あまりにもくだらない話題のため、論外だと見なしていた。この日誌にも書くつもりはなかった。例の、柳沢厚生労働大臣の「女性は子どもを産む機械」発言のことである。
しかし、「産む機械」と言うならば、なんとまあ自民党の大臣たちは、数多くの失言を次から次へと「産む機械」であることか。実に「生産性」が高いことに驚く。
ちょいと前に、「上司は思いつきでものを言う」という著作がベストセラーとなったようだが、要するに、大臣たちは職場での上司たちのように、「ひれ伏して拝聴する」はずだと見なした者たちの前で、いい気分となり過ぎて「思いつき」でものを言ってしまうのだろう。
もちろん、信念に生きる人たちであれば、たとえ「思いつき」であろうとも気の利いたことが言えるはずである。けれど、もともとそんな上等なものを持ち合わせていないとなれば、チェックなどしてくるはずがないと錯覚した聴衆の前で、いい気分となり舞い上がってしまうのかもしれない。良識も品位もあったものではなく、見境のない言辞をただただ思いつくままに「量産する機械」となってしまうのであろう。
また、日頃、国会答弁などにおいて自分自身の言葉によって対処していたならば、発する言葉へのコントロールも無難に働くのであろう。だが、官僚の作文というシナリオを朗読することを常としてきたのだろうから、シナリオなしのフリー・トーキングとなると、故障した機械よろしく目も当てられない暴走をしてしまうのかもしれない。情けない話である。
昨今の政治家たちの失言が奇しくも明らかにする点は、現在の政治家たちが、官僚というシナリオ・ライターたちのもとで操られるタレントのようだということ、しかも気の利いたアドリブひとつ満足にこなせないダイコン・タレントなのだということになりそうである。
ところで、今回の不始末の経緯を見せつけられていると、現在の政治というものは、「わかりやすい失敗」によって方向づけられるものなのかなあ、と感じてしまう。
今、野党勢力は、大臣当人の辞職と首相の任命責任の追及に奔走している。まあ、当然のことではあろう。
ただ、本来の政治の土俵で闘わなければならない重要課題は山積しているはずである。本当は、そうした課題を明確な争点として切り込んで行き、国民に対してアピールと説得を迫らなければならないはずである。よくあるといえば「あるある」の大臣失言を前面に出しての闘い方というのは、野党側にしても今ひとつ心残りではあろう。いや、そう感じてもらわなければいけない。
しかし、こうした与党側の「わかりやすい失敗」こそを徹底的に拘泥して行くこと以外に、野党側としての効果的な攻め口がない、というのが現状の難しい政治状況なのかもしれない。
言うまでもなく、この難しい政治状況を構成しているのは、国民の政治意識の低迷だと言わなければならない。あるいは、陰になり日向になり国民の政治意識を眠らせているマス・メディアの無責任だと言ってもいい。
複雑化している現代という時代状況とそこでの矛盾を、多少「ややこしくとも」理性的に分析して議論するという当たり前の地平こそが政治でなければならないのだろう。しかし、今の現実は、理性の「ややこしさ」が排され、「わかりやすさ」のみが一人歩きしているようである。
前首相小泉氏は、まさにこうした危うい時代環境を最大限に利用して、無理矢理とも言える「わかりやすさ」で国民を愚弄したわけだ。まあ、愚弄されたとは感じなかった国民が少なくなかった点が残念ではあったのだが……。
専ら「わかりやすさ」のみで政治を判断しようとする風潮が現代の小さくない特徴だと思われる。これが「ポピュリズム(大衆迎合主義)」なのだとも言われている。
もちろん、こうした風潮はとてつもなく危ういに違いないわけだが、どうもこれを急遽正すというのは、結構、困難な事業であるのかもしれない。
こうした大きな風潮があるだけに、日頃、「わかりやすさ」でいまいち遅れをとっている野党側は、「千載一遇」のチャンス、異常気象に伴って生じた(?)「追い風」だと了解しているに違いなかろう。
楽観視しているのかもしれない政府与党にとっては、かなり厳しい局面への突入だというふうに見える。
しかし、「わかりやすさ」の手法で利を得たかに見える勢力が、まったく同じマイナスの「わかりやすさ」によって反撃を食らうとは、これぞまさしく「イージー・カム イージー・ゴー」を絵に描いたような構図だと言うべきか…… (2007.02.01)