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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2007年02月の日誌 ‥‥‥‥

2007/02/01/ (木)  「わかりやすさ」を巡る政治的闘争……
2007/02/02/ (金)  「おまえの言うことはツマラン!」プラス「この人は何もない人だねえ」
2007/02/03/ (土)  「福」さんや「鬼」奴(め)らに目くじら立てているようじゃあ……
2007/02/04/ (日)  いつまでもあると思うな「110番」?(夢の話!)
2007/02/05/ (月)  「グーグル検索」は、さまざまなビジネスを掘り起こす?
2007/02/06/ (火)  「圧政」都市からエスケープした者たちは何処へ……
2007/02/07/ (水)  「パラノ人間」と「スキゾ・キッズ」の類型を想起する……
2007/02/08/ (木)  自生される「脳内伝達物質」について……
2007/02/09/ (金)  懐かしい映画『二十四の瞳』を観る……
2007/02/10/ (土)  スッキリさせるためにはたっぷり時間が掛かる……
2007/02/11/ (日)  やはり、団塊世代が考えることは残っている……
2007/02/12/ (月)  変わらぬ自然の寛容さに甘えるのがいい……
2007/02/13/ (火)  「ネバー・ギブアップ!」というエールが送られてよい……
2007/02/14/ (水)  何ものかに「隷属」しているとの自覚……?
2007/02/15/ (木)  「人間であることの意味や生きがいの回復」という本源的テーマ!
2007/02/16/ (金)  錯綜する(?)「そこのけそこのけ」時代の到来……
2007/02/17/ (土)  こうしたものこそが「古典」と呼ばれるものであろう……
2007/02/18/ (日)  裏世界、「闇」の勢力と、大衆をも含めた表世界の「病み」の具合……
2007/02/19/ (月)  「これは、あくまでもわたしの『直観』なんだけどね……」と……
2007/02/20/ (火)  インプラント医療でさえ蚊帳の外の自分……
2007/02/21/ (水)  この時期の金利に対する判断は、患者へのクスリの匙加減のようか?
2007/02/22/ (木)  知らぬが仏の恐さ知らずで済まし続けていいのだろうか……
2007/02/23/ (金)  「亀の甲より年の功」の視点は、不当に見下されていそうだ……
2007/02/24/ (土)  「婆抜きゲーム」と化したご時世……
2007/02/25/ (日)  団塊世代は、人生の終盤戦をどう生きる……
2007/02/26/ (月)  落語家三遊亭円楽の引退表明は寂しい……
2007/02/27/ (火)  人権は、溶けてなくなる「バター」のようか……
2007/02/28/ (水)  「人を見たら、<とりあえず>泥棒と思え」……






 あまりにもくだらない話題のため、論外だと見なしていた。この日誌にも書くつもりはなかった。例の、柳沢厚生労働大臣の「女性は子どもを産む機械」発言のことである。
 しかし、「産む機械」と言うならば、なんとまあ自民党の大臣たちは、数多くの失言を次から次へと「産む機械」であることか。実に「生産性」が高いことに驚く。
 ちょいと前に、「上司は思いつきでものを言う」という著作がベストセラーとなったようだが、要するに、大臣たちは職場での上司たちのように、「ひれ伏して拝聴する」はずだと見なした者たちの前で、いい気分となり過ぎて「思いつき」でものを言ってしまうのだろう。
 もちろん、信念に生きる人たちであれば、たとえ「思いつき」であろうとも気の利いたことが言えるはずである。けれど、もともとそんな上等なものを持ち合わせていないとなれば、チェックなどしてくるはずがないと錯覚した聴衆の前で、いい気分となり舞い上がってしまうのかもしれない。良識も品位もあったものではなく、見境のない言辞をただただ思いつくままに「量産する機械」となってしまうのであろう。
 また、日頃、国会答弁などにおいて自分自身の言葉によって対処していたならば、発する言葉へのコントロールも無難に働くのであろう。だが、官僚の作文というシナリオを朗読することを常としてきたのだろうから、シナリオなしのフリー・トーキングとなると、故障した機械よろしく目も当てられない暴走をしてしまうのかもしれない。情けない話である。
 昨今の政治家たちの失言が奇しくも明らかにする点は、現在の政治家たちが、官僚というシナリオ・ライターたちのもとで操られるタレントのようだということ、しかも気の利いたアドリブひとつ満足にこなせないダイコン・タレントなのだということになりそうである。

 ところで、今回の不始末の経緯を見せつけられていると、現在の政治というものは、「わかりやすい失敗」によって方向づけられるものなのかなあ、と感じてしまう。
 今、野党勢力は、大臣当人の辞職と首相の任命責任の追及に奔走している。まあ、当然のことではあろう。
 ただ、本来の政治の土俵で闘わなければならない重要課題は山積しているはずである。本当は、そうした課題を明確な争点として切り込んで行き、国民に対してアピールと説得を迫らなければならないはずである。よくあるといえば「あるある」の大臣失言を前面に出しての闘い方というのは、野党側にしても今ひとつ心残りではあろう。いや、そう感じてもらわなければいけない。
 しかし、こうした与党側の「わかりやすい失敗」こそを徹底的に拘泥して行くこと以外に、野党側としての効果的な攻め口がない、というのが現状の難しい政治状況なのかもしれない。
 言うまでもなく、この難しい政治状況を構成しているのは、国民の政治意識の低迷だと言わなければならない。あるいは、陰になり日向になり国民の政治意識を眠らせているマス・メディアの無責任だと言ってもいい。
 複雑化している現代という時代状況とそこでの矛盾を、多少「ややこしくとも」理性的に分析して議論するという当たり前の地平こそが政治でなければならないのだろう。しかし、今の現実は、理性の「ややこしさ」が排され、「わかりやすさ」のみが一人歩きしているようである。
 前首相小泉氏は、まさにこうした危うい時代環境を最大限に利用して、無理矢理とも言える「わかりやすさ」で国民を愚弄したわけだ。まあ、愚弄されたとは感じなかった国民が少なくなかった点が残念ではあったのだが……。

 専ら「わかりやすさ」のみで政治を判断しようとする風潮が現代の小さくない特徴だと思われる。これが「ポピュリズム(大衆迎合主義)」なのだとも言われている。
 もちろん、こうした風潮はとてつもなく危ういに違いないわけだが、どうもこれを急遽正すというのは、結構、困難な事業であるのかもしれない。
 こうした大きな風潮があるだけに、日頃、「わかりやすさ」でいまいち遅れをとっている野党側は、「千載一遇」のチャンス、異常気象に伴って生じた(?)「追い風」だと了解しているに違いなかろう。
 楽観視しているのかもしれない政府与党にとっては、かなり厳しい局面への突入だというふうに見える。
 しかし、「わかりやすさ」の手法で利を得たかに見える勢力が、まったく同じマイナスの「わかりやすさ」によって反撃を食らうとは、これぞまさしく「イージー・カム イージー・ゴー」を絵に描いたような構図だと言うべきか…… (2007.02.01)


 先日、現首相について次のように酷評したものだった。
<そう言えば、時の総理の支持率が下がりっぱなしだそうだが、ひょっとしたらいつも「解答」それも「右」と「太平洋の彼方」とにブレ過ぎたお定まりの「解答」ばかりを口にしているからか? 巷では、「おまえの言うことはツマラン!」との大合唱が響いているのかも……>(当日誌 2007.01.21)
 要するに、「ツマラン!」の一言に集約できてしまうわけだ。他の人たちはどう感じているのかと思っていたら、立花隆評論家【 注.】が以下のような叙述をしていたので、「そうだよなぁ」と溜飲を下げたものである。

< 首相になったばかりのころは、まれに見るほど高い人気をほこっていた安倍首相の人気がなぜかくほどまでに落ちるばかりなのか。
第一にあげられるのは、人間として面白くないということだと思う。小泉時代と同じように、毎日のテレビのぶら下がり会見で、記者に問われるといろいろしゃべるにはしゃべるのだが、その言葉が上すべりするだけで、人をひきつける要素がさっぱりない。国会の演説、あるいは答弁で語るときも同じである。とにかく何を聞いても、つまらないの一語につきる。
 私の家には91歳になる母親がいて、ときどきいっしょにテレビのニュースをみるのだが、ついこの間も、安倍首相が語るのを聞いていて、「この人は何もない人だねえ」とつくづくいっていた。>(『「女性は子供を産む機械」発言で湧き出る安倍「大政奉還」論』、立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」より)

【 注.】
 人名を記入する際、敬称の観点やら、社会的評価の観点から、どう扱うべきかこれまで悩まないわけではなかった。先日、東海林さだお文筆家のエッセイを読んでいたら、この件について面白おかしく書いていた。
 新聞報道でも、逮捕されて刑が確定しない人の名をどう扱うかにはバラツキがあるそうだ。こうした人にまで「さん」づけをするのは好ましくないため、「呼び捨て」にしてみたり、末尾に「……容疑者」を付けてみたり、「……職業名(ex.配達員、議員、医師 etc.)」を付けて濁してみたりと。
 で、東海林文筆家(わたしは当分、誰の場合でも「プラス職業名」としようかと思っている)は、悪いことをした者の報道では、「こいつ奴(め)」の「奴」をつけてはどうかと率直に提案しているのであった。例えば、「電車内で痴漢行為に及んだ佐藤奴(め)[43歳]は、身に覚えがないと犯行を否認し……」となったりするようだ。???

 「この人は何もない人だねえ」と評されることほど、人として辛いことはないのかもしれない。まして政治家ともなれば、まるで「カンバン」が無いようで寂し過ぎる。もっとも、「カンバン」ばかりが暑苦しいほどにデカくて、不快感ばかりを撒き散らかすのも迷惑な話である。
 いや、この世で最も蔑んでしまう人種のひとつである政治家「奴」たちの人品骨柄を云々したいのではない。そうではなくて、人の生き方、いやそこまで行かなくとも「人の考え方や感じ方の独自性」について目を向けてみたいのだ。
 「この人は何もない人だねえ」という言葉のウラで期待されている「何か」とは、要するにそれぞれの人の「独自性」だと言っていいような気がする。
 以前にも書いた、大瀧秀治俳優がCMの中で言うセリフ「おまえの言うことはツマラン!」をも重ねてみるならば、「独自性」の中身がさらに髣髴としてくるようである。
 つまり、官庁、役所、マス・メディアなどなどによって言い古され、撒き散らかされた言葉もどきは、「紋切型」なのだから通りだけは良さそうではある。だが、何ら人の心に沁み込んではこないから、人の言葉と言うよりは、「間(ま)」を埋めているだけの何らかの動物の鳴声とでも言った方がいいのだろう。いや、こう言うと、精一杯コミュニケーションをしつつ必死で鳴いている野鳥たちに失礼になってしまう。

 それにしても、現代は、個性化・多様化の時代だと錯覚されているが、とんでもないことであり、人々の頭の中は「JIS マーク」つきの単語集と、「試験に出る」例文集、ちょいと凝ったものとしては「咄嗟の時にはこう言おう」集などで満杯状態となっているのではなかろうか…… (2007.02.02)


 今日は「節分」、そして明日が「立春」ということになる。だからどうだということもない。先ほど、形ばかりの「豆撒き」を敢行した。買い置いてあった煎り大豆を、みやげにもらったのをとって置いた小さな升に入れ、玄関で、
「福は内、福は内」
と声を出した。近所に対して気恥ずかしい感じがあったので、声を張り上げるところまでは行かず、呟きに限りなく近い声の出し方に終始した。
 家内は、わたしの帰りが遅かったことでご機嫌斜めとなっていたため、この「豆撒き」はわたし一人が独演しなければならなくなった。だから、何とも間の抜けた気配があり、そんな声の出し方になったのかもしれない。
 小さな子どもでもいれば、雰囲気が整うのであろうが、そんな脇役はいるはずもない。そう言えば、飼い犬のレオがいた時は、豆の入った升をを持って玄関先に出ると、庭に放し飼いしていたレオが、「何、何?」と飛んで来たものだった。そして、勘違いというか、当然の認識というか、撒くそばから「豆探し」をして、ペロペロパクパクと平らげていたものだった。それはそれで、「ギャラリー」が存在したため、出す声に意味があるような気がしたものだ。

 考えてみれば、「独演」という形で、「福は内、福は内」と叫ぶのは、実に奇妙な雰囲気である。「世界の中心で、愛をさけぶ」のも度胸なしではできないと思われるが、静まり返った住宅街の夜に、独り「福は内、福は内」と叫ぶのも何がしかの度胸が必要な感じであった。
 一体、誰に向かって叫んでいることになるのだろうか、「福」というものに向かってなのであろうか、「天」とでも言う茫漠としたものに向かってなのか……、と意識しはじめると、にわかにヤバイ気分となってしまうのである。
 さらに、近所の人々の耳に入ることを意識するならば、「あそこのご主人、よくやるわねぇ。今時、あんな馬鹿げたことやらないもんね……」という陰口が聞こえてくるようで、またまたヤバイ心境に追い込まれる。
 そこで、自分は、本来ならば、「福は〜〜内」と「は」の部分を伸ばし、張り上げるべきところを、役所で聞く「次の方どうぞ」といった調子で、ほとんど抑揚も愛想もない口調で「福は内、福は内」と言って済ましてしまったのだ。あたかも呪文を唱えるかのようにである。

 ところで、「福は内」と対になっていたはずの「鬼は外」のくだりは、もう何年も前からナシにすることになっていた、わが家では。確か、家内が誰だかに聞いてきたというもっともらしい理屈が話題に上ってからのことだったかと思う。
 それは、家の中で豆を撒くのに、「鬼は外」と叫ぶのは、家の中に既に「鬼」がいたことになり、それは物議をかもし穏やかではない……とかであったかと思う。ただでさえ、バーチャル儀式を真顔で、「真声で」やることに気色悪く感じているのに、加えて、家の中に鬼がいるという認識は間違っているのどうのと突かれては、演じようもなくなってしまうので、結局、「福は内、福は内」と誰も異を唱える根拠のない無難な部分だけにとどめることにしたのである。

 しかし、それにしても、こうした他愛のない行事を、きゃっきゃ、きゃっきゃと他愛なく敢行する雰囲気こそがすべての家庭になければいけないのかもしれない。「福」さんや「鬼」奴(め)らが、どこにどんなふうにいるとかいないとかと杓子定規なことを言ってるようじゃあオシマイよ、ということなんじゃあなかろうか……。何でも喜ぶ小さな子どもがいたり、何にでもジャレつくペットがいたりして、わけもなくヒートしている家にこそ「福」はドカドカとやって来るのかもしれない…… (2007.02.03)


 このような日誌を毎日綴っていると、妙なことに気がつく。
 毎回何を書こうかと戸惑うことは変わりない。それで、悩みはじめた時なのであるが、時間の余裕がさほどない場合ほど、比較的うまく進捗するもののようだ。かえって、多少のゆとりがある時ほど、ヘンに迷って次第に迷いの深味にはまり込み、身動きがとれなくなってしまったりするものである。今日は、どうも後者の部類に入りつつある。
 こんな場合には、やるべきことはひとつ、とにかく「見切り発車」で書き出してしまうに限る。どっかで糸口が見出せると高を括る必要があるのだ。

 最初、久々に見たくだらない夢の話でも書こうかと思っていた。実は、バカバカしくも、恐ろしい夢なのであった。
 もとより、夢に脈絡なぞないから単刀直入に「山場」が現れた。事務所が泥棒に入られたという場面なのである。事務所に来てみると、ドアに施錠がされていたかどうかは定かではなかったが、部屋の中が荒されていた。引き出しや、ロッカーなどが乱雑に開けられて無残であった。
 その光景が、ゾッとするかつてのある場面を想起させて身震い(夢の中で)をもたらした。そのある場面とは、もう十年近く以前の話となるが、とある駐車場にクルマを停めていて車上荒しにあったものだった。クルマに戻った際の驚いたことといったらなかった。車内が、一見して悪意に満ちた者(当然である。善意に満ちているわけはない)の侵入を感じさせる散乱の極みであり、一番気にすべきカバンが持ち去られていたのである。その時の、背筋がゾッとして鳥肌が立った感覚は深層心理に刻まれるようであった。幸い、当該のカバンは近くの茂みに投げ込んであるのを発見することが出来、ポケット・カメラ以外に大した被害にはならなかったので助かったものである。
 で、夢の話に戻ると、自分は、とっさに事務所内の被害を調べる前に、警察を呼ぼうと電話を掛けるのだった。が、そこで信じられない驚きに遭遇したのだった。自分は間違いなく「110番」をコールしたのだったが、次のような女性の声が聞こえてきたのである。
「お客様のお掛けになった『いちいちぜろ番』は、お客様の都合により現在お繋ぎすることができません。お急ぎの方は、お近くの交番までお出かけください」
と言ったようなのである。その声は、テープではなく肉声であったので、自分は、泥棒に入られたことなんぞ忘れて、むしろこの対応のとんでもなさにプッツンしてしまったのである。
「ちょっと待ってよ〜。『110番』通報というのは何のためにあるの? いくら経営難だからって、被害者を交番に駆け込ませるなんてジョーダンじゃないよ。瀕死の重体だったらどうすんのよ……(プッツン、プンプン)」
 その興奮で、目が覚めてしまい、しぶしぶと寒いトイレに向かったのである。用を足しながらも、「まったく、ジョーダンじゃないよ。今どきの(夢の中の)ケーサツは何を考えてるんだ」と不愉快さがムショーにこみ上げてきたものであった。
 かつてのゾッとした感覚が深層心理に刻印されていたのと同様に、どうも昨今のケーサツに対する今ひとつ頼り切れない不甲斐なさも深層心理に刻んでいるのかもしれないな、と後で思ったものである。

