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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2006年11月の日誌 ‥‥‥‥

2006/11/01/ (水)  「千日間日誌」×2に辿り着いてしまった……
2006/11/02/ (木)  「多重人格」者たちによるコンガラガッタ時代状況?
2006/11/03/ (金)  「道」=「異族の国に行くときにはその異族の首を持っていく」
2006/11/04/ (土)  「ルル三錠」タイプの新参野良ネコがただ今参上!
2006/11/05/ (日)  物質文明と人の欲望というか、海水と喉の渇きというか……
2006/11/06/ (月)  「YouTube(ユーチューブ)」という動画投稿・配信サービスサイト!
2006/11/07/ (火)  現在の「美しい国」日本の中身はどうなの? 「憎いし、苦痛」なの?
2006/11/08/ (水)  この選挙結果で、米国は変われるのか?
2006/11/09/ (木)  こういうのを、「おためごかし」とでもいうのでしょうか?
2006/11/10/ (金)  それじぁあまるで「総会屋」の手を借りたシャンシャン株主総会と同じ?!
2006/11/11/ (土)  雨降りの休日のもの思い……
2006/11/12/ (日)  暢気そうに流れる雲は、実は「名脇役」であるに違いない……
2006/11/13/ (月)  「喝!」でもいいけれど、この際は「ドクター・ストップ!」
2006/11/14/ (火)  むしろ、<ぜいたく品>をたらふく注入してみては?!
2006/11/15/ (水)  自民・公明の政府与党が、ついに歴史に大きな汚点を刻んだ!
2006/11/16/ (木)  多少なりとも時代と仲良くしないと……
2006/11/17/ (金)  「もし、まだ待っててくれるなら、黄色いハンカチをぶらさげてくれ――」
2006/11/18/ (土)  犬(や猫)は飼うというよりも……
2006/11/19/ (日)  「無心の境地」というものの価値を再認識……
2006/11/20/ (月)  現代という時代は、「いやーな時代」なのか……
2006/11/21/ (火)  <日本の景気の先行き不透明感>とは一体何なのだろうか……
2006/11/22/ (水)  「あのねぇ、あの犬はね、実はあなた自身の姿でもあるんだよ」
2006/11/23/ (木)  この世の「客分」か? 「お客様は神様です」か?
2006/11/24/ (金)  「ミイラ取りがミイラに」ならない法とは?
2006/11/25/ (土)  記憶と五感、そして生きる活力……
2006/11/26/ (日)  「奇跡の街『北品川』」とまで言っちゃいますか……
2006/11/27/ (月)  柿に嘴を「食いつかれた」カラス?
2006/11/28/ (火)  自分も含めた年寄りの情報収集とDVDビデオ……
2006/11/29/ (水)  あなたの「一分」は立っていますか?
2006/11/30/ (木)  「トリッキー」さが拭えない時代環境の汚れ……






 この日誌もそろそろ二回目の「千日」を迎える頃かなと気に留めたらば、昨日がちょうど「2000日目」となっていた。サイトのアップロード・ログは自動的にカウントすることになっているので、それを見るとわかる。
 阿闍梨(あじゃり)の「千日回峰行」にたとえて「千日間日誌」について書いたのが、「2004.02.01」であった。その時には、二度の「千日回峰行」を達成されたことで知られている比叡山の酒井雄哉阿闍梨のことを書き、「千日」×2という数字だけでも大変なことに違いないと、ただただ感嘆していたものだ。もちろん、「千日回峰行」は単なる数字に解消されてよい出来事ではあるまい。まさに命懸けの修行だそうである。

 果たしてこの「千日間日誌」が、「千日回峰行」の万分の一でも修行的な意味合いを持ったのかどうかはわからない。が、とにかく「2000日間」連続して雑文を書き続けたことだけは事実だ。
 単なる日毎の出来事について書くというよりも、日毎の、こころを寄せた事柄についての想いを書き綴ってきた。内容の良し悪しはともかく、よくも書く対象があったものだと一応感心はしたりする。よほど、「でっち上げ」の才に長けているのかもしれない。
 それでも、題材選びには毎日のように悩み続けている。毎回毎回のことである。ディスプレー画面の空白のエディターに広がる空白のスペースを睨みながら、「書くことが見当たらない」とか、「あのテーマについて書くには、今日は気力不足かな?」とか、頭や気分の調子が優れない時には「こんなものを書き続けて一体何になるんだろう……」とか、
うだうだとした悩み方をしている。

 要するに、何のために続けているのかがはっきりしているのは、少なくとも一日一回は必ず悩む、ということであるのかもしれない。それはそれで意味のあることなんだろうと言い聞かせたりしているわけだ。
 しかし、単に悩むだけということであったならば、おそらく「2000回」もの継続は、如何なる「変わり者」であったとしてもなかったであろう。やはり、続けるだけの何か意味なり、充実感なりがあったのだろうと振り返る。
 決してあったとは思えないのは、いわゆる常識的なメリットである。これが、今や持てはやされている「ブログ」のように、何らかのスマートなメリットを掘り起こすことにでもなったかと言えば、それは全くないのである。もっとも、正直言ってそうした期待は当初からなかったし、むしろ書くために書くという自身の内部で完結するごとき動機に依拠してきたからこそ、こうして長々と続いているのであろう。

 バカだと思われようが一向に差し支えないし、「変わり者」だと思われることなぞ何も気にするところがない。だが、それではあまりに開き直っているかのような誤解を与えそうなので、とりあえず書くことの充実感とでもいうものについて書いておこう。
 とかく、文章というものは、何かのために書く場合が多い。ビジネス文章はもちろんのこと、私的・公的な手紙、挨拶文などなど、その他日常的なさまざまな文章は、必ずと言ってよいほど、書くための目的というようなものが先行し、それに見合ったように文章化するはずであろう。それはそれで文句がありようもない。
 ただ、そうした文章というものは、常に「通りの良い」文面に向けて流されて行きそうである。最悪の場合には、「紋切型」表現のモザイクや羅列となりがちな、そんな危険と接しているとも言えそうである。まあ、生活、生きること自体がある意味でビジネスライクとならざるを得ないご時世であれば、至極当然なことであるのかもしれない。
 となると、自身の考えることや想いにこだわりたいと望む者は、どこかで、自分らしい言葉の遣い方、発語を試し続けてみたくもなるものである。あたかも、シャドウ・ボクシングをするかのような汗のかき方をしてもみたくなるものではないか、と考えている。
 そして、たとえシャドウ・ボクシングではあっても、そこで流される汗というのは、何がしかの充実感を伴うように、文章を書くことに没頭するひと時は、必ず、他では得ることのできない、そんな充実感を呼び起こすものなのである。

 書くことの充実感とでもいうものについて、今ひとつ踏み込んで考えてみると、何か書きたいものにジワリジワリと接近しているという感触が無関係ではないかとも思われる。残念ながら、未だに、何が書きたいと明言できるような達観の境地にはほど遠いが。
 だが、「雨垂れ石を穿(うが)つ」ではないが、何千日と文章を書くこと(思索すること)に拘泥し続けると、ぼんやりと書きたいことの姿が仄見えるような気がするのである。少なくとも、書きたくないことについてはその実感が指し示しはじめているように受けとめている。
 荒っぽく言ってしまえば、生きることの意味、意義というような茫漠とした命題にこだわり続けているのかもしれぬ。まして、時代環境が、そんなことにますます無頓着になっているような気配が濃厚となるにおよび、書くことによってささやかな防波堤を築くことができたらと思っているような節もありそうだ。
 昨夜、BSのTV映画で、『アイリス(2001)』を観て、言葉を貴重なものと考えるのが人間だという意を強めたものである。今日は、もうこの映画について感想を書く時間がなくなってしまったが、たとえ、晩年に不幸にもアルツハイマーに襲われ、それまでに共に生きた言葉たちを失ってしまったとしても、実在の作家アイリス・マードックは、言葉によって自身の人生を隈なく探り切った人だった、とそう思わずにはいられなかった。
 アルツハイマーや認知症とは無縁な人々の中にも、「紋切型」表現の言葉しか扱わない、言葉をパーフェクトに喪失してしまった人たちがますます多くなっている時代なのである…… (2006.11.01)


 「とあること」を考えていたら、以前に飼っていた犬のレオのことを思い出した。いろいろな思い出がある。その中で奇妙だと思えたことがひとつある。
 好きでならなかったような散歩に連れ出すそぶりをすると、まるで準備運動をするように庭中を駆け巡ってくるのである。こちらから見える視野の内なら、わたしへのアピールなのかとも思えたが、裏庭の方まで疾風のごとく駆け回ってくるのだからおかしくてならなかった。
 いや、この奇行も奇妙は奇妙なのであるが、書こうとしたことはこのことではない。散歩に出てからのことなのである。大き目の中型犬であったため、レオが本気になって力むと、綱を持つわたしの方が引き摺られかねないありさまであった。
 ところが、散歩に出るとレオはしばしば唐突にとある方向へと行こうと力んだり、帰ろうとしても別の方向へと向かおうとしたり、あるいは、人気のない原っぱで綱から放してやり、ほどなく呼んでも戻ってこないというような動きに出るのである。
 これらは、飼われている犬ならば決してめずらしいことではないのかもしれない。しかし、自宅の庭に放されている時の、ものわかりが良く、従順そのものの素振りとは手のひらを反したような雰囲気となるから恐れ入るのである。場合によっては、「狂気染みた形相」(?)となったりするから参るのだ。
 どうして、こう「人が(?)変わった」ようになっちゃうものかなあ、と不思議でならなかったのである。そこには、二つの人格、いや「犬格」が同居しており、散歩で表に出されると速やかにモード変換がなされるかのごときなのである。

 今日書こうとしている「とあること」とは、「人格のモード変換」とでもいう事柄についてである。通りの良い言い回しにたとえるならば、「内弁慶」(外では意気地がないが家の中では威張り散らすこと)と言ってもよいし、あるいはちょいと過激な表現では、「多重人格」ということになるのかもしれない。
 こうした、一人の人間の内に複数の人格が並存、温存されるような事象というのは、現代という時代環境にあっては意外と少なくないのかもしれないと思える。
 原理的に言えば、人格というものは素養を核にしながら、より多くは環境によって形成されるものであろう。そして、前近代社会であれば、人間は、家族や地域社会という気心の知れた集団に所属し、場合によってはそこで一日、あるいは一生の大半の時間を過ごしてしまうことになるのかもしれない。とすれば、そうした安定継続的な所属集団が、人々の内側に安定統一的な凡庸な人格を形成していく、とそう見なせなくもない。

 ところが、世の中が複雑になると、人々は、生まれ育った家族、地域社会というような「第一次集団」のみに所属・帰属するばかりではなく、学校や会社やその他諸々の集団組織に「多重」所属・帰属することとなるのが普通である。その上、現在では、ネットのような「非接触」の集団組織に所属したり、またはそこでの価値観から少なくない影響を受けたりする多様な「準拠集団」の存在も軽視できなくなっている。
 こうなると、そうした集団組織でも人格は影響を受けつつ変容していくとともに、それぞれの集団組織向けの「顔」というようなものも自然に形成してしまうものかもしれないわけだ。極端に言えば、この辺の事情に、現代の「多重人格」形成への遠因が潜んでいると言えそうでもある。
 しかしまあ、健康な人間であれば、いわゆる「TPO(Time,Place,Occasion)」の変化に応じて、安定した「統一的な自我」がマイナーな「モード・チェンジ」を行いながら、全体としてまとまりのある自分というものを維持しているはずであろう。時として、ギクシャクすることもあり、「あの人は、『多重人格』のようだ……」との謗りを受けたりすることもあったりはするのであろうが。

 もし、こうしたありがちな現象を、「多重人格」だと称するならば物議を醸さないわけではなかろう。現に、当人も困るほどに病的次元に突き進んでしまった人もいるからこそ、精神医学的にも問題とされるはずである。
 ただ、現代のような複雑怪奇な時代社会にあっては、人は大なり小なりこうした「単一的」ではない人格状況を抱えていそうな気がしてならないわけだ。だから、むしろ「多重」という否定的語感(「多重」債務!)のある語を使用したりせずに、「多面的人格」と称した方が妥当なのかもしれない。
 いや、人格、人格と言ってきたが、そもそも現代の最も由々しき問題水準は、そんな複数の並存がどうこうなぞのレベルではなく、「溶けて流れリャ〜……♪」よろしくメルトダウンしてしまって、どこを探してもその影が見当たらないという情けないありさまの方なのかもしれない…… (2006.11.02)


 やっぱり、ここには素晴らしいと思える人々や出来事について書くべきで、箸にも棒にもかからないような者たちに拘泥すべきではないのだろう。「歯牙にもかけず」という表現があるが、そのとおりなのかもしれない。
 こう言えば、いかにも自身を、箸や棒、あるいは歯牙に相手される存在であるかのように思い込んでいる傲慢さが漂わないではない。それは違う。汲々としている小者であるからこそ、自身が触発されるような出来事、光景にこそ視線を向けるべきで、目を背けたくなるような対象には拘らずにそっとしておく、ということである。何とかしようなぞと思い上がってみても、人のあり方というものは簡単にどうにかなるものでもなさそうである。
 人は、苦悩だけを素材としても変われるものではなく、輝かしい喜びの空気をこそ吸い込んで、活性化されるに違いないからだ。

 つまらない人間模様について愚痴めいて書こうとしていたことをキャンセルし、感じ入った人のことを書きたい。「漢字」とともに、在野精神で生き抜いた研究者、白川静氏のことである。
 昨日の夕刊での評論記事に目が止まった。<白川静さんを悼む 漢字に見た「神の世界」 梅原猛(哲学者)>という記事である。若干、引用したい。

 <……それは漢字というものの成り立ちを分析することによって、漢字が生まれた殷(いん)という時代の精神を明らかにする研究であった。白川氏によれば、漢字の中には神といってよいか鬼といってよいか霊といってよいか、そういうものへの深い恐れの精神が宿っているという。たとえば、「道」という字は「首」に「しんにゅう」を書く。「しんにゅう」は道を表すが、古代中国では異族の国に行くときにはその異族の首を持っていくので、「道」という字ができたというのである。白川氏はほとんどすべての漢字を神の世界との関係で解釈するのである。このような漢字の大胆にして、しかも首尾一貫した論理性をもつ解釈をした学者は、世界にも白川氏を除いては存在しないであろう>

 「異族の国に行くときにはその異族の首を持っていく」という理由がわかればもっと感銘を受けたのだが、いずれにしても、言葉以前に、漢字そのものに歴史的背景がビルトインされているのだと強調する視点に大いに共感できる。漢字文化の優れた文化性を射抜いた、そんな視点なのだろうと思える。

 また、気骨のある研究者だったという以下の叙述も大変興味深かった。

<氏は朝早く研究室に来て、夜遅くまでおられた。氏が立命館大学に招いた作家の高橋和巳が語っているように、大学紛争のさなかにも、氏の研究室には夜遅くまで明々と電気がつき、そこは全共闘の学生も立ち入ることができない聖地のようであった。
 当時、全学集会という学生と教員との交渉の場が設けられていたが、そこで白川氏が説明をしていると学生ががやがや騒いだ。すると白川氏は「黙れ」と怒鳴りつけ、そして「おれの話を聞いてから質問しろ」と大声で言った。……学生を恐れず怒鳴りつけた白川氏に対して、学生はどこか敬意を抱いたようであった>
<氏は小学校を出て政治家の書生になり、夜間中学を出た後、立命館大学の2部に学んだ。そして氏によれば漢字が大好きで、一生漢文が読めれば幸せだと思って中学の漢文教師となったが、思いがけなく大学の教授になったという。……原典を精読し暗記するという学問は現代では衰えつつあるが、氏はそのような古い学問の精神を持ちながら、強靭(きょうじん)な思弁によって独創的な新しい学問を創造した>

 自分は、失礼ながら生前の白川氏のことを存じ上げなかったが、研究者らしい研究者であったに違いない。こうした研究者こそが尊重される社会としなければいけない…… (2006.11.03)


 夕方、外から戻ると、いつもは「外ネコ」の「クロ」が座っていたりする門柱の上に、「シロクロ」ネコが同じような恰好で座っていた。
 ネコたちの方はどう思っているのかは知らないが、私にはその場所が特別な意味がありそうだと感じてきた。つまり、「クロ」がしばしばそこに座っているのは、自分がこの家の猫であることを暗黙に主張し、誇示しているごとく思えたのである。その場所のすぐ下には、郵便入れがあり、郵便配達人やら新聞屋という外来者に「ごくろうさま」とでも言える立場の位置だからである。
 まさかそんなつもりもないのであろうが、赤い首輪までしてもらっている「クロ」は、何やら誇らしげに、「アタシはここで可愛がられているネコちゃんなんだかんネ」とでも言わぬばかりに、悠然とそこに座っていたりするのである。

 「シロクロ」猫というのは、このところ頻繁に「メシ時」になると姿を現し、結局は、「外ネコ」の「クロ」や「グチャ」とは別に餌を与えられる光栄に浴している新参の野良ネコなのである。結局は、餌を与えてしまうことになるのは、その懇願するごとき鳴き声があまりにも情に訴えるからなのである。実にうまいのである。
 そのパフォーマンスは、今や安定した「内ネコ」の地位を獲得して、丸々と太ることになっているかつての「ルル」のあの「リクルート」作戦を彷彿とさせるものがあるほどである。
 家内も言っていた。
「あのネコは、あれだけ太っているところを見ると、どっかできちんと餌をもらってるくせに、心細そうな鳴き声をして鳴くもんだからついつい同情しちゃうのよね。『ルル』タイプで、取り入り方がうまいのね」

