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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2007年12月の日誌 ‥‥‥‥

2007/12/01/ (土)   "ジックリ派" のユーザの姿勢を脅かす動き……
2007/12/02/ (日)  <いまの日本は「余白」を失っている>という絶妙な表現 ……
2007/12/03/ (月)  <「余白」を失った>時代環境と、<「余白」を削られた人間関係> ……
2007/12/04/ (火)  松本清張『点と線』を忘れ去る日はやって来るのか ……
2007/12/05/ (水)  結局、事実を "はぐらかす" という罪が最悪でありそうだ ……
2007/12/06/ (木)  何はともあれ、素人との間に障壁がなければ仕事にはならない……
2007/12/07/ (金)   "役所" やその "仲間" たちの動向は ……
2007/12/08/ (土)   "所在無い" 気分というものについて考えてみる ……
2007/12/09/ (日)  この冬は、人情が風化して寒いことこの上ない……
2007/12/10/ (月)  再び "バーコード・リーダー"によって考えさせられる ……
2007/12/11/ (火)  「朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや。」……
2007/12/12/ (水)   "年金問題" という "アンビリーバブル" な世界!……
2007/12/13/ (木)  難しいことを言わずに "ごった煮" にするのが現代作法か ……
2007/12/14/ (金)   "フリー・ソフト" 紹介サイトは、アイディアの宝庫 ……
2007/12/15/ (土)  「江戸っ子は五月の鯉の吹流し 口先ばかりで腸(はらわた)はなし」……
2007/12/16/ (日)  「窮鼠猫を噛む」のことわざを "噛みしめる" ……
2007/12/17/ (月)  子どもたち特有の "明朗快活" さの秘密は ……
2007/12/18/ (火)  食傷気味どころか "拒食症"="情報アパシー(無関心)" となっているのか ……
2007/12/19/ (水)  「孤立深める日本」の実情についての再認識を ……
2007/12/20/ (木)  <死刑が犯罪を抑止する確証がないこと、誤審の場合は取り返しがつかないこと>……
2007/12/21/ (金)   "老後の安定した収入" を意図しつつも ……
2007/12/22/ (土)  もはやPC価格は "消耗品" 水準となったのか ……
2007/12/23/ (日)   "加速化された技術的イノベーション" は一体誰のため? ……
2007/12/24/ (月)  人間は "思い込み" に陥りがちな傲慢な存在である ……
2007/12/25/ (火)   "八つ当たり" 現象が目立つ時代環境はよくない ……
2007/12/26/ (水)   "のめり込む" 対象を欠かしてはマズイ ……
2007/12/27/ (木)  一部高齢者たちの "八つ当たり" 的事件 ……
2007/12/28/ (金)  「偽」で終始したとされる年の "仕事納め" ……
2007/12/29/ (土)  大した "ツキ" でもないけどね ……
2007/12/30/ (日)  幼児たちは "宙を舞うがごとくに歩を進める" ……
2007/12/31/ (月)   "自信喪失" を強要するかのようなこの時代環境に、一矢報いよ! ……






 このところPCのメンテナンスに馬鹿にならない時間を取られている。何はともあれ日常的な商売道具なのでいたしかたなく対応している。
 使っているそれぞれのPCには固有の事情があって対処するわけだが、ここでも昨日書いたような "煽られる" 現象に気づく。
 そもそも、OSのベンダーはとかくユーザを "煽って" 最新バージョンへの移行を促すものだ。ビジネスの論理からすれば当然の目論見なのであろうが、ユーザからすれば必ずしもありがたいことばかりではなかろう。
 確かに、ある種のユーザは、より高性能なOSを待ち望んでいるのかもしれない。だが、現行のOSを徹底的に使いこなし、機能向上、性能アップを虎視眈々と待つようなユーザはいかほどいるのだろうか。むしろ、自身の仕事のために、現行のOSに慣れ親しむことで精一杯となっているのが一般ユーザの実情ではないかと想像している。
 なのにとにかく "矢継ぎ早" での新OSリリースという感触を受ける。ユーザがじっくりと現行OSに馴染もうとして躍起になっているそばから、次のバージョンのOSがリリースされてしまうわけだ。
 まあ、OSベンダーもビジネスなのだから、それはそれでよしとしよう。新OSのリリースを待ち望むユーザもいないことはないのだろうから、ニューバージョンのリリース速度に立ちはだかることはできない。 "ジックリ派" のユーザは、現行のバージョンなり、慣れ親しんだ旧いバージョンをジックリ使わしてもらえばいいわけだ。

 ところが、こうした "ジックリ派" のユーザの姿勢を脅かす動きが目に付くのである。いわゆる "サポート終了(打ち切り)" というOSベンダーのアクションのことである。この辺の事情こそが、 "ジックリ派" ユーザの落ち着きを奪うわけだ。まあ、それでも腰の据わった "ジックリ派" ならば、サポートなんかいらない、自力救済でガンバルさ、と開き直れるのであるが、ここにもうひとつの "煽り" の黒幕が登場してくるから厄介なのである。
 ところで、昨今の "ネット犯罪" の実情を見ていたら、 "ウイルス対策のセキュリティ・ソフト" のインストールはもはや不可欠だと言えそうだ。つまり、インターネット時代におけるPC活用のための "基本保険" だということになりそうである。
 そして、こうした "ソフト" も数多く出ているものの、安全性・確実性という点では次第に絞られつつありそうだ。そういう "寡占" 的状況を見込んでのことか、そのソフトベンダーは次第に強気となりはじめ、上記のOSベンダーと同様の動きを採りはじめたようなのである。つまり、年次毎のバージョン・アップと、旧くなりはじめたバージョンの "サポート打ち切り" というビジネス・アクションのことである。
 この "ウイルス対策のセキュリティ・ソフト" における "サポート打ち切り" は、ちょいと強烈な "煽り" ではないかと感じている。いくら "ジックリ派" のユーザといえども、 "免疫性" が薄れてしまった"ウイルス対策のセキュリティ・ソフト" で、ネットに繋がるわけにはいかないからである。
 そして、この "ソフト" の新バージョンが、 "旧いOSには対応しない" という条件付けをしてくると、利用するOSの選択さえ限定されてしまう、ということになってしまうわけなのである。

 実は、自分のPCメンテナンスも一段落したかと思ったところで、再びこれを再開せざるを得なくなってしまった原因というのが、この辺の事情に関係していたのである。
  "ウイルス対策のセキュリティ・ソフト" に関して、自分が現在利用しているバージョンのサポートが近々 "打ち切られる" との情報から、ほかにもいろいろな理由が重なり、結局、気に入って部分的に利用し続けていたOS搭載のPC何台かをバージョンアップせざるを得なくなったということなのである。
 こうした事情は、環境に "煽られる" 現象といっても、単なる雰囲気の問題ではなく、かなりの "強制力" をも伴った "煽り" のように受け止めているのである。
 事は、こうしたことだけに限られず、昨今の時代環境では、こうした "強制" まがいの "煽り" という現象が蔓延しはじめているのではなかろうか、と感じているのである…… (2007.12.01)


  "グローバリズム" の怒涛に身を任せている現在のこの国、どこか "余裕" がなく、どこか狂乱気味でもある。また収拾つけがたき混乱と闘争が渦巻いているようでもある。
 そんな実感を、<いまの日本は「余白」を失っている>という絶妙な表現で言い当てている人がいた。その部分を以下のように引用しておく。

<いまの日本は「余白」を失っている。すべてを世界基準に照らした制度にしようとしているために、かつての「余白」が消えて、むしろさまざまな局面で衝突をおこしている。 過剰なのである。導入も過剰、反応も過剰、留保も過剰なのである。そうなってしまったからと言ってはいけない。すでに導入してしまったものも、あきらめてはいけない。もう一度、組み直すべきである。こういうときには「縮み志向」というよりも、大胆で高速の「編集志向」を発揮するべきなのである。>(『「縮み」志向の日本人』李御寧(イー・オリョン) 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇 第千百八十八夜 2007年6月6日)
 注.「縮み志向」とは、李御寧氏の同著書において日本人の特性として論じられているものらしい。 "たたむ・よせる・つめる・けずる。盆栽・生け花・床の間・四畳半。パチンコ・トランジスタ・ウォークマン。日本人はなぜ「小さきもの」が好きなのか。枕草子と俳句の国の文化……" とされる日本は「縮み志向」で特徴づけられるというのである。

 松岡正剛氏によれば、確かにこの日本の文化には「縮み志向」的なものが多々見受けられる。しかし、歴史上ではそうではない顕著な傾向もあったわけで、それらは<日本がおかしくなるとき>であったという。以下のごとくにである。

<そもそも日本が「縮みの民族」の歴史をもってきたのかどうかということが、問われる必要がある。古代においては朝鮮半島とその海域に拡張を求めていたのだし、…… 秀吉の大陸進出の野望はそうとうなものだった。満州事変以前でも、日本は日清日露を通して植民地をほしがり、日韓併合を完遂していた。
 もし日本に「縮み志向」があるのなら、日本はしっかりとした「小国主義」をもってきたはずなのだ。しかし、内村鑑三(250夜)や石橋湛山(629夜)を除いて、どうもこのような小国思想ははっきりしてこなかった。ぼくは宮沢時代に「経済大国」や「生活大国」の合言葉が打ち出されたとき、呆れてしまったものだ>(同前述箇所)

 ではなぜ、「縮み志向」にふさわしい「小国主義」に至らず、さらに「余白」の喪失という事態にまで至るようなおかしさになっているのか、次にそれが問われる。

<それをいまは暗示的に言っておけば、日本がおかしくなるときは、結局「取り合わせ」の方法や「数寄の方法」を見失ったときなのである。ひたすら海外のサイズをそのまま呑みこもうとしているときなのだ。そのままにロールとルールとツールをまるごと鵜呑みしようとしているときなのだ。
 これはいまなら「グローバリズムの陥穽」とも片付けられようが、この言い方だけでは説明にはなるまい。外からのものを受容しようとしていること自体が、問題なのではない。そんなことは古代このかたやってきたことなのだ。そうではなく、それらの“編集”をしなかったときが問題なのである。内外の文物や制度や思想を取り交ぜ、組み合わせ、数寄のフィルターをかけなかったことが問題なのだ>

 “編集”とは、同氏が他の著作でも詳細に検討している同氏独特の包括的なタームである。ここでは緩やかに、総合的なアレンジとでも解釈しておきたい。
 とりあえず問題視したいのは、<いまの日本は「余白」を失っている>というフレーズで言い当てられるようなこの国の現状なのである。直接的には、急速で過激な "グローバリズム" の趨勢にあることは事実であろうが、そのこと自体が問題だというよりも、<まるごと鵜呑み>にするというような、そんな荒っぽさこそが問題であるということなのだろうと思われる。
 振り返れば、社会、経済、政治という多くの分野の新制度が急速に "インストール" され "更新" をかけられてきた。そして来年からは司法の領域での "裁判員制度" までが実施される。あたかも、この国は、遅れたローカルPCのごときであり、すべからく矢継ぎ早の "ダウンロード更新" が推し進められているかのようである。
 PCでも、新規コンポーネントの荒っぽいインストールは、ハードディスク容量の「余白」を潰すとともに、思わぬ機能不全のトラブルの原因となる危険があるものだ。
 この国の "アドミニストレータ" は、そんなところをしっかりと予見、管理しているのであろうか…… (2007.12.02)


 昨日、<いまの日本は「余白」を失っている>というフレーズに注目した。
 この「余白」というところは「余裕」と言ってもよさそうであるが、この「余白」という言葉が何よりもリアルな意を伝えていそうな気がしてならない。
 そこで、この「余白」という言葉をめぐって若干勝手なことを書いてみようかと思う。

 先ず、かなり具象的な例を出すならば、プリンターによる印刷に関してということになろう。プリンターには必ず「余白設定」という項目があり、上下の「余白」や左右の「余白」が何ミリ、何ミリと設定できるわけである。
 この「余白」状態は、印刷物の "見た目" の印象にも大きな差をもたらす。余り広く取り過ぎていると間抜けな印象を与えるし、逆に少な過ぎると、窮屈な圧迫感を与えずにはおかないはずだ。また、この「余白」部分は、いわゆる「綴じ代(とじしろ)」としての役割も秘めていて、用紙の左側であるとか、上側に相応の「余白」が設けられていないと、穴あけパンチ後にバインダーなどへと綴じられてしまい "読めない部分" が生じたりもするから困る。事務屋さんの中には、ページ数を減らそうとする努力が度を越して、まるでよくある "契約条項一覧書" のように、小さな活字、小さな字間、小さな行間などを駆使し尽くして一枚の用紙に膨大な文字数を搭載してしまう人がいたりする。そんな人は、もちろん、上下左右の「余白」も、プリンター設定の限界ぎりぎりまで切り刻もうとする。
 こんなプリントを手にした読み手が、一定どんな印象にとらわれ難儀をするか、そんなことに関してはまったく配慮がなされない気配である。どんなにありがたい事が印刷されていても、「余白」が節約されてしまったプリントを読まされるほど辛い気分となることはなかろう。

 また、「余白」というのは、読み手側に自由度、たとえばちょいとしたメモ書きなどをさせる自由度をも与えていそうである。単に気分的な余裕だけではなく実利的便宜をも与えているということになる。書き手側による "一方通行" ではない、いわば "インタラクティブ(相互的)" なスペースなのだと言っていいのかもしれない。
 ところで、こうした観点での「余白」について、自分は忘れがたい思い出を持っている。
 大学院での研究時代のことであるが、ある学会でとある研究者の論文発表を聴いていた時のことであった。やがて発表が終わり、質疑に移った際、極めて辛辣な質問者が現れたのである。その質問者は、
「縷々お説は聞かせていただきましたが、そのようなことは学会の場で発表すべきことなのでしょうか。わたしに言わせれば、原著のページの『余白』にメモしておけば済むことのように思うのですが……」
と、ほざいたのである。まさしく、「それを言っちゃあおしまいよ」に相当するセリフであったはずだ。
 あえて質問者の意を汲むならば、こうなるのだろうか。つまり、研究や学問の自由が尊重される環境にあっては、何をどう考えようと自由であるには違いない。だがその程度の自由の行使ならば、何も学会という場よりも、むしろ読み手の "自由スペース" である「余白」への、そこへの個人的なメモ書きという形が妥当ではないんですか、と。
 その発表者の後に自分の発表を控えていた自分は、思わず冷や汗をかいてしまったものであった。

 高級住宅地に建つ家々は、隣の家との間に十分な空間があるものだ。そういった優雅な雰囲気に対して、世知辛い市街地、新興住宅地の建売住宅は、路地裏さえも極限まで節約している。一体、路地側の壁の施工はどうやってやったのだろうかと見る者を心配させるほどに隣の家と近接しているケースも少なくない。
 つまり、住宅環境においても、「余白」のない建築物が目につきやすくなったということなのである。都市部では大分以前からこの傾向が見られたが、昨今は新興住宅地の建売住宅でも同じ施工が行われているようである。芳しくない景気の中で、手ごろな価格での建売住宅をさばこうという商法なのであろう。
 しかし、こうした「余白」を削ってしまった住環境は、住人たちの生活感覚を極度に圧迫するであろうこと、最悪の場合には何かと住人同士のトラブルを発生させるのではないかと想像させて余りある。時代は、十分過ぎるほどに個人生活の自由が謳歌されている状況なのだから、一昔前に比べて "自由と自由との衝突" が生じやすくもなっているからである。
 したがって、可能であれば隣家との間には、以前よりも十分な「余白」が設けられて良いくらいなのではなかろうか。それが、逆行しているかのような風潮である。

 <「余白」を失った>時代環境は、最終的には<「余白」を削られた人間関係>へと行き着き、さまざまな社会的トラブルや悲惨な事件を発生しやすくさせているようにも思えるのだが、ここはもう少し、<「余白」を失った>時代環境の事例を探ってみようかと思っている…… (2007.12.03)


 誰も "役所" が好きだという者もいないだろうが、自分は、何が "嫌い" かといって "役所" 、 "役人" ほど嫌いなものはない。ひょっとしたら、 "前世" では "役人" にいたぶり殺された経緯があるのかもしれない……。怖いとかというのではない、無性に腹立たしくなる対象だということなのである。
 どこだかの前 "事務次官" が、並外れた形での "収賄" という "汚職" を仕出かしていた事実が次々と明るみに出ている昨今でもある。あきれ返るわけだが、かといって決して "奇異" に感じることはない。要するに、誰もが、そんな事実を珍しいことだとは思っていないということだ。

 つい先日、TVドラマとして放映された松本清張の名作『点と線』を観た。 "たけし" が主役であるのにはやや抵抗を感じていたが、まずまずの味を出していたかに思えた。
 昭和32年を舞台とした社会派推理小説である。何度か読んだ覚えがあるし、旧い映画をDVDで観たこともあった。観ていて最初は、なぜ今、再び『点と線』なのだろうかと思いもした。しかし、その疑念は、観ているうちに見事に氷解したものであった。
 社会風物的環境は、数十年も前の当時と様変わりした現代とでは雲泥の開きがあると思えたが、それとは裏腹に、ある事実とその周囲の事柄だけは、何一つ変わっていない、ということに気づかされたからである。
 それは、言うまでもなくこの小説の一本の太い柱である醜悪な "汚職" 事件なのである。東京オリンピック開催に向けられた道路環境整備にまつわっての "産業経済省" の大臣、官僚、財界人たちによる "汚職" 事件であり、その "隠蔽" 工作ででっち上げられた "自殺=他殺" 事件ということである。
 現在の日本の政界でも、つい先ごろにとある大臣の自殺問題があったわけだし、現時点でも、防衛問題に絡む底知れぬ "汚職" 問題が浮上しつつある。現職大臣が、芬々たる臭気漂う "料亭会合" に同席したのしなかったのという色濃い疑惑も現実に横たわっている。大臣自身が自らの "アリバイ" に言及しなければならないほどに、事態は "グレー" 色に染まっているということなのであろう。少なくとも、「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず李下(りか)に冠を正さず」のことわざを引き合いに出さざるを得ない状況であることは確かだ。
 こうした "情けない" 現実(本当は怖い現実)が、ドラマを観ていて想起されるのを禁じえなかった、というのが実感であったのだ。たぶん、それは自分だけのことではなく、視聴者の少なからぬ者が経験したことなのではなかろうか。