 まあ、実にくだらない話なので、これを日誌のメインに据えるのはどうかと迷ったのである。そこで、もっと書くべき優先度の高いことがありそうだと、目下のビジネス課題なんぞに目を向け、その妙案をいろいろと思案したのである。が、それでエンドレス・ループに紛れ込んでしまったというわけなのだった。
 とにかく、このご時世、何百万、何千万人の人々が、「何かいいカネ儲けのアイディアはないものか……」と、日夜、思案に思案を重ねているに違いないなかろうが、それでもなかなかパッとしたものが出てきにくくなっているという、それほどにとんでもなく難しい時代環境になっていることだけは事実なのだろう。まあ、効果的に思案せねばなるまい…… (2007.02.04)


 ますます、ウェブサイトがビジネスの成否を決定づけるかのような時代環境となってきた。と言っても、ウェブサイト戦略の要は、とにかく自社サイトを作ればいいというようなレベルではもちろんないし、コンテンツやデザインに凝ればいいというのもやや的外れとなりつつある。これらの前提条件は当然なければならないが、さりとて、これらを150%、200%の意気込みで力んでみたところで、期待するビジネス成果には至らない。 問題は、無数にあるサイトの中から、どうすればユーザーが自社のサイトにアクセスしてくれるのか、という一点を問うシビァさに到達しているということになる。

 ビジネス環境に関心を寄せる向きのマス・メディアも、昨今は、やたらに「グーグル、アマゾン」問題にスポットライトを当てているようだ。
 昨日も、民放で、先に放送されたNHKの『"グーグル革命"の衝撃』と同様な内容の番組があった。つまり、グーグルの検索結果表示によって上位にランキングされた地方の零細企業が起死回生の発展を遂げるという、現代の「シンデレラ」会社の話である。
 自分も「羨ましい」かぎりの心境とさせられたものだが、全国の会社経営者たちが観ていたならば一様に羨望の念を込み上げていたに違いなかろう。
 以前、地元地域のビジネス・フェアに参加した際、零細企業の経営者と思しき人から、「自社のサイトに多くの閲覧者がやってくるようなソフトというものはないんですかね」と、唐突に質問されたことがあった。もし、そんなものがあれば、ありがたいに決まっているし、誰も苦労しないと言うべきであろう。
「まあ、本業でオンリー・ワンの内実作りに励むとともに、それをわかりやすいコンテンツにまとめ上げることしかないようですね」
と、わかり切った返答を返したかと記憶している。当時は、今現在のような「グーグル」の戦略は表面化していなかったし、まさか、こんなにも早く時代環境が熟するとはとても想像できなかった。

 かと言って、現在でも、自動的に「自社のサイトに多くの閲覧者がやってくる」というようなラッキーなシステムがあるわけではない。だが、「ちょっとした戦術」で、いくら時間と労力とをかけても叶わないであろう閲覧者数の獲得を果たすことが不可能ではなくなっている気配である。
 「グーグルの検索システム」を活用すること、しかも最近では自社サイトがユーザーの検索結果で有利に展開できる「有料」のサービスをも活用することで、かなりの程度「集客効果」を上げることが望めるようになってきたからである。
 ネット検索ユーザーは、当然のことながら自身が探す商品なり、サービスなりに関する「キーワード」を入力して「検索」に臨むわけだ。そして、表示される「検索結果」リストの上位3位くらいまでをクリックしてそのサイトを訪れるのであろう。だからこそ、何千件、何万件もの「検索結果」リストで上位3位くらいまでに入らなければ、無視されてしまう可能性が高いということになる。だから、どうすれば上位に「ランキング」されるのかというテーマに熱い眼差しが向かうわけである。
 この「ランキング」のメカニズムはグーグル側の秘密事項となっているようだが、これとは別に、「有料」の広告サービスが実施されてもいる。ひとつは、ユーザーが行った検索に関係づけて広告主のサイト情報を掲載するというものだ。まったく埒外の関心しか持っていないユーザーに、サイト情報を知らせたところで無意味であろうが、その種の関心を持っている人に、それに近い広告情報を提供すればアクセスの可能性が高まるからである。

 さらに、なるほどと頷かせる「有料」の広告サービスに、次のようなものがある。
 検索を行うユーザーにしてみれば、あまりにも一般的な「キーワード」を入力して、何百万件もの結果リストを提供されても困るものだ。だから、自分が期待している対象をできるだけ小さく絞り込みたいと考えるはずであろう。ただし、その「キーワード」に設定された言葉があまりにも独自的に過ぎるならば、そんな言葉で検索されるものは無くなってしまい検索機能自体が成り立たない。
 そこで、検索ユーザー側にある種の想像と思案が働き、「検索キーワード」として成立しそうな言葉というものが想定されることになるわけだ。これらの「検索キーワード」は、常識人であれば思いつく可能性の高い言葉であり、大体多くの人に共通していると言えるようである。
 ここから、とてつもなく一般化してしまった言葉ではなく、それでいてある対象に関心を持っている比較的多くの人たちが使うであろう言葉を、自社のサイト上に含んでおけば、自社サイトを訪れるユーザーが増えるであろうということになりそうだ。
 そこで「グーグル」は、そうした「検索キーワード」用の言葉に着眼して、それらを「有料」(実際は「入札」によってその言葉の価格が決まるそうである)で斡旋するというのである。実に、理に叶った抜け目りないビジネスである。しかし、このシステムを活用するならば、ほぼ確実にアクセス数増大の可能性は高まるのであろう。

 こうしたネット「検索」によって、何らかの顧客が入手したいモノなりサービスなりを探そうとし、また、それらの提供側もそれに向けて積極的な対応をしようとすること、これらはますます一般化するに違いなかろう。
 その背景には、片や顧客側にすれば、昔のように「犬も歩けば棒に当たる」式のショッピングをしているゆとりも無くなったと言うべきなのかもしれない。
 また、提供されるモノやサービス自体が、概して標準化、平準化しており、さほどの差異がなくなりつつあるという事情も横たわっているのかもしれない。たとえば、「検索」対象の王者は、通販というかたちの家電製品だということになるが、家電製品ほど標準化、平準化したものはないのであって、あとは価格の差異だけだという事情が、「価格.com」などを成立させたに違いなかろう。
 ともあれ、「検索」という現代人の必須行為の周辺には、まだまだビジネス・チャンスが潜伏しているものと推定される。そして、コンピュータ処理の問題側もさることながら、人間が、何かを探して「検索」する時、一体どんな思考過程を歩むものかという、脳科学ないし心理学のジャンルも結構面白くなるのかもしれない…… (2007.02.05)


 良いか悪いかじゃなくて、「野宿」が拒絶されない社会環境であってほしいと願う。人間社会に生まれて、職も無く、居場所も無く、そして休める場所もないというバカバカしい条件設定なんぞは考えてもみたくないからである。
 どんな人間にとっても、生きるために休息を得る場所が与えられていい。まして、どんな人間にも自由と定職と与えられて、さしあたってのホームを持つことが何重にも保障されているのならまだしも、ストレートに言って、現社会は、その構成員がホームレスとなる可能性を決して否定してはいないはずだ。いや、むしろ誰に対してでも、ホームレスとなり果てる可能性を、まるで蟻地獄さながらいたるところに用意していると言った方がいい。
 最近、ホームレスは、フランスでも社会環境が「格差」構造を深めてかなり急増しているとのことである。「格差社会」の構造が色濃くなれば、その社会の底辺に、「這い上がれない」人々が、やむなくホームレスというサバイバル形態を採らざるを得なくなるようだ。
 TVの報道番組に映されていたフランスの女性は言っていた。「誰でもが、ホームレスとなり得る可能性に囲まれているのが現在の状況です」と。自分も同感であった。
 経済格差の強まりが直接的な原因であるが、今ひとつ、人間は自由に生きる存在なのであり、この点も文明を誇る社会であれば留意すべきであろう。だから、いわゆる「収容施設」という代替策は、選べて選べないものとも言えるのかもしれない。

 毎年、寒い季節となると、都心のあちこちで見かけるホームレスの人々の姿が気になるのだが、今回は、ニュース報道がきっかけとなった。昨日、大阪の「長居公園(東住吉区)」で野宿していた人々が「強制撤去」されたのだ。
 このニュースが気になったのは、その地名からであった。
 大阪市東住吉区とは、自分が生まれたところなのである。しかも、「長居公園」というのは、とっくの昔に他人の手に渡ってしまった自分の生家の、そのすぐ近くなのである。自分が、そこで暮らしたのは5、6歳くらいまでであり、その当時は、現在のような近代的な様相の公園にはなっていなかった。昭和19年4月に開園されたらしいのだが、自然公園とはいっても、前半分の自然の方に傾いていたのではなかったかと思う。
 自分は、幼少期の頃の記憶を懐かしく思うことがあり、つい先日も、「グーグル」のマップ検索でこのスポットの航空写真を閲覧し、その変貌ぶりに興醒めしていたものである。記憶によれば、当時は、街中でも至るところに広い空き地が点在していたし、街はずれには見渡す限りの田畑が広がっていた。自宅の前にも、何十軒もの民家が建つ余裕があるほどの空き地が広がっており、日中は近所の悪童たちと駆けずり回り、背丈の高い草地や盛り土の小山があったりして、小さな子どもにとっては恰好の「原野」だったのである。また、その反対に、夜は真っ暗で恐ろしい空間となってしまい、その脇の道路を銭湯帰りに通る時も、何だか薄気味が悪くてならず、母親の腰に掴まって歩いていたことを覚えている。

 しかし、「グーグル」の航空写真で見ると、その一角は、しっかりと住宅やビルらしき恰好の建物で埋められている。まるで、電子基板の味気ない回路の部品群のごとくである。「相当に高く上昇して」縮尺率を変えても、田畑なんてものの姿は何もない。よくも、「余地」というものを無くすべくパーフェクトに埋め尽くしたものだと、ちょっとした感慨を抱くことになる。が、まあ、ここに限らず、全国の大都市の市街地というものはみな同様のはずだろうと思い直す。
 ただ、そのすぐ近くにいやでも目に入るものがある。タテヨコ、数百メートル×1キロもあろうかと思われる空間であり、そこには膨大な緑地や池、そして競技場のトラックなどが窺えるのだ。これが、今回、ホームレスたちが追い出された長居公園なのである。
 感覚的に言うならば、「電子基板の味気ない回路の部品群」の部分は、所有権で裏打ちされた部品群(住宅など)が、一時的な通行は許したとしても、「野宿」なんぞができるような「余地」を残してはいないのである。野良猫が隠れ棲む空間とてあるかどうかが疑問視されるような印象である。
 それは単に「密集地」だと言うよりも、まるで電子回路のように、不審者の立ち入りをシャットアウトすべく「制御」され尽くされた、そんな空間だというふうに見えてきたりする。決してそれは悪いことなぞであろうはずはない。法治国家における所有権というものが自然に構築した姿でしかないわけだ。
 だが、こうした空間ではすべての人間たちをもれなく包み込むことなぞあり得ず、ほぼ確実に「居場所」を剥奪される者をも生み出すし、そして次のステップではその彼らを排斥する成り行きをも展開する。それが現実のはずである。
 そんな「電子基板」の見事な連なりの中に、ポッカリと浮かんだ「異質な感じ」の空間として長居公園が目につくのである。ひょっとしたら、そこは「別空間」「別世界」なのかもしれないという第一印象を与えないでもない。あたかも、中世の「圧政」都市からエスケープした者たちを匿う「駆け込みの森」「シャーウッドの森」だと早とちりさせたりしないでもない。確かに、遥か上空から眺める東住吉の航空写真は、そんな印象を与えないでもないのである。
 だが、地にへばりついた現実は、そんな呑気なイマジネーションを粉々に打ち砕くことにならざるを得ない。「圧政王」の手勢たちは、ロビンフッドなんぞはフィクションだと自身に言い聞かせながら、「シャーウッドの森」に攻め込むのだった……

<大阪市は5日、行政代執行法に基づき、今夏の世界陸上の会場となる長居公園(東住吉区)で暮らす野宿者のテントや小屋の強制撤去を始めた。市職員約200人、民間会社の警備員ら約300人を動員、正午前に計13物件すべてを取り壊した。野宿者6人と支援者ら約150人が市側に激しく抗議し、もみ合いになる場面もあった。……>( asahi.com 2007.02.05 )
…… (2007.02.06)


 「女性は産む機械」発言で世間から顰蹙を買った柳沢厚労相が、再び「駄目押し」的な発言を繰り返すことで、世間の良識からのブレを再表明したようである。
 「若い人たちは、結婚したい、子どもを2人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる」
と発言した件である。この言い回しからするならば、子どもがいない場合や1人の場合は「不健全」だとも受け止められるとのことで、波紋を広げているというわけだ。
 歯に衣を着せない言い方をすれば、やはり速やかに降板させた方が無難だったと思われてならない。こうした類の「失言、放言」は、単なる言葉尻の問題であるよりも、思考回路のメイン・ルーチンから自然にアウトプットされるものであるに違いないだけに、発言頻度が高まれば、必ずや飛び出してしまうものだからである。
 そして、こうした思考回路を持つ政治家は、何も柳沢厚労相にかぎらず、政府与党の議員の大半が同じ穴の狢(むじな)だと見なしても曲解にはならないと思われる。

 同時に、こうした思考回路は、さすがに政府与党の議員先生たちの頭蓋には多くインストールされていると思えるのだが、それだけで済ますのも話は安直に過ぎるのかもしれない。
 客観的に言うならば、現在の中高年・熟年世代の男性の頭蓋には、少なからず格納されている回路なのかもしれない。と言うのも、それが、つい先頃までの日本の文化風土と抱き合わせになっていた確率が高いからである。
 ただ、人間個々人というものは、「刷り込まれた」思考回路に対しても、一定の距離を置いて批判的に処理することも可能な存在であろう。そこが、他の動物たちとはちょいと異なる人間様だということであろう。
 人間は、自身の思考回路を、実生活の中で修正し、再構築し続けている存在であるはずだ。挫折に遭遇し、苦悩を抱え込むことが多ければ、なおのことそうした営為を深めるものであろう。
 ところが、同様のロジックによって、ある種の「狭いカルチャー」集団の中で安住だか揉まれてだかしていると、その種の思考回路をますます強めていくことになる。たとえば、「永田町カルチャー・スクール」に何年も通っていれば、否が応でもその種の思考回路が強靭になってゆくはずだ。そして、その回路を、一段上のメタ回路によって制御するという本来行われるはずのことも省略されてしまうから大したものである。その実態は、ほとんど「洗脳」効果に近いとさえ言えるのかもしれぬ。
 柳沢厚労相の発言は、決して「失言、放言」なんぞではないと言うべきだろう。「永田町カルチャー・スクール」の優等生だからこそ口走ることになったナチュラル言語であるに違いなかろう。
 ただ、安倍首相あたりは、折り紙付きの優等生であるから、永田町言語も駆使するとともに、国民向けの耳障りのいい言語をもマスターしており、いわば「バイリンガル」的に使い分けていると見える。しかし、後者に関しては「心がこもっていない」だけに、国民をして「おまえの言うことはツマラン!」と言わせしめてしまうわけだ。

 さてさて、「ツマラン」ことに時間を潰してしまったが、今日書こうとしたことは、下記のとおり、現代の思考回路の「類型」であり、古い「類型」がますます見え透いたものに成り果てつつあるということ、であった。
 もう20年も以前に、とある優れ者が指摘した事柄であったが、今日ますますこの「類型」が秘めた緊張が一般化してきているかに思われる。

<最近の子どもたちは表現力に乏しい。きちんとした対話ができない。これまた耳にタコができるほど聞かされる決まり文句だ。けれども、パラノ人間(※ 注.)おとくいの「表現力」というのは、紋切型をパラノ的に反復する能力にすぎないし、「対話能力」というのも、予定された総合に向かう弁証法(ディアレクティック)のパラノ・ブロセスに安んじて身を委ねることのできる鈍感さ以外の何物でもない。国会の演説や質疑応答でもきいてみれば、そんなことはすぐにわかる>(浅野 彰『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』1984年)

 今日、紋切型フレーズを「立て板に水」どころか、機関銃のように連射しているのは、政治家たちであり、マス・メディア、加えて企業CMということになろうか。そして、寡黙に徹しているのが、この世界全体に違和感を禁じえない子どもたちであり、心ある慎み深い庶民たちだということになろうか。無駄な紋切型フレーズなんぞは口にしない方が美的なのだと思う…… (2007.02.07)

(※ 注.) < 誰もが相手より少しでも速く、少しでも先に進もうと、必死になっている社会。各々が今まで蓄積してきた成果を後生大事に背に負いながら、さらに少しでも多く積み増そう、それによって相手を出しぬこうと、血眼になっている社会。これはいささか病的な社会だと言わなければならない。ドゥルーズ=ガタリにならって、このような社会で支配的な人間類型をパラノ型と呼び、スキゾ型の対極として位置付けることにしよう。
 パラノ型というのは偏執型(パラノイア)の略で、過去のすべてを積分=統合化(インテグレート)して背負い込み、それにしがみついているようなのを言う。パラノ人間は《追いつき追いこせ》競争の熱心なランナーであり、一歩でも先へ進もう、少しでも多く蓄積しようと、眼を血走らせて頑張り続ける。他方、スキゾ型というのは分裂型(スキゾフレニー)の略で、そのつど時点ゼロにおいて微分=差異化(ディファレンシエート)しているようなものを言う。スキゾ人間は《追いつき追いこせ》競争に追いこまれたとしても、すぐにキョロキョロあたりを見回して、とんでもない方向に走り去ってしまうだろう。
 言うまでもなく、子どもたちというものは例外なくスキゾ・キッズだ。すぐに気が散る、よそ見をする、より道をする。もっぱら《追いつき追いこせ》のパラノ・ドライブによって動いている近代社会は、そうしたスキゾ・キッズを強引にパラノ化して競争過程にひきずりこむことを存立条件としており、エディプス的家族をはじめとする装置は、そのための整流器のようなものなのである>(同上文献より。 注.の方がかえって難易度が高まってしまった感がなきにしもあらず?)