 こうして、この間、しっかりとこの家の者たちを、その心細そうな鳴き声パフォーマンスで篭絡し始めていたのが、何あろう「シロクロ」ネコだったのである。
 そいつが、わたしが帰るのをまるで待つかのごとく、「クロ」のホームポジションの門柱上に陣取っていたのである。
 「クロ」が追い落とされたのかと、幾分胸騒ぎをしないわけでもなかったが、まあ、「シロクロ」ネコのここ一番の「詰め」のパフォーマンスなんだろうと考えたりした。
 この「シロクロ」ネコは、若いオスのようであるが、決して攻撃的なんぞではなく、うちの「外ネコ」たちとも卒なく接しているようなのである。自分のことを「遅れてきた青年」だと自認し、分をわきまえていそうなのである。
 そんなふうに、われわれや、「外ネコ」たちも「シロクロ」ネコを贔屓目に見るには、実は事情があるのだ。これら三匹以外に、もう一匹の登場人物、いや登場ネコがいるのである。そいつは、まさに箸にも棒にもかからないようなヤクザネコであり、わたしはあまり目にしないのだが、家内に言わせると「ブクッとボールのように太った、憎々しい凶暴な」ネコだそうで、そいつが現れると、メスの「外ネコ」たちも、そして「シロクロ」ネコもこぞって一斉に逃げ惑うほどなのだそうである。
 どうもこの辺に、「外ネコ」たちと「シロクロ」ネコとの間に、逃げ仲間としての奇妙な連帯感が生まれていないとは言えないようなのである。

 二匹の「外ネコ」たちのほかに、たとえよんどころなく転がり込んできたとはいえ、もう一匹「シロクロ」ネコまでを子分にするのはどんなものかと悩んだりしている。餌の方はどうということもないが、なんせ世間の目というものがあり、とりわけ隣の家からの鋭い視線を気にしないわけでもない。
 現に「外ネコ」たちは、わたしのクルマのボンネットや屋根で昼寝なんぞをするのは構わないとして、その隣の家のクルマの上にまで登りはじめているのである。
 先日などは、「クロ」が隣の家のクルマの上でねそべっていたから、
「クロ、そんなことしてると怒られるからね」
と言ってやったら、ちょうどその時、隣の住人が窓を開けたものだった。聞こえたかどうかは知らないが、ドキッとしてしまった。

 さてさて、これから次第に寒くなる。野良ネコたちにとっても、北朝鮮の庶民のように辛い季節となるはずである。「外ネコ」たちのメシ時に、顔を出しては鳴きまくる「シロクロ」ネコが視野に入ったら、まず追っ払うというような薄情なことはできまいなと、渋い顔となりながら想像する自分なのである…… (2006.11.04)


 朝のウォーキングの帰路、晴れやかな天気でもあるため、ちょいと道草を食ってみようかと思った。別に当てがあるわけでもなく、ぶらぶらしながら町田街道に出た。
 以前住んでいたことのある地域の近くである。いざ、所在なく辺りを眺め回しながら歩くと、ちょっとした変化に気づいたりもする。
 ほぉー、あの魚屋さんが随分と羽振りがよくなったんだ、仕出し料理で当てたということかぁ、とか、あれっ、あのクリーニング屋はとうとう店仕舞いしてしまったようだな、今時、自営クリーニング屋というのは難しいからな、しかもここのおやじはかつて市会議員に立候補したこともあり、「そうした分野」に顔を突っ込んでいたからなあ。ああそうか、それでクリーニング屋の看板を降ろして地元政治屋さんたちの看板を何枚も立てているというわけだ。この道ばかりは、なかなか手が引けないということか……。
 そんな、どうでもいいことに思いを巡らせながら街道沿いの歩道を歩いていた。「石屋」にも目を向けた。この店は、元々、より駅に近い街の中心部にあったのだけれど、何かの経緯でずっと引っ込んだこんなところに移動することになったというようなことも思い起こしていた。

 店先の庭には、石灯籠やら、観音立像やら、ディズニーの小人たちの石像やらと脈絡を欠いた無造作ぶりで、多数の石像が置かれていた。その時何気なく、ふと、思うことがあった。こうした何ということもない有象無象の石像の中に、ひょっこりと、あれっ、と思わされるような代物が潜んでいたりしてね……、と。そして自分は、たとえばその植木の陰あたりにそんなものがあったりしてね……、といたずら半分の期待を込めて覗き込んだのである。
 と、どうしたことだ、まさにそうしたものが潜んでいたのである。それは、「吾唯足知」の蹲(つくばい)なのであった。有り体に言えば、大してめずらしいものでもないであろう。昨今では、ちょいと気の利いた料理屋にでも行けば、店の片隅の庭を模したコーナーに、それらしいライティングが施されてさりげなく置かれていたりもする。
 が、自分にとってはちょいとこころを動かされるそんなモノのようであった。しかも、上にも書いたごとく、「いたずら半分の期待」に添うごとく出現したものであったからなおさらであったのかもしれない。
 いくら位するのだろう? と、もはや買う算段になり始めていた。いや、まさかそれをゴロゴロと転がして持ち帰るわけにはいかない。しかし、おそらくいつかきっと買いに来るような予感が濃厚に訪れていた。

 この日誌にも以前に一、二度書いた覚えがあるが、その蹲をはじめて知ったのは、中学校の修学旅行で京都に行った時である。禅宗龍安寺の庭に置かれ、水戸光圀公寄進によるものとあった。その蹲のデザインの意表をついた「洒落」が何とも、洒落好きな自分を見事に掴んだのであった。蹲の真中の「口」という字の個所に水が入り、その「口」という劃の部分が、「吾」「唯」「足」「知」の四文字の共通部分というか、最大公約部分というかになっていたのには驚いたのだった。
 自分は、その時、龍安寺近辺のみやげもの店で、その蹲を買う代わりにそれを模した鋳物の土瓶敷きをありがたく買い求めたのだった。結構大事にしていたようだったが、今それは手元にはなく、代わりに後日自ら彫った木彫りの模型が壁にかけてあったりする。
 「吾唯足知」の蹲の意味を、中学生の頃には考え至ることはなかったはずである。「知足の者は賤しと雖も富めり、不知足の者は富めりと雖も賤し」(釈迦)、「足ることを知る者は心安らかなり」(孔子)という心憎いほどの真理は、正反対のベクトルを合言葉とする現代社会に対する大きな躓きの石であり続けているようで、気になってしかたがないというわけなのである。

 物質文明と人の欲望というか、海水と喉の渇きというか、権力者と賄賂というか、果てることのない循環への警告という意味もさることながら、雪隠(せっちん)から出で用足り、自足したる者に対して、「吾唯足知」の蹲にて、静に手を清めさせるとは、まことに理に適った上出来な話だと感服せざるを得ないのである。蛇足ながら、蹲の両袖に控えたる者、やにわに叫びしは「えーい、鎮まれぇ〜、この蹲の文字が目にはいらぬかぁ〜」チャンチャン♪…… (2006.11.05)


 「YouTube(ユーチューブ)」という動画投稿・配信サービスサイトが話題になっているようだ。わたしがこのサイトを知ったのは、以下のような今日のニュース記事を見てのことである。

<「今年の発明」にユーチューブ・米タイム誌
 【ニューヨーク5日共同】米タイム誌最新号(6日発売)は、同誌恒例の「今年の発明」に動画投稿サイト「ユーチューブ」を選んだと発表した。
 同誌は、今年は1ガロン(約3.78リットル)のガソリンで5000キロメートルも走る車や、「魔法のつえ」で遊ぶ新種のビデオゲームなど、興味深い発明が相次いだが、ユーチューブほど「世界を変えた」発明はないと指摘。ユーチューブは多くの人々に楽しみ、教育、ショックを与える新しい方法を未曾有の規模で実現したと述べた。
 ユーチューブは米シリコンバレーでインターネット好きの若者グループが昨年、動画投稿サイトとして設立、アマチュアを中心に日に約7万本ものビデオが投稿され、約1億本が見られる巨大サイトに発展した。
 今年10月には検索最大手のグーグルが巨額を投じてユーチューブを買収すると発表し、話題となった。>(NIKKEI NET 2006.11.06)

 ちなみに、次の記事もこの話題の規模の大きさを裏づけるようである。

<米グーグル、動画投稿サイトを2000億円で買収
 【ニューヨーク9日共同】米インターネット検索最大手グーグルは9日、急成長している動画投稿サイト運営会社、米ユーチューブを買収すると発表した。株式交換による買収で、買収総額は16億5000万ドル(約2000億円)の見込み。
 グーグルは有力な新サービスを積極的に取り込んでおり、利用者が急増している動画投稿サイトでのネット広告収入の拡大を目指す。年内をめどに買収手続きを終える方針。
 ユーチューブはグーグルの完全子会社になるが、知名度や存在感を生かし独立した運営形態をとる。さまざまなサービスにかかわっているグーグルが持つ技術や広告主獲得のノウハウを活用し、事業の強化につなげたい意向だ。
 ユーチューブは2005年に設立。全世界から1日約6万5000本のビデオ提稿を受け無料で公開しており、1日1億本以上が見られているという。
 日本でも人気だが、同サイトには人気歌手らのビデオが無断で投稿されることがあり、著作権の侵害が問題視されるケースも出ている。[2006年10月10日/共同]>(NIKKEI NET より)

 「米グーグル」が約2000億円もかけて買収するという事実が、何よりも「ユーチューブ」の存在価値の大きさを物語っている。もちろん、全世界からアクセスされる超人気サイトであるという点の持つ意義が大きいわけだ。
 ではなぜそんなに人気があるのか? そこにこそ、常に第一級ビジネスを追求するグーグルの関心を惹いた理由が潜んでいそうだ。
 その前に、どんなサイトであるのかを実感しなければ話にならないと思い、投稿コンテンツの中でも面白いと評判の高い、中国の学生によって投稿された動画「Two Chinese boys」( http://www.youtube.com/results?search_query=two+chinese+boys )を楽しむことにした。いわゆる、このサイトの常連さんの作品である。
 分かりやすく言えば、「関西系」の若者漫才を見せられているようなややクサイ雰囲気が漂わないわけでもない。だが、彼らを正当に評価するためには、あることを思い起こす必要があった。つまり、大学の寮に住む名もない学生二人が、背後に他の学生がPC作業をしている姿も映っているそんな寮の一部屋で、自身たちの自主的な意志のみで制作し、投稿したのだという、その事情のことなのである。
 彼らには、カネは出すがクチも出すようなスポンサーがいるわけでもないし、また、とかく時の力に迎合していく習性を持ったプロデューサーが采配しているわけでもないのである。しかも、彼らは何らかの報酬を手にしているわけでもない。好きだからこそ、連作し続けているという、完全な無償投稿のようだ。
 そう考えて、再度鑑賞し直してみると、ウーム、クサイ面白さではあるが、ネイティーブな迫力が抜群で、イケテル、と思えてきた。

 今、裁判中の人物である「ホリエモン」をはじめとして、「楽天」なども、一頃、「TV放送局とネットの融合」という、幾分歯が浮くようなビジネス企画を口にしていたことがあったはずだ。そこにおいて主にイメージ化されていたのは、TV局が保有する動画コンテンツをネットで配信するという、そんな方式であっただろう。だが、結局、いずれもが実現せずにウヤムヤとなりつつある現状である。
 ところが、その「ネット配信による動画コンテンツ」というイメージが、エスタブリッシュメントのTV放送局などが介在することなく、何あろう個人たちの自主的な自由投稿によって立ち上げられてしまったのである。それが、この「ユーチューブ」だったということになるわけだ。
 さらに、決して単なるオタクたちの閉じられたサイトに終わることなく、全世界からの閲覧者が絶えないという爆発的人気を博しているらしいから、大したものである。ここには、ビジネス方式(スポンサー+プロデューサー+etc)の仕掛けよりも、自由な個人たちによって支えられたネットという仕掛けこそが重要なのだという事実がしっかりと横たわっていそうである。

 開かれたシステム作りは、いつも著作権問題に抵触していくもののようであるが、この「ユーチューブ」もまた頻繁にそうしたトラブルに遭遇してはいるらしい。
 さらに、ちょっと特殊な社会でもあるこの国日本にあっては、この「ユーチューブ」のような動画コンテンツの自由投稿・自由閲覧という方式がどれほど支持されていくかには疑問なしとはしないとささやかれたりもしているらしい。

<まず個の表現への関心の弱さが第一の理由です。家族のビデオ映像をたくさん撮り、身内同士が楽しむことは好きですが、自分の映像を表現として人に見せたいということに抵抗を感じます。いわゆる「テレ」です。ユーチューブに日本からアクセスする人は相当多いと聞きますが、その中に自分の映像を投稿した人がどれだけいるでしょうか。
 次の理由は「どんな映像を見たいか」よりも「誰の映像を見たいか」が優先される風土です。日本では著名人、つまりよくテレビに出ている人の映像は視聴率が高いのです。その証拠として数十年間もずっとテレビに登場し続ける面白くない芸能人がたくさんいます。
 この自己表現の弱さと権威への追認はユーチューブの「個人の自由表現」と「価値の自己判断」に馴染みにくいと思います。(宋 文洲[そう ぶんしゅう]ソフトブレーン マネージメントアドバイザー)>

 こうした指摘に触れると、ネット時代にあっては、まさに個人のあり方、生き方というものがシビァに問われ続けていると痛感せざるを得ない…… (2006.11.06)


 今日は「立冬(りっとう」、いつの間にか冬到来である。ただし、今日は爽やかな秋晴れである。風が強いためか、澄み切った青空に雲ひとつ浮かんでいない。朝も、夜半に降った雨が気持ちのよいお湿りを与えていた。

 スッキリしているのは天気であり、そうでないのは人の世ばかりというところか。
 このところ、どうも解せないのが米国の株価動向である。一本調子で右肩上がりとなり、史上最高値の1万2000ドルの大台に登りつめた後、やや一服したかと思ったら、昨日は再度100ドル以上の上乗せをした。まあそれなりの材料を持ったということなのだろうが、それにしてもインフレ懸念その他、不安材料は山積しているはずであり、決して「一本調子の右肩上がり」が実勢を反映しているものだとは思いにくい。今日がその投票日であるという「中間選挙」で共和党が大負けするらしいが、馬脚を現すように暴落へと転じはしまいかと案じている。

 それはそうと、この国の株式市場にはいつもながら「恐れ入谷の鬼子母神」である。一応、「日経平均」の動向は毎日マークしているが、どんな値動きがあろうが、そのコメントには必ずといっていいほど、<前日の米株式相場の……>というくだりが入るのである。今日のような場合は、<前日の米株式相場の上昇を好感し>高値での寄り付きが……、となっていた。米株式が振るわなかった翌日ならば、<前日の米株式相場の下落を嫌気し>とくるわけである。
 この国の経済が米国に大きく依存している現状の「素直なリアクション」だと言ってしまえばそれまでだが、思わず罵りたくもなってしまう。曰く、「主体性というものが何もないじゃないか! 米国転べば皆転ぶ、という『重ね亀(こんな言葉はなかったか?)』そのまんまじゃないか!」と。
 経済から、政治、カルチャーに至る何から何までもが米国追随ワンパターンときているのがこの国の紛いない実態なのであろう。対米従属国だとは、言われたくもない北朝鮮からも揶揄されているが、この点に関しては反論しようにもしにくいもどかしさがある。
 こうした「従属」傾向にはいろいろな背景があるにちがいないが、昨今再び思い至るのは、この国の「権威主義」的風潮の根強さである。昨日も、ネット時代に必須な個人としての自覚がこの国には希薄なようだと懸念したが、この傾向と「権威主義」的風潮とが相互補完の関係にあるのではないかと感じたりしている。

 実は今日、気になっていたニュースは、頻繁に続く「いじめ自殺」の延長線で生まれたと見える<いじめ自殺「予告」の手紙、文部科学省に届く>( asahi.com 2006.11.07 )というものであった。
 青少年が命懸けで苦悩するこうした不幸で悲しいことは「あってはならないこと」である。つまり、これだけ人々が、卑劣ないじめとそれを解消できないその腐り切った土壌に非難の目を向けているにもかかわらず、なおも綿々と続く実情は決して「あってはならないこと」である。
 ところで、この「あってはならないこと」という言葉であるが、実に悪い語感の言葉だと思う。当事者責任のある者が、他人事、自然現象について感想を述べるがごとき、そんな響きをかもし出すからなのである。「二度と仕出かさないようにします、させます」と、自身の意志を込めて誓わなければならないところを、自身の当事者としての立場や責任を濁す語感に逃げ込んでいるように聞こえるからなのである。

 で、今回の「あってはならないこと」の中には、わたしの見るかぎり、「あってよい、十分にあってよいこと」が潜んでいると見えたのである。それは何かというと、想像力を欠落した周囲の人間もどきたちに、苦痛の当事者が人間らしく言葉を発したという、その点なのである。江戸時代の貧農による「直訴(じきそ)」を想起させもしたその点だ。
 見て見ぬふりをし続けた者たちにろくなことは期待できまい。きっと、当事者もそう想像していることではあろう。だが、言葉を持つ人間としては、最後までその言葉の力を信じようとして動いた点に、自分は共感を禁じえないでいる。
 そして、ここからは計算高い大人としての自分の独り言である。
 よくぞ、いじめの根っこにまでリアクションを返したぞ。いじめが無くならない土壌の原因は、人が想像力を欠落させているとともに、その空洞に、常に「上」の様子ばかりに眼を見張る「権威主義」を埋め込んでいることに違いないからだ。
 だから、今回の出来事に潜む命懸けの知恵は、想像力の無い者たちに、また「上」の様子にしか依存するものがない「権威主義」者の連中に、小さからぬ揺さぶりをかけたはずである。実に鮮やかでさえあったかと。
 この命懸けのリアクションという道があったことを、苦痛のただ中で嘆き悲しむ子どもたちもまた、実感として知っていいのだろうと思う。

