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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2007年07月の日誌 ‥‥‥‥

2007/07/01/ (日)  そこまでやる状況に踏み込んだというワケか……
2007/07/02/ (月)  「旬」の間が勝負どころ、情報(モノ)価値の「『旬』間性!」……
2007/07/03/ (火)  「Web2.0」技術を駆使するだけでは済むまい……
2007/07/04/ (水)  やはり、『八幡』様というのは……
2007/07/05/ (木)  ゴロゴロするだけが過労回復の手ではなさそう……
2007/07/06/ (金)  ひと昔前にはあったが現在は失われたもの……
2007/07/07/ (土)  動物のふり見て人のふり直せ……
2007/07/08/ (日)  「あと一寸(いっすん)」の継続が悩ましい状況……
2007/07/09/ (月)  とかく為政者が為すことと庶民のリアクション……
2007/07/10/ (火)  「先(将来)のこと」、「みんなの(公共的な)こと」への蔑視……
2007/07/11/ (水)  「セレブ」は「自分探しの旅」をする……
2007/07/12/ (木)  「蕎麦が食べたい」「おにぎり食べたい」……
2007/07/13/ (金)  現代生活は、「幼児虐待」への必然性をはらむのか……
2007/07/14/ (土)  夢という脳生理現象の不思議さ……
2007/07/15/ (日)  これ以上、善良な人々の「憤怒」を刺激しちゃマズイ……
2007/07/16/ (月)  台風一過の休日は、生きとし生きるものすべてが喜ぶ……
2007/07/17/ (火)  新潟中越沖地震について思うこと……
2007/07/18/ (水)  「優れもの」ソフトに、久々に遭遇……
2007/07/19/ (木)  ウソが紛らわしい現代事情……
2007/07/20/ (金)  見捨てられたことわざ「能ある鷹は爪隠す」……
2007/07/21/ (土)  現代とは、「手柄横取り」を推奨する時代か……
2007/07/22/ (日)  消費者・ユーザ自身が、雪崩的現象阻止の人柱たれ……
2007/07/23/ (月)  「喝!」と、シュプレヒコールを上げながら……
2007/07/24/ (火)  子ども時代の「夏休み」という別世界! 別天地!……
2007/07/25/ (水)  麻薬捜査Gメン「ごっこ」の域を出ないじゃないですか……
2007/07/26/ (木)  子どもたちのこぼれるばかりの笑顔……
2007/07/27/ (金)  やはり、「サブプライムローン焦げ付き問題」は重いのか……
2007/07/28/ (土)  ルール(規範)逸脱と「共同性」の希薄化……
2007/07/29/ (日)  さてさて、今回の参院選の結果は……
2007/07/30/ (月)  今回の選挙は、ちょっとした「プロレス」観戦に似ていたか……
2007/07/31/ (火)  「続投」なら「続投」でやってもらえばいい……






 わたしは、自分の頭がヘンになりそうな気がしている。誤解を招かないために言っておけば、決して認知症を警戒しているわけではない。
 あまりにも、この時代というか、現内閣のお粗末さに、いつの間にこの国の内閣はボケ老人たちの町内会役員会水準以下になってしまったのかとでもいう、想定外の困惑に陥っているのである。
 町内会費の集計ミス、帳簿の紛失といった体たらく以下の「年金問題」が明るみに出たかと思ったら、今度は、まるで酔った席で言うたわごとのような非常識発言が内閣閣僚の口から飛び出してきたからである。
 オイオイ一体どうなってるんだい? この国、この世間のCPUだか、OSだかが暴走状態(致命的トラブル)に突っ込んでしまったのか、あるいは私自身の脳が認識誤動作を起こし始めてしまったのかと、不安になったものである。

 新聞では次のように伝えられている。

<久間防衛相、米国の「原爆投下しょうがない」
 久間章生は30日、千葉県柏市の麗沢大で講演し、先の大戦での米国の原爆投下について「長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない」と述べた。野党や被爆地からの批判は避けられない見通しで、参院選に影響する可能性も出てきた。安倍政権は新たな火種を抱えることになった。
 久間氏は講演で、旧ソ連が当時、対日参戦の準備を進めていたと指摘。その上で米国が旧ソ連の参戦を食い止めるため原爆を投下した側面があるとの見方を示し「日本が負けると分かっているのにあえて原爆を広島と長崎に落とし、終戦になった。幸い北海道が占領されずに済んだが、間違うと北海道がソ連に取られてしまった」と強調した。
 また「勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るということも頭に入れながら考えなければいけない」と述べた。〔共同〕>
( NIKKEI 2007.06.30 )

 実を言えば、同じ<先の大戦>での「慰安婦問題」が米国議会で槍玉に挙げられたため、日本側からは、「そこまでおっしゃるのならば、米国は、人類史上で最悪の非人道的軍事行動であった、二度にわたる『原爆投下』についてはどうお考えなのでしょうか」と口火を切る者が現れて来はしないかと思ったりしていた。
 それが正しいと言おうとしているのではない。そうしたアクションが生まれたとしてもさほど不思議ではない、日本人にとって消し難い痛恨の想いが未だに残っているはずだと感じていたのである。そして、日本人にその辛い想いがあるからこそ、「反戦」と「核兵器全面撤廃」の国際運動の先頭にこの国が歩み出られるのだと考えていた。
 ところが、「しょうがないな」と言うのだから仰天である、現内閣の閣僚がだ。まさに、この内閣のキー・コンセプトが、馬脚を露(あらわ)す喩えそのままに打ち出されたと思えたものだ。

 というのも、閣僚と言っても軍事問題の門外漢なぞではなく、「防衛相」という軍事に関する本家本元であり、その責任者なのである。
 ところで、最近のこの国の防衛政策は、急速に米国の極東軍事戦略に巻き込まれている。いや、巻き込まれるという受動的スタンスから、積極的にその米国の戦略に参画するステージへと這い登っていると言うべきであろう。
 つい最近も、北朝鮮から米国に向けられるミサイルを、この国が迎撃するのが「同盟国」としての責務だというような諮問決議がなされたとかである。憲法改悪に向けたいわゆる「有事体制」の整備のための諮問機関での決議だそうだ。(しかし、この対北朝鮮ミサイル迎撃というのは、技術的には不可能に近く、ややもすれば先制攻撃へと踏み込む危険が大きいとの見解もあり、機に乗じて、限りなく危険なことを杜撰に決めて行くという今流行の段取り方のようである。)
 その前には、沖縄の珊瑚礁の生態を大きく狂わせるばかりか、沖縄県民の生命の安全をも脅かす米軍航空基地建設がスタートした。しかも、その莫大な費用に関してもこの国が負担する内容だったはずである。
 要するに、現内閣と防衛省(先ごろ、いつの間にか「省」への昇格が成ったはずだ)は、米国の極東軍事戦略への加担を、日米同盟という観点から矢継ぎ早で推進させているわけなのである。
 こうした文脈の上での、久間防衛相の発言であるから、さすがにNHKニュースでも、「米国側の代弁」という表現を避けるわけには行かなかったようだ。

 政治、軍事、経済のあらゆる領域において、この国が米国の支配下に色濃く組み込まれて行く状況は、目敏い人々の間では既に常識化しつつあるものの、知識人層やマス・メディアが大掛かりに「手懐けられている」という事情もあってか、国民の多くが「蚊帳の外」に置かれているのが実態のようである。
 しかし、米国が「原爆投下」についてまで、時の「防衛相」に米国の言い分を「代弁」させるという荒療治にまで至ると、いかに寛容な国民も黙ってはいられなくなるのかもしれない。
 ただ、警戒すべきは、これも国民を誘導する上での大きな戦略戦術(謀略?)だという可能性も否定できない点であろう。あえて国民感情を逆撫でするような「露払い」的花火を上げながら、「タブー」視されていた頑固な案件をなし崩しにして行くという常套手段は歴然として存在してきたからである。核兵器搭載空母の入港の手口がそれだと言われてきた。
 だが、同胞の日本人たちが、黒こげの炭素の塊へと変貌し、か細い手と思しきものが悲しく空を掴もうとしていた光景、そんな地獄をしっかりと記憶に残す者は、どんな言い訳にも耳を貸さないような気もしないではない。
 もし、それをも忘れ去るような記憶喪失の日本人であるならば、この国には未来永劫、未来は訪れないし、歴史というものが消滅してしまうに違いない…… (2007.07.01)


 最近は、ニュース報道に関しては新聞「紙」で読むよりも、新聞社「ウェブサイト」に目を通すことの方が多くなった。そこでその都度報道される記事に接した方が、情報をリアルタイムで入手できるため意味が大きいと思えるのだ。まさに現時点での情報の価値は、その「リアルタイム制」にありそうである。「鮮度」の高い情報こそが、情報活用にとって大きな価値を持つようである。

 昨日のTV番組で、昨年話題を呼んで公開された映画(渡辺謙主演、プロデュース『明日の記憶』)が、早々と放映された。最近では、レンタルDVDのリリースもかなり早くなっているようだ。
 ひと昔前では、営業戦略上、こうした対応は考えられなかったのではなかろうか。映画なら映画のその興行で時間をかけてしっかりと稼いでから、DVDなりTV放映なりという段取りのはずであっただろうと思う。
 「前倒し」的にTV放映を敢行してしまうのは、営業的に差し障りがないのだろうかと余計なことを詮索するのだが、それこそ、現代という時代環境にあっては、情報(コンテンツ)の価値は「リアルタイム制」によって左右されるものなのだと言えよう。
 平たく言えば、「旬」の間が勝負どころ、自分はこれを、情報価値の「『旬』間性!」とでも呼びたいが、「旬間性(瞬間性)」こそがより大きな評価基準になっているように思うのである。「旬」の時期に爆発的な歓迎を受けるならば、その後の長期間に線香花火が継続するよりも収穫が大だということなのであろうか。
 映画『明日の記憶』にしても、良い作品は早く多くの人たちにという一般論もさることながら、「認知症」、「若年性認知症」が時代の小さくない関心事となっているこのアクティブな社会的文脈に組み込まれてこそ、コンテンツ評価への相乗効果が期待できるというものなのであろう。そうしたことを推定するならば、プロデューサー・渡辺謙の読みはさすがに確かなものだと思えたわけだ。

 しかし、考えてみれば、情報(モノ)の「旬間性(瞬間性)」という視点を過大評価したくはない気分である。確かに、報道情報なり、時代的関心なり、あるいは商業的流行現象なりの領域にあっては、事実として情報なり、コンテンツなりの「旬間性(瞬間性)」の持つ作用力は大きいというべきであろう。
 流行現象に至っては、時代の社会的熱狂という文脈の糸から外れてしまうと、模造の真珠ネックレスの糸が切れてバラけてしまった個々の模造真珠玉のように、子どもでさえ相手にしないクズに成り果てるくらいである。一時流行した「ぶら下がり器」が、貰い手もいないために、渋々、コート類の吊るし台となっているようなものだろう。それほどに、流行現象の価値は、本体自体に価値が見出されるのではなく、時代の社会的熱狂の仮の姿、器でしかないわけだ。
 だが、そうした限られた領域での情報(モノ)の「旬間性(瞬間性)」という基準がある一方で、他方には、「いつ」というような時代環境、状況に依存せず意味を発揮する情報(モノ)がある、と考えてみたいのである。わかりやすく言えば、「古典、クラシック」が持ち続ける意味と価値ということになろうか。
 が、こう言ったそばから、えっ、そんな事って、この現代という時代に通用してる? という嘲笑が聞こえてきそうな気もする。まあ、残念ながら、それが事実であるのかもしれない。
 先ずは、時代を超え、所を問わぬ意味や価値なぞは想定しにくい時代状況になっていそうな現実を、率直に認めざるを得ないのかもしれない。良い悪いを問わず……。
 だが、その上で、そうしたもの(時代を超え、所を問わぬ意味や価値)の存在をしっかりと承認したいと、自分は考えている。いや、そこまで偉そうな口調はできないとしても、ありそうだろうなと感じている。

 確かに、小説にせよ、思想書にせよ、映画にせよ、現代から遠く離れた時代の作品というものは、当たり前であるが「距離感」があるものだ。取っ付きにくい、と言ってもいい。それは当然のことであり、現代に生きるわれわれにはそれがしやすいような日常的感性というものが培われており、作品側にはその時代のそれが浸透しているからだ。そのギャップが、「距離感」や、場合によっては「違和感・拒絶感」をもたらすのであろう。
 ただ、それらを決定的な条件だと見なさない「落ち着き」を持つならば、結構、さまざまな価値あるものが見えてくることになる。
 その「落ち着き」というのは、表面的なものを差し引きながら、想像と共感の想いで対象に迫る姿勢ということになるのかもしれない。それは、確かにひとつの努力を必要とするはずである。あるいは、他の人はどうかはわからないけれど自分自身はこう感じ、こう思うという姿勢も必要だということかもしれない。

 現代という時代が、情報(モノ)の「旬間性(瞬間性)」という基準を濃厚にさせている事態は、それはそれで時代特有なひとつのメカニズムなのであろう。効率良く、瞬間を刈り取ってゆくメカニズム……。
 しかし、そのために、過去の遺産が軽視されたりするのは残念なことであろう。過去は乗り越えられたのだと簡単に言い切ってしまうのはどんなものであろうか。
 また、人間個々人は、流行のような同時代性の産物によって一様に括り切れると錯覚するのもいただけない。
 IT環境などの急速な発展によって展開することになった特殊な、一時的時代環境を、それこそ「旬間性(瞬間性)」の観点だけで賛歌していていいのかと、ふと思うわけである…… (2007.07.02)


 ネット検索というのは非常に便利ではあるが、万能というわけではない。いや、むしろそれが当然なのであって、ついつい万能視してしまう方が単純なのであろう。
 自分がこのネット検索ならではの便利さを強く感じるのは、先ず、家電新製品の最安値販売店を探す時であろう。この場合は、同時にその新製品のスペックをメーカー・サイトに一跨ぎして確認することもできてしまうのでありがたい。
 恐らく、ネット検索をする多くの者たちが、この分野では、こうしたありがたさを感じているのではないかと思う。
 必ずしも、対象は家電新製品に限られるものではなくて、どこで購入しても結果は同じというような商品の場合には、この手のありがたさが生まれるのであろう。その他の一般的な新商品であるとか、新刊書籍にしても同じ事が言える。

 しかし、同じ分野であっても探している商品が、やや年代モノとなると途端に冷たく扱われてしまうものである。
「該当するものがありません」
というメッセージによって冷や水を浴びせられてしまうわけだ。もっとも、当方側だって、右から左にパラパラと期待していた情報が表示されるとは思っていないから、まあそうだろうな、とダメ元の気分に落ち着くことになるわけだ。
 つい先頃も、ネット検索依存症候群になっている者としては、ダメ元気分でとある検索をしてみた。

 ここに書くほどのことでは毛頭ないのだが、話のついでに書いてしまおう。
 寝苦しい夜の季節になってきたので、その対策が浮上することになった。もちろん、クーラーのスイッチを入れれば済むことでもあるが、なんせ、家内は大のクーラー嫌いなのだから悩ましいことになってしまうのである。そして自分は、暑がりときている。また、扇風機の風というのも、身体を疲れさせることを検証済みで、これも避けたい。
 となると、ベランダ側のガラス戸を夜通し開けっ放しにするのも物騒だし、思案に暮れていたのであった。
 そんな時、思い浮かんだのがガラス戸は開けて、その代わり雨戸を閉めるという手だったのである。雨戸には多少なりとも隙間があり、ガラス戸が閉められた密閉性とは異なるものだ。おまけに、今の時季は夜明けが早過ぎるため、部屋が早くから明るくなってしまうことも防げるため好都合だと思われた。
 試してみると、微風が入り込み、まずまずの結果であった。が、如何せん隙間は隙間であり、微風はあまりにも頼りなかった。

 と、そうしたある日、「可動ルーバー雨戸」という画期的な新製品のあることを耳にしたのである。安全性と通風性とを兼ね備えた新発想の雨戸というもので、実に、わたし好みの製品であった。
 で、さっそくネット検索で調べてみる。もちろんのこと、こうした新製品については、検索結果が出てこないわけがなかった。なるほど、これがうまく取り付けられたら、今年の猛暑期間の熱帯夜も楽勝となるぞ! と「獲らぬ狸の皮算用」をしたものだった。
 が、事態はそう安直なものでないことがジワジワとわかってきたのである。そして、こんな話を長々とかいてきた理由もここにあったのである。
 先ず、雨戸といった製品は、全国一律の規格製品ではない。もちろん、建物に付随するものであるところからカスタム・メイド的側面が強い。製品サイズも結構バラバラなのである。またメーカーによる違いも大きい。
 それよりも困ったのは、自宅の築年数が20年以上経っているため現行の雨戸が年代モノだったのである。ようやく、その製品の型番は確認できたものの、その型番によるネット検索では「おとといおいで」とにべもなくはね除けられてしまったのである。
 その年代モノの雨戸のメーカーは、自社サイトにおいて、新製品のラインアップは入念に行っているのに、わたしの目指す雨戸に関しては梨のつぶてなのである。「そんなのありましたっけかな?」と白を切っているようであった。ダメ元気分が失せて、何か腹立たしい気分となってしまったのだった。

 当たり前と言えば当たり前のことなのであろうが、ビジネス至上主義に染まったネット環境にあっては、企業サイトは、目先のビジネスのために労力とコストを割いて新製品紹介に力点を置く。年代モノのメンテナンス情報には可能な限り目をつぶる姿勢がありありである。まあ、時々、極めて良心的な(PC、パーツ)メーカーなどで、過去の自社製品のメンテナンス情報をしっかりと提供している姿に遭遇することはある。しかし、皮肉なもので、そうした良心的メーカーがややもすれば経営難に陥り、M&Aターゲットにされたりする。
 わが家の年代モノ雨戸を「可動ルーバー雨戸」へとリプレースする企画は、今のところ暗礁に乗り上げつつある。まあ、それは文字通り「しょうがない」として、現在のネット環境というものには、やはりビジネス至上主義というか、儲け主義というか、時代の主義主張が色濃く反映しているものだと今さらのように感じたのであった。
 ネット・ユーザー側のそうした思いを粉砕してしまうようなウェブ・サイト創りこそが、逆説的にダークホースなのかもしれない。その粉砕の手段は、決して「Web2.0」技術を駆使するだけでは済まないのではなかろうか…… (2007.07.03)


「それじゃあ、『八幡』様というわけだ」
と、わたしが言うと家内は吹き出していた。
 近所の知り合いの家が、犬を貰うのに大金8万円を出したという話を聞いたのであった。
 その家は、以前、わが家で飼っていたレオと姉妹関係にある犬を飼っていた知り合いである。両犬とも、雑種だったこともあり、「貰ってください、貰います」という無償贈与を機にしてそれぞれ飼われ始めた犬であった。彼らは、小さなお腹をプックリとさせた子犬の時代から、その後十三、四年の寿命を生き続け、今はもういない。

