[ 元のページに戻る ]

【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2007年06月の日誌 ‥‥‥‥

2007/06/01/ (金)  「あってはならないこと」という口調と「無責任」環境……
2007/06/02/ (土)  食事に対してますます「機械的(生理的)な反応」をする……
2007/06/03/ (日)  自然への接近度を高めることとなった一日……
2007/06/04/ (月)  今日「下落した数字」二つはどこまで波及するのか……
2007/06/05/ (火)  人間とは「自転車操業」を旨とする存在……
2007/06/06/ (水)  要するに「人間らしく」生きることの素直な見直しなのかも……
2007/06/07/ (木)  変わっていくのだけれど変わらない「老舗のタレ」……
2007/06/08/ (金)  ケーサツでも役人でもなければ、ヤーさんでもないんだから……
2007/06/09/ (土)  シャラの樹はポトリポトリと花を落とす……
2007/06/10/ (日)  何の変哲もない庭でも一雨降るならば……
2007/06/11/ (月)  リスク・テイキング」に強気となり続けるグローバル……
2007/06/12/ (火)  「社保庁」のコンピュータ・システムに仕えたある男……
2007/06/13/ (水)  政府にも、そのコンピュータ・システムにも問題があるとすれば……
2007/06/14/ (木)  「何でもあり」とは、「身に覚えが何にもなし」と同じ?
2007/06/15/ (金)  知識・情報の取得レベルと「体得」のレベル……
2007/06/16/ (土)  局面の打開策ではなく、「布石」の置き方ということなのか?
2007/06/17/ (日)  『神話』の夢を醒まさせる、現実のリアルな悪夢的状況……
2007/06/18/ (月)  時代の言葉、「議論のすり替え」と「羽交い締め」?
2007/06/19/ (火)  「ちょっと変だぞ」あらゆるものが……
2007/06/20/ (水)  「便利なモノやサービス」と「トレード・オフ」関係にあるもの……
2007/06/21/ (木)  今が「旬」の「びわ」の実……
2007/06/22/ (金)  「今、ここ」という視点が過剰に重視される時代、文明……
2007/06/23/ (土)  よそ見なり、わき見なりはしなければいけない……
2007/06/24/ (日)  沽券(こけん)を失い「孤剣」だか「古剣」だかしれないものを……
2007/06/25/ (月)  経済活動自体が必然的に生み出すもの……
2007/06/26/ (火)  聞き慣れない言葉、<エヴェルジェティズム>……
2007/06/27/ (水)  熾烈なリアルな世界と「材料視」……
2007/06/28/ (木)  「新陳代謝」現象が粛々と展開していくのか……
2007/06/29/ (金)  「経験不足」のリーダーと現代環境……
2007/06/30/ (土)  何度でも、マス・メディアをたしなめたい……






 「あってはならないことだ」という「奇妙な」表現を、最近はしばしば耳にする。
 大体が衆目を集めた事故・事件の、その関係者の発言である。「奇妙な」表現だと感じるのは、そうした事故・事件というのが、程度の差こそあれ突き詰めれば「人為的」なものと思われるからなのである。誰かが手を下した結果なのである。
 そりゃそうであろう。もし、昨日のような落雷という自然現象による事故に対して、「こうした激しい落雷というのは『あってはならないことです』」と言おうものなら、首を傾げられてしまうであろう。

 誰かが手を下した、のであれば、「あってはならない」と言うよりも、「してはならない」とでも言った方がしっくりとくるのではないのだろうか。
 英語にも「無生物主語構文」というものがあり、「人」以外を主語とする構文のあることはよく知られている。いろいろなタイプのものがありそうだが、小説などで使われると情景や状況のリアルさが伝わってくるようにも思う。
 しかし、日常的に報道される事故・事件というものに関しては、常識的表現で語られるべきであり、決して修辞法は馴染まないはずである。まして、政治的事件なぞに関しては、「無生物」を「主語」とするような「間接話法」のような発言は、意図的に「下手人」をかばっている発言だとしか思えないのである。

 ところで、こうした「あってはならない」という表現がいつの間にか流行っているのには、ひょっとしたらそれなりの根拠があるのかもしれない。
 先ずは、許し難い事故・事件が多発、頻発している現状の異常さがあると言うべきか。信じられない、エキセントリック(奇矯)な事故・事件に遭遇した場合、人は、言葉を失い、あらぬことを口走るものだ。だからということでもなかろうが、「こんなことは『あってはならないことだ』」と言ってしまうのであろうか。
 もうひとつ考えられることは、現代の社会環境は、様々なモノが自動化され、機械化あるいはITによる環境となっている。とにかく、人影が後方に退き、「無生物」が対応する環境になっていそうである。
 こうなってくると、もしそこで何か不具合なり、トラブルなりが生じた場合、すぐにはその環境の管理責任者の姿までは眼に入らず、やむを得ず「こんなことは『あってはならないことだ』」ととりあえず言うほかないのかもしれない。
 先日も、ジェット・コースターの悲惨な事故の際に、とある関係者がこの「慣用句」を口にしていたようだった。「設備運営者はこんな事故が起きる整備をしていたのはけしからん」とまで言えばパーフェクトなのであろうが、その余裕がなかったようでとりあえず「人影」への批判の矢は放たれずに、「無生物」の野に矢は虚しく放たれていた。
 しかし、やたらに機械的自動化の「無生物」尽くしの環境に取り囲まれて生活をするならば、その環境の背後にいるはずの人格的意思と責任の所在を想定しがたくなり、とりあえず「こんなことは『あってはならないことだ』」と憤るしかなくなっているのだろうか。

 ところで、今ひとつ考えられるのは許し難いケースである。それはまるで、現代社会が「無生物」環境で塗りつぶされようとしている状況の、そのどさくさに紛れて、「人格的責任」というものを明らかにはぐらかしているケースである。
 これは、政府なり行政機関の責任者たちが、所轄の領域で不始末があった際に、ぬけぬけと「こんなことは『あってはならないことだ』」と口走る場合である。「長」たる自分に最終責任があることを棚上げにして、第三者の立場ふうに憤って見せるのは、一瞬、ああそう言う対応もアリか、と納得しそうになったりするからたまらない。
 このようなエゲツナイ例としては、言うまでもなく、「5000万件の不明年金」のケースが挙げられる。この件では、安倍首相をはじめとして厚生労働大臣も、「こんなことは『あってはならないことだ』」と表現していたかと思う。
 本当は、「こんな不始末をしてしまい、まことに申し訳ございません」と謝罪すべきところなのではないのか。政府責任者としての責任感覚というものがまったくないのには驚かされる。
 まさにこの「無責任」を裏書したのが、今日未明に強行採決された「年金の時効を撤廃する年金時効特例法案」だということであろう。この「法案」の説明では、盛んに受給者を「救済する」のだと国民を愚弄したものである。何が「救済」なんだろうか。
 もし、他人の足を過って踏んでおきながら、「その痛みを救済すべきでしょうか」とほざいたならば、自分の方が救急車にでも「救済」されなければならなくなるのではなかろうか。

 何の差し障りもない表現にも聞こえてしまう「あってはならないこと」という口調は、とにかく現代という時代の「人格欠落」環境、「無責任横行」政治を、どこか象徴しているかのような気がしてならないのである…… (2007.06.01)


 夕食後、急に眠気と疲れとに襲われ、とてもこの日誌を書くようなコンディションではなかった。そこで、寝室でしばらく横になり休んだ。変則的な睡眠をとると調子が狂ってしまうので、見るとはなくTVをかけて横になるだけとした。30分足らずそうしていたら、なんとか気分が元に戻ってきた。
 多分、今日は昼食らしい昼食をせずにやり過ごしてしまったためにそんなことになったのかもしれない。特に忙しかったというわけでもなかったが、何となくそんなことになってしまった。家内がいないと、面倒くささが先立ってそんなことにもなる。
 ただ、朝食だけは何があっても抜かないことにしている。朝のウォーキングは慣れたものだとはいえ、足首・手首にウェートを付けての小一時間の体力消費なのだから、水分補給と食事とは欠かすことができないのだ。

 最近は、食事に対してますます「機械的(生理的)な反応」をするようになってきたかもしれない。空腹で気分が散漫となったり、低血糖となり気分が悪くならないため、あるいはエネルギー枯渇で元気が損なわれないために食事をする、といった反応とでも言おうか。
 元より、食事をじっくりと楽しむというグルメの傾向はない。その種の文化人ではないんだろうと思っている。かといって、美味いものを寄せ付けないというわけでもなく、美味そうなものが出てくれば黙って平らげてしまう。だが、あれこれと注文を出すほどの食通やグルメではないということである。
 血糖値の観点から摂取カロリーを意識するようになってからというもの、なおのこと食事については淡白になったかもしれない。その証拠に、ウイークデイの昼食は、昨今、フレークものを牛乳に浸して食べ、リンゴやジュースを添えるようなシンプルなもので済ますことも少なくない。
 そんなことをしていて気がついたのは、そんなものでも食して2〜30分もして吸収され血糖値が高まると、空腹感はなくなるし何ら問題を感じないということなのである。若い頃に知らず知らず求めたはずの「満腹感」なぞはどうも無縁となってしまったのであろうか……。
 ただ、栄養価については配慮しなければいけないと思っている。グルメ派ではなく生理派だと言うのなら、食後の生理状態のみならず、日頃の健康状態にまで目を向けなくては首尾一貫しないということになってしまう。

 食べ物に関して、きざな言い方をするならば、今現在最も食べたいものは「精神的に美味なもの」ということになるであろうか。「精神的に満足、充足できる」のであれば、口から食するものは差し当たってなくてもいいかと、「夕食後の今現在」はそう感じている…… (2007.06.02)


 天気が良いと、最近はほとんど手入れらしいことをしない庭の植木の緑でさえ気持ちよく目に映えるものだ。
 ウォーキングの後、そんな庭木を多少手入れする気になった。
 先ず、これはしてあげなくてはと思えたのが、植木鉢に収まったまま鉢の底を破って大地に根を下ろしたものたちの「救済」であった。しばしばこんなことを仕出かしてしまうのである。いや、植木たちがというよりも、怠慢この上ない私がそうさせてしまうのである。
 この辺の事情は、政府が「5000万件の不明年金記録」を仕出かしておきながら、「救済」なんぞと綺麗事に終始している事情と似ていなくもない。本来を言えば、植木たちの「救済」ではなく、「弁済」ないし「補償」の行為となろう。ともかく今日は、二鉢もそんな「救済」作業を行い、以前にも一鉢対処したことがある。

 植木鉢といっても、素焼きや陶器のものであれば側面を硬いもので叩いて割れば済むことだが、最近の植木鉢はほとんどが合成樹脂でできている。叩いたくらいでは何ともならず、金切狭のようなものを駆使して切断するしかない。結構、骨の折れる作業であるが、いずれはやってあげなくてはならない作業である。
 すでに、植木鉢の直径の半分ほどの太さにまでなってしまった植木の足元に、小さな鉢が付いている姿は、まるで大の大人が幼児の靴を履いているようで気の毒この上ない惨めな姿なのである。
 そんな作業の後、これまた「管理監督責任」問題だとしか言いようがない、「毛虫に占拠」されがちなツバキの枝の剪定を行った。
 毎年のごとく、性質の悪い「毛虫に占拠」される原因は、思うに、妙に枝が混んでいて「風通しが悪い」ことや「日陰部分が多い」ことなのではないかと推測したのであった。それはちょうど、ヤクザが不良債権となった建築物件を不当に占拠する事情と似ているような気がしたものだった。
 たとえ不良債権となった物件であっても、周辺事情がカラッとしていて明朗性高く、風通しも良ければ、ヤクザが付け入ることもできないのであろうが、どこか付け込まれるような不明朗さが災いするのであろう。まさに、やたらに枝が混んだ陰の多い植木に毛虫が産卵することと類似性が高いと思われたのだ。
 そこで、植木の姿を複雑にしている、悪い枝(内向きの枝、下向きの枝など)を剪定のイロハに従って切り落とした。また、すでに枝の状態が固まってしまった形状に添え木を施して形状矯正をも行うことにした。要するに、陽の光が射し込み易く、通風性が高い形にしてみたのである。これで、毛虫が寄り付かず、従来めったに花を咲かせなかったツバキが立ち直るならば嬉しいことだ。

 こうやって庭木をいじっていたら、妙に気分は自然志向となってしまい、ちょうど今がシーズンである薬師池公園の「しょうぶ、あやめ、かきつばた」や、いまひとつ「あじさい」の事が思い起こされるに至った。
 そこで、家内にも声を掛けて急ぎ向かうことにした。自分としては、何枚かのスナップ写真が撮れればと思ったのだった。
 公園は、かなりの人出であった。子ども連れの家族は、もっぱら「ハス田」でのザリガニ釣りに興じていた。糸の先に「割きイカ」を結びつけて、それを挟んで離さない食い意地の張ったザリガニを釣り上げようというものである。
 そんな光景を見ていたら、そう言えば来月にはハスの花が咲くシーズンだと知らされたものであった。ハスは早朝に開くため、頃合を見計らって訪れなければと思った。
 「あじさい」のコーナー近くで、とある老人が「複数のカワセミ」をナイス・ショットしたと自慢している光景に出会った。昨日に撮ったばかりだというデジカメ写真のプリント用紙をファイルに挟み、それを地面の上に広げてさも自慢気に見せていたのである。
 その写真には、確かに、三羽ものカワセミが同時に写されていた。凄いですね、珍しいことですね、と自分は相槌を打って情報収集をしたものであった。
 後で振り返ってみると、なぜ「その場所」に公園内のカワセミが集結していたのか、自分なりに合点できるかなり確証性の高い事実に気づいたものであった。これは今日のところは伏せておこう。そうかそうか、ここも機会を見つけて訪れねばなるまい……、とほくそえんだものである。

 帰路に、かつてよく訪れていた農協の植木販売店に立ち寄り、庭に植え込んだかたちで値札が付けられた「あじさい」の植木を購入してきた。自宅の庭の片隅にあったあじさいをもう随分と以前に枯らしてしまったためである。購入したあじさいの植木には、すでに花のつぼみの房があるため、今年の梅雨は、ちょっとした楽しみを与えてもらえそうである。
 そんなこんなで、今日は、思いのほか自然への接近度を高めることとなった…… (2007.06.03)


 今日、「下落した数字」が二つ伝えられた。
 ひとつは、<中国株、上海総合株価指数が約8%安で取引終了>( jp.reuters.com 2007.06.04 )である。詳細は以下のとおりだ。

<[上海 4日 ロイター] 4日の中国株式市場で上海総合株価指数(.SSEC: 株価, 企業情報, レポート)が大幅続落し、暫定値で8.24%安の3671.101で取引を終了した。上海総合指数は1日としてはここ10年で最大の下げを記録。中国政府は先週、投機抑制のため、株取引にかかる印紙税率を引き上げている。
 4日付の政府系新聞各紙は、株式市場の見通しは依然として明るく、印紙税引き上げは過剰な投機を抑制することが狙いだとの社説を一面に掲載し、投資家の不安払しょくに乗り出した。
 ただブローカーによれば、投資家はこれを全く無視する形でパニック的な売りに出ていたという。>(同上)

 先月末(05.30)にも大きな下落があったばかりだ。その時は、印紙税引き上げによる冷却作用によるものだと伝えられた。今回はどう説明されるのであろうか。
 投資家たちはとかく過剰に反応するものだと言われるのかもしれない。しかし、考えてみれば、これまでの中国株式市場の株高自体も、投資家たちの「過剰な反応」によって生み出されて来たはずである。株式市場における「過剰な反応」というのは当たり前の現象なのであって、今日のこの下落に対して言い訳的な過小評価をすべきではなかろう。
 さて、これを踏まえた米国市場がどうなるのかが見ものと言えば見ものである。いつものとおり、「ハッタリ的」な強気を示すのかもしれないが……

 「下落した数字」のもうひとつは、<内閣支持率最低 30% 政権運営手詰まり感>( asahi.com 2007.06.04 )である。
 庶民にとって、気にせざるを得ない「年金問題」で、ずさんと言えばあまりにもずさんな対処をしてきた政府に、寛容さこの上ない国民もさすがに「堪忍袋の緒が切れる」といった姿勢を示したと言えようか。

<安倍首相の政権運営が危険水域に近づいた。参院選に向けた朝日新聞の第4回連続世論調査(2、3日。電話)では、内閣支持率は30%で前回(5月26、27日)の36%からさらに下落し、政権発足後最低を更新。不支持率は前回の42%から49%に上昇した。ずさんな年金記録問題への政権の対応や、自殺した松岡利勝前農林水産相をめぐる「政治とカネ」の問題への批判が集まった。政府・与党は年金問題に迅速な対策を取ることで政権を立て直す構えだが、参院選公示を約1カ月後に控え、首相の政権運営には手詰まり感も出始めている。>(同上)

 ただ、もうひとつなるほどと思えたのは、次の数字なのである。

<政党支持率は自民28%(前回29%)、民主17%(同18%)などで、無党派層は50%(同47%)だった。>

 つまり、自民党支持率減が、民主党支持へとリンクしていないということだ。端的に言えば、「同じ穴のむじな」ということであろうか。これじゃ、参院選となったとしても、ドラマチックな展開は期待できないということなのかもしれない。
 ところで、安倍内閣への支持率下落には「年金問題」とともに、<自殺した松岡利勝前農林水産相をめぐる「政治とカネ」の問題>が横たわっているわけだが、民主党が今やるべきなのは、この松岡農水相の自殺の真相を徹底的に追及することであるように思われる。これくらいの「外科手術」ができないでは「次期政権」はおぼつかないだろう。
 その原因はほとんど国民に伝えられていないわけが、もちろん<事務所の光熱水道費問題の不正申告問題(ナントカ還元水問題)>なんぞの小さな出来事であるわけではなさそうである。
 こうした疑惑問題を放ってはおけない性質の立花隆氏は、さすがに強い嗅覚を働かせて以下のように指摘していた。

