもしれない。

 当時(1964年頃)といえば、自分は16歳の高校生であり、頭の中では「死」という観念を弄んでいた、そう、弄んでいたに過ぎなかったと言わざるを得ないだろう。両親も健在であり、親しい友人の死にも遭遇していなかった。もとより、自身の命や身体にも何の影もなく、文学、哲学のジャンルでいやというほど「死」の問題については考えてはいたが、言ってみれば上滑っていたに相違なかった。
 だが、現時点では、家族や親しい人たちとの死別を経験したり、その可能性を予感したり、あるいは決して死に至る病ではないにせよ当時のように身体に何ひとつ不安を感じないというようなハイヌーン(正午)な状態ではなくなったと言うべきか。つまり、人や自身の「死」というものを、好むと好まざるとにかかわらず「みつめる」契機を得たということなのである。こうした感覚があったればこそ、何十年も前に聞き知った純愛ものが、幾分新鮮にも感じられたのかと思ったわけだ。

 さらに、『愛と死……』のキー・コンセプトは、やはり、「死をみつめて」という契機なのだろうと痛感したものだった。つまり、人が生きることの喜びと、はかなさ、切なさなどの一切が、ただ一点、「死をみつめて」という契機を抜きにしてはあり得ない、ということではないかと感じ入ったわけである。
 そう考えてみると、現代社会は、「死をみつめて」という契機を、まるでコンピュータ・ウイルスやウイニーを撃退するかのごとく排除して、知らぬ顔を決め込んでいるかのように思えてきたりした。「死をみつめて」という契機が失われるならば、すべての人間のシリアスな感情は裏打ちを失い、感情を盛る言葉は単なる符合に化すにもかかわらず、誰しもがそのことには触れないようにしているかのようである。要するに、現代社会は、「死」を「忌み嫌う」だけの作法を広めることによって、一方では、円滑な日常生活を得るとともに、他方では、本当の意味での人間の感情をスポイルしているのかもしれない。

 冒頭で書いた風俗の乱れと純愛ものの再浮上という点であるが、そうした冗談めいたことを笑って言える時代はひょっとしたらもはや過ぎてしまっているのかもしれない。現状は、風俗の乱れというような、いわば軽症ではなく、人と人との関係の致命的な乱れ、混乱、つまり人を人と思わない時代風潮が訪れていそうだと感じるからなのである。
 純愛ものの再現による時代風潮という振り子の揺れ戻りも期待しないわけではないが、もっと大規模な揺れ戻り、つまり「限りある生」として宿命づけられた人間が、それをそれとして「みつめる」ことができるような社会環境や文化環境へと「揺れ戻って」ほしいと願わざるを得ない。強さと空元気とをメイン色調とするハリウッド映画のようなカルチャーだけでは、人を本当には幸せにできないような気がする…… (2006.03.20)


「4対1で勝ってるそうですよ」
 自分は、お節介にもその方に向かって唐突にお知らせしていた。

 先ほど、寺の墓の通路で、見ず知らずの女性が、
「4対1だって、うれしい!」
と言い、自分も
「日本が勝ってるんですか?」
と話しかけたそんな気分の流れがあったのかもしれない。

 ここは、「言問い通り」。道路に面した歩道の一角で、ポケット・ラジオからのびるイヤホーンを耳にあてがい、そのラジオの感度を調整している人が目に入ったのだった。
しかし、どう見ても怪訝な顔つきであった。
 直感をことのほか大事にする自分は、これはもうWBCの推移を気にしている人であり、ところがあいにくラジオの感度が悪く、現時点の成り行きが掴めないで困っている人に違いない、と判定したのであった。そんな保証はどこにもなかったと言えばどこにもない。しかし、身なりのきちんとした年配の男、そう言えば第一印象では、大学教授か何かそんな雰囲気を持った人であり、まあ、そんな人がラジオ放送にその時点で気になるとすれば、もうWBCの行方以外にない! と推理したのである。また、自分は、もし、はずれていたとして相手が不審そうな素振りをしてきても、「ふんふん」と流せばそれで済むことだと決め込むあつかましい中年のおっさんでもあった。
 ところが、直感は見事に的中! その人は、意表をつかれたような顔つきをして、
「えっ、どっちがですか?」
と問う。
「日本が勝ってるそうですよ」
と自分は言う。
「へぇー、そいつは凄い。ねぇねぇ、日本が4対1で勝ってるんだってさ」
 彼は、連れの二人に嬉々とした素振りで伝えていた。そして再度振り返ってこちらを見た時、自分は、またまた思わず二の句を継いでいた。
「失礼ですが、どうも見覚えのあるお顔ですが……。TVか何かで……」
「『競馬(解説)』の『井崎』です」
と、その人は満面に笑みを浮かべて答えた。
「ああー、そうでしたね」
と自分は言って、記憶の中の顔と眼前の顔とが一致する心地になれたのだった。
 「言問う」会話はこれだけのことであった。
「いやあ、どうもありがとうございました」
と、競馬解説者の井崎さんは深々とおじぎをしての丁寧な礼を述べて、連れの人たちを追うようにして立ち去って行ったのである。

 今日、「言問い通り」に出向いたのは、家内のお父さんが亡くなられて「四十九日の法要」があってのことだった。寺でのスケジュールのすべてが終り、皆で会食をしようと近辺の店をブラブラと探していた時のことであった、その寸劇「言問い」問答があったのは。

 「言問い通り」の由来である在原業平の歌
「名にしおはば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」(都鳥はユリカモメのこと)

という情緒性からすれば、何とも単刀直入でわかりやす過ぎる会話でしかなかったが、わたしの気分はと言えば、痛快そのものであったのだ。
 一つは、自分の直感力と行動力(と言うほどでもないが)が「屈辱的」にはならなかったことであり、もう一つは、しかもその相手様が、直感力で勝負されている『競馬』の『井崎』さんであったことで、何かプロと直感勝負をしたかのような錯覚が得られたからなのかもしれない。
 ひょっとしたら、『井崎』さんはお連れさんたちのところへ戻ってから、
「いやぁ、世の中には勘のいい素人さんもいるんですねぇ……」
なんぞと言ってやしないかと我田引水に考えると、痛快さの度合いは、王監督やイチローが今日味わっているそれの0.00001%ぐらいのものではあっても、手応えのあるものとして感じたりするのだった。

 それにしても、今回のWBCの結果は、どこかミステリアスで隠喩に富んだ印象が拭い切れないでいる。
 もちろん、今日本命の「四十九日の法要」はつつがなく運ばれ、家内も、お母さんも、弟さんもほっとしているようであった。
 まあ、いろいろと心を悩ませることは絶えない人の世ではあることに変わりがないが、今回のWBCの推移のごとく、勝利の女神の実にミステリアスな微笑みもあることだし、気分を腐らせずにマイベストでやるべし、というところか…… (2006.03.21)