 その知り合い宅も、わが家と同様、もうとっくに子育ては完了して、夫婦ともに手持ち無沙汰と言えばそう言える状態である。
 そして、愛犬を亡くしてから数年も経てば、また犬が居る生活、犬と共に生きる生活をふと思わないわけでもないのであろう。
 ちなみに、わが家は、よんどころなく庭で野良猫たちを放し飼いにしているため、新参の犬まで迎え入れるわけにはゆかない。自分個人としては再び犬を飼ってみたいという思いもあるが、まあ、野良猫たちが元気でいる間は現状維持にしておこうと観念しているのである。
 だが、当該の知り合い宅の方は、そうした「居候」もいないし、庭だけでなく、夫婦二人暮らしという状態は、薄ら寂しいと言えばそう言えないこともなかろう。
 それで、しばらく前から、再び犬を飼おうという姿勢にあったようである。かつて飼っていた犬がお世話になった獣医さんにも声を掛けていたとかである。さらに、実りかけた「養子縁組」が、何らかの支障があって途中で「破談」となったとかという話も漏れ聞いている。
 そして、今回の話になったのである。
「〜さんとこ、いよいよ犬を飼うらしいわよ。見に来てと言われたから行ってみたけど、かわいかった! 部屋の中にケージを置いて、その中で大事にかわいがってた……」
と、家内が報告してくれたのである。
 だが、家内は顔を曇らせて続けるのだった。
「結局、『8万円』のお買い物になったそうよ。何でも、最初は10万円だと言われたそうなんだけど、そこまで出せないと言ったら、8万円になったのだとか……」
「えっ、貰ったんじゃないんだ。それじゃあ、『八幡』様というわけだ!」

 自分は、いま時のペットたちが何十万円もの高額でやり取りされている現実を知らないわけではなかった。が、そうした現実に対しては一線を引いており、自分の場合は、「貰ってください、貰います」という従来型「養子縁組」方式がいいと考えていたのである。もちろん、「血統書」付きなんぞでなくていいと思っていた。
 自分らのような人間側が「血統書」に値するステイタスにないのに、ペットにそれを求めることはないという割り切り方である。
 しかも、犬や猫たちというのは、「雑種」でいい、いや、「雑種」がいい、と思い込む心境もある。ブリーダーのように、増殖させて金儲けに一肌脱いでもらおうなんぞと考えようもない以上、「客観的」価値なんぞは蚊帳の外の話であり、自分や家族とペット本人との「主観的」関係だけで十分だと思うからなのである。「あそこの犬、不細工なこと!」だとか「みすぼらしいワンちゃん!」とかという風評が近所から聞こえてきたとしても、どこ吹く風であろう。むしろ、そうした眼があればあるほど「かわいさ倍増」ということになるのやも知れない。

 きっと、当該の知り合い宅も、ホンネは同じ心境だったのかもしれない。暗黙裡に「貰ってください、貰います」の「養子縁組」方式以外にはあり得ないと思って話を進めていたところ、唐突に「売買契約」の話が飛び出したということなのではないかと想像するのである。いや、そうじゃないのかもしれないが……。
 自分の場合、命あるペットとの出会いというのは、もっと「ロマンチック?」でありたいと思い続けている。たとえば、家内がいつか言っていたが、放っておけば殺されたり、死んでしまうようなそんな状況にある動物に偶然遭遇してしまった場合などが、ペットを飼うきっかけ、ということになろうか…… (2007.07.04)


 昨日から体調を崩し、昨日はどうにかやり過ごしたが、本日は無理をすることなく休暇を取ることにした。身体の疲れがうまく解消できないでいる様子と、いわゆる眼精疲労とが重なって、何とも冴えない気分で朝を迎えたものだから、思い切って休暇とした。
 家内はちょうど実家へ行くことになっていて、多少、わたしのことを気遣っていたようだ。大したことじゃない、大丈夫だと伝えた。
 ケアを待っている実家のお義母さんに比べれば、自分なぞの不調は何ということもなく、ヘルプを頼むような範疇には入らない。むしろ、気分転換という点を考えれば、独りに放っておいてもらった方が、効果的だとも思えたのだ。

 事務所に向かうと、どうしてもディスプレーに対面することとなってしまい、眼精疲労らしき症状の回復する間がないことになる。とにかく、仕事から何からすべてをPC上でこなしている毎日のため、視覚には過重な負担が掛かっているのであろう。まして、最近はメガネがうまく合わないようでもあり、視神経にとっては勘弁してくださいな、とでも言いたいところに違いない。
 そんなことで、PCやディスプレーをシャットアウトする意味での休暇という意味合いもあったのである。今、こうして作文作業をするのも本来なら好ましくないが、まあ、こればかりはやむをえない。

 こうした体調の時には、横になっていれば良さそうにも思われるが、日中から無造作に睡眠をとってしまうと、却って生活リズムを壊してしまうこととなり余波が出ることになりかねない。疲れない程度に何かをして起きていた方が良さそうだと思った。
 さりとて、じっとしていると、PCを立ち上げてしまいそうなので、庭に出ることにした。何かすることがあったはずだと思い返してみたら、二、三、適当なものが浮かんできたのだった。
 先ずは、先日来気になっていた「雨戸」のことが浮上してくる。これからやって来る熱帯夜に備え、雨戸の通風性を何とかできないかという案件である。
 埃っぽく汚れ切っていた雨戸のことが思い出されたので、とりあえずは、庭に出して放水で掃除をすることにした。大掃除でも、雨戸を外して掃除することなぞあまりなかったため、雨戸は何年もの間の埃を体中に付着させていた。水圧が高く勢いのついたホースからの水が、白っぽい埃をうそのように流し落とした。見ていて気持ちが良くなるほどであった。
 そんな作業をしている際、ふとあるアイディアが浮かんできたのである。それは、その雨戸の鋼板に、「風通し」用の穴をあけてしまってはどうか、というものであった。電気ドリルならば大した作業ではないと思えた。
 しかも、その鋼板雨戸は、いわゆる「鎧戸」の形状をしていて、個々の傾斜部分の下側には目立たない水平部分が潜んでいる。その部分に穴をあけるのなら、パッと見は何もヘンだとは映らないと思えたのである。これはイケルと直感した。何も、「可動式ルーバー雨戸」なんぞという大仰なモノを迎え入れるまでもなく、このアイディアを施工すれば、夜風がそよそよと入ってくるではないか、と。

 急に、忙しく、そして気分に張りが出てきてしまったのだった。物置から必要な道具一式を取り出してくるは、十数個の穴の位置をマジックペンで記しをつけるは、そこにポンチでドリル刃向けのポイント溝を付けるは、そして、ジィージィーと手際良く電気ドリルで穴あけ作業を行うは、……と。
 こうした作業は、得意でない人にとってはただただ厄介で鬱陶しいものかもしれないが、自分なぞにとっては気分を爽快なものにしてくれる類なのであった。お陰で、身体中に染み渡っていた何とも冴えない気分が、一瞬、小気味良く解毒されたような感じとなったものであった…… (2007.07.05)


 ひと昔前にはあったが現在は失われたもの。いろいろとあろうかと思う。「人情」「同情」「共感」だと言いたい人もいるに違いない。まさにその通りだ。また、「ゆとり」「余裕」だと挙げる人もいよう。これも当を得ている。さらに、斜に構えて「希望」なんじゃないの、と吐き捨てるように言うことも外れてはいないかもしれない。

 眼を転じて、生活環境・自然環境で失われたものを挙げるのも意味がありそうだ。「原っぱ」とか「空き地」というような都会での「多目的空間」も消え失せた。だから、子どもたちの自由奔放な遊び場がなくなったことになるし、昆虫や小動物も都会には少なくなり過ぎた。
 都会における「空き地」とは、元来、本当の意味での「空き地」ではなかったはずだろう。まあ、「本当の意味での『空き地』」なぞあり得るはずがないものだが……。
 つまり、使用目的がはっきりしないだけのことであって、誰かの所有地に違いなかったわけだ。しかし、現在のように、「土地活用」云々とせっつく必要がなかったためか、長年放置されていたのであろう。
 大人であればいざ知らず、子どもたちにとっては、そんな「空き地」というのは、ちょうど地方における「入会地(いりあいち)」のように、誰のものでもない「共有の」空間といった思い込みがあったのかも知れない。
 この「共有の〜」という感覚もまた、消え失せてしまった大事なものなのかもしれない。大人にしたって、「空き地」があったり、整備もされずに手つかずの河川があったり、自然環境があったりした頃には、きっと「共有の〜」という生活感覚自体をどこかで息づかせていたのではなかろうか。この感覚もまた、現在の一目瞭然の所有権誇示環境によって消滅せざるを得ないものとなっているはずだ。

 何が言いたいのかと言えば、この「共有の〜」という感覚は、人間にとって消滅させてはいけない感覚ではないかと、ふと思うのである。人間を人間らしく生かすのが、まさにこの部分ではないかと思うからなのである。
 そもそも、人の命は誰のものでもないはずである。あえて言うならば、全人類「共有の〜」に属するのかもしれない。もちろん、人身売買をして憚らない輩たちが勝手に決め込むたくらみや、国家が徴兵して使い捨てにするという欺瞞は論外である。さらに、自分自身のものと錯覚して、自己処分(自殺)することだって越権行為だと言うべきなのかも知れぬ。まして、わけのわからない理屈をつけて他者の命を奪うのは、我が子であっても言語道断、支離滅裂ということになる。
 命を奪わずとも、たとえ我が子や身内の者であっても、暴力を振るうという今流行りのドメスティック・バイオレンスにしても、その行為の根底には、他者を所有するという感覚が濃厚だからなのではなかろうか。
 事ほど左様に、人間に対してまで、「共有の〜」という本来的感覚が失われて、根拠薄弱な「所有」感覚が支配的となっているのが、現在の「美しくない世界」の現実だと言うべきである。

 こうした「原理」的問題についてはさまざまに論じてもみたいが、ここでは一点のみ強調したい。
 それは、生活環境から「共有の〜」というものがパージ(追放)されることによって、人間の生活は益々貧弱なものに向かっているということなのである。どういうことかと言えば、いつの時代の人間にとっても、「ひとつのある条件」が必須だと思うわけだが、それまでが、取り外される時代というのは、自分で自分の首を締めることに似ていると考えるのである。
 では、「ひとつのある条件」とは何かと言えば、「人生、どう転んでも生きて行ける」という社会的可能性のことなのである。
 感覚的表現となってしまうが、「ひと昔前」には、この条件はアクティーブであったと認識している。端的に言ってしまうと、「共有の〜」という社会環境が温存されていたからであり、未発達な政治環境ではあっても、現在の口先だけの「セーフティ・ネット」論とは比較にならない「社会政策」(社会福祉制度)の位置づけが存在したかに思える。
 しかし、現時点の社会福祉制度は、「小さい政府」論という議論のすり替えによって、江戸時代の農民政策ではないが「絞れるだけ絞る」という機械的削減に向かってもいる。要するに、「人生、どう転んでも生きて行ける」という社会的タガを取っ払うことに邁進し始めたということになる。「格差社会」化した現実はその一側面なのであろう。
 こうした現在の動向が、市場原理至上主義・観念的競争原理・グローバリズム経済主義などの「現行主流傾向」による必然的結果であることは明白なことだ。

 「現行主流傾向」では、専ら、自助努力・自己責任・リスクテイキングな挑戦姿勢などの、よくよく考えてみれば「空虚な」スローガンによって檄が飛ばされていることがわかる。これらを「空虚な」と言うのは、自助努力・自己責任・リスクテイキングな挑戦姿勢のいずれもが、無前提では存立し得ない観念であるからだ。ではどんな「前提(社会的前提)」がなければならないか、と言えば、それが「人生、どう転んでも生きて行ける」という社会的可能性であり、そのための社会整備なのである。
 たとえば、この「現行主流傾向」を賛美する勢力とて、リスクテイキングな挑戦姿勢に裏づけられた競争を推進するためには、「セーフティ・ネット」なるものが必要だと口走ったはずである。どこまでどう実現されたかは不明であるが。
 つまり、人間社会の仕組み作りにあっては、どんな主義主張であれ、「共有の〜」であるとか、あるいは「セーフティ・ネット」であるとかの「麗しい大前提」がなくてはならないはずなのである。それがなければ、人間は恐怖心に足がすくんで自由な潜勢力を発揮することができないはずなのである。
 現在、この国、この社会に蔓延し始めている地獄絵図もどきの社会事象は、どう言い包めようがこの「現行主流傾向」というものが明るい論理的展望を持ち得ず、将棋で言えば詰んでいる! という誰だかの言い草と同じ状態に陥っていることを証左しているようだ…… (2007.07.06)


 「人のふり見て我がふり直せ」とは、欠点などのマイナス面についてのことわざだが、人間が自身を振り返る時に他人の姿が鏡のように役立つことを指している。
 確かに、このご時世では、人の欠点に気づかせてくれる鏡の存在には不自由しないというものだ。至るところに鏡が林立しているありさまである。
 が、逆に、真似てみたい立派な言動やら、感動させてくれるような清々しいふるまいが世間から消え失せつつあるのかもしれない。人の世に、人の心を鼓舞してくれるような光景が希少となってしまったのであろうか。

 最近、ペットブーム(どうも、もはやブームの域を越えていそうな気配もある……)の流れからか、TVでも動物番組が持てはやされているようだ。自分も、バカバカしい番組で不愉快になるよりもと思い、そんな番組を観ることがある。動物たちを下回るような魅力しかないようなタレントにつき合うよりはましかと思うからだ。
 そして、野生の動物たちの真摯な生きざまを見るにつけ、現在では、人の世の光景よりもそうした動物世界の虚飾なき光景の方が、人の心を動かすものかと、妙に感心したりするのである。

 今日も、あの「志村」が出演している某動物番組で、ちょっとした「感動ドキュメンタリー」を眼にした。
 山林を背景にしたとある公園で餌付けされている猿たちの生態であった。その群の中に、両手が不自由になった母猿とその子猿という親子猿がいた。母猿は、そうした身体のために、他の猿たちのように両手両足を駆使した歩行が出来ず、人間のように二足歩行を余儀なくされ、いかにも他の猿たちとの間に一線を引かれた様子である。
 公園管理側から餌が撒かれても、思うように確保できない様子である。それよりも、気の毒だと思えたのは、そうした身体の不自由さをつけ込んで、小猿たちがいじめにかかるのであった。これは、人の世と変わらない残酷さである。
 そして、その残酷さは、観る者に思わぬ動揺を与えるのであった。というのは、そうしたいじめに合う母猿は、何を思ってか、自身の子猿が「皆の前で」近寄って来ると、逃げるようにしてそれを拒絶するのであった。もちろん、子猿はそこにどんな意味があるのかわからず、母猿の後を追っかけ回すが、母猿は、どんどん逃げて裏山へと逃げ込んで行くのだ。背を丸めて前かがみでの二足歩行をするその後姿は、十分に哀感を刺激する。

 番組スタッフは、親子猿の後を追う。かなり山深くなったところで、しばしその親子たちを見失うが、やがて、木の上で子猿の声がして、その木の根元付近で、それを見上げる母猿の姿があった。母猿は、木上の子猿が我が子であることを認めるや、不自由な両手であるにもかかわらず、その木に這い登り、我が子の元へと駆け寄る。
 木の枝の上で、子猿は母猿に遮二無二しがみつく。母猿も不自由な手を存分に伸ばして子猿を抱くのであった。
 母猿の心には、ここならばこの子をどんなにかわいがってやっても大丈夫だと安心する気持ちがあったようである。母猿の脳裏には、「皆の前で」我が子をかわいがるならば、自分自身のみならずこの子までいじめられるに違いないという懸念があったようなのだ。「皆の前で」は、必死に我が子を遠ざけていた母猿の、その哀しく切ない配慮、そして子猿の無邪気な振る舞いが、観る者の涙腺をそこはかとなく刺激せずにはおかなかった。

 今や、動物たちの振る舞いの方が、「動物化」した人の世よりも人を感動させるようになってしまった…… (2007.07.07)


 ウォーキングをしていると、傍らを汗まみれで苦しそうな形相をしてジョギングをしている人をよく見かける。そこまですることもなかろうに、という醒めた目で眺めたりする。そうした人がどんな思惑で苦行をしているかは一目瞭然である。大体が、汗とともに脂肪を流し去ってしまいたいという願望がありありの、そんな体型の人が多いからだ。
 そんな人たちを見ると、「ムリ」をしているなあ、と思わずにはいられない。
 先ず、然るべき体型となった人が唐突にジョギングを始めると、膝などに過重な負荷をかけてしまい予想外の結果を招かないとも限らない。
 また、ジョギングで汗を流すことが減量に繋がると考えるのは、かなりの希望的観測、一人合点でしかなさそうなのである。減量の決め手は何と言っても「入りを制すること(=摂取カロリーの制限)」以外ではなく、大したことのないカロリー消費を行ってもあまり効果的ではない。むしろ、見た目多くの汗をかき、大変な運動をしたかの錯覚が生まれるため、その後の喉の渇きや空腹に対して甘やかし過ぎるリアクションとなりがちであり、却ってカロリー侵入を許すかもしれない。それでは、一体何をしているのかということになってしまう。

 聞いたふうなことを書いてしまった。他人事ではなく、すべてが自分の体験的教訓なのである。
 そんなこともあり、現在は、運動は減量目的というよりも体調整備や代謝量向上というような控え目な観点で行うようにしている。それで現在は、ウォーキングという地味なものに落ち着いている。継続という点では正解だという気がしている。
 だが、このところちょいと悩ましい問題に直面している。
 最近、はっきりと自覚できるほどに、筋肉痛が長く残存するのである。もちろん、原因はわかっている。もう二ヶ月近くになろうかと思うが、ウォーキングの運動量を増やそうと考え、足首にウエイトを付けて行ってきたのだ。ウォーキング中に苦痛であるような感触はいっさいなくなったのではあるが、足の筋肉への違和感と多少の痛みが意外としつこく残り続けるのである。
 そんなことを自覚し始めた当初は、「筋肉痛は運動によって治す」とばかりに、「二日酔いは迎え酒で治す」のごとく考えていた。多少、スポーツに顔を突っ込んだ自分は、筋肉というものがどう鍛えられるかを考えてこなかったわけではなかった。筋肉というものが増強されるためには、多少の痛みが伴う程度の負荷が継続的に掛かりつづけなければならない、という原理である。

