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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2006年09月の日誌 ‥‥‥‥

2006/09/01/ (金)  昨日までの「一丸となった邁進」から、今日の「格差」社会へ……
2006/09/02/ (土)  降って湧いたかのような「大山参り」?
2006/09/03/ (日)  文章を書くとは、何重もの「客観化」作業を進めるということ……
2006/09/04/ (月)  「精神の荒廃」がキーワードとなる憐れな時代?
2006/09/05/ (火)  ビジネスは、「税徴収」に酷似してきたことになるのか?
2006/09/06/ (水)  「郵政民営化」という<バズワード>を、「パスワード」にした人たち?
2006/09/07/ (木)  過去200年に及ぶ新聞や雑誌を検索させる「Google」!
2006/09/08/ (金)  「経済大国日本」が、いつの間にか「犯罪大国日本」に?
2006/09/09/ (土)  愚痴めいた、愚痴っぽい愚痴でも書くか……
2006/09/10/ (日)  「量販店」路線が闊歩するかのような現状にどう立ち向かうか……
2006/09/11/ (月)  公務員関係事件が多い昨今の一例となるのか……
2006/09/12/ (火)  現代では、脳活動の活動領域は「危機に瀕している?」
2006/09/13/ (水)  現代人の脳は、「意外性」に焦がれているのか?
2006/09/14/ (木)  そうでなければ「タイムアウト」になりかねない……
2006/09/15/ (金)  <子供は、無償の愛を与えてくれる存在にすがってしか生きていけない>!
2006/09/16/ (土)  疲れても三連休初日だという条件……
2006/09/17/ (日)  「一般的」な観念やイメージと個人の内なるそれらとの比重……
2006/09/18/ (月)  これぞまさしく「雪隠詰(せっちんづめ)」でござい……
2006/09/19/ (火)  やはり軽んじてはいけない「動機づけ」!
2006/09/20/ (水)  生活エリアに事務所を構えて仕事をすること……
2006/09/21/ (木)  「後ろ髪を引かれる思い」なんぞしたことがない幸運の女神?
2006/09/22/ (金)  有限なリソースである身体に見合った処し方……
2006/09/23/ (土)  人(他人)さまと話をすることなぞ何の気兼ねもしないでできてしまう!
2006/09/24/ (日)  気分や心を侮ることなかれ……
2006/09/25/ (月)  「アハ!体験(Aha! experience)」とやらいう概念がおもしろい!
2006/09/26/ (火)  「想像力欠落人間」の増加とともに変化して行く時代環境?
2006/09/27/ (水)  どうも自販機たちだけの佇まいというのは……
2006/09/28/ (木)  脳はいつも「アドリブ」をやりたがっているはずだ……
2006/09/29/ (金)  何でも「流して」済ます民族性があるのか?
2006/09/30/ (土)  あえて、泥臭い事をした方がいいのかもしれない……






 ふと考えることは、この日本が敗戦の混乱から急速に立ち上がり経済大国ともなり得たのは、さまざまな条件があったにせよ、強調すべきは、国民が「一丸となって邁進」したからであるに違いない。つまり、そうなることを目指して、国民から「除け者」を作り出さなかったことがより大きな理由であったのではないかと、単純に了解するのである。
 無理矢理に「一丸」となることを強いられた戦前の国民の目的(戦争)は、あまりの無謀さによって、当然のごとく悲劇に終わった。しかし、敗戦後の再出発は、多大な困難を潜り抜けなければならなかったにもかかわらず、戦後復興と経済再建そして発展という目的に向けて、概ね、国民の中に「除け者」を生み出すことがなかった、あるいは極力避けたことによって、国民が「一丸となって邁進」することであれよあれよと言う間に、経済大国日本と称される位置に這い上がってしまったわけだ。
 この推移を絶賛しようとしているのではなく、なぜそうなり得たのかの事実的推移を確認しようとしているに過ぎない。

 何を書こうとしているのかというと、そうして「一丸となって邁進」したからこそ奇跡的とも言える戦後復興ができたことを失念して、何をどう宗旨替えをしてのことか、今現在推進していることは、国民が「一丸」とはなり得ない、あるいは大量の「除け者」を蓄積させることになる、そんな「格差社会」作りの路線を邁進しているという事実についてなのである。
 ここではあくまでも直感的に書くことにしたい。くどくどしいことを並べ立てることは極力控えたい。
 社会的動物である人間というものは、「ともに参加、参画している」となれば無い袖を振ってでも当該集団なり、組織なり、あるいは社会や国のために尽くしもしよう。まして、「同質性」に関する特色を持つ日本人の国民性には、「おらが〜」となれば想像を絶するほどの貢献をする、そうした傾向が強い。
 これまでの日本の会社組織と管理方式は、「家族主義」的性格の、言ってみれば「おらが会社」という感覚を全社員が持てるような、つまり「除け者」的立場自体を作らないということはもちろんのこと「除け者」扱いしないことに意を払ってきたはずである。
 これが、逆に「組織ぐるみ」の犯罪の温床にもなってきたのだろうし、現在でも「裏金」づくりの共犯関係を助長させているとも言われる。だから、すべてよしとする必要はないが、メンバーの「同質性」を暗黙のうちに承認するという空気が、この国の集団組織、社会のキー・コンセプトであったことは否めないはずである。
 確かに、そうした「同質性」社会は、さまざまに変質、変化を遂げてきたであろう。個人主義的傾向や、過激な競争関係の浸透によって、いや、要するに市場主義経済という資本主義経済のあり方が強まることによって、日本の文化と日本人のDNAに刻み込まれていた「同質性」社会志向は大きな変容を遂げていることはもちろんそのとおりに違いない。

 しかし、その「変容」は、「環境適応的に」進んでいるとまで言えるのであろうか。極端な話が、この社会で生きることから放逐されたり、この社会への正規な参画が困難とされた者たちが、それでもなおこの社会の発展に寄与しようとする意欲を持ち続けるほどに、適応的に展開しているとでも言うのだろうか。とてもそうとは思えない。凶悪犯罪が多発する昨今を考えただけでも不安とさせられよう。
 では、しばらく前に過激に展開された大量リストラはどうだろうか。リストラされた者たちは、会社が苦境に立っているのだからやむを得ないと考えたであろうか。リストラされても、「おらが会社は永遠です!」と思い続けたり、そうしているのだろうか。
 いや、諸外国の人たちからは想像できないような、ウェットな部分が多分に残存しているのが、意外にも日本人なのかもしれない。そこが、特殊性だと言えるのかもしれないのである。現に、わたしはそうした人を知らないわけではない。長期入院をしていて会社に戻れるようになってみると、リストラされたという方であったが、その方は、傍目から見るほどには会社を責めようとはせずに、「会社も、何かと大変なようだからね……」と話していたのである。年配の人にはこうした「愛社精神」とでもいうものがあるのかなあ、とやや違和感を持ったものだった。まあ、相応か不相応かの退職一時金という手当などもあり、当人の「除け者」感が過敏とならないような対応も駆使されたのかもしれない。
 とにかく、古き感覚を引き摺ったり、闇雲に新環境に迎合しようとしたり、そして失敗したりと、みんなが暗中模索で右往左往しているに違いない。

 しかし、現在、全体社会で進行中の「格差」現象は、かなりの程度ドライであり、急速である。その環境は、運に恵まれない人々に、「あなたは『除け者』!」と明言してしまうほどのものであるのかもしれない。先日も書いた「ワーキングプア」の実態は、決してそうした危惧の念をも否定し切らないかのようである。
 そもそも、米国のような建国以来の競争社会、そして格差社会にあっても、現代資本主義の局面は、持ち前のタフな個人主義精神だけではキツイ状況となっているとも聞く。IT業界でツッバリ続けたビジネスマンが急にドロップするというケースもあるらしい。要するに、「ネオリベラル主義」(原理主義的な自由主義)とは、本場の米国人にとっても手におえない部分がありそうなのである。
 それが、この日本という国、社会では、ほんのちょっと前までが、会社では「終身雇用・年功序列」が、社会全体では「一億総中流階層」というような、典型的な「同質性」社会であり、文化であったわけだ。今、ビジネス界で最もキツイ立場にあるとされる30代の青年たちの、その親世代、つまり団塊世代とその上の頃までは、まさしく「同質性」社会とその文化が主流であったはずなのである。

 そこへ、「構造改革」だ、「グローバリズム」だと、政策責任者たちの頭の中には深慮遠謀もあったものではなく、米国路線が現物先渡しの形で「直輸入」されたわけである。「格差」の底辺へと振り落とされる人々に、もちろん心の準備もあったものではなかっただろう。「こうするとこうなる」ということをも教えるのが教育であるとするならば、そんな教育が施される準備があればまだしも、何もあったものではなかったはずだ。「いきなりあなたも……」という流行のパターンそのもので事態は始まったわけだ。
 いずれにしても、現在の、この「格差」現象への無策な政治状況は、底辺へと追いやられた人々だけを苦しめるのでは終わらない予感がする。経済競争で勝ち残るはずの立場にある上層企業にとっても、今後は予断を許さない事態を迎えることになるやもしれない。そして、社会全体、国全体が楽観を許さない混乱に直面する可能性も懸念される。
 簡単に言えば、「一丸となって邁進」したからこそ、世界にも類を見ない高い生産性をもはじき出したその国民が、「除け者」が大量に生まれる構造の社会に直面して、果たしてどういった生産性を搾り出してゆくのか、ゆけるのかという問題なのである…… (2006.09.01)


 やはり、「気分転換」というものは欠かせないと痛感した次第である。
 今日は、突然、降って湧いたかのように「大山参り」にでかけたのだ。大山の別名、「あぶり山」(山頂の神社は「阿夫利神社」である)とは「雨を降らす山」の意であるそうだから、「降って湧く」ごとくであっても不思議はないのかもしれない。
 朝一、いつものようにウォーキングに出かけようとしたら、家内が背中を追うように一言言ったのだった。
「散歩に行くんだから、どっかへ、たとえば江ノ島とか、大山とかへ行くっていうことはないわけよね……」
と、持って回った一言であった。天気も良いことだし……、ということなのであろう。まあ、いつもながら突然にそんなことを言われたので、とりあえず聞き流してウォーキングに出かけた。
 が、秋晴れのように気分のいい日向を歩いていると、うん、今日あたりどこかへ出向いてみるのも一興かな、という思いが湧きあがってくるのを自覚した。
 で、帰宅するやいなや、
「大山に、『下見』に行ってみようか」
と言い放ったわけなのである。

 大山は、小田急線の町田から一時間程度で行ける距離なのである。そして、今日は無理して山頂まで登ることをがんばらない「下見」だとすれば、時間的にはたっぷり余裕があると思えたのだった。
 日常、いつも、コニーデ型のすっきりとした大山の姿を目にしていながら、いつか登らなければと思いつつ、結局、機会を逃し続けてきていたのである。かつて一度、会社の行楽行事で行ったとのおぼろげな記憶もないではないのだが、ひょっとしたら自分はその時はずしたような気もしているから、結局、確かな実感がないままなのであった。
 「下見」と決めてかかったのは、いくらポピュラーな山であり、中腹までケーブルカーがあるとはいえ、1251mの山である。あの高尾山が、600m足らずの山であるにもかかわらず、歩いて登ろうとすればそこそこ足腰に負荷がかかることを実感で知っている自分にとっては、大山を決して侮ることはできなかったのだ。というか、そうした歳だと自覚しているわけだったのである。

 小田急線の伊勢原駅からは、「大山ケーブル(追分)駅」までバスで20分程度であっただろうか。伊勢原駅の周囲は、もちろんどこでも同じような都会的環境であるが、そのバスが進むにつれて、路線周辺は次第に「非」都会的雰囲気に変わっていくようであった。ちょいとした旅行気分を促すものがあった。
 そして、バスの終点から、ケーブルの駅までは500mしかないが、階段状のいわゆる「参道」となっており、両側にみやげ物・飲食店がひしめき合っている。この階段が、正直言って結構辛かった。ぞろぞろと行く者たちの中からは「階段地獄云々」という言葉が聞こえてもきたが、まあ当たらずとも遠からずというところか。
 ちょうど時刻は正午近辺であったため、空腹感を覚えたが、昼食は後回しとすることにした。きつい「階段地獄」を残していて食事(プラス ビール)とするならば、当然、足腰がふやけると思えたからである。
 そして、ケーブルカーが7分程度であっただろうか。ただし、その勾配の急なことに目を見張った。やはり、正規に歩き登れば「大変なこと」になるだろうと想像させたものである。

 ケーブルカーの終点は、山頂ではない。海抜からすれば大山のまさしく中腹となる。中腹とはいうものの、すがすがしい緑の光景を通して、眼下にははるか遠くの都市風景が望め、とても見晴らしが良いものであった。そして何よりも、山並みをなでてそよいでくるさわやかな風が何とも言えないほど貴重なものだと感じた。「極楽の余り風」という古い表現を知るが、そのとおりだと思えた。
 この中腹には、阿夫利神社の「下社」があり、「本社」まではその先90分の「登山道」が控えているのであった。自分は当初その行程をこなすつもりでいたが、家内が膝の変調を訴えはじめたために、文字通り「下見」だから今日はここまでにしておこう、ということになる。まあ、それが正解であったということになろうか。
 というのも、帰路は、ケーブルの距離の半分は歩いて下ろうということにしたのだが、それが結構、予想外に険しい登山道であったのだ。「女坂」とか称されていたのだが、昔の女の人は随分と健脚であったに違いないと推測させられたものであった。家内なぞは、「ウァーッ絶壁だ、キャーッ絶壁だ」と盛んに「絶壁」を連呼する始末である。自分もちょいと日頃使わない神経や足腰の筋肉を使うこととなった。まあ、多少こうしたところがあってこそ「気分転換」ということになりそうだと思えたものである。日頃、使わないで、身体の方が、この分じゃあオレたちは窓際族だな、やがてリストラだな、と悲観している部分に役割を与えてやってこそはじめて「気分転換」というものが達成されるものかと……。

 参道の「階段地獄」に戻ってようやく昼食を取ることにした。こうした場所での食事というものは、とかく値段に見合った実質を期待するものではないものだが、まさにそのとおりであった。豆腐が名物ということでそうした定食を頼んだが、うまかったといえるものは、多少ヨレヨレの足腰となっていた身体にジワーッとしみ込む冷たいビールであったかもしれない。
 帰路のバスでの車内光景を見て気づいたことは、こうした場所を訪れる観光客には、中高年の夫婦と思しき二人連れが多いかなという点であった。みんな、心の「気分転換」と、気になり始めた体力の再確認というようなお定まりの視点でやってくるのかと、何となくわかる気がしたものだった…… (2006.09.02)


 日誌を書いていて時々思うことは、文章を書くということは実に「まどろっこしい」ものだという点である。
 どういうことかというと、もちろん、何かを書くということには、限られた時間と乏しい気力という現実的な条件がいつもつきまとっている。当たり前のことだ。
 そして、書こうとすることは、自身の頭や心の中でまとまりのないままに横たわっていたり、転がっていたりする。放っておいても一向に差し支えないものなのかもしれないが、やはり気になるし、そこから何か有意味なものが掴めるかもしれないからと感じ、それを表現しようとする。

 ところで、日誌というのは、単なる忘備録やメモとは異なるものだと了解している。いや、そうした日誌もあるし、それでよしとするならばそれでもいいはずであろう。自分だけにしかわからなくて構わない簡略化された記録のことである。
 が、自分はそうしたものを想定しているようではなさそうだ。杓子定規に言うならば、あくまでも文章化という作業の本来的立場を維持しようとしている。つまり、一定程度ではあるが「客観化」された文章、つまり他者が読んで一応判読可能な、そんな文章を書くことを念頭に置いている。
 というのも、そもそも、言葉というものが、自分自身だけのものであるはずがなく、自分と他者とを貫いて存在するものだからである。もし、自分だけがわかる記録という立場を選びはじめるとするならば、原理的には、やがて自身にも判読不能な水準やかたちへと変わり果ててゆくような気がするのである。

 いや、難しいことを考えなくとも、卑近な例でもそれが言えよう。メモふうの記録というものは、後日の自分のためになされるわけだが、あまりにも長時間が経過すると、自身でも判読できなくなる場合がある。どういう意図で、どんな文脈でそれを書いたのかがわからなくなり、その結果、その言葉なり文字なりの意味するところが確定できなくなるわけである。ということは、メモというものは、それを記録する自身の言わずと知れた内的環境と一体となってはじめて解読されるものであり、自身の内的環境が長時間が経って変容していれば、あたかも他人が記録したものであるかのような印象を受けてしまうものだと言えそうなのである。
 だから、上に書いた「客観化」というのは、他者が読んでもそこそこわかるという意味だけでなく、長時間が経って、自身の内的環境が大きく変化したとしてもかつて書いた自身の文章が了解できるという意味も含まれているのである。
 ヘンな表現をするならば、誰でもそうだと思うのだが、自分という存在は長時間が経過してしまうとかなりの程度他者のごとく疎遠な存在へと変わってしまう可能性があるものだと思えるのだ。
 「ええっ、そんなことを言いましたか?」とは、日常的によく聞くセリフであるが、それは、責任、無責任の問題と関わっているとともに、人間というものは常に変化しているということを表しており、さらに、言葉というものは、それを吐き出す人の意識構造、意識状態(=内的環境)とかけ離れて意味をなすものではなさそうだということをも表しているように思えるのである。

