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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2007年08月の日誌 ‥‥‥‥

2007/08/01/ (水)  <政治バブル>現象としての小泉・安倍政治路線……
2007/08/02/ (木)  この時季の蝉の光景……
2007/08/03/ (金)  「狂った果実」といった語感を漂わせる現代……
2007/08/04/ (土)  今ここにある命を謳歌するという厳粛な響き……
2007/08/05/ (日)  床屋で噛みしめる現行経済の一端……
2007/08/06/ (月)  広島「原爆の日」に思う「自由の国」米国……
2007/08/07/ (火)  人間の「知覚」に疑問を差し挟んでみる……
2007/08/08/ (水)  このところの「栄枯盛衰」的光景……
2007/08/09/ (木)  手に野草の束を握ったまま……
2007/08/10/ (金)  「カネ儲けは悪いことですか」がまかり通る時代の病……
2007/08/11/ (土)  この猛暑は何とかならないものか……
2007/08/12/ (日)  「持続し続ける」とは、「習熟度」を保ち「惰性」を排すること……
2007/08/13/ (月)  「臨界点」を迎えている国民の「負の感情」……
2007/08/14/ (火)  ネット環境を眠らせておく手はない…
2007/08/15/ (水)  子どもたちのあどけない仕草には万人が微笑む……
2007/08/16/ (木)  どっちにしても"不機嫌"な時代か……
2007/08/17/ (金)  今回の "株価大暴落" は自然現象なんぞではない……
2007/08/18/ (土)  朝一番に、 "ケータイ" を拾得してしまった……
2007/08/19/ (日)  置き去りにされつつある "実業経済" ……
2007/08/20/ (月)  平坦に "時間を流す" がごとき現代の世相、風潮……
2007/08/21/ (火)  現代とは、「悩む力」がスポイルされた時代……
2007/08/22/ (水)   "溢れる情報" 環境で、 "衝動買い" 的にアプローチしないためには……
2007/08/23/ (木)   "ヨカロウ(与太郎)話" はいい加減にしてくれ……
2007/08/24/ (金)  人間の思考の端緒は、いつも "生煮え" どころか "ひ弱で無防備"……
2007/08/25/ (土)  人間はなぜ "高を括る" ことになりやすいのか……
2007/08/26/ (日)  地域環境からグローバリズム経済を見透かす……
2007/08/27/ (月)   "30代" のリーダークラスの "うつ病" は治せないはずがない……
2007/08/28/ (火)  世間には "唯我独尊×我田引水×厚顔無恥" な人種がいる……
2007/08/29/ (水)  「構造改革」路線による "負の副産物" への早急な対策……
2007/08/30/ (木)  現代ビジネスも、今なお「人は石垣、人は城……」……
2007/08/31/ (金)  TVの "リプレース" は結構面倒だ……






 昨日は、安倍内閣の破たんぶりを、小泉前内閣の「続編、後編」(小泉前首相が撒いたタネの刈り取り?)だという位置づけで考察した。
 その意味は、浅薄な「改革」という言葉でスローガン化された「構造改革」・「グローバリズム」路線をそのまま継承しているからという点が基本である。国民が NO! という意思表示をしたのは、何はさておいてもこの点であったはずであろう。
 小泉前首相は、この路線を「痛み」を伴う(「痛み」しか伴わないと言わぬばかりに)、というたぶらかしの表現でお茶を濁したわけだが、その実態が、単なる「痛み」どころか生活破壊や自殺者増幅につながる凄まじいものであることを国民多数が「実感」したのだと思われる。
 この「実感」について言えば、多数の国民は、これまでになかったほどの悲惨な生活を嫌というほど「実感」しているものと思われる。それにもかかわらず、安倍首相は、そのことに共感を示すどころか、今回の選挙においては、「(経済)成長を実感へ」と、小泉前首相に優るとも劣らない「はぐらかし」の言辞を弄している。
 あたかも、国民にへばりついている現在の悲惨な生活「実感」は、ちょっとした事務手続き上のミスでたまたまそうなっているのであり、もうすぐ(経済)成長が「実感」されるようになるのだと強弁しているようなものである。
 そんなことが起きるわけがないことは、明々白々である。それは昨日も書いたとおりであるが、「勝ち組」が得ている利得や恩恵を、どうして「勝ち組」は自ら手放すようなことをするであろうか。「勝ち組」は、意識的、無意識的に「負け組」がさらなる「負け組」へと墜落することを、いわば梃子にしながら肥え太るというのがリアルな現実のはずであろう。それが、市場原理市場主義の競争原理社会ということである。
 また、もし、(経済)成長が大多数の国民に「実感」される可能性があるとするならば、それは政府による「所得再配分」の方向での公的政策以外ではない。つまり、不公正税制の是正であったり、社会福祉制度の充実ということである。
 しかし、現行行われてきたことは、全く逆ではなかったか。実質的増税の政策が行われ、健康保険や年金その他の公的負担を矢継ぎ早で増加させてきたことは疑いようのない事実である。おまけに、それでも足らぬとばかりに、「消費税率アップ」を着々と計画している。
 こうした、国民生活圧迫の「実績」を累々と積み重ねていながら、「もうすぐ、(経済)成長が大多数の国民に『実感』されるようになる!」と言い包めようとしているわけだ。よくもそんな「虚言」が口から飛び出すものだと感心せざるを得ない。

 実は、この「虚言」癖も、「小泉『改革』路線?」の真骨頂だったわけである。この点でも、安倍内閣は、小泉前内閣の「続編、後編」だということになる。
 この点については、書いているだけでも不快感が募るため、とあるサイトの的確な表現を、ちょっと長くなるが引用させてもらおう。
 その筆者(中国出身)は、小泉・安倍による政治劇の全編・後編を、<政治バブル>という見事なタームで括り、それが今回の参院選で<終焉>しつつあるのだと主張している。

<参院選、政治バブルの終焉
 ……
 外国から見た場合、今回の選挙結果は「予想外」の一言に尽きるのです。この「予想外」にはそれなりの理由があります。安倍内閣は明らかに小泉内閣の流れを継承しているのです。北朝鮮政策などに代表されるように、むしろ安倍氏こそが小泉内閣の人気を支えていたのです。その安倍氏にこれだけ厳しい判断が下されたことを、果たして年金問題や失言問題だけで説明できるのでしょうか。

■小泉内閣から始まった政治バブル
 ……、小泉劇場ではこのロジックが通らない台詞がまかり通ったのです。せっかくの解散総選挙でも郵政問題だけに観衆の視線を集め、「郵政改革一つできないならほかに何が改革できるか」との台詞に多くの「観客」が頷いたものでした。今に思えばあの時点ですでに年金問題は存在していたのです。
 近年、日本の政治が非常に軽薄になっているような気がします。衆院選で大勝した結果生まれた「小泉チルドレン」の一群のはしゃぎぶりや元ライブドア社長の堀江貴文被告の立候補からも分かるように、選挙に勝てば誰でもいいようなムードがあります。
 ……政治にまったく関心のなかった堀江被告を自民党の幹事長が「弟です」と連呼して選挙に引っ張り出したのはその象徴的な出来事でした。
 ……
■政治は本来、地味な仕事である
 「政治」という言葉には「正しい文人が水をオサメル」という意味があります。太古の中国では黄河流域に生息する人々の生活を一番脅かしていたのは洪水でした。政治とは堤防(台)を作り洪水から住民の生活を守ることでした。
 政治家にはビジョンや理念も大事ですが、それは住民の生活を守ってからの話です。しかし、ここ数年来、日本の政治家はビジョンや理念を過剰に強調し、それを表現するための台詞とパフォーマンスに大切な時間と労力を注ぎすぎたような気がします。
 古い政治スタイルを改革してほしいとの国民の要望に応えるのはいいのですが、「政治は住民の生活を守る」という基本を疎かにしているような気がします。
 安倍首相が「美しい日本」や「憲法改正」に力を注ぐのはいいことです。若者に愛国心を植え付けようとすることも評価すべきです。しかし、政治とは最終的に一人ひとりの市民の生活を守る地味な仕事であることを忘れてしまったのだと思います。
 安倍首相に欠けているとされるのは、閣僚の不祥事が相次いだことからわかるように、リーダーに必要とされる能力の基本的な部分である「人事力」だと思います。つまり人を見抜く力が欠けているのです。
 この弱い部分と高邁なスローガンやビジョンとの大きなギャップを選挙前に国民にさらけ出してしまいました。その乖離の大きさが膨張した政治バブルの引き金を引いたのです。
■基本への回帰が始まる
 戦後政治を全面的に否定する風潮がこの数年来ずっと続いていました。「改革」さえ言っておけば具体論から逃避できたものです。しかし、果たして戦後の政治はそれほどだめだったのでしょうか。
 目標到達できない場合は潔く引退すると宣言し、地味に田舎や工場を訪ねて歩く小沢一郎民主党代表に多くの有権者が古き良き政治家の影をみたと思います。いつまでも改革をしか言わない自民党に対して「政治は生活だ」とはっきり言った民主党に有権者が投票したのです。
 これは明らかに政治の基本への回帰の始まりであり、政治バブル崩壊の始まりでもあるのです。今回の選挙は間違いなくもう一つの歴史の転換点です。悪い方向ではなく良い方向への転換です。そうさせた日本の国民は真に羨ましいと思うのです。>(宋 文洲 ソフトブレーン "NIKKEI NET" より)

 <政治は本来、地味な仕事である>とは卓見である。そしてこの点に関心も実力もない政治家こそが、ことさらに<高邁なスローガンやビジョン>をがなり立てて、<大きなギャップ>を埋めるために、誇張した<政治バブル>現象を引き起こすのだ、と筆者は見抜いているものと思われる。
 小泉・安倍政治路線は、二つにしてひとつの<政治バブル>現象以外ではないということか…… (2007.08.01)


 事務所の窓の外側に一匹の蝉が止まっていた。暫くじっとして休んだ後、蝉特有のあの飛び方、方向性が定まらずあわただしく闇雲に飛ぶその飛び方でいずことなく飛んで行った。
 毎年、蝉を見ると思わずその短い一生に思いを寄せてしまうものである。「下積み」期間であるサナギやヤゴに当たる期間が比較的長く、いざ成虫となってこの時季に日の目を見る時間がことのほか短いからだ。
 そして、一体、その成虫である期間とは何かと思ったら、要するに子孫を増やすための繁殖のための時間帯であるようだ。
 そうしてみると、成虫となるということは、いわば「完成」という到達点に達したことなのであろうか、それとも次世代へのバトンタッチという目的のための「仮初の」時間なのであろうか……、とそんなことを考えさせられたりする。

 先日、海外のどこだかの島の「蝉事情」を紹介するTV番組があった。それによれば、何年間であったか、十年以上であったかもしれないが、蝉が卵から孵化して寿命の大半である長い期間を土中で過ごし、そしてほんのわずかな期間だけ大気を舞い、樹木に寄り添うのである。
 ただ、その島の蝉は、まるで「団塊世代」のように何年かに一度、何万匹という数で一気に登場するのである。だから、それらが空を舞えばまるで暗雲のごとく陽を遮るほどであった。
 その成虫の蝉たちは、偏(ひとえ)に子孫を残すための交尾と産卵だけのために、「仮初の」時間を過ごして、そして、何万匹もの成虫蝉が、ある部分は野鳥ちや他の動物たちの胃袋に入り動物たちを活性化させ、また大多数が森の樹木の根元に屍を堆積させて肥沃な土壌を形成するのだと説明されていた。
 一匹の蝉の一生ではなく、そのような何万匹もの蝉たちの怒涛のような推移、流れを見せ付けられてみると、哀れだとかといった情感が誘われるというよりも、まさにダイナミックな自然の営みを知る、という受けとめ方になったものだ。

 わが家にも、蝉をおいしそうに食べる動物がいるのを思い起こす。飼い猫の一匹である。そいつは、屋内で飼っているため、窓から野鳥の蠢く姿を興味深く眺めているが、表に出せばそれらを餌食にすることくらいはたやすくやりそうだ。
 そんな猫が、唯一、野生味を発揮するのが、夏場のベランダで蝉を捕獲することなのである。よほどうれしいのだろうか、二階のベランダから、その蝉を咥えて一階のキッチンにある自分の餌皿まで運ぶのである。そして、皿の上に蝉を落として、それから腰を据えてその蝉をムシャムシャと食べ始めるのだ。まさに、開いた口が塞がらない光景なのである。
「そんなことをしていたら、そのうち蝉たちに仕返しされることになるぞ」
と、冗談を言う自分である。
 しかし、猫がそんなことを気にするわけもない。むしろ、そいつはきっと、この時季になって蝉の鳴き声が耳に届くと、舌なめずりをしながらいつかの捕獲時のことを思い出しているに違いなかろう…… (2007.08.02)


 自然現象といい、社会現象といい、そして政治に経済と、ここに来てありとあらゆる分野が支柱をうしなったように揺らいでいる。
 まだ、梅雨明け直後の夏だというにもかかわらず、地球温暖化現象の一環と見られる激しい台風、第5号が西日本を襲った。地球温暖化は、梅雨前線に影響を及ぼして日本の梅雨を遅らせる傾向にあるらしいが、これで台風シーズンが早まってくると、一体どういうことになってしまうのだろうか。
 社会現象も相変わらず酷い。引き続き、保険金殺人は跡を絶たないし、ちょっとしたことで人を殺傷する事件や立てこもり事件も頻発している。業務上平気で不正をする企業も、この「アナーキー」時代に呼応するかのように現れている。

 経済面では、米国の「サブプライム」問題が底知れない不気味さで世界経済の足を引き、日本の株式市場もガタガタとなっている。今日の日経平均株式チャートは、上下動が激しく、まるで地震計のグラフを見ているような様相であった。結局、1万7000円を割ったままで終わったようだ。
 市場筋によれば、「サブプライム」問題で打撃を受けている米国ファンドなどが、どうやらリスク軽減のために資金を引き揚げているとも言われている。「サブプライム」問題の影響幅が不透明であるだけに、今後の予測も困難なようでしばらくは不安定な状況が尾を引くかのようである。

 そして日本の政治状況だが、こちらは、安倍首相の特異なキャラクターによって、不安定さと不透明さが掛け合わされた、国民としては実に不快な状況に突入している。
 今日のニュースでも、この人は状況認識というものがまともにできているのだろうか、と疑わせるものがあった。

<「今回も派閥推薦受けぬ」 内閣改造で安倍首相
 安倍首相は3日昼、内閣改造・党役員人事にあたって派閥から推薦を受け付けない手法を今後も続けるかどうかについて「今回も、その方針で臨んでいきたいと考えている」と明言した。首相は昨秋の組閣で派閥推薦を受けなかったが、基本的な人事手法は譲らないという姿勢を示したものだ。首相官邸で記者団の質問に答えた。……>( asahi.com 2007/08/03 )

 「派閥人事」が褒められたものでないことは先刻承知である。しかし、そうした「正論」を言いながら組閣した結果が、これまでの「仲良しクラブ」的な最悪の内閣ではなかったのか。「反省するところは反省し……」と言っている割りには、自身の「人を見る目のなさ」という欠点が何も反省されていない様子である。
 別に、自民党の派閥政治復活を持ち上げるつもりは毛頭ないのだが、ここは、いわゆる「挙党内閣」として、払底しかけた党内人材の「勢揃い忠臣蔵」でなければ持たないのではないのか。ただでさえリーダーシップが危ぶまれている際に、宙に浮いた綺麗事たる「派閥解消」を口にしていたのでは、エネルギーが続かないのではないかと、心配してしまうのである。
 こうした「不審な挙動」を見るにつけ、大変失礼な表現ではあるが、現在の安倍首相はまるで首相官邸で「立てこもり」に入ったかの印象を受けるのだ。
 おそらく、自民党内各派は、ハンド・スピーカーなりを持ち出して、
「今からでも遅くはない。将来のことをよく考えて、柔軟に対処すべし!」
とでも叫びたいところなのではあるまいか。
 こうした状況を見ていると、どうしても「プッツン振り」で押し通したあの小泉前首相の記憶が蘇る。郵政問題が参議院で暗礁に乗り上げた時に、衆院解散に打って出たデタラメ振りである。まあ、小泉前首相の場合は、彼にとっては幸いにも、虚を衝かれた国民が不本意な判断をしてしまったことで「成功もどき」にたどり着いた。しかし、「柳の下にいつも泥鰌(どじょう)は居らぬ」の譬えもある。

 いや、今、国民は、わけのわからぬ独りよがりの政治にうんざりしているのではなかろうか。というよりも、この時代に、人智を寄せるという手法以上に個人の洞察力を発揮するような「ワンマン」がいるとは、思えなくなっているのではなかろうか。
 安倍首相は、自身ではその「ワンマン」を自認しているのであろうが、少なくともわたしの目からは、赤城前大臣とさほど変わらないように見える。類は類を呼ぶというが、どこか共通点があるのかもしれない。比較的若いにもかかわらず、言葉遣いがパーフェクトに官僚用語となっている点が気になるところだが、ここに、タテマエだらけで実の伴わない思考スタイルが見え隠れするのである…… (2007.08.03)


 今日のような蒸し暑さだと、書斎の古いウインドクーラーはあまり効かない。ビリビリといった本体側の振動音からは精一杯頑張っているのはよくわかるのだが、今ひとつ冷風に威力がない。まあ、もう少し時間が経てば効いてくるのだろう。気長に待つよりほかなさそうだ。
 それにしても暑い。もう6時過ぎだというのに夕方の涼しさというものが期待できないようだ。外は蒸し返った大気がよどんでいるようだ。ただ、蝉たちが喜んで鳴いているのが聞こえる。

