[ 元のページに戻る ]

【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2006年10月の日誌 ‥‥‥‥

2006/10/01/ (日)  「急ぎ働き」もほどほどにしてもらいたいもの……
2006/10/02/ (月)  「ブレたら負け」の「プロ」たちの間でどう生き抜く?
2006/10/03/ (火)  「思い出せない記憶」に着目することこそが重要なのか……
2006/10/04/ (水)  人間特有の能力・産物と、動物たちの本能的能力……
2006/10/05/ (木)  出世をあきらめた者、よほどの野心家、はたまたかなりの変わり者……
2006/10/06/ (金)  「におい・香り研究」続編……
2006/10/07/ (土)  将来の自分は、今の自分をしっかりと継承するとは限らない?
2006/10/08/ (日)  「切迫」⇒「切実」⇒「切なさ」というトリアーデ……
2006/10/09/ (月)  常軌を逸し続ける北朝鮮の選択に関して考えること……
2006/10/10/ (火)  ようやく、ゴキブリ退治の「仕掛け」を弄してやった……
2006/10/11/ (水)  「ケータイ」をメモ帳として使い倒してやろうかと……
2006/10/12/ (木)  対北朝鮮制裁措置への雑感
2006/10/13/ (金)  ますます侮れなくなったケータイという存在……
2006/10/14/ (土)  ありふれた場所に潜む、孤高のプロフェッショナル!?
2006/10/15/ (日)  「ゼロ・サム」社会の影が濃厚となりつつある現在……
2006/10/16/ (月)  「心細さ」の感覚は人間の原点なのかもしれない……
2006/10/17/ (火)  時代が落として行く「バックログ」はビジネスのネタにもなるはず……
2006/10/18/ (水)  こじれにこじれてしまったこの時代環境……
2006/10/19/ (木)  烏曰く、「烏を鷺(さぎ)と言いくるめるのは人間たちじゃないか!」
2006/10/20/ (金)  きな臭い時代におけるジャーナリズムはまともであるか?
2006/10/21/ (土)  この国のTV局も「なめたらいかんぜよ」
2006/10/22/ (日)  気分のセルフコントロールを、もっと丁寧にすべきか……
2006/10/23/ (月)  意外としぶとく、まるでゾンビの印象さえ与えるTV……
2006/10/24/ (火)  「一冊1円」、一冊あたりの「配送料、その他」が「¥340 」?
2006/10/25/ (水)  朝晩の冷え込みは、ちょうどよいシリアスな空気?
2006/10/26/ (木)  変革はあり得ず、嘘八百の「カイカク」のみが虚ろにこだまし続ける……
2006/10/27/ (金)  赤ちゃんが、目から鱗が落ちるようなことを教えてくれる?
2006/10/28/ (土)  温泉地の「貸切」ホテルで過ごした休暇?
2006/10/29/ (日)  自分だけでも自分の才を信じ続けるという熱さを持つこと……
2006/10/30/ (月)  「変わり者」の率直なたわごと……
2006/10/31/ (火)  「変化地獄」の土俵の上で……






 多分、今日の日誌は今日中にアップロードすることができないようだ。
 朝からインターネット接続が不能なのである。自宅のネット環境は都合で通常電話回線としているが、その回線につないだ自宅のPCの複数台いずれもが接続不能となっている。昨夜までは何の異常もなかった。また、プロバイダーからメンテナンス工事の通知があったわけでもない。おそらくは、プロバイダー側のサーバーが何らかのアクシデントによって回線不通となってしまったか、サーバー自体がダウンしたかなのであろう。

 日頃、インターネットに依存し切っているとこんな場合に、まるで手足をもぎ取られたような感じとなってしまう。プロバイダー側の状況を確認しようにも、回線不通となっているのだから手の出しようがないわけだ。
 以前は、こんなリスクに備えて予備のプロバイダー契約もしていたのだが、現行のプロバイダーのトラブルが減少するに及びそうした予備も解除することにしてしまった。だから、こんな時にはお手上げ状態となってしまう。
 いろいろと他の手も考えられるのだが、なんせ自宅には当該プロバイダー関連の資料も持ち帰ってないため、そうした手を使うこともままならない。
 幸い、本日は、着信メールの確認以外にはこの日誌のアップロードくらいが予定作業なので、まあしょうがないかと諦めつつある。

 考えてみると、今日は10月1日であり、ひょっとしたら何らかの環境変更があったのだろうか。もしそうならばそのような通知があって然るべきだが、覚えがない。接続電話番号の変更などは相応の重みある通知をして当然であろう。
 いまひとつ想定し得ることは、環境変更に伴う人為的ミスが発生したのではないかという点である。これがありそうだと邪推しているところだ。
 先日も、あるメジャーなアプリケーションソフトで不具合と思しき点があり、メールにて問い合わせたところ、会社の資本関係の変更に伴い当該システムの担当者が不在となっているとの返答が返って来た。組織変更に伴う組織的な不備がソフトのアフターサービスを滞らせていたという按配なのである。
 昨今は、経済状況の変化に伴いソフト関連会社もてんやわんやのようである。われわれも、ソフト関連業種であるため、この辺の事情はわからないわけではない。ソフトを出来合いのモノのようにイージーに扱う経営体の危なっかしく、かつ無責任な風潮がかなり危険なことだと日常的に感じているのである。ソフトはイコール人材による賜物であるため、おいそれと場当たり的な切った貼ったの組織変更対応では対処し切れないという気がするのである。

 ユーザーの事情よりも、経営の内部事情が実質的に優先視されてしまう情けないご時世である。要するに、経営者は、業務に関わるユーザーに顔を向けるよりも、経営内部もしくはオーナーや株主の方を見て、そして気を遣っているのであろう。収益優先という姿勢がいつの間にか当然視され、そして、そのつけを不特定多数のユーザーに振り向けてしまうというお粗末さがまかり通りつつある。現在、世間を騒がせている企業の不祥事はどうもこの手合いの仕業のように窺がえる。「急ぎ働き」もほどほどにしてもらいたいものである…… (2006.10.01)


 CMのセリフに「ブレたら負け」というのがある。
 カメラが好きな自分としては、「ブレ」た写真ほど不快感が催されるものものはないため、当然、手ブレ防止機構が搭載されたカメラには好感を持つ。露出不足の写真は何とか補正が利くものだが、「ブレ」た写真はほとんどどうにもならない。
 いくらカメラのホールディングをしっかりとしても、絞りを開放し、シャッター速度を遅くせざるを得ないような照度不足の際には、不可避的にブレが生じてしまう。と言って、しっかりした三脚を常々持ち歩くというのも現実的ではない。だから、手ブレ防止機構というのはありがたいわけだ。

 ところで、「ブレたら負け」というセリフには、妙にリアリティを感じる。と言っても、写真の話からは離れる。いわば、人の能力や資質に関しての話となる。
 何にせよ「プロ」と呼ばれる人々の実力というのは、その「成果」に「バラツキ」がないという意味において「ブレ」が追放されてと思えるのである。
 簡単なたとえを出せば、相撲の横綱、朝青龍(あさしょうりゅう)が誰にでもわかりやすい「プロ」であろう。生身の人間であるから、隙やミスを皆無とすることはできない。だが、実に安定した身体の運びや「技」、そしてその「姿勢」は、決して観客をハラハラさせることがない。まるで相撲マシーンのごとく、「ブレ」という脆弱なものを寄せつけないようだ。

 スポーツでは、結構、この「ブレ」というか「バラツキ」というか、要するに不安定さをどう抑制するかが大きな課題となっていそうである。いわゆる「フォーム」の安定性が強調されるのも、安定した「フォーム」からは安定した「成果」が打ち出される確率が高いからに違いない。プロ・ゴルファーや、プロ野球のバッターのスイングを見ていても、どうしてあれほどに判を押したような同一フォームが再現できるかと感心してしまう。
 きっと、表舞台の陰には、文字通り血の滲むような数の繰り返しトレーニングが隠されているのだろうと想像する。確かに、プロとなれるプレイヤーには天賦の才があるのだろうとは思うが、そのパワーだけでは、コンスタントに「成果」を弾き出し続けるとは限らないだろう。優秀な「成果」を出す時と、そうでない時との「バラツキ」が眼も当てられないのであれば、観衆はそのプレイヤーを愛することはあっても、「プロ」だとして安心させてもらうことはできないであろう。

 「ブレ」たり、「バラツキ」が出たりするのは、きっと「フォーム」だけではないだろうと思う。勝負師たちにとっては、ここ一番という晴れ舞台では、何よりも気持ちのありように「ブレ」や「バラツキ」がつきまとうのではなかろうか。揺らぐそれをもビシッと制御し切れば、それこそ完璧な「プロ」だということになろうが、人間の内面ほど揺らぎやすいものはないように思える。この辺の事情は、フィジカルな「技」の発揮とはやや異なっていそうな気もする。
 だからこそ、安定した「フォーム」作りといった「技」の面において十二分な下準備が要請されるのだろう。これらが、揺らぎやすい内面をサポートしたり、方向づけてくれるのだと想像する。どちらかと言えば、訓練されて身体に刻み込まれた「フォーム」の方が、移ろいやすく、また「魔が差す」こともあったりする内面よりも、はるかに安定度が高いと思われるからである。

 最近、ふと思うことのひとつに、自分は何の「プロ」だと言えるのか、いやそんな大それたことはおいても、何かの「プロ」になろうとして「血の滲むような数の繰り返しトレーニング」をした形跡があるだろうか、と振り返るのである。
 贔屓目に見て、あれこれと列挙することは不可能ではないにしても、これぞ! というものの無いのがさみしい気がするわけだ。「あすなろ物語」のごとく、あるいは「禁煙」のごとく、「何度も繰り返しては挫折」しているような気がしてならない。
 まあ、せいぜい「何度も繰り返しては挫折」するという「フォーム」だけは安定しているのかもしれない。それもまた「プロ」の一種なのであろうか…… (2006.10.02)


 今日、とある会社から、過去の社員在籍履歴の問合せがあった。未だにそうした問合せの慣行があるのかと思わされた。それはともかく、問合せの人が当社に在籍したというのが、もう十数年も前のことで、わたし自身も事務担当者も記憶が定かではなかった。正社員というよりも、契約社員として在籍したらしかったのでなおさら記憶が不鮮明だったのである。
 ちょうど、自分は「思い出せない記憶」(茂木健一郎『脳と仮想』 ※この労作は久々に知的アイデンティティが揺さぶられた存在感のあるものであった!)という視点に関心を持っていたので、苦笑いをしてしまった。

<記憶というと、私たちは「あの時このようなことがあった」というような、思い出せる記憶ばかりを問題にしがちである。……私たちは、エピソード記憶こそが記憶の王者であると考えがちだ。
 しかし、もし過去の痕跡が残っていることを「記憶」と名付けるならば、私たちの脳の中の記憶のうち、エピソードで思い出せることのできる記憶はごく一部にすぎない。私たちの脳の神経細胞の間の結合は、日々変化している。人と会う、町を歩く、ワインを飲む、テレビを見る、旅行をする、仕事をする。様々な体験の痕跡が、神経細胞の間の結合パターンの変化として私たちの脳の中に蓄積されていく。エピソードとして思い出せる記憶は、その痕跡の総体のうち、いわば、氷山の海上に出た部分にすぎない。一つのエピソード記憶の周囲には、決して思い出すことのできない、記憶と明示的に名付けることさえできない体験の痕跡がまとわりついている。>(前述書)

 茂木氏は、この「思い出せない記憶」という視点を定めることによって、<「思い出せない記憶」の蓄積としての言葉>という興味深い考察に進み、さらには、文化人類学が照らすような過去の(文化の)継承の問題や、そして<魂の問題>にまでアクティーブな知性を発揮している。
 筆者は、脳科学という独自な立脚点から、本のタイトルにもなっている<仮想>(脳による現実の「写し」)という概念の広がりを旺盛に展開しており、その際には、デカルト、カントによる認識論の哲学命題をも視野に入れている。「思い出せない記憶」という現象も、こうした深みから推論されているようで相応の説得力を伴っている。

 わたしが「思い出せない記憶」という概念に関心を持つのは、何も「ど忘れ」が激しくなり始めた加齢者であるからではない。いや、それがないとは言わないが、脳による記憶の生成や編集という問題に人一倍惹かれるからなのである。もちろん、茂木氏のように専門的な研究努力をしているわけではないから、素人の日曜大工的関心でしかない。
 ただ、脳の仕業というものが、当の本人でも意識することができないかたちで、情報を処理し、記憶を生成したり変容させたりしているらしい事実を知ると、まるで、自分の家や自分の部屋に、見知らぬ他人が入り込み、悪さはしないまでも勝手にいろいろと整理をするようで、はなはだ気色が悪いのである。だから、その他人の正体を突き止めることはできないにせよ、その「仕事ぶり」くらいは知っておきたいものだと思うわけなのである。

 記憶についてもさることながら、恐らくはそれと密接に関係していると推測される「夢」についても、自身が見ているにもかかわらず、当人の意思とはかけ離れたごとく処理されるというのも気に入らないわけだ。店などに行って、勘定の支払い方式が知りたいと思うのと同様に、どういう「方式」で訳のわからない「夢」を見るハメになるのかぐらいは知りたいものなのである。
 ちなみに、「夢」の唐突さに関しては、どうもその唐突さが正解でありそうだと考え始めている。脳の自律的機能に何らかの意思が働いているのではなく、そいつは、覚醒時の入力情報を「深夜残業」にて整理する過程で、書庫のあらぬ箇所の扉を開けてしまったりするらしいのである。「らしく」言うならば、情報を伝送する際に発するテスト信号が、脳の記憶を呼び覚ます別の箇所を刺激してしまうらしい。昨晩も、ここ最近の生活状況とは全く異なった文脈関係の場面が「夢」に現れたものであった。

 このように、「夢」というものが本人の意識や意思とはかけ離れて展開されてしまうのであるから、記憶に関しても、意識上で思い出せるものだけが対象なのではなく、それはまさに氷山の一角だと見なす方が妥当だと思える。いろいろな「勘」というものも、例示できるエピソード記憶がなくても「水面下」の記憶が何らかのかたちでサポートしているのだと考えるならば、相応に間尺に合うというものであろう。
 ただ、茂木氏も何度も叙述していたとおり、現代環境におけるデジタル情報偏重の環境は、記憶についてもデジタル志向で塗りつぶそうとして、記憶の複合的なレイヤー構造を台無しにしているのかもしれない。言葉やかたちにならない記憶の淡いコンテンツが「ゼロ扱い」とされてゆくならば、やがて累々として形成されて来た人類史がジリ貧状態へと閉じられて行くのかもしれない…… (2006.10.03)


 今頃の季節は、屋外はもちろんのこと、窓を開けている屋内でもキンモクセイの芳しい香りが漂っている。そうした香りに気づくだけで気分がさわやかになるから不思議だ。きっと、キンモクセイの香りは、言葉にして何とは自覚できないにせよ、その香りと結びついたさわやかな記憶を沸々と呼び覚ましているのであろう。
 もとより自分は、臭覚に敏感な方で(いや、人さまのことはわからないが)、匂いや香りに結びついた記憶を多く持っているような気がする。ちょっとした匂いや香りで唐突かつ瞬間的に過去のとある場面を想起することがある。まるで波間に現れた漂流物のようにすぐさま消え失せてしまい、手ごたえをもって自覚することすらままならないことも多々ある。それでも、そんなことを経験すると非常にありがたい気分となったりする。

 今日も、揮発性の油のような匂いに気づいて、捉えどころはないのだが何やら過去の好感が持てるイメージを思い起こしつつあった。油絵の具の匂いに類するものであれば、かつての学校の美術室や自分の部屋で油絵に没頭した僥倖な日々を思い起こさせるわけで、その場合は明確に自覚できる。が、今日の場合はそうではなかったのだが、それでも何かついぞ忘れていた想いを立ち上がらせようとしていたようだ。しかし、残念ながらあまりにも脳細胞同士の連携プレーの絆が希薄で、正体が突き止められずにやり過ごしてしまった。
 昨日は、「思い出せない記憶」という興味深い事柄について書いたが、自分の場合、匂いや香りが、そうしたものが確かに存在するということを示唆してくれる。きっと、犬や猫ほどではないにしても、臭覚と外界の認識とを結びつける度合いが小さくないのかもしれない。

 そう言えば、動物たちの臭覚と認識との関係は実に緻密であるようだ。いつだったか、TVドキュメンタリーで、ペンギンたちが親子関係を確認するのに匂いの個別性を用いている場面があった。それも、何百匹、何千匹のペンギン親子たちの群れの中でそれが発揮されるのには驚いたものである。
 犬たちにしても、何メートル、何十メートルも離れて風に流されて届く微かな匂いから、自分の主人とそうでないものとを嗅ぎ分けるらしいから、動物たちの臭覚能力というものは、環境認識において人間の言語能力に匹敵するほど精緻であるに違いない。
 そうした優れた能力というものは、動物たちにとってはそれがかれらの生存に関る重大事であったことを物語っているのであろう。動物たちのどんな能力も、あれば便利というような軽佻浮薄な動機で獲得されたものではなく、長い歴史の過程での生死に直結するサバイバル闘争の中で得て来たもののはずである。
 猫たちが、屋根の上のような高い場所で昼寝をしていたりすると、人間の眼からみれば、そんな危険な場所で居眠りすることもなかろうに、と思うことだろう。しかし、彼らにしてみれば、屋根の上のてっぺんは危険であるどころか、他者から襲われることが少ない最も安全な環境なのかもしれない。そして、そう言えるだけの能力を、抜群な「平衡感覚」というかたちで備えて来たのであろう。

 そんなことを考えると、今日の人間が、何らかの能力を身につけるという場合、結構いい加減であり、場合によっては実に「甘い」と言わざるを得ないのかもしれない。
 まあ、人間の場合は、社会や文化という個体(個人)を超えて「外部化」された歴史的産物があり、それらが個々の人間たちの生存を支援したり、危険から保護したりしてくれる。これが、他の動物たちを羨ましがらせる人間の独壇場のはずである。
 が、昨今は、こうしたことがやや危なっかしくなっていそうでもある。この国も、かつては世界一安全な社会を誇っていたし、人々の生存を支援する社会福祉に関しても、曲がりなりにも方向性を持っていた。
 ところが、現在では、男女問わず夜道を独りで歩くことは何でもなければ幸いだと言わなければならない危険な環境となっていそうである。また、経済にしても、「お天道様と米の飯は付いて回る」というような悠長なことを言っていられる時代ではなくなったようだ。また、いつの間にか社会福祉の水準もなし崩されたかの観がある。
 要するに、他の動物たちから羨ましいと思われるかもしれなかった人間社会特有の生存のための「付帯設備」は、日に日に貧弱なものと化しつつあるのではなかろうか。
 他の動物たちは、個体としての内部に「本能」というかたちで「生存付帯設備」類を備え続けているから、他からそれらを剥奪されることはあり得ない。しかし、人間の場合は、「本能」を希薄にすることをバーターにしながら、生存「付帯設備」としての社会や文化を形成して来たと言える。それを、この期におよんでそれらを「劣化」させることは、個々の人々の生存を人為的に危うくさせるということにほかならないはずだ。