 したがって、文章を書くということは、何重もの「客観化」を行うことのようなのである。文字通りの他者に向かっての「客観化」がひとつ、時間が経過して将来その文章を目にすることになる自分自身に対する「客観化」がひとつであり、そしてさらに厄介なのは、現時点の自分自身に対する「客観化」もありそうな気がする。
 最後者の「客観化」というのは、要するに、現時点の自分自身が考えたり、感じたりしていることが、本当にそのとおりなのかどうかを吟味することだと言ってもいいのかもしれない。人間は、意外とウソっぽいことをしらふで本当のように感じてしまい「陶酔」してしまうこともあるし、また、文章化の作業というものは、成り行きめいた作用によって頭や心の中の実態とは違った方向へと流されてゆくこともないとは言えないもののようである。
 だから、現時点の自身の内的環境がそのまま表現されているのかどうか、「客観化」されているのかどうかが意識されなければならないと思われるのだ。
 こうして、文章を書くということは、実に「まどろっこしい」ものだという印象が浮かび上がってくるわけなのである。もっとバカチョン的に対処できればどんなにスッキリするものかと思わざるを得ない。ちょうど、気に入った風景なり光景なりに、カメラを向けてシュパッとシャッターを切るごとく、自身の内的環境を一瞬にして「客観化」できれば、どんなにラクなことかと思ったりするのである…… (2006.09.03)


 最近は極力TVを観ないことにしている。その代わり、ドキュメンタリー番組や自然風景番組などこれぞと思える番組は、録画の上DVDに焼いてジックリと観る。つまり、取捨選択を明瞭にするわけである。
 こうでもしなければ、腐敗臭漂うアホ・メディアに対するストレスが昂じてどうにもならない。

 しかし、翻って考えてみるべきだと思う。たとえば、NHK定時ニュースにしたところが、一体どんな機能を果たしているものであろうか。率直なところ、実感としては「政府広報」的役割りを見事に果たしているだけではないのかと感じる。そんな気がしてならない。この辺のところが、官僚主義臭さとともにNHKに不快感を持つ理由でもある。科学番組ほか優れた番組をも提供しているにもかかわらず、「本丸」的NHK(NHK幹部?)がどうにもいけない。
 ここ最近は、盛んにポスト小泉、新総裁・総理候補安倍氏の話題で持ち切りの印象である。確かに、自民党総裁は現時点では一国の首相となるのであるから、国民も無関心でいいわけはなかろう。ただし、である。注目されるべきは、国民生活の生活水準「劣化」にどう影響していくのか(どう「貢献」していくのかとはさすがに言えない)という実質的な部分であろう。悲惨な事態となっている中国、韓国などとの外交関係修復のためのどんな具体策があるのかないのか、深刻化する「格差」経済社会をどうするのか、国家財政や増税の問題はどうなるのかなど、リアルな国民関心事に目を向ける視点でのニュース報道では全然ない。
 おそらく、この辺は、政府広報官が伝える情報だけを、「大本営発表」さながらにそのまま垂れ流しているからそうなるのであろう。身体(体勢)が国民に向いているのではなく、政府に寄り添っているから、当然そうなるのであろう。それでいて、視聴者国民からはしっかりと受信料を取り、その上近々「受信料支払い義務化」を図るつもりでいるらしい。これでは民主主義国家の国営放送ではなく、どこぞの全体主義国家のそれと大差ないと言うべきなのではなかろうか。

 現在、最も無責任だと非難されるべきは、官僚主義機構とならんで、NHKをも含めたマス・メディアであることは明らかだと思える。この二大勢力に共通する卑劣な点は、一言で言えば、責任の所在があいまいであることであろう。確かに、内規などは存在するに違いないが、それは体内的な事務的水準でしかない。
 本来あるべきなのは、それぞれが実質的に発揮してしまう対外的影響力の膨大さに匹敵する、そんな水準で責任が問われているかどうかという問題である。
 地方の官僚主義機構での「裏金づくり」のベラボウな事件が話題となっているが、民間企業の犯罪のように整然と責任が追求され、法に照らした罪状がきちんと確定していくのであろうか。
 行政分野での官僚主義機構による不祥事は、庶民感覚からするならば実に甘い。法治国家の中では「別天地」だと言えそうな気がしてならない。首を傾げる増税にも国民は甘んじることになる一方で、税金をルーズに扱い、悪用する官吏たちの無責任さが信じられない思いである。
 官僚主義機構は、政治家たちのように直接的に責任をとる仕組みの中に置かれていないがゆえに、どうしても無責任体質に染まってしまうのであろうか。責任を認識しなければならない対象である納税者としての市民、国民が集合体であるがために感度が鈍ってしまうのであろうか。とんでもない話である。そんな感性しか持ち得ない官吏であれば、門前払いをするくらいのセルフ・コントロールがなければなるまい。

 これと、まったく同様のことがマス・メディアやジャーナリズムにも当てはまるはずである。これらも、現在視聴者としての市民、国民に日々膨大な影響力を行使し続けている。無形の心理・意識、社会心理・意識に対する影響であるからと決して高を括ってはならないはずだ。
 情報化時代という現代にあっては、こうした水準での影響力というものはもっとシビァに扱われなくてはならない。「製造物責任法(PL法)」というものがあり、製造物の欠陥により損害が生じた場合に、製造業者等は損害賠償責任を問われるわけであるが、情報に関しても、同様な発想が採られるべきではないかと痛感する。
 確かに、情報による損害というものは捉えにくい。ルールがあっても、グレーゾーンが広すぎたりする。だから、「名誉毀損」や「風説の流布」(今日は、「ライブドア事件」の初公判。やり得、言い逃れはどこまで通用するのか?)についても係争問題となる。
 しかも、国民の精神的自立・自律が低迷している社会にあっては、作為的な情報(情報操作)による人々の行動の誘導という現象は計り知れないものがある。戦争の「是認」くらいは簡単に起きてしまうものであろう。これほどに、巨大な「損害」はほかにはないはずである。にもかかわらず、「発火可能性」が懸念される製造物の「リコール」はあっても、偏った情報の流布に関してはさほど注目されないのがおかしいと思うのである。
 以前にも書いたことがあるが、マス・メディア、ジャーナリズムの責任というものは、報道する内容に間違いがあるかどうかという問題だけではないのである。何を報じて、何を黙殺するのかという点であっても極めて重要なのである。だからこそ、小泉首相は、連日のようにTVニュースにその身を露出させ続けたのではなかったか。

 今、自分は、マス・メディアが時代や社会の真の姿を伝えているなぞとは毛頭思っていない。むしろ、バーチャルな虚像をこそでっち上げ続けている、というくらい冷淡に、いや正確に言えば、批判的に受けとめようとしている。
 ある政治家が次のように述べているそうである。
「現在の日本で私が一番心配していることは、日本人の心、精神の荒廃である。どんどん悪化している。熱病のような小泉人気や台頭してきた偏狭なナショナリズムはその現れだ。精神の荒廃は、エリート、政府の中枢まで及んでいる。マスコミはこれを徹底的に叩こうとしない。いまの日本社会が抱えている大きな病だ。」(小沢一郎氏。サイト「森田実の時代を斬る」より)
 この点に関しては全く同感であり、この「精神の荒廃」という言葉をてこにするならば、現在のさまざまな社会事象が頷けたりするから妙なものだ…… (2006.09.04)


 このインターネット時代にあって、「ロングテール(long tail)」現象というものが注目されているらしい。「ロングテール」、長い「尻尾」だからといっても、千葉の「恐竜博」のことではない。

 たとえば、自分もよく買い物をするネット書籍通販・Amazon では、ベストセラー本の売上で稼いでいるというよりも、いや、それに関しても稼いでいないことはなかろうが、より特徴的な売上はというと、一般書店では並べられることもないような売れ残り本ともいえる書籍販売の累積であるとのことである。つまり、「ちりも積もれば山となる」という「隙間(ニッチ)」商品の売上が大きいのだそうだ。
 Amazon の書籍販売品目は、230万品目だとも言われているが、販売数上位13万品目以下の書籍の販売額を合計すると、売上全体の57%に達するという推計があるらしい。
 今、左側縦軸に販売数量を、右に伸びていく横軸にランキングを表す棒グラフを描くとすると、ちょうど左に向かって立ち上がる「恐竜」の姿のようなグラフが描けることになる。大きな売上数量で高い棒グラフを作っているのは左寄りのランキング上位であり、右に行くほど棒グラフは低くなり、売上数ランキングも低くなる。そして、右へ行くほど富士の裾野のようになだらかな傾斜となり、どんぐりの背比べのような売上数が延々と続くということになるわけだ。
 この形状が、まさに「恐竜の尻尾」のようであるところから「ロングテール」と呼ばれているのだが、名称はともかく、この「尻尾」の部分の売上数量の合計が決してバカにならないというのがこの「ロングテール」現象が注目を集める理由なのである。

 要するに、「ちりも積もれば山となる」を狙った「隙間(ニッチ)」販売の一種だと言っていい。しかし、なぜ今さらのように注目されるのかが重要なのであろう。
 かつての「隙間(ニッチ)」産業は、「隙間」といっても、多品目を狙ったものではなく、既存の商品品目群の陰になって黙殺されていたかの部分にこれぞといった単一の商品品目を作り出し、これへのニーズを拾い集めたはずである。多品目の「ちり」を集めたわけではなく、言ってみれば「燃えるゴミ」ならそれの「ちり」だけに着目したと言ってもいい。
 というのも、既存商品となっていない商品候補の全体をマークするとなれば膨大なエネルギーが必要となり、なおかつ売れるかどうかも不明とあればビジネスになるわけがないからだ。
 これに対して、現在注目されている「ロングテール」現象としての「隙間(ニッチ)」販売とは、ほとんど数として売れないような多数の商品を、とにかく膨大な数の消費者の目に触れさせ、確率は低くとも売れる時を待つというもののようだ。世の中は「十人十色」というわけだから、だれか買う者もいるに違いない、という望みに賭けようとしているかのようだ。
 だから、「隙間(ニッチ)」と言うならば、売れ筋商品と別な売れ筋商品の間で「死に筋」商品とも見える、そんな「隙間」であり、これらを後生大事に扱うということになろうか。

 ここで、当然浮かび上がるビジネス上の問題は、そんな「死に筋」商品を、店舗なりの貴重な販売スペースに並べたのではとても採算に合わないではないか、という点であるに違いない。
 ここなのである、今現在、「ロングテール」現象が脚光を浴びている理由は。
 つまり、Amazon の例で言えば、売れ筋ではない書籍を展示しするのに、Amazon はサイトやこれとリンクしたデータベースを使っているのだから、一般書店が頭を痛めている展示スペースなぞ全く問題ではないことになる。
 また、注文に備えての「在庫」を保管しておくことは、その数が100万〜200万ともなれば保管コストが大変だと考えられもするが、ここでも、インターネット通信と運送(宅配)の画期的発展により、たとえ倉庫をコスト安の「山奥」に設けたとしても問題がなくなっているのである。
 こうして、インターネットをはじめとする追い風的なビジネス環境の確立によって、多品種少量の潜在的販売可能性を、採算のとれるかたちでリアルなターゲットとすることができるようになったということなのである。
 書籍のように「宅配」手段を必要とするようなモノでもこうしたふうであるから、商品となるものが、インターネットでダウンロードできる音楽や、種々のデジタル・コンテンツであるならば、もっとスマートな展開となるというものである。現に、マイナーな音楽を大量にリスト化して低額なダウンロードをビジネスにするサイトが十分に稼いでいるとも言われている。

 まさしく、「薄利多売」の販売スタイル、ビジネス・スタイルがますますビジネスの常識となりつつあるかのようである。ビジネスというのは、「取れる規模の顧客から取る」から「取れる少額で多数の顧客から取る」という、まるで「税徴収」のような雰囲気になってきたかのようである…… (2006.09.05)


 「耳に心地よい言葉だけが、アメーバのように変形しながら世界を席巻している」(言語学者:ウーヴェ・ペルクゼン)とは、決してあの<コイズミ劇場>のキャッチフレーズ「郵政民営化」や「改革」のことではない。
 ペルクゼンは、<プラスチックワード>という考え方を提示しているとのことだ。
<たとえば「発展」や「近代化」や「情報」。意味があいまいでプラスチックのように変貌自在に形を変え、手軽な言葉としてメディアや政治家の演説で盛んに使われる。
 その種のプラスチックワードを使えば、批判や疑問を受けることなく人々を同意させられるのだという。
 ほとんどの言葉は昔と意味が大きく変わっているのに、正確な定義が問題にされることはないとペルクゼンは指摘する>(2006.09.05 『朝日新聞』夕刊 「思想の言葉で読む21世紀論 紋切り型欲する情報社会」)

 この記事は、まさにこの間展開されてきた<コイズミ劇場>の舞台裏と、現代社会の危うさを淡々と明かすようで大変興味深いものであった。
 現代情報社会には、まるでコンピュータのごとく、「セキュリティホール」(ソフトウェアの設計ミスなどによって生じた、システムのセキュリティ上の弱点。インターネットに公開されているサーバは誰でもアクセスできるため、セキュリティホールを放置しておくと、悪意のあるユーザに不正にコンピュータを操作されてしまう可能性がある。――サイト「IT用語辞典」より)のような「弱点」があり、<悪意のあるユーザに不正に>利用される可能性があると警告されたような気がしたものである。

 この記事の筆者が、主に説明していたのは、上述の<プラスチックワード>という考え方とほぼ同様で別口の言葉なのである。<バズワード(buzz word)>と呼ばれているらしい。
<一見専門用語のように見えるがそうではない、明確な合意や定義のない用語のこと(インターネット上の百科事典「ウィキペディア」による)
 バズ(buzz)はもともとハチがブンブンうなる様子を表し、ざわめく、騒がしいなどの意味もある。バズワードは世間で騒がれている意味が不明確な言葉。同辞典は「言葉だけが先歩きして広まることも多いため、事情を知らない多くの人は価値のある言葉として捉えてしまうことがある」と注釈する>(同上記事)

 どうしてこのような現象が起こるのかについては2点が考えられるそうである。
 その1点は、<バズワードのような言葉が使われる背景には、情報が飛躍的に増えたために逆に世界の全体像が見えにくくなっている現実がある>(メディア史研究者・佐藤卓己氏)という点であり、<結果として、時代の大きな枠組みをとらえるように見える言葉がもてはやされる。全体知が失われた空洞を、意味があいまいな言葉が埋めるという構図だ>と説明されている。
 もう1点は、次のように述べられている。
<さらに「思考の節約」という問題もあるという。
「限られた時間で膨大な情報を処理しなければならない現代社会では、思考を節約して先に進むことが必要だ。そのため世間に広がっているステレオタイプ(紋切り型)の意見や言葉に頼らざるをえない」>
<「多くの人々が問題を考えるきっかけを作るためには、むしろバズワードのような存在は欠かせない。バズワードやステレオタイプを否定するのではなく、正しい定義や批判をしていくのが専門家や学者の役割ではないのか」>
 背景や理由なしで生じているのではないことが了解されるが、それにしてもと言うかそうだからこそと言うべきなのか、考えさせられてしまう。

 世界が善意の人々だけで構成されているのであれば、こうした事情は前向きで受けとめられて問題もないはずである。それは、コンピュータの「セキュリティホール」と同様でありそうな気がしている。
 環境が発展して複雑化することで不可避的に随伴するかのような時代環境の弱点が、悪意ある者の手にかかってしまうと、善良な人々が甚大な被害を被る結果へと結びつきかねないからである。
 言うまでもなく、警戒すべきは時の政治状況だということになりそうだ。
 現代情報社会の「情報」的側面に多大なエネルギーを投入しているのは、ビジネス・チャンスの増大を願う企業だけではなく、詰まるところ支配力を強化しようとしている政治権力だと言うほかない。そして、後者は、情報の制御を超えた「操作」がこれまでにも問題視されてきただけに目が離せないはずであろう。
 <コイズミ劇場>を成立させた「ワン・ワード」ポリティックスとは、この<バズワード>や<プラスチックワード>に何と瓜二つであることだろうか。そう言えば、「郵政民営化」という<バズワード>が、自民党党員の「パスワード」になっていたことをハタと思い起こした…… (2006.09.06)