 昨日、クルマで帰宅する際、車道の片側の一角に広がった畑地のその向こう、ちょっとした林の方角から蝉の大合唱が聞こえていた。車道付近はライトなどで煌煌としているし、反対側は建物の明かりやイルミネーションで輝いている。どう見てもここが都会の真中であることは一目瞭然である。
 そんな、車道を挟んだ両側の対照関係を目にした時、ふと、蝉たちのことを考えてしまった。よく蝉たちのことに思いを巡らせるのは、ひょっとしたら自分は蝉の生まれ変わりかなんぞで、何らかの縁があったりするのだろうか……。
 何を考えたかというと、蝉たちは、「律儀」な生き物じゃないか、といった他愛もないことだ。あんな暗い林の中の樹の枝の何がいいのか知らないけれど、ここがいいのだ、ここじゃなきゃいやだと言わぬばかりに居着いて、そして大昔からの鳴き声(音)と同様の音を、何の迷いも衒(てら)いもなく発し続けている。
 が、何ら「発展性」のない生きものだと蔑む気持ちは起こってこない。むしろ、寸分違わず己がDNAの命ずるままの行動をしていることが、「律儀」だと思え、感心に似た心境にさせられたのであった。
 彼らにとっては、どんなに狭かろうが、自分たちが日の目を見たその林こそが「故郷」であり、「母国」なのであろう。林から飛び出してその複眼で目にする都会の光景とは、ほとんど何も無いに等しいのかもしれない。自分たちの知覚範囲を越えた認識不能の空間は無であるに違いなかろう。

 しかし、現在でこそこうした車道が我がもの顔で走り、その沿道地域は都会然として喧騒に満ちているが、その昔は、今となっては蝉たちのDNAのみが覚えているような閑静な原野であったことだろう。あるいは、林また林だらけの鬱蒼とした地形であったのかもしれない。この近くには、「森」という字がつく地名のほか、「淵」という字が残された地名もあるくらいだから、さぞかし、蝉のみならず野生動物も生息していたのだろうと想像される。
 そんなことをも想像してみるならば、車道側の騒音に負けじと蝉しぐれが響く光景は、何か別様に見えてきたりもする。蝉たちが、「ネイティーブ」としての誇りを失わないそうした構図だと解することもできようし、人間たちの自分本位な所業に対して何らかのメッセージを発していると深読みすることだって可能だ。
 しかし、実のところ、その蝉しぐれはそうした湿った意味合いよりも、もっと乾いた透明な響きを、暮れ行く夏の夜空に染み込ませていた。今ここにある命を謳歌するという厳粛な響きとでも言おうか…… (2007.08.04)


 かつて、一生喰いっぱぐれないのが床屋だ、と聞いた覚えがある。どんなに世相が変わろうが、人の髪の毛は伸び、散髪業は不滅だということらしい。しかし、そう単純化して考えるわけにも行かないようである。需給関係のバランスもあろう。皆がみんな床屋を開業し始め、街中に回転する捩れん棒のスタンドが林立したらこぞって立ち行かなくなるであろう。
 さらに現代経済の特色は、同じ業種内でも「勝ち組」と「負け組」の差が歴然とするという点にあるようだからだ。つまり、床屋ならどこでもいい、というわけには行かない顧客側の意向もあろうし、現に、サービス内容に結構バラツキもありそうで、それらが経営の浮沈を左右するはずである。まして、床屋は典型的な客商売であり、散髪技術のほかに客対応の巧拙が固定客の増減を決めそうでもある。

 漸く、今日、床屋へ行ってきた。実は、昨日出向いたのであるが、生憎といつも駐車できるはずの店頭の路上が、電力会社による工事で埋まっており、せっかくクルマで向かったのにそのまま引き返さざるを得なかったのだ。
 こう暑い日が続くと、ただでさえ汗っかきの自分は、伸びた髪をそのままにして済ますわけには行かなくなってしまった。冬場であれば、多少長くても鬱陶しさはさほど感じないが、こう暑くて身体と言わず頭と言わず汗をかくようになると、伸びた髪どころか、髪を全部剃り落としてスッキリしたいくらいの気分となる。

 店に入ると、床屋のおやじは、
「昨日はどうも……。工事は一日中やり続けていて参りましたよ」
と、弁解めいたことを言った。
「何の工事だったんですかね」
「新築された近くのマンションへの電線の引き込みだったみたいですね。」
「客商売としてはいい迷惑じゃないですか。営業妨害に近い……」
 確かに、自分の場合はさほど急ぐこともなかったので、今日出直して来たが、中には、急ぐ事情のある客は別の床屋へと向かってしまったかもしれないからだ。そうなったら、むざむざと月商の何十分の一かは知らないが、その分を減らすことになったはずだ。数千円のマイナスは、無視してよいものではなかろう。
 しかし、床屋のおやじは、歯にものの挟まったような口調でこう言った。
「ただねぇ、そのマンションは二、三十世帯の部屋数がありましてね。その住人たちがウチの客になってくれたらと思うと、あまり迷惑顔もできませんでね……」
 それを聞いて自分は、そうかそうかと合点するのであった。

 この床屋へはもう何年も前から通い続けており、経営事情もどきをいろいろと聞かされてきたものである。通りを挟んだ向こう側に有名私立大学が移転して来た時も、こう言っていたものである。
「大学には『生協』がやる床屋があるようだから、何百人、何千人の学生が集まっても関係ないってことですよ。ただ、それでも何かの都合でと期待しないわけでもないですけどね……」
 実際、この件では何の恩恵もなかったようであった。
 その時、別の椅子で整髪されていた常連客らしき男が、おやじに向かって訊ねた。
「最近、息子さんの姿を見ないね。どうしてんの?」
 それに答えるおやじは、奇しくもこの店の経営がラクではないことを表明することになっていた。息子と二人掛りでやって行くには、やはり客数が足りないようで、息子は、別の店にアルバイトのような形で出向いて稼いでいるのが実情だということだった。
 そう言えば、今までも、自分がこの店に来た時に、客の入りを待って店内の片隅で手持ち無沙汰に立っている姿をしばしば見かけたものだ。一度その息子に整髪してもらったことがあるが、腕の方は結構上手であったことを覚えている。

 一生喰いっぱぐれないのが床屋だ、という素人考えはやはり実情に即したものではないようである。それどころか、悲観的にではなくリアリズム的に推測してみても、これで、おやじや息子といった稼ぎの担い手たちが病気にでもなったら、一体どうした代替策があるのかということだ。
 現在、全国の自営業や零細規模企業の経営実態は、想像以上に厳しいようである。それぞれが、他人に言えないような苦境を抱えて、必死に堪えていると聞く。
 消費者物価におけるデフレ傾向がなかなか脱却できないと言われているが、庶民の購買力が伸びようのない背景がこうしてどっかりと居座っている以上、そう簡単なことではないのかもしれない…… (2007.08.05)


 今日は、広島「原爆の日」だ。「平和の鐘」が鳴らされる原爆投下の午前8時15分は通勤途中のクルマの中であった。一分間の黙祷はムリであったが、信号待ちのわずかな時間、黙祷を捧げた。
 やはり、忘れたくはないと思うのだ。いや、その日のことを覚えている歳ではなく、歴史的記録として追体験したに過ぎないが、日本人としては、同朋が非人道的な殺戮をされた事実を決して忘れてはいけないと確信している。この事実を、どんな形であれ承認してしまうならば、命の尊厳という思いを根底から崩してしまい、人の命をはじめとして、生きとし生きるものすべてに対する基本的構えを溶解させてしまうに違いない、とそう思うからである。

 人には、こだわらなければならない事実というものがありそうである。それを一度、度外視したり、黙殺したりするならば、まるで液状化現象に見舞われた大地の上の建造物のように、想像を絶する脆さを露呈することになりそうだと思うからでもある。
 きっと、人間の節操というものはさほど強固なものではないのだろうと思う。強固ではないがゆえに、激変して行く時代環境の中で柔軟に生きて行くことができるのかもしれない。また、苦しいことや悲惨なこと、要するに心が痛んだ経験を忘却して行くから、とりあえず日々生きて行くことができるのかもしれない。
 しかし、人間が「とりあえず生きる」ことをすらいっさい無効にしてしまうような、根底的な非道さというものもある。それが「核兵器」の使用であるに違いない。その意味では、「核兵器」の使用は、どんな能書きをも許容できない「絶対悪」だと言うほかないわけだ。この世に、誰が口にしても正しいことが唯一あるとするならば、「核兵器」使用は悪なり、という命題以外ではないはずである。

 だから、大戦の終了を早めるためだったとか、戦後の国際関係の東西冷戦構造化に向けた戦略であったとか、どんな能書きをほざこうが、人類最大の悪の所業であったことは打ち消しようがない。
 そして、こうした能書きを承認しているからこそ、核による人類死滅の危機につながる狂気染みた現状が横たわり続けているわけである。
 先の大戦で、日本軍部勢力が仕出かしたことは、一切の弁解を許さない完璧に誤りであったはずだ。それを、きちっと清算できずに今なお国際世論における非難と顰蹙を買っているのは、決して自虐史的評価だのと言ってはいけない。事実を冷静に凝視して自然な締め括り方をすべきなのである。
 だがしかし、こうした陰の事実があることと、戦勝国米国による「核兵器」使用とが、同一の天秤にかけられてはならないだろう。米国もまた、ヒューマニズムを口にして、国際的な指導国たらんとするならば、世界史上唯一の「核兵器」使用国という「決定的汚点!」をいつかは清算すべきなのではなかろうか。

 米国の偉大さは、世界各国が認めるところである。しかし、その偉大さが脅威とは別の、真実の偉大さに脱皮するためには、「核兵器」の呪縛から自由になることであるに違いない。それが達成されてこそ、真に偉大な「自由の国」だということになるわけだ…… (2007.08.06)


 今朝から、右足の中指あたりに若干の痛みを感じ始めた。クルマのアクセルを踏む際にも、何かちょっとヘンかな、と気にすることになった。
 朝だけのことかと高を括っていたら、その違和感は午後になっても消えることがない。別に何かをぶつけた覚えもなければ、傷があるわけでもない。要するに、神経的な痛みのようである。今もシンシンと小さな痛みが続いている。
 原因として考えられるのは、去年の秋に患った「腰部脊柱管狭窄症」の名残ではないかということだ。あの時も、何の前ぶれもなく、まるで寝相が悪かったせいでもあるかのように、朝起きてみると腰の右側やら、右足の全体に神経的な痛みが走っていたのであった。
 あちこちの整形外科医に出向いてみたが埒があかず、最終的には「ペイン・クリニック」において「神経ブロック」という麻酔注射療法で痛みを抑えてもらった。あれだけ苦しめられた痛みであったが、その療法以降はうそのように痛みが消えて大助かりであった。 しかし、「神経ブロック」注射は、決して「腰部脊柱管狭窄症」という物理的状態を完治させるものではなく、圧迫を受けて痛みの原因となっている神経部分に麻酔をかけることで、脳に痛みを気取らせないというような療法なのだそうである。
 詳細なメカニズムはわからないが、足の先端へと延びている神経が、腰部の脊柱あたりで圧迫を受けると、脳は、その腰部に痛みを自覚させるとともに、特に問題のない足の先端部分にも痛みを感じさせるようである。この辺が神経というものの不思議な点だと言える。
 よく、戦争や事故などで腕などを失ってしまった人が、すでに無くなってしまった腕に痛みを覚えることがある、と聞くが、これなぞも神経と脳とが織り成す不思議な現象なのであろう。
 今回の右足先の痛みがこのまま継続するのか、一過性のものとして消えるのかはわからない。まあ、もし継続するようであれば、原因はほぼわかっているので、去年の秋のような右往左往をすることなく、「ペイン・クリニック」に再度出向くつもりでいる。

 それはそうとして、こうした痛みを感じるにつけ、身体における神経と脳が司る痛み感覚というものの不思議なメカニズムに意を向けてしまう。
 元来、痛みとは、身体の異常部分を異常だと自覚するために、神経と脳とが連携プレーをして織り成す機能であろう。言ってみればいろいろな箇所に設置された「火災報知器」のようなものと言うべきか。そして、末端箇所の「火災報知器」が作動したら、その信号が電線を通じて消防署なりセンターなりに、どこどこに火災発生という形で警報されるということなのであろう。
 ところが、神経と脳との関係には、ちょっとした誤動作の発生する余地がありそうなのである。つまり、火災報知器に繋がっている電線にあたる、脳へと通じる神経経路が、その途中で圧迫などの刺激を受けると、刺激を受けた箇所を痛みとして感じさせるだけでなく、その神経経路の先の方にもあたかも痛みの箇所が存在するかのようなバーチャルな反応をするということである。

 これを火災報知器システムに例えてみると実に奇妙なことになるわけだ。
 今、とある町、A町が、全戸数に末端の火災報知器が備え付けられ、そしてそれらからの信号がA町消防署に集約されていると仮定しよう。また、A町消防署で集約された警報信号は、他のB町、C町……の消防署からの集約結果とともに、市の消防センターに伝えられるとする。
 そこで、こんなことは無いはずだが、今仮にA町消防署で不審火が起きたとする。すると、その事態を知らせる信号が、市の消防センターに伝えられるわけだが、この時、A町消防署のみが火災であると伝わらなければならないのだが、もしA町全体があたかも「振袖(ふりそで)火事」(江戸時代、明暦の大火)さながらの大火となっていると伝わったとしたらどうであろうか。
 こんなことはあり得ないわけだが、ところが、身体の神経と脳との関係においてはこうしたことも起こっていそうなのである。「腰部脊柱管狭窄症」やある種の神経痛などは、どうもこの類のようだからである。脳へと繋がる神経経路の途中のどこか(腰など)に不具合が発生している時に、別に、痛みがあると思しきその箇所に原因があるわけではないにもかかわらずその箇所(足先など)が痛むからである。
 この現象は、「無くなった腕の、その先の痛み」という現象とともに、やはり、人間の身体の不都合であり、今後、人類が進化して行く際には改善(?)されて然るべきポイントのひとつではないかと思う。
 何か、青臭いことを書いている気がしないでもないが、考えてみると、例えば「眼球」の「網膜」に映った倒立像を正立像として感じ取っているごとく、人間の「知覚」というものは、結構、我田引水のバーチャル的了解を平然としているのかもしれない…… (2007.08.07)


 今日、8日は二十四節気の「立秋」。暦の上では秋になるが、とんでもない暑さであり、むしろ夏たけなわといったところだ。
 どう考え、感じ直しても、秋というニュアンスは見いだせない。梅雨明けが遅かっただけに、体感的にはこれからが夏本番という気分がしないでもない。
 きっと、海水浴場の海の家などの業者たちも「立秋」なんてとんでもない、今年の水揚げをにらめば「お盆」だって早過ぎる、と思っているに違いなかろう。

 しかし、もちろんこの暑さが永遠というわけではない。やがて、陽射しが弱まり、日照時間も短くなり、そして朝晩が涼しくなっていく。蝉の鳴声が弱々しく聞こえ、日が落ちてから聞こえる鈴虫の鳴声がわびしさやもの悲しさを誘うことになっていくのだろう。
 ここで「栄枯盛衰」という言葉を引き合いに出すのもおかしいが、昨今のニュースねたに目を向けると、どこかこの言葉を思い起こすことにもなりかねない。
 安倍首相、横綱朝青龍、そして米大統領ブッシュなどの最近の動向がその言葉を連想させるというわけだ。さらに、ニューヨーク株価ダウ平均を付け加えてもいいのかもしれない。
 いずれもが、飛ぶ鳥を落とす勢いというか、押し付けがましいほどの隆盛ぶりを見せていたにもかかわらず、ここへ来て、とんと勢いが無くなってしまった観がある。

 昨日のニュースでは、自民党代議士会において、安倍首相を間近にしての演壇で、同僚議員が相次いで首相の退陣を促す意見を吐く場面があった。カメラは安倍首相の悲痛な表情を大写しにしていた。こちらが見ていられないといった感覚になるほどに、様にならない光景であった。
 これとは事情が全くことなるのだが、相撲協会から処分を言い渡された後の横綱朝青龍の状況も、これまた見てはいられないような情けなさだ。精神的に不安定な状態が続き、「急性ストレス障害」と診断されているらしいが、これまでの土俵上でのあの力漲った憎々しい表情と、現状伝えられているモンゴルへ帰りたいとももらしている病的な弱々しさとが、どうにも一つにならないのである。
 もう一つ寄せ書きふうに書き添えるならば、ニューヨーク株価ダウ平均のこのところの動向も、まさしくボロを曝け出すといった風情ではなかろうか。これまでが、「ホントニダイジョーブなの?」と心配になるほどの強気な上乗せであっただけに、一気に300ドル以上を売り込む下落は意表を衝いた。しかも、「サブプライムローン焦げ付き問題」というそれなりに深刻な事態を併せ考えれば、単なるハプニングではなく、一気に真相が明らかにされたような雰囲気であり、これまた「栄枯盛衰」という言葉を身近に感じてしまうわけなのである。

 いや、こう書いたからといって、それぞれが「枯」、「衰」へと雪崩れ込んで行くと決まったものでもなかろうが、それにしても、この時代の現象はこうも短兵急に推移してしまうものかとちょっとした驚きなのである。
 多分、一つひとつの現象は、当然必然的な経緯を辿って展開してきたのであろうから、それらを追跡吟味していくならば、多分、なるほどと納得できるものであるに違いなかろう。
 にもかかわらず、自分が、あるいは多くの人たちが、サプライズ的に受けとめ、おまけに「栄枯盛衰」感に近いものを感じてしまうのはどうしたわけであろうか。
 ひょっとしたら、ここに現代環境の特殊な仕掛けが潜んでいそうだと思えてならない。その仕掛けとは、要するに物事を一面的に塗りつぶしてゆくマス・メディアの機能だということである。
 とかく、マス・メディアは、60ワットの明かりを100ワットだと表現し、40ワットの暗さは切れた電球扱いにしがちではなかろうか。「輝かしい英雄」と「落ちた偶像」とが大の好みなのである。そして、そうあることの原因は、それが大衆自身の好みでもあるからだろう…… (2007.08.08)


 その少女は、左手に野草の束を大事そうに握っている。時間を掛けて集めていたものかと思われる。特に綺麗な野草とも思えないが、少女にとっては貴重なのであろうか。
 それを見ている自分は、そんなものに思い入れをするその素朴で慎ましやかな光景に対して、妙に感じ入り、悲痛な感動に似た心境にさえなっていた……。

 これは、つい先ほどのほんの束の間の居眠りで見ていた夢のことである。こんなことはどうでもいいことのようにも思われたが、あえてこれを題材として書こうという気になってしまった。
 最近は、加齢によるものか、睡眠時間がどうしても短くなり、その分、日中に時々うたた寝をしてしまう。その際に夢まで見るということは滅多にないことだ。
 それで、どうしてそんな夢を見たのかは皆目わからないでいる。ただ、些細なことに喜びを見出す人の子の慎ましやかさというイメージが唐突に浮かんできたということになる。きっと、そうした光景とは対照的な現実、ただただこけおどし的だとも思える強烈さや、喧しさが溢れ、人の心、人の子の心の繊細さなぞが居場所を失ってしまったかのようなそんな現実への拒絶反応ということなのかもしれない。