 昨今は、「どうしてそんなことを?」と首を傾げてしまう事件、事故が跡を絶たない。昨日も、大阪だかのある公園で、毒をまぶされた餌を、ハト、スズメなどの野鳥や、野良猫、さらに散歩中の犬が食べて、いずれも死んでしまったとかである。
 どうしてそんなかわいそうなことをするのかと、疑問と怒りが湧き上がってくる。ただ、自宅の近所にも、そうした「隣人」がいたりするから、まんざら想像できない話でもなさそうである。その「隣人」は、野良猫を目の仇にしているようで、「鳥もち」を使って猫を捕まえ、「処分」してしまうようなのである。「鳥もち」から逃れて逃げ込んで来た猫を助けたこれまた「隣人」がいることで判明したのである。まあ、おおよそ下手人の目星はついているのだが、どうも「鳥もち」を使ったというところに、その下手人の素性が浮かび上がってくるのだった。ある程度の年配の男性、そして都会育ちではなさそうだというような点、そして、それはと言えば、あいつ奴だ! というふうに……。
 きっと、今回の動物虐待の下手人も、当該の公園近辺に住み、農作業に携わって、とかく野鳥を敵視する立場にある者ではなかろうかと推理している。マス・メディアは、ややもすれば興味半分に「異常者」を想定し、その視点から若年層の仕業と見ているかもしれない。しかし、若年層の「異常者」ならば、農薬などを使わずに直接手を下すような気がする。

 いや、またまた、くだらない「まくら」話を書いてしまった。今日の関心事は、次のニュースである。

<認識や愛情行動促す物質を特定、治療へ応用も 金沢大
 相手とのコミュニケーションを取ったり、母親が子どもを守ったりする生き物の「社会行動」に関係するたんぱく質を、東田陽博(はるひろ)・金沢大医学系研究科教授(神経化学)らのグループがマウスの実験で特定した。発達障害の治療に応用できる可能性があるという。7日付で英科学誌ネイチャー電子版に発表する。
 東田教授らは、脳などに多い「CD38」と呼ばれるたんぱく質を作れないマウスが、異常な行動をすることに注目。約30匹で実験を繰り返した結果、記憶能力などは正常にもかかわらず(1)雄が雌を認識する(2)母親マウスが巣から引き離された子どもを巣に戻す――といった行動にかかわる能力が、約9割のマウスで欠けていた。
 さらに、このマウスでは「オキシトシン」と呼ばれるホルモンの脳内濃度が低くなっていた。注射で補充すると行動が正常に戻ったことから、東田教授は「CD38が脳内のオキシトシンの分泌を促し、母親の愛情行動などを支えていることがわかった」としている。
 オキシトシンは、子宮収縮や母乳の分泌などに関係するホルモンとして知られる。最近になって、このホルモンが脳で働くと、「相手への愛情や信頼感が生まれる」可能性が指摘されている。他人とのコミュニケーションがうまく取れない発達障害との関係も研究されている。>( asahi.com 2007.02.08 )

 この現代に発生している異様な事件は、混乱した時代や社会の異常な環境を裏側から照らし出しているとも言えよう。と同時に、現代人の病んだ心身の状態にも視線を向けさせているはずである。そんな中で、精神や心のメカニズムがさまざまな角度から研究されており、そうした脳科学の成果には注目していいのではないかと思っている。
 ホルモンなどのいわゆる「脳内伝達物質」が、生物の行動や、人間の心の動きに少なからぬ影響を及ぼしていることは次第に明らかになってきているようである。ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニン、エンドルフィンなどはよく耳にするものである。
 本来、これらは、体外からどうこうできる物質ではなく、体内で自生されるもので、「健全な」(この言葉を使うと誰やらを想起してしまう)自生のためには生活構造全体をコントロールすべきなはずなのであろう。
 ただ、現代特有の時代環境が人々の生活構造に悪影響を与えたりすることもあって、健全な自生に支障をきたすこともあるのだろう。(ex. 鬱とセロトニンの関係)そんなこともあって、「脳内伝達物質」の研究が注目されているのかもしれない。

 ちなみに、上記記事の「オキシトシン」は、「脳内伝達物質」のうちの「ペプチド」(※ 注.)に分類されるものであるが、その役割りはさほど明らかではなかったようである。さらに、「CD38」という蛋白質も同様のようである。
 ところで、脳内に多いとされる「CD38」という物質が「社会行動」に影響を与えると目されているようなのではあるが、わたしの推理では、その解釈は「同語反復」ではないかという気がしないでもない。人間の場合、「相手とのコミュニケーションを取ったり、母親が子どもを守ったりする」行動を強めていけば、脳内の「CD38」は自生的に増加して、ますます「相手とのコミュニケーションを取ったり、母親が子どもを守ったりする」行動をスムーズに行わしめるものなのではなかろうか。体内で自生されるホルモンというのは、もともとそうした性格のものだと思われるのである。
 わたしが言いたいことは、何らかの事情でやむを得ず「脳内伝達物質」を外から注入することは許容されたとしても、むしろ「正攻法」で臨むべきではないか、ということなのである。
 もし「社会行動」に苦手な者がいた場合には、そうした行動を勇気づける人間関係によってこそ克服していくということ(これは同時に「CD38」とやらの脳内物質を自生促進させるに違いない)が好ましいと考えるわけなのである。実に平凡でまどろっこしい克服策ではあるが…… (2007.02.08)

(※ 注.)
<アミノ酸 心を創りだす物質
 脳の神経細胞と神経細胞の間を伝達物資が行き来することで心が生まれる。そして伝達物質の量が、うまくバランスを保つことで、わたしたちは平常な心でいられる。
 このバランスを保つためには、必要に応じて脳内で伝達物質がすばやく供給される態勢ができていなくてはならない。もしも伝達物質の供給が滞ると、神経シグナルがスムーズに伝わらないため、さまざまな神経障害が発生する。
 伝達物質には多くの種類があり、それらはアミノ酸、アミン、ペプチドの三つに分類できる。ただしアミンとペプチドは、アミノ酸からつくられる。したがってアミノ酸こそが心を創りだす最重要物質である>(生田 哲『脳と心をあやつる物質』講談社、1999年)


 ゴア前米副大統領が地球環境問題で警鐘を鳴らす姿を撮影したドキュメンタリー映画「不都合な真実」(デービス・グッゲンハイム監督)がアカデミー賞の候補となっていることが話題だ。
 そのゴア氏が、映像が持つ説得力について語っていた。頭ではわかっていても今ひとつきちんと認識できないというのが、この現代のひとつの大きなワナなのだろうと思う。
 そうしたワナから人々を救い出すための手段として、映像が持つ効果はやはり重要だろうと痛感する。こうした観点から、もはや一時の猶予もないと言うべき「温暖化」現象、地球環境問題に関して警鐘を鳴らすフィルムが、マス・メディアによって旺盛に流されるべきだと思っている。
 この国の危機的問題のひとつに地震問題があることはわかるが、だからと言って「日本沈没」というような、はっきり言って意図不明な映画を作って、ホラー映画水準で騒いでどうなるというのか。この辺にも、映像というものを、商業主義路線のエンターテイメント志向のみで扱おうとする関係業界の心根が見え透いている。

 そんな思いでいたところ、日本にも、映像(映画)の持つ説得力で、人間の本質的課題に目を向けさせようとした映画監督たちがいたことを想起した。
 反戦という根源的テーマにこだわった映画監督たちのことであり、昨年亡くなった黒木和雄監督(『TOMORROW 明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮せば』etc.)もそのひとりであろう。『TOMORROW 明日』では、淡々とした日常生活が優しい視点で丁寧に描かれ、それらを突然に破壊してしまうものとしての核爆弾が糾弾されたのだった。あれこれと反戦の言辞が叫ばれるのではない。主体である愛しい日常生活が克明に描かれ、最後の最後の一瞬に核兵器という傲慢な破壊者がちょいと顔を出して、そしてくどくどとした説明もなく終わる。当然、観客はその恐ろしい違和感を、鑑賞後の映画館の外へ引き摺って持ち帰ることになるわけだ。

 映画というメディアを、痛烈な反戦という方向で駆使した監督を思い起こす時、次に忘れられない監督は、やはり木下恵介監督ということになるだろう。
 先日、去年TV番組となった同監督の生き方を紹介したものを観た。(NHK 「ラストメッセージ」『第3集 愛と怒りと 木下恵介』)
 木下恵介監督といえば、何といっても壷井 栄原作の『二十四の瞳』(昭和29年)が挙げられるべきであろう。物語の中には、決して反戦という言葉が一言も出てこないにもかかわらず、観る者の心の奥底に戦争を憎む深い感情を呼び起こすのである。
 この番組を観て、自分は急いで近くのレンタル・ビデオ屋へ向かい、高峰秀子主演の『二十四の瞳』モノクロ版DVDを借りてきたものだった。とにかくもう一度ジックリと鑑賞してみたくなったからである。
 同番組は、そのサブタイトルに「愛と怒りと」とあるように、木下監督の信条と生き方が、片方で平凡で慎ましやかな人間の生き方に限りなく愛を抱き、そして他方でこれらを無慈悲に踏み潰す権力や戦争というものに激しい怒りを禁じえないという、そうした構図を持つということを強調していた。そして、その両者を結ぶ「武器」として映画というものを自覚していたようなのである。つまり、監督自身が、語っていたのであるが、人間への愛に基づく怒りを表現し、観客の共感を呼び起こすものとして映画ほど強烈なものはない、と。
 まだ日本が軍事支配化にあった頃には、戦意高揚のための映画が盛んに作られたものだ。同監督も、「陸軍」というその種の映画作りに協力させられた。しかし、同監督は、膨大な数の軍事関係者の動員をしたにもかかわらず、田中絹代演じる出征兵士の母の悲しみの表情を延々とフィルムに収めたのだった。当然、完成後に軍部から圧力が掛かることを承知した上での、いわば「確信犯」的選択をしたのだそうだ。

 今日、これを書こうとしたのは、映像というメディアこそは、戦争であるとか、地球環境問題であるとか、要するに、重大な問題でありながらややもすれば手抜かりともなりやすい問題を喚起するために最大限活用されるべきだという、その点だったのである。
 ただ、ひとつジレンマがあるとすれば、映画というものは制作費用の問題もあるからなのだろうが、観客動員可能性とのにらめっこがありそうである。そして、エンターテイメント志向に流れて、鬱陶しいテーマの映画がスポイルされがちだという点である。
 上述の番組の中で、木下監督の愛弟子にあたる脚本家山田太一氏が、同監督への「弔辞」(8年前)として次のように述べていた。これが、現時点での問題点の集約であるように思えたのだった。

<何かもどかしさがあります。日本の社会は木下作品を自然に受けとめにくい世界に入ってしまったのではないでしょうか。しかし、人間の弱さ、その弱さが持つ美しさ、運命や宿命への畏怖、権力の理不尽に対する怒り、そうしたものにいつまでも日本人が無関心でいられるはずがありません。今まで目を向けなかったことが訝しく思うような時代がきっとまた来ると思っています>

…… (2007.02.09)


 昨夜は、久しぶりに夜更かしをしてしまった。就寝したのが午前2時であった。ひと昔前ならば、こんなことは夜更かしとさえ感じないほどのことであったが、最近ではとんでもない夜更かしだと思えるほどにまともな生活時間になっている。午前2時といえば、90分単位のひと眠り、ふた眠りをして、トイレのために起きる頃なのである。
 翌日はひょっとして体調を崩すのではないかと余計な心配までしたが、それほどのことはなかったようである。

 夜更かしの原因は、仕事関係ではなく、あくまでも自宅での趣味関係、それもこのところはまり込んでいるDVD関係の作業ゆえであった。
 諸機能満載で一体型のビデオ・デッキを購入したのはいいが、そのセッティングで案の定予想外の時間を費やしてしまったのだ。まあ、始めた時刻が遅かったこともある。翌日に回せばよいものを、10時過ぎ位から急に気になり出して、手を染めてしまった。

 ビデオ・デッキは、書斎でもPCと連携させて活用しているが、今回のものは居間のTVと接続させるものである。長年、この居間のTVは使用して、ビデオ・テープ・デッキとか、契約したBSのためのBSデコーダーとか、安いDVDデッキとかと、その都度、追加的に接続して来たために、大きなTVの裏側は、配線が目も当てられないほどにグチャグチャとなっているのだ。
 また、「大きなTV」とは、昔風のブラウン管TVの二十数インチのものであり、動かすにも骨が折れる代物なのである。ただ、こうした長物が手放せないのには理由がないわけでもない。
 まだ十分に映るという点はもちろんなのだが、このTVを頼みにしている「家族」がいらっしゃるのである。二匹の「うち猫」たちのことである。彼らのうちの一匹は、確かにこのTVを見る(観るではない)。野鳥が出てくる番組なんぞなら、どんな認識をしているのか知らないがマジに見つめたりしている。
 まあ、そうした本来の使用目的よりも、彼らにとってのこのTVの意味は、暖房器なのである。昔風のブラウン管TVの上面は、寒がりな彼らの足元をしっかりと暖める程度の熱を確かに提供しているのである。したがって、どちらの猫もこの上が大好きであり、しかも、画面の側に足跡を残す飛び上がり方でその上面に至るのだから恐れ入る。

 ただ、この点こそが、このTVを使い続けることの小さからぬ理由となっているのである。いや、彼らから暖房器を奪ってはならないというような優しい動機のことを言おうなんぞとしているわけではない。それもないこともないのだが、もっと別の懸念があるのだ。
 狭い居間のことを思えば、今流行りの液晶TVを導入したいところではある。が、それに冷水をぶっ掛けているのは、現行TVに飛び上がる彼らの恰好、画面に足跡を付けてまで上がり切ろうとする所作なのである。もし、結構、高価な液晶TVを購入して、ワカランチンの猫たちに、買ったばかりのTVの液晶画面に爪を立てられたことを想像すると、その選択をしようとする気持ちがにわかに冷めてしまうのである。
 大型液晶TVで、その液晶画面を保護すべくガラス板が設えてあるものも確かにあるようだ。ただ、それはプラズマ方式のさらに高価なものに限られるようだ。通常のものは、液晶プレートが剥き出しとなっていて、猫の爪を撃退するほどの強度を持ってはいないように思われる。

 そんなことで、物々しい「昔風のブラウン管TV」をしばらくは愛用せざるを得ないこともあり、せめて、ビデオ・デッキだけはスッキリとした一体型に交換したいと考えたわけなのである。
 大きなTVの背面、背後は、複雑に絡み合った配線がグチャグチャとなっているだけではなかった。TVの上で暖を取りながら毛づくろいをする猫たちによって、抜け落ちた彼らの毛が、たっぷりと積もっていたのであった。
 こうした、事情が、本来の「配線工事」を行う以前の清掃作業その他を予想以上に膨らませたることになり、気がついてみると午前2時という時刻となっていたのだ…… (2007.02.10)