 高齢者の医療費がここへ来て急速に悪化させられており、「福祉切り捨て」がまかり通っている。また、経済における野放しの競争原理はさまざまなかたちで人の心を荒んだものとさせ、急速に治安環境の悪化をももたらしている。
 「弱肉強食」社会、いや「弱肉強食」ジャングルは、文字通りのかたちででっち上げられつつある。今や、人間たちは動物たちをこそ羨み、人類史の遥か以前に喪失させた「動物的能力」を、個々人が復元させなければならない、そんな時代にでもなろうとしているのであろうか…… (2006.10.04)


 昨日は、昔から関心を向けていた香りと記憶について書いたが、かつて入手したある書籍のことを思い起こし、それを参照してみた。
 「放り投げて」あったのは、ウーム、決め手に欠くなぁと思ったからに違いない。つまり、このテーマは、わたしは非常におもしろいターゲットだとは思うのだが、どうも、「におい」というのは「数量化」が難しかったり、実験をするにも「におい」は残存する性質が強いこともあり、「におい」の研究は、何かと敬遠されて来たようなのである。
 この著書にしても、肝心な点になると、「……であろうと想像される。」とか「……ではないかと想像している。」と結ばれるのが気にかかったものだ。まあ、著者の次の叙述が実情を伝えているようでおかしい。

<これまで世界的にも、苦労多く実り(?)少ないにおいの研究は敬遠され、生理学者の多くが視覚、聴覚研究への道を選ぶ傾向が続いてきた。
 誤解を恐れずにいえば、嗅覚や味覚を研究している人は、出世をあきらめた者か、フロンティアスピリット豊かなよほどの野心家、はたまたかなりの変わり者というレッテルを貼られがちであった。>(外崎肇一著『「におい」と「香り」の正体』)

 とは言っても、わたしが気になって来た「におい・香りと記憶」との関係について、以下のような示唆的な記述も目にとまったので記録しておこうと思った。

<皆さんは、あるにおいに触れたとき、それまで忘れていた記憶が急に蘇ってきたことはないだろうか。土や田んぼのにおいを嗅いで、生まれ故郷での出来事を思い出したり、香水のにおいから昔の恋人の顔が浮かんだり……。
 この場合、漠然としたイメージを思い出すというより、ある日、あそこでこんなことをして、このような気持ちになった、というような非常に明確で、ピンポイントな記憶であることが多い。視角的なデジャヴ体験(※)も良く知られるが、このような状況において、特ににおいは記憶と密接に繋がっていることが多い。
 においと記憶の関係は科学的にはなかなか説明できないが、一つの理由として「五感の中でもっとも原始的な感覚であるから」という言い方ができるだろう。
 普通、外部からの刺激、いわゆる目や耳、口、肌から伝えられる信号は、まず脳の視床という器官に集められ、その後、視覚野などそれぞれの情報を司る部分へと運ばれていく。視床というのは、生物の生命機能を維持する基本的な器官で、さまざまな情報を統合する役割を果たしている。
 しかし、嗅覚だけはなぜかこの視床を通らず、ほぼダイレクトに脳へと伝えられるのである。なぜ嗅覚だけが独立した形態をとっているのかはまだ分かっていないが、生理学的にみても、嗅覚は他の五感とはどこか違った特別な感覚ということができる。>(前述書)

 (※)「デジャヴ」とは、フランス語の心理学用語で、「それまでに一度も経験したことがないのに、かつて経験したことがあるように感ずること。既視感。既視体験。」のことのようだ。(廣瀬)

 「第六感」が働く時によく次のようなセリフを言ったりするものだ。
「どうも、あいつが『クサイ』と思われる……」
 つまり、嗅覚が何かを命じているといった様子であろう。そう考えると、嗅覚が<原始的な感覚>であり、<嗅覚だけはなぜかこの視床を通らず、ほぼダイレクトに脳へと伝えられる>という指摘がまことに興味深く思えるのである。この感覚を研ぎ澄ませば、宝くじを当てたり、暴騰する株銘柄を予知することも……、とバカなことを考えたりするのである。
 ただ、においの研究は前途多難でありそうだ。と言うのも、においと結びつけられた情報自体が、茂木健一郎氏の例の「クオリア」のとおりきわめて主観的でありそうだからでもある。以下にもその指摘があった。

<さて、酪酸が脳のどこで反応するのかを写真で調べてみると、各々バラバラな部分が光っていた。すべてを重ね合わせてみると、脳全体に散らばっているという始末である。資格や聴覚、味覚であっても、これほど広範囲で反応することはない。これでは、においは脳全体で感じるという結果になるのである。まだ、研究途中ではっきりとした結果は出ていないが、不思議な現象である。
 以前、においは記憶と深い関りがあると書いたが、あるにおいに各々が持っている情報というのは千差万別であろうと想像される。その辺が、脳の反応に現われているのではないかと想像している。>(前述書)

 ただ、においや香りというテーマは、文明が積み残した最後の人間的課題であるような気がしてならない。インターネットを通じて、におい情報を伝送するという途方もないことを考えている者がどこかに潜んでいないとは言えない。
 それにしても、日本の伝統文化には、茶道と並ぶ「香道」というものもあったわけだし、この国がこのにおい・香り研究で世界をリードしたとしてもおかしくはないのかもしれない…… (2006.10.05)


 昨日、「におい・香り研究」について書き終わり、何気なく新聞社のサイトなどを閲覧していたら、偶然にも以下のような記事が写真入りで掲載されていた。あまりにもタイミングが合ってしまったので、ちょっとした驚きであった。

<においを「翻訳」、判別し再現 東工大助教授ら機器開発
 においを判別し再現できる装置を、東京工業大学の中本高道助教授が開発した。千葉市の幕張メッセで7日まで開かれている情報通信機器の展覧会「CEATEC」に出品されている。
 センサーでにおいを分析し、調合装置に入った32種類の「においのもと」を組み合わせ再現する仕組み。これまでに、リンゴやバナナの甘い香りや熟した香りの判別に成功した。理論上は40億通りのにおいを作り出せるという。>(asahi.com 2006年10月05日)

 たぶんその助教授なのであろうか、「においを再現する調合装置」とかやらをノートPCの画面を見ながら操作している場面が写真で添えられていた。
 「インターネットを通じて、におい情報を伝送するという途方もないことを考えている者がどこかに潜んでいないとは言えない。」と書いたことが命中していたようなのでおかしかったが、次の引用文についてはちょいと気の毒なことを書いてしまったかと……。
「誤解を恐れずにいえば、嗅覚や味覚を研究している人は、出世をあきらめた者か、フロンティアスピリット豊かなよほどの野心家、はたまたかなりの変わり者というレッテルを貼られがちであった。」
 まあ、研究を志す人たちは何となく変わった印象の人が多いわけだが、写真中の助教授も何かに取り付かれたような表情がなくもなかった。決して悪いことではない。

 自分が「におい・香り」に関心を持つのは、昨日も書いたとおり「記憶」との関係であり、「におい・香り」と「記憶」との関係のメカニズムが脳の構造の未知の部分を照らし出す可能性があるのではなかろうかと思ってのことである。
 まあ、そうした視点もさることながら、ひょっとしたら「におい・香り」の研究は、「出世をあきらめた者」と決めてかかったものでもないかもしれない。
 とにかく、これまでは「におい」というものが空気中に残存してしまったり、数量化が困難であったりするところから、やっかいな研究対象であったことは確かなようだ。したがって、先ずは、「においを再現する調合装置」といったような、においを科学的に操作することがしやすくなる装置を作るというのは、なるほどと思わせるものがありそうだ。とりあえず、「におい・香り研究者」たちに売り込んでみるならば、研究費の回収は十分可能だと思われる。

 また、前述した「インターネットを通じて、におい情報を伝送する」という課題に対しても意外と良い布石を打つことになるのではなかろうか。つまり、目の前のと言うか、鼻ッ先のと言うべきか、当該のにおいをそのまま伝送することはないのであって、それが解析かのうであり、復元可能であるならば、手元にある「ローカル・におい」を、離れた箇所で復元することによって「リモート・におい」を発生させれば、立派に伝送したことになるという按配である。
 こうなってくると、これまで想像もできなかった「におい電話」をはじめとした、遠隔地間で共通のにおいを共有することも先ず先ず達成できよう。また、メディアと言えば、音と光によるものであったが、ここににおいや香りが付加されて、まさしくマルチメディアが充実することになる。そしてリアリティが増すことこの上ないと言うべきか。
 映画やTVにも、においメディアが加わり、「新日本紀行」などでは各地の状況が、視覚的な画面に伴って、においや香りまで届けられるとなると、臨場感がいやが上にも高まろうというものだ。
 落語に、うなぎのかば焼き屋の前のにおいを持ち帰って飯を食うという話があったようだが、料理番組をかけながら貧しい食事に色を添えるという手も出てきそうか…… (2006.10.06)


 昨日までのぐずついた天候が一転して、今日は青空が広がる秋晴れである。風が強いと予報されていたがさほどでもないようで、久々の好天気だ。
 今頃の気温は何に良いといって、休日の朝、もう少しもう少し、といった感じで惰眠をむさぼるのには打って付けであろう。今朝は、たっぷりと朝寝をしてしまった。
 よくあることだが、寝過ぎると却って妙な頭痛を誘うことになりがちだ。今朝はそんな目にあってしまった。何となく馬鹿げた気がしたものだ。お蔭で、せっかくの好天気だというのに、ウォーキングを取り止めてしまった。
 午前中一杯はそんな頭痛が続いていたものだが、やがて自然に引いてしまったようで買い物などに出かけウロウロしているうちに収まっていた。

 午後遅く、事務所に出向くことにした。多少のやるべきことがあったと言えばあったが、3連休を丸々空けてしまうのはどうかという気がしたのだった。
 実を言うと、この3連休に気づいたのが昨晩であった。事務所ではカレンダーが目の前にあるにもかかわらず、昨日の帰宅時にはいつもの金曜日だとばかり思い込んでいたのだ。帰宅して、家内との雑談中に今日からの3連休に気がついたのである。その時、ああ、それならば済ませるべき仕事を済ましておけば良かったと思ったりしたのだった。

 それにしても、最近は、ちょいとこの「思い込み」というやつを警戒すべきなのかもしれない。歳をとるとこうしたことになりがちだとは聞いていたものの、今週はニ、三回そんなことがあったかもしれない。
 技術的な作業に関してもそんなことがあり、はたと気がついて苦笑いをせざるを得ないことがあった。技術的作業というものは、一定期間を空白にしてしまい、手をつけずに棚上げにしておいたりしようものならば、コロッと忘れてしまうもののようである。他の人の場合はいざ知らず、自分の場合はそんな傾向が強い。
 このところ自社のホームページの更新を怠り、しばらく放置するような格好となっていた。そして、急にとある部分の更新をかけようとしたのだが、思っていたようにうまく行かなくなった。何度、更新分をアップロードしてもサイト画面にレスポンスが現われないのである。

 そこで、手前勝手な自分は、いろいろと詮索して、これはひょっとしたらプロバイダーのサーバー側に異変が生じているやも知れずと、矛先をプロバイダー側に向けたのであった。
 電話にて、テクニカル・サービスにその旨を連絡してみることにしたのだ。先方でも、それではちょっと調べてみます、と丁寧に対応してくれた。そして、なんだかんだとやり取りをしているうちに、自分側の問題点にはたと気がついたのであった。自分自身が、HPコンテンツの構造を取り違え、間違った思い込みをして対処していたのである。
 それに気づかされたのは、いろいろと電話で会話をしていて、先方の担当者が、独り言のように、
「何々は、○×△というファイルになりますよね。これは特に問題はなさそうだし……」と言った時だったのである。
 自分は、その時、そうかカン違いをしていた、てっきりこれでいいという思い込みをしてしまっていた、と悟ったのであった。ホームページのメンテナンスをマメにやっていた頃に、ちょいとした込み入った手を加えていたのだが、しばらくこの作業から離れてしまうと、そうした手の込んだことをした自身のことをすっかり忘れてしまっており、今回、普通の方法で迫っていたのであった。

 こうしたミスは、自慢にはならないがこれまでにも何度も経験していた。とある事に、傾注してのめり込むように事に当たっている時というのは、通常の自分とは異なっており、いわば「イレギュラー・モード」の自分になってしまっているのだ。まあ、そのモードの余熱が続いている間は、何の苦労もなくそうしたモードの自分が為したことを引き継いでいるのだが、ここで、空白期間や冷却期間が思いのほか長く入り込んでしまうと、何を為したのかをコロッと失念してしまうのであろう。
 「レギュラー・モード」の自分に戻ってしまうと、あくまでもそのモードにおいて頭脳を働かせるわけであり、イレギュラーな考えを採用したことをそう簡単に思い起こしたりはしないもののようなのである。
 こうしたことを何回か経験しているため、根を詰めて上り詰めた作業などに関しては、後日いつでもそのとおりに記憶を戻したり、その作業を再現できるために、相応のレポートなりメモなりを残すべし、とは考えてきた。
 が、忘れるはずはないと高を括る気分と、根を詰めている時にはさらに先に進む衝動に引き摺られて、ややもすればドキュメントを残さず仕舞となったりするのである。

 考えてみれば、「思い込み」というのはさまざまな原因で生じると思われるが、確かな記憶が先ずは重要だろうし、そのためには、将来の自分は何を考えるかわからないためにあまり信じない方がいいのかもしれないと感じたりしている。
 今の自分と、異なった環境に置かれるであろう将来の自分とをしっかりと繋ぐものは、記憶もさることながら、今の自分の脳内情報をしっかりとメモやドキュメントとして対象化しておくことではないかと再確認したりしている…… (2006.10.07)


 自分が今、二十歳前後の青年であったとしても現在という時代状況にやはり危惧の念を感じるのだろうか。ふと、そんなことを考えた。
 つまり、加齢がゆえに自分は現在という時代に言い知れない危うさを感じてしまっているのか、それとも文字通り時代状況は悪化しているのか、という疑問なのである。
 こうした疑問の足元には、ふたつの前提的な思いが横たわる。

 ひとつは、どう考えても今のこの国、この社会は悪いこと尽くめの時代環境を迎えていそうだという点である。多くを並べ立てる必要はないかもしれない。とにかくこの悪化した時代を何とかしよう、したいと切実に考える者たちが表面化していないという一点だけを、今は着目しておけば事は足りそうだ。
 数十年を生きてきて、こんなだらしのない人間社会を迎えているのは、やはりはじめてだと感じざるを得ない。希望が持てない時代環境というのはいつの時代でも見てとれた。が、それでも人々を勇気づけたのは、そうした苦境を皆の苦境として認識し、それを変革しようとする者たちの熱い姿ではなかっただろうか。それが、時代の底辺で押し潰されようとしている者たちを励ましたはずである。ところが現状は……
 <風の中のすばる 砂の中の銀河 みんな何処(ドコ)へ行った 見送られることもなく……>(中島 みゆき『地上の星』)というのは確かな実感であるのかもしれない。それというのも人々は、<地上にある星を 誰も覚えていない 人は空ばかり見てる>わけだし、<名立たるものを追って 輝くものを追って>ばかりで、結局は<氷ばかり掴む>にもかかわらず、そんな愚かな轍(わだち)から抜け出せないでいるからなのかも知れないのである。

 ところで、もうひとつの前提的な思いとは、言うまでもなく自身が歳をとり良くも悪くも歳相応に自分の環境を自覚し始めているということだ。体力や気力に自信を失うほどではないにしても、青年時代のような何の根拠も、確信もないくせに「無限」というものに寄り添っているかのような錯覚を抱いていた頃のような、そんな空(から)元気は然るべく冷まされたと言うべきであろう。まだこんな青臭い思いに囚われて、<旅はまだ終わらない>(中島 みゆき『ヘッドライト テールライト』)と踏ん張っている分だけは青春の名残を引き摺っているのかもしれない。
 要は、歳をとり分別をわきまえはじめてしまったがゆえに、物事を「悲観的」に受けとめるようになってしまったのだろうか、という点が気にかかるわけなのである。
 いつの時代にも、「多勢に無勢」の構図はあったものを、今、ことさらに世直し勢力が無勢だと決めつけようとする弱気は、やはり歳のせいなのであろうかと、まさに弱腰となっているのであろうか……、と。

 たぶん、自分のシビァな状況認識はそれほど狂ってはいないだろうと思う。時代環境は正気の意識から率直に言うならば、やはり論外的に悪化しているのであろう。歳のせいで、物事を割り引いて見る向きはないとは言えないが、それが原因で現状の欠点が大きく見えるわけでもなさそうな気がする。戦争こそ起きてはいないが、現状の国民の心理状況としては、戦争に加担する流れに組み込まれたかつてのそれに限りなく接近しているように思われてならない。
 どうしてこんなことになってしまったのだろうか、と「死んだ子の年を数える」ごとき間抜けさに転がり込む時がある。そして、いろいろと「犯人探し」をしてみたりもする。犯人らしき姿が決して思い浮かばないわけでもない。しかし、犯人を「外」に求めるよりも、むしろわれわれ国民自身の「内部」に、「内在的論理」の流れとして見つめようとした方が妥当なのかもしれないと思いはじめている。
 と言っても、国民自身が「真犯人」だというのではない。やはり「真犯人」は必ず別に存在することは間違いない。ただ、「真犯人」に加担する動きを確かに選んだ国民自体の心理をトレースすることなく、「真犯人」を糾弾したところで、歴史は繰り返されるだけでしかないように思われる。