 そう言えば、今日、8月9日は、長崎原爆の日である。
 原爆投下時刻の午前11時2分と言えば、昼食までにはまだ間がある頃、ひょっとしたら子どもたちは戸外で遊び、中には野原で野草を摘んではしゃぐ子たちもいたのかもしれない。
 そんな子どもたちにとって、一瞬の強烈な閃光と爆風は何のことだか理解もできなかったであろう。そのまま無残にに命を焼き尽くされたに違いない。いや、せめて、地獄のような光景が目に残像として残ったり、激痛に身を悶えさせて苦悶することがなく、瞬間で生を閉じたことを願うばかりである。せめて、それまで遊び興じて手に握りしめた野草の優しい香りだけが、生の最期の証しであったことを祈りたい……

 先日、TVドキュメンタリーで、現代における核兵器の恐ろしさを改めて知ることとなった。(NHKスペシャル『核クライシス 第1集 都市を襲う核攻撃 〜地表爆発と高度爆発〜 』2007年8月5日(日))

 リアルに見つめるならば、現代の核兵器問題は、かつてより一層危険水域へと急接近していると言うべきなのかもしれない。

< 国際社会の反対を無視し、核実験を強行した北朝鮮と核開発に邁進するイラン。核保有国に二重基準で対応し、核管理体制を足元から揺るがすアメリカ。今、人類は、核の恐怖と向き合う新たな時代を迎えている。冷戦時、核は先制攻撃に対する抑止力として機能する「使えない兵器」だった。しかし、核・ミサイル技術の発達と核拡散の危機の高まりで、今や「使える兵器」へと変貌を遂げようとしている。
 現在、世界が直面している“核クライシス”は二つある。一つは、高度な軍事技術で使用が容易となり、攻撃力が格段にました「破壊の恐怖」。もう一つは、NPT(核拡散防止条約)体制が崩壊の危機に直面し、「ならず者国家」やテロリストが核を手にする可能性が高まった「拡散の恐怖」である。>(サイト:NHKオンラインより)

 そして、核兵器の驚異的な破壊力が明らかになればなるほど、その戦慄的な恐ろしさが増幅される。危機の可能性としての<地表爆発>と<高度爆発>の双方がともに、都市空間を地獄そのものに変えてしまうのだという。

< 核拡散に危機を感じた広島市は今年初めて、核攻撃を受けた時の被害を詳しく想定し調査を行った。その中で、現実に起こりうるとしているのは、テロリストが都市に持ち込んだ核兵器を爆発させる“地表爆発”だ。科学者たちの調査により、残留放射線が都市に想像を越える被害をもたらすことが明らかになってきた。
 また、アメリカが将来起こりえる核攻撃として警戒するのが、ミサイルに搭載された核兵器が数百km以上で爆発する“高度爆発”だ。この爆発が起きるとアメリカの国土の大半に強力な電磁波が降り注ぎ、電子機器が麻痺するなど国家としての機能が崩壊すると、軍関係者は警告している。>(同上)

 地球温暖化現象とともに、こうした緊迫化する核兵器問題という二つの危機は、まさに現代における「双子のクライシス」だと言うほかない。
 そして、これらのクライシスを食い止めるには、決して即効薬があるわけではなく、各国の市民・国民が、日常的な場面で「政治の歯車の狂い!」を注意深く凝視するする以外にはなさそうである…… (2007.08.09)


 とあるシューズ・メーカーの品質管理室から、わたし宛てに調査報告書なるものが届いた。A4用紙1ページ強の書面で、先ずは誠意が窺える報告書であった。
 内容としては、「1.ご指摘内容」「2.原因および弊社の見解」「3.弊社の今後の取り組みについて」などの各項にわたって叙述されていた。
 結論から言えば、「成型ライン上では考え難くラインアウトしたものが混入したものと考えられます」ということになるらしい。

 この一連の対応は、わたしがとある量販店で購入したスニーカーに、考えられないような不具合があったことに関連している。自分は、その量販店にそのスニーカーを返品するだけではなく、メーカーに原因調査とその結果報告をしてほしいと依頼したのであったが、そのことへのレスポンスだったのである。
 買って間もないスニーカーの靴底のラバー・ピース複数がバラバラと剥がれてしまったのである。自分は、比較的モノを大事にする方であるし、またモノの構造などに日頃から興味を持つタイプであるため、その現象は製造工程に問題アリとにらまざるを得なかった。
 自分のような「モノを言う消費者」というか「うるさ型の消費者」であれば、しっかりと返品をして、苦情まで言わせてもらうからいいのだが、これが、女性や子どもであった場合、いわゆる「泣き寝入り」となってしまうのかもしれない。
 小さな子どもが、おニューの靴を喜んで履いていたところ、こんなことになったのでは、親から、「あなたの履き方が悪いからよ」なぞと、言われなくてもいい小言を喰らってしまうことにもなりかねない。家計が苦しい親御さんの場合ならば、少しでもモノが長持ちしてもらわなければ困るに決まっていよう。
 そこで、ここは一番、「右代表」というかたちで製造元にクレームを届け、「反省すべきは反省」(誰の言葉だったか……)してもらって、不幸にも悲しむ消費者が出ないことを願ったのであった。
 その甲斐あって、もし「報告書」が文面どおりに実施されるならば、
「弊社中国事務所を通じ、中国生産工場へ厳重に注意すると共に下記技術及び成型条件の遵守を指示しました。……」
ということなので、買ったばかりの靴底のラバー・ピースがへろへろと剥がれ落ち、ルンルン気分のお子さんの小さな胸を傷つけることはきっとなくなるに違いない。

 ところで、こんな「波風」を立てるのはあまり上品な所業ではないと考える自分もいなくはない。しかし、どうだろう、今のご時世にあっては、消費者やユーザがそれなりに適時レスポンスを返してあげた方が世の中のためになりそうである。
 結論から言えば、「儲け」を手にする企業経営者に対して、もっとしっかりと良心的になれ、と事あるごとにメッセージを突きつけるべきだと思うのである。「カネ儲けは悪いことですか」なんぞとトンチンカンなことをほざく暇がなくなるほどに、足元の業務の実情に目を向けさせてやりたい、といった情け心だと言うべきか。まあ、偉そうなことを言えば……。
 と言うのも、昨今のこの国の企業活動は、異常なほどに、病的なほどに「収益」「儲け」にのみ目が向き過ぎていそうだからである。そして、そのためかどうか、企業活動が当然のごとく背負うべき義務的事柄を、企業外の社会に放り投げてみたり、酷い場合には消費者やユーザに肩代わりさせたりしているのではなかろうか。そこまでして「収益」「儲け」を追求しなければならないとすれば、企業の本来的あり方から逸脱しているとともに、そうあらしめている現在の社会経済構造に致命的な誤りがビルトインされていると言わざるを得なくなろう。
 誤解を恐れず直感的に言い放つならば、現在のような構造改革路線=グローバリズム経済の野放し状況は、ただただ社会経済に悪い風を吹き荒らしていると思える。
 「性善説」という言葉があるが、現時点での構造改革路線=グローバリズム経済推進論者たちは、私的企業活動や市場原理などを、驚くべき楽観論で捉え、あたかもそれらの「性善説」を盲信しているかのようである。
 そんなワケがなかろうと言いたいのだ。「カネ儲け」のロジックと感覚とは、本来がボーダレスに増幅するものであり、この線から先は「ご法度」だから踏み止まるべきだと命ずる機能は持ち合わせていない、というのが実情ではないのか。奇しくも、昨今、経済界に空虚に飛び交う言葉「コンプライアンス(法令遵守)」は、まさにこの事情を物語っているのではないか。今さら、何が「法令遵守」だと言うのか。当たり前のことではないか。それをあえて掲げるというのは、つまり、内部的にはそこまで危うくなっているのだという「告白」以外ではないと、皮肉めいて感じるのである。

 つい先日、新聞の新刊本広告で当を得た表題を目にした。『株式会社という病』(平川克美著、NTT出版)である。この表題だけで、著者が全身で感じているであろう現実の矛盾がジワリと伝わってくるようである。
 この間に、いわゆる企業不祥事と呼ばれるものがレンチャン的に発生した。同著者は、一連の不祥事は、「質の悪い」経営者によって引き起こされたという解釈では済むまい、いや、その解釈は根本的に間違っているのだと言う。不祥事は、株式会社というシステムが病を発症したものであり、事は株式会社全体に関わる問題ではないかと言っている。
 株主の利益を最大にするという目的を持った株式会社というシステムには、最初から病的な性格が潜んでおり、それがこの時代環境の中で歴然とした病へと転化したということなのであろう。
 「カネ儲けは悪いことですか」なんぞと口にすることを恥じていたノーマルな精神が時代をリードしていた環境が、いつの間にか掘り崩されてしまったのであろう。そんな環境では、ビルトインされた病根が、何の衒いもなくスクスクと育ってしまうのであろうか…… (2007.08.10)


 もう残暑ということになるわけだが、今日の暑さは尋常ではなかった。東京の練馬区では37.6度だったというし、全国各地でも37度だ、38度だという観測史上最高の水準を記録したそうだ。この高温は、よくはわからないが「ラニーニャ現象」の影響だとも言われている。
 ただ、自分は、この暑さにもめげず、朝のウォーキングでもしっかりと汗をかいてきた。その際、トランクスだけの裸姿でウォーキングをしているヘンな男を見かけた。去年も目にしたことがあり、まあ勝手にすれば……、という感想を抱いたものだ。
 また、日中は、毎年恒例になっている墓参りにも行ってきた。週明け月曜日の「盆の迎え火」に先んじて、仏さんたちに、お迎えをしますからどうぞいらしてください、というご挨拶の意味の墓参りなのである。
 寺では、どこかの親族たちが大勢集まって、法事だかを行っていた。定かではないが、新盆という位置づけの法事であろうか。それぞれが皆、黒の喪服を着込み、見るからに暑そうな雰囲気であった。ちらっと見かけた太った寺の住職も、お役目柄、きちっとした正装の和服姿で、のぼせるような顔つきをしていたものだった。逝った人も不幸には違いなかろうが、今日のような猛暑の真昼に寺に召集され、法事を営む親族の方々も、決して幸せとは言えないなあ、と不謹慎なことを考えていた。

 これを書いている書斎も、さして効かないクーラーのため、暑苦しさが身にしみる。おまけに、数十メートル程度しか離れていない町内の広場で盆踊り大会が催されているため、そのスピーカー音がなおのこと気分を暑苦しくさせる。
 先々週、選挙の前日、他の町内会で一斉に盆踊り大会を催していた時に実施されなかったため、何かの事情でやらないのかと早とちりしていた「最直近」の盆踊りである。盆踊りというのは、遠くの夜空から微かに御囃子が聞こえてくるところに風情があるわけだ。窓を閉めていても、大音響が聞こえ、おまけに、聞きたくもない地元議員たちの下手な挨拶まで忍び込まれると、不快な汗が刺激されるというものである。
 それにしても、あの厚かましさと声の大きさだけが人一倍で、能もなければセンスもない生きもの(議員たち)は、何とかならないものであろうか。
 むかし、「三百代言」(明治前期、代言人の資格がなくて他人の訴訟や談判を引き受けた者。また、弁護士の蔑称。転じて、詭弁[きべん]を弄すること。また、その人。――広辞苑より)という言葉を耳にしたことがあるが、議員たちという者は、まさにこれなのであろう。能もセンスもなくて、ただただ声高で妙なプライドだけが一人歩きするならば、ごく自然と「詭弁」が口からこぼれ落ちるというのが道理かもしれない。

 産業廃棄物の捨て場所探しがいよいよ問題視される時代となっているが、ついでに「三百代言」たちを大型バスに積載してまとめて廃棄する場所も、余裕があれば検討してもらいたいものである。ただし、当然ながら議員たちに検討させることはできない相談であろう。
 とんだブラック・ジョークとなってしまったが、しかし考えてみると、この類の非合理は現にありそうだから始末に負えない。「政治とカネ問題」やら「天下り規制問題」などというかたちで、「お手盛り」の検討が黙認されているような現状が、まさにそれなのである。猫にかつお節を盗まない方法を検討させているようなものであろう。

 年毎に猛暑がエスカレートしているのは、地球温暖化現象を主たる原因としているのであろうが、今ひとつ小さくない原因として、バカバカしい社会的非合理を見せつけられてカッカとしている庶民の憤りの熱の、その累積もあるのかもしれない。真夏の夜の悪夢…… (2007.08.11)


 自宅に居てもこの猛暑の直撃を受けるだけなので、今日は事務所へと「避難」することとした。とともに、何がしか、現在の心境が求めるところでもあった。
 以前はよく休日に事務所で過ごしたものである。誰もいなくて静かな休日の事務所は、落ち着いてものを考えたり、作業に集中するには持って来いだからである。
 振り返ってみると、現在のように経済環境が激変してゆく時代でなくとも、独立自営の会社というものは、先のこと先のことに思いを巡らせないとやってゆけない。そしてそれを担う主たる役割りは、やはり全責任を負う社長を措いてないはずだ。
 そんな事情から、大したことはできず仕舞いに来ているが、いろいろと思いを巡らせたり、下手な考えを繰り返すことだけはやり続けてきたかと思う。そして、今後も、少なくとも内心においてはエンドレスとならざるを得ない。こんな心境で、何かと試行錯誤する時間の過ごせるのが、静かな休日の事務所だということになるわけだ。

 現在、何らかのかたちで企業経営に係わる者は、方向性が見定まらず、それでいて変化のスピードだけが速い時代環境の中にあって、正直言って右往左往しているというのが実態であるのかもしれない。
 従来どおりの領域で、従来どおりのやり方をしているならば、経営結果はジリ貧、もしくは行き詰まりしかあり得ないというのが一般的見解ではなかろうか。
 株取引の実情でもその傾向が顕著に表れているようだ。持続して株を保有していれば、時間経過がバリュー・アップを達成してくれて、利益が積み重なった時代とはまるで異なり始めている。
 先週来、サブプライム・ローン焦付き問題に端を発した世界同時株安にしても、どうも一過性の出来事とは言い切れない深刻さが見え隠れしている。言う人に言わせれば、ここ数年来、表向きは過激な積み上げゲームを成し遂げてきたかのように見える米国株式および米国経済が、下降してゆく終わりの始まりだそうだ。「持続し続ける」ということが、事ほど左様に困難となりつつあるのが現代の大きな特徴のようである。

 まさに、「持続し続ける」という課題が、並大抵ではない難しい関門として立ち現れていることになる。
 言い方を替えるならば、今現在、課題となっている「持続し続ける」ということの中味は、決して従来のような「同じことを、同じように」というケースではなくなっているに違いない。
 さらに、やり方の「改良」というような次元でもなくなっていそうだし、「同じこと」を乗り越えるという方策にしても単にその周辺領域に心持ちシフトするという程度のものでも奏効しないのかもしれない。名だたる老舗的な経営体が行き詰まっている現状は、事態の深刻さを伝えているようでもある。
 いや、そこまで悲観的になってはいけないのかもしれないが、要するに、環境変化を十分に咀嚼した上での「持続し続ける」ということでなければならないということなのであろう。
 こうなってくると、「持続し続ける」ものは何か、と問う必要が生まれてくるようだ。ひょっとしたら、ある場合には、従来その企業が「売り」としていた目玉は継続させようがなく、むしろ「潜在的なとあるもの」に焦点を当て直してそれをこそ「持続し続ける」ものとして再評価することになるケースも出てくるのかもしれない。それによって、企業体自体が「持続し続ける」ことが可能となるならば、それはそれで良いはずだろう。

 いずれにしても、「持続し続ける」という言葉やその課題から、単なる繰り返しといった「惰性的」要素が払拭されなければならないということなのだろう。
 しかし、職業や企業活動とは、言うまでもなく一方では「習熟度」という同じ事の繰り返しに根ざした要素を基調資源とせざるを得ない。だからこれを一方で維持しつつ、他方でそこから「惰性的」要素を潰していかなければならないことになる。これが、ニュー・ビジネスの二律背反的な難しさだということなのだろう…… (2007.08.12)


 先日、シルヴェスター・スタローンのひとつの代表作『ランボー』(1982年)がTVで再々々(?)放映されていた。要するにアクションものだと言ってしまえばそれまでであるが、社会から疎外されたベトナム帰還兵の悪夢という点では、相変わらず何がしかを考えさせないではおかない。
 ベトナム帰還兵の悲劇は古くて新しい問題だと思える。自分の意思に関係なく、国家の「エゴイズム」によって戦場に駆り出された挙句に、殺人を強制され、人間的感性をズタズタに引き裂かれてしまう。そして、幸いにも帰還できたとしても、大義名分が成り立たない戦争への加担者たちは避難されたり、白い目で見られることになる。当人たちにしてみれば、割に合わないことこの上ないはずである。
 「お国のために」戦ったのだから……、と言おうとしているのではない。戦死者、帰還兵たちへの憐憫が生じるのは当然のことではある。だが、関心の焦点を合わせるべきは、そうした戦争を強行した国家の誤った判断であろう。
 この、国家による誤った選択により、無数の国民兵士たちの命が使い捨てとされ、さらに帰還兵においても、その多くが今で言う「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」( なお、この<PTSD>という言葉は、ベトナム戦争で極限を超える悲惨な体験をした兵隊の精神的後遺症が、1970年代にアメリカで大きな問題になったことによって生まれたそうだ )へと突き落とされたのであった。もちろん、膨大な数のベトナム戦死者が発生していたことも忘れられない。
 ベトナム戦争が終結した後にも、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争などと、悲劇は繰り返され、現時点でも「対テロ」戦争が終結していない。したがって、戦死者および<PTSD>をはじめとする精神の荒廃・錯乱状況が再生産され続けていることになる。

 ところで、悲惨な「精神の荒廃・錯乱状況」は、人殺しを強いる戦争こそが大規模に発生させるものであるが、それでは、「非戦争」状況にあってはまったく無縁であるのだろうか。そんな疑問が沸々と湧いてしまうのが昨今なのである。
 今、この国の現在を「非戦争」状況だと書いたわけだが、必ずしもそう言い切ってしまうことにも問題があるのかもしれない。かつて、交通事故死が跡を絶たなかった頃、その状況をマス・メディアは「交通戦争」だと呼んだことがあった。また、「受験戦争」という言葉が使われたこともあった。これらは、言うまでもなく本来の戦争とは区別されるべきであろう。
 しかし、構造改革路線=グローバリズムの経済へと舵取られた以降の、この国の社会環境は、限りなく戦争状況に近づいているかのように見える。戦死者の代わりに年に3万人以上の自殺者(経済的原因が高比率を占める)が出ているし、負傷者にも例えられる鬱病もみるみると広がっている。