< この大規模林道建設工事は、林道といっても、道路だけでなく水源林涵養と田畑などの農地開発を一体として行うという大事業で、熊本県だけで、総工費154億にものぼる大計画だった。
 この大事業の主体となっていたのが、緑資源機構なのである。
――林道だけでない「154億円の大事業」の入札疑惑
 松岡前農水相は、この熊本県に落ちる154億円の大事業の落札を全部自分が仕切り、各工区でそれを落札する業者から経営規模によって2〜3パーセントの上納金をおさめさせた上に、松岡氏の選挙区そのものである第6工区と第7工区では、自分の息のかかった地元業者に、「鞍岳建設」と「ひのくに建設」という架空の建設会社を作らせ、そこに入札を落としてしまうというとんでもないことまで行っていたのである。
 先の林道談合事件で摘発されたのは、この大規模林道事業の本体部分の落札ではなく、そのとばくちの、調査事業と測量事業の部分だけである。それは事業全体が10億円規模だから、動いた金も百万円の単位でしかなかったのである。
 しかし、本体部分は、その10倍以上の事業規模だから、松岡氏の懐に入る予定だった金額も、単純にパーセントで見積もって、3億〜4億円にのぼったものと見られる。そうなると、これは、一大あっせん収賄事件で、特捜部が乗り出して当然の事件であり、松岡逮捕も必至だったとみられるのである。>(立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」第110回 松岡氏らの自殺を結ぶ「点と線」 「緑資源機構」に巨額汚職疑惑 (2007/05/31) nikkeibp.co.jp )

 これらについては、週刊誌の「週刊ポスト」「週刊文春」「週刊新潮」三誌が採り上げているらしいのだが、なぜか新聞の主要全国紙や、TV局はダンマリを決め込んでいる。だから、如何にマス・メディアが「肝心な事は報じない」という腐敗ぶりであるかということなのである。
 これらが真相だとするならば、年金問題でのずさんさと言い、公共事業を食い物にする体質と言い、国民はどこまで蔑ろにされれば済むのであろうか…… (2007.06.04)


 自分も一時はゴルフの素振りに余念がなかったこともある。もう10年以上も前のことだ。が、ゴルフは結局好きになれずに放り出してしまった。
 素振りに熱心だった頃には、誰もが言うところの「フォーム作り」に意を払ったものだ。とにかく、自身の四肢の動きをマシーンの動きのごとくなるように、鋳型に入れてしまうことだと考え、素振りの回数を数えたものだった。
 スポーツにせよ、何かの職能、芸能にせよ、「フォーム」とか「型」とかが重要だと強調されるのは良く知られている。動きの良し悪しにバラツキのある振る舞いが良い結果を生み出さないであろうことは容易に想像できる。
 最も効果的だと見なされるフォームや型を身に付けるならば、まさにムリムダのない成果がコンスタントに生み出せるわけで、なおかつ、身体が覚えた記憶というものは早々簡単に消え失せてしまうものではないだけに、貴重だと言える。だから、時間と労力とを惜しみなく注いで練習に励むことには意味があるというものだ。

 今さら、スポーツでの「フォーム作り」に熱中しようというつもりはないが、意を傾けてもよいと思っているものに、「行動スタイル作り」というようなものがある。
 スポーツでの「フォーム作り」と同様に、ビジネスや日常生活での行動(判断や対処方法など)においても、「定型的」な「スタイル」がありそうだし、それが身に付いているとスポーツでの成果にも似たコンスタントな好成績を期待することができそうだ。
 こんなことはこの歳になって言うべきことではなく、優秀な人たちはすでに若い時から実践してすでに自身を「マシーン」に改造しているはずであろう。いわゆる「プロ」として一目置かれている人たちは、大なり小なりこの人種だと言えそうだ。
 こうした人たちも、おそらく日々の研鑚を怠ればたちまち「プロ」の座から滑り落ちる厳しさを持ってはいるのではあろう。だが、それにしても羨ましい限りである。自身の内側に貴重な無形価値を抱え込んでいるからである。若い人たちも、目先の金儲けだけに目を向けずに、自身の内部に価値あるものを蓄積しておくに超したことはなかろう。

 自身を振り返った場合、残念ながら、「腕に技術」というような明瞭な形での価値あるノウハウは形成してこなかったと言わざるを得ない。何に血迷ってか、彷徨ってか、「すぐにカネになりそうな」あるいは「潰しが効く」ような技術なりノウハウなり、あるいは資格なりをすっ飛ばしてきた嫌いがある。
 これも性分だから何とも言えないのだが、「潰しが効く」ようなものへの関心よりも、その前提になっているはずだと思われた「メタ」ノウハウ( ex. 思想、哲学、一般科学……)に色目をつかい続けて、まさしく「無形・無能の価値」(そう言えば「無能の人」[by つげ義春&竹中直人]という衝撃的な作品があった……)に血迷ってきたのかもしれない。
 しかし、そんな自分でも、いや、そんな自分だからと言うべきなのかもしれないが、自分自身の内部に、何か確かな価値をアウトプットできるような「行動スタイル」を蓄積したいものだと考え続けている。
 ただ、自分の存在証明なんぞと肩を怒らす必要はないと思っている。所詮、人間各位に確固たる存在証明なんぞはあり得ないのであって、すべての人間には「無能の人」に漂うような所在無さがつきまとっているはずなのである。ヘンな譬えを出すならば、停年退職となった人の薄ら寂しさは、別に停年退職となったから存在証明を剥奪されてそうなるのではなく、元来の条件にやっと気づく機会を与えられたに過ぎないわけであろう。

 だが、何か確かな価値をアウトプットできるような「行動スタイル」を模索し続けることは、重要なことであるに違いなかろう。そうした模索をし続ける限りにおいて、人間であり続けることができそうに思える。人間とは「自転車操業」を旨とする存在なのではなかろうか…… (2007.06.05)


 鏡が曇っていると、どんなに鮮やかな実景もくすんで映すしかない。当然のことだ。
 鏡を人間にたとえるならば、眼の網膜などの視角作用を想定することもできようが、自分が今さらのように思うのは、脳自体の働きについてである。
 われわれの外界である日常環境は、自然環境にしても社会環境にしても、そうコロコロと日毎に変わるわけではなかろう。時代環境が激変するとはいっても、朝起きてみると驚くばかりに変わっていたというほどのことでもないはずだ。
 しかし、お天気屋の自分だけなのかもしれないが、気分というものも含めた脳の働きが変わると、まるで世界が変わってしまったかのような印象を受けてしまうものである。脳の働きは、これまた自分だけなのかもしれないが、日毎大きなバラツキがあるかのようである。
 今日のように、清々しく外界を受け入れることができるかと思えば、昨日のように、さほど天候は違わないにもかかわらず、イライラ感や不快感を伴って外界を映す場合があるものだ。
 明るい戸外の景色にしても、今日のように素直に輝かしいものとして受け入れられることもあれば、昨日なぞのように、何と白々しいのかと恨むような形で受け入れることもあり得る。
 つまり、脳の働きという鏡の状態によって、外界の様子はかなり異なって受けとめられてしまうということである。

 自分の場合、この脳の働きをベーシックに左右しているのは、明らかに前夜の睡眠の質のようである。ぐっすりと良く眠れた翌日は、別に「社会改革」がなされたわけではないにもかかわらず、社会と世界が穏やかで好ましく思えたりする。また、他人様のことで多少気になることがあっても、容易に受け流すことも可能であるようだ。要するに、余裕と言ってよいものが生じて、万事がうまく回転してゆく気配となるのである。
 この逆もまた然りであり、昨日なんぞは、陰々滅々とした気分であり、それにしっかりと染まった外界が広がっていたようであった。
 昨日は、前夜に何度も目が覚めた上に、朝は朝で目覚めのタイミングが悪かったと見えて、朝から脳の働きが不調としか言いようがなかったのだ。そんな時は、コーヒーを飲んでも、何をしてもスッキリしない。
 若い時代から同様の傾向があったと思われるが、昨今は、この傾向がもろに形となってしまうので恐れ入っている。

 こんな経験をしながら思うことは、脳の働きについての管理ということであろうか。
 これは、脳を強化するトレーニングとかというものではなく、気分や心と表裏一体であるはずの脳の働きを、どう健全な状態に仕向けるかという問題なのかもしれない。
 最近は、高齢化にともなう認知症問題が注目されているせいか、脳のトレーニングなんぞというものが持てはやされたりしている。だが、どうもあまり感心できないでいる。
 脳というものは、元来がそんなこと(トレーニング)をして強化されるものではなく、むしろ自然かつ快適な状態に置いてやることが重要なのではなかろうかと直感している。 『「感動」するとなぜ脳にいいか?』(大島清)というような本があるが、基本的にはこのコンセプトに自分は賛同している。きっと、「感動」にまで至れれば言うことなしなのだろうと思えるが、そこまでを望めない場合でも楽しいこと、ワクワクすること、好奇心などが、脳の働きを覚醒化させるであろうことは容易に推測できる。
 脳というものは、常に「楽しい刺激」を求めるものであり、それらによってこそ自己活性化を図っているような気がする。脳科学的に言うならば、そこにはさまざまな脳内物質が関与していそうである。
 そして、脳が自堕落となり、自暴自棄となるのかもしれない環境とは、脳自身の働きが無視されるかのような「わかり切った成り行き」、「どうにもならない成り行き」が、だだ連綿と続くような環境ではないかと思われる。感覚的な言い方をすれば、「ラクそのもの」、「退屈そのもの」が片方の極にあり、もう片方の極には、「絶望」があると言えるのかもしれない。

 高齢化時代がいよいよ本格化しつつあり、高齢者医療・福祉の重い課題が社会の背に圧し掛かって来ているようである。現時点では、その課題に関しては、財政問題のみに関心が向けられようとしているかのようだ。それも不可欠な視点ではある。
 しかし、それだけではとてもじゃないがその重圧からは逃れられない気がしてならない。予防医学こそが最もエコノミーな医療体制だと言われるが、その通りなのであり、高齢者たちが、自前で脳の働きを活性化させるようなそんな社会環境、文化環境を作り出して行くことこそが、認知症をはじめとした高齢者の脳と心のケア体制には必須なのではなかろうか。
 これらは決して他人事で言っているのではなく、自分自身にとっても、老化して脆くなり始めていそうな脳のことを想定するならば、脳の活性化のその本質が気にならないわけがないのである。
 ひょっとしたら、これはそんなに奇異な問題なのではなくて、要するに、「人間らしく」生きるということを素直に見直してゆくならば自ずから生活指針が現れてくるのかもしれない…… (2007.06.06)


 最近、朝一番にPCを立ち上げる際、そのうちの一台が、同じ症状で「致命的エラー」を起こすことが頻発している。PCは複数台を並行して使用していることと、システム・ドライブのバックアップを常に用意しているため決してパニックにはならない。多少の手間は掛かる程度のことである。
 原因が特定できないでいるのだが、どうも、システムのインストールそのものに問題が潜んでいそうな気配がしている。

 このシステム・ドライブは、ちょうど食べ物屋の老舗の仕来りに似ていそうなのである。つまり、よく、そうした老舗の店では先祖代々から伝わる「タレ」というようなものがあり、古い「瓶」なんぞに大事に蓄えられた「タレ」が、日々、伝統の方式が用いられて追加製造されていく、というあれのことである。
 当該のシステム・ドライブも、バックアップのバックアップを、そしてさらにそのバックアップをと重ねに重ねてきたものだ。おまけに、OSウィンドウズの更新部分の追加やら、ウイルス対策ソフトの追加更新やらと、さまざまな要素が積み重なっている。まあ、整合性は保たれているのではあろうが、何だか、上記の「老舗のタレ」のような印象が拭い切れない。
 不安を解消するためには、新規のハードディスクに、最新のOSをインストールし直し、アプリケーション・ソフトも同様に再インストールし直せば、きっとスッキリするとともに、冒頭のようなエラーも心配しないで済むのであろう。
 が、そうなると、結構な手間が掛かることは避けられない。複数のPCを援用しているのだから、仕事に決定的な支障が生じるわけではないものの、どうも腰が重く、そのままになり続けている。

 こんなこと、つまり、「老舗のタレ」で括られるようなもののことに眼を向けていたら、妙なことに気がついたものである。
 過去から保存されて伝わる部分がある一方で、日々新たに追加されていくようなものといえば、それは「人間の身体」そのものがそれに当てはまるじゃないか、ということなのである。
 要するに、人間の身体、いやこれに限らず生物のボディというものは、細胞の新陳代謝によって、同様の「差し替え」が日々行われているはずなのである。決して、同じ細胞が何十年と生き続けているわけではなく、適時、スクラップ・アンド・ビルドが敢行されて、リニューアルされているわけなのであろう。
 これは、まじまじと考え直してみるならば、大した仕組みだと思えるし、同時に、よくも本体の本質が損なわれることなく「差し替え」が行われ続けるものだと感心してしまうのである。それを司っているのが、遺伝子やDNAの働きだということになるのだろう。だが、それにしても、種の再生産においては「突然変異」という事態も起きているのだから、個体における細胞再生産においてもそんなものが起きたとしても不思議はない。にもかかわらず、そんなことは滅多に発生しない。イボだとか、ホクロだとかというものが、時として生じるエラーのケースなのであろうか。まあ、その決定打とも言える恐いケースは、いうまでもなく癌ということになるのだろうか。

 生物の身体は、こうして日々再生産されながらも、恒常性が保たれているわけで、やはり、これは大した仕組みだと感心せざるを得ない。
 いわゆるコンピュータ・システムもこうであってほしいものだと思わざるを得ない。いや、その前に、人間社会における組織的営為こそが、「老舗のタレ」よろしく、しっかりと誤謬なく継承されなければならないであろう。厚生労働省の「年金問題」のずさんな管理が報じられ続けているのに接する時、この国の伝統のひとつであるに違いない「老舗のタレ」管理の方式が、もう一度じっくりと省みられていいと思ったりする…… (2007.06.07)


 いろいろとヘンなことがあるため、気付かずにいたが、梅雨の訪れる気配がない。
 月初には、そろそろ嫌なシーズンになると身構えだけはしていたものの、晴れれば晴れたで爽やかさを享受していたため、すっかり梅雨時なのだという自覚が薄れてしまっていた。
 しかし、体内時計ではないが、体内に季節感のようなものがあるのかも知れず、こうして晴れが続く天候に何かちょっとした違和感を感じたりしないわけではなかった。
 どうも今年の梅雨は大幅に遅れそうだと聞く。ということは、「省略」されてしまう可能性も無きにしもあらずなのかもしれない。個人的には、何かと鬱陶しい連日の雨模様という期間が無ければ無いでも構わないと思う。が、一般的には「水不足」という困った事態が生じるため、やはり「鬱陶しい連日の雨模様という期間」は、「なければならない」(今流行りの「あってはならない」の反対)ようである。
 雨降りだと、自分は何が嫌かといって、もはや必須の日課となっているウォーキングに少なからず支障をきたすからだ。まあ、傘を携えてでも敢行するはずではあるが、晴れているに越したことはないわけだ。

 ところで、話はウォーキングへと転換してゆくが、昨今はあちこちで年配の「ウォークマン」を見かけるようになった。その場合、半分くらいの方が「リュック」を背負っていらっしゃる。そして、歩き方も含めたその格好が、それはそれで「ひとつの説得力」めいたものを漂わせておられるのである。
 どうお世辞を言おうとしても、決して「カッコイイー」ということにはなり得ない。「ひとつの説得力」めいたものとは、人生の悲哀と言い切ってもいいし、あるいは歴史限定的視点に立って、終戦直後の荒涼とした街のドサクサを彷徨う雰囲気と言ってもよかろうか……。
 昨日も、とある年配の方がそのように歩いておられた。クルマの中からチラリと見かけたのである。強烈な印象であったのは、そのお顔つきであった。表情なのである。もう少しリラックスしたお顔をされてはどうでしょうか、と助言したいくらいのキツイ表情であった。しかし、再度注目すれば、それだけではなかった。
 シャツの裾はもちろんズボンのベルトの下に格納され、両袖は二の腕が出るほどにキチンと捲り上げ、畳まれている。そうして、リュックを几帳面に背負い、まっすぐ前を向きながら前方を眉にしわ寄せながら凝視してお歩きになっておられたのだ。
 自分は、その姿を見た途端、ズッシリと思いリュックを背負わされたかのような重圧感を身体中に感じてしまった。そのお方が、その姿通り、辛いというか、決して軽やかとは言い難いなんだかんだが込み入ったグレーの毎日をお過ごしなのだろうかと、瞬間的にそんなイメージが伝わってきたのであった。
 もしかしたら、決してそのようなグレーやブラックの内実とは無縁の方であったのかもしれない。単に、クセとスタイルがそんな印象を放つだけのことであり、家に着けば愛犬にじゃれつかれてデレーッとした表情となり、「ポチくん、今日はおりこちゃんにちてまちたか。パパ今日は歩き疲れちゃったの……」なんぞとメルトダウンするお方なのかもしれない。それはわからない。

 こんなことを書くのは、何あろう、自分自身が他人さまから同様の見られ方をしてはいないかと、警戒したからなのである。リュックこそ背負ってはいないし、几帳面な腕まくりもしてはいないが、いつの間にか、キツイ表情、凝り固まった表情を曝け出していないとは言えないからなのである。
 いつぞやも、とんでもない陰口をたたかれたことがあった。女子短大のスクール・バスのバス停に幼稚園生のような女の子たちがワイワイ並んで待っていた。自分はその脇を、姦しいガキたちだ……なんぞときっと心の中で呟いていたのかも知れず、歩き過ぎようとしていた。と、後方から、ヒソヒソ話で、「ねっねっ、今の人の顔見た? 口がこ〜んなふうに『への字』になってんの!」と聞こえてきたのであった。
 それを耳にして、バカバカしい幼稚園生たちだと思わずふき出しそうになったものだったが、よくよく思い返すと、そっかー、自分は知らず知らずにそんなコワ〜イ顔して歩いてるんだぁ、と恐縮するに至ったのだった。
 別に、お子様たちに迎合するつもりなんぞ毛頭ないのだが、かといって恐がらせたのではいけないな、ケーサツでも役人でもなければ、ヤーさんでもないんだから、他人さまを威嚇してはいけない、と……。