 話は変わるが、先日、「現代版」の『ドクトル・ジバゴ』を感動して観た。TVのBS放送であったが、イギリスで制作されたTV番組風のものである。
 最初は、高を括って「お付き合い」していた。と言うのも、自分は、アカデミー賞を総なめにしたあの1965年制作の『ドクトル・ジバゴ』をしっかりと観ていたからである。
 デビッド・リーン監督、オマー・シャリフ主演の、大ロマン・スペクタクルであった作品が脳裏に刻み込まれている自分にとって、「リメイク版」登場というのはどうにも解せなかったのである。ただ、この期に及んでなぜ「リメイク」なのか? という疑問を解こうとする動機がTV画面にかじりつかせたのであった。
 そして、鼻先でせせら笑っていたかもしれない自分の姿勢が、次第に揺らぎ始めたのである。それはまるで、高名な御仁の前で、いささかも怯むことのない新進気鋭の若者が、謙虚にかつ堂々と自分の思うところを述べる、そんな姿に通じるものがあったかもしれない。
 「現代版」『ドクトル・ジバゴ』は、デビッド・リーン版『ドクトル・ジバゴ』の微かに残された「空隙」の一点を見事なカウンター・パンチで突き上げて、デビッド・リーン版からノック・アウトを奪うことにはならなかったとしても、確実なダウンを奪ったようであった。少なくとも、あれほどデビッド・リーン版を高く買っていた自分の目からもそう見えたものだった。不思議なことであった。おそらく、監督の力量にしても、制作費総額にしても、制作総動員数にしても比べ物にならない違いがあったはずである。
 しかしである。見事な「現代版」を見せつけられてしまうと、デビッド・リーン版が確かに「空隙」としていた一点がかなり大きなアキレス腱であることが認識させられたからわたしは意表を突かれたのであった。
 ここまでもったいぶることもなかったが、その「空隙」の一点とは、わたしは「切」という一字で表現したいと感じたものだった。つまり、「切迫」の「切」、「切実」の「切」、そして極めつきが「切なさ」の「切」なのである。
 デビッド・リーン版は、思えば「壮大なロマン」というデビッド・リーン監督の十八番的視点で観客を魅了した作品であった。この点は、5年後に作られた『ライアンの娘』でも明瞭に繰り返されたものであった。どちらかと言えば、日本の黒沢「大」作品に通じるものをなしとはしない。これはこれで他の監督が真似のできないところである。
 しかし、「壮大なロマン」を志向するならば、ある意味では「詩的な美」が壮大なスケールで奏でられる一方、カミソリの刃でシャープに切り込まれるような感覚は排除せざるを得ないのではなかろうか。鋭い痛みにも通じるような感覚は、「壮大なロマン」とは相容れないと言うほかないからだ。別な表現をするならば、「壮大なロマン」志向と「シャープなリアリズム」とは両立し難いと言ってもいいのかもしれない。
 「現代版」『ドクトル・ジバゴ』は、わかりやすく言えば「リアリズム」なのであるが、そんな紋切型言辞を平気で使いたくはないので、上記のような奇妙な表現をしたのである。

 わたしは、現代という時代は、心ある人々に「切迫」の「切」、「切実」の「切」、そして「切なさ」の「切」を不可避的に強いるそんな時代となっていると直観している。「現代版」のこの作品のスタッフたちはきっとこうした直観を共有しながら、巨大な金字塔であるデビッド・リーン版に挑んだのではなかろうかと思っている。『ドクトル・ジバゴ』の原作者・ボリス・パステルナークも、『ドクトル・ジバゴ』に託したキー・コンセプトは、ひょっとしたら「切」の一字ではなかったかと思ったりもする。
 それで、話を元に戻すならば、現在のこの国にあって喪失しているものは、この「切」なのではないかと勝手に決めつけようとしているのである、自分は。
 ところで、補足するならば、「切迫」⇒「切実」⇒「切なさ」というトリアーデは、これで終結なのではなく、これが「考える」ということの基本前提であるような気がしている。人間が人間としてマジに「考えよう」とする時、必ずといっていいほどこのトリアーデが潜んでいるように思うのである。
 だから、こうしたものが弾き飛ばされているような時代社会風土では、人々はあらぬ方向へと弾き飛ばされていてもしかたがないと言うべきなのかもしれないのだ。
 ちなみに、このトリアーデの前半、つまり「切迫」と、「切実」の半分までは現社会に滲み出してはいるかと思う。が、その後半の「切なさ」という人間的な源感情へとは向かわずに、「開き直り」へと反転してしまっているような雰囲気であろうか。
 ただ、この国の伝統文化の中には、確実に「切なさ」という人間的な柔らかい心情が脈打っていたはずだと思うのだが…… (2006.10.08)


 午後になって、TVでは北朝鮮による「地下核実験」の話題で緊迫した雰囲気となっている。北朝鮮はこのところ、世界中の国々による「まさか」という思いを次々に覆し、常識的範疇を突き抜ける暴挙へとひた走っている。
 現代という時代特有の怖さとは、こうしたいわば「破れかぶれ」とも見える動きをとるものが生じていることなのかもしれない。国際状況だけではなく、むしろ各国の国内状況においても、どう見ても「破れかぶれ」としか考えられないような犯罪が頻発していそうだ。
 何年か前にこの日本でもあった小学校への乱入殺害事件が、つい先ごろも米国で発生していたようだ。政治的なテロも怖いが、それらとは直接関係しないこうした「破れかぶれ」の残虐な犯罪も現代ならではの怖さであろう。

 日本のことわざには、「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」という、追い詰められた者が捨て身となって「破れかぶれ」で事を為す怖さを警戒したものがある。類似したものに、「長追いは無益(むやく)」、「下手の長追い」ということわざもあり、ほどほどのところで事の落着を見ようとする大人げある発想に好感が持てると言うべきか。
 いやむしろ、「絶対的に」「原理的に」事を詰め寄って行く姿勢に、逆に危うきものを感じてきたのが古人たちだったのかもしれない。
 さらに、絶対的、原理的に事が押し進められるほどに確かな立場というものはあるのかという「正常な」了解があったのかもしれない。
 また、追い詰められる者、弱き者たちへの想像力というようなものもあったのかもしれない。「盗人にも五分の理あり」はその例となる。ここには、小さなものや弱者に対する思い入れのようなものが潜んでいたのかもしれない。「一寸の虫にも五分の魂」「小糠(こぬか)にも根性」「なめくじにも角(つの)」といったことわざをも含めるならば、とにかく単なる言葉の遊びとは言えまい。

 こうした感性というのは、決して「アニミズム」とか「博愛主義」とかで理解されるべきではなく、むしろ、人間という存在がもとをただせば如何に危うい存在であるかという漠然とした予感に裏打ちされていたのではないかと類推する。
 偉そうな立場で居られるのもつかの間、自分だっていつなんどき追い詰められる立場へと反転していくことになるやもしれない、と感じる心境、まさか、いつなんどき「なめくじ」になるやもしれないとまでは考えなかったにしても、そうした「正常な不安定さ」を感じ取っていたがゆえに、そこはかとない想像力が働いたのかもしれないのだ。
 あの、かつての日本人の感性をよく言い表した「判官贔屓(ほうがんびいき)」(弱者に対する第三者の同情や贔屓)にしても、庶民たちが自分は、義経を追い詰めるような強者とはなれそうもないという控え目な姿勢でいたことや、弱者への共感が先立つほどに不幸せな日々に慣れていたことなどもさることながら、もし仮に強者もどきの立場となったとしても、「驕る平家久しからず」という「盛者必衰(じょうしゃひっすい)」の無常観的な理を、理屈を超えて予感していたのかもしれない。

 こんなことを書くからといって、決して、常軌を逸し続ける北朝鮮の選択を許容するものではない。そうではなくて、国際的にも国内的にも、無用に緊張感を高めるような政策を採るべきではなかろうということなのである。
 昨今の米国の世論も、ようやく国際的テロリズム激化の背景にイラク戦争勃発という点があったことに目をむけつつあるようだ。現在の米政権の「原理主義」的な性格や、単一価値観を世界に押し付けるかに見える「グローバリズム」というものは、やはり世界に不必要な緊張と、度を越した競争関係をもたらし、発展という成果の何倍、何十倍もの悲劇を繰り広げさせているのかもしれぬ。そして、悲劇は、言うまでもなく「プアな階層」に集中するのが常である…… (2006.10.09)


 「迷惑メール」の被害にはこの間耐え忍んできた。下手に抗議メールなどを送信しては逆効果になりかねないため、とにかく一途に削除することを日課としてきた。
 しかし、こちらが機嫌の悪い時には不快感が増幅されたりもする。また、十派一絡げで削除する際に、まともなメールまで削除してしまうミスも発生しがちであった。そんなことから、「迷惑メール」撃退の手頃なソフトがないものかと探していた。
 優れものであれば有料の製品版でも良いと考えていたが、フリーソフトでかなり使い勝手の良いものを見つけることができた。
 「 Spam Mail Killer 」(http://homepage1.nifty.com/eimei/index.htm)というもので、自分がこうあってほしいと望んでいた機能をほぼカバーしているため、これからは不愉快な「迷惑メール」を「門前で」斬り殺し、なぎ倒してくれそうである。
 このソフトは、臆面もなく「迷惑メール」を仕掛け続けている者のメール・アドレスを登録しておいて、そのアドレスからのメールは即座にサーバーサイドで削除する、という機能が中心となっている。そのほかにも、特殊な文字列を登録しておくならば、その文字列を含むメールははしたないメールと判断して斬り殺すことも請負ってくれるようだ。

 最近の「迷惑メール」の実態は、極端に下劣である。本文を開けるようなヘマはしないため詳細な中身は不明であるが、その表題だけからも下劣さが十分に推測できる。
 一頃よくあったような、何らかのまともな商品やサービスの売り込みというようなものではないのである。カネとセックスにからんだ、まともではない商品やサービスを、傲慢なスタンスでねじ込もうとしているのだ。
 カネにからむ方は、PCを使っての在宅で大金が稼げるともっともらしく迫るものが多い。そんなに儲かるのなら、他人に吹聴せずに自分らで専念するがよかろう、と言ってやりたいところである。
 また、セックスがらみの方は、よくもそんなメールを毎日のように作っていて気分が悪くはならないものかと心配してしまう下品さである。それから昨今の特徴としては、出会いサイトなどで女性になりすまして何かをたくらむという手口そのままに、女性が発信人であるかのようなカモフラージュをしている(と思しき)ものが目につく。しかし、これらは、当の発信人の貧弱な女性観を曝け出しており吹きだしてしまような表題をつけているものもあったりする。
 いずれにしても、朝一番でこうしたえげつない文字を目にするのは不愉快極まりなかったものだ。

 高速回線を使っている在社時には、そんなゴミも一気に削除してしまえば済むのであるが、高速回線が使えないモバイル使用時にメール・チェックをする段になると、大量のゴミ処理のためになぜ通話料を費やさなければならないかと、その非合理さに不快感はさらに大きくなったりするのである。
 さらに、自分は、出所不明な「迷惑メール」は決して開かないことを習慣にしているから、まだそんな被害を受けたことはないのだが、こうしたメールの最大の危険は、やはり「ウイルス」なり「スパイウェア」などを引き込んでしまう点であるに違いなかろう。
 最近のプロバイダーでは、サーバーに届いた時点でウイルス・チェックをしてくれるところが増えており、そして「ウイルス」に汚染されているメールには自動的にアラームをつけて受信者に注意を促してくれるわけだが、こうしたケースに相変わらず遭遇するのが常態となってもいる。とにかく油断ができないご時世なのだ。

 上述の「撃退ソフト」が効力を発揮するのは、もうしばらく先のことになるはずである。つまり、相変わらず到来する「迷惑メール」を片っ端から「迷惑者リスト」に登録して、「迷惑者DB」とでも言えるものが形作られた時にこそ、「常連」たちが姿を消すということになるわけなのである。まあ、それまでは手間もかかるが、ゴキブリ退治のつもりで涼しく構えようかと思っている…… (2006.10.10)


 これまで「ケータイ」を馬鹿にしたところがあった。電話機能にしてもさほど活用してこなかったし、メールともなればほとんど使わず仕舞いであった。PCでのネット検索やメール活用で十分に事足りていたということもある。
 「ケータイ」の小さな画面が先ずは馴染めなかった。ただでさえ、眼に「老人力」がついてきた昨今は、小さなディスプレイの細々した文字が煩わしくてならない。
 そう言えば、自分は若い頃には、ノートにしても手帳にしても、人一倍小さな文字でぎっしりと記入する性質(たち)であったことを思い出した。「そんな小さな文字でよく読めるものだ」と人から言われたことが何度もあったほどだ。そして、PCを使うようになったら、手書きから離れ、大抵の文書はワープロとプリンターで処理した。手帳めいたものも、プリントしたものを縮小コピーなどして、それらを綴ったものを持ち歩くといった横柄な方法でまかなったりした。
 そうこうしているうちに、モバイルのPDA(Personal Digital Assistants.個人用の携帯情報端末)なんぞを利用するようになった。
 しかし、その頃からPDAのこじんまりした画面や小さな文字を鬱陶しいと思うようになったのかもしれない。おまけに、PDAも、小さなキーを操作したり特殊な文字変換の仕組みがあったりして、要するに入力方法に問題を感じたものだった。だから、PDAはあまり使い込むには至らず、途中でどこかに仕舞い込んでしまった。
 こんな経緯があったから、PDAをさらに小さく、煩わしいものにしたような「ケータイ」は、まともにお付き合いしようと思えない代物であったわけだ。親指でチョコチョコと打ち込む入力などは、まっぴらごめんという意識が先に立った。どこへ行っても高校生や若い人たちが、親指でチョコチョコとやっているのを見るにつけ、あーイヤだイヤだと眼を背けたりもしていた。

 「ケータイ」という存在が、やがてはPCを上回って重宝がられるものだろうということはかねてから推測はしていた。PCの場合は「パーソナル」とは形容されていても、やはり今ひとつ「パーソナル」な存在には成り切れないお荷物的存在なのだろうと感じていたのである。PCはやはり、それなりに探究心、根気、経験が備わらないと「パーソナル」と呼べるものにはなり難いと思えた。
 そこへ行くと、「ケータイ」は機能限定的であることから扱いやすく、何よりも当たり前ながら「ポータブル」であり、さらに他人と「繋がる」という実感的機能が備わっている。普及しない方がおかしいお膳立てにあるわけだ。
 いや、ここで「ケータイ」のメリットをくどくどと述べようとしているのではない。自分も、ここいらで「ケータイ」への偏見を捨てて、メリットを享受しなければ損になるかな、と思い始めたのである。「ケータイ」の再評価なのだ。

 つい最近、機種を新しいものに換えたものだから、この際、煩わしいと感じるのをやめて、自由に使いこなせるようになってみようかと考えた。問題は「チョコチョコ入力」なのであるが、これとて、昨今の機種では「辞書機能」が豊富となっており、より少ない操作回数で事がまかなえるようになっている。勝手な偏見さえ捨てるならば何とでもなるように思いはじめた。
 自分が「その気」になりはじめているのは、「ケータイ」の文書入力機能、つまり「メモ」入力機能が役立ちそうだと思ったからなのである。ちょいと気のついたことを、いつでも、どこでも文書化しておけるというのは結構ありがたいことだと思う。まあ、手書き手帳に書き込む習慣のある人は、それが一番良いとは思うが、自分はそれをとっくに放棄してしまったからしょうがない。
 ところで、いろいろと気のついたこと、思いついたことというのは、その時には、こんな重要なことは記憶し続けるはずだと高を括るのだが、概して時間が経つとコロッと忘れてしまうものであろう。忘れるのは大したことではないからなのだ、なぞと大雑把に構えていると、何も記憶に残っていないという寂しいことになりかねなかったりする。
 この日誌にしてからが、いざ何かを書こうとすると意外に梃子摺ってしまうのが常なのである。歳をとると、日常生活の出来事に対して、「変化なし、変化なし」といった手抜き姿勢で流してしまう可能性も高くなっていそうだ。そこで、ちょいとしたことでも、メモるようにするのが正解ではないかという思いに駆られたのである。そして、そのメモ用ツールとして「ケータイ」は再評価していいものではないかと…… (2006.10.11)


 きわめて微妙で、ナーバスな問題だとは思うが、強行姿勢ばかりをエスカレートするのもどうかという気がしている。対北朝鮮制裁措置のことである。
 自分の直感としては、東アジアの隣国関係でもあるのだし、米国ベッタリの姿勢での選択ではまずかろう、まして米国に煽られるような関係で強硬姿勢だけを誇示するのはリアルな解決に持ち込めないのではないか、とそんな気がしているのである。
 先日も、「窮鼠猫を噛む」という視点への配慮が必要だと書いたが、現在の北朝鮮状況はまさに「窮鼠」以外の何ものでもなさそうである。また、これまでの北朝鮮の政治外交姿勢の特徴は、相手が強硬に出れば、それを上回る強行さで反応するというアン・ビリーバブルな選択であった。そんな状況認識に立つならば、日本側は、米国とは異なってミサイルの射程範囲内の距離でもあるのだから、決して火に油を注ぐような危険は冒すべきではない、と思うのである。

 昨今、「ネゴシエイター」とか「交渉人」とかという言葉がわれわれの耳にも届くようになっている。これは、人質を取って篭城するような極悪化する犯罪者に対しては、関係当局は単に犯人側を威嚇するだけではなく、「対話」風にコミュニケーションしながら相手の精神状況を沈静化させつつ、解決口を探る役割りの担当者のことであるらしい。
 つまり、現在の犯罪状況では、まさに正常感覚が「キレ」てしまった犯人が増えており、彼らに対しては並みの対応では済まないということを物語っているのであろう。並みの威嚇方法では犯人の凶暴性をエスカレートさせてしまい、人質救出がますます困難となることを怜悧に見抜いているがゆえに採用された対応策だと思える。
 多分、犯罪対策における「ネゴシエイター」という役割りが登場したのは米国ではなかったかと思う。映画でもそんなものを観た覚えがある。
 そんな米国が、国際関係においては、何故、古風な威嚇と強攻策だけに邁進するのであろうか。イラク戦争然りであり、そして北朝鮮対応もそうとしか見えない。ホンキで問題を解決しようとしているのか、問題状況を政治的に利用しようとしているのかが判然としないようにも見える。

 そんなことはありっこないと見るには、自分は政治・軍事の裏事情というものをを見聞し過ぎているのかもしれない。象徴的な事案で言えば、ヒロシマ、ナガサキへの核兵器投下にしたところが、終戦を早めるとは表向きの口実なのであり、終戦後に展開するであろう対ソビエト、共産圏との軍拡競争に、一歩リードした布石を打ちたかったというのが米国のホンネであったはずである。そんなことは、世界をリアルに見つめている人であれば簡単にわかることだろう。
 また、国際世界の警察を自任してきた米国は、いろいろな思惑を持ってのことであろうが、国内軍事産業の活況が自国経済の活況とリンクしていることを十分に意識している事実も含む必要があろう。聞くところによれば、もし国際紛争が皆無となるならば、米国経済がうまく回ってゆかないほどに軍事産業の持つ比重は大きくなっているようである。
 したがって、米国は、何よりも米国にとっての最良の選択をするはずなのであって、日本や東アジアの事情はその限りにおいて斟酌するというのがわかり切った事実のはずである。
 そうした基本ラインを描いて状況を観測するならば、米国にとって、北朝鮮の危機状況は本当の国際危機へと発展してしまっては困るものの、かと言って軍事的緊張が皆無となってしまっても困ると睨んでいるのであろう。そもそも、米国による朝鮮戦争の動機が、対共産圏(中国、現ロシア)に対する防波堤づくりであったことを思い起こすならば、あながち邪推的な観測ではないはずだ。