 その上、気になるのは、まるで戦火のように過激なこの弱肉強食環境にあって、直接・間接的に人々の精神状態は慢性的不安を核にした、かなり重度なストレス障害に陥らされているのではないかと感じるのだ。
 相変わらず無惨なドメスティック・バイオレンスは跡を絶たないし、身近な者同士での衝動的な殺人事件も頻発している。これらを、それぞれに個別な特殊事情があると言って済ますことは簡単である。
 しかし、事件の当事者間に、殺人事件に至るほどの憎悪や遺恨が本当にあったのかどうかが、甚だ疑問なのである。
 青少年たちの事件の際には、一頃、手を下す相手は「誰でもよかった」と聞くことが多かった。ここには、犯行動機の「非」個人性、つまり、社会的環境の中で鬱積してしまった原因感情が、手近な者に向けられるという、とてつもない悲劇が発生しているのだと考えられるわけなのである。
 仮に、わけのわからぬ人間たちから小突き回されている犬が、我が子を噛み殺したり、可愛がってくれる子どもにも噛み付いたとしたら、どんなに悲惨なことであろうか。だが、この悲惨な関係が、現在のこの国の社会では大規模に展開されているかのように見えてならない。
 本来、社会側が背負って当然の負荷が、ただでさえ過激な競争社会の中でよれよれとなっている庶民、国民に転嫁されている。また、将来の生活展望をも封じるような国政のあり方は、庶民、国民のストレスを何倍にも増幅させている。年金問題に憤った国民は、国による処理手続きの杜撰さに目を向けたのではなく、国が庶民、国民の将来生活に対して冷淡であり過ぎることに気づいたはずなのである。

 あんなに強靭と見えた横綱・朝青龍でさえ、遭遇する状況によっては予想外の反応を示してしまうのが、それが脳と心を持つ人間なのであろう。
 横綱・朝青龍ほどに恵まれた条件を持っている庶民、国民がどれほど存在するというのであろうか。おそらく今、人々は「臨界点」を迎えつつ日々過ごしているに違いなかろう。ただ鬱積した「負の感情」の持って行きどころの無さに悶々としているようだ。近親者との些細な内輪揉め、しかもそれが大きな悲劇となる場合が多々あるわけだが、そんなことで身をかわしているような、そんな下劣な政治を続けていてどうする…… (2007.08.13)


 「特許」とは行かないまでも、こんなものは「実用新案」にならないだろうか、と考えたことが、過去時々あった。一時期は、そんなアイディアを丹念に記録したこともあった。
 だが、どうもホンキにはなれず、"頭の体操"程度の位置づけしかしてこなかった。だからろくなモノしか発案できない状態でもあった。悪循環である。
 だが、こんな時代において、"犬死"しない経済活動といったら、やはり何がしかの「知的財産」作りに接近しなければ話にならないようだと、偉そうな"妄想"を抱くようになった。だが、そもそもソフトウェアに関心を示したのも、「知」によって社会に役立つのならば、しかもそれで報酬が得られれば、自分たちには最も適していると目星をつけたからだったはずでもある。

 まあ、そんなことは措くとして、「特許・実用新案」についてだが、こうしたジャンルで手ごたえのあることをしようとするならば、アイディア発案だけに関心を向けていても埒があかないということになる。
 つまり、アイディアをアイディアのレベルに止めずに、かなりの程度"具体性"のある形へと詰め寄って行かなければ、何の意味もなくなってしまうということだ。しかも、アイディア倒れ的なそんなことを続けていると、ただただ虚しくなり、アイディア発案自体のポテンシャリティが摩滅していくということにもなりかねない。
 そこで、何をどうすべきかということになるが、自分のアイディアが本当にオリジナリティのある独創的なものかどうかを確認すること、これが大前提だと思われる。すでに、同じようなことを考え終えている人がいたならば、致し方ないわけである。他人が踏み荒らし、竿を投じた釣り場というものは、よほどのことがない限り釣果は見込めないものである。
 だが、幸いにも"前人未踏"の状態にある水場は、場合によれば"入れ食い"というラッキーに結びつくことさえあり得るわけだ。つまり、まだその案件については、誰も思い至っていないようなアイディアであったなら、それを煮詰めて行くにも自ずから熱が入ろうというものではなかろうか。

 能書きはさておき、それでは実際どうすればいいのかである。ここでこそ、現在のインターネット環境が駆使されていいのである。
 かねてより、特許・実用新案の登録情報についての"ネット検索"が可能となっていたことは聞いていた。が、実はそれを試してみることはなかった。迂闊であった。
 つい最近、何気なくそれを試してみる機会があったのだが、これは以外と役に立ちそうだとの感触を得た。
"Google"検索も悪くはないが、"特許電子図書館サービス"( 独立行政法人「工業所有権総合情報館」 http://www.inpit.go.jp/info/ipdl/service/index.html )は、自作のアイディアを評価するフィルターとしては最適なサイトなのであった。

 実際、自分は、先頃思いついたとあるアイディアについて、検証すべく、キーワード入力を重ねて確かめてみたのであった。まあ、そのアイディアについてはさほど思い入れをしていたわけではなく、気の利いた人ならば思い付いていることだろうとは推測していたのだが、案の定、当該家電メーカーのとある人物がすでに登録していた。
 こうした情報があれば、残念は残念であったにせよ、もはや無意味な期待感を持っていつまでもこだわる必要がなくなるわけである。それが、ある意味で"生産的"だとも言えるわけだ。
 せっかく、こうした便利な環境があるのだから、せいぜい活用させてもらいたいものだと、ちょっしたホクホク気分となっている…… (2007.08.14)


「いらっしゃ〜い、いらっしゃ〜い! みんな、いらっしゃ〜い! やすいですから〜、いらっしゃ〜い! 」
 昼の弁当を買いに行った時のことである。
 自動ドアで仕切られた店内は、戸外の猛暑を遮り、クーラーの涼しさが客たちに一息つける安堵感を与えているようだった。安堵感を得ていたのは、客たちとともに、店内に並べられたポリケース入りの各種弁当や惣菜たちもそうであったかもしれない。戸外の高温に曝されたならばすぐに傷んでしまうに違いない。
 お店屋さんごっこの即興をしていたのは、3〜4歳の男の子である。若い母親たちと一緒であった。
 その子は、プラスチックのトレイを腹の前に抱えている。そのトレイの上には、この店特有の大きなおにぎりが二つ乗っかっていた。海苔で包まれたおにぎりは、ラップで包まれ、そこそこ重そうに見えた。
 そうした格好で、その子は「いらっしゃ〜い、いらっしゃ〜い! 」と叫びながら、店内を行き来していたのだった。
 彼の頭の中では、どんな光景が思い起こされていたのであろうか。駅弁売りのおじさんの姿であろうか……。しかし、「やすいですから〜」とか言っているのは、安売り店での別の光景が入り混じっているのかもしれない。いや、まあそんな具体的なことは彼にとってはこの際どうでもいいに違いない。買ってもらうことになった海苔巻きおにぎり二つの充実感ある重さが、気持ちを豊かにさせていたはずだし、ちょいと思い付いたお店屋さんごっこが、結構楽しいに違いないので、その雰囲気が維持される振る舞いであるのならばそれでよかったのだろう。子どもとは、自身の想像力で、いかようにも現実をカバーしてしまうそんな存在なのだ。

 子どものそんな仕草を見ていて、ほっ、とさせられたものであった。子どもはいいなあ、としみじみ思ってしまった。
 その意味は、子どもたちがいるからこの世界は闇夜とならずに済んでいるのだということだったかもしれない。また、子どもたちが何の屈託もないように振舞えるのは羨ましいなあ、という意味であったかもしれない。
 そう言えば、こんな感覚について、「笑える光景」という今風な言い方で表現していたことがつい最近あったことにふと気づいた。一昨日、おふくろのところで盆の迎え火を焚いた時のことであった。
 姪っ子たちも子どもを連れて集まって来た。その中に、まだ十分に話せない幼児もまざっていた。その子は、自分の背丈ほどの高さの、盆向けに設われる回り灯篭が気に入ったらしい。傍に寄っては、やや前かがみ加減となって提灯に顔を近づけ、中を覗き込んでいたのだ。灯りの中心部で回る、魚などを色とりどりに描いたセルロイドか何かの部分が気になっているようなのである。そして、急に、ニコッと笑って納得したかのように提灯から顔を離す。と、また顔を近づけて覗き込み、再びニコッと笑う。この独り作業を懲りずに何回も繰り返していたのであった。
 集まっていた者たちは、そのあどけない光景をみんなで微笑ましく思わざるを得なかった。その時のことである。その子の母親である姪っ子は、
「この子は、しばしば『笑える光景』を作るのよね」
と表現していたのだった。

 「何々って、意外と『笑える』んだよね」
という、昨今の若い世代がよく使う物言いのことなのである。正直言って、あまり絶賛したい表現法ではない。自分でおかしいと感じたら、他人のことなんか気にせずに笑えばいいんだよ、とそう力(りき)んでみたくもなったりするわけだ。
 と同時に、主観本位というか自然に「笑う」ことを、「笑える」というような、まるで何か別な基準を意識しているかのようなニュアンスが、昨今の人間関係のある種の特徴を言い当てているようであり、ナルホドなあ、と思ったりもするのである。
 しかしながら、子どもたちのあどけなく、唯我独尊的でもある自然な仕草というものだけは、自然で上質な「笑い」を誘い、それについては誰も文句が言えないかのようである…… (2007.08.15)


 上がってほしくない気温が"異常高騰"で、下がってほしくない株価が、こちらも"異常な程の暴落"ぶり。おまけに、早朝から"地震"(千葉県東海沖?)があり、ただでさえ深からぬ眠りが乱される始末。何ともはや、といったところだ。

<関東地方の酷暑続く、東京・練馬で38.7度
 関東地方は16日も強い勢力の太平洋高気圧に覆われ、厳しい暑さに見舞われた。各地の気温は午前中から35度を超えて猛暑日に。東京・練馬では午前11時過ぎに38.7度と8月の観測史上最高を記録したほか、正午には埼玉・熊谷で39.2度、東京都心は36.5度を記録した。
 連日の猛暑で地面が温められているため、この日未明の東京の最低気温は29.4度と観測史上2番目に高かった。最高気温は熊谷40度、前橋39度、東京都心37度などと予想している。
 気象庁は「高気圧の勢力は16日がピーク。17日には北日本から前線が南下するため、暑さは少し和らぐ見通し」としている。(14:00)>( NIKKEI NET(日経ネット)2007.07.16 )

 異常ぶりといえば、<岐阜・多治見で40.9度・74年ぶりに記録更新>(同上)とのことだから、地球温暖化現象にせよ、「ラニーニャ現象」にせよ、いよいよ"待ったなし"という切迫状況を生み出しているようだ。

 株価暴落の方も、いよいよ"危うい空気"を醸成し始めたかのようだ。
 米国の"サブプライムローン"焦げ付き問題に端を発する"信用収縮懸念・信用不安"は、金融グローバル化のこんな時代ゆえに、あっという間に国際的に広がってしまっているようだ。各国の政府筋金融機関が、市場の過剰不安を沈静緩和させる措置として市場への流通資金を多額に供給しているらしいが、どうも奏効していない気配もありそうだ。

<日経平均大幅続落、終値は327円安の1万6148円
 16日の東京株式市場で日経平均株価は大幅に続落。終値は前日比327円12銭(1.99%)安の1万6148円49銭で、連日で年初来安値を更新した。2006年11月29日(1万6076円20銭)以来の安い水準となる。世界的な信用不安問題がくすぶるなか、15日の米株式相場が大きく下げたこともあり、朝方から幅広い銘柄に売りが加速、全面安の展開となった。後場寄り付き直後には円高進行も嫌気されて一段と下げ足を速め、1万6000円の大台を割り込み、下げ幅は600円を超える場面もあった。東証株価指数(TOPIX)も大幅に続落し、連日の年初来安値。
 米国の信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)問題に端を発した、株式市場から資金を引き揚げる動きが止まらない。……>(同上)

 米国の"サブプライムローン"焦げ付き問題が現時点でどのような事態にあるのかが今ひとつ伝わってこないが、これから本格的に、低所得債務者たちに"リセット的な契約金利高"が訪れ始めるとも聞くと、火種は決して小さくはないようにも思われる。

<日経平均は1万4000円、ダウは1万1000ドル程度まで下げる可能性もある。>(東京 16日 ロイター)
という推測が片方にあり、また
<信用収縮懸念は欧州の方が大きくなってきており、企業業績が悪くない日本株が一番下げているというのは行き過ぎだと言える。
 中長期的なレンジの下値は1万6500円との見方を依然、変えておらず、足元の下落はきょう、あす中にいったん底打ちすると期待している。>(東京 16日 ロイター)
との観測もある。
 もちろん、定かには予測できないわけだが、後者の"楽観観測"においても、<いったん底打ちすると期待している>と結んでいるところをみると、まだまだ"底打ち"は先の話なのではなかろうか。
 現状、自分自身は危うい"ポジショニング"をしていないため、個人的には涼しい顔をしていられるが、こうした一連の"収縮傾向"(=金融バブルの終焉)が、ただでさえ"不機嫌"この上ない時代環境を一体どこへ引っ張っていくのかと、それが気掛かりになる…… (2007.08.16)


 まるで "バーゲンセール" か "投売りダンピング" かのような様相であった。今日の "東証株価" の推移のことである。

<日経平均、急落・終値874円安の1万5273円
 17日の東京株式市場で、日経平均株価は大幅続落。大引けは前日比874円81銭(5.42%)安の1万5273円68銭となり、3日連続で年初来安値を更新した。下げ幅は今年最大を記録し、2000年4月17日以来の大きな下げ幅となった。外国為替市場で急ピッチな円高・ドル安が進行、水準が企業の想定為替レートを上回り、業績の上方修正期待がはげ落ちるとの見方から、幅広い銘柄が売られた。海外のヘッジファンドが解約に伴う換金売りを引き続き進めているとの声も出ていた。
 午後に入って堅調だった金融株も下げに転じ、下げ幅はさらに拡大。信用取引の追加証拠金(追い証)が必要になった個人投資家の売りも誘った。……>( NIKKEI NET 2007/08/17 15:19 )

 うかうかすれば、その "安さ" に惹かれて思わず手を出してもみたくなるような "下げっぷりの良さ" でもあった。しかし、もちろん、こんな得体の知れない状況で手を染めることは禁物である。来週の週明け市場では、いわゆる "V字回復" をするなんぞという、これまでにあったようなイージーな期待感を抱く者もいないではなかったかもしれないが、実は、今回ばかりはそうではないような気がしてならなかった。
 どうも、現時点での "日本株" が置かれた国際的なポジションは、とんでもなく "ヤバイ" ように思われるのだ。
 問題は、米国株の暴落やその原因である信用不安・信用収縮の問題だけではない。輸出に大きく依存する企業群によってリードされる "日本株" にとっては、 "円" の為替レートがそのまま企業業績と株価評価につながる。だから、 "円高" 傾向へと振れると、途端に "日本株" は売り込まれてしまい "下げ" に転じるわけだ。

 この仕組みそのものには何の変哲もないのだが、困った問題は、現状の "円" の "金利" が国際的にみて低い状態に留まっていることなのである。
 このこと(低金利)から、昨今しばしば目にする "円キャリー取引" (<円資金を借入れて様々な取引を行うことを指す。国際的にみて低金利である円を借入れて、円を売ってより高い利回りとなる外国の通貨、あるいは外国の通貨建ての株式、債券などで運用して「利ざや」を稼ぐ行為は、円キャリー取引と呼ばれている。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)が、国際的に行われているようだ。
 これが加熱し、歯車が狂うと一気に、 "円高" 傾向が強まることになるが、米国をはじめとする株価の暴落は、これを刺激した結果となった。
 つまり、世界的な株安現象は、それだけでも "日本株" を引き下げる要因になっているのに加えて、 "国際的同時株安" ⇒ "円キャリー取引優勢下での突然の解消" ⇒ "円高傾向" ⇒ "輸出依存企業の業績悪化" というマイナス因果連関を作動させて、 "日本株" の立場をさらに悪化させるのである。

 今回の事態の推移の過程で、マーケットアナリストたちが、しばしば口にしていたのは、日本の企業のファンダメンタルズ(経営基礎状況)は決して悪くはないので、こんなに株価が下がるのは "売られ過ぎ" だという点であった。
 しかし、いまさら何を言っているのかという思いがしたものである。というのも、現時点での株価一般は、とっくにファンダメンタルズなんぞから遊離してしまっているからである。極端に言えば、資金力にモノを言わせる "ヘッジファンド" の動向や、複合的な風評でガンガン動かされているからなのである。日本企業は "実力" がある(=ファンダメンタルズが悪くない)からどうこうと言うのは、プロらしからぬ愚痴としか聞こえないわけだ。
 問題は、それよりも、世界中の猛者たちに "円キャリー取引" を促すような "低金利の円" を長い間放置してきたところの、日本の "円" 管理機関(=日銀)の国際金融センスの無さこそが注視されていいのではなかろうか。
 日銀は、 "金利" に関しては、国内経済の発展を睨みながらコントロールしているのだろうが、グローバル環境において "円キャリー取引優勢" ⇒ "円相場の不安定傾向" なぞがしてやられていたのでは、結局、今回のような惨憺たる国内株価暴落を誘発させ、これが国内景気を狂わせる引き金になったりするのではないのか。

 今回の一連の株価大暴落で、国内の個人投資家たちは、再び、三度、手痛い被害を受けてしまったに違いなかろう。こうしたことが続けられているから、個人投資家たちもリタイアの傾向を辿り、そして国内証券会社各社も行き詰まり傾向となって来たのではなかろうか。
 グローバリズムだ、グローバリズムだと叫んでいる割りには、その方向で待ち受けているさまざまなリスクに対する危機管理体制が何もなされていないのが、この国の現状なのであろうか…… (2007.08.17)