 こんなヘンな時代だと、ついついマジに反抗心剥き出しのコワ〜イ顔になったり、真偽のほどを糾す仏頂面になりがちである。しかし、そんな顔をしている時というのは、きっと脳内にも同じような凝り固まった状況が出来あがっているのかもしれない。柔軟性が失われ、視野も狭くなっていそうである。それはちょうど、喧嘩をしている犬猫が、相手の姿以外の光景を視野に入れていないのと似ていると言うべきか。
 作り笑いができるほどに器用な性質ではないけれど、また、いつも他人さまに好感を抱いてもらおうというような殊勝な思いがあるわけでもないけれど、気持ちにゆとりめいたものを生み出すために、ちょいとは自分自身の表情に気を遣うべきかと思ったりした…… (2007.06.08)


 自宅の庭にシャラ(娑羅。ナツツバキ)の樹が植わっている。門扉の近く付近に、6〜7mの高さとなって聳えている。自分はこの樹を気に入っている。
 日本でいうシャラとはナツツバキのことであり、インド原産の娑羅とは同じものではないらしい。インド原産の娑羅の方は、「娑羅双樹(さらそうじゅ)」としての謂れがあり、釈迦が涅槃に入った臥床(がしょう)の四方には娑羅樹が2本ずつあったとされ、涅槃の際には東西・南北の双樹が合してそれぞれ一樹となり、樹色白変したのだという。また、平家物語ではあの有名な一文、「娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」が知られている。

 インド原産の娑羅樹に関しての詳しいことは良くわからないし、またこの国のシャラとの関係も知らないのであるが、シャラは、何となくいわくありげな気品を漂わせているようで、心を許しているのである。野鳥たちも気に入っているようで、オナガドリやムクドリなども時々枝に留まる。
 この樹が「ナツツバキ」と名付けられている理由、その真相は知らないが、自分の推測では、開花し終わった花の散り際のよさから来ているのではなかろうかと思っている。散り際といっても、桜のようにハラハラと散るのではなく、まさに、ツバキの花が艶やかな姿のまま「ポトリと落下」するごとく、直径2センチほどの白い花が原型を維持したままでポトリポトリと落ちてくるのである。ちょうど今がその季節であり、シャラの樹の下は、無数の花で埋まっている。
 樹の枝を見渡すと、まだ多数の花が咲いているため、この「ポトリポトリ」は今しばらく続く気配だ。だからしばらくはそのままにしておこうかとも思っていたが、あまりにも多数の花で、庭の飛石も隠れてしまうほどなので、ようやく今日は、箒で掃くことにしたものである。

 こうして花が落ちてしまって「実」はどうなるのかと余計な心配をしそうなものだが、花を離脱させた根元の方に「実と種」が孕む箇所が存在している様子である。その証拠に、秋にもなるとパチンコ玉の大きさほどの「実」が無数に実り、それをねだる野鳥たちが頻繁にやって来る。
 ツバキやシャラのように「ポトリと落下」する花というものは、言う人に言わせれば、縁起が良くないとも言う。まるで、武士の世の慣わしであった「馘首(かくしゅ。首を切り取ること)」を想起させるからなのであろうか。まあそうした連想が容易に生まれるようなおどろおどろしい時代もあったにはあったのだろう。現代でも、リストラ(大量解雇)の波が荒れ狂った頃は「ポトリポトリ」現象だったと言えないこともない。

 しかし、ツバキやシャラの「ポトリと落下」という現象を、人間界の野蛮な忌事と結びつけたのでは、ツバキやシャラたちが気の毒というものであろう。
 植物の花の「ポトリと落下」という現象は、きっと彼らの生存における精一杯の「合理化」なのではないかと推測する。つまり、「受粉」のためだとも言える開花でその役割が終わったならば、速やかにその花の部分を切り離して植物にとってのエネルギー負荷を軽減することがサバイバルのための「合理化」だと思えるからなのである。いつまでも、花を付着させていたのではおそらくその「維持」のためにエネルギーを消耗することになるからかと思われる。
 そうしてみると、「合理化」という言葉も出てきてしまったし、リストラという社会現象との間には妙な類似性を認めざるを得ないということになるか……。

 しかし、人はいろいろと「見た目」に囚われて時として判断を狂わせたりしているのに対して、静かに佇む樹木たちは、サバイバルに向けて何と健気で、機能的で、実質的であることか…… (2007.06.09)


 降られそうかと危ぶんでいたが、自宅近辺まで戻った際に、ポツポツと雨が振り出した。歩いている時、道路の水溜りにポツンポツンという雨脚の気配が窺がえたので、朝のウォーキングはいつも以上に急ぎ足にした。一応、折り畳み傘を持参していたし、汗をかいた身体には多少の雨も気持ちがよさそうだとは思えたが、それでも濡れないに越したことはなかろうと足早に自宅へと急いだ。
 そして、帰宅してしばらくすると激しい雨音が聞こえてきたばかりか、雷さえ鳴り始めたものだった。何とタイミングの良いことかと、ささやかな幸運を感じたりした。
 今年の梅雨は遅れるとは言われていても、やはりこうした降雨があるのだと納得する。ただ、雨が少ないとはいうものの、空気は十分に湿っており、そのせいか梅雨時特有の雰囲気が満ちている。植込みや樹木の傍を通り過ぎると、そうした湿った空気を伝わって植物たちの青っぽい香りが漂ってくるのである。良い香りだとまでは言わないまでも、清々しいという思いにさせられるのは確かだ。

 雨が上がってから庭に出てみると、植木の緑が実に鮮やかで、また各々の葉が水滴をたたえて、みずみずしい光景を作り出していた。小さな空間に雑多な植木がひしめいている平凡なわが家の庭であるが、時として新鮮な気分とさせてくれもする。
 ウォーキングをするために、人さまの庭を見るとはなく見ることになる。そして、それらの庭は、概して丹精に手入れされており、羨ましく眺めるのが常である。
 元は農家であったかと想像される家の庭は大抵広い。優にもう一軒母屋が建つほどのスペースであり、形の良い松をはじめとした立派な植木たちが、通りすがりの人たちに自信たっぷりの表情を見せつけている。そうした植木たちは、家人によってではなく、本職の植木職人に剪定してもらっている様子である。現に、定期的に植木職人が出入りしているのを目撃してもいる。
 そうした庭は確かに、様になってはいる。しかし、負け惜しみを言うわけではないが、それだけのことのようであり、それ以外に特別の情感を感じさせるものでもなさそうである。平凡さや、ややもすれば紋切型の退屈な光景でしかないとさえ言える。

 かといって、自宅の庭に個性的な雰囲気があるのかといえば、何もない。さして陽も当たらないし、狭い。それを理由にしたくはないが、「管理者」自身も怠慢この上ない。だから、自ずから人さまの庭のことをとやかく言えるほどの庭景色になるわけがない。「成り行き」的な空気が満ち満ちているとでも言うのが実情であろう。
 が、そんな庭にも愛着を感じるのは、まさに人情というものなのかもしれない。植木たちは、時として異様な速度で枝を伸ばし、そのそれぞれにうっそうと葉を茂らせたりして閉口させはする。しかし、その挙動からは、勝手気ままなことを仕出かしているというほどの不快感を感じさせられることはほとんどない。
 むしろ、ろくに手入れもしてやらないのだからしょうがないよなあ、という自責めいた思いにさせられたり、そんな状況下でも卑屈にならずによくやってるよ、というような心境になったりするのである。こうした、客観的な基準とは別な次元に生まれる諸々の情感が、愛着という感情の正体であるのかもしれない。家庭、家族が持つ特有の感情要素と同じであるのかもしれない。

 今日は、そんな庭木たちが、久々のお湿りでしっとりとしたみずみずしい姿となっていたのである。自分は、そうかそうか、と相槌を打つような気分で、庭にデジタル・カメラを持ち出し、見事に開花したユリの鉢やら、そしていつでも咲いているようなドクダミの白い花などをスナップ・ショットしたのであった…… (2007.06.10)


 中国でも、人々はピリピリとした心境で「この時代」を過ごしているのかと推察した。もちろん、「この時代」とは野蛮なグローバリズム経済が席巻する時代のことである。
 そんなことに関心を向けたのは、以下のような報道に接したからである。

<市取締官の住民殴打で暴動 中国・重慶
 香港の人権団体「中国人権民主運動情報センター」は9日、中国重慶市で3日、「城管」と呼ばれる市の取締官が路上で花を売っていた農民らを殴打したことに住民が怒り、駆けつけた警察当局との間で大規模な衝突に発展したと報じた。河南省鄭州市でも6日に女性が取締官に殴打されたのを機に暴動が起きるなど、城管をめぐる騒動が目立ってきている。
 同センターによると、重慶市内で数人の城管が花売りの農民夫婦を殴打。夫はシャベルで頭を殴られ、危篤だという。さらに城管は目撃者の女子学生を殴るなどしたため、周囲にいた住民が激怒。1000人を超える住民と駆けつけた100人以上の警察が衝突し、住民10人がけがをした。
 城管は城市(都市)管理当局員の略称。地方政府で違法建築、無許可営業、駐車違反、環境破壊などを取り締まる権限を持つ。>( asahi.com 2007.06.10 )

 なお、同事件に関する<nikkei.co.jp>の記事では、<中国・重慶、数千人の群集が警官隊と衝突>とあった。
 <1000人を超える住民>にせよ、<数千人の群集>にせよ、少なからぬ民衆が抑え切れない憤りを覚え、抗議の行動に出たことには違わない。

 この記事を目にした時、自分は咄嗟に以前観たTVドキュメンタリーを思い起こさざるを得なかった。それは、『NHKスペシャル 激流中国 富人と農民工』(2007.04.01 放送)というものであり、グローバリズム経済の怒涛のうねりを是認する中国政府が、同時に著しい「格差」の発生をも事実上追認している実情を報じたものである。

<個人資産300億円以上、巨万の富をたった一代で築き上げた会社社長。改革開放の波に乗って、不動産投資などで成功を収め、今も1回に何億もの金を株などの投資につぎ込む。富がさらなる富を生み、笑いが止まらない。かたや日雇い労働で手にする日当はわずか600円ほどの農民。家族を養うために農村から都会に出てきたものの、ようやく見つけることができた仕事は建設現場の厳しい肉体労働。毎日、自分が暮らしていくのが精一杯で、そこからはい上がることはできない。中国では、今、こうした光景は決して珍しくない。社会の中で格差が広がり、勝ち組と負け組の差が鮮明になっている。中国政府は、今、経済成長を最優先してきた結果、生まれた歪みの是正を最優先課題に位置づけ、「調和の取れた社会」「みなが豊かになる社会」建設をスローガンに掲げている。
なぜ格差は拡大し続けるのか、貧しい人々がはい上がるのが困難な理由は何か。
貧・富それぞれの現場に徹底的に密着し、中国政府が今、最大の課題とするこの問題に迫る。>( NHKオンライン www.nhk.or.jp より)

 この番組では、<日雇い労働で手にする日当はわずか600円ほどの農民。家族を養うために農村から都会に出てきたものの、ようやく見つけることができた仕事は建設現場の厳しい肉体労働。毎日、自分が暮らしていくのが精一杯で、そこからはい上がることはできない>という農民の悲惨な姿が克明に追求されていた。
 農家の若い嫁が、都会の<建設現場の厳しい肉体労働>を探して、単身で都会に出ざるを得ないケース、子どもが腕を骨折して指が開かなくなっているにもかかわらず、医療費が無いためにそのままの状態で耐えさせている家族のケース、若夫婦がこぞって都会に出てきたものの職にあぶれる日々が続き、その不安と苦悩が二人を夫婦喧嘩に追い込んでもいるケース、また、建築現場では、過激な出来高払いの方式によって牛馬のように日雇い人たちを働かせているケース……。いずれもが、日本の経済史、労働史の中でも最悪であった頃の状態の再現、いや、そうした農民たちが現在の華やか過ぎる都会の光景を目にすることになるだけに、もっと残酷な状況なのではないかと、身震いがしたものであった。

 冒頭の報道記事に戻るが、こんなにも過激な格差社会があり、底辺の「負け組」農民たちに累積するやり切れない挫折感と無力感、そして時代環境への募る恨めしさが備わってしまうと、必然的に一触即発の空気が充満するのだろうと思われてならない。
 まして、やむなく路上での花売りをせざるを得ないような農民夫婦は、民衆たちにとっては例外的な存在どころか、我が身同然の同朋であるに違いない。また、役人たちが、日常茶飯のごとく権力に物を言わせながら利を追求しているとの醜聞も民衆たちの耳には届いていよう。
 おそらく、現在の中国においては、こうしたトラブルは、何時どこで持ち上がってしまっても不思議ではない危険水域に達しているのではなかろうか。
 幸いと言ってよいのかどうか、同じ強烈な格差環境が積み上げられようとしているこの日本社会にあっては、まだ群集的なトラブルは起きていない。ただ、頻発している破れかぶれのような個人犯罪はそうした社会的トラブルの予兆ではないと言い切れないのかもしれない。
 「窮鼠猫を噛む」ことを水路付けてしまうような圧政に黄色信号が灯り始めているのだろうか。しかし、そんな時期にあって、フランスではサルコジ政権の下、グローバリズム経済改革賛同派が多数を占めるようである。一体、世界全体はそんなに一方的な「リスク・テイキング」に強気となって大丈夫なのであろうか…… (2007.06.11)


 自分が20年以上も前に勤めていたソフト会社は、技術者派遣を主体とするいい加減な会社であった。だからこそ、ほとほと愛想が尽きて辞めたわけでもある。
 ただ、当時のソフト会社のすべてそうだったというわけではないが、当時は、ソフト開発会社といっても、社員の大半が長期に渡り現場に常駐する派遣型技術者(技術者という呼び名が妥当であったかという疑問もある)であるという会社が少なくなかった。
 そもそも、当時のソフト会社は大なり小なり派遣型労働に手を染めてきたはずなのである。と言うのも、当時のコンピュータ環境は、「大型汎用機」が主体であり、現在のような手頃なパーソナル・コンピュータ(PC)などは極めてまれな存在であった。だから、ソフト会社が自前で高額な「大型汎用機」、あるいはオフ・コン(中型オフィス・コンピュータ)なぞを保有するわけがなく、大企業や官庁の現場に設置された「大型汎用機」の膝元で仕事をするしかなかったのである。

 なぜこんなふた昔も前のことを書き出したかというと、冒頭に書いた以前に自分が勤めていたソフト会社では、多くの派遣先ユーザを抱えていたのであるが、その中に、「社保庁(社会保険庁)」の現場があったのを思い起こしたからなのである。
 ただ、その会社はもちろん直接「社保庁」と契約していたのではなく、その間に大手電気メーカ系列のソフト会社が介在していた。そうした(コンピュータ)メーカ系大手ソフト会社は、大企業や官庁などへ大型コンピュータを導入することを主たる売上としていたわけだが、あわせてそのコンピュータを稼動させる業務用ソフト(アプリケーション・ソフト)の開発をも請負って莫大な売上としていたのである。
 ただ、大手ソフト会社が抱えた技術者たちだけでは圧倒的に人手不足な状況だったため、在野のソフト(派遣)会社から大量のスタッフを招き入れていたのだった。
 ここで言い添えておくと、当時のソフト開発現場というものは、結構、時間的なゆとりは持ち合わせていたようだった。現在では、一般企業・官庁などの業務処理系にしても、あるいはファクトリー系での新製品向けソフト開発にしても、何がキツイといって、スケジュールが非常にタイトなはずである。ビジネスにスピードが強く要請されるようになったからだと言える。

 しかし、当時のソフト開発現場では、長期間での開発の案件が多く、3年、5年というスパンで開発が進められていた。コンピュータ・システムの黎明期だったからということもありそうだが、やはりビジネスにおけるスピードの尺度が現在とは全然異なっていたとも言えようか。
 こうした、さほどスケジュール的にタイトではない環境があったからか、そのスケジュールをこなすスタッフにも、現在ほど過重な技術力は要求されず、「素人プラスα」であれば現場のユーザ側担当者が教育して差し上げましょう、というような言葉まで飛び交っていたのであった。
 だから、在野のソフト(派遣)会社にとっては、「素人プラスα」の人材さえ確保するならば、月々の売上は計上される上に、その人材の教育までしてもらえるのだから、こんなに有り難い商売はなかったかと思われる。
 ところがと言うか、だからと言うべきか、こんな「システム」であったからここに登場する「人材」は、「人財」なぞという場合はレア・ケースであり、大なり小なり「人罪」であることが少なくなかったかに記憶している。

 この辺の事情、実態について書き始めると切りがない。今日は、前述の「社保庁」を現場としたスタッフ(わたしが任された百数十名の部下の一人)について書くにとどめる。 今でも、そのスタッフのどこか締まりがない表情と話し振りをよく覚えている。彼は、入社以来、数年に渡り「社保庁」を現場として勤務していた。どちらかと言えば、新規システムの開発というよりも、既存システムの保守およびメンテナンス的な修正開発を任されていた。
 自分が今書こうとしていることは、そんな継続勤務の過程で起きた出来事なのである。数年間も一つの現場に張り付けば、当然、彼の下に後輩を導入したり、そして彼がリーダーとなってグループをまとめる、という課題も生じてくるわけだ。
 そしてその時が訪れたのだったが、彼は、予想に反して「狼狽と抵抗」を激しく繰り返し、「リーダーになるくらいなら、会社を辞めます」とまで言い出してきたのである。
 プログラマーというような技能職を志す若い人たちには、「人付き合いが下手、苦手」であるがゆえにその道を歩もうとする者が少なくない。で、そうしたタイプというのは、決められた個人作業をこなし続ける分には黙々と頑張るものであるが、チーム作業となったり、ましてユーザ担当者と折衝をしたり、部下のような若手の面倒まで見なくてはならなくなるという状況には、過度の不安と恐れを抱くことになるのだ。
 当該の彼の抵抗をどんなふうになだめ、激励したのかはもはや定かには覚えていない。しかし、かなりの長期戦で奮闘したような記憶が残っている。

 今、世間では、年金問題に関する「社保庁」の杜撰な管理が白い目で見られ、コンピュータ・システムさえ胡散臭い視線を浴びつつあるようだ。
 別に、上記の彼が采配を振るって立ち上げたコンピュータ・システムであるわけがなく、彼はその化け物のように巨大なシステムの膝元を駆け回っていただけなのかもしれないが、最近ふと、彼のことをしばしば思い起こすのである…… (2007.06.12)


