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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2007年11月の日誌 ‥‥‥‥

2007/11/01/ (木)  みんな "カリカリ" としているのかもしれない……
2007/11/02/ (金)   "ネット・オークション" に持ち込まれている "相互評価" の仕掛け……
2007/11/03/ (土)   "人件費" の掛からないPCという作業処理力を頼みにしたければ……
2007/11/04/ (日)  久々に体感するシステム作業の "気遣い" や "気疲れ" ……
2007/11/05/ (月)  「引越しソフト」の結果はまずまず……
2007/11/06/ (火)  これが、民主党 "再生" の節目やスプリング・ボードに……
2007/11/07/ (水)  オールドな存在の "現役復帰" ……
2007/11/08/ (木)  このご時世では、さしずめ「冷静は金」と言うべきか……
2007/11/09/ (金)  石橋も、叩き壊した上で渡らない方がいい時代?……
2007/11/10/ (土)   "せめて……"、"せめて……" の思いを繰り返す庶民 ……
2007/11/11/ (日)  再三、「吾唯足知」について考える……
2007/11/12/ (月)  国民負担の前に、 "官" の<無駄遣い>が正されるべき……
2007/11/13/ (火)   "小春日和" と ……
2007/11/14/ (水)   "猫に鈴" を付けるのは妙案かも……
2007/11/15/ (木)   "さわさわ" とか、 "からからーん" なんという乾いた音を立てている……
2007/11/16/ (金)  現代という時代における情報に対する "眼力" とは……
2007/11/17/ (土)  「上手に "ホンネ" を陽に晒せ!」……
2007/11/18/ (日)  今日は久々に手ごたえのある "労働" をしたもんだ……
2007/11/19/ (月)  映画 "ALWAYS 三丁目の夕日" と "昭和30年代" ……
2007/11/20/ (火)  「それを言っちゃぁおしまいよ」というセリフは意外と……
2007/11/21/ (水)  日本政府の "言霊信仰" 的な "フリーズ" は大きな誤り……
2007/11/22/ (木)  その惨さというものの因ってきたる点は "無関係な被害者" という点……
2007/11/23/ (金)  「老年とは結局のところ長く生きたことに対する罰に他ならない」……
2007/11/24/ (土)   "常識人、良識人" たちが悲惨な "絶滅種" とならぬように……
2007/11/25/ (日)  「心地よく、抵抗感なくするりと心に入ってくる広告的な、テレビ的な言葉」……
2007/11/26/ (月)   "王様は裸だ!" にあらず、 "現行の政治・行政は笊(ざる)だ!" ……
2007/11/27/ (火)  オーストラリアを羨望の目で見る……
2007/11/28/ (水)  そんな "アブナイ環境" を不用意に作ってはならない……
2007/11/29/ (木)  <派遣料金の公開を要請へ 厚労省、マージン明らかに> ……
2007/11/30/ (金)   "急かされたり、煽られたり" して生み出したものにろくなものはない……






 今のようなご時世だと、みんな "カリカリ" としているのかもしれない。自身を振り返っても、そんな想像は容易にできそうだ。
 金持ち喧嘩せず、と言われるが、現状はまったくその逆であろう。それぞれが、足元の経済的事情であくせくとさせられ、どっかりと将来の不安も背負わされているのかもしれない。その上、マス・メディアは、連日のように社会的不正や悲惨な犯罪事件を容赦なく報じる。庶民は、気持ちの休まる間がなく、荒む一方のようである。

 今日も、事務所の近辺のとある水商売の店でモメゴトが起こったようである。事務所の窓から見える飲み屋のようで、何があったのか警察まで出動していた。社員が知らせにきたので、ブラインダーの隙間から覗いてみると、その店の近辺は何やら過熱した雰囲気に包まれていた。
 どうも、営業中の出来事ではなく、店の二階で身内の者たちの集いの最中に争い事が起こってしまったようだ。喪服姿の何人かが店の前に出ていたところをみると、法事でもあったのかもしれない。

 他人事ながら余計な推測に及んでしまった。
 経済的事情が悪化させられてみなが "カリカリ" としているような昨今では、親戚同士の集まりとは言え、和気あいあいということにはならないのかもしれぬ。赤の他人ではないだけに、甘えであるとか、気兼ねであるとかの感情が支配し、逆に中途半端な人間関係をかもし出すのかもしれない。そして、ちょっとした言葉の行き違いが思わぬ修羅場を作ってしまうのだろうか。
 どんな業種でも、現在の零細経営は苦しい状況だと思われるが、とりわけ水商売はきついのではなかろうか。景気が良い時、さらに言えばバブルのような時期ならば、客側もカネ遣いには鷹揚であり、社用の接待費にからむおこぼれも少なくなかったはずである。過剰流動するカネが、小さな飲み屋にも気前良く流れ込んでいたのかもしれないわけだ。
 ところが今はまったく寂しい客入りなのであろう。しかも、現在では、クルマで飲み屋に通うのは厳しいご法度となって、恐らく客数は激減していると思われる。
 事務所の前の道路の両側には、結構、水商売の店が並んでいて、一頃はそんな店に夜な夜な訪れる客のクルマの縦列駐車がはた迷惑なものであった。それに、そうした者たちが当然のごとく酒酔い運転で帰宅するのであろうことを想像したらぞっとさせられたものであった。
 しかし、一頃からそうした光景がめっきりと減った。そして、そのスッキリとした光景は、いや応なく飲み屋の売上の激減をも想像させずにはおかない。
 店の経営者の心境としては、やり切れないものが充満していそうである。そうした重っ苦しい空気が、ちょっとした事が警察沙汰に発展してしまうという成り行きを助長してしまうのであろうか……。