 このところ、団塊世代の退職開始の話題(2007年問題)が頻繁に取り上げられる。少し前までは、職場での熟練技術が大量に抜け出るということで、そうした技術などの継承の問題がもっぱら話題となっていた。が、最近は、それだけではなく、いろいろな観点から取り上げられているようだ。
 昨夜も、NHKTVの視聴者参加の特別番組で、これらがいろいろな角度から議論されていた。後半の部分だけを観たのだが、ひと頃の議論に較べると、リアリティが増してきたように感じられた。いよいよ間近に迫ってきていることや、一般に言われているほどに景気動向が良くないこと、年金問題や介護問題など次第に深刻さを増している社会状況などが片方にあることも、議論を一層シビァなものにさせているのだと思えた。

 団塊世代の名付け親とも言うべき、作家堺屋太一氏も参加しており、同氏は確か、団塊世代の大量退職とそれによってもたらされる社会変化について、例によって著作を著していたかに思う。例によってという言い方をするのは、若干、抽象的でかつ楽観的に過ぎる印象が拭えないからなのである。その問題状況の図式化などのシャープさを一面では評価できるのであるが、如何せん、図式的ニュアンスの視点がどうにも鼻につく。
 この番組には、さまざまな立場の視聴者が参加しており、団塊世代の当事者たちをはじめとして、他の世代の生活現場からの視聴者たちも多い。そんな中での堺屋氏の発言は、どうも生活感が乏しくやや浮いているような印象を受けた。
 その他有識者では、崔(さい)洋一映画監督が団塊世代当事者として、また慶応義塾大学教授金子 勝氏、首都大学東京准教授宮台 真司氏が、団塊世代に対する批判と期待を述べる立場として参加していた。崔氏と金子氏の発言は、ともに実態を踏まえた頷けるものであったかに思われた。

 興味深く、また、各々の立場が鮮明に表れたのは、「地方での田舎暮らし」に関する議論であったようだ。
 現在、段階世代の退職金その他の資産にはさまざまな分野から熱い視線が向けられていることは周知の事実である。そんな中に、財政難で苦境に立つ地方も含まれるようだ。団塊世代の移住をどうにかして迎え容れられないかというそんな動向である。
 確か、堺屋氏はこうした傾向は、働き詰めで都会暮らしをしてきた団塊世代にとっても有意義であるし、また地方自体にとっても活性化の良い機会だとして評価していたかに思う。だが、これに対しては、そんなに楽観的には考えられないという醒めた発言が説得力を持っていたように思われた。
 先ず、地方の活性化という点についても、目先的に見れば、資産を持ち込む団塊世代の受け容れはメリットがありそうにも思われるが、受け容れに当たってはそれなりにインフラ整備にコストも掛かる。また何よりも十年後にそんな移住者たちが介護を必要とするようになれば、ただでさえ窮迫している財政と介護要員不足を現状としている地方は、惨憺たる事態を迎えることになる、という指摘は非常にリアルな感じがした。
 まるで、観光客を呼び込むような地方と、これに呼応して観光客の雰囲気まがいで移住に憧れる当事者たちという現在の様子は、あまりにもイージーだと批判した人の発言には聞く耳が持てたものだった。
 どうも、団塊世代をめぐる議論には、こうした結構楽観的で、安易な視点の議論が混ざりこんでいるように思われてならない。

 ところで、この「地方での田舎暮らし」という議論は、もうひとつの問題点を浮かび上がらせたかの印象を与えたものだった。
 団塊世代当事者たちが、概してそうした移住には賛同していなかったようである。その理由としては、わずかな退職金でもあることだし、決してムダ使いはできないことや、不便な田舎にわざわざ出向いて不安を抱えることもない、という思いが窺がえた。
 それはそれでもっともな発想であろう。ただ、その発想にはある問題が見え隠れしていないでもない。それを引き出したのが、団塊世代にやや批判的な金子 勝氏であったかに思う。同氏は、団塊世代の地方への移住については、積極的な賛成を表明していたのである。ただし、他の賛同者のような浮ついた観点からではなく、極論をするならば、それが団塊世代の使命ではないのか、という厳しさを秘めていた。
 わたし流に解釈をするならば、団塊世代とは、経済主義(会社人間)と私生活主義とを奉じて都会での生活を選択してきた。それらに問題はなさそうにも見えるが、実は、さまざまな社会問題(経済至上主義的風潮、都市と地方の格差、私生活主義的生活様式がもたらす社会的弊害……)を産み落とすことに加担してこなかったとは言い切れない。
 この辺の問題点は、寺島実郎氏の指摘(当日誌の 2006.04.18 分を参照)を下敷きにすれば了解できるところなのであるが、そうした問題含みであり続けた団塊世代が、ここへ来て、今なお自分たちのサバイバルだけを視野に入れているのは勝手過ぎるのではないか、ということなのであろう。自分たちが、今後社会や後続者たちのために何ができるのかというノーマルなスタンスに立ち返るべきではないのか、と……。

 団塊世代の当事者としては、非常に痛い点を衝かれたとの思いであった。現在、団塊世代の当事者たちとて決して安逸な立場に至っているわけでもなかろう。走り続けてきた路線は想定外のかたちで急遽打ち切られ、リストラを食らう者も多かった。
 それでも、客観的に、科学的に予想するならば、団塊世代の後続世代たちは、団塊世代たちよりも確実に劣化する環境条件で生きて行くことになるはずである。その団塊世代が、まるで双六の上がりに到達したかのように退職を迎えて、あとは悠々自適の趣味だけの人生、あるいはあいかわらず私生活中心主義の防衛生活に邁進する、というのであれば、かなり寂しい話になりそうである。問題先送りの手本たる政府自民党の生きざま、「後は野となれ山となれ」と何も変わらないような気がしないでもない。「五十歩、百歩」だと言うべきなのかもしれない。
 何をどうするのか、したいのか。それを、「すべき」というような悲壮感ではなく考え続けること…… (2007.02.11)


 この3連休は天候に恵まれた。まして今日の晴れ具合は申し分がなかった。
 こんな日に鬱陶しい屋根の下でくすぶっているのは実にもったいないという思いがあった。また、昨晩、家内が何気なく言った言葉を思い返してもいた。
「薬師池の梅が咲きはじめているんじゃないかしら。明日あたり、お義母さんに声かけて一緒に見に行ったらどうかしらね……」
 その時は生返事でやり過ごしていたが、今日の戸外の晴れやかさを見ていたら、まだちょいと早い気もしたものの、出かけてもいいかという衝動に駆られた。
 早速、おふくろに連絡してみると、あいにくおふくろは、昨日すでにあちこちを散歩したために今日は身体を休めようとしている、という残念な返答であった。

 そこで、家内と二人で出向くことにしたのだが、気になったのは公園側の駐車場のことである。出不精な自分がこんな前向きな気分になっているくらいだから、もっとまめな人はうずうずしているはずだろうと。公園への人出は大変なものであるに違いないと想像したからであった。
 何せ、今朝のウォーキングの帰りに、100円ショップを覗いた際にも、その駐車場が満杯状態だったのに驚いたのだった。まだ行楽の時季というにはやや早い。かといって、こんなにも陽気が良くなってしまうと、家の中で連休を過ごす違和感に誰もが堪えられなくなるのだろうか。といっても、庶民にとっては出かけるあてがさほどあるものではなかろう。で、100円ショップも家族の気晴らしには有力な候補となるのだろうか……、なぞと考えたりしたものだった。
 そうだとすれば、手軽さの上に、入園料もいらないし、相応に自然の感触も満喫できる薬師池公園が庶民によって思い起こされるのは、100円ショップよりもさらに有力なのではなかろうかと思われたのだ。しかも、今日この頃は梅が咲く頃だという目星もつきやすい。公園の駐車場が、満杯どころか、待ち行列さえできることだって予想しないわけにはいかなかった。それで結局は、運動がてら歩いて行こうということになったわけなのだった。

 公園に着いてみると、案の定、かなりの数の人出である。ざっと見渡した人影の数からしても、多分、駐車場付近はごった返しているだろうと想像させるに十分だった。
 梅の咲き具合は、まだまばらな気配を残していたが、二、三割の木々が花を咲かせていたようだ。天候が「異常」温暖気味なので、梅の木々も戸惑っているのかもしれない。もう十分に咲いていい時季だよ、遅れをとったりしたらみっともないじゃないの、という木もあれば、いやいや、これでね、急に寒くなったりして後悔することもあったりするのがお天気というものさ、という慎重派の木もいたりするのだろう。
 おもしろいと思えたのは、梅見客の布置状況であった。桜の花見のように、梅の木の下に陣取ってお弁当やらお茶やらという人たちがいるわけだが、やはり、いち早く咲いた梅の木の下のスペースが陣取られており、「慎重派」の梅の木の膝元がガラーンとしていたことである。当然と言えば当然のことなのであろう。
 「梅の下陣取り組」の家族たちは、結構陽気に楽しんでいるようであった。きっとこの人たちは、3月、4月ともなれば、「戦車道路」(町田の桜名所)の桜の花見でも同じ事を敢行するのだろうな、賢い行動かもしれないな、そうでもしてコスト・パフォーマンスの高いうさ晴らしでもして行かない限り、この鬱陶しいご時世ではストレスが貯まっちゃって切れちゃうもんな、なんぞと埒もないことを思い浮かべたりしていた…… (2007.02.12)


 「ネバー・ギブアップ!」という言葉の響きが好きだ。
 もう何十年も前に、角川映画の「人間の証明」のラジオのCMであったか、「ネバー・ギブアップ! ネバー・ギブアップ!」と叫ぶ声が織り込まれたものがあった。それが耳についてしまったのかもしれない。
 確か、好きな落語番組を録音したところ、その末尾にそのCMが紛れ込んだようだ。ひと頃は、毎晩のようにそうした落語テープをイヤホンで聞きながら眠るという悪い習慣を続けていたのだが、それでウトウトとしながら、そのCMを何度も聞かされ、深層心理に刷り込まれたと振り返っている。「読んでから観るか、観てから読むか、……」というそのCMのコピーまで記憶に残っていたりする。

 最近の世知辛く、かつ腹立たしいご時世に生きていると、何とも気分が釈然としないし、ややもすれば「いじける」心境ともなりかねない。そんな時、やはり自身に何か「気合」を入れたいと思ったりしないわけでもない。この時、実にこの言葉「ネバー・ギブアップ!」という響きがフィットするようなのである。「やるぞ! やるぞ! やるぞ!」ではいかにもみっともないし、それで引き出される古風な「火の玉」パワーなんぞでは、このご時世何ともならないような気もするわけだ。
 「ネバー・ギブアップ!」もそこそこ古風には違いないが、「知的」気合が伴っていそうな思い込みもあり、これなら行けそうかと納得したりするのである。
 いずれにしても、この時代を牛耳ろうとするような野蛮な勢力に拮抗して行くためには、カミソリの切れ味よりも、ナタのパワーが不可欠なのであろう。物騒な話に聞こえそうだが、あくまでも生きる姿勢の次元の問題である。
 そして、ナタのパワーを駆使するには、どうしても「気合」というか精神力が充実していなければならない。で、「ネバー・ギブアップ!」ということになるのである。

 今日、こんな言葉を思い起こしたのは、以下のような新聞記事に目を向けたからなのであった。

<「幸福の黄色いハンカチ」、米でリメーク 30年ぶり
 北海道を舞台にした映画「幸福の黄色いハンカチ」(77年、松竹)が米国でリメークされる。プロデューサーのアーサー・コーン氏とオリジナル版の山田洋次監督が12日に東京都内で発表した。
 高倉健さんが扮した出所後の男は、「蜘蛛(くも)女のキス」に主演したウィリアム・ハートさんが演じる。もし自分を待っていてくれるなら掲げておいて、と男が妻に頼んだ黄色いハンカチは、ボートの黄色い帆になるという。
 ベルリン映画祭最高賞も受賞したコーン氏は「作品にはネバー・ギブアップという世界共通のメッセージがある」と語った。クライマックスの舞台となった夕張市は今春から財政再建団体となる。山田監督は「リメークを機に僕の作品がリバイバル上映されることも考えられ、夕張の人たちに元気になってほしい」と話した。
 リメーク版の監督は英国のウダヤン・プラサッド氏。3月下旬に撮影を始め、10月に完成し、09年春に日本公開予定。>( asahi.com 2007.02.13 )

 今、世界の雰囲気は、心ある人々たちにとっては甚だ良くないと思われる。そんな中で、人々を勇気づけないではおかない名作映画「幸福の黄色いハンカチ」のような作品が、リメークされるという話題は素晴らしいことだと思えた。そして、プロデューサーの言葉が実に適切だと思えたのであった。苦悩しながら挑戦し続ける者たち皆に、「ネバー・ギブアップ!」というエールが送られてよい…… (2007.02.13)


 最近、ようやくタバコに対して「距離を置く」ことを試みはじめた。「禁煙」と言い切れないところが情けない。
 とりあえず、起床後から午前中は吸わないようにして二週間となる。午後からは「解禁」としているのだから一体何をしているのか甚だ不明だとも言える。ただ、半ば無意識に吸うという悪癖だけは薄れつつある。また、吸いたくなる感覚を我慢することを半日でも実施するのは、「禁煙」へのアプローチになりはしないかと勝手に考えている。確かに、これで一日の喫煙本数はほぼ半分に減っているのは事実だ。
 さて、これからどうエスカレートさせて行くのかについては、まだ構えが明瞭とはなっていない。

 別に、身体の変調からはじめたわけではない。変調といえば、もうすでに「多角的に」ガタが生じはじめており、まあこんなものだろうと納得してもいる。
 「半日禁煙」をはじめようとした理由を大袈裟に言うならば、「隷属」体質への抵抗ということになるかもしれない。先ずは、ほとんど税金ばかりだとも思えるタバコというものを、セッセと買い続ける自分が、国の徴税システムに「隷属」しているような気がして、腹立たしく思えたのだ。さらに、自身の生理的惰性にも「隷属」してしまっているのもどうかと思わざるを得なかった。
 そんな心境があり、とりあえず「ソフト・ランディング」をしてみようかと……。一気に辞めるという「ハード・ランディング」の手も考えないわけではなかったが、そこまで力むこともないかと……。

 思うに、何ものかに「隷属」しているとの自覚ほど、嫌なことはないかもしれない。たとえ、外見的には、そうすることが当然であったり、正しいとされることでも、自身の意思で選択することが妥当だと感じるわけだ。とくに自分はそう感じるタイプであろう。
 最近というか、ずっと以前からそう思ってきたのだが、現代という時代、とくにこの日本という社会の現代においては、あまりにもこの「隷属」という思考・行動スタイルが寛大に、いや無意識的に許容され過ぎているのではなかろうか。
 一言で言ってしまえば、よくも、こんなに酷い政治状況に対して「一揆」のひとつ、ふたつも起こさずに「隷属」しているものだと飽きれ返ってしまうのである。この「悪政」への「隷属」という点こそが、現在の「隷属」状況のほぼ集約的事実だと思われる。そこには、多少分析的に観察すれば、いろいろな事情が絡んではいるのだろうけれど、見る人から見れば信じられない「隷属」の姿としか見えないのではなかろうか。

 ところで、「隷属」している、いないという感覚は、「自覚症状」の範疇の問題なのかもしれない。
 昨今は、道を歩けば棒に当たるではなく、散歩させられている犬に出っくわす。彼らワンちゃんは、首に縄掛けられて、ご主人さまの意のままに歩かされているが、それでいて果たして自分がご主人さまに「隷属」していると思っているのだろうか。人間側は、「隷属」させているのだと見なしているのかもしれないが、きっとワンちゃん側にはそんな関係意識は微塵ともないのであろう。どう見てもそんな顔つきをしている。
 つまり、「隷属」感覚とは、自立(自律)感覚があってこその話なのであって、ワンちゃんたちはそこが可愛いところでもあるが、そんな面倒くさいものは持ち合わせていないはずである。優雅と言えばそうだが、能天気だと言えばそうも言える。動物なのだからやむを得ない。

