先日は、何でも、「〜力」という新造語で仕掛ける風潮は、中身が無いから「奇を衒う」ことで有利になろうとする、実にさもしい戦術だ、と書いた。
今日は、どうして「力」というニュアンスに頼りたがるのかなあ、という点について書こうかと思う。抽象的で掴みどころがない人間の属性や状態を、「〜力」というかたちで括(くく)ろうとするやり方は、ある意味でコミュニケーションの上では便利だと言えるかもしれない。だから、便利さ至上主義的な現代においては、そうしたやり方が当然の成り行きだとも言えそうだが、今一歩踏み込んで考えてみたい。現代という時代のより大きなうねりと何か密接に関係を持っていそうな予感がするからである。
「力」という言葉が秘めたニュアンスを何かというと引き合いに出したがる風潮の足元には、「それ」をゲットしたり、装着しさえすれば望みが叶うという具合に、何か外在的な「それ」を想定してみたり、また「それ」の内部取り入れというようなことを暗黙裡に思い描く発想が広く行き渡っていそうである。
そのような考え方というのは、「ロード・オブ・ザ・リング」の指輪を例にするまでもなく、しばしば童話や、子ども向けドラマのキー・コンセプトとして見いだすことができる。「それ」をゲットするならば、俄かに高度な技を成し遂げることが可能になる、というふうにである。
なぜ、「それ」を、人間「内在的」なものとして捉えようとしないのかと疑問を持つのである。つまり、人間に何かを達成させる元になるものというのは、実はもともとその萌芽は内在していたのであって、それを何らかの試行錯誤によって発展させること、それがすべてだと、なぜ考えないのかということなのである。
これはちょうど、人間の身体が何らかの「不具合」に遭遇した際の状況を例にとるとわかりやすいかもしれない。こうした時、現代のわれわれはその「不具合」の除去、解消のために、クスリという外在的なものを、まるで「ロード・オブ・ザ・リング」の指輪のように手に入れ、そしてそれを「内在化」(=服用)して、「不具合」を乗り越えようとする。
しかし、よくよく考えてみるならば、それでもし「不具合」が乗り越えられたと仮定したとして、果たしてそれを達成したものは、クスリだけのお陰であったなぞと言い切れるのかということである。そんなはずはないと言うべきであろう。体内の自前の治癒傾向とでもいうものが大いに奮闘したはずなのであり、むしろクスリはそれを支援する効果を発揮したというのが真実なのではなかろうか。
決して、外在的なクスリを「内在化」(=服用)する意義を否定するわけではないのだが、目を向けるべきは、「体内の自前の治癒傾向」であることに着目したいわけだ。
このクスリに頼るような姿勢というのは、クスリ以外にも、われわれ現代人にとっては大いに覚えがあることではなかろうか。「知識」(加えて「情報」)万能的な風潮のことを言おうとしているのである。
この「知識」万能的な風潮とは、人間が何かを達成するためには、自身には内在せず、外在的にしか存在しない「知識」を取り入れること、記憶すること、つまりクスリのように外部にあるモノを脳の内部に「内在化」することだと信じ切っている、そんな風潮のことを指しているのである。
しかも、この風潮は、外在的な「知識」を偏重するばかりか、いつの間にか、「知識」こそが「力」なのだと早合点する誤りまで犯しているようである。
かつて、フランシス・ベーコンは、「知は力なり」と言ったそうだが、おそらく真意は「知識は力なり」ではなく「知性(悟性)は力なり」だったのだろうと察する。だが、現代では、「知識は力なり」と端的に誤解されているように見受けられるし、「知識を得ることは力なり」ならまだしも、外在的に存在する「知識」それ自体が「力」ででもあるかのような転倒した思い込みがあるのかもしれない。