 ただ、こうした「命懸けの知恵」というものに対しては、「好感する」者がいる一方で、「嫌気する」者たちも必ずいることを念頭においておかなければなるまい。後者の連中の口癖は、「チクルな!」であろうと思われる。
 本来を言えば、こうした「チクルな!」社会こそを「構造改革」は「ぶっ壊す」必要があったのではなかろうか。何も変わっていないどころか、無力な人々や子ども達にばかりしわ寄せをもたらしているのが、何あろう現在の「美しい国」日本であるということか…… (2006.11.07)

【 おまけでございます 】
<美しい国を逆さに読むと「憎いし苦痛」
 「美しい国」は「憎いし、苦痛」−。13日午後の衆院本会議で、テロ対策特別措置法改正案の趣旨説明に対する質問に立った民主党の山口壮氏は安倍晋三首相のキャッチフレーズ「美しい国」を取り上げ「逆から読むと『憎いし、苦痛』」と痛烈に皮肉った。……>(nikkansports.com 2006.10.13)


 米国の上下両院議員、州知事などの中間選挙では、民主党が現政権党である共和党を凌ぐ勢いを見せているという。既に、下院では過半数を12年ぶりに奪還したそうだ。
 ブッシュによる、メチャクチャとしか言いようのないイラク泥沼戦争に対して、米国民が「NO!」と意思表示したものだと理解できる。当然のことであり、米政府はいざ知らず、米国民はすんでのところで良識に立ち返ったと言うべきだと思う。
 ただ、こうした結果が出るまでに、あまりにも多くの人命を犠牲にしてしまったことが悲しまれる。果たして、これらの選挙結果が、米国を本当の意味での国際的リーダーへと立ち戻らせることになるのかどうか。今は、少なくとも、ブッシュの乱行に対して追い風を吹かさなかった米国民の判断に共感したいと思っている。

 しかし、ブッシュの提灯持ちでしかなかった「ヘンなおっさん」は、こうした結果を知って何を思っているのだろうか。国連を度外視してまで、ブッシュのイラク侵攻を支持したのだから、ちぃーとは反省してもらいたいものである。しかし、「ヘンなおっさん」はきっと胸を撫で下ろしているにちがいなかろう。
「オレって、やっぱり運がいいんだなぁ。めんどくさい局面に巻き込まれる前にきれいさっぱり身を引く選択をしたんだもんね。言っちゃなんだけど、後は野となれ山となれ、ていうことわざもあったっけね……」
 やはり、彼は本を出すべきだった。「恥ずかしい国」とでもいったものを。ちょうど、心ある国民の無念な心情を表していてぴったりだったんじゃないかとも思う。昨日の「憎いし苦痛」にも似て、逆さに読むと「憎いし、数は」(多数派の横暴が憎い!)となるしね……

 今、自分が米国に期待したいことはいろいろとあるけれど、あえてひとつ挙げれば、やはり「地球環境問題」に対してホンキになってもらいたいということかもしれない。
 とにもかくにも、現時点の「異常気象」は尋常ではなくなっていそうだ。意志を持たない自然現象ではあるけれど、まるで、意志を持つ生きものが七転八倒の苦しいあがきを見せているように思われてならない。そして、次に地獄を見なければならないのが人間たちだということになる。
 昨日の北海道において猛威を振るった「竜巻」にしても、あれを異常気象と言わずにほかにどんな異常気象があるというのか。
 ところで、昨日のTV番組で、こうした懸念を持つとあるキャスターが、某「気象予報官」にその懸念をぶつけたところ、彼はその懸念の意を酌まず、「アンバランスなんですね」とお茶を濁していたのである。あんたは、この地球気象の危機的状況に対してまことに「アンバランス」であるため番組を降りた方がいいよ、と言ってやりたかったものだ。マスメディアに顔を並べている者たちは、視聴者の声なき声の意を解して発言してしまうくらいでなければ意味がない。
 最近、あちこちに「気象予報官」なる資格者が姿を現しているが、できれば、十年後の気象変化についての所感をしっかりと胸に秘めながら言動してもらいたいものだ。「気象予報官」だからといって、風見鶏のように権力の意向ばかりに目を向けていてはまずいでしょ。

 よけいなことに引っかかってしまったが、問題は米国政府の姿勢である。分かりやすく言えば、「京都議定書」に冷ややかな取り組み方をしている米国がおかしいのである。
 現在、きっと小中学校の環境問題教育でも、子ども達が最も怪訝に感じていることなのではなかろうか。
 「温暖化」現象が強まり、異常気象が発生しているだけではなく、年々水没して生活地域が失われていく傾向が早まっている。そんなことを知らされる子ども達は、「なんとかしなくちゃ! みんなでなんとかしなくちゃ! それで、日本は何をしているの? じゃあ、一番力があるアメリカは何をしているの? えっ、みんなでルールを守ろうといっている『キョートギテイショ』に、アメリカは加わらないって言ってるの? そんなのおかしい! どうしてなの?」
 この不可解さで自殺を考える子はいないだろうけれど、大きな力を持つ存在が、本当に大切なことに協力しようとしないでいる事実が、どんなに子どもたちから勇気を奪うものであるか、少しは想像してもいいんじゃないのかなぁ。

 さてさて、米国民主党が評価され始めたのを契機にして、米国は子どもたちに愛され、慕われる国へと変貌を遂げてもらいたいものだ。ムリかなぁ…… (2006.11.08)


 この時代に、国民をたぶらかして政策をごり押ししようとするのは、いかにもみっともないし、心ある人々の精神衛生を撹乱する犯罪的行為である。現在の政府は、国民が怒りを露わにしないことをよいことに、あまりにもダーティな手を使い過ぎるのではないか。 以下の記事は、まさに「恥ずかしい国」のダーティぶりであろう。

<「やらせ質問」、新たに4カ所・タウンミーティング
 内閣府は9日午前、青森県八戸市で開いた「教育改革タウンミーティング」で教育基本法を見直すべきだなどとする質問を参加者に依頼した問題に関連し、八戸市以前に開いた7回のタウンミーティングのうち4回で同様の事例が見つかったとする調査結果をまとめた。
 2003年12月から05年6月までに開いた7回のタウンミーティングを調査したところ、岐阜、松山、和歌山、別府の4市で判明した。03年12月の岐阜市と04年5月の松山市では文部科学省が、04年10月の和歌山市と04年11月の別府市では内閣府がそれぞれ質問案を作成。各県の教育委員会に事前に発言者の推薦を求め、それぞれ4―7人に質問案を送り、発言を依頼していた。
 教育基本法改正を議題にした松山市では「新しい時代にふさわしい基本法となるよう改正することが必要だと思う」との質問を依頼。岐阜、和歌山、別府の各市では発言者の座席も指定した。> (NIKKEI NET 2006.11.09 13:49)
 なお、「asahi.com」では、<内閣府は9日、青森も含め8回の教育改革TM中、5回のTMで同様のやらせがあったとの調査結果をまとめた>と報じている。

 これが、時の政府と官僚たちの恥ずべき実態だということを、国民自身も、のほほんとしていないでしっかりと見つめるべきであろう。
 「詐欺」が横行するご時世であるが、良識人には、こうした行為と意図とを「詐欺」そのものだと感じる人が多いはずである。
 なぜ、現政府は、そこまで「教育基本法改正」にご執心なのであろうか。こうした政府によるダーティな行為を、黙って見ている国民をもっともっと「増産!」したいがために、教育に国が積極的に介入したいということなのであろうか。

 今日も、青少年から「自殺予告」の封書が、文部科学省伊吹大臣あてに届いたという。1通目の自殺予告文について「テレビで見て勇気づけられた」とし、「自分も11日に死ぬ」と書いてあったらしい。
 こうした悲惨な現実と、「教育基本法改正」は一体どう結びついているのか? 安倍首相にしても、この点については、「原理を定めてから、現実への対応策を検討する」と国会答弁しているようだ。逆なのである、発想が! 妥当な原理というものは、現実への血が滲むような試行錯誤の対応から導き出されるものではないか。

 ところで、現在、教育現場で悲痛な出来事が頻発していることを、子を持つ親たちを中心として、国民は大変憂えていると思われる。ところが、信じられない話であるが、政府は、この空気を逆手にとって、だから「教育基本法改正」が必要なのだという誘導をしようとしているのである。その証拠はいくつも提示可能である。
 先ず第一点は、「教育基本法改正」と現在の教育現場での憂うべき現実との因果関係が何も説明できない、という点である。だからこそ、「タウンミーティング」で「やらせ質問」をたくらむというような弱腰で卑劣な暴挙に出ざるを得ないのであろう。

 第ニ点目は、こうした「火事場泥棒」のような手を使うのは、これまでにも歴然とした経緯があったからである。
 ちょっと込み入った話となるが、1995年の阪神・淡路大地震に関する話なのである。

<それから三年後の1998年6月、日本政府は建築基準法を全面的に改正した。それは「約半世紀ぶり」という鳴り物入りの大改正で、建物の安全性などを審査する基準が抜本的に見直された。……
 建築基準法の見直しが諮問されたタイミングから見ても、やはり阪神・淡路大震災の被害による衝撃の大きさが、日本の建築基準法を半世紀ぶりに変更する原動力になったのだな、と私は想像した。……
 ところが、建築基準法の改正内容を検討してきた建築審議会の答申書を読んでみると、なんだか様子が変なのだ。なんとも奇妙な記述にぶつかって私は当惑させられた。その答申書には、新しい性能基準は「国民の生命、健康、財産の保護のため必要最低限のものとする必要がある」と書かれているのだ。これは「最大限」の間違いではないか、と私は目を疑った。あのような恐るべき被害を繰り返さないためには、建築基準に関する規制の強化こそが必要だと考えるのが普通ではないか>(関岡英之『拒否できない日本』より)

 つまり、政府は、阪神・淡路大地震の結果生じた建築物の安全に対する国民の不安に乗じて、とある「画策」を押し進めたのである。詳しくは、関岡氏の著作を見るべきだが、要するに、「日本古来の匠を不要にし、外国の工法や建材がどっと日本に入ってくる道(=アメリカ製木材の輸入強化の道。[引用者])を開く」(同上)ために、「国民の生命、健康、財産の保護のため必要最低限のものとする必要がある」と明記された「基準法改正」を行ったのだという。しかも、地震災害再発防止に対する国民の期待を、上手く材料としながら、全く逆の「改正」を仕出かしたのである。これを古人は「おためごかし」と言ってきた。この背景には、日本が「拒否できない」ところの「日米構造問題協議」や米国から日本への「年次改革要望書」なるものが横たわっているという。
 こうした、想像を絶する「政策」を拒まないのが、自民党政府だということになる。

 こうした文脈から、現在の「教育基本法改正」という動きも、あたかも現在進行形の教育現場での悲惨な現実と、それらへの国民の不安な関心とを、巧みに追い風としながら、一気に採決へと持ち込みたがっているのが現政府だと分析されるのである。
 子どもたちの悲痛な叫びをテーブルに乗せながら、今後さらに子どもたちの管理を強化していこうとする「もどき改正」は、一体、この国をどこへ持って行くのであろうか。
 建築基準法の改正は、一体何をもたらしたのであろう。例の「耐震偽装事件」なぞも、個人的犯行のごとく処理されつつあるが、実は建築基準の「緩和!」の流れが誘い込んでしまったというようなことはなかったのであろうか。
 生々しい現実を凝視せずに、ただただ「原理、制度」を机上でいじる愚かさは、きっと、復活不能なほどに教育現場を萎えさせてしまうに違いない…… (2006.11.09)


 「大変残念だし遺憾だ、調査すべきは調査し、体制をつくってから再開したい」
と、安倍晋三首相は9日、教育改革をテーマにした政府のタウンミーティング8回のうち5回でやらせ質問が発覚したことについて、そう述べたという。
 いい加減にしてもらいたい、他人事のような言い逃れをするのは。最高責任者は一体誰だというのか。「文部科学省」は、時の首相の意向で動いているのではないのか。管理が行き届かなかったで済む問題とはわけが違う。というのも、教育改革という名の「教育基本法改正」問題は、安倍内閣の目玉政策と言われているからである。したがって、安倍首相の意を受けて、「文部科学省」によるこうした「やらせ質問」=「世論誘導・操作」がなされたと見ることは間違っているだろうか。

<首相「タウンミーティング当面見合わせ」、「教育」以外も調査
 安倍晋三首相は9日、教育改革をテーマにした政府のタウンミーティング8回のうち5回でやらせ質問が発覚したことについて「大変残念だし遺憾だ、調査すべきは調査し、体制をつくってから再開したい」と述べた。
 小泉内閣時代に行われた他のテーマの166回のタウンミーティングでのやらせの有無の調査を優先し、当面、新たなタウンミーティング開催を見合わせる考えを示したものだ。今国会中に新たな運営方法と併せて、調査結果を公表する考えだ。首相官邸で記者団の質問に答えた。
 内閣府は同日、各県教育委員会に発言候補者の推薦を頼んだ職員3人がいずれも文部科学省出身だったと発表。結城章夫文科次官は記者会見で、当時の同省教育改革官室長がやらせを了承していたことを明らかにし「不適切だった。(処分を)検討したい」と陳謝した。
 野党各党は教育基本法改正案の採決もにらみ態度を硬化させている。民主党の菅直人代表代行は同日の記者会見で「問題をあいまいにしたまま採決だけするのは認められない」と強調した。>( NIKKEI NET 2006.11.10 )

 「やらせ」の質問者が、「いずれも文部科学省出身だった」という事実は、思わず身震いをさせられるほどの驚きであり、また大笑いしたくなるほどのバカバカしさである。
 「文部科学」という分野は、仮にも「知性」に関する領域を指していたのではないのか。そして、その分野を司る「文部科学省」というのは、知性的な国民を育成する教育分野に関するプロフェッショナル組織ではなかったのか。
 民主的な場だとされた「タウンミーティング」が、主催者側の「身内」による「やらせ質問」でシャンシャン合意に誘導される、というのは、まるで、総会屋を使った怪しげな民間企業の株主総会そのままではないか。唯一の違いは、「偽装・質問者」が、「文部科学省出身者」であったか、「強面(こわおもて)」の無頼漢であったかの違いだけということになる。

 まず、結論から言って、こんな「不潔」な策を弄して推進させられようとしている「教育基本法改正」という念仏は、即座に撤回されるべきであろう。なぜならば、察するところ、こんな「不潔」な策で汚れた「基本法」なんぞは、この類の「不潔」さを子どもたちに「伝染」させるに違いないと推定されるからである。
 そのうち、学校の教室でも同じことが生じるのではないかとマジに懸念する。次のようなワルガキが登場しないともかぎらない……
「センセイ、ここだけの話だけどさ。センセイの授業、ゼンゼンおもしろくないんだよね。だから、誰も質問もしないよね。だからさ、ボクが質問しようか? 授業のムードが盛り上がって、センセイがしっかり答えられるような質問を考えてくれたら、ボク、それを質問するよ。だだし! ボクの成績表からアヒルさんを追っ払ってくれないとね」

 それにしても、こうした重要な案件と事件に関してのマス・メディアのリアクションと、国民の「不感症」はどうしたことだ。
 「やらせ」問題で騒ぐと、火の粉がかかって自身も恐いというのがマス・メディアのホンネなのであろうか。国民の場合はどうなのだろう? もともと、「やらせ」的に人生を演じさせられているんだから、いまさらどうということもないさ、なんぞと決して開き直ったりはしてほしくない。これは、皮肉というよりも、前途を案じている子どもたちの実感を想像すると出てくるイメージなのである。「どうせ、どうせ……」という生きざまが、子どもたちに「重い上値」(株式用語)を被せているのに違いないからだ…… (2006.11.10)


 雨だと予報されていた休日でもあったため、朝寝坊を決め込むこととした。朝方に一度起きて窓外を覗くと、いかにも冷たそうに小雨が降っていた。こんな日は、早くからドタバタとすべきではないと思い、また寝床に入ることとした。
 10時頃にようやく床を離れることにした。布団に包まって、DVDを観て、思いっきり怠惰ぶろうかとも思ったが、それじゃまるで病人のようだと感じやめた。

 朝風呂に浸かり、ろくなものではなかった夢の内容を反芻していた。二つほど覚えていた。両方ともつまらぬものであった。
 ひとつは、どこだかの場所で、たぶん、危ないからと注意をしようとして小さな女の子に声をかけた。すると、その子は、すぐ近くにいた母親の方へ駆け寄り何かを言っている。「ヘンなおじさんに声をかけられた」とでも告げたのであろうか、その母親は、こちらの方をジロリと見て怪訝な顔をしているのである。
 最近は、街中、たとえばスーパーの中などで、小さな子のかわいいほほえましい仕草などを眺めている時にも、ヘンな気遣いをしてしまうのである。つまり、物騒な世の中ゆえに、親もピリピリとしているのであろうか、シィッ! と犬のようにと追っ払わられでもされそうな余裕のない目つきで睨まれたりするからなのである。困った時代となったものである。
 もうひとつは、かつての知り合い、仕事の上での好ましくない人物との、不快なやりとりなのであった。こちらも露骨に敵意を剥き出しとしていたようであった。選りにも選って、何もそんな夢を見ることもないのに、と思い起こしてもうんざりとする気分となった。
 夢は、不要な情報を整理するための処理過程だと言われたりもするが、そうしてみると、見た夢を起きてから思い出すというのは、脳の「夜間残業」をムダにしてしまうという愚かなことをしているのであろうか。脳は、その情報を不要とし、忘れ去ろうとしているのにもかかわらず、目覚めた脳が再びテーブル上に取り上げて吟味するというのは、再度記憶し直すということになりそうだからである。なんてバカなことをしているのかと、徒労感を噛みしめたりしたのであった。