 そこへ行くと、人間さまたちには、当然、自立(自律)感覚があって然るべきである。まあ、存在しないはずはないのだろうけれど、その程度が問題であり、また何に対しての自立(自律)なのかという点も問われていい。
 またワンちゃんたちの話を出すが、無頓着に見える彼らも、ある状況に遭遇すると俄かに殺気立ち、ウーッ、お前なんかに「隷属」するもんか、という振るまいに変貌したりする。路上で犬仲間に遭遇した場合のことである。そうした状況を見ていると、同じ犬仲間に対しては、急遽、自立(自律)感覚を立ち上げ、そして「隷属・非隷属」感覚を剥き出しにするかのようである。
 思わず笑っちゃうわけだけれど、笑ってもいられないのは、人間さまだって同じことをしているのかもしれないと思い至るからである。たとえば、ほとんど「隷属」感覚、自立(自律)感覚なぞを、自分を取り囲む社会環境や政治環境に対しては立ち上げないような人であっても、クルマ運転中での交差点でのイザコザにあっては、強烈なそれらの感覚を剥き出しにして「テメェー……」と吠えるものであろう。
 しかも、こうしたことは、交差点内のみに限らず、家庭内や、身近な人間関係でも日常茶飯に起こされているようだ。つまり、本来的に、人々の生活状態を左右するであろう社会制度や、それを取り決める政治状況などに対しては能天気であって、政治を牛耳っている権力者たち、為政者たちに対しては「隷属」感覚など微塵も覚えないのに、どうでもいいかもしれない身近な人間関係ではピリピリと過敏になる、というのが実情なのかもしれない。

 「隷属」感覚だ、自立(自律)感覚だと妙な表現をしてきたが、要するに、一般的に言えば個人としての権利(義務)意識の問題だということになろうか。
 現在、とんでもなく劣悪な社会(政治)環境になりつつあると思えるが、もっと「隷属」感覚に過敏となり、拒絶すべきことを拒絶していかない限り、この国は立ち直れない気がしないでもない…… (2007.02.14)


 昔、研究室にいた頃、山村の社会学調査で、愛知県足助(あすけ)町に出向いたことがあった。同町は、矢作川水系にあって林業を営む山村の風貌を残す地域であるが、名古屋市まで3〜40`という通勤可能地域でもあるため、世帯主は都市部に働きに出て、林業はいわゆる「三ちゃん(爺ちゃん、婆ちゃん、母ちゃん)」経営で賄われるかたちであったようだ。農業とは異なり、林業の作業は、枝打ち、間伐作業などかなりの重労働があり、決して「三ちゃん」経営でこなせるはずもないのだが、やむを得ずそうなっており、問題が深刻化していたものだった。
 あれから20数年経った現在、林業問題はさらに深まっていることであろう。いや、林業問題はともかく、その調査の際に、とにかく強烈な印象を受けたのは、その地域の昼間人口が高齢者とわずかな幼児のみであったという異様な事実であった。全戸の聴き取り調査などをしたわけだが、どの家に向かっても同じことであり、村落部全体がお年寄り尽くめなのであった。取って付けたような言い方で、黄昏色の気配が立ち込めていたとまでは言わないが、それでもどこか沈んだ空気が満ちた空間の印象が拭い切れなかった。
 その頃は、まだ「少子高齢化社会」の到来に現在のような社会的関心が向けられてはいなかった。だが、今思えば、今後のこの国の将来の姿を垣間見たことになるのかもしれなかった。

 今日の新聞報道では、<首相、少子化対策不十分と認める 参院厚労委>とある。
<参院厚生労働委員会は15日、柳沢厚労相が「女性は子どもを産む機械」と発言した問題を受けた質疑を行った。安倍首相は、政府の少子化対策について「なかなか効果を上げてこなかったのも事実。政策として欠けていたこともある」と述べ、不十分だったとの認識を示した。千葉景子氏(民主)に答えた……>( asahi.com 2007.02.15 )

 単刀直入に考えてみて、今日の「少子化問題」(高齢化、年金問題も同様!)は、人口統計から一連の政策からすべてを掌握してきたはずの「政府・自民党長期政権」の結果だと言っても間違いではなかろう。閣僚が「女性は子どもを産む機械」と発言したことに怒りを覚えるだけではなく、「少子化」傾向という大きな流れに綿々として無策であり続けてきた自民党政権こそを、問うべきなのだろうと思える。そしてこの期に及んで、泥縄もいいところである拙い発言をするものだから、世論は呆れ返ってしまうわけだ。
 政権を担うということは、教育に限らず、国家「百年の計」を担うということではなかったか。まあ、政治家たちの関心が、自身の選挙に関連する期間のみに向かっていることは容易に想像できる。
 横道に逸れるが、先日、1972年度アカデミー賞オリジナル脚本賞受賞作品、ロバート・レッドフォード主演の「候補者ビル・マッケイ」を、DVDで観た。ラスト・シーンの「落ち」がとにかく効いていた。上院議員の当選にこぎつけたマッケイが、選挙参謀に情けない顔つきで助けを求めるのである。「わたしは今後何をすればいいのか?」と。これが、政治家たちの実態なのだと思い知らされるわけである。

 今さら、政府自民党の無策を嘆いてみてもはじまらない。そして、安倍首相の頼りない発言に期待することとてムダであろう。「少子化問題」に関しては、もっと本質的な議論をすべきなのであって、ペットの「ブリーダー」レベル(「女性は子どもを産む機械」発言とはまさにこのレベルだ)の発想は、百害あって一利なしであろう。
 この点で、以下の新聞コラム記事は当を得たものだった。気に入ったので全文を引用しておく。

<本当の改革
 「子供を産む機械」という不適切発言の行方はともかく、容易ならぬスピードで進む少子化への有効な対策はまだ見えていない。育児手当や保育施設の充実なども重要だが、問題の根はもっと深い。少子化の原因は様々な側面で絆(きずな)が切れ、人々が根をおろせる場所を見失ったこと、そのために未来への希望がもてず、絆を次第に伝承したいという意欲が全体に弱まっていることにあると思われる。
 その背景には戦後の経済発展の中で急速に進んだ核家族化や農村から都市部への人口の移動がある。その中で自然や家族との絆が希薄化し、自己中心で経済的な利益を価値の尺度とする風土も広がってきた。その結果が学校でのいじめや自殺の多発、また親子、夫婦の間で頻発している殺し合いなどの痛ましい事態にも表れている。また、教師が児童への加害者になったり、県知事のような重鎮が次々と逮捕されたり、大手企業の反社会的な事件が続く状態は社会の秩序感覚をゆがめ、教育にも悪影響を与えている。
 このような環境の中では、子供をつくるよりも自分たちの生活やキャリアを守りたくなる、という実態は変わりそうにない。そのままでは経済もこれまでの繁栄を続けられる保証もない。新興諸国の活力に対比して国民の資質の衰え、連帯感の弱まりはやがて競争力の不連続な劣化にもつながる。
 しかし、この壁を打開する鍵がないわけではない。トヨタのカンバン方式の生みの親といわれる大野耐一氏が大切にした「五つの何故(なぜ)」に倣い、例えば何のための経済・経営か、教育か、と問い続け、問題の根本に立ち返って立て直す道はあるのだと思われる。そこで浮かび上がるのは「人間であることの意味や生きがいの回復」という共通のテーマだろう。社会の痛みが極まった今求められているのは、そうした基本を大切にした本当の改革ではないか。(瞬)>(asahi.com 2007年02月06日 コラム「経済気象台」より)

 「改革」という言葉を弄んだ前首相の延長線上では、「人間であることの意味や生きがいの回復」という本源的テーマに近づくことは到底不可能なのであろう…… (2007.02.15)


 今日、歩道を歩いていて、突然、「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」(小林一茶)の句を思い起こしてしまった。足元の前方に、数羽のスズメたちがパラパラと舞い降り、そしてわたしが来たものだからか、すかさず街路樹へと飛び上がったのだった。
 その時、唐突に、スズメたちの目には人間という存在はどう映っているのだろうか、なぞと考えた。巨大で、我物顔をした手におえない化け物、触らぬ神に祟りなし、とでも見なしているのかもしれないな……。じゃあ、そのスズメと人間との関係を、仮に、自分たち現代人に置き換えたならどうなろうかと、バカなことにも思いを向けた。そして、さしずめ、日本人にとっては、米国という存在にでもなるのかもしれないな、と白けた思いにぶつかったのだった。

 あいも変わらずM&Aの類の話題が絶えない。もはや、グローバリズム経済のうねりの中で、避けがたい趨勢なのであろうか。今日も次のような新聞報道が目についた。

<サッポロに金融機関が統合働きかけ アサヒやキリンと
 ビール業界3位のサッポロビールを傘下に持つサッポロホールディングス(HD)に対し、複数の金融機関が、業界首位のアサヒビールや2位のキリンビールとの経営統合を働きかけていることが16日、分かった。サッポロは15日に米系投資ファンドから株式の公開買い付け(TOB)による買収提案を受けており、サッポロの意向によってはホワイトナイト(白馬の騎士)としてアサヒやキリンが浮上する可能性も出てきた。……>( asahi.com 2007.02.16 )

 現行経済の流れにあっては、「国際競争力」という課題が、企業経営にとって重々しいものとなっているのであろう。
 だが正直言って、自分たち「スズメ」のような会社にとっては、にわかに実感が持てる話ではない。しかし、そうした巨大なスケールの蠢きが、気分の上で重くのしかかってきているのは事実であろう。「いじけて」言うならば、自分たちの努力なんてものは、果たしてどんな意味を持つのか、まるで、「我物顔をした手におえない化け物」としての人間に較べた、ひ弱なスズメたちの振るまいのようなものなのだろうか……、と。
 ヘンに恰好をつけることはなく、先ず事実認識としては、それを甘受しておく必要がありそうだ。現時点においては、こうした状況を客観的事実として視野に入れておかなければ、何の計算も成り立たないようだからである。
 上記記事の「米系投資ファンド」とは、「スティール・パートナーズ・ジャパン」であり、「ハゲタカ」ファンドなのかどうかは知らないが、これまでにも日本企業のM&Aには幾度も関ってきたようだ(ex.明星食品)し、他の米系投資ファンドも虎視眈々とした動きをとっているようだ。もっとも、M&Aについては、別に外資が絡むものだけではなく、この間日本企業同士のつばぜり合いも急増している。
 いずれにしても、「国際競争力」という評価軸を睨んで、大蛇たちが互いに相手の尻尾を咥え合っているのが現状のようだ。(出版会社で、そんな図をロゴ・マークにしていたところがあったようだ……)

 偉そうに、グローバリズム経済におけるM&A状況を論じるつもりなんぞはないのであって、ただ、いよいよ「そこのけそこのけ」時代が到来したのだな、と感じているのである。
 冒頭の一茶の句は、決して「雀の子」に対して、我物顔の気分で「そこのけそこのけ」と言っているわけではなかろう。いわば、「雀の子」らに「アテンション・プリーズ」を発している意であることが容易に理解できる。「やせ蛙 負けるな 一茶ここにあり」との句も作っている一茶である。
 しかし、現行の経済状況および国際関係は、どうも我物顔路線の「そこのけそこのけ」主義でありそうだ。
 ところで、最近の自分は、何でも「Google検索」への御伺いを立てる癖になってしまったが、ちなみに「そこのけそこのけ」をキーワード入力してみたところ、ヘェーと思える結果が戻ってきたものだ。
 最も入力時の動機にフィットしていたのは、<そこのけそこのけ「経済効果」が通る>と揶揄した表現であった。おそらく、現在自分が抱いている感覚の多くを共有しているサイトだと思えたものである。
 ほかになるほどと思えたものは、「そこのけ、そこのけお犬さまが通る」というペット・ブーム下での飼い主のマナー知らず、「そこのけそこのけ私が通る」という、自己チュー時代の警告、そして中には、教育関係サイトに、「そこのけ、そこのけ、個性が通る」という逞しいイメージのものもあった。

 まあ、今日のところは、さまざまな意味での「そこのけそこのけ」時代が到来していることを告げるにとどめておきたい…… (2007.02.16)


 どうしたことか、と思える今日の冷え込みである。散歩に出た際、梅などすでに満開となった木々が目に入ったが、この寒さに戸惑っていそうな気がしないでもなかった。
 夕刻になって、尚のこと冷え込みが鋭くなったようで、こうしている書斎も暖房器具を使っているものの足元が冷えてかなわない。夜は雨模様だと予報されているが、ことによったら雪になることも予想される。
 例年どおりならば、まだ2月の半ばなのだから雪となるほどの寒さだったとして何の不思議もない。しかし、今年はエルニーニョ現象の影響とかで異常気象の暖冬となり、これまでに積雪がなかった上に、すでに春一番の突風に見舞われてもいる。ここ一週間にしても、春めいた天候が続き、多くの人がもうこのまま桜の季節へと突入してしまうものと思っていたはずである。それだけに、ちょっとした番狂わせの感が拭えない。

 天候に恵まれないこんな日は、部屋にこもってDVD編集に親しむほかはない。
 アカデミー賞の時期だけに、BSなどのTV番組では往年の受賞作品を放映している。自分も、良いチャンスとばかりに、観たつもりとなっていたがそうでもなかったような作品をDVD録画したりしている。
 そんな中で、今更のように感銘を受けたものがあった。あの有名な『第三の男(The Third Man、1949年)』である。この映画は、誰でも知っているテーマ曲(アントーン・カラスのツィター曲)ゆえに、漠然と良く知っているような錯覚に陥りがちな映画なのかもしれない。かく言う自分もそうであった。もちろん一、二度は観ているはずなのだが、さほど記憶にはなかった。

 今回、じっくりと鑑賞してみて、「こいつは凄い!」と感銘を受けたのだった。何が凄いといって、先ずは、モノクロ・フィルムでありながらやはり映像(撮影)が素晴らしい。やはり、というのは、アカデミー撮影賞(プラス監督賞)を受けているからである。
 舞台は、第二次世界大戦直後のオーストリアで、四ヶ国(米英仏ソ)によって四分割統治される首都ウィーンである。石造建築物と石で組み上げられた道路の市街が実に丹念に描写されている。とりわけ、その夜景が光と影を効果的に表現して魅力的であり、ストーリーのサスペンス的な空気と実にマッチしていた。もちろん、主人公ハリー・ライムが逃亡する下水道の空間描写は、とても汚水が流れる下水道だなぞと思えないほどに神秘的な映像となって仕上がっている。
 また、登場人物たちの表情の深さも正確に描写されていたように見えた。登場する俳優たちも第一級であると思えたが、その演技と表情を余さず捉えた描写力が凄い。
 俳優といえば、主人公を演じたオーソン・ウェルズが及ぼす印象が破格であろう。死んだとされていた主人公の悪戯っぽい顔が、暗闇に差し込む一筋の明かりで照らし出される場面、そしてその表情なぞは、観ている者に何か言い知れない感動を与えるパワーがあったようだ。映画監督、脚本家でもあるオーソン・ウェルズは、決して二枚目俳優というわけではないが、その存在感の重さは大したものである。十分に魅力的であった。

 鑑賞後、ふと振り返ってみると、映像がサスペンス・タッチで喚起し続けた感情への揺さぶりに較べて、ストーリー自体にはさほどの妙味があったわけではないことに気づくのである。つまり、この映画は、まさに映像技を最高度に駆使した「映画」らしい映画であったということになる。
 といっても、現代映画で見慣れた特撮などの撮影技術が云々というレベルの話しではなく、観る者の心理と感情を照準にして、オーソドックスな映像の可能性を徹底的に追求した作品だと言えそうだ。唐突に、土門 拳のモノクロ写真の迫力を思い出したりしたのは、まんざら無関係ではないかもしれない。
 こうして、こけおどしの撮影技法の映像を見飽きている現代の鑑賞眼からしても、結構、新鮮な訴求力が感じられた映画であった。1949年の映画なのだから、自分たちと同じ団塊世代誕生の頃であり、そんな映画が今なお精彩を放つというのはとにかく凄い。こうしたものこそが「古典」と呼ばれるものであろう…… (2007.02.17)


 書斎の窓から見える戸外は、もう5時半を過ぎたというのにまだ明るい。晴れた天候であればもっと明るいかと思われる。やはり日が長くなりはじめているのが知らされる。
 昨夜の雨が雪になるかとの懸念は無用だったようだ。肌寒さは残っているが、これも一時的なもので気候はジワジワと春の陽気へと向かっていくのであろう。

 ボーダレス時代だと言われて久しいが、それは日の当たる表世界のことだけではなさそうである。裏世界や闇世界との境目もなし崩しに失われていくかのようである。
 先日、都心での暴力団関係者による発砲射殺事件があって一般人たちを脅かした。どうも、二大勢力による縄張り抗争だと伝えられている。そんなことがあって、暴力団の動きが人々の念頭に上っている折、警察当局が、暴力団の動向についての新しい傾向について発表していた。
 最近の暴力団はますます経済活動へと進出していることはすでに周知の事実となっているが、それに加えての新しい傾向というのは、「組」などへの直接加盟構成員よりも、準構成員などの下部組織勢力が増大しているということらしい。
 警察によれば、本体がさまざまな摘発や責任を逃れるために、そうした準勢力で目くらましをしているようである。抗争事件に巻き込まれた一般市民が、組長などの勢力責任者に責任を負うべく民事訴訟を起こす例もあり、そうした責任を逃れるための一策でもありそうだと想像される。