 今日は書くことがないような雰囲気で、書き始めようとしてからもう一時間も、時間が経過してしまった。その間、取り留めのないことを考えたり、ちょいと腹ごしらえをしてみたり、事務的な作業を済ませたりとしていた。
 そこで、なぜ、犬も歩けば棒に当たるごとく、何か書くことに行き当たらないのかと考えることにした。

 差し当たって、昨日のように外出したり、人と出会ったりという一日であると何かと書くことの素材に事欠かない。むしろ、何を選び、それをどう料理するかに梃子摺ったりするほどである。
 素材・材料といえばそのとおりなのであるが、今一歩踏み込んで考えると、体験と言ってもいい。また、さらにつべこべ言うならば、外界や人などとの関係を、身体と心のすべてを使って取り交わすことだとも言える。これらが伴うと、リアリティのある思いが否応なく生じ、それらのひとつひとつが書くに値する素材となり得るような気がする。

 それに対して、マンネリ化した、事務所内でのルーチン・ワークを一日中していると、しかも、その大半がデジタル・データに関る処理であったりすると、感情の起伏がほとんど生じることがないわけだ。
 ネットを通しての、社会環境やそれに類する情報入手とて、生きた人間との会話で得られる総合的な情報の持つリアリティからすれば、かげろうのようなインパクトしかない、と言っても良さそうだ。これは、TVを見ることによって現場を見ているつもりではいても、そこに雲泥の差があるのと似ている。
 つまり、現場に立つということは、不本意な火の粉を浴びたりもするということなのである。自身が巻き込まれる、あるいは参与、参画するということである。これらが、否応なく身体中の全筋肉と全神経をアクティーブにさせ、それが体験をしたという痕跡や充実感を生じさせるのであろう。
 ところが、TVを見たり、ネット情報に接したりするといことは、やはり現場の外で、幾重もの埒外な間接性によって遠ざけられた環境で、しかも「安全性」が保障されたかっこうで事に接するということにならざるを得ない。ここでは、擬似体験といっても圧倒的に薄められた水準のものがあるかないかという程度なのであり、とてもアクティーブな緊張感なんぞは生まれようがないだろう。
 これが、マンネリのルーチンワークで過ぎ行く一日の実態であり、そんな時間経過からは、書くに値することなぞは生まれるはずもないと思われる。

 しかし、こんなことを振り返ってみると、現代という時代環境それ自体が、人に書く動機を与えない、そんな時代ではないのかと思えたりする。つまり、「便利」と「安全性」を提供しながら、人々を実体験の機会から遠ざけ、環境全体にありとあらゆるお節介な編集をほどこしてしまっているからである。ハプニングと偶発性をこそ楽しむはずの賭け事でさえ、デジタル・コントロールで編集されていることを思えば、現代がいかに実体験の機会が少なく、疑似体験のトライによるまやかしで埋め尽くされているかが納得できようというものだ。
 そして、そんな環境であるからこそ、人々は何かを書くという動機がスポイルされ、当然何かを考えるという人間本来の能力を萎縮させる結果となっているのかもしれない。
 かつて、現代という時代には、もはや「人生」というような輝かしさと鮮度のある時間が消え失せ、消毒臭がする真っ白な「生活」だけがダラ〜ッと無限に伸びている、というようなことを書いた覚えがある。ますます、この傾向が強まっているかのように思われる。

 しかし、書くことが無い、と言いながら、よくもまあこんな屁理屈を並べ立てるものかとわれながら感心する…… (2006.03.22)


 若干興味をそそる表題の新書版を入手した。大体、書籍の表題はそうでなくては売れないのだろうが、人々が関心を持つイメージをよく言い当てるものだと、感心もする。
 まだ落ち着いて読んではいないので、勝手なことを言うべきではないはずだろう。しかし、表題と中のキーワードに接するだけでも、この著作には、自身の問題意識とオーバーラップするものを予感し、自身の問題意識があながちへそ曲がりの思い込みでないことが知らされ、意を強められた思いがする。
 自分の場合、書籍というものへの評価は、著者が何を言わんとしているのかという側面よりも、自身の問題意識やら、関心事がどう強められたり、是正されたりするのか、という自分サイドの思惑に根ざすことが多い。客観的な評価ということ自体が難しいという点もあるわけだが、自身が費用を賄って入手する書籍であるのだから、自分の思いとの関係でこそ書籍には接するべきだと思うわけなのである。だから、よくあるような、「有名人がお薦めの〜冊」なんていう方式にはとてつもなく違和感を覚えたりすることになる。「余計なお世話さま!」ということになろうか。

 前口上が長くなってしまったが、その書籍とは、速水敏彦著『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書、2006年2月20日)であり、キーワードは、「仮想的有能感」と「自尊感情」となっている。
 おそらく、これらのタームだけでも、「ハハーン、ナルホド」と思うような、問題意識旺盛な人も少なくないのではなかろうか。中には、職場その他で現代の若者たちに接し、日毎、わけのわからないイライラ感で悩まされている方で、思わず手を打って、よしっ、さっそく謎解きに迫ってみよう! と色めき立つ人もいるのではないかと想像したりもする。実に、世相にマッチした書籍だと思うのである。

 以前に、この日誌にも「仮想的有能感」に通じる「操作感」
<「自己効力感(自分で自分の能力を実感することによる喜びや満足)」( 堀内圭子『<快楽消費>する社会 消費者が求めているものはなにか』中央公論新社、2004.05.25 )という言葉 ……
 そんなある時、「操作感」(捜査官ではない!)という言葉を耳にしたことがあった。つまり、さまざまな優れもののツールを「操作」する、できることで、自分の能力を過大に実感して悦に入るというほどの意味であったかと思う。(2004.09.17) >
について書いたことがあった。
 つまり、「IT、メディア、便利な商品群」に常時接している現代人は、実はそれらが仕事をこなしているにもかかわらず、自身の能力あっての結果だといつの間にか錯覚して、満足するにいたってしまう。この辺の感情は、誰しもが持ちがちなものだけれど、結構アブナイ感情ではないかというような意図であった。これらの感情や体験が累積していくと、当然、自分は結構デキルやつなんだと思い込んでしまうのもムリはないというべきで、その結果おかしなことが起こりうると思えたのだった。
 これは、私自身の感想であったのだが、どうも前述の著書の「仮想的有能感」の「ひとつの」ケースと符合しているようである。著者は、こうした文脈に、「自分はエライ」とする「自尊感情」があわさって、「他人を見下す」という手に負えない挙動が生じる、と分析しているようなのである。
 上記著作では、「IT、メディア、便利な商品群」が引き金となっている指摘のほかに、「希薄化する人間関係」と「個人主義」や「孤立」という説明も加味されることになるが、土台、「IT、メディア、便利な商品群」というのは、人間関係を煩わしいもの、避けられれば避けたいものという前提で提供されているわけだから、ある意味ではこれらはワンセットだと考えてもいいのだとわたしは考えている。