 ただ、最近、判断が揺れるのは、自分の年齢での身体の筋肉というものが、発育盛りの若い世代の筋肉と同じように見なしていいものかどうか、という情けない不安が打ち消せないからなのである。まさに、笑い事ではなく「年寄りの冷や水」の弊害があるのなら、「ムリ」をすることはマズイ、と多少とも危惧するようになったのである。
 だが、こうした危惧はいかにも消極的であり、負け犬的でもある。
 話は変わるが、世の中の現象には、「あと一寸」というような泣くに泣けない残念な話がありそうでもある。この話は、金鉱探しのある者が、私財を投げ出し金鉱を掘り進み、在るに違いない、いや無いのかもしれない、という疑心暗鬼に苛まれながら、ついに気力が尽き果てて採掘を断念したという話である。ところが、後続の採掘者が、ツルハシを「一寸」掘り進めたところ、前の男が喉から手を出すほどに焦がれていた金鉱にぶつかったのだというどんでん返しの成り行きだったとか……。
 これに似たようなことは、誰しも経験しているのかもしれない。もはや諦めるしかないと思わされるような状況が何度も現れ、ようやく後ろ髪を引かれるような思いを断ち切ったところ、後続の挑戦者が難なくターゲットを獲得してしまうという皮肉な成り行きのことである。
 どうでもいい話のようでもあるが、今の自分は、現在の「筋肉痛」が、そのまま続いて最悪は何か想定外の身体の支障に行き着くのか、あるいは「あと一寸」の継続で筋肉自体が増強されて痛みや違和感を吹っ飛ばすのか、それがわからない……。
 こうした事態というのは、単に負荷をかけたウォーキングと「筋肉痛」との関係に止まらず、人生においては往々にして遭遇しがちな状況であるだけに、対処法に頭や勘を使うのもまんざら無益だとは思えないでいるのだ。
 さてさて、どうしたものか…… (2007.07.08)


 あるラジオ番組で、興味深い事実を聴いたことがあった。
 子どもたちの絵画における国際コンテストだかでの、北朝鮮の子どもたちの微妙な変化についてなのである。当初は、お国柄と言うべきか、彼らの描く絵はきわめて「政治色」が強いものであったという。何をもって「政治色」というのかは伝えられなかったが、大体想像はつく。北朝鮮発の報道内容に誇示されるようなものを子どもなりに題材としていたのではなかろうか。
 ところが、年を追うごとに、彼らが描く題材が、次第に友だちや家族、そして動物などという他の国の子どもたちが好んで描くような題材に移行してきた、というのである。おそらくは、そのコンテストが発行する入選作品集などを閲覧しているうちに、「そうか、こういうものを対象にしていいんだ!」と本来の願望を自覚するようになったのかもしれない。
 自分は、このニュースを聴いた時、こうした自然な流れが「厚い壁」に亀裂をもたらしていくのだろうな……、と感じたものであった。

 今日、以下のような記事が目についた。

<北朝鮮市民に変化、ラジオの封印破る・英誌エコノミスト
 7日付の英誌エコノミスト最新号は、平壌に住む複数の外国人の話として、北朝鮮の一般市民が禁煙表示のある場所で堂々とたばこを吸うなど「小さな規則を破るようになった」と指摘、人びとの「態度の変化」が目立ってきたと伝えた。
 同誌は (1) エスカレーターの手すりに腰をかける (2) 交通警官がいても、通行の妨げとなる場所で家財道具を売る (3) 国営放送の周波数に固定されたラジオの封印を破る――などの具体例を紹介し「かつて当局を恐れていた人びとが、今や無視している」と分析した。
 また数年前に比べ、当局の目を気にせず外国人と公然と会話しようとする市民が増えたほか、以前は聞かれなかった私設市場があちこちにできたことも変化の表れだと指摘。
 一方で犯罪が増加し、幹線道路で中国からの物資を輸送するトラックの荷台に飛び乗り、品物を奪う盗賊がいると訴える中国人運転手の話などを伝えている。(ワシントン=共同)>( NIKKEI NET 2007.07.09 )

 完全に封鎖されて、言論統制が敷かれた専制国家の内部において、その市民国民が一体どんな思いで生活しているのかは計り知れない。ただ、そうした極限的な環境が維持されているからこそ、外部から見れば異常だとしか見えない政治的・軍事的選択が行われ続けているのであろう。
 核兵器保有による周辺諸国への恫喝や、他国の主権を侵し人道的観点をかなぐり捨てた他国民の拉致事件、そして偽札濫造に、麻薬・覚せい剤の製造密売などなど、同国の市民国民がその客観的事実を知れば恥じ入るような悪行の数々も、支配層が隠し通しているからこその現実だと思われる。
 どこの市民国民も、その立場は、一国の国民である以上に、真っ当な優しい人間でありたいという思いを貫いているはずである。なぜならば、楽観的かもしれないが、人間の普遍的な生活構造というものは自然にそうした心境を生み出さざるを得ないと考えるからである。人間を狂わせるのは、人為的で悪意に満ちた強制的社会環境以外ではないと言い切りたい。

 しかし、人間社会というものは、良し悪しにかかわらず「パーフェクト・ワールド」であることは先ず不可能であろう。時として傲慢な為政者は、それを可能にしたと自負したがるのであるが、そう思うそのすぐ脇に、致命的な綻(ほころ)びの端緒が芽生えたりする。それを繕っても、またすぐ隣に別の綻びが生じ、やがてそれらは収拾しようもなく広がってゆく。この宿命は、人間が人間社会を形成しなければならない以上避けられないような気がする。
 北朝鮮の市民国民が、「厚い壁」の隙間からどう世界の客観的現実を垣間見、自分たちを洗脳し続けてきた為政者たちの虚偽を見破っていくのか、それをしっかりと見届けてゆきたいものである。
ひょっとしたら、気の毒でならない横田夫妻が最も信じられる趨勢というのが、実はこのことなのかもしれないとも思っている。政府間交渉というものは、これもまた良し悪しにかかわらず「武士は相身(あいみ)互い」に陥らないとは言えないものであり、必ずしも庶民の願望実現に向かうとは限らないからである。

 ところで、北朝鮮のこうした状況を知る時、今ひとつ関心を向けたい点は、自由主義の国と標榜されるこの日本という国が、果たして「言論統制」とは無縁な現実となっているのかどうか、なのである。
 もちろん、北朝鮮のようなスタイルと水準などと比較することに意味はない。より高度な言論統制とは、情報に蓋をするのではなく、情報の意味を取り違えさせる操作を含むものだと思われる。その役割りの一部をマス・メディアが買って出ているかに見える情けない状況にあっては、この国の市民国民もまた、真の現実からは、かなりほど遠いところへと追いやられているのではなかろうか…… (2007.07.09)


 昨夜は久々に迫真の夢を見ていた。トイレに起きる直前まで見ていた夢なので、その直後はかなり明瞭な印象であった。
 何か、論争をしていたようであり、そのテーマは定かには意識できなかったが、M.ウェーバー(ドイツの社会学者・経済学者。1864〜1920)が論じた思想に関係していたようなのである。ウェーバーの著書には、「経済と社会」、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、「職業としての学問」、「職業としての政治」などがあり、「官僚制」問題に関する著作も業績として良く知られている。
 起きたのが、まだ夜明け前であったため、あまり夢の内容を詮索していると引き続いて眠れなくなってしまう恐れがあったため、ほどほどにして眠ってしまった。そのため、夢の中の論争で何が紛糾していたのかは覚えていない。
 だが、経済と倫理の関係か、官僚制の問題か、そんなところであったのかもしれない。とすれば、まさに、この国の腐り切った社会問題の現状と符合し、ウェーバーが夢枕に立ったという観が無きにしもあらずなのである。

 「消えた年金」問題が国民的不安の対象となって久しいが、こともあろうに、今日のニュースでは次のようなものがあった。

<保険料横領、調査へ 「消えた年金」の一因か 検証委
 年金記録のずさんな管理問題の原因解明と責任追及を行う総務省の「年金記録問題検証委員会」(座長・松尾邦弘前検事総長)は10日、社会保険庁や市町村の職員が納付された保険料を着服・横領したことが「消えた年金」の一因になっている可能性があるとして、実態調査を実施する方針を固めた。元検事の弁護士や現職の検察事務官を同委員会に出向させ、職員らの聞き取り調査を行う。また、記録の入力ミスなどがどれだけあるかを把握するためのサンプル調査も実施。記録問題の全容解明に乗り出す。…… >( asahi.com 2007.07.10 )

 コンピュータ・システムおよびその設計の劣悪さが、直接的には主たる原因なのかと想定していた。もちろん、監督官庁や政府自体が、年金という重大な課題を軽んじていた姿勢が問題なのは当然であろう。いや、それが諸悪の根源にあって、年金問題を、地盤で言えば「液状化現象」のような惨憺たる事態に引き込んだと思われる。
 ところが、これらに加えてそのどさくさに紛れるかのごとく、あるいは火事場泥棒のごとく担当職員レベルでも不正が行われていたのではないか、と目され始めたのである。
 もう、こうなってくると、年金問題領域は完全に「液状化現象」にあると見なさざるを得ない。現代における無責任と不正の一大集積現場だと言ってもいい。
 そして、この事態の中に、現在の政治・行政領域における醜悪な問題の一切、一式が見事に「詰め合わせセット」になっていそうである。この時季であるから、お中元で美味しいものの「詰め合わせセット」を戴いたらありがたいが、人間の醜さとそれを許す公的制度の杜撰さの「詰め合わせセット」が曝け出されるのは、恥ずかしい限りである。
 おまけに、この恥ずかしさを、政治・行政を担う当事者たちがどこ吹く風のごとく受け止めているような気配のあることが、さらに事を悲惨なものにしている。

 人、個々人は、「先(将来)のこと」、「みんなの(公共的な)こと」については、ぞんざいな扱いをしがちだ、と見なされていそうだ。だから諸個人がそうだからこそ、社会をターゲットとする政治は、これを見越した上での方策を講じるべき立場にあろう。
 しかし、当該の年金問題を見る限り、政治自体が、「先(将来)のこと」、「みんなの(公共的な)こと」を率先垂範して軽んじ、踏み躙ってきたのだと認識せざるを得ない。
 これまでにも、年金基金の使われ方が問題視され、これらを牛耳ってきた官僚たちの過去の取り組み姿勢も批判の的になってきたはずだ。中には、公的文書の中で、どんなに浪費をしようが問題とはならないというようなことを嘯(うそぶ)く者もいたとも聞く。
 要するに、本来、政治に携わる者たちが担わなければならない「先(将来)のこと」、「みんなの(公共的な)こと」に対してまともなセンスを持ち得ていないということは、その任にふさわしくない、あるいは資格を欠如した者が大手を振って蠢いていたということであろう。
 そして、昨日今日のニュースでは、記録のない年金納付を承認する最後の判断基準は、申請者の「態度や人柄」だと言っている。もはや、開いた口が塞がらない。参院選挙前だから「大盤振舞」をしたい下心はわかるが、これじゃ、水戸黄門の時代劇さながらであろう。

 冒頭のM.ウェーバーに再度ご登場願うならば、ウェーバーが真摯な眼差しで危惧した人間社会における「倫理性」という問題が、現在のこの国には綺麗サッパリ抜け落ちてしまっているということになりそうである。
 オレがオレがの経済活動と、無責任体制を絵に描いたような官僚機構とが、それらの使いっ走りでしかない政治屋を操って、この国とこの社会とを焼け野原にしている、と言えば言い過ぎになるのであろうか。
 M.ウェーバーが夢枕に立ったのは、ひょっとしたらこの国のそんな現状を、髭をなでなで、苦々しく憂えてきたからなのかもしれない…… (2007.07.10)


 一頃、「自分探し」という言葉が流行った。要するに、自分とは何者なのかを探し当てようというのである。特に若い世代が愛好する言葉のようであった。
 こんな言葉に目を向けるのは、以下のような記事を目にしたからかもしれない。

<中田英寿さんがモナコ市民権を取得
 元サッカー日本代表の中田英寿さん(30)が、世界中の「セレブ」が住むことで有名なモナコに自宅を構え、同国の市民権を取得したことがわかった。
 中田さんは06年W杯ドイツ大会を最後に現役を引退した後、世界中を旅している。最近はリスボンや香港で行われた慈善試合に出場した。
 特定の拠点を持たない浪人生活を1年ほど送ってきたが、各界の著名人と国際的な交友関係があるだけに、拠点にするならモナコが一番と考えたとか。しかし、関係者によると「自分探しの旅」はまだ続くよう。>( asahi.com 2007.07.11 )

 さすがに「セレブ」は優雅なものだと感心するとともに、こうしたシチュエーションでの「自分探し」とやらは首尾よく展開するのだろうか、と余計なことまで考えた……。

 確か、養老孟司氏が、この「自分探し」とやらに対して批判的なことを書いていたかと記憶している。どこかに個性的な自分が潜んでいるに違いないとして「自分探し」をするのは、悪くはないけれど、かと言ってあまり意味があることではなかろう、と同氏特有の脳科学的視点で書いていたようだ。
 決して、人間個々人の個性というものを否定していたのではなく、自分という、言ってみれば「観念」の集合体は、往々にして自分の外にある一般的な知識・情報などの観念を寄せ集めたものであって、そこに「個性」と言えるような特殊なものはなかろう、と淡々と述べていたようであった。「自分」というものを「個性的な考え方」を持つ存在というふうに思い込みがちなものだが、気が触れてでもいない限り、「個性的な考え方」なぞというものはありようがない、と述べていたようだ……。
 そして、同氏は、もし個人に「個性」があるとすれば、それは脳の中の観念にあるのではなく、個々人が必然的に備えた肉体的個性の側に根拠があるのだろうと指摘していたようである。

 脳科学的視点からのとらえ方はともかく、わたしも、自分という存在は、探すようなものではなかろうという気がしている。まして、「自分らしさ」とか「自分自身」とかというものが、自身の内部に潜んでいて、何かのきっかけで姿を現すというような「お伽噺」的構造は、やはり考えにくい。
 簡単に言えば、自分の正体というのは、高々、「統合失調」症を阻止している神経や脳の諸機能のことに過ぎないのかもしれない。そして、それらによって記憶などの脳内部の観念群や身体の諸機能とその習性などをコントロールしている「忙しい管理人」以外ではないとも言えそうな気がする。個人の「意思」というような、西欧的個人主義に基づく個人イメージというのは、どうも時代が生み出した仮想的なものであるような気がしないでもない。
 自分というものを自覚することに意味があるとするならば、生きてきた、あるいは生きている環境に働きかけた、あるいは働きかける自身の行動や、その経験などの集積体としての自身というものではなかろうか。つまり、周囲の、あるいは過去の(自然や社会という)環境との関係行為で形成してきた部分のことである。
 こう書いていても、この辺の問題については、まだまだこなれていないな、という感触が否めない。要するに、よくわからない、ということだ。
 ただ、無為に、あるいは脳で考えることだけで「自分」を探そうというのはいかにも堂々巡りであるし、また虚しいことなのだろうとは推定する。
 人間の眼が外側に向いて「装備」されていることが暗示しているように、自身の外、環境をこそジックリと観察したり、あるいは行動によって関係性を強めたりすることが重要なのだろう。そして、そうしたプロセスで、自然に自身の内側に堆積していくもの、それが自分というものの実体なのかもしれない…… (2007.07.11)


 今朝、朝食時に観ていたTV番組のとある事件は、この時代を反映した何とも言いようのない悲しいものであった。
 ある地方の蕎麦屋さんに、深夜、59歳の男が侵入し、調理場に入り込み、自分で蕎麦をゆでたり汁をあしらったり、トッピングをのせたりして食べていたというのだ。その男は、二週間何も食べておらず空腹の絶頂で蕎麦が食べたくてしかたがなかった、という。空腹さが急かせたのか、蕎麦は半ゆで状態であったとか……。

 自分は、こうした「ひもじさ」に苦しむ話にはどういうものか弱い。ただただ「可哀想!」と共感してしまうのだ。しかも、この窃盗犯は、自分と同い年であるから妙に同情してしまうのかもしれぬ。
 その店に金銭などが皆無だったとは考えにくい。それらが視野に入らず、調理場の冷蔵庫の生蕎麦を物色したというのだから、その男を襲っていた飢餓状態の「もの凄さ」が単刀直入に伝わってくる。そして、絶食をしなければならない病人でもなかろうに、そこまでの極限状態に追い込むこの時代の非人間的な社会環境自体が「もの凄い!」と思えたのである。

 こうした事件を、特殊なケースと見捨てることも十分に可能であろう。いくらでもほかに凌(しの)ぎ方はあったはずだろうに、とつぶやきながら……。
 ただ、彼にとってはそれしかなかった、というのもまた事実なのである。別にこの窃盗犯を積極的に弁護しようというつもりはないのだが、彼が抱えてしまっていたさまざまな環境条件が、結局、この事件を引き起こさせてしまったという事実を、あまり蔑ろにすべきではないような気がするのである。
 職がなく、カネがなく、そして友人・知人もいない孤立した状況にあったとするならば、どうすれば良かったのだろうか。確かに、これらの不幸な状態の原因が彼自身の生きざまに根ざしていなかったなぞとは想像しにくい。
 しかし、そんな状態の人々であっても、犯罪に手を染めることなくそこそこ生きてこられたいろいろな寛大さが存在したのがこの国のこの社会ではなかったのだろうか。犯罪を見逃すという寛大さではなく、こうした自暴自棄なヤケッパチに至らせない社会環境のことなのである。
 それらが無くなってしまい、周囲の人間に対する無関心と、自分のことは自分で責任を持つべきだと切って捨てたようなものの見方(それをオオソライズしたのがかの「自己責任スローガン」であったのかもしれない)が、孤立した彼に二週間の「断食」を強いたことになるのかもしれない。そしてその流れで、犯罪行為が発生してしまったのか……。

 こう書くと、当然、非難があろうかと推定する。こうした発想では、個人側の努力や責任の必要さが曖昧となり、逆に社会側の責任ばかりが浮上してしまう。社会側の財政難の折に、社会負担ばかりが増大してしまうではないか……、と。
 しかし、それでいいではないか。本当に必要なものを満たして負担が増えるというのならしかたないことではないか。たとえば、現状の地球は CO2 が過剰だからといって、人間に不可欠な呼吸で CO2 を吐き出すことに制限を加えよう、というバカを言う者はいるだろうか。当然、不要不急な CO2 排出に目を向け、それを制限させるという常識的発想を採るはずである。
 ちなみに、真実必要な財政負担をして、その代わりに、不必要な浪費支出を徹底的に排した経緯なぞ、この国の財政史の過去にあったのか。そうではなかったはずで、支出額の上位を浪費めいた項目で埋め切った後で、財政難だ財政難だと騒いでいるのが、従来および現状なのではないのか。税金のムダ使いに帰結するあらゆる不祥事を野放しにしておいて、国民生活の不安除去に関する財源にだけは財政難のナンクセをつけるのはあまりにもみっともないではないか。
 こうした、議論の前提的事実(何が原因で財政難となったのかなどの事実)を手前勝手に設定して、「だから、しょうがない」という論法を押し通そうとするのが、保守勢力の常套手段なのであろうか。ここにメスを入れて行かなければ、すべての議論は、既成事実の追認でしかなくなってしまうのだろう。