 日本人の名前は、基本的には漢字であるため読み方が難しい。苗字もそうであるがファースト・ネームとなるとさらに困惑させられることもある。したがって、まともな日本人であるならば、漢字名にはふりがなを付すことを慣行としている。大事な人名を読み間違えないためにである。
 しかし、現在、国民を不安に陥れている「社保庁」の「五千万件の所在不明の年金記録」問題の原因はどうも、この点に関係していそうである。

 昨日、ふた昔も以前のこと、「社保庁」のコンピュータ・システムに関与していた、当時、自分の部下のひとりであった男の話を書いた。
 「どこか締まりがない表情と話し振り」という印象を記憶している男なのであった。別に、彼のことを悪く言うつもりなぞ毛頭なく、彼は彼で精一杯努めていたことは承知している。
 ただ、現時点で「社保庁」のコンピュータ・システムに致命的な設計ミスがあったのではないかとの目が向けられている時、当時のシステム開発環境を振り返ってみるならば、どうも彼の茫洋とした印象が象徴的に蘇ってきたのであった。

 つまり、当時の公共的コンピュータ・システムの開発というものには、何か茫洋とした雰囲気がつきまとってはいなかったかと、首を傾げないでもないのである。
 その訝しい感情の焦点には、とにかく「行け行けドンドン」的にコンピュータ・システムが構築されて行った推移があると言える。コスト・パフォーマンスの吟味はおろか、将来にわたる広い視野でのシステム洞察というものがしっかりとなされたのかどうか、甚だ疑問を抱かざるを得ないのだ。
 それはあたかも、税金を湯水のように使って、全国各地に「保養所」と称される「箱もの」建造物が「行け行けドンドン」的に造られた推移と酷似していそうである。
 ここには、大手ゼネコンが介在する代わりに、大手コンピュータ・メーカーとそのソフト部隊とが暗躍していたはずである。自分が見聞した範囲だけでも、某メーカー系のソフト会社営業部門が、とある公共部門と「密接な関係」を形成していた記憶がふんだんにある。システム的な意味がどうこうというよりも、年間開発予算だけが取り沙汰されていたような雰囲気が漂っていたものである。まあ、この辺の事情は、どこでも似たり寄ったりなのであろうが、出来上がるシステムに問題があるのかないのかが当然気になったものである。

 それというのは、コンピュータ・システムというものは、建築物の、例えば「耐震構造設計」と同様に、外部の素人からはなかなか吟味しにくいものだからである。そして、当時、公共的システム開発の発注側である官庁関係の人材の中には、どの程度、コンピュータ・システムに明るい者がいただろうかと疑問を持つわけである。
 昨今でさえ、官庁や役所関係のコンピュータ・システムには、いろいろな盲点が潜んでもいるらしい。税務関係のとあるシステムが、巨大な予算を投じていながら、ほとんど使われてはいないというニュースを聞いた覚えがあるが、そのシステムが本当に役立つのかどうかという吟味の問題やら、仮に役立つとしても、果たしてシステム設計が妥当かどうかを精査する発注側の人材が存在しているのかどうかなど、危うい点が多々あるようなのだ。
 まして、当時は、公的な財政状況は今ほど悪くはなかったから予算に関しては「緩い空気」が支配的であっただろう。また、現在でこそ公共部門に情報関係技術に通じた役人は増やされただろうが、当時は、官庁、役所の人材と言えば、コンピュータに関しては部外者という者が大半であったと推察される。

 こうした状況下で、大手コンピュータ・メーカーとそのソフト部隊が主導するかたちで、巨大で、大量の公的コンピュータ・システムが構築されて行ったのだと考えられる。しかも、「行け行けドンドン」的にである。
 企業のコンピュータ・システムであれば、激しい市場競争原理の中で、システムの見直しやら改変やらが不可欠とされもしてきたはずである。だが、公的なシステム、それも年金のような対国民給付サービスのような性格のシステムがどのようなプライオリティを付されてメンテナンスがなされてきたかは想像にあまりある。
 これは、類推でしかないが、公的コンピュータ・システムに関しては、情報漏洩の問題もさることながら、今回の年金システムのようなきわめて杜撰な内情がほかにも多々存在するのではないかという危惧の念を抱かざるを得ない。もちろん、この点は、官庁や役所が、情報のディスクロージャーを徹底しないので市民、国民は「知らぬが仏」の状態にあると思われる。

 ところで、冒頭の「社保庁」の「五千万件の所在不明の年金記録」問題の原因についてであるが、次のようなサイト記事が目に付いたので引用しておきたい。

< 五千万件の所在不明の年金記録について、氏名の読み仮名の誤りが起きる仕組みになっていたことが、十二日の参院厚生労働委員会で明らかになりました。日本共産党の小池晃議員が、社会保険庁年金保険部業務一課・二課刊行『三十年史』をもとに取り上げたもの。
 『三十年史』では、氏名を入力するさい、カナ変換ができないため漢字にひとつずつ四ケタの固定数字を付けて五千四百万件の記録を入力。その後、変換辞書によってこの数字をカナ氏名に置き換えたとされています。
 同書で実例としてあげている「島崎藤村」の場合、こうしたやり方で変換すれば、「しまさきふじむら」と誤って記録される可能性があります。
 小池氏は「これでは誰のものか分からなくなるのも当然。五千万件の宙に浮いた記録の原因のかなりの部分がここにある。システムそのものに問題があったのは明らかだ」と指摘しました。
 「なぜ今まで隠していたのか」という小池氏の追及に、青柳親房社保庁運営部長は「私も今日見つけてきた」と答えて失笑を買い、「正確でないカナが収録された可能性がある」と認めました。
 小池氏は、新たに千四百三十万件の不明記録が判明した問題で、その数が『三十年史』で千七百五十四万件と記されている事実を指摘し、「国会で指摘されるたびに新しい数字が出てくる。本当の数字はどうなっているのか」と追及。社保庁側は、まともに答えることができませんでした。……>( http://www.jcp.or.jp/akahata/ 2007年6月13日 )

…… (2007.06.13)


 TVコマーシャルを大々的に実施して衆目を集めている企業の不正問題が次々に明るみに出てきた。介護サービスの"コムスン"であり、英会話学校"NOVA"のことだ。
 きっとこれらは、現在の度外れた市場競争原理の中での歪みに関する氷山の一角なのではないかと推定する。そして、こうした「えげつない」不正業務と空疎なイメージ先行のTVCMとが両輪で跋扈(ばっこ)している不思議な実態が、まさに現代環境であるかのようだ。
 つまり、現在の市場「競争」とは、バレなければ「何でもあり」であり、バレないためのカムフラージュ(敵の眼をあざむく手段・方法。偽装と迷彩!)としてTVなどの情報メディアが最大限に弄されるところに顕著な特徴があるようだ。

 "コムスン"にしても、"NOVA"にしても、当該業界ではトップ企業と目されていたはずである。そして、なぜそう目されるようになったのかを単純に推理してみるに、派手なTVコマーシャルの結果だと言えそうな気がする。
 「ウソも百回言い続ければ……」ということわざがあるが、TVコマーシャルが果たしている現実的な機能を言い当てているかのようである。決して、すべてのTVコマーシャルが不正企業に加担しているとまでは言わないが、TV局とて広告収入を頼みとするビジネスである。企業活動と当該のTVコマーシャルが妥当な関係にあるのかどうかまでうるさい事は言わないであろう。本来は、当事者としてそうした吟味をすることが、視聴者に対する誠実な義務であると思われるのだが、期待すべくもない。

 どうも、「何でもあり」という風潮がこの時代の浅ましい現実となっていそうな気配である。どうして、「美しい国」日本がこんなに浅ましい実情となってしまったのであろうか。
 もはや、その浅ましい実情の例示をするにはおよばないかと思える。あまりにも、そうした例があり過ぎて、経済領域、社会生活領域、そして政治領域とあらゆる領域において浅ましい事件が噴出しているありさまである。
 この際、その原因を細かく分析をしてわけがわからなくなるよりも、ざっくりと切り込んだ判断をした方が妥当なように思える。
 先ず第一に槍玉に挙げられるべきは、政府の経済政策において、市場原理を最優先に位置づける政策が拙速に行われたことではなかろうか。もともと「経済」とは「経世済民」のことだったそうで、その意味は、世の中を治め、人民の苦しみを救うこと、と言われてきた。しかし、現時点での経済は、世の中が悪化する契機を作り出し、人民の苦しみをただただ増大させている、と言えなくもない。
 政府が念頭に置くべき経済とは、視野が狭隘化した経済学者たちが机上の空論を弄ぶ事象ではなくて、まさに「経世済民」という言葉に盛られた意味での「経済」のはずであろう。
 それを、市場原理に過大な思い入れをして、「構造改革」というわけのわからない、そう、あたかもTVコマーシャルのフレーズのような掛け声で、市場原理に身を委ねる舵切りをしたわけである。とりわけ、あのK首相は。今でも、なんという浅ましい政治家であったことかという印象が拭い切れない。

 とっくの昔から、この資本主義経済での市場原理が、決して神の手のようには作用せずに、一方で恐慌のような経済大混乱を誘発させること、また他方で、凶暴なその原理が、社会的弱者を大量排出させて社会の基本機能まで阻害することになることなどが常識とされていたはずである。後者に関しては、そのための国家政策として、社会政策、社会保障政策などが前提視されていたかと思われる。
 これらの重い社会的傾向およびその根っこは、時代が変わり、社会主義国家が「自滅」したからといって、自然解消されるものではなかろう。現に、いつクラッシュするかもしれないグローバル経済のリスクも存在しているし、また、市場経済最優先を叫んでいる国々では、過激で新たな「格差社会」が深刻化してもいる。
 まあ、要するに、一国の経済は、市場原理に任せておけば足りるというようなマンガ的現実では毛頭ないはずなのである。

 だが、一国経済の進路は、信じられないほどに単純な首相Kによって大きく舵切りされてしまった。もっとも、K首相以外であっても、現行の自民主導の政権であれば同じ選択がなされたはずだと思われる。そして、現在と同様に、市場原理こそがすべての価値判断の中の「キング・オブ・キングズ」だと見なされるに至ったのではなかろうか。
 ただ、K首相は、市場原理を「キング・オブ・キングズ」の位置に据え付けるために多大な「貢献」をなさったと思われる。つまり、市場原理に沿うものであれば「何でもあり」という価値観の相対化を徹底させるために、随分と「貢献」されたものだとマイナス評価してあげたいのである。
 世間を騒然とさせたホリエモン事件の直前に、ホリエモンをミス・キャスト的に評価して、政権の一翼に加えようとまでしたことは記憶に新しい。また、国会での年金問題に関する自身の過去に関する質問を受けた際に、あの有名な「人生いろいろ、会社もいろいろ」と馬鹿なフレーズを持ち出して、価値観の相対化に拍車を掛けたことも忘れられない。そして、駄目押し的なアクションが、あの「開き直り」解散であっただろう。国民は呆気にとられて、TVコマーシャル的効果のごとく騙されたりもしてしまったと言える。
 こうした一連の「業績」は、何と「何でもあり」の浅ましい手本を国民に示したことか、まるでTVコマーシャルを地で行くことになったかと、返す返すも腹立たしい思いとなるのである。

 「何でもあり」という風潮は、現状の環境破壊と自身のメリット以外に何ら関心を持たない、責任意識とは無縁な者が流される風潮のことなのであろう。言い換えれば、「何でもあり」と叫ぶ者は、「身に覚えが何にもなし」という極めてアブナイ者のことのように思われてならない…… (2007.06.14)


 今朝の丹沢方面の眺望は素晴らしいものであった。通勤途中でのクルマから見えた西方の山々の光景のことである。
 昨日の雨が、空気中の塵を拭い去ったためであろうか。しかし、この時季であれば靄がかかることもあり得るわけで、それもなく、澄み切った空気を透して、遠近が異なる峰々の色合いが実に鮮やかに浮かび上がっていた。加えて、峰々の狭間に千切った白い綿のような雲がちらほらと添えられていたのである。それらが、峰々の連なりに絶妙な立体感を生み出して、あたかも手を伸ばせば届くような箱庭的な錯覚を与えていたのであった。
 望遠の効かないデジカメしか持ち合わせていなかったため、カメラに収めることはしなかった。その光景は、遠景に小さく収めたとしても味気ないものであり、画面一杯に映し出してこそリアルな実在感が生じると思えたからである。
 もし、手元に愛用の望遠デジカメがあったならば、通勤途中ではあっても心ゆくまでその光景をショットし続けていたであろうが、残念ながら通り過ぎるしかなかった。

 ちなみに、写真というものは、出来上がったものを見た時、あれこれと感想なり評価なりが生じるものである。中心テーマとなる対象のフォーカスが甘いとか、明度の高い部分が明る過ぎて飛んでしまっているのは絞りを開き過ぎていたとか、構図に今少しの工夫が欲しかったとか、さまざまなクレームが生まれてくるものである。
 こうしたクレームが、「愚者の後知恵」ではなくて、カメラを構えている現場でリアルタイムに、自身へのアドバイスのごとく沸々と浮かんでくるならば満足のできる写真を手にすることができようというものだ。
 しかし、現実にはなかなかこうした余裕がないものである。とかく陥りがちなのは、カメラを構えるキッカケとなった対象に全神経が奪われてしまうことなのかもしれない。
 眼にした光景なり対象なりに感動することは必須だろうと思う。しかし、感動のあまり、対象に埋没して一体化してしまったのでは、ろくな写真は撮れないはずだ。感動を与えた対象が、凡庸にど真ん中に収まり、まるで座布団に座った招き猫の図か、おみやげ観光写真かということになってしまう。
 感動の情感をキープしながらも、その対象を写真として再構成、再生産するにはどうあるべきかに、意識が振り向けられなければならないということである。きっと、この意識の働きと、それを形にできる慣れた技量を持つのが、いわゆるプロだということになるのであろう。
 いつぞやも書いたことがあるが、その種のカメラマンは、対象の光景を眼にした時、すでにこの光景はどのような写真となるべきかがイメージとして出来上がるらしい。ちょいと出来過ぎた話であるような気もするが、わからないでもない。

 今、関心が向いているのは、写真の撮り方に限らず、この「何々は、どのようにあるべきか」という、まるで「天の声」のようなインスピレーションというのは、果たしてどうすれば入手可能なのかという点なのである。
 簡単に言えば、「センスを磨くこと」と、「定石的な手法を体得すること」とを、トレーニングによって身につける、ということになるのであろう、言葉で言うならば。しかし、言うは易く行うは難し、であろう。
 最もありがちな拙いケースは、両者が一体化せずに一人歩きしてしまうことなのかもしれない。「センスを磨くこと」にのみ意を向けつつ、いつの間にか我流に凝り固まってしまったり、「定石的な手法を体得すること」にのみ奔走して、センスを棚上げにした評論家になってしまったりするというのが実情ではないかと思える。
 どちらがマシかと考えてみるに、どっちもどっちであろうが、「定石的な手法を体得すること」を怠り「我流」に陥るのはかなり惨めであるような気がする。もっとも、天性のセンスを備えている者であれば話は別であろうが、凡人にとっては、「我流」に陥ることは、出口なしの袋小路に迷い込むことと等しいと言えるのかもしれない。「定石的な手法の体得」をベースにしながら、主体的センスに目覚める努力をすることの方が「量刑」は軽くて済むのかもしれない。

 ただ、「定石的な手法の体得」とは、「定石的な手法」の情報や知識を覚えることとは別物であるはずだろう。この辺の識別ができずに、「能書き」ばかりが先行する傾向が結構、問題でありそうな気がする。情報化時代のワナはそんな傾向を助長していそうである。「あなたも、いきなり何々のプロ……」というお為ごかし的キャッチフレーズは何と罪作りなことであろうか。また、知識・情報の取得ではなくて、それらを時間と労力を掛けて「体得」をするという実のあることが中々馴染めないという時代環境にも問題がありそうな気もする。
 しかし、この辺の種々の困難を振り切って、「定石的な手法を体得すること」が、こんな現代という時代であるからこそ重要であるような気がしてならない。と言うのも、何にせよ、知識・情報の取得レベルでは、何かの時に、「天の声」とか「内的な声」というものは聞こえてこず、そうした「声」を生み出すのは、知識・情報を全身で咀嚼する「体得」のレベルがあったればこそではないかと推定するのである。
 これは、さまざまな技量の問題に止まらず、信念であるとか、良心であるとかの領域の問題にも関係していそうだ。信念とか良心とかは、知識・情報の取得レベルだけで自動生成されるものではなく、「体得」されたものからしか生成されないのではないかと直感している…… (2007.06.15)


 最近はまたコンピュータ囲碁をやっている。短時間でできる対戦型のソフトだ。
 夕食後に気分転換で始めると、あっという間に2時間くらいが過ぎてしまい、入浴時間が圧迫を受けるほどである。楽しいには違いないが、負けると悔しくてもう一番、もう一番と引き摺られてしまうわけなのだ。
 今まで何度もやっては頓挫し、頓挫してはまた熱くなる、というサイクルを繰り返してきた。そんなものだから、腕前が上がっているという実感がまるでない。
 うまくなろうとする意欲がないわけではない。常々、囲碁は貴重なゲームだと考えている。知的興奮を十分に刺激してくれるし、勝負事でありながら一切おカネのかからない点も見事なものだと思っている。高齢化時代の娯楽としては言うことがなかろう。
 だから、いま少し上達して、興味が深まるかどうかは別にしても、興味が頓挫してしまわないようになれたらと思ってはいる。

 高齢化時代の……、と言えば、以前に入院した病院で、隣のベットにやって来た高齢者のことを、ふと思い起こした。心臓がかなり悪いという高齢者であった。看護士との意思疎通がうまくゆかないからか、何度もいろいろと注意を受けるはめになっていたようで、ナース・コールはここにありますからねとか、酸素マスクは勝手に外さないようにねとか、幼児が注意されるかのような口調で看護士に対応されていたのである。
 その執拗とも感じられた対応がカチンときたのであろうか、その老人は、一言、抗議口調でつぶやいたものであった。
「そうして人をバカにするけどね、あたしは囲碁は何度も優勝した腕前で、頭はしっかりしてるんだからね……」と。
 看護士は、ハイハイ、そうでしょうけれど、ここではわれわれの言うことを聞いてくださいね、と受け流していた。

