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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2007年05月の日誌 ‥‥‥‥

2007/05/01/ (火)  立花隆氏が見せてくれた、奇異な日米関係の現実……
2007/05/02/ (水)  何気ない光景から覗ける時代の問題……
2007/05/03/ (木)  久々に40キロ×2のサイクリング……
2007/05/04/ (金)  悲惨な「帰路」! だがまた行くことになりそうだ……
2007/05/05/ (土)  「昼寝」を欲するほどに疲れるのが健全か……
2007/05/06/ (日)  老人候補生たちの「あしたは、どっちだ?」
2007/05/07/ (月)  問題解決にあらず、問題の始まりであるのかも……
2007/05/08/ (火)  「第三者の誰かにこのメールは読まれている」点を意識する「情報リテラシー」!
2007/05/09/ (水)  「わかるかな、わかんねぇだろうな」をよしとしたい……
2007/05/10/ (木)  自分も、一応は「ブロガー」なんだろうか……
2007/05/11/ (金)  騙される気の毒な人たちに同情している場合なのかな?
2007/05/12/ (土)  大御所「大日如来」仏が担当する「27回忌」の法要!
2007/05/13/ (日)  「耐える力」を備えた「能力」と、「自信」・「信念」……
2007/05/14/ (月)  目に余る「スパムメール」!
2007/05/15/ (火)  「モア・バリュー」への「圧力」が充満する時代……
2007/05/16/ (水)  現時点の個人側の「情報リテラシー」の水準は?
2007/05/17/ (木)  GDP算出方法の見直しを急ぐべきでしょう!
2007/05/18/ (金)  自己啓発においても、やはり重要な「動機」付け
2007/05/19/ (土)  手っ取り早い「吊るし」の情報に期待せず……
2007/05/20/ (日)  晴れた日の穏やかな日曜日……
2007/05/21/ (月)  「検索」「フィルタリング」「スクリーニング」作業が必須となった現在
2007/05/22/ (火)  日常環境自体が『戦場』のような命懸けの環境……
2007/05/23/ (水)  「どうなろうと知ったことじゃない」という心境を「リセット」……
2007/05/24/ (木)  「取り巻き」連中を何とかセイ!
2007/05/25/ (金)  <問題は誰も景気悪化を口にしないことだ>……
2007/05/26/ (土)  加齢に伴う身体のメンテナンス・コスト……
2007/05/27/ (日)  文章化作業の一面には、猫や鳥たちの「毛づくろい」の働きがあるのかも?
2007/05/28/ (月)  行動力の鍛錬のためには行動を起こすしかない……
2007/05/29/ (火)  「おカネを稼ぐ」ということと、「カネを掠め取る」ということ……
2007/05/30/ (水)  何が起こるかわからないと想定しておいた方が……
2007/05/31/ (木)  「西暦」何年方式から「BC( Before Crisis,Before Crash )」何年方式へ






 やはりそういうことがあるわけだ、と頷かされるようなことがある。
 以前から、マス・メディアの報道に関する問題点には、ある事実を報道することに関してそれが歪められているとかいないとかという問題のほかに、そもそもある事実について報道しないという点に潜む問題点があることに関心を持ってきた。

 今回、これに関して顕著な例を見る思いがしたのは、「Newsweek」の「英語版」と「日本語版」とがかなり異なっているとの<指摘>に接したことによる。
 この<指摘>は、<立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」>というサイトで、同氏が指摘していた。( 同サイト 第104回 「米メディアが警戒する安部首相訪米の中身」 2004.04.26 )

<「Newsweek」の場合、英語版と日本語版の間には、内容において大きなちがいがある。「Newsweek」は英語版でも地域によってかなりのちがいがあり、北米で読まれているものとヨーロッパで読まれているものはかなりちがう。地域によってちがいがあることそれ自体は特別のことではないのだ。
 しかし、今回の英語版と日本語版のちがいはあまりに大きい。いま述べてきたような要素が、日本語版からはスッポリ抜けているのだ>(同上)

 立花氏は、<地域によってちがいがあることそれ自体は特別のことではないのだ>と書いているが、報道とは言え、商業的側面が小さくないことを思えば、地域の読者の気分を害して購買数を減らすよりも、迎合した方が得策だとする論理はわからなくもない。
 しかし、それも程度の問題であろう。だから、立花氏も、<いま述べてきたような要素が、日本語版からはスッポリ抜けているのだ>と驚嘆しているわけである。
 <いま述べてきたような要素>の内容面に入る前に、こうした報道のあり方はやはり奇異に感ぜざるを得ないと言っておきたい。とりわけ、日米関係に関する報道については、知る人ぞ知るところの実に奇異な報道状況があると言われているからである。

 この辺の事情に関しては、関岡英之『拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』(文春新書、平成16年4月20日)において、次のように叙述されている。
<外務省の公式ホームページには、日本政府が毎年アメリカ政府へ送った『年次改革要望書』は掲載されているが、アメリカ政府が日本政府へ提示した方は公開されていない。不思議なことにマス・メディアでも従来このことはほとんど報道されていないのだ。……「米国側の要望内容は明らかになっていない」として、内容にはいっさい踏み込んでいない。日本の将来にとってこれほど重要な意味を持つアメリカ政府からの公式文書である『年次改革要望書』の全文が日本のマス・メディアで公表されたことはないのだ。……>(関岡前掲書)
 ちなみに、小泉前首相が自信ありげに吹き捲ったあの「構造改革」とは、まさにこの『年次改革要望書』に依拠していたことは次第に明らかになっている。「道路公団問題」や「郵政民営化」問題にしても、すべてが米政府側からのこの『年次改革要望書』に由来していたと言われている。言うまでもなく米国政府側のそのねらいが、米国金融資本(ハゲタカ・ファンド)による日本の富いっさいの吸引にあることは、時が経つにつれて浮かび上がってきているようである。今日も、その一環としての「三角合併制度」という「日本買い」のための金融制度が解禁となった模様だ。(「脅威か好機か 三角合併制度 きょう解禁」 asahi.com 2007.05.01 )
 こうした問題こそが今後にもまたがるこの国の愁眉の問題であるわけにもかかわらず、日本のマス・メディアは、あいかわらず『年次改革要望書』に対して「頬かむり」をし続けているのである。どのようなパワー・トリックでそうなっているのか知らないが、この辺に、対米関係における実に奇異な空気が充満しているようである。

 さて、冒頭の件に戻るが、<日本語版からはスッポリ抜けている>とされる<いま述べてきたような要素>の内容面である。立花氏の紹介だと次のようになっているらしい。

<今週の「Newsweek」英語版(4月30日号)を手に取った人は、ちょっとドキッとしたにちがいない。なにしろ表紙は安倍首相の大写しの顔で、そのわきに、“Face-Off”(対決)の大見出しが躍り、「アベは外交問題でも歴史問題でも強硬路線をとるようになった日本の立場を擁護する」というキャプションがついている。
 中をめくると、1ページ丸々使った大きな写真の安倍首相が登場するが、今度は安倍首相の顔は1円玉ほどの大きさしかなく、写真の大部分は、日章旗の赤い丸の部分を大きく引きのばして、安倍首相が体よりも大きな日の丸を背負ったような構図になっている。
 防衛大学の卒業式で演説をしている姿を撮ったもので、「ナショナリスト」というタイトルがついている。
 その反対側の面には、「日本の重荷(The Burden Of JAPAN)」という大見出しの記事が載り、朝鮮人従軍慰安婦十数人の写真がズラリとならべられた大きなパネル写真が記事の中央にかかげられている……>(立花前掲サイト)
 要するに、<“ナショナリスト”シンゾー・アベ>、<警戒すべき国粋主義者(ナショナリスト)>を大々的に打ち出し、米国政府にとっての安倍首相の脅威を声高に叫んでいるということになりそうだ。
 これに対して、同誌の日本語版の方は次のようだという。

<だいたい表紙からしてぜんぜんちがう。日本語版は4人の映画スター写真がならんでいて、「シネマ!シネマ!シネマ!」の大見出しが刷込みになっていて、『「スーパーマン3」「バベル」ほか秘話&レビュー Newsweek厳選おすすめDVD20作品』などとある。日本版の主要な中身は「保存版シネマ特集」なのだ。
 日本版にも、安倍首相がらみの記事があるにはあるが、実質的中身は半分。写真の扱いもインパクトも半分以下というところだろうか。とにかく、記事全体から受ける印象がまるでちがう>

 こうした奇異な差異を持つ報道がどんな意図でなされたのか、は実に興味深い。
が、ひとつだけはっきりとしていることは、日米のマス・メディアによって、この国の国民各位は、蚊帳の外、それも子どもっぽい楽しさ満載のコンテンツのまやかし世界という蚊帳の外に追いやられていそうだ、ということだろう。まさに、日頃、嫌と言うほどに感じさせられている虚しい図式である…… (2007.05.01)


 赤ちゃんを抱いて歩いているご婦人と出会った。この事自体は何の変哲もなく、どうということはない。
 だが、自分はその光景に何がしかの好感を抱いた。自分でもよくはわからないのだが、いろいろと反芻してみると、「自然さ」という点に尽きるようである。
 赤ちゃんの抱き方が実に手馴れているというか、特に専用ベルトなぞを使うわけでもなく実に「さり気なく」片手で抱いて、スタスタと歩いていた若いお母さんなのであった。赤ちゃんは女の子のようであり、柔らかそうな髪の毛が寝癖のためにグチャグチャとなっている。着せられているものも、特にデザインが目立つようなものではなく、ありきたりのベビー服だ。赤ちゃんも、そんな抱かれ方には慣れているようで、無頓着な顔つきのようだった。
 母親の方も、お化粧をしているのかいないのか判別できない「さり気なさ」であり、地味なワンピースを着ていた。見方によっては、もう一歩崩れると所帯やつれという表現に馴染みそうなのだが、その分類には当てはまらない。
 いや、それどころか、ほっぺたが赤い赤ちゃんも元気そうなら、母親の方も「実務家ふう」のテキパキ、サバサバとした身のこなし方であり、それが何とはなしの「ホォー」という印象を与えていたのだ。要するに、しっかりと地に足がついた、逞しい生活の中の母親と赤ちゃんというポジティブな印象だったのである。

 どうして何でもないこんな親子の光景が目にとまったかというと、昨今の、赤ちゃんを育む親たちの、言ってみれば「物々しい」印象が前提となっていたからかもしれない。
 事務所の近くのその歩道上でも、上記の親子とは対照的な、まるで、お「赤ちゃん」さまとでも言ったら良いような印象を与える「慎重そのもの」の親子を見かけてもいる。赤ちゃんを抱いて歩くための専用ベルトを装着して、その上、両手で包み込むように抱き、おまけに若い母親は頻繁に赤ちゃんの顔を覗き込みながら歩いていたようだった。
 それはそれで絵になっていたし、「命懸け」とでも言ったらいいような母親の心境が伝わってきたものだった。ただ、こんな母親の赤ちゃんを、何かの縁があってしばし抱いていてくれと言われても、とてもじゃないがそれはできない相談だとも思えた。落としでもしようものなら殺されかねないと感じたからである。

 それにしても、昨今の若い夫婦たちは、赤ちゃんという存在に「過敏症」気味になっているかの印象である。二人してベビー・カーを押す光景も時々見かけるが、その周辺には何か、緊張感に満ちた空気が漂っていそうな気配がしたりする。
 昔のように、身近に「子育ての達人」たちがうじゃうじゃといる世の中ではなくなったため、若い夫婦たちは、赤ちゃんという存在にとにかく振り回されているのだろう。それは、家庭に、画期的なIT機器が導入されたはいいものの、なんせ、使い勝手を良く知るものがいないといった状況に酷似しているのかもしれない。
 こんな、ある種ナーバスな世相が前提にあって、冒頭のようなさり気ない振る舞いの母親と赤ちゃんという光景が、実に頼もしく思えたのかもしれない。

 確かに、危険に満ち満ちた現代の生活空間にあっては、未知の存在である赤ちゃんに対して抱く若い母親たちの、あるいは父親たちの心配度合いは計り知れないだろう。加えて、産婦人科医院の数も日毎に減っているという事情もあろうか。赤ちゃんを育む直接責任者たちは、まさに荒海に翻弄されながら小さなボートを漕いでいるような、そんなイメージが妥当しているのかもしれない……。
 とにかく、ざっくりと言って、赤ちゃんと若い母親たちの生活環境が、心身ともにゆったりとするような社会環境が必須だと思えてならない。そうでなくては、「少子化」という蟻地獄の時代傾向は良い方向へと向かって行くことがないのではなかろうか。
 ついでに言うならば、「高齢化」の方の問題も、全く同様なのであり、静かに老後を暮らすことができて、心安らかに次世代にバトンタッチがして行ける、そんな社会環境がなくては、まともな時代だとは言えないのであろう…… (2007.05.02)


 休日だというのに、今朝は6時起床であった。とあることに挑戦しようと意気込んだのである。そして、夕刻の現在、達成感だけがかろうじて身体を支えているような、そんなクタクタの状態である。ここしばらく、ついぞ被ったことがないほどの疲労感が充満しているのは、両方の太腿である。まあ、明日もあさっても休日であるため、何の心配もしていないが。
 境川川沿いの遊歩道・自転車道路で、町田の自宅から40キロ弱の距離の江ノ島までを自転車で往復しようという挑戦だったのである。
 二十歳代の頃に、片道数十キロ以上のサイクリングをしたことがあったが、最近はウォーキングは欠かさないものの、サイクリングでの長距離にはまったく縁がない。にもかかわらず、意気込んだ理由というのは、家内に先を越されていたからかもしれない。
 以前にも書いたとおり、家内は、この目論見を何度も経験している知人から一緒にどうかと誘われ、先日ついに「暴走」したのであった。誘われていることは聞いており、自分も関心があったため、試しに途中まで家内に付き合ったこともあった。そして、そのうち一緒に出かけようかなぞと言っていたのだが、つい先日、家内はその知人に付き添われつつ敢行してしまったのである。それが、何となく先を越されたという事情なのである。

 今日の天候が真夏日に近い晴れであろうということは予報されていた。長距離の途中で雨に降られたり、雷に脅かされたりでは話にならないと考えていた。せっかくの挑戦で疲れるならば、明るい陽射しの中の自然風景なりとも楽しみたいと願っていたのである。
 なんせ、境川に沿った町田〜江ノ島間には、藤沢市という都市もあるわけだが、途中は大和市の広い田園地域が占めている。クルマで通過した際にも、その田園風景は心癒す光景であった。これらが、五月晴れの陽射しの中で眺望できるのであれば、きっと自転車の疲れも吹っ飛ぶことだろうと期待したのである。だから、たとえ暑くとも晴れの予想が出ていた今日が絶好日だと思えたのだ。また、家内は例によって実家のお母さんのケアで不在であったため、チョンガーのおっさんは所在ないといえばそう言えないこともなかった。

 出発は、午前7時ちょうどであった。初めて出向くだめ所要時間がどれくらいかはわからない。また、境川沿いにひたすら走ればよいとはいうものの、藤沢市に入ると川沿いのルートがなくなって市街地に入らなければならない。初めてのルートだと当然迷う場合のプラスアルファの時間も想定しなければならない。だから、およそ3時間程度かとは想像されたが、どうなることかはわからなかったのである。
 だが、結果的には、若干の寄り道があって往路はちょうど3時間であった。時速に換算すると12〜3キロで、歩く速度のほぼ3倍というところであろうか。
 朝が早かったということがあってのことか、往路のコースは比較的閑散としており、初めてにしては、「ひとつの事柄」を除いてはあっという間にこなせた感があった。ビギナーズ・ラックというほどのことでもないが先ずはスムーズであっただろう。
 前回途中まで走った際にも感じたことであるが、川沿いの自転車コースというものは、市街地などのように起伏に富んではおらずほぼ平坦な道であり、サイクリングには適している。が、肝心なことを忘れてはいけないのだ。わずかな傾斜角ではあるが、下流へ向かって傾斜しているのである。だから、江ノ島へと向かう往路は、わずかなことではあるが坂を下ることになり、帰路に較べるとラクであって当然なのである。
 ところで、「ひとつの事柄」というのは、藤沢の手前頃からトイレに駆け込みたくなる体調となってしまったことである。これには困った。市街地のように、コンビニもあれば、喫茶店もガソリン・スタンドもあるという状況設定ではないのだから困るのである。
 したがってこのコースには、二、三か所のトイレが設置されているようであったが、初めてのためにどこにそれらがあるのか、あったのかがわからなかったのである。結局、藤沢市の市街地まで我慢に我慢を続けて、やっと市営体育館を見つけて用を足したものであった。江ノ島に着いてほっとするより先に、トイレを見つけてほっとしたわけだ。
 江ノ島の展望台の塔が見えてからほどなく小田急江ノ島線の片瀬江ノ島駅にたどり着いた。まだ、駅前はごった返すほどの人出ではなかったが、それでも、この晴れの天候からすればもう一、二時間も経てばそうなることが十分に想像される気配であった。
 駅前から地下道を潜って、何はともあれ海岸に出て一休みをすべしということにした。トンビに弁当や菓子を襲われることを目撃したその海岸である。今日も相変わらず、トンビやカラスが、空中から、また建物の屋根の上から虎視眈々と獲物を探している様子であった。
 自分は、砂浜に降りる階段に腰を降ろして、一人用魔法瓶に慌てて詰め込んできた熱いコーヒーをカップに注ぎながら、午前中は禁煙のルールを今日は特別と言い聞かせて、おもむろにタバコに火をつけ、美味い一服を吸った。
 こんな挑戦は決して大したことでないには違いないが、それでも何となく達成感と爽快感とが、海方面から吹く風とともにふんわりと訪れる気がしたから不思議であった…… ( 帰路については明日につづく)(2007.05.03)


 まだ予断を許さないが、昨日の疲れは大したことにはなっていない。多少、太腿が重い感じがする程度であろうか。だが、歳をとると疲れが翌日にではなく、翌々日あたりに出るということもありそうだから警戒の余地はありそうだが、まあ大丈夫でありそうな気配である。
 今日は、昨日の走行の記憶が薄れていないうちに地図に覚書を書き込んだりして、今後のために備えたりしていた。しかしそれにしても、川沿いの地理的環境というものは似たようなものが多く、一度行ったくらいではその場所の識別は難しい気がする。遊歩道が車道に遮られる場合、その車道は幾分高くなっていて、そのため尾根を越すように車道を横断することになるのだが、それはどこもここも一様であり何ら特徴がない。まあ、周囲の状況からその一帯の地名を覚えておけば問題はなさそうであるが。
 途中、川が鉄道路線とぶつかり、遊歩道が迂回しなければならない個所が二、三箇所あった。だが、どれがどれであったのかが混乱したりしている始末である。
 また、橋の名前も「境川橋」とか「境橋」とか同名で複数あったりもして、その点も混乱の原因を作っている。道路整備とともに、役人たちが何の思い入れもなく命名したのではなかろうかと思えたりする。