 「ロングテール(long tail)」の発想を画期的に進めている「Google」が、ますます快進撃を続けているようだ。
 一昨日、「 Amazon 」を例にしながら、「ロングテール」ビジネスについて書いたが、むしろ「Google」の方が好例だと言うべきなのであろう。
 というのも、ネットで「検索」される項目は、決してメジャーな項目に限られているわけではなく、いやむしろ、パーソナルな関心によって目指された実にマイナーな項目であることも少なくないはずである。言ってみれば、検索される件数としてはわずかな数の項目が、まさに横並びの「ロングテール」としてダラーッと並んでいるのが通例であるのかもしれない。しかし、検索件数が少ないと予想されるものはDB上に格納しないというのであれば、ネット検索システムとしてはありがたがられないはずである。たとえ、アクセスされる件数が1件であっても、あるいはナッシングだと推定されてもそれらの項目を含めてのDB検索システムでなければならないはずであろう。
 だから、ネット上での検索システムというのは、「ロングテール」の発想であり、これが広告依頼と結びくことによって典型的な「ロングテール」ビジネスとなるものだと言える。

 「Google」は、そうした視点だけで表現される以上に、「ロングテール」ビジネスの本質を深めているようだし、その活動の幅も広い。
 そんな「Google」に関するちょっとした記事があった。
<200年分の記事を検索、米グーグルがサービス開始>( asahi.com 2006.09.07 )である。詳細は以下のとおりだ。

<米インターネット検索大手グーグルは6日、過去200年に及ぶ新聞や雑誌の主要記事を検索できる新サービスを始めた。米ニューヨーク・タイムズやウォールストリート・ジャーナル、タイム誌、英ガーディアンなどが検索対象で、米英メディアが報じた歴史的な記事を瞬時に取り出すことができる。
 新サービスでは、検索したい記事のキーワードを入れると、関連記事の見出しが年代順に表示され、読みたい記事が引き出せる。例えば「ジャパン、パールハーバー(真珠湾)」で検索すると、1941年12月の真珠湾攻撃を報じるタイム誌の記事などが表示される。1861年に起きた米国の「南北戦争」も、入力すれば当時のニューヨーク・タイムズの記事などが出てくる。
 一部の記事は1本5ドル(約580円)前後の料金を取る。ほかは広告を掲載することなどで無料となる……>

 わたしなぞは、個人的関心からいって良い企画だと思うのだが、それにしても<200年に及ぶ新聞や雑誌の主要記事>という手の広げ方には恐れ入る。また、どんな人がどんな目的で検索するのであろうかと興味深く想像したりもする。
 「Google」に関しては以前から興味津々であったが、いよいよもって「Google」をよく知ることが必須だと思うようになったものだ。それが、「 Web 2.0 」(<ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢> 梅田望夫『ウェブ進化論』)と<バズワード>ふうに呼ばれている新潮流のウェブ・ワールドを具体的に感じ取る近道ではないかとも考えている。
 これまで、インターネット環境は「玉石混交」の様相があるとも言われ、確かに多くのゴミとも思えるコンテンツが多かったり、なおかつ「迷惑・詐欺メール」や、ネット犯罪などのような不届き者も多数潜んでいたりする。
 ただ、もし「寛容な目」もしくは「希望的観測」をするならば、インターネットは、マイナーでしかない個人とその意思や行動を、まさに「恐竜」化した環境へと反映させていく貴重な環境ではないかと思うのだ。
 少なくとも、「恐竜の尻尾」でしかない諸個人の意向というものが注目され、「恐竜の頭」にあたるメジャーな存在にだけ関心を向けるエスタブリッシュメント(既存環境)を揺るがしはじめているようであることは、「痛快」以外の何物でもない…… (2006.09.07)


 今さらのように、この危険に満ちた時代状況を痛感することになった。とある知人が、命にもかかわる危険な犯罪に遭遇したのである。細かい事情は省略せざるを得ないが、そんなことがこの法治国家で起こってしまうのかという憤りが抑えられないでいる。まるで「放置」国家さながらでなのである。

 無法で残虐な事件がニュースを賑わして人々をやり切れない不安な気分に誘っているのが現状であるが、くれぐれも悟るべきは、次の点ではなかろうか。それらが決して一部限定された異常犯罪者によるものであり一般庶民とは無縁なのものと決めつけてはいけないだろうということ。決して他人事で済まし続けられる時代環境ではなくなっていそうだということなのである。
 「世界で最も安全な国」は今、確実にそのランキングから転がり落ちているようだ。場合によっては、一般の人々が感覚や意識の上で、昔の安全な事情の記憶を残している分があるだけ、危険の度合いは相対的に大きく、ひょっとしたら世界でも屈指の危険国になり下がっているのかもしれない。
 つまり犯罪に関する危険というのは、加害者と被害者という双方の立場があって構成される。当たり前の話だ。この時、被害者がまったく無防備であったとするならば、引き起こされる危険の度合いは計り知れないものとなりそうだ。と言っても、武器を携えて完全武装をすべきだなぞと言うつもりはない。時代に関する状況認識のことを言おうとしているのである。
 残念ながら、危険に満ち溢れた時代環境となり始めていることをまずはリアルに知る必要があるだろうし、また治安を司る立場にある者たちは、なぜそんなことになっているのかを時代に関する状況認識に照らして科学的に見つめる必要がある。
 人間は信ずべきものという崇高な発想に冷や水をかけることはないが、犯罪者の目から見ればそれが被害者のスキとなり、弱点となっている事情をも、もっと合理的に凝視すべきではなかろうか。他人を見たら犯罪者だと思え、は行き過ぎなのかもしれないにしても、現時点でわれわれがニュースなどで見聞している犯罪は、われわれのごく周辺でも起こり得る可能性が決して否定できないという点に留意する必要がありそうだ。

 また、治安に責任を持つ立場の者たちは、犯罪者たち以上に高度に「頭を使う」べきなはずである。発生してしまった暴力的犯罪を制止する力(≒ゲバルト、暴力?)を誇示してもはじまらないはずなのであり、犯罪を未然に抑止する能力こそが現在最も重視されるべきだと思われる。そして、そのためには、抑止力を物理的力(≒ゲバルト、暴力?)に求めるだけではなく、犯罪行為を促す犯罪者の思考や感覚をどうしたら封じ込めたり、往なしたりすることができるのかという側面をこそ重視すべきだと思う。なお、そのためには、何よりも「頭脳」をこそ駆使する必要があろうかと思われる。
 ちゃかした話にするつもりはないのだが、我らが「鬼平」こと「長谷川平蔵」が「鬼」と称せられ恐れられたのは、平蔵の武力や取り調べの厳しさのみが原因であったわけではないのである。むしろ、「勤め人」たちが自負したその目論見が、見事に見透かされてしまうその恐さにあったと言うべきなのかもしれない。いわゆる、平蔵の「勘ばたらき」の鋭さこそが「鬼」の眼光のように恐れられたのではなかろうか。悪事の目論見を透徹する「頭脳」プレーこそが、悪事の目論見を挫けさせる大きな犯罪抑止力となっていたと考えられるのである。

 このように現在、犯罪多発傾向が強まっているのは、どう考えても、人間そのものが急に悪化したというよりも、そうであるかのように仕向ける時代環境や、社会環境の方がでっち上がってしまったからと言うべきではないかと考えている。
 個々の犯罪に決着をつけたとして、類似犯罪が跡を絶たないわけだし、現にそうした傾向が散見されるのは、時代や社会の環境に「ビルトインされた毒素」が猛威を振るい始めているといった印象を持つのである。
 被害者はもとより、犯罪というものは、人の不幸を撒き散らかす事象であり、加害者とて、発覚しなければラッキーということには決してならない類のものであるに違いない。そう考えれば、国民の幸せ増大と謳われつつ辿り着いた「経済大国日本」が、いつの間にか、人々を不幸に陥れる「犯罪大国日本」という異名を授かり始めているかもしれない現状は、何と皮肉な成り行きなのであろうか…… (2006.09.08)


 やくざ同士の喧嘩がどんなに派手であったって一向に構わない。と言うと言い過ぎであるかもしれない。ただ、いろいろと難問が噴き上げている一般市民の生活事情に頭を痛めるならば、やくざの出入にまで思考のエネルギーを割いている場合ではないということ、まあ勝手に絶滅品種になって行って頂戴な、というほどの意味である。

 しかし、問題は、裏社会の彼らが、表社会の素人衆を巻き添えにしたり、危害を加えるといった表社会への侵食に関してであろう。
 しばしば、そうした事件があったものだ。やくざ同士のいざこざの発砲事件で一般市民が巻き添えを食らって命を奪われたり、重症を負わされたりという事件である。これらこそとんでもない仕業である。
 これまで、そうした事件が処理される際には、手を下した末端やくざが捕まればまだいい方であり、ウヤムヤとなって巻き添え被害者のみが割を食うことが多いと聞く。
 ただ、一部の被害者が、手を下したやくざが所属する「組長」なりの「責任者」に対して訴訟を起こし、損害賠償を迫るというケースも出てきたそうだ。これはもっともなことであり、「血の気の多いウチの若いもんが……」と言い逃れてきたその種の「責任者」が次第に追い詰められ始めているらしいのは至極当然のことだと思われる。それこそ、個人責任とともに組織責任を法的に徹底的に追及すべきだ。たとえ非合法な組織であったとしてもである。法治国家ならば、どこまでも法の効力を積み上げて行くべきだろうし、治安当局はそこにこそ誇りと面子を賭けるべきである。

 いや、思考エネルギーの浪費のようなことを書いているのは虚しい。関心の焦点へと急ぐとするが、気になるのは、陰湿に暴力化、残虐化しているような社会全体がひとつと、こうした事象が裏社会、表社会の仕切りを溶解してしまってどうもあまねく広がっていそうな風潮についてである。
 と言って、裏社会の住人たちの素行の悪さが消滅したなどと言いたいのではない。おそらくは、相変わらず惨いことを繰り返しているが、ただ「尻尾をつかまれない」かたちで巧妙にやっているということであるに違いない。ライブドア事件との関連で、沖縄で悲惨な自殺をしたとされる件などはそうした臭気ふんぷんの気配である。つまり、裏社会の住人たちの仕業は、一般市民の想像を絶した規模において、影の権力とも十分に連携しつつ「巧妙化」しているということになるのだろう。裏社会も、「構造改革」とやらが推進され、効率性や収益性の追求へと「純化」されているとでも言うべきなのか。

 裏社会の犯罪「純化」に対して、表社会の暴力化はますます百花繚乱的に「日常化」しているとさえ見える。「巧妙な組織犯罪」と「杜撰な個人犯罪」との対比だと言ってしまえばそれまでだが、後者はどうも「破れかぶれ」の度合いが日増しに拡大しているようで目を背けたくなるというのが実感である。
 もちろん、犯罪被害者がもっとも気の毒であり悲惨であることは言うをまたない。とともに、加害者が青少年であったりすると、被害者への同情の上であるが、罪を憎んで人を憎まずという一般論へ傾く気持ちも禁じえないでいる。それほどに、この社会を無残なままに放置しているかのような厚顔な輩たちに腹が立つということでもあるのだ。こんなに社会的緊張をこじれさせておいて、「美しい国」がどうたらこうたらでもないだろ、と思うわけなのである。
 そして、いつもながらバッシングしておきたいのが、マス・メディアである。もっと美しい社会を報じたいとは思わないのか、もしそう思うのなら、「権力者たちへの付け届け的報道」と目を背けたくなる「ゴミ箱あさり的報道」とに終始している自分たちの醜さをしっかりと鏡で見て自覚しなさい! あなたたちが、やらなくてはいけないことを放棄し、やってはいけないことにのめり込んでいるがために、時代と社会の環境は日増しに劣化しているのだ、と…… (2006.09.09)


 量がまとまるとモノのコストは思いのほか下がるもののようだ。当たり前の話ではあるが、この点をめぐって商売をしている者たちは悪戦苦闘しているのであろう。そう言えば、以前、PCショップを営んでいた時にも、パーツ類の仕入れで一番悩んだのがこの点であったことをありありと思い出す。大きなロット単位で仕入れれば当然一個あたりの仕入れ値は驚くほどに安くなる。が、今度は安く仕入れた商品を売りさばくことに頭を痛めることになる。まして、当時から、PCパーツはイノベーションが激しく、まるで生鮮食料品のように売れ残りを作ってしまうと、より機能向上して低価格となった新商品に押されてますます売れなくなり、そして不良在庫に成り果ててしまったのだ。
 だから、仕入れの際には、シビァな販売予測や販売計画などをにらみながら、それでいてまとめれば仕入れ価格が安くなるという誘惑に魅せられながら、悩ましい気分となったものである。

 「量販店」という言葉があるわけだが、こうした店舗の存立基盤というのはまさに上記のような事情での優位性ということなのであろう。つまり、家電製品などをメーカーから大量に仕入れることで仕入れコストを限界まで引き下げ、その上で大量の客が寄り付くような低価格で販売する。そして、大量の販売可能性を確保することで、再び、低コストとなる大量仕入れを繰り返していく、というような循環を生み出していくのであろう。
 「量販店」は何も家電製品の販売だけに限られるものではなさそうで、いわゆるチェーン店スタイルの販売網もこれに属すると思われる。昨今目立つのが、外食産業であり、ラーメン屋とか弁当屋であろう。

 昨日も、手っ取り早く昼食を済まそうとして、うちの近所にあるそうした経営のラーメン屋へ飛び込んだ。土曜日でもあり、ちょうど正午近くであったためか100人程度は収納できる店内はごった返していた。子ども連れの家族が大半であり、なるほど、ここならば家族そろっての外食とはいっても贅沢であるどころか、諸般の手間や時間を考えれば十分にペイする選択だろうなと思えたものだった。
 曜日や時間によっても客の入り状況はまちまちだが、何だか以前よりも賑わっているとの印象を受けたものである。品数も増やしているし、価格もさらに安くしているため、その種の客が増えているのかもしれない。

 弁当屋で昨今目につくのが、以前からの「ホカ弁」の類の「旧型」弁当屋に加わって出店し始めた「ニューフェイス」の弁当屋である。何がどう新しい経営なのかはよくはわからないが目につき始めた。
 事務所の近くの駅前にも出店されて、時々買うことになるのだが、自分の動機はというと、先ず「高くない(安い)」点、「待ち時間が短くて済む」点が大きいかもしれない。注文弁当はいざ知らず、各種の惣菜を「バイキング」風にセルフサービスで詰めて、それでお勘定という方式があったりしてダラダラと待つ必要がないわけだ。
 そのほかにも、チャーハンであるとか、おこわであるとか、種々のご飯類がパックされていて並べられている。これらも、高くない上に時間がかからなくて幸いなのである。
 どうも、「ニューフェイス」の弁当屋は、個別店舗で作る作業を可能な限り圧縮しているような気配がある。チェーン各店舗が手間をかける部分をできるだけ小さくする段取りが徹底されているのかもしれない。それは、客の待ち時間を短くするためと、事前に材料その他を調理しておくならば、大量仕入れ、大量調理という方式は確実に低コストを達成できるという点が目指された結果なのかもしれない。ラーメン屋のチェーン店方式とほとんど同じだと見えたものだ。

 こうした店舗が客をとらえ始めると、悩まざるを得ないのが個人店舗経営であるに違いない。果敢に健闘している店もありそうだが、どうしても個人店舗は、限られた仕入れ量という点からくるコスト高と、個別対応方式の調理という事情から調理作業での合理化が計れないという点などから向かい風を受けざるを得ないかのようである。
 気の毒だと思わざるを得ないのだが、実は、これは多くの分野の自営業や零細企業が直面しているある種普遍的な問題であるかのように見える。
 現在、デフレの名残であらゆるモノの販売価格が低い水準で這っている様子だが、こうした状況でペイしているのは「薄利」とともに「多売」を獲得している業者、つまりビッグ・スケールの企業なのであり、自営業や零細企業などの孤軍奮闘組は、「薄利」だけが強いられ、最悪は「退陣」まで迫られるという過酷な事態となっているのではなかろうか。
 「カリスマ」ラーメン店の前には、相変わらず物好きな客が並んでいたりするのも見かけることは見かける。これも「スモール」経営のひとつの突破口であるには違いないとは思う。しかし、果たして「個性」化、「カリスマ」化というような、言うは易く行うは難しの出口しかないものなのであろうか…… (2006.09.10)


 今朝、TVのニュースショー番組で、公務員の素行の悪さが槍玉に上がっていた。例の飲酒運転による子ども3人死亡の事件に端を発して、止まぬ公務員による種々の事件が多発していることが非難されていたのである。
 実際、自分は、そうした公務員による犯罪や事件が多いのかそうでもないのかに論評を下す材料を持ってはいない。ただ、今日、ここに書いておこうとしているのは、公務関係(公務員が主体であるとは言わない)に絡む具体的な犯罪事実についてである。種々の事情がからんでいるため、事件の具体的表現については相応にぼやかさなければならない。ただ、知人の被害者が直接語り、自分も現場やその他関係場所へ同行した経緯があるため、極めて信憑性の高い事実である。