 松本清張は、天才的な構想力と文筆力を持つとともに、激しい "正義感" を燃やし続けた小説家であった。それゆえに一切の "社会悪" を憎悪し続け、この国に構造化している "汚職" 問題を執拗に追及した作家であった。その際、その "隠蔽" のために "トカゲの尻尾切り" として押し潰されてゆく下級官僚の運命などをも怜悧に凝視していた。
 素材が素材であるだけに、清張は、小説をフィクションとして書き上げることだけではなく、『日本の黒い霧』というような、より事実に即した評論活動にも精力的であった。それゆえに、清張文学の中の "汚職" 事件は、単なる架空の出来事というよりも、現実に隠された事実を容赦なく炙り出すかのようなリアルな視点で描かれたのであろう。そして、昭和30年代を舞台としたドラマでありながら、今なお、TV視聴者に、目の前で推移する醜悪な現実に目を向けさせるかのようなインパクトを与えるのであろうか。
 ちなみに、ふと、次の名句を思い起こしたものである。

「死せる孔明生ける仲達を走らす」(死んだあとでもなお生前の威力が保たれていて、生きている人を恐れさせ、震えあがらせることのたとえ)(学研 故事ことわざ辞典より)

【 注 】
 中国蜀(しょく)の名将諸葛孔明(しょかつこうめい)が、魏(ぎ)の司馬仲達(しばちゅうたつ)と対戦中、五丈原(ごじょうげん)で病死した。そこで、蜀の軍は陣を引き払おうとしたが、「孔明死す」の情報をキャッチした仲達はすかさず追撃しようとした。ところが、蜀の軍がすぐに反撃の姿勢をみせたため、これはきっと孔明が死んだという情報は自分を欺くための計略だと仲達は思い込み、あわてて退却した、という故事から。(同上)


 昨日は "役所" のことを書いたが、実は、今週は月曜日の初っ端から "役所" や "役所もどき" の銀行などに日参する日が続いているのである。その理由は、自宅(および本店所在地)の "住所表示" が唐突に変更されたため、それに伴う種々の手続きで奔走しているのである。
 自宅の住所は4桁の番地であり、これは新興住宅地が最初に付けられる番地のようである。しかしその方式は、確かに家が建て込んでくると番地が入り組む結果となり、再検討されなければならなくなるようである。 "何丁目何番地何号" というスタンダードな形式に変更されるということである。
 今回、自分たちが被った決して小さくはない "迷惑" は、この種の流れで発生したものだったはずである。まあ、一応、煩わしい大半の手続きが終了しつつあるので、こうしてやや落ち着きを取り戻して書いているのである。だが、一ヶ月ほど前にこの事実を知らされた際には、激しい憤りが抑えられず、 "役所" 仕事のあり方に不満タラタラの心境であった。
 それというのも、自身側には何の変更事由があったわけでもないのに、突然、 "膨大な手数" が発生してしまい、しかも、その変更時期というのが何かと忙しさが増す "12月1日" だというから、ほとんど "プッツン" の心境となってしまったのだった。
 不満の矛先は言うまでもなく "役所" の行政のあり方に向かった。上記のような理屈がわからないわけではなかったが、それを笑って受け容れるほどに自分は公共精神に満ち溢れてはいなかった。ただでさえ、 "役所" 一般に対して好感を持たない自分は、 "いいかげんにしろー" とでもいうような最悪の心境になったものだった。こんなことは、当初からわかっていたことではないのか、最初の計画時から先を見通した住所表示設定をしておくのが良かったではないか、また、百歩譲ったとしてもどうして今でなきゃならないんだ、何か "隠された事実" があるのではないか……、とまさに自身の荒れる心境を収拾するのに骨が折れる状態であっただろう。
 が、結局は、 "役所" に怒鳴り込むこともせず、結果的には "唯々諾々" のように届出手続きをするに至ったのであった。もし、これが "立ち退き" 問題であったとしたら、一体自分の荒れようはどうなっていただろうかと、……。(そんな時には、ふと、神田駅前のボロビルの立ち退きで何億というタナボタ金を手にした祖父のことを思いだしたりもした……)

 もう、気分は収まりかけているのでこれ以上は書くまい。
 今日書こうとしているポイントというのは、このように自分も経験した "憤懣やるかたない心境" そのものに関してなのである。
 が、断っておくと、 "役所" 攻撃をしようとしているのではない。そうした意向はないでもないが、そうではなく、自分も含めた現代の人間は、どうして "憤懣やるかたない心境" を抱きがちとなるのか、というかなりクールな視点での考えなのである。
 結論を先に言うならば、現代という時代には、人々を "憤懣やるかたない心境" にさせるような発生構造というものが潜伏しているのではないか、ということになろうか。
 現代という時代環境は、一方で "個人的感情" を "野放し" にするかのような虚構的風潮を是認していながら、他方で、その "感情発露" やそれに基づくアクションがほぼ挫折するに決まっているような社会環境を引き摺っているということ、と言えようか。
 かなり抽象的な表現である。どう説明すべきかと迷っている。

 「打たれ強い」という表現があるが、 "打たれ強い" と見受けられる人がそうある理由は、一言で言えば、額面通りに "謙虚" だからということになるのではなかろうか。つまり、自分は打たれてもしようがないほどの人間なのだと自覚するほどに自身を謙虚に把握しているからではなかろうかと思うのである。
 逆に、 "打たれ強くない"者はというと、自身を "傲慢" にも、何者からも非難されたり、まして打たれたりする筋合いなんぞはないと括っているために、ちょっとしたバッシングめいたことが往なせない、という心理構造を持つのではなかろうか。
 別な表現をするならば、環境などに対する "判断基準の高低" が、その人間の感情の行方に大きな影響を与えているのではないか、と言ってもいい。

 昔の人々、しかも苦労人と思しき人々は、驚くほどに "感情抑制的" であり、現代の、それも子どもたちや若年世代の者から見れば、感情というものが無いのではないかと思えるほどに "自我抑制的" であり、冷静であるかに思える。その秘密は、時代の社会環境によって、自身を見る "目線が低く" (謙虚)、また周囲に向かって高望みをしない(期待・目標の水準が低い)、というようなそんな "判断基準" に慣らされてきたからではないか。それらが、時代や社会から押し付けられたものであることは容易に想像できるが、さし当たってその点はおくこととする。
 それに対して、現代という時代や社会と人間の関係は、まるで逆であり、自身を見る "目線は高く" (プライド、傲慢)、また周囲に向かっては大いに高望みをする(過剰期待)人々が多数派となっていそうである。もはや誰も公式的に異論をとなえることが不可能である "個人の自由" と "個人の権利" が、言葉の上では上り詰めている時代環境だからであろう。あるいは、この点に過剰に依拠しつつ展開されている "市場経済" が、この風潮を "増幅" させてもいるかに思える。
 しかし、残念ながら時代や社会のリアルな "器"の方はそれに応じ切れる状態にあるとは言えない。 "器" とは、 "実質的に根付いた制度" というものを想定している。 "個人の自由と権利" は、公式的な制度に謳われたり、"市場経済" で形式的に実施されてはいても、 "個人の自由と権利" の行使を挫折させる環境が渦巻いているのが現状だと認識せざるを得ないだろう。そして、昔の人々が知らなかった "個人の自由と権利" の観念だけを知らしめられた現代人たちは、ここに "耐え難い感情" を発生させることになりそうである。
 この現実は、ほとんど現代の子どもたちが口にする「違うじゃーん! 言ってることとやってることが違うじゃーん!」という言葉で言い表されているはずである。
 考えようによっては、人々が強いられた "耐え難い感情" がもととなって、実質的な意味を持った "個人の自由と権利" がしっかりと盛られる "器" づくり(社会変革)が進んでもおかしくはなさそうである。
 しかし、現実に現れているのは、 "耐え難い感情" の "個人的発露" でしか過ぎない悲惨な犯罪事件ばかりではなろうか。この辺の推移が実に悲し過ぎるわけなのである。
 少なからぬ現代人が抱えた "耐え難い感情" や "憤懣やるかたない心境" の真の原因というものは、一個人に帰着するわけがなかろうと思えてならないのだ。となると、事実を "はぐらかす" 技術にも長けて、弱者同士が無用に相争うことを見て見ぬ振りをする、この時代と社会の構造自体が、ますます "憤懣やるかたない心境" を煽り立てるかのように思えるのである…… (2007.12.05)


 いろいろと能書きめいたことは言えるにせよ、結局、仕事・ビジネスの極意とは、 "他人がやれないことをやる" という一点に尽きるのかもしれない。

 難しいことはさて置き、身近なことを例に出そうかと思う。
 先日、自宅の二階の屋根に登ろうと意を決したことがあった。こんな時のためにと、もうずっと以前に長い梯子、二階の屋根にも届く梯子も入手していた。
 何のためかというと、TVアンテナを調整しようというのであった。現状でも "地上デジタル放送" の大半は映るのだが、何局かが画面が乱れて映らないのである。従来から設置してあった "UHF" アンテナだと、若干 "向き" を変えたり、あるいは "UHF" アンテナ本体を性能の良いものに取り替えなければならないようであった。
 もちろん、専門業者に頼もうかと考えた。3万円前後の支出を惜しんで、取り返しのつかないことになってもつまらない、と思ったからだ。しかし同時に、アンテナの向きをちょいと変えるくらいのことで "プロ" の手に依存するのも癪だという感覚も消えなかったのである。

 若い頃には、高い屋根のてっぺんに突っ立って "纏(まとい)" をぶん回したことも……、それはないが、鉄工関係のアルバイトで3〜4階立ての建物の鉄骨だけの状態にはチャレンジしたこともあった。もう30年も昔の話ではある。
 別に、 "高所恐怖症" なんぞではない。ただ、夢の中で、どこだかわからないがとてつもなく高い場所、しかも極度に不安定な場所でやたらに神経をすり減らしている "体験" は、時々ではあるが経験している。
 それはともかく、先日、思い切って二階の屋根に向けて、その長い梯子を掛けてみたのである。ロープを引くと上に伸びてゆく形態のものであるが、二階の屋根に届いた梯子の先端は下から見上げてみると如何にも遠く、高い所にあると思えたものであった。
 が同時に、 "いや、ちょっと梯子は短いかな?" とも気づかざるを得なかった。というのも、梯子を登って屋根に移動する際、屋根の端の高さよりも梯子の先端が上に突き出ていてこそ、それにつかまりながら屋根へと移動できるはずだからである。突き出た部分がないと、傾斜のある屋根に " 腹這い"にでもなるようにして移動してゆかなければならないだろう。
 まあ、想像していてもしょうがないので、意を決して梯子クライミングをはじめてみたのであった。しかし、梯子は予想以上に揺れていた。 "こんなに揺れていいのかぁ" と思うほどに、上に行くほど揺れるのであった。
 途中、ちなみに "怖い" というのはどんな感じだったっけかなぁ、とバカなことを考えて下の地面の方に眼をやったのである。まだ屋根に届いてもいないのに、その高度感には思わずぞくぞくっとしてしまった。 "ええーっ、自分はいつの間にか高所恐怖症になってしまったのかぁ" という思いに襲われたのだった。
 そんなおっかなびっくりの状態でようやく屋根の傾斜が覗ける高さにまで辿り着くことができた。が、その光景を眼にした時、自分は二つの思いにとらわれたのである。
 ひとつは、何度か夢に見た高所での恐怖というのは、今自分が味わっている "これだこれだ、この感覚だ" という実感であった。足元の梯子はやたらに揺れるし、眼前には、まるで地べたに顔をつけて滑り台の上方を眺めるような威圧的な傾斜の光景が迫っていたのである。そして、そのてっぺんに、屋根の "稜線" を跨ぐようにして天に向かってスックとアンテナが聳えていたのである。足が竦(すく)むとはこのことを言うのだな、とバカな再確認をしたものであった。
 なお、二つ目の思いとは、言うまでもなく、 "ダメだ、こりゃ" であり、この作業はアンテナ工事専門業者に頼むほかないな、という極めてスッキリとした決断以外ではなかったのである。 "下山する勇気" なんぞという奇麗事ではなく、とにかく不測の事態が起こる前に退散すべし、という思いで "下山" するほかない自分であった。

 これなのである、結局、仕事・ビジネスの極意とは、 "他人がやれないことをやる" という一点に尽きる、というのは。
 誰もが、ちょいと知恵や勇気を振り絞るならばできてしまうことは、言ってみれば仕事・ビジネスの対象ではないのかもしれない。素人衆が "足が竦んで" 退散してしまうようなこと、あるいは、これと同等の障壁で隔てられている困難な事柄をこなす、どんな技や度胸や道具を駆使するにせよ、とにかくこなすということ、これが仕事・ビジネスの "プロ" なのだろうと痛感した次第なのであった。
 実感したジャンルは、アンテナ設置工事の "プロ" ということではあるが、この道理はジャンルを問わず納得されることではないかと思っている。
 「お客さん、安くしときますよ」というセリフが口癖となってしまったプロもどきではなく、「じゃあ、ご自分でなさるとよろしいでしょう」と言い放てる、そんな仕事師になれればなりたいものだと痛感したのであった…… (2007.12.06)


 今日でようやく "役所" 通いが一段落できた。今週は、公的な "住所表示変更" のために何度も "役所" やその "仲間" たちへと足を運ぶことになった。大したことでもないのに、この気ぜわしい時期、よくも "ご足労" させてくれたものだと "涙が出るほど感激" させてくれたものである。
 こうしたことの締め括りとして、 "役所とその仲間たち" について、アトランダムにちょいと感想を述べておくこととする。

  "住所表示変更" の "余波" は、当然、クルマの "運転免許証" の記載変更にも及ぶため、所定の警察署へも行かなければならなかった。
 そこでも、小一時間程度、署内のベンチに腰掛けて待たされることになった。暇つぶしに、視野に入る限りの署員たちの "働きぶり" を観察することにした。
 そこの署は交通関係が中心(?)であるのかもしれなかったが、署員たちを見ながら、こういう人たちがいろいろな "事件解決" に奔走しているんだか、振り回されているんだかはしらないが、とにかく関与しているわけだナ、と想像していた。テキパキと事件処理をするような "切れ者、優れ者" はいるのかナ、いや、いるまいナ。そんな署員がこんな "免許書き換え" 事務の部署に張り付くわけはなさそうだナ、どっちかと言えば、こうしたメンテナンス作業に適したような人材が "溜まって" いるということなんだろうナ……、なんぞと大変失礼なことを考えたりしていたのである。
 視界に入る一番手前のカウンターに陣取った署員は、先ほどから、いかにもカッタルイ様子で、斜に構えながら、一枚の書類をひねくり回している。チェックしているふうでもない。暇つぶしにそれらしい格好をしているという雰囲気がありありしていた。何を考えているのかなア、ゆんべの飲み屋での酒のことでも思い出しているのか……。
 が、うつろな目を入口の方に向け、そこから入って来た管理職らしき署員を見るや、急に起立して、敬礼をしはじめたのだった。
 これだこれだ、と自分は思った。警察署内の空気の最大の特徴がこれなのだと。とにかく、何はなくとも "階級意識" とそれが織り成す奇妙な緊張感だけは大したものなのである。市役所にしても、法務局にしても、役所特有の沈滞した雰囲気は共通していても、この種の "空気" ばかりはない。
 しかし、この "作法" とて、それだけのことのようだ。その管理職の姿が見えなくなると、カッタルイ様子の署員は、何もなかったかのように元の椅子に腰を下ろし、再び、書類チェックのポーズを再開していたのだ。
 と、突然、カウンターの奥の方から、大声が聞こえてきた。ベンチに座って待っていた者たちも意表をつかれた観があった。
「何々さ〜ん、おたくの誕生日は、○月△日ですよね。申請書の方に間違いがありましたよ」
と、叫んでいるのは、奥の方でワープロを操作している署員だったのである。
 自分は咄嗟に思ったものであった。えー? そんなのありかい? 今や、どこへ行っても耳にする "個人情報保護" という常識は、この署内では通用しないのかい? と。
 周囲の署員たちも、それに反応するわけでもなく、何でもないような素振りをしているから、自分の方がそんなことに気を回すのが間違いなのかと思ってしまった。

 冒頭で、 "役所" やその "仲間" たちと揶揄したのは、 "銀行" の事である。
 いつも感じるのであるが、 "銀行" というのは、一体自分を何様だと思っているのだろうか。預金者たちを顧客だとしっかりと把握しているのだろうか。
 顧客たちに "整理ナンバー" を発行して、長々と顧客を待たせるというスタイルが、どうも "勘違い" をしているように思えてならないのだ。しかも、カウンターを隔てた向こう側では、女子銀行員たちが "のんびり作業" をしながら涼しげな顔をしている(ように見える)。
 まあ、無理を言って多額の融資をしてもらっているのなら、大人しく待たせて頂くのも道理かもしれない。それとて、十分な金利と担保をとっているのだからビジネス以外ではなかろう。まして、ほとんど "ゼロ金利" の水準で虎の子を預け、貸してくれている預金者たちは、銀行にとっては手を合わしてもばちが当たらない顧客のはずである。お客様は神様か、神様のお子さんまたは身内なのではなかろうか。決して邪険にしてはいけないのである。
 という状況認識をするならば、顧客を、 "役所" のごとく "カウンター" で隔てて(まあ、これについてはセキュリティ上の問題があるのはわかる)、 "役所" のごとく長々と待たせ、 "役所" のごとき "形式主義的書類" を盾に取った対応というのはどんなものであろうか。
 こんなことを再認識したのは、今回、住所変更の手続きをした銀行の中には、 "電話による手続き" で終わったスマートなところもあったからなのである。日ごろ、PC上、ネット上であらゆる事務手続きを済ませている者、きっとこうした若い世代が多くなっているはずであろうが、そんな者たちにとって、昔ながらの "銀行" の顧客対応スタイルは、 "役所" の欠点を真似ているようにしか見えなかったのである。

 今回、久々に "役所" やその "仲間" たちとたっぷりとお付き合いをしてみて感じ、考えたことはいろいろとあったが、ひとつとある感覚を抱いたのは、 "事務効率" や "事務生産性" とかの程度は一体どんなものなのだろうか、という疑問であった。
 市場経済の厳しいコスト競争にさらされていないこうしたジャンルにおいては、ややもすれば低い生産性が据え置きになっている可能性は大いにありそうではないかと思えたのである…… (2007.12.07)