 さて、昨日の続きの「帰路」についての話である。結論から言えば、ルートは間違えるし、暑さはあったし、そしてわずかではあるものの上流へと向かう傾斜もあってか、脚の疲れがじわじわと沁み出し、総じてかなり悲惨な気分にさせられたものであった。
 先ず、最も大きな「敗因」は、藤沢市内で地理的な凡ミスを仕出かしてしまったことであろうか。
 藤沢市内では境川川沿いに遊歩道が無く、そのため川のある方向を念頭におきながら、市街地の道路を走ることとなる。「帰路」の出だしに問題はなかった。だが、逐一地図を確認して進めばよかったところを、勘で走ってしまったのである。
 それでも、自分が想定したとおりの川の状態であれば何とかなったのであろうが、川の配置に、自分の想定外の事実が潜んでいたのである。つまり、江ノ島の海に流れ込んでいる境川は、決して単一の川ではなかったのである。いくつかの支流を集めて合流して海へと流れ込んでいるのである。
 「往路」ではそんな点を気にする必要もなかったわけだ。しかし、上流へと遡る場合には、境川の本流を意識しなければならなかったのだ。おまけに、自分にとって藤沢市街地は馴染みのないところである。

 川沿い=境川の川沿いという思い込みの結果、藤沢市街地に鎌倉方面から流れてくる川との合流地点のあることに気づかず、そちらの川に引き寄せられてしまったのであった。ある地点まで行き、どうもヘンだと気づくに至り、ここはあわてずに対処すべきだと腰を据えてみたものであった。ところが、近くの交差点の地名は、手持ちの地図には見当たらない地名、確か藤沢ならぬ「深沢」なのである。そして、自分が進もうとしていた方向の先は鎌倉であることがわかったのである。まるで狐につままれたような心境となってしまった。
 この進路を取らせたのは、まがいもなく幅広い川であり、自分はてっきり境川下流だと決めつけていたのである。境川のその支流を境川だと勘違いしていた事実に気づくことになったのは、大分、右往左往してからのことであった。
 途中、これは人に聞くしかないかと思い、親子連れの地元の人だと思しき男性に聞いてみたのである。境川はどっち方面でしょうか、と。すると、
「どの境川ですか?」
という奇妙な返事が返ってきたのであった。どうも、境川からはかなり離れた場所に来てしまっているようだとの、情けない直観が働いた。したがって、これは元の方向に戻るしかないと悟り、虚しく自転車を漕いだのであった。
 そうしているうちに、決定的な事柄に気づくことになったわけだ。自分が境川だと決めつけていた川は、実はそうではなく、藤沢市街地の中央付近で合流している別の川であることに気づかされたのである。遅ればせながらよくよく確認してみると、手持ちの地図にも、その事実は記載されていたのである。何という初歩的なミスをしてしまったのかと自分ながら呆れてしまったものであった。
 その二つの川が合流する地点が良く見える橋の上に立った時、自分はこんな愚かしいことを起こしてしまうのだと一種の感慨すら覚えたものであった。バカな話だが記念にと思い、両川が左右から集まるその合流地点をカメラに収めたりする自分であった。

 これで、しっかりと「帰路」の出鼻は挫かれることとなったのである。この徒労で費やした時間は一時間半、そして体力も十分に浪費し、気分にも暗雲が掛かったかのようであった。
 やがて、正規の川沿いのコースに戻ることができた。だが、「往路」での疲れが自覚されるのに加えて無駄な疲労が加わっていたためか、ペダルを漕ぐ脚は次第に重くなってゆくのであった。ヘルメットを被りサイクリング車にまたがる本格派の連中たちに小気味よいほどに追い抜かれ、中学生たちのグループにまで水を空けられるありさまとなっていた。
 まあこうなったら、日が落ちるまでに帰宅できればいいじゃないかと開き直るしかなかった。そう思うと、明るい日差しの中の田園風景が何とも心地よく思えるようになってきたのである。自然公園の脇を走る際には、うぐいすの鳴き声が楽しめたし、田畑からはついぞ聞くことがなくなった蛙の鳴き声も聞こえてきた。また、連休ということだからであろうか、各所で本格的な凧揚げ大会のような光景も見受けられた。クルマでのドライブとは異なり、随所でデジカメを取り出してはスナップ・ショットのできることが、サイクリングならではのメリットかと思ったりもした。
 しかし、スピードが抑制されてしまった「帰路」の長距離は、走っても走っても同じような田園光景ばかりが広がり、やや嫌気に似た気分も芽生えはじめるのだった。ようやく川沿いのコースから出て、自宅に程近い馴染みの光景を目にした時には、正直言って言いようのない安堵感が訪れたものであった。
 帰宅後、何はともかく風呂に浸かった。汗ばかりではなく、ややきつい疲労をも素早く流し落とせればと思ったのであろう。クルマを使って温泉地に行くのも良いけれど、人力だけを頼りにした今日のようなイベントも悪くはないな、現に、一仕事終えた後のようなこの入浴は捨てたものではない、なぞと実感していたようであった…… (2007.05.04)


 ここしばらく「昼寝」というものをしたことがなかった。もちろんと言うべきか、座ったままでのうたた寝は無いことはない。ゴロリと横になっての「昼寝」というものは、どういうものかしないでとおしてきた。逆に疲れ感を誘ってしまうことになるためか、夜の寝つきを悪くすることにつながるためか、とにかく避けてきたようだ。
 が、今日は、心地よい「昼寝」をした。二階の寝室の畳の上に枕だけを添えて大の字で「昼寝」をした。外がベランダとなっている窓には五月晴れの陽が差し、さわやかな風も時折吹き込んでくる。久しぶりに良い気持ちでウトウトとしてしまった。連休ならではののんびり気分がお膳立てをしたものであろうか。

 午前中、自転車を使っての買い物その他であちこちを奔走していた。江ノ島サイクリング以来、何かと自転車が気になってしまっているみたいだ。それで幾分疲れていた。
 しかも今朝は、6時起きをしてまさに早朝のウォーキングまで済ましていた。江ノ島サイクリング向けに6時起床をした名残が続いていたのである。
 そんなことだったので、喉の渇きも募り、昼食の食卓には缶ビールを添えてみた。これが効いたのであろうか、食後に心地よい眠気がやってきたのだ。身体の方にも多少の疲労感があったものとみえて、ならば「昼寝」とするか、という気分になったわけである。
 畳の上に大の字になると、この間の筋肉疲労の個所がしっかりと自覚できるようであった。だがそれは決して辛いという自覚ではなく、全身の筋肉が、この間そこそこ働いてきたのだと、あたかも自己主張しているかのような感触であった。とかく意識ばかりが表立つ偏った傾向の中で、身体の存在感がしっかりと自覚できたようであり、悪い気分ではなかったのである。そして、小一時間の心地よい「昼寝」ができたのだった。

 この連休の使い道として、当初は「片付け」を念頭に置いていた。ところが、結局は江ノ島サイクリングをピークとした運動不足解消に振り向けてしまったようである。きっと、日頃の意識面過剰な生活が促した自然の成り行きであったのかもしれない。それで、その選択はあながち間違いではなかったようだ。やはり、身体を適当に使ってやることが意識面での負荷を和らげることにつながったようだからである。
 先日、ある俳優がTVのトーク番組の中で説得力のありそうなことを話していた。やはり、俳優稼業というのは、ラクではないようで、とりわけ何かと神経を使い、緊張感の持続で精神的負荷が大変な模様だそうだ。そんな仕事をこなしていく上では、自分なりのストレス解消が必須だということで、その俳優は、仕事から解放された後は、神経を使った分と同程度の負荷を身体に掛けるべく運動をして、汗をしっかりかくことにしている、と話していたのである。実に理に叶った対処法だと思えたのである。
 意識という脳の産物は、脳内部で閉じられた出来事の結果ではなく、さらに、視聴覚、味覚、嗅覚などの範囲内に根ざしているものでもなく、ボディ全体に依拠するものであるに違いないという思いがする。
 ボディがくたくたとなるような生活をしつつ、その中でものを考えるというのがベストだと言えるのかもしれない…… (2007.05.05)


 大型連休の最終日、今日の天気は一体どういう意味だろうかと感じさせられた。前半と後半に挟まった1日、2日の「非」休日も天気が崩れていたことをも考え合わせると、天候のあり方に妙な意思めいたものをさえ感じる。さしずめ今日の雨天は、長い連休で浮ついたかも知れぬ人々の心に、落ち着きめいたものを与えるべく用意されたような気がしないでもない。
 それにしても、今日は暦の上では「立夏」だというのに、薄ら寒くさえある。午後からは、再びセーターを引っ張り出して着込むありさまであった。やはり天候の変化がちょいとヘンであり、本来の、自然の特徴である緩やかなアナログ的推移が、凹凸の激しいデジタル的変化に取って代わられたかのように思われる。そう言えば、米国でも竜巻の発生が頻発して被害を出しているとかだそうであった。

 こんな雨天の休日は、することが決まってくるものだ。読書に、PCを活用したメディア・コンテンツの整理というところか。
 読書では以下の一文が目と心に止まった。

<今は欲望の充足が幸福だという思い決めが横溢(おういつ)している時代である。欲望は人間に活力を与えるもとであるから、欲望を盛んにするのがよいと多くの人が思っている。そう思うようになったのはマスコミが商業主義のお先棒を担いだためにちがいない。快楽は幸福であるという思い込みが価値観の混乱を招き、諦念(ていねん)や我慢は恰(あたか)も悪徳ですらあるかのようだ。……
 かつて老人が老後の幸福として願ったことは心の平安というものではなかったか。それは「今ここにある自分に満足する」ということではなかったか。しかし快楽が幸福だと考えられるようになった今は、今ある自分に満足することがむつかしくなってきた。老いても容易には涸(か)れぬエネルギーが、「楽しい老後」を持ちたいという思いを膨張させる一方で、やがてくる病と死への不安は恰も慢性の病気のように絶えず鈍い痛みを与えているのである。
 老人の人生経験は今は後輩たちに何の役にも立たない時代だ。人生の先輩として教えるものは何もなく、従って老人に払われた敬意はカケラもない。あるのはただ形式的な同情ばかりだ。そんな時代に老後を迎える私がこれからこころがけねばならぬことは、いかに老後の孤独に耐えるかの修業である。若い世代に理解や同情を求めて「可愛い老人」になるよりも、私は一人毅然と孤独に耐えて立つ老人になりたい。それがこれからの目標であり、それを私の人生の総仕上げとしたい>(佐藤愛子「覚悟を決める」山田太一編『生きるかなしみ』より)

 ここには、現代にあって老いることにまつわりつく二つの重要な問題が、さりげなく提示されていると思えた。
 ひとつは、「欲望充足」型幸福観が圧倒的に支配的となった現代の問題であり、もうひとつは、知的・精神的なもののあり方が、経験に依存せざるを得ない複合的なものではなく、誰にとっても、たとえ子どもであっても同一に扱える(子どもにとっても科学的知識は大人と同様!)ような、そんな知識・情報を重んじる風潮にいつの間にか取って代わられた時代の問題だと言える。
 これらの問題は、大きな観点で言えばやはり近代文明自体がもたらしたもののようである。近代という特殊な構造を持った時代が驀進していくためには、人間自身の「欲望」を限りなく梃子とせざるを得なかったであろう。また、それ以前に、時代と社会を曇らせていた非合理的なものを除去していくためには、精神的なジャンルに合理性を導入し、画一化された知識・情報を重視して行かざるを得なかったのだろう。

 だが、近代から現代へと移行してもなおこの傾向は怒涛のごとく突き進められ、現代に至っては問題面が是正されるどころか、逆に増大、肥大化するようにさえなった嫌いがある。「欲望」とその充足は、人間の幸福を支える一つの要素であった位置から、幸福とは「欲望」の成長とその充足以外ではないかのように見なされるに至った。資本主義的大量消費経済が、この傾向をいわば構造的に促進させたわけである。そして現時点では、<幸福=「欲望」の成長とその充足>という等式を疑う者すらいなくなってしまった風潮がありそうだ。
 要するに、<「欲望」の成長とその充足>の陰で見失われてしまった幸福感に、誰もが関心をしめさなくなってしまったかのようなのだ。「欲望」のロジックから離脱したところに<心の平安>や自足を見出してきた老人でさえ、時代と社会の側による「欲望」のロジックの強化によって幸福観を掻き乱されつつあるのかもしれない。

 また、科学万能・偏重的傾向が、現代人たちの精神的状況にもたらした影響や痕跡も問題なしとは言えないはずである。画一化された知識・情報の重視や科学の進展が、人間の精神にはびこる無知蒙昧な暗闇を除去したのは大手柄であったが、その勇み足で、人間の精神のある貴重な部分をも踏み荒らしてしまったという誤算はなかったであろうか。
 端的に言えば、多分、その貴重な部分には、<「欲望」の成長とその充足>には解消してしまえない幸福感の座する場があったに違いあるまい。画一化された知識・情報や科学では決して説明することのできない<心の平安>なぞはその代表例であろう。
 いやむしろ、心と呼ばれるもの全体がそれに対応するものなのかもしれない。というのも、発展を遂げ続けていると言われる現代の知識・情報そして科学が、さまざまな功績を上げているにもかかわらず、どう見ても梃子摺っているとしか言いようがないジャンルというものが、人間の心の問題だからである。
 つまり、現代文明の立役者である知識・情報そして科学は、その発展の陰で、大きな問題先送りをしてきたのかも知れぬ。それは解き難い課題としての人間の心の問題である。ひょっとしたら、知識・情報そして科学は、こう弁解しようと喉元まで出かかっているのかもしれない。つまり、この課題が難問であるのは、そもそも、心なぞというものは存在しないからだ、と。しかし、それを言ったらおしまいよ、であろう。
 もし、科学が、解けない課題の原因を設問自体が不成立なのだという判断や、そもそも課題対象が存在しないという判断に帰着させるとするならば、これは科学自体の自殺行為だと言わなければならないだろう。しかし、科学には、こうした「切って捨てる」性癖が無いでもなさそうだ。

 文明が抱えた尋常ではない大きな問題二つの中に、現代に生きる老人やその候補者たちが生きていることになるわけである。老人たちは、文明が積み残したツケを支払う形で、現代という過酷な時代を背負わされているような気がする。
 念のために言っておけば、「楽しい老後」の可能性もあるのだし、延命に貢献している進歩した医療技術もあるのだから、そんなに悲観的に考えることはない、という向きがあることも承知する。しかし、どうなのであろうか……
 わたしは、佐藤愛子氏が決めた「覚悟」に大いに賛同できそうな気がしている。
 「欲望」にわが身を任せ、「可愛い老人」となっていくという両輪を転がしていくのではなく、ここは、とにかく自身にとっての掛け替えのない幸福観といったものを、「開き直って」でも会得すべく「修業」をするしかないかと…… (2007.05.06)


 ヨーロッパだけは、米主導のグローバリズム経済の泥沼に引き込まれず、毅然とした対抗軸を形成してほしいと期待していた。仏大統領選挙の話である。
 だが、折から伝えられていた右派のサルコジ氏優勢が、そのまま結果となるのではないかという予想に傾く自分でもあった。

<フランス大統領選は6日決選投票があり、即日開票の結果、民衆運動連合(UMP=右派)のニコラ・サルコジ前内相(52)が、初の女性大統領を目指した社会党のセゴレーヌ・ロワイヤル元環境相(53)を破って初当選を果たした。両候補とも、2期12年務めたシラク大統領(74)の時代からの脱却を前面に打ち出したが、決断力、実行力を強く印象づけたサルコジ氏に、仏国民は「変化」への期待を託した。
 仏内務省の最終集計によると、サルコジ氏は53.06%を獲得、46.94%のロワイヤル氏を大きく上回った。任期は5年。いずれも戦後生まれの新顔で、左右の一騎打ちに関心が高まり、投票率は前回02年の81%を上回る83.97%だった>( asahi.com 2007.05.07 )

 <人権と平等を重視する政策を主張。最低賃金の引き上げや、財政支援による50万人の若者の雇用創出、保守政権時代に削減された教員数の回復などを公約として掲げた>ところの左派・ロワイヤル氏が勝利することで、グローバリズム経済が席巻するこの世界の一角に、困難さは目に見えているはずだが何らかのカウンター橋頭堡を作ってもらいたいと自分は望んでいたわけである。
 格差社会の深刻化は日本だけではなく、世界各国を蝕んでいる。もの凄い勢いでの経済発展を目指している中国にも、インドにも、信じ難いほどの経済格差が生み落とされているようだ。そして、フランスもまた例外ではない。しばしば、若者を中心にした高失業の現実が指摘されてもきた。そして、経済格差の広がりも尋常ではなさそうである。以前に観たTVドキュメント番組で、ホームレスとなっているある女性が、「これは誰にでも起こりえる事態です」と語っていたことを思い出す。
 つまり、グローバリズム経済と市場競争原理が野放しにされる空間にあっては、ほぼ必然的に経済格差が併発してしまうということである。しかも、この経済格差の拡大と深化は、目先の経済活況状況とは裏腹に、将来に至っては、その経済社会自体に過大な不測の負荷を浴びせることとなり、取り返しのつかない未来を招くことになる。

 かつて、日本でも公害問題がセンセーショナルに注目された頃、経済用語のある言葉が登場した。「外部負経済」という用語である。詳しいことは省くが、要するに、市場経済の場で通常の企業経済活動が展開される時、公害に見られるように、ネガティブな事象が当該の経済活動とは切り離されたかのような形で無責任に放出されることが起こる。本来を言えば、放出当事者である企業なりが背負い込まなければフェアではないところを、経済活動の「外部」の事柄として、撒き散らかすわけである。そして、その影響は、必然的に、全体の経済社会から見れば「負」の現象として跳ね返って来るのである。
 わかりやすく言えば、工業汚水の排出は、川や海を汚染させ水産業に壊滅的な被害を及ぼす。つまり、他の経済活動の足を引っ張るということであり、まさに当の経済主体の「外部」に「負経済」を無責任に作り出すのである。これだけではない。
 さまざまな公害の歴史的事実が示してきたように、工業汚水の公害の悲惨な点は、地域住民(=産業の担い手たち)の健康と人権とを奪い、企業の経済活動にとっても不可欠な労働力を破格に劣化させてしまうことになる。いわゆる、「労働政策」的視点の問題である。そんな人権侵害が許されてはならないことは言うまでもないのだが、仮に「経済活動優先」の立場に立ったとしても、全体として見るならば経済活動自体にマイナス効果を与えることが否定できないと言うべきである。