 書きたいことはほかにも多々ある。が、エンドレスになってしまうので、これが現在の「情けない国」の実態以外ではないことを淡々と示した記事を以下に引用して閉じることにする……

<日記に「おにぎり食べたい」 生活保護「辞退」男性死亡
 北九州市小倉北区の独り暮らしの男性(52)が自宅で亡くなり、死後約1カ月たったとみられる状態で10日に見つかった。男性は昨年末から一時、生活保護を受けていたが、4月に「受給廃止」となっていた。市によると、福祉事務所の勧めで男性が「働きます」と受給の辞退届を出した。だが、男性が残していた日記には、そうした対応への不満がつづられ、6月上旬の日付で「おにぎり食べたい」などと空腹や窮状を訴える言葉も残されていたという。

[男性が孤独死した自宅。玄関や壁、屋根の一部は破れ、電気、ガス、水道は来ていなかった=11日、北九州市小倉北区で]

 市などによると、10日、男性宅の異変に気づいた住民らから小倉北福祉事務所を通じて福岡県警小倉北署に通報があり、駆けつけた署員が部屋の中で、一部ミイラ化した遺体を発見した。目立った外傷はなく、事件の可能性は低いという。11日にも解剖して死因を調べる。
 男性は肝臓を害し、治療のために病院に通っていた。市によると、昨年12月7日、福祉事務所に「病気で働けない」と生活保護を申請。事務所からは「働けるが、手持ち金がなく、生活も窮迫している」と判断され、同月26日から生活保護を受けることになった。
 だが、今春、事務所が病気の調査をしたうえで男性と面談し、「そろそろ働いてはどうか」などと勧めた。これに対し男性は「では、働きます」と応じ、生活保護の辞退届を提出。この結果、受給は4月10日付で打ち切られた。この対応について男性は日記に「働けないのに働けと言われた」などと記していたという。
 ところが、その後も男性は働いていない様子だった。1カ月ほど前に男性に会った周辺の住民によると、男性はやせ細って、「肝硬変になり、内臓にも潰瘍(かいよう)が見つかってつらい」と話していたという。
 同市保護課の三崎利彦課長は「辞退届は本人が自発的に出したもの。亡くなったことは非常に残念」と話している。
 同市では05年1月、八幡東区で、介護保険の要介護認定を受けていた独り暮らしの男性(当時68)が生活保護を認められずに孤独死していた。06年5月には門司区で身体障害者の男性(当時56)がミイラ化した遺体で見つかった。この男性は2回にわたって生活保護を求めたが、申請書すらもらえなかった。
 こうした市の対応への批判が高まり、市は今年5月、法律家や有識者らによる生活保護行政の検証委員会を設置し、改善策を検討している。>( asahi.com 2007.07.11 )

…… (2007.07.12)


 この連休の頃が「時季」だと目されていたのに、生憎と「台風4号」が荒れ狂うようで実に間が悪いことだと気の毒に思える。
 市内、薬師池公園の「大賀ハスの開花」のことなのである。市の広報でも、この中旬が開花時季だろうと予想されていた。
 以前にも、写真撮影をしたことがあるのだが、どういうわけかハスの開花は、夜明け頃の早朝である。まだ朝もやが垂れ込めた、緑の葉一色のハス田に、濃いピンクのハスの花が咲く光景は、実に爽やかで、また味わい深い雰囲気となる。
 昨今の自分は、日頃ろくな心境ではないため、この連休には早起きでもして目の保養に向かおうかと目論んでいたのであった。それなのに、選りにも選って早々と到来する大型台風の通過最中になりそうだという。
 久々にジックリとカメラを構えてという目論見が叶わなくなるのは、残念は残念である。だが、そうした個人的楽しみはさておいて、「大賀ハス」たち自体が気の毒だと言うべきである。
 もし、強い風雨にもかかわらず蕾を開くならば、たちまち花弁が散らされてしまうに違いなかろう。年に一度の貴重な営為が、惨憺たる結果に終わってしまうからだ。
 しかし、無粋な相手(台風)もまた自然現象であるのだから、何とも皮肉としか言いようがないか。ただ、こんな時季に大型台風を発生させる天候異常を作り出したのは、温暖化異常を併発させている人間だとする考え方もある。とすれば、ここでもまた、自然現象に「敵対的」となっている人間の醜悪さを感じてしまう。
 自然現象が、偶発的に何らかの不具合や不幸を生み出してしまうことは起こり得る。

 ところで、きわめて些細な出来事であるが、今朝、自分はそんな光景に遭遇した。
 外猫たちに餌をやろうと表に出ると、その一匹のクロが、小屋の上でクシュンクシュンとくしゃみを続けていたのである。で、良く眺めると、なんと鼻の穴の右側に細い草の葉を差していたのである。それはまるで、誰かにいたずらされて差し込まれたようにも見えた。が、ともかく、不愉快そうにしている状態を取り除いてやらなければならない。それに手を伸ばして引っ張り出してやろうとしたが、本人は、それがむず痒くて、顔を背け、そればかりか、大きなくしゃみをして鼻水を撒き散らかすありさまであった。
 が、そのままにしておいて、猫自身がそれを取り除くということは考えられなかった。そこで、猫の身体を掴んで小屋の屋根から降ろし、身体を抑えつつ、その糸状の草の葉を引き抜いたのだ。4センチくらいの長さの草の葉が、鼻の奥まで入り込んでいたのであった。どうしてそんなことになってしまったのかはわからない。草の葉を食べている際に吸い込んでしまい、慌ててしまってさらに吸い込み、そして自分では取れないという悲惨なことになってしまったのであろうか……。
 不愉快なものが除去されたクロは安心したように、餌皿に顔を突っ込んでくるのであった。
 どうということもない出来事であったが、猫という自然存在に生じた突発的不具合を、人間ならではの処置によって修復してあげたのだと勝手に解釈したものであった。

 人間は、そうしたケースをこそコントロールするという形で自然現象に向かうべきなのであろう。いや、大袈裟に言えば人類の長い歴史では、そうして来たのだと思う。
 自然開発などという大仰なことではなくて、どちらかと言えば「控え目」ながらの自然への働きかけや制御が、人間と自然の双方に益をもたらしてきたのだと思える。イメージ的に言えば、いわゆる「里山」ということになろうか。その発展形態が、農業・水産業・林業などの第一次産業分野となっていったのであろう。
 しかしながら、工業化文明が登りつめて以降、人間は自然に対して、「控え目」どころか、どうも「敵対的」とも言わなければならない姿勢に変わってしまったのかもしれない。自然風景に対する「都市」空間が拡大するに至り、「敵対的」という傾向は、直接的な「敵対」へと変貌したようにも見受けられる。

 人間のご都合主義と「自然破壊」という、ありきたりなテーマについてまたまた書いてしまった。それというのも、地球温暖化現象という愁眉かつ緊急性の高い問題のほかにも、現代人の「病的な」症状の少なくない部分がこの点と無関係ではなさそうに見えるからでもある。
 現代人の「病的な」症状にはいろいろなものが挙げられそうだが、やはり、最も深刻なものは、事件の件数もうなぎ上りだと言われる「幼児虐待」であるのかもしれない。「幼児」とは、人間へのプロセスを歩む「自然存在」以外ではなく、自然を理解できない人にとっては、適切な対処が不可能な存在なのかもしれない。
 情報化時代が深まる現在、暗黙裡に自然というものに「敵対」したり、無視したりしながら、情報化空間(仮想空間を含む)が拡大している。都市空間で生きる者たちにとっては、生活環境の99%が「反」自然環境だと言っても言い過ぎではないのだろう。
 結局、自然を「敵視」することは、人間の何か貴重なものを「敵視」することにつながり、「病的な」症状を誘い出すことになるのであろうか…… (2007.07.13)


 昨夜は何故だか寝付きが悪かった。どうでも良いことをいろいろと思い起こすうちに、頭が妙に興奮気味となっていたようだ。
 よく、冴え冴えとするという表現があるが、そんなふうならば読書でもするかという気にもなるが、そうでもなかった。ヘンな表現だが、肩が凝るように、頭が凝るとでもいうような状態だったのかと思う。
 再度入浴をして気分を変えようかとも思ったりしたが、それも面倒だと思ったりしているうちにどうにか寝付いた。

 そうした寝付き方をしたせいかどうか、またまた奇妙な夢を見ることとなった。
 夢の事だから、それがどこで、いつのことだかは判然としない。また、いくつかの事柄が今でも思い出せる一方、文脈というかストーリーのようなものが見当たらないのである。
 大体、夢というものはそうしたものであるのかもしれない。いわばエピソードや場面がそれぞれ独立しているようでもあり、それらが、因果関係なぞ考えられないような唐突な流れで現れてくるごときである。
 だから、昨夜の夢もいくつかの要素を思い出すことはできるのだが、それらがどのような前後関係や因果関係で現れたのかが、推測さえできないのである。自分の見た夢を他人に伝えることが結構難しいのは、夢というもののそういう性格から来ているのかもしれない。
 人が何かを考えたり、それをほかの人に伝えたりする時には、もちろん通常の思考方法によって行うはずだ。そして、通常の思考方法とはいろいろと説明できるだろうとは思うが、その最も大きな特徴は因果関係に準拠するという点ではないかと思っている。
 つまり、脳内で生じるイメージや観念を、因果関係という視点で整理したり、関係づけ合ったりしながら何かまとまった形へと形成していく作業、それが考えるという行為ではないのかと想像するのである。
 現実のさまざまな事柄を、人は、多面的で脈絡のないバラバラなものとして受け容れることをせずに、因果関係という視点で整序して、何らかのまとまりある姿で受け容れるというスタイルを採っているように思う。
 少なくとも、大人はそうしていそうである。ただ、子どもの場合は、たとえ「バラバラ」状態であろうが、個々の事柄をあるがままに受け容れているかのようである。子どもたちの記憶が、あたかもある場面を写真に撮ったかのように、個々のモノや事柄をモザイクのように並列して構成されているというのは、個々の事柄間の(因果)関係にこだわることをしないからなのではないかと思える。彼らが書く絵における、個々の要素の大小関係が「バラバラ」であることも、それを裏付けていそうである。

 ところが、大人の場合も、夢の中では子どものような脳活動を行っているのかもしれない。つまり、覚醒時のように、物事に因果関係の視点を持ち込まずに、いろいろな事柄を「バラバラ」状態で思い浮かべるような気がする。
 これが、夢というものが明瞭なストーリーを持たない根拠なのではないかと想像するのである。
 昨夜の夢も、つらつら思い起こすと、まさにその通りであったようだ。
 いくつかの要素として思い出せるものを列記してみると次のようになる。@ 揺れるエレベーター、A 他社の事務所を訪問すると、その事務所は、とあるフロアーに舞台設定であるように壁が無い状態で設けられていたこと、B その外装が見たことのないデザインである「バス」、C その「バス」が空を飛び、滑るように川面を進む。そして、そこから川面にこっけいな光景が見える、D 大空を舞うコウノトリたちと、その中におかしな鳥がいたこと……。
 @ は、何度も見ていている。上層へと階が上がるとその揺れは尋常ではなくなり、立ってはいられないほどに揺れるのだ。恐怖感が伴うものであった。
 A は、何だかよくわからないものである。
 B は、自分がどこだかに行こうとしてバスを待っていたようだ。
 C は、その「バス」の最前席に座って前方を眺めていたようだったが、気がつくと、川の上を飛行していた。その上おかしなことに、誰かが、釣りざおのようなもので川面をパシャパシャと打っていた。何をしているのかと眼を川面に向けると、大きな魚の背びれが水上に現れてゆらゆらしている。どうもそれを威嚇するためにそんなことをしているようであった……。
 D は、実に綺麗な光景なのだ。その群の中に、まるで和凧の役者絵のような和装をした役者姿が見える。見間違いかと思ったが、そうではなく、コウノトリが面を被り、袖に翼を通して和服をまとっているのだ。なーんだ、そうだったのか、と納得していたところが夢の夢としての不思議なところであった……。
 とまあ、こうして、因果関係の視点それ自体であるような文章というもので夢を表してみると、何とも狂気じみた違和感が浮上してくるものである。「シャガール」などの現代絵画は、人間が夢を見るという脳活動をも兼ね行う存在だと見なせば、実に納得のできる表現手法だと思えてくる。
 それにしても、夢という脳生理現象とは不思議なものである…… (2007.07.14)


 このところ「機嫌が悪い」ような話題ばかりを書いている気がする。「釈然としないこと」が多過ぎるのだろう。
 「釈然としないこと」という感覚を、マンガ的なイメージにたとえるならば、相手の姿が皆目見えない暗闇で、ボカボカと連打されている図だと言えば、当を得ているかもしれない。手出しをしている相手の姿が歴然としているならば、まだ、「憤怒」の感覚にリアリティもあり、対処のしようもあるわけだが、狡猾にも尻尾を出さずに事をなしているそのやり口が、言いようのない不快感を呼び覚ます、とでも言おうか。
 先日、次のような新聞報道が目についたが、自分の感覚が裏付けられたような気がしたものであった。

<30代はキレやすい? 暴行事件が増加、10代の3倍に
 暴行事件の「主役」の座を30代が少年に取って代わっている――。そんな傾向が12日、今年上半期の刑法犯に関する警察庁のまとめでわかった。暴行容疑で逮捕・書類送検された30代は2543人(前年同期比13%増)で、10代の782人(同6%増)の3倍に上り、この10年間で5倍余に増えている。
 …………
 このうち、10代の逮捕・書類送検は01年上半期の1023人をピークに減少傾向が続いているが、20代以上の成人が毎年増加。とりわけ30代は03年以降、それまで年代別で最多だった10代と逆転し、10年間の増え幅も他の年代と比べて大きかった。
 動機別では、全体の8割余を占めた「憤怒」の増加ぶりが、面識のある相手などに恨みを募らせる「怨恨(えんこん)」などと比べて目立つ。凶器を使った暴行が減る一方で、素手も増えており、同庁は「計画的というよりは、交通トラブルなど、街頭で行き会った人にカッとなり、暴行に至る大人が増えている」とみている。>( asahi.com 2007.07.13 )

 最も注目したのは、<「憤怒」の増加ぶりが、面識のある相手などに恨みを募らせる「怨恨(えんこん)」などと比べて目立つ>という点である。ここに、問題のシャープな姿が浮かび上がっていると思える。
 現在の30代に関して考えようとする際に反射的に想起する点は次のような点であろう。第一に、変化する職場環境の中で、多大な残業を強いられて厳しい業務を支えているという点である。大リストラで中高年職員層が取っ払わられて責任が委譲された一方で、若い部下たちは使いものにならないほど頼りなく、自身が責任を担いつつ現場作業も遂行せざるを得ないという、かなり割に合わない立場に置かれているという実情である。
 また、この世代は、いわゆる「就職氷河期」に遭遇した世代を含んでおり、職についている者の絶対数も少なく、それだけ大きな負荷を背負わされていそうである。
 また、就職にあぶれた者たちは、フリーターその他の劣悪な職業環境にあり、そうした者たちもまた、わけのわからないマイナスの社会的負荷を背負わされてしまっているようだ。

 要するに、現在の30代は、言ってみれば社会的な「貧乏くじ」を引かされた世代なのかもしれない。そして、その社会的「貧乏くじ」が生まれた理由は、決して偶然というよりも、社会と時代とが、「グローバリゼーションや構造改革路線」へと大きく舵を切った動向そのものだったと認識すべきである。
 この「グローバリゼーションや構造改革路線」は、昨今ようやく度外れた「格差社会」を到来させ、「弱肉強食」社会を導いた一大原因と見なされ、冷ややかな視線を浴び始めてもいる。だが、当初は、政府によって鳴り物入りで喧伝され、マス・メディアや有識者などエスタブリッシュメントがこぞって後押しをした動向であったはずだ。
 そして、一般庶民も、「グローバリゼーションや構造改革路線」とは「良いことに違いない」と信じ込まされたり、あるいは世界の趨勢として避けることができない動向だと思わされてきたようだ。その際、「景気回復」という「錦の御旗」が掲げられていたことはよく知られている。

 だから、この動向によって「割を喰う」者たちは、ちょうど「錦の御旗」を横取りされてしまった旧幕府軍さながら、何か正統ではないような座りの悪い立場を強いられた観がつきまとうのではなかろうか。
 この点に関しては、反・郵政改革派がパージされたり、反・構造改革路線派が「守旧派」だと決めつけられたりした経緯を思い出しても了解できるところだ。まあ、この辺は微妙な部分もあるわけだが、この「グローバリゼーションや構造改革路線」によって度外れた「格差社会」の底辺へと追いやられた者たち、あるいは追いやられつつある者たちは、その憤懣やるかたない思いに、大いに処しかねているはずである。
 それというのも、この「グローバリゼーションや構造改革路線」が、あたかも「錦の御旗」のような「景気回復」という「国民的合意」らしき傾向に異を唱えることとなってしまうからである。しかし、昨今多くの人々が認識し始めているように、今現れているかもしれない「景気回復」とは、社会の「勝ち組」大企業層にとってのそれでしかなく、それとて危うい程度のものでしかないわけだ。
 かつて、まさしく「国民的合意」であった「景気回復」とは、国民全階層にあまねく波及した景気動向のことであったが、見事に似て非なるものに「すりかえられて」しまったというのが実態なのであろう。

 さて、「30代」問題に戻ると、この「30代」もまた、「景気回復」に加えて、「実力」とか「競争」とかという、言葉の上では異をはさみにくい「錦の御旗」によって、日常的「憤懣」を処しかねているに違いないと思われる。そうだからこそ、そうした「憤懣」は累積して、「憤怒」という危険水域にまで亢進してしまうのではなかろうか。
 わたしは、善良な人々にこうした「憤怒」の心境を強いる社会は、根本的に間違っているし、かつきわめて危険だと思っている。
 そして、最大最悪の原因は、社会的環境の事実認識を大きく歪めつつ、それでいて「羊頭狗肉」的な綺麗事でカモフラージュを施す姑息で狡猾なスタイルではないかと感じる。これが、ますます「憤怒」の心境を強いられた人々に救いようのない苦痛を増大させるに違いないからだ…… (2007.07.15)


 この二、三日が台風の影響で荒れた天候だったからか、台風一過の今日は、昆虫などのいろいろな生きものたちが羽を伸ばしている気配だ。気のせいかもしれないが、そんな昆虫たちをしばしば見かけた。
 朝、玄関のドアに2センチほどのカナブン(?)がしがみついていた。黒と緑のメタリック色のボディは、どことなく「高価」なようにも見える。小さな男の子にでも見せたら喜ぶのだろうな、などと思いながら指で挟んで植木の方に移動させてやることにした。アルミの扉なぞ何がおもしろいのか知らないが、結構、しっかりとしがみついていて引き離すのに多少指先の力を必要とした。