 そんなはずはないのだけれど、今日は "所在無い" という感じで過ごしてしまった。師走のこんな時期、やるべきことはリストアップでもすれば山と出てくるはずなのに、締まりのない一日で過ぎそうな気配である。焦点が定まらないままに過ぎる、と言ってもよさそうだ。
 どういうわけかかというと、中途半端な時間に人が来るという約束をしてしまったからかもしれない。先日来の "アンテナ工事" の件は、結局、業者に依頼することにしたのだが、その業者が見積り作業に来ることになったのだ。
 朝、いつもどおりにウォーキングに出かけると、程なくケータイに業者から電話があり、2時から4時の間に伺いたいとのことだったのである。午前中であれば、午後から自分のスケジュールが立てられると思っていたのだが、いかにも中途半端な時間指定であった。しかし、相手も、あちこち "渡り" で屋根に登っている人のようなので、しかたなく承諾することにした。
 午後までには時間があったので、とりあえず事務所に足を運んだ。そして、ちょっとした片付け作業などをしたり、昼時になったので昼食を済ませていると、また、その業者からケータイに電話が入った。少しスケジュールが前倒しとなったのでこれから伺っていいかと言ってきたのである。そこで、自分は事務所でろくな仕事もできないままに自宅に戻らざるを得なくなってしまったのであった。何のことはない、休日の事務所の点検にでも向かったような感じだったのである。
 自宅に戻ると、業者は既に自宅前にクルマを止めて待っていた。それで、自宅の屋根のアンテナの状況を二人して見ながら、見積りの打ち合わせは10分ほどて終わることとなった。

 今現在、まだ午後5時になってはいないのに、もう外は真っ暗となっている。つまり、この季節では、よほど "主体的に" 行動しないと、あっと言う間に日が暮れてしまうということである。まあ、日が暮れようと暮れまいと時間の流れは変わらないのだから関係なさそうなものではあるが……。
 で、業者との打ち合わせが終わった後、これといった事もこなさずに、こうして書斎でキーボードを打っているのである。その間、何もしなかったわけでもない。便秘気味の内猫の一匹が畳の上に石ころのようなウンチをコロコロと転がしていたのを掃除することになったり、絶え間なくはらはらと落ちて積もる庭の枯葉を掃き寄せてみたり、黄ばんで無残に枯れてしまった植木の葉を取り除いてみたり、そして、ちょいと一服するかとコーヒーを飲んでみたり……と、要するにろくなことはしていない。
 まあ、休日なのだからこんなことで時間を過ごしても悪くはなさそうである。いや、そう言えば、先週と先々週の土日はともに事務所に出ていたはずである。ということは、たまにこうして自宅に留まると "所在無い" 気分となってしまうということなのかもしれない。

 ところで、今、自分が、 "所在無い" 気分という表現に託して見つめようとしていることは、何か別なことであるのかもしれないという感覚がある。極端に言えば、時代や社会そのものが "所在無い" 気分を漂わせているのかもしれないと感じることがあるのだ。
 どういうことかというと、 "所在無い" という状態は、すぐさま、やるべきことが無く退屈という状態ばかりではなさそうだと思うのである。むしろ、動ける "手立て" が乏しいという事態が "所在無い" という状態を往々にして発生させるのではないかと推測するのである。
 つまり、現代という時代と社会は、地球温暖化問題にせよ、グローバリズム経済の歪みにせよ、あるいは国家財政の逼迫状況にせよ、やるべきこと、やらなければならないことは明々白々の形で存在する。しかし、複雑な問題が厚く高い障壁を作り、何から具体化してゆけばよいのかという "手立て" に梃子摺っているかのようである。
 もっと身近な問題を挙げるならば、こういうことも言えるのかもしれない。今、いわゆる "シャッター通り" と称されているような地域商店街の人々は、 "所在無い" 日々を過ごしてはいないだろうか。また、正規社員どころか、派遣スタッフとしての位置にも辿り着けなくなった "ネット・カフェ難民" のような(若い世代の)者たちは、やるべきことは重々わかっていても、 "手立て" が乏しいあまり "所在無い" という状態になってはいないだろうか。さらに言えば、そろそろ始まるであろう "毎日が日曜日" の人々、つまり定年退職という仕切りで "自由の砂漠" へと放逐された人々は、再就職をしなければならないとか、趣味の生活を始めるとかと、やるべきことはわかっていても "所在無い" という状態にならないとは限らないと思われる。

 人が、 "所在無い" 気分なんぞと無縁に行動できる時というのは、得てして "習慣的に" 行動している時とか、きわめて緩やかな変化に対して気持ちにゆとりを持って対応している場合であるような気がする。そして、現代という時代環境は、習慣的な行動を許容せず、またゆとりではなくあせりを押しつけるものだと言えそうだ。
 ここでは、あたかも "果敢な挑戦姿勢" か、 "所在無さ" かというような二者選択肢が設定されているような気配である。そして、その二者がいわゆる "勝ち組" と "負け組" とに繋がっているのかもしれない…… (2007.12.08)


 原油の高騰で諸物価がジワジワと引き上げられるようである。直接的にはガソリン代や灯油代だが、ここから運輸や交通関係(タクシー代など)に影響が出るし、燃料代という文脈から関連サービスや製造領域にも響く。また、石油を原料とする製品、確かティッシュやサランラップなどの生活用品も近々値上げされるとも聞いた。
 そもそも、この原油の高騰という事態は、世界にダブつく過剰なマネーをもとにした "投機" 行動によって生じたはずである。中東地域などの政治的不安が原因だとか、発展途上国の経済成長に伴う石油需要増大などと言い訳めいた表現も耳にするが、原油に目をつけマネーを動かすだけで巨額を手にしているファンド勢力が原油高騰を操っているのは間違いない事実だ。まるで、 "火事場泥棒" の類以外ではなかろう。まったく、金融資本の行動論理とは、他者の不幸を自身の利得につなげるとするという極めて "えげつない" ものである。
 こうした勢力に対しては何を言ってもムダに違いなかろう。必要なのは、彼らの経済行動に "打撃" を与えるような、そうした有効な "カウンター・アクション" 以外ではないはずだ。つまり、原油株価が大暴落する、あるいはそういう風評が広がるような社会的な動きというものであろうが、そんな手立てはないのだろうか。
 ここは、地球温暖化問題解消策と併せて、石油需要の大幅削減、たとえばガソリン車を代替エネルギー仕様車へと急速に置き換えてゆくという社会風潮が活発化されるべきであろう。地球温暖化問題も "カウントダウン" 的切迫状況となっているわけだから、ガソリン車の扱いも急を要するはずではなかろうか。各国政府がこぞって、緊急声明を発表するがいい。

 物価の値上がりが差し迫る中、能無しというよりも、それがホンネであろうこの国の政府は、ぬけぬけと "増税と社会福祉の削減" を掲げはじめている。政府・官僚機構内部での悪臭漂わせるほどの腐敗と税金無駄遣いが溢れているにもかかわらず、そんなことには無神経で、ただただ国民負担を増幅させようとする政府は、とりあえず能が無いのは否定できない上に、それ以上にその政治行政姿勢が "ヒューマニズム" に唾するものだと見受けられる。
 政府は、ここへ来て "生活保護費" の削減を図ろうということらしい。その理屈がまたまた "泣けるほどに素晴らしい" 。国民生活水準が下落して、 "被" 生活保護世帯の生活水準の方が、生活保護世帯よりも低くなったため、 "公平さ" を取り戻すために "生活保護費" の水準の方を押し下げるというのだ。 "屁理屈と帳尻合わせ" 政府万歳賞とでも称して表彰してあげたくなる。
 東京には地盤が低い "ゼロメートル地帯" があるが、当然のことながら、まともな行政であれば、海面よりも低い地域をどう守るのかを考え、対処する。まさか、海面より低い地域なら海となってもらうしかなかろうとは考えまい。こうした馬鹿馬鹿しく、人でなしの屁理屈を、机上でマジに推し進めるところが、今の官僚国家の狂気だと思われる。
 今どき、政府や官僚機構が、正義とヒューマニズムで事を進めているなんぞと誰も考えてはいないであろうが、わたしに言わせれば、もはやそんな水準ではなく "ビョーキ" の域に入り、不安定な判断に陥りはじめているのではないかとお見受けする。憲法9条のみならず、25条の "生活権" まで保護ではなく、 "反故(ほご)" にしようとしているかに見えるからである。 "貧すれば鈍す" のたとえを、国民の先頭を切って仕出かしてどうするというのだ。

 ここでも、国民側がしっかりと "カウンター・アクション" を講じていかなければ、事は正されないだろう。しかし、こんなことに思いを向ける時、いつも腹立たしく思うのは、自身の使命をかなぐり捨てている商業主義的マス・メディアの情けなさである。新聞も購読できず、NHK視聴料も払えない生活保護世帯の存在が、商業主義のマス・メディアの視点、視界から外れるであろうことは容易に想像できはする。しかし、 "戦争" の問題と "生活権" の問題に関しては、先進国のマス・メディアが見て見ぬ振りをするというような恥ずかしいことがあっていいんですかね。
  "高級めんたいこ" の消費期限がどうのこうのといつまでも "サボって" いる場合じゃないでしょ。問題は "おにぎりが食べたい" の水準なんですぞ…… (2007.12.09)


 日常的に使用しているPCのすべてを、ようやくOSからアプリケーションのすべてに渡りアップグレードし終わった。日常的な作業の合間を縫うようにして進めてきたため、思いのほか長引いてしまった。
 それで、またまた手元に転がしていた "バーコード・リーダー" を取り付けた。別になくてもさして困らないものであるが、PCへの "パスワード" 入力をこれで行うと何となく "小気味がいい(音が鳴る)" ので再び取り付けた。
 そんなことをしてみたら、 "バーコード・リーダー" への興味が再び頭をもたげてきたからおかしい。どうということもないが、以前、次のように書いたことがあった。

< "バーコード・リーダー" がもっと日常的に活用できないかと、以前から関心を持ち続けてきた。とかく、キーボードからのデータ入力は煩わしいものであるのに対して、やはり "バーコード・リーダー" による "データ読み取り=データ入力" は、簡便かつ正確という点を評価したいと思ってきた。コンビニなどでレジを通るたびに、 "バーコード・リーダー" の威力というものを知らしめられているからであろうか。きっと子どもたちの中には、アレが欲しくてならない子もいそうな気がする。もっとも、何をしているのか分からない子が大半なのかもしれないが。
 ちなみに自分は、研究用に "バーコード・リーダー" を手元において時々PCに接続して "遊んで" いる。USB接続であるから取り付けは至極簡単なのである。
 書籍の背面に印刷された "バーコード" にあてがうと、赤い光とともにピッという可愛い音を立てる。PC上のテキストエディターや "メモ帳" をアクティブにしておくと、その瞬間に、読み取ったコードを数字の列に変換して表示するのである。
 数字の列といえば、昨今のPC操作では "パスワード入力" というものが頻繁に登場する。慣れてしまえばどうということもないのだが、それでも8桁ほどになると煩わしくないわけでもない。
 そこで、パスワードの数列(アルファベットを含む)を "バーコード" として作成しておき、 "パスワード入力" 時にはそのコードを "バーコード・リーダー" に読ませて処理するという "遊び" をしたりしている。 "バーコードごっこ" なのである。何やら気持ち、便利をしている気分となったりする。…… >(当日誌 2007.09.27 より)

 別に長々と引用することもなかったけれど、 "バーコード・リーダー" に対する "好感度" を速やかに取り戻すために引いてみた。
 というのもその時に、自身の "図書整理" のために、 "バーコード" を活用したスマートな "書籍管理システム" でも作ろうとしていながら、あれ以来そのままになってしまっていたのである。そして、2〜3ヶ月も経つと、その時の "熱意" も、その際に急遽立ち上げた構想も、すっかり色あせて記憶すら薄れていたからである。

 しかし、こうして "思い起こす" と、やはり、この "バーコード・リーダー" で何かちょっとした "小物システム" でも作ってみたいという気になってくる。もちろんというか、別にそれでビジネス上のヒットを出そうなぞと考えているわけではない。むしろ、 "モノ作り" というか、 "システム作り" の基礎感覚というか、そんな姿勢を崩さないいようにしておければいいと思う程度なのである。
 口幅ったいことを書くようだが、まあ、 "遊び" という程度の、こうした日常的なちょっとした学習が、実は、ソフトのジャンルにせよハードのジャンルにせよ欠かせないことなのではないかと思っているのである。
 昨今の技術環境では、高度な水準の製品を普及させているのは結構なのだが、一般人は、その内部や、その仕組みがどうなっているのかという点からは完全に遠ざけられてしまっていそうである。
 クルマが良い例であり、かつては一般人でもボンネットを空けてちょいとした修理くらいはできたし、やったものである。だが、現在では、やたらに "電子基板" が組み込まれて "ブラックボックス" 化されてしまい、まるで手が出せなくなっている。
 何にせよ、ユーザがみずからの活用している製品に関して "無知" であり過ぎるこは好ましくなかろう。まして、関連業種で飯を喰っている者が、技術情報と感覚に無頓着でいいわけがない、と思っている。

 昨今、小中学生の子どもたちが、 "科学とか理科への関心" を希薄にさせているとの指摘もある。その原因には、いろいろな社会的環境が関係しているのであろう。だが、ひとつに、身近な環境において彼らが "接近し易い対象" が少なくなっている、という事情がありそうだと推測している。
 現代の科学の事情は、 "高性能化" したためなのであろうか、素人や子どもたちが容易には接近し難くなってしまったのかもしれない。大人たちにとってのクルマのボンネット内の事情と共通していそうである。これでは、 "モノ作り" 社会は、衰退の一途をたどってゆくしかなさそうだ。大量の "観客的で第三者的なユーザ" たちだけが増大したのでは、 "モノ作り" 社会は成り立たないのではなかろうか。
 別に、PCと "バーコード・リーダー" という取り合わせを強調するつもりはなく、こうした比較的取っ付きやすく、それでいてシステムというものを学べる素材は多々あるだろうと思っている。いずれにしても、比較的アプローチしやすく、そしてコスト的にも安価で、それでいて "IT" とその周辺領域の原理、仕組みなどが実感できる素材が、子どもたちにとっても、また大人たちにとっても必要なのではなかろうか。そして、それらを活用しつつ "体感的に" 技術情報を会得するすることが大切なのだろうと思っている。
  "金融取引" の基礎情報の会得も欠かせないのであろうが、必要なのはそれだけではなさそうだ…… (2007.12.10)


 今日、ほとんど自分の "双子" のもうひとり(?)とも言えそうな、それでいて "見知らぬ方(無署名)" から、貴重な "労作" を郵送していただいた。多分、この日誌をこのように綴っている自分に対して多少なりとも "共感" を抱かれてのアクションではないかと推測している。あるいは、ここで自分が "徒然なるままに" 書き殴っている時代認識は、まだまだ甘いですぞ、これらを読んで認識を深めるべし、というご意図がおありなのかもしれない。または、この国この社会の "悲惨さ" に対する状況認識の手を緩めないようにしましょう、という励ましのメッセージという意味合いも感じられた。
 いずれにせよ、おそらくは、時々この公開日誌にアクセスしていただいている方ではなかろうかと思われるので、先ずは、この場を借りてお礼を申し上げておきたい。

 この "プレゼント" というのは、差出人の署名のないA4大の茶封筒に収められた "書類の束" だったのである。これが、いわゆる "いたずら" の類でないことは、開封してみたら一目瞭然であった。
  "書類の束" とは、数えてみると27ページに及ぶ、A3大コピーの二つ折りであった。そして、そのコンテンツは、新聞記事や雑誌その他の時事報道記事のスクラップを中心にしてアレンジした "壁新聞" ふうの "力作" なのである。
 スクラップ記事の余白には、かなり "筆圧" の高い手書き文字で、この方のコメントがビッシリと書かれている。読ませてもらうと、いずれのコメントも、焦点が明瞭で過不足のない立派なメッセージである。
 これらの雰囲気が、これは「ほとんど自分の "双子" のもうひとり(?)」の仕業のようだと感じさせたのである。

 自分も、以前はよくこうした手製パンフレットを作ったものであった。さまざまなシチュエーションにおいてである。教材として作ったことが最も多かったかもしれない。ビジネス・セミナー向け、社員教育向け、そしてその昔ずっと以前にはアルバイトの非常勤講師で高校の授業のための資料作りであったこともある。
 また、PCを駆使することになる以前には、先ほどの方と同様に "筆圧の高い手書き文字" でビッシリと紙面を埋めたこともあった。だから、そんな当時のアウトプットの "再来" だと感ぜざるを得なかったのである。
 こうした印象を書くのは、もちろん好意的な意味合いにおいてである。この方によってアレンジされたA3大の "壁新聞" からは、まさに "熱意" や "闘志" がふんだんに溢れており、自分自身側の "軟弱さ" が恥ずかしく思えたりするほどなのである。

 「ほとんど自分の "双子" のもうひとり(?)」の仕業と称した理由のもうひとつは、 "27ページ" の紙面にざっと目をやっただけでも、その文面の中身の大半が、自分の問題意識と関心事項としっかりオーバラップし尽くしてしまうのがわかったからでもある。広い世間と言えども、この時代環境をほぼ同一な視点で凝視している方がおられるのだと痛感させられたのである。どのような立場で暮らしておられるのかは不明であるが、おそらく、わたし自身がこの時代環境に対して抱く "憤り" や "悩み" などもほぼ同等、同様に引き受けておられるに違いない、とも感じたものであった。
 ところで、書かれた文面をさらに詳細に読ませていただけばなおのこと明らかになりそうだが、どうも、この方は同年輩の世代の方ではなかろうかという目星も付けている。
 まあ、こんな世代問題はどうでもいいことであり、事の眼目は、時代環境のどんな対象をどう凝視するか、どう認識するか、そして、どう迫ろうとするのか、ということであるに違いなかろう。とにかく、現時点での愁眉の問題は、 "時代環境への現状認識の大きなズレ" が歴然として存在することではないかと思っている。簡単に表現するならば、事実認識を "はぐらかす" ような社会的エネルギーとでもいうものが充満しているということになりそうである。