 きっと、その老患者のつぶやいたことは真実であったはずであろう。囲碁で鍛えられた脳には生き生きとした思考力が息づいていたはずだし、そうある自分に誇りと自信とを抱いていたのも、わたしは立派なことだと思えたのであった。ただ、そうしたことと、ナース・コールの所在の問題とがマッチしなかっただけなのであろう。
 その老人と話す機会があった際、地域の大会が迫っているのだけれど、緊急入院のためにご破算になってしまった。この分じゃ、大会どころか、これでこの世ともお別れになりそうだと、暗く沈んでおられたのを聞いた。
 そんなことはないですよ、養生されれば良くなりますよ、囲碁で鍛えられた頭脳の粘り強さは、結構踏ん張りが利くもんだと思いますよ、と激励させてもらった。「そうですかな……」と顔をほころばせて、まんざらでもない表情でおられたものだった。

 囲碁だけではなく、将棋もそうだろうと思えるが、これらの勝負というものは、勝負というものの有無を言わせぬ厳粛さを嫌というほどに知らしめるもののようである。
 強い対戦者の一手に対して、弱い者は「待った!」を掛けがちであるが、それはまさしく「泥縄」なのであり、その場しのぎ(の自民党?)でしかないかのようである。
 一手一手の連鎖で、一手先手を確保し切った強い対戦者というものは、相手に有無を言わせず相手を「裏街道」へ、「路地裏」へと追い込んで行く強制力とでもいうものを持つことになるのである。弱い者は、一手の余裕があるならば、局面を転換し、打開できそうなものなのであるが、それが無いために、好むと好まざるとにかかわらず、「路地裏」へと続く「裏街道」を駆け込んで行くことになる。ここには、冷徹なロジックが貫徹しているわけである。盤上でこんな局面にばかり立たされている自分としてはこんなことが骨髄に浸透しているだけに、この辺の感触がよくわかる。

 こうした勝負の世界の事情を念頭に置く時、現実の過酷な「格差社会」のことを思い浮かべることも可能である。多分、この「格差社会」の冷酷さは、どん底から「這い上がる」という転換のための「一手」の余裕も与えずに、驀進し続けるところにありそうだ。
 当該者個人がこの「一手」の余裕をどう捻出するかは死活の問題ではあるが、この点に関する議論はさほど明るくはなりえないような気がしている。
 しなければならない議論の対象は、もっともっと前段にあったはずであろう。囲碁で言えば、「布石」の局面だということになる。現実の政治状況で言うならば、政権選択の選挙の時点ということにならざるを得ない。
 「布石」の局面において、まやかしで無意味な言葉に惑わされて空疎な「布石」を打ってしまうならば、後は、転換が図りがたい「裏街道」と「路地裏」へと続く、そんな道を駆け下るしかないのだとも言える…… (2007.06.16)


 もし、銀行が顧客からの預金記帳の管理杜撰で膨大な口座が処理不能となったとしたら、そうした銀行は銀行の本質である信用を損ない、倒産以外の道はないのではなかろうか。加えて、頭取が甚だしい勘違いの釈明を繰り返したならば、まるで墓穴を掘るように、その銀行の前近代的な体質と、銀行としての資格を欠いた内情を露わにするだけではなかろうか。
 そして、銀行の最高責任者たる頭取が、この不祥事による顧客の損害可能性を償う責任を、本来的には「弁済」と見なすべきところを、高飛車に「救済」と称したならば、顧客側からは「盗人猛々しい!」という罵声が飛んだとしても返す言葉がなかろう。常識的な状況認識が踏まえられていないのは致命的だということになろう。
 また、当事者としての最低限の責務であるその不祥事の速やかな調査体制も整うわけがない段階で、取って付けたようなセールストークでしかない「一年以内にきっと……」と口走ったり、挙句の果てには、銀行の内部問題や過去の問題に目を向けて、あの部門に責任があるとか、あの部長が悪いとかと顧客の損害可能性に焦点を合わせていないアレコレの釈明をしている。そのそばから、不祥事の傷口は痛々しく広がってもいる。危機管理というよりも、問題解決手順のイロハをご存知ないかのようである。

 こんな茶番劇を見せつけられるなら、顧客側はきっとこう叫び出すに違いなかろう。

「そんなことはわれわれに関係がない! 内部の反省会はゆっくり後でやるべし! あんたじゃ埒があかないから頭取を出せ、頭取を!」と。すると隣にいた者が、
「おいおい、奴が頭取なんだってばさ」
「ええーっ、こいつ頭取? 頭取どころか本当の銀行員なのかい?」
「そうさ、モノホンの銀行員だから筋金入りでキタナイっつうわけさ。それだから、出世すごろくで、頭取くんだりにまで辿り着くっていう按配なんだよ〜。」
「なるほど……」
「何だね、感心しててどうします? ここは、あん人たちは『責任逃れ』のために、あらん限りの悪知恵を働かせますよ。くれぐれも用心しなきゃいけないってぇことです」
「そうなんだよねぇ。自身が銀行全体の最高責任者たる頭取でありながら、被害者みたいなポーズを作るんだから、うっかりするとその術中にはまり込んでしまうんだよ。ついさっきも、この人が全責任を負うべき頭取だとは思えない錯覚に陥れられていたもんさ」
「そう! そこら辺を用心しなきゃいけないっていうの。ほら、この手は昔、よくヤクザの親分衆が使って言い逃れしていたからもはやバレバレじゃないですか。ね、よくあったじゃないですか。『ウチの若いもんたちがとんだ軽はずみなことをしまして……』と言っておきながら、暗に自分と手下との距離を示して、自分の責任を帳消しにしようという常套手段ですよ。しかしこいつぁ、刑法の改定でもはや通用しなくなったようだがね」
「でもなんですな。この問題は、銀行に任せた預金だからまだしも、もしこれが、今世間で危ぶまれている『年金問題』で同じようなことが起きたら大変なことになりゃしませんか? われわれの銀行への預金は、自分の意思で始めたわけだけど、『年金』は強制加入だもんね。勝手に差っ引いといて、そのおカネをウヤムヤにして給付できないようにしてしまうというのは、ちょっと考えられませんな……」
「いやいや、そんなことはないでしょ、世間にはそういうケースはしっかり存在するもんですよ。返済不能なカネを強制的に奪えば、それはりっぱな『恐喝行為』という犯罪であり、紛らわしく提供させれば『詐欺行為』というのが通念なんじゃないですか」
「じゃあ、同じような『年金問題』が起これば、『恐喝か、詐欺か』ということになるんですかね?」
「まあ、政府もそこまではお粗末じゃないでしょう。クサイものに蓋をするのを得意技とする政府としては、『杜撰と疑惑の総合商社』のような『社保庁』は解体して闇に葬れという段取りを進めていますよね。ほとんど『完全犯罪』に近いんじゃないですか」
「そんなバカな!」
「あなたねぇ、あなたの頭の中にある『政府』とか『銀行』とかというものは、ちょいと神話的、観念的に過ぎるんじゃないですかね。やってることをクールに観察して評価すべきであり、彼らが自己宣伝することを根拠もなくそうだと思うのは観念的なんですよ。悪い奴ほど、信頼とか正義とかという検証が難しい言葉を前面に押し出して、神話作りの自己アピールをするもんじゃないですか。企業がTVCMで自社や、自社の神話作りに精を出すのと変わらないんですよ。
 しかもね、さっきから聞いててどうも合点が行かないのは、ひょっとしてあなたは、同じような『年金問題』が既に起きているのをご存知ないようですね」
「ええーっ、まさか!」
「困ったもんですな。この銀行と頭取があんなとぼけた姿勢で終始しているのは、『親方日の丸』のそっくりさんを演じているということなんですよ!」
「じゃあ、預金回収も、年金給付もかなりヤバイということじゃないですか……」
「そこまではどうですか……。ただ、ここいらで国民も『神話』の国の夢から目覚めないとマズイですよね。生きてゆけなくなりますよ。『美しい国』なんぞと言って、『神話』の国のほころびを繕うつもりのリーダーじゃ、どんなもんですかね」

 各企業の株主総会シーズンとなるが、ここまで酷い不始末がなくとも、昨今は株主たちが、これまで割りを食わされてきた『神話』の夢からの脱却を図ろうと動き始めているらしい。当然のうねりであろう。
 そして、もっとも大きな、国という『神話』についても喧しい動きが始まるのかもしれない。それというのも、現国民生活情勢は、『神話』の夢なんぞで朦朧としているにはあまりにもリアルで悪夢的状況であり過ぎるようだからだ…… (2007.06.17)


 今日の新聞記事から二つの言葉をピックアップしてみよう。
 その一つは「議論のすり替え」であり、もう一つは「羽交い締め」である。いずれも、政治ジャンルで使われていた言葉である。なぜか、今の時代状況を言い当てているような気がしたものである。

 先ずは、「出典」を示しておく。
 「議論のすり替え」とは、言わずもがなの想像を刺激する言葉であり、現政府の「得意技」を射抜いたものかと思ったが、まあそんなところであった。ただ、その一撃は急所に向かっていないのが歯がゆい感じである。多くのまやかしのうちのその一つ(ワン・オブ・ゼム)をカスルにとどまっているに過ぎない。なぜもっと完膚なきまでの批判に徹して国民の心を晴らしてくれないものかと……。
 この言葉は以下の記事で使われていた。

<都など4知事、法人税見直しは「議論のすり替え」と批判
 「ふるさと納税」構想や法人2税見直しなど、大都市の税収を地方に回そうとする国の議論に対抗するため、東京、神奈川、愛知、大阪の4都府県知事が17日、首相官邸を訪れ、塩崎官房長官にアピール文を手渡した。
 アピールでは、地方分権推進に地方財源の拡充が不可欠と指摘。「国の議論は『国と地方』の分権改革の議論を『都市対地方』の税源配分の問題にすり替えることだ」と批判した。
 会談後、石原慎太郎・都知事は「4人がそろってきたのは重いことだと官房長官が言っていた」と語った。>( asahi.com 2007.06.18 )

 この<「ふるさと納税」構想>というのはどんなバカが考え出したのかは知らないが、どうせ与太な与党議員が酒の席かなんぞで言い出したか、政府取り巻きの御用学者あたりが点数稼ぎのつもりでご注進したものであろう。この発想には、物事の本質を洞察する知性というものがまったく感じられない。バカなことを言えば恥ずかしいものだとする当たり前の羞恥心というものが無残にも欠落している。
 TVニュースでは、かつて「IT革命」の「IT」のことを英語を習い始めた子どもよろしく「イット」とおっしゃって、聞いている側に取り付く島を与えなかったその御仁が、「自分の生まれ育ったふるさとに納税をする機会を作ることは、まことに結構な案ではなかろうかと、そう、思っている、ところ、なので、ございます」とのたまわれておられたようだ。
 地方自治というものの本質が見えないようなのも残念だし、税というものの性格とポケット・マネーとの決定的違いというものもおわかりではなさそうで、それでよく国会議事堂に通勤されておられるものだと不思議な気分にさせられた。

 何だかくだらないことを書いている気がしないでもないが、ともかく先に進む。
 もう一つの「羽交い締め」という言葉の件である。これは、次のような記事である。

<民主・内山氏に登院停止30日 衆院委員長を羽交い締め
 衆院懲罰委員会(横光克彦委員長=民主)が18日午後、開かれ、年金時効特例法案の衆院厚生労働委員会での採決の際に桜田義孝委員長(自民)を羽交い締めにして委員長席から引き離した民主党の内山晃議員に対し、与党の賛成多数で「登院停止30日」の処分が決まった。また、与野党の意見が折り合わないため、開会を見送ろうとした横光委員長に対し、与党が不信任動議を提出。これも可決される異例の事態となった。
 これまでの筆頭理事間協議では、与党は「内山氏の行為は憲政史上ない暴力行為」として登院停止30日を要求。これに対し、民主党は「発端は与党が強行採決したためだ」として処分しないことを主張。平行線をたどっていた。
 このため、懲罰委理事会で横光委員長は「議員の身分を決める協議は粘り強く行うべきだ」として同日午後開催の委員会を開かないことを宣言。これに対し、与党が横光委員長の不信任動議を提出した。>( asahi.com 2007.06.18 )

 別に、国会の審議の場が「プロレス・リング」でいいのかと叫びながら、与野党ともに大人気ないじゃないかと、涼しい顔をしようという魂胆ではない。かと言って、上記のような「議論のすり替え」と「強行採決」を常套手段とする政府側に対しては、野党側は「羽交い締め」戦法のひとつもアリだよ、と拍手を送るつもりでもない。
 そうではなくて、今、この上ないマヌケな政府のために、身動きのとれない「羽交い締め」を喰らっているのは、まさに国民各位なのだと声を大にして指摘したいわけなのである。非道な者たちを野放しにしていると、今日の「羽交い締め」だけではなく、明日の、将来の「羽交い締め」まで虎視眈々と手を打ってくるものである。国民の平和への願いを、憲法改悪によって「羽交い締め」にしようとしたり、「天下り官僚国家」や「政官癒着構造」の温存のために、「国家公務員法改正案」というこれまた「議論のすり替え」策のごり押しを企んでいるのは見え見えじゃないですか…… (2007.06.18)


 この蒸し暑さはどうしたことだ。風がないためか、じわーっ、として蒸す感覚が堪らなく不快であった。今日は、そんな不快感に包まれて一日が過ぎようとしている。
 いやいや、こんな日の夜もまた不快感に逆撫でされることになるのであろう。これで、高い湿度の状態が雨にでもなれば幾分過ごしやすくもなるのだろうが、どうも、今年の梅雨はこれまた「異例」の気配であるらしい。
 次のような記事が目につき、なるほどと思えた。

<関東本当に梅雨入り? ちょっと変だぞ今年の梅雨
 今年の梅雨はちょっと変だ。関東甲信地方は19日も晴れ間が広がり、梅雨入りが修正される可能性も出てきた。一方、遅い梅雨入りで少雨が続いた西日本はここに来て、激しい雨が降る。国内の雨は80年代以降、激しく降ったり、まったく降らなかったり両極化する傾向が出ている。今年も変動の激しい「陽性の梅雨」となるのか。
 梅雨入りが発表された翌日の15日から、「関東地方は本当に梅雨入りしたのか」という問い合わせが気象庁に相次いだ。とりわけ、東京都心では15日朝から19日朝まで雨は観測されていない。
 「梅雨の中休み」にしてはあまりにも早すぎる。気象庁は「前線活動が不活発のため」としている。週末にかけて活動は活発になり、雨は降るとみる。とは言え、梅雨入りを発表した14日の時点では翌日から曇り空が続くと見ていただけに、予報は外れた格好だ。
 実は、「梅雨入り」がいつかはまだ決まったわけではない。同庁は1960年代から、梅雨入りや梅雨明けの問い合わせに、時期を「お知らせ」として答えてきた。「気象情報」として正式に発表するのは86年から。翌87年には、関東甲信や四国で梅雨明けを発表した後、雨が続いたため取り消し、その後再び発表し直した。94年には九州北部の梅雨明けを1週間前にさかのぼって発表したこともある。……>( asahi.com 2007.06.19 )

 「梅雨よ、おまえもおかしくなってしまったか?」と言いたくなってしまうほどに、自然異変の推移は常態化しつつあるようだ。
 こうなってくると、そうした自然現象を仕事のネタにする気象庁もラクではあるまい。自然現象が自然現象らしく規則正しく繰り返してくれるならば、過去のデータ分析だけで楽勝が得られる仕事のようにも思えるが、このところの自然異変続きでは、何が勃発するのかが予想できない状況のようである。
 しかし、それにしても<「関東地方は本当に梅雨入りしたのか」という問い合わせが気象庁に相次いだ。>という現象も、おかしいと言えばおかしい。
 確かに、気象庁が「梅雨入り宣言」なんぞと、甲子園球児の「われわれは〜」という開会宣言みたいに、まるで自分たちが梅雨前線を操っているかのような雰囲気を漂わせるものだから、庶民もまた「ほんじゃ、気象庁に訊いてみっか」ということになるのだろうか。もっとも、都市生活で明け暮れる者にとっては、傘の携帯如何というささいな問題に限定されようが、自然現象の顔色を窺わなければやって行けない農業関係者にとっては「ほんじゃ、……」とならざるを得ないのかもしれない。

 人間界の社会現象というものは、もとより、天邪鬼な人間たちが寄り集まってタネを撒き散らかしているのだから、その組み合せで「事実は小説より奇なり」という結果となってもやむを得ないようである。自然科学に対する社会科学の困難さは、そんな事情に由来しているはずなのだろう。
 しかも、限られた一国レベルであっても複雑怪奇な結果を頻発させるのに、ボーダレス時代と相成った現在では、地球上で起こった膨大な数の出来事が各国各地域にほぼストレートに波及してしまうのだから、いつ何時何が勃発することになったとしても、不思議ではなくなってしまっているのだろう。いくら科学が発達したとは言っても、社会現象の予知・予測はますます難しくなっていそうである。
 ところが、その予知・予測が困難なのが社会現象のみならず、自然現象もまたそうなりつつあるということになるならば、一体人間は何をしてきたのか、しているのかということになりそうである。
 と言うのも、言うまでもなく、自然の撹乱や、自然の中に天邪鬼な因子を生み出してしまったのは、自然自身ではなくて天邪鬼な人間自身だと言うべきだからである。
 こうして、「外部の自然」は目に見えるかたちで撹乱されているわけだが、もう一つ気になるのは、人間自身の「内部の自然」の撹乱なのである。
 これだけ、人間の「外部」に存在する自然に異変が生じている時に、人間自身の「内部の自然」だけが正常に機能していると言い切るのはちょっとムリがありそうな気がするのである。わかりやすい例を出すならば、止めどなく蔓延しているかの気配がある「自律神経失調症」や「鬱病」といった病理現象のことなのである。これについては、また機会を改めたい…… (2007.06.19)