 要するに、暴力団勢力は、一面では「経済組織」へと変貌しつつあり、その「活動」を「経済効果」という指標で再編成させはじめたのだと言えそうだ。これはまるで、裏世界から表世界へと「改心」したかのように聞こえもするが、そんなわけはなかろう。収入源のあり方において、より「経済効果」の高いターゲットに乗り換え、また「経済的リスク」にはそれなりの回避策を講じたというだけのことであり、闇世界の住人としての本来的ポリシーにはいささかの変更もないはずである。
 ところで、こんなことを書いているのは、暴力団という存在に関心を持とうとしているのではない。わたしの関心の対象は、あくまでも表世界である。この表世界こそが日増しに「病む」度合いを強めているがゆえに、裏世界の住人たちに「つけ込む隙」を大いに与えているのではないかと観測するのである。
 もともと、彼らの「活動」のきっかけが、表世界の住人たちの弱点や不始末を「つけ込む」形にあることはよく知られている。すべてにおいて非の打ち所がない公明正大な存在には、決して彼らは接近しようとしないし、できないわけだ。総会屋的行為にしても、企業側に「つけ込まれる」材料が皆無であるならば成立さえしない。
 つまり、裏世界の住人たちの活動とは、表世界の住人たちの活動の「闇」部分こそが大前提となっていると考えられるのである。

 最近、裏世界の勢力が、株式市場で荒稼ぎをしている事件が表沙汰になっている。今日も、TVの報道番組で、とあるパチンコ攻略ビジネス(詐欺)で荒稼ぎしていた勢力が、詐欺容疑での強制捜査を受けたこと、また同勢力が株式市場で不明朗な売買取引によって株価を吊り上げ、売り抜けていたという事情などが報じられていた。
 パチンコ業界といい、新興株式市場といい、いずれも表世界ではあっても実にきわどい、ビミョーなエリアの話なのである。もちろんこれらのエリアでは巨額の資金が動く。だからこそ、目がつけられるのであろう。が、理由はそれだけであるわけはない。
 どこかに「つけ込まれる隙」がないとは言えないのが問題なのである。以前より、健全娯楽だ、健全市場だと謳えば謳うほどにくっきりとした濃い影が目につきもしてきた。パチンコのデジタル機に、「操作」が無いなどと信じる者は誰もいなかったはずだろう。また、株価をめぐってもその「操作」が、言わずと知れた大事件に発展したほどである。
 つまり、表世界にありながら、これらのエリアはもともとが「括弧付き」のエリアであったと思われる。それでも、さほど問題化しなかったのは、こうしたエリアに出入りする表世界の住人が、「括弧付き」の住人(非「素人」)だったからかもしれない。
 ところが、現時点では、これらのエリアには一般大衆、個人投資家などの表世界の個人としての住人たちが千客万来の大賑わいなのである。表世界の「素人」大衆で大賑わいするようになったことが、裏世界の勢力増強と問題化の大きな要因なのではないかと考えるのである。
 「括弧付き」エリアには「括弧付き」住人だけが限定的に関わっている分には、事態はそこそこ収まっていたものを、大量の「括弧ナシ」住人たちが誘われ、出入りする時代になってしまったことが、事態をこじらせる最大要因なのではなかったかと思えるのである。もちろん、自然の成り行きでこうした推移が生じたわけではなかろう。一方に、これらを喧伝して誘導する商業主義があり、他方に、ノコノコとこれに応じて行く無防備な大衆がいたからだということになる。一般市民、消費者は、もっと賢く「臆病」にならなければいけないのかもしれない。この辺の推移のことを、「病む」度合いを強めた時代だと言いたいのである。

 増強し拡大するかに見える裏世界、「闇」の勢力とは、大衆をも含めた表世界の「病み」の具合を省みることなくして対処することは困難なのかもしれない…… (2007.02.18)


 昨日の「東京マラソン」というイベント、あれは一体何だったんだろうか。別にそうこだわるつもりもないのだが、益々、石原都知事が何を考えているのかわからなくなった。同知事の発言を振り返ると、さらにわけがわからなくなる。

「途中、屋台なんかを設けまして、おでん食べたり、焼き鳥食べたりしながら走り続けるという、そういう便宜も提供します」(石原慎太郎都知事・2日)
「プレオリンピックのイベントとして、毎年成功させていかなくちゃいけませんから」(石原慎太郎都知事・2日)
「東京マラソンも東京にとってのビッグイベントとして、伝統化していくなという自信というか・・・」(石原慎太郎都知事・4日)

 東京都という都市を、どうしたいと考えておられるのだろうか。責任感に満ちたどんな理念、政策に基づいてこうした巨大イベントを企画されるのだろうか。オリンピック誘致という願望との関係がありそうだが、では、それは一体どのような思惑から発しているのだろうか。
 大衆が熱狂できることなんだから、とやかく言う必要はないと言えば、それはそれで通りそうな感じでもある。しかし、都民としては、どうして? と問うてみたいではないか。優良大企業所在の首都ということで、税収が大幅増加して財政が好転したとかではあるが、世の中は、格差社会激化をはじめとして、治安の悪化傾向も強まっているし、生活環境は押しなべて悪くなっているかに思われる。
 まして、首都東京にあっては、直下型大地震という潜在的火種を抱きかかえてもいる。それに対しては種々手を打ってはいるのだろうけれど、そうした自然災害に向けた熱の入った対策で盛り上がる方が、都民としてはずっと有り難い気がする。
 どうも、こうしたビッグ・イベントに熱を入れ、都知事自らが陣頭指揮をとるような状況に、「直観」的な違和感を禁じ得ないでいるのだ。

 今日書こうとしているのは、この「直観」という点である。
 「直観」でものを言うのはけしからん、と聞こえてきそうであるが、そうではないと思う。別に、ベルグソンの直覚(直観)主義を引き合いに出すつもりはないが、物事の判断は「直観」を先ずは大事にすべきなのではなかろうか。
 個々人の生活体験に根ざした「直観」は、出所不明で、加工状態不明の情報群が乱舞する、こんな情報時代にあっては、掛け替えのないリトマス試験紙の価値を持つのかもしれない。言語的に説明する以前に、何かヘンだと違和感を感じることは、ちょうど犬や猫などの動物たちが、食べ物らしきモノに対して先ずは本能に刻み込まれた嗅覚でチェックをすることと似ていなくもない。嗅ぎ分けること、それが「直観」なのであろう。必ずしもいつも正解だということではなかろうが、生活体験全体で自分側に蓄積した諸々の材料が構成する「直観」を信じないで、一体何を信じるのかと言いたいわけだ。

 しかし、現代の情報社会の危ない部分というのは、こうした個々人の「直観」をも、まことしやかに蹂躙する点にあるのかもしれない。受け手側の知性というよりも、感性をターゲットにして襲いかかっているマス・メディアの情報発信は、人々が「直観」を編み出すのであろう潜在意識領域に容赦のない侵入を仕掛けているものと思われる。
 もちろん、現在のマス・メディアは不偏不党の公正さなぞ持ち合わせているわけがなく、商業主義としての立場からの利益に忠実である。時の権力とも大いに仲良しである。
 ということで、動物たちの嗅覚にも似た庶民の「直観」は益々危機に曝され、あって無きがごとき状態となりつつあるのかもしれない。

 「これは、あくまでもわたしの『直観』なんだけどね……」と自身の思いを切り出す人々が、この現代から消滅してしまわないことを祈りたい…… (2007.02.19)


 今朝、通勤時のクルマのラジオで聞いたとあるニュースには意表を突かれた。生体の細胞から「歯が再生」できるというものであった。「再生医療」、「再生医工学」というジャンルでの話である。
 サイトで調べてみると次のごとくであった。

<細胞から歯が再生 東京理科大のグループ、マウスで成功
 マウスの胎児から歯のもとになる細胞を取り出して培養し、おとなの歯を再生させることに、東京理科大の辻孝・助教授(再生医工学)らの研究グループが成功した。作製の成功率は100%で、歯の中に血管や神経などもできていた。臓器を人工的に再生させる技術につながると期待される。18日付の米科学誌ネイチャーメソッズ電子版で発表する。
 胎児期にはさまざまな臓器や組織が、上皮細胞と間葉細胞という2種の細胞の相互作用でつくられる。辻さんらはこれに着目。マウス胎児のあごの歯胚(はい)から取り出した両細胞を酵素でばらばらにし、どちらも高密度の細胞塊にしたうえで、区分けしてコラーゲンのゲルに入れると、培養に成功することを突き止めた。
 さらに、この細胞塊を50匹のマウスの腎皮膜下に注射。14日後に、すべてで歯の形成を確認できた。歯の再生研究は他にもあるが、作製率は20〜25%にとどまっていた。
 また、生体内で育てた歯や、生体の外で人工培養を続けた細胞塊を、おとなのマウスの歯を抜いた跡に移植すると、歯が高い頻度で生着した。この歯の内部には血管や神経のほか、クッションなどの役割を果たす歯根膜も再生できていた。
 グループは今回、同様の手法で毛の再生にも成功した。今後、肝臓や腎臓などの臓器づくりも目指すという。>( asahi.com 2007.02.19 )

 こうした画期的な研究には確かに関心と興味が持てる。歯や頭髪もさることながら、内臓疾患で苦しむ者にとっては、こうした研究の今後は、一筋の光以外ではないと言うべきであろう。
 ただ、まるっきり手放しで喜んでいてよいのかなあ、という心境もないではない。
 加齢とともに失われて、決して再び手に入れることができないのがヒトの身体だと見なされてきた。そこに人間の自然的制約が歴然として存在し、そのことが人間の不可避の不幸と悲しみとをもたらして来たはずだ。ただ、すべての人間に「平等に」条件付けてきたのも事実であろう。この条件ばかりは、貧富の差に無関係で訪れたからだ。
 また、そうした避けることのできない絶対条件であったからこそ、人間を人間らしく、かつ慎ましやかに生かせしめることを後押ししたという面もあったかに思われる。
 だが、そうした不可避の絶対条件だと思われてきたものまでが、文明の発展によって取り除かれていきそうである。先ずは、喜ばしいことだとした上で、これらの成果を人間社会にどううまく適用していくのかをしっかりと考えなければならないだろう。
 科学の進展が飛躍的、画期的であるにしても、それらをどう最善の形で時代や社会に導入していくのかの知恵や体制がやはり問題含みであり過ぎると思われるからだ。

 「再生医療」というのは、「臓器移植」のような他者の「臓器」をあてにするのとは違って、波風も立てないで穏やかなアプローチのようではある。
 「臓器移植」においては、いかに医療技術が進んでいても、社会が歪んでいる以上「臓器売買」や非人道的な行為が横行することは否定できなかった。国内でもとある医療機関が問題視されているし、海外では「臓器移植」のための非人道的な「臓器売買」が目に余るそうでもある。
 カネと権力が野放しにされた世界にあっては、人間に宿命づけられた公平な自然条件ですら弱肉強食的に横領されてしまうもののようである。貧しき者、社会的弱者が、モノの世界において劣勢に置かれるだけではなく、生命と直結した身体のパーツをも蹂躙されるという実情が、残念ながら否定できない世界だということなのである。
 「再生医療」分野においては、そうしたまがまがしい事態は考えられないようではあるが、高額な医療費というような現実的条件は容易に推定される。いや、シニカルに考えるならば、現代医療技術にせよバイオテクノロジーにせよ、末端の研究者たちはいざ知らず、その発展を企画・投資する者たちの動機が巨大なリターンであることは明らかであろう。要するに、こうした先端医療技術の進展を手放しで喜べるのは、巨大なリターンの元になるような高額医療費を難なく負担できる富裕者層だけではないかということである。
 自分なんぞは、健康保険が利かないような歯科治療は一切しない(できない?)でいるから、歯の再生どころか、インプラント医療でさえ蚊帳の外なのである。

 科学技術の発展が目覚しい現代という時代環境は、確かに目を見張るものがある。しかし、それを、自身の立場を度外視してただただ受け売り的に賛美していてどうなるというものか。自身の置かれた立場から正直に実感を表明すればいいのではなかろうか、いやそうしなければ、こんな時代環境では、自分という存在なぞなくなってしまうはずである…… (2007.02.20)


 本日から当社の新年度がスタートした。さてさて、今年度の売上状況はどうなってゆくのだろうか。毎年のことながら、不透明さが漂う。
 ただ、前年度がまずまずという形であったため、今年度は、スタート時から懐具合に悩まされるというふうではない。目下のところ、前年度から引き続く仕事が詰まっており、その点では来るべき春の陽気をそれとして迎えることができそうである。
 現時点での半導体業界は、メモリ価格がかなり低迷しており、半導体製造各社が生産意欲を鈍らせているようである。この状況が改善されてゆかないと、業界の熱に末端で左右される宿命にある当社の状況は上向かないのである。
 しかし、半導体業界とは、景気動向が小刻みにブレる業界であり、当社もそうした波の変化を、周辺部、川下で一貫して受け続けてきたものだ。ありがたく良い影響を受ける際には、節税対策ほかに振り回され、またその逆の場合には、寅さん映画のタコ社長よろしく資金繰りに奔走しなければならないわけだ。そんなこんなの20年間弱をよくも続けてやってきたものだと、ふと思ったりする。幸い、優れた社員たちがいてくれたことがすべてだったのであり、会社経営とはひとえに人材以外ではないと思われる。そんな社員たちのためにも、このささやかな砦を維持させてゆきたいと痛感している。

 景気といえば、今日、日銀はようやく金利の追加引き上げを決定した。

<日銀、0.25%の追加利上げ決定 岩田副総裁だけ反対
 日本銀行は21日、2日目の金融政策決定会合で、昨年7月のゼロ金利解除後初めてとなる追加利上げを決めた。短期金利(無担保コール翌日物)の誘導目標を現在の0.25%から0.5%に引き上げる。景気は拡大を続け、焦点となっていた個人消費の回復や物価の安定基調が当面続くと判断した模様だ。9人の政策委員(正副総裁3人と審議委員6人)のうち8人が賛成したが、岩田一政副総裁だけが反対した。総裁・副総裁の間で投票態度が割れたのは新日銀法下で初めて。利上げに否定的な政府・与党から反発が出ることも予想される。……>( asahi.com 2007.02.21 )

 金利が限りなくゼロに近い状態というのは、資金供給といういわゆる景気刺激策の意義があったわけだ。要するに企業が借りやすい状態を設定すれば、企業活動を促進させることになるという理屈だ。
 しかし表向きはそうだが、それはそれで問題含みだったのであり、簡単な話が、銀行は預金者に対する金利負担が少なくて大助かりだったであろうが、預金者にとってはたまったものではなかった。(まさに、「貯まらなかった!」)それでいて銀行は、融資の際には、そこそこの利子を設定していたのだから、ゼロ金利的政策とは、国家による銀行優遇策だったという面が大いにあったかと思われる。
 ではそれが、改善されるのだから良いことじゃないかという向きもあろう。
 景気は上向いており、デフレ状況も改善されつつある、だから逆にゼロ金利的状況をこのままにしておくと、今度はバブルっぽい景気動向が生じ、物価高やインフレを招来しかねない、とまあそんな理屈のようである。
 しかし、そうした判断の前提には、現状の景気がしっかりと上向き、安定しているという認識がなければならない。そうでなければ、金利上昇という匙加減は、現状の景気を「冷やす」こととなり、最悪は景気の足を引っ張る機能を果たしかねない。

 確かに、そうした懸念は大いにありそうだ。
 日銀は、<昨年10〜12月期の国内総生産(GDP)速報が市場予測を上回る高成長となり、個人消費が前期比プラスに転じた>と読んだがゆえに、利上げを判断したそうだが、個人消費は本当に拡大基調となっているのだろうか。どうもこの点への懸念は打ち消し難いように思われる。というのも、個人消費拡大のための新たな政策などが何ひとつ加わったわけではないからである。相変わらず、格差社会的状況は強まり、大多数の消費者の心理は出費切り詰めへと向かっていそうである。
 加えて、中小規模企業が、利上げに伴って借り入れに消極的となるならば、ただでさえ遅れているこれら中下層企業群の景気回復はさらに難しくなりかねない。
 こうした事情への警戒は、政府与党にもあるようだ。もっとも彼らが懸念するのは、景気動向の浮沈ということよりも、それによって間近に迫った統一地方選や参院選で批判票が生じはしないかということのようである。が、しかし、そんな心配をするというのは、現実の景気基盤に柔な感触があると政府与党自らが認めているためなのであろう。だからこそ危ないのではないかと危惧するのである。

 この時期の金利に対する判断は、どっちにしてもかなり微妙な位置にあり、まるで、患者に対するクスリの量が、プラス効果と副作用とのせめぎ合いであることとよく似ているかのようだ。さてさて、どのような変化が生まれてくるのだろうか…… (2007.02.21)


