ふと考えることは、この日本が敗戦の混乱から急速に立ち上がり経済大国ともなり得たのは、さまざまな条件があったにせよ、強調すべきは、国民が「一丸となって邁進」したからであるに違いない。つまり、そうなることを目指して、国民から「除け者」を作り出さなかったことがより大きな理由であったのではないかと、単純に了解するのである。
無理矢理に「一丸」となることを強いられた戦前の国民の目的(戦争)は、あまりの無謀さによって、当然のごとく悲劇に終わった。しかし、敗戦後の再出発は、多大な困難を潜り抜けなければならなかったにもかかわらず、戦後復興と経済再建そして発展という目的に向けて、概ね、国民の中に「除け者」を生み出すことがなかった、あるいは極力避けたことによって、国民が「一丸となって邁進」することであれよあれよと言う間に、経済大国日本と称される位置に這い上がってしまったわけだ。
この推移を絶賛しようとしているのではなく、なぜそうなり得たのかの事実的推移を確認しようとしているに過ぎない。
何を書こうとしているのかというと、そうして「一丸となって邁進」したからこそ奇跡的とも言える戦後復興ができたことを失念して、何をどう宗旨替えをしてのことか、今現在推進していることは、国民が「一丸」とはなり得ない、あるいは大量の「除け者」を蓄積させることになる、そんな「格差社会」作りの路線を邁進しているという事実についてなのである。
ここではあくまでも直感的に書くことにしたい。くどくどしいことを並べ立てることは極力控えたい。
社会的動物である人間というものは、「ともに参加、参画している」となれば無い袖を振ってでも当該集団なり、組織なり、あるいは社会や国のために尽くしもしよう。まして、「同質性」に関する特色を持つ日本人の国民性には、「おらが〜」となれば想像を絶するほどの貢献をする、そうした傾向が強い。
これまでの日本の会社組織と管理方式は、「家族主義」的性格の、言ってみれば「おらが会社」という感覚を全社員が持てるような、つまり「除け者」的立場自体を作らないということはもちろんのこと「除け者」扱いしないことに意を払ってきたはずである。
これが、逆に「組織ぐるみ」の犯罪の温床にもなってきたのだろうし、現在でも「裏金」づくりの共犯関係を助長させているとも言われる。だから、すべてよしとする必要はないが、メンバーの「同質性」を暗黙のうちに承認するという空気が、この国の集団組織、社会のキー・コンセプトであったことは否めないはずである。
確かに、そうした「同質性」社会は、さまざまに変質、変化を遂げてきたであろう。個人主義的傾向や、過激な競争関係の浸透によって、いや、要するに市場主義経済という資本主義経済のあり方が強まることによって、日本の文化と日本人のDNAに刻み込まれていた「同質性」社会志向は大きな変容を遂げていることはもちろんそのとおりに違いない。
しかし、その「変容」は、「環境適応的に」進んでいるとまで言えるのであろうか。極端な話が、この社会で生きることから放逐されたり、この社会への正規な参画が困難とされた者たちが、それでもなおこの社会の発展に寄与しようとする意欲を持ち続けるほどに、適応的に展開しているとでも言うのだろうか。とてもそうとは思えない。凶悪犯罪が多発する昨今を考えただけでも不安とさせられよう。
では、しばらく前に過激に展開された大量リストラはどうだろうか。リストラされた者たちは、会社が苦境に立っているのだからやむを得ないと考えたであろうか。リストラされても、「おらが会社は永遠です!」と思い続けたり、そうしているのだろうか。
いや、諸外国の人たちからは想像できないような、ウェットな部分が多分に残存しているのが、意外にも日本人なのかもしれない。そこが、特殊性だと言えるのかもしれないのである。現に、わたしはそうした人を知らないわけではない。長期入院をしていて会社に戻れるようになってみると、リストラされたという方であったが、その方は、傍目から見るほどには会社を責めようとはせずに、「会社も、何かと大変なようだからね……」と話していたのである。年配の人にはこうした「愛社精神」とでもいうものがあるのかなあ、とやや違和感を持ったものだった。まあ、相応か不相応かの退職一時金という手当などもあり、当人の「除け者」感が過敏とならないような対応も駆使されたのかもしれない。
とにかく、古き感覚を引き摺ったり、闇雲に新環境に迎合しようとしたり、そして失敗したりと、みんなが暗中模索で右往左往しているに違いない。
しかし、現在、全体社会で進行中の「格差」現象は、かなりの程度ドライであり、急速である。その環境は、運に恵まれない人々に、「あなたは『除け者』!」と明言してしまうほどのものであるのかもしれない。先日も書いた「ワーキングプア」の実態は、決してそうした危惧の念をも否定し切らないかのようである。
そもそも、米国のような建国以来の競争社会、そして格差社会にあっても、現代資本主義の局面は、持ち前のタフな個人主義精神だけではキツイ状況となっているとも聞く。IT業界でツッバリ続けたビジネスマンが急にドロップするというケースもあるらしい。要するに、「ネオリベラル主義」(原理主義的な自由主義)とは、本場の米国人にとっても手におえない部分がありそうなのである。
それが、この日本という国、社会では、ほんのちょっと前までが、会社では「終身雇用・年功序列」が、社会全体では「一億総中流階層」というような、典型的な「同質性」社会であり、文化であったわけだ。今、ビジネス界で最もキツイ立場にあるとされる30代の青年たちの、その親世代、つまり団塊世代とその上の頃までは、まさしく「同質性」社会とその文化が主流であったはずなのである。
そこへ、「構造改革」だ、「グローバリズム」だと、政策責任者たちの頭の中には深慮遠謀もあったものではなく、米国路線が現物先渡しの形で「直輸入」されたわけである。「格差」の底辺へと振り落とされる人々に、もちろん心の準備もあったものではなかっただろう。「こうするとこうなる」ということをも教えるのが教育であるとするならば、そんな教育が施される準備があればまだしも、何もあったものではなかったはずだ。「いきなりあなたも……」という流行のパターンそのもので事態は始まったわけだ。
いずれにしても、現在の、この「格差」現象への無策な政治状況は、底辺へと追いやられた人々だけを苦しめるのでは終わらない予感がする。経済競争で勝ち残るはずの立場にある上層企業にとっても、今後は予断を許さない事態を迎えることになるやもしれない。そして、社会全体、国全体が楽観を許さない混乱に直面する可能性も懸念される。
簡単に言えば、「一丸となって邁進」したからこそ、世界にも類を見ない高い生産性をもはじき出したその国民が、「除け者」が大量に生まれる構造の社会に直面して、果たしてどういった生産性を搾り出してゆくのか、ゆけるのかという問題なのである…… (2006.09.01)