 これを書く動機は、公務施設が犯罪に利用された事実を明記することで、公務関係者による施設管理の杜撰さを指摘したいがためである。公務の民営化という一連の風潮は昨今よく見受けられる事柄であろう。しかし、先に発生していた「プールの排水口の柵不全」事件ではないが、民営化されることでイージーな収益追求のために、「手抜き管理」を誘い、結果的に悲惨な事件を招くという危険は、現時点の社会状況の危なさの本質をついているかと思われるのである。

 前もって言っておくならば、公務関係の施設というのは、傍目から見れば当然のことながら十分に管理されていると見えるはずである。その内部で不正が行われたり、まして犯罪が遂行されるなぞとは先ず誰もが考えないのではなかろうか。逆に言えば、そうだからこそ、犯罪者にとっては、公務関係施設がノーマークの隠れ蓑ともなる。
 今、もし、公務関係施設に、しかもその施設が、深夜ともなると人が近づかないような深い自然施設と一体となった場所であったとしよう。その場所、その施設が、何らかの経緯によって、犯罪者が使用することができた時、かなり恐ろしい犯罪が起こされかねないと思われる。助けを求める叫び声とて効を奏さないからである。また、そもそも、そんな場所から助けが求められるとは普通は考えにくいからである。まさに、闇から闇へと葬れる犯罪が容易に成立してしまう可能性が高いだろう。

 私の知人は、これとほぼ同様の環境設定の事件に巻き込まれたのである。密かに暴行を受けた後、上記のような環境の公務関係施設にクルマで拉致され、幸いにも、九死に一生を得るかたちでそこから脱出したのである。
 いや、もうこれ以上のことは書くことを控えるが、明瞭にしておきたいのは、その施設が、市街地からは幾分離れた公務施設(町田市の管理化にあるはずだ)だという事実である。どういう訳で、夜間は施錠されているその施設の建物の「一棟」が、暴行と拉致の現場として悪用されることとなったかは不明である。その施設の建物の「鍵」を持つ者が関与していたとの推測以外に事態を説明することは困難ではなかろうか。
 したがって、最小限の事だけを言うならば、建物の施錠に関する管理体制がきわめて杜撰であるということになろう。物事の管理の基本の基本は、物理的環境(建物や空間的施設など)の管理であるはずで、この点を揺るがすならば他の多くの事柄が瓦解する可能性を秘めていると思われる。
 いつぞやは、廃屋化した元パチンコ店舗の建物で青少年が殺人事件を起こしたそんな事件があったことは人々の記憶に新しいはずだ。人の目や管理が行き届かない空間は容易に犯罪の現場と化す可能性が高いのである。そして、人の目が行き届かない空間の中には、当然、立派に管理されていると目される公務関係施設も該当することになる。もちろん、正常に管理運営されているのであれば何の問題もない。

 この事件が今後どのように解明されるのかそうでないのかはわからない。ただ、自分としては、自分の住む市の公務関係施設が、ひょっとしたら殺人事件にまで発展したかもしれない犯罪に悪用された事実と、そしてそれはどう考えても公的部門の管理不行き届き以外の何物でもないのではないかという点を、とりあえず書きとめておきたいと考えたのである。
 強烈な事実、事件というものは、ひょっとしたら、全くの部外者が原因であることよりも、関係者が深く噛んでいることの方が多いと、誰かが述べていたように思うが、そんなセリフを思い起こしたものである…… (2006.09.11)


 気温24度というのは、過ごしやすくて良いが、若干肌寒い感じもする。いつの間にこんな季節となってしまったのかと、やや当惑する。梅雨と並ぶ秋雨が原因で気温が下がっているようだから、このまま涼しい秋になってしまうわけではないのかとも思える。しかし、もうこの時期ともなれば、半端に蒸し暑いのは結構であり、一気に涼しくなり、秋めいてもらいたいものだ。

 モノクロ映画か、水墨画でも眺めるように鮮やかさを欠く窓外を見ていると、どうしても気分のポテンシャリティが低下する。要するに、感情を波立たせるような刺激が乏しいということなのだろうか。
 人というものは、刺激があればあったで緊張して、そして疲れもするが、逆に無いとなるとラクである代わりに気分が沈み、脳の働きさえ休止状態となるようで厄介だ。

 ここ三、四日、ちょっとした異変というか、緊急事態らしきことに遭遇して感じたことであるが、人間の脳は、やはり「予想外」のことに直面しなければ活性化されないのかもしれない。まあ、あまりにもリスクの高いことだと脳の活性化は果たされても、心臓が持たないという副作用が出そうだが……。
 そんなことを考えると、現代という時代環境は、果たして脳の活性化に適した時代なのだろうか、どうなのだろうかと、そんなことを考えるに至った。

 現代は環境変化の激しい時代だとは言われるものの、どうも概して脳活動に対しては健全な影響を及ぼすものではないのではないかという気がするのだ。
 中高年の人たち向けの脳のトレーニング・ツールが持てはやされることがその証左だとまでは言わないが、それにしても日常生活では意外と脳は「過保護」状態にあり、「甘やかされている」のではないかと見受けられる。
 要するに、「考えないで済む」環境の蔓延がひとつ気になるし、脳の活性化が促されるという「新しい状況」とて、本当に「新しい」のか、という疑問も残る。

 前者については、やはり商品やサービスの氾濫によって便利な環境が次々に登場していることが、結局、「考えないで済む」環境づくりをしているのだろう。便利であることは、確かに余計なことを考えなくて済み、思考のエネルギーのエコノミー化を図っていることになるが、それは同時に、脳が働く機会を奪っていることでもあるはずだろう。いわゆる、「工夫」という脳の得意技を封じ込めているのとかわらないからだ。
 それでいて、わざわざゲームのようなその種のツールを購入して脳のトレーニングに時間を割くという行動様式は、何かによく似ているようである。つまり、日常行動でできるだけ身体を使わずラクをしていながら、特別なツールを使ったり、わざわざそのために時間を設けたりしてフィットネス・トレーニングをするという現代人特有の行動スタイルに似ているのではないかということである。
 酷使するところまで行けば問題であろうが、脳にしてもその他の身体にしても、適度に負荷をかけて使うことこそが健全化への定石なのであり、その素材は何でもない日常生活の舞台にゴロゴロ転がっているのであろう。ただ、所要時間や結果に対して過度に目が向けられる生活スタイルが、そうしたわかり切ったことを黙殺させているのだと言える。

 後者の「新しい」ことと脳の働きとの問題についてである。一体、脳活動にとって「新しい」こととはどういうことなのであろうか。
 結論から言えば、脳が「困ったり、挫折したり」することだろうと思う。要するに、従来どおりの思考回路では歯が立たない、という対象が、脳にとっての「新しさ」ということになるのだろうと考えられる。
 そうした「新しさ」の典型は一体何になるのかと思い巡らすと、要するにそれは「予測不可能」な事柄であると気づくことになる。とすれば、仮に、一見「新しい」ものと見えるものであっても、脳に「類推」や「予測」を許すようなものは、脳は決して「困ったり、挫折したり」することがないため、脳にとっての「新しき」ものとは言えないのではなかろうか。
 そして、現代という時代環境では、あらゆるものに、「管理」のための「予測可能性」がビルトインされており、商品にしてもサービスにしても、この原理から逸脱するものはそう多くはないと思われる。つまり、脳にとっての「新しさ」は、この現代という時代環境の中には、そう多くは存在しないということのようなのである。

 なおかつ、「予測不可能」な事柄の名残を十分に留める「自然環境」や、そして忘れてはならない「人間自身」なのであるが、これらとの関係そのものが、現代人には忌避されつつあるかのようである。自然環境は大規模に人工化されているし、また人間関係は、さまざまなものの自動化環境などによって限りなく消滅または希薄なものへと変わりつつある。加えて、(脳に負荷がかかるがゆえに)ウットーシイからという感覚で対人関係が忌避されがちな実態もありそうな気配である。
 こうして、現代という時代環境では、脳活動の活動領域はあたかも「危機に瀕している?」とさえ言えるのかもしれない…… (2006.09.12)


 過度に「忙しい」と不平をこぼし、また逆に「暇」に過ぎるとこれまた退屈でならないと不満を持つのが人というものなのであろう。どうも、こうした反応は「脳」そのものが採らしめているように思われる。
 昨日、脳活動にとっての「新しさ」や「予測可能性」について書いた。そして、脳活動が活性化されるのは、「予想(予測)外」の出来事で構成される「新しさ」に遭遇した時ではないか、とも書いた。パニックやノイローゼとなるほどの「予想外」の「新しい」事態はノー・サンキューとしても、退屈ではいけないということを書いたつもりである。

 確かに現在は、これまでにない大きな変化を迎えることで、「新しさ」や「予測不可能性」に満ち満ちた時代環境となってはいそうである。ただ、現代環境を構成する原理が「予測可能性」追求に深くかかわっているため、概して予測不可能な事態はそうそう発生しないというのが実情でありそうだ。
 そんな実情から、「予測可能性」追求の集積場であるような職場でいやと言うほどに「予測」に捕らわれ、そして生活の場も大同小異の状況だとすると、人々はというか、人々の「脳」は、予想を違(たが)えない現実の推移に辟易とし、「予想外」「想定外」な「意外性」に焦がれるものなのかもしれない。

 子どもの「脳」は特にそうなのだろうが、働こうとする「脳」にとっては、「退屈」な事態とは一種の苦痛であるのかもしれない。きっと、職を奪われた働き者の心境に似ているのであろう。
 いろいろと不測の事態が生じて当然の現実が、結構、計算され尽くされて構成されていて、高い「予測可能性」に浸されているのが現代の社会環境なのかもしれない。
 そうすると、人々(の脳)は、そうした安逸に溺れながらも、「意外性」を密かに、あるいは無意識に期待することになる。これはもう、脳が活性化されたいというような杓子定規な話ではなく、脳の生理的欲求のような様相を呈することになっているのではなかろうか。
 ちょうど、悲劇ドラマや恐怖ドラマを観ることが「カタルシス(感情浄化)」という精神面での生理的現象であることと、ほとんどパラレルな関係にありそうな気がする。

 新聞のとあるコラムに、次のようなおもしろいものがあった。

< 何年ぶりだろうか、高校球児の一投一打にかたずをのんだ。そして、長い戦いに決着がついた瞬間、目頭に熱いものを覚えた。私と同じ体験をした日本人は決して少なくはなかったであろう。その日を境に、1人の高校生が脚光を浴びている。
 甲子園の優勝投手になったことが、彼の人気の最大の理由である。しかし、それだけでは恐らく女性を含め野球に詳しくない普通の人たちを巻き込んだ騒ぎにはならなかっただろう。異常な人気の背景には三つの意外性=「へぇー」と、誰にでもわかる「なるほど」があった、と考えられる。
 一つ目の「へぇー」は、決勝の延長15回戦を含め4日連続の完投を成し遂げたのが、野球選手とは思えない普通の体格の高校生であったという意外性である。二つ目の「へぇー」は、彼が汗臭いスポーツ選手にはおよそ似つかわしくない、ポケットからハンカチを取り出し、汗をぬぐうイケメンの若者であったという意外性である。三つ目の「へぇー」は、話題の兄弟ボクサーに代表されるように、「近頃の若者は生意気だ」というイメージとは異なり、彼が礼儀正しく、受け答えのしっかりした若者だという意外性である。そして、三つの意外性=「へぇー」が、野球を知らない女性にも「なるほど」と思わせるわかりやすさで構成されているという点である。……>( asahi.com コラム「経済気象台」<「へぇー」と「なるほど」> 2006.09.02 )

 現代人(の脳)は、<意外性=「へぇー」>を享受したがっているようである。逆に言えば、それほどに、日常生活においては<意外性>(=予測不可能性)排除されていて、脳はその働きを抑えられ、「リストラ」気味になっているのかもしれない。
 現代の大衆迎合的政治家(ポピュリスト)が、しばしば「サプライズメント」を打ち出して大衆の気を引こうとするのは、たぶんこの、<意外性>枯渇状況を睨んでの作戦なのであろう。
 また、さまざまなゲームや賭け事の中に、偶然という名の<意外性>(=予測不可能性)を「自由」感として受けとめようとするのも、同じ類の事柄なのかも知れぬ。

 ただ、パーフェクトにシステム化され切った現代のさまざまなジャンルの現実は、<意外性>と見えるものでさえ、「意外と」プロデュースされたものであることが多いとも聞く。
 生の、ナイーブな「意外性」は、一体何に見いだすことができるのであろうか。シリアスな対人関係や、野生の範疇の自然(そんなものがあるのかどうかは知らないが)がそれにあたるのであろうか…… (2006.09.13)


 季節の風情、情緒が伴わずに、いきなり気温の変化だけがやってきたような格好だ。今日は、21度であり、多分10月下旬並みということではなかろうか。こうした、「いきなり……」という成り行きは、現代という時代のひとつの特徴なのかもしれないが、何とも受け容れ難い。この春先も、五月晴れの日々が割愛されて「いきなり」梅雨の長雨に突入してしまった覚えがある。要するに、常なるものにあらずという意味で異常さに属すると言うべきなのであろう。

 やはり秋といえば、どこからともなくキンモクセイの香りなぞが漂い、子どもも大人たちも夏の疲れから立ち直って、何かいそいそと事に邁進するような、そんな雰囲気の季節だと思うわけなのである。
 町の小中学校では、運動会の練習と思しき騒がしい気配があったり、秋祭りの準備やそうした賑わいも伝わってきたりするわけだ。
 初秋の夕暮れや薄暮には、幾分涼しくなった風が、家々での夕飯の仕度の匂いなどと、キンモクセイの香りが混ざった平凡で平和な空気をそっと運ぶ。また、どこからともなく聞こえてくる虫の音が、ご苦労さん、とでも言ってやりたいほどに高鳴ってくる。
 それらが、日中の幾分かの疲れと興奮冷めやらぬ気分とを携えて帰宅する者たちを、優しく慰め、クールダウンさせる。家々の灯かり、窓からもれるそれや、玄関の外灯などが妙に存在感を持ち始めるのもこの頃からであろうか。

 ところが、今のご時世では、何から何までが風情と情緒を欠いて、味気なさ、喧しさ、さらに殺伐さまでが加わり、ちょいと大袈裟かもしれないが、「いきなり」ビールでも焼酎でもそれらの一気飲みでもやらなければ落ち着かない、というような空気になっているのかもしれない。
 だから、せめて季節の移り行きくらいは、万事調和を保ちながら緩やかに進行してもらいたいものなのである。人の世は世知辛く、喧しくとも、やはり自然は心を許せるものだと思いたいわけである。

 なのに、どうも昨今の自然現象は、やたらに、「いきなり……」というような動きが目につき、ややヒステリー気味となっているかのようである。おそらくは、あの「地球温暖化」がジワジワと強まることで、各地各所に異常事態をもたらしはじめているのであろう。特に、梅雨にしても台風にしても、そして秋雨前線などにしても、雨を含む雲や気圧配置などは、今確実に奇妙な変化をしていると見える。
 きっと、これから増えていくはずの今年の台風もまた、異常さの度合いを増して各地に被害をもたらすのではなかろうか……。

 話は変わるが、つい先日、東京都は福岡県などと競いながら、ポスト北京のオリンピックの誘致で奔走していたようだが、まるで聡明さを欠いた愚行だと思ったものである。
 というのは、東京都は、いつ発生しても不思議ではない直下型大地震の懸念がある上に、昨今増え始めた都市型水害というような問題も控えているからである。「お祭り騒ぎ」にエネルギーが割かれる以前に、都民の生命と安全に関していくらでもやるべきことがあるということだ。
 地球温暖化傾向に伴って、ジワジワと自然の脅威が高まっているのであるから、従来以上に都市災害の被害規模の巨大化が注視され、打つべき手が打たれなければならないはずではなかろうか。大言壮語を常とする現都知事は、都市に迫る危険状況全体を一体どう受けとめているのかと不信感が募ったものであった。

 これからの自然の大変化とともに長く生きざるを得ない若い世代の人たちが、当事者意識を強めるとともに、爺たちにとって宝の持ち腐れである権力、権限を速やかに奪い取ってもらいたい。そうでなければ「タイムアウト」になりかねない…… (2006.09.14)


 読みかけのとある本の中に、本筋とはやや離れた意味合いの次の一文があった。
 <子供は、無償の愛を与えてくれる存在にすがってしか生きていけない>
 ちなみに、以下が続く。<サンタクロースは、父や、母といった、身近な保護者とは別の世界に住む、それでも自分を思ってくれる人である。その人は……>
 <サンタクロース>という子供たちにとっての<仮想>こそは、<脳>の働きの本質を言い表す<仮想>や<クオリア>を解く鍵だと、この後述べられていくのである。(茂木健一郎『 脳と仮想 The Brain and Imagination 』)