 もちろん、その「社会的エネルギー」の内訳の筆頭には、現状既得権を貪る政治的保守勢力(経済的勢力)やその手中にあるマス・メディアなどが挙げられるであろう。とりわけ、人々の事実認識、環境認識を "汚染" させたり、 "毒したり" 、 "歪めて" いるマス・メディアの罪状は小さくないだろう。
 常に考えることであるが、現代におけるマス・メディアへの評価は、間違った報道をする、しないというような低レベルな、ミニマムな視点からであってはならないだろう。むしろ、受け手が知り得るマックスの情報に対して十分であるのかどうかという視点で厳しく評価されなければいけないのだと考えている。
 よく、さまざまな裁判で、被告人は "知る立場にあったのかどうか" という視点で問われることがある。これである。マス・メディア、ジャーナリズムは、一般国民を排しての "知る立場" としての特権が付与されているはずである。それは、国民の知る権利に対して還元していくという職業的 "義務" と "対" になっているはずである。
 唐突な例を出すならば、野球における "外野手" は、あのイチローのように、フェンスによじ登ってでも擬似ホームランボールを捕捉するのが正解なのではなかろうか。
 現在のマス・メディアのやっていることは、自身の正面に来たボールだけをエラーのないようにキャッチしているに過ぎず、それをもって守備だと見なしているようだ。また、国民も、そんな守備体制を "寛容に甘やかして" いる。
 こんな風だから、マス・メディア、ジャーナリズムは、 "記者クラブ" という悪しき慣習に絡め捕られて "口述筆記" のテストのような取材しかしないわけだ。

 現代という時代は、どう見ても "情報化時代" である。このマクロな機構をしっかりと視界に入れた上で、柔道ではないが、「効果」→「有効」→「技有り」→「一本」というように現状を変革していく以外になさそうだ。
 読売新聞のおエライさんのどなたかが、薩長連合の仕掛け人たる竜馬気取りで暗躍したとかしないとか、そんな事実の真相さえ臆してお茶を濁しているのが現在のマス・メディアの実態なのであろう。マス・メディア問題が、現時点のこの国の "癌" だという真っ当な診断を、何にも増して早急にすべきなのである…… (2007.12.11)


 民間企業における "偽装" 問題も、国民の関心や注意を喚起すべき事柄ではあろう。しかし、国民にとってさらに切実な問題はほかにいくらでもあるということなのである。
 しかも、国民と政府機関との "公的" 契約が、 "反故同然" となりそうな "事件" が発生していれば、それをつぶさに報じるとともに、 "号外" を出してでも周知徹底させるべきだと言いたい。もし、マス・メディア、ジャーナリズムが "国民の味方" を標榜するというのであれば……。
 ここに至って "政府機関・社保庁" が公表した "年金問題" に関する "アンビリーバブル" な事実は、この国の政治と行政に関する "信頼性" というものをとことん消し飛ばしたと思える。
 とりあえず主な公表事実を書き出すと以下のようになる。

<年金記録「全員特定」の公約断念…厚労相、謝罪は拒否
 舛添厚生労働相は11日、記者会見し、該当者不明の約5000万件の年金記録について、1975万件(38・8%)が社会保険庁のコンピューター上で持ち主を探す「名寄せ」作業では、持ち主の特定が困難であるとし、すべての記録の持ち主を特定するという政府の公約が実現不可能になったことを正式に認めた。
 その中でも、同庁の入力ミスなどが原因の945万件(18・5%)は、最終的にも持ち主の確定が出来ない可能性が高く、年金加入者・受給者が支払った保険料が年金に反映されないという事態が避けられない見通しとなった。
 5000万件の記録について、政府・与党は参院選前の7月5日にまとめた対策で、「2008年3月までに照合・通知を完了する」としていた。
 舛添氏は、この目標達成が難しくなっていることについて、「正直言って、(実態が)ここまでひどいとは想定していなかった」とした上で、年金記録の持ち主の特定について、「作業はエンドレス(終わりがない)だ。(特定が)できないこともある」と述べた。公約違反との指摘については、「(参院選の)選挙戦をやってたときで、意気込みでなんとしても(特定を)やるぞと私も安倍前首相も言った。やり方が悪かったわけではない」などと述べ、謝罪は拒否した。
 社保庁の推計によると、極めて特定が困難と見られる945万件は、氏名の入力ミスなどによるものだ。この945万件は、名寄せ作業では持ち主を特定できず、紙の台帳と手作業で照らし合わせる作業をしても、原本が判読不能の場合もあり、最終的な特定が困難な記録が相当数含まれるとみられている。
 一方、5000万件のうち、名寄せによって、持ち主と結びつく可能性がある記録は2割強の1100万件(約850万人分)にとどまった。1100万件のうち、すでに年金を受け取っている受給者の記録が300万件(約250万人分)、現役世代である年金加入者800万件(約600万人分)だった。
…… >(2007/12/12 読売新聞)

 もしこの "不祥事" を、民間企業が仕出かしたとしたならば、世間は一体何と称して咎めるであろうか。事実上、 "契約不履行" に帰着するような事態( "名寄せ不能" )が一方に存在し、他方で年金保険料の "徴収" だけは行っていたわけであるから、世間を騒がす民間企業の "詐欺事件" と何かどう違うのであろうか。 "立件" がどうであるかは別として、 "書類送検" とされる範疇に大きく踏み込んでいるのではなかろうか。
 この事態の周辺は従前から注目されていたわけで、 "新事実" といえば、 "犯罪的な杜撰さ" ( "名寄せ" の成功率2割、不能率4割! 残り4割は未回答)が公表されたことと、現政府の選挙公約の "反故" や厚生労働相の "開き直り" だということになる。
 こうした状況なのだからこそ、国民は無関心であったり黙殺をしてはいけないと思われるわけなのだ。日頃、構造改革路線で "市場原理" を重視しようとしている政府であるならば、 "コンプライアンス(法令遵守)" くらいはまともに推進してもらいたいものだ。

 ところで、杜撰さの宝庫である "年金問題" には、まだまだ "アンビリーバブル" な事実が隠されているようだ。今日、さらに次のような報道に接して、どう表現したらいいのか困惑してしまったものである。

<無年金者、118万人 保険料、払い損に
 公的年金の加入期間が受給資格の得られる25年に満たず無年金となっている人や、今後、加入を続けても受給権を得られない人が推計で118万人に上ることが12日、社会保険庁のまとめで分かった。これらの人は今後、保険料を払っても年金をもらえず、これまで納付した保険料は戻ってこない。
 このほか今後、任意加入の制度を利用して70歳になるまでの間に保険料を支払えば、受給資格期間を満たせるものの、現時点では25年に満たない人が60歳以上で計37万人いることも判明。この人たちがこのまま保険料を払わないと、無年金者は最大で155万人に膨らむことになる。
 無年金者の中には生活保護を受けて暮らす人も多いとみられ、増え続けると、国や地方の財政を圧迫することになる。社会保障制度全体の中で対応策を検討する必要がありそうだ。
 老齢基礎年金は納付期間と保険料免除期間を合算した期間が25年に満たないと、受け取れない。>(2007/12/12 【共同通信】)

 こんな "理不尽" なことを "見て見ぬ振り" をしているようでは、グローバルな視点で言えば、日本という国が問題視されるよりも、日本の国民自身が "マヌケ" だと受け止められかねないのではなかろうか…… (2007.12.12)


 わが家の猫たちにはもちろん "首輪" をつけている。 "首輪" は、単なるアクセサリーではない。むしろ、 "飼い猫" であることの表示と考えた方がよい。
 ちなみに、よんどころなく庭で飼っている "外猫" たちにも、 "身元保証人" のいることをアピールするために "首輪" をつけている。その一匹は、あちこちに潜り込むようでしばしばその "首輪" をどこかへ引っ掛けてなくしてくる。もう3〜4回も新調してやっている。
 ところで、戸外には出さない "内猫" として飼っている猫たちは、 "迷子" になりようもないのだから "飼い猫" であることの表示としての "首輪" は不必要だとも考えられる。だが、時として、人の出入りの隙を窺って急に外へ飛び出す場合もないではない。そのために、 "首輪" を付け、さらにその "首輪" には小さなペンダントまで付けてあり、そこには電話番号なんぞが刻み込んである。心配性の家内の仕業なのである。

 このところ、 "バーコードリーダー" に関心を寄せ、ここらへんから何かちょっとしたシステムづくりのヒントでも得ようかとしているわけだ。未だこれといったものは浮かばず、あれやこれやとその周囲をウロウロしているだけのようである。
 現在の、 "バーコード" といえば、従来型の "スダレ" か "櫛" のようなコードもさることながら、 "QRコード" と呼ばれる "二次元バーコード" の方がお馴染みになりつつあるのかもしれない。
 それというのも、昨今の "ケータイ" には、 "デジカメ" 機能の延長線上で、従来型バーコード読み取りに加えて、この "二次元バーコード" の読み取りまで果たす機能が搭載されているからである。
 そして、宣伝広告の意図で雑誌やウェブサイトに掲載されたこの "二次元バーコード" を "ケータイ" で読み取ると、 "ケータイ" の画面に情報が表示されるわけだ。どんな情報であるのかは、コードの種類や、コードをどう活用するのかというソフトのあり方で異なるわけだが、概ね、ちょっとした情報、例えば "ID" 的な氏名、住所、電話番号などとか、サイトの "URL" であるとか、あるいは、メール発信のセット情報であったりするようだ。
 いちいち "URL" を打ち込ませて、自社のサイトに閲覧に来てもらうというよりも、 "二次元バーコード" を "ケータイ" で読み込んでもらって簡便にアクセスしてもらった方が便利さとスマートさがありそうだとは了解できる。とにかく、現時点では、PCを持っていない人はいても、 "ケータイ" だけは "お守り袋" のように誰も彼もが持っている時代である。だから、 "ケータイ" でのアクセスを促すような "仕掛け" はおのずから関心を呼ぶのであろう。

 で、この辺の事情認識とビジネス的可能性とを片手間に探ってみようとしているのであるが、技術的情報も含めてまだまだ調査しなければならないことが多い。
 そんな中で、ちょいと冗談めいたことを考えてみたのである。
 現代の人々の関心の高い "三種の神器" ならぬ3つの事柄を無造作に掛け合わせてみると案外良さそうな企画になるのではないかと……。
 それは、 "ケータイ" と "二次元バーコード" と、そして "ペット" なのである。これらの "三原色" がクロスする中央部にはきっと輝かしい "ビジネス特許" もののアイディアが転がっている(かもしれない)。
 例えば、冒頭で書いたペットの "首輪" に付けた電話番号刻印のペンダントであるが、これも悪くはないが、 "従来型バーコード" を "首輪" の帯に貼り付けてもいいかもしれない。電話番号の桁数(10桁前後)であれば十分に可能であり、これを "ケータイ" で読み取るならば、画面にはその電話番号の数字が表示されるわけだ。 "迷子の迷子の子猫ちゃん" の自宅に、電話をして "身柄は預かっているので……" と脅してはいけないが、連絡ができようというものだ。
 さらに、 "二次元バーコード" を添付しておくならば、もっと詳細な "身元情報" を "背負わせる" ことも可能だし、読み取りとともにメールで飼い主に連絡を入れることも造作のないことのようである。

 現代という時代環境は、あんまり難しい次元で勝負しようとしてもうまくは行かないかもしれない。難しい方向ならば、 "万能細胞づくり" くらいの "ぶっち切りレベル" でないといけないようだ。
 みんなが好感を抱いているモノを、無造作に "ごった煮" にするという単刀直入な迫り方が意外と功を奏したりしてね…… (2007.12.13)


  "二次元バーコード" の "QR( Quick Response )コード" で、全角文字テキストを500字前後は収納できることを確認した。
 いや、今日も、 "バーコード" 関連の調査をネットサーフィンしながら行ったのである。この間、特に根拠があるわけでもなかったが、何故か、ひとつの "QRコード" にどれだけの量の文字が託せるのかという興味が募っていた。何がどうということでもなく、2センチ前後の小さな正方形のコードに、一体どれだけの文字数を "隠す" ことができるのか、という単純な興味があったのだ。
 もちろん、盛り込まれた文字は自由に入力できるという条件(エンコード)、また "QRコード" 化されたものを手軽に文字変換できるという条件(デコード)が不可欠である。
 ちなみに、昨日も書いた "ケータイ" の "バーコード読み取り機能" であるが、これがもう少し "量的な許容量" があれば言うことはないのであるが、如何せん、1〜2行といった少量の文字数しか盛り込めない。
 (ちなみに、ここまでの段落 ↑ の文字量を一個の "QRコード" にエンコード&デコードが可能であった……)

 まあ、 "ケータイ" は、メールでやりとりするメッセージ程度の文字数が処理できればOKなのだろうし、ウェブサイトへの接続機能やメール送信といった機能との連結性があるため、 "URL" や "MailAddress" といった少量の文字データが、コードに盛り込まれさえすればそれでいい、ということなのであろう。しかしそれでは何か物足らない気がしていたのである。
 今日、ネット上で探してみた結果、 "フリー・ソフト" の "優れモノ" がいくつかあり、それらのうちのとある "エンコード・ソフト" と別の "デコード・ソフト" とを組み合わせて冒頭のような結果を確認したというわけなのである。
 このとりあえずの結果をどう評価するかであるが、自分としては、原稿用紙一枚分の400字はラクに収納できそうだとわかり、まずまずの納得感、満足感を得るに至っている。もっとも、なぜそうなのかを問われると返答に困るが……。

 ところで、今日の "サイト検索" での成果は、搭載文字量の "目安" が得られたこともそれであるが、もうひとつの成果は、 "QRコード" の "読み取り" と "デコード" は、必ずしも "バーコード・リーダー" という専用ツールを使用しなくとも可能だという点がわかったことである。
 というのも、前述の "デコード・ソフト" がそれだったのである。このソフトのアイディアは実に抜群だと感心させられたものであった。というのも、このソフトは、 "QRコード" が写っている画像ファイルを所定のエリアにペースト(貼り付け)すると、そのデータから、コード分析を処理して "デコード" を行うのである。しかも、その画像ファイルに写っている "QRコード" は、多少斜めに写っていたとしても処理してしまうのである。
 だから、例えば、比較的大写しの状態でのことであるが、商品などの "QRコード" をデジカメや "ケータイ" のカメラ機能で写してきたものを、PC上で "デコード" することができる、ということなのである。
 もちろん、 "ケータイ" の "バーコード" 機能によってその場で "デコード" できるのならばそれで用は足すのであろうが、それが不可であった場合には、 "QRコード" の画像をカメラ機能で写しておけば解読の余地が生まれるということなのである。

 ほとんど、 "お遊び" のような調査なんかしていていいのだろうか、という後ろめたさがないでもないが、こうした "お遊び" めいた試行錯誤をしないと、技術的なビジネス・アイディアというものには辿り着けないとも言えそうだ。もちろん逆に、こんなことをしていても、辿り着けない可能性は大いにあるとも言えるのだが…… (2007.12.14)


 おふくろは、80代半ばだというのに元気そのものである。身体の方も元気なら、気持ちのあり方もまさに元気はつらつ(アリナミンA)である。ややもすれば、気持ちの持ち方という点では、おふくろに劣るようにしょぼくれた若い世代の者たちが多勢いるのではないかとさえ思う。自分でさえ、おふくろの "明朗快活" さには負けているかもしれないと思ったりする。
 今日は、そんなおふくろの誕生日であった。
 もう、 "お誕生会" の方は、近くに住む姉の娘たち(わたしからいえば姪っ子)が、前倒しで祝っていた。おふくろは、そこの "曾孫" たちが可愛くてならないようで常時行き来しているのである。
 そんなふうなので、 "お誕生会" ということでもなかったが、たまにはということで、急遽、家内と3人で夕飯でも食べようということになったのだった。
 突然に決めたことだったので、まともな店は思い浮かばず、しかも今日は土曜日のため大抵の店は混んでいる模様であったし、結局、昔馴染みの蕎麦屋へ行くことにした。そこは、現在の住まいに移る前にアパート住まいをしていた頃、何かあると利用していた蕎麦屋であり、われわれもおふくろもどこか馴染んでいた店なのである。

 おふくろと "膳を囲む" のはしばらくぶりのような気がした。ことによったら、今年のお盆の時以来なのかもしれない。以前は、月に一度ないしはふた月に一度程度は、一緒に温泉旅行などに出かけたものであった。しかし、最近は、家内のお義母さんの具合が芳しくなく、家内が週の半ば近くはケアに向かうため、そんなことをすることから遠ざかってしまっていたのである。
 おふくろと一緒に食事をすると、おふくろは決まって四六時中話し続ける。黙っていると損だとばかりに、次から次へと話し続けるのである。話題だとかテーマだとかという次元を飛び越えて、手当り次第に "くっ喋る" というやつである。だから、今日も一体何が話されたのかよく覚えていない。姉のところの曾孫たちの話があったかもしれないし、買い物に行く店の話が出たようでもあるし、通院している医院の話もあったようだ。まあ、そんなことはどうでもいいのである。

 こう振り返ってみると、おふくろの頭や心の中は、すべて "お喋り" によって表面化しているような気がする。頭や心の中にだけあって、 "お喋り" としてアウトプットされないものはどの程度あるものか、疑わしいような気さえする。
 川柳だかに、「江戸っ子は五月の鯉の吹流し 口先ばかりで腸(はらわた)はなし」とあるが、おふくろは、まさにそんな江戸っ子気風でありそうだ。 "深慮遠謀" なんぞとは無縁であり、口から飛び出る言葉通りの中身でありそうだ。だから、トランプなどをしていても、ポーカーフェイスなんぞという "高等な芸" は出来ずに、良い手に巡り合うとウキウキ顔となるし、そうでない時は渋い表情をモロに見せてしまう。
 ただ、自分でも言うように、言っていいこととそうでないことはわきまえているようだから、 "秘蔵" されていることがないわけではないのだろう。当たり前のことではある。だから、時々、「今まで黙っていたんだけどね、……」などと年に一度くらいの頻度で語り始めたりすると、こっちがドキッとしてしまうくらいである。
 そんなおふくろであるから、タイプの違う人からは誤解されてしまうようだ。単なるオッチョコチョイだと見下す人もいるし、また逆に表出された言葉を過大評価してしまって過剰反応する人もいる。