 それにしても、どうも安倍政権は、米国の掌で跳ね回る孫悟空のような動きをしているかに見える。今、日本に対する米国にとっての要望は、自国の軍事費を削減しつつ中国とロシアに対する軍事的緩衝地域を形成し続けることであろう。つまり、はっきり言えば、日本が北朝鮮を脅威と感じつつ、米国の軍事力をどんどん肩代わりしていくことであろう。場合によっては、現在は米国も否定してはいるものの、日本が核装備をすることさえ密かにスケジューリングしているのかもしれないほどである。
 そんな米国の胸の内を読んでかどうか、安倍首相は、米国という親分の意を汲むかのように、北朝鮮への制裁措置では最強硬策を打ち出している。
 ブッシュも、あたかもそうさせたかったかのように、見え透いた日本向けのプレゼンテーション(<ブッシュ米大統領は11日の会見で、北朝鮮の核実験発表に関連し、拉致被害者横田めぐみさんの母、早紀江さんと4月にホワイトハウスで面会したことに触れ、「大統領になって最も意味ある瞬間の一つだ」と振り返った。> asahi.com 2006.10.12 )を演じている。

 国連での北朝鮮への制裁措置決議は、中ロの妥協を含めて現実的な着地点をとることになるのだろう。しかし、やはりこの国、日本は、とにかく自国のオリジナルな判断力を持つ必要が急務だと思える。軍事同盟を結んでいれば、米国はきっと……、というような「甘え」は非現実的以外の何ものでもない。
 大人なら誰でもが他者に対して相応の疑問や、不信感を持つものだが、日本という国は、米国に対してなぜそうした最低限のものまで持てないのであろうか。そんなことではきっと、米国はこの国の不甲斐なさを蔑視して当然のごとく切り捨てる時が必ず来るに違いない。それを世間では「使い捨て(カイロ)」と呼ぶ…… (2006.10.13)


 ケータイ内部のデータをPCで編集したりして扱うソフトがあるはずだと探してみたら、やはり「データリンク」というかたちのソフトのあることがわかった。ケータイのメーカーが提供していたのである。さっそく、ダウンロードして使い始めてみた。
 この必要性を感じたのは、やはりケータイでのデータ入力よりも日頃慣れたキーボードの方がはるかにラクだということだ。「電話帳」を充実させようとすれば、どうしても少なくないデータ入力が必要となってくるため、こいつはありがたいと気分をよくしている。
 PC上で当該データが編集できるとなると、ケータイが何かと便利となり、いろいろなデータを持ち歩くこともでき、まさに「PDA(携帯情報端末)」として活用し甲斐が生まれるというものだ。
 昨今のケータイには、補助メモリまで搭載でき、その容量も2GBほどまで可能であるようだから、テキスト・データの類だけではなく、圧縮されたものであれば写真やサウンド、さらにビデオのデータといったマルチメディア・データも格納することができる。
 こうなってくると、いよいよケータイ端末が多面的なパーソナル端末へと収斂して行きそうな気配である。

 デジカメや、iPodのような各種専用器もその種のニーズを持つ者には捨てがたいものであろうが、写真とサウンドといった機能であれば、ケータイの持つ現行機能がラクラク包み込んでしまいそうである。
 自分が以前使っていたケータイのデジカメ機能はかなり貧弱なものであった。だから、たとえスナップショットとはいっても撮る気にはなれなかった。
 ところが、今回使い始めたものは、画素数も120〜30万、サイズも240×320のドット数があり、メール添付などで使ったり、サイトに掲載したりする送信用画像としては先ず先ず使えそうである。それに合わせたディスプレイもかなり綺麗であり、この調子で「進化」させて行くならば、やがてデジカメ需要も食ってしまうのではないかと思っている。サウンドの方だって、それなりのイヤホーンを使えば全然問題はなさそうである。
 ケータイの強みは、何と言ったってインターネット機能を味方にしていることであろう。また、昨今は、マルチメディア情報にしてもネットを通じて「ダウンロード」という取り入れ方が一般的となっているわけだから、マルチメディア情報端末としても王道を行っていることになる。

 これで、通話料金の高さと、バッテリーの消耗度との課題が解消されるならば言うことはない。前者の方はいざ知らず、技術的課題である後者は意外と早く画期的な改善がなされるに違いなかろう。一週間ないし、一ヶ月に一回の充電で済むようになると、ケータイの使用感も大きく変化することになろう。現在、破竹の勢いにあるケータイの足を引いているのは何と言ってもバッテリー切れであるからだ。
 こう書いていると、まるで自分が電信電話業界の回し者のような気がしてくる。何の関係もないのであり、ただ、ケータイの「成長」や「進化」に目を回しそうになっているだけなのである。
 ただ、便利なことは悪くないのだが、ケータイという存在によって変化させられた現代カルチャーが何をもたらしているのかを、良いことも悪いことも含めて洗い出す作業もきっと必要なのだろうと強く感じている。
 われわれの世代は、TVという怪物に目を見張り、あれよあれよと言う間に「支配」されてしまった観があるが、現代ではその影響力をケータイという存在が担っているのは間違いなさそうだ…… (2006.10.13)


 今日もそいつは悠然と佇んでいた。真っ白な相貌で、優雅に丸味を帯びたその姿は、陶磁器は白磁の大型花瓶といった風情でもある。
 暗い色の川面を背景にすれば際立つ対比となろうが、そいつの佇む場所は、堰堤(えんてい。せき)によって川の流れが急に狭められ、流れが落ち込み、白く泡立っている場所であるため、目立たないと言えば目立たない。もう何度もその場所でそいつを目撃してきた。白鷺というのか小鷺というのか、水辺の野鳥なのである。

 今日は、バードウォッチングを兼ねようと、ウォーキングの際に双眼鏡を携えた。そんなものだから、境川の遊歩道を歩きながら、めぼしい対象を物色していたところそいつに出っくわしたのだった。もう何度も見慣れていたため、ことさらの感慨もなかったが、一体どんな獲物を捕まえるのだろうと好奇心が生じ、しばし観察してみることにした。
 携えた双眼鏡というのは、もう十年も前に購入したものである。カメラのオート・フォーカスと同様の原理で、向けた対象に対して即座に焦点を合わせてくれる有難さのため使い勝手が良いと気に入っているものである。
 さて、先日もそいつにデジカメを向けて、できるだけ近寄って画面一杯に収めようとしたら、警戒心の強いそいつはすぐさま飛び立ってしまった。そこで、今日はやや距離をおいて人の気配を感じさせない場所から観察することにした。

 双眼鏡をその方向に向けると、目の覚めるような純白の「花瓶」が一瞬にして視界一杯に広がった。ほおー、こんな優美な姿をしていたんだ、とちょっとした感動が訪れた。が、思いのほか両脚が太くしっかりとしていることもわかり、しかも、そうして「穴場」で一羽独占的餌にありついているためなのか、体形にも貫禄が窺がえた。黒く鋭い嘴は結構長く、まるで丈夫な菜箸のように見える。黄色に黒の無表情なまん丸の目は、やや威嚇的な雰囲気をさえたたえていた。双眼鏡で確認できたそうした光景は、優美さというそいつの第一印象を幾分塗り替えつつ、したたかさとでもいうような印象を伝え始めているようだった。
 さあて、どうやってどんな獲物を捕獲するのかな、と自分は、川との境を仕切ったフェンスに両肘を乗せ、ラクな姿勢で双眼鏡を構えて覗き続けた。見ず知らずの釣り人がどんな釣果を上げるのかと覗き込む心境に似ていたかもしれぬ。
 堰堤のコンクリートの上にしっかりとした両脚で陣取り、白く泡立つ川の流れを窺がうそいつの姿は、ほとんど渓流釣りのベテラン釣師といった格好のようであった。水中をまじまじと覗きたい衝動と、獲物たちに感づかれないための警戒心とが拮抗する、何とも言えない光景なのである。そうした緊張感のみなぎる空気が確かに漂っているように思われた。

 と、その時、しなやかな首と、長い「菜箸」が、水泡で泡立つ急な流れの表面に素早く伸びたかと思ったら、その「菜箸」の先端に、銀色に輝く10センチほどの小魚が咥えられていた。小魚は挟まれたままにピチピチと跳ねるように暴れていたが、そいつは、「菜箸」を実にうまく操りながら、小魚の向きを喉の奥の方へと瞬時に換え、そしてゴクリと胃袋へと摂り込んでしまったのだ。
 双眼鏡で捉えていたその光景は、まるで手を伸ばせば届くような距離感覚の中で展開しているように思える自分であった。自分は何重にも驚く始末であった。
 先ず、釣りが嫌いではない自分にとっては、「銀色に輝く10センチほどの小魚」がこんな川にも生息していること自体が驚きであった。ひょっとしたら、放流されている鯉の稚魚なのかもしれないと考えたが、瞬間目にすることになったその姿は、まるで渓流もしくは比較的水の澄んだ川に棲むシラハエやウグイのようでもあったからだ。もう何年も自分はそんな魚たちの跳ねる様子を身近で見てはいない。だから、驚きとともに羨望にも似た感覚さえ伴ったものだった。

 しかし、なんと言っても驚くべきは、その小鷺の慎重かつ敏捷で的確な捕獲行動である。自分は、思わず「プロフェッショナル!」という言葉を脳裏に浮かべてしまったくらいである。というのも、そいつの仕草と成果からは、とてもまぐれなぞとは思えない手堅さがひしひしと感じ取れたからなのである。
 小魚の捕獲数も確かに大したものではあった。自分が観察を続けている数分の間にも三、四匹の小魚の銀色の輝きを矢継ぎ早で見せつけられてしまったのだ。そして、そのいずれの場合の身のこなしにも、スキとムダがなかった。アリャー、アリャーなどとおどけた自嘲気味の声を上げる素人の釣り人とは比べものにならない鮮やかさであった。
 しかも、そいつは、良くも「穴場」を知り尽くしていたものである。こうした「堰堤」下というのは、釣りの場合でも知る人ぞ知る絶好の「穴場」なのである。釣りの教本を読んだわけでもあるまいに、そいつは、ここしかない! という睨みを利かせてこの場所に居ついていたのである。大したものだ。

 暢気な人間から見れば、その優雅な姿という外観から、その小鷺は川の流れと風流に戯れているとしか見えていなかったかもしれないのだが、実はそいつは、そんな暢気なことをしていたわけではなかった。実利的にしっかりと、かつ、したたかに自身の胃袋を充足させていたわけなのである。それも、自身が手にしている「経験知」と「勘」と、そして磨き上げてきた捕獲技量とを折り重ね、成果に向けたきわめて確度の高いアクションを採ることによって目的を達成していたのである。
 ここには、自身の命は自身の力で養うしかないとする、野生に生きる動物たちのシリアスな実情が厳然として横たわっていた、ということなのである。
 わたしは、これぞクールな「プロフェッショナル!」だと、妙に感嘆してしまった…… (2006.10.14)


 民放のTV番組をDVDに収録した場合には、面倒でも収録番組に介在するCMはすべて消去することにしている。NHKの番組であっても、最近では他番組の案内(限りなくCMの雰囲気に近い)が加わることが多く、これも鬱陶しいので消去する。
 こうして、CMを消去するのは、もちろん番組コンテンツを邪魔されずに通しで観たいからであるが、今ひとつ、低俗なCMを消し去ることに「CMバスターズ」とでも言うような心地よさを覚えるからということもあるやもしれぬ。

 もう何年も前に、TVのCMに関して論議する機運が生じたことがあったかと思う。押し付けがましいCM、商品の説明がなくただ観念的な企業イメージだけを吹聴するCM、どんなCMが好感度が高いかなどなどが論議されていたようだった。
 改善されたものもあるようだが、昨今のCMはとにかくその頻度と時間が増したこともあるからなのだろうか、チャンネルを民放にしておくとやたらにCMがうるさく感じられてならない。
 物理的にもうるさいのだが、表現の上でも不快感を刺激されてならない。一言で言えば、厚かましいとでも言えようか。コマーシャルなのだから当然であろうが、やはり押し付けがましいのが不快である。タレントなどを使ってはいても、またそのタレントの仕草やセリフが、誰もが「やらせ」だと承知しているとはいうものの、受け容れる側の感性を逆撫でする。おそらく、セリフがなかったり、特に演技をすることがなくとも、その広告スポンサーと契約しているという事実だけで好感度が失われそうな気がする。タレントの側も、TVでの露出度を高めれば本業でも「売れる」と見なしているのだろうが、果たしてそうだろうかと訝しく思ったりもする。CMにはいっさい関与しませんと宣言できるようなタレントがいてもいいような気がしたりする。

 CMに対して、かつて以上に嫌悪感を感じるようになったのは、CM自体の粗製濫造という傾向もさることながら、あらゆる商品・サービスの営業活動というものが「売らんかな」の暑苦しさを強めているそんな現状が足元にあるから、という関係もありそうだ。
 もちろん、モノやサービスを売るビジネスを、否定したり遠目で見るつもりはない。ただ、いかに競争が激化したとは言え昨今の風潮は勇み足の度が強すぎる気配を感じるのである。
 何を暢気なことを言っていると言われそうなのはわかっている。詐欺にさえならなければ、その寸前まで押して押して押し捲るのが現代セールスの常識であることも感づいていないわけではない。優雅に構えていたり、謙虚な身のこなしをしていれば、あるいはなすがままといった自然体であるならば、売上が底割れして行くであろうことも容易に推測できる。これが市場競争経済が突き進められた現代社会なのだ。

 だが、ふと気づくことは、こうした市場競争経済での身の処し方の常識というものが、経済活動の「戦場」という場だけで展開されるのならばまだわかるが、そんなことは決してあり得ないのが現実であろう。現に、TVでのCMを見せられているのは、お茶の間であり、玄人経済人たちの野戦の場ではない最も戦線後方の場である。
 つまり、今や、市場競争原理が浸透していない場というものを探す方が困難なほどに、この原理と感覚が全面展開、全面支配してしまっているのが現状だと言わざるを得ないわけだ。
 ところで、そんな当たり前に近いことはそれとして、そもそもこの市場競争経済の原理というものの正体は何かということである。これもまた、そんなことわかり切ったことだと言われかねない。確かに、それらが穏やかで、ノーマルな水準と感じられた、商品交換時代にあっては、さほど意識される必要もなかったかもしれない。
 あるいはまた、経済状況がいわゆる「右肩上がり」で、大多数の者が一様に「利を得る、得をする」傾向にあった時代状況であれば、経済活動当事者が共に勝つところの「Win & Win」のハッピーでおさまった。ところが、現状は、誰かが「得をする」ためには誰かが「損をする」ことがなければ経済活動が成り立たないところの、まさに「ゼロ・サム」原理が表面化している時代となっていそうではないか。
 そして、これを承知で経済活動に邁進するということは、「損をする」ところの「ババ」くじを、決して自分が引かないことに留意することが不可欠なのであろう。ここまではとりわけ問題がないかもしれない。だが、自分が「ババ」くじを引かないように努めることは、自分以外の誰かに引かせるというシビァな実情と限りなく同値のはずではなかろうか。
 そして極論するならば、このシビァさが、子どもたちをも含めた国民的常識となっている、あるいはなりつつあるのが、まさに昨今の現状だと言わなければならないのであろうか。

 人間の日常的感性というものは、決して観念的な思想や宗教から生じるという高尚なものではなく、日々のシビァな現実から形成されてゆくのであろう。そして、日々のシビァな現実の骨格を成すものが、現在にあっては消費したり、稼いだりする経済活動だと見なすことにさほどの問題はなさそうである。とするならば、現時点にあって猛烈な勢いで驀進している風潮は、上記のような「ババ」くじをめぐる熾烈な身の処し方如何ということになりそうである。
 この風潮を凝視した上で、建設的な論議がなされるべきなのであろう。この風潮は、決して個々人の心掛け次第で変わって行くような筋合いの問題ではなさそうである。これを不愉快、不快と感じる者たち多数が何らかの強烈な意思表示を行わないかぎり、埒(らち)が明かないのかもしれない。ありふれた響きでさえあったいわゆる競争社会は、今、個人間闘争社会へと迂回しつつ、必然的に格差社会へと駆け寄ろうとしている…… (2006.10.15)


 「僕のあの帽子、どうしたでしょうね?」
を地で行くがごとき光景に出会った。通勤途中のクルマから垣間見た光景である。
 お母さんに自転車で運ばれている保育園児が、「後部座席」で泡を食った表情で「ぼ、ぼ、ぼうしが〜」と叫んでいたのだ。母親は、自転車の前にも幼子を乗せ、必死でこいでいるため、後の子の叫びにはしばらく気がつかない。わたしは、余程クラクションでも鳴らしてあげようかと思っていたら、ようやく母親は気づいたようだった。自転車の後方10メートルくらい離れた歩道の一角に、小さな紺色の鍔つき帽子が転がっていた。
 運転中だったので、その後のことはわからないが、坊ちゃん刈りをした小粒な顔をした男の子が、飛んでしまった帽子のことを母親に伝える驚きの表情といったらなかった。かわいいと言えばかわいいのだが、必死であるような、情けないような、泣きそうな、何とも言えない顔つきだったのである。もし救いの手がないならば、泣きじゃくってその涙で辺りが洪水にでもさせられそうな気配であった。
 もし、大事な押し着せの帽子をなくしでもしようものなら、保育園でそれはそれは困ったことになるとでも咄嗟に感じたのであろうか。いや、その前に、母親に「どうしてすぐに言わないのよ!」と叱られる恐さもあったのかもしれない。

 結構、神経質な子だったのかな、と思えた。前のシートで運ばれていたのは弟だったかもしれないが、ちょいと「図太い」反応の弟に対して、対照的に何かにつけてピリピリとした臆病な兄きといった構図はよくあることであろう。
 その子はきっと保育園でも、弱気な子が被りがちないじめなどをかわすのに、毎日必死になっているのかもしれない。
 そんなことを考えるともなく考えていたら、自分自身の保育園の頃のことが蘇ってきた。と言ってもさまざまなことではない。入園当初の、心細さと情けなさで半パニック状態となっていた頃のことである。
 家では大きな顔をしているくせに、いざ保育園というまるで勝手の違う空間で過ごすようになったことがとんでもなく心細かったようなのである。