 居間に行くと、二匹のネコたちが、重なるようにくっついて座布団の上で丸まっていた。今ごろの季節からは、寒がりのネコたちは、そんな行動を採るようになる。
 ネコにも、自分というものがあるらしく、起きている時には何かと自己主張をして時には喧嘩騒ぎもする。しかし、いざ寝るとなると互いに暖め合うという合理性の前にいっさいの自己主張なんぞを放棄するもののようである。
 そう言えば、外ネコたちのために、そろそろ小屋の中に湯たんぽを入れてやるべきかな、と思ったりもしたのだった。
 また、昨日のラジオ番組でおもしろい話題のあったことも思い起こしていた。
 それは、ペットを飼っている夫婦は、そうでない夫婦よりもはるかに夫婦喧嘩を少なくさせている、という統計的事実なのである。団塊世代の夫婦向けの調査で、イヌなりネコなりのペットを飼い始めてから、何か変化があったかという調査で、およそ半数の夫婦が夫婦喧嘩の頻度が半減したという回答を寄せたらしいのだ。
 自分は、クルマを運転しながら、ナルホド、と薄ら笑いをしたものであった。要するに、自身にも覚えのある道理であったからである。たぶん、ネコたちがいなくなったら、きっと夫婦喧嘩は倍増するに違いないという強烈な予感がしているのである。
 亡くなった小説家・中野孝次氏も『ハラスのいた日々』という、亡くなった愛犬ハラスをめぐるエッセイ集の中で次のように書いている。

<ハラスという媒介を失って、突然妻と私とのあいだに緩衝地帯がなくなってしまったのであった。この新開地に越して来て以来ずっと、相手にじかには言いにくい小さな思いを、ハラスに向けて言うことで伝える習慣ができていたことを思い知らされたのも、彼がいなくなってからなのである。
「じゃ、散歩に行ってくるよ」
「ハイ、行ってらっしゃい」
 それだけのやりとりが、夫婦のあいだのわだかまりの出来たとき、妻への和解の申し出と、承諾の合図であることがしばしばあった。夕食時には、その日出会った犬や飼主や、街の出来事が、ハラスをめぐる話としてもっぱら話題にされた。犬をめぐる出来事でも話さなければ、いつも顔を合わせている夫婦の間にあらたまって話題とすべきこともなく、新聞を見たりテレビに目を向けてでもいるしかないのである。
 ハラスはその意味で、夫婦のあいだのかけ替えのない中間項でもあれば、また街との接触点なのでもあった。……>(中野孝次『ハラスのいた日々』文春文庫)

 家内は、一昨日から例によって母親のデイ・サービスのために実家に行ってまだ戻っていない。家内も、ネコたちの世話が大変だとこぼしてはいるものの、おそらく、上記のような道理を実感しているのではなかろうか…… (2006.11.11)


 晩秋の陽射しが豊かであった今朝は、自然風景全体が輝いていた。
 昨日の雨と、そして今日の幾分気になる風の強さが、空気中の塵をくまなく除去したのだろうか、空気の透明感が心地よい。遠方の山々がくっきりと望めた。冬場の天気のありがたい点は、まさしくここにある。

 そんな透明感のある空気の中、この時期ならではの自然風景が目に映えた。さざんかは、そのまぶしいほどの真紅で目を引く。多くのつぼみもまだまだ用意されており、これからしばらくの間は、寒風の中を行きすぎる人々の目と心を癒してくれそうだ。
 また、朱色の柿の実も、今日のような陽射しの中では、まるで線香花火の火の玉のように鮮やかに煌いている。みかんの実も、これ以上の彩度、明度はあり得ないというイエローの光を放っていた。
 いずれの色も、澄み切った青空や、そこに浮かぶ綿雲が背景となるようにして眺めてみると、それらの光のコントラストがまたまた美しい。

 このところ、こんな光景に出会うと、ケータイに組み込まれたデジカメに「代打」させることにしている。映像には贅沢を言う自分であるが、まんざら捨てたものでもない画質だと認識してからは、頻繁に活用することにしているのだ。
 これを書きながらも、今朝、スナップ・ショットしたものをPC上に開き、それらを見ているのである。

 色づいた果実や、咲き零れる花々も美しくはあったが、青空にすくっと立つ木立の姿はそれら以上に心地よさを与えてくれたように思い起こす。広葉樹の色は、夏の頃のように緑で輝くというわけではなく、くすんだ緑、場合によっては色づき始めている。常緑樹は、これからが自分たちが見栄えのする時期だと思ってか、空に向かって凛として立ち上がっていた。数本が並立した姿を遠くに望むと、それだけで絵になる光景なのであった。

 今朝のような澄んだ青空の天候の際には、何と言ってもそこに流れる雲の存在が、絵としては不可欠だということになろう。どういうわけなのであろうか。単に好みの問題なのであろうか。
 真っ青な一色の空を背景にしてメインとなる花々を撮るのも悪くはないが、その背景の真っ青な空に、無造作で通りすがりという気配の白い雲が浮かんでいたりすると、絵がなおのこと生きてくるように思えるのである。一色の単調な空を背景にした絵柄は、確かにスッキリとはしているが、やはり寂しい気配や真っ正直過ぎる堅苦しさの雰囲気が漂ってしまうようである。
 それに対して、どうしてそんな形なのかの理由や、どうしてそこに居るのかの根拠を超越したかのような、そんな無造作な形の白い雲が、青空の所々に混ざっていたりすると、にわかに躍動感が付与されるから不思議である。
 視線が遊ぶことができるためであろうか、近景の対象に対しても余裕を持って眺めることができるようで、全体として「くつろぎ」のある感触となってしまうようである。
 こう考えると、言われ尽くしてきたことではあろうが、大空に浮かぶ雲という存在は、人々に何とはなしの開放感を提供し、また、他の光景を引き立てたりして、実に「名脇役」なのだと思えてくるのである…… (2006.11.12)


 日本国内の社会状況も、国際的な諸状況も、端的に言えば「ドクター・ストップ!」(ボクシングで、試合中選手が負傷し、医師が試合続行不可能と認めて、レフェリーに試合中止を勧告すること)でもかけられなければならないほどに病んで、瀕死の状態になっていそうだ。このまま現状況を持ち越すならば、痛々しい傷口が深まり、広がるだけのことのように思われる。

 <イラク・テロ死者1日で159人 英米兵も7人>( asahi.com 2006.11.13 )で、イラクは再び<壊滅状態の治安>となっているようだし、こうした地獄をプロデュースしたブッシュ米大統領の国内支持率も、ますます低下して31%になっているという。
 にもかかわらず、当事者は<「選挙に負けても『敵』に勝つ」米大統領がラジオ演説>( asahi.com 2006.11.12 )というご乱心ぶりであり、<イスラエル砲撃への国連非難決議案 米拒否権行使で否決>( asahi.com 2006.11.13 )という大国主義的な身勝手さをも綿々として繰り返している。
 米国の良識ある国民は、もうこの辺で、止まらぬバカ殿のご乱行に「ドクター・ストップ!」でもかけてやった方がよさそうである。さもないと引き下がる花道もないがゆえに、熱っぽいお身体を途方に暮れさせてしまうばかりではなかろうか。

 この日本国内も、まるで政治指導者たちなんぞ誰もいないかのような、まさにアナーキーな荒廃ぶりが日毎に深まっているようだ。義務教育に責任を持たなければならない政府は、一体子どもたちを何人自殺に追い込めば事態の深刻さに気づけるのだろうか。
 また、教育現場の外ではさらに過激な病状が進行している。公職としての使命感もどこ吹く風で、郵便局に資金調達に出向く警官まで輩出するご時世なのである。命にかかわる「いじめ」問題にしたって、その発生エリアは小中学校に止まらず、家庭内での我が子虐待、老人施設での老人虐待、企業での非正規社員の限りなく「いじめ」に近い差別待遇などなどと、今や社会全体に満遍なく病的「いじめ」の華が咲き誇っているようだ。
 だからこその「教育基本法改正」だとトンチンカンなことが言いたいのだろうが、そうであるならば、首相自らが、その論拠と今後の構想とを、<米大統領がラジオ演説>に倣って、緊急呼びかけでもしてみてはどうか。もう、姑息な「世論誘導」でしかない「やらせ質問」で乗り切れる潮は、とっくに過ぎてしまっているはずなのだから。

 だが、「得意ワザ」の「強行採決」という手が残されていると誤解している向きがないわけではなかろう。しかし、それをやっちゃあ、オシマイよ。教育分野の「基本法」を「強行採決」したのでは決定的な自己矛盾にはまり込むのではないですかね。
 「教育基本法改正」は、その後の「憲法改正」のための露払いと位置づけているかとお見受けするわけだが、「憲法改正」の論拠としてあなたたちが言いがかりをつけている、「押しつけられた憲法」という言い草と同じことを、立場を代えて「教育基本法改正」を国民に押し付けて定めるというのでは、いかにも格好がつかないじゃないですか。「憲法改正」の一大論拠がウソだと大声で叫んでいるようなものでしょ。

 要するに、米国も、この国も同様に、政治指導者たちは、手詰まり、口詰まり、脳詰まりといった危険な症状にまで登り詰めているんじゃないですかね。こんな時にこそ、政治家なんぞよりもはるかに打たれ強く、辛抱強く、だから冷静でもある国民が、「待った!」と「ドクター・ストップ!」でもかけてやらなきゃ、落とし所にただただうろたえるというもんじゃないですか…… (2006.11.13)


 風邪をひいたようでもないのだが、体調が勝れない。いまひとつ元気ハツラツさに欠ける心境となっている。気力の足を引かれるような気配が最も嫌なことである。
 体調が芳しくないのは、急に寒さが訪れたせいなのかもしれない。
 寒さといえば、今年ほど北朝鮮の庶民たちにとって寒さが身に応える冬はないのではなかろうか。各国による北朝鮮制裁措置によって、食料をはじめとする生活物資がますます窮乏化するであろうからだ。餓死、凍死する者たちの数も夥しいものになるのではなかろうか。赤十字などの経路によって、北朝鮮庶民に対する救援対策の道が確保されればいいのだが。

 昨今のニュースは陰惨なものばかりで、それらに接触するたびに気分が押し下げられてしまうようだ。
 そんな中で、不謹慎ながら次の記事が何となく苦笑いを誘った。
 <「ぜいたく品」リストを決定 北朝鮮制裁で禁輸へ>( asahi.com 2006.11.14 )である。

<政府は14日午前の閣議で、牛肉やたばこ、乗用車、貴金属など24品目の「ぜいたく品」の北朝鮮向け輸出を禁止するため、外為法に基づく輸出貿易管理令の改正を決めた。国連安全保障理事会の対北朝鮮制裁決議を受けた措置で、金正日総書記ら北朝鮮中枢への圧力を強めることが狙い。15日から実施する。
 塩崎官房長官は14日の記者会見で、指定した品目について「北朝鮮当局の幹部、朝鮮労働党の中央委員会委員などの人たちが自ら使うか、部下に支給をするということに使われそうなものを決めた」と説明した。
 塩崎長官はさらに「国際社会のメッセージを受け止めて、守らなければならない措置を履行するようにしてもらいたい」として、北朝鮮に対して核廃棄を改めて求めた。
 24品目の対北朝鮮向けの輸出は、05年実績で総額10.9億円。同国向け輸出全体の約16%を占めている。

■北朝鮮への輸出を禁止する「ぜいたく品」
【食品等】 牛肉、マグロのフィレ(切り身)、キャビア・その代用品、酒類、たばこ
【装飾品・衣類】 香水、化粧品、革製バッグ・衣類等、毛皮製品、宝石、貴金属、貴金属細工
【電化製品】 携帯型情報機器、映像オーディオ機器・ソフト、カメラ・映画用機器、腕時計等
【乗り物】 乗用車、オートバイ、モーターボート・ヨット等

【その他】 じゅうたん、クリスタルグラス、楽器、万年筆、美術品・収集品・骨董(こっとう)品 >

 苦笑いをしたのは、最近どこへ行ってもその貼り紙などを目にする、野生、野良の動物たちに「エサを与えないでください」という対処法を思い出してしまったからかもしれない。
 さしずめ、「凶暴な北朝鮮幹部たちに、『ぜいたく品』は見せないでください!」ということなのであろう。彼らが、それらをもって、国際的に孤立して萎えそうになる気持ちを鼓舞したり、組織の一枚岩体制作りのためのクスリなんぞにしないように……、とでもいうことなのであろうか。
 しかし、<官房長官>がえらそうに発表する対策となると、何となく滑稽さが拭い切れない。こんな、ど鳩や野良猫の駆除みたいな方法しかないのかなあ、と感じてしまうし、そもそも<ぜいたく品>のシャットアウトがいかほどの効果をもたらすものだろうかとも思える。

 庶民たちが餓死寸前の時に、「将軍さま」たちだけが、<ぜいたく品>に囲まれてぬくぬくとしている光景は、当然見たくもないし想像したくもない。しかし、「逆説的に」言うならば、むしろここに至れば、それらを「たらふく」提供してあげた方が、より時局に対して効果的なのではないかという気もするのだ。
 世界中の多くの人々が期待することは、とにかく「将軍さま」たちが戦意を失い、気力を失い、できればその姿をも失うことのようである。
 そう考えると、ここでこれまで自由にしてきた<ぜいたく品>を止めてしまうのは、それらへの残像をより色濃くさせてしまい、再びそれらを自由にできるようになるために奮起しよう、という気持ちを刺激してしまうのではなかろうか。「臥薪嘗胆」の手助けをしてやってはいけないのだ。人は、その対象が失われた時にこそその価値を知り、その価値のために力んだりするものじゃないのかなあ。

 したがって、ここは一番、これまでにも増して<ぜいたく品>を湯水のように流し込む策、というのが正解であるように思えるのである。古来から、<ぜいたく品>で囲まれることこそは、人の信念を腐食させ、人を臆病にさせるもののはずである。
 しかも、<ぜいたく品>でくっきりと色分けされてきた、世界中でも典型的な「格差社会」を、この期におよんで均してはいけないような気がする。その可能性は極めて薄いとはされてはいるが、すべてを剥奪されてきた極貧の庶民たちが立ち上がるためには、支配者たちが<ぜいたく品>まみれになっていた方が絵になろう。ルーマニアのチャウセスクたちのように……
 加えて、<ぜいたく品>の内でも、<食品等>については特別に「寛大な」措置を講じた方が良いかもしれない。極めて高カロリーなものがなお良いと思われる。これまでになかったほどの量をどんどん召し上がってもらい、「血糖値がうなぎ上り」にでもなっていただくことがよろしかろう。また、米国産のいわく付きの牛肉をたらい回しにさせていただくのも一法であるのかもしれない。

 面白半分で言うことでないのはわかっている。しかし、最近さらに痛感するのは、北朝鮮の支配層は一筋縄では行かないしたたかさを持つという点である。だからこそあの米国もきりきり舞させられてきたのであろう。そんな、したたかな国を御すためには、物質的制裁のみならず、精神的心理的洞察をも駆使したしたたかな折衝力がこの国にも必須だと思われてならない…… (2006.11.14)


 「長い物には巻かれよ」という恐ろしい言葉がある。なぜ恐ろしいかと言って、その「長い物」が、子どもたちが独りで寂しく死に旅立つ時の、痛ましい「ロープ」に延々と繋がっているようなイメージを与えるからである。
 「いじめ」を平気で行う者たちは、「長い物」の手先であるつもりとなって無感動に事を処す。今の世は「長い物」による横暴だらけで構成されていることを彼らなりに察知しているのであろうか、あたかもその横暴な威力を確かめようとするがごとくに事を処している。
 案の定、周囲のふぬけ人間たちは、粛々と「長い物には巻かれよ」を実践しており、見て見ぬ振りをパーフェクトに演じているに違いなかろう。
 幾層もの「長い物」序列が、まことに気味悪いほどに累々と重なっているようである。教師-教頭-校長-教育委員会-文部科学省という序列は、とりあえず上を仰げば見えてくる「長い物」だと言える。「指導」という名のもとで行われる序列関係は、ビジネスでの透明性には及ばない理不尽さがつきまとうから、いっそう厄介なはずである。
 しかし、「長い物」は、縦方向の階層となる前に、平面レベルにおいても縦横無尽に絡みあって、ただただ息苦しい空間を生み出していると思われる。子どもたちには、そうした重っ苦しい空気の気圧がすべてのしかかっているわけだ。

 そして、これだけ「長い物」の野蛮な威力が不測の事態を発生させているにもかかわらず、いやそうだからこそと言うべきなのかもしれぬが、スーパーレベルの「長い物」(=政府)は、今、この「長い物」序列の威力を倍増倍加しようとの企てに躍起となっている。つまり、現代のいろいろな不具合は、「北風」の吹きようが足りないのだと恐ろしくも貧しく解釈して、「教育基本法」に強権的な発想をねじ込もうとしているわけである。
 でも考えてもみてほしい。自分自身を愛せぬほどに疲れ切った子どもたちに、国という掴み所のない存在を愛せ(愛国心!)と命令しようとするのは、いかがなものであろうか。政府与党国会議員の先生諸氏は、一体、本当に人から愛されたことがあるのだろうか。愛することを命ずるナンセンスに意が向かわないのであろうか。長年、「長い物」に便乗して他者に命令ばかりをしてきた人々は、愛をも命令によって獲得できるものと錯覚するのであろうか。