 <無償(の愛)>という美しい言葉の響きに、惹き込まれたのだった。
 今、窓の外から野鳥の鳴く声が聞こえた。電線にとまって鳴いている。彼らだって、<無償>の環境で生き抜き、おまけにさらにひ弱なヒナたちに<無償>で世話をして育てようとしているわけだ。
 先日も、事務所の階段の脇の壁の隙間に、どうもスズメが巣を作っているらしかった。階段を通る度に、ヒナが親鳥と思ってか、チチィッーチチィッーと激しく鳴き声を上げていた。<無償>の世界で精一杯生きようとする動物たちに思わず意を払うことになったものだった。
 確かに、スズメたちにとって、現環境は日に日に苛酷なものと変化しているはずである。一頃よりも、姿を見かけることが少なくなったのも現状を表しているのであろう。

 われわれ人間様は、「<非>無償」つまり、「対価の支払い」を前提とする市場原理にどっぷりと浸かって生活している。「カネがあれば」「カネさえあれば」「カネがなければ」「カネ、カネ、カネ……」「だからカネを稼ぐ」といった同語反復を繰り返しながら、いつの間にかこの世に<無償>のもの、価値ある<無償>の存在が無くなってしまったかのような錯覚に陥ってしまっている。
 仮に、<無償>と称されたものがあっても、決して無条件ではなかったりする。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)運営会社「ミクシィ」への入会ではないが、市場原理によって、広告スポンサーが「肩代わり」するところの<無償>もどきでしかないわけだ。いわゆる「タダより恐いものはない」に似た<無償>もどきと言っていいのかもしれない。
 要するに、この市場原理と構造の中では、たとえ農産物をトラクターで踏み潰しても、<無償>で求める者に手渡すことはあり得ないということになるわけだ。
 きっと、子供たちでさえこの現代社会に馴染んでいくやいなや、早い時期から<無償>の行為というものに違和感さえ感じはじめるのではなかろうか。まあ、親による自分への<無償>の愛や行為についてはどこまでも甘えというかたちの鈍感さを、引きずるのが世の常ではあるが。

 真実<無償>である事柄に目を向け、そしてその意味を噛みしめるべきなのかと考えてみるのである。もっとも、一方で、真実<無償>である事柄がきわめて希少となった現実があるし、他方で、「対価の支払い」に慣れた現代人にとっては、居心地が悪く、結構難しいことであるのかもしれない。
 なぜこんなことを考えるのかと言えば、この辺を凝視することで、市場原理というものの「おかしな」出自と、意外な「曖昧さ」がわかりそうだと思えるし、また<無償>なものの存在こそが人間を人間たらしめているのかもしれないと感じるからなのである。
 これらについては別途機会を改めるとし、今日は、視点の提起だけにとどめておこうと思う。ただひとつだけ急所を押さえておくと、「生、生きること自体」が、本来的に考えるならば、どこからどう見ようが<無償>そのものであるという点である。「対価の支払い」という点に拘泥しなければならない「生、生きること自体」が既成事実となっている現実をこそ疑ってかからなければいけないのかもしれない…… (2006.09.15)


 台風の影響や秋雨前線などから、この連休の天気は芳しくなさそうだ。そんなこともあって、晴れ間が出るという今日は高尾山にでも行こうかと考えていた。が、諸般の事情でまたの機会とすることにした。
 そこで、いつものウォーキングを延長することとした。通常のコースはほぼ4キロである。それを50分弱で歩いている。
 これを今日は、境川沿いに倍以上の距離に延長することにした。かつて何度か歩いたことがあるのだが、地図で調べると片道10キロ弱といったところである。

 いつものコースとその先しばらくの道は、遊歩道として舗装され植込みの手入れも行き届いている。散歩やジョギングをする人も多く、まさしく市内の遊歩道という状態だ。
 が、境川を上流に向かい、市の中心部に背を向けるかたちで歩き進むと、結構、様子が違ってくる。先ず、道は舗装がなくなり、道幅も俄然狭くなる。人が歩いたり、自転車が通る中央部のみが土肌を覗かせる道となっていて、その両脇は草ぼうぼうとなっており、今ごろの季節では川の土手側は背丈のある葦やら草で川の流れさえ見にくくなるありさまである。
 また、川と反対側の方面は、田畑となっている個所が多い。人家の庭などにつながっている個所があったり、公園や町内のグランドに接している場所もある。いずれにしても、まさに町田街道の「裏街道」とでもいう位置づけにあり、道路としてはまともに格付けされていないためか、雑草が生い茂り、ヘビなんぞが出てきても不思議ではない雰囲気となっている。

 そんな環境の道であるため、いつものウォーキングとはちょっと異なった心持ちとなれるのが良いといえば良い。旅と言うには大げさであるが、それでも仕事や買い物に向かう足取りとは若干異なった気分で歩くことができる。若い頃の山歩きはどんな気分であったかなどと唐突に振り返ったりもする。
 今日あたりは日が差してももはや夏の日のそれではなくなっていた。汗も滴るというほどではなくなり、ハンカチで拭う程度のことで済む。生い茂る雑草に混じって、コスモスや、そのほか秋の野草が可憐な花を咲かせていたり、市街地ではあまり姿を見なくなったトンボが群れで舞っていたりする。こうした昔ながらの自然環境に触れることが、今の自分には必要なのかもしれないと感じたりした。

 まあそこそこ歩き続けているためか、さほど疲れたという感じもなく折り返し地点の高架橋が目に入ってきた。いつであったか、はじめてこのコースを歩いた時には、かなりバテてしまい、清涼飲料の自販機を必死で探したものだったが、今日はかなり余裕を残しており、そのまま町田街道を歩いて帰路につくこともできそうであった。
 が、いくら連休を残しているとはいえ、あまり意気込むこともなかろうとそこからバスで戻ることにした。クルマの往来の激しい街道の歩道を歩いたとて決して気分の良いものではないからである。
 バスの車窓から、年配の男性がいかにもサイクリングでござい、といった格好で歩道を走る姿が何度か目についた。自分と同様に、疲れても三連休初日だという条件がそうさせたのか、なぞとふと考えたりしていた…… (2006.09.16)


 現在、一般的な情報やパブリックな情報に関して調べようとするならば、百科事典より何よりも、インターネットの検索サイトに問えば大抵のことはわかる。時代環境の新語についてはもとより、忘れかけた人物の名でもたちどころに判明する。
 これらの検索サイトが得意とするのは、先ず、最新の商品やサービス情報なのだろう。ここには、インターネット・サイトの商業的性格が色濃く反映している。また、現時点での情報、ないしは最近の事柄に関する情報も得意だと言える。ここにも、サイトが開設された時期が反映されており、インターネットが普及する以前の事柄になると、もはやそうした歴史を扱うサイトだけが回答を返してくるだけとなり、にわかに検索結果が貧弱なリストとなるわけだ。
 また、調べようとする内容が、一般的なものから特殊なものへと入り込むと結果が乏しくなるし、場合によっては「ナッシング」ということに終わる場合もある。
 こうして調べ事をしてみると、インターネットに代表される現在の情報、知識の、その性格を思い知らされるようでおもしろいと思う。

 なぜこんなことを書くかというと、イージーに調べたり検索したりできる情報、知識と、それができなかったり、またははなはだ困難であったりする情報、知識というものが歴然として分かれるということにちょっと目を向けたからである。
 別にどうということもない着眼ではあるが、日頃、気になることや疑問に思うことをネットで検索したり調べたりしている習慣を作っていると、あたかもそれがオールマイティの方法だと思ってしまう。そこへ持ってきて、「とあること」を問いたいと思ったら、お手上げ状態だと気づいたからなのである。
 ここに、現在の情報、知識の仕組みの歴然とした弱点と陰があると思ったという次第なのである。

 「とあること」とは何かというと、個人の記憶に属する過去のプライベートな事実なのである。なあんだ、そんなことは当然のことじゃないかと笑われそうである。確かにそのとおりであり、むしろそんなことまでインターネットのどこだかのサイトで調べることができたらゾッとするはずであろう。なぜそんな個人的なことが記録に残っているのかと「個人情報保護法」(?)を楯にとって噛みつく話となろう。
 ちなみに、ついさきほどまで悩ましく思いを寄せていたのは、次のようなことである。 この秋に旅行をする予定になっている伊豆のとある場所は、以前にも一度訪れたことがあると記憶している。もう20年以上も前のことであり、自身の記憶も薄れたし、同行した家族も同じなのである。記念写真くらいはありそうだが、当時の写真が今どこに仕舞い込まれたか不明である。
 記憶に残っているのは、確か、めったに旅行をともにしたことがない亡父が一緒だったこと、夕刻、旅館の近くの河口に小魚の群れがざわめいているのを目撃して竿を差したけれども一向に釣れなかったこと、そんなことだけである。それがその前後の薄れた記憶の中でまるで黄ばんだ挿絵のように残っているのである。
 他愛無い事ではあるが、大げさに言えばこれは夢なのか事実なのかと気にし始めると、とても重要なことのように思えてくるのである。

 そして、他愛無い事柄ではあるが、こうしたイメージの真偽のほどを確認してみたいと思う時、如何せん頼りになる調査・検索方法というものが見当たらないのである。記憶に基づく雲を掴むような非効率的な手段のほか何もなさそうに思えるのである。
 どうせ、そんなことが判明したからといって何がどうなるものでもなさそうである。だからこそ記憶さえ薄れたのだと考えれば済みそうでもある。しかし、亡父と一緒であったこと、河口に群れていた小魚というイメージが残っているのは、それではなぜ? としつこく食い下がることもあってよさそうでもある。
 開き直って言い放つならば、ひょっとしたら、本当に自身にとって意味のある事実というのはこうしたものではないのか、と。
 いつでも、誰にでも問うならば応えの返って来るような事実というのは、まさにその程度の一般的なものなのであり、自身にとってだけ意味があるという希少価値があるものではないはずである。「一般的」に生きて、「一般的」につつがなく人生を閉じて、それでいいと自信を持って言えるのであればそれもよかろう。しかし、「生きる」ということの本来的意味に目をやる時、「一般的」な存在に身をゆだね、それだけで自身を構成することになるのは、やはり寂しい気がする。
 いや、決して自分は特別だと今時の青少年のように孤立化しようと思うわけではない。そうではなく、むしろ逆であり、人間個人という存在は、決して「一般的」な観念やイメージと同一化することなぞできるものではなく、できると思っているのは、自身の内にある「非」一般的な思い、つまりさまざまな違和感を棄却することで「一般的」なものに擦り寄っているだけなのかもしれない、とそう思うのである。

 こんなふうに考えると、自身の記憶から消えかかっているものこそ、「一般的」な観念やイメージが席捲する現代という情報時代にあって、「一般的」な存在には解消されるはずのない個人という存在の足場となるとさえ思えるのである。
 昔、こんな啖呵を切った者たちがいたはずだ。
「世間の誰が何てったって、オレは許さねぇ」と。
 多少のズレがないわけでもない例だが、「世間の誰彼」と「オレ」とは所詮異なって当然だという点では、ここで言いたいことと同じである。
 それでということになるが、これほどまでに希少価値のある、いや希少価値しかないと言ってもいいが、自身の思いとその記憶というものが、何と、「一般的」な情報や知識の操作(検索や調査)の、その方法や装備に比べて貧弱かつ薄弱なものであるかということなのである、言いたかったことは。
 現在という時代環境では、きわめて容易に個人の内なるものの特殊性は、「一般的」な観念やイメージによって塗りつぶされてしまうものだ。平たく言って、万事が「紋切り型」で首尾一貫し易くなっているのが現代情報時代の最大の特徴とさえ言えよう。
 個人が、本来的な個人として感じて考えることが少なくなっていると言われているが、個人としてそれらができるための環境自体があまりにも疎んじられているようにも思われる。
 「一般的」な存在を遮断して孤立するのではなく、それらをそれはそれというふうに相対化して、自分は自分というそうでしかあり得ない悩み方をすべきなのかもしれない。たぶん、そうした本来的な個人たちの間以外から本来的な「一般的」なものは生まれないのだろうと考えている。現在飛び交っている「一般的」なものというのは、個人にとって空々しいだけでなく、誰にとっても空々しいものと言うべきなのかもしれない。

 さてさて、一番気になっていたところの、個人の個人的な内なる存在、要するに記憶ということになるわけだが、それに関する「検索、調査方法」という課題はどうアプローチされるべきなのであろうか。
 余談であるが、現在、「一般的」な情報や知識のレベルにおいても持てはやされている「ブログ」という流行を、もし買いかぶるならば、人々の情報への関心のあり方が「自身との関連」という視点を抜きにしては受け容れられがたくなっているということだとも考えられる。ようやく、過剰な「一般的」情報に距離を置こうとし始めているのかもしれないと。
 「一般的」な情報や知識が席捲する時期はようやくピークを過ぎようとしているのであろうか…… (2006.09.17)


 ガラーン、ガラーン、ガラーン……
「おめでとうございまーす。お客様は、当会場の10万人目のご来場者です」
とか言われ、カメラのフラッシュは浴びるは、綺麗な姉ちゃんから花束や、景品目録なんぞを贈られる……
 というようなラッキーな巡り合わせとなる人がいるかと思えば、今日の自分のような間が悪い者もいる。
 トイレに閉じ込められてしまったのである。用を足し、さあて出ようとして鍵に手をかけると、いつもの感触ではない。そんなはずがあるわけはない、ちょっとしたはずみで何かが引っ掛かっているだけさ、どおれもう一度、こうやって……こうやって……、あれっ? うそだろー? こうやれば……、こうしてこうすれば……。が、どうやっても鍵が内部で噛んでしまったようでビクともしないのである。
 ようやく、状況認識が定まるに至った。要するに将棋で言えば「雪隠詰(せっちんづめ)」と相成ってしまったのである。「室内」を見回すものの、鍵をいじれるようなドライバーや針金類、金物類があるわけはなかった。まさに「丸腰」状態で閉じ込められてしまったのである。
 残された道は二つ。ひとつは、幸い居間で片付けか何かをしていたはずの家内にアラームを送るか、あるいはアメリカのポリスさながらに扉を蹴破るかである。もちろん、後者のような手荒いことをすれば、後始末が大変なことになる。
 そこで、扉をドンドン叩き、「おーい、おーい」と繰り返す。
「ええーっ、どうしたの?」
「鍵が壊れたようなんだ。ちょっと外側のノブを回してくれるか」
「あれっ、全然動かないみたい」
「やっぱり、鍵の内部でヘンな噛み方をしちゃったんだな。要するに壊れたということだ」
「どうするの? 鍵屋さんを呼ぶ?」
「いやいや、ドライバーで鍵をはずせば済むはずだ。トイレの窓からドライバーを差し入れてもらおうか」
「はいはい。こっち側には野次馬が集まってるわよ」
「誰が?」
「猫たちが何事かとビクつきながら、トイレの扉の前におっかなびっくりで寄ってきてるのよ」
「まあいいから、ドライバーを急いでくれ」
 助っ人によって窓から差し入れられたドライバーを手にすると、自分は鍵を固定している4本のビスを外し、あっという間にわが身を軟禁状態から解放させることができた。

 しかし、何という巡り合わせであることかと感じ入ったものである。と言っても、確率は家族数から三分の一ということになるわけだが、自分がババ籤を引いたということなのであった。
「古くなっていたからいずれ壊れるものだったんだよな。言ってみれば、自分が代表となって進み出たというわけさ」
 自分は照れ隠しに屁理屈を言っていた。すると、家内がそれに応じて、
「何てったって『代表取締役』だもんね」
と言う。そこで、自分はバカなオチに持ち込んだのだった。
「バカ言え、これぞ『代表閉じ込められ役』ってことだよ」
 さっそく、その鍵を修理しようかと思ったが、新しい鍵に取り替えられないの、と家内が不安そうに言うのだった。というのも、もし再発したら、しかも、独りで居る時にそれが再発したらとんでもないことになると懸念したのである。
 もっともなことだと思えた。今日だってもし家内が居合わせなかったら、一体どういうことになっていたかとゾッとしたのだった。日頃、自分はウエスト・ポーチなどを付けていて、そこには万が一に備えて十得ナイフのようなものも押し込んでいる。しかし、さすがにそんなものを巻いて「この場所」に入ることは先ずない。したがって、「この場所」に入る時には概して「丸腰」であり、そして「お手上げ」となる確率が高いことになる。とすれば、万難を排して「新しい鍵」に取り替えることで安心感をを買うしかないと確信したのであった。
 いつものように、最寄りのホームセンターに向かい、幸いにも同型の鍵セットを見つけることができたのだった。そして、ついさきほど非の打ち所がない形(であってほしいわけだ!)で設置作業を完了した。
 しかし、いつ何時にどんな難事が発生するかわからないものだと、またまた不安の種が増えたような気にさせられたものだった…… (2006.09.18)