 まあ、当人の言葉と、その言葉が当人の頭の中や心の中に張った根のありようや深さというものは、推測することも難しければ、土台その近辺の状況を科学的に考察することも難しい問題であろう。この辺の問題は、人間の心理(深層心理)、脳科学、人格などといったジャンルに積み残された難しいテーマのひとつなのであろう。
 そんな難しい次元の話はともかく、おふくろの "饒舌" というか、 "くっ喋り" というか、それは、今のわたしにとっては、煩わしく鬱陶しいものではさらさらないのである。確かに、思春期の頃を中心とした一時期には、いたたまれない心境とさせられたこともなかったわけではなかった。
 しかし、今は違う。空々しい無味乾燥な言葉もどき、刺々しく角ばった言葉もどき、他人を支配しようとの意図だけで構成された言葉もどきばかりが飛び交うご時世で、 "体温で温めた言葉" "ナイーブな言葉" しか口にできない人の話は、実に心地がいいと言うべきなのである。それは、ろくに嘘もつけない子どもたちの話と同様に、実に安心できる、実に楽しい気分させてくれる貴重で希少価値のあるもの以外ではない。
 しかも、 "五月の鯉の吹流し" のように、腹に貯めない生き方がもたらす賜物であるに違いない "明朗快活" さというものは、とかく元気を喪失しがちな気分にまるで発破が掛けられるようであり、これもまた歓迎すべきものなのである。
 今夜も、「さぁ、これであと15年はがんばらなくちゃ!」という "燃える闘魂" 風の言葉を聞かされたのは、誕生日プレゼントへのお返しの言葉としては、何よりも有難いものであった……(2007.12.15)


 「窮鼠猫を噛む」ということわざがある。言うまでもないが、 "追いつめられた鼠が猫にも食いつくように、絶体絶命の窮地に追いつめられて必死になれば弱者も強者を破ることがある" (広辞苑)の意である。 "窮鼠" の側に立つならば、「背水の陣」という意味に近くもなりそうだが、一般的には "猫" 側というか、 "追いつめる" 側に立ち、 "退路" を断ち切ってしまうような迫り方は慎むべきだ、という道理を説く場合が多いかと思われる。確か、 "孫子(そんし)の兵法" でもこの意味での戒めがあったかと思う。

 この時代自体が、自由とは名ばかりのぎすぎすとした<「余白」を失った>時代環境 を作り出していることは以前にも書いた。[<「余白」を失った>時代環境と、<「余白」を削られた人間関係> (2007.12.03)]
  "IT" は、 "自由と便利さ" をこそ目指して活用されるべきであるが、現状は "支配・管理と収奪" の道具として利用され、総じて、そうした目的が達成され易いように社会全体を "密閉構造" 的に仕上げようとしている。 "鼠" 一匹、場合によっては "蟻" 一匹の這い出る隙間もなく! というのが為政者たちの思惑なのであろうか。
 しかし、それならそれで真に "パーフェクト" に仕上げてもらいたいものだが、ネット犯罪にせよ、詐欺事件にせよ、あるいは銃犯罪をはじめとした凶悪犯罪などが後を絶たないのが実情だ。
 要するに、善良な市民たちにとっては「余白」が感じられないほどにぎすぎすとした密閉構造でありながら、犯罪者たちにとっては "穴だらけ" 、 "隙だらけ" の楽天空間でしかないというマヌケな構造となっているように見える。どこかこの構造が間違っているように思えてならないのである。

 そう考える時、冒頭の「窮鼠猫を噛む」ということわざに潜んでいる、 "退路を断つ" ことを危険視する昔の人々の洞察力の鋭さに感心するとともに、現代の支配層のマヌケっぽさにげんなりするのである。過剰にロジカルなシステムというものを妄信して、肝心なことを度外視する結果となっているのではないかと痛感するからである。
 このイメージを髣髴とさせるためには、 "免疫性" という話題を出すことがふさわしいかもしれない。過剰なシステム妄信派からするならば、人が病気とならないためには、発病原因と思しき "病原菌" をシャットアウトすればよい、ということになるはずだ。そして、そのためには、人々の住む空間を "無菌状態" にすることが手っ取り早いはずだ、となるのであろうか。
 しかし、 "病原菌" ともなる "菌" というものをこの世から "ジェノサイド" することは不可能であるばかりか、 "菌" 一般に視野を広げるならば、 "菌" というものは "悪玉" ばかりか "善玉" もいるらしいではないか。
 またさらに、人の身体というものは、 "菌" に対して "対抗的" な働きをする "免疫性" という機能が備わってもいる。この機能は、些少の "菌" に遭遇することで発動するようであり、むしろ "無菌状態" にあっては "免疫力" 一般が低迷するようなのである。
 そしてそんな無抵抗な身体に、突如、 "菌" が浸入してきたならば悲惨な結果となるのではなかろうか。まして、人の住む環境を "無菌状態" にしようと "菌" の退路を断とうとする過程では、「窮鼠猫を噛む」ごとくに、凶暴さを突然変異的に強化する "菌" も発生するというではないか。
 とするならば、環境側を "無菌状態" とすることである種のリスクを高めるよりも、適度の "有菌状態(自然状態)" にしておくことで、人の身体側の "免疫力" 一般を健全に維持させておく方が、はるかに聡明ではないかと思うのである。

 人の世と、 "菌" の世界とを同一視することには無理もあるだろうが、しかし、何と少なくない類似性が眼につくかと思えるのである。
 「窮鼠猫を噛む」ということわざに耳を傾けた古人たちは、鼠を撲滅する知識技術を持ち得ない時代であったからそうしたのではなく、物事を一方的に封じ込めるがごとく強行しようとする時、予期し得ない事態が到来することを生活実感で緩やかに洞察していたのかもしれない…… (2007.12.16)


 今頃の時期というのは、子どもたちにとってはウキウキ、ワクワクする時期なのであろうか。寒さが強まったり、学期末のテストがあったりはするのだろうけれど、クリスマスが控えているし、その先には冬休みもあれば正月もある。
 今の子どもたちが、この時期にどんな心境で過ごしているかはわからない。ひょっとしたら、自分のような、 "のんびりとした昭和の時代" が子ども時代であった年寄りの思い出とは大きく異なっているのかもしれない。

 年の瀬になると、何故だか、子ども時代の頃の年末・年始の思い出がよみがえってくるのである。ちょうど "ALWAYS 三丁目の夕日" の雰囲気さながらの、貧しくはあれ誰もがどこか "ウキウキ、ワクワク" していたような当時の思い出がサッとよぎったりするのである。
 子ども時代であったから周囲の世界を大雑把に楽観視していたのだと言うこともできよう。だが、昭和30年代という時代が自前で持っていた "明日への気運(?)" とでもいう空気が、子どもたちにも、また大人たちにも、 "前途に開かれた気分(?)" のようなものを抱かせていたのかもしれないとも思う。
 とにかく、当時の思い出というのは、まさに自身が子ども時代さなかにいたことと、また時代そのものが "明日しか持たない" 子どもたちのようであったことに因るのであろうか、どこか "ウキウキ、ワクワク" の色調を帯びているのである。そして、その色調が最も色濃く頂点に達するのが "年末・年始" だということになりそうなのである。

 今日は、興味の尽きない昭和30年代の時代そのものについてはおくとして、子ども時代特有の心境とでもいうものについて書こうかと思っている。
 要は、何故子どもたちは "明朗快活" であるのか、ということであり、その逆に、何故大人たちはそうした掛け替えのない貴重なものを次第に喪失してしまうのか、ということになるのかもしれない。
 身体の "若さ" というハードウェアがそうさせているのだと言ってしまえばそれまでであるかもしれない。しかし、それだけのことなのかなぁ、と思ったりもする。
 子どもたちの姿、そこにはベビーカーで運ばれている赤ん坊から、登下校でワイワイと騒ぎながら歩いている小学生の姿などがすべて入るが、それらに目を向ける時、ふと、唐突に考えさせられることがあったりする。一体彼らの視界には何がどう映っているのだろうか、彼らの頭の中や心の中にはどんな思いが蠢いているのだろうか、ということなのである。

 まあ、犬や猫の姿を見る時にも、そんなことは考えさせられたりもしている。例えば、 "お預け!" の指示で食べ物を目の前にして待機姿勢をしいられている犬などの顔を覗く時、こいつの頭の中にはどんな観念があるのだろうか、と意地悪く想像することがある。この場合はさして難しい想像をする必要はなく、思考のほぼすべてが "早く食べたい" という衝動一点に集中していると解釈できる。その一点からいくら外に向かって関心事に関する同心円を広げるようなことをしたとしても、どこまでも "早く食べたい" という衝動一色で塗りつぶされていそうである。
 じゃあ、もう少し高等な脳を持っている子どもたちの場合はどうなのか、ということになるのである。
 今、上で "関心事に関する同心円" と書いた。子どもたちの脳や心には、犬や猫の "衝動一点張り" の状態とは異なって、成長するにしたがって、直接的な衝動の塊の周囲に次々と、異なった思いや考えという間接的な層が広がってゆき、多層の同心円を形成していくのではなかろうかと、とりあえずそんなふうにイメージしている。この同心円状に広がる層とは、当人における視野・視界だと見なしてもいいのだろう。

 何だか、持って回った表現をしてしまったが、子どもたちの "同心円" で構成された層、すなわち視野・視界は、当然のことながら大人たちのそれに比べれば、圧倒的に小さい、あるいは狭い、と考えられよう。
 そして、この視野・視界の狭さというものこそが、子どもたち特有の "明朗快活" さを生み出す根拠となっているように思うのである。
 大人たちはと言えば、この "同心円" は限りなく拡大し、視野・視界も同様に広がっている。しかし、拡大したり広がったりしたものが、正直言えばよく掌握されていなかったりして、単に中心部分の衝動の発露を妨げる結果にしかなっていなかったりするのかもしれない。あれこれと "思い煩う" 優柔不断の図なのである。

 奇妙な図式化をしてしまった。単刀直入に言うならば、歳を重ねた者が、 "明朗快活" な子ども時代を羨望のまなざしで振り返るというのは、ゴテゴテと厚着をして着膨れ気味となり、まるで身動きがとりにくくさえなってしまっている、そんな現状の居心地悪さと表裏一体の関係にあるのではなかろうかということなのである…… (2007.12.17)


 昔、こんなことを考えた。
 「知らぬが仏」ということわざがあるが、そうした観点で考えると、 "知る、情報を得る" ということは、必ずしも "全面ハッピー" ということにはならないのかもしれない、といった "シニカル" な思いなのである。
 こうした発想が "シニカル" であることは重々承知しているが、逆に "何でも知ること" が良いことだと決めつけてみたり、ただひたすらに "情報量拡大" を賛美するような姿勢というものが、いかにも能天気でしかないのではなかろうか、と思ったのである。
 情報が "溢れる" ことを賛美するかのような "情報化時代" とか、もっと言えば、情報流通の "垣根" を取っ払って、世界中の個々人が "世界中の情報" に接することができるというような "グローバリズム" の趨勢というものは、そんなに "バラ色" の出来事なのであろうか、と首をかしげたものであった。
 昨日も書いた。子どもたちの "明朗快活" さというものは、ひょっとしたら "知ることの少なさ" ゆえに成立している部分というものがあるのではないか、つまり「知らぬが仏」さまの "明朗快活" さなのではなかろうか、と。
 別に、子どもたちを馬鹿にしているわけなのではない。知らないでもいいことや、知る必要のないことをごまんと手に入れてしまって、それがゆえにそれらに押し潰されかけている大人たちよりはるかに幸せだと、正直感じているのである。

 暫定的に結論めいたことから書いておくと、 "知る" ということには何がしかの "前提" というものが必須なのではなかろうか。 "知ったこと" を "処理する能力" というようなものを想定しているのである。 "処理する能力" とは、 "消化能力" のことだと考えてもよさそうだ。
 もし、そうした "能力" が伴わずに、 "知る" ことやその可能性だけが膨張していくと、これは決して心地よいことであるどころか、不快感や苦痛へとつながる可能性も大きいような気がする。
 と言うのも、 "知る" ということは、それによって被るさまざまな影響を保持し続けるということであり、自身に "負荷" を掛けるということなのではないかと思うのである。これは、 "知ったこと" が脳内でノーマルに "処理" (=理解)された場合のことであり、もし、 "消化不良" (=疑問として残る)の場合はさらに自身に強い "負荷" を掛け続ける酷いことになるはずである。

 これも昔考えたことであるが、ひとつの "図式" を例に出してみる。
 今、一枚の用紙にほどほどの大きさの "円" を描いてみる。そして、集合論的に、その "円" の内部の領域と外部の領域とに着目する。
 仮に、 "円" 内部の領域は "知ったこと" の累積を表し、 "円" 外部の領域は "未知の事柄" 群を表すとする。
 そうするとどういうことがわかるかというと、先ず、一枚の用紙という設定がおかしいということになろうか。つまり、これは無限の広がりを持たなければならないからだ。
 次に、 "知ったこと" が増えてゆけば、 "未知の事柄" 群が減ってゆき、これは "円" の拡大ということになるのだろうと了解される。
 それはそうとして、この "円" の "円周" とは一体何か、ということである。 "知ったこと" と "未知の事柄" 群とが接しているこの "円周" は一体何を表すのか、ということなのである。また、ちなみに "知ったこと" が多くなり "円" が大きくなると、その "円周" も当然 "長くなる" ということにも気づく。
 そうしてみると、この "円周" とは、 "未知の事柄" 群に接し、直面することの、その大きさではないか、というアナロジーが成り立ちそうなのである。つまり、 "未知の事柄" 群の存在に気づく可能性だと言ってもいい。
 要するに、 "知ったこと" が増えれば増えるほどに、 "未知の事柄" 群を気づきやすくなる、知れば知るほどに知らないことが増えてゆく、ということになりそうなのだ。

 こんなことを書いたのは、 "無知を知る" というソクラテスを引き合いに出したいがためではない。上で書いたように、 "知る" ということは、 "知らないこと" にますます意を払わざるを得なくなったりして、自身の "負荷" が増大していくことなのだろうと思うのである。
 この増大する "負荷" に耐えてゆくことをも含めて、上記の "処理する能力" とでもいうものが強化されていかなければ、バランスとでもいうようなものがとれないだろうとも思ったりするわけなのである。
 昔は、よく "頭でっかち" というような悪口が聞かれた。知識などを受け売りにするような者に対して言う批難の言葉である。そう振り返ると、現代人はこぞって "頭でっかち" となっているのかもしれない。さらに、溢れる情報に対して重篤な "消化不良" 症状となり、食傷気味どころか "拒食症" = "情報アパシー(無関心)" となってしまったり、正常さを欠く事態にまで至っているのかもしれない。
 ますます "処理" し難い情報量となってゆく "グローバリズム" が進展するのは不可避であろうから、情報量自体にブレーキを掛けることは不可能に近い。とすれば、情報群を "処理する能力" 、 "消化能力" というものを、個人側がどう逞しくするのかということ以外には手がなさそうな気がしている…… (2007.12.18)


 この国日本は、 "横睨み" に長けていて、 "物真似が上手い" 国ではなかったのだろうか。そうした特有の傾向が、国内的には "集団主義" をスローガンとしつつ経済成長においても目を見張る飛躍を遂げることにつなげた。国際的にも、そうした傾向が奏功して国際協調路線でつつがない成果を挙げそこそこの水準にまで到達したのだと思える。
 しかしどうなのであろうか、日本という国の内外情勢を垣間見ると、だいぶ事情が異なってきたような印象を受ける。 "横睨み"・"物真似"・"集団主義" といった、良い悪いの評価は別としての、そんな特徴が次第に希薄となり、かといって理念に依拠した "主体性" とも言えるほどの安定感が窺えるわけでもなく、言ってみれば "根拠の薄い孤立" 、 "成り行き任せの孤立" という最悪パターンをとぼとぼと歩んでいる、あるいは漂流しているような雰囲気を感じるのである。先ずは、そんな漠然とした印象を受けるのである。

  "横睨み"・"物真似"・"集団主義" と呼んだ傾向は、要するに "<非>主体的" ということになりそうだ。個人にせよ、国にせよ、 "主体性" というものが仮にもあるならば、他人、他国を気にしての "横睨み" もしないだろうし、まして "物真似" もしないだろう。また、 "主体性" が強ければ、 "集団主義" に身を任せることも困難なはずだ。だから、 "<非>主体的" であるからこそ、 "横睨み"・"物真似"・"集団主義" という行動スタイルに行き着いたのだと、ひとまずは考えられる。
 そんな日本人や、日本という国が先ず先ずの首尾でやってこられたのは、ひとつには、時代環境の変化が緩やかであったことと、 "横睨み"・"物真似" する<対象>がほぼ確定していたため、迷うことがなかったからではないかとも思える。
 その<対象>とは、米国のことだと言える。とにかく、米国(の実情)を見つめ、模倣し、関係としても "同一化" していれば、何事においてもほぼ順当な結果が得られたという時代が長く数十年も続いてきたわけだ。
 しかも米国が、あらゆる面で "先進的" で "順風満帆" であり、なおかつ国際的にも文字通りの "優等生・模範生" である間は、その国を模倣し、同一化したところでさしたる問題も生じなかったと言える。

 しかし、 "ドル崩壊" とささやかれるほどに米国経済が困難に直面したり、ここに行き着くような強行な "グローバリズム" 路線を各国に強いてみたり、また国際政治・軍事情勢においても "優等生・模範生" らしからぬ動きを "連発" し続けたりということになると、当然、日本の "米国追随主義" にもいろいろと火の粉が降りかかってくるのだろう。いや、現に今の日本の実情はその結果だと言ってもよさそうである。
 さまざまな変化の中で、米国自体が "孤立化" の兆候を見せたりもしているわけだし、そうだから米国自体が国際的立場において苦慮するからか、米国の対日関係も "微妙" となってもいそうである。従来のような "丸抱え子分" という関係が維持できずに、昨今では、突き放す局面、あるいは "負担の強化" を強いるという局面が増え続けている気配ではなかろうか。
 要するに、日本の "米国追随主義" 路線の "ハネムーン" の時期はとっくに過ぎ去っているはずなのであり、それでもなおかつこの路線に依存し続けているところに理解し難い問題が吹き上がっているように思えてならないのである。

 強者の "腰ぎんちゃく" となって "空威張り" している輩が、強者が躓いた際に、立場を失ってしまい "孤立" するというような話は、昔から言い伝えられていたかに思う。日本という国を、米国の "腰ぎんちゃく" だったとまで明言する勇気はないが、とにかく日本は、国際関係において "孤立" してゆく懸念を払拭するためにも、 "主体的" とまではゆかないにしてもせめて "自立的" であることを強く念頭に置くべきなのではなかろうか…… (2007.12.19)