 気圧が低くなる台風通過と、こうした昆虫の生態とが何か関係があるのだろうか。その後で、ウォーキングがてらに向かった薬師池の植物園でも同じような昆虫を見かけたのである。そのほか、トンボや蝶も頻繁に見かけることとなった。
 ついでに言えば、この三、四日、家の外のどこからかは判然としなかったが、何と、カエルの鳴き声まで聞こえていた。クェクェクェと、かなり朗々とした鳴き声であり、一体どこの水溜りで生まれたのかと首をかしげてしまった。こんな住宅地で、古池らしきものもどこにも見当たらない地形だから、さぞかし今後は住み辛い思いをすることだろうと気の毒に思えたりした。
 そう言えば、昔、名古屋で古い民家に住むはめとなった時、毎年、梅雨時になると台所の土間の片隅からグェグェグェとガマガエルの鳴き声がしたものであった。脅かすのは可哀想だと思ったが、とにかく一度は正体を見てやろうと待ち構えていたら、やはり十センチほどの立派なガマガエルなのであった。われわれ以前に、そこに棲みついて家の主となっていた模様であった。その後はそっとしておき、時々鳴き声を耳にしたものだった。

 台風と生きものと言えば、ちょうど開花の時季に季節はずれの台風を迎えることとなった薬師池の大賀ハスのことが気になっていた。台風一過には、ちょいと様子を見に行こうと考えていたので、今朝のウォーキングは、少し足を伸ばして出向いたのであった。
 台風一過といっても、今回は、青空が覗くわけでもなく、冴えない曇天である。この辺が、秋ではない梅雨時の台風の仕業なのであろうか。
 ハス田には、それなりの人が出ていた。昆虫だけではなく、人々も、三連休の二日を台風で台無しにされたため、ウズウズしていたのかもしれない。
 それで、気になっていたハス田を眺めると、葉に傷みは何も見受けられなかった。今が盛りと生い茂った大きなハスの葉は、ハス田をびっしりと埋めていた。
 と、その時、繁茂する緑の葉の波間の所々に、ピンクのハスの蕾が見えてきたのである。それらは、天に向かう「弾丸」のように堅牢な姿であった。弾丸と言うのが物騒であれば、信仰心のある方の「合掌」の姿と言ってもいい。台風による多少強い横風でもたじろがない強さのようであった。しかも、台風が関東地方を通過したのは、昨日の夕方4時くらいであったはずだから、その時には、開花状態にはなく、この「合掌」状態であったのだろう。よかったよかったと胸を撫で下ろす気分であった。
 せっかくだからと、その蕾らの毅然とした「合掌」の姿をデジカメに収めることにした。ハスの開花が早朝だということを知ってか知らずか、何人かの日曜カメラマンたちがわたしと同様にカメラを向けていた。

 薬師池には、これまた台風一過を喜ぶように、鯉だの亀だの、カルガモだの、アヒルだのと生きものたちが、総勢ではしゃぎ回り、またそれを見て子どもたちもきゃっきゃっとはしゃぎ回っていた。公園内は、ベンチはもちろんのこと、入ってはいけないとの表示のある芝生領域にまで立ち入って家族連れが台風一過の休日を堪能していた…… (2007.07.16)


 自然現象とはいうものの、政府は恥ずかしくないのか。幾たび、悲惨な地震災害を繰り返せば本腰を入れて抜本対策を打つつもりなのか。マヌケなブッシュと戦争ごっこをするために憲法改悪でエネルギーを消費するくらいなら、地震大国のこの国の宿命と本気で闘うための真っ当な政治をやるべきだろう。
 それとも、国民の生命・安全と財産を守る義務がある国・政府は、自然現象による災害に関しては、民間保険会社同様に「免責」だとでも言いたいのだろうか。ならば税金を取り過ぎはしないか。やってることが、市場原理の道理にも合わなくていけない。

 <今回も、お年寄りらが家屋の倒壊で亡くなった。高齢化と過疎に悩む地方の地震の怖さが改めて浮かび上がった>( 2007.07.17 asahi.com 社説 )と報じられている。
 先ず、<地震の恐さが改めて浮かび上がった>なんぞと、的外れなことを書いていてはいけない。大地震が恐いのは当たり前だ。あえて「恐さ」を表明するならば、「無策な政治」にこそ目を向けるべきではないのか。日頃、ここでも書いているように、こうしたマス・メディアの能天気な洞察が社会問題をこじらせるのであろう。
 <お年寄りらが家屋の倒壊で亡くなった>と指摘しておきながら、その事実は、<恐い>自然現象としての<地震>がもたらしたものだから、「しょうがない」とでも言うのであろうか。自分の親だと思って考えよ。
 80歳を超える高齢者は、好き好んで過疎地の古い木造家屋に独居しているわけではなかろう。そういう選択しかあり得ない時代・社会環境が、「姥捨て山」のように強制していたのだと見なすのは間違っていようか。
 ここには、地域経済や地方自治行政を軽んじ、蔑ろにする、そんな中央政治の基本政策の非人道性が色濃く反映していると思わざるを得ない。

 ところで、今、新潟の被災地では、一万何千人もの被災者が地域の小中学校などの「避難所」に駆け込んでいるという。気の毒なことだと同情を禁じえないが、今ひとつ懸念することは、こうした「避難所」自体が本当に安全なのかという点なのである。
 それというのも、下記のような事実がすでに報じられていたからである。

<小中校4328棟「地震で倒壊」 耐震性、使用禁止相当
 全国の公立小中学校の校舎や体育館のうち、4328棟が「大規模な地震で倒壊、崩壊する危険性が高い」ことが8日、文部科学省の調査でわかった。本格的な耐震診断を済ませた1万9343棟の22.4%にあたり、同省は「極めて深刻な実態」として、耐震診断の徹底や学校ごとの結果の公表、補強・改築を全国の教育委員会に改めて求めている。……>( asahi.com 2007.06.08 )

 これでは、地震「難民」が生まれたり、二次災害が発生したりしないとも限らない。とても、文明国の水準だとは思えない話である。政治の貧困、歪んだ政治の実態がストレートに反映されているようだ。
 確か、東京都の場合も半分ほどが危険性をはらむ実情だったかに思う。オリンピック誘致なんぞに現を抜かしている場合かと思える。

 しかし、この程度で驚いていてはいけないようだ。現政府の心根はもっと腐り切っているようだからである。
 そう言えば、例の「耐震強度偽装」問題はどんなふうに抜本的解決を見たのだろうか。この辺にもまたマス・メディアのいい加減さがよく表れている。この問題は、決して「アネハ」何とかの建築士個人の問題なんぞではないはずである。地震国日本にとって愁眉の問題である建築「耐震強度」基準に関する根深い問題が横たわっているはずだからである。
 以前にも書いた覚えがあるが、この問題に関して現政府は、国民の生命と安全を守る義務を真っ向から裏切っているからなのである。
 あの「阪神・淡路大震災」が発生して6千人を超える死者を出したのは1995年であった。国民は、二度とこのような悲惨なことが起こらないようにと祈ったものだ。
 そして、それから3年後の1998年に、政府は建築基準法を全面的に改正した。誰もが、「阪神・淡路大震災」の悲惨さを踏まえての、安全性に対する前向きな改正だと想像した。それが常識感覚であろう。
 ところが、安全性基準については逆に「緩和」した基準が制定されたというのだから、驚きなのである。詳しくは、関岡英之著『拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』(文春新書 2004.04.20)を参照すべきだが、要するに、政府は、かねてより米国政府より圧力(『年次改革要望書』!)の掛かっていた日本の建築基準法改正を、さも「阪神・淡路大震災」再発への対策のごとく、国民を欺き敢行したというのである。

<日本の「仕様規定」は、古くから伝わる大工さんたちの優れた匠の技に支えられた、高度で精妙な木造建築の伝統工法を前提としているため、建築方法の異なる外国の基準とは非常に異なっている。特に、近年アメリカから入ってきたツー・バイ・フォーなどは釘をガンガン打ち付けるだけの素人でもできる単純な工法なので、熟練した技術を前提とする日本の建築基準では受け入れがたいのだ。
 「仕様規定」を「性能規定」に変更するということは、建築の建て方そのものを変えてしまうことによって、日本古来の匠の技を不要にし、外国の工法や建材がどっと日本に入ってくる道を開くこと以外の何物でもない。また、地震が多い日本の建築基準は、海外の基準や国際規格より厳しくなっている。日本の基準を海外に合わせるということは、日本の基準を「必要最低限」まで緩和する、というに等しいのである。>(前記関岡著より)
 これもまた、グローバリゼーション=構造改革路線のおかしなことの好例なのであり、国民自身の生命と安全よりも、日本の建築関係需要に外資を参入させること、米国資本に儲けるチャンスを与えることが優先されたということになるはずである。
 いろいろな屁理屈をつけ、まやかしを行ってまで、どうしてこのような売国奴のような筋書きを書くのかが、わたしにはわからない。きっと、国民の多くもこの経緯を知るならば、まさに「憤怒」の虜となるのだろうが、マス・メディアは、上記の米国からの『年次改革要望書』についてはタブー視している。まさに、松本清張による戦後史秘話的事実が、今なおアクティーブなのにはただただ驚くばかりである。
 こんなことが密かに行われてしまっているがゆえに、現在のこの国の地震災害は決して自然現象ではあり得ないと考えざるを得ないわけなのである。事実は小説より奇なり…… (2007.07.17)


 現在、デスクワークでは、ブラウザを通したインターネット情報を扱うことが大半を占めている。したがって、ブラウザ上のテキストやコンテンツをさまざまなかたちで「Copy & Paste(コピーと貼り付け)」することで、情報整理・加工をしている。
 この日誌でも、新聞社サイトのニュースをしばしば引用しているが、その際には、ブラウザのテキスト部分を「 Copy 」して、この日誌を作成しているテキスト・エディター(ソフト)上に「 Paste 」しているわけである。一々、再入力をしていたのでは入力ミスも発生するだろうし、第一、手間が掛かり過ぎるというものだ。
 新聞社サイトのニュースに目を通す際に、自分は、気に掛かるニュースをあらかじめテキスト・エディターに「 Copy 」して保存しているのである。そして、必要な時にそれを再利用しているわけなのである。
 同じようなことは、他の仕事面でも行っている。まさに、今や、ネットのサイト上情報を不可欠な情報源とし、またそれを種々のかたちで活用することに努めているわけだ。

 すると、こうしたサイト上の情報を収集することと、これを再活用するという段取りの作業が結構バカにならない作業量となる。テキスト部分の場合には、マウスで当該部分を選択・反転表示させて「 Copy 」し、それをテキスト・エディターに「 Paste 」する。それはバカチョン作業だとしても、これをファイルとして保存するには、ファイル名をつけたり、保存先を指定したりと、結構手間が掛かる。かといって、これをぞんざいに済ますと、いざ再活用をする際にどこに保存したかとか、ファイル名が何であったとか迷ってしまい、手間取ることになるのである。というわけで、内心、この辺の作業がもっとラクにできないかと思案していたのだった。
 きっと、こんな思案の仕方は自分だけではなく、ネット上の情報を最大限活用したいと望むユーザーの共通したニーズではないかと思っていた。

 やはり、こうしたニーズは、どうも一般的なものであったようなのである。というのは、この種のニーズを充たすソフトが存在したのである。
 自分は、時々、フリー・ソフトとか、シェアウェア・ソフトとかの新作紹介のサイトを覗くことにしている。思わぬ掘り出し物があったりするからである。
 自分の情報関連作業において、こんなものがあれば便利なのだがなあ、と日頃感じてきたものに近いソフトを見つけた時には、結構うれしいものである。昨今は、シェアウェア・ソフトであっても、また正規販売ソフトであっても、「お試し版」がダウンロードできたりするため、先ずは試用してみるのである。それで、使い勝手が良いものであれば、購入手続を進めるわけだ。

 今回、上記の作業ニーズに見合ったソフトを偶然見つけるに至った。
 それは、「紙copi」「紙copi Lite」( http://www.kamilabo.jp/copi/feature_diff.html )と銘打たれたソフトであり、その着眼点も良ければ、作りにも丁寧さが窺えた。要するにそのソフトとは、上述したようなニーズを充たすものなのであるが、言ってみれば、誰でもがその昔一度は経験したことがあるはずの新聞・雑誌からの「スクラップ」作業のデジタル版だと考えればいい。
 新聞・雑誌がウェブ・ブラウザに換わり、ハサミがマウスに置き換えられたと思えばわかりやすい。その上、「スクラップ」作業には、「スクラップ・ブック」という整理手段がないといけないが、それに換わって便利そうな「ファイル・フォルダー」が設定されている。ファイル名も、選択した記事の先頭の文章から自動生成されるので、手間が省けるというものだ。
 また、よし、購入しようと決めさせた機能は、保存されたデータ( HTML スクリプト)が、これまた簡便なマウス操作でレイアウト編集まで可能という点であった。これは、ソース・データを最大限に活用したいと望む者にとっては結構ありがたいものであろう。
 今ひとつ望むとすれば、「 HTML 」コンテンツにマウスのみで「マーカ」機能を施すこともできればベストであるが、これは「テキスト」コンテンツに限られるようだ。実は、この願望は以前から抱いていたのだが、ウェブ・サイトを閲覧しながら、マウスで「マーカ」機能を自由に施し、またそのまま印刷できるというものである。まあ、いずれ登場してくるのではなかろうか。

 自分が、このソフトが「優れもの」だと思えたのは、現代のニーズにピッタリと焦点を合わせていると思えたからなのである。ウェブ時代にあっては、「 Google 」ほかが着眼した「検索」機能が最右翼(サーバーサイド)の極だとすれば、最左翼の極(ローカルPCサイド)には、ユーザーがウェブ上のデータを保存および再加工しやすくするための「補助」機能というものがあっていい、いやなければならないと思うのである。
 また、ソフト開発会社側の人間としては、決して派手ではなくとも、埋もれがちでありながらユーザーのニーズや立場に立ち切った、そんなソフトこそが、「優れもの」ソフトなのだと評価したいのである…… (2007.07.18)


 今日に限ったことではないが、ニュース報道に接すると今さらのように「ウソがまかり通る時代」という危うさを感じる。
 ことわざに、「無理が通れば、道理引っ込む」という言葉がある。むしろ、「ウソが通れば、道理引っ込む」とでも言わざるを得ないようだ。
 ただ、ウソをつく者がいれば、それを暴く者もいるのがこの世だ。しかし、暴かれたウソは氷山の一角なのかもしれないという「現代的猜疑心」を身につけておく必要もありそうな気がする。
 以下、ウソをめぐるニュースを「連チャン」で引用しておく。

< 判決宣告の瞬間、村上ファンド前代表の村上世彰(よしあき)被告(47)はぼうぜんと立ちつくした。東京地裁は19日、「もの言う株主」として証券取引市場を騒がせた村上前代表に実刑判決を言い渡した。「徹底した利益至上主義には慄然(りつぜん)とする」「不合理な弁解に終始し、反省は皆無」――。「プロ中のプロ」を自任した前代表は、裁判長が浴びせる厳しい言葉を目を閉じて聴いた。
……
 逮捕直前の記者会見でインサイダー情報について「聞いちゃったのだから仕方がない」などと説明した村上前代表。たまたま居合わせたかのような態度に、判決は容赦ない言葉をぶつけた。
 「できる限りファンドの利益を上げるという戦略の一環として、自らライブドアを勧誘してその気にさせた。買い集めると『聞いちゃった』のではなく、買い集めると『言わせた』ともいえるのである」
 村上ファンドのありようにも判決は言及する。
 「『もの言う株主』として社会の耳目を集める一方、裏では犯罪を犯していた」「ファンドなのだから、安ければ買うし、高ければ売るのは当たり前と被告は言うが、このような徹底した利益至上主義には慄然とせざるを得ない」……>( asahi.com 2007/07/19 )
 株価の操作ほどに、法的環境の操作は簡単ではなないでしょうよ……

<「段ボール肉まんは捏造」 北京テレビが謝罪
 中国・新華社系のインターネットニュース「新華網」などによると、北京市内の露店が溶かした段ボールをひき肉に練り込んで「偽肉まん」を作っていたと報道した北京テレビは18日夜、この報道について「捏造(ねつぞう)だった」と謝罪した。北京市公安局が、報道にかかわったテレビ局の外部スタッフの身柄を拘束して取り調べている。
 問題の放送は今月、北京市内の露店が豚肉と、水酸化ナトリウムに溶かして黒っぽく変色させた段ボールを4対6の割合で混ぜ、香料を足して偽肉まんを作っている様子を隠し撮りのような形で放映したもの。国内外のメディアに取り上げられ、反響を呼んだ。
 しかし、市公安局の調べによれば、実際にはテレビ局の外部スタッフが自ら持ってきた段ボール片を出稼ぎ労働者4人に渡し、豚のひき肉と混ぜるよう指示。その様子を家庭用ビデオカメラで撮影していた。
 北京テレビは「事実でない放送を流した結果、社会に重大な悪影響を与えたことをおわびします。今後管理をより強化し、虚偽報道を根絶する」と謝罪した。……>( asahi.com 2007/07/19 )

 これでもまだ裏の裏があるっていう感じがしないでもないなあ……。現在、中国のマス・メディア界が危うい状況にある事情は、NHKの『激流中国 ある雑誌編集部 60日の攻防( 2007/04/02 )』でも紹介されたところだ。

< 新潟県中越沖地震の影響で、東京電力柏崎刈羽原発で放射能を含んだ水が海に流れ込んだり、火災が発生したりした問題は、海外でも大きな関心を呼んでいる。多くの原発を抱える欧米では、日本の原発の安全性や隠蔽(いんぺい)体質を厳しく批判するメディアの論調に加え、自国内の原発の安全性をめぐる議論にまで発展している。
 104基の原発を抱える世界最大の原発大国・米国にとって、今回の事故はひとごとではない。ワシントン・ポスト紙は柏崎刈羽原発について、米国にも多数(35基)ある沸騰水型だと指摘した。
 同紙はさらに、放射能を含んだ水があふれた使用済み核燃料プールについて「地震で損傷したのではないか」などとする専門家の意見を掲載。また、「専門家は東電の説明を受け入れることに慎重だ。日本の原発業界はトラブルを隠蔽してきた歴史がある」と、厳しい論調で伝えた。
 ニューヨーク・タイムズ紙も本紙や電子版で「東電は当初、放射能漏れはなかったと説明していた」「(放射能を含んだ水が海に流れ込んだ)報告が遅れた理由の説明がなかった」などと批判した。……>( asahi.com 2007/07/19 )

 原発、核汚染というグローバルな問題だけに、海外も歯に衣を着せない表現をするのであろう。海外勢による<日本の原発業界はトラブルを隠蔽してきた歴史がある>という批判的な認識は、日本政府への批判でもあることを自覚すべきだと思える……