 今日はほぼ一日、とあるITツールに属するソフト・アプリケーションをいじり回していた。手掛けようかと思ったのはもう一年以上前のことであり、よくもこう「寝かせて」おいたものだと我ながらあきれ返る。
 しかし、こんなことは決してめずらしいことではない。これまでも、どうも心理的に敷居が高くて、思い立ってから具体的に手掛けるまでに一年、二年の時間を置いてしまったことはままある。それでいざ着手してみて、こんなことならもっと速やかに始めていれば良かったと思ったりするのである。

 新たに、とあるアプリケーション・ソフトをマスターしようとすることは、見知らぬ人との交際を始めるのに似ている。とにかく最初の段階は、右往左往することが避けられない。
 類似したソフトの処理スタイルやルールなどが、当然、類推のための素材となりはする。昨今のソフトはいわゆる「オブジェクト指向」方式であったり、開発言語「Java」の発想を基本にしていたりするので、そうメチャクチャに、途方もない発想で引き回されるということはない。むしろ、「オブジェクト指向」や「Java」といった現在のソフト環境の基本的知識が曖昧であることが災いとなるとも言えそうだ。
 人との付き合いで言えば、現代という時代の基本的な課題をしっかりマークしていさえすれば、大体がどんなタイプの人柄ともまずまずうまくやってゆける、というようなことと似ているのかもしれない。

 今ひとつ、人との付き合いと似ているかもしれないことは、ただ相手のことを知ろうとするのではなく、一体、その相手と何をどうしようとしているのかという点を明確にすることが大事かもしれないということだ。
 自分が、新たなソフト・ツールをマスターしようとする時には、いつも自分なりのお定まりのアプローチ法というものを行う。今までにも書いてきたつもりだが、決して採らない方法は、いわゆる「マニュアル」を一頁から読み始め、そのソフトが持つさまざまな機能を逐一調べてかかる、というアプローチである。まあ、入り口付近で、基本の基本程度は「マニュアル」の世話になろうとするものの、あとは、そのツールを活用して何かを作り始める作業に、できるだけ速やかに移行してしまうのである。
 確かに、乱暴な感じが否めない。しかし、そうすることで、より実践的な関心が強められ、了解できた技や知識がより確実に自分の中に定着するようなのである。これはきっと、何に使うのかがはっきりしない機能というのは、結局、おざなりにしてしまうのに対して、自分がこんなことはできはしないかと目論んでみて、いざ、そうした機能が準備されていることを知るならば、ありがたさも伴って俄然、深い記憶となって自分の血肉となるからなのであろう。つまり、当方側から挑む何かがあってこそ、相手側から効果的に引き出すものを引き出すという道理なのである。

 これらの道理を、ニ、三歩引き下がって考え直してみると、要するに、動機の鮮明化ということになるのかもしれない。何をするにも、自身の動機を鮮明にさせるならば、結構順調なアプローチになりそうな気がしている。
 知る人は知る、禅寺での入門がとりわけ厳しく処されるのは、まさに入門の動機薄弱な者は険しい修行がまっとうできるはずがない、ということなのであろう。その逆に、どのように粘っても入門するのだという確たる動機があるならば、激しい吸収力が多くの苦難を乗り越えさせる、という親心なのであろうか。
 まあ、高が新たなアプリケーション・ソフトのマスターくらいで、禅寺での修行がどうのこうのというのは、チャンチャラおかしい言い草ではある。
 ただ、この時代は、何をするにもその動機が薄弱であったり、不鮮明であったりすることがあまりにも多いように思えてならないのは事実だ。そして、当然のことながらやりかけの事柄をいとも簡単に手放したり、放棄したりしてしまうことになる。ひどい場合には、自分側の動機不十分が最大の原因であることを、相手や環境のせいにする。そして、何の意味もないにもかかわらず、それらをただただ非難することでうさを晴らしているのかもしれない。
 自身を深く動機づけることが、とにかく重要なことであり、また平板となりがちな日常に絶妙な味付けをすることになるのかもしれない…… (2006.09.19)


 「もず」であろうか、事務所の窓越しに見える電線に、十数羽ほどがたむろしてとまっている。みんな一様に尻尾をこちらに向け、反対側を向いて大人しく電線に掴まって休んでいる。丸っこい体に首をすくめてじっとしている姿が愛らしい。
 ようやく、二、三羽が飛び立つと、みんな一斉に飛び立った。が、どういうものか、一羽だけが残っている。そして、その一羽もやっと飛び去って行った。
 電柱が四つ角に面して立っていて、そこから道路に沿って電線が垂れるように張られている。この電柱付近の電線が、野鳥たちのお気に入りスポットのようであり、いわばパーキング・エリアのような役を果たしていそうだ。
 その光景が、仕事をしながら窓越しに外を見上げると良く見えるのである。仕事をしながら、ちょいと気分転換にバードウォッチングができるというわけである。そんなことから、かつて愛用していた40倍の望遠鏡をうちから持って来ており、見慣れない野鳥が訪れた際には、時々それで覗くわけなのである。
 双眼鏡ではなく、筒を伸ばす望遠鏡であるため、あたかも城の天守閣なんぞから市中を覗いているバカ殿ふうな格好というところか。あまり窓に近づくと、その格好が外から目撃されて、近所の家から「覗き常習犯」と思われてはならないので、椅子に座ってデスクに肘をついて覗くのがその際のスタイルとなる。

 まあ、呑気と言えば呑気な仕草ではある。都心のオフィス街のビルに事務所を構えたのではこうは行くまいと思う。ビジネスは、しっかりとビジネス環境とビジネスモードで臨むべし、という発想もあろうかとは思う。ビジネスと生活感覚とをゴッチャにしているようではろくなことはない、と言われそうでもある。
 しかし、われわれは、こうした環境を選んだのである。日常生活の環境のただ中で仕事をする、という方式をよしとしたわけだ。
 何が良いと言って、先ず、職住近接と言われるごとく、通勤でムダな苦労をしないことが第一である。その分、時間をフル活用することができるし、ムダな疲労もなくて済む。 まあ、お客さんのところへ出向いたり、納品現場に出向いたりすることは避けられないが、その頻度は限られている。また、昨今では、ソフトという仕事柄であり、物々しいモノを扱うわけではないため、対外的なやりとりは電子メールなどで賄えるため持って来いのご時世となった。

 そのほかに良いことと言うと、落ち着いて仕事ができるということであろう。まあ、都心のオフィス街の事務所でも落ち着かないとは言わないが、心のどこかに「ここはビジネスの場」という割り切ったものが生まれ、生活の本拠地にいるのとは異なった感覚が支配するのではなかろうか。それが仕事さ、と言うこともできるが、今ひとつ落ち着きに欠けるような気がするのだ。
 たとえて言えば、地方出身者たちは、東京という都市を「仮」の住まいだと見なしていると言われたりしてきた。つまり、人生の本拠地は、地方の出身地である故郷であり、東京は、仕事のための仮住まい、身過ぎ世過ぎの場所だというわけだ。
 したがって、もし東京で行き詰まった場合には、郷里に帰って再起を図ればいいとする気持ちがどこかで発酵し続ける、ということなのであろう。
 こうした大量の人々が、この国の経済に繁栄をもたらしたことは否定できないが、いろいろな点で問題なしとはしないとも言えそうだ。
 細かいことはともかく、腰を据えた仕事という点においては、やはり生活根拠地と仕事の場が重なっていることが良さそうに思うのである。落ち着くだけではなく、逆に言えば「ほかに逃げ場がない」という背水の陣で構える姿勢が、きっと「いい仕事をしてますねぇ」ということにつながると考えるわけなのである。

 まあ、込み入ったことはともかく、野鳥の姿、鳴声やら、近所の犬の吠える声、そして帰路につく子どもたちの声などといった、生活のざわめきが視野に入り、耳に届くことは、仕事を進める上で決して遮断していいことではないような気がしている。
 しかし、ビジネス・エリアから生活エリアへと、「強制送還」される大量の停年退職難民たちは、果たして遭遇する環境変化に耐えられるのであろうか…… (2006.09.20)


 ようやく、初秋らしい気候となった。キンモクセイの香りが風に乗って漂うこの時季は、何とも気持ちが安らいで良い。何は無くとも「江戸むらさき」ではないが、世相が不安で満ちていても、この初秋の風さえあれば……という気分だ。今日あたりはやや蒸す感触が残っているが、ここしばらくが最良の気候となるのだろう。そう言えば、今週末はお彼岸であり、まるで判を押したかのようにこの「季節の峠」で日和が変わっていくかのようだ。

 今週になって、やっと長年「寝かしていた」とあるソフト・ツールに着手したが、次第に要領を得てくると、やはりある種の思いが湧き上がってきたものだ。ああ、もっと早くに着手しておけば良かった、というちょっとした後悔の念である。
 いつもこうなのである。どういう心境なのか、期待感を込めた対象に対しては、その着手に関して妙に臆する気分が生じ、それがややもすればとてつもないムダな時間を経過させるのである。
 思うに、下手なコンディションで着手して、その挙句にハードルが高すぎると早とちりして投げ出してしまうという愚を犯したくないからなのもしれない。ヘンなプライドが邪魔をしているかのようである。良く言えば、じっくりと動機が熟し、「臨戦体制」が整うのを窺っているとも言えるようか。

 しかし、新しい対象に向かうに、こんな悠長なアプローチは問題だとも感じてもいる。とにかく、現在のハイ・スピードの時代環境にあっては、こんなことでは確実に機を逸してしまいそうだからだ。
 幸運の女神には「前髪」しかない(どんなヘアスタイルなのだ?)、というから、遭遇した際に「その前髪を引っ掴んで引き回してやらなければいけない」のであろう。女神の後姿を悔しい思いで見ているというのは、往々にしてありがちだとは言え、情けないことではある。
 ただ、独創的なヘアスタイルをした幸運の女神というのは、対面して見ている限りではわからないというのが実情のはずだろう。まさか、後頭部がナッシングだとはとても予想できるものではない。後でも間に合う、と当然のごとく受けとめて流してしまうに決まっていよう。
 だから、未だに良くわからないのが、会った途端に、あっこれは幸運の女神だと直感するその根拠なのである。もっとも直感に根拠は不問かもしれないが。
 おそらくは、女神の側でも、器の小さい者にその「前髪」なんぞを掴まれて台無しにされたくはないと思われるから、「アタシは、何の変哲もないミーハーな町娘よ」てな顔をして、器小さき者たちをさり気なくやり過ごそうとはしているのかもしれぬ。ウムッ、おぬしは女神か?! と眼を付ける優れ者をこそ選抜しようとしているに違いない。

 となると、平凡な町娘の「前髪」を掴んでしまってどこだかの手鏡教授のごとく世間を騒がせないためには、よほどしっかりとした眼力を養っておくほかないことになる。が、これは至難の業であろう。
 さてさて、そうした眼力はどのような修練を積めば養えるものなのであろうか。過去の事例を精査しろとか、女神が小走りするような通りこそをマークしておけとか、いろいろなことが言われている。だが、女神探しよりも、女神探しをしている者を探して金儲けを志そうと宗旨変えをした者たちの、そんな言葉ほど当てにならないものはなかろう。

 これはあくまでも冗談であるが、「前髪」と言えば、「後ろ髪」という言葉もあり、「後ろ髪を引かれる思い」という言い回しのあることを思い起こす。つまり、あとに心が残ったり、情にひかされて思い切れない、という意味だ。
 そうしてみると、「後ろ髪」のない幸運の女神という存在は、「後ろ髪を引かれる思い」なんぞしたことがないタイプの神さまなのだろうということである。要するに薄情者なのである。決して面倒見を期待してはいけないのである。七福神同乗の宝船に乗れたなんぞと決して早合点してはならない。
 だから女神への処遇としては、上述したように「その前髪を引っ掴んで引き回してやらなければいけない」ことになるわけだ。「引き回す」とは、こちらサイドのイニシアチブで活用し切らなければいけない、ということである。
 となると、万事はこちらサイドの力の充実如何ということであり、だとすれば、何を急いでか小走りに通り過ぎるヘンなヘアスタイルの神さまを、さほど目当てにすることもなさそうだとも思われてくる…… (2006.09.21)


 すがすがしい陽気になってきたというのに、夕刻から急に頭痛が襲ってきた。バッファリンを飲み、いくらか痛みを抑えはしたものの、嫌な気分である。原因は、わかっている。「眼精疲労」以外ではない。
 ここ最近、偏頭痛からは遠ざかっておりシメシメと思っていたが、眼の酷使がたたってか、しばしば「眼精疲労」めいた症状を招いている。
 なんせ、当たり前だが起きている間じゅうは眼を使っており、その大半は、PCのディスプレイに眼を凝らしているのだから、眼や視神経がオーバーヒート気味となるのも無理はないのかもしれぬ。
 今日も、複数台のPCを使ってまずまず効率的な仕事ができているかと自覚したところであったが、夕刻になりちょいと我慢の度合いを越えた痛みがやってきた。まだ、この日誌を書き終えてもいなかったため、止むを得ず飲み薬の世話になることにした。

 眼に関して言えば、最近はすっかり老眼傾向が板に付いてしまったようだ。まあ、しょうがないことだとは思ってはいるのだが、デスクワークをする際の鬱陶しさは堪らない。 時として、ディスプレイとキーボードというふたつの対象、すなわち異なった距離にある対象に焦点を合わせ直すことが結構疲れるようである。が、さらに小さな活字まじりの書類や書籍を見ながらのPC作業となると、鬱陶しさを超えて苦痛つさえなってくる。
 きっとこうした作業が重なると、眼の方も「いい加減にしてくれ〜」とアラームを上げることになるのだろう。
 昨日もふと何気なく考えていたようであった。自分の作業スタイルにフィットした作業用の眼鏡を作らなければいけないかな、と。通常の作業スタイルにおける眼からディスプレイの距離、そして、参照したりする書籍までの距離などを正確に計測して、それらにふさわしい眼鏡をあつらえるべきだろうと考えていた矢先の頭痛であった。

 こんなことと関係して、あることも考えたりしていた。
 歳をとってくると、いつなん時、日常生活の何でもない行動が阻害されるかもしれない。情けないことではあるが、そうも言ってはいられないわけだ。
 もうだいぶ以前のことになるが、「脊柱管狭窄症」なんぞという厄介なトラブルに遭遇し、腰やら、股関節やら、脚やらが酷く痛む症状に襲われ続けた時のことである。そうした痛みが束の間引いた時、そして何よりも治療の甲斐あってうそのように痛みが消失した際にしみじみと思ったのである。身体の痛みに邪魔されないでいられる時間というのがどんなに貴重なものであるか、ということである。
 身体に何の不自由もなく、まして痛みなどがない状態に慣れ気っていると、時間はいくらでもある、という錯覚に陥るものだ。しかし、ちょっとした身体の異変に見舞われ、何でもない行動さえ阻害されてみると、身体の調子が万全な時の時間というもののとてつもない貴重さが見えてきたりするわけなのである。
 とかく、人間は過去の状態がそのまま将来へと更新されていくものと思いがちだ。若い時分の何ら懸念することのない体調が、この先も延々と続くがごとく錯覚しているはずだ。だから、知らず知らずのうちに、この先、何時でもその気になれば何でもできると決めてかかったりしている。
 だが、そろそろ身体という有限なリソースにシリアスな眼を向けて、切にやりたいことややるべきことを「選んで」こなしていく、そんな賢さが必須だと思えてきたのだった…… (2006.09.22)


 日中は、おふくろを含め四人で墓参りに出かけた。すがすがしい秋晴れのため気持ちの良い墓参りができた。帰りにはちょうど昼時であったため、よく利用する「華屋与兵衛」という和風レストランで食事をした。そこでの食事は、帰路の途中にあるためまるで墓参りとは「一式」となった観がある。おふくろがおごってくれたり、自分が出す場合と半々くらいであろうか。

 おふくろは、こうして墓参りに出向くと、そのまま家に戻ることを嫌い、町田駅近辺の商店街その他への独りでの散歩をしたがる。今日も、駅に向かうバスのバス停でクルマから降ろしてほしいと言った。元気なうちは独りで好きなところへ歩いて行きたいと常々考えているようなのだ。そうした気力があるのは元気な証拠であるため、気をつけるように促して好きなようにしてもらっている。ただ、まるっきり心配なしというわけでもない。先日も散歩をしていて慣れない砂利道に踏み込んで転んだと言っていた。幸い怪我はなかったようだが、高齢者は、転んで歩けなくなるとめっきり体調を崩すのが通例だ。だから、冬場で雪が積もった時なぞは、わたしの方から「外出禁止令」を出したりするほどである。