 ややくどくどしく書いてしまった嫌いがあるが、今、これらのエッセンスが、実に単純明快な言葉でかねてから言い伝えられていたことに、はたと気づいた。
 何あろう、「井の中の蛙」である。ただし、現代の「蛙たち」が手に負えないのは、「目年増、耳年増」という特徴が度過ぎているということなのかもしれない。つまり、ネットをはじめとして、マス・メディアなどの環境は、狭く暗い「井戸」の中に、外界・世界の情報をふんだんに流し込んでいるため、昨日も書いた「間接性」と「安全性」で包まれた情報群には不自由しないどころか、それらがまた、「井の中の蛙」の「仮想的有能感」を増幅させることに寄与してしまっているのであろう。
 この辺の問題は、この傾向が顕著だと見える「若者たち」の問題であるだけではなく、上記著作の著者も指摘しているように、現代人全般の問題でもあるようなので、今後とも折りに触れて考えて行きたいと思っている。
 「井の中の蛙」と「蛙の親子?」を組み合わせるならば、「他人を見下す」ほどに「仮想的有能感」と「自尊感情」で腹を膨らますだけ膨らましていると、きっといつかパンクしてしまい、命取りになることは目に見えているはずであろう………… (2006.03.23)


「1.目的(法第1条) 電気用品の製造、輸入、販売等を規制するとともに、電気用品の安全性の確保につき民間事業者の自主的な活動を促進することにより、電気用品による危険及び障害の発生を防止する。」(『電気用品安全法の概要』 経済産業省サイトより http://www.meti.go.jp/policy/consumer/seian/denan/outline/hou_outline.htm )

 これは、今、世間をお騒がせの、いわゆる「PSE法」の目的の条文である。
 このPSE法は「PSEマーク」のない家電製品の業者による販売を禁じる法律で、2001年に制定され、今年4月に一部製品の猶予期間が切れ、冷蔵庫や電子楽器など約260品目がPSEマークなしでは販売できなくなるというものだ。
 これに対して、中古楽器店や中古機器販売点などが、廃業の恐れさえもあるとして、反対声明を出し、この法の改正を求めている。そして、一部の楽器が適用除外されるというような動きも出でいるらしい。
 だが、作曲家の坂本龍一氏なども、会見を行い、楽器だけでなく、すべての中古の電気製品を適用除外するよう主張し、「自分の使うものを役所に決められたくない。ビンテージ楽器だけ除外すれば、口うるさいわれわれミュージシャンが黙るだろうという意図がみえみえだ。リサイクル業者たちが運動すれば応援したい」と、経済産業省への批判のボルテージを上げているという。
 坂本氏は、地球環境問題や、戦争と平和に関する問題でも非常に的を射た発言や提言を行っているが、このPSE法の「理解に苦しむ! 問題」に関しても、庶民の声を代表していると思えた。

 この法には、いくつかの問題点を感じざるを得ない。
 中古業者たちが反発しているのは、経済産業省は、同法をメーカーには告知してきたが、中古事業者への告知はほとんど行っていなかったという点であり、多くの中古店は今年に入ってから同法を知り、対応に苦慮しているという。そんなことってアリか、と思えるわけだ。実生活を知らない! 役所の能天気さにはいつもながら腹が立ってしまう。
 ほかにも、対象商品の範囲が不明確だ、ボーダーライン上の商品も多い、禁止事項も明確ではない、中古品販売はダメでも修理はOKなのかなども不明で、グレーゾーンが広すぎる、「まだ使える商品が大量のゴミになる」点でリサイクルの精神にも反しているというような、ちょっと考えても多くの問題点が溢れる法だという印象が拭い切れない。

 しかし、差し当たり二つの大きな観点で、文句を言ってみたい。
 その一つは、「電気用品の安全性の確保」だと言ってさも人々の生活の「安全性」に目を向けているかのような差し出がましいことをするのなら、きちっとした体系的な思想を持ち、縦割り官僚主義を超えた総合的な生活「安全性」とでも言うべき政策を政府として出すべきではないのか、という点。
 それこそ、一連の「住生活」「食生活」等などに関する政府自体の手落ちをタナに上げて、今さら庶民の自主性を阻害するような規制でもないでしょ、と言いたいのだ。
 大体、統合的な哲学、思想のないものに限って、その空白を隠すべく枝葉末節のくだらない取り決めや形式主義を押し付けるものではないか。「構造改革」を旗印にして「規制緩和」を口にしてきたのは一体何なのかとぼやいてみたいところである。「規制」によって物事が秩序立つと考えるその場当たり的な姿勢を、もう止めていい頃のはずである。
 まあ、ともかく、「安全性」というテーマで大事なことは、「総合性」や「統合性」であり、成り行きまかせのような手先技のパッチワークはけしからん、ということだ。

 二つ目は、坂本龍一氏の発言にもあった「自分の使うものを役所に決められたくない」に関係している。政府が何かにつけて「自己責任」を強調するのであれば、国民個人の生活に頭を突っ込むべきではなかろう。生活に関る電気製品の保守くらいはみんな自分でやっているわけだし、しかも、それは調整幅のない生活費とのかね合いでやっているのだ。その際、中古品を選ぶことは当然あって然るべき選択でもある。国民の自助努力的な選択肢を奪うのであれば、何か補助金でも出す覚悟はあるのだろうか? 「脱中古促進補助費」とか……。
 もし、こう言ってもこの辺の問題にこだわるのであれば、「中古役人」の「天下り」こそは、危険この上ない事象であるため、即刻禁止すべきだと、抗弁したい。まあ、名称は、同じ「PSE法」でもいいかと思う。「<P=ぱっと、S=しない、E=エリートもどき>を民間企業等に流し込まない法」とでも名づければよかろう。

 しかし、官僚機構は、やること為すこと、どうして庶民、国民の肌を逆撫でするようなことばかりになってしまうのだろうか。強権はあるのかもしれないが、決して「美しくはない!」自分たちの姿をいま少し自覚してもらいたいものだ…… (2006.03.24)