 恨み言を言ったところで始まらないが、この蒸し暑さには参ってしまった。28度を超えていそうである。まったく、梅雨なんてどこへ行ってしまったものか。
 昨夜も、案の定、引き続いた蒸し暑さに災いされて、ろくな睡眠がとれなかった。何度も起こされる始末であった。
 お陰で今朝はひどく体調が崩れてしまい、よほど休暇でもとろうかと思ったほどだ。だが、思い止まったのは、仕事の関係もあるが、冷静に考えるならこんな暑い日に自宅で過ごすのもラクじゃないと、はたと気づいたからであった。早くもダレている内ネコの連中も、これからはラクじゃない日々を送ることになりそうである。

 こう汗まみれな日が続くと、湯や温泉というものが有り難いものだが、昨日の渋谷の大爆発には驚いた。別にその爆発音が町田まで届いたわけではない。温泉は嫌いではなく、昨今流行の「市街地温泉」にも、手軽であるために時々出向くことがあるからだ。
 便利であったり快適であったりする商品やサービスというものは、事故が発生してはじめて「危険な落とし穴」とでもいうものが知らしめられるものだ。先日のジェット・コースター事故もその種の例になろう。
 多分、一般人ならば、東京で温泉が掘削可能なことも知らなかったばかりか、掘削の上で得ることになる温泉水には天然ガスが溶け込んでいてそれを分離して処理しなければ危険であることなぞ、知る由もないはずだ。
 昔、子どもの頃、品川に住んでいた頃のことだが、東京湾沿岸のほど遠くないところに「平和島温泉」という「人工の」温泉施設があったのを覚えている。これもやはり、関東地方の地下1500メートルには眠っている温泉を掘削して吸い上げたものなのであろう。しかし、温泉なぞにはほとんど関心がなかった当時は、そんな事情はどこ吹く風、娯楽施設があることしか知らず、確か夏場にプールを利用しに友だちと行った覚えがある程度であった。まあ、そんなことはどうでもいいのだが。

 そう言えば、つい先日、「ファースト・フード」ならぬ「ファースト温泉気分」というものが商品価値になっている現代について書いたかと思う。( cf. 2007.04.19 )
 都会から遠く隔たった鄙びた温泉地にしかなかった温泉を、「都会人のわがまま」のために、都会人たちの住まいの近隣に「いきなり」、「それじゃあ、温泉を造っちゃいましょう」のノリで設えてしまうのが現代という時代の発想というわけだ。「職住近接」ふうに言えば、「温(泉)住近接」、「観(光)住近接」とでも言うべきか。
 こうした風潮は、時間や費用がままならない現代の都会人たちに、手軽に利用機会を提供するという大義名分を持ってはいるはずだ。単に、ニュー・ビジネスの儲け主義だけではなく……。
 だが、そうしたものを利用している自分が言うのもヘンだが、便利なものにはその陰に「トレード・オフ」の関係にあるものが潜んでいることにも眼を向ける必要はあるのだろう。
 今回の「温泉」事故のように、自然の形状に手を加えるならばリスク対策も十分に行わなければならない点であるとか、その余波の影響というものも無視できないはずであろう。温泉の汲み上げではなく、工業用水向けに地下水を大量に汲み上げるケースでは、周辺地域の地盤沈下現象が引き起こされる例がしばしば指摘されてきたところだ。
 自然という存在は、人間のように特殊な事情を了解して相応に対処するほど器用ではない。水は低きに流れる、と言われるようにひたすら理に叶った動きしかしない。たとえそれによって誰が被害を受けたり、迷惑を被ったりするとしてもである。
 つい先頃も、都市近郊の自然の宝庫である高尾山のどてっぱらに穴を空けて、便利なトンネル道路を造っちゃえ、という動きが、自然保護を主旨とする住民の仮差し止めの反対を押し切って敢行されることになったという。自然の撹乱にはならない、という、まるで神の立場のような判断を裁判所が行ったというのである。その裁判官は、要するに傲慢か、単純か、はたまた無責任かと、侮辱し倒すしかなかろう。

 落語に「死神」という、強烈に皮肉っぽい「トレード・オフ」物語がある。人の寿命がろうそくに置き換えられており、占い師として散々他人の寿命を弄んで金儲けをした男が最後に辿り着くのは、そうした弄びは自分自身のろうそくを削って賄っていたようなのであり、今にも消えそうになっている自分のろうそくの火を、死神から示されておどおどとする場面なのである。
 何の根拠もないが、やはり「トレード・オフ」関係というものは、無根拠のままで厳然とありそうな気がしている…… (2007.06.20)


 野鳥が啄ばんだと見える「びわ」の実が、路上に落ちていた。2、3センチ大の小さな「びわ」の実が、嘴で突かれた跡から果汁を滴らせポツンと転がっていたのだ。街路樹を見上げると、小さめの「びわ」の実が、深緑の葉に見え隠れして多数成っていた。時季からしてみると、熟し切る頃と言うべきか。野鳥たちが間を置かずに賞味してやらなければ、アスファルトの上に無残に散る結果に終わってしまうだろう。そんなことを思うウォーキングであった。

 先日、実家のお義母さんのケアに出向いていた家内に、唐突に電話をした。
 今頃は、「びわ」が旬の時季であったことを思い起こしたため、わたしからと言って、お義母さんに「びわ」を買って上げてほしいと連絡したのである。
 そんなことに思い至ったのは、以前、まだお義母さんが元気であった頃、毎年のようにこの時季には「びわ」の詰め合わせを送ってくれていたのである。
 「びわ」の実というものは、割りと高価であることもあってか、なかなか買って食べようという気にはならないものだ。だから、ご進物でいただくとこれぞという感じでありがたく賞味させてもらう。特有の甘さを湛えた果汁は、野鳥ならずともほくそえんでしまうものである。
 ただ、ちょいと「カニ」を食する時と似て、やたらと食作業が「忙しい」感じとなる。果汁で手が濡れてしまうことを承認した上で、ややコツのいる手先で皮を剥き、パクリといったあと、大きなタネを口の中で識別しながら排出しなければならない。濡れた手の始末に困るため、あらかじめ手拭などを用意したり、また滴る果汁でテーブルを汚さないように新聞紙なんぞを敷いておく準備も必要となる。皮向き作業自体が視線をやってやや手間が掛かるためか、食べ始めると何となく各人は「精密作業」に熱中して寡黙となりがちとなる。まさに、「カニ」料理に立ち向かう雰囲気に似たものが漂うことになりそうだ。
 そう言えば、あれはもう十年も前のことであっただろうか。
 親戚の方の葬儀の後、親戚の者が皆で近くに住む親戚の家に集まることになった。その時、その家に向かう途中のスーパーの店頭でとあるものを眼にした。見事な粒ぞろいの「びわ」の実の詰め合わせが、「こんなものでも携えて行ってはどうかな?」と言わぬばかりに並んでいたのである。ちょうど、今頃の季節であったはずだ。
 これから集まろうとする親戚の家には、皆してお邪魔をする上に、お茶だのお茶菓子だのと気を遣わせては気の毒だと思い、自分は、それを複数箱購入することにしたのであった。
 この企画は「大受け」であったことを覚えている。皆、珍しい果物といいながら、黙々と「忙しい」作業に没入したものであった。しかも、この雰囲気は、そこに集まった親戚集団に意外とマッチしていたのかもしれないと後で思ったものである。
 と言うのも、その当時、祖父の遺産相続問題で、親戚同士の間にはやや奇妙な空気が介在していたのであった。もし、それぞれが手持ち無沙汰の状態で、会話の進展を野放しにしていたら、思いがけない「修羅場」が立ち上がってしまったかもしれないのである。
 が、「びわ」の実のそこそこ「忙しい」食作業は、そんな気まずい空気をしっかりと「びわ」の実色に染めてくれたのであった……。

 ところで、今回、実家のお義母さんにと「企画」した「びわ」の実の進物も、そこそこ喜んでいただけたようなのである。家内が戻ってから聞いた話では、お義母さんはやはり「びわ」の実に特別な思い入れをされていたようなのである。
 以前、毎年のように送っていただいた時にも、薄っすらと「なぜ、毎年『びわ』なのだろうか?」と思い至らなかったわけではなかった。何かあるのかな? と漠然と感じはしていたものである。
 家内の話では、どうも、お義母さんが若かった頃に、優しい親戚のとある方が、いつも決まって「びわ」の実をおみやげに持って来てくれ、それがとても嬉しかった、というのである。
 なるほどなあ、と合点が行き、だからこそ今回のわたしの「企画」を大変に喜んでくれ、結局、家内はお義母さんからの「びわ」の実の詰め合わせ箱をおみやげに持って帰ってきたのであった…… (2007.06.21)


 暑さが続いたためか、雨降りの今日は過ごしやすかった。ちなみに今日は夏至である。東京の場合、今日の日の出時刻は4時26分だそうで、調べてみると昨日までの2週間ほどが4時25分であり、夏至の日が最も日の出時刻が早いわけでもないのだ。
 どういうものか、日の出時刻にちょっとした関心が向いてしまう。別に、早朝から何かをしようという殊勝な心がけをもっているわけでもなく、実質、日の出とともに起床するなんていうことは皆無だと言っていい。
 春から夏に向かう際、次第に日の出時刻が早くなっていくのを知ると、世界が「成長」しているというか、「前向きに」進展しているような気分がして単純に好感を持つのである。
 夜、入浴時にラジオを聞いたりするが、ニュースの最後に「明日の日の出時刻をお伝えします。……東京、4時25分……」と耳にすると、「そうかそうか、世界の夜明けはますます早くなってきたんだ……」と、まるでバカとしか言いようがない感慨にひとりふけるわけなのである。
 ということだから、今日の夏至の日が過ぎると、季節はこれからが夏場だというものの、自分の気分は「下り坂」になってゆきそうでもある。「ああ、昨日よりまた一分遅くなってしまった……」と、まるで世界がジワジワと沈んで行くような感触を覚えることになるのだろうか。
 同じ自然現象に思いを寄せるのであれば、決まり切った日の出、日の入りの時刻なんぞより、深刻化する地球温暖化現象や二酸化炭素問題にこそ意を向けるべきなのであろう。「西洋の没落」という言葉があるが、この問題こそは「世界の没落」「地球の没落」に繋がりかねない事象のはずだからである。

 二酸化炭素放出とその累積による地球温暖化現象とは、やはり現代文明が直面する史上最悪の問題なのだろう。確かに、地球自体を壊滅的に破壊する核兵器も人類の喉下に突きつけられた匕首であり、エイズやさまざまなウイルスの出現という問題も人類を限りなく脅かしている。
 だが、地球温暖化現象が恐ろしい点は、それが生じる原因が、いろいろな点で文明成立の大前提と深く絡みあっていることなのではないかと思う。
 二酸化炭素放出の制限や削減とは、文明を基礎づけるさまざまな生産活動自体を抑制したり、大幅なアーキテクチャー転換をしなければならないという事実と不可分だからなのであろう。この点は、いわゆる先進諸国と、これからの工業化にまだまだ期待を掛けたい発展途上国国々との間での合意を難しくもしていそうである。

 また、そもそも文明というものを受け容れることになった人間側の文明観というもの自体が、革命的に塗り替えられなければ済まないという課題も小さくはないようだ。
 単純に考えてみても、文明人とは、人工のモノによって幸福感の増幅を図ってきたし、そうしているわけだが、どんな人工的なモノ(製品、商品……)であっても、自然界には存在しないそれらを生み出すには、熱エネルギーと、それと密接にかかわって排出される二酸化炭素とが大前提になっているのではなかろうか。象徴的には、人間自身の呼吸自体が二酸化炭素の放出を不可避としているわけだ。
 だから、モノの生産方法の改変という課題も大であることは間違いないとしても、モノの生産量自体の抑制という、ある意味では文明自体のシュリンク(縮小)を度外視することは避けられないのではないかという気がする。
 これはちょうど、癌治療における「抗癌」治療というものが、要するに身体の生活機能水準の意図的な引き下げ以外ではないことに似ているかと思われる。癌細胞の活動を抑えるためには、他の健常細胞の活動水準をも低下させざるを得ないという論理のことなのである。

 もうひとつ、人間側の文明観の改変という点で言えば、時間観念とでもいうような問題がありそうに思える。
 現代文明というものは、いろいろな構成要素で成り立っているわけだが、ひとつの重要な要素として、「今、ここ」という視点が過剰に重視される点がありそうだ。「ここ」というのは、個人的視点と言ってもいい。個人が享受できるという点が文明におけるモノの重要条件なのかもしれない。個人利用されるモノという意味である。共同利用が暗に前提視されていた卓上電話から、個人利用のケータイに移行した事実ひとつを取り上げてもうなづけるかと思われる。
 もうひとつ、「今」という視点を病的とさえ言えそうな強度で求めるのも、現代文明の大きな要素ではなかろうか。いわゆる「現在至上主義」だと言ってもいい。過去でもなければ未来でもなく、現在時という瞬間的時点を絶対視する傾向のことである。これはこれでやむを得ない部分もあるわけだが、過去や未来という時間軸の他の部分への意識の向け方を圧倒的に希薄とさせている点が問題だと思われるのである。
 文明というものが、将来や未来のことを構造的に度外視しているとまでは言わないが、文明を享受する者たちが、次第に、将来的事実というものを視野の外に追い出しているとは言えそうな気がする。極端に言えば、「後は野となれ、山となれ」という心理に傾きがちだということなのである。
 まして、茫漠たる規模の地球全体の環境問題ともなれば、希薄な将来的感性を危機感に結び付けようがないのだと想像する。

 これまで、文明という言葉を使ってきたが、これは要するに資本主義的、市場原理的な社会と時代のことだと言い換えてもいいはずである。現代ふうに言えば「グローバリズム経済」だとも言える。こうした時代原理が席巻し続ける限り、地球の「病状」は決して回復へは向かわないような気がしてならない…… (2007.06.22)


 梅雨時とはいうものの、今日の青空と陽射しの強さは真夏のようであった。
 朝のウォーキングの際、しばらく歩いてからサングラスをつけてくれば良かったと後悔したほにど、陽射しと照り返しは強く、目に入る光景はくっきりとコントラストを刻んでいた。
 とりわけ、南国のような紺碧の空と、存在感を伴って浮かぶ真っ白な雲が心地よく目を刺激した。こういう時は、その空を背景にすればどんな平凡な光景もそれなりに絵になりそうに思え、常時携帯しているスナップ用の小型デジカメをフル活用させることとなった。見慣れたいつもの光景ではあっても、まさに「空模様」自体に価値がありそうに思えるからおかしい。

 デジカメを取り出してスナップ・ショットをしながら歩くと、いつもの、先を急ぐだけになりがちなウォーキングに、プラスαの気分が生じてきたりする。寄り道のひとつもしてみようか、という余裕めいた気分となるから不思議だ。こうでなくてはいけないんだろうな、なぞとちょっとした自覚をする。
 いつぞや、おふくろが話題にしていた「新しい公園」とやらをちょいと覗いてみようかと思った。おふくろは、よぼよぼ足、のろのろ足にはなっているものの、心して散歩をするようにしているようで、住まいの近辺の様子をそれなりに掌握している。
 その公園のことを自分は大分以前から承知していた。洪水対策ということなのであろうか、昨今は、境川の付近にいくつもの地下貯水施設ができている。そして、ある場合には、その施設の上に公園設備が施されたりするのである。
 自分は、ウォーキングの際にその工事の過程を目にし続けていたため先刻承知だったのである。が、小高い丘のような地形であったため、階段を上ってまでその公園の姿を確かめる気にはならなかったのだ。

 だが、今日は、その丘に聳える樹木が前述のとおりの紺碧の空を背景にしてどこか魅力的な様子でもあったため、ウォーキング用のウエイトを付けた重い両足をものともせずにその階段を上がったのだ。
 まだ、出来たてだからか、あるいは、最近は、児童用遊戯施設が事故可能性を指摘される風潮があってのことか、公園の敷地内は閑散としていた。
 が、小さな子どと父親らしい男性の声が聞こえてくる。その方向に目をやると、そこには、傾斜の地形を上手く活かした滑り台があり、小さな女の子がきゃっきゃっと大喜びの様子で滑っていた。滑り台りすぐ脇に父親らしき男性がしっかりと見守っていた。
 遠くの方にぽつんとベンチがあり、その上にはこの親子のものと思われる携帯ポットやら紙袋が鎮座していた。ついさっきまで、この親子たちがそこに座ってこの新しい公園を見回していたというような光景が、残像のように思い描くことができた。

 まだ3歳になっていない様子のその子は、未だ滑り台というものをほとんど体験したことがなかったものと見え、ゆるゆるとしか下れない傾斜なのにもかかわらず、声をあげていた。その声は喜びの声とも怖がりの声とも聞こえ、いかにも「初々しい」様子が漂っていた。
 自分は、その滑り台の親子を見下ろす小高い場所で、しばし閑散とした公園全体を眺めていたが、何とも不思議な雰囲気に包まれてしまった。それは、ひょっとしたら「デ・キリコ」の神秘的な絵画を「濃度5%ほどの水割り」にしたような、そんな雰囲気であったかもしれない。強い陽射しが照りつける、幾何学的に整備されただだっ広い公園に、たった一組の親子しかいないというめずらしい情景の産物であったのだろうか。
 そして、ほとんど余白だらけのはずの「人生ノート」の一ページにしっかりと大胆に喜びの感情を描きまくるその小さな女の子と、これぞ人生の喜びの原点とでも言える幸福感を寡黙に享受している父親という構図が、見る者に束の間与える雰囲気であったのだろうか……。

 本来的に言うならば、何かと意味もなく急かされるということになる悪しき日常にあって、そのワナのような習性に嵌まり切っていたのでは、人生の敵の「思う壺」ではないのか。プリテンドであってもいいから、よそ見なり、わき見なりをして、息詰るような心境の「ガス抜き」をすべし! そう言えば、「ガス抜き」不良がゆえに大惨事となった痛ましい温泉事故があったばかりだ…… (2007.06.23)