 しかし、おふくろにしてみると、散歩に出かける理由は足腰を使っておきたいということのほかに、とにかく、人(他人)さまと話がしたいそうなのである。町田駅近辺の商店街やビル内部にあるベンチのあるところで座って休んだりすると周囲の人と、結構、話ができるのだそうだ。
 おふくろの気性からすれば、人(他人)さまと話をすることなぞ何の気兼ねもしないでできてしまう。というよりもむしろそうしたことが好きなのである。まるで「車 寅次郎」さながらなのだ。
 何気なく人(他人)さまの仕草を見ていて、間合いをうまく掴んでスルッと相手に話し掛ける段取りはまさにベテランと言うほかなかろう。
 たとえば、親子連れの子どもがぐずっていたりすると、
「ねぇ、ボク、疲れちゃったのねぇ。おばちゃんだって疲れたものね」
とか言うのである。すると、相手のお母さんが、
「いつもこうなんですよ。そのくせどこへでも一緒に行きたがるんです」
とか返答し、また、その言葉を「梃子」にして、
「子どもっていうのは……」
とか言って、話を発展させて行くのだ。
 一緒に旅行に行って、駅のベンチに腰掛けていると大体こんなベテラン技を発揮して周囲の見知らぬ人と話し出すのである。

 自分も、ほろ酔い加減などで気分の良い時は同じようなことをしないでもないのだが、概して「現代人」、「都会人」としての白々しさが身についてしまって、話し掛けられてもさりげなく遣り過ごす「冷淡さ」に成り果てている。あまりいいことだとは思えないでいるが、とにかく見知らぬ人(他人)さまと話すには「気力」というエネルギーが必要であるかのように感じている。
 そうして見ると、おふくろは「気力」があるとも言えるし、別な角度から見れば、人(他人)さまと自分の間の「垣根」を極めて低くしているとも言えるかもしれない。だから、話の遣り取りを聞いていてハラハラする時がないでもない。そこまで言っちゃうかなぁ、と気を揉んでしまうことがないではないのだ。

 しかし、そうしたおふくろを見ていると、旧き良き時代の人と人との関係が眼前で復元されているような気にさせられ、決して悪い感じではないのである。
 きっと、「車 寅次郎」というキャラクターが長年、多くの国民から慕われ続けたのは、日本人の心のどこかに「低い垣根」の人間関係への憧れのようなものが沸々とあり続けているからなのだと思える。そして、現実の世界は、そうした意に反してどんどんと個人主義化して行き、その流れは、抵抗し難い「正統派」的な雰囲気を携えて驀進している。そうした矛盾の中で、押し殺され窒息しそうになっている感情や心理が、「寅次郎」というキャラクターにしがみ続けた、あるいは続けている日本人に潜在しているのかもしれない。
 それはそれでいいのだと思うとともに、「寅次郎」というキャラクターを忘れられないでいる(昇華できないでいる)現代の日本人の苦境をもっとまともに考えてもよさそうに思う。いや、何も人々が悪いというのではなく、むしろ「寅次郎」への思慕を断ち切れないようにさせている、現代文化や現代社会の側にムリがあり、また問題が潜んでいそうだと感じているのである。

 今日、おふくろは、どんな見知らぬ人(他人)さまと話をしたのだろうか。いつか、まるでストーカーのように密かにつけて行って、様子を窺がってやりたい気もしたりしている…… (2006.09.23)


 「気分」の波とでもいうものを軽やかに、柔軟にしておくこと。そんなことが意外と重要ではないかと思ったりしている。
 思考活動のような、脳の意識的活動というのはある程度「随意的」にコントロールできる。つまり、今こうしてこの文章を書いているようにである。
 しかし、「気分」の波(心の動きと言ってもよさそうだがそれではちょっと大げさな感じが否めない。もっと瑣末なことなのである)といものは、「随意的」に変えることは難しく、その時その時に所与のかたちで与えられてしまうもののように受けとめている。まるで、自然現象の天候のようでもある。
 気分が変わりやすい人のことを、「お天気屋」と言うが、もともと気分というのは意識の配下にあるのではなく、人間の身体の自然的な構造に支配されているようであり、だから天気のように人の意識とは関わりなく変わるものという気もする。
 と言うのも、気分が滅入ったりした際に、脳の「随意的」な働きである意識、思考のレベルで、「陽気になるべし!」と命じたら陽気で元気ハツラツな気分になることができるか、ということなのである。まず効を奏さないであろうし、そもそもそんなことは不可能な相談なのである。もし可能であれば、ビールや酒、焼酎の消費量が増え続けることはないだろうし、アミューズメントのジャンルの項目がこんなにも拡大再生産されることも、スポーツの発展、芸術の発展もあり得ないのではなかろうか。

 あるジョークで次のようなものを耳にしたことがある。
 現代はどんな領域においてもスピード化が進んでいるから、やがて寄席においても特殊なスピード化が進展するのではないかというのだ。落語家なりお笑いタレントは、これまでのようにくどくどしく噺をしたりしなくなるのだそうだ。舞台に上がると、まるで、チームプレースポーツで、ゲームスタート時にリーダーがメンバーに「作戦ナンバー」を告げるごとく、「ジョークナンバー、E-05!」とか言って宣言するのだそうだ。すると、これを伝えられた観客が「E-05」のジョークを即座に想起して、俄かにドッと笑い出し、拍手喝采となる。で、落語家はすかさず「お後がよろしいようで……」と演目を締め括り下座へ向かうというのだ。

 何とも馬鹿馬鹿しい予測ではある。が、ここで意を向けたいのは、笑うという行為は、意識の命令で引き起こされるものではなかろう、ということだ。まあ、役者などの演技は別であるし、思い出し笑いというのも別だ。
 普通、笑うという行為は、意識に触発されることはあっても、概ね気分のジャンルの出来事であり、言ってみれば、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」じゃないが、笑いとは「気分の爆発だ!」ということになりそうである。堅苦しい意識の「包囲網」が、瞬時、「大開放」され、新装開店のパチンコ屋で軍艦マーチが高らかに鳴り響くがごとく(今時こんなレトロなパチンコ屋はない!)「ハッハッハッハッ」となってしまうこと、これが笑うという行為であるに違いない。
 つまり、笑う気分というものは、ほとんど生理的現象のようなものであり、意識的に、すなわち「随意的」に起こし得るものではなく、むしろ意識が一歩下がった時に「鬼の居ぬ間に洗濯」のごとく発生するものではなかろうか。まさに、「洗濯」とは心の「洗濯」というほどの意味となり、「鬼」とはつねづね気分や心の自由を抑圧している意識だということになるのかもしれない。

 おそらく、移ろいやすく、意のままにはならぬ気分というものをコントロールすることは困難なことであるに違いない。「心こそ心まどわす心なれ 心に心心許すな」という名言も、この困難さを射抜いたひとつの視点なのであろう。
 脳科学の研究は進んでおり、人間の気分や心についても次第に明らかになりつつあるようだ。(たまたま、今日のTV番組で、『ヒトの心を解き明かす 脅威の脳内物質SP』朝日テレビ というのが放映された。最近関心を向けている茂木健一郎氏が関わっているようなので録画収録もした)
 しかし、現代という時代環境には、人々のこの受動的な気分や感情をターゲットにした外的刺激が多く、まるで人々のそれらは随時攻撃にさらされていそうでもあるため、われわれは、自身の気分や心の状態を可能な限り掌握する必要に迫られていると思われる。
 と言っても、「掌握法」としては、脳の言語的な意識レベルでどうあがいてもその掌握は不可能であることを先ず踏まえなければならないようだ。むしろ、感性、感覚や、身体全体の調子、さらに裾野領域を含めれば、日々の生活のありようまでを視野に入れて環境整備をしてゆかなければうまく事を運ぶことにはならないのかもしれない。ひょっとしたら「修行」という言葉がこれらの事情をさりげなく言い当てているのかもしれない。

 それにしても、知識とか知性だけではこの複雑怪奇な時代を生き抜いて行くことは極めて難しい時代になっているのかもしれない…… (2006.09.24)


 昨日のTV番組『ヒトの心を解き明かす 脅威の脳内物質SP』でも冒頭で紹介されたちょっとしたテストにこだわっている。このテストの出典は、茂木健一郎著『ひろめき脳』であり、すでにこの新書版を入手していたためこの書の複数のサンプルに嵌ってしまったというわけである。
 これは、モノクロの不可解な図柄が何であるかを言い当てるというゲームのようなものなのである。「ロールシャッハ-テスト(Rorschach test、無意味な左右相称のインクのしみが何に見えるかを答えさせ、それを分析して性格や精神内部の状態を診断する検査)」にも似ているが、相違点は、意味のある図柄が一目見ただけではわかりにくく提示してあるという点である。その点では、「隠し絵・さがし絵(絵の中へさらに他の絵を目立たないように書き込んだもの)」や「だまし絵」(婦人と老婆、ルビンの壷、うさぎとアヒル etc. )に似ているのかもしれない。

 こだわった理由というのは、単なるゲームごころが刺激されたというだけではなく、このテストが、結構、脳の機能の本質的な部分にかかわっていそうだと思えたからなのだと言える。
 筆者の茂木氏は、このテストを「アハ!体験(Aha! experience)」として紹介している。

<最初は「なんだこれ?」「何の図だ?」ととまどい、図をあちらから眺め、こちらから眺め、「もしかしてあれかな」「こう見ればいいのかな」と想像を巡らし、考えてはそれを打ち消し、新たな見方をひねり出しては、自分の脳にしっくりと来る正解を求めて頭を回転させ続ける……という現象が起きてはいなかったでしょうか?
 そして、一度「見えて」しまうと……「これだ!」「これしかない!」と思えたのではないでしょうか?
 こうした一連の体験を、脳科学の用語で、「アハ!体験(Aha! experience)」といいます。英語で、誰かから説明を受けて腑に落ちた時、「Aha!」などと言いますが、そこから来た言葉です。……>

 筆者は、この「アハ!体験(Aha! experience)」が、「ひらめき」というものであり、「創造性」に深くかかわっているとともに、その裏返しの現象である「ど忘れ」という現象にもかかわっていると述べているのである。
 この辺りの問題はかねてより強い関心を向けて来たものであるだけに、非常に興味深く思えたものだった。
 自分の理解では、「アハ!体験(Aha! experience)」として「ものがわかる」ということは、対象の中にある種の「整合的な構造」を見い出すことではないかと感じている。
 上記の「アハ・ピクチャー」で言うならば、「なんだこれ?」という段階では、個々の図柄の部分がてんでんばらばらとなっていて、「構造」のあるものとして見えていない。そこで、ばらばらの部分を統合する「構造」とそれをもたらす「視点」とを必死に探すわけである。そして、その「視点」が発見できると、自ずから「構造」も見えてきて、その図柄の意味が判明するということになるわけだ。よく使われる言葉で「合点が行く」というのは、この辺の事情を語感的にもうまく言い当てているように思う。

 そして、脳の内部では、このプロセス、対象の中に意味のある「構造」とそれを導き出す「視点」とを探るプロセスが、おそらく「ニューラル・ネット」のネット・ワーキングという動作として展開しているのだろうと思う。様々なネット回路の組み合せパターンが、猛スピードで過去に展開したネット形状の経験を検索しつつ、試行錯誤がなされるものと思われる。その緊張したプロセスこそが、いわゆる思考という行為であったり、想起という行為であったりするのだと思われる。
 「アハ!体験(Aha! experience)」とは、こうした行為のプロセスで、ターゲットの回路パターンにたどり着き、一件落着する瞬間の出来事だと思われる。これはある種の「快感」に違いなく、それもそのはずであり、「脳内物質」の「ドーパミン」が深く関与しているらしいのである。
 ターゲットを得た時に「ドーパミン」が放出されるのは、おそらく、その当該の回路パターンの形状を「強化」して、再現しやすくするための動きだと思われるが、あたかも心理的な「ご褒美」のようにも受け取れるのが可笑しいと思える。

 これを書きながらも、最後の一問が解けないでかなり苦しい頭の緊張を続けている。最も難易度が高いとされているものはほんの数秒で読み解いたのだが、そのひとつ前のテスト問題ではすでに七、八時間が経過してもなお悪戦苦闘しているありさまだ。結果的に相性が悪いということになるのだろうが、きっと隠れた「構造」を覆い隠してしまうパターンが、自分の脳内で災いとなっているのかもしれない。(これを書き終えて、5分ほどしてやっと突然に「ドーパミン」放出に至った。安直に答えを見ないで粘った甲斐があったというものだ……)

 「ど忘れ」というのも、回路パターンに欠損部分が生じてしまったこと以外にも、ターゲットのパターンを覆い隠してしまうパターンが邪魔をしているということもありそうな気がしている…… (2006.09.25)


 また、痛ましい交通「殺人」事件が起きた。保育園児たちの列にノー・ブレーキでのクルマが突っ込んだ事件だ。事故というにはあまりにも空々しいため、あえて「殺人」事件と書いた。
 生活道路を走行しながら、スピードを抑制しないで突っ走るその無神経さが危険そのものであり、そうしたわかり切った状況への想像力の欠落はドライバーとしての資格なしだと言うべきだ。
 近所を散歩をしていても、裏道を猛スピードで行き過ぎるクルマが少なくない。最近は漸増している感じがしないでもない。何をもって自身のハンドルさばきとブレーキ操作に過信しているのか知らないが、そんな若いヤツに限って対人保険を出し渋っていたりするようだから、こっちの方が想像力を働かせて身を守るよけ方を考えたりしている。

 しかし、こうした資格なしのドライバーが増え過ぎている。飲酒運転にしてもそうだ。飲酒をすれば、注意力が失われ、動作が鈍くなり、走行する鉄の塊は容易に人命を奪うことも、ちょいと想像すればたちどころにわかるはずだろう。
 よく、「飲酒&轢き逃げ」犯が、「恐くなって逃げた」と馬鹿な言い草をしている。そんなヤツがあちこちにいるかと思うと「恐い」のは歩行者側である。どうせ本人が「恐がる」のであれば、事故を起こしてからではなく、飲酒運転をすることの危険を想像して「恐がって」もらいたいものだと思う。

 想像力という「高等な」言葉を使ってしまったが、単刀直入に言うならば、この言葉はもはや現在の時代状況にあっては「死語」に近いのかもしれない。
 想像力が育まれるような時代環境ではないからである。個人の欲望という、「今」と「ここ」という直接的な条件で構成される動機が極端に肥大化する時、「間接的」な条件があってこそ機能する想像力なぞは働く余地がなくなるはずである。
 相手や他の人々、そして社会環境などは、本来的に「間接的」な存在だと言わざるを得ないであろう。少なくとも、自身を確認するように「直接的」に掌握することは不可能なはずである。そうだからこそ想像力の力を借りて認識したり了解したりすることになるわけだが、想像力が希薄な人間には、この辺の事情すら想像することができない。

 振り返ってみると、時代環境は「想像力欠落人間」の増加と足取りを合わせている気配すらある。
 TV番組でも、やたらに「字幕」が挿入されるようになった。見て、聴いて、多少の想像力を働かせれば、仮に不鮮明な会話であっても十分に了解可能であるところへ持って来て、「これが可笑しいんだよ」と押し付けがましい「字幕」が出るのには閉口している。ラジオ番組の場合にはどうするんだ? と余計な心配までしてしまう。
 もちろん、会話における言葉のやりとりも「直接的」表現がほとんどすべてを占めてしまい、言葉が本来持っている想像力の範疇の部分はさっぱりと殺ぎ落とされてしまっているようだ。単語レベルでやりとりがなされるのはその証拠であると見える。

 「想像力欠落」の本丸的問題は、やはり「モラル」の悪化、消失ということになるのかもしれない。本来、「モラル」とは、法律のように、罪と罰とが直結する「直接的」な観念ではなく、個々人の想像力に依拠した「間接的」な観念であろう。だから、人間以外の動物の頭脳では「モラル」というものが成立せず、精々、制裁のルールが法律に似ているくらいではなかろうか。あとは強固な本能が秩序化を助けているのだろう。
 その意味では、人間における「想像力欠落」という傾向は、「動物化」への退行傾向だと言えてしまうのかもしれない。ただし、他の動物のような強固な本能がすでに失われてしまっているだけに、アナーキーな様相を呈することにもなるのだろう。母親の手でわが子が殺される事件などは、そんな例になってしまうのだろう。

 話は、また交通事故の話に戻るが、最近では、減少しない「飲酒運転」のために、「飲んだら乗れないクルマ」、つまり酒気帯びではエンジンが掛からないクルマの開発が急がれているらしい。これを知った時、一方では、なるほどと思ったとともに、結局そこまで行かないと収まらないのか、とちょっとガッカリする気分となったものだ。
 この調子では、想像力と思考力とをもって対処する人間が少なくなったために、さまざまな生活場面で、「物理的強制」によって人々の行動を制御する社会が成立していくことになるのであろうか。
 クルマのスピード制御にしても、最後に制御するのは車内のアクセルではなく、道路に埋め込まれた「発信装置」になるのも遠くないのかもしれない。
 その他の犯罪にしても、監視カメラ体制の延長として、「殺意監視装置」というようなものが「GPS」を駆使して張り巡らされ、もし、何者かが他者および自己に対して「殺意」を抱くと最寄の警報装置が作動してそれを知らせ、そして有無を言わさず阻止するというように……。