 わざわざこんな原理的なことを書いたのは、現在、グローバリズム経済と野放しにされているかのような市場競争原理が押し進めているのは、まさに、公害と本質は同等の「外部負経済」を増大させているに違いないと思われるからである。
 つまり、国際競争力を否応なく追求させるグローバリズム経済の構造は、自由競争や効率化という美辞麗句のもとで結局は人件費のコストを限りなく圧縮させずにはおかない。そして、この目標達成の必然的結果として歴然とした経済格差を生み落とすわけだ。
 それだけではなく、公害が結果的にはそうであったように、切り捨てられたかに見えた「外部負経済」の悪影響は、結局、回り回ってブーメランのように経済領域に立ち戻ってくるのである。
 既に、格差社会の歪みは、労働力人口の健全さに翳りをもたらしているはずであり、また、労働力の質に関しても問題を引き起こし始めているのではなかろうか。さらに、格差社会の深刻化が、生活保護制度に重大な負荷をかけて国家財政を圧迫することも懸念されるだろう。あるいは、治安などの社会秩序が不安定化するリスクも小さくはないはずだ。つまり、既に、現時点での経済格差の状況でも、来るべき格差社会の「パーフェクト・ワールド」が、どんなに悲惨なものであるか、それは下層に追いやられた当事者のみならず、経済活動の主体たちや行政国家にとってもただならぬ問題であることが透いて見えてくるのである。

 冒頭のサルコジ仏新大統領は、選挙期間中、有権者に向かって次のように歯切れよく訴えたそうである。
 「いま構造改革に手をつけなければフランスは世界から取り残されかねない」、「もっと働き、もっと稼ごう」と……。確かに、この言明は間違いではなかろう。しかし、人間が生きるために必要なトータルな考え(=思想)のほんの一部分を、まぎらわしく誇張したものであるがゆえに、不親切であり品格に欠ける。ちょうど、「カネ儲けは悪いことですか?」と、ぬけぬけとほざく若者の言辞に似ていると言えようか…… (2007.05.07)


 ホームページを運営している都合上、時々、サーバーの通信ログをチェックしてみることがある。当然の防御だと言えばそう言えるだろう。しがないサイトではあっても、不審な者によるアクセスを警戒する必要があるからだ。
 こうしたチェックの過程で見いだすことは、まず「Google」などの検索機関が定期的に検索ロボットを駆使してサーベイしている事実である。これは別にどうということはない。むしろ、しっかりとサーベイして当サイトの掲載データを持ち出してほしい。
 ところが、時々、えっ、どうしてこんな「国家機関(軍関係?)」ないしは、「国際機関」がアクセスしてくるんだ? という形跡がないでもないのである。
 まあ、勝手に想像するならば、この「日誌」などには自身の赤裸々なオピニオンを書き込んでいるし、公序良俗に反する事以外は自主規制もしていない。決して、危険な「反社会分子」的発言をひけらかしているつもりもない。もっとも、「分子」ならぬ「分母」側にとっては気になることがあるのやもしれないとは思う。
 現代の一大常識である、文字通りの言論の自由を、額面通りに承認できる寛大で、自信のある機関ばかりではないからである。だから、一般国民が何を考えているのかが心配で心配でならないというおぞましい事情もわからぬわけでもない。

 この辺の事情については後ほど書くとして、その前にとあることを書いておく。
 先日、たまたま当サイトのサーバー・ログをチェックしてみたら、とある大学の研究機関からのアクセスが目を引いたのである。それは、著名な国立大学の研究機関であり、自身のサイトのURLを添付していたので、ちなみにアクセスしてみた。
 よくはわからなかったが、どうもネット上に公開、流布されているデータを収集して特殊な分析をしているようであった。個人情報に関心があるというよりも、サイトで公開されているデータ群の、何がしかの意味を問うという研究のようであった。
 恐らくは、昨今注目を集め始めている「データマイニング(Data mining)」というジャンルの研究なのだろうかと想像したものである。

 ところで、この「データマイニング(Data mining)」とは、以下のような意味の研究方法である。

<統計学、パターン認識、人工知能等のデータ解析の技法を大量のデータに網羅的に適用することで知識を取り出す技術。DMと略して呼ばれる事もある。通常のデータの扱い方からは想像が及びにくい、発見的(heuristic)な知識獲得が可能であるという期待を含意していることが多い。海外ではknowledge-discovery in databases(データベースからの知識発見)の頭文字をとってKDDとも呼ばれる。……
 データマイニングの定義としては,"明示されておらず今まで知られていなかったが、役立つ可能性があり、かつ、自明でない情報をデータから抽出すること"(文献1) 、また、 "データの巨大集合やデータベースから有用な情報を抽出する技術体系"(文献2) などがある。 データマイニングは,通常はデータの解析に関する用語として用いられるが、人工知能という用語などと同様、包括的な用語であり、様々な文脈において多様な意味で用いられる。>(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 まさに、コンピュータ(データベース)技術とインターネット環境の拡大とによって、はじめて可能となる研究方法なのであろう。興味深いと言えば興味深い情報処理ジャンルと言えそうだ。いわゆる「暗号解読」のアプローチに似ているかもしれない。あるいは、突拍子もない表現をするならば、言語構造に関心を示す「文化人類学」的意味と似た部分もありそうな気がする。

 だが、そんな呑気なことを言ってはいられないコワーイ側面も、この「データマイニング」にはありそうなのである。
 この点については、長くなるが、大前研一氏のコラムを引用しておきたい。(大前研一「<緊急寄稿>銃の規制は進むか?」/『「産業突然死」の時代の人生論』[ nikkei BP net ])

< バージニア工科大学銃乱射事件に話を戻そう。わたしなりにこの事件について情報を集めていく過程で、ひとつ興味深い話を聞いたので紹介しておきたい。
 米国の心理学者や犯罪捜査官に言わせると、こうしたスナップ(日本ではプッツンといったところか)から事件を起こす人は「事前に特定可能」だそうである。BBSに暴力的な書き込みをする、暴力的で常に周囲とトラブルを起こしている、学校や職場からパージされている――などなど。事実、今回の韓国人学生も、女子学生にストーキングしていたとか、作文の授業できわめて非倫理的な文章を書いたため教室から追い出された、とかいった報道もされている。まして米国には、世界一の情報収集能力を誇るエシュロンというアングロサクソンの諜報システムがある。また国防総省傘下の諜報機関も電話やインターネットをデーターマイニングしている。当然、この韓国人留学生の情報もそうした機関がとらえていたはずなのだ。……
  余談だが、前出のエシュロンについて簡単に述べておこう。これは一説には10万人ともいわれる調査員を擁し、電話・FAX・eメール・インターネットの履歴など、とにかくあらゆる通信を傍受して米国(および英国、カナダ、オーストラリア、ニュージランドなどのアングロサクソン諸国)の国益につなげるよう図っている組織だ(ただし、米国政府は公式には冷戦時代の産物であるエシュロンの存在を認めてはいない)。そして米国に害をなすと思われる人物を特定するや、即座に調査を開始する。時には関連組織に働きかけて身柄を拘束することもある。何しろ、秘密裏に帰国していた赤軍派の重信房子が大阪の門真で逮捕されたのも、他ならぬエシュロンがおかしな言葉を連発するインターネットの主を捜査するように、と日本の公安当局に通報したことがキッカケだったと言われている。 エシュロンは収集した情報を、スーパーコンピューターとデータマインニングの手法を用いて分析する。いかなエシュロンといえども完璧なデータマインニングは行なえないので、時には珍妙な「事件」も起こる。わたしが知っている例ではこういうものがある。ある男が友人と電話で話していた。彼は「腹が立った」ということを「爆発した(exploded)」と表現する癖があった。会話の中であまりにも「爆発した」が頻出したため、電話を置くや否や彼のアパートの呼び鈴が鳴った。エシュロンの報告を受けたFBIが鳴らしたのだ>(前述サイトより)

 「銃社会」も恐いが、こうした「エシュロン」が暗躍する時代環境がもっと恐ろしいのではないかと、大前氏は指摘しているのである。そして、こんな事情を次のように締め括りながら、この節の表題には「米国はもはや法治国家ではない」と掲げている。

< ジョージ・オーウェルの近未来小説『1984年』を地でいくような監視社会は既に現実のものとなっているのである。ある意味ではこちらのほうが銃社会よりよほど恐ろしい。しかし、社会的にはロンドンの地下鉄テロ事件でも監視カメラは役に立ったし、ロス疑惑の三浦某もコンビニのカメラが証拠となり捕まっている。こうしたことには常にコインの両面があるのだ。
 通信の秘密はあくまでも遵守されるべきではないのか。「犯罪を犯すかもしれない」で身柄を拘束するのは、法治国家とは呼べないのではないか。そんな指摘もあろう。そう、その意味では米国は既にして法治国家ではないのである。「国家の安全は、個人のプライバシーに優先する」という考え方が、いまや米国民の主流だ。その契機になったのは、いうまでもないだろう、2001年9月11日の同時多発テロである。米国、そして米国民にとっては、それほどあの事件のインパクトは大きかったのだ>(前述サイトより)

 以前、とある本で、現在は、「第三者の誰かにこのメールは読まれている」ということを前提としてメッセージを発する必要がある時代環境だと書かれたものを読んだ覚えがある。問題状況は、決して、民間のハッカーたちだけによって生み出されているわけではなさそうなのである。
 きっと、こんなことを書いているこの文章もまた、機械的にチェックされていることなのであろう。ただ、自分は、それを意識するところの「情報リテラシー」がないわけではない…… (2007.05.08)


 この時代は、誰もが「わかりやすさ」というものを主張するようだ。ひょっとしたら、「わかりやすさ」への「圧力」は頂点に達していたりして……。
「あれでは、ちょっとわかりにくいですよね」
と、平気で口にするわけである。「オマエ自身の頭が悪いんじゃないのかぁ」と思わず叫びたくなるような場合だってありそうだ。
 政治家たちもしばしば口にするようだ。
「この説明では、国民にとって『わかりにくい』のではなかろうか」
なんぞと偉そうなことをおっしゃる。「わかりにくい」のは、アンタが物事を単純に考えたがっているからだよ、と詰ってみたくなる場合もある。

 そう言えば、今ふと思い起こしたが、先日、トム・ハンクスの名画『フィラデルフィア』のDVDを観ていたら、裁判の場面であったか、弁護士が「ふざけた」ジョークを口にする場面があった。一方が、「この問題は、そんなに単純に考えてはいけない」と言うと、他方が、「わかりました。それではもっと『複雑に考える』ように努めましょう」と切り返したのである。確かに、意表を突く可笑しさがあり、笑いを誘いはした。
 だが、このジョークはいただけない。わたしはすぐさま却下したものだった。別に裁判長でも何でもないのだが……。というのも、本来議論を尽くさなければならない場で、相手を「揶揄する」意味以外ではない牽制球を投げるのはまるで気品がないからだ。

 こうしたことは、よくあることのように思う。コミュニケーションをしている相手とがっぷりと四つに組むことよりも、自分たちのやりとり(コミュニケーションなり、議論なり。ディベート、トークバトル?)を見聞しているギャラリーにとにかく「受けよう」と「受け狙い」のスタンド・プレーをする輩たちのことなのである。
 ディベートが民主主義のひとつの有力なツールであることは百も承知する。だが、もうひとつ承知したいことは、道具というのは何でもそうであるが、その使い方を誤れば裏目に出るということである。言葉という矢が、民主主義という輝かしいターゲットを逸れて、泥沼のような衆愚主義の畑に一直線に突き進んで行くイメージである。

 冒頭の「わかりやすさ」という口調も、こうした「ギャラリー、観客」(もう少しまともな言葉を遣えば「陪審員、有権者」)を「やぶ睨み」して過剰に意識している姿勢から出てくる発想であろう。これがすべて悪いなんぞと言うつもりはない。当事者たちがある程度意識してもらわなければ、まさに見聞している者にとっては「わかりにくい」。
 しかし、見聞している者をバカにしてはいけない。どうも、昨今のエセ論客たちには、見聞している者は、どうしようもなく物わかりの悪い者たちだと勝手に決めつけている嫌いが多すぎるようだ。
 またまた、そう言えばバカバカしいことを思い起こした。かつて、ちょっとしたことがあって耳鼻科医院へ行ったことがあった。その時、ついでにと思い、「耳鳴り」の症状があることを話し、また、別の話の文脈で、就寝時に「耳栓」をする習慣があることも話した。すると、その、どうみてもアル中だと推察された耳鼻科医がバカなことを言ったのである。
「『耳鳴り』というのは、『耳栓』をして収まるもんじゃないのよ」
と。
 この時ばかりは、「人をバカにするのもいい加減にせい!」と怒鳴ってやりたかった。と、同時に、やっぱりコイツはアル中医者だと、ゲンナリしたものである。
 こうした、アル中耳鼻科医のように、自分だけに知性と教養があり、他人は愚かでものわかりが悪い者と決めつけている、そんな世間知らずが多いということなのである。

 昔、アフロヘアーのいでたちのコメディアン(松鶴家千とせ)が、「わかるかな、わかんねぇだろうな」というセリフで、ちょいとマイナーな視点のギャグを披露していた。(「俺が 昔 夕やけ だった頃 弟は こやけ だった 父さんが 胸やけで 母さんは 霜やけ だった わかるかな わっかんねえだろうな……」)結構、笑えたものであった。
 妙な例示かもしれないが、このくらいの意気込みは欲しいと思うのである。つまり、「わかりやすさ」を四六時中念頭に置いて、何の意味もない空疎なことばかりを口走っているのではなくて、他人様には「わからない」かもしれないとしても、自分の言葉で考えたことを、意を尽くして語り、それが理解されるかどうかは、あくまで他人様にお任せせざるを得ないと腹を決める潔さということなのである。
 他人様にわかってもらえなければ意味がない、とか、わかってもらえるような安全地帯だけの範囲でものを考えたり、口にしたりしようとしているかのような人々が目立ち過ぎる。逆に、こう感じているような真っ当な人々は、恐らく、慎ましやかであるために、世間に距離を置いて閑居(かんきょ)しているのであろう。
 「わかりやすさ」を常套句としている姦しい輩たちは、そんな覚めた人々の存在をこそ想像できるようにならなければいけない…… (2007.05.09)


 今日、ようやくこの「日誌」に関する滞っていた作業を完了させた。書き終えた「日誌」を月次単位でアップロードする作業である。「03月の日誌」と「04月の日誌」がそのままとなっていたのである。
 毎日、文章を綴るのもそこそこのエネルギーを要するが、日毎に溜まるそれらはあっという間に一ヶ月分とまとまってしまう。だから、ちょいと手を抜くとすぐに積み残し作業が発生してしまうのだ。

 この「日誌」も、すでに6年間継続させたことになる。
 ところで、最近は、こうしたウェブ上で公開する「日誌」のようなものが「ブログ( Blog=Weblog )」と呼ばれ、流行になっているようだ。
 先日も、NHKのTV番組の「Close-up現代」で、人気のある「ブロガー」たちの様子が報じられていた。中には、松岡正剛氏の「千夜千冊」のように、毎日一冊の読書評論を展開している方もいたようで、やるもんだなあ、と感心させられたものである。
 観ていて、なるほどと思わされたことは、内用面を絞り込みフォーカスして「専門化」することが重要だという点であろうか。これは、サイト一般について言えることのようである。「何々についてはあのサイトが必見」というような観点が大事だということなのであろう。
 振り返れば、自分が他人様のサイトを閲覧する際にも、実際のところこうした観点でアクセスしていることを自覚する。また、この点は、サイト閲覧に限らず、現代のあらゆるジャンルがこの観点で展開していると言っても過言ではないのかもしれない。「細分化」と「専門化」こそが、現代という時代の大きな特徴なのであろう。
 自分は、どうもこの傾向に何がしかの抵抗感を持っているからまずいんだなあ、と思い知らされたりするのである。

 自分のこの「日誌」はもう6年も書き綴っているのだから、草分けのひとつになるのだろうが、何せ勝手気ままに大風呂敷を広げ、かつ気難しいことばかり書いているものだから、未だに限られた読者にしか読んでもらえない実にマイナーな「ブログ」となっているのであろう。昨日の話題ではないが、「わかりやすさ」の観点を心得てはいても、その観点よりも、実のところ自身が追い求める「生煮え」のテーマにこだわってしまっている。自身の内面で七転八倒しているかのような思いにこだわり続けていそうなのである。
 だから自分側に、他人様に読んでもらおうとする明確で強い意図があるわけではなさそうであり、どちらかと言えば、自身に問い掛ける調子で書いているようなのである。したがって、他人様に関心を寄せていただけなくても当然といえば当然なのかもしれない。
 まあ、公開しているのは、こうすることで怠け者の自身に対して歯止めを掛けたいとでも思っているのかもしれない。だからこそ、日々の継続という点では決して短くはないはずの6年間もの間、続けることができたに違いなかろう。

 こんな書き方をすると、どうも自身が自閉的で、頑(かたく)なで、なおかつそうあることに開き直ってもいるかのようで、自分自身でありながらなんともいただけない。だが、まあ、これも性分なのでいたしかたなかろう。これはこれで行くしかなさそうだと思い定めている……。
 では、何に留意すべきだと考えているのかというならば、自身にわからないことは書くな、わかった風には書くな、ということかもしれない。というのも、この点を踏み外してしまうなら、やがては、かろうじて形を保っているのかもしれない自身のアイデンティティでさえ、掴み所を失ってしまうことになるだろうと予想するからなのである。
 現代という時代にあって、すでにアイデンティティとかいうものはドンキホーテ的な観念でしかないという向きもありそうだが、だからこそ、こだわれる限りこだわって行きたい気がするのである…… (2007.05.10)


 今日の株式市場はかなり惨憺たる状況となった。
 最近は、国際的な株式市場動向を垣間見るために「ロイター」のサイトを覗くようになったが、以下のような文面となっている。

<東京株式市場で日経平均は、大幅続落で引けた。米国で小売売上高のデータが弱かったことなどから米国株が反落したことなどを受けて、寄り付きから大幅下落で始まった。米国のファンダメンタルズに不透明感が出てきたとの認識が広がり、下値で押し目買いが入るものの、国内材料にも乏しく安値でのもみあいが続いた。……
 前場は週末ということもあり、米株安や円高を背景に利益確定売りが先行した。後場に入っても軟調な展開だったが、下値では底堅い動きがみられ、1万7500円を挟んで狭いレンジ内での動きとなった。「全体にテクニカル調整の範囲内の動きにとどまっている」(三菱UFJ証券投資情報部部長代理の山岸永幸氏)、「きょうの下げは調整の範囲内で、上昇トレンドは変わらない」(国内証券調査部)との声が出ていた……>(ロイター today.reuters.co.jp )

 証券ディーラーによる市場へのコメントは、どうしても歯に衣を着せたプラスα表現となりがちなものだが、現実の方は敏感に反応するようである。日経平均が183円安となったのは小さくないし、アジア株は、前日の米国株反落(147ドル安)の影響をまともに受けているようである。同じく「ロイター」報道を辿ってみると以下のようになる。

<中国株式市場で上海総合指数が4000割り込む、相場過熱への懸念で
 11日の中国株式市場で、上海総合株価指数<.SSEC>が心理的な節目となる4000ポイントを割り込んだ。このところの最高値更新を受け、過熱感からリスクが高まっているとの懸念が強まった>(同上)