 現在、恐いものといえば、先ずは突然遭遇する凶悪犯罪であったり、予想外に襲ってくる病気だというのが大方の相場ではないかと思う。いずれも生命にかかわっており、最悪はすべての終わりということにもなりかねないだけに、恐いわけだ。
 だが、もう一つ恐いものがあるとすれば、何者かに騙されながら、不幸への斜面を半ば自分の意思で選択したかのごとく突き進んでしまうことではなかろうか。自分の意思に反して不幸への道をたどるということが悲劇であることは間違いない。しかし、そうではなくて、これが良いと自分で判断したり、これしかないと思い定めて自重をかけて不幸への道を邁進するのは、もっと悲惨であり、そうしたワナのような状況がもし身近にあるとすれば、これは恐ろしいことと言わなければならないだろう。
 昔は、そうしたワナというのは、一般市民の生活から隔絶し、限定された空間にしかなかったのかもしれない。そうしたワナが仕掛けられた空間とは、いわゆるアウトローの世界だけだったのかもしれない。だから、そうしたワナに嵌る者は、好き好んで入り込んだ結果だから自業自得でしょうがなかろうということにもなった。

 ところが、現代の時代環境では、そうしたワナが仕掛けられた空間に仕切りや境がなくなったかのようだ。まさしく、ボーダレス環境がここにも広がっているわけだ。奇異な犯罪や事件などの多発は、そうした環境変化をしっかりと告げている。
 いや、こう書いたからといって、出会い系サイト絡みの犯罪や、振り込め詐欺、ネット犯罪などの言われ尽くした話題に関して書こうとしているのではない。もちろん、それらも要するに事実認識を狂わせて人を騙すことには違いなく、恐がるべき犯罪である。
 しかし、それらと同様に、人々がもっと警戒しなければならないものが、現代にはありそうに思われる。
 マス・メディアの恣意的な動向と、政治や行政の場での同類の話なのである。前者に関しては、昨今話題の捏造番組を例にとれば一目瞭然であり、それは特殊な出来事というよりもむしろ現在のマス・メディアの構造的歪みだと見るべきだろう。また、後者こそが最も恐ろしい問題なのであり、常にベールで覆われた形で画策、推進されるだけに警戒を要する。特に、この国では「お上=正義」というあの度し難い深層心理を未だに維持させているかのようなので、さらに問題の根は深いのかもしれない。
 国民生活に直結する政治的課題で、真実が隠されたままとなっている事柄が少なくないように思われてならない。その最たる問題は、言うまでもなく対米関係、対米従属関係についての真実であろう。この格差社会としての現実をもたらした一連の構造改革路線にしたところが、国民は蚊帳の外に置かれたままに雪崩は引き起こされたと言っていい。
 また、北朝鮮問題を材料にした日米軍事同盟の一方的強化にしても、その推移から国民は外されている。つまり、この国の将来に関する重大課題が、民主国家でありながら、民意との十分な擦り合わせがないまま、巧みな情報操作その他でなし崩し的に運ばれているわけだ。

 巷には、正当な疑問を疑問として発する人々も存在して、そうした人々の懸念の中には、最悪シナリオまで描かれていたりする。国家財政破綻、外資ハゲタカファンドによる日本経済の食い荒らし、そしてこの国の軍事国家への急傾斜などなどである。
 残念ながら、こうした懸念が決して杞憂で済ますことができない緊張感が高まりはじめているのが現状かと思われる。これが恐ろしいことだと国民が感じたり、考えたりするのが自然ではなかろうか。ところが、それを案ずる国民の思考回路を閉鎖させたままでいるのが、現在の為政者や官僚機構や、そしてマス・メディアだと思われてならない。ここに、言い知れない恐さが潜んでいるわけだ。
 危険なことがあるとすれば、それは遠い将来のことだと人は考えがちだろう。しかし、今現在に危険の予兆を感じることができないならば、どんなことが起ころうともその人にとっての危険は永遠に存在しないのかもしれない。今ある諦めが増大するだけのことなのであろう。
 だが、諦めを選択できない人々も多々いるわけで、いろいろな人たちがいる。それこそ、そうした人々の発言に関しても自身の頭で吟味すべきであろう。時の政府からのメッセージも、そうした人々のそれもまさに同じ土俵に立たせて吟味すべきなのである。
 ちなみに、政府・官僚たちが今何をしているのかについて、実に興味深い叙述があったのでそれを引用しておきたい…… (2007.02.22)

<"アーキテクチャー"による統治
 ちなみに、いまの官僚が考えている国民の統治形態とは、アーキテクチャー(建築設計)による統治といわれている。あたかも建築物を設計するごとく、巧妙に道筋を作って、国民をある一つの方向に誘導しようと企むのだ。
 たとえば、どこかの官僚が「妊娠中絶を禁じたい」と考えたとする。彼らにすれば、将来税金を納めてくれる頭数が減るので、少子化は困るというわけだ。しかしながら、妊娠中絶を禁じる法律を作ると、社会からのたいへんな反発が予想される。
 そこで、官僚たちはシステムの構築に精を出すのである。実質的に妊娠中絶をさせない方向に誘導するために、まず最初にテクノロジーによるコントロールを行う。つまり、生命の安全といった名目で中絶手術の手順をいろいろと増やし、医者に要求する技術レベルを上げ、手術のハードルを高くしてしまうのだ。二番目に、中絶手術のコストを高くする。三番目には、「生命を大切に」という教育を徹底していく。
 このようにして、法律で網をかけなくとも、人はこういうふうに動くだろうという建築設計的な道筋を考えるわけなのだ。いろいろな障壁を設け、各論についても批判を喰らわないような設計をし、結果として妊娠中絶が非常にしにくい国を作ってしまう。「妊娠中絶なんて個人の意志で決めればいいじゃないか」という意見が出てきた場合でも、「おっしゃる通りです」などといいながらも、実は誘導されていく出口は一つだったというような構造を、彼ら官僚は作ろうとしているのだ。>( 宮崎 学『地下経済 この国を動かしている本当のカネの流れ』 青春出版社 2002.11.15 )


 この国の現在というのは、甚だ「無防備」に過ぎると感じる。いや、決して軍事問題を云々しようとしているのではない。
 世界でも史上まれにみる超高齢社会を迎えようというのに、年金制度もさることながら、「高齢者を遇する文化」というものをすべて「破棄」してしまっているからである。
 先日、団塊世代に関するとあるTV番組で、団塊世代各位は今後どのようなポリシーで生きていくのかそれぞれ思うところをパネルに書こうという場面があった。趣味に生きるとか、ボランタリー活動をしたいとか、あるいはまだまだ働きたいとかといろいろな思いが披露された。
 その中で、僧衣をまとったいかにも僧侶を職とする人が、確か「亀の甲より年の功」と書いていたようだった。それぞれのパネルを映し出すカメラがチラリと捉えていた。番組の流れからいっても、ちょいと浮いているかな、という印象を与えたものだったが、案の定、キャスターは無視していたかのようであった。

 ご当人がどう考えてのことかは今となっては不明であるが、よくよく考えてみると、その「亀の甲より年の功」を実践し、この現代にその主旨を巻き返して行こうとするならば、それはとてつもなく「ラディカル」な革命事業となりそうだと思われる。
 それほどに、現時点の社会は、<非・反>「年の功」主義で塗りつぶされているからである。(代表例は、「年功序列」賃金制の完全崩壊! このすべてが間違いとは思わないが、産湯を捨てて赤子を流すの愚が見える)いつの間にか「年の功」なぞは誰からも見向きもされない世相となってしまった。そのうち、「敬老の日」の祝日でさえ、「別称に変えてはどうでしょう。たとえば、<全国リサイクル・デー>とか、<お宝の日>とかに……」と言い出す者が出てこないともかぎらない。

 情けないことである。ただ、情けないとは、八分、九分が「年の功」該当者となっている自分自身が情けないという意味ではない。まあ、それもないこともないが。
 むしろ、浅薄な現代の風潮が、「年の功」の本質である人間の「経験」という重要な要素を額面通りに認識、評価できなくなってしまっている、その現実が実に情けないことだと考えるわけである。さらに言うならば、人間における各人の「経験」というものをきちんと位置付けることのできない発想や、それによって構成される社会や時代というものは、結局、この人間世界から個々人の人生という局面、実は人間世界にはそれしかなく、その集積こそが人間世界だと思われるのだが、そうした実在を脱色してしまおうとすることに等しいのではなかろうか。その結果は、抽象的な情報知識、一般的な情報知識とその体系(システム)が主役を演じ、人間が存在しなくなる世界の完成であろう。

 こうした「年の功」問題にいまさらのように目を向けることとなったのは、実は、評論家小林秀雄による、半世紀以上前の講演(CD)にたまたま接する機会があったからなのである。
 そこで、小林秀雄は、種々の角度から「年の功」問題を話題に取り上げていたのであった。結論から言えば、科学をその代表とする近代合理主義は、人間各自の「経験」という重要な要素を平気で洗い流してしまって涼しい顔をし過ぎるのではないか、科学が方法論的に捨象する人間の「経験」というものにもっと目を向けなければいけない、という話であった。
 この話をするために、彼は、聴講者がわかりやすい種々の例を織り交ぜていくのだが、その中に、東洋独特の「隠居」制やら、論語の有名な箇所である「年代」論議などを含ませていたのである。要するに、人間の人生には、折り重なる「経験」ゆえの「年の功」というものが否定しがたく生まれるというのである。
 「隠居」制というのは、加齢によって蓄積された「経験」の価値、意義を、社会から追放してしまう愚を避け、なおかつ現役社会に「老害」をもたらさないようにと編み出された東洋の知恵の賜物だと説明するのである。高齢者が、人里離れた場所に姿を隠して、社会と隔絶されるのではなく、「社会に沈み」つつ社会を支えるという極めて道理に合った関係を保つのが、「隠居」制だというのである。もちろん、ここには、高齢者=知恵=「経験」の累積、という認識が前提となっているわけだ。

 また、孔子による論語の有名なくだり、つまり、
<子曰、
吾十有五而志乎學、
三十而立、
四十而不惑、
五十而知天命、
六十而耳順、
七十而從心所欲、不踰矩、

子の曰わく、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。>

との教えは、人間はそれぞれの年代でやるべき事があるという意味とともに、それぞれの年代でしかやれないということがある、と解される。つまり、ここには、人間の「経験」というものが、歳相応にしか積み重なってゆかないのではないかとする暗黙の前提が潜んでおり、「経験」というものが持つ含蓄のある部分が見込まれている、と小林秀雄は述べていたかに思う。
 こうして、講演での小林秀雄は、持論である「近代科学」的思考と、本来的な人間の思考との対比を、人間の包括的な「経験」、その蓄積としての「年の功」などを話題にしながら解説していたのである。
 前述したとおり、この講演は、半世紀以上も前に行われたものなのであるが、小林秀雄が提起し続けたテーマは歴然として生き続けているどころか、「近代科学」の延長としての現代科学は、一方の得意分野では目を見張る成果を上げながらも、人間自身と人間社会とが内側に秘めた解きがたい矛盾については、相変わらず棚上げに終始しているかのような気がする…… (2007.02.23)


 最近、しばしば送料よりも安い古本を買っている。送料が340円で、注文した古本が1円とかであった。「Amazon」の中古本コーナーからであり、このコーナーは「Amazon」自体が行うのではなく、全国各地の、古書店をはじめとする登録業者たちが取り扱うのである。「Amazon」はそれなりのメリットを押さえて中継をしているのである。
 で、そうした登録者が手間ひまかけて1円という破格で取り扱って成り立つのだろうかと、毎度の事ながら心配するのである。
 別に自分は、1円とか何十円とかの本を選り好みしているわけではない。古書店でも、そうした価格のモノはろくなものがないから大体そうした部類には目もくれずにやり過ごしている。
 ところが、「Amazon」で欲しいと思う本を検索してみると、新刊本の価格とともに「ユーズド」本の価格も出てくる。それで、1円とか何十円とかに遭遇することがままあるわけなのである。多分、自分の書籍探しというのが多少変わっていて、いわゆるマイナーに属するのかもしれない。つまり、自分は、世間のメジャーな人々が無視するような「日陰本」とでも言うべき本を、どういうことか所望しがちになっているのかもしれない。

 最初の頃は、こうした「送料 > 本体価格」の中古本を注文するのに躊躇いがなかったわけではない。届けられて、封を開けてみると、バラバラに崩れるような代物が現れるのではないか、それは大袈裟だとしても、ああやめておけば良かったという印象のガラクタなのではないかと想像したりもしたものだった。
 ところが、決してそうではない。少なくとも、今まで届いた「送料 > 本体価格」本はいずれもが上物ばかりなのであった。読み込んだ形跡がさほどなかったり、中には、いわゆるアウトレット的な素性かと思わされる新品まがいのものまであった。非常に得をした気分にさせられるだけでも心地良かったのである。
 それで逆に、心地良くないのは、手間をかけて梱包して一桁大の売上に甘んじる登録業者の方ではなかったかと案じてしまうことになるわけである。いまや飛ぶ鳥も落とす勢いの「Amazon」にくっついていて損はないと信じながら、実のところ冷や飯を喰う羽目になっているのではなかろうか、とか、先ずはお客様に好感度を高めてもらうのが先決、それが商売商売と自身に言い聞かせているのではなかろうか、とややものの哀れを感じたりしないでもなかった。

 しかし、ふとクールに考えると、ものの哀れの対象はひょっとして自分なのかな? と思う節もないではない。所狭しと溢れかえった書籍で圧迫感を感じる書斎内を見回した時、つくづくそんな心境になってしまうのである。一体、これらをどうするつもりなのだと、しらーっと我にかえった際には、言い知れない戸惑いが襲ってくるのである。今時は、処分する場合には何でも有料となっていることをも思い合わせると、なおさらのこと沈んだ気分となってくるのである。
 そうすると、十円でもいい、いやいや1円でいいですよ、といって送料客持ちで、不良在庫古書をスマートに処分している登録業者たちが、にわかに賢く思えてきたりするのだ。ものの哀れなんぞとんでもない。婆抜きで婆を誰かに引かせるように、巧みにものの哀れを誰かに転嫁しているのではないか。いやいや、その巧みさに思わず敬意さえ払ってしまう始末なのである。
 まあ、実際のところはその業者たちもそれほどに賢く、スマートではないのであろう。少なくとも「Amazon」ほどには……。

 しかし、どうも最近は、とあることに目が向いてしまう。つまり、このご時世は、「婆抜きゲーム」と化してしまっており、婆を避けることに巧みな「勝ち組」と、何やかやと婆ばかりを引く羽目に陥る「負け組」という構図のことである…… (2007.02.24)


 最近、身辺で耳に残る口調として、「人生の終盤に差しかかっているので、そろそろ……」というのがある。自分の周囲にいる者たちが比較的年配者が多いためであろうか。あるいは、自身が老境の年代に近づきそんな口調を真に受ける素地ができつつあるのだろうか。
 ただ、そうした発言にあまり好感が持てないでいる自分なのである。
 と言っても、片方によくあるような、歳相応という観点をそもそも持とうとしない軽佻浮薄な者たちに与するものではない。先日も、小林秀雄の講演について書いた際に痛感したごとく、人間は歳とともに生きるものなのであって、歳を忘れて抽象的な思いで浮遊できるものではない。だから、若作りとカラ元気で若い世代の仲間入りを気取っている者の気が知れない。虚構に身をまかすほど虚しいものはない。とにかく何らかの形で熟しているはずの自身を、歳相応に自覚して表明するのが正攻法だということになろう。

 ただし、だからと言って、齢を重ねてしまったから閉じることを考えなければならないのだと急ぎ仕度に心を馳せることもなかろうと思っている。仮に、余命いくばくもなし、と宣告されたとしても、生きている間は生きることに最大関心を向け、挑戦するものがあるならば挑戦するくらいの開き方でなければいけないと考えたりする。まさに、役者は舞台の上で死ぬもの、という気合に賛同したいものである。
 というのも、人のエンディングというものは自身が決めるものではないからだ。古人の言よろしく、お迎えが来るというのが真理であろう。それまでは、いつかは来るものだと認識しつつも、放っておくべきである。早々と停留所のベンチに座って待っているというような忙しないことをしてはいけない。停留所にお迎えのバスだかクルマだか馬車だか知らないが、そんなものが到着したのをやや離れて見定めてから駆け込んだって十分にOKに違いない。それまでは、停留所が視野に入る近辺であるならば自由にやるべしである。歳相応に停留所の存在さえ見失わないならば、思う存分にやるべきこと、やりたいことに精を出しているべきなのである。子どもに返ってはしゃぎ回っていたってよかろう。

 くれぐれも強調したいのは、エンディングの事実を念頭に置かないということではない点だ。むしろ、そう振舞おうとすることは不可能であるのかもしれない。他の動物のように死の観念を持たないようには振舞えないのが人間であろう。またその観念があることによって、より生の充溢を図れるのが人間である。
 である以上、死の観念が「満期」を迎えつつある人生の終盤戦には、「満期」についてあえて思いを寄せる必要はなく、生の「完成」にひたすら意とエネルギーを注ぐのが正攻法ではないかと思われる。その生の「完成」とは、生の価値や貴(とうと)さを可能な限り実感し尽くそうとする営為にほかならず、それは「開いた」振る舞いで終わるしかないように思える。あたかも、役者が永遠の芸を求めて、舞台の上のある演技の振る舞いの途中で事切れるように……。