 漸く、梅雨を思わせるような雨の日となった。ウォーキングから戻る頃より降り始める。ただし、こんな程度の降りようでは渇水を埋め合わせることにはなるまい。確か、天気予報では今週も晴れが続くようなことを伝えていたようでもある。
 昨日、外猫用の自家製ペットハウスの修理作業をしておいてよかった。冬場の寒さの事ばかり念頭において作ったため、木の繋ぎ目から雨が染み込むという不都合が発生していたのである。
 今年の梅雨は雨が少なそうだから、まあいいかと思う気持ちもないではなかった。しかし、家内が応急対策で施したポリ袋と粘着テープでの覆いというのがいかにも見た目が悪いこともあり、まともな修理作業をすることにしたのであった。
 防水用の油性パテを、屋根と壁面との繋ぎ目にくまなく埋め込んで雨水の浸透を防ごうという段取りであった。
 雨水というのは、ほんのわずかな隙間からでも時間が経つとじわじわと内部へと浸透してくるものである。そして、そうした状態が長引くと、想像以上に内部が濡れた状態となってしまうものである。そうした状態というのは、犬と違って、どちらかと言えば綺麗好きで神経質な猫たちにとっては、甚だ不快であるに違いない。
 せっかく、手間を掛けてこしらえてやった小屋なのだから、みすみす「画竜点睛を欠く」ごとき不備を残したのでは「住宅供給公社」としても寝覚めが良くないと思えた。
 といった成り行きで、昨日は、ウォーキング帰りの汗のかきついでに、暑さの中でその作業を済ませたのであった。
 その甲斐あってか、雨降りの今日、外猫のクロは早くから小屋でくつろいだ様子でいる。そんなクロをからかいながら内部を見回してみると、濡れた箇所はついぞ見つからない。実に、施したパテの効果はてき面であった。自己満足感がじんわりと訪れる一瞬であった。

 それにしても、振り返ってみると、ペットハウスの雨漏り修理作業くらいで自己満足感を得ていてどうなるものかとも思わないわけでもない。
 いい歳をしたオッサンなのだから、もっとズッシリとした手応えのあるやり甲斐を手にしたいものである。しかし、そうしたものが限りなく喪失されているのが、いい歳をしたオッサン連中の昨今のような気がしている。

 同い年くらいの近所の亭主も、そんな慢性的傾向の中で、涙ぐましい葛藤を繰り返しているかのようである。
 根がマメだと見えて、よく、マイホームの修理をしている。ここしばらくの暑い日々にも、「ペンキ屋さん」作業に「独り」黙々と邁進していた。
 「独り」という点にも注目するのである。そこそこ青年だと思しき息子が二人もいるのである。しかし、オヤジのそんな奉仕活動に前向きで助っ人となって汗を流している姿をついぞ見かけたことがないのだ。やがて自分たちが相続するのだから、手伝ったって損にはならんだろう〜、と言いたいところであるが、「オヤジがローンで買った家だろ。精々大事に手入れしなよ」とでもほざいているかのようである。
 数メートルもある長い梯子で二階のひさしの裏を危なっかしく手入れしているにもかかわらず、梯子の脇をこざっぱりした着こなし姿で外出して行くのが窺がえたものだ。
 オヤジさんが運悪く落っこちたらどうすんだよ、怪我でもして勤めの方に支障を来たしたら、おまえさんたちは路頭に迷うんじゃないのかい? なぜ「梯子を押さえとくよ」という前向きさがとれないもんかなあ……、と余計な心配をするのである。

 で、オヤジの方はオヤジの方で、こう思い、感じているのかもしれない。こんな奴等を頼みにしたってムダだってことだ。どうせ休みの日に、ほかにやること、やって甲斐のありそうなこととてあるわけじゃないしな。まだたっぷりと残っているローンの担保物権の価値目減りを防ぐ努力というのが手堅いやり甲斐になるくらいだ。
 これで、手抜きをしてしまいいつか外壁塗装を業者に頼むことになって何十万円もの高額出費となってはたまらない。毎度、家計についてクレームを言われ続けて面目を失っているオレとしては、その選択はできるワケがない。「あなたがもっとマメに手入れしておけば良かった話じゃない!」なんぞと泣きっ面に蜂のセリフを聞かされるのが関の山だろう。
 こんな、マイホームの手入れをして、家族からありがたがられてやり甲斐を手にするなんていう綺麗事なんかじゃないわけさ。どうせツケが回ってくる難事を防ぐために今やれることを済まして気持ちを軽くしておく、っていう意味でのやり甲斐が、オレの手にできる精々のやり甲斐ってぇことだろう……。

 一家の亭主の沽券(こけん)なんていうアナクロを今更口にすべきもない。世間の亭主たちは、沽券(こけん)を失い、「孤剣」だか「古剣」だかしれない甚だ寂しき棒っ切れをただただ振り回すしかなくなってしまったかのようでもある…… (2007.06.24)


 時の経済活動の必然的な動向が、社会の質を変えていく可能性になるのだろうか。株取引のジャンルを想定してそんなことを考えた。

 市場経済の発展は、いつの間にか、消費者という立場に無視すべからぬ重みを認めるようになったことは周知の事実であろう。生産者、ベンダーは、消費者、ユーザーをもはや度外視できないどころか、その意向を先読みさせてもらわなければ経営が成り立たない時代となっているわけだ。まさに、生産者の論理が消費者・ユーザーの論理に取って代わられたと、一応は言えそうである。
 確かに、消費者にわからなければイカサマを平気でやってしまうというとんでもない食肉業者がいたりする闇の部分はしっかりと残ってはいる。
 だが、大方の趨勢は、生産者側が消費者側にひれ伏すとまでは言わないまでも、対等な相手として承認せざるを得なくなっていそうだ。
 こうした、経済活動がもたらす必然的なバランス関係というものは重要だと思える。生産者たる企業が、なおいっそう儲けたいならば、大事な相手である消費者やユーザーを尊重しなければならない、という関係のことなのである。

 言うまでもなく、こうした関係が、議員と選挙民との間において公明正大かつ聡明な水準で展開されるようになれば、どんなにか国民の暮らしは良くなるかと考える。それというのも、現代的民主政治だと言われながら、現在のこの国の政治状況は、尋常ではない歪み方になっていそうだからである。
 おそらくこの状況は、保守政党の度し難い質の悪さや、民主主義を支える側の立ち遅れといった両サイドに棹差してのことなのだろうが、前者の側に期待できるものは何もあり得ず、後者の側が「王手飛車取り」の手を繰り出す以外はないものと思われる。
 そんな条件下で、選挙民、国民が、じわじわと実質的な権利意識とその行使に関して成熟してゆくことが、今さらのように要請されるわけである。
 消費者として成熟してゆく者たちが、良いモノを一円でも安く購入するノウハウや感覚を、税金や年金などの公的負担の使われ方、あり方をシビァに凝視し監督することに展開してゆく、というようなことなのである。
 ただ、消費者という立場は、如何せん、パーフェクトに「個人主義的」スタイルで出来あがっている。同じ立場の者同士が意を強め合い、何らかの社会的パワーを発揮することからはかなり距離がありそうだ。不買運動などにしてもいろいろと限界がありそうだ。

 ところで、同じ経済活動であり、国民がパワーの一端を担える可能性を秘めた、そんなジャンルが株式市場だと、「仮には」言えるのかもしれない。
 大手企業は、生産者としての驕りを、裾野の広がる消費者を相手に再考せざるを得なくなっていることは上記の通りだが、今一方で、昨今の大企業は資金面において次第に株式市場への依存度を高めていることから、一般「投資家」に対しての配慮を強めざるを得なくなっている。つまり、「出口」方面では消費者に配慮し、「入口」方面では、従来からの銀行もさることながら、投資家に対する配慮が不可欠となっていそうなのである。
 そして、種々の条件下においていわゆる「個人投資家」と呼ばれる一般国民も次第に数を増してきているわけだ。この趨勢は、株取引優遇政策にも見られたように政府自体が推奨するところでもあった。
 確かに、まだまだ、一般国民の部類と見なせる「個人投資家」の影は薄く、いわゆる資産家が大きな比重を占めているのかもしれない。しかし、その状態は固定したものでもないだろう。
 となれば、一般国民のある部分は、消費者という立場に加えて、投資家という立場でも新たなパワーのタネを掴むのかもしれない。

 今週の28日には、全国の企業の2800社が「株主総会」を集中開催する模様だ。各企業は、以前では「総会屋」を意識したのだそうだが、その数も減り、現時点では強く「個人投資家」たちを意識しているそうである。折からのM&Aの風潮もあってか、各企業は「個人投資家」たちを尊重せざるを得ない事情も加わっているとかである。
 そんな中、以下の報道が眼についた……

<株主総会、個人呼び込みに知恵絞る
 上場企業が来週から開催が本格化する株主総会に、個人株主の出席を促そうと様々な工夫を凝らしている。新日本製鉄など鉄鋼大手で収容人員が多く、利便性が高いホテルに会場を移す動きがあるほか、事業内容の紹介を兼ねたイベントなどを併設する企業も目立ってきた。昨年の会社法施行で企業統治における総会の重みが増し、M&A(企業の合併・買収)が活発になるなか、個人株主の存在感が増していることが背景にある。……>( NIKKEI NET 2007.06.25 )

<株主総会本格化、経営陣に厳しい声
 3月期決算企業の株主総会が本格化している。22日は全上場企業のうち230社が全国で一斉に開催し、最初の山場を迎えた。もの言う株主の動向に関心が集まるなかで、米系投資ファンドのスティール・パートナーズがブラザー工業と因幡電機産業に対して、両社の配当計画を大幅に上回る増配を要求した。一方、不祥事が発覚した日興コーディアルグループでは経営者に対する批判の声が相次いだ。東京証券取引所の総会では役員選任提案で新社長を信任した。……>( NIKKEI NET 2007.06.22 )

<ソニー株主総会、取締役報酬の個別開示賛成は44%
 ソニーは21日、都内で株主総会を開いた。焦点だった取締役報酬の個別開示を求める株主提案には昨年(42%)を上回る約44%の賛成票が集まった。議案の承認には3分の2以上の賛成が必要なため否決されたが、株主が踏み込んだ情報開示を求めていることが浮き彫りになった。
 個別開示を要求したのは「株主オンブズマン」など36人の株主。「取締役のうち上位5人の報酬を開示する」と定款に盛り込むよう求めた。個別開示を求める株主提案への賛成は、初年度の2002年には27%にとどまっていた。
 午前10時に始まった総会は約2時間半で終了。個人株主の質問が多く、昨年より約30分長くなった。株主からは「ゲーム事業の不振をどうするか」などの厳しい意見も出たが、ハワード・ストリンガー会長は「(ソニーの)復活から利益を伴った成長に移行していきたい」と語った。>( NIKKEI NET 2007.06.21 )

…… (2007.06.25)


 先日、「ガス抜き」云々と書いた。(2007.06.23)
 自分のような「多感(直情的?)」な青年(?)にとっては、そうでもしなければやってられない、というほどの意味であったが、よくよく考えてみると、庶民に対する「ガス抜き」作業というものは十分過ぎるほど十分に実施されている、と言うべきなのかもしれないとそう思った。
 むしろ庶民は、募るばかりのはずの「憤り」を決してウヤムヤにせず、その「震源地」へ向けてしっかりと応答していくべきなのかもしれない。
 確かに、「憤り」の感情を持ち続けるということは、それはそれで辛いに違いない。そんなものは、何らかの処理法によってデイリーで流し去るのが、ストレスを蓄積させないためにも大切なことであるのかもしれない。
 だから、酒が飲める人は酒を浴びることで紛らわし、ギャンブルにはまっている者はなけなしの所持金で一瞬の恍惚感を求める。また、そんな荒っぽいことができない人はそういう人で、スポーツとか趣味とか娯楽などによって、自分なりの「ガス抜き」対策を行っているのであろう。

 ここなのである、関心を向けるのは。
 いわゆる、スポーツとか娯楽とかアミューズメントとかと呼ばれる、総称すれば現代カルチャーというものは、「気分転換」と言えば差し障りがないわけだが、要するに「ガス抜き」機能を背負ったジャンルだということではなかろうか。
 そもそも、スポーツとは、<語源はラテン語の deportare にさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」転じて「憂いを持ち去る」という語感、あるいは portare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という語感から、古フランス語の desport「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」を経て現在の sport に至ったと考えられる。>(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)のだそうだ。
 元来、人間は生きて行く上で避けることができない労働や生産を担うものである。しかし、言うまでもなくそれらは辛くないわけがなく、疲労とストレスとを生み出す。これが累積するならば、労働や生産の水準低下を余儀なくされることもあり、それらを解消する休養なり「気分転換」や「ガス抜き」機能が必要視されたのであろう。

 しかし時代が進むと、どうも、こうした機能は、労働や生産のためというだけではなく、別な目的でも活用されるようになって行った経緯があるようだ。細かい事を省けば、あの古代ローマ帝国の時代に、統治の重要な方法として駆使された「パンとサーカス」というのがその好例になるはずである。

< パンとサーカス(bread and circuses)は、詩人ユウェナリスが古代ローマ社会の世相を揶揄して詩篇中で使用した表現。権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によって、ローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。「パンと見世物」ともいう。なお、「サーカス」は英語読みであり、本来は"キルケンセス"(circenses)。「キルケンセス」は古代ローマの競馬場であり、戦車競争が行なわれた。ここからこの言葉では拡大して剣闘士試合などを含めた娯楽一般の意味で用いられている。……
 地中海世界を支配したローマ帝国は、広大な属州を従えていた。それらの属州から搾取した莫大な富はローマに集積し、ローマ市民は労働から解放されていた。そして、権力者は市民を政治的無関心の状態にとどめるため、「パンとサーカス」を市民に無償で提供した。
 ……
 食糧に困らなくなったローマ市民は、次に娯楽を求めた。これに対して、権力者はキルクス(競馬場)、アンフィテアトルム(円形闘技場)、スタディウム(競技場)などを用意し、毎日のように競技や剣闘士試合といった見世物を開催することで市民に娯楽を提供した。こうした娯楽の提供は当時の民衆からは支配者たるものの当然の責務と考えられており、これをエヴェルジェティズムと呼ぶ。
 このような社会的堕落は、ローマ帝国の没落の一因となった。また、「パンとサーカス」に没頭して働くことを放棄した者と、富を求めて働く者と貧富の差が拡大したことも、ローマ社会に歪みをもたらすことになった。>(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 この聞き慣れない言葉、<エヴェルジェティズム>こそは、何か現代の、「ガス抜き」的カルチャー状況を、的を射る矢のごとく言い当てているように思われるのである。
 統治者は、被統治者が<政治的盲目に置かれ>ることを意図して、さまざまな娯楽を提供し続けたわけだ。その娯楽の代表格が、コロッセオで行われたグラディエーター( GLADIATOR、奴隷の競技者)たちの死の剣闘士試合であったことは良く知られている。
 もちろん、統治者によるこの提供物が、単なる一方的な押し付けでなかったであろうことは容易に推定されるところであり、民衆自身も強く切望したものだと考えられる。
 現代のカルチャー状況を見回す時、古代のグラディエーターを彷彿とさせるK-1格闘技もあれば、米国映画は銃やありとあらゆる兵器による爆発と殺人のオンパレードである。また、庶民の味方であるかのように、さまざまな政治的問題を感情的に揶揄するトーク番組も見え透いている。
 これらが、庶民を<政治的盲目に置く>ための「ガス抜き」カルチャーだと言い切るためには、もっと多大な注釈を必要とするだろうが、ここでは差し当たって「そんなカ〜ンジ」とだけ言って済ませておくことにする。
 ただ、上記引用文からの一文を繰り返しておきたい。

<このような社会的堕落は、ローマ帝国の没落の一因となった>

…… (2007.06.26)


 米国政府関係サイドの極端な「マイペース」ぶりは鼻につくものだが、下記の記事が示す動向にはアグリーである。

<米下院外交委、慰安婦決議案を可決・日本政府に謝罪求める
 【ワシントン=丸谷浩史】米下院外交委員会は26日午後(日本時間27日未明)、旧日本軍によるいわゆる従軍慰安婦問題で日本政府に責任を認めて謝罪するよう求める決議案を、一部修正し39対2の賛成多数で可決した。決議案は7月中に本会議に上程される見通しが強まっており、採決すれば可決の可能性が大きい。決議に法的拘束力はないものの、日米関係に微妙な影響を与えそうだ。
 決議案は旧日本軍が「若い女性を『従軍慰安婦』として知られる性的奴隷」にしたと非難し、謝罪を求めている。民主党のマイク・ホンダ議員が1月末に提出した際の共同提案者は6人だったが、最終的には下院定数435の3分の1にあたる145人に上った。
 決議案は民主党のラントス外交委員長、共和党のロスリーティネン筆頭理事が共同で修正案を提示。「日本の首相は謝罪すべきだ」との原案の表現を「謝罪を公式な声明として出せば、これまでの声明の誠意について再三、繰り返されている疑問の解決に役立つ」に変えた。 (09:46)>( NIKKEI NET 2007.06.27 )

 国としての「恥部」については、速やかに然るべく対処をしなければ、いつまで経っても国民の肩身が狭いようで、世界に向けて晴れやかな顔ができないというものではなかろうか。以下のような報道もある。

<民主党のラントス委員長らがこの日提出した修正案は、日米同盟の重要性を確認する文言を追加。首相に謝罪の声明を求めた部分について「首相が公式の謝罪声明を出せば、日本の誠意と、従来の声明の位置づけに対する一向にやまない疑いを晴らすのに役立つ」との文言も盛り込んだ。
 ラントス氏は「日本政府が公式で明確な謝罪をいやがるのは、今日の世界での日本の役割と明確に相反する。日本は誇り高い世界のリーダーであり、貴重な米国の同盟国だ。それだけに、誠意を持って過去を説明しようとしないことには困惑させられる」と語った。また、共和党のロイス議員は「昨日のことに誤って対処すれば、正しい明日を得ることも難しくなる」と述べ、今回の決議案は過去の話ではなく、現在も重要な意義があると強調した。>( asahi.com 2007.06.27 )

 余計なコメントをつける前に、次の記事もさらに加えておきたい。

<…… ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の生存者であるラントス外交委員長は「国家の真の力は、その歴史のなかの最も暗い一幕を突きつけられた時に試される」と語った。戦後、謝罪を繰り返したドイツを「正しい選択だ」と評価。一方で日本は「歴史の記憶喪失」を進めていると嘆いた。
 ラントス氏は、14日付の米紙ワシントン・ポストに掲載された日本の国会議員らによる全面広告にも言及。「強制性を示す文書はない」とした内容を「慰安婦の生存者をけがすものだ」と批判し、下院が立ち上がるべきだ、と呼びかけた。……>( asahi.com 2007.06.27 )