 人間が、人間の証としての想像力を薄弱なものにして行く分、物理的環境が人々の行動を制御して行く(強制して行く)、というのが人間社会の将来だとするならば、それは果たして喜ばしいことなのであろうか…… (2006.09.26)


 今朝、以下のようなトラブルに遭遇した。と言っても実に些細な事柄である。
 タバコの自販機から、投入した金額のタバコが出てこず、かといって投入した硬貨も戻ってこなかったのだ。まあ、文字通りの「タバコ銭」という少額でもあるし、通勤途中で急ぐ気分もあったため、運が悪かったと諦めて立ち去ることもできた。
 ただ、粘る気になったのは、つい先日も同じ自販機で同様のことが起こり、その時は諦めていたからである。これで二度も同じトラブルを経験することになったと思うと、今日は見過ごしてはいけないな、という思いが込み上げてきたのである。

 もちろん、その自販機が、そのオーナーの店の前にでもあったのならば何の問題もない。その店の者に事情を話して対処してもらえば済むことだからだ。
 ところが、自分は、近所のことであったためその自販機の周辺事情を心得ていたのであった。元は、その自販機のオーナーはそのすぐ隣の家に住んでいたのだったが、どういう事情だかは知らないが、その家を他人に貸し出して、自分たちは別のところに転居した模様だったのである。そして、タバコと清涼飲料の自販機何台かだけをそのまま運営していたのである。時々、年配の女性が、タバコの自販機を開けて、自転車で運んできたタバコを補給している、そんな姿を見かけたりもしていた。

 前回、「諦めた」原因の一つは、その自販機に記されているはずのオーナーの連絡先電話番号が、文字のインクが風化して判読不能だったこともある。だが、今日は、その台以外の別の台には記されていないかと「隈なく調べ」、ようやくとある台のステッカーから薄れた電話番号を読み取ったのである。そして、ケータイで連絡したのだった。
「もしもし、タバコの自販機のことなんですが……」
 すると、記憶にある年配の女性らしき人の声ですぐさま了解してくれ、数分でそちらに向かうのでお待ちください、ということになった。
 やがて彼女は、スピード感のある自転車走行で現場に飛んできた。
 そして、「ご迷惑おかけしました」と言いながら、当該の自販機の施錠を外し、蓋を開けたのである。すると、わたしがオーダーしたタバコが、搬出ルートの途中で、実にみっともない格好で挟まっているのが見えたのだった。まさに、その挟まったタバコの箱は、ヘンな格好で挟まっている自分を恥じているようにも見えた。「すみません、あたしがノロマなもので……」と言わぬばかりでもあった。

 自分は、前回のことも告げ、二度も災難にあったために連絡させてもらったのだと説明した。結果、お詫びも含めてということで、計3個のタバコを手渡してくれたものだった。まあ、プラス1個を拒絶することもなかろうと思えた。
「また、こんなことがあるとお互いに気分が悪いんで、テクニカル・サービスの方を呼んで修理してもらうようにしてくださいね」
 そう自分は彼女に言って、急いでクルマに乗り込み事務所に向かったのだった。
 前回の事があって以来、その後その前を通るたびにちょっとした「不快感」を覚えずにはいられなかったのだが、これでそんな「条件反射」もなくなるに違いないと安堵するのであった。
 しかし自分は、どういうものかこうした自販機でのトラブルに遭遇しがちである。昨今は、オーナーの居所がわからず、自販機だけにセッセと稼がせているパターンが多いようでもある。記憶に残っているだけでも三、四度の苦い思い出がある。
 そのたびに、これが人の手による手渡しであればこんなことは無いものを、と自販機システムを恨んだものだった。どうも自販機たちだけの佇まいというのは寒々しくていけない…… (2006.09.27)


 高齢化に伴う「認知症」などへの接近を防ぐために、今、いろいろな「脳のトレーニング」本が売り出されているようだ。コンパクトにゲーム化されたものまで市販されてもいる。まあ、やらないよりもやった方が多少なりとも効果があるのだろうとは思う。
 しかし、最も簡単なことでありながら、かなりの効果が期待できるそんなことをあえて視野の外に置いてしまっているようだ。対話であり、人間関係のことである。

 先日、おふくろのことを書いた。気力がある時には、繁華街へ出て見知らぬ人と話をするのが楽しい、ということについてである。気晴らしという欲求を充たすということもあるはずだが、そのほかに知らず知らずに脳の老化を防ぎたいという防衛的願望を充たしているようにも思われた。
 家族やその近辺の人たちとの会話や対応というものは、どうしても「手抜き」となりがちなのではなかろうか。お互いに、言葉がなくともわかり合えるという暗黙の了解が、どうしても言葉数を省略させるし、緊張感をもセーブしてしまう。
 自分のことを考えても、夫婦喧嘩が昂じることにでもならない限り、うちの中での人間関係で緊張感を抱くことは先ずない。そして、言葉数も少ない。まるで、電気や水道を節約するかのごとく、言葉を節約していると言われても致し方ないようなありさまだ。こいつがいけないのだと思う。これが夫婦双方の老化を早めさせる悪癖なのだろう。

 家族と対話なんぞしたって脳の活性化なんかにつながりはしないと高を括っていそうである。それで、トレーニング書籍やら、ゲームといった「一人相撲」に妙な期待をかけがちなのではなかろうか。
 おそらく、この「一人相撲」の「脳の活性化」法は、気休め以外の何ものでもないような気がしている。いわば、栄養摂取において、主食をぞんざいにしてビタミン剤や「サプリメント」ばかりに意を注ぐことと非常によく似ているのかもしれぬ。しっかりと、主食を摂りその時の食事を充実させるならば、「付録」なんぞに頼る必要はなさそうである。つまり、日常生活にあって、見慣れて知り尽くしていると錯覚している伴侶なり家族と丁寧な会話や対話をし続けるならば、特に「付録」的なトレーニングなんぞは不必要なのかもしれないと思う。

 昔、ソフトウェア技術者たちの教育や管理の問題を詰めて考えていた頃、自分が睨んでいた命題は、人間関係が脳を鍛える! という直観であった。
 もちろん、ソフトウェア技術者たちは時代の要請で、優れた能力、気が利いた能力を鋭く求められ続けていたわけだ。だからと言うべきか、技術者たちは、技術知識習得に邁進し、また、わたしに言わせれば「一人相撲」となりがちなPC作業に埋没するのが常であった。
 それが悪いというのではなく、それだけで足りるとする発想が危険だと思えたのである。そんなことをしていれば、きっと気分的にも袋小路に行き当たってしまうとともに、能力のリソースそのものが枯渇してしまうはずだと見込んでいたのである。
 しかし、技術志向の技術者たちは、どうしても人間関係を煩わしいネガティブなものと決めてかかり、それを極力避けたがったものである。
 そのうち、いや現在でもそうなのだが、時代が求める技術水準はますます専門分化して高度化するに至った。すると、技術者たちは、ますます「一人相撲」の土俵へと突っ込んで行くことになるわけである。
 技術者たちにとっての人間関係とは、やはりネガティブなイメージに染まっていたのかもしれない。たとえば、いやらしい顧客や、うるさい上司や、わけのわからない部下たちとのそれだとイメージしていたのかもしれない。極めて微妙な技術的問題をめぐっての、微妙でありつつもわくわくとするような会話や議論などは埒外であったのかもしれない。
 昨日も、街じゅうに増えた「自販機たちだけの佇まい」という現代の特徴について書いたが、これは、生活と職場と、そして学習教育の場を被う全般的な特徴となりつつあると言っていいのだろう。共通する点は、人間関係を媒介することなく脳を使うという点だと言ってもいい。確かに、人と向かい合って対応するのではなく、IT製品などを操作して処理する様式は、脳や感情への負荷を低減させることにはなるのであろう。気がラクということである。
 だが、その分、脳はメキメキと「バカ」になってしまっていることを意識する人は少ないと思われる。脳というものは、どうも未知なるものを期待し、「アドリブ」をやりたがっているようなのに、IT環境というものは、画一性、紋切型、法則性に則って安全を追求させられているため、完璧にナメてかかれるわけである。そんな日常生活だから、人間の脳が活性化されるわけがなく、あらゆる人の脳は、静かに「認知症」へと向かって坂を足早に降りて行くようである…… (2006.09.28)


 「キョクヒ、セッソク、ナンタイ、カンケイ、センケイ、ヘンケイ、コウチョウ、カイメン、ゲンセイ」という「お念仏」を、自分は、中学生の、まだ頭脳が柔らかい時に覚え、未だに何の苦労もなく思い出せる。
 と言っても、「生物」の授業で習った「無脊椎動物」の分類序列であるため、覚えていたからといって何か特別な恩恵をこうむったということは全くない。あったとすれば、記憶について人前で話をする際に、口ならしで覚えるサンプルを示し、ちょいと意表をつくくらいである。
 多分この記憶は生涯消失することがないのではなかろうか。どうもこれは、いわゆる記憶、つまり観念などの記憶とはちょいと異なる、身体(口)が覚えた記憶ということになるのではなかろうか。
 人間の脳というものは、身体のコントロールに関して夥しい頻度の繰り返しを行うと、ほとんど無意識でも再現できるもののようだ。スポーツのフォームであったり、芸能での振る舞いや、その他熟練技能などはこれに類する。そして、話術も、お経を含めて、この類の身体による記憶ということになるのではなかろうか。
 落語でのあの「寿限無(じゅげむ)寿限無、五劫(ごこう)のすりきれ、海砂利水魚(かいじゃりすいぎょ)の水行末(すいぎょうまつ)、雲来末(うんらいまつ)……」という良く知られたセリフは、きっと同じ類の記憶ということなのであろう。また、フーテンの寅などによる香具師の口上も同じなのだと思える。

 冒頭の「キョクヒ、セッソク、ナンタイ……」を自分が口に出す時のことを考えると、「キョクヒ」と言いながら、「棘皮動物」のヒトデやウニの姿を一切思い浮かべないのが実におかしい。「ナンタイ」と口走る時に、瞬間的にタコの姿が脳裏をよぎるくらいであり、概して名称と対になった実体への関係付けがほとんどリアルタイムではなされていないことに気づかざるを得ない。まさしく、口先ペロペロのそれだけのことなのである。
 フーテンの寅が口上を捲くし立てる時にも、顔つきを見ていると、どうも頭脳活動はポーズ状態となって、発語のための口周辺の筋肉だけが不気味に忙しく稼動している気配がある。
 これらから言って、これらの記憶が脳の頭脳活動を「迂回」した、動物的なアクションであることは容易に想像がつく。動物的と言えば、セキセイインコやオウムなどが喋っているかのように思えるあの光景と同様なのだろうと思いつく。

 こんなことを書き出して、当初は人の記憶というものについて薀蓄(うんちく)を傾けようとしていたのだが、それについてはまた後日ということにして別なことへと話を進めようかと思う。
 別なこととは、頭脳活動を「迂回」した「紋切型」情報伝達のことなのである。
 「紋切型」情報伝達は、何も「新総理の所信表明」だけに限られるものでもなく、現代という時代環境にあっては、飛び交う情報の大半が大なり小なりこの種の色合いに染まっているような気がする。
 情報を発信する側も、受信する側も、溢れ返る情報の豊饒さにいちいち頭脳活動をお付き合いさせていたら疲労困憊することを察知してか、とにかく「流す」、音声を流暢に口から「流し」、聞く側も差し障りなく右耳から左耳に聞き「流す」というのがスマートな作法となっていそうである。よほど予定時間が埋まらない場合以外は、「流れる」言葉に拘泥して疑問を持ったり、まして「質問」したりはしないのが常識化していそうだ。
 これらは、日本流の「株主総会」風景にも似ているし、神社仏閣でのセレモニーにも酷似していそうだ。万事、「流す」こと、型通りに恙無く「流せばいい」わけなのであろう。そして、学校の教室から、会社の会議室、はたまた家庭の茶の間に至るまでの空間では、すべてがそうだと言って波風は立てたくないが、通例は、「灯篭流し」か「流しそうめん」かというような「情報流し」が行われているわけだ。昨今では、「個人情報流し」といういささか問題のある事態まで日常茶飯となっていそうである。

 こんな皮肉を書いていると、そもそも日本人というのは、何でも「流して」済ます民族性があるのではなかろうかという不安が生じてきたりする。「忘れっぽい」民族なのではないかと懸念されることも多いが、脳の頭脳活動を「迂回」した「情報流し」をやっていたのでは、記憶なんぞ残るわけがないと言うべきなのかもしれない…… (2006.09.29)


 剪定した枝葉を袋詰にしたものが数個、無造作に貯まっていた。ゴミとして出すはずが出しそびれているのだ。最近は、家内も実家のお母さんの介護などで週二日は家を空けるため、何かと時間に追われているためでもある。
 自分は以前から、剪定した植木の枝葉などは庭の土に返すのが道理だと考えてきた。しかし、そのためにはスコップでそれなりの穴を掘らなければならない。そんな作業を自分がまめにやらなくなったために、家内は枝葉や落ち葉などをビニール袋に詰めてゴミに出そうとする。やむを得ない措置なのであろう。
 しかし、いつぞやのごとく、太い枝を切り落としたりした場合は束ねてゴミ収集車のお世話にならなければならないとしても、葉っぱ類までお任せするというのは筋違いのような気がしてならなかった。要するに、自分が怠けていたことにすべての原因があったということなのである。

 幾分涼しくなってきたこともあり、この際、穴掘りの土方作業をやってみてもいいかな、という気分となった。
 決してこういう作業は嫌いではない。まして、植物が奔放に生長したものを切り落としたわけだから、それらをどことも知れない場所へと放り出すのではなく、当の植物たちの足元に埋めて戻してやるというのは遣り甲斐もあることでもある。植木たちに心があるのならば、きっと胸をなでおろしているやも知れぬ。
 だが、庭と言っても狭いものであり、差し障りなく掘る場所を選ぶのにも気をつかわなければならない。以前に同じように枝葉を埋めた場所もできれば避けたいし、立ち木や植木たちの根も張っている。また、かつての家族であった動物の墓もあることだ。
 彼らの埋葬では、特別深く掘っており、犬のレオの際には1メートル以上の深さを掘ったものであった。またそこには草花を植え、今でも墓だとわかるようにしてあるため間違って掘り起こすことはまずない。が、あまりに近くを掘ったのではレオの「安眠」を妨げることになりかねない。

 貯まってしまった枝葉類のビニール袋の質量を頭に置きながら、穴の大きさや深さに見当をつけて掘り始めた。
 ここの庭は、元は砂利が敷かれてあった。それが嫌で自分が一応取り除いたのだった。
いつでも植木が自由に植えられるそんな土の状態にしたかったためである。しかし、撒かれていた砂利は取り除いても、それらのすべてを処理することはできなかった。だから、庭を掘るといまだに砂利の層にぶつかったり、砂利が混じった土にぶつかったりするのである。
 何でもこの土地は、元々は竹林だったとかであり、だからいまだにその名残の竹が生えてきたりする。それはいいとして、竹林を取り払った後に、きっと安直に砂利が混じった土砂などを積んで、その上それを目立たなくするために砂利を撒いたのではなかろうかと思う。

 まあ、庭に砂利を敷いたり、コンクリートにしてしまうケースも大いにあり得る。土の地肌を剥き出しにしていたのでは、雨天の際にぬかるんで不都合というのが理由なのであろう。それも十分にわかる。しかし、自分は土の地肌剥き出しの庭であってほしいと思ったのである。
 今や、道路という道路はすべてがアスファルト道路となり、公園などでさえ自然公園でもなければ地肌剥き出しの地面はついぞ見かけなくなったご時世である。そんな、居心地の悪い公共の環境に対して、せめて自分の家の庭くらいは泥臭いままにしておきたいと思ったのだった。
 そう言えば、あのレオは、この環境の地べたを喜んでくれていたようだった。庭に放し飼いにしていたのだが、暇にまかせて庭のあちこちを前足で掘りまくっていたのである。植えたばかりの植木の苗を無残にも掘り起こした時には不愉快であったが、コイツも土が好きなんだな……、と気が和む思いがしたものであった。

 久々に庭で泥臭い作業をしてみると、急に庭への愛着が戻り始めたのは現金なものでである。予定した作業が一応終えたあと、自分は、昨今手にすることのなかった長箒を持ち出して、辺りをざっと掃くというおまけまで自然な気分で行ったりしていた…… (2006.09.30)