 庭の梨の木を「チェーンソー」で荒っぽく剪定したのは、去年の秋であった。小枝の選定にとどまらず、幹の上部三分の一ほどを伐採するという荒療治であった。その辺りの幹の直径は10センチくらいであったから、梨の木自身にとってはかなりの痛手であっただろうと推測する。こまめに剪定しておいてやれば、そんな荒療治に至らなくて済んだはずだから、罪作りなことをしたのはもっぱらご主人側に違いなかった。
 何となく罪意識を感じていたため、この冬の間、庭に出た折には梨の木を見上げて、若葉のつぼみが芽吹いてくれたかどうかを心配してきた。
 しっかりと大地に根を張った元気な木であったため、初春の頃から残された枝々には硬そうな新芽が芽吹いてくれてはいた。
 それが、今日、見上げてみると、枝々には柔らかそうな小さな新緑の粒があちこちに吹き出していた。ほっとしたとともに、自然の生命力の凄さというようなものを実感させられた。
 また、ヘンな観点ではあるが、自然の生命力には、人間が抱くような遺恨とかネガティブな感情なぞはあり得ないのだろうと、妙に感心したりもした。それこそ、無心で寛大なパワーだけが充満しており、自分らのような人間個人の、なんだかんだという感情のあやなどは、卑小なものとさえ思わされたりしたものだ。
 この調子だと、迫り来る文字通りの春には、燦燦とした陽射しの中で、まるで何事もなかったかのように去年のような新緑の葉を湛えてくれるに違いないと思えた。ただ、どんな様子で白い花を咲かせ、そして果たして梨の実を実らせるところまで、機嫌を直してくれるかどうかは、卑小な存在である人間の自分には確信が持てないでいる。

 ウォーキング・コースの途中、地元の古い農家の庭に、二、三十メートルもある古木があり、その勇壮な姿はいつも自分を元気づけてくれていた。その古木によって絵になっていた光景は、幾度となくデジカメで撮影もしてきた。
 ところが、この古木も、大変な荒療治の剪定を施されてしまっていたのである。ちょうど、去年の秋口から冬場にかけて、自分が腰を痛めたり、糖尿病で入院したりしてウォーキングどころではなかった時期に、その大手術は敢行されたようなのであった。
 このことをわが目で知ることになった時には、言いようのない寂しさと切なさが込み上げてきたものであった。まさに大空に向かって伸びやかに広がっていた姿の良い枝ぶりの姿が、骨だらけの身をさらすがごとき痛々しくも惨めな姿に変わり果てていたのである。 確かに、同時に思い至ったそうした剪定作業が、どんなに大事(おおごと)となっていたかは想像を超えたものであったに違いなかろう。チェーンソウを背負った作業者たちは、どんなにか危険な思いをしたことであったか、そして、そうした作業にいかほどのコストがかかったことか、はたまた、そんなにもコストをかけざるを得ないほどに、その古木の巨大さは、落雷の危険可能性であるとかその他の小さくはない問題を随伴させていたのではあろう。
 しかし、その古木の雄姿は、どんなに多くの近隣住人たちに感銘を与えていたことかと悔やまれてならない。そうした、感銘というものは、人工的な鉄塔や都会の巨大ビルなどが威圧感をもっておよぼす印象とは較べようもない類の、自然の姿のみが与える感銘であったに違いないからである。
 ただ、時間はかかることだとは思われるが、あれだけの雄姿で聳え立った古木であったのだから、その雄大な生命力は、現在の見るも無惨な骨々しい身を、きっと、その生命力にふさわしい緑の衣で覆い尽くすに違いないと想像する。

 春も今頃になると、毎年変わらぬ自然の優しく、律儀で、そして決してあなどれない偉大なパワーといったものを見せつけられる思いがするのである…… (2006.03.25)


 やはり、朝青龍は勝負強い。栃東に負け、十三勝二敗とされ、決定戦に縺れ込みながらも同じく十三勝二敗で控えていたモンゴルの弟力士、白鵬を見事に下し16回目の優勝を果たした。大相撲春場所(大阪場所)千秋楽の取り組みである。
 取り組み前の両者の様子が映し出されると、どうしてもどちらが勝つのかを占う賭けのような気分となってしまう。朝青龍の方が気ぜわしさを感じさせ何か焦っているかのようにも見えないではなかった。ひょっとしたら、白鵬が勝つか……、と思いきや、朝青龍は切れ味の良い下手投げで白鵬を破る。
 朝青龍は、直前の取り組みで負け、小さからぬ心理的動揺を被ったり、もとより弟弟子が次第に強くなり迫ってきているという言い知れない圧迫感も感じていたに違いなかろう。
 しかし、先場所は逃しながらも、15回も継続して優勝を続けてきたその強さのうねりとそこから生まれる自信と身についた勝ち癖と言うのだろうか、勝負を完璧に制御仕切り、あっさりと結果OKに持ち込んでしまった。これが、勝利のトレンドを掌握している者の姿なのかなあ、と感じさせられたものだ。

 栃東などの日本力士の横綱を願う相撲ファンにとっては苦々しい思いなのかもしれないが、朝青龍はとにかく強いと思われる。その安定した強さは、いわゆるベテランが持つところの強さのような雰囲気だ。
 「盈(み)つれば虧(か)く」(なにごとも頂点に達すれば、あとはしだいに衰えていくものだということ)ということわざがあるものの、朝青龍の頂点はまだまだ先のことであるのかもしれない。少なくとも、現時点ではその安定感に陰りは見受けられない。低下、衰弱するものがあったとしても、それを補いカバーする他の要素によって、安定感の全体はしっかりとキープされているかのごとくである。

 強さを維持する者は素晴らしいとして、朝青龍を絶賛する意図をこめて書いているのではない。自分とて、やはり日本人力士がこんなふうであってくれたらと思わざるを得ないでいる。
 ただ、朝青龍の強さの維持は、やはりテクニックや小手先技の強さにとどまらず、内面の力の強さに負うところがありそうな点に興味を持つのである。たぶん、一度や二度の勝利というものは、物理的、技術的な、ある意味では偶発的とも言える強さによってもたらされることもありそうに思える。しかし、頂点を維持し続けるということは、おそらくそうした力だけでは不可能なのではないかと想像せざるを得ない。
 追って迫る後続の強敵もさることながら、むしろ自身の内に蠢く様々な想念や感情こそが、より手ごわい敵であるのかもしれないと推測することは、あながち的外れなことではないように思えるのである。この世界でままあることは、強い存在、弱い存在を問わず、「自滅」によって滅ぶことこそが避け難い事実だからである。そして、人間の場合には、その原因は、フィジカルな側面に根ざす場合とともに、マインドな側面によって引き起こされるケースが少なくなさそうに思えてならない。