 奇しくも、原発事故に絡むウソが明るみに出たわけだが、これは、ウソというものが現代では人間界にとって致命的な問題になりかねないというシビァな事実を物語っているのだと思える。
 しかし、現代という情報化時代では、それもウソの範疇だと言うべき「仮想(空間)」事象も飛躍的に増大しているため紛らわしい。また、情報流通過程も複雑化しているため一層厄介な実情もある。そして、最も厄介な点は、人間の良心というものが、経済原理の前で風化しつつあるということなのであろうか…… (2007.07.19)


 最近、どういうわけか再び『菜根譚(さいこんたん)』(中国・明時代末、洪自誠(洪応明)による随筆集)に関心を寄せている。
 どんなに科学技術が飛躍しようとも、人が人の世に生きる悩ましさは何も変化していないと感じているからなのかもしれない。そして、この『菜根譚』はその点に関して実に真摯に、かつ用心深く立ち向かっているように思えるからである。
 IT環境が飛躍的に発展したからといって、人が人の世に生きる上でのさまざまな悩ましい課題が解消されるわけがない。いや、むしろ、IT環境が進めていることは、「そうした課題はなかったことにしよう」とイージーに決めつけているだけなのかもしれないのだ。だから、そうした課題に立ち向かうはずの能力は、現代人にとっては鍛えられることがなくてひ弱なものと成り果て、いわばエア・ポケットのようになっているのかもしれない。

 話の間口を広げ過ぎると、収拾がつかなくなりそうなのでテーマを絞ることにする。
 情報化時代の現代は、情報の商品化ということもあり、とにかく「話題性」というものを偏重する。日々のマス・メディアの立ち振る舞いを見ていればわかることだ。そして、そのための「材料」が血眼で探索され、また捏造までされるに至る。
 その材料やターゲットの多くはモノとしての商品であるが、何某かの情報商品としての人物だということにもなる。さまざまな分野の著名人、そしてタレントなどがそれであろう。彼らにしても、「著名」であることが、自身の「商品価値」を高めることになる文脈を睨み、マス・メディアとの関係を大いに歓迎することになる。だから、マス・メディアから「材料視」されることに迎合したりもする。
 こんな例を出すまでもなく、現代という市場経済社会、商品流通社会では、モノにせよ人にせよ、人々に周知されることが大前提となった社会だと言うべきであろう。
 だから、モノの宣伝はもちろんのこと、人の売り込みや宣伝にも多大なコストが掛けられる。さらに、個人の「自己アピール」という行為が、就職・採用という経済関係だけでなく、どんな人間関係においても重要なのだと信じ込まれてもいる。それが、現代人のアクションにとって不可欠な積極性だと見なされている。ここなのである、今日のテーマは。

 確かに、「自己アピール」的アクションは、現代社会で生きる者にとっては、不可欠な「処世術」であるに違いなかろう。
 ただ、振り返ってみると、この日本という社会にあっては、この「自己アピール」的アクションは外来文化のひとつであり、古来から根づいていたものではなかった。こんなことを書いていると、今さら、何を年寄り染みたことを……、と言われそうだ。だが、それを承知で書こうとしている。
 かつてのこの社会では、謙虚であることが重要な美徳とされ、またことわざで言えば、「能ある鷹は爪隠す」とされてきたわけだ。そして、そこにはそれなりの根拠があったと思われる。しかし、まさに隔世の感ありである。

 この辺の変化を一度はじっくりと吟味してみたいと思ってきた。だが、今日は、人(日本の現代人)は、果たしてこうした環境変化を、上手く処理できているのか、という視点でのみ考えたい。あまり上手く対処できてはいないように思うし、上手いと誤認すること自体が危ないと考えているのだが……。
 それで、『菜根譚』なのである。以下のような比較的知られた叙述がある。要するに、「能ある鷹は爪隠す」という意味だと言っていい。

<君子の心事は、天青く日白く、人をして知らざるしむるべからず。君子の才華は、玉つつみ珠(たま)蔵(かく)し、人をして知り易(やす)からしむるべからず。(立派な人物であるための心構え二つ――。心のなかには、誰から見てもそれとわかるように、いつも明白にさせておく。持てる才能は、容易に外から伺い知ることのできないように、奥深く秘めておく。)>(守屋洋著『[決定版]菜根譚』)

 注目したいのは、なぜ「爪隠す」ことが良いのか、という点となろう。守屋洋氏の解説では次のようになっている。

<才能は深く内に秘めて外に現さないことをよしとする考え方は、どちらかと言えば、道家のそれである。老子も、「君子は成徳ありて容貌愚なるが若(ごと)し」と語っている。洪自誠も、本書でしばしばこの考え方に触れている。では、才能を外に表さないのが、なぜよしとされるのか。そのほうが、厳しい現実を生きていくうえで身の破滅を招く危険が少ないからである。>(同上より)

 『菜根譚』は、中国・明の時代におけるひとつの「処世術」を表したものだとも評されているが、<そのほうが、厳しい現実を生きていくうえで身の破滅を招く危険が少ないからである>とは、その時代の「処世術」的意味合いだとも読み取れる。
 だが、この「処世術」は当世でも十分に通用しそうではなかろうか。と言うよりも、当世の方が、<身の破滅を招く危険>の度合いは増幅されているかに思えたりする。
 現代の病的なマス・メディアの「話題性」偏重傾向は、常に「ヒーロー」を作りたがる一方、他方ではそのヒーローの「堕ちた偶像」ぶりまでも「材料視」したがるからなのである。この仕打ちにまつわる「危険」を、「自己アピール」万歳派たちは、一体どの程度警戒しているのだろうか…… (2007.07.20)


 今朝のあるTV番組で、寺島実郎氏がもっともな発言をしていた。例の「村上ファンド」事件への判決に関してである。
 「村上氏は『カネ儲けは悪いことですか?』と言われたが、何のため、という視点が一貫して抜け落ちている。『育てる』資本主義ではなくて、『売り抜ける』資本主義なんですよね……」
 まさにその通りだと思える。村上氏にとつての「カネ儲け」とは、何のためでもなくいわば「カネ儲け」のための「カネ儲け」だということになるのだろう。確かに、株式の買占めにおいては、「経営権」だの、当該企業の「収益性向上」だのという看板は掲げる。しかし、抜き差しならぬ知恵を働かせたり、汗にまみれて経営を行うことなど念頭にはなかろう。株式投資家の大多数が、投資先企業の実業への関心よりも、投資効率の良さだけに関心を向けることと何ら変わらず、その延長線上でただ大規模なバクチをしていただけのことであろう。要するに、買占めた株式をより高く「売り抜ける」ことが最大関心事だったはずである。そして、そのバクチのリスクを下げるために、一般投資家の知らない(インサイダー)情報を違法に入手するというただならぬ一線を踏み越えたということなのであろう。

 しかし、「何のため」という健全な目的が見失われ、「カネ儲け」が自己目的化するようになってしまうと、いっさいの歯止めが掛かりにくくなるというのが実情なのかもしれぬ。ルールなぞはあって無きがごとし、であり、高値で『売り抜ける』ために、さまざまなリスキーな場を『切り抜ける』ことだけがすべてとなってしまうものかもしれない。
 当人にとっては、社会的制裁としての「追徴金」でさえ、せいぜい「マイナス収益」と置き直されているに過ぎないということも想定されないではない。
 つまり、「カネ儲け」という尺度だけが絶対視されるようになると、人道的課題は言うに及ばず、法的尺度さえそこに含まれているはずの倫理性なぞはサッパリと脱色されて、「追徴金」も一般の売買契約履行と同様に、「払えばいいんでしょ、払えば!」という程度の重みしか持ち得なくなるのではなかろうか、ということなのである。
 インサイダー情報をもって取引をしてはならないというような「禁じ手」が、何ら抑止力を持たなくなってしまったのであろう、この種の人たちにとっては……。
 記者会見でのあの言い草ほどこれを如実に物語るものはなかった。確か、「聞いたと言えば、聞いちゃったんですよね……」とかぬけぬけとほざいていたはずだ。(こうした現代風潮を踏まえた上での「罪刑」比重が再検討されてよいのかもしれぬ。)

 ところで、危惧すべきことは、こうしたファンドのような「カネ儲け」至上主義が、ファンドというような特殊な組織に限定されることなく、世間一般の風潮となりつつあるという事態なのであろう。
 もう一度、再確認するならば、<『育てる』資本主義ではなくて、『売り抜ける』資本主義>へと変貌してしまった現代経済の堕落が、時代の通低音となっているということになろうか。
 熱意と手間ひまを掛けて成果を生み出し、そして報酬を得るという、当たり前のシーケンシャル(手続き)が、まさに台無しにされようとしているのが現代のこの状況だと思われる。
 他愛無い話で言えば、「手柄横取り」というハラの立つヤツがいるものである。つまり、コツコツと努力をして成果を刈り取ろうとしている者の脇からひょいと現れて、その成果をさも自分のものであるかのような顔をして利得を得る輩のことである。
 翻って考えれば、現代という危うい時代は、この「手柄横取り」がいかに上手にできるかを競い合う時代だと言うことができるのかもしれない…… (2007.07.21)


 「粗雑さ」や「手抜き」に遭遇すると腹立たしい気分となるものだ。
 子どもの図工作品のように、精一杯挑んでなおかつ拙さが拭いきれないのは、むしろほほえましくもあるが、大の大人が、しかもしっかりと対価を取るプロが職業的ジャンルで拙さをさらけ出すのは許し難い。
 昨今は、こうした文脈で唖然とするような事故が多発している。さまざまな業務プロセスでの問題が指摘されようが、包括的に言うならば一点に尽きそうである。
 つまり、生産者やサービス提供側が、消費者やユーザの立場に立つという当たり前の姿勢から、収益追求という経営的立場に汲々とし始めていること、それが基本的な誤算だと思える。コスト・ダウン競争という風潮の中で、削れるものは何でも削るという闇雲なやり方が浅ましい。

 一体、こうした傾向はどこで、何によって歯止めが掛けられるのであろうか。本来は、言うまでもなく、良識ある経営サイドにおいてセルフ・チェックされなければならないはずだ。
 しかし、このセルフ・チェック体制そのものが蝕まれていそうな、コスト・ダウン競争や経営優先主義が問題だと思える。
 では、こうした雪崩的現象の最後の歯止めは、何によってまかなわれるかという点なのである。端的に言ってしまうと、被害者となり得る消費者やユーザ自身が「きちんと抗議する」ということではないかと考えている。

 今日、自分は、誰かの言葉ではないが「もの言う消費者」の役割を演じることになった。大した商品でもなかったが、その商品から窺がえたメーカの製造工程における「粗雑さ」や「手抜き」の度合いに腹立たしい気分となり、「徹底抗戦」すべし、という気分に火がついてしまったのである。
 モノは、スニーカーである。旺盛なウォーキングのため、スニーカーは定期的に購入している。その「不良」スニーカーは、名だたるゴム製品メーカのものであり、決して高級なものではないが、さりとて「イチキュッパ」というような「安かろう悪かろう」製品の部類でもなかった。毎日のことなので、やはり快適さを期待したのであった。
 そのスニーカーが、信じられない「粗雑さ」を露わにしたのは、履き始めて3〜4回目の今日なのであった。出掛ける時に、何となく靴底が擦れるような感触があったので不思議に思い、靴底を確かめてみると、何と、スニーカーにとっては本命とも言うべきゴムの「滑り止め」複数個が剥がれそうになっていたのであった。買ったばかりなのに、ヤレヤレという不愉快な気分となってしまった。しかし、まあ、工業製品には当たり外れという現象がありがちなのを知る自分は、その時は、自分で修理するしかないと殊勝な思いでいた。だから、ウォーキングの帰路にホームセンターに寄って「ゴム製品接着剤」まで購入したのであった。
 ところが、こうした殊勝な心掛けである「自力救済」の姿勢に「火を付けた」のは、帰宅した時のことであった。ヤレヤレ、余計な手間を掛けさせるシューズだ、とそれを脱いだあと靴底を見るや、な、なんと、ゴム製の「滑り止め」ピースの半数が取れて無くなっていたのである。唖然としてしまった。靴底の半分が、かつらを外した禿頭のようにのっぺりとした部分を曝け出していたからである。
 もうこうなると、「殊勝な心掛け」という気分ではいられなくなってしまった。この大手メーカと「刺し違えてでも」、この「粗雑さ」というか「手抜き」というか、消費者をコケにしたやり口を糾弾してやる、ウーム……、ぶるぶるぶる(武者震い)……。
 身体の汗を拭いたり、水を補給したり、顔を洗ったりしているうちに、やっとのことで気分は鎮まってきたので、自分は、そのスニーカーを購入した量販店に電話をした。
 自分は事情を話し、「メーカにクレームを言いたい!」と口走っていた。その商品を取り替えてほしいとか、返品とかという段取りをすっ飛ばして、そう述べていたようである。
「クレームは、直接メーカに対してということですか? 返金処理の上、当店からということではいけませんか? 」という電話対応者の常識的なセリフを耳にした。
 それが通常だろうな、と納得もしていた。何せ、自分の脳裏には、こんなペロペロと簡単に剥がれる「滑り止め」ピースを貼り付けるという製造設計をするメーカのいい加減さへの「憤怒」しかなかったようだ。そのメーカの設計者にそれをぶつけたかったに違いない。
「あなたは、靴底の軋轢強度という力学をホントに研究したのですか? 接着剤の接着強度を過信しているのではないですか? 確かに、今時の接着事情というのはね、ひっぱってもむしっても取れない植毛やかつらがありますよ。だけどね、同じ『滑り止め』は『滑り止め』でもかつらと靴底では軋轢の激しさが違うんじゃないですか? 」

 自分は、結局、量販店まで当該のスニーカーを持ち込むというご足労の上、返金をしてもらい、別のメーカのものを新たに購入した。とともに、メーカ側から、当該製品の点検結果やその釈明に関する電話連絡を入れてもらうということで矛を収めることにしたのであった。
 こうした一連のアクションは、見方によっては「ゴネている」ようにも見えないでもないが、決してそんなつもりはない。消費者やユーザの立場よりも経営合理化と収益向上にしか眼が向かなくなってしまったかのような風潮に対して、断固として抗議したいというそれだけのことなのである。そうでなければ、現在の雪崩現象的な悪しき風潮は止まないように思えるからだ。
 ちなみに、当該スニーカーの発売元は某ブランドではあるが、片隅に「 Made in China 」とあったのが妙に気になった…… (2007.07.22)


 バカな政府を持つと、もはや、損をするとか不幸になるとかという水準ではなく、とてつもなく悲惨なことになり得ると覚悟しなければならないようだ。
 今回の杜撰な年金問題で、ようやくそのことのリアリティが国民の間にも自覚されつつあるのかもしれない。
 ただし、参院選挙の結果が国民を舐め切った現政権に多少の打撃を与え、心を入れ替えさせるキッカケを提供したとしても、国民の目の前にうずたかく積もった難問が取り除かれる道程はまだまだ長すぎるようだ。長期にわたって心得違いの政治を仕出かしてきたその結果は、想像以上に問題をこじらせているようだからだ。
 「教育は百年の計」と言われてきたが、人々にとって重要な課題への取り組みは、教育に限らず「百年」に匹敵するような長期間を要するものであろう。年金問題自体がそうであったが、少子高齢化という社会的趨勢に対しても、言ってみれば何十年も前から予測できた問題なのだから、聡明な長期政策を実施する可能性が存在したはずであろう。決して突然発生した問題なんぞではないわけだ。
 また、国家財政の問題にしたって、財政赤字が増大したのは、ここ一、二年のことではない。これまた何十年も前からその趨勢把握が可能だったはずであり、したがってその是正策を講じることにしても時間的ゆとりはたっぷり存在したはずなのである。
 にもかかわらず、時の政府の問題先送り体質と、私利私欲を野放しにし、自らもそれに奔走するような政治集団によって政治が喰いものにされてきたことによって、事態は加速度的に悪化してきたと思われる。
 人の健康状態で言うならば、自然治癒力を阻害するような悪い生活習慣を放置、助長し続けた結果、複合的な成人病に陥ってしまったようなものなのかもしれない。
 人の身体においても、悪い体質ができあがってしまうと、それが是正されるためには悪化し続けてきたのと同程度の時間を要するようである。
 こんなことを考えると、今、あちこちで予想されている今回の選挙での「与野党逆転劇」程度で胸を撫で下ろしていてはいけない。そんなことは、ニ、三周遅れのトップランナーのようなものであり、どうやってその遅れを取り戻すのかに目を向けるべきなのだろう。

 こうした視点に立たなければならない根拠は、これまでの「素人政治、埒外政治」が撒き散らかし、積み残してきた課題が、ほぼ確実に「危険水域」と呼ばなければならないほどに悪化してしまっているからである。それらはひとつやふたつの課題ではなく、ほぼ全分野にわたっているのではなかろうか。
 未だに先が見えない国内需要の低迷に窺える経済・景気問題、戦争と平和の問題(外交問題)、地震国ならではの環境安全問題、原発問題に象徴される安全なエネルギー問題、そして階層格差や都市と地域との間の格差問題などなど、かねてより政府が責任をもって知恵を絞らなければならない課題は、ほぼ何ひとつとして明るい展望に至っていない。これがビジネスジャンルの出来事であれば、その経営者はとっくに株主たちによってお払い箱とされていておかしくないであろう。

 われわれ国民の目の前には、さまざまな難問が無造作に投げ出されているわけだが、そのひとつの深刻な問題としては次のようなものがあろう。

<介護職員、最低40万人の増員必要・厚労省推計
 厚生労働省は、団塊世代の高齢化に伴う介護ニーズを賄うには、2014年までに介護職員などを40万―60万人増やす必要があるとの推計をまとめた。現状に比べ介護サービス従事者が4―6割増となる計算だ。ただ介護職員は離職率が高く、人材難が深刻。労働力人口が年々減るなかで人員を確保するには、外国人労働者の受け入れ拡大も含む抜本策が必要との指摘も出ている。
 要介護や要支援と認定されて介護保険サービスを受けている高齢者は、04年度時点で約410万人。厚労省の試算によると、団塊の世代が65歳以上になる14年度の要介護者は現状より大幅に増加。高齢者を対象に05年から始めた筋力トレーニングなど介護予防事業の効果があった場合で600万人に、効果がなければ640万人まで増える見通しを立てている。>( NIKKEI NET 2007.07.23 )

 年金問題でほとんど「致命的」なミスを犯してしまった厚生労働省ならではの「遅れた」推計発表である。昼前に頼んだ蕎麦屋への注文の品が、午後三時過ぎに届くようなバカバカしさと言うべきか。
 しかし、ここに至れば、頼みにならない無能な役人機構のみをあてにする猶予すらないかのような気がしてならない。
 ちなみに、団塊世代の小さくない社会貢献のひとつに、自力救済的健康管理というものが挙げられそうである。
 健康増進のために「お遍路」さんでもすべきなのだろうか。と言っても、四国八十八箇所ではなくて、「喝!」と、シュプレヒコールを上げながら、ぶったるんだ政府系組織八十八箇所を回るというのはどうだろう…… (2007.07.23)