 蝉の鳴き声が、今日は心細そうで、幾分わびしさに染まっているかのように受けとめられる。昨日までの "殺人的" な酷暑が影をひそめたからだ。決して涼しいというほどの気温低下でもないのだろうが過ごしやすさが実感できる。昨晩は強めの雷雨があり、そして今日は今朝から曇天ふうに曇って猛暑を退けている。
 「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の譬えがあるが、ヘンなもので確かに、昨日までの暑さは忘れかけてしまっているようだ。もうちょっと涼しくてもいいのかな、という欲張った感覚がものを言っているようである。
 しかし、蝉たちにしてみれば、まことに心細い限りなのであろう。昨日までのような暑さであれば、自分たちの命は永遠に続くといった強気な気分でいられたものを、今日のような夏の翳りを示されてしまうと、にわかに弱気とさせられてしまうものであろうか。
 現に、アスファルトに落ちて弱々しく喘ぐ "落ち蝉" を見かけることが増えてきた。見るに見かねて、歩道の植込みに移してやったりするが、再び羽ばたいて街路樹の木肌に舞い上がり鳴き続けるというわけにはいかないものだ……。

 別に "下ばかり見て" 歩いているわけでもないのだが、今朝は、ウォーキング中に "ケータイ" が落ちているのを見つけた。
 その "ケータイ" の機種タイプは自分が使っているものと同種に近かったため、持ち主の自宅にでも連絡してあげようと思い、操作してみた。が、どうもバッテリーが上がってしまっていることがわかった。場合によっては、昨夜の激しい雷雨に打たれて、故障している可能性もありそうかと懸念した。
 一瞬、どうしようか、と迷った。落とし主が探し回っているようであれば、歩道脇のフェンスにでも掛けておけば探し当てるのではないかとも考えた。また、昨今は、他人への不信感を強めている風潮もあることだし、たとえ親切心で落し物を届けてあげようとしても、見知らぬ者からの連絡をどう受けとめるであろうか……、という "消極的" な思いもないではなかった。
 が、とりあえず、機種タイプが自分のものとほぼ同じであることから自宅へ持ち帰れば充電を試すことはできるだろう、という思いが行動を促した。また、このまま放置しておいて、何らかの "悪意" を持つものが悪用しないとは言い切れないと警戒する思いもあった。

 自宅に戻り、充電ケーブルにその "ケータイ" を繋いで操作してみると、幸い、液晶画面は立ち上がってきた。昨夜の激しい雷雨に打たれていたようだが、内部への水の浸透はなかったようだ。
 とりあえず、持ち主の "電話帳" に値する部分をアクセスして開くことにした。すると、いくつかのアイテムが並んでいたが、 "自宅" というアイテムが見つかった。たぶん、そこには、持ち主本人の自宅の "据え置き電話" の番号が記されているのではないかとの見当だったのである。
 すると、まさに、わたしの家の市外局番と同じ局番ではじまる電話番号が一つ顔を出したのだった。これだこれだ、と合点して、自分はさっそくその番号にコールしてみたのである。
 当人が在宅かどうかはわからないにしても、家人の人くらいは居るだろうと思った。そして、 "ケータイ" を拾得した事情を話せば、話は通じるだろうと。

 電話に出た人は、歳のほどはわからないが比較的若い雰囲気の男性であった。事情は問題なく通じたのだが、リアクションが小さいためこちらから次のように訊ねることとなった。
「 "ケータイ" を無くされたことは気づいておられなかったのですか?」
 すると、相手は、
「ええ、まだ確認していないんです」
という、張り合いのない返答が返ってきた。
 自分は、心の中で、『ダメだ、こりゃ……』とつぶやいていたが、とにかく、預かっているので取りに来てほしいと伝えた。一応、その電話にて相手の名前を確認し、また来る際には身分を証明するものを持参してくださいという "役所" めいたことまで付け加えていた。

 その落とし主は、その後10分ほどでわが家の門扉の前に立つ段取にあいなった。自転車を走らせて来たようだった。
 小柄な男性は、礼儀正しく何度も挨拶をしている。わたしは、相手が示す "運転免許証" を念のためチェックさせてもらった。その上で、さらに念のため、無くした "ケータイ" の機種と、それに付属したストラップの特徴を言ってくださいと、 "半分ゲーム" めいたことまで口にしていた。
 男性は、億劫がる様子もなく言った。
「機種は、シャープのもので……、ストラップは……で、その先端に、イタリア旅行に行った時のお土産のメダル(サンタマリアコスメディン教会の入り口にある "真実の口" のこと)が付けてあります」
「ピンポーン、正解です。じゃあ、お渡しします」
と、自分は馬鹿げたセリフを口にしてその "ケータイ" を相手に手渡すのであった。

 その落とし主がどんな素性の人であるのかに自分は一切関心がなかった。もちろん、相手に連絡する際に調べたのも "電話帳" に関する部分のみであり、それ以外は一切覗くこともしなかった…… (2007.08.18)


 TVのとある時事問題番組で、現行の "世界同時株安" についてトークしているのを観た。その中で、元日銀関係者が "パネル" の図表で示していた事実が興味深かった。
 現在の経済状況を考察する上では、 "実業経済" と "金融経済" の双方を見なければならないという点は常識であろう。そして、昨今、 "金融経済" 部分が "肥大化" しているという点も概ね周知の事実だ。
 また、この "金融経済" 部分の "肥大化" が、現在の経済現象に特有の色彩を与えていることもよく知られている。しばしば出てくる言葉である "バブル" という非難めいた言葉も、こうした現代経済の特殊な趨勢に関係しているのであろう。

 ところで、前述した "パネル" の図表なのだが、それは右肩上がりの二本の折れ線グラフだったのである。縦軸が "生産額" で、横軸が "年代" であった。平行して右上がりとなって走っている下側のグラフは、 "実業経済" のみの "GDP" であったかと思う。そして、その上側を走るグラフは、 "金融経済" 部分を含む "GDP" だったのだろうと思われる。
  "ある年度"(1990年?) までは、二本のグラフはまさに平行したレールのように右肩上がりの推移を描いていた。ところが、その先からは、上側のグラフは相変わらず右肩上がりであるのに対して、下側の "実業経済" のみの "GDP"のグラフは下降し始めていたのである。
 つまり、 "実業経済" のみの "GDP" が減少し始めているにもかかわらず、 "金融経済" 部分の "GDP" の "肥大化" が、 "GDP" 全体を増大させているというわけなのである。
 これは、決して "経済のソフト化" という問題ではなかったはずである。つまり、 "実業経済" とは、いわゆる "モノ作り" の製造業だけのことではなく、 "サービス産業" や "情報産業" をも含んでいたものと解された。
 要するに、モノやサービスを介在させずに、貨幣関係だけが流通する経済行為である "金融経済" 部分が、 "実業経済" の低落傾向を補って余りある動きを如実に表していたということなのである。
 このことについては、いまさら注目したり驚いたりすべきことではないようにも思える。われわれは、昨今、日常的にビジネス実感、生活実感においても感じ取っていることだからである。 "モノ" に携わるよりも、 "金融" 的経済行為に携わる方が、 "効率的に" 財貨を増やすことができるかのような現実や仮想が、急速に一般化してきたようでもあるからだ。「カネ儲けは、悪いことですか」という開き直ったセリフが話題に上るのも、こうした環境変化がそうあらしめたはずであろう。

 今回、前述のようなグラフが目に止まったのは、やはり "問題含み" の傾向がジワジワと顕在化しているのだと感じざるを得なかったからなのである。
 まして、現在進行形の状態にある、米国の "サブプライムローン焦げ付き問題" というような "金融問題" の危機を知る時、金融領域が一人歩き、あるいは単独飛行するかのような経済現象は、やはり危険視せざるを得ないように思われるのだ。
  "投資" 経済と言えば聞こえはいいが、有り体に言うならば、 "カネ貸し" 経済、 "高利貸し" 経済、もっと言えば "マチ金" 経済以外ではないじゃないか……。
  "実業経済" と "金融経済" の双方のグラフが、平行関係を形成している分には、プラスの相互関係が生まれるとも見なせるが、 "金融経済" が "実業経済" を置き去りにしているかのような現行の関係は、 "破綻" (カタストロフィー)を、ただただ先送りにする手品か、魔術でしかないようにも思えるわけだ。
 と同時に、さまざまな社会的マイナス "副作用" を撒き散らかしているようにも見える。金融とは、蓄積された富だけがより大きな富を生むことを原理としている以上、富の "格差" (格差社会の過激化)を不可避的に拡大させて行くのではなかろうか…… (2007.08.19)


 今日も "猛暑" の夏日であった。ちなみに、今後どうなるのかと天気予報を調べてみると、少なくとも今月中は最高気温が "30度を超える" 毎日が続きそうだ。ただし、最低気温は "30度を割る" ようなのでその点だけは納得できる。せめて、夜だけでも暑さからは逃れたいものである。やがて来る秋めいた夜の涼しさが待ち遠しい。
 そう言えば、ようやく "トンボ" の姿を見かけ始めた。決して涼しくなったから出現し始めたのではなくて、日照時間の短縮が "時季到来" というスイッチとなっているのであろうか。(これは、確か去年も同じ事を書いた覚えがある……)
 日の出時刻も確実に遅くなり始めているようで、今日の日の出時刻は、午前5:03であったようだ。いつの間にか、5時台へと移行していたわけである。

 こうして "時間の流れ" は、大抵が "あっと言う間に" 過ぎ行くようだ。
 昨日も、お世話になった大学時代のゼミの教授が今年度いっぱいで停年退職だと知ることとなった。在学当時には赴任して間もない若い先生であり、幾分、兄貴というような雰囲気が無きにしも非ずであったその先生が、もはや停年退職ということだそうなのだ。
 自分自身も、まるで "滑る" がごとくに歳をとり、一般企業であれば来年で "打ち止め" となるはずなのだから、何の不思議もないわけだ。が、それにしても、自身の現在の心境を振り返るならば、『こんな歳になるほど、生きたかなぁ……』という思いがするというのが正直なところかもしれない。
 なんせ、来年は還暦を迎えようというのに、未だ、これといって "何をも悟らず" 、巷の若蔵たちと何ら変わらず、軽薄な世相に振り回されている、というのが実態である。まあ、そうした恥ずべき "体たらく" を多少とも自覚している点だけが、幾らかマシなのかと慰めている。

 それにしても、 "時の蓄積" なんぞには無関係であるかのように、あたかも平坦に "時間を流す" がごとき現代の世相、風潮を、うかうかと真に受けていたのではマズイなぁ、と感じる昨今である。
 何がマズイと言って、先ずは、時間というものが "無尽蔵" であるかのごとく吹聴している点がマズイと言うべきだろう。確か、 "文化" という存在には人間の "等身大" 的な、限られた時間(寿命や死によって制約を受けた一個体の時間)の問題が浸透していたのではなかろうか。
 ところが、 "文化" ではなくて "文明" という存在がわが物顔で幅を利かせるようになったことで、人間は、 "等身大" でしかあり得ない生(人生)を忘れて、無窮の時間軸で人類がどうのこうのと錯覚するようになったようである。
 人類について云々することは、一見、 "高尚な行為" であるかのようだ。しかし、そこに "高尚さ" があるとすれば、 "等身大" でしかあり得ない生(人生)がしっかりと自覚された上で、それを通して無窮の時間軸上の人類が云々される場合に限られるのではないかと考える。と言うのも、事実はそうでしかあり得ないからである。

 ところが、現代の文明は、とんでもない "カラクリ" を敢行していそうである。
  "無窮の人類、文明" というようなイメージを流布することで、 "等身大" でしかあり得ない生(人生)を忘れさせ、無窮の時間軸へと人々を誘い出す。もちろん、そこでは、 "個人の死や人生" なぞは、表立っては公言しないが、まるで取るに足らぬ偶発的な事柄であるかのような扱いを慣わしとし、少なくとも深く拘ることを忌避する。それを速やかに執り行うために、 "区切り" としての儀式(葬式仏教etc.)を一般的なものとする。
 確かに、 "個体" としての生に拘り続けるならば、 "類" としての生存は撹乱されることになりそうである。とすれば、こうした理由から選択されることになった "効率的" に生存するという方法、それが "文明" だということなのだろうか。
 こうした推移には、 "やむを得ない" という流れがありそうでもある。それは承認せざるを得ないかもしれぬ。しかし、そのことは、 "文明" の中に生きる個々人が、 "等身大" でしかあり得ない生(人生)を忘れていいということには決してならないのではなかろうか。と言うのも、この "忘却" や、無自覚化が、さながら底無し状態で人間という存在を "変質" させるとしか思えないからなのである。

  "いのち" というかけがえのない存在が、それとして感受・認識されなくなっている風潮は、あれやこれやの社会的、時代的条件の変化によって生じたものというよりも、 "現代文明" が持つ構造自体が、まるで汗のように滲み出させているもののように感じるのである。
 結構、柔軟度のある生きものである人間は、まだ "等身大" でしかあり得ない生(人生)を忘れさせられても、喘ぎながらも生き続ける現実であるが、片や、 "地球" という規模での限界を持たされた自然環境の方は、当然のことながら、無窮の時間軸なんぞといった幻想とは無縁に、なりふり構わぬ崩壊へと崩れ落ちつつあるのかもしれない。地球温暖化現象のことである…… (2007.08.20)


 横綱・朝青龍の "病状" が、 "ストレス障害" から "解離性障害" とかという難しい病名になってしまったようだ。先ずは、 "お大事に" と、そして "お気の毒に" と言っておこう。
 しかし、社会的責任(影響力)をも背負った公(おおやけ)の人間であるから、庶民としては、自由な感想を言わせてもらおう。「喝!」の一言、いや一喝以外ではない。あるいは、 "不快" そのものである。
  "国技・相撲道" が、 "心技体" の一体性を旨とするというような「タテマエ」からものを言うつもりはない。現在の横綱が、 "心技体" の一体性を備えているべきだなぞと、誰も考えてはいまい。まあ、そんなことはムリな時代環境であろう。
 だが、こんな時代であっても、いや、こんな時代環境であるからこそ、最低限 "死守" してもらわねばならない事があろう。
 それは、人々を勇気づけるところの説得力ある「強さ」なのである。それは、土俵上のみならず、真底苦境に立った時に、「さすが横綱!」だと人々を唸らせるような生き様をも含みたい。「こんなことでへこたれるなよ〜!」と庶民が、自身への応援をも込めて叫びたくなるような "ど根性" ぶりであって欲しいじゃないか。今の今、不遇な時代環境に遭遇している庶民は、絵に描いたような「強さ」もそうだが、何よりも "へこたれない勇気" ある姿が見たくて見たくてうずうずしているはずではないか。こうした庶民の願望は、自身がこの不遇さに耐えられるかどうかの瀬戸際にあるだけにより一層切実なのではなかろうか。
 あの時の、四面楚歌の状態にあった横綱が汚名挽回のために必死に稽古する姿が、ガン闘病生活の自分の大きな励みとなりました……、というようなケースは大いにありそうではないか。

 にもかかわらず、どんな事情が本人や、相撲協会に潜伏するのかは知らないが、冒頭のような "病名" の症状にはまってしまっている、というのは、実に情けない。いや、ほとんど "詐欺" のようでもある。病に入り込んだ者にとやかく言うのは、決して行儀の良いことではなさそうだが、 "国技・相撲道" のプロであるならば、こんな苦言をも甘受されたし、である。
 かつて聞いたことがあるが、プロレス選手たちの場合、闘う技の強さだけがプロの証しではなく、負傷に対する抵抗力や治癒力もまたプロの重要な資質なのだそうだ。さもありなん、である。「強さ」を売りとするプロは、攻撃力だけではなく、防御力と忍耐力のプロでもあるということだ。
 また、ヒーロー的なプロ力士であるならば、自分がそう位置づけられている "土俵" (社会的文脈)をしっかりと認識すべきであろう。ある意味では、凡人が持つ個人的立場なんぞは限りなく薄められているいるはずなのである。こんなことは、十代の芸能タレントでも心得ているのではなかろうか。

 今後、横綱・朝青龍がどんな経路を歩んでいくのかはわからない。というよりも、それについては、もはや興味はなくなってしまった。
 今日、こんなことを書いたのは、朝青龍や相撲協会がどうだこうだということよりも、実は、現代という時代環境から大いに失われつつあるかに見える "忍耐力" とか "精神力" とかを、この際、じっくりと考え直してみたいと感じたからなのである。
 と言っても "精神主義の復古" を想定しているわけではない。最近、目にした言葉で言うならば、「悩む力」(姜 尚中『知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 −夏目漱石 悩む力−』NHK番組)に近いかもしれない。現代とは、「悩む力」がスポイルされた時代とでも言えそうか…… (2007.08.21)


 やはり "絞込み" という観点に留意する必要があると痛感してしまう。
 それは "溢れる情報" 環境に対して漫然と目を向けるのではなく、自分自身の関心に沿って対象や事柄を "絞り込む" ということだ。そのためには、同時に、自身の "問題意識" をよりシャープなものとするという課題に対処すべきなのか……。
 特別に何かがあってそう思うというのではなく、日頃の自分自身のことを振り返ると、どうもそう感ぜざるを得ないのである。
 ネットからの様々な情報にしても、書籍にしても、そしてTVなどからのコンテンツ情報にしても、収集はするもののどうも手堅く "消化" し切れていないと思える。まあ、今に始まったことでもないと言えばそうであるが、やはり加齢に伴う "消化" 能力の低下も否めない。簡単な話が、 "まあいいか、今日はこのくらいにしておくか" といった集中力を放棄する頻度が、じわじわと高まっていそうだからか……。
 自身の体力、気力への過保護とも言えそうな警戒感が、幾分作用する気配が潜んでいたようである。が、このところ幸いにも健康問題で煩わされることがない。だから、こんな状態の時にこそ、格好をつけて言えば "気力主導" のスタンスを再構築すべきかと考えたりするのである。