 当時母親がガソリン・スタンドの事務か何かで勤め始めたため、入園当初は父親に手を引かれて保育園まで通ったような記憶が残っている。どうも最初の頃は大いに愚図ったようであり、そのためか、父親は、下駄箱が置かれた玄関付近の窓から、お父さんはここにいるからね、という意味合いでしばらくは保育園内に「滞在」してくれたようなのだ。ニ、三日のことであったらしい。自分は、お遊戯か何かをさせられながら、チラッチラッと窓の方を見ては、父親がいることを確認し、そして安堵していたようなのである。
 ところが、父親もこんなことをこの先毎日続けるわけにはいかないと思ったらしく、「試し」にと思い、腰をかがめて窓から姿を隠したのだった。それが修羅場への火蓋を切ることに繋がってしまったという。情けない子の心細さに突如として火が付き、お遊戯中の中央広間の真ん中で、自分は手がつけられないほどの声を上げて泣き出してしまったのだそうだ。
 実際を言えば、その時の実感は記憶にはない。なぜか覚えているのは、その後何度も何度もその折の惨めな光景が両親によって語られたからなのであろう。

 わたしは、通勤中のクルマを運転しながら、そうした「心細さ」という感覚がどんなものであったのだろうかと反芻しようとしてでもいるようだった。
 子どもにとっての「心細さ」というのは一体どんなものであるのかを振り返ろうとしていたのかもしれない。
 真っ先に思い起こしたのは、芥川竜之介のあの『トロッコ』という小説であった。あそこには、「無情さ」を日常とするかのような大人の世界に、子どもが紛れ込んでしまった際に感じる違和感そのままの「心細さ」の感覚が、リアルに抉り出されていたかと記憶している。
 いまひとつは、昨日か一昨日にまたまた痛ましくも発生してしまった、いじめが原因での中学生の自殺事件である。これについては、「心細さ」という範疇を超えた精神的「激痛」であったのだろうが、「心細さ」の感覚が入口となった、人間の孤独な洞窟とでもいうものを見せられてしまったかのような印象もある。

 大人になってしまうと、子ども時代には素直に感じることができた「心細さ」への感覚というものを、開き直ることで隠蔽してしまっているのではなかろうか。
 自転車の「後部座席」で見せていた、今朝のあの子の一瞬の表情にとらわれたのは、そこに滲み出していた「心細さ」というものが、人間、誰にとっても真実の感覚だと直観したからなのかもしれない…… (2006.10.16)


 仕事上のちょっとしたことが時代状況の一角を照らし出してくれたりするものだ。
 弊社では、ソフトウェアだけではなく測定器などのハードウェア装置についても請負ってきた。したがって、基板作成を含むようなジョブの見積依頼をうけがちである。
 時代の趨勢は、もちろんそうした装置の「高性能化、小型化」のための再設計が多い。そしてそのために、基板回路に、「最新の高集積チップ(IC、LSI、システムLSIなど)」を組み込むことがめずらしくない。
 これが当然のことだと思い込んでいたところ、最近、全く別の意向が顧客側から伝えられたのには意表を突かれた。そうした、「最新の高集積チップ」を使わずに、従来から存在する標準化され切った半導体部品であるトランジスタ、ダイオード、コンデンサ、サイリスタなど単機能の半導体素子を組み合わせて製品を製造したい、というのである。
 とかく、「最新の高集積チップ」はコストの面で安く収まることが難しいからであろうかと思っていた。それもあるにはあるようだが、今ひとつ別な根拠が潜んでいたようなのである。

 「最新の高集積チップ」は、時代が要請する電子製品の「高性能化、小型化」のために、切磋琢磨の上、日進月歩の勢いで作られている。がしかし、その製造と流通のスピード化は、逆にある種の盲点を同時に生み出しているらしいのだ。
 それは何かというと、市場に流通し続ける期間に保証がないということのようだ。
 確かに、半導体部品関係一般は、その「高性能化、小型化」が激しく、価格の陳腐化、低廉化もまた激しいのである。極端に言えば、まるで生鮮食料品のごとくなのである。
 と言うことは、半導体メーカーにしても、いつまでも『既存の』「高集積チップ」を作り続けるわけにはいかないのかもしれない。つまり、どんどん安くなっていくモノを作るよりも、より最新の「高性能化、小型化」半導体を作って市場価値の高いモノを出荷する方がペイするからである。
 と言うことで、ある時期に持てはやされた「高集積チップ」は、ある日突然に生産中止となり、そして市場から姿を消してしまう、という事態が発生するのである。
 こうなると、そうした「高集積チップ」を自社製品に組み込んでいて、なおかつ幸いにもその製品がロングセラー製品となっていた場合には、困ってしまうわけである。まあ、その時の最新の「高集積チップ」で置き換えれば済むと言えば済むわけでもあるが、当然そうしたモノを組み込むならばコスト高になることは目に見えている。早々、従来からの製品の販売価格を上げることも難しいことであろう。よほど、画期的な追加機能が加われば別かもしれないが……。

 こうした状況を迎えると、メーカ担当者の思いとしては、もう二度と半導体主要部品が生産中止となるという寝耳に水の事態は避けたいと思うのであろう。そこから、いつの時代になっても製造が続き、なおかつ業界市場から姿を消すことのない「単機能標準半導体」を使って自社製品を作っておこう、という判断が生まれるようなのである。
 こうした「従来から存在する標準化され切った半導体部品であるトランジスタ、ダイオード、コンデンサ、サイリスタなど単機能の半導体素子」のことを「ディスクリート半導体 【discrete semiconductor】」と呼ぶのだが、ここら辺を活用した製品作りという視点が、今、一方で注目されていそうなのである。
 ただ、こうなると、何が問題となるかと言えば、「ディスクリート半導体」を使って望まれた機能を達成する熟練技術というものがクローズアップしてくるわけなのである。
 現在では、どうしても扱いが比較的簡単でありながら高度な性能を果たしてしまう「高集積チップ」を組み込むことで賄うのが通例となり始めている。そして、そうした方式に慣れた技術者たちばかりを輩出しているということにもなる。古風とさえ言える「単機能標準半導体」を縦横無尽に使いこなす技術者はどんどん減っているということでもあるわけなのだ。

 ところで、わたしが、こうした事情にややとらわれたのは、こうした事というのは意外といろいろな分野でも生じているように思われたからである。
 そのひとつ、ソフトウェア開発でもまさに同様の事態がないわけではない。昨今の開発技術ツールは、かつての時代のそれらと較べれば「自動化」されて、技術者たちの力量や習熟度を補ってしまう部分が飛躍的に膨らんでいる。それは決して悪いことではないが、その分、かつてのソフト技術者たちが留意した様々な技術的要素を素通りさせることになってもいる。それもいいではないかと、そう言えないこともないが、困ることは、ユーザが長年重宝がって来て、未だに活用しているような旧来システムに問題が発生したり、あるいは改造をしなければならなかったりする場合なのである。
 そうしたかつての古いシステムのことを「レガシー・システム」と呼ぶが、そうしたシステムの面倒を見る技術者たちがどんどん減っていることが、決して小さくない問題だからなのである。
 もっと注意深く視野を広げるならば、こうした状況は各所で見受けられる事柄ではないのかという気がしている。
 時代が、新しいモノに向けで激流のごとく突き進んで行くのはそれはそれとして、背後に細々した様々な積み残し問題(バックログ)が累積していること、そんなことにもしっかりと目を向けていく必要がありそうだ。こうした鬱陶しい言い方を避けるならば、そうした「バックログ」に目をつけてビジネスを始めるのも一法であるのかもしれないと思われる…… (2006.10.17)


 自身の、「慢性化」してでもいるかのような「不機嫌さ」には困ったものである。かつては、その原因がほぼ「社会悪」「政治悪」に由来していると了解してきた。だから、それらに批判を加えることで何がしかの溜飲が下がったりもした。
 しかし、昨今は、「社会悪」「政治悪」の権化ともいう輩たちに向かって罵詈雑言を吐くだけでは虚しく思うようになっている。
 それと言うのも、今遭遇している現実は、そうした権化の輩たちだけが問題であるようなシンプルな構造ではなさそうだからである。むしろそうした輩たちに胸を張らせてしまう、いわばお膳立てをし、加担してもいる、「こちらサイド、手前サイド」の連中の存在が見過ごせなくなっているからなのだという気がしている。
 同じ立場なのだと楽観的に信じていいほどに、現社会は、単純でも、扱い易くもなくなっているのかもしれない。

 「こちらサイド、手前サイド」の連中と括った人々とは、客観的ないろいろな社会的条件からいって、概して、ともに手を携えて「社会悪」「政治悪」を糾弾して行ける可能性の高い人々だということになろうか。
 激化している「格差社会」の問題にしても、こうした時代環境によって不利益を被り、今後もますますその悲惨さ程度を深めて行く人々というのは、結局、一部を除いて大多数の人々のはずである。したがって、大方の人が、この趨勢に対して批判的に、否定的に受けとめても不思議はないわけだ。
 ところが、何をカン違いしてか、錯覚してか、こうした異常な趨勢を是認するばかりか、歓迎するというスットコドッコイがいたりするわけだ。自身が、「格差社会」の仕掛け人たちと五分で渡り合えると錯覚しているに過ぎない。競争原理は良いことだと、まるで「学校の徒競争」イメージで考えていて、一体どう有効に対処しようというのだろうか。仕掛け人たちは、ノーマルな競争イメージを看板にしながら、何でもありの手練手管を弄しているのがリアルな実情のはずである。

 「こちらサイド、手前サイド」の連中に対して、語調を荒げて批判の矢を向けるのは、やや臆するところ無きにしもあらずである。「社会悪」「政治悪」の権化たちのような「プロ」に対しては、何の遠慮もいらない。しかし、「こちらサイド、手前サイド」の「カン違い」をした連中は、事の実態と構造を知らないがゆえの、まさしく「カン違い」以外ではないだけに、批判の矛先が鈍りがちとなってしまうのだ。
 こうした「カン違い」連中で、見過ごせない影というのは、やはり若者世代だと思われてならない。
 ある種の年配の人々は、未だに自分たちが若かった頃の過去を現在の若い世代に感情移入して、とんでもなくズレた若者認識をしている。しかし、そうした認識がすべて外れているとまでは言わないまでも、大いにズレていることは否めない。自身の気持ちを落ち着かせるためにそうするのであれば、それはそれでもよさそうだ。しかし、「きっと、彼らも過去の我々と『同じ』なんだ……」と感情を、一人合点で落ち着かせてみても、さほどのことは始まらないようである。

 以上のようなことを感じ、考えている昨今、共感を覚える書籍に遭遇した。下記は、その巻頭ページからの引用である。

< 私たちの住むこの社会は、とてもひどく変わってしまった。1990年代の、「失われた10年」を過ぎてさらに5年。年間3万人以上の自殺者がうちつづき、一方で「勝ち組」の消費行動はバブルの時と変わらない。格差は拡がり、人々の間に人間的な交流はない。ただ、この国のコンクリートの上に、バラバラのまま群れているだけ。
 「正社員」の多くは過重労働でへとへとになり、もう何も考えられない。そして若者はそれを知っているから、「フリーター」「ニート」となっていく。
 多くの子どもと若者の精神にも、まずいことが起こっている。そうした子どもや若者は、摩擦を避け、表面的な人づきあいを「装って」こなし、一方で、その内側に、自分だけのファンタジーの世界を増殖させている。
 それは外部からはわからない。声をかければ、瞬時にスイッチングして、「いい子の自分」が表面に現われるから。無意識的な、ダブル・オリエンテーション(二重の見当識[けんとうしき]※注.)の使い分けだ。
 そんなふうに、他者との交流を断った、自閉する若者たちが、この社会を息苦しくないところに変える主体となるのは、どのようにしたら可能なのだろうか? あるいは、もう不可能なのだろうか? >( 野田 正彰『この社会の歪みについて―― 自閉する青年、疲弊する大人 ――』2005.08.10 )

 ※注. 「見当識[けんとうしき]」 現在の自分の状況を正しく認識していること。この見当識が低下して、自分のいる場所を間違えたり昼と夜を間違えたりするなどの症状が現れることを見当識障害という。精神医学用語。なお、評論家でもある野田 正彰氏の専攻は、「比較文化精神医学」。一目置いている良識人である。

 それにしても、この時代環境は、随分とこじれにこじれてしまったものだ…… (2006.10.18)


 すぐ身近で、烏の鳴声を耳にした。通常、電柱や屋根のてっぺんといった比較的距離のあるところで鳴く声を聞く場合が多い。それが、耳元とは言わないまでも、肩越しの背後辺りで鳴いたようだったからやや驚いた。
 振り向くと、歩道の街路樹の最下層の枝に掴まってこちらを覗き込んでいる。大きな嘴とクリッとした目つきである。羽が実に真っ黒に光っている。これが「烏の濡羽色」(黒く青みのあるつややかな色)っていうやつなんだな、と妙に納得する。
「何だよ、驚かすなよ」
と、言ってやると、何かをされるのかと警戒して、飛び立てるような身構えに入り、なおもこちらを見つめていた。
 意外とかわいいじゃないか、と思いながら、あることを思い出していた。

 一年ほど前だったか、クルマで旅行をした時のことである。自分は、ある観光地の二車線ギリギリの車幅の道路を走っていた。と、道路を挟む片方の頭上から、道路脇の反対側の魚屋の店先に黒い鳥影が飛び込んだ。かと思うと、店先に展示してあった板箱の中の魚一匹を咥えたが早いか、サッと飛び去ったのである。それはそれは鮮やかな手口だと言うほかなかった。
 きっと、魚屋の向かいの建物の屋根の上から様子を窺っていたものと思われる。店の者が奥に引っ込んだスキを見事に狙ったものであろう。しかし、何と度胸のある烏かと、妙に感心してしまった。叩き落とされたらただでは済まないであろう。ひょっとしたら、その「洗練された仕業」は、常習犯なのかもしれない、とも思えた。しかし、かと言って、魚屋が、「猫」の加勢を仰ぐというわけにも行かないだろうから、ウーム、烏っていうやつは、人の弱みまで見抜く手強い知恵者かと……。
 で、今日出くわした人を恐れぬ烏は、一体何の御用であったものか。
『オイオイ、そこ行くおっちゃん! そのポリ袋の中のお弁当、ちぃーと分けてはくれまいか。なんか、美味そうな匂いがするじゃんか。おいらは、朝からまだ何にも食っちゃいないんだ……』
とでも言いたかったのであろうか。ちょうど、駅前に開店した「オリジン弁当」での買い物の帰りだったのである。
 まあ、足を使う、いやその翼をせいぜい使って柿の実でも探すといいよ、と言ったつもりで自分は事務所へと戻った。

 が、烏を目にしたことで、自分の頭には、唐突に、「烏を鷺(さぎ)」と言いくるめる、ということわざが浮かんでいた。
 そう言えば、元首相はそんなことが得意であったかとか、いやいや現首相とてその点では負けず劣らずと言うべきであろうとか、いやはや「上」が「上」なら、「下」も「下」、自治体と悪質企業の「談合」事件に、大手企業の「偽装請負」事件……。このところ、「人を欺く」事象、事件が跡を絶たないのが情けない、と。競争社会は、「人を欺く」ことにおいても、「大いに競い合い、励まし合って」いるかのごとくだからだ。
 世の中、「上」も「下」も、「右」も「左」も、「真っ黒じゃござんせんか」のありさまである。そんな地獄絵図に絡めて、魚をかっぱらう程度の悪事を働く烏なんぞを引き合いに出すのは、烏もいい迷惑のはずであろうと、そんなことを思ったりしたわけなのである…… (2006.10.19)


 マス・メディア関係者における「質の劣化」は日毎に激しくなっているようだ。特に、ダラーッとしたTV番組には、その種のダラーッとした人種が群がっているのだと推測せざるを得ない。
 「知名度」が上がると目されているだろうが、人目につくというTVの「露出性」だけが意味のあること、価値あることだと錯覚されている風潮自体が間違っていよう。まるで、選挙ポスターの下劣な論理がそのまま踏襲せれているかのようである。何にせよ「知名度」だけを問題にしたがるお粗末な連中が、これっぱかりの羞恥心も持ち合わせず、一様にバカ面を曝して平気でいるわけだ。
 よく、「TVに出ている誰々だあ〜」と大騒ぎしている人がいたりする。相変わらずいると言うべきか、未だにいると言うべきか、とにかく困ったものだ。
 何でもいいから「目立ちたかった」と臆面もなく、単純バカそのままにセリフを吐く青少年が時々登場したりする。これは、こうした恥ずかしい社会的文脈が存在するがゆえの仇花なのであろう。
 そして、こうした文脈にへばりつくようにしてTV関係者たちが棲息しているわけだ。自身を、何やら特別な人種であるかのような錯覚を抱くことだけで活気づかせているような連中である。いいモノを作りたいという動機よりも、賑わしい雰囲気や制作「ごっこ」の雰囲気に浸っていたいというだけのことだと言ったら語弊があるだろうか。

 これほどに「口汚く」言うこともないかもしれなかった。が、「公共」の電波を使う側の立場について、とてもまともな認識があるようには思えない実情だから、手厳しくありたいのだ。
 そして、「公共」というニ文字を頓挫させているマス・メディア関係者は、低俗なTV番組でお茶を濁し続ける連中ばかりではない。もっと罪深いのは、報道関係者だと言うべきであろう。すべてがそうだというのではない。玉石混交だ。ただし、石、しかも良心的な人々の躓きの石でしかないケースがやたら多いのが実情のようだ。
 企業体である、マス・メディアとしてのジャーナリズムが、時代と時代を牛耳る時の政権、権力に対して阿(おもね)るのは、いまさら言うべきことでもない。ただあるのは、程度の差ということくらいであろう。
 社名を「政府広報」社と変えたとしても何ら支障がない新聞社、テレビ局から、旗印は「言論の自由」だと掲げていても、上層部の命で「自主規制」に「自主規制」を重ね着して本来の「公共」的使命を棚上げしてしまっているところまでというのが、マス・メディアの情けない実態であろう。

 ところで、今、「公共」という言葉を使ったが、「公共」の電波なり、さまざまな「公共」的分野での権限を与えられたマス・メディアは、その特権的立場をしっかりと市民、国民に還元すべく立ち振る舞わなければならない。自社の経営的メリットというような私的な観点で動くなんぞは論外であろう。
 ただでさえ、時代は「公共」という視点を限りなく希薄にさせてしまっている。政府でさえ、「格差社会」を後押ししながら、社会全体すなわち「公共」領域の、その「下層」部分は切り捨てる選択をはばからなくなっている気配である。
 こんな時代だからこそ、ジャーナリズムは、「公共」のみじめな未来を常に思い描き、そこから現在時の問題を掘り起こす姿勢をもたなければいけない。そんな姿勢のマス・メディア経営者は、公式表明を別とすれば、先ずいないだろうが、若いジャーナリストにはいるのだろうか。
 聞くところによれば、昨今は、一方でその勤務状況が「3K」的だとして辞める者たちが跡を絶たないそうである。また他方では、何の疑問も持たずに、「社」の命に従って、結果的に本来のジャーナリストの使命を置き去り、棚上げにする者も少なくなくなったとかである。