 昼休みにとあるショップを覗い際、懐かしい曲が店内放送で流されていた。
 吉田拓郎作詞作曲(1971年[S.46])の『夏休み』という曲である。

(1) 麦藁帽子は もう消えた
  田んぼの蛙は もう消えた
  それでも待ってる 夏休み

(2) 姉さん先生 もう居ない
  きれいな先生 もう居ない
  それでも待ってる 夏休み

(3) 絵日記つけてた 夏休み
  花火を買ってた 夏休み
  指折り待ってた 夏休み

4) 畑のトンボは どこ行った
  あの時逃がして あげたのに
  一人で待ってた 夏休み

(5) スイカを食べてた 夏休み
  水まきしたっけ 夏休み
  ひまわり 夕立 蝉(セミ)の声

 昨日と打って変わって今日は、まさにこんな曲が良く合う天候である。雲ひとつ無く陽射しが強い。だが、やや風が吹き、湿度はさほど高くなさそうなので、日陰に入ると案外過ごしやすい。
 子どもの頃の夏休みが始まったのも、ちょうどこんな天候だったのかもしれないな、と記憶を辿っていた。そんな時に上記の曲を耳にしたのである。取って付けたほどにベストマッチングした店内放送であった。
 この曲を懐かしがる年齢層と言えば、1971年にヒットしたわけだから36年前であり、その当時に10代より上だとすれば40〜50代となりそうだ。そうした「管理職」クラスの年齢の者が、量販店の店内放送のための選曲担当というのはちょっと考えにくい気もする。
 まあ、音楽好きな若い世代なら、ちょいと古いフォーク・ソングに足を伸ばしていたとしても不思議ではなかろう。いや、実はもっと「イージー」な選曲であったのかもしれない。昨日から、学校は夏休みに入ったことだし、その雰囲気を出したいと考えた「選曲担当」が、何かそんな曲はないかと思案し、その挙句「Google」あたりに「夏休み」とキーワード入力をしたのもしれない。すると、吉田拓郎作詞作曲(1971年[S.46])『夏休み』が、検索されて出てきたというわけだったりして……。

 (しかし、これをやってみると、吉田拓郎の夏休みは夏休みでも、「フィーバー吉田拓郎の夏休みがいっぱい」という、なんじゃろ? と思わされるものがヒットしてきた。そこで、気になってそいつを追っかけてみると、何とそれは、とあるパチンコメーカによる「2005年発表機種」のひとつなのだった。「今年の夏、拓郎さんと一緒に思い出の場所に帰ろう」と、当該ウェブページの新機種紹介には謳われてある。なるほど、40〜50代の年齢層とは、ある意味でパチンコ世代でもあり、こういうふうにして世代情報とビジネス企画とが交差するものなのかと、ついでに合点したのであった。が、自分もパチンコには比較的造詣が深い方なのであるが、甚だ勉強不足にして存じ上げなかった次第である……)

 それにしても今日の「夏日和」は、子どもでなくとも「夏休み」がほしい、海が恋しい、森林が恋しい、清流が恋しいと切望させるような、そんな雰囲気に満ちていそうである。自然を謳歌せよとのメッセージのごとく受け止めた。
 ただし、世知辛い現実の時流は、そんな呑気なことを感じている場合ではなさそうで、「国民の生活が第一」だの、「確かな野党」だの、はたまた「政界再編」だのと緊迫の度を強めていそうだ。
 だからこそ、子ども時代の「夏休み」という別世界! 別天地! が懐かしくてならないのだろうか…… (2007.07.24)


 犬というのは、吠えるから番犬として評価されているのだろうが、何に対して吠えるのかは結構いい加減であるようだ。
 今日も、一体何に吠えているのだろうかと怪訝に思うほど激しく吠えている飼い犬を見た。アルミフェンスの隙間から身体を乗り出して、喉が壊れるほどに吠え付く柴犬であった。で、何に対して吠えているのかと周囲を眺めると、その犬が吠え付く方向には、プロパンガスをガラガラと運ぶ若い兄ちゃんがいた。ただそれだけのことなのである。困ったワンちゃんである。
 ウチで昔飼っていた犬も、プロパンガス屋さんにはよく吠え付いていた。あとは、新聞屋さんに、郵便配達、そして宅急便配達といったところである。おまけに、彼らがいずれも帽子やヘルメットを被っていたからなのだろうか、そうした人を見ると吠え付く。
 また、自宅の近所のとある飼い犬は、帽子を被った人たちに吠え付くことはなさそうだが、決まって吠えるのは、猫に対してなのである。今、ウチで外猫として飼っている猫たちもよく激しく吠え付かれているようだ。
 さらに、散歩の際に出会うとある家の、庭に放し飼いにされている大型犬は、見かけは恐そうなのだが、見ず知らずの自分なぞがちょいとあやすと、まるで警戒心を捨て去って、尻尾を千切れるほどに振って「遊んでちょうだい」といった雰囲気になってしまう。こいつは、番犬役には向いてないな、と思わされるわけだ。
 要するに、何も、犬が吠える相手は「怪しい人物」とは限っていない、ということである。結構、犬たちは、自分本位に勝手気ままに吠えているようなのである。
 まあ、中には、人見知りで臆病な犬もいて、とにかく見知らぬ(=臭いに覚えがない)対象には闇雲に吠え付くという犬もいることだろう。ちょいとうるさ過ぎる嫌いがあるが、そんな犬が番犬に適していると言えるのだろうか……。

 番犬の話を「まくら」にしてこんな事を書くのは、いかにも……という嫌味があるかもしれない。が、まあ、こっちの話題にしても「勘弁してちょーだいよ」と言いたくなるほどお粗末な話である。次のようなニュースがあったのだ。

<抗うつ剤を「麻薬だ」 検査ミスで誤認逮捕 警視庁
 職務質問した男性が持っていた錠剤の検査ミスで、警視庁築地署が、この男性を誤って麻薬及び向精神薬取締法違反容疑で逮捕し、約13時間後に釈放したと、同庁が24日発表した。
 組織犯罪対策部によると、23日午前0時45分ごろ、東京都中央区銀座の路上で、無灯火の自転車に乗っている男性(24)を署員が見つけ、逃走した男性を止めて職務質問した。男性は財布の中に錠剤98錠を持っており、署に任意同行。刑事組織犯罪対策課員2人が予備検査をしたところ、合成麻薬MDMAに似た反応が出たため、同2時半すぎ現行犯逮捕した。しかし、その後、同庁科学捜査研究所で鑑定した結果、抗うつ剤と分かり、同署は同日午後3時45分、男性を釈放した。
 同庁は「予備検査を担当した2人は今回が初めてで、正確な判定ができなかった。関係者におわびし、指導を徹底していきたい」としている。>( asahi.com 2007/07/25 )

 自分が咄嗟に思ったことは、警察官は「怪しい人物」なる者を一体どんなふうに想定しているのだろうか、という点であった。
 無灯火走行の自転車も、確かに昨今では危険視すべきではあろう。しかし、これだけ凶悪犯罪が多発しているご時世にあっては、もっと重点を絞った警邏(けいら)をすべきなんじゃなかろうか。つまり、現代という時代特有の犯罪状況へのシミュレーション感覚の研ぎ澄ましと、行動様式のことである。
 素人感覚でも、<合成麻薬MDMA>を常用しているような者が、昨今目をつけられやすい無灯火のチャリンコに跨ってフラフラしているとは思えない。先ず、スモークフィルタでも張り巡らせたクルマなんぞに潜んでいそうな気がするんだけどなあ。
 チャリンコとそんなクルマとは何がどう違うかと言えば、要するに、安易な職務質問がし易いか、しにくいかという点なのではなかろうか。やり易いことをやってお茶を濁している、と言えば言い過ぎになろうか。
 しかも、所持していた「薬」を、昨今は素人でもそれがどんなものであるか調べる手立てを持って対処しているというのに、いきなり<合成麻薬>に結び付けてしまうというのは、呆れてしまう。それではまるで、麻薬捜査Gメン「ごっこ」の域を出ないじゃないですか。
 ちなみに、最近では『医者からもらった薬がわかる本』とかいう優れものブックもあるわけですよ。一家に一冊だけじゃなく、「一署」に一冊くらい備えて研究したらどうですかね。
 わたしがことさら、こんな麻薬捜査Gメン「ごっこ」を揶揄したいのは、一方で、麻薬汚染の拡大に歯止めが掛からない実情があるからだ。抜本的な「水際捜査・摘発」が最重要だと思われるにもかかわらず、暴力団捜査と同様に、やや手ぬるさがあるのではないかと考えるからである。
 おそらく、そうした捜査のためには、その種のスぺシャリティと並々ならぬ気概とを備えた捜査員が必要であるに違いない。そうでなければ、ますます「有能化」している敵を仕留めることは不可能なはずであろう。しかし、そうした実情に即した対応が重要なのであって、旧態依然とした安易な職務質問方式がいかほどの効を奏するのか、と疑問を持つからなのである。

 こんなに不幸な時代状況なのであるから、これからは<抗うつ剤>を携帯する市民もおそらく増大していくに違いない。そんな人々を一々、署までご同行願いましょう、と言って対応していたら、うつの症状を益々悪化させることにもなろう。罪深い話ではないか…… (2007.07.25)


 ビニールの手提げ袋には、水着やタオルが入っているらしい。それをぶら下げた小学生の女の子たち二人が、楽しげに歩道を歩いていた。二人とも、髪の毛を頭の左右両側で結んでおり、その無造作な格好がいかにもあどけない。
 何よりも、これから入るプールがうれしくてならないかのような、こぼれるばかりの笑顔は見ている者にも笑みをもたらす。朝の通勤時に、クルマの中から見えた街の光景であった。
 夏休みが始まって間もない今頃は、きっと、プールを活用した水泳の授業があるのだろう。子どもたちにしてみれば、余程、水が嫌いな子でないかぎり、水泳の授業とはいうものの楽しい「水遊び」以外ではなく、気分はルンルンであるに違いなさそうだ。しかも、日毎暑さは増してきているし、夏休みも始まったばかりなので宿題のことなぞ眼中にないはずだろう。開放的な気分をベースにして、その上に「水遊び」への期待感が加わると、どうしてもあのようなお日様のようなニコニコ顔になるのであろう。

 それに較べて、歩道を行く大人たちの冴えない顔つきといったらどうだ。
 OLと思しき若い女性にしてもどうしてあんなにつまらなそうな表情になってしまうのだろうか。まあ、話す相手もなくひとりで歩いていればそんな無表情になるのかもしれない。
 ただ、先ほどの小学生の女の子たちに、高々人生経験が十年、十数年上乗せされると、人種が異なると思えるほどにこうまで変わってしまうものかと、今さらのように驚いてしまう。余程、無かった方がマシというような不幸な時間と経験が積み重なったのかもしれない。
 確かに、この国での過去十年、十数年とはろくな時代環境ではなかった。景気の低迷とそれに付随した職場環境の悪化が深まった。また、格差社会という言葉が象徴するような、将来から希望が奪われる社会環境へと変わった。それでいて、まやかしの言葉ばかりが宙を舞い、人々の心を痩せ劣らせた。生活環境の万事が万事余裕のない状況となってしまったことで、人々は苛立ちで歪む表情を常とするようになってしまったようだ。大人たちの表情は概してそんなふうなのかもしれない。
 庶民にこんなしわ寄せをしつつ、我が身は幾重にも利欲を追求し続けた権力者や政治家たちとて、決して裕福な顔つきに変わったわけではなかろう。
 時は今、そんな者たちの顔を大写しにしたポスターが連なっているが、まあ何と品が無くえげつない表情をしていることであろうか。カネがあるんだろうから、もう少し、見る者に不快感を与えないような表情を厳選すれば良さそうだと思える。しかし、現物に元々ないものである気品なるものをポスター用の表情として表現するのは、いかに名カメラマンであっても至難の業だとも言えそうである。優れたカメラマンであればあるほど、当該人物の顔つきに埋め込まれた度し難い貪欲さや傲慢さをピックアップしてしまうのかもしれぬ。

 この時代の特徴は、「過剰な人為性、企み」だと言えそうである。良く言えば、工夫・加工・デザインが施されて洗練されているとも言えるが、裏返せば、操作・誘導・欺きに満ち満ちていることも事実ではなかろうか。特に、さまざまな「人為性」が、専らカネ儲けや権力欲の手立てとして動員される場合、それらは人工美というよりも、不自然な醜悪さだけが漂うようである。
 人物の表情というものも、まったく同じ道理なのではなかろうか。昨今は、能面のような無表情やら、また逆に稚拙に作られた表情(過剰な人為性)ばかりが目につくご時世であるようだ。自然な感情に裏打ちされた自然な表情の人の顔というものが稀有になったのであろうか。
 それだけに、そうした状況とは無縁であるかに見える子どもたちや動物たちのあどけない表情というものが大変貴重だと感じるのである…… (2007.07.26)


 またまた「世界同時株安」の動きに突入しそうな気配である。
 昨夜、26日のニューヨーク株式市場は、米住宅融資の焦げ付き急増を背景に米経済の先行き不安感が強まり、ダウ平均株価の終値が、前日終値比311・50ドル安の1万3473・57ドルと大幅に反落した。
 そして、ヨーロッパの主要株式市場も、この米国の急落を受けて大幅安となった上、この不安傾向は今日の東京株式市場やアジア市場にもどっぷりと暗い影を落とすこととなった。
 今日の日経平均は、前日終値比418・28円安の1万7283・81円という反落となり、一時は500円を越すほどの急落ぶりであった。
 大幅な米株安、それに伴ってのドル安、円高、さらに間近に控えた与党大敗が予想される参院選という悪材料などが、まるで谷へと逃げ込む蛇の姿のような株式チャートの下降図を作り出した。

 今回の米株急落は、若干心配するに値するのかもしれない。と言うのも、つい先日にも今回と同様の不安材料によって大幅反落し、今回は下げ幅も大きくあたかも駄目押しをするかのような様相だからである。しかも、同根だと思われる原因でヨーロッパ株式市場に大きく波及しているのは、単なる「調整」動向とは見えない。やはり、今回の「震源地」の「震度」は警戒すべきなのかもしれない。
 今、盛んに警戒されている「震源」は、いわゆる「サブプライムローン焦げ付き問題」と呼ばれるものだそうだ。これは、低所得者向けの住宅ローンのことであり、借りやすさがある一方で、やや金利が高いというものらしい。そして、この種の金融が、借り手による返済不能という事情によって「焦げ付く」事態が急増しているというのである。
 ところで、低所得の借り手層が、ここに来てなぜ返済が困難になっているのか、その事情を知ることで現在の米国経済の実情が浮かび上がってくるように思われる。

 先ず、一般論レベルで考えるならば、米国の低所得者層も、現在の歪んだ金融経済動向の中で、日本と同様の「格差社会」的現実を担わされているようである。もともと米国における所得格差は激しいものであったのが、ここに来てさらに度を深めたと伝えられている。
 では、なぜ状況が悪化し始めていた低所得層が住宅購入へと向かったのかである。ここには、米国と日本との間での「住宅観」の相違がありそうだ。
 大前研一氏は次のように述べている。

<米国の状況を見ると、日本とは異なる。不動産などが動産のように活用されて市場を牽引している。特に今のブッシュ大統領が2000年に就任して以降はその傾向が強い。家を買って価値が上がったらそれを売る。あるいはそれを担保にして投資するといった不動産の“動産的使い方”が盛んなのだ。それで「住宅はATM」という言われ方もあるくらいだ。>( http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/a/index.html )

 つまり、米国では住宅という「不動産」もまた「投資」の対象と位置づけられており、日本のような「不動産」観(双六の「上がり」のようなイメージ?)はなさそうなのである。
 それだから、多少ムリをしてでも住宅を購入しようとするのであろうし、そうした意向を狙うかのように、多少リスキーではあってもやや金利を高くして住宅ローンを「貸し付け」しようとする「サブプライムローン」のような金融商品も登場したのであろう。

 ところが、こうした現象が「うまく回る」ためには、「投資対象」としての住宅の、その「価格上昇」が継続しなければならないはずであろう。おそらく、近い過去にあっては、この「上昇」傾向がしっかりと続いていたのであろう。だから、こうした現象が定着してきたのだと思われる。現に、ここ数年の米国経済の牽引役が住宅市場であったことは周知の事実である。
 ということだとすれば、ここに来て「サブプライムローン焦げ付き問題」が表面化してきたということは、やはり決して小さくはない経済変化が発生しているということになるのであろう。結論から言えば、ひとつが「住宅価格の低迷」であり、もうひとつが、「金利の上昇傾向」である。これらが、「サブプライムローン」契約者たちの首に巻きついた紐を両側から引っ張っているということになるはずである。
 詳細はおくとして、決して小さな現象とは思えないこうした経済変化は、現時点での米国経済の決して小さくはないウイークポイントを指し示してはいないのだろうか。
 「サブプライムローン焦げ付き問題」という、差し当たっては金融面での「調整」問題にとどまればまだしも、「サブプライムローン」契約者たちが直面している経済変化(「住宅価格の低迷(=住宅市場の低迷)」「金利の上昇傾向」etc.)の現実が、米国経済全体の足をジワジワと引っ張らないとはかぎらない。
 いや、「ジワジワ」とという、「ソフトランディング」向けの表現は事によったら当たらないのかもしれない。もし、米国経済がこれまでの株価上昇に窺えた「ハッタリ」をやめるとすれば、その時は、「ガラガラ」という大音響を立てた株価大暴落ということになってしまうのかもしれぬ。まあ、そこまでのはた迷惑な事態は考えたくないものだ…… (2007.07.27)


 いよいよ夏の暑さが本格的となってきた。今朝のウォーキングでも、たっぷりと汗をかき、半袖シャツも水をかぶったようにビショビショとなってしまった。やはりウォーキングは、多少肌寒いくらいが快適である。正直言って、こうした暑さの中でのウォーキングがしばらく続くかと想像するとややげんなりした気分となる。

 帰路、地元の町内会が盆踊りの準備に精を出しているのを見かけた。
 こうして暑いからこその暑気払いとしての盆踊りなのであろうが、準備で汗を流す者も、浴衣を着込んで踊る者も「ごくろうさん」といったところである。
 どうも、この町田では、今日あたりが盆踊り大会のラッシュのようである。夕方、クルマを走らすと、申し合わせたようにあちこちで盆踊りを開催している気配があった。
 今日は、盆踊りだけではなく花火大会も催されているようである。例によって実家のお義母さんのケアで千葉方面に行っていた家内が、帰りの電車の車窓から隅田川周辺での花火大会の準備風景を見たと話していた。