 昨日は、「孤立深める日本」というフレーズを借りて、日本の不安定なスタンスについて書いた。実は、このフレーズの出所は、新聞報道における<孤立深める日本 「死刑停止」の国連決議で>( asahi.com 2007/12/19 )という新聞報道であった。
 この "死刑制度" をどう扱うかという問題は、今、国際世論のひとつの焦点となっているばかりか、各国における "国の未来に関する基本選択" をも指し示しているかのようであり、この問題は何か象徴的な意味を持つように思えたのであった。

 あらかじめ言っておくと、自分は、 "冤罪" を生み出す社会環境を放置したままで "死刑制度" を実施していくことは論理的に間違っている、と考えている。
 まして、この国日本では、 "冤罪" を防ごうとする社会的な動きはまだ始まったばかりでしかなく、現に、つい最近においても "冤罪" であったことの事実が少なからず社会問題となった。こうした事実すら、メジャーなマス・メディアは報じることを忌避しているかのような空気もあり、 "死刑制度" についてのオープンな国民的議論がなされているとはとても言いがたいであろう。
  "死刑制度" の存続自体が、凶悪犯罪抑止につながっているのかどうかという点にせよ、定かな根拠があるとは言い切れないようだ。(この点は、上記の<国連決議>でも指摘された。)象徴的に言ってしまえば、犯行後に "自殺" に及ぶような凶悪犯罪は、 "死刑制度" によって抑止されるわけがない。発生している犯罪の実態をしっかりと踏まえた論理的な議論がなされるべきではなかろうか。人の命は尊いというような当たり前の事実を推す観点や、あるいは博愛主義の姿勢から考えているわけではないのである。
 シニカルな言い方をするならば、 "死刑制度" なぞという野蛮な手段に頼らなくとも、犯罪を抑止できるような社会構造や社会状況を作り出すことに精を出せと言いたい。

 ところで、国際社会とその世論の動きにどう向かい合うのかという問題が、現在ほど重要な時代はないのではなかろうか。言うまでもなく "地球温暖化現象" という大問題がそのことを明確に示している。が、問題はこれだけではなく、 "グローバル" 時代にあってはさまざまな事柄が "ボーダレス" となっているために、 "グローバル" 時代と対応するかのような "国際世論" というものがこれまでになく重視されるべきなのであろう。
 ところが、この国日本の政府のスタンスは、まことに "お粗末" 極まりない。冒頭の新聞報道は以下のように伝えている。

<孤立深める日本 「死刑停止」の国連決議で
 国連が18日、死刑の執行停止を求める総会決議を初めて採択した。「世論の高い支持」を理由に死刑制度を存続している日本は、今年は年間で77年以降最多となる9人の死刑を執行するなど、世界の潮流とは逆行。国際的な孤立を深めている。
 「世論には死刑制度や死刑執行にかなりの支持がある。国連の決議があっても我が国の死刑制度を拘束するものでは、まったくない」。決議を前にした18日の閣議後の記者会見で、鳩山法相は語気を強めた。「死刑を存続するかしないかは内政の問題だ」という政府の立場を改めて強調するものだ。
 凶悪犯罪に対して厳罰を求める声を背景に、このところ日本では死刑執行のペースが上がる傾向にある。鳩山法相は今月7日、3人の死刑を執行した。前任の長勢法相の執行人数も10カ月の間に10人を数えた。鳩山法相の「死刑自動化」発言をきっかけに法務省内に執行のあり方を検討する勉強会ができたり、執行対象者の氏名を公表したりする動きはあるが、執行停止や制度廃止に至る論議は低調だ。 …… >( asahi.com 2007/12/19 )

 法相は、<「死刑を存続するかしないかは内政の問題だ」>などと、まるで "主体性" のある国の法相であるかのような発言をしている。こうした発言がしたいのであったら、米国から "裁判員制度" なんぞ押し付けられたことに対しても、「内政の問題だ」と何故拒絶しないのか。それとも、 "裁判員制度" なるものは、 "内政的" なヒストリーが必然的に生み出したものとでも言いたいのであろうか。口から出まかせもほどほどにしてもらいたいものだ。

< 国連総会の決議に法的拘束力がないことについて、神奈川大法科大学院の阿部浩己教授(国際法)は「法的拘束力がないことだけで議論を進めれば、国際社会の営みは限りなく意味がなくなる」と指摘する。
 日本は総会に「北朝鮮の人権状況を非難する決議」などを積極的に提案している。阿部教授は「自国に有利な決議は最大限利用し、不利なら『意味がない』では説得力がない。日本は決議に反対することによってどんな社会を実現したいのかを主体的に示すべきだ」と話す。>(同上)

 これぞ良識のある国際感覚であろう。ちなみに以下の報道も付け足しておこう。なんだここでも日本のスタンスは米国の "腰ぎんちゃく" だってぇことか、という事情がよく伝わって来るというものだ……。

<国連総会、死刑執行停止求め決議 大差で採択
 国連総会は18日、死刑執行の停止を求める決議案を賛成多数で採択した。日本を含む死刑制度の存続国に対し国際世論の多数派が「深刻な懸念」を示した形だ。決議に法的拘束力はないが、存続国には死刑制度の状況を国連に報告するよう求めており、制度の見直しへ向けた国際圧力が高まるのは確実だ。
 国連加盟国192カ国のうち、欧州連合(EU)のほか、南米、アフリカ、アジア各地域の87カ国が決議の共同提案国になった。採決は、賛成104、反対54、棄権29。死刑制度を続けている日本、米国、中国、シンガポール、イランなどは反対した。…… >( asahi.com 2007/12/19 )

 「孤立深める日本」というフレーズは、別の重要課題( "ワーキングプア" 問題!)でも当てはまりそうなのであるが、この点は後日に回す…… (2007.12.20)

◆ いまさら "UFO" の有無よりも、 "USO" (偽)が多過ぎることの方が問題だっちゅーの!!


 ウォーキングをしていると、ちょっとした街の変化に気づこうというものだ。
 そんなひとつに、土木工事や建築工事がある。旧い建物の取り壊しであるとか、新築の工事などである。他人様のことなのだから関心を向けたところでどうなるものでもない。しかし、ほかに考えることとてないウォーキング中には、いろいろと考えたりする。
 事務所近辺でのウォーキングは、距離にして1キロ程度という小範囲なのであるが、その範囲で、この間、二箇所の建築工事に気づかされた。
 何ができるのだろうかとさして気にするふうでもなく気に留めていたところ、その一箇所は、 "やはり" という勘どおりに、小規模な "集合住宅(アパート、マンション)" が仕上がっていた。
 もう一箇所は、取り壊しの過程で人目を引いていたが、まだ何が建つのかはわからない。しかし、どうも、やはり "集合住宅" となる気配が濃厚である。というのも、その近辺は普通の民家ばかりであり、店舗や事務所向けとなることは考えにくいからである。

 そうした動きを見るにつけ、 "わかるなぁ" という気になるのである。ちょいと "小金(こがね)" を貯めた中高年夫婦が、今後のことを考えた時、 "集合住宅" によって "安定した家賃収入" を得るという方策は、誰しもが考えて当然だと思えるからである。ただし、 "先立つもの" があればの話だが……。
 すでに "集合住宅" として出来上がった方の場合は、明らかに "庭を潰す" という犠牲を払ったようである。その工事に気づいた時、えっ、ここに何を建てるというのだ? 狭過ぎるじゃないか、そうか、よんどころなく身内の者のための家でも建てるのかな……、なんぞと推測していた。
 が、ジャジャ―ンと工事用のテントが取り払われてみると、二階建ての建物であり、各階に三戸の部屋がありそうな、どうみても "集合住宅(アパート)" なのであった。
 その光景は、十分に想像させたものである。つまり、オーナーたち夫婦が、 "老後の安定した収入" を意図したものなのだろう、という月並みな想像である。
 まあ、他人様のことなので余計なことを考えてもしょうがないのだが、果たして、オーナー夫婦の "切なる願い" は順当に果たされるのであろうか、と考えたりしたのである。
 資金的余裕があれば、老後のために "集合住宅" に投資するという話は、かなり一般的な "安全策" だと見なされてきたのであろう。しかし、果たして現時点でも "有効策" なのであろうか、という疑問がないわけではないのである。
 おそらく、銀行を含めた関係業者たちは、相変わらずこの種の方策を勧め続けているに違いない。まして、現状は建築業者たちにとっては "真冬" のようだからだ。 "耐震偽装" 事件の余波として、建築基準法が厳しい審査となり、どうも建設認可が降りにくくなって、仕事量がめっきり減っているらしい。また、銀行とて、危ない中小企業に貸し付けるより、こうしたケースの手堅い担保のある安全なケースの方に関心を向けているとも考えられる。
 だが、業者たちの都合はそれとして、 "時勢" が味方してくれるかどうかの問題なのである。と言うのも、先ず、少子化傾向が導き出す住宅事情という観点があろう。一昔前のように、よほど "遠・高・狭" の住宅でなければ、有り余る住宅需要によって次から次へと居住者が決まるといった時代ではなくなっていそうである。
 また、昨今の "賃貸住宅" は、当然のように "高い水準の快適性" が求められているとも聞く。 "オーナー" たちが若い時代に体感していたであろう慎ましやかな "居住感覚" なぞはまったく通用しない時代のようではなかろうか。

 こんなことを考えていた時、現時点での "不動産投資" はかなり難しい状況となっていることを述べた以下のような記事を目にすることになった。

<…… 景気は順調に回復中との政府の認識にもかかわらず、Tさんの物件で想定している借り手層の所得は上がっていないうえ、物価上昇という『見えないインフレ』が生じ、賃料のデフレスパイラルが起こっているのだ。やがて、ついに毎月の家賃収入が、ローンをはじめとする各種の支出を下回り始めた。
 そのうえ最近、近所で売りに出された新築マンションも、モデルルームのオープンからもう半年になるというのにぜんぜん売れていないらしい。来年3月の完成時までに、もし、大幅な値引きが行われ、『家賃を払うより買ったほうがいい』とばかりにマンション購入に走る向きが増えれば、ますます賃貸市場は厳しくなってしまう。…… >(長嶋 修氏:ジリ貧、ある不動産投資家の憂鬱 2007/12/19 nikkeibp.co.jpより)

 現在、住宅問題で言えば、国際的トップニュースであり続けているあの "サブプライム問題" がある。その問題は、複合的な原因があると言われているが、基本は "不動産投資" なのであり、その "山と谷" の劇的推移だったのだと思われる。もはや、 "谷" となっているばかりか、その底なし的な深さが当事者たちや関係者たちの範囲に留まらず、世界経済全体の地盤沈下をも引き起こしつつあるような気配である。
 そんな中で、庶民の望みは、 "少しでも安全な将来" ということであり、そのためにいろいろと頭も懐も痛めるわけであろう。しかし、それはそう簡単な課題ではなさそうである…… (2007.12.21)


 この時期には、ちょいと見回せば "やるべきこと" には事欠かないはず。それでも、午前中は幾分のんびりとして、コーヒーをすすりながらTVなんぞを観て過ごした。
 NHKの朝ドラ「ちりとてちん」の一週間分が観られる番組があり、ついつい引きずられて観てしまった。いつもの朝は出勤の準備であわただしいため、家内が観ているのをチラチラと観るに留まっている。
 今回の「ちりとてちん」でやや関心がある点は、舞台が関西であることや落語界を対象にしたドラマだという点くらいであろうか。関西落語というのは今ひとつしっくりこないでいるのだが、それでも関西弁には今でも何とはなしの懐かしさを覚えたりする。
 ストーリーは自分の好みから言えばどうこう言うようなものではない。あくまでも一般的な朝ドラとしての軽妙なタッチと明るさが売りということなのであろう。

 われに返ったように、昼ごろから事務所に向かった。 "やるべきこと" も多々ありそうな気がしていたし、この時期に丸々 "三連休" が謳歌できるほどに日頃の自分は勤勉ではなかったわけだ。 "怠け者の節句働き" というところであろう。
 先ずは "遊びめいた作業" から取り掛かる。先ごろ入手した "低価格PC" へのOSインストールという作業である。
  "低価格PC" とは、いわゆる "サーバー" 向けのPCであり、もちろんブランドものの新品であり、CPU速度は "2.2GHz" という先ず先ずの水準の機種なのである。それが、何と一万数千円というのだから安い。もっとも、これに Windows XP などのOSをインストールしようとすれば、各種の "ドライバー" をネットで探すという試行錯誤が必要となる。というのも、あくまで "サーバー" 向けPCというわけだから、メーカー側の狙いは、比較的高価な "サーバーOS" を売り込みたい点にあり、一般的なOSについてのサポート(一般的OS上でのドライバーなど)なんぞはしていないのである。
 となると、われわれなんぞは、よし、ゲームチックにこなしてやろやないか、という思いが刺激されてしまうのである。
 まあ、こうした "変人" はネット上では珍しくなく、そうした者のサイトを手繰り寄せてゆくと、自分はこうして各種ドライバーを探し出した、と自慢しているのにぶつかることにもなる。
 ということで、そんな下調べをしてゆくと、案の定いくつかの "変人" サイトを見つけ出すことが出来、 Windows XP のインストールは何の遜色もなく完了したのである。
 だからどうしたというわけでもないが、貧乏性の自分にしてみれば、OSのライセンスを含めても3万円程度(モニターは別であるが)で、ハイエンドに近いPCを仕立て上げられたということは気分的には悪くはないのである。

 だが、やはり、だからどうした、という冷ややかな思いは消えることはない。というのも、昨今はますますPCの低価格化が突き進んでいるからである。今日も以下のような記事が目についた。

<パソコン安値拍車、秋・冬モデル・ネット加入込み半額も
 東京や大阪の家電量販店でパソコンの値下がりが加速している。売れ筋の機種は今秋の発売当初から4万―6万円下落。インターネットのプロバイダー加入による値引きを含めると半額以下で買える例もある。今年は1月に新基本ソフト(OS)「ウィンドウズ・ビスタ」が発売されたが需要押し上げ効果はいま一つ。各店は値下げで販促につなげようと懸命だ。
 値下がりが目立つのは「秋・冬モデル」のうち発売時の価格が19万円前後のノート型。データを一時保存する半導体のDRAMなど部品の値下がりを受け、パソコンの当初価格は昨年より5000―1万円ほど安かった。発売後の値下がり幅も昨年の同じ時期に比べ1万円ほど拡大している。>( NIKKEI NET 2007/12/22 )

 一般的な市場動向は上記のごとくなのかもしれないが、 "実勢価格" の実情の方は、誰かが損を覚悟で投げ出しているとしか思えないほどの価格低下が進行している模様のようだ。まさにPCは、価格的には "消耗品" の範疇へと突入している気配である。
 こうした趨勢を踏まえると、PCメーカー(特に国内メーカー)の今後が危ぶまれるわけだが、それと同時に、ユーザー側としては、PCは "消耗品" 水準となったのであるから、これらを "ふんだんに使い倒す" チャンスなのだと思われる。
 一方では "人手不足" が深刻化しているわけでもあるし、やはりもっと貪欲にPC活用の "自動化エトセトラ" が考案され導入されるべきなのであろうか…… (2007.12.22)


 昨日に引き続き今日も出社しての雑用作業をしている。
 このところ、今年度の売り上げに関する節税的な意味もあって、いろいろと "開発ツールなどの買い足し作業" に余念がない。日頃、ソフト会社としては備えておくべきツール類でありながら未整備にしてきたものを、この際、整備しようという意図なのである。
 まあ、税務署に覗かれてもやましいことは何もないからいいのだが、節税がどうのこうのといった内情をこんなところで書く必要もなさそうだ。要は、節約体制の結果、予想外に生じた予想利益を作業環境整備費に戻そうというだけのことなのである。

 こうした作業をしていて改めて実感することは、エレクトロニクス、ITのジャンルの技術的進展は目覚しいということであろうか。
 当たり前のことを言っているようであるが、モノの真価というものは、 "切実さ" が伴った時に見えてくるようであり、日頃、何気なく観察していただけでは今ひとつ実感がわかないようである。いざ、価格面の検討をしながら購入しようという段となってはじめて詳細な技術情報も了解されてくるようだからなのである。

 PC関係のジャンルにおける技術的進展は、さまざまな観点で評価できようが、ザックリと言ってしまえば "処理速度" という課題を基軸として展開しているとでも言えようか。
 代表的なパーツは "CPU" の処理速度であろう。もうとっくに、 "MHz" 水準から "GHz" の水準へと移行していることはよく知られている。ひと昔前ならば "100 MHz" だとか "133 MHz" だとかであったものが、今や "1.8 GHz" だの "3.0 GHz" だのと何十倍もの速度アップが図られるようになっている。
 同時に、 "HDD" の容量にしても、 "MB" から "GB" の水準となり、 "80 GB" だの "500 GB" だのという大容量HDDが一般化しているわけだ。そして、このHDDのジャンルでは、接続方式(インターフェイス)も、より高速のアクセスが可能となるように "IDE" から "シリアル方式" を使った "SATA" へと急速に移行している。

 ところで、PCのジャンルでのこうした "処理速度" の向上が躍起となって追求されるのにはより具体的な根拠がありそうである。それはビジネスが要求しているというよりは、ホビーのジャンルでのゲーム・ソフト関係だと言っていいのだろう。このジャンルのソフトは売り上げ額でも群を抜いており、これがPC関連パーツ開発の牽引役となっていることはよく知られてもいる。
 そして、こうした趨勢から、技術的イノベーションが加速されているのは、 "CPU" や "HDD" のスペック向上に留まることなく、 "グラフィック" 関連パーツや "サウンド" 関連パーツの進化のめざましさにもつながっているのである。
 これら "マルチメディア" のパーツ類は、いわゆる "カード(基板)" として提供されるのだが、この "カード" を受け容れる接続方式(インターフェイス)もまた伝送速度向上を目指して大きな変化を迎えているのである。
 ひと昔前ならば、 "ISA" バスであるとか "PCI" バスであるとかでまかなわれていたものが、すでに昨今のPCでは "ISA" バス方式は姿を消してしまい、高速だとされていた "PCI" バス自体も "PCI Express" バス方式へと改変され、以前のものとは互換性がなくなってしまっているのである。
 こうした技術的イノベーションの動向は、自身がゲーム・ソフトにのめり込んでいるとかでその恩恵に預かっている者であるならば有難さを実感するのであろうが、そうでない者にとっては、やや馴染みにくいのかもしれない。何故なのかよくわからないままに、ただただ新技術に対する負担を急かされているような気分にもなりそうだからである。