 従来、このことわざ、「長い物には巻かれよ」は、さほどの被害をもたらす凶暴な含意ではなかったかもしれない。目上の人や勢力のある人には争うより従っている方が得だとする、セコイ人間たちの自己防衛的な個人的処世術でしかなかった。
 そうしたセコイ人間たちがいた一方で、「判官贔屓(はんがんびいき)」を旨とするイナセな人々も多数いた。だから、そこそこのバランスがとれたりしていたことも、「長い物には巻かれよ」主義者のセコイ振る舞いを隅っこに追いやっていたのかもしれない。
 ところが、弱肉強食経済社会の時代風潮は、セコイ人間たちばかりが溢れる世の中をでっち上げてしまった。「判官贔屓」という言葉さえ知らない者たちばかりの世の中を作り、「長い物」という規模も有無を言わせぬほどに「長く」巨大化させてしまい、抗う余地がないほどの「長い物」天国の構造を作り上げたわけだ。「格差社会」現象とは、この構造の一側面なのであろう。

 つい先ほど、とうとう自民・公明の与党は、「教育基本法改正案」を野党欠席のまま「単独採決」に踏み切ったそうである。これでも、国民はどうということもないのであろうか? あたかも、「いじめ」を見て見ぬ振りをして黙殺する結果、子どもたちが「自主的に」この世と見切りをつけている事態と、ぴったりと重なっていそうである。
 こうして、「憲法」の改悪さえも、どうということもなく果たされてしまい、その勢いをもって好戦主義者たちのねらいどおりに、この国は戦争行為へとしっかりと突き進んで行くのか…… (2006.11.15)


 昨今、どこのサイトを覗いても、高画質TV画像なみの「動画」に出会う。「 Flash MX ( by Adobe)」という画像アプリケーションソフトの普及によるものである。
 以前は、受け側のPC環境が貧弱な構成であったため、そうした「 Flash MX 動画」でさえその動きに「重い」気配が漂ったものだった。だから、サイト運営側も、訪れる閲覧者に「嫌われない」ために、自粛していた嫌いがないでもなかった。
 が、「 Windows 」もバージョンが「 XP 」クラスが一般的となってくると、それ向けのPC環境が用意されたせいか、そうした動画もラクラク描画するようになったかのようだ。むしろ、「 Flash MX 動画」で、多少なりとも「リッチ」なサイト・コンテンツにしようと目論むサイトが、次第に増えてきたのかもしれない。

 ちなみに、自分にも、ウェブサイトに「動画」を盛り込みたいという思いはかねてからあった。何かをわかりやすく説明する「プレゼンテーション」にとっては、図表などの静止画では今ひとつ説得力に欠けるようだ、という感触を抱いてきたからである。
 図表やイメージが、動きによって変化して行く時、その動きは十分に思考を助ける役割りを果たすかのようである。あるイメージが、別なあるイメージに変わる時、その時間経過によって無言のうちに「因果関係」とでもいうべきものが伝えられ、何事かの理解をを少なからず助けることになるようだ。
 だから、自身の関心からいうならば、「動画」というメディアの方法は、そうした考えることを刺激し、支援する方法としてこそ活用されるべきだと思ってきた。それゆえ、最も適したジャンルとしては、何らかの学習・教育の領域ではないかとも睨んできたのかもしれない。

 もちろん、「動画」というものにそんな屁理屈をつけることもないのかもしれない。「猫」ではなくとも、動きのあるものは、とにかく楽しいはずである。まして、「動画」尽くめのTV画像で育ち、活字には慣れない世代にとっては、何はともあれ最も親しめるメディアが「動画」なのかもしれない。
 そんなこともあってか、このところ、各種ウェブサイトの広告では、賑やかに動き回る文字やイメージがどんどん増えてきているようだ。それなりにインパクトやセンスが溢れた説得力のあるものから、ただただ目にうるさいと感じさせるものまで、まさに玉石混交の観はある。

 で、曲りなりにもサイトを運営してきた自分、しかも「動画」にはそれなりの関心を寄せてきた自分としては、上述の「 Flash MX 」というアプリケーション・ツールの奥義を究めてみたい、という単純な思いを抱くわけなのだ。
 そして、この間もジワジワとそいつににじり寄るありさまだったのである。深い動機があるとはとても言えない。ただ、面白そうな「玩具」だと思うだけのことである。そうした「玩具」ででも気分を慰め、盛り立てでもしないと、こんな理不尽で立ち腐れした時代環境を往なすことはできない……、とまあ勝手な理屈をつけているわけだ。

 それで、先ずは小手調べとばかりに、このウェブサイトにささやかな小品を載せようとしてきた。従来、いわゆる「.gif」ファイルを複数用意して、「パラパラ漫画」ふうに構成した「動画」もどきの部分を、「 Flash MX 」をツールとして再構成してみたのである。まさに、初歩的で入口的な作業でしかない。
 だが、これが重要なことなのだと思っているが、皆目了解できなかった「 Flash MX 」というツールが、何だか、言葉だけはかけることが許された「知人」にはなったかと感じている。「友人」と言える仲になるまでにはまだまだ時間がかかりそうではあるが…… (2006.11.16)


 今朝、出勤前に観たTV番組で、財政破綻に陥った自治体の夕張市の実情が報じられていた。「夕張難民」のごとく、当市を出て行く人たちが日毎に増え続けているらしい。財政再建のためと称する市民の生活への「しわ寄せ」がとてつもなく大きくなりそうだからだ。学校も統廃合されて、小学生が十数キロ離れた小学校に通わなければならなかったり、唯一の市営病院が財政難でほとんど再建の目処が立たなかったり、公共料金の値上げが相次いで予定されていたり……。年老いた市民たちの数少ない憩いの場であるスーパー銭湯も、民営化されて入浴料が600円から1000円へと跳ね上がるとのことである。
 同市は、全国でも高齢者比率の高い市町村であるらしい。そんなお年寄りたちはいまさら故郷を捨てるという選択もありえないであろう。とすれば、希望を失い、将来のために「避難」するかのように、若い世代が他市へと「流出」してゆく結果、同市にはお年寄りたちばかりが残り、高負担を背負い込むことになる。

 ちなみに、炭鉱町であった夕張市が全国の衆目を集めたのは、ひょっとしたらあの名作『幸福の黄色いハンカチ』(監督:山田洋次、出演:高倉健、倍賞千恵子ほか、1977年公開)であったかもしれない。
 「もし、まだ待っててくれるなら、黄色いハンカチをぶらさげてくれ――」というムショ帰りの男(高倉健)に応え、妻(賠償千恵子)は、何十枚もの「黄色いハンカチ」をまるで小学校の運動会の際に飾られた万国旗のようにはためかすのである。この感動の涙を禁じえない光景、それが30年前の夕張だったわけだ。
 まあ、現実にこうした事実があったのではなく、あくまでもピート・ミハル原作のフィクションのロケ地が夕張であったということだ。しかし、旧炭鉱町であったことから寂れ始めてはいたにせよ、出所後の夫を健気に待つ妻という人情、愛がぴったりくる場所であったはずである。何はなくとも江戸むらさきではなくて、何はなくとも人情、人情。それが、人が住み、故郷とできる市町村というものであったはずである。
 山田洋次監督は、そうしたほのぼのとするこの国の市町村を、その後も「フーテンの寅次郎」に津々浦々歩かせたものであった。人間とは、そんなほのぼのとした空間でこそ生きられるのだと言わぬばかりの目線であったかと思う。

 上記の番組で、同市在住のお年寄りが、これから町がどうなっていくのかと心細そうに話していた。その心細さの中には、これまで暗黙のうちに信頼を寄せていた「お上」(市行政ほか)が、急遽、匙を投げるがごとき事態への心の揺らぎも含まれているかと思われた。
 時代の空気としての世知辛さが振りまかれただけならば、まだ我慢できたであろう。だが、町(市)当局が、町が崩壊するほどの不手際を仕出かし、さらにそのことによって住民から信頼を損ない、今後の市民生活が脅かされるに至ったという事態は、どう考えても理不尽だとしか言いようがない。ならば、何はなくとも自然と人情だけは溢れていた元の町を返してほしい、と叫んだとしても十分に共感できそうである。
 一体、この30年間の間に何が起きたというのであろうか。マス・メディアの報じる情報を超えて知ることはできないが、巨額赤字の累積の経過には、この国のどこにでもあったといえばあった破格の「土建建設」計画が横たわっていたようである。
 極端な言い方をすれば、そうした外部の「土建建設」業者周辺の勢力によって、夕張市はクイモノにされたような観が拭えない。単純に考えて、もし地元業者によるものであるならば、当然、そのコストに見合った法人税が市当局に還流し、財政悪化をそれほどにひどくはさせなかったのではなかろうか。
 「公共」をクイモノにする業者もさることながら、その輩と手を組んで「故郷を売る」ような破廉恥なことを平気でする政治家や役人たちの存在が問題であろう。
 昨今、まるで「もぐら叩き」を連想させるような地方自治体がらみの汚職事件が相次いで発覚している。また、自治体職員による不祥事もニュースを賑わしている。たぶん、これらは、「捕まったゴキブリの背後には、何十倍もの数のコギブリが……」という言い回しのように、ほんの氷山の一角であるように思われてならない。「公共」の「お宝」を、それをそれとしてきちんと認識できる能力が、完全にメルト・ダウンしているのが現在のこの国、この社会の度し難さであるようだ。

 ところで、現代の人間は、どんな人為的、自然発生的異変が生じようとも、人間らしく生活できなければならないと誓ったのではなかったか。いや、別に、甲子園の宣誓式がなくともである。それが現代という時代ではなかったのか。
 ところが、今、それ自体が危ぶまれつつあり、またそのことを当たり前のように糾弾する気力を市民、国民が失いつつあるかのようである。これは、病状がどんどん悪化しているにもかかわらず、自覚症状を持たない病人の悲劇と同じように見える。どうもこれこそが、現在の最大級の危機なのではなかろうか…… (2006.11.17)


 街で犬を見かけると、しばし目を向けてしまう。今日も、買い物に行ったとある量販店の入り口の自転車置き場で「丸まって」寝ている犬を見た。ご主人の戻りを待っているのだが、たぶん長くなりそうだと踏んだのであろうか。陽射しが翳ってやや寒く感じる天候となっていたからであろうか、ここは「丸まって」体温を逃がさないようにしようとでも考えたような恰好であった。
 普通、ご主人の買い物で待たされている犬というものは、ご主人の姿が見えなくなった店の入り口の方を向いて座り、今か今かと待ち遠しい雰囲気で待つものだ。かつてうちで飼っていたレオなども、根が臆病なものだったからまさしく不安そうにそんな恰好でいたものであった。
 だから、自宅の庭でするように、平然と「丸まって」寝ていた犬にはちょっとした違和感を感じたのである。よくはわからないが、よほど寒かったのか、あるいは、ご主人の買い物は待つに待てないほど長時間に及ぶことを肌身で感じて知らされていたものか……

 事務所の近所にも、いつも見かける犬がいる。昼食で駅前の方に出かける際によく見かけるのだ。飼われている店の前に「一時的に出されている」らしいミニチュア・ダックスフンドなのである。その料理店のママさんが屋内で可愛がっているようなのだが、店が忙しい昼食時の時間帯には、かまってやれないらしく「一時的に出されている」ようなのである。いかにも屋内で飼われているらしく、胴体には「服」を着せられており、「一時的」とはいえ寒空の戸外に出されているのが不安でならないような素振りをしているのだ。
 毎日のように見かけるため、こちらは馴染んでしまい、時々しゃがんでは声をかけたり、頭をなでてやったりする。しかし、不安が先立つものか、どうも上の空といった感じで、ママさんが出てくるドアの方から片時も目を離そうとしない。そうかそうか、と言ってわたしは毎回そのまま立ち去るばかりなのである。

 犬とその飼主との関係というものは、やはり並大抵のものではなさそうである。確かに、餌をもらい庇護してもらうという実利的関係の意味は小さくなかろう。それは、「パブロフの条件反射」のとおり、生理的本能的な刷り込み現象を根底には置いているのではあろうが、ただそうした「実利的」な意味だけで終わるものではなさそうな気がしている。
 そこには当然のごとく何かマインドなものが発生し合うのであろう。犬との関係の場合には、しばしばご主人による「庇護」と、犬側からの「忠義」というような図式表現がなされる。それなりの説得性はありそうだ。だから、「忠犬ハチ公」が持てはやされもしたのであろう。あるいは、ある立場の人間たちのことを「犬」と揶揄する表現も使われたりするのであろう。
 しかし、犬を飼う人たちは「庇護」と「忠義」という精神的関係を念頭に置いて、あるいはその形成をめざして飼い始めるのであろうか。そんなはずはなかろう。もっと自然な感情、たとえばもっと楽しく暮らしたいとか、何か心寂しさを紛らすためとか、要するに「共に生きたい」という漠然とはしているがとてつもなく重みのある現実感が働いているはずである。それでいいし、それ以外に能書きを言う必要はない。
 つまり、確かな実体のあるものに対して、人はいろいろと解釈することができるのであり、それらのいずれをも賛美することも可能なのであろう。ただ、どれを採っても実体の関係それ自体の全体を優ることにはならないだろうと思えるのだ。むしろ、部分的な、取って付けるようなことを言って済ますのは、ただただ自然な関係を歪めるだけになりそうに思われるのである。

 ややもすれば、「愛国心」云々という話題に目が向きそうにもなるが、今回はそんな野暮な問題を書くつもりはない。生きものと生きものとの関係が、「束の間」の存在でしかない生きもの同士にとって、どんなにか貴重でかけがえのないものであるのかということを再認識すればそれでいい。
 今日、かつて読んだことのある『ハラスのいた日々』(中野孝次著)のDVDをショップで見つけてレンタルし、夕食後にそれを鑑賞した。13年に渡り愛犬と「共に生きた」作家夫婦の実話なのだが、レオをはじめとした犬たちのことが目に浮かび、思い至った言葉が、「共生」という一言だったのである…… (2006.11.18)


 この冷たい雨で、女子マラソンの高橋尚子は調子を崩してしまった。何とか勝たせたいと思うレースであったが残念だ。一位の土佐や二位に這い上がった尾崎に比べて、高橋は見るからにこの天候でダメージを受けていたような様子に見えた。あれは夏の暑さであったか、以前にも同様なことがあったことを思い出す。高橋には、全天候型とは行かない華奢なところがあるのだろうか。あるいは、精神的にナーバスな性格が災いしているのであろうか。何となく後者であるような気がしないでもない。なぜそう思うのかに確たる根拠はないが、かつて、小出監督と二人三脚のように訓練していた当時、小出監督が留意していたのはどうもその点ではなかったかと思い返すのである。
 マラソンというのは、言うまでもなく、体力、気力の限界を孤独に耐え続けるスポーツであり、きっと、その厳しさを支えるのはフィジカルな能力だけではなく、メンタル&マインドな面での強靭さが必須なのだろうと思える。そして、後者の面にあっては、何がどうと言い当てることは難しいのであるが、揺らぎのない心の状態(無心な状態?)とでもいうものが意外と重要であるかのように思われる。これが備われば、気力、体力がムリやムダなく好循環を繰り広げるとでも言おうか……

 スポーツ選手は、ある程度の年を重ねて調子が落ちると、すぐに引退がどうのこうのとささやかれたりする。そして、選手側もややもすれば「体力の限界」などと釈明しながら後進に道を譲る選択をしたりする。
 素人にはよくはわからないが、確かにプロとして継続していく際の「体力の限界」というような問題もあろうかとは思う。十代の方が二十代よりも、また二十代の方が三十代よりも、体力という側面では有利なのではあろう。
 しかし、ただフィジカルな能力の問題だけなのだろうかと、ふと疑問を持つことがないわけでもない。フィジカルな能力は、経験に基づく技量の蓄積と向上によって結構カバーできるし、場合によっては、低下しつつあるフィジカルな能力をこれまで以上に効果的に使うことさえできるのではないかと推測したりもする。
 と言うのも、われわれが目にしているプロ・スポーツというものは、体力測定のようなシンプルなものではなく、複合的な要素によって構成されており、その複合性は時間の経過と経験によって攻略されるものだとも考えられるからである。

 だが、わたしが今、ひょっとして……、と目を向けようとしている点は、実はそうしたことではない。ひょっとしたら、加齢という事実が足を引っ張るのは、何も、体力の衰えという面だけではなく、別な側面にも潜んでいるかもしれないと想像するのである。
 加齢という事実は、当然のごとくフィジカルな能力の低下と、それを埋め合わせるかのような経験的技量の増加をもたらし、引退に至る選手や、現役でがんばり続ける選手などさまざまなケースを生み出す。
 が、加齢という事実はもうひとつ別な事情を生み出しているのではないかという気がするのである。それは、歳をとるにつれ、得る「情報量」が多くなり、そのことは必ずしも良い結果だけをもたらすのではなく、場合によっては「雑念」とでもいうべきものを増大させたりもするのかもしれないと……
 若い時代が好ましいのは、フィジカルな能力が高水準であるだけではなく、得ている情報量が少ない分、「雑念」さえもが少なく、場合によっては自然なかたちで「無心」な状態にある、とそう言えるのかもしれない。ヘンな表現をすれば、ギャンブルなどでよくささやかれる「ビギナーズ・ラック」、つまり初心者の予想外の幸運ということと似ているのである。
 わたしが思うに、「ビギナーズ・ラック」とは、単に「まぐれ当たり」のことを言っているのではなく、初心者は、経験者が豊富な事情通であるからこそとかく抱えてしまう「雑念」というものから自由であるがために、自然でラフな姿勢、つまり「無心」なアプローチであることが奏効するという隠れたポイントを言い当てているのではなかろうか。
 経験が豊富となることは、簡単に言えば「情報量」とその「情報処理量」とが増大することであり、それは、うまくゆけばより望みの結果に近づける一方、まずい場合としてはただただ混乱する結果に陥るだけにもなりかねない。つまり「雑念」に心乱されるという状態なのである。