 日本のこうした季節行事は悪くないと思う。欲を言えば、こうした季節行事にふさわしいのどかな世相に戻ってほしいものである。残念ながら、なお一層世知辛くなり、地域社会も大きく変質してしまった現在では、地域でのこうした季節行事は、どこか人々の日常感覚からは浮き上がってしまっている観が否めないように思える。
 日本の季節行事の大半は、地域社会の本質である「共同性」によって裏打ちされてきたに違いない。地域で暮らす人々の生活における共同性を、年に一度、お互いにたたえ合う機会としてこうした季節行事が段取られてきたのであろう。
 もともと、人の生活というものは、孤立して成り立つものであろうはずがない。地域空間を基盤として、何かにつけて共同性を発揮し、またその「共同性」に依拠してこそ人々の日常生活というものは成立し得る。それは、農業を主たる産業としていた時代ではもちろんのことであるが、決してそれに限られるものではなく、都市生活とてまったく同じなのだと認識すべきだと思われる。

 今日、唐突に「共同性」という言葉にこだわってみるのは、直接的には季節行事をきっかけにしているが、他にやや考えるところがあるからでもある。
 昨今、いたるところで「違法」とか、「規律違反」、「ルール違反」という嘆かわしい現象を見聞する。現在では、それが決してめずらしいことでも何でもなくなり、「規範」という「規範」の重みは羽のごとく軽くなり、疎んじられているかのようである。
 交通ルールは言うにおよばず、社会生活の種々のレベルでのルールがあってなきがごとしの風潮と成り果てていそうだ。ウソが罷り通っている事柄も同じ土俵の上で考えて良さそうである。

 土俵と言えば、つい先ごろ、人気力士横綱朝青龍の不祥事がTVネタとなっていたようである。優勝達成後、腰を「疲労骨折」したとかでしばらくの静養を要するとの診断書が上申されたとかである。そのため、これから始まる恒例の地方巡業には参加できないということになり、朝青龍は母国モンゴルへ帰省したらしい。
 ところが、帰省初日に、朝青龍はサッカーの親善試合に参加して、とても腰を「疲労骨折」している者には見えない激しい動きをしていた。それは、ビデオで撮影されて、TVでも流された。当然、相撲協会側の理事たちは激しく憤ったのだという。
 自分はこれを知った時、朝青龍ならばやりそうなことだと思った。ただ、やはり朝青龍は、協会の理事たちや相撲ファンたちから責められて然るべきだとも思えた。ウソつきなのかどうかは別にしても、少なくとも、恒例の地方巡業への不参加というルール違反をしようとしたことは否定できないからだ。
 では、朝青龍が仕出かしたルール違反の本質とは一体何なのであろうか。自分はそんなことを考えてみた。その時、浮かんできたのは、残念ながら、相撲という日本の伝統的格技のジャンルにはもはや伝統的な「共同性」は無くなってしまったのではないか。少なくとも、朝青龍という外人力士にとっては、そうした「共同性」は自身を括るほどの重みを持っていなかったのであろう。

 ところで、ある人々の集団なり組織なりのルール(規範)が実効性を持つためには、その所属者がその集団なり組織なりの「共同性」と一体化していることが不可欠なのではなかろうか。つまり、その集団なり組織なりを意識の上でも是認し、あるいは依拠して、そして行動においてもそれらに拘束されることを進んで選び取るという関係である。
 こうした関係にある場合、ルールは、明文化されたものであれ暗黙のものであれ、しっかりと遵守されるものだと考えられる。
 しかし、当該の集団なり組織なりの所属者が、それらの「共同性」をホンネでは疎んじているならば、そこでのルールは遵守されるはずがない、と想定されるのである。遵守されたとしてもそれはタテマエのレベルの出来事でしかなかろう。
 ルール(規範)と「共同性」とは、ひょっとしたら同語反復の関係にあるのかもしれないが、「共同性」が喪失されたところでのルール(規範)という存在はきわめて難しいものだという点を強調したいのである。
 「共同性」が実態的には失われているにもかかわらず、いやあるいはそうであるからこそと言う場合もあろうが、ルール(規範)のみを声高に叫ぶというのは、どこか本末転倒の気味がありそうだと思えるのである。
 どうしてもルール(規範)を遵守させたいのであれば、所属者がその集団なり組織なりに対する「共同性」をしっかりと自覚できるような日常関係を構築することが先決であるように思うのである。

 ある学校のある生徒が、こんなことを口にした、という。
「あいつ(とある先生のこと)を裏切ることになることだけはしたくない。だって、あいつには随分と世話になっちゃってるから……」

 今のご時世は、何から何まで真っ暗闇で、石を投げれば何かのルール違反の現場に当たるほど、ルール(規範)がタテマエ視されまくっている。それでも足りずとばかりに、無能な政治家たちは強行採決までして新たなルール(規範)としての法律をでっち上げている。
 じっくりと関心がむけられるべきは、この国の「共同性」というものが、国民に確かなものとして自覚されているのかどうかであろう。しかし、それは愛国心なぞという押しつけがましい手法によって手が届くものではなかろう。この国の国民であり続けることをホンネで望むような、そんな社会が形成されるならば、自然に国としての「共同性」が醸成され、そして、いたるところで発生している、やけっぱち、自暴自棄、キレといったルール(規範)逸脱が沈静化していくのではなかろうか。
 ちなみに、現時点でもっともルール(規範)逸脱を助長しているのは、誰あろう政治屋と官僚たちではなかろうか…… (2007.07.28)


 昼食を済ませた後、ぶらぶらと近くの小学校に家内と一緒に出向いた。選挙の日はいつもこうした段取りとなる。
 投票場の小学校に着くまでに、自民党の選挙ポスターが貼ってあるのが眼についた。余計なお世話だと言いたくなるように、投票用紙が二枚あること、その一枚が比例区であり、「比例区は自民党へ」という誘導的な文句が書かれてある。歩道を行く人の目に留まりやすいように、道路に対して平行にではなくやや角度をつけて貼り付けてあった。
 最後の最後まで、「悪あがき」をするもんなんだな、という思いがふと浮かぶ。やりたい放題に手前勝手な仕打ちをしておきながら、「審判」の国民投票まで「横取り」しようと目論むその厚顔さには閉口した。

 小学校は、投票場への案内が施されているものの、人の姿は見えずいかにも閑散としている。校庭の真中には、夕べの盆踊り大会の名残であろう、やぐらの骨組みがそのままとなっている。やはり、夕べはここでも盆踊りが催されたようだ。
 ところで、その鉄骨のやぐらを見るといつも思うことがある。
 学生時代、親戚関係にある小さな鉄工所でアルバイトをしたことがあるのだが、そこは零細企業の例にもれず、小さな仕事を取るのにも苦労をしていた。大手企業の下請けの、孫請けの……、という劣悪な条件で仕事をしていたのだ。
 そんな当時に、今、目の前にあるような「盆踊り用鉄骨やぐら」なるものを開発製作し始めたならば、ひょっとすれば思わぬ展開を見たのかもしれない、とそんなことを思ったりするのである。
 組み立てが簡単で、「100人乗っても大丈夫!」(?)、おまけに「耐震強度」も抜群というようなやぐらの雛型を作り、どこかの町内に売り込むことができたなら、いや、どこかのレンタル会社への売り込みでもいい、とにかく1セットでもリリースできれば、当時ならば新聞の地域ページにでも紹介されてあとはとんとん拍子で引き合いが来たりして……、という妄想なのである。
 そんな妄想を駆り立てるような鉄骨やぐらが、人っ子ひとりいない校庭の真中で静かに佇んでいた。

 小学校の一角に設定された投票場に近づいても、やはり人影は少なかった。投票率は上がるだろうという予想は外れだったのだろうか。それとも、庶民の多くはやはり見識も良識もなく、こんなにも今回はマス・メディアが囃しても、それでも「物言わぬ国民」であり続けているのだろうか。そんな醒めた思いに襲われる一瞬であった。
 そう言えば、先ほどまで見ていたTVニュースでの情けない場面を思い起こす。ディズニーランドへ遊びに行った若いカップルや、海外渡航する若い者たちが今日の選挙を黙殺している光景であった。彼らがほんの一握りの割合であればいいと期待したいわけだが、どんなものなのであろうか。
 今回の参院選挙は、ほとんど正当な根拠がないままに一週間遅く繰り延べされた経緯があったわけだ。名目は国会の会期延長と言われたが、実態は、逆風にある政府与党が、わざと「冷却期間」を置いたり、あるいは多くの国民の「夏休み」突入後をねらい投票場への足を鈍らせたとも言われている。
 しかし、もしマス・メディアの下馬評ほどに投票率が高くなく、いわば政府与党の「企み」どおりになったとするならば、この国の国民各位の見識の低さは驚くべきものだと言わざるをえないだろう。
 最近は、何かにつけて悲観的にものを眺める習性が身についてしまった嫌いがあるが、今回の参院選の結果も、やや肩透かし気味なものとして表れるのかもしれない…… (2007.07.29)


 昨晩は、久々に「爽快感」に似たものを味わわせてもらった。もちろん、参院選の結果のことである。
 開票の午後8時過ぎまでは、どうせまた投票率が伸びずに、前評判とは異なって肩透かしを喰わされるのだろうとばかり思っていたのである。
 ところが、投票率は58.64%(前回56.57%)と、さほどでもなかったようだが、TV局が報じた「出口調査」の結果は、与党大敗、野党・民主の圧倒的勝利という、とにかく溜飲の下がる内容であったわけだ。
 民主党はまだまだ未知数の政党であり、問題も少なくない政党勢力であるが、ともあれ国民感情からすれば、自公勢力の暴走的動きに待ったを掛けたいという思いやら、現内閣の閣僚たちの次元が低すぎる状態を、卓袱台(ちゃぶだい)を引っくり返すように覆してやりたい思いなどが鬱積していたはずである。
 現代というスピード時代にふさわしく、最新統計技術が駆使された「出口調査」は、怨念を晴らしたいという国民感情にとっては、まさに当を得た結果発表をしたものだと、思わず感心してしまった。

 今回の選挙は、ちょっとした「プロレス」観戦に似ていたかもしれない。かなりはっきりとした「善玉」・「悪玉」図式が提示されたし、それがゆえに妙に「感情」が刺激されてしまい、身を乗り出すような姿勢が喚起されたかと思うからである。
 「マニフェスト」選挙ということが言われて久しいわけだが、今回の選挙はそんなクールなものではなく、まさに「プロレス」観戦選挙とでも言うべきだったのかもしれない。 メイン・ストーリーは言うまでもなく杜撰過ぎた「年金記録問題」であり、これが先ず「赤コーナー外人レスラー=政府与党」組は、どうも「悪玉」らしいという目安を感じ取らせてくれたのであろう。加えて、「赤コーナー」レスラーたち(閣僚たち?)は、やたらに見え見えの「キタナイ」手口(政治とカネ問題!)を繰り出したのだからわかりやすかった。それは、往年のジャイアント馬場がつぶやいた「やつら、キタナイっすからね」の言葉にもに値するものだったであろう。一瞬「キタナイ」手を見逃した観客にも、サービス精神よろしくというところか、「赤コーナー」レスラーたちは、入れ替わり立ち替わりで「キタナイ」手口を披露してくれたのであった。中には、マイクを手にして「しょうがない! しょうがない! 」と口走るレスラーまで立ち現れたのだ。
 これじゃあ観客は、座布団がなければシートカバーを引っぺがしてリングに投げたくもなるだろう。食べかけの南京豆入りの袋でも、飲みかけの缶ビールでも、投げられるものならなんでも投げつけてやりたいと思ったかもしれない。

 また、観客席には、「赤コーナー外人レスラー=政府与党」組によって、以前、手痛い目に合わされた邦人レスラーたちも交じっていたのだから、野次やブーイングの盛り上がり方は半端ではなかった。その邦人レスラー、ムネオやらマキコやらワタヌキたちは、外人レスラー組の先代のリーダーであるパフォーマンス・コイズミに言い知れぬ痛い目に会わされ、恥もかかされていたのである。それがゆえに、コイズミの舎弟分である現リーダーのアベリンにはどうにかしてリベンジしたいものだと腹に決めていたもようなのであった。
 しかも、今回のイベントでは、どういうものかTV局のカメラ陣も「赤コーナー」組に対してはそっけない気配が強い。今までならば、見え見えの「キタナイ」手口をクローズアップすることは避けていたのが、今イベントではかなり執拗なカメラワークで追跡してもいるのだった。だから、お茶の間のTVで観戦していた視聴者も存分に熱くなった。
 この変化の背景には、ひょっとしたら、以前にパフォーマンスコイズミ組が、「善玉」気取りを演じた際に、うかうかと片棒を担がされてしまったという苦い思いがある、とそう分析する「プロレス」評論家もいないではなかった。

 いずれにしても、今回のイベントでは、「赤コーナー外人レスラー=政府与党」組は完膚なきまでに大敗を喫してしまったわけだ。そして、その外人レスラーたちの背後で彼らを操っているとされる「外人興行主たち」は、このままではろくなことにならないと危惧する空気が、あるとかないとか……。

<参院選での自民党大敗、「変化を遅らせる」…米紙が報道
 【ワシントン=五十嵐文】30日付の米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は、参院選で自民党が大敗したことについて、「日本の変化を遅らせるかもしれない」とする東京発の記事を掲載した。
 記事は、安倍首相が退陣に追い込まれ、日本が「短命内閣の時代に逆戻りするかもしれない」と指摘し、後継者の最有力候補として麻生外相を挙げた。
 安倍首相が続投した場合も、農業の規制撤廃など思い切った改革を進めるのは困難な見通しだと報じた。>(2007年7月30日 読売新聞)

 それにしても、「プロレス」にしても政治にしても、主役が誰なのかははっきりしていよう。観客たちであり、また国民自身なのである。だから、主役たちの意向や選択を無視して、レスラーたちや政治屋たちが、立場を忘れて傲慢な振る舞いに出る場合には、しっかりと引きずり降ろしてやればいいのである…… (2007.07.30)


 「続投」なら「続投」でやってもらえばいい。この際、自民党政治の立ち腐れ状況を頭から尻尾までの全部を国民の前に曝け出すことだ。そして、二度と政権を担う党ではないことを国民が熟知させてもらえばいい。
 これまでは、同党の恥部が露見するならば、ベンチで待機していた二番手、三番手の投手がすかさず現れて、「人心一新」的なゲームを続行したものである。観客・国民も、何とかなるんだろう……、とばかりに根拠のない期待をかけたりもした。
 この、「懐石料理」のような矢継ぎ早での皿の入れ替え方式があだであったわけだ。不味い料理屋というものは、どんな皿を出そうが不味いに決まっている。なのに、客もそれを言っちゃぁお仕舞よとばかりに、お愛想の期待をかけたりしてしまう。そいつがいけなかった。
 毒を喰らわば皿までではないが、一度は不味い料理の皿を徹底的に吟味させてもらい、客の方の気分が「牛と狐の泣き別れ、モウコンコン(もう、来ん来ん、この店には)」と確信めいたものになる必要があるのかもしれない。

 だから、ご本人ががむしゃらに「続投」を言い張るのだから、しばしやらせてあげればいいのである。
 一体、「反省するところは反省し……」というような言葉遣いをして、言葉というものを弄ぶ方には、何ができるであろう。時間経過は、汚名挽回に役立つよりも、さらなる悪材料の露呈を促進させるに違いなかろう。今日も、安倍内閣にとっては「悪材料」であるに違いない「米下院による従軍慰安婦問題に関する決議」採択というニュースが飛び交った。
 また、言うまでもなく参院での与野党勢力が逆転したことにより、政局の混迷は歴然としている。「強行採決」という異常型を立法と政治の雛型だと甚だ勘違いをされて来た方にとっては、これからの国会内外の環境変化には面喰らわざるを得ないだろう。

 しかし、現在の安倍首相はツキに見放されている印象が拭い切れない。もっとも、安倍首相自身が撒いたタネであることに変わりはないのだけれど、今、華開いているあだ華の中には、誰か別の者によって撒かれたタネも大いにありそうな気がしないでもない。
 小泉前首相によって荒っぽく撒かれたタネが、あだ華を咲かせ、行儀の悪い蔓(つる)を伸ばし、どうも安倍首相の足元を悪くしている気配がないでもない。
 今回の選挙結果そのものが、小泉選挙大勝利のいわゆる「振り子現象」だとも言われているが、確かに、従来の自民党の拠点であった地方農村票は、小泉首相によって壊滅的にぶっ壊されたと言えようか。都市部のテンポラリーな浮動票を掻き集めることに邁進した小泉パフォーマンス政治は、従来の自民党の足場であり続けてきた地方を根扱ぎ状態にしたものであった。そこを、民主党の小沢代表によってさらわれたのであるから、従来どおりに勝てるはずがなかったのだろう。
 しかも、都市部にあっても、市場原理市場主義的な競争社会、弱肉強食社会、格差社会は、本格的に牙を剥き始めて弱者たちを襲い始めた。小泉首相が「煽動」した当時のバラ色模様は当然のごとく色あせてしまったのだ。狡猾な小泉首相はそんな推移を直観していたからこそ、「期間限定」的に身を処し、身を引く選択をしたのであろう。で、後継者を安倍氏に選定したものと思われる。

 つまり、小泉的「ぶっ壊し」政治は、再建・再構築の計画というものを度外視したアクションでしかなかったのではなかろうか。「ぶっ壊し」さえすれば、何かが生まれるのだ、と周囲や、国民までも信じ込ませ、呪縛したところに彼の本領があったわけだ。
 しかし、現実がそんなにシンプルであるわけがない。経済にしたところが、「構造改革」・「グローバリズム」路線だけで持続的な活性化がもたらされるものではなかろう。しかも、この路線の「隠された仕掛け」は、マイナスのツケが必ず弱者に回されるというロジックであり、それが「弱者切り捨て」や「格差社会」を必然的に導き出しているわけだ。
 今、これを引き継いだ安倍内閣は、これを弁解するのに窮し、経済全体が活性化すれば「弱者」にその恩恵が波及するのだと言い張っている。だが、それは先ずあり得ないことは、国際的規模で次第に明らかになっている。この路線が生み出すのは、「勝ち組」と「負け組」というシャープな図式構造なのであり、「勝ち組」が享受している恩恵が、「負け組」へと波及することは論理的にあり得ないのである。

 要するに、安倍内閣は、小泉前内閣が撒いたタネ、それはあだ華しか咲かないタネであったわけだが、それが姿を現し始めた地獄を背負わされた、そんな内閣なのではなかろうか。「野心」だけが燃えているような安倍首相であるから、「政権移譲」を受けたのであろうが、言ってみれば「火中の栗拾い」という性格の選択であったのだろう。
 ただ、それが了解されていて、また自身の力量が自覚されているのであれば別であるが、どうなのであろうか。
 「美しい国」だとか、「戦後レジームからの脱却」云々とかという言葉に酔いがちな政治思考では、かなり先行きは悲惨なものになりそうな気がしてならない…… (2007.07.31)