 しかし、かと言って、新技術をもってイノベーションを図り新製品を提供するメーカーやベンダーが "ボロ儲け" をしているのかと言うと、必ずしもそうでもなさそうな気配である。というのも、これほどに技術的イノベーションが "加速" すると、 "ゆっくりと儲ける" 暇さえなく、リリースした製品が次々と陳腐化して価格低下に見舞われるからである。メーカーとて "綱渡り" のようなビジネスを展開しているようなのである。
 こう考えてみると、結局、 "加速化された技術的イノベーション" でほくそえみ続けているのは一体誰なのだろうか、という疑問も生じたりするのである…… (2007.12.23)


 今夜が "クリスマス・イブ" だということをついぞ気にすることがなかった。店の前まで来た時、家内が言った一言ではじめて、そうだったんだと気づいたのであった。
「今日は、やはり空いてるわね。クリスマス・イブにラーメンでもないものね」

 お互いに年の瀬の片付け作業で追われていたため、夕飯は外で簡単に済まそうという運びとなったのである。と言っても、クルマで出かけるのも億劫ならば、待ったり、並んだりするのも真っ平であったため、手近なところにあるラーメン・チェーン店へと足を向けたのだった。
 店内のテーブルの席は閑散としていた。そりゃそうだろうな、クリスマス・イブの夜に "普通は" 安いラーメン屋に来てラーメンを食べようとは思わないかもしれないな……。何か事情があったり、ワケありだったり、よっぽどクリスマスが嫌いだったりする、要するにちょっと "特殊" な人が訪れるのかもしれないか、なんぞと思ったりした。そんな思いで店内にパラパラと座っている人たちを見ると、何だか "特殊" な人たちのように見えてくるから不思議である。

 比較的若い兄ちゃんが独り、慎ましやかに "セットもの" らしき御膳をいただいている。満足そうにいただいている。こんな夜なのだから独りではなく "二人" で、そしてラーメン屋ではなく "レストランかどこか" で……、なんぞと余計なことを考えないわけでもなかったが、満足そうにいただいているようなので、これはこれでいいのに違いないと了解させられた。
 子ども連れの家族も何組かやって来ていた。別に子どもたちは "不服" そうな顔をしているわけではない。クリスマス・プレゼントの "話はついている" のかもしれないし、クリスマス・ケーキはこの後帰宅してから食べることになっているのかもしれないぞ、だからみんなニコニコ顔でラーメンを啜っているのかもしれないな……。
 じゃあ、テーブルを挟んで向き合って座っているあの中年夫婦はどんな事情があるのだろうか。もはや、クリスマスがどうのこうのという歳でもないのかなあ。いや、クリスマスというのは歳に関係あるのか? 歳というよりも、気分、夢に加担できる気分の問題なのかもしれない。とすれば、昨今の生活苦の中でとてもそんな気分にはなれなくなってしまったのだろうか……。いやいや、お互いに年の瀬の片付け作業で追われて、ダンナの方が、これでアイツにメシの支度をさせるのは気の毒だからと「オイ、今夜はラーメンで済ますことにするか」なんぞと声を掛けたのかもしれない、自分とまったく同じように……。

 注文のラーメンが届くのを待ちながら、自分は馬鹿なことを言っていた。
「クリスマス・ケーキはどうする?」
 すると家内はクールにも言い切った。
「食べたいの?」
 正面切ってそう言われるといささか戸惑ってしまうものである。そういえば、例年は、自分が仕事帰りに調達してきたりしていたのであり、今宵、ケーキが不在なのは、自分のせいであったと納得せざるを得なかった。カロリー問題もあることだし、まあいっか、とケーキの件は却下する運びとした。
 自分は、今日がクリスマス・イブだとはついぞ気に留めないでいたことを言い訳めいて口にしていた。昨今は、 "勘違い" や "思い込み" で "とちり" がちなんだ、なんぞと口にしていた。
 実際、今日は、朝からの "年の瀬の片付け作業" で死力を尽くし、現にTVを覗くこともなかったため、今日が何の日であるかを全然意識しないで過ごしてしまっていた。クリスマスを飛び越した "年末気分" に突入していたのであった。そんな "思い込み" ゆえに、クリスマス・イブなんぞは消し飛んでいたのだ。
 家内は "キリスト教信徒" であるため、重々意識していたようであるが、信徒ともなると、一般人が持てはやすようなクリスマス・イブのムードなんぞは "超越" しているようである。ついでにクリスマス・ケーキとて "超越" しているのだ。

 歳をとると何かと "勘違い" や "思い込み" が激しくなる、というような失敗談に話題が集中している間に、注文の品がやって来た。
 すると家内が、何か驚いた仕草をした。
「えーっ、ラーメンは普通サイズじゃないの」
と。何を言っているのか、はじめ自分は解せないでいた。
 で家内の "言い分" を聞いてみると、家内は、ラーメンとチャーハンのセットである "半ちゃんラーメン" を注文したのであるが、その際、 "半ちゃんラーメン" を、、 "赤ちゃんラーメン" と読み間違い( "思い込み" )、そういうサイズならば、久しぶりのチャーハンと一緒に食べようと思ったというのである。
 自分は、大笑いしながら言ったものである。
「 "半ちゃんラーメン" というのは、 "半チャーハン" 付きラーメンのことでしょ。 "赤ちゃんラーメン" だなんて聞いたことないよ。赤ちゃんがラーメンを食うわけないじゃないの」
 すると家内はぼそっと言ったものであった。
「歳をとるとやっばり "思い込み" が危ないわね……」

 この "クリスマス・イブ" の日、人間は "思い込み" に陥りがちな傲慢な存在であることを、神は何気なく諭してくれたような気がしたわけなのであった…… (2007.12.24)


 休日出勤したことだし今日は早く帰ってのんびりとしようかなんぞと思っていたら、高を括っていたPC作業にとちって引きずられている。
 加えて、どういうわけかこの "とちり" が連鎖で重なるという惨めなことに陥って、いい加減嫌気を催すはめにもなっている。

 PCというのは、使う側と息が合って調子良く起動している時は実に快適である。自身の能力が何倍にもなったかのように感じられて、ご機嫌な気分にさせてくれるものだ。しかし、往々にして使う側の問題であるに違いないのだが、使う側が気分を腐らせてへまをやったりすると、とたんにPCも "気分" を損ねたかのように、不具合で応え、これが連鎖となってしまうことがありそうである。

 もちろん、PCに "気分" なんぞというものはありはしない。使う側の人間の受けとめ方で、あたかも "逆らっている" かのように感じたりするだけのことである。
 ソフト会社のフロアーでは、当然キーボードを打つ音が絶え間ないわけだが、時として、激しく "リターン・キー" が打たれる音を耳にすることもある。つまり、キーボードが "八つ当たり" されている音なのである。
 自分の頭が悪いのか、疲れているのかどちらかで、PCが思うようなレスポンスを返してくれないだけなのに、PCが "言うことを聞かない" かのような錯覚に陥って、 "リターン・キー" が壊れるほどに強打しているわけなのである。現に、そんな技術者たちの使うキーボードの "リターン・キー" は、表面をテカテカになるに留まらず、いつの間にか "再起不能状態" となったりする。

 これが、 "打たれ役" のキーボードであるから、さしたる問題ともならないが、現代という時代環境では、キーボードのようなモノに向けられる "八つ当たり" のエネルギーが、人間にまで向けられる怖い事態になっていそうな感じだ。
 しかも、 "八つ当たり" の対象にされるのは、いつも決まって "弱者" なのだからたまったものではない。多くの "いじめ" 事件や、 "ドメスチック・バイオレンス" などはこの典型であろう。さらに、 "誰でもよかった……" などとぬけぬけとほざく凶悪犯罪などもやはりこの種の狂気なのだろうと思う。
 こうした時代現象を見るにつけ考えることは、端的に言えば、 "臭いものには蓋をする" ような対処ではなく、 "臭いものは元から断つ" 対処でなければ効果が上がらないのではないかという点である。
 つまり、 "八つ当たり" 的言動や犯罪は厳しく罰するゾ、よりも、 "八つ当たり" 的衝動やエネルギーが過度に蓄積するような環境を何とか是正する、という視点が必須だと思えるのである。悠長なことを言っていると聞こえるかもしれないが、これが動物に対してではなく人間ならではの存在に対してすべきことだと考えるわけだ。
 ふと思い起こすのは、かのローマ帝国が巨大になった理由のひとつは、ローマの統治政策が、征服民に可能な限りの自治を許すことによって、反逆心などの帝国にとってのマイナス・エネルギーをいなしたことにあるという点だ。この点に関しては、ローマ帝国は実に賢明であったと思われる。

 人間は理性(=社会性)を発揮してこそ人間のはずであろう。感情も重要な要素ではあるが、これを "野放し" にしていくならば、限りなく動物へと接近していかざるを得ないと思われる。
 この "野放し" というのがポイントなのであるが、どうも、現代の時代環境は、個々人の孤立(社会性の衰退)を "野放し" にすることによって、結局のところ感情自体を "野放し" にしているかのようである。社会性を希薄にさせた感情というものは、もはや人間の感情(同情、共感 etc.)とは別物となり、野生動物の感覚だと言うべきなのかもしれない。人間が忘れかけた内部に潜む "獰猛な古層" を掘り起こさせている、と言えるのかもしれない…… (2007.12.25)


 昨夜は睡眠不足気味だった割には、今日は多くの雑事をこなしたような気がする。
 今年中に、仕事の主たる道具環境であるPC類の整備をすべて済ましておきたいと思い、今日は数台のPCの気になる部分をほぼ一気にクリアし尽くした。まあ、あらかじめ段取りを済ませておいたために、今日は "首尾良さ" を刈り取ることができたということなのであった。
 こんなことに時間を割いているよりも、もっと "金儲け" につながることにでもエネルギーを振り向けたいものではある。
 とは言っても、自分たちの "生業(なりわい)" からすれば、PC環境のアップデイトは欠かせないものであり、またその作業に伴っての関連知識のブラッシュ・アップも重要なことだと見なしている。

 昨夜も夜な夜な、自宅では "デジタル放送" 機器とPCとの連携をめぐって、ちょっとした "デジタル・オタク" のような作業に "はまり込んで" いた。
 どうしたらせっかくの "デジタル・ハイビジョン" 番組を、より画質良く録画できるかという、言ってみればどうでもよいようなことにのめり込んでいたのである。
 昔、これはさほど突っ込むことはなかったにせよ、一時期は "サウンド" に凝ったこともあった。どう工夫をしたら、臨場感のあるリアルなサウンドを再現できるかと、そこそこのオーディオ・コンポにいろいろと手を加えたものであった。スピーカーを自作してみたこともあったし、マニアが天井までとどくような "ホーン状" のスピーカーを作ったという話に興味津々となったりもした。
 が、いつの間にか遠のいてしまうこととなり、そのうち家内が、こんな大きなスピーカー・ボックスはどうにかして欲しいと言い出し、泣く泣く中古販売店の "HARD OFF" へと持ち込み、二束三文で引き取ってもらった覚えがある。
 そんなことで、今、 "デジタル・オタク" のようなことに傾斜している自分は、行き着くところへ辿り着けなかった "オーディオ・オタク" の延長線上に立っているんだな、なんぞと振り返ったりしている。

 自分の場合、どちらかというと、高級機材に憧れるというよりも、そこそこの機材に自分なりの創意工夫をほどこして、ほら、こうすれば結構いけるじゃないか、と悦に入る類なのである。その部分が楽しいということなのかもしれない。
 その際には、自分なりの情報収集を徹底的に推し進め、何をどうすればアウトプットが改善されるかというようなことを楽しみながら研究(?)するのである。他人に言わせると、そんなに手間ひまかけるのならば、思い切って最高級機材を買えばいい、となるのだが、それではおもしろくないのである。そんなことをすれば、程なくその対象への熱が醒めてしまい、やがて別の何かに傾斜していくことが薄々わかっているからなのかもしれない。
 つまり、夢中になれるもの、できれば一心不乱に立ち向かえるものを探し続けているような気配なのである。夢中であったり、一心不乱であったりしている時こそ、自分の粗末な頭脳もフル回転できて、ドーパミンも噴出しているはずだから、まさに "気分は最高" ということであるに違いない。

 歳をとると、どうしてもこうした "はまり込む" 衝動が薄れがちとなりそうなだけに、そんな衝動が立ち上がりかけたなら、涼しい顔をして押さえつけないで、可能な限りお付き合いした方がよかろうと思ったりしている。それが、脳の活性化と気力の源泉になるのではないかと…… (2007.12.26)


 一昨日、 "八つ当たり" 的衝動やエネルギーについて触れた。昨日であったか、まさにこの "八つ当たり" とも思えるような犯罪が報じられた。それも60歳を超えた者たちによる、放火殺人(自殺)という目も当てられないような事件だ。
 このところ、どういうわけか "高齢者による事件" が目立つということも気になるのだが、同時にその事件の性格が、 "破れかぶれ" というか "八つ当たり" 的としか思えない点が大いに引っかかるのである。
 歳をとれば内面も穏やかとなり、鷹揚な立ち振る舞いとなるというのが、高齢者に対する従来のイメージであったはずだ。もっとも、権力欲やら金銭欲でギラギラと醜態をさらす多くの年寄りたちも "永田町" とかという田舎町には居るそうだが、通常の高齢者たちは、 "穏やかさ" と "ものわかりの良さ" とが相場だと見なされてきたはずである。
 ところが、まるでそんな通念を覆すかのような事件や犯罪が人目を引くかのような昨今ではなかろうか。
 当然、なぜなのかという疑問を抱かざるを得ない。まあ、端的に言えば時代や社会が度を越えて悪化していると言えそうだが、どこがどう悪化しているのかに関心が向くわけなのである。
 注目しようとするのは、当事者たちの行為が "八つ当たり" 的としか思えないような点である。 "八つ当たり" 的な犯罪では若年世代によるものも目を引くわけだが、 "高齢者までも" という点で、注目すべきだと思うのである。

 話をわかりやすくするために図式化してみる。
 どんな状況かは問わず、 "鬱積するマイナス感情の肥大化" と、 "知性や理性の機能不全" とが表裏一体で昂進してしまう時に、 "八つ当たり" 的とも見える暴力や犯罪が発生するのではないかと考えられそうである。
 これらの二つの側面の組み合わせというものが、まさに問題であり、最悪なのであろう。まるで、 "燃え盛る火柱" に "ガソリン" を近づけるがごときである。
 たとえ、 "鬱積するマイナス感情の肥大化" があったとしても、それを冷静に見つめる "知性や理性" が備わっているならば、人騒がせなことにはなるまい。また、 "知性や理性の機能不全" があったとしても、凡庸な感情状態であったならば、人から騙されて被害者となることはあっても、他人に危害を加えるというような事態にはならないだろう。
 ところが、現在の社会環境は、不謹慎ながら見事ととも言えるほどに、一方で "鬱積するマイナス感情の肥大化" を刺激し続け、他方では "知性や理性の機能不全" を促すような動きまでかもし出していそうな気配である。
 これらを一々例示すべきかもしれないが、あまりにも酷い現状であるため "全面的" にそうであると言った方が早かろう。こうした "全面的" な悪化という状況自体が "やりきれない感情" と "考えることの徒労感" さえ助長しているのかもしれない。

 激変する時代環境にあっては、過去に依拠する中高年ほど身の処し方に苦慮するものであろう。自身がよって立つ価値観も時代のそれとは大きくズレるであろうし、環境からの遇され方にも失望するのであろう。
 これらの度合いは、 "敬老" の文化を讃えてきたこの国にあっては、過去と現在での "落差感" を際立たせることによって高齢者たちに大きな打撃を与えずにはおかないはずである。
 ただ、こうした現象は、社会変化がある以上いつの時代にも発生していたのだと言えそうでもある。
 しかし、この国の現状はちょいと酷過ぎる。最悪としか言いようがなかろう。まるで、時代変化の調整機能を果たすべき政治が頓挫してしまっているかのようである。いやむしろ、時代変化に伴う "甘い汁" にあずかり、逆機能をもたらしたとさえ見える。
 具体的な事例は一つだけ添えれば十分かと思われる。つまり、為政者たちの心根と姿勢とが見事に露見したあの杜撰な "年金問題" である。これ以上、物言わぬ高齢者たちの感情を奥深くで "逆撫で" したことはないと思われる。
 しかも、この種の問題が根深いのは、政府の誰も責任をとろうとはしないことであろう。無責任さを超えて、そうした政治的対処そのものが、道理の "アナーキー" さを生み出し、 "知性や理性の機能不全" を促すのである。道理をもって考えることの虚しさを、政治というものが庶民に教えてどうなるというのか。
 こうした推移は、若年世代であれば、どうせ政治なんてその程度のものさ、と相対化するのかもしれないが、旧い世代の高齢者たちには色あせてはいるにせよ "親方日の丸" 的な感覚での政府への信頼感が残っていたのかもしれない。そのことが、言い知れない "失望感" と "憤り" を立ち上げさせ、 "鬱積するマイナス感情の肥大化" を助長させていないとは言い切れないであろう。

 昨今、報じられる高齢者による事件に見え隠れする "八つ当たり" 的衝動が、こうした時代的、社会的問題要因だけで引き起こされたと強弁するつもりはさらさらない。また、そうした事件当事者たちを弁護しようというつもりもない。やはり、誰もが思うように、いい歳をして何をしているのだ、と一喝すべきであろう。
 しかし、なのである。それが事件の引き金となったのかもしれない事件当事者たちの不幸な個人的事情を差し引くならば、多くの高齢者たちもまた、 "鬱積するマイナス感情の肥大化" と "知性や理性の機能不全" に向かった、そんなスロープに立たされていることには変わりがないように思われる。
  "八つ当たり" 的に発露されようとしている衝動は、しっかりと社会変革に向けて "軌道修正" されなければ、あまりにも惨めであり過ぎる…… (2007.12.27)