 ところで、それにしても煮詰まった "情報化時代" の現代は、"溢れる情報"の、その度合いが著しい。そうであることの理由はいろいろと考えられよう。
 その一つの理由に、 "専門分化" で発展させられた知識・情報が、 "専門枠" を飛び越えて、あたかもボーダレスのかたちで、一般人の知識・情報欲の前に曝け出されるようになった状況が挙げられるのかもしれない。その前提には、インターネットを初めとする安価なメディア環境があるのだろうし、知識・情報の貪欲な "商品化" を推進させる市場環境が横たわっているのだろうと思われる。
 あくまでも、ちなみにということだが、先日やや意表を突かれたのは、 "人体解剖" の公開プロセスをリアルに撮影したDVDまでが "市販" されているという事実である。海外で制作されたもので、あの "養老孟司" 氏が監修しているようだった。もちろん、医学生向けの教材的位置づけのようだが、だからといって興味本位の購入者を拒むものでもなさそうである。つまり、誰でも入手可能だということだ。自分の場合、その後食事ができなくなるとマズイと思い、それからは遠ざかることとした。
 これに類するかもしれない意表を突く "情報商品" は、ほかにいくらでも枚挙のいとまがなさそうである。ミサイルの製造法さえ、インターネットのトンネルには潜んでいるとも言われる。

 要するに、煮詰まった "情報化時代" の現代にあっては、 "支払い能力" を伴ってその気になりさえすれば、どんな情報でも入手可能だ、と言っても過言ではなさそうな情報環境が広がっているわけである。
 これを、 "ディスクロージャー(情報公開)" という視点に沿って評価することも可能だろうとは思われる。
 また、逆に、その環境の悪用をも含めて、不適当な立場(例えば、未成年etc.)の者がもたらすかもしれない不祥事などを注意深く視野に入れ、警戒することもできる。
 これらはそれぞれ注意深く吟味すべきテーマであるが、今ひとつ留意すべきかと思われる一般的な問題がありそうだ。それが、今日、関心を向けた問題なのである。
 まあ、簡単に言ってしまえば、 "溢れる情報" という状態が一般的となっている現代にあって、知識・情報をどう咀嚼するのか、という課題なのである。
 これはちょうど、 "溢れる商品" が繰り広げられた現代にあって、 "衝動買い" をせずに自身にとって有効なショッピングをどう進めるか、という課題と酷似していそうな気がするのである。 "衝動買い" してしまったモノは、後々いろいろな意味で煩わしさと損失とを自覚させることになるが、 "衝動買い" 的にアプローチした知識・情報というものもまた、同じ結果を招くものと思われるのである。いや、むしろ損失に関しては、おカネというよりも費やされた時間という点を考えれば、決して小さくはないかもしれない。
 わかりやすい例を挙げるならば、学生が、自分の "専攻" 進路を誤るといった場合である。 "専攻" というのは、集中的に知識・情報を入手、習得することなのであるから、そこでの "衝動買い" 的アプローチは結構悲惨なことになるはずであろう。

 現代における知識・情報の入手や習得については、「有れば有ったに越したことはない」と安直に言うには、若干重過ぎる事柄であるのかもしれない。それほどに、現代にあっては、そこそこの知識・情報というものが、それぞれ根の深い "専門性" を引き摺っているということなのかもしれない。
 まあ、通り一遍のレベルでアプローチするという方法もあろうが、それで果たして何になるのかと考えてしまうと興醒めとなりそうだ。
 とするならば、どうすればいいのだろうか。
 知識・情報へのアプローチにおいて、自身の "関心事" や "問題意識" をよりシャープなものとしておくという課題こそが、より有効でありそうに思えるのだが、しかし、これはこれでまた難物のようである。むしろ、これが最大の問題事であるのかもしれぬ。
 煮詰まった "情報化時代" の現代とは、自身の外側の世界の情報は益々豊饒で緻密となって行くのに対して、自身の内部は、何とも手応えがなく頼りない空間となって行く構図なのだろうか。 "確かなもの" が自己の外部に蓄積されて行き、自己の内部は "不確かなもの" で充満して行く、という…… (2007.08.22)


 「無いものねだり」をしてはいけないと、ふと思った。
 昨今は、とかく "IT" に無理難題を押しつけようとする悪い風潮がはびこっている。いや、そろそろ "IT" も妙に神がかったヴェールが剥がされ、できることとできないこととがありそうだと了解され始めているのかもしれない。
 しかし、それでもなお "IT" に過剰な期待を寄せ、 "IT" に「無いものねだり」的な無理難題を押しつけようとする誤った傾向が無くもない。

 もともと、 "IT" が "生産性" の向上に大いに役立つという見解は、一見、頷けそうではあるものの、実はこれまでの過去、これに関する正式な検証がなされたと聞いたことがない。
 米国における"IT" バブル時に、盛んに「 "IT" 導入= "生産性" の向上」という謳い文句が飛び交ったことはあるが、これとて、検証された事実が述べられたというよりも、 "IT" 産業の活性化や、一般企業の設備投資を促進させるために叫ばれた "販促" スローガンレベルの出来事ではなかったか。
 一般的な憶測では、 "IT" の活用は、製造工程のみならず非製造部門においても作業効率をアップさせて、 "生産性" を向上させるのではないかと見なされる。
 しかし、厳密に "生産性" の向上を計測するためには、 "IT" なら "IT" が導入された場合とそうでない場合とが、あらゆる角度から比較されなければならないはずだ。もちろん、トータルなコストの比較も吟味されなければならない。
 その際、優れた "IT" 装置、機器やその全体システムのコストが、決して半端ではないことが先ず注目されていい。しばしば言われるように、こうした超高額な装置が、いわゆる "モト" を取るまでにはそこそこの期間が必要となるほどなのである。だから、こうした導入が、しっかりと "生産性" の向上につながる製造業種は自ずから限られてくる、と言えるわけだ。

 まして、非製造業・部門で、 "IT" の活用によって "生産性" の向上という結果を出すのは、かなり至難の技だと思える。というのも、非製造業・部門のいわゆるホワイトカラー的業務や作業というのは、簡単に言えば "判断" 業務が多数潜伏しており、こうした仕事のかたまりは、コンピュータやITが必ずしも得意とする対象ではないからなのである。
 実際、その種の "判断" 業務に習熟したスタッフの給与総額と、それを丸々肩代わりすると目される高額なITシステムのイニシアル・コスト、ランニング・コストの総額とを較べて、後者の方が歴然として "生産性" が高い、と言える事例はどれほど存在するのであろうか。かなり危なっかしい実情が横たわっているのではないかと類推する。
 しかも、業務に習熟した人材中心で構成された企業組織には、それ特有の良さが息づいているものだ。 "OJT" というような仕事と教育、しかも "マンツーマン" の教育といった一体関係が職場を構成していたり、企業文化が活性化されていたり……。
 まあ、ITが豊富に導入されている職場であっても、そうした従来の企業組織の長所を継承し発展させることは不可能ではなかろう。しかし、残念ながら実情はそうではないケースが多い。
 なぜならば、 "IT" の導入や活用の動機が、どうしても過剰な "効率化" や、性急な "生産性" の向上が求められているところから、 "IT" の導入= "リストラ推進" ということになりがちであり、その結果、漸次強まってゆく "リストラ推進" の企業内動向は、職場の空気を "生産性" 向上とは相反するものへと変えてしまうことにもなりかねないからである。昨今では、増え続ける職場の "うつ病" 職員という悲惨な傾向のひとつの原因に、職場の "IT" 環境化を名指しする者すらいるくらいだ。
  "リストラ推進" がいかに企業組織を不安定なものとし、その "生産性" を揺るがすのかについては、多くの事例がありそうだ。最近の例では、<サムスン電子の大規模リストラ、本当の危機は人材管理>という記事が目につく。

< サムスングループが大規模なリストラに乗り出した。日本でも大きく報道されているように、サムスン電子の4―6月期の営業利益が5年ぶりに1兆ウォン(約1300億円)を下回ったが、収益悪化自体は半導体価格の下落やウォン高などで想定された範囲内で、一時的な不振との捉え方が多い。むしろ韓国のメディアの関心を集めているのは、11年ぶりに実施されているサムスン電子への税務調査や、希望退職という名目で進められている人員削減、役員の世代交代といった一連の動きだ。……
 韓国の新聞やマスコミのほとんどが「サムスン電子の不振は組織管理が原因」という分析記事を連載している。……
 社員たちに話を聞くと、仕事も会社の雰囲気も1998年のIMF経済危機よりひどいというほどきつく締め付けられているらしく、自分で辞めていく社員も増えている。……
 サムスンに入社するため数々の試験と競争に生き残った人たちだ。この優秀な人材がサムスンの中で一生リストラの恐怖なく仕事ができるようにしてあげることができれば、業績回復につながるのではないだろうか。「創造経営」よりも心理的に安心して働ける環境を提供する経営が大事ではないだろうか。社員を「馬」としか思わない会社は長続きしない。その失敗の代表例がサムスン電子にならないといいのだが。>( it.nikkei.co.jp 2007年8月7日 )

 かと思うと、相も変わらぬ "官僚の作文路線" がまかり通ってもいる。

<「非製造業の生産性向上、成長持続のカギ」・07年度経済財政白書
 大田弘子経済財政担当相は7日の閣議に2007年度の年次経済財政報告書(経済財政白書)を提出した。白書は「経済成長の持続が今後の最も重要な課題で、生産性向上がカギとなる」とし、少子高齢化で人口が減る中では、1人ひとりの生産性を高める必要があると訴えた。……
 白書の副題は「生産性上昇に向けた挑戦」。安倍晋三政権は今後5年間で労働生産性の上昇率を5割高める目標を掲げており、白書はその実現に向けた企業の取り組みを分析した。
 企業の間に広がっているM&A(合併・買収)を例にあげ、これまでは費用節約といったリストラ効果ばかりが重視され、付加価値は必ずしも高まっていないと指摘。経営資源の組み替えなど生産性の改善を視野に入れたM&A活用の余地があるとした。また、IT(情報技術)の活用や技術革新のための人材育成などで戦略的に生産性を高める重要性も唱えた。>( markets.nikkei.co.jp 2007/08/07 )

 まさに、ああすればヨカロウ、こうすればヨカロウという "ヨカロウ(与太郎)話" の域を出ないものと見た。 "生産性向上" を、 "IT" に求め、 "M&A" に求めるというその軽佻浮薄なロジックは、一体誰が創案したのであろうか。
 むしろ、わたしは、全く逆に、 "IT" や "M&A" という時代風潮で蹴散らされてきた "ヒューマンな要素、事象" をとにかく復元させていくことこそが、 "非製造業の生産性向上" 策の決め手なのではないかと睨んでいる…… (2007.08.23)


 きわめて "イメージ的なレベルのこと" を書こうとしている。いや、これは今日に限ったことではなさそうだ。自分が日ごとここに書くことは、いつもそうしたレベルの "思い" でしかない。 "思いつき" とまで卑下しないのは、誰であっても、自分自身の "思い" というものを書き留めようとするならば、煮詰まっていないのは当然のことであろう。それを "思いつき" だとして非難するならば、自身で考えることやそれを表現することを "封殺" することに等しいと思われるからである。
 ことのついでにこの点について続けるならば、ひょっとしたら、現在の社会風潮、時代風潮の中には、こうした "封殺" の傾向が蔓延っているのかもしれない。つまり、個人としての "生煮え" の "思い" に関しては、口にしてはいけない、極端に言えば考えてはいけないというような "空気" のことなのである。
 そんな "空気" なぞは、この "表現の自由" の時代にあるはずがない、という向きもあろうかと思う。そうであれば、幸いだと思う。そうであるなら、もっと、個々人が自分なりの "創発的" な 思いや考えを披露して然るべきだと思われる。そして、単に表面的な差異でしかないような "個性もどき" を振り回さず、額面どおりの個性を突き詰めればいい、と思える。どうもこの辺の盛り上がりは、さほど芳しい実情だとは思えないからなのである。
 盛んに言葉としては宙を舞う "創造性" にしたって、あるいは昨日の話題の "生産性" の向上にしても、実は、元を正せば、諸個人の "思いつき" にも似た "生煮え" の "思い" が原点となっているはずである。それが、芽を出し順調に育まれ、そして開花するに違いないわけだ。

 したがって、諸個人の "思いつき" にも似た "生煮え" の "思い" に、絶対に "北風" を浴びせてはならないはずである。逆に言うならば、 "北風" を浴びせるかのように、それらを "封殺" することほど簡単でラクなことはないのだ。 "生煮え" で、弱々しく、かつ整合性を欠き矛盾に満ちたかたちの他人の "思い" に対して、容赦ない攻撃を加えることほど簡単なことはなかろう。自身が吟味した考えでもないところの、世間の "常識" の側に居座り、アーダコーダともっともらしく振舞うことほどラクなことはなかろう。
 しばしば指摘されるがごとく、役所を初めとしたダメ企業組織の管理職の上司が、部下の "創造性" への姿勢や、 "生産性" 向上への提言などを握り潰し、結局は "封殺" するという傾向は、要するにラクなかたちで "北風" を浴びせているということなのであろう。
 多分、教育の現場でもこうした "北風" が吹き荒れているものと思われる。そう断言するのは、受験の成功率を指針としたならば、 "生煮え" で、弱々しく、かつ整合性を欠き矛盾に満ちたかたちの、生徒たちの"思い" というものが、大事にされ尊重されることはきわめて想像されにくいからなのである。
 現在、この国この経済社会で怒涛のように進撃しているのは、言うまでもなく "効率化" のスローガンである。あるいは、その "効率化" という大命題を効率的に推進する人材とモノの重視だと言ってもいい。
 そして、さまざまな領域での "競争" が、 "効率化" という価値観点で作動させられているために、社会生活の隅々にまで "効率化" 志向の態勢が行き渡り、浸透していると見て間違いなさそうだ。だから、人々の何気ない言動によって、然るべき "空気" 、つまり "生煮え" の "思い" に関しては、口にしてはいけない、極端に言えば考えてはいけないというような "空気" までが充満し始めるのだと推定される。

 ところで、世間の "評論家" というものは、もちろん時代のメジャーな価値観を "擁護" する方向でアーダコーダの屁理屈を捏ね回すものと相場が決まっている。だから、とかく世間の価値観が安定し、オーソライズされるまでは新しい事柄に積極的な注釈を加えたがらない。まして "生煮え" の、海のものか山のものかわからない 事柄に寛大となろうとはしない。
 まあそれは職業的保身の点からいえば当然かもしれないが、一般の庶民までが、こうした "評論家" のサイドに陣取りながら、いわゆる "評論家的" 対処法をとりがちとなるのが気になるところである。
 こんなことで、どうも今の時代、役所や旧い体質の企業組織の中だけではなくいたるところで、諸個人の "思いつき" にも似た "生煮え" の "思い" というものがスポイルされがちとなっているのではないか、と感じるのである。

 さて、従来、こうした問題については、とかく "自由にものが言える、言えない" というような問題として定義(?)されてきたように思う。ここでは、あえてそうした論調(?)を避けてきたのであるが、そこに理由がないわけではない。
 というのは、 "自由に……" というアプローチは、どこか目に見える権力的な抑圧者、体制を想定しているかのように考えられるのだが、現状は、その影も当然あるにせよ、もっと認識しにくい環境(だから "空気" !)が蔓延っているような気がしてならない。そして、後者の方の問題こそが深刻だと思われるからなのである。
 妙な表現をするならば、 "自主規制的" に諸個人の "思いつき" にも似た "生煮え" の "思い" というものを "間引き" していないか、ということなのである。
 その方がラクだからということもあろう。もっと言えば、常識的な思考装置で先ず先ずやってゆけるのに、なぜあえて個人の内面から沸き上がる不確かなものに形を与えなくてはならないのか、という疑問も存在するのかもしれない。
 さらにまた、現代における人間の思考は、個人レベルでドーコーできる水準を越えてしまっていて、まるで産業の主要な担い手が、町工場のような中小規模から、装置産業と呼ばれるような巨大規模企業へとシフトしている事情と同様に、信頼性のある思考(?)は、 "シンクタンク" のような存在に任せるべきだと、諦めを交えて見通されているのかもしれない。
 しかし、仮に "自主規制" を促すような環境が存在するにせよ、その "空気" に呑まれたのでは、やがて個人は無意味化してしまうことになるのだろうし、社会と時代が切望するところの "創造性" や "生産性" 向上という重要課題も上滑りしていくことになるのではなかろうか。
 今、クローズアップしている課題は、諸個人の "思いつき" にも似た "生煮え" の "思い" をこそ、存分に展開させる "空気" を醸成することであるように思う。(この辺の問題は、思考において "疑問" を持つことが重要であることという問題と低通していそうである。"疑問" に加えて、"仮説" を抱くということも貴重なはずであろう)
 要は、人々の人間的な思考力をどう "復権" させるのか、ということなのかもしれない。そのために、人間の思考の端緒は、いつも "生煮え" どころか "ひ弱で無防備" なのであり、それはあたかも人間の新生児が、万物の生き物の中で最も "ひ弱で無防備" であることとまさしく同根であるという点を凝視すべきだと思うのである…… (2007.08.24)

(今日は、結局 "イメージ的なレベルのこと" の中身に触れず仕舞いとなった。後日、「人間の脳は、直接的人間関係の中で最も活性化する」という "イメージ" について書きたい。現在、由々しき社会問題となりつつある "うつ病" にも関係した事柄である?)