 プロ・スポーツ選手たちの加齢について書いてきたが、話の流れはいつしか、「加齢の功罪」一般という話題にたどり着いてしまったようである。いや、一般というよりも、自身の問題であると言った方がいいかもしれない。
 わたしには、年寄りに関する「今昔」異なるイメージがある。つまり、「昔」のお年寄りたちは何と「心安らか」で「泰然自若」としていたか。そして、現在の年寄り候補生たちは、何と「心乱れ」、「雑念」に右往左往しているか、というような差異なのである。このイメージ対比にはいろいろなことが言えよう。
 が、ひとつここで意を向けたいのは、現代人は、膨大な量を手にすることとなっている情報を、決してうまく「処理」して消化(昇華)してはいないということ。だから、心の中は「雑念」状態さながらに、掻き乱されている、のではないかという点なのである。
 より多くを知る者は、より多く迷う、とでもいう逆説は、今や一般的な順説になってしまっているのかもしれない。これは、必ずしも望ましいこととは言えない。「無心の境地」というようなものの価値が、いま少し再認識されてもいいように思う…… (2006.11.19)


 さえない天候に見合ったさえない出来事が重なる週明けだ。
 昨日に引き続き、天候はさえない。空は白濁色の雲が覆い、小雨がぱらついて、否応なく人々の気持ちを落ち込ませるようだ。歓迎すべきことなぞ起きようもない、そんな予感に包まれていると、案の定、暗澹たる出来事に迎えられた。

 ひとつは、沖縄県の県知事選挙。教育基本法の強行採決や、自民復党問題など、いいかげんにしろと言いたいがゆえに、この選挙では与党側が支援する候補が県民から拒否されるべきであった。もちろん、危険な米軍再編構想にストップをかけるという大義が重要なのであるが、加えて、現政局にあっては与党側の「反省材料」が浮上してこそ心ある国民の溜飲が下がるというものではなかったか。
 ところが、沖縄県民は、経済の活性化と称するわけのわからないベクトルを選んでしまった。県知事が与党側支援の人物だからといって、失業率が二桁に近づいている沖縄経済が急遽活性化されるものであろうか。沖縄の唯一の資源である自然を破壊する基地施設を増強することが、どうして選択肢になり得るのだろうか。
 しかし、県民自身の判断なのだから、何をか言わんやである。ただ、どうして聡明な洞察力によって状況が見通せないものかと残念でしかたがない。やはり、経済で日々脅かされると、藁をも掴む気持ちで、「ガセ」を掴んでしまうものなのであろうか。

 こうした浮き足立った行動というものが、沖縄だけでなく、今日のわれわれの日常をやんわりと、真綿で首を締めるがごとく作用して、結局、冷静に考えれば決して選ぶ対象なんぞではない「ガセ」を掴まされているようだ。
 そして、「ガセ」をそれとして感じ取らさせないフィルターをせっせと作り出しているのが、節操も責任感もないマス・メディアだと来ているから腹立たしいかぎりである。
 それに、野党側の動きも、今一、今ニとしか言いようがない。国民を苛立たせるのもほどほどにしなければ、結局ついて行くものがこぼれ落ちてゆきそうである。
 今回の知事選挙は民主党なども、来年の参議院選挙に向けた今後の重要なアプローチと位置づけていたようだが、それで負けてしまったのでは、「選挙の守護神」と持てはやされて来た小沢代表も辛いところであろう。
 しかし、どうも形勢は逆転しそうにないような気配が強いのかもしれない。それと言うのも、「民主党のマス・メディア戦略」が見えてこないからである。確かに、選挙は「足で稼ぐ」という組織戦略が基本ではあろう。だが、浮動層をどう取り込むのかという点においては、追い風的な空気をどう醸成するかという点が絶対に欠かせない。そして、この面では、現時点でマス・メディアが果たしてしまっている「御用提灯!」的機能を放置していたのでは埒があかないと思われる。ここに切り込み、釘を刺すなり、独自なキャンペーンを張るなりしてゆく、そんなマス・メディア戦略がどうしても必要なのではないかと思われてならない。要するに、それほどまでに現在のマス・メディアの常態は、真面目さと中立性を失い、政府与党のベクトルに沿ってしまっているのだと観測する。

 今日のもうひとつのさえない出来事とは、日経平均の大幅下落という事態である。「365円安」という情けなさであった。
 日本の株式市場は、外国人投資家や機関による売買の動きで大きく左右されるものであるが、今日の下落もまた外国人投資家たちの大きな「売り越し」が引き金になっていると言われている。要するに、「日本売り」という意味合いなのであり、なめられているということであろう。
 自分はこの間、こうした大幅下落が訪れるのは、ムリムリな様子で積み上げている米国株式相場だと見ていた。対極的に見た悪材料が揃っているのは米国経済の方だと思われたからである。
 しかし、どうも米国側は「処し方」がうまいようである。悪材料に蓋をして、史上最高値を更新し続けてきた上に、今日あたりは、<米経済、徐々に上向く・全米エコノミスト協見通し>( NIKKEI NET 2006.11.20 )というアドバルーンまで上げている。
 そんなこともあってか、日本の個人投資家たちまで、さえない日本株に見切りをつけて米国株市場に流れ込んでいるとも聞く。<個人マネー、米株高を演出・投資家に楽観ムード>( NIKKEI NET 2006.11.19 )という怪しげな記事も目についた。
 そんなことで、これまでならば、常に米国市況の動向に倣う動きを示してきた日本市場であるのに、先週末の米国株が上昇したのに対して、今日の日本市場はまるでついて行けずに暴落ぶりを曝け出すことになった。

 米国側は「処し方」がうまいと書いたが、それに対して日本側は、株価ひとつ誘導することもできない稚拙ぶりである。それどころか、まずいことを淡々とやっているようにさえ見える。
 <東証社長「株式相場下落、証券税制に関する懸念影響」>( NIKKEI NET 2006.11.20 )というのがその例である。
 この間、日本の経済は「不透明さ」を増してやや危惧され始めており、それが株式相場の低迷となって現われていたわけだが、そんな時期に、政府は「証券税制の優遇措置廃止」という動きに出たのである。
 それで、東証社長が<「証券税制の優遇措置廃止による個人資金の流入減少などを見込み、投資家に株式相場の先行き対する懸念が出たことが影響しているのではないか」と述べた。その上で、証券税制の優遇措置の廃止に関して、「日本証券業協会とともに、東証として優遇延長を要望する立場を表明している」と述べ、改めて優遇措置の延長を求めた。>ということらしい。
 これにしたところで、米国との関係における何かウラがありそうな気がしないでもない。現に上述のとおり、問題含みの米国株式市場に、日本の個人投資家たちの資金が流出していたりするからである。

 自分のような米国と、これに追随することしか知らないこの国の政府に対する猜疑心の強い者ならば、多少なりとも事態の推移に疑問を持つこともできる。しかし、普通は、いろいろと統制されたマス・メディアが流す情報によって結局は誘導されることになるに違いなかろう。だから、マス・メディアの果たす役割は小さくないのである。
 現代という時代は、より巨大な「枠組み」が、その内部の小さな存在のささやかな資源をもザックリと奪ってしまうという「あってはならないこと」にまで踏み込んでしまった「いやーな時代」だと言うべきなのかもしれない…… (2006.11.20)


 夕方、仕事関係の知り合いで、滅法、株取引にのめり込んでいる人が来社した。案の定、この間の相場の下落でしこたま損を抱え込んでしまったらしい。
 ただ、その人物はネアカなタイプだからか、根っからのギャンブラーであるためか、決して小さくはない損であるのに、さほど落ち込んでいる様子ではなかった。
 結局、昨今の株の動きに関する四方山話をあれこれとするはめになった。自分も株式相場の動きには関心がないわけではないことと、その人物が自分と同世代の団塊世代であることなどから、自分は彼に何となく気を許しているようである。

 それにしても、現在の日本の株式市場はさえない。昨日も書いたとおり、米国市場が経済の実勢は決して良いとは言えないにもかかわらず高値水準を推移しているのに、この国の市場は、妙に「不信感」に満ち満ちているような気配だ。
 新聞報道によると、<日本の景気の先行き不透明感や日本株の動きの悪さを嫌気した外国人投資家の売り>、<裁定取引に関連した仮需が高水準に積み上がっていること>、<11月に続き12月も新規の株式公開が相次ぐといった需給面での不安>( NIKKEI NET 2006.11.21 )などが指摘されている。
 また、経済界からのコメントでは次のような不安をもらす者もいる。

<経済同友会の北城恪太郎代表幹事は21日の定例記者会見で、足元の株価下落について「株価は将来の企業業績を反映している」とし、「(市場では)来年の企業業績に懸念を持つ声が増えているのではないか」との見解を示した。……同氏は「上期の業績が好調であれば、下期や通期見通しを上方修正してくるが、(今回は修正を)している企業が少ない」とし、「(同友会でも)経営者の景気定点観測を実施しており『景気は拡大しているが、先行き弱含み』との声が多い」と説明した。「個人消費の弱含みや、米経済に対する警戒感などもあり(経営者は)業績見通しを慎重にしている」と述べた。>

 株価がそのまま経済の実勢を推し量る材料でありえないことは、<米経済に対する警戒感>が指摘されながらも、米国株式相場が「ハッタリ的」に現在高値圏を維持していることからも言えることであろう。
 しかし、これから来年にかけての日本の経済が、やや怪しいのではないかと多くの者たちが危惧している事実は否定できないようである。とりわけ、<個人消費の弱含み>と懸念される点は、そうだろうそうだろうという感じである。
 庶民には還元されにくい形でちょいと景気が上向いたかの空気があっても、税金や社会保険料などなどの一連の値上げによって庶民は支出を大きくさせられてしまった。いわば、経済の動きを面倒見い見い水路づけていかなければいけないこの時期に、現政府の選択はかなり無鉄砲ではなかったかと思われる。しかも、社会構造自体が「格差社会」の色合いを濃く持つようにさせられるようになると、<個人消費の弱含み>は必然化させられてしまうのではなかろうか。「100円ショップ」への客足が増える現実を片方に置いたままで、個人消費の拡大を期待するというのは、どう考えても上滑っているように思われる。

 それに、良い景気だと評価されている現状、つまり高収益を上げているとされる現在の企業の状況にしても、果たして経済拡大を生み出すような実質が伴っているのであろうか。そんな疑問がよぎらないわけではない。皮肉っぽく言えば、好業績だとされる大手企業にしても、新規なビジネス資産を開発したという実質よりも、収益を生み出すための「帳尻合わせ」の結果だと言えなくもないのではなかろうか。
 つまり、専らコスト削減のための諸対策(人員整理のリストラ、会社の統廃合、下請け企業への負荷の転嫁……)に奔走する結果であり、これらは全体社会の経済を素直に活性化させるものとは考えにくい。いわば、痩せるためにムリムリのダイエットをしているような不健全さの印象であり、どこかに「しわ寄せ」が出てくる、そんな「帳尻合わせ」のような気がしてならない。
 もし仮にそのとおりだとした場合、こうした経済路線が、若い世代のフリーターやテンプスタッフ、(およびニート)の増加を結果的に促進している現実は、確実に日本の将来の経済に問題を先送りすることにもなっており、この意味でも「しわ寄せ」を生み出しているということになる。

 株相場の推移に接していると、否応なく経済の推移や、社会のリアルな姿を実感することになる。まあそれが、個人的な損得を超えて良い情報収集になると見なしているわけだが、このところ受けとめる気配からは、あまり希望に満ちた来年の経済状況が思い描けないでいる。そもそも、こんな不安を庶民に感じさせる「経済の舵取り」役の政府でいいのかと、疑心暗鬼が消えない…… (2006.11.21)


 みんながホッとしているんだろうな、と思えた。「徳島」での行き場を失ってしまった犬の救出の話題である。こうした報道は、高が犬一匹のことだとしてあなどってはいけない。
 行き場を失って途方に暮れるワンちゃんの背後には、何十万、何百万というギャラリーがいて、その各々がみな「自分みたいかな、誰が助けてくれるのかな……」と切ない感情移入をしているに違いないからである。
 とくに、何かと追い詰められた心境になっている子どもたちの場合には、ひょっとしたら、あの犬が救われたら自分もがんばってみよう、とかの「心理的リンケージ」を張っていたかもしれない。だから、あの犬が「地上50メートル」から落ちて死のうものならば、またまた……と、危惧の念を持ったのはわたし一人ではなかったのではないか。

 きっと、「徳島西消防署」も、「事件」がマスメディアに取り上げられてしまい、引くに引けなくなってしまったに違いない。これで、同時間帯に、火災や自然災害などが併発していたならば話はややこしくなった可能性もあろうが、そうでなかったとするならば、「レスキュー隊」にとっての恰好の訓練にもなったし、みんなから喜ばれたことでもあるし、万事めでたしめでたしだと言えよう。
 しかも、全国各地に潜在するであろう、「崖っぷち庶民」たちに対して、「徳島」発の力強いエールが送られることになったことを喜びたい。

 それにしても、当該のワンちゃんは、日々追い詰められた心境で過ごしているに違いない「崖っぷち庶民」の、切なくも哀しい心細さをいかんなく表出していたかのように思う。いや、ご当人は、迫真の演技どころか「そのまんま」以外ではなかったわけだが。
 不謹慎に言ってしまうと、その犬が和犬の柴犬ふう雑種であったところが、また、「キャスティング」としては申し分なかったような気がしている。如何にも正直と忠実を看板として、慎ましく生きてきたという印象をこよなく誘う、そんな種類の犬だと言えそうだからである。決して道の真ん中などをわがもの顔に歩きなぞはしない。端っこ、隅っこを、俯き加減で遠慮がちに歩く地味な習性を持った犬に違いなかろう。それで、端っこに寄り過ぎて、うっかりあんな所に落ち込んでしまったものと推測されるべきである。そのドジさもまたついてまわっている性分なのかもしれない。

 <……犬はネットに飛び降りて無事保護された。その瞬間、作業を見守った近所の人たち約200人から拍手と歓声がわき上がった。近所の主婦は「助かって本当によかった。早く何か食べさせてあげて」と胸をなで下ろしていた。>( asahi.com 2006.11.22 )
 と、報道されているが、<近所の人たち約200人>というのは、やはり少なくないギャラリーだと言うべきである。コイズミ・パンダ並みの水準であろう。それほどに、庶民はこの「事件」が「他人事」ではないと実感していたものと推理される。
 また、<拍手と歓声がわき上がった。>というのは、きっと、庶民たちは、「レスキュー隊」の活躍に、白馬の騎士というよりも「人民解放軍」の姿をダブらせていたと理解できないこともなかろう。なんせ、そのワンちゃんは一匹のワンちゃんには非ず、自分たち庶民そのものであるという切ない認識があったに違いないからなのである。

 「感情移入」に関する話を、まさに感情移入そのままに書いたのだが、しかし、必ずしもこうでもないかな、という不安がよぎらないわけでもない。
 このご時世では、動くマネーが数十億円というような話題でないと「共鳴共感」しない人々も多くなっているのであろうか。「高が、ドジな迷い犬一匹のことで騒ぐことはない」という向きも当然予想できる。だからそう言う人たちには釘を刺しておこうか。
 「あのねぇ、あの犬はね、実はあなた自身の姿でもあるんだよ。何でそんなことが了解できないの?」…… (2006.11.22)


 唐突ではあるが、戦国武将の伊達政宗の言葉に次のようなものがあるらしい。

「この世に客に来たと思えば、何の苦もなし。朝夕の食事うまからずともほめて食うべし。元来、客の身なれば、好嫌は申されまじ」

 実際の政宗はかなりのグルメであったとも聞いた覚えがあるが、まあそれはよかろう。上記の言葉を口にした時には、言葉どおり、些事にこだわるべきではないことを説きたかったのであろう。人の一生は束の間であり、まして戦国の世であれば生命でさえ一時的に預かったものとさえ感じていたのかもしれない。この世にあることはとても永遠なぞと考えられず、束の間の滞在、つまりまるで「客分」のようでしかない、とそう言いたかったのであろう。

 とある本を読んでいて、なぜだかこの言葉が心に残ってしまった。
 昨今、何かと「愚痴」めいた受けとめ方となったり、そこに生じる不快感ばかりにとらわれているような自分が、どこかで気になっていたものかと思われる。そうした姿勢の根底には、結局、自分はもっと正当に扱われ、もてなされるべきだと思い込む、さして根拠のない傲慢な思い込みが潜んでいるのかもしれない。だから、その「べき」感覚が、やたらに環境に対する不快感となり、つまるところ「愚痴」めいた表現を吐露するのかもしれない。
 自分が人間らしく正当に扱われるべきだと思ったり主張したりすることは決して悪いことではないはずである。それを、権利意識だと言ってもいいだろうが、もしそれがなかったら、自身のみならず他の虐げられた人々の解放はまずあり得ないわけであり、したがってこの意識が近代人の大きな特徴だとされているのであろう。
 ところで、現在の時代状況は、確かに尋常ではない悪化の一途を辿っているのが事実でもあろう。また、額面以上に現状を買いかぶったり、意図的に美化する輩も少なくない。いや、まともな危機感を持とうとしない者が多いとも見える。それが、さらに「べき」感覚が刺激され、挙句の果てに「愚痴」としか言えないような思いが促されることにもなっているのだろう。