<香港株式市場・前場=続落、米株や中国株の下落を受け
 11日の香港株式市場は、続落して前場を終えた。米国株式市場や中国本土の株式市場の下落を受け、幅広く売られている>(同上)

<東南アジア株式・中盤=大半が下落、米株安響く
 11日昼の東南アジア株式市場は米株価の急落を受けて下げている市場が多い。……米株安は経済指標で米経済への懸念が高まったことを受けたもので、フレーザー・セキュリティーズの調査責任者は、東南アジア地域の各市場は米経済見通しに対してかなり敏感になってきていると指摘した>(同上)

 まさに、グローバリズム金融経済によって、世界の株式市場動向は米国の動き如何で決定的に左右されるわけだ。同時株安というリスキーな事態から眼が離せないというところであろうか。
 ところで今ひとつ着目しておきたいのは、次の点なのである。

<東京証券取引所がまとめた5月第1週(5月1日─5月2日)の3市場投資主体別売買内容調査によると、外国人は小幅ながら7週ぶりに売り越した>(同上)

 米国ファンドを中心とした「外国人投資家」の動きなのである。
 日本の株式市場動向は、米国市場の動きにほぼ連動していると言っていいわけであるが、これを増幅させているのがこの「外国人投資家」の投資動向でもある。いや、極論してしまえば、この国の株式市場は米国ファンドを中心とした「外国人投資家」の売買動向によって大きく揺さぶられている。
 株価は、企業のファンダメンタルズ(業績など)が形成するもののはずである。だが、実際は、市場での売買のあり方で決まり、その際には巨額なマネーこそが決め手となる。だから、巨額な資金を動かすファンドの動きで大半が決まってしまうものである。そして、日本の株式市場には、そうした米国ファンド、つまり「外国人投資家」の影響が絶大なのである。
 この状況は、「ロイター」では、東京市場の取引開始前の8時半位から流されており、その状況で当日の東京市場の成り行きが推定されることになる。今日の事前上方は以下のとおりで、まさに「売り越し」規模が小さくないことで「軟調」の気配が伝えられたわけだ。

<外資系証券経由の注文状況、1990万株の売り越し観測=市場筋
 株式市場筋によると、寄り付き前の外資系証券13社経由の注文状況は、4540万株の売りに対して2550万株の買いで、差し引き1990万株の売り越しになっているとの観測が出ている>(同上)

 ところで、改めてこの「外国人投資家」の投資動向に注目する理由は、株取引への関心とともに、別な観点でも気になるのである。
 昨今の日本企業は、「M&A」、しかも「敵対的買収」というリスクに戦々恐々としている。まさに、忍び寄る「ハゲタカ」ファンドによってかなり現実的な脅威となっていそうだからである。
 この動きにも大いに関係しているのだが、もうひとつ注意を向けておいて良いのは、「花の団塊世代退職組」の退職金をはじめとした保有資産との関係なのである。いろいろ紆余曲折はあるのだろうが、個人形態であれ証券会社経由であれ、その資産の多くが最終的には株式市場に流れ込むのではないかと推測されてもいる。これを、「外国人投資家」たちがターゲットにしないわけがない、と推測するべきなのであろう。
 すでに、ことさら推進の根拠がさほど急がれるべきでもない「郵政民営化」が短兵急に進められた理由は、要するに「郵貯・簡保マネー=350兆円」が金融市場に投げ出されることを切望する国と勢力とが存在したからなのだと考える者もいる。
 株取引にせよ、他の投資にせよ、「妙薬は苦し」の反対で、地獄への道は甘言とワナで敷き詰められていると言うべきだろう。露骨な詐欺行為は別としても、巨額マネーのみが圧倒的に「勝率!」を高めることになるという冷徹な事実を知らなければならない。まして、昨日や今日、投資の基礎知識に拘泥している者たちと、国力を注ぎ込んで自分たちの得意技とそのルールとを世界に浸透させ、グローバリズム経済を構築している勢力との闘いでは、ほとんど勝敗が見えているのではなかろうか。
 グローバル金融経済という舞台設定においては、うかうかとしていれば、一国の国民各位が貯めこんだ資産、富の総量が、あれよあれよと言う間に海外勢によって持ち去られることが大いにあり得るということでもあるわけだ。

 昔からよく言われてきた「お為ごかし」のように、ホントに儲かる話ならば他人には勧めないのではなかろうか。品のない表現ではあるが、他人にババを引かせるそのために、ありったけの甘言と喧伝をして、助力をも惜しまないというのが、この時代のスタンダードなアクションであるのかもしれない…… (2007.05.11)


「よく映画やドラマで、『そして〜年が過ぎた……』というようなスーパーインポーズが入って、ストーリーが省略される方法っあるよね。最近の自分の時間感覚っていうのは、どうもそんな感じになってるかな」
 と、自分は法要の歓談の場で、取り留めない話の流れの中で話していた。

 今日は、亡父の、何と27回忌の法要を行ったのである。明日が命日であるが寺のスケジュールの都合で前日の今日、午前中にお願いすることになった。3回忌、7回忌はよく知られているが、ここまで長期にわたる法要をやってこられたのは、やはり、おふくろの几帳面で強い思いがなければできなかったであろう。正直言えば、薄情のようであるが自分の心の内にある亡父の存在感は薄っすらとしたものになってしまっている。存在感というよりも、亡くなったという事実認識がそうなのかもしれない。
 もちろん、時折、何らかの脈絡の中で人知れず亡き父のことを何気なく思い起こすことはある。亡父についてのさまざまな記憶は失いようがなかろう。しかし、おふくろのように、仏壇を設えて朝に晩に線香を手向け続けて生活していなければ、日々の意識は、亡くなった人とはかけ離れて埋め尽くされて行く。
 いやそれどころでさえなくて、「自身の自身たるよすが」さえ日常のルーチン・ワークの些事の群の最下層に埋もれてしまうかのようである。
 とりわけ、ルーチン・ワークの継続さえ過激な競争社会ゆえに脅かされ、また、そうした日常の感覚を隙あらば捉えよう、支配しようと総力を上げている現代の差し出がましい環境(商業主義のマス・メディア)の中にあっては、現在という時代環境に生きるわれわれは、自分自身を容易に見失う傾向に置かれている。そして、亡くなった者への思い入れも同様にであろうか……。

 冒頭のセリフの意味は、何も歳をとると時間の過ぎるのが速いという脳生理学的な観点によるものだけでもなさそうに感じている。「自身の自身たるよすが」と向き合う時間が少なくなれば、自ずから、時間は何の躊躇もなく滑って行くものであるのかもしれない。「自身の自身たるよすが」と向き合う、鬱陶しくもある緊張感を伴う時だけが、滑るように進行して行く時間の動きに歯止めを掛けることになるのかもしれない……。
 こう考えると、何回忌、何回忌という法要を行う慣習は、やはり生きる知恵に長けた昔の人々の貴重な慣わしであるように思えてくるのである。
 日常の些事の連なりに「待った」をかけ、亡き人を偲ぶ作業を通して、結局は、「自身の自身たるよすが」へと人々の視線を注がせる……、と思われるからである。

 とにかく、「時間の過ぎるのが速い」という感覚は、決して良いことではないように思う。苦痛、苦悩の時には、とかく速やかに時間が流れて行く事を望むのが人情ではある。この苦悩が永遠に続けと願う者なぞいるわけはなかろう。
 しかし、逆に、ラクではあっても、波風がないその凡庸さゆえに「あっと言う間に過ぎ去る」時間の流れ感覚を人は心底望めるであろうか。どこか虚しさに忍び込まれているのではなかろうか。が、それに身を任せている者は少なくなさそうな気がする。
 たとえば、片方に徒歩で1時間の登山道があり、もう片方に乗車時間7分という極めてラクな登頂としてのケーブルカーがあったとする。後者の快適さで得るものの一つに時間(の節約)があるはずだろう。しかし、「あっと言う間に過ぎ去った」時間感覚の意味は、他の事を行える余分な時間を獲得するという有難い点であったとともに、上述してきた「時間の過ぎるのが速い」というある意味での虚しさを伴わずにはおかないような気がするのである。
 おそらく、「徒歩で1時間」という選択の方には、歩いている最中にはひょっとすれば「ケーブルカーという手段があるにもかかわらずムダな時間と労力を割いている……」という疑念が生じるかもしれないにしても、「時間の濃密度」とでも表現できるものを決して失うことはなさそうである。時間の流れごとに、しっかりと記憶物を残してくれているのに違いないからである。
 こう考えた時、人生はまさにこうあるべきなのかもしれないと思えてくる。

 だが、それじゃあただ苦労をすればいいのか、と言えばそうでもなさそうな気もする。苦労という状態には、とかく「時間感覚の濃密度」を高めるのに役立つ特殊な条件がありそうだが、それが十二分に活かされるためには、逐一自分の頭で考えるという「鬱陶しい」行為が不可欠ではないかと思えてくる。そして、このことは「自身の自身たるよすが」と向き合うということと表裏一体なのかもしれない。
 うまく説明し切れないでいるわけであるが、どうも現代という時代の生活環境は、「時間の過ぎるのが速い」という虚しい感覚との引き換えに、価値あると見なされるもの(便利なもの)が提供され続けているのかもしれない。
 今、ふと妙な連想的なことを思い起こした。確か、「ゾウの時間、ネズミの時間」といった寓話的な事実である。脈拍数と寿命とは反比例しているようなのであり、脈拍数の少ないゾウは寿命が長く、ネズミはその逆である、と……。とすれば、生物一個体の一生の脈拍総数はほぼ一定だということになるのだろうか。
 無理やりこれとのアナロジーで時間感覚について言ってみれば、脈拍数が増大するごとく行動の処理速度を上げて効率化をすればするほど、寿命が短くなるごとく「時間感覚の濃密度」は低下する(空疎感!)と……。

 かなり危なっかしいアナロジー尽くめとなってしまった嫌いがあるかもしれない。だが、逆説的なことが多いのが人生かもしれないとも思う。現に、やや早めに逝ってしまった父は、その分27回忌という長い期間、多くの法要をしてもらえたわけだ。おふくろは、これで一応、亡父の法事も「打ち止め」にしようと言っている。ちなみに、真言宗では27回忌の法要を「担当する仏」は、「大日如来」という大御所だとかだそうである…… (2007.05.12)


 何はともあれ「キャパシティー」を持たなければいけない、と考えさせられている。
 「キャパシティー」という語はいろいろと解釈できる。「能力」、「収容力」、「容量」……。「包容力」とか、「忍耐力」とかという意味まで含めてもいいのかもしれぬ。はたまた、昔から言われてきた「器量」、「器(うつわ)」の意味も外せないだろう。
 今、注目しようとしているのは、時代環境が時代環境であるだけに、そもそも「耐える力」というものはどこからでてくるのか、何に依存しているのか、という点に関心が向かうのである。そして、それは「器」の大きさであり、同時に「能力」ということなのか、と思い至るのであり、その時、「キャパシティー」という言葉にふと行き当たったのであった。

 「耐える力」の謎を、この「キャパシティー」という言葉が解き明かしていそうな気がしたのである。
 「キャパシティー」という言葉の中心内容は、やはり「能力」なのであろう。だからこそ、種々のもの、そこには淡々としたものから忌み嫌われる負荷や苦痛も当然含まれると思われるが、それらを収容し、包容することが可能なのであろう。それは見方によれば、切々と「耐えている」ようにも見えるはずである。事実そうなのであろう。
 「能力」があるから「耐える力」が生まれるのか、「耐える」事実が「能力」の存在を証するのか、その辺のところにこだわる必要はさほどなさそうだ。まあ、表裏一体となっていると見なしておいていいのだろう。

 とかく、「能力」という語は、華やかでポジティブな光景に引きつけられて云々されがちであるのかもしれない。「あの人には、あの分野では抜きん出た『能力』がある」とか「あの天才的な『能力』ならではの成果だ」とかというようにである。
 確かに、「能力」は頭角を現すことにつながり、人々の賞賛の的に値する成果を作り出すことであろう。これが、「能力」の華やかな一面であることは誰もが納得している。
 しかし、「能力」の活躍舞台は何もこうした華やかに脚光を浴びる場所だけでもなさそうである。むしろ、氷山の一角を支える水面下の地味な役割の方が注目して意味がありそうにも思える。前述した「耐える力」と表裏一体となって機能している「能力」こそがもっと注目されて良いはずではなかろうか。
 発明・発見が、秀でた「能力」のひとつの典型のように言われるが、これにしてもその成果は「1%のインスピレーションと99%のパースピレーション(汗と努力)」に依存しているとの名言があるように、「能力」というものの相貌には隠された部分が大いにありそうである。

 やはり、「自信」とか「信念」という物々しい言葉を出さざるを得ないようである。
 つまり、「耐える力」を備えた「能力」というものを想定する場合、そこには、「自信」とか「信念」という内的構成物がぴたりと寄り添っているごとき光景がイメージできるからなのである。
 「能力」というものが、「耐える力」となって真価が発揮され続ける時、きっと脳の内部ではこの「耐える力」を支援するメカニズムが作動し始めるものかと推定される。それが、ある時には「自信」とか「信念」という心境を生み出し、またある時には先のような「インスピレーション」というスパークを生み出すのかもしれない。
 いずれにしても、「能力」を鍛えるということの最も重要な次元というものは、こうした脳内部の潜在的なものをも含めた総動員体制を作り出すことのような気がするのである。

 自身を振り返る時、やはりいかにも甘い次元を彷徨ってきたという悔恨の情が打ち消せないでいる。
 おそらく、矛盾を極めた時代環境が乱造するさまざまな悩ましい問題に前向きに対処していくためには、知性だけでは足らず、「自信」とか「信念」とかという人間にとっての最高に貴重な内的要素で武装した、そんなパワフルな構えが強く要求されていくものかと想像される…… (2007.05.13)


 今朝、ネットのメール・ボックスを開こうとしたが、不能であった。一応、ローカルPCの環境を点検してみたが特に問題はなさそうであった。ネット環境にも問題はなく、メール機能のみがエラーとなっていることがわかった。
 そこで、プロバイダーに問い合せるしかないかと、プロバイダーのサイトを覗いてみると、「障害情報」の欄に、つい最近「メールサーバ障害」のあったことが掲載されていた。次のように説明されている。

<弊社のメールサーバ宛に大量のスパムメール(※)が配信され、サーバの負荷が高い状態となり、メール送受信が受け付けられない状態となっておりました>
 ※ 迷惑メールのこと。

 ハハーン、これが再び発生したということなのかな? と推理することになった。
 電話が繋がったので確認してみると、やはり「大量のスパムメール」によって「メールサーバの負荷が高まり」処理不能となったとのことであった。現在対処中ということであったが、ほどなく修復され、問題は解消された。

 電話の中で、「あちこちのプロバイダーで同様の障害が発生しているようだ」と聞かされた。
 実際、自分のメール・ボックスにも毎日数十通のスパムメールが仕掛けられる。その多くが English であり、そのほかに邦文のDMやら、金儲け云々とかいかがわしい類のものが占めている。
 毎度、不快感が募るものの、朝一番にやることは、これらを一括して消去する作業である。もちろん、一切「開封」はしない。馴染みの発信名以外はとにかく消去する。
 以前、スパムメール対策ソフトとやらを使用してみたのであるが、どうも使い勝手が思わしくないため、「件名」と「差出人」などだけをダウンロードするメーラーで素早く確認して対処することにしている。

 当方のホームページに、メール・アドレスを掲載しているため、それを悪用したスパムメールが届くのは避けられないことかとほぼ諦めている状態である。
 だが、こうしたスパムメールによって、サーバがダウンさせられてしまうという事態は、腹立たしい限りである。やはり、プロバイダー側でこれらを「門前払い」するような「技術的」対策を講じるべきなのであろう。倫理的レベルは言うに及ばず、法的レベルでの対処も歯がゆい。「技術的」な間隙を縫って攻撃してくるわけであるから、ここは「技術的」にプロテクトし、撃退するしかなかろう。
 スパムメールの調査情報を載せているサイトによれば、<世界中のスパムメールの80%がこの200人によって送信されている>( Gigazin )というから、メール・アドレスを梃子とした対策が打てそうな気がする。
 ちなみに、このサイトによれば、<ネット上の電子メールの86%はスパム>であり、その数たるや<全世界で送られる電子メールは1日に600億通>にのぼるそうだ。これでは、プロバイダーのサーバがパンクすることも頷けるというものである。

 何でそんな「迷惑なこと」をするのかと疑念を持つことになるわけだが、決して彼らは他人への迷惑で憂さ晴らしなんぞをしているわけではない。もちろん犯罪的チャンスを狙っているのだ。つまり、「口座」情報などを盗み出す詐欺行為を目論むいわゆる「フィッシング詐欺」のための仕掛けなのだということになる。
 こうした輩たちに対しては、あたかも「おとり捜査」のようなこちらからのワナを仕掛けてもやりたい心持ちとなりもするが、まあここはしっかりとプロテクトをすることに専念した方が良さそうである…… (2007.05.14)


 先日、法事の際に親戚の者たちと雑談をしたが、その中に姪ッ子たちの、働き盛りの旦那たちとも話した。彼らは、とにかくよく飲み、よく食べるという印象を受けるが、彼らはいずれも大手企業に所属する30代のサラリーマンである。日頃の「過酷な」ルーチン・ワークが、「よく飲み、よく食べる」ことを促しているのかもしれないと思った。
 一人は、技術者でありもう一人は営業部所属だ。技術者の彼は、給与アップに繋がる社内の昇格テストのために、自宅でも学習をしなければならない暗黙の「圧力」が掛かっているらしい。休日も自宅で勉強をする亭主に気兼ねをしてか、姪っ子がおふくろのところへ顔を出すこともめずらしくないらしい。
 もう一人の営業の彼は、毎日帰宅できるのが10時過ぎになるという。営業活動であるから、当然、日中は外回りとなり、帰社すればその活動の報告書作りが待っている。そして、一息ついた8時、9時となって、その頃から部長が、「じゃあ、会議を始めようか」と言い出すのだと言う。「たまんないっすよ」と、彼は、如何にも勘弁してほしいというニュアンスで話していたものだ。毎日毎日が「圧力」の掛りっ放しなのだと……。

 現在のご時世では、価値を生み出す可能性を持ったものには、それが人であろうと、マシーンであろうと、そしてマネーであろうと、容赦なく「圧力」が掛けられるようだ。「モア・バリュー」を生み出せとばかりに、さまざまな「圧力」が掛けられるわけだ。
 上記のように、30代のワーカーの場合には言わずもがなの「圧力」が、現時点の収入および今後の収入可能性との引き換えに旺盛に掛けられるのであろう。彼らの悲鳴があちこちから聞こえてくるようである。
 過剰なストレスを必死で耐えている様子が容易に想像できる。30代という若さが秘めた忍耐力がかろうじてつつがなくつないでいるのだと言えそうだ。