 つい先ほど、気分転換に庭に出て "打ち水" をしたり、植木のちょっとした手入れをしたりした。朝方や夕刻に "打ち水" をすると、確かに窓から流れ込む空気の温度が下がり、涼しくなるほどではないものの、多少とも暑さが凌ぎやすくなるような気がする。
 陽射しが強く暑い日中にはそんな気も起きないが、夕刻の、ややほっとする気分となると、何気なく雑草を抜いてみたり、倒れかかった植木に添え木を設えたくもなったりする。
 ところが、そんなことを2、30分もして気がついてみると、手足のあちこちが蚊に刺されてしまった。惨憺たる状態となった。
 植木が少なくない庭なので、相当の数の蚊がいるとは気づいていた。それゆえ、最近は玄関付近で "蚊取り線香" を二巻きも焚いている。その効果があってか、単に通り過ぎる分には問題がなさそうだ。が、庭に留まって作業などをし、ちょっとした "駐留" をしてしまうと、途端に蚊の襲撃を被ってしまうから恐れ入る。
 刺されてから、この次から庭で作業をする際には長袖シャツにまともなスラックスにしようと考えはする。しかし、その時になるとついつい、半パンツに、袖なしシャツという丸腰のいでたちのままで事を始めてしまうのが常だ。
 と言うのも、 "打ち水" をするくらいで、多少面倒な安全な身支度をする、という気には到底ならないからである。 "虫除けスプレー" を使うという手もあるわけだが、それも省いてしまう。
 要するに、 "高を括る" 気分一色で飛び出してしまうわけだ。そし事後に、不快感を伴う痒さで煩わされるはめになっている。実に "愚かしいこと" を繰り返しているのである。

 こうした "愚かさ" を改めて自覚してみると、こうした類のことは、蚊に刺されるという些細なことに限らず、意外とほかにもありそうだ、という気になってきた。
 つまり、 "高を括る" 気分でイージーに事を始めてしまい、みすみす被害を被ってしまう、という日常生活の中での "愚かしいこと" のことである。まあ、何事に対しても慎重に事を構える人もいることだから、自分のようなアバウトな人間にだけ当てはまることであるのかもしれないが……。
 こんなことを考える時、二つの側面のことが思い浮かぶ。
 ひとつは、人間が仕出かす "愚かしい過ち" というものは、意外とこうした "高を括る" 姿勢から生じているのであって、明瞭に危険だと認知された事柄に対して、力及ばずに発生する失敗というケースよりも多いのではなかろうか、という点である。
 先ほどもTVニュースで報じていたが、今日は、一年前に福岡市で、幼い子3人を巻き添えにした "酒酔い運転" 事故のあった日だという。未だに "酒酔い運転" 事故が跡を絶たない実態があるとのことだそうだが、これなどは、まさに "高を括る" 姿勢が結果的に大惨事を引き起こす最悪の例だと考えられる。
 うかうかと蚊に刺される "惨事" とは似ても似つかない事柄のようであるが、発生し得る "惨事" を、 "高を括る" ことで過小評価してリスク管理対策を怠ることにおいては共通しているように思われる。こうした "高を括る" こと、 "油断をする" ことそれ自体が、どうしたら回避されるのか、ということが本質的な課題であるかのようだ。

 もうひとつ考えることは、人間のこうした "高を括る" 習性(?)をしっかりと見つめ、そこを逆手にとって蠢く "人種" がいそうだ、という点なのである。まるで、人の油断を見抜く蚊のような存在なのである。
 典型的には、大小の "詐欺" 犯がそれだと思うのだが、それに限らず置き引き、空き巣から一連の犯罪がおしなべて、人間のどこか "高を括る" 習性、油断しがちな一般傾向を巧みに悪用するものだと言えそうだ。つまり、犯罪の構成要素というものは、確かに加害者側の悪意とその行動に高い割合があるのは当然のことである。だが、それでは被害者側にはまったく犯罪を誘発してしまう要素がないかというと、必ずしもそうとも言えないかもしれないと思われる。その可能性があるのが、 "高を括る" 習性(?)ではないかと懸念するのである。よく言われてきた表現をするならば、 "スキを与えない" ということになるのかもしれない。
 こうした犯罪についてはそれとして、人間のこうした "高を括る" 習性(?)、 "スキを与えてしまう" 傾向を利用しようとする "人種" は、残念ながら増えこそすれ減る傾向には決してないのではなかろうか。
  "高を括る" という心境は、別表現をするならば "警戒心を緩める" とか "安心してしまう" ということにもなりそうだが、こう考えると、現時点での消費行動の場、市場で目論まれているのは、消費者に "高を括る" 姿勢を助長して、 "警戒心を緩める" とともに "財布の紐を緩める" ことを、虎視眈々と進めているということになりはしないだろうか。現時点での一連のコマーシャリズムのアクションは、まさにそういうことだと思えてならない。

  "リスク管理能力" がどうのこうのという小難しい議論が飛び交いがちな昨今である。しかし、数式混じりの小難しい理論なんぞなくとも、リスクを上手に処理することはできないわけではなさそうである。要するに、人間はなぜ "高を括る" ことになりやすいのかをじっくりと見つめることが基本であるように思われる…… (2007.08.25)


 今日、明日が残暑・酷暑の "ピーク" だそうで、火曜日以降はこの暑さも "沈静化" するらしい。こう書いていると何だか、経済現象の "サブプライムローン問題" の推移と取り違えそうになってしまう。
 確かに、夜の暑さは "沈静化" したようである。昨夜は、クーラーを切り、窓の隙間からの風を入れることで暑さをいなすことができた。虫の音を耳にすることもできた。ここまで来れば、秋らしさを目指して気温がどんどん "反落" (低下)していくのは間近だ、と印象づけられたものだ。

 しかし、日中のこの蒸し暑さはたまらない。どこからこんな暑さがやってくるのかとバカなことを思う。今日も35度近辺まで "反発" (上昇)しているに違いなかろう。
 書斎はクーラーをつけないとこんな作業もやれたものではない。階下では、内猫たちが、少しでも熱が放出できそうなフローリングの床で、落ちたタオルのように思いっきりダラけた格好で伸びている。外猫たちもかわいそうではあるが、まさか日向をウロウロしているわけはなく、きっと植込みの根元なんぞの比較的涼しいところに潜り込んでいるに違いない。

 こんな暑さでも、朝一番はいつものようにウォーキングで汗を流してきた。
 ところで、ウォーキングコースには、あいにくと日陰が乏しい。街路樹のトンネルとか、涼しげな林道めいた歩道とかのシチュエーションがあったなら、どんなにか気分が優れるであろうにと思った。そんなことを望むのは、果たして贅沢なことなのだろうかとも思った。高齢化と、健康への関心が高まる昨今では、ウォーキングやジョギングの人口が次第に増加しているはずである。町というものも、ただ単にマイホーム環境があるだけではなく、散歩、サイクリングその他の運動に適した公共環境を整備してゆく配慮が必要なのではないかと思う。
 まだ排気ガスとクルマが行き交う騒音が少ないだけましかと考えないでもないが、人が毎日心安らかに過ごせるような静けさを次々と壊して平気でやって来た時流というものを恨めしく思ったりする。
 そんなモノ無い方がいいよ、とか、この環境を壊してもらっては困る、とか、こういうふうにしたら行き交う人たちや散歩をする人たちが心地良いはずだ、とか、自分たちの町の環境についてものを言う人たちが少なかったわけだ。行政がどんな道路計画を目論もうが、ディベロッパーなどの業者が儲け本意の宅地化をしようが、そして、どんな格好のマイホームが立ち並ぼうが、誰も何も言わない、言えないで来たわけだ。

 あの自然の宝庫だと言われて来た "高尾山" のどてっぱらにトンネルを掘り、自然保護団体の抗議をも蹴散らして、道路を走らせる暴挙が実行されてしまうような情けない社会なのである。要するに、相変わらず土木企業群の下品な儲け主義と、それにつるむ賤しい政治屋たちの愚行が跋扈し続ける三流以下の社会なのである。
 こうした日常的な生活環境の蔑ろ傾向を振り返る時、ひとつのことに気づく。
 それは、過剰とも見える "道路建設" 主義の動きなのである。しばしば報道でも指摘されてきた問題に、地域住民の "生活道路" が奪われ、産業その他のための "産業流通道路" が敷設されることによる問題がある。これは極端に言えば、産業過剰優先と地域生活破壊以外ではないように思われる。こうした道路環境は、消費生活においても、地元商店を寂れさせ大駐車場を備えた巨大量販店へと人々を誘っているに違いない。消費者の役に立っているようにも見えるのだが、果たしてそういい切れるのだろうか。
 第一、ますますクルマの数を増やすことになり、狭い地域社会にとってとてもいいことだとは考えにくい。

 この "道路建設" 主義の動きとクルマの数の増大を助長する地域開発方法というものは、どこかある動きと似ているような気がしてならない。それは、今、盛んに推進されている経済のグローバリズムである。
 クローバリズム経済の最大の特徴は、各国の経済・金融その他の障壁、ボーダーを取り除き、貿易自由化を徹底させることにあるはずだ。それはそれで長所もあるだろうが、そのことによって、それまで閉じていたからこそ成り立っていた国内経済が大きく作用を受けることであろう。
 これは、見方によれば、外からより安いものを入手できるのならば、国内の割高なもの(とその業種)は市場から消えて当然だと言うことも可能かもしれない。しかし、そう簡単に図式化して良いのかと疑問を持つのである。それまで閉じていたからこそ成り立っていた国内経済、業種には、価格問題だけではない複合的な条件が絡み合っていたに違いなかろう。その事情の一切を、まるで "臓器移植" のように外からの調達に切り替えた時、いろいろな副作用が待ち受けているに違いなかろう。
 面倒な議論は省略するが、こうした経済のグローバリズム化による国内諸業種の低迷その他の現象と、地域社会において展開されて来た「 "道路建設" 主義×クルマ依存社会」の動向および地元商店街の没落現象とは実に良く似ているという印象を受けるのである。ここには、論理の単純化というか、安逸な "経済(モノの価格志向?)" 一元論が潜んでいると考えていいのかと思える。

 人々の生活は、確かに経済無くしては成り立たない。しかし、逆に、経済の面だけが過剰に浮き上がる現象が、次々に人々の生活を切り崩し始めているのが現状なのではなかろうか。この逆説が、とことん徹底されてしまった時には、人々の生活は焦土と化してもはや再生不可能な事態に陥っている、と想像する必要が生まれ始めているのかもしれない…… (2007.08.26)


 しばしば、言われていることであるが、コンピュータ・ウイルスなどに感染した企業は、自社の "名誉" のためにその事実を公表したがらないらしい。だから、公表されている "感染件数" の実際は驚異的ではないか、と。
 だから、ちょうど、システム構築の過程で、サンプリング的なデバッグ作業で発見された "バグ" は全体のほんの一部なのであって、実はその背後には何倍もの数の "バグ" が潜んでいる、という判断ときわめてアナロジカルである。
 もっと、身近な表現をするならば、キッチンで、もし一匹の "ゴキブリ" を目にしたら、実際はそれ以外に何倍もの数の "ゴキブリ" たちが暗躍しているに違いない、という推定がある。いずれも、目に見えた事実は、ほんの氷山の一角でしか過ぎず、目に見えないかたちで潜む事実が決して馬鹿にならないということを示唆しているわけだ。

 社会現象やその他の時代現象を見る場合には、こうした傾向的事実を十分に踏まえながら、あらん限りの洞察力を発揮すべきなのだろう。そう思いつつも、なかなか首尾よくそんな技を駆使できるものではないのが現実であるが……。
 しかし、逆に、かなり歴然とした傾向が見え始めてもなお、その問題現象を蔑ろにする世相があるのも、また現実なのかもしれない。思いつく例を挙げるなら、頻発する "凶悪犯罪" もそうであろうし、ジャンルを超えて溝を深くしつつある "格差(社会的不平等)" もまたそれであろう。
 そして、今ひとつ典型的な例として挙げる必要があるのは、やはり、 "うつ病" の広がりということになりそうだ。

 自分は、かねてから人間の "脳と心" というジャンルの問題に手前勝手な関心を寄せてきたため、比較的以前から"うつ病"という問題をもマークしてきたつもりである。
 なぜ関心を寄せるのかというと、これは決して人間の "脳と心" に係わる "マイナス現象" のひとつ、つまり病気だとして済ますには、根が深いと予想せざるを得なかったからなのである。
 もともと、 "脳と心" の現象というものは、健康(正常)と病気(異常)という二元論で切り分けて、後者の場合には、クスリの服用で症状を反転させればいい、というような機械的なものでもなさそうだと予感してきた。もちろん、医学的事実を度外視しようなぞとは考えていない。
 ただ、医学的事実と言っても、 "脳と心" という領域ばかりは、その医学的解明自体がまだまだ問題含みなのではなかろうか。傲慢かつ不勉強ながら、そんな印象が拭い切れないでいる。特に、 "脳" における "心" 的役割りの領域(部署?)に関しては、精神医学の分野でも未だ手探り状態だというのが実情なのではなかろうか。少なくとも、「へぇー、そうだったんだ。そういうことだったんだ……」と感激できるような解説にこれまで遭遇したことがない。
 それはともかく、どうも、人間の "脳と心" に係わる "マイナス現象" とされている "うつ病" に注目していくことは、 "プラス現象" とも言える "創造性発揮" という課題と何らかの脈絡を秘めているのかもしれない、と憶測したりするのである。 "脳と心" という複雑な問題は、 "プラス現象" を直接追いかけるよりも、その影のような "マイナス現象" のメカニズムをトレースした方が奏効するのではないかとも思うわけである。

 ところで、昨今、この "うつ病" の問題現象は、一般生活の場面から、職場での、しかも働き盛りの "30代" のワーカーの "うつ病" というかたちで注目され始めたようである。NHKドキュメンタリー(『NHKスペシャル』、『ETVワイド』etc.)でも頻繁に取り上げられているし、経済誌(『週間エコノミスト』etc.)でも特集記事が組まれたりしている。
 多分、こうしたジャーナリズムの動きは、当を得ていると思われる。というのも、生産の場における "うつ病" ワーカー発生の現象は、決して単なる一過性の問題ではなく、現在の経済状況(簡単に言えば、 "グローバリズム" 路線経済!)が継続する限り、ほぼエンドレスに続く問題として増加し続けることになりそうだと予想せざるを得ないからなのである。
 後日、職場での "うつ病" ワーカー発生の詳細については分析してみたいと思っているが、原因を簡単に言ってしまうと、次のようになろうか。
 コスト・ダウン、スピードアップや要するに生産性向上への動きがトリガーとなって、職場へのIT導入に伴う "個人孤立化" 環境の徹底、それに伴い評価方式面での "個人対象の成果主義" の導入など、職場環境が過激に変化させられたことである。

 中でも問題の焦点は、 "過剰な負荷" の状況下で、 "個人責任" が追求されるという構造が注意されてよいかと思える。 "30代" のリーダークラスのワーカーに "うつ病" が頻発している実態は、まさにこの構造が災いしていると推定されるのである。
 さらに言えば、 "個人責任" の追求という側面はほぼ決定的であろうと思われる。もともと、日本の企業組織の最大の特徴は、良くも悪くも "集団主義" であり続けてきた。一連の評価制度にしても、 "年功序列" をはじめとする "集団主義" が機能してきたはずである。役所では相変わらずこれが温存されてもいる。これらが、IT導入に伴って "個人孤立化" の組織環境へと塗り替えられ、そして、個人を対象とする "成果主義" 制度に置き換えられるならば、環境は激変したと言わざるを得ない。
 ただ、 "ノルマ" などが緩やかであれば、これらの変化が内在させた問題は表面化せず、むしろ若い世代ならば居心地良ささえ感じるかもしれない。これがまた問題でもあるわけだが……。
 しかし、 "ノルマ" などの "過剰な負荷" が個人に与えられ、なおかつ "個人責任" というものが厳しく追求されるならば、リーダーの立場にある者なぞは "潰れかける" はずではなかろうかと推測する。
 翻って考えれば、組織の一員となる多くのワーカーたちは、元来 "個人責任" という課題には苦手と見ていいと思われる。強ければ、いま時は "個人起業" を選択していたかもしれないからだ。大なり小なり、職場という組織の集団に依存するという否定し難い願望があるわけだ。
 しかし、この願望は、固定した甘えというよりも、成長とともに変化し、克服されてゆくものなのである。ところが、もし、企業組織がこれを当初から蔑ろにするならば、若いワーカーたちは、"個人責任" という課題の前で呪縛され、石のように固まってしまう以外にないのかもしれない。それが、端的に言えば、 "うつ病" への入口となっていそうである。

 漸く、こころある企業は、ワーカーたちの "うつ病" 対策を、見過ごせない企業課題だと見なすようになって来た。当然のことであろう。
 なぜならば、貴重なワーカーたちの "うつ病" の多発は、本来の企業目標である生産性の向上という課題を、それどころではない状態へと引き込むに違いないからである。
 また、ワーカーたちの "うつ病" の原因は、多分、各ワーカーたちの個人的資質にある以上に、 "企業組織" 自体の "病" の部分にあると診断できそうだからである。
 また、本来、ワーカーたちの "心" のありようには、生産性向上の課題に対して驚くような "プラス" の作用をも秘めているはずではなかろうか。ワーカーたちの "創造性" の発揮によって企業成果が驚異的に伸展したという例は、過去、決して少なくない。
 人間の "心" のありようというものは、数直線で言えば、限りないマイナス方向から、これまた限りないプラス方向まで、延々と延びているもののようである。
 マイナス方向で "心" のありようを低迷させ、医者による診断の "うつ病" に陥っている者は確かに辛かろう。医者の処方であるクスリの服用などで苦しい症状を抑えるに越したことはなかろう。
 しかし、それはそれとして、 "うつ病" 問題の全体を解決するには隔靴掻痒(かっかそうよう)の印象が拭えない。併せて、問題をこじらせているのは、企業における組織運営という側面での "経営のあり方" 以外ではない、と考えた方が良さそうな気がするのだが…… (2007.08.27)


 <安倍総理PTA内閣>( by 社民党の福島党首)がスタートしたようだ。<「反省」改造内閣が始動 口々に「民意」「立て直し」>( asahi.com 2007/08/28 )と評されるほどに、 "問題児(?)総理" に駆り出された "PTA" の面々も、嬉しさと困惑が半々のような雰囲気のようである。
 しかし、 "問題児(?)総理" はご自分が何を仕出かして周囲から拒絶されたのかを未だ理解していないのが困ったところだ。本来、その点がクリアされないと、 "立ち直り" ができないのではないか。
 ひょんなことで躓く青少年たちにしても、 "立ち直り" が早い者というのは、自分の仕出かしたことがどんなに世間に迷惑をかけたかとか、結局自分が世間からどんな目で見られているのかを上手に察知した者、と相場が決まっている。口では反省を言いながら、自分の所業を棚に上げて、 "お友だち" とやっていたのでは上手く行かなかったから、今度はその後ろに控えた "PTA" にお願いしてみよう……、というのはいかにも……である。きっと早晩、こんどは "PTA" の中から、 "口は災いの元" という落とし穴にしっかりと嵌る方が出てくるのであろう。聞いたようなセリフを吐きたくてうずうずしているような空気をまとった "Aおじさん" なんぞは、その筆頭なのかもしれない。