 きな臭い時代となっている現在、悲惨な戦争へと驀進してしまった戦前の時代状況を、再度思い出す必要が、きっとあるはずなのだ。戦争と、「言論統制」=「新聞、ジャーナリズムの使命放棄!」という「醜悪な二人三脚」の姿から目を背けてはならない。
 この点に関して、現在のジャーナリズム、マス・メディアはあまりにも真摯ではない、とわたしの感性からは見受けられる…… (2006.10.20)


 昨日のニュースで、以下のようなものに目が止まった。

<米NBC、テレビ報道中心に700人削減
 【ニューヨーク=八田亮一】米テレビ・映画大手のNBCユニバーサルが大規模リストラに乗り出す。2008年末までに、テレビの報道部門を中心に人員の5%に相当する700人を削減。午後8―9時の番組を多額の制作費を必要とするドラマから、安価なゲーム番組などに切り替える。年間7億5000万ドルのコストを削減。経営の軸足を成長分野のデジタルメディアに移し、2ケタ増益を目指す。
 米3大テレビネットワークの大規模リストラは過去数年では初めて。インターネットメディアの台頭でテレビ広告収入や視聴率が低下したため、NBCは7―9月期までの4.四半期連続で減益を記録した。同様の動きがABCやCBSにも広がりそうだ。
 人員削減の対象となる報道部門では拠点の集約を進める。CATV(ケーブルテレビ)向けニュース専門局のMSNBCは、ニュージャージー州にあるオフィスをニューヨーク市のNBC本社に統合。カリフォルニア州では地方系列局、NBC、MSNBC、経済専門局CNBCの拠点を統合して、年間15億ドルの取材費用を削減する。>( NIKKEI NET 2006.10.20 )

 とりあえず、以下のポイントに着目しておこう。

1.<インターネットメディアの台頭でテレビ広告収入や視聴率が低下した>
2.<テレビの報道部門を中心に人員の5%に相当する700人を削減>
3.<人員削減の対象となる報道部門では拠点の集約を進める>
4.<番組を多額の制作費を必要とするドラマから、安価なゲーム番組などに切り替える>
5.<同様の動きがABCやCBSにも広がりそうだ>

 昨日、マス・メディアについて思うところを若干書いた。その際にも気掛かりだったのは、現在のような激しい時代変化の中にあっては、マス・メディアも厳しい影響を被らざるを得ないだろう、しかも、そのことによって、提供される「内容」がさらに劣化していくだろう、ということであった。
 まあ、TVなんぞ見なけりゃいいんだと言ってしまえばそれまでである。ただ、その言い方は、「BSE問題が残された牛肉なんぞは、要は買わなきゃいいんだ」と個人問題に解消してしまい、検査体制などの社会問題として考えない発想と似ている。それではいっさいの社会問題は消失してしまうだろう。
 それはともかく、上記の記事のような趨勢は、きっとこの日本でも起こるに違いないと思われる。
 つまり、ケータイをも含むインターネットの普及によって、<テレビ広告収入や視聴率が低下>という現象は遅かれ早かれやってくるということだ。<同様の動きがABCやCBSにも広がりそうだ>と断わられているのは、この傾向が個別現象でないことの証しであろう。

 それで、次に生じるのが<大規模リストラ>ということになる。これもまた特殊な方策ではなく一般的な選択であろう。
 で、ここからなのであるが、その<リストラ>の対象が、<報道部門>を中心に展開され、なおかつ<報道部門では拠点の集約を進める>ということも加わるという点に注意を向けていいかと思う。これが、企業体としてのマス・メディアの偽らざる心根なのであろう。
 <報道部門>はカネにならないと言いたげであるかのようだ。うるさいことを主張するスタッフもいることだし、とも聞こえてくるようだ。この際、社の方針、指示に対して従順なスタッフだけを残して<リストラ>するならば、経営もさらにやり易くなるに違いなかろう、という意図まで見えてきそうである。
 おまけに、<拠点の集約>を進めるならば、スタッフたちは忙殺されて、細かいことに拘泥するヒマもなくなり、報道の自由だ、真実だと言ってはいられなくなる……、ということも考えられたのであろうか。

 この国、日本でも、国家財政の逼迫という御旗を掲げた福祉の切り捨てがまかり通っているご時世である。逼迫財政を楯に取るならば何でも推進できるという荒っぽさが危険であろう。
 こうして、企業体のマス・メディアは、「公共」的な使命を軽んじたり、歪めたりする可能性をじわじわと高めてしまうのであろうか。報道活動の質の劣化が、報道内容の歪みに跳ね返ってしまうことくらい誰でも想像できることであろう。
 また、<番組を多額の制作費を必要とするドラマから、安価なゲーム番組などに切り替える>という方針も、恐れ入る。日本では、安いペイで集まるお笑いタレントたちにバカ騒ぎをさせるトーク番組や、そうした類似番組がすでに目障りとなり始めていそうだ。

 だが、こうして視聴者たちを頭からなめてかかっていると、やがてTVを視聴するというより、その前に居るのは、老いたる肥満の猫だけという輝かしいゴールに至るのではなかろうか。その時の番組スポンサーは、きっと、キャッツフード・メーカーということになるのだろう(♪チャンチャン♪)…… (2006.10.21)


 この二、三日、体調が思わしくなかったので、できるだけ早目に就寝していた。多分、睡眠が芳しくなかったからだろうと思ってのことである。いつも気づかされるのであるが、睡眠の質が健康状態をかなり左右するかのようである。昨夜は熟睡できたからであろうか、今日は良好な気分に回復したようだ。

 気分のよしあしは簡単に判別がつくようだ。要は、日常の些細なことを億劫がらずにこなせるかどうかがリトマス試験紙となるのである。
 気分が優れない場合というのは、何かにつけて前向きでなくなる。そんな時に、ちなみにどういう状態となっているのかと気にとめてみると、ああこういうふうになっているのか、と気づくようである。
 やらなければならない何かを想起した時に、まるで脳内回路にマイナスの「脳内物質」が放出されたかのように、突然、「嫌ぁーな気分」となるのである。そうすると、前向きな思考と行動とにじわーっとブレーキが掛けられたかのようになるのだ。
 この「嫌ぁーな気分」に抗して行動を起こすことはかなり難しいし、また、あえて敢行したとしてもろくなことにはならない覚えがある。
 そんな状態の際に考え、自覚したことは、この「嫌ぁーな気分」というのは、やはり、何らかの原因で脳内回路にマイナスの「脳内物質」が放出されているに違いない、というイメージなのである。

 つまり、人が「億劫な姿勢」となったり、「前向きな姿勢」となったりするということは、ああすべきだ、こうすべきだと道徳的当為レベルで云々しても効果的ではなく、むしろ脳科学的に分析し対処した方が合理的だと思えた次第なのである。
 脳の回路に、直接、「前向きな姿勢となってがんばれ!」という「当為」的メッセージを発令しても、ほとんど効果がないはずなのである。そうではなくて、何かにつけてブレーキを掛けがちとなってしまっている脳の疲労状態をこそ回復させてやることが、道理にあった対処法であるように思えるのである。
 昨夜の熟睡が効を奏したのか、今日の自分は、とても「前向き」となれているようである。天気も悪くはなかったため、ちょいとした家事をこなしたりもした。
 どうも一部の押し入れは、構造上湿気がひどく、革のジャンパー類がかびていたのだ。そこで、それらを表に持ち出し、刷毛で丁寧に除去するという、気分が優れない場合には考えられない面倒な作業をしたりしたのである。それらを日向に吊るしたりしてみると、そうしたこと自体がさらに気分を爽快にさせるようであったから不思議だ。

 とかく昨今の自分は、自分から好んでするかのように「美しくない国」の欺きだらけに目を向け、そうしては不愉快かつ不機嫌な気分に落ち込んでいる。バランスを取るべく、できるだけ楽しいことでも考えようとはしているが、異様に重苦しい現実に対抗できるような楽しいことというものは、そう簡単に見出せるわけでもない。
 しかし、気分のバランスについて考慮するというようなことは、あながち笑い事ではないのかもしれない。きっと、昨今増えていると聞く鬱病というような病状は、こうした気分のバランスの崩れが、脳内現象として固定化してしまった結果だとも言えそうな気がするのである。
 お手軽に言うならば楽しいことというわけだが、今ひとつ丁寧に言うならば、感動する、ということになるのであろう。多分、人間はこうしたものを、まるで空気のように必須とする存在なのかもしれない…… (2006.10.22)


 「ガス抜き」という、あまり耳障りのよくない言葉がある。ちなみに、広辞苑によれば「(比喩的に)組織内に鬱積した不満が噴出しないように、解消させること」とある。
 もちろん、この言葉の耳障りの悪さの根拠は、「作意性」(たくらみ)にあるのだろう。つまり、自然の成り行きを人為的に誘導しようとすることが、何となく美意識に触れるということなのであろう。
 今ふうの表現に換えるならば、重力原理に素直に従う「ハードランディング」に対して、重力原理となんだかんだと相談しながら着地する「ソフトランディング」という表現が似ているかもしれぬ。ただ、「ガス抜き」の方は、「着地」という最終課題さえウヤムヤにさせてしまう「たくらみ」さえ潜んでいそうだから悪質なのかもしれぬ。

 自分も、とあるソフト会社で管理職を仰せつかっていた頃、しばしばそこの社長から命じられたものであった。
「広っさん、あのプロジェクトもそろそろ『ガス抜き』が必要な頃だね……」
 つまり、メンバーたちの溜まったストレス解消のために、「飲み会」あたりを催してやってはどうかというサジェスチョンだったのである。
 まあ、六割くらいの比率で「王道」だと言って間違いではなかっただろう。メンバーたちも消極的であるどころか、楽しみにする向きもあったからだ。ただ、残り四割が「王道」ではないように思えたのは、酔って話し合うのがどこかに曖昧さを是認する向きがなきにしもあらずだからである。双方が、その場の気分に埋没し、まあそれでもいいかと思ったりしがちだからである。
 本来を言えば、ストレスの本当の解決とは、現実の客観的な原因を究明し、それを取り除く方策を具体的に追及しなければ果たせないと言うべきであろう。が、「ノミニケーション」とも呼ばれる場は、どうしても客観的な原因などを追跡するようにはならないのが道理だと思われる。

 なぜこんな話題について書くのかと言うと、TVなどでの「ニュース・ショー」というものが、まさしく庶民の鬱積する社会的ストレスや批判感情の「ガス抜き」機能を担っているように思われてならないからなのである。
 このところ、TVの「悪口」ばかりを書いていることになる。それというのも、庶民、国民の意識が、危機を危機として受けとめないでいることの原因は一体どこにあるのだろうかと気になっているからである。
 自民党のある良識のない政治家が、いつぞや選挙に関して、「国民は眠っていてくれればいい……」というホンネを吐いたことがあった。政権担当側の不見識な者たちは、国民の社会的不満の矛先が自分たちに向かうことをとにかく回避することに躍起となり、そのためには利用できるものを限りなく追及するものなのである。
 そう考えれば、TV番組ほど庶民、国民の感覚、意識を誘導するのに恰好な手立てはほかにないと言うべきであろう。大したことを言うわけでもないのに、連日カメラの前に立ち続けた前首相の目論見は、TVでの露出を最大限に利用すべしなのであり、政治家にとっての基本原則に忠実であったということ以外ではなかろう。また、もはや「伝説」ともなっている、新聞記者たちを追い出して「TVはどこだ、TVはどこだ」と叫んだ佐藤首相のキレた言動、その狙いもまた、権力側にとってTVは使い勝手のよい手段だということを図らずも露わにしたものであったはずだ。

 とにかくTVというものは、時の権力にとってはこの上なくありがたい味方であると思われる。茶の間、もしくは個人的空間という、どっちにしても無防備な場に、しかもほぼ毎日通じることができのだから、無意識に見ている視聴者に対しても少なからぬ影響を及ぼし続けることが可能だと見受けられるからである。
 一時は、こうしたTVの影響力が危ぶまれた時期もあったかに思う。他のメディアの攻勢その他で、TV離れ云々という言葉さえ聞こえていたかもしれない。とにかく、悪貨が良貨を駆逐するのたとえのごとく、魅力ある番組、骨のある報道番組は、粗悪な番組に取って代わられた。この推移には、単なる視聴率の上下だけではない何らかの「意図性」さえ感じられたほどだ。
 しかし、この国でのTVの実情は、意外としぶとく、まるでゾンビの印象さえ与える。インターネットの活用が直線的ではなく蛇行していることや、若者たちの新聞離れ、高画像TV放送への誘導などなどが、番組内容の質の低下という事態を埋めて余りあるTVの吸引力を発揮させているのかとも想像する。

 そこで、一体TVはどんな役割を果たしているのか、という問いなのである。もちろん、どんな問いも、何らかの関心と結びついているものだろう。ここでは、ますます嘆かわしく思える庶民、国民の政治的無関心という現状への悩ましさが横たわっている。
 こうした問いは、いわゆる「世論操作」という問題設定によって問われ続けてきた問題であり、決して新規性のあるものではない。だが、激変している情報社会の只中にあっては何度でも追跡されてよいテーマだと考えられる。
 とりあえず、TVの「ガス抜き」機能というような視点を取り上げようとしているが、「紙面」の制約(?)から後日に回さざるをえなくなってしまった…… (2006.10.22)


 最近、「Amazon.co.jp」で「古本」を買いはじめている。正確に言うと、「Amazon.co.jp」を通して「マーケットプレイス」と名付けられた登録業者、個人から購入するのである。先日は、はじめて「一冊1円」の新書版を取り寄せることにした。一冊あたりの「配送料、その他」が「¥340 」なのであるがそれでも敢行した。

 本来、「古本」というものは、神田神保町などをぶらついたり、所用で出向いた街の通りで見つけた古本屋に立ち寄ったりして、「たまたま」掘り出し物に遭遇する、というようないきさつで手に入れるのがベストであろう。
 「たまたま」見つけるという、偶然性、どこか「天から授かった」というような感じがうれしいわけだからだ。この点は、一頃の秋葉原のPCパーツショップで、何気なく掘り出し物のパーツなどを見つけることも同じである。

 しかし、最近の自分は、PCパーツにせよ、書籍にせよ、「ぶらり旅」で入手するケースが激減して、専ら、ネット検索の上でネット・ショップを利用することが通常ということになってしまった。
 まあ、欲しいモノが確定している場合には、「ネット検索 ⇒ ネット・ショップ」というありがたい入手経路がある以上、わざわざ、置いてあるかどうかのあちこちの店を歩き回る必要もないからである。
 もし、別段何か欲しいモノを探しているわけではなく、何かの拍子でその種の店を覗くことがあったとなれば、それはそれで何か偶然の掘り出し物を見つけようと心を騒がせたりすることに変わりはないはずである。

 ところで、冒頭に書いた「一冊1円」の本を、一冊あたり「配送料、その他」が「¥340 」也を出して買うという一事のことなのである。多少なりとも違和感が伴う事態である。
 「1円」で売ったり、買ったりというのは、どうも胡散臭い気がする。某システム・ベンダーが、官公庁からのシステム構築作業を「1円」で請け負うという話題も記憶に残っている。これなぞはまさに胡散臭い典型であり、そうした当該受注をトリガーにしてその後のより大きな受注を獲得しようとする算段であることは明々白々である。
 また、相変わらず採用されている営業戦略として、ケータイのハードを「1円」で売り、その代わりその後のランニング・コストであるケータイ通信料を確保するのだ、というケースもある。
 いずれにしても、当面の「破格」と見える数字が、均して眺めれば必ずしもそうではなく、言ってみれば「瞬間芸」のような瞬時の錯覚だということになる。

 では、「一冊1円」の本はどうか? しかも、「配送料、その他」で「¥340 」也を投ずる買い物はどう理解すればいいのだろうか。
 先ず、こうしたセッティングを許容する者は少ないであろう。自分のような変わり者以外には。本体価格よりも、周辺コストの方が高くつくというような組み合わせを、快くか、不承不承かは別にしても、これを受け容れるためには、何がしかの知識なり信念なりがなくてはならないはずではなかろうか。
 そもそも、なぜこうした組み合わせが受け容れ難いかと言えば,普通はそんなことがないからであろう。
 もし、蕎麦屋に入って、480円のもりを注文しようとした際、「お客様へ」という断り書きが目に入ったとしよう。そこには、以下のように書かれてある。
「当店のお品書きの価格は『本体』のみの価格です。箸や葱・薬味は別途ご注文ください。」と。で、「一律価格」の項を見ると、「箸……500円」「特注葱・薬味……980円」とあったとする。おそらく、椅子を蹴って立ち去る客が続出であろう。まあ、冗談話であるが。

 自分が、上記の購入「決断」を、しかも一冊だけではなく複数冊、もちろん別の本であるが、その「決断」をしたのは、どうということもなくただその本を入手したかったからである。もう絶版となっていたから、他から入手する手立てはなかったし、どこかで偶然見つけることも少なくなる一方だし……、ここで買うしかなかろうと思ったからなのであった。
 なぜ、「1円」なのかということにしても、古本の場合は理由は明らかなはずである。質量が小さくないし、保存状態が悪ければ本は傷む。つまり、保存コストが馬鹿にならないという事情があるからだろう。新刊本の廃棄もそんな点が無きにしも非ずだろう。
 で、残る疑問は、「配送料、その他」で「¥340 」也という点である。だが、これこそ今の時点ではいたし方のない事実だと見なしている。配送する側にとっては、中身が札束であろうが、ゴミであろうが手間は同じだということである。自分の場合は、もしホンキでこの古本を探し回るとすれば、高いガソリン代やら、自分の安くはない時間単価からすれば、十分に妥当だと解釈したのであった。

 しかし、どんどん貯まって行くガラクタ蔵書の質量のことに思いを向けると、ひょっとしたらそのうちに、一冊10円は負担しないと廃棄処分できないようなご時世となったらどうしようかと恐れおののくのである…… (2006.10.24)