 しかし、こうした心理状態はとても健全だとは言い難い。まるで、自身の内部に「毒素」を溜め込んでいるかのようだからだ。だから、どうしたものかと思案に暮れてもいたわけである。そんな自分であったからなのかもしれない、近世の武将の上記の言葉が妙にひっかかったのは。
 何も、この世は「客分」でいるに過ぎないから、好きなようにやれば、と突き放そうとしているのではない。そこまで涼しい顔をすることは不可能であろう。
 そうではなく、「客分」としてふさわしい心持(こころもち)になろう、ということなのである。謙虚さ、低い目線、万事隅っこや端っこでよしとする自足感……、そうした心持であれば、さぞかし心安らかになれそうな気がするわけである。こう書いていると、これは何だか、昨日書いた「崖っぷちワンちゃん」と同じではないかという気にもなってくる。でもそのとおりなのかもしれない。きっと、人間以外の動物たちは、どこかで、この世の「客分」としての遠慮や謙虚さをキープし続けているのやもしれぬ。

 ところで、「客」というと、現在のわれわれは、「お客様は神様です」の客、つまりカネを出しているのだからそのように扱ってもらわないと……、と解釈してしまう大きな誤解を招くこともあろうかと思う。いや、むしろこちらの方が一般的であるのかもしれない。現に、こうした「お客様」のつもりで言いたい放題、やりたい放題でこの世にそっくり返っている者たちがやたら多いようには見える。
 ただし、誤解をする人に対しては、じゃあ、あなたは生まれてくる際、どちらの「レジ」でお支払いをされたのでしょうか? と言わなければならなくなる。そんな「レジ」なんぞありはしないわけだ。
 だから、あえて「客分」という、昔の「渡世人」たちが親分衆たちの家に宿を求めたり、軒下三寸を借用したりする際の言葉を使ったのである。もちろん、上記戦国武将の意味したところもこのことであったはずである。
 とするならば、この世の「客分」は、謙虚さが必要とされるだけではなく、「客分」としての「責務」も果たさなければいけないこととなる。まさか、「出入り」の「助っ人」でもなかろうが、この世のご同輩諸氏のためになることを何がしかしなければなるまい、ということにはなろう。

 つらつら、こんなふうに考えると、「この世に客に来た」と考える近代以前の人の心持の方が、「お客様は神様です」を微塵とも疑わない近代・現代人よりも、ずっと道理にあった生きざまであったのではないかと感服するのである…… (2006.11.23)


 「ミイラ取りがミイラになる」
 これは、つい先ほど念のため辞書で再確認したことわざである。辞書には次のような説明がされている。
 「人をつれもどしに出かけた者が、そのまま帰って来なくなる。転じて、相手を説得するはずが、逆に相手に説得されてしまう」

 なぜこんなことわざが気になったかというと、暗い世相を批判的にではあれ見つめていると、どうも自身の感覚さえもが暗く沈んでしまいそうかと懸念したのである。
 しばしば、伝染性の患者を診る医者が、油断をして自身も感染してしまうという気の毒なケースがあるようだ。医者も生身の人間であるのだから大いにありそうなことだと思われる。
 こうした事例までを「ミイラ取りがミイラになる」と言ってしまうのは、やや見当外れではあろう。だが、自分は大丈夫! と過信している者が、対象側に引き込まれるという点においては、あながち的外れでもなさそうな気がするのである。

 とにかく、環境は暗い。いや、こうした判断がつい口に出てしまうのが気になっているのである。昨日も、これを「愚痴」めいた所作だと書いた。そして、自身がもっと低い目線から環境を眺めるようにすれば、多少なりとも「愚痴」っぽさが薄らぐのではないかと思い、「客分」の心持ちとなれるものならなった方が良いかもしれないと思ったわけである。
 確かに、あまり理想的な高い基準を現実に対して振り回してみても、ただただ筋肉疲労を誘い、ついつい「愚痴」っぽくなってしまうだけなのかもしれない。現代という時代ほど、理想から遠ざかってしまっている時代環境はないのであり、そんなことは誰もが承知していることなのであろう。
 必要なのは、理想的基準から何メートルの落差があると騒ぐことではなくて、惨めな事実を事実として把握し、なぜそうなってしまったのか、ではどうすればいいのか、とクールに対処することのはずであろう。

 だが、この「惨めな事実を事実として把握」するということが、結構、辛い作業のはずだと思うわけである。また、この「作業中」において「ミイラ取りがミイラになる」ハプニングが起こらないとはかぎらない、と感じたわけなのである。
 「惨めな事実を事実として『冷静に』把握」するということは、把握する側に相応の力量が必須だと考える。というのも、人というものは、「惨めな」事態に遭遇すると、すぐに弱音を吐き、悲観的となりがちなものだ。場合によっては、取り乱すことも起こるかもしれない。そうでなくとも、口走るではなくて「愚痴」走るものであろう。
 把握する側の「相応の力量」とは、思考力だ分析力だではなく、一言で言って強靭な「楽観性」とそれを支える「熱情」であろうと思われる。もしこれらが「煮えたぎって」いたならば、どんなに惨く、シニカルな対象が横たわっていようとも、まず「ミイラ取りがミイラになる」というようなことにはならない。

 ということで、強靭な「楽観性」とそれを支える「熱情」とでも言うべき「資産」をどう、日々、「利殖」して行くのかという課題が、極めて切実だと感じるのである。この「装備」を怠るならば、人は容易に暗く沈むことにもなろうし、今流行りの鬱病に突入することも他人事ではないのかもしれない。世を憂える人々が、こんなことになったのでは、まさに「ミイラ取りがミイラになる」という悲劇でしかない。
 強靭な「楽観性」とそれを支える「熱情」もしくは、それに代わるしたたかな「心持」こそが、こううした時代の救世主なのであろう…… (2006.11.24)


 今日はなんとなく晴れた正月を思わせるような日和である。冷たく爽やかな空気に明るい陽射し、そしてくっきりとした影がいかにも冬といった光景を作り出している。枯れた庭木に数羽のメジロが寄って来てせわしなく鳴く。それだけが、ピタッと止まったような静かな雰囲気を心地よく破っている。こうなると、空を見上げると、凧なんぞが風を受けて舞い上がっていそうだし、横丁の通りから、年賀状配達のアルバイト学生が赤い自転車を走らせてでも来るかのようだ。
 どうしてこんな感じだと正月を思い起こしてしまうのかと、われながら不思議な気がした。きっと、今日は気分がリフレッシュされているのだろうと思ったりする。
 確かに、今朝は十分な朝寝を決め込んだ。最近は、土曜日の朝はムリをせずにゆっくりと朝寝をすることにしている。夜更かしが習慣になっていた若い頃のように昼過ぎまで起きないというようなことにはならないが、週に一日くらいの朝寝はあってもいいだろうと思いそうしている。

 冬らしい日和に正月を思い起こすといえば、そもそも思い出というものには季節感が伴っていそうだ。いや、季節感が思い出を呼び覚ますのだと言ってもいい。どちらにしても、記憶というものは、五感や肌身で感じた感触と密着しているのではないかという気がするのである。
 何度も書くように、生活の中のさまざまな香りや臭いが思わぬ記憶を呼び覚ますということはしばしば経験するところだ。犬にかぎらず動物たちが、臭覚によって彼らにとって大事な事柄を識別しているところをみると、きっと臭覚が記憶群の重要な「インデックス」となりやすい感覚であるのかもしれない。
 さらに言うならば、臭覚という五感の一つだけが記憶と結びつきやすいというのではなく、そもそも記憶とは、無味乾燥な抽象物ではなくて、五感の感覚と密着したものではないのかという思いがしている。
 そう言えば、誰かが書いていたことを思い出した。何かを暗記する際に、身体の痛みのイメージと結びつけると記憶が深くなるとか……。ありそうな事かとも思える。誰でも「痛い目に遭う」と忘れ難くなるというものであろう。これが悪用されると、お仕置きであるとか幼児虐待であるとかのおどろおどろしい問題となってしまう。
 ただ、痛みだけが感覚の指標ではなかろう。その逆の快感や心地よさだって十分に記憶を支援するはずであろう。動物の調教で首尾よくこなした際にご褒美として好物が与えられるのはその好例だと思われる。

 先日、ふと考えたのであるが、現代人が暮らす環境は、自然環境から人工環境へと変化する過程で、五感への刺激という環境から記号・象徴という言語的構成物の環境、つまり情報環境へと変化し、置き換えられてしまうことになった。季節感が薄れたという事態はまさにそれである。それによって、記憶のあり方そのものにも変容を来たすことになっていはしないか、と考えるのである。
 たとえば、臭覚にこだわる自分としては、街が清潔でスマートになることは歓迎するものの、街から臭いが消えてしまったことにはなはだ不愉快さを感じている。いや、それだけではなく、何か空々しさを感じ、疎外された思いにさえなり、「浦島太郎」の気分となることさえある。つまり、何の記憶も呼び覚まされないような環境にあって、途方に暮れそうになるということである。
 街という存在のエッセンスは、祭りや夜店の通りのように、食欲をそそるような原始的な臭いが渦巻いているものだというような先入観を持っているのである。そうした臭いが、過去の記憶のさまざまな光景を呼び起こし、それらと現状の光景とがジャムセッションするかのようになり何がしかの興奮が増幅されるのが、それが街だと勝手に思い込んでいるのだ。

 イカの姿焼きや焼きトウモロコシの臭いの話はともかく、現代の環境には、どうして記憶と親和性の高い五感的な情報が駆逐されてしまっているのかと思い、そのことはきっと人々の記憶のあり方の構造に重大な変化をもたらしているに違いないと想像しているのである。
 ただ、五感的な情報の中で、ビジュアルな視覚刺激やサウンドなどの聴覚刺激といったものは、現代環境の中に旺盛に取り入れられていて、逆に感覚を撹乱するくらい溢れているのかもしれない。これらが、記憶を構成する五感要素の中でがんばっていると言えそうだが、臭覚、触覚、それから味覚という「接近戦」(要するに、これらはITによっては「伝送」され難く、「接近」した空間でだけ機能する感覚だと言える)の感覚が薄らぐ環境では、人々の記憶力は弱体化する傾向を帯びるのではないかと、いいかげんなことを想像するのである。
 少なくとも、マス・メディアによって増幅され伝送され続ける視覚、聴覚の大量情報から多大な影響を受け、臭覚、触覚、味覚というローカルな個別刺激が薄らぐと、個人としての記憶そのものが貧弱なものと化すように思える。

 積極的に記憶、思い出を掘り起こすことに努めてみたいと思うのは、別に、歳をとったからというわけではなく、上述のような思いがありそうな気がしている。
 それにしても、個人としての「接近戦」で蓄積した記憶が貧弱で、覚えていることときたらマス・メディアを通して得た時代情報ばかりというのでは、生きる活力は乏しくなる一方のような気がする…… (2006.11.25)


 昨日、思い出だとか、浦島太郎だとかと書いたものだが、その後、さっそく浦島太郎の心境を味わってしまった。
 夜、あるTV番組で「奇跡の街『北品川』でタイムスリップ」と称して、江戸情緒を「奇跡的に」残している街として北品川が紹介されていたのである。(『出没!アド街ック天国』)
<不思議な街です。品川駅を降りて見上げれば摩天楼、しかしその隣に広がる江戸の気配……>とのナレーションで、品川駅周辺の摩天楼から、高層ビルで囲まれて窪地のようになった北品川方面の一角が映し出された。かと思うと、天王洲運河に掛かるあの懐かしき北品川橋が大写しとなる。そして、その橋を、ランドセルを背負う3人の小学生の女の子たちが台場小学校の方へと渡って行く。
 左下方には、旧目黒川が流れ、その向こう岸には目立つ高いビルの足元に位置する恰好で古い二階建ての木造住宅が見える。文化財に指定されて保存されているかつての北品川の建物たちである。
 嗚呼、自分も、かれこれ半世紀前にはその子たちと同様に、朝の通学ではこの橋を小走りに渡ったものだった……、この橋の手前の川岸では海苔養殖の漁師の家が朝などは焚き火をしたりしていたものだった……と、感慨に咽ぶ思いにさせられた。
 いいぞいいぞ、今夜は、居ながらにして北品川の思い出風景を満喫できるわけだな、と手揉みなんぞをする体勢となっていた。

 が、残念ながら感慨と期待はそこまでで打ち止めとなってしまった。勝手な思い込みと期待をしてしまった自分が愚かであったということか。
 番組では確かに、現在の北品川の特徴となろう光景をあれこれと伝えてはいた。まあ、番組の性格上、商店、しかも食べ物店の紹介が中心となってはいたが、それでも江戸時代からの伝統という線に沿って地域の特徴的光景を紹介していた。
 その中には、自分の思い出にも残っている店の名前がいくつか出てきたりした。が、何の感慨も呼び覚まされはしなかったのである。へぇー、そうなの、といったふうでしかなかった。
 それも当然のことであろう。思い出が呼び覚まされる何の片鱗も映像からは見出せなかったからなのである。自分はというと、もはやそんなはずがあるわけもないのに、半世紀前の店舗の佇まいを期待していたのである。が、映像が見せるものは、どこの地域でも見られるありきたりな現代風の店舗以外ではない。ナレーションは盛んに、江戸情緒が残るどうのこうのと取って付けたようなセリフを並べ立てるが、それを聞けば聞くほどに、感慨どころか、白けた気分となる自分なのであった。
 しかも、万事が万事そんな佇まいの街並みとなっているからか、カメラが映し出す一角が一体どこなのか見当がつかない。まあ、現地を歩いてみるならば、さすがに納得するのではあろう。思い出の光景と現在のそれとが道路などの地理的なものから対照させられ、なるほどと了解できるはずである。が、TVカメラの視界で切り取られた映像だけでは、どこがどこやら判別できないのである。

 ということで、白けた気分は、やがて浦島太郎の心境とでもいう不安感に急接近していくことになってしまったのである。「ふるさとは遠くにありて想うもの」という言葉さえ浮かんで来る始末であった。
 しかし、「奇跡の街『北品川』」というフレーズは、やはり歯が浮く表現ではなかっただろうか。「地域起こし」のためであるのか、地域部外者への観光的メッセージでしかないような空々しさを感じてしまった。
 もし意義深い「地域起こし」というのであれば、まさに地付き、地元の人々が中心となって、主役となって後戻りしない形での運動、展開が望まれよう。だが、この番組の映像で見るかぎり、「北品川」=「江戸情緒」をスローガンにした「外人部隊」が次第に新規参入してきているような印象がないでもなかった。それはそれで文句を言う筋合いのものではなかろうが……。
 もう北品川を出て、半世紀にもなる人間が口幅ったいことは言えないであろう。どんな形にせよ、先ずは地域経済の成り立つことが、確保されるべきだということか。

 ただ、この番組で映像化された「北品川」は、自分の思い出の北品川とは8割、9割が別物となっている印象が拭い切れなかったのは事実である。
 別に、自分の北品川にあっては、ことさら「江戸情緒」がどうこうと恰好をつけたイメージはいない。それもなかったわけではないが、それ以上にあったのは、汚くも、また中途半端でも、ずっしりとした生活感を伴ったリアリティである。たとえうだつが上がらずとも、江戸時代から代々続いてきたさまざまな職人さんや漁師さんたちが、年老いながらも気を張っていたそんな北品川である。
 木造の古く汚れた店舗の佇まいというのも、自分勝手なノスタルジーから要求しているのではなく、それらこそが、風雪に耐えつつ暮らす人々の実感と共鳴している光景だと思えるからなのである。
 つまり、街というのは、そこで暮らし続けた人々の生活と文化が実体であり、リアリティであり、それらが充実する場合に、街は輝くはずである。仮に観光地として栄える場合にも、それらが基盤、背景にあった上でアピール度の高いサービス財がある場合と、取って付けたようなモノが並べられる場合とでは、ロングスパンでの人集めで大きな差がでてくるのは、各観光地の実例が示しているかに思われる。夕張市の例もあることだ。

 しかし、地域の発展という課題は、こんなご時世にあっては至難の業と言うほかなく、それが達成されればまさに「奇跡の街」ということになるのは間違いなさそうだ…… (2006.11.26)


 仕事中、視界の隅の窓外に何やら朱色の玉が動く気配がした。その方に視線を向けると、カラスが丸ごとの柿を嘴に突き刺して、今、電柱の一角に陣取ったところだ。嘴で挟んで咥えるには大き過ぎるためか、どうも嘴で「串刺し」さながらに保持しているようである。
 が、電線に掴まってたままでの姿勢では何ともし難いと見える。足が自由となる場所が欲しいところなのであろう。キョロッと脇の家の二階の屋根の方に顔を向けている。
 なるほど、屋根の上でその柿を突き回そうという魂胆だな、と思えた。やがて、その方へと身を翻し、一度姿が見えなくなった。と、こちらからも良く見える屋根の縁に姿を現した。先ほどの姿、柿の「串刺し」状態そのままである。まるで、わたしに見えるようにというわけでもないのだろうが、こちらからはその仕草がつぶさに覗けた。
 どうも、「串刺し」の柿がうまく外れないようで困っているようにも見える。嘴からやや重そうな柿を垂らしながら、何回か左足でその柿にケリを入れるような仕草をしている。すると、やっと外れた。が、その柿は、屋根の斜面をコロコロと転がって、あっという間に4、5メートル下のアスファルト道路に落ちてしまった。ありゃありゃ……。
 カラスは、さぞかし残念な心持でいるのだろうと想像した。いや、それとも嘴に「食いついた」かのような状態となった柿が外れてホッとしているのであろうか。それもありそうだが、嘴が自由となった暁には、せっかく運んだジューシーな柿を突きまわして喰おうと思ってもいたに違いなかろう。それが、おにぎりコロリンのごとく、地上に落ちてしまったのだ。
 どうするだろうか? 拾いに行くのかな? と、自分はそのまま眺めていた。ところが、しばし「熟考」するがごとく静止していたそのカラスは、ほどなく飛び去って行ってしまった。潔く諦めた模様なのである。
 落ちたその柿を拾いに行ったところで、またまた「串刺し」の恰好でないと安全な場所には運べない。とすれば、またまた嘴から柿が「外れなく」なってしまいかねない。そこでまたジタバタしなければならなくなる。そんな面倒なことを繰り返すのも億劫だな、とまで考え及んで、まあここは美味そうにも見えた柿を見限るべし、と判断したものであろうか……。