 しかし、こうした「モア・バリュー」を生み出せとばかりの「圧力」は、決して「正規の戦闘員」(?)のみに掛けられるのではなさそうである。この「圧力」は、巡り巡って社会全体に隈なく浸透し、「後衛の非戦闘員たち」にもしっかりと掛けられているというのが現状なのだと思われる。
 それは、「戦闘員」どころか、まだ「自然の存在」から「人間」になり切れないでいる乳幼児のうちから間接的に掛けられているとも言える。
「ささっ、早く早く! なにをグズクズしてるの?」
という若い母親の掛け声は、結局のところ当該「圧力」の原初形態なのだと言っていいのかもしれない。乳幼児たちは、なぜグズクズしていてはいけないのか十全にはわかりようはずがないのだけれど、とりあえずママからの「圧力」が無用に増幅しないように「お利巧に」振る舞い始める。

 しかし、ひとたびこの路線の列車に乗ってしまうと、子どもたちはいつの間にか、「モア・バリュー万歳ワールド」行き特急列車に乗ったことになってしまうのである。停車駅としては、「早期幼児教育」駅があったり、「有名校進学塾」駅があったり、「有名大学進学高校」駅、そして煌びやかな佇まいの「一流大学」駅や「MBA」駅に至り、さらにその先へと連なっているのだが、眩しすぎてその先の「終着駅」がどうなっているのかはよくは見えなくなってしまっている……。
 この列車の窓からは、もちろん、自分が経験したことのないような楽しげな光景も見えてくる。列車から飛び降りてその光景の一員になってしまいたくなることもあったりする。だが、この列車はうまく演出されていたりもするのだ。楽しそうに見える光景の主たちが、反主流派としての惨めな前途を歩むことを、窓外で展開するパノラマ光景で悟らせたりするのである。
 それはちょうど、『男はつらいよ』の「満男」が、「ぼくはもう就職試験なんていやだ。サラリーマンにはならない」と口走った時に、寅次郎が、「そいじぁ、オレみたいになっていいのか?」と「現物」を見せられることと似ていると言うべきか……。
 こうまでされて、それでも列車から降りると言い張るほどには、列車の乗客たちには、気力・体力・底力は養われていないのが実情なのだろう。

 こうして、長年掛かり続けた「圧力」は、「公式的」には輝かしいとされる「終着駅」へと誰も彼もを導いて行く。乗客が、この列車とは一体何なのだろうか、と疑念を持ち、仮に、ひょっとしたら「終着駅」なんてものは端(はな)から存在しそうもないと思ったにせよ、乗客たちは乗り続けていくしかしようがない……

(今日は、今朝から報じられた痛ましい「福島の少年事件」のことが脳裏にあり続けた。こんな悲惨かつ不可解な事件が何故? と問う時、「訳知り顔」の理屈を並べ立てるよりも、この少年を生み出した立ち腐れの現在という時代が、同時にこうした悲惨さをも生み落としたのだ、としか言いようがない気がしてならなかった……)

…… (2007.05.15)


 「Amazon」の顧客情報管理とその活用については以前から注目するところであった。顧客が購入した書籍はもとより、サイト上でチェックした書籍、商品のデータを顧客ごとにマークしながら、それを顧客側に提示するとともに、顧客の「購入傾向分析」にも利用して販売促進に繋げているからである。
 今日も、そうしたデータに基づいた販売促進のためのメールが送信されてきた。それらは定期的に届く。要するに、過去に購入した書籍、商品に類似した新刊本や新製品を紹介・案内と称して提示してくるわけである。
 「Amazon」のサイトにアクセスした際にも、当該顧客専用であるかのようなページを開き、同じような紹介・案内をするわけだが、メールでもインフォメーションしてくるのが、マメと言えばマメである。ちょうど、行き着けの飲み屋のママさんから、「ど〜してる? お忙しいのは承知してますが、たまにはおいでくださいな」とかと言って電話が入るのと似ていないでもない。
 しかし、言うまでもなく、「Amazon」のサイトのアクションは、すべてコンピュータによる自動処理のはずである。わかりきった計算処理のみならず、血のかよったママさんがやりそうな、若干気の利いた販促アクションまでコンピュータによる自動化処理で行うのであり、そうであってこそ、この激しい経営効率競争時代で注目される企業となれるのであろう。

 いや、今や、こうしたちょっと気の利いたIT活用は決してめずらしいものではなく、多くの先端企業がこなしていることなのであろう。
 で、気になるのは、遅れた企業の対応もそうなのであるが、今、関心を向けてみたいのは「個人」側の対応の実情なのである。昨今では、ネット検索であるとか、ネット・ショッピングであるとか、はたまたネット・トレイドであるとか、とにかく個人がネットを経由して企業組織と向き合うことが多くなってきたからである。
 相手側の企業組織は、当然大道具、小道具のシステム環境を整備して虎視眈々と個人顧客を囲い込もうとして待機しているわけである。要するに、顧客側の情報があれよあれよと言う間に吸い上げられてしまうわけだ。まあ、サイト側には、「プライバシー規約」などが掲載されており、個人情報が保護されていることを謳ってはいる。しかし、どこどこの企業サイトから、大量の個人情報が漏洩したというニュース報道もめずらしくはない現状である。
 つい先だっても、とある大手薬品メーカーからメールが入った。自社のウェブ・サイトへの不審者の侵入によって多くの顧客情報が漏洩したとのお詫びメールだったのである。自分は、その企業からとあるサプリメントをネット販売で購入していたのであった。不愉快だけでは済ませない問題ではあったが、振り返れば、住所を含めた基本情報の範囲内であり、個人金融関係情報などとは無縁であったため目をつぶった。この辺の情報については既に出回ってしまっていると考えたのだ。

 ところで、こうした個人情報の漏洩に注意をしなければいけないということも重要であるが、今日、こうしたIT、ネット時代における「個人」側の対応の実情について考えたのは、別な角度からの課題なのであった。
 とりあえず、時代環境に即応した積極的な「情報リテラシー」を培うことだと言えそうである。その中には、現時点でのネット環境のリスキーな部分をよく承知しておくこと、その上で基本的な防御策を講じる習慣を身につけておくことなどが挙げられよう。
 これらは言ってみれば、あくまでも「守り」の策であろう。しかし、それだけではなく、こうした時代の個人としては、いわば「攻め」の側面での装備もしてよいのではないか、いや必要なのではないかと感じているのである。
 どういうことかと言うと、ネット環境を挟んで、企業組織と個人とは言うならば対等な関係にあると思われる。「商取引」とはそういうものであろう。だとすれば、大道具、小道具のシステム環境を整備している企業組織サイトに対して、個人側は「丸腰」でよいのか? ということなのである。

 一体、「情報リテラシー」として何が個人側でできるのかは定かではないが、単に、個人情報の漏洩について気をつけましょう、という精神論だけではなく、物理的システム環境について可能なことは積極的にやるべきだろうと思うのである。
 その例としては、先ずはショッピングの際には、当該商品情報をネット自体から存分に収集するというようなことが挙げられる。ネット検索機能を駆使すればたやすいことのはずである。また、ネット検索環境上の情報を収集して、それを自分側に役立つ形へのちょいとした加工をすることだって大いに考えられる。
 さらには、ネット環境上に散らばる「フリー・ソフト」を入手して活用するのも十分に考えられる。要するに、現時点での個人側の「情報リテラシー」には、より積極的な、いわば「敵の武器」を活用してしまうほどの「攻め」の部分がなくてはいけないのではないかと考えるのである。
 多分、インターネット環境をベースにしたこの情報環境は益々深まりこそすれ、度外視できるものでは決してないだろうと思われる。とすれば、企業組織側サイトの充実に比して、個人側の「丸腰」状態をもっと真剣に考慮して行かなければ釣り合いがとれないはずである…… (2007.05.16)


 何だか今の時代は、言葉や情報が実感や事実と乖離(かいり)しているのではないかと率直に思ってしまう。いろいろな現象にバイアスが働いている印象が拭えないのである。
 身体の調子が何かヘンなのに、医者に診てもらうと、ダイジョブダイジョブとハッタリが滲む対応をされるのと似ていないでもない。
 株価指標にしても、ホントに実勢を反映してるの? という思いが捨てきれないわけだ。昨日の米国株価にしても100ドル以上も値上がりを決め込んだ。が、米国が抱えた「持病」のことを思えば、一体どうなっているのかと理解に苦しむのである。今、流行りのM&Aの連発で妙な活気が撒き散らかされているのであろうか……。
 さすがに、日本の株式市場はそれについて行けなかったからか、最終的には前日株価を割る結果に終わった。どうもここには、日本経済の先行きへの一抹の不安感が漂っていたからではないかと思える。

 今日、発表の<1−3月期GDP>は<実質年2.4%成長>とのことで、<プラス成長は9・四半期連続で、日本経済は1%半ばから後半とされる潜在成長率を上回る安定成長を続けている>( NIKKEI NET 2007.05.17 )とされた。
 だが、<大田弘子経済財政担当相は17日、1―3月期の国内総生産(GDP)発表後の記者会見で、物価が持続的に下落するデフレからの脱却について「視野に入っているが、脱却したとはいえない」と語った>(同上)とあり、デフレ=不景気の公式を当てはめれば、じゃあ、どういうことなの? と言いたくなるのだ。政府サイドの見解だけでも、スッキリしないのである。

 さらに、次のような報道もあると、さらにわけがわからなくなる。
<「GDP成長率のゲタ」1.2%、07年度
 2007年度の実質成長率は、4―6月期以降が前期比ゼロ成長でも前年比1.2%増を確保できる見通しになった。四半期ごとの成長率と年間成長率のズレから来る統計上の効果で、「成長率のゲタ」と呼ばれる。
 年間の成長率は四半期のGDPの平均を比べて算出する。年度平均のGDPよりも年間の最終四半期である1―3月期のGDPの方が高いと、4―6月期以降がゼロ成長でも、翌年度を通したGDPの平均は1―3月期の水準のままだ。……>(同上)

 これでは、まるで、出所がはっきりしない商品を並べて、口から出任せの口上で叩き売りをする夜店の香具師(やし)の怪しさと変わらないじゃないかとさえ思える。
 そんな矢先、<日本の生産性を見直せ 2 〜実態からズレた算出方法>(大前研一氏『「産業突然死」の時代の人生論』NIKKEI BP )と題された、当を得たサイト記事を目にした。

<今は経済の中身そのものが大きく変わっている。過去との連動から現在の経済活動を数値にして成長率を見るGDPを算出するのは極めて難しい作業だ。考えれば考えるほど、数字に落とせなくなる。
 しかも、がんばって数字にしたとしても、その数字に実感がない。小泉内閣のころから好景気が何年も続いていると言われているが、本当に好景気なのか。いざなぎ景気を超えたといっても、誰も実感を持っていないではないか。よくよく考えれば、デフレとは昔風にいえば不景気のことだ。好景気なのか不景気なのか、いったいどちらなのかさえ学者によって意見が分かれるのである。「好景気なのにデフレから脱却していない」などという表現が当てはまる矛盾した状態が続いている。……>(同上)

 大前氏は、上記の「ゲタ」の問題以前に、現在のGDPの数字がはなはだおかしいものとなっていると述べ、次のように指摘する。

<内閣府では四半期ごとにGDPの速報値を発表している。ところが、その速報値が、後日発表される確報値と大きくずれてしまってきているのである。これでは速報値としての価値がない。そこで算出方法を見直そうという動きになっているわけだ……>(同上)

 さらに、<2005年度の実質GDP成長率は、速報値では3.3%、確報値では2.4%と、0.9%も違ってしまい、大幅な修正が必要になった。たかが0.9%? いや、GDP成長率において、これは大きな差なのである>と。

 ここまで来ると、政府発表のGDP速報値には、何か別の意図がありはしないかと疑念さえ持ってしまう。と言うのも、現在、上場各企業の3月決算数値が発表されて、企業の株価が明暗を分けているが、言うならば、GDPの数値とはそれに類似していると言えないこともないからだ。この数値で、状況への人の判断が大きく変わってくるからなのである。
 何だかわけのわからない数値で、株主や投資家に相当する国民を愚弄してはならないはずである。国民の生活実感からも乖離しない数値が算出できるように、算出方法の見直しを急いでもらいたいものである…… (2007.05.17)


 自分の気に入っている言葉の一つに、「そつ(【口へんに卒】)啄同時」という「禅」の言葉がある。ここにも何回か書いた覚えがある。
 「そつ(【口へんに卒】)」とは、鶏の卵がかえるとき、殻の中で雛がつつく音のことであり、「啄」は、母親が殻をかみ破ることを意味し、これらが「同時」に行われることによって雛が無事に卵の外に出てこられるという意味なのである。
 もちろん、鶏のブリーダーや鶏卵業で旗揚げしようというつもりなんぞではない。
 この「同時」であるべき二つの側面とは、知識・情報などを得たいとする欲求や願望とそれを充たす知識・情報それ自体とのことなのであり、それらの遭遇というか、マッチングというかの、そのタイミングのことなのである。これがグッド・タイミングであることが重要なことであり、学習とか教育の成果というものは偏(ひとえ)にこの点に掛かっているはずだと思われる。

 この言葉が「禅」から出ていることは実に頷けることのようだ。と言うのも、「禅」という宗教の基本的な考え方の一つは、「動機」重視ということだからである。良く知られているように、新参者が禅寺に入門する際には、執拗な「門前払い」が行われ、新参者の入門の「動機」の深さが試される。これはまさに、教えを得ることへの欲求や願望がスタンバイOKの状態であるのかどうかを確認しようとしているのだと言えよう。教えを乞う動機ぐらいはご自分で賄うべしというのが「禅」の基本スタンスなのであろう。

 ところで、巷で学校や教室と呼ばれる場所は多くあるが、こうした合理的な基本事項は実に曖昧にされていそうではないか。
 本来、曖昧にされてならない点は二つあって然るべきなのであろう。一つが、今述べている受講者側の「動機」の有無であり、もう一つは「水準」ということであろう。「水準」に関しては「入試」というもので「足切り」がなされているのは周知の事実である。しかし、これが「少子化」という現在深刻化する社会現象によって形骸化してゆくであろうことは懸念されている。いわゆる「全入時代」ということである。
 もともと「動機」の有無に関してはあまり念頭に置かれず、受験勉強をこなすことが「動機」アリ、という「状況証拠」として見なされてきたのかもしれない。そして、受験勉強や進学を拒絶すれば社会的落伍者になるゾ、という強迫観念体制がかろうじて安上がりなインセンティブを与えてきたのかもしれない。
 しかし、本来を言えばこの「動機」形成、インセンティブこそが重要なことであるはずであろう。この点に関して今は深入りしないが、「全入時代」が当たり前となった時に困る問題はまさにこの点なのだろうと危惧される。教えられる側と教える側との両側に、現在の状況に輪を掛ける形で混乱と地獄模様が展開するのであろうか。

 今日、このことに関心を向けたのは、こうした世の中の教育機関云々という問題からではなく、自分自身のいわゆる「自己啓発」の観点からだったのである。
 この間、とあることに徐々にいわゆる「やる気」が高まってくる気配があった。自分は、こうした気配の訪れることを何よりも歓迎するのであり、来たぞ来たぞと感じていたのである。まさに、自身の内部に「動機」が形成されていく実感なのである。
 自分も含めてであるが、人というものは、とかく行動を起こすに当たって、「べき」論を滑り込ませてしまうものだ。つまり、自身の欲求や願望との関係ではなく、世間体や常識その他のお仕着せの発想から、「〜をすべし」と自身に命令するかのように行動を起こさせようとするのである。まあこれもあって悪いとは言わないが、あまり有力な指針とはなり難いような気がしている。あるいは、当該の行動の実質にあまり良い影響を与えず、最悪の場合には形式的な成果しか実らせないことも往々にあり得る。
 自発的な「動機」をこそ重視したいのは、まさにこの辺の事情が絡んでいるからなのである。人は、自身の内部に自発的な「動機」を豊かに形成しているならば、行動において想像された以上の成果をラクラクと上げるようである。それが人間というものであり、だからこそ、何はさておいても「動機」付け、インセンティブ喚起という、誰にでも備わったまるで魔術のような仕組みというものをとにかく大事にしたいのである…… (2007.05.18)


 自分にとって、TVのCMほど嫌いなものはない。もっとも嫌な点は、商品情報を丹念に紹介するのではなく、イメージ、しかも低俗で騒がしいだけのイメージを押し売りするかのようなスタンスである。選挙運動の際の、あの騒がしい「連呼」とよく似ている。
 だが考えてみると、スポンサーにしてみれば高額な宣伝投資をしているのだから、可能な限りTV視聴者の印象に残ろうとあらん限りのことをするのであろう。
 ところで、昨今、ネット・サイトの広告機能はTVCMに優るとも劣らない水準になっているようだ。TVを観てモノを購入するよりも、ネット・サイトで検索してそのままネット通販の契約をするユーザが増えていそうだから頷けるというものである。
 検索サイト大手の Google が、その業務目的でもあった宣伝広告面での売上を飛躍的に増大させていることは周知の事実であろう。そして、これに続けとばかりに多くのビジネス・サイトが賑々しい動きを展開している。また、直接ビジネスに関係しないサイトも、広告宣伝用「バナー」などを載せる意図も見え隠れして、とにかくアクセスしてもらうべく工夫に余念がないようだ。現在では、サイトへのアクセス数が大きいことが、そのままビジネス・バリューに繋がりそうであるから当然と言えば当然の成り行きなのだと思われる。

 こうした動向の中で、ビジネス目的はそれとして控えているのだが、サイトが提供する情報が実に高水準かつ豊富であるというケースがままある。こうしたサイトに遭遇すると、大変に得をした気分にさせてもらえる。背後に有償のビジネス目的が控えているのではあるが、無償で閲覧できる部分が破格のサービスだと感じられるような、そんなサイトのことなのである。こんな情報まで無償で提供して大丈夫なのかと余計な心配までしてしまうわけだ。
 だが本来を言えば、ビジネスの宣伝というものはこうでなくてはいけないのではないかと思える。「やらずぶったくり」の風潮の中で、博愛主義かと見紛うほどの懐の深さ、寛大さは、閲覧者にきっと好印象を与えて、このサイトのビジネス目的は大いに点数稼ぎをしているに違いないと想像させる。TVCMの、「高いおカネ払ってるんだからナマエ忘れないでよ」という姿勢と雲泥の開きがありそうである。

 が、ネット・ユーザとしては、そこで甘い顔を見せてはいけない。確かに有難いのではあるが、そこで律儀に有難がって当該サイトのビジネス目的に添って有償サービス契約なり何なりに飛び込む必要はない。次第にこうした比較的水準の高いサイトも増えてきているので、一々応じていたのでは身が持たなくなるからだ。ここは、有難い無償サービス「のみ」をしっかりと享受させていただけばいいのである。
 またまた本来、しかも本来の本来を言えば、ネットというものは、無償で高水準の情報を得る場だと考えたいのである。ビジネス目的のサイトは、いわば「まあ、あっても害にならなければいいでしょう」という筋合いのものだと考えたいのである。いわゆる「フリーソフト」の存在は、ネットのそうした本意を表しているものと考えられる。
 また、ちょいと深慮遠謀をもって洞察するならば、ネット時代の最高のバリューというものは、アクセス数なり、ユーザー数なり、とにかく賛同者がごった返す事態であるに違いなかろう。そうした事態さえ持続していれば、いくらでもビジネス・バリューのネタは生まれてくるものだと思われる。了見の狭さから、早々とサービスの有償化で賛同者ごった返し状況を散らすことはないのではなかろうか。