 秋の到来が実感で感じられるようになってきた。日中、陽射しのある時にはさほどでもないが、朝晩の冷え方はやはり秋の時候以外のなにものでもない。
 しかし不思議なもので、もはや暑苦しい思いをした夏のことはすっかり忘れ去ってしまっている。ここいら辺が日本人ならではのことなのであろうか、見事に四季の移り行きに順応してしまっているかのごときである。いや、それを言うなら、日本人は忘れっぽいと言うべきか。
 そして、むしろ、昨年の秋、今ごろのことを思い出したりしている。一年が経つのはあっと言う間だと、ありきたりなことを思ったりしながら昨秋のことを身近に思い起こす始末である。
 昨年の秋から冬への時期は、人生凸凹道の凹、いわゆる谷間と言わざるを得ない期間であっただろう。ガタの来た身体に矢継ぎ早の変事が発生したからだ。
 ちょうど今ごろ、朝晩の空気が冷え込み始めた頃であった。あの「夜討ち朝駆け」でやって来た腰から下肢にかけての酷い痛みである。結局、「みのもんた」も手術で対処したという「腰部脊柱管狭窄症」が、寝耳に水という唐突さで襲ってきたのであった。
 客観的、一般的に言えば、50代後半ともなれば往々にして脊柱にひずみが生じ、そうしたこともまま起こるらしいが、それでもそんなことが自分の身に起きるとは想像だにしていなかった。
 だから、何が起きたのか掌握できず、最初は「ギックリ腰」だと自己診断し、やがて「坐骨神経痛」だと修正し、さらにものの本で知った「梨(り)状筋症候群」なんぞと想定する始末で、病院に通う過程で結局「腰部脊柱管狭窄症」という命名に落ち着いたのだった。幸い、外科手術というような大事には至らず、「ペインクリニック」というこれまでに訪れたことのなかった病院へ足を運び、「神経ブロック」療法という、要するに「麻酔注射」を打つ方法で、ウソのように収まってしまった。

 こうした、まさしく一身上に起きた突然の変事によって、自分の精神的内面は大いに揺るがされたようだった。二週間、三週間と続く、耐え難い痛み、鎮痛剤を服用しても収まり切らない痛みの到来は、人の生身の身体というものの脆さというか、現実的な実体とでもいうものに大いに目を向けさせたものであった。
 それまでは、体力が落ちてきたという程度にしか自分の身体には気を遣わなかったと言っていい。まあいろいろな不調もなかったわけではないが、それでも耐え難いような痛みが持続するような経験は皆無であった。それゆえに、身体というものにシリアスな目を向けることは先ずなかったと言える。
 その、高を括った楽観性が、大きく揺らいだのが、この出来事であったわけなのである。正直な実感として、何の痛みも伴わない健康な状態というものがどんなに幸せなことかという、今まで思いもつかなかった視界が開け、視点が生まれたものであった。

 が、昨年末の唐突な出来事はこれだけではなかったわけである。この足腰の激痛騒ぎが収まった直後に、追い討ちを掛けられたかのような変事が続いたのであった。
 油断をして放置してきた糖尿病が悪化して、血糖値が異常に高騰してしまったのである。先ずそれは体重の急降下となって現れ、異変に気づかされたが、結局、医者から「教育入院」を勧められるはめにまで至ったのだった。
 そして、師走月の二週間というその入院は、ややもすれば年末年始を挟むかという喜ばしくない事態をかろうじて回避しながら、年末ギリギリで退院することになったのだった。
 この入院は、治療こそ日常生活とさして変わらない生活教育的な内容ではあったが、自分にとっては、いや自分の精神生活にとっては、かなりインパクトのあるものだったと記憶にとどめている。
 折から、人の身体という面にシリアスな目を向けはじめていたこともあり、病院内での他の患者たちの悲痛な姿などを見聞したこと、自身の血糖値対策で行った食事療法や、毎食後の寒風吹き荒ぶ中のウォーキングなどなどが、惰性に流れがちな中高年の生活に、またとない緊張感を与えてくれたものであった。

 そんなこんなのちょっとした人生の「谷間」に遭遇しはじめていたのが、ちょうど去年の今ごろだったということなのである。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」というほどの愚は冒していないつもりではある。が、かと言って、決して模範囚のごとき改悛の情を抱き続けて日々お勤めしているわけでもなさそうな昨今である。
 朝晩の冷え込み始めた今ごろからの空気のあり様は、いろいろと姿勢を正していくためには、ちょうどよいシリアスな空気になるのかもしれない…… (2006.10.25)


 その昔、「怒りの小金治」という異名を取って人気を集めた「アフタヌーンショー」というTV番組があった。1960年代後半から80年代半ばまで続いた、ニュースショー×トーク番組といった番組であり、落語家・桂小金治が司会を務め、その小金治がニュースのそれぞれに対して庶民感覚で「怒り」をぶつけるスタイルが視聴者から大いに受けた模様であった。
 古い話を出したのは、現在、TBSで午前中(5:30〜8:30)に放送されている『みのもんたの朝ズバッ』という番組での、「みのもんた」が、往年の「怒りの小金治」をリバイバルしているかの印象があるからなのである。
 最初に言っておけば、この番組を褒めようとしているのではない。むしろ、否定的な感想を述べようとしている。
 本来は良くない習慣なのだが、出勤前の朝食時に、観るとはなくかけっ放しのチャンネルとなっており、観るとはなく見ている。
 最近は、そのビジュアル的受けねらいの意図があってか、あちこちの番組で、電車の中の「週刊誌吊るし広告」を模して提示する番組が増えているようだ。当然、このスタイルを採るかぎり、話題内容が「紋切型」×「ステロタイプ」の視点で裁断されざるを得ないのは言うまでもない。事件その他を、「ワンフレーズ」表現へと誘導しようとしていることは歴然としている。
 そしてこの番組でも、まさしくニュースの紹介メニューをこの「吊るし広告」デザインで、しかも畳で3〜4畳あるかのようなドデカイパネルで構成して使っているわけだ。
 また、みのもんた得意の司会スタイル、「伏せ文字」部分を順番に剥がしながら説明とも言えない説明をしていくという、安直なプレゼン方式丸出しの音声付なのである。
 そしてところどころで、「いいですか!」という口癖の言葉をはさみながら、「怒りの小金治」的パフォーマンスを披露するのである。ただ、時代もこんなふうに醒めた時代であるためか、「怒り」のパフォーマンスはきわめて小粒サイズにとどめているようだ。
 取り上げられるニュースの話題は、頻発する凶悪犯罪事件、役所の不祥事事件、北朝鮮問題などまさに上記の「吊るし広告」に見合った週刊誌ネタそのままである。最近は、(教師による)いじめ原因での子どもの自殺問題を頻繁に取り上げている。ちょっと前までは、わが子と近所の子を殺害した若い母親の事件を執拗に扱っていたようだ。

 さて、こうしたTV番組の、一体、何がどうだと言うべきなのだろうか。いや、そんなに目くじらを立てることもなく、見流し、聞き流していればいいのかもしれない。
 だが、あえてこだわるとするならば、現在の多くのマス・メディアが果たしている代表的な機能を、いかんなく発揮していると見受けられる、ということになる。そして、その機能とは、先日来書いてきた「ガス抜き」のことを指しているのである。
 もともと、今日のマス・メディアが庶民大衆に情報を提供する目的は、何か重要なことを知らせるという本来的なことよりも、「カタルシス(感情浄化)」(※注.)機能にはるかに重い比重が置かれていると思われる。これは、本来的な「ニュース番組」などの比重はかぎりなく小さく、アミューズメントの比重が圧倒的に大きい現状のマス・メディア状況を見ても端的にわかることであろう。

 ※注. 「カタルシス(感情浄化)」
 @ アリストテレスは悲劇の目的をパトス(苦しみの感情)の浄化にあるとした。最も一般的な理解では、悲劇を見て涙をながしたり恐怖を味わったりすることで心の中のしこりを浄化するという意味。
 A 精神分析の用語。抑圧されて無意識の中にとどまっていた精神的外傷によるしこりを、言語・行為または情動として外部に表出することによって消散させようとする精神療法の技術。浄化法。(以上、広辞苑より)

 これらを裏返して言うならば、マス・メディアの受け手の多くは、未知の情報を入手したいという動機もさることながら、それ以上に、私生活・社会生活で「しこり(ストレス)だらけ」となっている内的状態を、何とか解消したい(浄化したい)という衝動に駆られている、ということになる。この構造は、古代ローマの市民たちが、コロッセオで行われたグラディエーター( GLADIATOR、奴隷の競技者)たちの死の格闘を好んで観戦したことと何ら変わらないはずである。

 古代ローマの市民たちも多くのストレスを抱えていただろうし、支配者たちはその鬱積の矛先が上へと向けられることを何よりも警戒したはずであろう。そして、現代という時代もその点では何ら変わらない。
 まして、現状の社会矛盾と政治の貧困は、庶民、国民の「しこり」をますます増大させていることは間違いない。と言って、古代ローマ時代のような、過激な「死の格闘」をプロデュースすることはご法度である。
 となると、より効果的な「ガス抜き」機能が、様々な角度から用意されなければならず、勢いマス・メディアがそのチャンネル(水路・経路)として目される。

 みのもんたのニュースショーなどは、そうしたものの一部分でしか過ぎない。しかし、「ガス抜き」機能の手法は色濃く現われているように思われる。
 先ず、庶民感情に訴える空気作りが巧みになされていること、詳細な論議を省き、適度にやや過激な感情的振る舞いへと踏み込んでみせること、また、これが重要なことなのであるが、極力、問題を「個人(責任)問題」に閉じ込めて、本来、より深い組織や機構のあり方にこそ問題が根ざしているケースが多いにもかかわらず、その点を覆い隠してしまう点などが挙げられる。たとえば、教師によるいじめ問題にしたところが、個々の教師や、校長がどうこうというような単純な問題てはなかろうと思われる。何故に、「教育委員会」という胡散臭い組織をめぐっての、長い歴史の紆余曲折があったのかを考えれば、その組織と、中央省庁の政策に根本原因が由来していることは火を見るよりも明らかではないか。
 上述の最後の点、問題の個人還元という扱い方は、なぜこんなにも社会問題が噴出している時代に、凶悪化しているとは言え、個人レベルの犯罪の報道に多大な時間を割くのか、という常々感じている疑問とも、奇妙に符合しているように思われてならない。
 洞察をもって考えれば、個人レベルの凶悪犯事件にしても、社会的背景が重要な遠因となっていることは誰だって推測しているはずではなかろうか。どうも、庶民、国民に真実を悟らせないための操作・誘導の意図が、見え隠れしていると思われてならないのである。
 「ガス抜き」とは、一見他愛のない言葉ではある。だが、マス・メディアは、全国各地に投げられた巨大な投網(ネット)である。膨大な人々が影響を被り、そうした状況下で選挙などの政治的選択が行われる。現在のマス・メディアの立ち腐れが問題視されないかぎりは、残念ながら変革はあり得ず、嘘八百の「カイカク」のみが虚ろにこだまし続けるのであろうか…… (2006.10.26)


 いま時、「人類の未来」の視点に立って……、なぞと「人類」云々を言う者は、残念ながら首を傾げられそうなご時世となっている。
 国と国との戦争、人種と人種とのいがみ合い、組織と組織の軋轢、そして醜く死闘を繰り広げている個人と個人。こうした現状では、「違い(差異)」ばかりが刺々しく取り沙汰され、人間としての「共通点」なぞまったくと言っていいほどに黙殺されているようだ。言うまでもなく、その「共通点」とは、今日に至るまで何億年も掛けて、進化に進化を重ねてきた結果、獲得され、形成されてきたもののはずである。決してジョークでもなんでもなく「人類みな兄弟」と言われるのは、実にそうした進化のための膨大な時間を繋いできた者たちだからなのであろう。

 なかなかこうした膨大な時間経過を意識させられることはない。他者との「違い(差異)」ばかりに拘泥させられる世の中にあっては、自分とか、自分たちの存在だけが視野に収まり、自分と同様にこの一瞬、一瞬を過ごしている「同胞」たちの姿が目に入らないというのが実情であるのかもしれない。
 仮に、視野に入ったとしても、自分と同じ人間だという観点はとられにくく、最良の場合でも競争相手だとして見なされ、最悪に至っては抹殺すべき敵として捉えられてしまう、そんな作法なのかもしれない。
 また、この作法が採られているのは、何も血みどろの国際関係の領域だけのことではない。個人たちのありふれた日常生活で、さらに大人たちの社会だけでもなく子どもたちの間でも、結果的に人の死をも誘う「いじめ」というような形で淡々と採用されていたりする。

 こんなご時世にあって、人は、自分と他者とを含めた人類というような、幅広い観点、寛容な視点に立つことなぞあるのだろうか。言葉の上だけではなく、そうした視点への実感を呼び覚ますような、そんなものが果たしてあるのだろうか。
 もしそうしたものがあるとすれば、人の心はどんなにか和み、救われるかと思ったこともある。自分の場合、科学などの広大な知の世界というものを思い浮かべた時に、様々な人為的なボーダーが消えて、それとともに種々の雑念やら不安な気分が薄まり、とにかく解放(開放)的な心境になれた覚えがある。
 たぶん、人の意識に不可避的に影をおとしている個人としての死の観念とそれへの恐れにしても、もし、そうした広大な視点に立てるならば、大きく和らげられるに違いないのではなかろうかと感じている。それと言うのも、人が死を恐れるのは、個人という枠を越えた何らかの実体が信じられないでいるからかもしれないからである……。

 さて、前置きが長くなってしまった。
 「広大な知の世界」へと触発するものに出会うことはうれしいことだ。書籍にしても、他のメディアにしてもそうしたものは、文句なく人に感動を与える。その感動の根底には何かが潜んでいそうである。きっとそれは、個人という殻に閉じ込められ、不自然な雑念で雁字搦めとなっている人間に、個人という殻を越えた広大な世界の実体性を指し示す働きではないかと推測する。
 日頃、バカにしているTV番組にも、そうした素晴らしい視点を内在させたものがあったりする。つい先日観た<NHKスペシャル「赤ちゃん 成長の不思議な道のり」(2006年10月22日(日)午後9時〜9時49分 総合テレビ)>が、それである。
 「広大な知の世界」(=科学)に立脚しつつ、なおかつ、人類の進化の過程を照らし出すとこれまでにも言われてきた「赤ちゃん」の脳の成長過程が見事に浮き彫りにされていたのである。NHKサイトの番組紹介は次のようになっている。

<「私たちの一生で、もっとも脳の潜在能力が高いのは、いつの頃か?」―――この問いに最新科学が明らかにした答えは驚くべきものだ。じつは生後8か月頃から1歳前後だというのだ。脳のなかで神経細胞同士の情報伝達を担うシナプスはその時期ピークに達したのち、早くも減少に転じてしまうのである。生まれた直後の赤ちゃんの知覚能力がきわめて高いこともはっきりしてきた。たとえば、赤ちゃんは世界中の言語の微妙な発音の違いも区別できる。つまり私たちは、いったんできたことが成長とともにできなくなるという不思議な道のりをたどっているのである。いったい、なぜそんな遠回りと思える道のりがあるのか?
 そこには、人間らしい能力を獲得・発達させるための秘密が隠されている。赤ちゃんの最新研究からは、自分の環境に最も適した能力を選びとっていく姿が浮かび上がってきた。番組では、赤ちゃんの1年にわたる成長を実際に追い、最新の測定技術を駆使して画像化した赤ちゃんの不思議な成長のプロセスを探る。>

 感動を伴い知らされた点は、三点にまとめることができる。
 第一点目、生後まもない赤ちゃんには、「歩行能力の名残」があるという点。実際、赤ちゃんを支えて足を地につけさせると、知るはずもないはずなのに、足腰はほぼ歩行の姿そのままを実行するのである。この能力はニ、三ヶ月で消えてしまい、一歳前後に実際一人で歩行できるのを待つことになるわけだが、この生得的である「原始的」な擬似歩行能力というものは、人間への進化以前の人類の過去を彷彿とさせるものであった。また、赤ちゃんの脳というものが、何やらとてつもない潜在能力に満ちていることを示唆していた。
 ただスヤスヤと眠ってばかりいるように見える赤ちゃんではあるが、実は、その間にも聴覚は周囲の人間(親たち)の会話音に、脳内部で反応しているのである。後日の親たちとのコミュニケーションに備えた学習であるようなのだ。

 第二点目、これが驚き以外ではなかった。赤ちゃんの潜在能力という点が、人間の脳活動の本命である「シナプス」の数量によって裏づけされていたのである。
 「シナプス」というのは、脳がさまざまな思考や行動を形成するにあたって創り出す瞬時、瞬時の回路の、その結節点となるものである。「ワン・パターン」という悪口があるが、「シナプス」の数量が多ければ多いほど思考と行動のための「パターン」数が増大して有能であれる可能性が高いということになる。
 上記の紹介文にもあるとおり、<生後8か月頃から1歳前後>に、シナプスの数は人生で最も多くなり、ピークに達するというのである。
 どうも、この事実は、赤ちゃんが、生まれた環境のどんな状況にも対応して思考と行動の「パターン」が選べるように、いわばたっぷりとした「シナプス」の「スペア」が用意されている、といった印象であった。だから、生まれた環境を了解し始める一歳前後を過ぎると、「不要」となった「シナプス」が消滅して、活用可能性の高い「シナプス」のみとなり、その数量が減少していくらしいのである。
 こんなことが仕組まれているのも、膨大な時系列で進化の過程が積み重ねられてきたからというほかなさそうである。
 こうした事実を知らされると、とにかく人類が生き延びるために膨大な時間をかけて進化を遂げてきたことに、ただただ畏敬の念を抱かざるを得ない。自身で簡単に死なぞを選ぶべきではないし、また他者を死に至らしめることもとんでもない選択だということになるわけである。

 第三点目、これも従来から当然視してきたひとつの事実ではあるが、あらためて意を強めることとなったものである。それは、人間の脳活動は、対人関係を取り結ぶ状況が最も活発になるという事実なのである。
 その例証は二つの点で立証されていた。ひとつは、赤ちゃんが脳内においてどう言語の発音に反応するかという実験で、いわゆるTVのようなマルチメディアの画像音声の場合と、直に人物の振る舞いに接する場合とが比較されていた。後者の方が圧倒的に大きなレスポンスを返していたのである。
 もうひとつは、赤ちゃんが座ったり、這ったり、歩いたりすることを始める誘因としては、同世代の子たちと接触し、そうした行動に接することが有力な材料となる、ということなのである。
 きっとこれは、何も赤ちゃんにかぎらず、あらゆる世代の人間がものを学習するに当たっては同様のことが言えそうだと思われる。
 現在の学校の(集合)教育が、裏目に出ていそうなことや、さまざまな学習教育場面で、生身の教師の振る舞いがマルチメディア教材に淡々と置き換えられている実情などが、ちらっと脳裏をよぎったものであった。