 しかし、通常、カラスなどの野鳥が柿の実を喰う場合には、枝に付いたままの柿を、嘴で啄(ついば)むものではないかと思う。その方法が最も効率的な喰い方というもののはずである。
 それを、一個まるごと「お持ち帰り、テイクアウト」というのは、きっと何か事情があったのかもしれぬ。その柿木の傍には、ケチ臭くてうるさ型のオヤジなんぞが居て、いつ脅かされるかもしれなかったのであろうか。
 それとも、落ちて転がっていた鮮やかな朱色の柿がとても魅力的に見えたのであろうか。そう言えば、カラスはどうも目立つ色の丸い物体が気になるようである。ビー玉などに関心を持つのがカラスのようだ。いつであったか、ゴルフに行った際、自分は黄色の蛍光色のゴルフ・ボールを使ったことがあった。下手なために、ラフに飛び込むことをあらかじめ想定してのことであった。
 ところが、その蛍光色のゴルフ・ボールを、カラスがいたく気に入ってしまったのだった。立て続けに三回も、持って行かれたのである。それは、愛犬が投げたボールを走って取りに行くように、自分がティーショットをすると、飛び上がったゴルフ・ボールを羽ばたいて追っかけるのだから、驚きと笑いが止まらなかった。
 カラスというのは、生ゴミを漁って散らかしたりして嫌われものでもあるが、わたしにとっては、心なごませてくれるヒョーキンものの野鳥なのである…… (2006.11.27)


 今日の陽射しは、まるで冬の日本海側地方のようにパッとしない。
 朝の出掛けに、家の外灯が点いていたことでもわかる。その外灯は、屋外の照度に反応する光センサースイッチで点灯したり消灯したりするように設えてあるのだ。曇天であまりにも薄明かりであるため、センサーすら感知しない模様なのであった。やれやれ、鬱陶しい一日になりそうだと気分が凹む思いとなったものだった。
 案の定、厚い雨雲で被われた空は、一向に変わり映えせず、おまけに小雨まで降ったり止んだりとなり、実に情けない天候の一日で終りそうである。気温が低くないのがせめてもの救いだと言うべきか。

 相変わらず、TV番組で貴重だと思われるものに関しては自動録画を仕掛けて、そのうちでなるほどと思われたものはDVDに焼き込むという自分なりの効果的な情報収集を行っている。
 「百聞は一見に如かず」(何度も聞くより、一度実際に自分の目で見る方がまさる)と言われるが、確かに、TV番組のような映像と音声で構成された情報コンテンツは、「何かがわかる」という点では、やはり効果的なものであろう。もちろん、それですべてがわかるというものではありえないが、対象に接近するための「視点」とでも言うべきものを得るには十分でありそうだ。
 ただし、放送となると放映時間という制約のあるのが難点となる。そこで、この点を自動録画のような形でクリアするならば、これを活かさない手はない。ということで、自動録画したコンテンツを、多少手間はかかってもスマートな入れ物であるDVDに焼いているわけである。
 DVDというメディアがまた、その薄く小さな質量に対して、驚くほどの情報量を蓄えることができる現代ならではのメディアであり、感心させられる。書籍に較べればもちろんそうだし、他のITストレージ(外部記憶装置)と較べても、群を抜いている。やがて、メモリ・チップがさらに安くなったとしても、コスト面ではDVDのような光学処理メディアの安さにまでは行かないはずであろう。さまざまなストレージに色目を使ってきた自分としては、ひとつの到着点だろうと感じている。

 そんなことで、大袈裟に言えば、溢れる情報の環境にあって自分はこの「DVD作戦」によって、どうにか自分なりの情報処理ができそうかもしれないという気がしている。
 現在、録画選定をしているものは、科学や社会のドキュメンタリー番組が多い。だから、どうしてもNHKが中心となる。また、最近のNHKは、『知るを楽しむ』というような、ちょっとした興味深いテーマをシリーズで流している。これらも撮りまとめてDVDに編集してみると結構見ごたえのあるコンテンツであることがわかる。
 決して、思索の材料となるような堅苦しいコンテンツばかりを録画しているわけでもなく、ちょっとしたドラマや映画もレパートリーに入れている。このジャンルは、レンタルビデオ屋で借りたものを活用することも少なくない。池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズについては、ここだけの話ではあるが、全作がマイ・ライブラリーとして収まってしまったほどである。

 ここまで、私製DVDに入れ込むと、他人さまにもお薦めしたくなるのが人情となる。というのも、DVDはいわゆるビデオであり、手軽に観ることができるため、多少なりとも負荷を背負うような読書を薦めるよりは話が通りやすいからである。これからは、お年寄りが周囲に多くなる時代だとすれば、本を薦めるのもいいが、老眼という難点を考慮するならば、よいコンテンツのDVDビデオの鑑賞を薦めるのは悪くないと考えている。
 で、さっそく自分は、高齢の知人にとある私製DVDビデオを献上しようとし、話の成り行きでコンパクトなビデオ・デッキまで添えて送ることになったものである。今や、ビデオ・デッキも再生機能だけのものであれば信じられないほどの低価格となっているため、こんなことも可能となるわけである。ただ、ここでの問題点は、相手さまのTV装置に、ビデオ・デッキを配線するという作業なのであり、この点ばかりは高齢者自身のみではムリだと判断せざるを得ない。何とか手を考えるべしである。

 実のあるコミュニケーションを望むのならば、DVDビデオのようなマルチ・メディアを通してよりも、生身で接する会話が良いに決まっている。しかし、そうしたシチュエーション設定が結構難しいのも事実であり、とすれば、誰もが日常的に受け容れているTV鑑賞の延長線上にあるDVDビデオ鑑賞を活用するというのもひとつの現実策なのかもしれない…… (2006.11.28)


 先日、自民党政治を切り崩す願いのもとに、以下のようなことを書いた。

< 今回の知事選挙( 注.沖縄県知事選挙のこと)は民主党なども、来年の参議院選挙に向けた今後の重要なアプローチと位置づけていたようだが、それで負けてしまったのでは、「選挙の守護神」と持てはやされて来た小沢代表も辛いところであろう。
 しかし、どうも形勢は逆転しそうにないような気配が強いのかもしれない。それと言うのも、「民主党のマス・メディア戦略」が見えてこないからである。確かに、選挙は「足で稼ぐ」という組織戦略が基本ではあろう。だが、浮動層をどう取り込むのかという点においては、追い風的な空気をどう醸成するかという点が絶対に欠かせない。そして、この面では、現時点でマス・メディアが果たしてしまっている「御用提灯!」的機能を放置していたのでは埒があかないと思われる。ここに切り込み、釘を刺すなり、独自なキャンペーンを張るなりしてゆく、そんなマス・メディア戦略がどうしても必要なのではないかと思われてならない。要するに、それほどまでに現在のマス・メディアの常態は、真面目さと中立性を失い、政府与党のベクトルに沿ってしまっているのだと観測する。>( 2006.11.20 の当日誌 )

 別に民主党関係者がこれを読んだわけでもなかろうが、この主旨に呼応するかのような民主党サイドの動きがあるようだ。今日の報道で以下のような記事が目についた。

<女性・無党派つかめ! 民主が「戦略特命チーム」
 民主党は28日、来年の参院選に向け、女性の支持率アップや無党派層取り込みに効果的な選挙対策を打ち出す「戦略特命チーム」(仮称)を発足させることを決めた。テレビコマーシャルの企画案の公募も始めた。
 特命チームは菅直人代表代行が中心。懸案である女性の支持率の低さの原因を解明し対策を練るほか、昨年の衆院選で小泉前首相にお株を奪われた無党派層対策に取り組む。世論調査の分析や有識者の意見を踏まえ、支持回復を目指す。
 テレビCMの公募は千葉景子・党広報委員長が小沢代表から「選挙を照準に党をアピールしよう」と指示を受け着手した。「今までの広報に欠けていた、女性の支持も得られるアイデアを頂ければ」と千葉氏。CM公募の締め切りは12月6日。問い合わせは党本部広報委員会(03・3595・9927)へ。>( asahi.com 2006.11.29 )

 きっと、こうした発想は、いわば自然発生的に生じてくるものなのであろう。あまりにも悲惨な社会的現実が、結局は「自民党長期政権」による溜まりに溜まった「澱(おり。液体の底に沈んだ滓[かす]。おどみ)」に根ざすと直観し、マス・メディアもまたこの「澱」にしっかりと竿差していると良識人は見るはずである。とすれば、とにかく、マス・メディア空間に対して「丸腰」で臨むことは、いかにも無防備過ぎるといわなければならない。
 まともに深く考えることを言い広めていくことは王道ではあるにしても、このご時世では、「アテンション・プリーズ!」というような「イントロ」風を何とかして吹かさなければ、話にならないという空気がありそうだ。言っては何だが、庶民をあまり買いかぶってもいけない。侮ってはいけないのはもちろんだが、だからと言って、庶民が「賢い」人々で占められているわけではない。まして、日本の明日をじっくりと考えるほどの余裕なんてものは持ち合わせてはいないだろう。それほどに、余裕を奪われ、困窮に急かされ、おまけに「まやかし」の政治的プロパガンダに翻弄されている。
 だから、与党側が思う存分に駆使しているマス・メディア環境を野放しにしていては、「赤頭巾ちゃん」の庶民はいいようにあしらわれ続けるであろう。野党側勢力がしなければならないことは、政権をとったらではなく、今すぐ緊急避難的にやらなくてはならないことがあるはずなのである。

 それは、庶民みなが薄々感じ取っている「今の時代、社会は何かおかしい」という気分に、きっちりとした大黒柱を提供し、庶民の疑問を疑問としてしっかりと定着してもらうことなのであろう。
 リアルに言うならば、現在の庶民感覚は、尻尾を丸めた負け犬根性にかぎりなく接近させられている。巨大な時勢の動きに対してはすべてが虚しいと無力感に浸らされているのやもしれない。高齢者もさることながら、本来がエネルギッシュであるべき青少年たちがとことん叩かれて萎縮させられている。そして、持って行き所を失った負の感情を、より弱き者たちにぶつけるという破廉恥な行為に流されているのかもしれない。
 こうした状況を醸し出している原因のうちで、黙殺できないのは、善悪の基準がほぼ完全にメルトダウンさせられてしまっていることであろう。善悪の基準とは、「(人生)いろいろ」であるように、あってないようなものであり、要するに「経済的価値」、つまるところカネがすべてなのだと、結論めいたものが出されてしまっている現実である。これが、善悪の判断をきわめて効率的に「撤廃!」してしまったというのが、実態のようである。

 自分は、民主党という政党を全面支持するものではない。そんなことはどんな政治勢力に対しても言えることである。政治的判断とは、差し迫った状況の「関数」なのであり、信仰ではないはずなのである。まして、悪制度「小選挙区制」が既成事実である以上、現在の最悪の時代状況、「にくいしくつう」そのままの社会に風穴を開けるには、自ずから選択肢がかぎられてくるはずであろう。
 ただ、民主党の「戦略特命チーム」の勘所は、「テレビコマーシャル」が爆発するためにも、幅広い市民運動、文化運動を巻き込んでゆくことではないかと思える。
 「武士の一分(いちぶん)」のキムタクを起用して、当然、山田洋次監督続投で、「庶民の一分」、「青年の一分」、「主婦の一分」など「あなたの『一分』は立っていますか?」シリーズを連作してもらうのもいいかもしれない…… (2006.11.29)


 「トリッキー(tricky 他人をトリックにかけるようなさま。)」という言葉が、頭の中でコロコロと転がり続けた一日であった。いや、とりわけ誰かに「わな」を仕掛けられて嵌められたということがあったわけではない。
 今の時代の毎日の出来事が、何だか公明正大ではなくて、恥も外聞もない小賢しい輩たちが、ただただ帳尻合わせで蠢いている、そんな気配が濃厚だと言いたいのである。

 朝一番、こんな気分醸成の口火を切られてしまったのは、ロシア関連のおどろおどろしいニュースをクルマの中で耳にしたからかもしれない。詳しく知りたくもない話題だが、ロシアの元情報将校が変死して、体内から放射性物質が検出されたとかであり、プーチンロシア政権下での不透明な恐怖政治的状況を彷彿とさせる。誰の仕業だかは知らないが、旧KGB(国家保安委員会という情報機関・秘密警察。現ロシア大統領プーチン自身もこの出身者である)関係者の変死というのはいかにもトリックの塊(かたまり)であるような印象を受けてしまう。
 しかし、トリックは今や、別に塊となって現われなくとも、世界中どこででも散見できるし、この国でも政界はもちろんのこと、日常生活圏にあっても、あたかもトリックが常套手段として使われているようである。まさに、時代は「トリッキー(tricky)」な空気で満ち満ちていると言っても過言ではなかろう。

 「教育基本法」改正とやらが、実質的には国民が十分に吟味できないままになし崩し的に法制化がなされているのも、「トリッキー(tricky)」な印象が拭えない。「やらせ」タウンミーティングなぞは「トリッキー」というよりも「トリック」そのものだ。おまけに、こうした不祥事を解明する前に同法の採決を行ったり、政府が関与しているとの非難をかわすべく「とかげの尻尾切り」的措置で済まそうというのも「トリッキー」でしかなかろう。
 かと思えば、今日は、<防衛庁の「省」昇格 衆院を通過>とある。

< 防衛庁を「省」に昇格させ、自衛隊の海外活動を本来任務へ格上げする防衛庁設置法や自衛隊法などの改正案が、30日の衆院安全保障委員会で自民、民主、公明などの賛成多数で可決された。……
 法案が成立すれば、防衛庁は来年1月上旬にも「防衛省」となり、防衛庁長官は「防衛相」に格上げされる予定だ。これに伴い、今まで形式上、首相を経ていた法案提出や、海上警備行動発令の承認を得る閣議要求などは、防衛相が直接行うことになる。さらに、自衛隊の国際緊急援助活動や国連の平和維持活動(PKO)、テロ対策特措法やイラク特措法に基づく活動、周辺事態での後方支援などが国土防衛や災害派遣と同等の本来任務に位置づけられる。……>( asahi.com 2006.11.30 )

 これだって本当に国民は、この国の軍隊が「格上げ」されて、より大きくなって行くことを望んでいるのだろうかという点が重要だ。その点が国民的合意として再確認されていないにもかかわらず、先ずは目立たない単なる組織変更であるかのような印象を醸し出しながら、<防衛庁を「省」に昇格>させるのだという。このところの現政府の振る舞いは、万事が万事、こうした「トリッキー」な手口で色濃く染まっている。
 この調子だと、現実の戦争であっても、巧みな「トリック」で国民の目を逸らし、「トリッキー」な手口を重ねながら、戦線を拡大していくという雪崩れが容易に発生しそうである。かつての日本軍が満州で展開した「トリック」的侵攻が簡単に再現されてしまうとと危惧するのは、心配性の杞憂だと言い切れるのであろうか。
 憲法「改正(=改悪)」をでっち上げるために、どんどんと外堀を埋めている気配であるが、まさにこれは「トリック」好きの家康が旧豊臣に行った「冬の陣」「夏の陣」で大阪城の堀をあっという間に埋め立ててしまって城を丸裸にしたのときわめて良く似ていると思えた。

 こうした、政界での「トリッキー」な仕業は、その臭気を撒き散らかすがゆえに、社会生活平面には大小さまざまな「トリック」が蔓延していそうである。
 金融経済界は、もはや「トリック」有り、が「折り込み済み」となっているようでもある。ライブドア事件、村上ファンド事件で被告人たちが、進行中の裁判で「居直る」かのような姿勢で挑んでいるのは、現在のこの国の風が、誰もが実感する「トリッキー」な臭気で満ちていることを彼らなりに踏まえているからであるに違いない。
 ひょっとしたら、彼らは、「オレが悪ならば、もっとドデカイ悪が政界には日常茶飯で蠢いているし、昨今の庶民もまた、えげつないことを平気でやり始めているんじゃないの……」とでも言いたいのであろうか。特別な皮肉でもなくてこんなことが想像できてしまうところが、現時点の危機的状況だと思われてならない。
 今や、「迷惑メール」の実態も凄まじいものとなっており、あらん限りの「トリック」を弄して人を欺き、利を得ようとするものたちがわが物顔でのさばってもいる。

 『うそつき病がはびこるアメリカ』(デビッド・カラハン著、小林由香利訳、NHK出版、2004.08.25)という本については、何度も取り上げてきた。( ex.2005.01.18)
<いまやアメリカでは、あらゆる人がうそをつき、ズルをしている。罪悪感はほとんどない。理由はただ『みんながやっているから』。そうしないと生き残れない、極端な競争社会になってしまったのだ。この国のいたるところに蔓延する不正は、どんな将来を指し示しているのか。……>
 「うそつき病」がはびこって構成される社会こそが、「トリッキー」な空気に満ち溢れた社会だと言うべきである。
 人々が、合理的に思考することをやめて、ただただ他人の目を欺くことだけに意を払う社会は、確実にもうひとつの「格差社会」を形成して行くのであろうか。
 「欺き上手であり、心なんぞを捨てた勝ち組」階層と「心を持つがゆえに鬱病にも接近して行く負け組」階層とへの二分化である…… (2006.11.30)