 国内的には、「言い包めれば勝ち」、「数で押せば決まり」という邪道が通用しても、それを世界に通用させようとするのはやはり無謀であり、「井の中の蛙」のたとえをまぬがれないようだ。まして、相手は一筋縄では行かない「世界警察」の米国である。
 こうした動向の背景を詮索するのはとりあえず控えておく。「世界警察」の米国による対東アジア戦略戦術(当面、対北朝鮮政策)が潜んでいるであろうことは想像されたりもするが、それは、上記引用の<14日付の米紙ワシントン・ポストに掲載された日本の国会議員らによる全面広告>云々と同様に、「恥の上塗り」的響きしか持たないであろう。眼を向けるべきは、抗議や非難の「材料視」されるような事実自体が問題だと思われるのだ。この生き馬の目を抜くような熾烈な世界にあって、「材料視」されるような事実への緊急かつ抜本的対処を怠ってきた日本政府の政治姿勢が如何にも「井の中の蛙」らしいと思えるのである。

 『従軍慰安婦』問題というシビァな人権問題は、人道的観点から厳格に対処されなければいけない問題である。と同時に、今ひとつ現実的な問題としては、リアル・ポリティックスがまかり通る現代にあっては、政治の担い手たちは、政治選択において他勢力から突っ込みの「材料視」がなされる「火種」を速やかに処理しておかなければならない、という点ではなかろうか。当該問題に関しては、あまりにも日本政府のこれまでは無防備に過ぎたという印象がぬぐい切れない。
 米国(政府や議会)が、今回のような動きを示すことは予想だにしていなかったのではなかろうか。それは実に甘く、身勝手な幻想でしかないように思える。
 日本は、米国に不可解なほどの「思い入れ(依存)」をしていることは間違いないが、相手側も同様だと勝手に思い込むのはどうであろうか。米国は、良い意味でもその他でも、要するに「ビジネス・ライク」な国家だと思える。状況に応じて、いくらでも「ドライな選択」をして憚らないはずである。その動きに対抗できるのは、かろうじて厳密なロジックとそれに基づく万人説得性(国際世論?)だと言えるのかもしれない。
 この『従軍慰安婦』問題に関して言えば、「強制性を示す文書はない」なぞという抗弁は、「世界の中心で」叫べる類の愛に溢れた口調であるのだろうか。自分なぞは、ふと、現在進行中のとある「差し戻し裁判」における被告自身の信じ難い弁明を思い起こしてしまった。

 人はよく、「敵を作るな」と口にする。そうありたいものであるが、現代という特殊な時代にあっては、「敵を作る」かもしれない振る舞い以前に、その種の人々によって何らかの意図を持った「材料視」がなされないように留意すべきなのではなかろうか…… (2007.06.27)


 「メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)」という流行の言葉がある。いや、あまり涼しい顔をして言える言葉ではないはずだ。自分も留意しなければいけない中高年の芳しくない身体特徴だからである。
 愉快な言葉ではないらしいと推定すると、まともに受け止めようとはしなくなるものだ。だから、「メタボリック」とは一体何のことだと疑問のままにしてきた。建設的な言葉であるらしいとなれば、いろいろと調べてもみようが、どうせ百もわかっている生活習慣病、成人病近辺の言葉らしいとなれば、放っておくことになってしまう。

 今日、ある言葉を「広辞苑」で調べていたら、ああ、そういうことだったのか、と合点したのである。拳で机を叩き、「ガッテン、ガッテン」なのであった。
 そのある言葉とは、「新陳代謝」であった。「@古いものが次第に去って、新しいものがこれに代わること」とあった。と同時に、「A[生]( metabolism )⇒物質代謝に同じ」とも出ていたのである。
 ああそうか、「メタボリック」とは、「 metabolism =新陳代謝、物質代謝」に不具合が生じていることを指していたんだな、と納得した次第なのである。

 じゃあ、なぜ「新陳代謝」という言葉に関心を持ったかである。大したことではなく、事務所が面している通りのその道路沿いの建物は、かなり入れ替わりと建て替えが多いものだと常々察知していたのだが、これをどう称するべきか……、という脈絡で、「新陳代謝」という言葉が思い浮かんできたのであった。
 この通りの大きな特徴は、クルマの往来は激しいのであるが、歩道を歩く「人通りの状態が今一」ということなのかもしれない。
 そして、その状態が導き出すところの「経済効果」は、「マイナス」効果なのであるが、種々の店舗の店仕舞ということになりそうなのである。
 現在、全国各地の商店街で「シャッター通り」との異名を持つ、立ち行かなくなった商店街が増えていると聞く。要するに、購買力の低下が原因なのであろうが、それ以前に、きっと「人通りの状態が今一」ないしは「人通り皆無」という事情が支配的なのだろうと推定される。
 よく、ハハーン、これは人通り状況の調査だな、と思わせるアルバイトが、道路脇に座り込んで「カウンター」をカチャカチャやっている姿を見かけることがある。これは、その近くで新店舗開設などを検討している業者が、潜在的顧客である人通り状態を調査させているものなのであろう。それほどに、客商売の場合には、その店舗の立地条件にとって人通りの状態は決定的なものだと思われる。

 それにしても、事務所前の通りは、人通りが少ない。当社のように、通りすがりの人々を商売相手とするものではないならば、さして問題ではなかろう。しかし、何を売るにせよ店舗となれば、この状態はかなり致命的なものに違いない。
 自分が見聞したこの3、4年の間でも、何件の「新陳代謝」現象が起きたであろうか。 覚えている消えた店舗を列挙すれば、「ケータイ販売店」2軒、「パン屋」、「弁当屋」、「コンビニ」2軒、「家電量販店」、「写真屋」、「不動産屋」、「蕎麦屋」、「学習塾」などである。その他にも気がつかなかったものがあるかもしれない。
 しかし、まさしく「新陳代謝」だと言ったように、その大半が、別の種類の店舗としてリセット開業されているのである。新スタートした店舗が、つつがなく採算をとっているのかどうかは定かではない。
 あまり芳しくない気配を感じるのであるが、それ以上に感じたことは、新チャレンジャーたちは、一体どんな「知恵と勇気の泉」を保持しているのかは知らないが、前向きで頑張るもんだなあ、という感想なのである。

 人間各位には、正真正銘の「知恵と勇気の泉」が潜んでいるのだろうし、場合によっては、「無知と妄想の沼」が足元に控えていて、無謀な挑戦を仕出かすこともないとは言えない。そんなはずはない、自分の場合に限っては違うのだ、という人間個人特有の「泉」だか「沼」だかの存在があればこそ、さまざまな新しい挑戦が繰り広げられるのであろう。そして、そこに、「新陳代謝」現象が粛々と展開していくのか…… (2007.06.28)


 久々に溜飲を下げてくれる一文に接した。立花 隆氏の透徹した現状分析である。その一文は、以下のように結んでいる。

<……参院選で安倍首相が敗けることは確実だが、そのあとは、安倍首相の敗け方いかんで、どんな展開もありうると思う。
 それこそ自民党も民主党も分裂して、大々的な政界再編が起こることだってありうると思う。
 いずれにしろ、この未熟な総理大臣には早く退場してもらいたい。最近の強行採決の連発を見ていると、こんな人を首相にしておいては、日本は壊れてしまうと思う。>(立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」 『女子高生も「経験不足」と嘆く 未熟な安倍首相よ、政権を去れ!』nikkeibp.co.jp )

 「自民党をぶっ壊す」と叫んだ前首相の後釜を譲り受けた安倍首相は、結果的には、「日本をぶっ壊す」という危険水域にまで踏み込んでいるかの模様であるから、意を強めつつ読むことになったわけである。
 標題の<『女子高生も「経験不足」と嘆く 未熟な安倍首相……』>の意味するところは、「アンケート調査でわかった、いまどき中高生(12〜18歳)『笑撃』の政治観」(週刊朝日掲載)での中高生たちの安倍評を指している。
 そこでは、とにかく歯に衣なんぞ着せる技を知らない者たちは、時の首相をケチョンケチョンに評しているとかである。その中で、立花 隆氏が最も共感を覚えた評価が、「明らかに経験不足」であったそうな……。何をどう見てそう評したのかは知らないが、言い得て妙だと思えた。

 その前に、立花氏は、安倍首相には<政治センス>が欠如しているという難点のあることを指摘している。同氏によれば、<自分の言動が生みだす政治効果をすばやく直感的に計算して、それを最大化する方向に言動をすぐに微調整する能力>だそうで、<小泉前首相はそれが抜群にあった>とされている。
 小泉前首相にもマイッタものだったが、それを売り物にしていただけに彼の<政治センス>は、まあ「ワザあり!」と言わずばなるまい。
 ところが、安倍首相の場合は、如何せんそれがない。、立花氏は、以下のように酷評している。

<この人の議会におけるさまざまな問題についての答弁にしても、あるいはいろんな政治的パフォーマンスにしても、妙な細部へのこだわりから、単純明快なメッセージ性を欠くことが多い。
 大衆に訴えかける政治的メッセージには、単純明快さと、目の前の現実に即応して発される即時性が必要なのに、この人の言動には基本的にそれがどちらも欠けている>(同上)

 それで、「経験不足」という前述の点に戻るが、この点こそは、安倍首相とともに現代の多くのリーダーに共通する盲点であるように感じられたのである。
 安倍首相の「経験不足」は次のようだそうである。

<安倍首相には、閣僚としても、党役職者としても、ほとんど経験らしい経験がない。閣僚としては、官房長官を11カ月。党の主要な役職としては、幹事長を12カ月やっただけなのである。
 これだけの経験しか持たずに総理大臣になってしまった自民党政治家は、安倍首相以外誰もいない。
 安倍首相は本当に「経験不足」そのものなのである>(同上)

 とすれば、当然生じる疑問は、ではなぜそんな「経験不足」の人材が首相の座に収まったか? であろう。その点を、立花氏は次のように解説する。

<政治の世界では、いつでもみな激しいパワーストラグル(権力闘争)をくり広げており、その中で勝ち残ったものだけが政界実力者となる。
 政界実力者間で、さらに権力闘争がくり広げられ、最終的に勝ち残ったものが総理の座を獲得する、というのが、これまでは普通の流れだった。
 ところが、小泉政治の5年間の間に、派閥という実力者間の権力闘争の基盤をなしていた構造が完全に堀りくずされてしまった。
 だから、実力者同士が、派閥を率いての集団戦をするという形で権力闘争を行い、実力で政権をかちとるということがなくなってしまった。
 派閥を基盤とした実力者がみんな実力を失ってしまう中で、絶対権力者となった小泉が禅定(禅譲のミスプリ?引用者)によって、政権を安倍に譲る形で安倍政権が誕生した。
 安倍は激しいパワーストラグルで鍛えられることが一度もなしに、政権を取ってしまった。つまり、あまりに未熟なまま、総理の座についてしまったわけである>(同上)

 この辺の背景問題は、「キングメーカー」や「院政」の問題としても関心が持たれるところでもあるが、わたしは、もう少し別な視点、現代の一面にありがちな「タナボタ」リーダーの問題という視点で考えてみたいのである。

 現代は、熾烈な競争(闘争)時代だと目されるわけだが、必ずしもすべてがそうだと言うわけにはゆかないようだ。「忙中閑あり」ではないが、結構、「無風地帯」が残存したり温存されたりもしているようである。そして、この「無風地帯」から立ち上がることとなった「リーダー」によって、結構、埒外な問題が撒き散らかされている現実がありそうである。
 このケースで、先ず何といっても挙げなくてはならないのは、お役所(官僚機構)だということになる。お役所自体やそこでのリーダーたち、お役人たちは、内部的にはローカルな「井の中」の「競争(闘争)」はあるのだろうが、民間パワーとのそれが回避されているわけだ。また、行政責任がとかく不問に付されるように民間に対する責任体制も実に緩い。まさに、在野が熾烈な競争(闘争)時代である中で、「無風地帯」だと言うのが妥当であろう。
 今、国民を悩まし苦しめている「杜撰! 年金問題」にしても、厚生労働省という温存された「無風地帯」があったればこそ産み落とされた問題だったのではなかろうか。
 在野の国民には、熾烈な競争(闘争)を強いておきながら、お役人(官僚)たちは、特権的「無風地帯」の中で、時代のシビァさには耐えられるはずもない人材とリーダーを生み出し続けているのかもしれない。

 「無風地帯」における「タナボタ」リーダーの問題は、当然、政界における「二代目」議員にも潜んでいるはずであろう。
 また、ちょっと死角に入りがちな問題となるが、現代はとかくハイテク、IT環境が支配的であるため、その環境でのリーダーたちは、ややもすれば「自動化=無人」環境を扱うことには精通していても、ドロドロとした面をも内在させた人間関係とその経験には疎いという嫌いがあるのかもしれない。しかし、組織にせよ人の世というものは、どんなものであれ人間関係を軸にした経験なしでは済まないものではなかろうか。
 「経験不足」という言葉は、ひょっとしたらこの時代にあっては古臭い響きを感じさせる言葉なのかもしれない。しかし、経験という言葉や、それが含蓄した人間世界の筆舌に尽くし難い実態が、もはや乗り越えられた古臭いものだなぞとは到底言えないであろう…… (2007.06.29)


 とある本で目にしたフレーズに「下層喰い(格差社会の下層の人々を喰いものにする消費者金融体制)」という言葉があった。そして、この下劣な風潮は、単に消費者金融業者当事者にとどまることなく、これらに平然と多額の融資をしている大手銀行や、また消費者金融業者による奇麗事と誑(たぶら)かしの宣伝広告を嬉々として受け入れているマス・メディアには、度し難く「毒が回っている」という表現もあった。
 「下層喰い」、そしてその「毒が回っている」大手銀行やマス・メディアというまがまがしい構図は、これこそが虚飾を剥いだ弱肉強食社会の偽らざる実態なのだろうと痛感させられたものである。ふたつの言葉が、野獣界の動物たちの生態を匂わせるニュアンスを持つだけに、やりきれない思いにさせられるわけだ。

 自分も、どちらかと言えば奇麗事のオブラートで誑かす(たぶらかす)世の常にはしてやられる方であるが、庶民は今こそいっさいの誑(たぶら)かし風潮を毅然と拒絶しなければいけないのだと強く思う。それが自己防衛の第一歩のはずだからである。
 「自分も……やられる方だ」というのは、自分もバカだからという意味もあるにはあるが、実に「誑(たぶら)かし」の手口は巧妙だということなのである。いや、消費者金融のことだけを言っているのではない。「誑(たぶら)かし」で人を「喰いもの」にする、今や主流ともメジャーともなった連中一般のことを想定しているのである。
 彼らはまさに「毒」を駆使する。免疫ができあがってしまっている下劣な自身には効かないが、良識ある人間というものを信じたいと願っている者には結構効き目のある、そうした「毒」を巧みに悪用するのである。

 「毒」にはいろいろとありそうで枚挙に暇がなさそうだが、その中で結構、卑劣なのは、念のための確認をしようとしたり、疑いを差し挟むかたちとなる言ってみれば当然の意向を、事も無げに蹴散らかす手口の「毒」であろう。
「そんなことありませんよ。それは考え過ぎというものです。ホラ、みなさんが笑ってらっしゃいますよ……」
と書けばわかるだろうと思う。
 もっとわかりやすい好例を挙げるならば、あの『裸の王様』のストーリーを支配したロジックだと言ってもいい。このロジックは、誰もが気づく「王様は裸なのではないか」という当たり前の認識が、ある種の「空気」によって押し黙らされてしまうということであっただろう。
 その「空気」とは、ひとつは誤った先入観、つまり、王様ともあろうお方が裸で街中を歩くワケがないという先入観であり、もうひとつは恐怖心、つまり、みんながそう信じようとしている事実を自分だけが拒絶するならば不信感を誘うこととなり、責め咎めを受けそうだという恐怖心の二つから出来上がっているのかもしれない。
 こうした「空気」を巧みに操るのが、上記の、ある種の連中が「毒」を駆使するという意味だと言っていいだろう。ここには、「強制」の跡は(詳細に見れば存在するのだが)表面上は認めにくく、被害者側の操作された結果の「擬似」自発性の姿が浮かび上がっているのである。
 (今、問題視されている「慰安婦問題」にしても、あるいは「特攻隊」などの捉え方にしても、いうまでもなく「非国民」というような言葉が飛び交った軍事体制の中での出来事である。そこでの「強制」性は無かったというような論法は、まったくの「誑(たぶら)かし」としか言いようがなかろう)

 結論を急ごう。
 「消費者金融」問題に端を発して、現代における「誑(たぶら)かし」連中の手口について書いた。そして、「強制」性が無いように見せかけ、まるで自発的に「個人責任」で選択したかのように持ってゆく、というのが現代の「誑(たぶら)かし」の大きな特徴ではないかと思うのである。
 で、問題は、次にある。
 わたしは、「誑(たぶら)かし」の張本人たちは眼中に置いていない。そんな連中は「ビョーキ」なのだから医師ではない自分は関与することができないから、差し当たって視野の外に置くしかないわけだ。
 そこで、クローズ・アップしてくるのが、「誑(たぶら)かし」の張本人たちに加担しながら非難を免れようとしている連中なのである。
 そして、とりあえず嘲笑したいのが、マス・メディアだということになる。何をしてでも営利を追求したいと奔走し、片方で、「消費者金融」問題の被害者の側にあるかのような報道をしておきながら、もう片方では「誑(たぶら)かし」CM、広告などを平然として請け負っている「コウモリ的」振る舞いに対しては、ただただ嘲笑うしかなかろう。

 ところで、マス・メディアへの嘲笑の理由を「消費者金融」問題に限定して書いてきたが、実は、それは氷山の一角なのであって、マス・メディアの実態はもっと多面的に罪深いと想定している。
 それと言うのも、マス・メディアは、上述した「空気」というものを操作し得る数少ない立場にあり、良いも悪いも現状の政治や社会状況の到達点に、かなりの程度加担してきたと言わざるを得ないからなのである。
 こうした事実関係、因果関係をマス・メディア関係者はどの程度自覚しているのであろうか。きっと、マス・メディアは「公平公正な第三者」でござい、とでもいった捨てゼリフを吐くのであろう…… (2007.06.30)