 スポーツ界における永続する王者が、日本人によって担われていくためには、技術至上主義的な嫌いがないとは言えない現在のこの国の風潮、そこに鋭くメスが入れられることが、ことによったら必要なのかもしれないと思ったりしたのである。残念ながら、現在の日本の文化状況ははなはだアナーキーと言わざるを得ないように思われるからだ。
 ただし、反芻されて向かう先は、必ずしもかつての「スポ根」的な精神主義の復活とは限らないような気がしている…… (2006.03.26)


 自社の資金繰り関係の計算は、かねてよりExcelで自作のシステムを使い、まずまず便利にこなしている。もちろん、金額の不足までそのシステムが賄ってくれるわけはない。当然である。経理担当者が別に入力したその都度その都度の入金計数と支出計数のファイルをマクロでリンクさせるように設定し、資金繰り状況が即座に表示されるようにしたのである。もう、数年以上これを運用して、資金繰り計算の自動化を行っている。
 ところが、毎年度、日付や曜日を更新するのであるが、その際に時々、セルに書き込んだ計算式が消失してしまうミスが生じたりする。まあ、自作のシステムで、自身が使うために、あまり目くじらを立てずに、イージーに使っているから、厳密なテストを怠ったりするためである。

 じゃあ、こうしたミスがあったりするシステムだと支障があったり、不便であったりということになるかといえば、あながちそうでもないのである。というのも、そうしたシステム上のミスは、発覚しない場合には一瞬、資金繰り上の異常な事態の表示で人を脅かすのだが、あっこれはシステム上のミスなのだ、とすぐに了解できるのである。
 というのも、いくら計数的にアバウトな自分だとはいっても、ある期間が、資金繰り上に問題が発生するそんなステイタスかどうかの感触は自覚できているからである。つまり、ざっくりとした状況認識が、システム上のミスによってはじき出された数字の誤謬に不信感を抱かせるということになるのである。
 これまでに何度もそうした、システム更新時の作業によって生じてしまったミスを、実数字のおかしさから発見してシステム自体の修正を行ったものである。
 こんなことを書くと、そんなシステムは危なっかしいじゃないか、と言われそうであるが、自分としては、ミスが見つけ出せる状態にあるのだから、それでいい、と考えている。いや、お客様に提供するシステムであれば、しっかりとテスト工数を割いてこんなことが決して起こらないようにするのだが、自分が便利で使い、その上、ミスがあったとしても見逃さない状態であるため、まあいい、と判断しているのである。

 こうしたことを振り返る時、ちょっと妙なことを考えるのである。
 人間とシステムとの関係とでもいう問題なのである。結論から言えば、両者は持ちつ持たれつ、という関係でいいのではないかという点なのである。
 コンピュータ・システムを利用しようとすると、次第に、「完全自動化」という水準を思い描いたりする場合がありそうだ。まあ、その必要性が高い場合、しかも、そのことによる「対費用効果」が十分に見込まれる場合には、それも理に叶っていると言えるのかもしれない。
 しかし、自分は、「完全自動化」という水準を手軽に求めることにはあまり賛成しない。もちろん、コスト高につくというリーズナブルな視点もあるが、今ひとつ考慮したいのは、人間の能力ならではの事の運びというものを無理矢理、システムにやらせることはないのではないかと感じるのだ。極端な話が、人類が現状の高水準な機能構造を持つに至ったのには、何千年、何億年もかかったわけで、そうした時間経過の集大成を、わずか数十年の科学技術によって置き換えようということ自体が、とてつもなくムリをしようとしているとしか思えないのである。仮に、表面上うまく行っているこどくと見えたとしても、隠れたミスが潜伏していないと一体だれが言えるのかと思う。

 むしろ、それが可能な環境であれば、何億年もの結果である人間の機能構造をいかんなく発揮してもらえばいいではないかと、そう考えるのである。人間には、しかも、その対象に精通し手馴れた人であれば、片目つぶって3秒で判断したり、見抜いたりすることが、この現実にはふんだんにあるのではなかろうか。つまり、デジタル的な境目のない、曖昧な事柄であっても、複合的な情報を総合的に睨んでいる人間だからこそ識別や判断が可能であるといった事柄は枚挙にいとまがないと思われるのである。
 もし、そんなことをムリムリ、「完全自動化」システムにやらせるとしたら、「対費用効果」がすっ飛んでしまうだけではなく、やはり後日に禍根を残す結果となってしまうような気がしてならない。
 と言っても、事のすべてを手作業、人間の判断でと主張するつもりでは毛頭ない。そうではなく、人間能力とデジタル・システムとの「棲み分け」を上手にすべきではないかと考えるのである。
 この辺の問題は、高齢の実務経験者と、若いワーカーとのコンビネーションという問題においても見据えられていい点であるやに思う。若いワーカーだけが、デジタル・システムのように手際良く仕事をこなすということでもあるまい。そこには、さまざまなミスの可能性と危なっかしさが潜伏してもいるだろうし、逆に、高齢の実務経験者がすべてにおいてまどろっこしい作業状況だと決めてかかるのも現実的ではなかろう。ここでも、「棲み分け」とコラボレーションが意外と良い結果をもたらすこともありそうな気がする…… (2006.03.27)


 現在でも月に一度の間隔で通院している。インシュリン制御のクスリをもらいにいくわけである。今日も、検査結果は良好であった。そのため、クスリの量が減らされることとなり、この分ではもうじきクスリを飲む必要もなくなりそうだと医者は診断した。
 医者のデスクの上には、カルテなどとともに、いつも何がしかの飲み物のペットボトルが置いてあり、いやでも目に入る。
 以前は、「富士山の水」という名のバナジウム含有のボトルが飲みかけで置いてあった。それについての話をした覚えがあるが、実はその医者自身も自らを糖尿治療をしていて、バナジウムがインシュリン分泌に効果があるそうだからとそれを飲んでいると言っていたのだ。
 ところが今日は、何とか緑茶というボトルが置いてあった。これも、インシュリンに効果があるんですか、とわたしが訊ねたら、いや、自分は要するに糖分のない飲み物を飲んでいるだけですと答えていた。
 それがきっかけで、再び、話題がバナジウム含有の「富士山の水」ということになった。わたしは、この医者もそれを飲んでいるということもあって、入院以来、杓子定規にこのボトル2リッター入りを買って飲んでいるのである。まあ、即効性があるなぞとは思っていないが、カロリーのある妙な清涼飲料水を飲むよりはましかと思い続けている。