 今日は "仕事納め" だ。しかし、従来はそうであったかもしれない年の瀬の "穏やかな収束(終息)感" めいたものは何一つなさそうである。日経平均株も、 "大納会" に似つかわしくない大幅な下げ(250円を超える下げ)で終始した。
 この株価反落のもとはいうと、昨夜の米国の大幅反落(192ドル安)であり、そのまた原因をたどると、<パキスタンのブット元首相の暗殺による南アジア・中東の政治・軍事情勢の緊迫化>という不吉な事件に行き着く。 "暗殺" というものがいつもそうである(ex.ケネディ暗殺!)ように、これは "別のオズワルド一個人" の仕業なんぞではなかろう。この事件で、何クッションかを置いて結局 "得をする" 勢力が画策した事件だと読まざるを得ない。 "巨悪" の常套手段は、常に "オズワルド" をでっち上げる……。
 こうして、今年のこの日本社会で特徴づけられた「偽」の風潮もまた、 "グローバリズム" の趨勢で地球規模の広がりで世界を汚染しているということになる。いや、 "グローバリズム" の趨勢というもの自体が、「偽」の衣をまといつつ、「偽」の悪臭を吐息として吐いているのかもしれない。今年のこの日本社会が、「偽」の一字で象徴されるのは、その "グローバリズム" の趨勢に人一倍身を任せたがゆえなのであろう。

 ふと、「あなたたちは一体何をしているのですか!?」(ドラマ『ハゲタカ』でのヒロインの叫び)という悲痛な怒りの響きが脳裏をよぎる。 "正常" さから離れ過ぎて "狂気" で蠢く者たちによる世界の破壊行動が、次から次へと足取りを速めているかのごとくであるからかもしれない。
 ただ、<あなたたち>に相当する者というのは、 "巨悪" を推進する特定の国やその勢力だけではなさそうな気がしている。
  "悪" が成就されるためには、首謀者(勢力)だけでは足りない、と言われる。 "加担者" が必須だと。だから "悪の推進者" は、 "加担者" 作りに意を払い、その拡大と裾野の拡延を図ろうとするわけだ。もちろん、その際にはいろいろな意味での "利益誘導" 策が講じられることは言うまでもない。あわせて "恐怖による誘導" 策も裏打ち的に駆使されるものと思われる。
 つまり、<あなたたち>として指弾される者というのは、現在進行中の "趨勢" に対して大きな違和感を感じながらもこれを是認している、その意味での "加担者" もまた含まれるのではなかろうかと思えるのである。
 TVのトーク番組では、自身が "加担" していることに気づかずに、 "仮想の敵" への糾弾に躍起となっているオピニオンが大半であるような印象を受ける。 "知識人" を自称するのであれば、先ずは、現状のマス・メディアが、時の権力への "加担装置" としてしっかりと組み込まれている事実を大前提にすべきなのである。事実上の "巨悪" への言及は一切封じ込め、 "仮想の敵" へと矢を誘導する手口が見えないようでは、何の "知識人" なのであろうか。うまい世渡り法を知る "訳知り人" というのが正確なところなのかもしれない。

 ところで、また「偽」の一字に戻るが、こうした "選定" のなされたことを、買いかぶってはいけない。皆が自認しているのだから "まだまし" だと考えるのは早とちりも甚だしいと言うべきだろう。
 というのも、何故こういう一年になったのかが一切問われていないからであり、加えて、とりあえず「偽」への共通認識を話題とすることで、 "ガス抜き" 機能だけは処理しているからである。「いやな時代になったもんね」という挨拶代わりの言葉を用意しただけの話で終わりたいわけなのであろう。
 振り返ってみても、さまざまな "偽装問題" の真相は、結局、闇に葬られたのが実情ではなかっただろうか。 "耐震偽装" にしても、 "一建築家個人" の問題として、別な言い方をすれば、 "個人オズワルド" の犯行として封じ込めてしまい、管理監督省庁という "官" 側の問題はほとんどパスしているからである。これは "食品偽装" にしても同様かと思われる。

 つい先日、映画『金環食』(原作・石川達三、山本薩夫監督)のビデオを久々に観た。「偽」の年の年末にはふさわしい鑑賞かと思ったりしたのだ。
  "巨悪" の正体は一向に見えず、視線が周囲に逸らされてしまう "金環食" こそ、リアルな「偽」の構造そのものなのであろう。おまけに、物理的な "金環食" は、 "月" が太陽光を隠すわけだが、人間社会の「偽」にあっては、意識的・無意識的な無数の "加担者" たちが、真相が隠されることに一役も二役も買って出ているように思われるのだ…… (2007.12.28)


 年末年始休暇が始まった今日は、思いっきりの朝寝をしてしまった。と言うのも、昨晩は、久々に午前3時まで夜更かしをしてしまったからだ。
 事務所のPCは一段落したものの、自宅書斎のPC整備が残っていたのだ。こちらの方もこの間、ちょっとした機器構成を行ったため、その調整作業が積み残しとなっていたのである。
 その作業の半分は難なく済ませることができたのだが、残り半分が難航することとなった。原因は、自分の "早とちり" であり、PCパーツの基本スペックの "読み違い" をしていたことにあったようだ。もっとも、今振り返ってもそのパーツの謳い文句自体が容易に誤解を招くような表現でもあったようだと感じている。
 おかげで、何度も何度も稼動テストを繰り返し、いつの間にか2〜3時間があっという間に過ぎ去り、時計を見ると午前3時となっていたのである。明日にでも、町田駅近くのソフマップあたりに出かけて手頃な代替パーツを買うしたないかと、泣く泣く風呂に入って寝ることにしたのであった。

 遅く起きた割には、今日一日の滑り出しは悪くはなかった。ゴミの収集で、今年は終わってしまったものと見なしていた "資源ゴミ" のその収集車が、 "ノコノコ" とやって来たのである。いつも、そのクルマが自宅前の道路に入ってくる時は "バック" で入って来るため、その合図の音によってそれとわかるのであった。
 自分が、コーヒーカップを手にしながら、玄関先に出されてあった古新聞その他の資源ゴミ類他の "山" を見つつ、やれやれ、年明けまで庭の裏手辺りにしまって置くしかないか……、と悩ましく思っていたその時、ピッピッピッ……とゴミ収集車が前の道路に入って来るあの音がしたのである。思わず、シメタと思わざるを得なかった。
 自分は、すかさずコーヒーカップをテーブルに戻し、玄関を飛び出した。表に出ると、案の定、資源ごみのゴミ収集車のトラックが、ゴミ置き場の前に止まっているではないか。その荷台に積まれた資源ゴミの上で、中年の作業員がいそいそと積載物を整えているような様子であった。
「 "ひとつだけ" 持って行ってもらいたいんだけど、いいかなぁ?」
と自分はその作業員に向かって大声で叫んでみた。彼は気さくに頷きながら、
「ホントは今日は収集の日じゃないんだよね。だけど、置いてる人がいるというのでそれだけは持って行こうと思ってね……」
 自分は、急いで家に戻り、一番嵩張っている古新聞の包みを主として、その上に二つほどの紙袋を載せ、 "ひとつだけ" のゴミのように見せかけるべく抱え込む格好でクルマの方に向かったのだった。作業員は何も言わずに、それらを引き取ってくれて、荷台に載せていた。
 で自分は調子づいて、
「すみませんねぇ( "志村けん" ふうの口調?)、助かりますよ。」
と言いながら相手の顔色を伺いつつ、
「 "もう一個だけ" あるんだけど、いいですよね」
と頼み込むのだった。
「じゃあ、急いでくださいよ」
 シメシメと自分は思った。小走りでまたまた家に向かい、先ほどと同様に、より大きなダンボール類の一縛りの塊の上に細々とした紙袋類を載せて "一個" ふうを装い、再びそれらを抱え込む格好でクルマへと運んだのであった。
 それを見た作業員の顔は、確かに "渋い表情" となっていた。きっと、何が "ひとつだけ" だ、何が "もう一個だけ" だ、この嘘つきめ、とでも思っていたのに違いなかったはずだ。
「すみませんねぇ、大助かりです。ありがとう」
と言い残して、自分はスタコラサッサと家に舞い戻った、というわけなのである。
 そして、玄関先がスッキリとしたのを見て、こいつぁ〜朝から縁起がいいわい、と思わずしたり顔をしてしまったものであった。

 確かに、今日はその後も "縁起がいいわい" と言っていいような事がいくつか続いたのだった。くだらないほどに些細な事なので書くには及ばないが、いくつか気分の良いことが数珠繋ぎとなり、そして、その極めつけは、夕刻に出向いたPCショップのソフマップでの "ラッキー" であったかもしれない。
 と言うほどのこともないのだが、探していたPCパーツ、それは入手困難な部類のパーツであったのだが、店員に話を持ちかけたところ、親切で情報通の店員に遭遇し、
「あっ、そいつは、新品では入手は難しいけど、ええーっと、確か、中古コーナーにあったような覚えがあるけど……」
と、自分をそのコーナーへと案内して、お見事、探し出してくれたのであった。
  "ツイてない" 時には、無駄足となっておまけにそのことで気分が悪くなって帰途につくという按配であろうが、何故か今日ばかりはトントン拍子に事が運んだため、一体これはどうしたことか、と思ったりしたものである。
 ただし、自分のすぐそばに "逆の人" もいたのであった。
 家内は今日、誕生日なのであったが、 "ケア" 通いでの昨今の過労が祟ってか、気の毒なことに "ぎっくり腰" となったようなのである。ちょっとした "束" となるほどのローソク付の誕生ケーキを買って帰ってあげたのだが、痛々しく座りながら食べていたものである。
 まあ、たまたまそうであったということになるのだろうが、ツイている人がいれば、ツイていない人もいるというのが、人の世の成り行きということになりそうだ…… (2007.12.29)


 毎年恒例にしている年末の墓参りに向かった。生憎と家内は腰の痛みが収まらないため、おふくろと息子との3人で行くこととした。
 おふくろは、昨日、自分が顔を出した時にも、この墓参りの催促をしていたのであった。
「墓参りに行かないから何か身体の調子が良くないのよ」
と、妙な理屈を付けていたものである。どうも、おふくろの傍には常に亡父が付き添っているかのようであり、おふくろは、何かにつけて亡父のことを意識しているようである。きっと、しばらく墓参りを怠っているから身体の調子が今一なのだと、自己流に解釈しているのに違いないのだ。
 朝は冷たい風もあり肌寒さを感じさせたが、日中は風も止み穏やかな冬晴れとなり、落ち着いた気分で今年最後のお参りを済ませることができた。
 われわれが引き上げる頃、寺の駐車場はほぼ満杯となってきた。みんな、少しでも良い年を迎えたい一心なのだろうなと想像させられたものである。

 昼時となっていたため、これまた恒例の食事をすることにして、恒例の和風レストランに寄った。店はかなり空いていた。どこの家庭も大掃除であるとか、新年の準備などで閉じこもっているようなイメージを抱かせた。
 テーブルに着くと、おふくろは待ってましたとばかりに "喋り" 始めた。
 おふくろは最近、何かというと姉の方の曾孫の話を楽しそうに口にする。3歳と1歳の姉妹であり、おばあちゃん、おばあちゃんとなついてくれるため可愛くてしかたがないようなのである。
「下の子は、お姉ちゃんの後について真似ばっかりしてんだから。笑っちゃったのはね、この間、上の子が保育園の身体検査があって一緒について行ったら、お姉ちゃんと一緒になって服を脱いで、並んじゃってるんだって。先生から『あなたは検査しなくていいのよ』と言われても、何食わぬ顔して並び続けていたんだってさ……」
 何とも、笑っちゃう話ではある。しかし、きっと当の本人は "大真面目" だったんだろうなと思えた。幼児というのは、大人から見るとジョークのようにも思えることを,とにかく "大真面目" でやるものだし、いや、 "選択モード" としてはそれしかないというのが実態なのかもしれない。 "大真面目" モードとその "破綻" モードとしての "泣きわめき" 、というのが幼児特有の選択肢なのではないかと思える。

 そんな話をしていたら、話の登場人物と同様かと思われる1歳ほどの幼女が、店のテーブル間の通路を危なっかしい足取りでチョコチョコと歩いているのが目に入ってきた。
 そうした年頃の幼児の歩き方というのは、何と言うべきか、まるで "操り人形" が上からの糸で操られて、チョコチョコというよりもヒョコヒョコと前進するようだとも言えそうか。大地(床)なんぞ踏みしめるどころか、宙を舞うがごとくに歩を進めるのだからおもしろい。実に危なっかしいことこの上ないのだけれど、それでいて結構バランスをとっていてちょっとしたことでは転びはしない。
 その子は、行ったり来たりとしばし歩くために歩くかのように行き来していたが、やがて、壁側のちょうど自分の目の高さほどの棚に、合成樹脂製灰皿がいくつも積み重ねてあるのに偶然気づき、立ち止まってしばし見つめている。そして、手を出す。おもむろにその一つを掴む。叱られはしないかと親のいる方向を振り返る。きっと親が、ゴーサインを出したのであろうか、思いっきりうれしそうな顔をして、その灰皿を戦利品のごとく掲げながら、ヒョコヒョコと舞うように戻って行ったのだった。
 小さな子どもというのは文句なくかわいいもんだと感じたのは言うまでもない。とともに、あの小さな子の頭脳の内部では一体どんな新鮮な "能活動" が展開していて、その活動が一体何を能内部に蓄積していくのだろうか……、などとちょっとした "厳粛な事実" についても考えたりしていた。

 おふくろは、この後、散歩がてらひとりで町田駅付近の商店街に行くのだと言った。そこで途中のバス停までクルマで送ることにした。年寄り一人で出かけることへの懸念はなくもない。だが、いつものことなので反対すべくもなかった。
 おふくろはおふくろで、一人で街中を気ままに散策すること、そこに "気散じ" を覚えているに違いないのである。きっと、幼児の "宙を舞うがごとくに歩を進める" 喜びとは異なるにせよ、それでいてどこか共通するような "自立感" や自由があるのだろうか…… (2007.12.30)


 ひょっとしたらこれまでの大晦日で最高の労働密度であったかもしれない。家内が腰を痛めたための止むを得ない事情がそうさせたとも言える。
 今日こなした作業は、猫が爪とぎで破いたふすまの補修から始まり、庭掃除に、トイレ清掃、そして階段・廊下や玄関の清掃に、居間の大掃除、さらにちょいと気になって始めてしまったカビで汚れた壁の全面的クリーニング、とまあそんなところであろうか。
 朝のウォーキングから戻り、トレーニングウェアを着替えずそのままのスタイルでほぼ8時間ぶっ通しで雇われ職人のような一日を過ごした。

 いずれも自身では完璧な出来栄えだと満足している。
 先ず、このところ家内も家を留守にしがちなため(居たとしても、さほど変わらないかも?)、家中が掃除の行き届かない状態となっており、まさに掃除のし甲斐のある状態となっていたのである。居間にしても、ふすまの端で猫たちが爪とぎをする位であるから、猫様ご御一行の専用ルームのようになり、それはしょうがないとして、毛の飛び散り方がひどいあり様なのであった。物をどけると細かい毛が行き渡っている。そこで、マスクを掛けての本格的な大掃除となったわけである。階段・廊下や玄関も同様の状態であり、普段も時々は率先して掃除をするようにしないと、身体に毒かもしれないな、と悟らされたものだった。
 トイレも気になったため、しゃがみ込んでの清掃作業を行った。普段、自分が一番 "汚す" ようなので、まあ、これもしょうがないかと気合を入れての掃除となった。聞くところによれば、昨今の世間の男子たちは、家庭内の諸般の圧力から、 "小" を足す際にも便座に座らされているとかであるようだ。 "立小便" は環境を汚染するとからしいのである。ダンナ諸氏も、体育会系の新人たちのごとくに、便所掃除をやって、その代わり "堂々と" "立小便" をさせてもらえばいいのではなかろうか。

 ♪ 今日の〜仕事は辛かった〜 ♪ の中で、やっていて自己満足できたのは、ビニール製壁紙にできたいたるところのシミ(どうも、カビのようであった)をことごとく除去したことであったかもしれぬ。まあ、久々に掃除というものに入れ込んでみると、掃除というのは "見る見る綺麗になる" という即効性があるためか、非常にシンプルな遣り甲斐というものをもたらしてくれる行為ではありそうだ。
 そんな中で、その見苦しいカビ汚れを "面白いほどに" 除去できたのは一種の快感であったかもしれない。確か、何年か前には、 "高温スチーム" を吐き出して汚れを溶解するという "新兵器" を購入して、その威力を試しがてらそのカビ退治におよんだこともあった。確かに落ちるには落ちた。しかし、その "騒音" やら、扱い勝手が思いのほか面倒であったため、二度と使うことはなかった。
 が、今日、駄目元だと思って、洗剤 "マジックリン" を雑巾に染み込ませて強く擦ってみたところ、白地の壁紙に憎々しく黒ずんで点在していたシミが、見事にデリートできたのである。オッ、こいつは凄い! と思ったものであった。
 で、当初は、あまりにも目立つ箇所に限定対処をするつもりであったのだが、徐々に "カビ・バスター" 戦線を拡大せざるを得なくなってしまった。部分的に綺麗になってしまったため、アンバランスが生じてしまったのである。自分は "ブッシュ" ではないから、この際、 "戦線拡大" 路線は本位ではなかったのである。が、全体の見た目の都合と、 "カビ・バスター" の思わぬ "快感" が、次第に、獰猛な "ブッシュ" そのもの、いや "ヒットラー" にさえさせてしまったのであった。手の届かぬ所は踏み台を持ち出し、それでも届かぬ箇所に対しては、棒の先に雑巾を縛り付け、ゴシゴシと力任せの "殺戮" におよんだのであった。思わぬ大変な重労働となってしまったものであったが、おかげで階段・廊下や玄関の白い壁紙がスッキリとして明るさを取り戻すことができた。ちなみに、それに相応した "自己満足感" がドッと押し寄せたことは言うまでもなかった。

 こんな "半端ではない" 清掃作業を8時間労働でこなせるところをみると、明日になると "還暦" の年を迎える自分の身体は、まだまだイケルようだ、とどん詰まりの大晦日で自信回復に至ったようである。この調子で来年は、とかく "自信喪失" を強要するかのようなこの時代環境に "一矢報いる" 挑み方をしてやるべし! ということか…… (2007.12.31)