 政治的失敗の克服にとって不可欠な課題は、失敗の原因をどこまで正確に掴むかということ以外ではないだろう。いや、これは、政治の領域に限らず、あまねく、失敗の克服の基本の基本だ。
 誰しも、自分自身の不始末を率直に認めることは辛いし、できれば避けたい。しかし、世の中には、 "唯我独尊×我田引水×厚顔無恥" とでも言えそうな人種もいて、そうした人種は、驚くべきことだが、ほとんど無意識のレベルで "自己防衛" 的認識を進めるものなのである。
 わたしもそんな人種にお目にかかって驚嘆したことがある。
 とある会社の社長なのだが、社内トラブルが頻発するというので相談に乗ったことがあったのだが、事情聴取(?)をしてみると、当の社長自身が "諸悪の根源" だと認識せざるを得なかった。そして、そうした事情を社内の多くの者たちが痛感してもいた。知らない、理解していないのは、その社長だけというありがちなパターンだったのだ。
 わたしが呆れ返ったのは、その社長と直接話をした時のことなのである。
 ご本人の聡明さを期待して、ご自分で自身の問題点に気づいてもらえればという思いで、いろいろと話をしたのだった。ところが、最後になって真顔でおっしゃった言葉には意表を突かれてしまった。
「うーむ。やはり、○△総務部長が良くないんですねぇ。あの方が "諸悪の根源" ということなんですねぇ……」
と、来たのである。
 わたしは開いた口が塞がらなかったが、ここまでパーフェクトに偏った思考を進める人というものが存在する事実に驚いてしまったのである。その社長の顔を見つめてしまったが、さらに驚いたのは、その表情には何の羞恥のかけらも衒いもなかったことなのである。まるで、子どもが、悩み考え抜いた挙句に輝かしい事実を発見したかのようなお顔をされていたのである。

 今回の参院選挙に対する国民の意向は、正確に言うならば、どうとでも解釈可能なのかもしれない。国民自身とて、自身の投票行動の根拠を正確に、如実に振り返ることはそう簡単ではないというのが実態なのかもしれない。
 しかし、それをいいことにして、政治家たちが、我田引水の解釈をしていたのでは、何が問題だと言って、現状認識に大きな狂いが生じて、その後の政治行動が破綻するに違いないという点ではなかろうか。
 たとえ、現時点では自身の苦痛が "針の筵" に座するようなものであっても、より客観的な状況認識を得ることができれば、きっとその後の政治行動は効を奏するものとなるに違いなかろう。
 国民意識の中味を、我田引水かつ高を括るかたちで "決めつける" のではなく、国や社会の "客観的情勢" をこそ正確に掌握するという、いわば科学的観点に立つということだ。優れた政治家であるならば当然行うことであるように思う。

 その "客観的情勢" に潜む重要な事実とは、 "バンソウコウ問題" でもなければ、 "失言問題" とか "政治とカネ問題" でもなく、さらに言えば、大きなきっかけではあったとは思われるが、 "年金問題" でもなかったかもしれない。
 これらの問題の底流として怒涛のように流れる "時代の濁流" とでもいうものが、国民の感性を慄(おのの)かせたのではないかと読める。その "時代の濁流" とは、「構造改革」路線(⇔グローバリズムの動向)のことである。「改革」と称してこれをごり押ししていながら、庶民にとっての社会環境は日毎に悪化しているではないか、という庶民の実感が、自公政権を拒絶した選挙の客観的基盤を作っていたのではなかろうか。
 したがって、安倍首相が、何をどう反省しようが、この点に対して洞察が至らなければ、政権はさらに不安定とならざるを得ないように思われる…… (2007.08.28)


 昨日のニュースで、いわゆる<ネットカフェ難民>の実態の、その "氷山の一角" がやっと報道された。(末尾に新聞記事添付)
 「構造改革」路線(⇔グローバリズムの動向)へと勢い良く舵切ったこの国の経済と社会は、いろいろなかたちで社会的歪みを露わにしてきた。それらの歪みは、総称して「格差社会」と称されているわけだが、いざ、その内訳に目を向けれるならば悲惨な事実が目白押しというところだ。
 先日書いた増加する "30代のうつ病" にしても大いに関係しているし、正規雇用と較べて労働条件が悪い "派遣形態" が急増し、今や労働形態の大勢を占めるようにもなっている現象もある。さらにその現実を逆手に取るような "偽装請負問題" も然りであり、また昨今では、遅ればせもいいところで漸く目が向けられて "最低賃金" の引き上げが云々され始めたところの、低過ぎる賃金水準の問題もある。
 「構造改革」の推進によって大企業が史上まれに見る収益性を高めたというその足元で、こうした "負のしわ寄せ" が累積されていたことになるわけだ。

 ところで、これらプラス・マイナス両サイドの現象は、直接的な相互因果関係で立ち現れているのであり、まさしく "ゼロ・サム" 関係という表裏一体の関係以外ではないであろう。プラス面が拡大すればマイナス面も是正されるというような筋合いの現象ではないのだ。
 したがって、大企業の発展によって景気回復が達成されるのが "社会の" ひとつの目標であるならば、この達成のための前提となった "負のしわ寄せ" 問題は、別個の問題として扱われるのではなく、 "社会問題" として見据えられなければならないはずである。つまり、個人的努力もさることながら、その解決に向けた努力が "社会的" にもなされなければならないということなのである。
 また、これらを "社会問題" として位置づけつつ社会側(政治側)がテコ入れをして行かないならば、最終的には社会側(政治側)が、多大なコストを負担しなければならないという誰もが望まない事態に陥るはずではなかろうか。この点を外さずに凝視しておくことも重要だと思われる。

 簡単な話、企業活動にとっては、より良質な労働力は必須条件であろう。だが、もし、働く者たちの生活が脅かされるほどにその賃金が低い状態で低迷し続けるならば、働く者たちの健康状態や文化水準は低迷し、悪化せざるを得ない。とすれば、結果的には労働力の劣化傾向を招くことになり、 "人材不足" が深刻化することは避けられなくなる。
 働く者たちを "搾れるだけ搾る" ことで収益性を高めれば御の字だという企業家がいるとするならば、それはあまりにも "目先志向" で "場当たり的" でしかない。やがて、自身の首を締めることに繋がると悟るくらいの読みは持たなければならない。
  "生活保護" 問題にしても、劣悪な労働環境が放置され続けるならば、やがて "生活保護" 世帯数がうなぎ上り的に増加するだろうことは容易に想像できる。該当者の "資格" を剥奪して死に至らしめるような非人道的なことをするのではなく、 "生活保護" 制度を適用せずとも、自立的に暮らしてゆける環境整備をすることこそが聡明な行政だと言えるはずである。
 高齢者福祉にしても、どうすれば多くの高齢者(および予備軍)たちが健康で自立的生活を進められるようになるかという、いわば、 "予防医学" 的対処のアプローチが絶対に必須のはずである。さもなければ、福祉財源も福祉サービス人材も枯渇するであろうことは目に見えているのではないか。

 要するに、「構造改革」路線のような "負の副産物" が多い政策を選択したからには、それらを個人的課題として押しつけてしまい、結果的に "社会的弱者" の層を厚くしてしまうのではなく、しっかりと "社会問題" として位置づけて "先手先手に対処" してゆくことが最も妥当だと考えられる。これをこじらせて行くならば、不幸なことながら、 "犯罪予備軍" をまで作り出しかねない。そんな "危険水域" にまで事態は突き進んでいるのかもしれない…… (2007.08.29)

<ネットカフェ難民5400人 4分の1が20代 厚労省
 住居を失い、主にインターネットカフェで寝泊まりしている「ネットカフェ難民」が全国で約5400人に上ることが28日、厚生労働省の調査で明らかになった。半数は日雇いなど短期雇用を中心とした非正規労働者で、約4分の1が20代の若者だった。若年層を中心に、働いても住居費さえ賄えない「ワーキングプア」の厳しい生活が浮き彫りになった形だ。
 ……
 店舗側への調査では、寝泊まりしている利用者は全国で1日につき約6万900人。このうち7.8%の約4700人が住居を失って宿泊していた。週の半分以上ネットカフェに泊まる人をネットカフェ難民とすると、厚労省は全国で約5400人いると推計した。
 5400人の雇用形態別の内訳は、日雇い派遣のような雇用契約が1カ月未満の短期派遣労働者は約600人、建設現場の日雇い労働やアルバイトなどの短期直接雇用は約1200人で、長期雇用のパートらをあわせた非正規労働者は全体で約2700人。正社員も約300人おり、失業者は約1300人だった。
 年齢別では20代が26.5%で最も多く、50代が23.1%、30代が19.0%と続いている。
 東京と大阪で実施したネットカフェ難民計約360人への聞き取り調査では、住居を失った理由は「仕事を辞めて家賃が払えない」(東京32.6%、大阪17.1%)と、「仕事を辞めて寮や住み込み先を出た」(東京20.1%、大阪43.9%)が多い。平均月収は東京10万7000円、大阪8万3000円だった。……>( asahi.com 2007/08/28 )

<「将来不安、3時間しか眠れず」 ネットカフェ難民
 実態が把握しにくいネットカフェで、事実上ホームレス状態の新たな貧困層が確実に広がっていた。厚生労働省の「ネットカフェ難民」実態調査が示した深刻な結果に、専門家からは早急な対策を求める声が相次いだ。
 「将来が不安で、毎晩3時間ほどしか眠れなかった」。6月まで、東京・浅草や池袋のネットカフェで寝泊まりしていた男性(40)は振り返る。
 地元に仕事がなく、派遣社員として食品工場で働くため、今年4月に東北から妻(27)と2人で上京。だが工場では、深夜から早朝にかけての労働時間が、面接での約束より長いうえ休憩もなし。最初の3カ月は社会保険もなく、夫婦で会社の寮を飛び出した。残金1万3000円を手にネットカフェに泊まり、求人雑誌で仕事を探した。
 まもなく妻は旅館の住み込みの仕事が見つかったが、男性は複数の日雇い派遣会社に登録。書籍発送や引っ越し作業などを続けたが、腰を痛めて働けなくなり、8月から生活保護を受けている。
 こうした東京のネットカフェ難民300人に対する厚労省の今回の聞き取り調査では、48.6%が日雇い労働に従事。毎月の支出は食費が平均2.5万円、宿泊費2.4万円。住まいを得られないのは「敷金など初期費用を貯蓄できない」(66.1%)、「家賃を払い続ける安定収入がない」(37.9%)と、低賃金が一番の壁になっている。
 ……
 今回の調査は、こうしたホームレス状態が若年層にも広がっている現実を行政にも突きつけた。独協大学の森永卓郎教授は「非正規雇用の拡大で、新たな貧困層がネットカフェに集まっており、放置すればスラム化の恐れもある。今なら敷金や家賃の無利子融資など、わずかな支援で生活を立て直せるので、早急な対策が必要だ」と訴える。>( asahi.com 2007/08/28 )


 ちょっとしたことがあり、このような時代、各企業の人事担当者は大変なんだろうな、という思いを再認識した。
 この間書いているように、社内で "うつ病" になる社員が増加しているようだし、そうした実態が生まれるような厳しい業務環境があろう。 "効率化" に向けて、社員が皆ピリピリとしているはずである。
 また、職場には、正社員のほかに "派遣スタッフ" なども増加している。聞くところによれば、正社員と "派遣スタッフ" との間には、その人間関係においても何がしかの軋轢が発生しているとかでもある。ただでさえ、正社員という比較的長いつき合いの社員たちの人事管理でも気の休まらぬ側面があるというのに、 "テンポラリー・スタッフ" の多数をも視野に入れなければならないとなると、さぞかし困惑が隠せないだろうと推定する。
 さらに、企業の人事担当者は、通常時の人事関係問題をメンテナンスするとともに、新しい人材の採用をも常に視野に入れて行かなければならない。また、随時、その教育、 "即戦力" 化をも図っていく立場にあるはずだ。人を見る眼と、人を教育する力量を求められるのが、人事担当者なのであろうが、今のような時代環境にあっては、これはとてつもない難題だと言わなければならない。

 いつの時代でも、人事(教育)という課題はラクではなかったであろう。だから、そのために、企業においては、様々な "人事制度" が構築されていた。と言っても、その大半は産業界で長年試され、培われてきた伝統的な制度が骨子となって構成されていて、それでそこそこ問題なく運用されていたはずである。いわゆる "終身雇用" 慣行や、 "年功序列" 制度、そして職場の "集団主義的" 行動様式などが、先ず先ず "使える下敷き" として活用されてきたのであろう。
 ところが、いつの頃からか、これら伝統的な "人事制度枠" が通用しない時代変化が産業界に生じてきた。決定的には、経済が「構造改革」路線で方向づけられて以降ということになるのだろうが、それ以前からも、 "IT活用" が活発化することによって、職場の人事関連状況は大きく揺り動かされていたと思われる。
 つまり、ビジネスに "IT活用" が深く浸透することで、仕事内容が激変し始めたわけで、それが、求められる職務能力の変化を生み、またその能力の評価方法の変化をも生みだすことになったわけだ。もちろん、その能力を立ち上げる教育のあり方に変化をもたらした点も見過ごせない。

 従来は、企業における人事担当者というのは、ある意味では "人生経験豊富で、人格温厚……" といったタイプの者が適任であったかもしれない。そうした人材を見出すことも決してラクではなかっただろうが、現時点では、どうもそれだけでは足りないように思われる。いや、正直言えば、現在のような職場環境での人事管理に適した人材像がどのようなものであるかを言い当てるのは、きわめて難しくなっているのかもしれない。
 あえて言うならば、人間そのものへの尽きない関心と、人間の(職業的)能力とその発展に対する強い関心、そして、現代のビジネスが置かれている環境理解……、ということに耐えられるような人材(ふっと、イメージとして浮かぶのは、あの脳科学者・茂木健一郎氏?)だということになろうか。しかし、そんな人材は先ず見出せないに決まっている。
 ただ、経営トップが、こうした事情をどこまで認識しているかである。こうした事情の認識があり、ビジネスとは、いや現代ビジネスとは、 "人材" こそがやはり決め手であり、そのためには、そうした "人材" を、 "採用・教育・管理" することが最重要課題であると睨む経営トップがいかほど存在するか、ということなのである。
 コスト圧縮という競争力にばかり眼を向けて、それが経営トップの唯一の課題であるかのように考える傾向が支配的だと言えそうだ。

 時代環境がどんなに激変しようとも、ビジネスは、結局、 "戦略的人事" の塊以外ではないのかもしれない。いまでも、遠い過去から、とある聞き慣れた言葉が響いてきているに違いないのではなかろうか。「人は石垣、人は城……」 …… (2007.08.30)


 つい先日、10年使い続けた大型ブラウン管TVが壊れた。
 翌朝、スイッチを入れると、ブラウン管の画面は全体が真っ暗なまま、中央に幅2、3ミリほどの水平線が一本表示されるだけであった。
 とうとう壊れてしまったかとがっかりした。以前から時々、画像が縦に間延びするような症状が現れ、いよいよ寿命が来たのかと危ぶんではいた。しかし、何となく愛着もあり、修理が可能であれば修理に出そうかと、当初は考えたものだった。
 しかし、いざ修理の段取りについて調べ始めると、いろいろと厄介なことがわかってきた。先ず、このTVの質量の問題なのである。大きさは数十センチ立法といったところであろうか。そして、重量は4、50キロもあろうかと思われた。普通、一人で運ぶ重量ではなかろう。これを、修理業者に持ち込み、また取りに行くという往復の運搬のことを考えると、二の足を踏む思いにさせられたのだ。また、修理費用も馬鹿にならないことが次第にわかってきた。
 果たして、こうしたモノを後生大事に思い入れをして修理に出すという判断が妥当なものかどうかという疑問がじわじわと湧き上がってきたのである。
 家内がいつか言っていた心配事も思い起こしたりした。というのは、地震の際に、こんな物々しい質量のTVが、台の上から部屋の中央に飛び出してきたら……、という心配をしていたのである。そこまで酷い揺れの地震であれば、それどころではなさそうな気もしないではなかったが、このTVがそうした心配をさせるに足るほどのモノモノしさがあるのは事実であった。
 こうした思わしくない事にいろいろと目を向けてみると、修理という選択の根拠が次第に希薄となっていくのであった。

 結局、修理に出すことをやめて、今流行りの "液晶TV" を購入するという選択にたどり着いたのである。
 だが、これとて、一方で "液晶TV" への期待感はあるものの、何の問題もないというわけでもなかった。先ず、壊れたTVの廃棄処分についてであり、もう一つは、以前にも書いたとおり、飼い猫との "相性" の問題も気になるのであった。
 ひと昔前は、家電製品の "リプレース" といえば、新規製品の購入時に、廃棄したい製品を無償で引き取ってくれて、顧客側は何の心配もせずに済んだ。しかし、 "リサイクル法" が実施されて以降、家電製品の廃棄は顧客側のれっきとした負担対象となっている。だから、心ない者による公共の場への "違法投棄" が跡を絶たなかったりもしている。
 また、自分の場合は、IT機器や家電製品などの購入のほとんどを "通販" としているため、既存の製品を廃棄する場合は自前でやるしかないことになる。
 そこで、 "リサイクル法" に則った廃棄処理手順を確認し、 "普通、一人で運ぶ重量ではない" 当該TVを、クルマを使って一人で運搬し、処理業者のところまで持ち込むことになったのである。まあ、やや懸念していた "ぎっくり腰" になることはなかった。

  "液晶TV" をわが家に導入することを長らく躊躇わせていた理由のひとつには、飼い猫の問題が横たわっていた。というのは、これまで飼い猫たちは、このモノモノしい質量のブラウン管TVの上で、多くの時間 "横たわって" きたからである。それも、そのスペースへはブラウン管の画面を蹴上がり飛び乗ってきたのである。
 自分は、日頃この光景を見続けてきただけに、飼い猫たちが "液晶TV" に対しても同様のアクションをするのではなかろうかという、恐怖にも似た想像をしてきたわけなのである。
  "液晶TV" の画面に硬質ガラスのフィルターを施した製品(プラズマ仕様のもの)もあることはあるらしい。しかし、それはかなり高価となり、ちょっと手が出しにくい。
 そこで、一計を案じ、パソコンのディスプレー用の "プロテクト・フィルター" のようなものを自作することで、この懸念を解消しようとしているのである。

 今日、 "通販" で注文した "液晶TV" が届き、荷を解き、とりあえず従来のTV台の上に、仮に設えてみた。その直後、二匹の飼い猫がその前を通り、それぞれが、あれっ、というような素振りで新品 "液晶TV" の上の方を見上げていたのである。こちらは、思わずヒヤリとさせられてしまった。早いうちに、手製 "プロテクト・フィルター" をこしらえなければならない…… (2007.08.31)