「とあること」を考えていたら、以前に飼っていた犬のレオのことを思い出した。いろいろな思い出がある。その中で奇妙だと思えたことがひとつある。
好きでならなかったような散歩に連れ出すそぶりをすると、まるで準備運動をするように庭中を駆け巡ってくるのである。こちらから見える視野の内なら、わたしへのアピールなのかとも思えたが、裏庭の方まで疾風のごとく駆け回ってくるのだからおかしくてならなかった。
いや、この奇行も奇妙は奇妙なのであるが、書こうとしたことはこのことではない。散歩に出てからのことなのである。大き目の中型犬であったため、レオが本気になって力むと、綱を持つわたしの方が引き摺られかねないありさまであった。
ところが、散歩に出るとレオはしばしば唐突にとある方向へと行こうと力んだり、帰ろうとしても別の方向へと向かおうとしたり、あるいは、人気のない原っぱで綱から放してやり、ほどなく呼んでも戻ってこないというような動きに出るのである。
これらは、飼われている犬ならば決してめずらしいことではないのかもしれない。しかし、自宅の庭に放されている時の、ものわかりが良く、従順そのものの素振りとは手のひらを反したような雰囲気となるから恐れ入るのである。場合によっては、「狂気染みた形相」(?)となったりするから参るのだ。
どうして、こう「人が(?)変わった」ようになっちゃうものかなあ、と不思議でならなかったのである。そこには、二つの人格、いや「犬格」が同居しており、散歩で表に出されると速やかにモード変換がなされるかのごときなのである。
今日書こうとしている「とあること」とは、「人格のモード変換」とでもいう事柄についてである。通りの良い言い回しにたとえるならば、「内弁慶」(外では意気地がないが家の中では威張り散らすこと)と言ってもよいし、あるいはちょいと過激な表現では、「多重人格」ということになるのかもしれない。
こうした、一人の人間の内に複数の人格が並存、温存されるような事象というのは、現代という時代環境にあっては意外と少なくないのかもしれないと思える。
原理的に言えば、人格というものは素養を核にしながら、より多くは環境によって形成されるものであろう。そして、前近代社会であれば、人間は、家族や地域社会という気心の知れた集団に所属し、場合によってはそこで一日、あるいは一生の大半の時間を過ごしてしまうことになるのかもしれない。とすれば、そうした安定継続的な所属集団が、人々の内側に安定統一的な凡庸な人格を形成していく、とそう見なせなくもない。
ところが、世の中が複雑になると、人々は、生まれ育った家族、地域社会というような「第一次集団」のみに所属・帰属するばかりではなく、学校や会社やその他諸々の集団組織に「多重」所属・帰属することとなるのが普通である。その上、現在では、ネットのような「非接触」の集団組織に所属したり、またはそこでの価値観から少なくない影響を受けたりする多様な「準拠集団」の存在も軽視できなくなっている。
こうなると、そうした集団組織でも人格は影響を受けつつ変容していくとともに、それぞれの集団組織向けの「顔」というようなものも自然に形成してしまうものかもしれないわけだ。極端に言えば、この辺の事情に、現代の「多重人格」形成への遠因が潜んでいると言えそうでもある。
しかしまあ、健康な人間であれば、いわゆる「TPO(Time,Place,Occasion)」の変化に応じて、安定した「統一的な自我」がマイナーな「モード・チェンジ」を行いながら、全体としてまとまりのある自分というものを維持しているはずであろう。時として、ギクシャクすることもあり、「あの人は、『多重人格』のようだ……」との謗りを受けたりすることもあったりはするのであろうが。
もし、こうしたありがちな現象を、「多重人格」だと称するならば物議を醸さないわけではなかろう。現に、当人も困るほどに病的次元に突き進んでしまった人もいるからこそ、精神医学的にも問題とされるはずである。
ただ、現代のような複雑怪奇な時代社会にあっては、人は大なり小なりこうした「単一的」ではない人格状況を抱えていそうな気がしてならないわけだ。だから、むしろ「多重」という否定的語感(「多重」債務!)のある語を使用したりせずに、「多面的人格」と称した方が妥当なのかもしれない。
いや、人格、人格と言ってきたが、そもそも現代の最も由々しき問題水準は、そんな複数の並存がどうこうなぞのレベルではなく、「溶けて流れリャ〜……♪」よろしくメルトダウンしてしまって、どこを探してもその影が見当たらないという情けないありさまの方なのかもしれない…… (2006.11.02)