 こうした書き方は、場合によったら生への執着というような行儀の良くない響きを伴うかもしれないが、カネや欲望の別称としての生にあらず、本義の生には当然執着すべきだと考えたい。それが、遺された次世代の真っ只中の生にエールを送ることにもなるはずである。
 今後、団塊世代の終盤戦が静かに始まろうとしているわけだが、若作りとカラ元気で道化を演じることはしたくないし、また棺おけに半分足を突っ込んで悟り気取りとなることも避けたいし、なんとも難しいことになりそうだ…… (2007.02.25)


 昨日、人生のエンディングについて、役者の宿命にたとえて書いたりした。
 そうしたら、今日、その裏返しのようなニュースが報道された。落語家三遊亭円楽が、引退表明をしたという話題である。老兵の背中を小突くような商業主義的な「新陳代謝」が激しいこの世相ならではの出来事かと感じてしまった。

 評価という上等なものではなく自分の好き嫌いもあって、伝統江戸落語が先細りしている気配に一抹の寂しさを感じ続けてきた。そんな中で、志ん生、円生、文楽といった大御所は別格としても、馬生、志ん朝の次あたりに円楽を位置付け、期待もかけていたつもりだった。それだけに、いよいよ落語もライブ時代が終わったのかと、一抹の寂しさが漂う。

<円楽さん、異例の引退表明 「もう恥はさらせない」
 テレビ番組「笑点」の司会で知られる落語家三遊亭円楽さん(74)が25日、「ろれつが回らない。もう恥はさらせない」と、記者会見で引退を表明した。円楽さんは05年10月に脳梗塞(のうこうそく)で倒れ、リハビリを続けて1年後に関西の高座に復帰。この日、「出来次第では、引退を覚悟している」と話して東京の国立演芸場の「国立名人会」に臨み、古典「芝浜」を口演した。
 口演後に会見した円楽さんは開口一番、「だめですね」。約30分の予定が40分余りに長引いた「芝浜」を「ろれつが回らなくて、声の大小、抑揚がうまくいかず、噺(はなし)のニュアンスが伝わらない」と総括。「3カ月けいこしてきて、これですから。今日が引退する日ですかね」と話した。>( asahi.com 2007.02.25 )

 円楽らしい決断だと思われる。先ずは、円楽特有の美意識、美学が促した判断だと言えそうだ。それはそれで潔い処し方だと言えよう。
 これに似た話では、桂文楽が、噺の途中で絶句してしまい「勉強し直して参ります」と言って高座を降りた事例がある。その情景を映像で観た覚えがあるが、何ともシビァな雰囲気であった。それで、再度高座に戻って来たならば、おーなるほど、「アイルビーバック!」というシャレだったんだな、と納得ができたものの、文楽はそのまま戻らなかったわけである。何とも、自分に厳しい芸人だったのだなと思うとともに、何か釈然としないものが残ったりもしたものだった。
 というのも、こうした文楽の処し方の対極に位置するような変人が存在したからである。志ん生のことだ。志ん生も、脳溢血に見舞われて復帰が危ぶまれたが、見事とまでは行かないにしても、「病後」志ん生という特殊パターンを押し通してしまったのである。確かに、「病後」志ん生の噺は、時として何を言っているのかわからないほどにくすんでしまっていた。きっとご当人も、切ない自己評価はしていたに違いないが、概して、まあ、勘弁しておくんなさいよ、というメッセージが聞こえてくるようであった。
 なんせ、志ん生という変人落語家は、もともとが客と一緒に場を作るというような器が大きいというか、天衣無縫というか、そんなところがあった。持ち前の感性が光るとともに、酒に目がなく、それを隠そうとはしない豪放さがあった。
 伝説的な出来事でとんでもないものがある。ある日、志ん生は酔っ払ったまま高座に現れそのまま寝てしまったそうなのだ。客も客で、怒るどころか「いいから寝かしてやろうじゃねえか。」「酔っ払った志ん生なんざ滅多に見られるもんじゃねえ。」と言って、寝たままの志ん生を楽しそうに眺めていたというのである。

 こんな天才志ん生を基準にしては他の落語家の影が薄くなってしまうが、それでも、芸人やエンターテイナーがどうあるべきかについて、何か示唆を与えているようにも思えるのである。芸をとことん磨き続けること、これは言うまでもなく必須である。しかし、客は、芸の完成度だけに目を光らせているものでもなさそうではないか。
 いや、そもそも芸というものには、形になるものとそうでないものとがありそうな気がしている。そして志ん生は、後者に関して大いに観客を魅了し尽くした芸人だったのだと思えるのだ。わたしの落語観は、ここいら辺に根ざしており、現在の落語屋さんたちにはこれが無いから心が許せないのだと一人合点しているのである。
 それはともかく、円楽にも、志ん生のようであれと無責任なことを言うつもりはない。志ん生のような大天才を基準にして能書きを言ってはまずいだろう。しかも、時代的背景という要素も勘案しなければならないかもしれない。志ん生が天才であり得たのは、彼自身の素質や努力も当然あった上に、時代環境が彼を押し上げたという側面も考慮していいのかもしれない。

 それに対して、本筋を進もうとする落語家たちにとっての現代の環境は、やはり基本的には逆風だと思われる。そう言えば、円楽が、ホーム・グラウンドとしての寄席の運営を必死になってがんばっていた頃があったかに思う。結局は行き詰まったのではなかったかと記憶している。落語ファンもまた変質してしまったのだ。
 また、現在の落語寄席を担うマス・メディアは、あらゆる面でシステマティックとなり、落語の本質を食い潰すほどに唯我独尊となっているようだ。冒頭の記事の中の次の点は、復活を志す円楽にとっては何とも無慈悲な現実だったであろう。
 つまり、「約30分の予定が40分余りに長引いた」という時間制約の問題である。頭の良い円楽は、他の点でのリカバリーはいろいろと可能だとしても、限られた時間内に噺を詰め込むスピーディさは、病後のこれからの自分にとっては高すぎるハードルだと読んだのかもしれない。
 「芝浜」という演題は、酒で持ち崩してしまった魚屋が、七、八十両が入った財布を拾うことをきっかけにして、女房の助けもあり、「たっぷりと時間をかけながら」再起を図るという感動の一話である。円楽も、「たっぷりと時間をかけながら」であれば、十分に再起が図れるはずであろうし、現在の苦境を踏まえた円楽であれば、人情物なぞは大いに期待できるとも推測されよう。残念だと言うほかはない…… (2007.02.26)


 またまた、安倍内閣閣僚が良識のない発言をしたそうだ。伊吹文部科学相が、改正された「教育基本法」に関し、その前文に加わった「公共の精神を尊び」に触れ、日本はこれまで個人の「人権」に対して過剰な思い入れをしてきたために「公共の精神」が損なわれたというような意味のことを講演で述べたというのだ。次のとおりである。

<同法の前文に「公共の精神を尊び」という文言が加わったことについては、「日本がこれまで個人の立場を重視しすぎたため」と説明。人権をバターに例えて「栄養がある大切な食べ物だが、食べ過ぎれば日本社会は『人権メタボリック症候群』になる」と述べた。>( asahi.com 2007.02.25 )

 現内閣の閣僚たちは、ちょいとした気の利いたことが言いたくてうずうずしているようだが、それで馬脚を現しているのだから見るに耐えない。「公共」への姿勢と個人の権利とが常に反するかのような問題設定がおかしい。さらに、「人権」を個人の権利と同じものと見なしている議論も荒っぽい。これでは、「公共の精神」と「人権」とが対立概念であるかのような不毛な議論しか出てこないだろう。
 同大臣の理解では、「公共」=「国家」のようであるが、そんな聞き飽きた理解であれば、現代の「公共」問題の最たるものであろう環境問題なぞは解きようがなくなりそうだ。たとえば、地球温暖化問題に対して国家として消極的な米国では、環境問題は公共的問題ではないとでも言うのだろうか。それこそ「不都合な真実」(ゴア)だということになろうか。
 「公共」という概念は、きちっと再構築される必要があると考えている。しかし、「公共」=「国家」と見なす早合点、狭い了見に立つならば、この日本にあっては永遠にグチャグチャのまま推移していくに違いなかろう。だからこそ、古い発想のままの「公共の精神」という言葉を「教育基本法」の今回の「改正」に持ち込んだことのアナクロニズムが問題とされるのである。
 こんなことは言いたくないが、現代における公共の問題の深刻さをしっかりと考えたいならば、伊吹氏は文部科学相だそうだが、もう一度然るべき大学なり、高校で社会科学の基本概念を学び直すことを是非お薦めしたいものだ。

 ところで、もう一方の人権の問題である。これは、公共という概念よりも、国家という概念と鋭く対峙する概念であろう。
 細かいことに触れて冗漫な話になることを避けて、ストレートな話題設定をする。
 昨夜、とあるTV報道番組で実にシリアスな問題が提起された。

<「袴田事件」で、元裁判官が新証言
1966年、静岡県の旧清水市で味噌会社の専務一家4人が惨殺され、味噌会社の従業員で元プロボクサーの袴田巌死刑囚が逮捕された、いわゆる「袴田事件」で、担当した元裁判官が心境を語った。「事件の進行具合では無罪だと思った」と語る熊本典道・元裁判官。裁判は3人の合議制で行われ、無罪を主張したのは熊本氏だけだった。法廷に提出された自白調書は45通で、採用されたのは1通のみ。残りの44通は「任意性がない」として却下された。「袴田事件を一生背負っていかなければならない」と語る熊本氏は、袴田死刑囚の再審請求に協力する意向だ。>(テレビ朝日 報道ステーション のサイトより)

 「袴田事件」は、既に1980年に最高裁で死刑が確定されているものの、「冤罪」の可能性が多々あると指摘されてきている。そして、現時点でも最高裁への再審の特別抗告が、人権擁護団体などによってなされている。そんな中で、事件を直接担当した熊本典道・元裁判官が、人間的な苦渋の心境を涙ながらに吐露したのである。自白調書の信憑性に関して、熊本氏は当初から一貫して疑問を抱き続けてきたのだそうだ。そして、図らずも死刑判決という結果となってしまったことを悔い、これまで一日たりともこの事件を思い出さない日はなかったと、泣いて語っていた。
 これが人権問題の実相なのだと思える。しかも、関係当局は過去の話だとしたいところであろうが、こうした新証言も加わり、冤罪としての可能性が打ち消せない以上、現在進行形の問題だと言っていいのではなかろうか。
 つまり、人権問題の重みを持つ問題とは、大体が警察、検察などの国家の権力機構が歴然と絡んでいるのである。そして、こうした冤罪という人権侵害的悲劇の可能性は、決して限定されているわけではないだろう。
 極論するならば、誰しもがわずかな不運だけで冤罪の坩堝へと突き落とされる可能性があると言えそうである。密室における自白の強要環境に耐え続けるには、恐らくは並外れた精神力を要するものと思われる。一般国民や市民がそんな強靭さを持ち合わせてはいないはずであろう。だからこそ、人権問題は、誰彼の問題ではなく、等しく市民国民全体の問題なのだと考えなければならない。

 今なおと言うべきか、そもそもと言うべきか、人権問題とは、決して「バター」のようなまろやかなものではないわけだ。「バター」のようであるとするなら、すぐに溶かされてしまうところは似ていよう。いずれにしても、人権に絡むシリアスな実相を、まるで何もないかのように、あるいは別世界の他人事であるかのように捨象してしまう者たち、そしてそれを真に受けて形成される世の風潮、それが結構恐ろしいと感じてしまう…… (2007.02.27)


 今日、日経平均株価が大きく下げた。こんなことが近々ありそうだと懸念し続けていたが、漸くといった感じである。

<日経平均515円安、今年最大の下げ幅
 28日の東京株式市場は全面安で、日経平均株価は今年最大の下げ幅となった。終値は前日比515円80銭(2.85%)安の1万7604円12銭で、昨年6月13日の614円41銭安以来の大幅下落。前日の海外株式相場の下落を受け、幅広い銘柄に売りが出た。世界的に経済の先行きに不透明感が広がったほか、このところの上昇で利益確定の売りが出やすかった。外国為替市場で円相場が上昇したことも売り圧力になった。>(NIKKEI NET 2007.02.28)

 このところ、ネットでのデイトレードもどきにも何となく興醒めして、ほとんど手控えていた。したがって、今回の暴落においては痛くも痒くもないというところだ。
 もとより、最近の米国ニューヨーク株価の連日高値更新というそらぞらしさは、大いに不快感を誘い続けたものだ。景気後退の衝撃をソフトランディング的に済まそうという意図なのであろうか、過激なM&A動向を材料視した連日の「強気」、いやハッタリ的な平均株価上昇は、おいおいホントかよォ、と疑惑を掻き立てずにはおかなかった。
 そして、それにシッポを振って連動するかのように上昇傾向を醸し出し、先頃は一万八千円にまで上り詰めていた日経平均も、何となくウソっぽさが拭えなかった。
 まあ確かに、大企業は形としては業績を上げているようだから、相応に株価を上げても自然なのかもしれない。ただ、これらが安定的傾向なのかどうかという点になると、不安材料が多過ぎると思われた。現に、今回の「利上げ」にしても賛否両論の雰囲気であったことは、誰もが手放しでは現状の景気を評価していないことの証拠ではなかったか。

 元来、株価というものは、半ば実勢、半ば風評という得体の知れないものなのかもしれない。おまけに、昨今ではもっぱらマネーゲームとして荒稼ぎしようとする仕手勢力の影も濃厚となっている。景気や企業のファンダメンタルズ、実勢の良否がシビァに評価されるものだというのは、タテマエでしかなさそうだ。
 現に、不祥事を起こした企業の株は、翌日には第一次的には大量に売られて株価は大幅に下落はする。が、それはいわば儀式のようなものであって、一定の底値が見え始めると、にわかに買い上がる連中がいて、株価はほどほどに回復してしまうのである。
 まあ、株取引と社会正義とは別物であるから当然と言えば当然なのであろう。だが、不正を働いた企業に対しては投資家たちが鉄槌を下すというバランスがあってもよかろうという気がしないでもない。心意気を見せるというような甘いレベルの問題なんかではなく、株式市場の公正な環境整備という観点に立ってもよかろうということである。自浄作用とでもいう意味である。
 まして、投資家たちの目を欺く不正な財務処理をした企業などに対しては手厳しい拒絶反応を示して当然だと思える。しかし現実は、儲かりゃ何でもいいのさ、という投資家たちの姿が見え見えである。株式市場で不正を働くものがいるかと思えば、そんなことはどうでも良くて、機会を捉えて儲けりゃそれでいいという投資家たちも少なくないということだ。まさに、正義も美意識もあったものではなく、五十歩百歩の腐り方でカネと向かい合っている世界のようである。

 ところで、こう書いていると、株取引のジャンルについて思い返していながら、ひょっとしたら、いやひょっとせずとも、この浅ましい風潮はそのまんま東ではなく、そのまま一般社会の現実でもありそうだと思えてきたりするのだ。
 別に、いまさら青臭い議論をしようとしているのではない。むしろ逆に、そうした現実を、不快感が避けられなくても、先ずは正確に認識しなければいけないのではないかと思うのである。
 さすがに、最近では、いわゆる人間「性善説」を躊躇いなく主張する人が少なくなったかにうかがえる。「性悪説」の立場に立ち、悪が蔓延りにくい環境づくりを具体的に提案する者の声が大きく聞こえるような気もする。
 「性悪説」の立場が、果たしてどこまで有効なのかという疑問もあるし、それ以前に、「性善説」・「性悪説」というシンプルな区分けそのものが意味のある思考道具なのかという点への疑問もないではない。
 したがって、ここは控え目に、こう言っておこうかと思っている。「人を見たら、<とりあえず>泥棒と思え」と。なんだ、控え目でも何でもないじゃないか、かなり過激ではないかと思われそうでもある。いや、自身でもそう感じるところがある。
 ただ、現在迎えているグローバリズムのこの時代環境にあっては、日本人、とくに古き良き時代に生きた日本人のまろやかで、寛容な感性は、時代の烈火を潜り抜けなければいけないのではないかと感じ、あえて過激さを盛り込みたい心境なのである。この点については、改めて書くつもりであるが、この「試練」を潜り抜けない限り、この国日本は変わりようがないし、現状でのいろいろな意味での悲惨さから脱出できないのではないかと思っている。
 ちなみに、わたしは、「人を見たら」の人の中に、もちろん日本政府という存在、米国政府という存在、さらに役所をも含んでいる。いや、その意味の方が大きいくらいである。それがシビァな道理というものであろう…… (2007.02.28)