 その医者の話によると、患者さんのどなたかは、売っているボトルだけではあき足らず、わざわざ富士山の麓まで湧き水を取りに行く人がいるとのことであった。そして、沸かして飲めば良いものを、生で飲んで下痢をしたというおまけまでついたそうだ。
「気持ちはわからないわけではありませんよ」
と、わたしはつぶやいた。いや、湧き水を生で飲むことに賛同したわけではなく、糖尿病に効き目があるとしたら、わざわざ現地にまで足を運んでそれを採取するという行動についてなのである。
 といっても、わたしの関心の視点は、身体に良いものを入手するには手間をかけてもいいという、ありがちかもしれない心境に対してよりも、別なところにあった。なんと言えばいいのだろうか、些細な事ながらちょっと込み入っている。

 人の行動というものは、大きく分けて二種類の動機によって促されていると考えられる。ひとつの動機は、もちろん、そうしたいと欲する動機である。これを一応「欲求行動」と名づけておく。ある意味では、これが普通のケースであり、とくに子どもや若い世代の行動の大半はこれに属すると思われる。
 もうひとつはというと、「せねばならぬ」という感覚や意識に背中を押されて行う行動であり、こうした感覚や意識をもたらすものは大なり小なり規範めいたものであるため、「規範行動」とでも名づけておく。これは、どちらかといえば、年配世代の行動様式を説明するのに便利かと思われる。

 ところで、先ほどの話、バナジウムが糖尿病に効くというので、わざわざ現地の富士山麓まで出向く人 ―― まあ、年配の方と見なしていいのだろう ―― の件であるが、わたしが、「気持ちはわからないでもない」と思えたのは、年配世代というのは、「したいからする」という動機よりも、「せねばならぬ」という動機で行動することがよく見かけられるからなのである。
 いやむしろ、「したいからする」というパターンはどこか馴染まず、「せねばならぬ」という局面や条件が整ってこそ、俄然行動的になる、というものではなかろうか。つまり、ドライブがしたいからドライブをするというのは、どうも座りが悪いと感じるのであり、病気治療のために効果のある湧き水を採取に「いかねばならない」となると、これはもう、どこにも遜色のない大義名分があるわけだから、水杯を交わしてでも敢行する、といった按配なのではないかと思うのである。

 つまらないことを書いているのはわかっている。しかし、この辺の問題は、現在のこの国の文化的社会状況にとって小さからぬ問題ではないかと思えてならない。
 一方で、人口は一方的に高齢化を強め、世の中には年配世代が溢れようとしている。が、他方では、マス・メディアをはじめとして若者世代向きの文化、カルチャーが相変わらずのさばっている。そして、この後者は、単刀直入に言えば、「欲求行動」を支柱とするもの以外ではない。「したいからする、やりたいからやる」という感覚、意識で隅々まで構成されているのが、現在の一般的カルチャーではなかろうか。
 しかし、年配世代というのは、腹の底では「欲求」の動機を持ちながらも、それで行動を起こすというのにはどこか気恥ずかしく、そして苦手なのであろう。何か、大義名分が欲しいのであり、それがあればそのドサクサに紛れて腹の底の「欲求」を解放するのかもしれない。

 こうした「リアル・ロジック」は、商売や政治をはじめとして、いろいろな場面で応用することが可能だとにらんでいるが、差し当たり、家庭内で、ガンコな亭主やオヤジたちを操る際にも必ずや奏効するはずである。
 くれぐれもやってはいけないことは、彼らの腹の底を見透かしたかのように、
「行きたいんでしょ、だったら行けばいいじゃないの」
とかを言ってはいけないのだ。それを言ったらお仕舞よ、ということになる。
 そうではなくて、
「……のために、行くべきよ」
と言うのである。「……」の部分は、「健康」であってもいいし、「ワンちゃんの散歩」であってもいいし、「子ども夫婦が喜ぶ」でもいいし、はたまた「パチンコ屋の経営」であってもいいわけだ。とにかく、腹の底に潜む当人の「欲求」発ではなく、世のためひと(他人)のためだという「カモフラージュ」的規範もどきを添えてやることが必須なのである…… (2006.03.28)


 もうそろそろ「湯たんぽ」無しでも済みそうな時候だ。
 いや、自分のことではない。家の外で「半分飼っている」野良猫たちのことである。
 この冬には、あまりの冷え込みから気の毒に思い、昔風に言えばリンゴ箱くらいの大きさの小屋を作ってやり、朝晩、脇から「湯たんぽ」を取り替えてやるという措置を施してきたのである。
 野良猫たちは何匹もえさをもらいにやってくるのだが、そのうち何もかもが真っ黒なクロちゃんは、かなりの高齢のようであることと、人情を解する人懐っこさが見込まれ、とうとう玄関先に「マイホーム」を作ってもらうという恩恵に浴したのである。

 みんな野良猫たちは、人さまの暖かい恩恵に浴するまでには並々ならぬ努力をするようである。一匹目の飼い猫リンは、わたしが、亡くなった飼犬レオを散歩させている際、空き地の草原から必死になってアスファルトへ這い出してきて鳴いていたのである。あの時の赤ん坊ながら必死そのものの鳴声こそは、今日の「揺らぎ無い地位」を獲得するための一世一代の大博打であったはずだ。その時、自分たち(わたしとレオのこと。レオもヘンな動物が身の丈に似つかわしくない大声で鳴くために、びっくりしてわたしに知らせていたのであった)が助けなければ、目も見えない幼い状態でアスファルトに這い出して、クルマのタイヤの餌食になっていたはずなのである。
 二番目の飼い猫ルルの「売り込み」もまた印象深いものであった。ルルは、どうもよそで飼われていた様子が漂っていた。何か不祥事(?)を引き起こし、追い出されたか、ウチにはいられなくなったか、という事情を感じさせていた。飼い猫として「昇格」させてみると、やたらに布団などの上にオシッコをするクセのあることがわかり、ははーん、これで前のウチをしくじったんだな、と想像したものである。
 このルルは、一言で言えば「媚びる」ことにかけてはほぼ天才だと思われる。とにかく、今まで見聞した猫の中で最も他者に「媚びる」ことが上手い。これもひとつの取り得なんだろうか。
 ウチの庭に紛れ込んで来た当初から、窓からウチの中を覗き込むは、わたしや家族が帰ってきたりすると、さも親しげに近寄ってきて愛嬌を振りまくのであった。まさに、座っていた場所から飛んで降りて来てまつわりつくといった動作であった。わたしは、その迅速さと、笑顔(?)に好感を抱いてしまったのだった。そこいらのセールスマンにお手本として見せてやりたいような出来栄えであった。