 と言いながら、ネット・ユーザとしては、いろいろと出費の嵩むことは避けたいのであり、できれば高水準の情報を無償で享受し続けたいわけである。
 ただし、無償の情報というものは「加工」が必要なのかもしれない。というのも、有償の情報が有償である根拠の一つは、手間暇掛けて「加工」しているからなのかもしれないからである。
 だから、無償の情報を手堅く活用していくためには、収集した情報群を自身で「加工」する構えが必要だということになりそうである。手っ取り早い「吊るし」の情報なんぞを期待してはいけないのかもしれない。いや、この構えが本格化した時にこそ、ネット環境を活かし切ったということになりそうである。
 つまり、ネット環境は、「素材的情報」をたらふく提供するものであるが、その「素材」をどう自分のために有用なものと変(換)えるかは偏に自分の問題であるということなのである。
 どうも、ネットに限らず、情報化時代の溢れる情報群に対処する鉄則がここにはありそうだと感じている …… (2007.05.19)


 今日は実に良い天候だった。まさに行楽日和の一日で、初夏めいており、さりとて蒸し暑いというふうでもなかった。もうすぐ梅雨の到来となりそうだから、こんなすがすがしい天候は貴重だと思えた。
 こうした良い天候を満喫するような過ごし方をすれば良かったのだが、取り立てて自然に親しむようなことはできなかった。週末には、昨日あたり再び江ノ島へのサイクリングでもしようかと思っていたが、昨日はぐずつく天気だとの予報で取りやめにした。
 今日は、いつものように朝、所定のウォーキングをしたくらいである。
 今朝目にした光景で印象に残っていることはというと、いつも遠目に眺める大きな古木が、痛々しく枝打ちされた跡をすっかり緑の枝葉で隠し切っていたこと、遊歩道にやって来るムクドリたちの人懐っこかったこと、川に放流されている大きなコイたちが川辺に寄っていて餌が落ちてくるのを待つ様子が穏やかな雰囲気であったこと、あれは何という野菜なのか定かではなかったが、農家の畑の多分根菜なのであろうが、その花の香りが実に芳しく匂っていたことなどであろうか。

 農家の庭に聳える高樹齢の大木は、その姿の良さからかねてより注目していた。が、ある時、あまりにも背丈が伸び過ぎて危険だと見なされたのであろうか、上層に広がる枝が大きく剪定されて、しばし無残な光景を晒していたのであった。いつも、その痛々しさを見るにつけ、早く傷口を新緑で隠してほしいものだと感じていたのである。しかし、一向に枝葉が伸びる様子もなく、いつになることかとやや心配をしていた。
 そんな古木が、今朝は見違えるような緑一色の瑞々しい姿に変貌していたのである。実に、この時期の新緑の枝葉が伸びる勢いには目を見張るものがある。この間の日射と、そして雨天による雨水とがそうさせたのかもしれない。それにしても、これでまた目の保養になるというものである。

 川沿いの遊歩道のフェンスには、さまざまな野鳥がとまる。歩いている時に、そうした野鳥が目にとまるのも楽しい。頻繁に目に入るのはもちろんスズメである。とにかく平凡さを売りにするスズメたちは、その慎ましさ溢れる立ち振る舞いで癒しを与えてくれる。 滅多にお目にかかれないのが、カワセミであり、もう数年以上歩いていることになるがたった二回しか目撃していない。しかし、どういうものか望遠デジカメを携えた時に限って現れていたのだから不思議だ。よほど、カワセミは「撮られたがり屋」なのであろうか。
 今日は、鮮やかな黄色の嘴をしたムクドリがとまっており、一メートル近くにまで近寄っても平気でとまっていたのには恐れ入った。羽毛を逆立てるようにして膨らませて、毛繕いのような仕草をしていた。随分と暢気そうな雰囲気であり、その辺が可愛くも思えたものだった。生活保護も年金もないムクドリたちでも、暢気に暮らしているんだとバカなことを考えた。

 4、50センチはあろうかと思われる真っ黒な真鯉たち十匹ほどが、やや深味のある川の淵に寄ってゆらゆらと行き交っていた。まるで「まだですかなぁ、餌が降ってくるのは……。今朝は遅いんじゃないですかね……」といった様子で、餌待ちの風情というところであった。
 自分も何度か見た覚えがあるが、動物好きの年配の方たちが、パン屑やら本格的な麩(ふ)などを定期的にコイたちに与えているのである。これでコイに餌をやるというのは、結構充実感に満たされるものなのである。何しろコイが餌にありつく格好は実に躍動感があるからだ。パクリパクリと水面に浮いた餌を次から次へと平らげていく状況は、餌をやる側にも十分な満足感をもたらすのである。朝一番にこの餌やりを済ませば、ひょっとすれば一日が、お大尽さながらの余裕ある佇まいで過ごせたりするのかもしれない。

 今は、畑の野菜が緑の葉を茂らせ、また花を咲かせる頃である。今朝も、畑の脇を通った際、風で花の香りがフワーと漂って来た。晴れ晴れとした陽光のもとでこうした香りに遭遇すると、何となくメルヘンチックな気分ともなるものである。一瞬の間、自分の歳を忘れるような時間のない空間に誘い込まれたかの感があったものだ。ミツバチのような昆虫も、うれしい悲鳴を上げながらなのであろう、あっちの花、こっちの花、はたまた隣の花と慌しく蠢いていた。ハチたちは嬉しいはずだし、植物にとっても有難いことだし、これぞ「ウィン&ウィン」の喜ばしき光景なんだと妙に感心したりしていた。

 これから鬱陶しい梅雨時となるのかと思うと、幾分興醒めではあるが、晴れた日々には十分にこの時季のすがすがしさを満喫したいものだと思った…… (2007.05.20)


 「スクリーニング【screening】」という言葉がある。その意味は、<ふるいわけ。適格審査。特に健康な人も含めた集団から,目的とする疾患に関する発症者や発症が予測される人を選別する医学的手法をいう>( goo 辞書 より)
 広い意味では「検索」に当たると考えてもいいのだろうし、また「フィルタリング」(選別,より分け)を想定しても悪くはないはずだ。
 この言葉は、言うまでもなく「株取引」を行おうとする際の、「投資銘柄」を選定する作業として最も馴染まれている。4〜5千社もある上場企業のどの会社の株式を買うのかを決めることは、考えてみれば大変なことに違いない。もっとも、自身で探したり、決めたりすることを端から度外視して、証券会社の勧めをはじめとした、風評その他他人の意見に沿うことに抵抗を感じない者にとっては、「銘柄探し」も、そのための「スクリーニング」作業も無縁なはずであろう。
 ただし、どんな「銘柄」であっても一様に株価が上昇した時代と現時点ではだいぶ状況が異なっているようである。大きな流れで言えば、あの「ライブドア・ショック」以降、「ジャスダック」「マザーズ」「ヘラクレス」といった新興市場の株価低迷は構造的とさえ言える傾向となっていそうだ。外国人投資家たちによる支えも希薄となった模様だし、手痛い目に会った個人投資家たちが逃げ出しているとも聞く。とにかく、希望的観測で尻馬乗り的に投資していても、ただただ損を深めるばかりという実情が広がっていそうなのである。
 つまり、現時点では、端的に言って「高安まちまち」の状況となり、要するに株式「銘柄」の選別・吟味なしではとても済まないという状況となっていそうである。まあ、翻って考えれば、これが通常の株取引の実態だと思えないわけでもない。
 そんな状況変化から、より可能性の高い「銘柄」を選別・吟味しようという当たり前の発想が「スクリーニング」作業への注目となっていそうなのである。

 ところで、膨大な数の対象から自身が想定するデータを選ぶという作業で、われわれが常日頃慣れ親しんでいるのは、ネット環境における「検索」作業ということのはずであろう。気になる情報を提供するサイト選びはもとより、サイトの枠を飛び越えた情報やデータそれ自体、その中には商品情報、商品価格、地図情報、就職情報、言葉の意味など、枚挙に暇がないほどにさまざまな検索が行われている。
 もはや、膨大な数の情報が溢れる情報化時代の現代にあっては、Google が着眼せずとも、情報「検索」という機能やそれへのサポートがなくては、手も足も出ないということになりそうである。
 「弘法は筆を選ばず」ということわざがあり、能力さえ備わっているならば、処理すべき対象がたとえどんなものであってもかまわない、と言いたいところではあるが、情報が洪水状態となってしまっている現代にあっては、かなり事情は異なってしまっていそうである。
 何かの対象に対して「どう処理するのか」という対処能力の課題は重要ではある。いや、そうあり続けていることは間違いない。しかし、もう一方で、「何に対して」という対象に関する問題を軽視すると、とんでもない徒労をしなければならなくなる可能性も広がっていそうである。
 「玉石混交」という言葉があるが、現代という時代環境にあって、われわれが日常的に遭遇しているあらゆる「対象」というものは、まさにその内容に関して「玉石混交」状態を極めているかのようだ。これをもたらした原因は種々ありそうだが、あらゆる状況の「ボーダレス化」という事態もその一つなのであろう。そして、「グローバリズム」による影響もまた大きい。
 要するに、人間側の情報処理能力のキャパシティは大して変わらないのにもかかわらず、処理されるべき情報の種類や量が爆発的に、まるでビッグ・バンのように膨れ上がってしまった、というのが現在の苦しい状況なのだろうと思われるのだ。
 したがって、ここに至っては、「検索」なり、「フィルタリング」なり、そして「スクリーニング」なりという情報の「ふるいわけ」機能と能力とを、個人側が何とかしてパワーアップさせなければ、まともな生活判断さえ出来なくなってしまうと思われるのだ…… (2007.05.21)


 今朝、出勤前の仕度をしながらNHKラジオを聴いていたら、「そう、その通りなんだ!」と頷ける時事評論番組があった。まだ寝ぼけた頭で聴いていたため、今ひとつ記憶が定かではないのだが、次のような意味の表現が印象的であった。
「今の時代は、若者たちにとっては『戦場』そのものです。戦争ではないけれど、日常環境自体が『戦場』のような命懸けの環境になっています。一日、仕事にあぶれると宿さえとれなくて『インターネット・カフェ』で一夜を過ごすという惨めさで……」
 司会者と対話風に語っていた方は、作家の雨宮処凛さん(名前も薄ら覚えであったため、NHKオンラインサイトの番組表で確認)であり、いかにも作家らしく、言葉遣いがいちいち決まった印象を与えていた。
 確か、現在の経済環境はその本性を「剥き出しに」して若者たちの存在をむさぼっているという、その「剥き出しに」という言葉遣いなぞにシャープな切れ味を感じた。
 いつであったか、作家・高村薫さんがTVで社会評論か何かをしていた際にも、社会問題の、まるで的を射抜くような言葉遣いをしていて、さすがに感性を磨いている作家だけのことはあると感じた覚えがある。苦しみもがく人々の心と強烈に共鳴する、そんな言葉遣いのできることは、こんな時代であるから非常に重要なことだと思っている。

 ちなみに、作家・雨宮処凛さんの著作には、フリーター、パート、派遣という就労形態に追い込まれた若者たちを取材したルポルタージュ『生きさせろ! 難民化する若者たち』とか、きわめてしっかりした視点で構成された『排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異』などがある。(これらは、Amazon のサイトにて調査)
 後者の<出版社/著者からの内容紹介>は以下の通りであり、是非読んでみたいものだと読書欲がそそられたものである。少し長いが非常に重要な視点であると思われるので、引用しておいた。

< 排除はつぎの3つの次元で進行している。(1)労働市場からの経済的排除、(2)市民社会の人々のあいだで起こっている社会的排除、(3)防犯・安全対策の名の下に進められる犯罪予防における排除的活動。
 本書は、こんにち(後期近代)の社会が、70年代までの安定的で同質的な「包摂型社会」から、変動と分断を推し進める「排除型社会」へと移行したと捉え、その構造とメカニズムを分析している。そしてこの悪夢のような現状をどのように克服するかを検討している。
 いまや、逸脱や犯罪の原因を追求し更正させるといった包摂型の政策は重視されなくなり、リスク評価を基準に、不審者の「奴ら」をあらかじめ排除・分断・隔離するといった、保険統計的な犯罪予防政策が主流となった。本書はこのような排除型の政策を厳しく批判する----「シングルマザーやアンダークラス、黒人や放浪する若者、麻薬常習者、クラック常習者などの、コミュニティで弱い立場にある人々が、針で突つき回され、非難を浴びせられ、悪魔のように忌み嫌われるようになった。このような新たな排除の世界にあって、本当に革新的な政治をおこなおうと思えば、私たちを物質的な不安定と存在論的な不安の状態に置いている根本原因、すなわち正義とコミュニティという基本問題を避けて通ることはできない」。
 だからといって、かつての包摂型の社会を懐かしんでも気休めにもならない。ノスタルジーにふけり、かつての包摂型の政策をそのまま復活させることは、いっそう息苦しい社会を招きかねないからである。わたしたちが取り組まなければならない課題は、新たな形態のコミュニティ、市場の気まぐれに左右されない雇用、八百長のない報酬配分----これらをどう実現するかなのである。
 この排除型の社会にあわせて生きていくしかない...などと、決して諦めてはいけない(これこそ著者が最も強調している点である)。>

 冒頭の「戦場」という表現に戻るが、番組の中でも紹介されていたのだが、若者たちの中には、こんな酷い時代環境だから、いっそ戦争になればいい、野垂れ死にするくらいなら、「名誉ある」戦死の方がマシだ、と思ってしまう者もいるらしいという。
 わたしは決してそんなバカな、と一蹴する気にはなれないでいる。ありそうだとさえ感じているのだ。人の心理というものは、結構、「短絡」するものだからである。
 自分にも、そんな「短絡」心理を実感した覚えがないではない。
 もう、20年以上も前のことになろうか。二週間も缶詰にされる厳しいセミナーに参加した時のことであった。誰が考案したのか、まさに言語を絶する各種過酷さが「詰め合わせセット」になった「意識改革セミナー」だったのである。先ずはタフな方だと自認していた自分であったが、さすがに根負けしそうになったものである。
 ある晩、そこそこ大きな地震に襲われたのだった。その時である、自分に一瞬魔が差したのは……。地震の恐怖なんてものは皆無であった。むしろ、自分はとんでもないことを期待したのである。つまり、この地震でセミナー・ハウスが壊滅状態となって、このセミナーがご破算になればいい、と、たとえ瞬時ではあってもそんな妄想に取り付かれたのである。今でもしっかりと記憶しているため、その「短絡」心理は確かに生じたに違いなかった。
 若者たちの一部に、「戦争」が起こってしまった方がまだましだと感じさせる現時点の時代環境は、やはり誰が何と言おうと異常であり、病的だと思われる。せめて、異常を異常だと言い放てる感性だけでも持ち続けなければならない…… (2007.05.22)


 現在の日の出時刻(東京)は、4時31分であり、最も早い時刻となる6月上旬の4時25分に迫る早さである。
 どうして急にこんなことを書くかと言えば、今朝は5時半頃に目が覚め、その後容易に眠れなくなってそのまま起きてしまったのである。多分、障子越しとはいえ寝室に陽が射しこむ明るさがそうさせたのであろう。日の出前に目が覚めた場合には、トイレから戻った後、難なくそのまま睡眠を継続させられるものだ。しかし、日の出後の明るさ、しかも今日のように天気が良いと、こうした弊害も起きてしまうわけだ。
 まあ、雨戸を閉じるなり、カーテンを施すなりすればいいのだろうが、暗い部屋で目を覚ますのもどうかと思い、陽が射すままとしている。

 お陰で今朝は、万事、一時間の前倒しで午前中を過ごすこととなった。朝食時間もそうであるなら、出勤時間も、また朝のウォーキングもそういうことになった。
 眠気のため頭の方はスッキリした状態ではないが、懸念したほどの不快感はない。このまま、日の出とともに起床する習慣をつけてしまおうかとバカなことさえ考えた。
 いや、あながちバカなこととも言い切れないのかもしれないとも思う。今日のようなやむを得ずという形でなければ、早朝というのはやはり実に気分が良い。都市の喧騒が立ち上がってくる前の新鮮さとその静けさは、貴重なものだという気がする。そして、自分たちの時間だと慎ましやかに主張しているような野鳥たちの賑やかな鳴声は、なぜかホッとした心持ちにさせてくれる。生きて生活をしているのは、傲慢な人間たちだけではなく、他にも健気な動物たちがいるのだということを知らされるわけである。

 今朝も、事務所近辺のウォーキングの際に可愛い野鳥たちの振る舞いを見ることができた。一羽のスズメが、指先ほどの大きさの何かパンのかけらのようなものを咥えて植え込みの陰に飛び込んで行ったのである。そのスズメの表情まではよくわからなかったが、それを地面に置いて、さていただくとするか、というように満足そうにしていたごとく見えた。うまいものであればいいね、というような心境にさせられたものであった。
 また、セキレイだかが尾を上下に振りながら、駐車場のアスファルトの上を、チョコチョコチョコと早足で歩いている姿も実に可愛いものであった。彼らにしても、早朝であれば人影もさほどないため、警戒心を緩めているのであろう。
 相変わらずカラスは、やはりヘンな奴らだ。マヌケな感じの鳴声を発して、一際高い場所に陣取っている。最近の電信柱には、先端が「尖がり帽子」のような格好となったものが多くなったが、カラスはそんな場所のてっぺんを好むようだ。言っとくけどオマエたちのために作ったもんじゃないんだよ、と言いたくなるが、これはありがたいといった雰囲気でとまっているのが何とも滑稽な感じなのである。いろいろと偵察をするのに都合がいいのであろう。

 そんな野鳥たちの光景を見ていて考えたことは、野生の生きものたちというのは、何を感じたり考えたり(?)しているのかは知らないけれど、多分、自然をはじめとした環境自体と一体化して生きているのだろうと思えた。複雑なことを考えていないことは当然であり、環境をそれとしてあるがままに受け容れ、自身の運命をもそれに従って従順に受け容れているのだと思われる。だから、彼らが馴染める環境をあまりにも人間本位な発想だけで改変してしまうのは、気の毒なことだとも思えるのである。税金も払っていない存在なのだから、どうなろうと知ったことじゃない、という向きもありそうだが、それを言っちゃあお仕舞よ……。
 もっとも、現在の酷い時代環境は、野生の生きもののみならず、同朋の人間に対してさえも「どうなろうと知ったことじゃない」と言わぬばかりの残酷さがまかり通っていそうである。