 それにしても、赤ちゃんが、目から鱗が落ちるようなことを教えてくれるとは…… (2006.10.27)


 今週は、休みをとって二泊三日の小旅行をした。電車を使っての、伊豆は河津への温泉旅行であった。涼しくなってきた今頃の骨休めということになると、やはり温泉地を選んだのだった。
 温泉旅行としては箱根や、伊豆の伊東にはこれまで何度も訪れているが、河津は久しぶりであった。やや遠方だということもありこれまで敬遠してきたのだろう。
 河津駅に着いてみてやや驚いたことは、ウイークデーということもあってか、実に閑散としていることであった。通常、温泉地の駅前には、電車の時刻に合わせて観光客を出迎える旅館やホテルからのスタッフなどがのぼりを立てたりして蠢いているはずである。が、誰もいない。降りる人とて一桁の数でしかなかった。
 何となく心細い気にさせられたりした。確かに自分は、賑わい過ぎた観光地は好まないから、人気が少ないのは結構この上ないはずである。しかし、こうも少ないとなると寂しさをとおり越して、大丈夫かなあ、というような不安がよぎったりする。
 しかも、駅前だというのに、町の住人の人影もまばらなのである。また、駅前広場を囲む店々も実に活気が失せていた。やっている(営業している)んだか休んでいるんだか判然としない雰囲気なのだ。
 まあいい、静かに越したことはない、と気を取り直し、先ずはホテルに連絡をして送迎車を頼むことにした。

 ホテルに着いてみると、またまた意表をつかれたのである。その日は、われわれの他に一組のカップルが居合わせたものの、翌日以降はわれわれだけということだったのである。
 フロントで聞いた言葉、「明日は『貸切』となります」を、われわれは当初、じゃあ明日はどこかの団体さんご一向が来て混むんだな、と勘違いしてしまった。おふくろなぞは、「酔っ払いが騒いだりするといやね」と顔を曇らせたりしていたものだ。ところが、そんな余計な心配はするに及ばず、要するに実情はわれわれだけの「貸切」なんですと冗談を言われたのであった。
 そんな「貸切」状態であったため、幾分かのスカスカ、スースーした雰囲気がないではなかったが、その分、これまでに味わったことがない実に優雅な気分を堪能することもできたのである。
 先ず、温泉は屋内も露天も、他人の裸姿を見ることもなく、自家風呂のように自由気ままに利用することができた。広い温泉にたった一人ぽつねんと入っていると、腹の底からのんびりとした気分になれる。ただ、ここでも、あれっ、自分は一体どこに来ているんだ? という不可解さに襲われないでもなかったのである。

 文句なく「貸切」ならではの「セレブ」気分に浸れたのは、25M温水プールを完全に独り占めできたことであろうか。初日は、先に来ていた若いカップルが二人っきりでわがもの顔で泳いでいたが、その後は、自分と家内だけで好き勝手に利用することができたのであった。
 屋外温水プールであったが、幸い陽射しもほどよくあったため決して寒いという気にはならなかった。また、温泉地のホテルによくあるような、形ばかりの狭い温水プールというのではなく、しっかりと泳げる広さがあった。そんなことで、秋のこの時期に思いがけずたっぷりと水泳を堪能することができたのだった。
 プールサイドには、人気がないためであろう、この庭を棲みかとしているらしい野鳥(セグロセキレイ)がつがいでチョコチョコと散歩をしている。そんなのどかな姿を眺めながらの水泳は、まさしく「貸切」プールならではのことであった。

 今年は、夏には夏休みらしいことができなかっただけに、予想外に空いた温泉地でのこうした静かな休暇は、実によい気分転換となった。まさか、この時期に屋外でたっぷりと泳げるなぞとは思ってもいなかっただけに、身体の方もリフレッシュされたかのようである。長年抱えている「五十肩」も、集中的にクロール泳法をしたことで幾分良くなったかのようでもある。
 それにしても、やはり、都会からやや距離のある温泉地の寂れ方というのは想像を超えていた。そこそこの規模のホテルが、全館で一日に一組、二組の客しかなくて、一体どうやって賄ってゆくのだろうか。他人ごとではあっても心配と同情の念を禁じ得なかった。こう考えると、温泉とて無い、観光地でもないような、平凡な地方都市のその実情ということになれば、さてどう推し量ればいいのだろう…… (2006.10.28)


 休みの日だというのに、今日は日がな一日PCと向き合ってしまった。朝一のウォーキングから戻り、汗を流した後、書斎に潜り込んだ。そして、はっと気がついたら6時過ぎで、すでに窓の外は真っ暗となっていた。まあ途中食事その他はあったものの、久々に時間の過ぎ行くのも忘れたPC作業をしてしまった。
 PC作業といっても、仕事絡みではなくデザイン関係の趣味的な作業である。と言っても、何が仕事に役立つかわからない時代であるから、先行投資的な文脈がないとも言えないのかもしれない。

 自分にとっては新しい、とあるアプリケーション・ソフト上でのツールを使い、簡単な造形作業をしていたのである。ところが、そのツールは非常に「優れもの」であって、ついつい魅了されたといったところであろうか。
 こうした作業をしていると、文字通り時間の過ぎることを忘れ没頭してしまう。やはり、何がしか造形的である作業というのは、肌に合っているようだ。ついつい、いろいろと工夫も促されるし、思ったとおりにうまく行ったりすると充足感も生じ、元来根気が必要と思われる作業であったとしても、一向に疲れが出ず、次から次へと作業を進める結果となる。つまり、特にやらなければならないことが無い限りは、ついついそうした時間を超越したかのような至福の時に身をゆだねてしまうのである。

 こうした時には、日頃の雑念をも脳内から追放してしまっているような気がする。少なくとも、重っ苦しさだけをもたらす懸案事項などは棚上げにしてしまっている。
 脳裏をよぎる断片的な事柄といえば、まるで夢の中のような、深刻な脈絡がない、言ってみれば他愛ないことばかりである。
 こうした好きなことに没頭していて、それがビジネスとなれば申し分ないのだがなあ、とか、現在でも、高級な職人さんたちは、こんなふうに日がな一日、また一日と淡々と過ごしているのだろうか、とか、あるいは、何かの拍子で、ほとんど何の脈絡もないようなかたちで、かつての知人のことをふと思い起こしたり……、まるでうつらうつら夢を見ているような穏やかで、なだらかな気分に浸ることができる。だからきっと、精神衛生上も悪くないことであるに違いないと見なしている。

 ところで、上に書いた「こうした好きなことに没頭していて、それがビジネスとなれば」という点についてである。
 「豊かな社会」という視点が持てはやされ時代には、もはや仕事、職業は「好きなこと、やりたいこと」の延長線上で見つけよう、というようなことが取り沙汰されたものだった。生計を立てるためだけに働く時代は終わったとばかりの楽観性が花開いたような雰囲気であった。
 しかし、バブル景気崩壊以降の長い不況と、今日迎えることとなった「格差社会」の厳しい現実にあって、「好きなこと、やりたいこと」を職業にという選択はかなりリスキーなものとなっているのであろうか。
 もともと、何はともあれ「公務員」というように判断して、自分の人生の可能性をまともに考えないような人々は昔からいたものである。それはそれでしょうがないと言えばしょうがないわけだが、こうした、生活の安定性から一歩も出られないような判断、選択が、昨今の経済不安の中で再び頭をもたげ始めているのであろうか。

 こうした不安定な経済と社会にあって、少しでも安定性のある職業選択をと考える向きは十分に理解できる。
 ただ、自分の人生云々というような「高級」な話はともかく、現実的なレベルにおいても、やはり「好きなこと、やりたいこと」を原点に置いて生計を立てる道を探るべきなのではなかろうかと、今なお考えている。
 というのは、現時点が、生存競争の激しい競争社会だとすれば、その競争はとにかくあらん限りの能力を発揮して立ち向かわなければならないはずであろう。嫌々ながらのお仕着せの努力やら、慣れのレベルで対処したところで結果は見えていると思われる。
 で、ここで思い起こすべきは「好きこそものの上手なれ」ということわざなのである。確かに、趣味というレベルがすぐさま仕事となるほどに甘い実情ではありはしない。だが、仮にも趣味に向けられている当人の素養には、何がしかの磨けば光る能力、才というものが潜在しているに違いないと思われてならない。やはり、これを踏み台にしない手はないはずなのである。あとは、自分の才を、自分自身が信じ続けることなのであろう。ほかの誰もが信じようとはしない世の常をやり過ごしながら、自分だけでも自分の才を信じ続けるという熱さを持つこと、そうすれば大いに「案ずるより産むが易し」に近づけるというものでは…… (2006.10.29)


 学校という空間は、生きることの喜びに繋がる経験を与えるところである。もちろん、命を奪う場所なんぞであるはずがない。加えて、どんな経緯があろうとも、死への誘惑を感じさせるような環境であってはならない。
 これらに関しては、一人の人間としての意思能力が認められていない子どもたちの学校であるならば、学校運営に関与する一人前面した大人たちが責任をもって果たさなければならない。また、子どもたちやその親たちに任意の学校を拒絶する権利が定められていない義務教育期間の学校であるならば、学校運営に携わる者たちの責任関係は否が応でも大きいと言わざるを得ない。
 もし、こうした状況において、死への誘惑に抗し切れず自殺を選ぶ子供たちが現われた場合には、学校教育に全責任を持たなければならない時の政府は、その学校を「ロックアウト!」しなければならない。これは決して無茶な発想なんぞではない。

 その根拠は、生徒および教師、そして管理責任を果たすべき校長、地元教育委員会にあって、まるで伝染性疾患の病原菌のような「当事者無能力・無責任」の体質が蔓延っていると判断されざるを得ないからである。もし、これを差し障りなく放置するならば、第二、第三のいたいけな生命が損なわれる可能性大だからなのである。いわば、緊急避難的措置、予防医学的観点に立脚した正攻法であろう。
 しかも、学校という空間は、粗野が大目に見られることもあり得るモノを扱う空間とは異なって当然である。知識習得にしたところが、不安なき心の平静さがなければ叶わないはずであり、事件発生による不信感の充満という異常事態は、とても学習教育が実践可能な空気であるとは考えにくい。
 もし、それでも形ばかりの日常的平静さを装いたい旨が関係者に濃厚な場合には、それこそが本末転倒であり、そうした不健全さが従来から踏襲されてきたことの有力な証しとして、即刻、その学校は「閉校!」処分とされるべきである。その潔さが、遺された生徒たちに、精神的復活の大いなる勇気を与えるものであるに違いない。

 ところで、これに関連してニ、三の補足的叙述を行いたい。
 一つは、「当事者無能力・無責任」体質の根底には、「想像力欠落」という人間にとって致命的な欠陥が潜む点である。
 二つ目は、上記に「死への誘惑に抗し切れず自殺を選ぶ」と書いた点に関係しているが、現代文化は「死」というものを軽々に取り扱っており、ここに青少年に与える悪影響の源がありはしないかという点である。

 先ず第一点目、「想像力欠落」という人間にとって最も恥ずかしい問題点についてである。土台、ものを教えますという傲慢さを売りにする学校というものは、想像力がまともに備わっていてはとても関与なぞできない空間ではなかろうか。
 そもそも「知識」とは想像力のカスなのであり、蝉の抜け殻のようなものである。あるいは、想像力という壊れ易い「絹豆腐」に対する「おから」、関西風に言えば「切らず」のようなものである。大事なのは、「命短き生きた蝉」であり、またひょんなことで崩れてしまうが美味さこの上ない「絹豆腐」にたとえられる個々人の想像力以外ではない。
 ところがどうだ、「おから」まがいのもさもさした教師たちは、「おから」を美味く食えとばかりおっしゃるわけだ。しかも、「早食い」こそを珍重なさる。手で掴むことも難しい「絹豆腐」なんぞは見たこともないと言わぬばかりである。
 はかなく、壊れ易い想像力を度外視する空間にあって、「いじめ」が横行するのはまことに理に叶っているのではなかろうか。「いじめ」とは、他者への想像力が欠落し切った頭脳の、いやらしい悪あがき以外の何ものでもないのだ。まともな感情移入というような想像力が機能しているならば、他者の痛みが自分のものとなるはずなのである。
 また、校長や、教頭になろうとする者たちの想像力皆無状態にも一言あってしかるべきであろう。子どもたちの一人ひとりの貴重な想像力を視野に入れて日々教育活動をするならば、どんな有能な教師であっても、時間が足りないとこぼしているに違いなかろう。昇進試験の受験勉強に割く時間なんぞあってたまるか。だから、裏を返せば、お見事、昇格した方々は、日々お見事に現場から手を抜いていた人たちなのであり、同僚たちはそんなこと百も承知しているのだ。が幸いにも、当人に想像力が乏しいもので、そんな恥ずかしい実情がとんと想像できないときているわけだろう。

 第二点目、「現代文化は『死』というものを軽々に取り扱って」いるという点である。自殺を敢行してしまった子どもたちは、さぞかし追い詰められた苦しさの中で悩んだに違いなかろう。しかし、可愛そうだったと哀れむ気持ちは十分にあるが、だからと言って止むを得なかったとは言えない。が、責めるつもりはない。
 責められるべきは、上記の想像力欠落人種であるとともに、そうした者たちによって撒き散らかされることになる、「死の実体」をスポイルしてしまった現代文化であろう。
 「死の実体」と言えば難しく聞こえるが、要するに、人間の死というものを事実として知るということである。どんな理由があったとしても、美化してはいけない。生き残った者たちにどんなに不快感を催させたりしたとしても、生きものとしての死というものが、必死で闘い続けて回避していかなければならないものであることを実感しなければいけないのだ。動物たちと同様にである。
 ところが、近現代の文化は、洗練された日常生活から、人間の「死の実体」を放逐しつつ、合わせて「躍動する生」そのものをも、「産湯を捨てて赤子を流す」がごとく流し去ってしまったかに思える。
 現代の子どもたちは、ことによったら、死という実体を知らされていないがゆえに、拒絶する能力に乏しい傾向がありはしないかと危惧するのである。死を拒絶する本能が希薄となっているというようなことは考えにくい。ただ、人間の本能というものは、人間社会に蓄積された文化によって支援をうけてこそ十全に働くものだとも聞く。死の実体が嫌でも持っている否定的合計を実感しなければ、人間にとっての死の観念は完成しないのではなかろうか。

 こうした問題を書くことにはやはり抵抗があった。しかし、抵抗のあることをこそ書いてゆかなければ、何もかもが真実から逸れてしまうような気がする。
 で、「変わり者」の発言のごとく、細かいことは知ったことか、というようなぶっきらぼうに書くといい、ということがわかった。常識だとか、こう言っては何だとかに囚われはじめたら、結局「形ばかりの日常的平静さ」の圧力に屈してしまうのである。バカのようであっても、自身の内で突破口を探しあぐねている想いをこそ、すんなりと解放してやるべきなのだという気がしている…… (2006.10.30)


 月に一度、会計事務所のスタッフがやって来て、会社の経理処理を行ってくれる。もちろん月々の経費がかかるが、こうした定型的な事務作業はアウトソーシングした方が結果的にはコスト安でおさまる。
 そのスタッフが来ると、月次経過の報告を受けるとともに、経済情勢などについて雑談に興じることがままある。

 そのスタッフは寡黙なタイプなので、自分の側から話題を提供することが多い。
 今日は、昨今の社会事象はアップダウンの傾向が激しい、というような話しをした。このところ日頃感じている実感を話したのである。きっかけは、月次売上額のアップダウンであったかもしれない。
 アップダウンが激しい傾向というのは、おそらくは、変化が激しい時代環境と、その変化に絡む情報の伝播が、インターネットをはじめとした通信環境によって高速となったことなどが原因となっているように思われる。
 昔であれば、環境変化そのものが小規模であったとともに、その変化が周辺に伝わって広がってゆくのにも相応の時間がかかったかと思われる。だから、仮に周囲を揺るがすような変化が発生したとしても、その伝播の非効率さが周囲への影響を抑制してしまい、いつも大したことにはならない、という推移が多かったのかもしれない。思えばのんびりとした古き良き時代であったと懐かしむこともできそうだ。

 しかし、現代という時代環境では、高速な通信環境が、あらゆる地域での出来事をあらゆる地域に瞬時に伝えずにはおかない。それは、先ずは、現代文明のメリットであると言えよう。情報の格差がなくなるとともに文明に取り残された地域がなくなり、皆が現代の最も新しい情報に接し、その恩恵に浴することができるというわけだ。
 だが、こうした事態の積極面を十分に評価したとしても、その裏面についても考えていいのかもしれないと思う。そのひとつが、「過剰」とも言えそうな、変化(情報)であり刺激(情報)であり、落ち着くヒマがない、対処するゆとりがないという実情をも生み出している側面であるのかもしれない。
 考えてみれば、人間の能力というものは、知覚可能な身の回りの環境を前提にして培われ、発達してきたし、そうするものであろう。極端に言えば、眼で見える範囲、耳で聞こえる範囲、手で触れることが可能な範囲においてこそ人間のさまざまな能力は十全に発揮されるものであろう。
 そして、変化への対応能力に関しても、きっとそうした身の回りの環境変化を暗黙の前提にしてきたのではないかと思われる。こうであれば、身の回りというエリアであれば環境変化といっても高がしれているし、心の準備というものも成り立つだろうから、変化という事態にさほど右往左往することもない。こうした状況が、古き良き時代の一般的な実情だったのではなかろうか。

 ところが、現代では、見知らぬ国、見知らぬ地域でのちょっとした変化(事件)が、便利な通信技術のお蔭で、逐一、即座に伝わってくる。そして、言うまでもなく、世界は広いし、見知らぬ地域は五万と存在する。それらが、矢継ぎ早に、羅列的に伝わってくるのだから、変化(情報)が個人の生活の時系列を埋め尽くしてしまうことになる。まさに、「変化だらけ」の真っ只中で生活しなければならない、ということなのである。
 もちろん、こうした時代の人間たちは、取捨選択の術を自然に身につけて、差し障りのない対処をしているには違いない。そうでなければ身が持たないであろう。
 しかし、それにも限度があるわけだし、下手をすれば変化「不感症」になりかねない。また、現在の経済は、変化によってもたらされた「新しいモノ」を価値あるモノと見なしているわけだから、そんな経済の土俵に乗っかった者たちは、環境変化をすべからくマークしなければならない、と思い込まされる。まあ、こうして現代人の大半が「変化地獄」の土俵の上で、本来は必須であるはずの落ち着きと訣別し、何かが間違っているという予感を感じながらも、日々、変化を追っかける生活に明け暮れるということになる…… (2006.10.31)