まあ、それは言い過ぎだとしても、外在する「知識」こそが、「力」の源泉だと思い込む姿勢だけは否定できないのではなかろうか。そして、まるで「ロード・オブ・ザ・リング」の指輪さながら、「力」の源泉はいつも自身の外部にある、即ち外在的だと思い込みがちな習性を身につけてしまっているのではなかろうか。
このことは、情報化社会と称される現代では、さらに駄目押しされて、知識や情報という「力」の源は、いつもネットの向こう側にある、いや、向こう側にしかないという決め付けにまで至っているのかもしれない。
ところで、こうした風潮こそが、<何でも、「〜力」という新造語で仕掛ける風潮>の底流となっているのではないかと、わたしは目しているのである。
もし、何にせよ人間の「力(能力)」の源泉はあくまでも、人間内部にあって「まどろっこしい」プロセス、「辛気臭い」プロセスを踏まなければ形成されないと、額面通りに了解されていたならば、「〜力」がどうのこうのというような言い草は歓迎されないはずではなかろうか。それに対して、「〜力」と銘打たれるならば、あたかもクスリを服用するように、「まどろっこしさ」を省いて事が達成される印象を与えるがゆえに、「〜力」という「言葉の魔術」が威力を発揮するのではないか、と推測するのである。
要するに、時代の悪しき風潮の上に乗っかって、「言葉の魔術」でたぶらかしているのが、「〜力」という新造語によるアプローチなのではなかろうか。
「言葉の魔術」という点を再度見つめるならば、土台が、「〜力」という表現がなされる「〜」という部分は、実際、定義不能なほどに「曖昧模糊としている」と思われる。
「鈍感(力)」、「老人(力)」、「女性(力)」、「中年(力)」、「授業(力)」、「現場(力)」、「患者(力)」、「言語(力)」etc.(これらはみな、「〜力」の新造語としてマス・メディアに登場したサンプルである)などは、いずれも何となく言わんとすることは了解できても、そのわかりやすい定義はしようがないものばかりでありそうだ。まともな教育理論からすれば、定義不能な能力は育成不能だということになるはずである。にもかかわらず、人前での繋ぎ話の際には、何となく通用しそうな「魔術」が働いてしまうのである。
何だかここまで書いてくると、こんなことを目くじら立てて書くほどのことではなかったか、という徒労感がなくもないのを自覚したりする。
ただ、この問題の根っこは決して浅いとは考えていない。と言うのも、人間は、神代の昔から、存在するのが自身たちとその内部に存在するもの以外には何もないにもかかわらず、そこに「力」の源泉を探ろうとはせずに、神であるとか、悪魔であるとかの外在的な存在に源を想定し続けてきたからである。その構造は、現代でも変わっておらず、キャスティングが変わっただけだと言うこともできる。つまり、神の代わりに、知識群や科学という役者が、「力」の源泉だと信じてしまい、「能力」への突破口が自身の内部にしかないことに視線を向けようとしていないようだからである。
ということで一件落着に持ち込もうと思っていたが、どうもそうは行かない残件に気がついてしまった。
そもそも、「力」という言葉にわれわれが引き寄せられてしまうのはどういうことなのか、本当に「力」という言葉で思い描かれるものだけが貴重なのか、とすれば、流布している「力」群を、ただただ低迷させて行く「高齢化」と「高齢化社会」という事態は、お先真っ暗なネガティブな地獄以外の何ものでもないということになってしまう。
果たして、そうなのだろうか。それとも、ここには、「力」という言葉自体が、何か偏ったものの考え方と密着しており、この点を解き明かせないから世の中は袋小路に突入すると思えるだけなのか……。
ここはどうしても、「〜力」という言葉の遊びを引き摺り降ろすだけではなく、「力」という言葉自体への「幻想」なり、「信仰」なりをも明るみに引き出さなければならないような気がしてきた。これは文明的価値観の転換にも関わりそうで、このくそ忙しい時に、そんな茫漠たることまで考えるのか? という自嘲じみた気分がよぎらないでもない…… (2007.04.01)