 早朝という束の間の時間帯は、そんな酷い時代の印象をとりあえず「リセット」してくれるようだと感じさせるから、だから貴重だと思えるのかもしれない…… (2007.05.23)


 何を書こうかとまともに考え出すとヤバイことになるのが通常である。今日もそんな轍(わだち)に嵌まりそうになっている。
 というのは、書きたいと思うことを順序立てて書こうとするならば、膨大な作業になりそうなことが予感できるからである。
 書こうとするテーマ自体がはっきりせず、ただ漠然としたそれらしきイメージだけが突き上がってくるのだから、先ずはその正体を見据えることから始めなければならないのである。実にもどかしい限りである。そこで、この実感をそのまま書いてみようかと、キーボードを叩き出したのである。それはそれで意味のあることなのだろうと思えた。

 書きたいと感じていることは、大枠で言うと、この国の現在の人々は何故こんなに酷い時代環境にダンマリ状態でいるのか、何故激しく異議を申し立て環境を変えてゆかないのか、といった問題なのである。
 先ず、その理由らしきものとして浮かんできたのは、自分自身がこれを書こうとした際にもどかしさを感じたように、捉えどころがなさそうだというやっかいな問題が潜んでいるようである。
 この時代環境は何だかヘンだし、誰かに騙されているような気もするし、とてつもなく危険な雰囲気も感じる。そのモヤモヤとしたやり切れない心境がやたらに憤りの感情も刺激する。しかし、それを理路整然と説明し、糾すべき対象を確定した上で、そこに切り込んで行くには、あまりに丸腰姿勢であるようにも思われてくるわけだ。
 現にやり切れないほどの不快、不安、不信を感じざるを得ない時代環境であるにもかかわらず、こうしたあたかも「取り付く島がない」ような捉えどころのない現状が、ひょっとしたら自分自身や人々を押し黙らせている最大の理由なのかもしれない。

 話しは横道に逸れるが、よく「いけ好かない」ヤツという輩がいるものである。その極右の人物はというと、決して衆目が認める歴然とした悪党ではなかったりする。むしろ、何がどう悪いと責め立てることが難しいような、一見、紳士淑女であったりするから厄介なのである。「いけ好かない」という感情を逆撫でするくらいであるから、何か悪事を働いていることはほぼ確かなのであるが、なかなか尻尾を出さないし、もちろんその尻尾を掴ませない。自身でもありとあらゆる警戒をし、「危機管理」までやりこなしている。おまけに、取り巻きをうまく使って口裏を合わせ、あわやと思われる「危機」をもすり抜けて行くのだ。
 そんなことだから、その輩の正体を直感的に見抜いている者からすれば、ますますもって「いけ好かない」ヤツだということになるわけである。

 ちょうど現在のこの時代環境が、この「いけ好かない」ヤツに酷似していそうだと了解しているのである。
 この時代環境は、その複雑さゆえに、一人ひとりの個人、国民からすれば見えないことが多過ぎる。巨大な社会システムや組織環境にしても、とても個人の眼が届くものではなかろう。また、専門分化された、高度な科学技術によって構成された環境もまた、個人の眼から見にくく、そして個人の頭脳では理解し難いことが多い。まずは、これらの点をこれ幸いとしているに違いないのである。
 また、腹が立つのは、この時代環境には「取り巻き」連中が多いということである。もちろん、「取り巻き」が「取り巻き」であることの根拠は、「甘い汁」が吸えるということに尽きよう。同時に、「甘い汁」が吸えなくなるゾという脅しがセットとなっていることも容易に想像される。とは言うものの、「取り巻き」連中自身の人品骨柄がまことにもって卑しいのが最大の根拠であるには違いなかろう。

 時代環境というぼかした表現をしてきたが、わかりやすく言うならば権力者たち(国家権力)ということである。そして「取り巻き」連中とは、本来が権力者たちを監視し諌めなければならないはずの知識人たちであり、またマス・メディアだと言い切ってしまおう。
 昨今の「エセ」知識人たちが、言うべきことを言わず、果たすべき役割を果たさないがゆえに、かつてでは考えられない立ち腐れた政治、社会現象が頻発しているのだとは、気骨ある数少ない知識人たちの現状認識であろう。要するに、知識人としての本来の使命を放棄して、「卑しい欲」で奔走し、完全にエスタブリッシュメントに取り込まれてしまっているのである。
 そして、そうした「エセ」知識人たちとの大の仲良しがマス・メディアだと想定して間違いなさそうである。本来の使命を忘れた者たち同士が、あたかも傷を舐めあうように、あるいは後ろめたさをはぐらかし合うように、仲良しグループを形成しているのだと皮肉っておきたい。
 なぜ、こうした辛辣な表現になるかというならば、こんなに複雑怪奇な時代状況であるからこそ、眼も頭脳も行き届かない庶民各位のためにますますもってその本来の使命を遂行しなければならないところを、自身の「卑しい欲」の虜となってしまっているからなのである。もちろん、政治家諸氏たちにはもともと何も期待すべきではなく、彼らというのは、専らどう監視され、制御されるかという存在でしかないことは自明なのである。

 どうしてここまで社会の時代環境が不透明でかつ、間尺に合わなくなったかと観察するならば、やはり、こうした「取り巻き」連中の度し難い変質に注意を向けざるを得ないと思われる。
 今日は、アバウトな調子で書きなぐったが、やはりこの辺の問題はじっくりと腰を据えて論述する必要がありそうだと考えている。「イデオロギー批判」が消え失せたのはやむを得ないとしても、「エセ知識人批判」まで反故にしたのでは真っ当な庶民たちが毒されてしまいかねない…… (2007.05.24)


 先日、どうも現在の景気が芳しくなさそうだということを書いた。「GDP算出方法の見直し」という点との関係で、日銀や政府は国民に経済の現状を正しく伝えているのかという疑念を添えて書いたのだった。( 当日誌「GDP算出方法の見直しを急ぐべきでしょう!」 2007.05.17 )
 やはり、日銀や政府による現在の景気に関する公式表明は「まやかし」のようである。経済アナリスト・森永 卓郎氏によれば以下のようになりそうだ。

<いずれにせよ、明らかにいま景気に黄色信号がともった。このままいくと恐ろしいことになる。景気は後退時に機動的に対策を打てばそれほど悪化しないが、問題は誰も景気悪化を口にしないことだ。
 日銀は自分たちの利上げが原因とは口が裂けても言えないので、景気後退を決して認めようとしない。通常は与党がこうした問題を指摘するのだが、真っ先に言うべき中川秀直自民党幹事長は黙ったままだ。なぜなら、7月の参議院選挙を前にして景気後退を口にできないからだ。
 本来はメディアが指摘する義務があるが、どの新聞にも景気後退の文字はない。大手新聞は日銀記者クラブに所属しているので言いたいことが言えないのだろう>(「構造改革をどう生きるか 〜成果主義・拝金思想を疑え〜」 nikkei BP net より)

 「景気後退」の現状が問題であるには違いないが、先ず着目したいのは、「問題は誰も景気悪化を口にしないことだ」という点なのである。
 こうした「ダンマリ状態」の問題については昨日も書いたばかりである。政府与党が「7月の参議院選挙を前にして景気後退を口にできない」という姑息さは今に始まったことではなかろう。こうしていつも、国民の投票権を詐欺まがいに掠め取ってきたわけである。騙される側が悪いと言えばそれまでだが、こうした「まやかし」を助長している「取り巻き」連中を許してはならないと思われる。マス・メディアのことである。

 <本来はメディアが指摘する義務があるが、どの新聞にも景気後退の文字はない。大手新聞は日銀記者クラブに所属しているので言いたいことが言えないのだろう>という部分である。この「記者クラブ」方式という信じ難い悪慣行こそは何とかならないのであろうか。「構造改革」を云々するならば、こうした悪慣行をこそ、官庁における官僚たちの天下り問題と一緒に、こっぱ微塵に粉砕して然るべきなのである。
 「記者クラブ」方式というのは、要するに「いじめ」構造の情報産業ジャンル版そのもの、あるいは同ジャンルにおける、古式ゆかしい「村八分」構造そのものと言っていいのだろう。情報というものを、とんでもなく「私物化」して、自分たちに都合良く扱ってくれる記者だけに情報提供をし、意に沿わない記者は締め出すという何ともみっともない構造となっているわけだ。
 しかし、マス・メディアにおけるこうした悪慣行は、「記者クラブ」方式に尽きるものでもなさそうだ。マス・メディアも商業主義にどっぷりと身を浸からせているために、報道活動のスポンサーが必要であり、このスポンサーがまた「いじめ」なり、「村八分」なりの構造を形成し、マス・メディアに対して直接、間接の情報コントロールの機能を果たすわけである。

 また、昨日書いた「エセ知識人」というのは、こうして情報コントロールされたマス・メディアに引き回されている学識者たちのことだと言える。マス・メディア側が、「アブナクナイ」候補を挙げて依頼する場合もあれば、「エセ知識人」側がネコのように擦り寄って行く場合もあるのだろう。どちらにしても、一般大衆に仮にも影響が与えられる可能性を持ったステイタスなりを看板にしながら、真理ではなくて「通りの良い情報」を振り撒く役を演じることになるのである。政府与党の意向に合致すれば、マス・メディアからもスポンサーからも、そしてもちろん政府与党の面々からも覚えが良くなるというものだ。こうして、やがては、TV番組であれば「レギュラー」出演者となり、学業・研究は益々そっちのけとなること必定である。
 「知識人」たちが、こうした「餌付け」に迎合して行きやすい根拠はいろいろとありそうではある。昔はよく、国公立大学の研究者であれば「科研費」の増減によってコントロールされたようだ。もちろん、文部省の官僚たちがこの辺の操作を好き勝手にやることになる。
 ひとつ切実な問題かもしれないと思われるのは、研究者にとっての生命線である情報自体の入手可能性が、この辺の事情と絡んでいることなのであろう。マス・メディアの記者たちと同様に、研究者たちも、研究上で必要なデータや情報の入手に関して大なり小なり何かと「いじめ」なり、「村八分」なりの構造で不利益を被ることがありそうなのである。データなり情報なりの提供が、提供する機関(省庁など)の「首を締める」ことになってはという心得違いがディスクロージャーを制限するのであろうことは容易に想像できる。

 情報化時代の現代だと言われながら、こうした情報コントロールの問題こそが実に多面的に展開され、結局、庶民国民の切実に知りたいことが曇らされ、はぐらかされ、そして挙句の果てには騙されるというお定まりコースが敷き詰められているわけだ。
 現代における「情報リテラシー」問題とは、決してネット・ウイルスやネット詐欺、あるいは民間TV番組における情報偽装などに尽きるものではない。そうした民間レベルでのゴタゴタ状況の向こう側で、もっと巨大な情報コントロールが行われていること、それを常識的な感覚で認識することだと思われる。
 「知らぬが仏」でいることは、やがて正真正銘の仏さま(犬死さま)にさせられてしまうのだと予想しなければならない。憲法改悪、自衛隊の国軍化、集団的自衛権の行使という軍国主義の泥沼の匂いが風に乗って漂ってくる…… (2007.05.25)


 もう何ヶ月も経つようだ。あれほど鬱陶しく感じていた両肩の痛み、いわゆる五十肩というものだが、それがこのところすっかり良くなってしまったのだ。だが、勝手なもので、痛みがなくなると痛みのなくなったことまで意識することがなく、いつ頃からそうなっていたのかわからないのである。
 まあ、今でも右肩に薄っすらとした痛みの名残があるが、ほぼ完全治癒したと言ってよさそうである。治ったのだからとやかく考える必要はなさそうであるが、何がきっかけで良くなったのかに興味が残るというわけなのだ。
 もちろん若返ったわけではあるまい。また、軟骨部分を補強するようなサプリメントを服用し続けたわけでもない。容疑者のセリフではないが「まったく身に覚えがありません」の状態だから気色が悪い。

 思えば、随分と長期間に渡って人知れず悩んできたものであった。
 四十代の頃に意識せざるを得なかった「四十肩」の痛みが皮切りであった。今でも覚えているのは、当時、気になり始めていた太り過ぎを考慮して、ウェート・トレーニングのジムに出入りしていた(マジメにトレーニングしたわけではないのでこう言うしかない)時のことである。さして重くもないバーベルなのに、肩より上に持ち上げようとすると肩に痛みが走り、痛む肩をかばわざるを得なかったのだ。こいつは困ったことだな、と内心気にしたものであった。
 そして、小康状態を経て、五十代になり気がついてみると、今度は「五十肩」としての明らかな症状が、先ずは右肩に、やがて左肩にも現れ始めたのだった。そして、その痛みは、ほぼ途絶えることなく延々と昨今に至るまで継続していたのである。特効薬とてあるわけではないため、「泣き寝入り」しているしかないと諦めていた。

 ところがどうだ、現時点ではまったく痛みがなくなっている。両肩ともにである。肩の上げ下げどころか、グルグル回しをしようが、クロール泳法の動かし方をしようが、まるで痛みを感じないのである。
 今、この半年間くらいの健康管理状況を振り返り、何に因果関連があったのだろうかと考えている。
 ひとつ思い当たることといえば、ウォーキングを事務所近辺でも一日二回励行するようになったこと、しかも、短距離、短時間での効果をねらって足首と手首に若干のウェート・ベルトをつけて歩くことにしたことであろうか。
 だが、このケースは今回がはじめてではなく、かつて実践したことがあり、その際には肩の痛みの改善に繋がることはなかったのである。
 したがって、昨今のこの日課が奏効しているとも考えにくいように思われる。むしろ、この日課による結果といえば、足の筋肉疲労感を毎日感じていることであろう。まあ、辛いというレベルではなく、毎晩就寝する時にその疲労感を意識する程度であり、逆に寝つきを良くしてくれているようでさえある。

 となると、「五十肩」の痛みの消失原因はまったく見当がつかないことになる。良くなったのだからいいようなものの、いつの間にか良くなったというのは、「逆また真」というかたちで、いつの間にかまたぶり返すことになりそうでもあり、それが気になるというわけなのである。
 ただ、この機会をとらえて、痛みのある場合にはできなかった肩を回す動作をこまめにやるべしと考えている。まるで、「鬼の居ぬ間に洗濯」のごとくにである。この「中古」の身体の「鬼」に、つけ入る隙を与えないようにしなければならない。
 それにしても、この歳になると、若いときには想像だにしなかった身体のメンテナンス・コスト(カネというよりも時間や気分の上でのコスト)が何かとかかるものである …… (2007.05.26)


 休日に、しかもくつろいでしまったその夜にもこうして文章を綴るというのは、確かに何でもないことだとは言えない。よくもまあ、こんなことを続けているものだという気がしないでもない。
 そもそも、休日は頭の方も休もうとしているし、そんなものだから特別に変わったことでもしない限りは書くべきことに乏しいわけだ。書こうとすれば当然いろいろと考えを巡らせることにならざるを得ず、休日だから頭も休めようとする姿勢と馴染みにくいのである。
 簡単な話が、休みの日くらいは、ビールなり酒なりを多少多めでも飲みたいと思わないこともない。夕食時に軽く飲んで、その後にこれを書くこともないではない。しかし、書き終えた後ならば良かろうが、その前に酩酊状態となれば、何を書き出すかしれたものではないため、自ずから抑制するはめになっている。
 また、外出に関しても、帰宅してからあまり遅くならないうちに書き終えるべく、当然帰宅時間を考慮することにもなる。
 ということで、休日といえども、それなりに拘束を受ける羽目になっているのが実情なのである。
 が、こうやって長年続けてしまうと、穴を空けたくもなくなり、また止めてしまうのもどうかと思い、ほぼ惰性気味とも見える様子で継続させている。

 だが、どんな時にも書くという習慣を、あながち鬱陶しいだけのものではなさそうに感じている。一面では、メリットもありそうである。
 休日というのは、ウイークデイと違って、のんびりするとともに、ルーチンワークとは別な出来事が起こり、その分、気分や感情に起伏が生じやすくもある。普段会わない人と会ってみたりすることは、やはり多少なりとも感情に波風が生じる。時には、その波風が収まりにくい場合もあったりする。
 が、そんな時にも、この日誌を書くために多少なりとも集中し、神経も幾分すり減らしたりすると、不思議なことに、平常心というか平静な気分へと帰還することができるようなのである。

 そうしてみると、文章を綴るという「脳」作業は、まるで、身体の筋肉の場合のいわゆる「整理体操」のように、感情の起伏をクールダウンさせる機能が働くように思われてならないのである。
 おそらく、文章を綴るには当然、脳内の言語活動を進めることになるし、またその際に因果関係という論理性に少なからず注意を払うのであろう。
 この辺が、感情の蠢きとは事情が異なるのかもしれない。感情の起伏が表面化している時というのは、おそらく、言葉や論理性という脳の働きが後方に退いているのかもしれない。それで、自分自身の感情でありながら、それらをうまく制御し切れないような、囚われ感に支配されたりもするのであろうか。つまり、こだわり状態である。
 こうした状態にはまり込むと、いくら理性的になるべし、と自身に呼びかけてもなかなかすんなりとは行かないものであろう。これが、「言葉や論理性という脳の働きが後方に退いている」状態なのである。
 こうした状態の時に、とにかく文章を綴ろうとするならば、思うように「筆」は進まないが、そこを踏ん張ってみると、やがて、徐々に心の内部に状態変化が生じてくる。感情のみが占領していたかのような心の内部が、言葉や論理性の浸透によって要するにクールダウンして行くようなのである。

 これが、休日でも日誌を書くことの、そのメリットではないかと感じたりしているのである。文章化作業が、いつも冷静で理性的で論理的だなぞというのではない。結構、いいかげんな面が多々あると思ってさえいる。
 ただ、文章化作業というのは、言語という媒体を操作しながら、視野を広げたり、視点をフォーカスしてみたり、物事の因果関係に目を向けてみたり、そして結果的には自身の感情に距離を置いてみたりと、あたかも身体にとっての「整理体操」のようなことをしているように思われるのである。そのために、脳と心が無理なく平常な状態に戻るのかもしれない。ヘンな表現をするならば、文章化作業の主体側の一面には、猫や鳥たちの「毛づくろい」の働きがあるのやもしれない…… (2007.05.27)


 昨日であったか、自宅の近所の家の方からバイクのエンジンを掛けようとするキックの音が、かなり執拗に聞こえてきた。どうもあれでは掛からないな、と思っていた。
 バイクをしばらく放置していたりすると、バッテリーが上がり気味となる。若い頃によく経験したものだった。そして、ほかに手立てが思い浮かばないものだから、やたらにキックして掛かりそうな音となったら、これまた、やたらにフルスロットルを繰り返してしまう。
 これは、クルマでも同じことなのだが、バッテリーが弱ってエンジンがうまく起動しない時に、スロットルを開き続けたり、アクセルをふかし続けると、なおのこと上手いスパークが得られない。イグニッション(点火)・プラグのヘッドがガソリンで燻ったり、濡れた状態となり火花が飛ばなくなるからだ。こうなっては、いくらキック回数を重ねようが、アクセル・ペダルを踏もうが効き目はない。効き目がないにもかかわらず、バッテリーに負荷だけを与えることになれば、やがてバッテリー自体が完全に上がってしまい、手も上がるお手上げ状態に至るわけだ。