 そして、冒頭のクロちゃんのことであるが、こいつは、なぜ野良になったのかという裏事情(近所の家が突然夜逃げをしてしまった)を知る当方側により大きな理由が潜んでいたのかもしれない。確かに、人懐っこさでは人(猫)後に落ちないタイプではあるが、とはいっても、ルルほどの闇雲さはない。自分が、それを嫌う人は嫌うかもしれない黒猫であることを承知してでもいるかのように、いつも人に距離を置いて遠くから様子を見る、といった行動スタイルなのであった。
 しかし、そうした様子が、「事情」を知る者からは、どこか憐れさを感じさせるものであったのかもしれない。わたしなんぞは、息子夫婦に突然、家出されてしまい、たった独り取り残され、路頭に迷った身寄り無き年寄り、といった風情を感じさせられたりしたものであった。
 そして、季節は、寒風吹き荒ぶ初冬であり、自分も身体のあちこちに不調を来たし、寒い季節をことのほか恨めしく思ってもいたため、さぞかし、あのお婆さん猫は心細かろうと、同情心が否が応でも高まっていたのだった。で、藤山寛美ならぬ「湯たんぽ」完備の猫小屋作成の運びとあいなったわけである。

 ここからである、肝心なことは。
 わたしは、せっかく作ってやったのに、さほど利用しないというような事態がありはしないかと、一抹の懸念を抱いていたのである。そうなったら、やはり失望感が大きいと、危惧したのである。ところが、どうであろう、クロちゃんは、ありがた感のクイック・レスポンスを返してくれたばかりか、リリース時からウチを空けた事がないと言えるほどに入り浸りとなったのである。
 ウチの息子に言わせると、「あれじゃ、寝たきり猫になっちゃうんじゃないの……」というほどであった。
 しかしこのレスポンスは、善意のベンダーにとっては、この上ない遣り甲斐感で満たされるという図以外ではなかったのであった。その結果、わたしは、ほかのことはさておいても、朝晩、我が手で「湯たんぽ」の取り替えをしっかりと続けさせてもらったりもした。
 それが、ようやく、「湯たんぽ」無しでも過ごせる時候になってきたという経緯なのである。
 この間、ひとつ心にひっかかることがあると言えば、クロちゃんの娘猫のことである。クロちゃんには、娘猫と孫娘猫がいるのだが、孫娘猫は要領が良いのに対して、娘猫はどうも「どじ」なタイプであり、模様も、かわいそうに黒と茶が混ざったぐちゃぐちゃなデザインなのだ。だから、わたしは、「グチャ」と命名したほどである。おまけに、腹に虫がいるのか、いくら食べても身体が大きくはならない。
 そのグチャが、クロちゃん用の小屋を羨ましがってしょうがなかったのである。クロちゃんがちょいと外出したりすると、スゥーと忍び込んで丸まって寝ているし、寒い夜などはクロちゃんだけで精一杯の空間にムリムリ身体をねじり込ませたりしているのである。 そして、クロちゃんが時々、フゥーと吹いたりするといやいや出て行く格好なのである。そのしょぼくれた後姿を見ていると、「おかあちゃんはいいなあ、あんな居心地のいいおうちを作ってもらって……」といった、ジェラシーと愚痴とが入り混じったため息が聞こえてくるような気配なのである。
 若い猫は、将来があるのだから若さで冬なんぞは乗り切りたまえ、という心境であったのだが、一向に身体が大きくなってゆかないグチャなので、なんとなく複雑な心境にさせられていたのである…… (2006.03.29)


 今、「しんもんくい(※注)」の自分は、睡眠の質を高めるというとあるサプリメントを試している。

 ※注.「しんもんくい」とは、「新物喰い」と書き、大阪弁で「新しいもの好き」のことである。子どもの頃から良く両親にそう言われてきたものだ。ちなみに、亡父は根っからの大阪人であり、母は結婚後に東京から大阪に移動したのだが、父の使う大阪弁を要所要所身につけていた。そんな両親から、「こいつは『新物喰い』なやつだ」と言われてきたのである。
 どんな時に言われたかは忘れたが、今でも自認するとすれば、新たなアイディアなどは試したくてウズウズするという点であろうか。我田引水的に言うならば、知的旺盛ということになり、客観的に言うならば、目移りが激しい軽佻浮薄者ということになる。

 睡眠に関しては、かねてより大いに関心がある対象で、ナポレオンではないが、これを制する者は天下を制するというような視点で、思い入れをしてきた。
 とにかく、何かの拍子で深い熟睡ができた翌朝は、まるで生まれ変わったかのような実感を持つし、その日の気分と、活動状態が俄然高水準となることを確認している。
 それに対して、睡眠時間は決して不足しているようではなくとも、気分的には昨日の続きをそのまま推し進めているような場合があると、もちろん疲れ具合から活動の調子はくすむし、何よりも感情がどうしてもネガティブになり、大袈裟に言えば、因縁のある沼の河童にでも足を取られて沼に引き込まれつつあるような雰囲気となる。
 これは、ひとえに大脳が休むに必要な深い睡眠(ノンレム睡眠。ノンレム睡眠は、大脳が発達した鳥類や哺乳類などの高等動物にだけ見られるため、進化した眠りといわれ、逆に、レム睡眠は、大脳皮質が発達していない魚類や、爬虫類、両生類などの変温動物にも見られることから、エネルギーを保存し、疲労を回復させる原始的な眠りといわれる)がうまくとれなかったことによると思われる。

 睡眠についてのそんな実感のある自分としては、今、流行りの脳の体操がどうのこうのということよりも、どうすればノンレム睡眠がうまく達成できるかにこそ大きな関心を持ってきたわけである。
 ところで、冒頭のとあるサプリメントとは、味の素社が販売している、アミノ酸系の補助食品であり、詳しい理屈はよくわからないが、なんでも神経伝達物質に関係しているらしいのである。
 そう言えば、むかし、それとなく聞いた話に、味の素は頭の働きに良い、という噂があった。味の素の主成分は、確かグルタミン酸であり、これもまた神経伝達物質だそうで、まんざら無根拠な話ではなかったようだ。かと言って、正解であるのかどうかは定かではないが。

 ところで、「アミノ酸・グリシン」とは一体、何なのか。
 同社のサイトには、次のような説明(だけ)がある。
<グリシンは体内でつくられるアミノ酸で、からだのいろいろなところに広く存在します。たとえば、皮膚のたんぱく質であるコラーゲンを構成しているアミノ酸の3分の1がグリシンです。また、グリシンは体にとって重要な働きを担っていて、私たちの体にとても大切なアミノ酸なのです。……
 グリシンは、甘みのあるアミノ酸であり、いろいろな食べ物にも広く含まれています。特に、エビ・ホタテなど(※注)の魚介類に多く含まれています。……
 1969年に落下した隕石から微量のグリシンが見つかり、地球上で最も古いアミノ酸の一つと言われている。>
 ※注.ちなみに自分は、これらがあまり好きではない自覚あり!