 バイクでもクルマでも、安い中古車にしか乗れなかった若い頃には、そんなことを何度も経験したものであった。結局、辿り着いた方法は、バッテリー・チャージャーを常備しておき、バッテリーに充電をすることと、もうひとつは、クルマでもバイクでもイグニッション・プラグのヘッドを掃除したり調整したりしてスパークしやすい状態にすることくらいであった。
 もちろん、クルマの類は、乗ったり乗らなかったりするのではなく、フル活用することや、半クラッチを多用せずメリハリの利いた運転をすることも重要である。それらが、イグニッション系機関を良好に保つ秘訣であることも知るに至った。

 こうした、バイクやクルマのイグニッション系機関のトラブルと工夫を重ねていた時、この事情は決してクルマだけに限らないのかもしれないぞ、人間の行動力に関しても同じ道理なのかもしれない、とそう思ったものだった。
 先ずバッテリーであるが、クルマにおける充電というエネルギーの蓄積は、エンジンの回転数を上げて走行しさえすればそれで達成されるのであり、ほかに何をする必要もないはずなのである。バッテリー・チャージャーなどを使う必要性なぞないはずなのである。 人間の行動力にしても、そのエネルギーは、全く底をついているのでは困るが、そうでないならば行動をすること自体が行動力を増強するものと考えられる。ひとつの行動が、充実感なり疑問なり思考なりを生み出し、それらが次の行動のスプリング・ボードというか、エネルギー自体になりそうだからである。
 ややもすれば、クルマのバッテリーにバッテリー・チャージャーを使うように、いつか始める行動に備えて、さまざまな情報を得ておくことが重要であるかのような思いに捕らわれることがある。それにも一理あることはあるが、順序は逆であるのかもしれない。始めた行動によって気掛かりとなった情報を確認するというのは抜群に意味があるものだが、行動を始める前に机上であれやこれやと空論的に弄ぶ情報というのは、ほとんど無意味でありそうだ。

 また、イグニッション・プラグの仕組みも、人間が行動を起こすことに対して実に示唆的でありそうだ。プラグのヘッドがカーボンでくすんでいたり、ガソリンで湿っていたりすれば、強力なスパークが生じないのと同じように、ヨシッ、というような人間の行動のスタートにも、スパーク(決断、閃き、勘=第六感……)が不可欠であるようだ。
 そして、こうしたスパークを適時得るためには、プラグのヘッドをクリーンにしておくように、感性を研ぎ澄ましておかなければイザという事に立ち向かえないようだ。
 しかも、このような感性の研ぎ澄ましという課題は、やはり机上の空論的訓練では奏効せず、行動の実践そのものによって効果的に達成されるようである。

 現在、いろいろな場面で、行動が「不完全燃焼」となり、またそれがいろいろな弊害を生み出してもいるような印象を受けている。中学生にまで広がっているという鬱状態というのも、行動の不完全燃焼や希薄化がある種の悪循環をもたらす結果のようにも思えてならない。
 考えてみれば、情報化時代の環境や、そのグローバリズム段階の特殊な環境は、人間の行動力を高める可能性を作り出しているとともに、現実にあっては逆に行動力を萎えさせてしまっているという逆説的現象を引き起こしてはいないだろうか。
 行動力の鍛錬のためには行動を起こすしかない、という一見トートロジー(同語反復)のようなメカニズムに眼を向け直すことも必要なのであろう…… (2007.05.28)


 「おカネを稼ぐ」ということと、「カネを掠め取る」ということのボーダーをあらしめるものは何なのだろうか。この点に関してまで、「ボーダーレス」な時代状況と成り果ててしまったのだろうか。
 よく、「一線を(踏み)越える」という表現を聞く。超えてはならない境界線が実質的に了解されていた時代の常識だったのであろう。いや、時代環境の問題に置き換え過ぎてもいけないだろう。どんな時代環境となろうと、善悪の境界線をしっかりと意識できる人もいるはずだからである。最終的には個人の良心の問題であるに違いない。
 しかし、風潮とか環境とか作用する影響力というものも度外視することはできない。また、風土というようなものも無視しがたいと思われる。

 「官製談合」事件のことなのである。ついに、「緑資源機構」の官製談合事件に関連してと推測される自殺者が、相次いで二人出てしまった。(松岡農水大臣の地元関係者の有力者が10日ほど前に自殺をしているのを含めると三人ということになる……)
 疑惑の事件の関係者が複数も自殺に至るという事態は、まるで松本清張の一連の疑獄関連小説を彷彿とさせないではおかない。
 とある都市の知事は、「死をもって決着をつけるのは、やっぱりサムライだったんだねぇ」と例によっての能天気な発言をしていたようだったが、ああやっぱりこの人は「おかしい」、と再認識したものである。
 何が「おかしい」といって、「官製談合」疑惑に絡むと推測される大臣の自殺を、なぜ社会的次元で冷静に判断できないのかという当然の違和感を持つからである。美化されたサムライの切腹なぞと関連づけるのはマンガチックでさえある。
 ついでに言えば、死者に鞭打つことを避けるという伝統的な観点からか、疑惑の政治家、しかも内閣閣僚の立場にある者の自殺という異変に対して、受けとめ方がちょいとブレているのではないかと思うのである。上記の知事だけでもなく、こうした傾向は一般的にもありそうな気がしている。
 そして、この辺の、雰囲気に流されがちなこの国の曖昧な気風というか風土が、いつまで経っても政治とカネの問題に鉄槌を打ち込めない大きな原因ではないかというような気がするのである。政治家たちは、そうした「甘い」気風や風土を食い物にしていると言える。

 政治とは、詰まるところ「カネの配分」の意思決定だと表現しても過言ではなかろうかと思う。時代が財政的に逼迫してきたからこの本質が良く見えるようにもなってきたようだが、何をどうするにも資金を要する経済における政治とは、やはり「カネの配分(予算!)」の意思決定以外ではなかろう。
 とするならば、その業務に関与する政治家たちが、「カネを掠め取る」(収賄)ことに手を染めたり、配下の者たち(業者ほか)がそれを犯すことに便宜をはかってどうするというのだ。正義感だのどうのという精神主義的な次元の問題ではなく、システムで言うならば完全なエラー要素以外の何ものでもない。
 よく、水商売の経営者が、「お店の女の子は商品なんで、あっしは絶対に手なんぞつけませんぜ」と言ったりするものだが、政治家たちがドサクサに紛れて「カネを掠め取る」というのは、水商売の経営者の足元にも及ばないということになろう。
 しかも、そのカネの出所は、詰まるところ国民からの税金なのである。国民各位が、身体を張って真っ当に「おカネを稼ぐ」日々の、その「上納金」ではないか。それを、「選挙資金」だともっともらしいことをほざいて「カネを掠め取る」とは言語道断である。
 国民も、「選挙資金」のためだからという口実に手を緩めてはいけないのだ。選挙にカネが掛かることを当然のように口走る政治家がいるわけだが、多大なコストを掛けなければ目標達成が果たせないような経営能力に乏しい者であるならば、財政逼迫時代の政治なんぞに向いていないからきっぱりと辞めた方がよかろう。

 政治家たちが腐っているならば、彼らを選出する国民自身もしっかりと襟を正さなければいけない。その中で最も戒めなければならない点は、地元なり何なりに対する「利益還元、誘導」なんぞを期待することである。この点は、地方財政が現在のように厳しい状況だと容易ではない課題であるに違いない。少しでも地元が有利となるような「利益誘導型」の政治活動を議員に期待したくもなるはずである。
 しかし、それは政治の課題というよりも地元経済自体の「おカネを稼ぐ」パワーの問題だと言うべきであろう。それを、国政のための「カネを掠め取る」ような形で期待してどうなるのか。そういう発想そのものが、政治家たちの悪心を助長させることになりはしないだろうか。

 残念ながら、「カネがすべて」という時代風潮がまかり通っているご時世である。そんな風潮の中にあっては、「おカネを稼ぐ」ということと、「カネを掠め取る」ということのボーダーが限りなくぼやけてくるのかもしれない。
 言うまでもなく、「カネを掠め取る」ということの代表例は、金品強奪強盗や振り込め詐欺などのような犯罪である。しかし、その最低な形態から、真っ当に「おカネを稼ぐ」という最高の形態までの間に連なるグラデュエーションは、どうもボーダレスの帯となっていそうな気配がする。
 真っ当に「おカネを稼ぐ」ということをしっかりと見据えつつ、かつそのことに誇りを持とうとしていないならば、現代人はどこまでもボーダレスな坂を転がり落ちて行くような雰囲気ではないか。「カネがすべて」という時代風潮は、こうしたコワーイ「インフラ整備」を着々と押し進めているかのようである…… (2007.05.29)


 中国の経済状況が気になるところだ。急激な変化の過程で、かなり粗雑な事象が目立つためである。
 今日も、次のような記事が目についた。

<「偽製薬会社」まで登場 ますます崩れる中国の信頼
 中国・上海市食品薬品監督管理局は30日までに、同市で合法企業として存在しない製薬会社3社が見つかり、偽薬を生産していると明らかにした。「偽製薬会社」の発覚で、偽の薬が幅広く横行する中国製医薬品の「安全」への信頼がますます崩れることになるのは確実だ。
 問題の3社は「上海雲都製薬」「上海美益生物製薬」「上海申澳生物製品」。河南、山東両省などから「3社の医薬品の品質は疑わしく、真偽を確認してほしい」と依頼があったのを契機に、上海市食品薬品監督管理局が調査を実施した。
 同局は「消費者の合法的権益を守り、偽薬の製造・販売を取り締まるため、関与した組織・個人を厳重に処罰する」と強調した。(時事)>( asahi.com 2007.05.30 )

 つい先日も、<中国から輸入された植物性たんぱく質を使ったペットフードを食べた犬や猫が死ぬ例が相次ぎ、樹脂などに使われるメラミンが添加されていたことが原因とされた>( asahi.com 2007.05.21 )とあったばかりだ。こうした<中国産の食品や薬品の原料から毒性物質が検出されている問題>(同上)は、米国で指摘され続けているが、どうもこうした実情の指摘は、中国経済を牽制する米国だから……、ということでもなさそうである。

 そして、今日、東京市場もこれにつられて下落相場になってしまった、上海株式市場で再度の株価大幅下落があった。

<中国株式市場、暫定ベースで上海総合指数が6.50%下落して終了
 上海総合株価指数は、前営業日終値比281.836ポイント(6.50%)安の4053.088。5月21日以来の安値となった。一時は、7.4%下落する場面もあった。
 前日は過去最高値で引けていた。前日までの年初来上昇率は62%。
 中国財政省は、相場の過熱を抑制するため、株式取引の印紙税率を現行の0.1%から0.3%に引き上げた。
 アナリストは、この措置について、短期的には相場の下落要因になる可能性があるものの、長期的な上昇トレンドを妨げることはないとみている。
 ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド(RBS)はリポートの中で、中国株式市場について「市場の強地合いはまだ消えていない」と指摘。中国当局は必要なら市場の暴落を防ぐ措置を講じるとの見方を示した。>( ロイター 2007.05.30 )

 今日の下落は、中国財政省が<相場の過熱を抑制するため、株式取引の印紙税率を現行の0.1%から0.3%に引き上げた>点に原因があるようだが、それにしても現在の中国株式市場は「不安定」であるし、それが確実に世界各地の市場に影響を及ぼす実情が、気にならないはずがない。「世界同時株安」という事態が世界経済を大きく混乱させるからである。ただでさえ「加熱気味」でこれまた「不安定」さを否定できない米国株式市場にも揺さぶりをかけてしまうことは容易に想像できる。
 ある人に言わせれば、現在の中国と米国の株価の「加熱気味」状態は、まるで子どもが積み木をどんどん積み上げて行き、「まだ大丈夫かな、まだ大丈夫かな」と遊んでいる様子に似ているそうである。いつ、ガラガラ、バシャーンとなっても不思議ではないそうなのである。そうなれば、まさにグローバルな金融危機が立ち上がってしまうのであろうか。

 こんな動きの中で、もうひとつの記事を引用しておく。

<中国経済、株式市場が急落しても影響は限定的=世銀
[北京 30日 ロイター] 世界銀行は30日、中国経済に関する四半期報告で、18カ月間に渡って上昇を続けてきた中国株式市場に急激な調整が入ったとしても、中国経済にとって大きな打撃とはならないとの見解を示した。
 世銀は「主な影響は、最近高まっていた中国資本市場に対する信頼感が損なわれることだろう。消費や投資の減少を通じた実体経済への影響は限定的なものにとどまりそうだ」との認識を示した。
 ただ、これによって特定のグループ、特に退職者や低所得者などの金融資産が大きく目減りすれば、政治的な問題に発展する可能性もある、と指摘した。
 上海総合株価指数は過去18カ月間で3倍以上に上昇している。世銀は、中国株式市場の急騰が続けば、センチメントの急激な変化に伴うリスクや、株価が急落するリスクが拡大する可能性がある、と警告した。
 実際、30日の中国株式市場は、政府が株式取引の印紙税率を0.3%に引き上げると決定したことを受けて急落した。>( ロイター 2007.05.30 )

 <世銀>は、<大きな打撃とはならない>と判断しているようだが、かといって「大丈夫だあ〜」と言っているとは読めない。<警告>を発していることに変わりはない。
 危機回避のための策も練られているのではあろうが、それにしても何が起こるかわからないと想定しておいた方が良さそうな気がする…… (2007.05.30)


 事務所の玄関を出入りするたびに、チュン、チュン、チュンとスズメの鳴声に気づく。以前にも書いた覚えがあるが、例によって、壁際の隙間に巣づくりをしているスズメたちの鳴声なのである。
 人が玄関から表に出ると、巣の近辺から離れて、隣の家の庇へと身を隠す。しかし、気になると見えて遠くへと逃げるわけではなく、程近いところですましている。人間を警戒しつつも、ひな鳥も心配だというジレンマがあるのだろう。まるで巣のある箇所と当のスズメとが見えない糸で繋がっているかのような印象でさえある。
 そんな印象も含めて、子育てに一生懸命である様子がひしひしと伝わってくるのだ。本能だと言ってしまえばそれまでのことであるが、その一生懸命さには微塵とも揺らぎがないかのようで、何か、自然が秘めた荘厳ささえ垣間見させる感じである。
 どうも、二羽ほどが飛び交っているようで、父鳥、母鳥というところなのかもしれない。野鳥たちにもいろいろとあって、母鳥だけが育児に専念するものから、その逆もあるようで、スズメの場合はどうなのかわからないが、両親でひな鳥たちの餌の世話をしているのかもしれない。

 スズメたちが、その巣に飛び込むところを未だ目撃できてはいない。何せ、彼らは精一杯に巣のある箇所を隠し通しているつもりだからである。だが、ひな鳥への餌を咥えてきていることはほぼ明白だと思われる。
 巣を作っている箇所は、よくもそんな適切な箇所を探したものだと感心するような場所である。壁と、鉄製階段取り付け部分の空隙であり、やっとスズメたちがすり抜けられる狭さである。もちろん、猫の頭はもちろんのこと、熊手のような手首さえ思うようには入らないかもしれない。カラスとてちょっかいを出すのは無理であろう。それゆえに、天敵からの守りという点では非の打ち所がないわけである。
 ところが、それだけかと言えばそうでもなさそうなのである。
 ふと、親スズメたちはどんな「野戦場」からひな鳥たちへの餌を収集してくるのだろうかと想像してみたことがある。すると、自分なんぞが考える前に、命懸けのスズメたちはすでにしっかりと計画を練っていたふしがあるのだ。
 事務所のすぐ隣には、民家のちょいと広い庭があり、そこには植木やら草花が植わっていて、当然、いわゆる虫たちも生息している様子なのである。それがひな鳥たちへの絶好の餌となることは言うまでもない。そのことに気がついて、なるほど、と思ったものであった。
 スズメたちは、餌の捕獲場所と巣づくりの箇所との距離を考えたふしがありそうなのである。「職住近接」条件というか、「恵まれた子育て環境」というか、スズメたちはスズメたちなりに事前に検討したかのようである。
 ちなみに、そうしてみると、あの玄関を出入りする人間たちは巣を取り払うような薄情者ではなさそうだという読みまでしていたのであろうか。そうだとしたならば、大した存在だということになる。

 野生の生き物たちは、人間がものを考えるようには考えたりするはずはなかろう。しかし、彼らの判断と行動は、多くは自然環境のはずだが、昨今では人工的環境をも含めてそれらを彼らなりに体得して、その環境における最適行動を模索しているのに違いない。
 そうした野生の生き物たちの能力と、人間のそれとを比較してみたって何も始まりはしないことはわかっている。また、人間の能力の方が優れていると胸を張ってみてもあまり意味があるようには思えない。
 むしろ、比較をするとすれば、両者がそれぞれこの世界に生き残って行くために、自分たちが備えた条件を精一杯駆使してどれだけ適切な判断と行動をしているのか、というその度合いであるのかもしれない。
 当然、スズメたちのような動物と人間たちとでは、保有している条件の質量に膨大な差がある。その差を考慮した上で、この世界での生き残りに対してどれだけ真摯に立ち向かっているかを比較するならば、人間本位の勝手な評価はできないような気もするわけである。
 少なくともスズメたちのような動物は、同類のジェノサイド(集団殺戮、皆殺し)をするわけがないし、また、自分たちを生かしてくれている自然環境や地球それ自体に対する破壊行為はしない。自分という生命の足元、足場を破壊するようなことは決してしない。たわいないことを言っているようでもあるが、むしろ、こうした歴然とした事実をたわいないと蔑みながら、人間には人間としての複雑で難しい問題があるのだと自己正当化してみて一体何が始まるというのだろう、とそう痛感するのである。

 だったらどうする? という話にならなければならないのだろうが、さてさてどうしたものか……。
 ただひとつ思うことは、現代人は、あまりにも近視眼となり過ぎてはいないかということだ。人類史という膨大な時間の流れに占める、ほんのわずかな時間帯でしかない現代という一頁だけに捕らわれ過ぎている、いや捕らわれざるを得ないような病的な環境を作り出しているということである。
 「今日」が意味を持つのは、「昨日」までの時間の流れがあり、また「明日」へと連なって行くからだと思われる。しかし、現代人には、「昨日」も「明日」もなさそうである。あるのは、繰り返される「今日」、境界なくチェーンとして繋ぎ合わされて行く24時間セットでしかないのかもしれない。
 今、ふと思ったが、もう「西暦」何年方式はやめて、「地球滅亡前」何年というカウントダウン方式に切り替えてはどうだろうか。表示は「BC」何年でよいかもしれない。ただし、「 Before Christ 」ではなく「 Before Crisis 」または「 Before Crash 」の意味となる…… (2007.05.31)