 ちなみに、自分で調べてみたら、つぎのような解説があった。
<神経シグナルには興奮性シグナルと抑制性シグナルがある…… アセチルコリン、ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンなどが興奮を伝えている。
 抑制性シグナルの伝達物質には、ギャバ(γ−アミノ酪酸)とグリシンがある。……脳の興奮にブレーキをかけることで、脳の異常が発生するのを抑えている。……グリシン神経はおもに脊髄で神経の抑制を担当している。……>(生田 哲『脳と心をあやつる物質』講談社 BLUE BACKS)
 要するに、興奮性シグナルを伝える神経伝達物質であるドーパミン、ノルアドレナリンなどと対照的な、抑制性シグナルを伝え脳や神経の沈静化をはかる神経伝達物質だということのようである。
 確かに自分の場合、睡眠中の、夢を見るレム睡眠中は、脳がかなり興奮するようなのである。しばしば、レム睡眠で夢を見ている最中に目が醒めると、頭が激しく活動中という感じがわかり、時として頭が充血しているという妙な感じにさえなる。たぶん、結構な勢いで興奮しているものと思われる。クーリングが必要な感じですらありそうなのだ。

 そんなこんなで、「アミノ酸・グリシン」摂取が、ひょっとしたら、脳が四の五のと騒がない、健やかで安らかな睡眠をもたらしてくれるのではないかと、「新物喰い」ふうに試しているのである…… (2006.03.30)


 昼食時、コロッケパンを頬張りながら、呑気そうに窓外を見上げた。今日はあまりに明るい陽射しだったからだ。
 すると、天空には、窓のスペースをうずめるほどの茫漠とした白雲が、ゆったりゆったりと移動していた。流れるというには遅すぎ、その速度は、この地上ではついぞ見かけぬ泰然自若としたものであった。
 その時、ふと、歌ごころ(?)が反応したものであった。

 流るる雲にこころ無しとて
  こころに返す姿あり
   それはもはやこころなりけり

 なーんちゃって、というべきガキの屁理屈でしかない。しかし、調子に乗ってこの理屈に理屈を施すなら、次のようになろうか。
 「共鳴」こそがこころの証しであり、たとえ、こころらしきものがあったとしても、他のこころにメッセージを発しない者のそれは、こころと言うには抵抗があり、逆に、こころ無しと見なされる自然の物質であっても、それを眺める人間にそこはかとないメッセージを喚起する物は、立派にこころがあると見なしたい、と。

 ジャーナリズムが発する文章にこころがあるのかと疑うことが多い昨今である。ジャーナリズムの質が見事に劣化していることは、何も政権与党が、鬼の首を取ったごとく騒いでいる例の「メール問題」の張本人が、自称ジャーナリストだったという事実を知るまでもなく明らかなことであろう。売文業は人をたぶらかすから、狸、狐の化かしどころではない。
 そんな中で、文章の老舗を自負する朝日新聞の、「天声人語」はやはり、現代が失った「気品」「品格」「格調」の三拍子を保っていると褒め上げてもいいかもしれない。
 今朝のコラムは、淡々としているが、この季節にふさわしい爽やかさがあった。それがこころに伝わってきた。

 <スタッフは平均62歳、上は70歳という神戸の「100円コンビニ」。客も半分はお年寄りだ。常連客は「やさしさを感じる」>(「天声人語」より)

 確かに「100円コンビニ」(100円ショップ)の店内は、やさしい空気に満ちている。客からできるだけ多くのカネを巻き上げようとする一般的ビジネスの牙がそっと手仕舞われているからであろう。しかも、お釣りで生きているんだわ、と言いそうなお年寄りたちが運営しているのであれば、昭和30年代の物価水準とともに、あの当時のやさしい世相が舞い戻ったかのように感じられるのではなかろうか。

 <小泉政権は丸5年を迎える。「劇場」の様を見て作家辺見庸さんは思う。「一犬が虚に吠(ほ)えるのは多分、歴史的にいくらでもあった」「だが、万犬もそれに倣うのか……静思すべきだ」>(「天声人語」より)

 つい先日の新聞社(日経)の世論調査でも、現内閣への支持率が数ポイント上昇したとかであった。一匹の狂犬に対しては、ぶっとい注射をしてしばらく寝かせて養生させればよかろうが、狂犬の吠える声に惑わされる何百万ものバカ犬にはどうしたものかと思案この上ないものがある……。

 <高知市の中山俊子さん(97)が、最高齢で県出版文化賞に。その詩はうたう。「長く生きることは/哀(かな)しくて 辛(つら)いことかも/さればとて……生きて 生きて/どうでも生き抜かねばなりませぬ」>(「天声人語」より)

 まことにおっしゃるとおりだと思います。この歳になってようやく、前半の吐露がこころに響くようになった気がしている。時代と社会のバカさ加減への「悲しさ」には慣れはじめてはきたものの、こころある人々との別れなどの「哀しさ」には正直言って堪えるすべがないと感じている。
 が、「さればとて……」なのであろう。哀しさ、辛さが、この人生の入場料なのだから致し方ないと言うべきか。とにかく、画面中央に「END」表示が出てくるまでは席を立ってはいけない。後ろで見ている人たちもいることだし……。

 <大阪教育大池田小では、01年の事件後も遺族の希望で被害児童の学籍を残した。そしてこの春、7人が卒業式を迎えた。酒井麻希さんの母智恵さんが述べた。「麻希の死から多くを学びました。大切な人との別れの悲しみ、命の大切さ、子どもを深い愛情を持って育むことの大切さと喜び、人と人とのつながりの大切さ。そして、それらの生を営む社会が安全で信頼できることの大切さです」>(「天声人語」より)

 たとえ、その存在が未知数の神や仏を愚弄することがあったとしても、決して蔑ろにしてはならないのは、いたいけな子どもたちである。彼らは、すべての人間にとっての「オリジン(origin)」以外ではないからである。彼らの持つ属性のすべてが、大人たちのこころに、希望という不可思議なパワーを注いでくれるからである。
 ただ、そんな彼らを抹殺しようとする、希望とは縁を切ってしまった大人たちが出現してしまっているのが現代なのであろう。希望を抹殺する時代と社会が、生きた希望の権化・権現である子どもたちを追いつめているわけだ…… (2006.03.31)