 こんなことを書くのも、昨今、新聞の社会面をにぎわす庶民の事件が、どうもこうした経済的苦境に関係しているように思われるし、また人々の平常心がまるで "一触即発" 的なアブナイ状態となってもいそうな気配もするからなのである。
 何とか、庶民がささやかな希望の持てるような社会環境とはならないものであろうか。いや、そうした社会環境に "するんだ!" という意志を持つことが大前提であるに違いない…… (2007.11.01)


  "はまる" というほどでもないが、今 "ネット・オークション" をおもしろがってやっている。PC関連の周辺機器やパーツなどが手軽に見つけ出せるのが快適なのである。
 昨日も、仕事上で一部使わざるを得ないでいる古いNEC98シリーズのPCの、そのパーツを "ネット・オークション" で複数個を "落札" した。
 そうした "動く化石" とも言えるようなPCがトラブルと、担当者もやや血相を変えてしまうものだ。PCがどうこうというよりも、内部に格納されたデータを取り出せなくなる事態が厄介なのである。しかも、当時のPC98(ノート)は、外部とのインターフェイスは限られていて、フロッピードライブがメインの玄関口だと言える。そのFDDが急に不具合を起こしたため、担当技術者が困り果てていたのだ。

 幸い、予備で保管していた他のPC用のFDDを分解して何とかトラブルを解消させることができた。しかし、この突発的なトラブルは、今後も十分に起こり得ることを暗示しているように思われたのである。ここは、もし入手可能であれば、複数個のスペアを入手しておいた方が無難だろうと思わされたのであった。
 そこで、いま時、正規のルートでそんなパーツは入手不能であるため、これぞ "ネット・オークション" で探すべしと判断したのである。
 探す段取りはというと、先ずはその当該FDDの製品記号による検索を Google で行う。すると、そこそこヒットしたサイト紹介の中に、案の定 "オークション" のサイトが現れてきた。価格水準も手頃であったため、出品者の "希望価格" に沿う価格設定を行い、結局、3個の購入ができる手はずを整えたのであった。

 こうやって、いろいろと "お助け" いただくと、 "ネット・オークション" というものに俄然 "好感" を持ち始めることになってしまうものだ。また、ネット技術やDB技術を駆使した "オークション・システム" の仕組みがわかってくると、何重にも取引の "安全性" が図られているようにも見えてきて、これなら先ず先ず使えそうかな、と納得させられ始めたのである。
  "オークション・システム" の仕組みはさまざまに考え抜かれているかのようだが、中でも、 "評価" というおもしろい視点をうまく導入しているのにはやや感心した。
 要するに、詐欺的行為を目論む者を排除するために、この "オークション" を利用する者同士が相互に評価(=チェック)し合う仕組みなのである。
 ひとつの取引が、支払いと商品発送のすべてが完了する度に、落札者(買い手)は出品者(売り手)を、出品者は落札者を忌憚なく "評価" する、つまり取引相手の印象の良し悪しを品定めするのである。
 そして、これらの "評価" は、まるで "通信簿" を持って歩くかのように、この "オークション" の空間にあっては当人に付き纏い続けるのである。
 と言うのも、出品者にしても入札者にしてもそれぞれはハンドルネームのような "ID" を持つことになるのだが、この "ID" をクリックするとその人の過去の取り引きに関する相手方たちの "評価" の、そのリストがダラリと表示されてしまうのである。

 この仕組みの長所は二点あるかと思われる。
 ひとつは、これからその人と取り引きをしようかと思い悩み、この人は信用できる人なのだろうかという不安に対して絶好の判断材料を与えてくれるという点であろう。もし、過去の取り引き対応に厳しい評価が、たとえば、代金振込み後の対応が遅々として進まなかった、とかとなれば、ウームこの人との取り引きは止めておいた方がよさそうだな、などと思わせてしまうわけなのである。
 この "オークション" の空間に入ってみるとわかるのだが、ここには多くの "常連" さんたちが蠢いている。セミプロ的な出品者、もはやプロとなった出品者も少なくないのである。ということは、ここのエージェント(参加者)たちは、 "噂" を気にする存在であり、まして "通信簿" のような他者からの "評価" を尊重せざるを得ないハメになっているようなのである。さもないと、新規の取り引きにありつけなくなる恐れをなしとはしないからなのである。この、参加者たちの取り引き対応行動を牽制し、律する機能を果たすであろうという点が、二つ目の長所なのかと見なせよう。

 こうしたことを考えてみると、匿名性に基づくアナーキーな空間とさえ言われてきた "ネット空間" に、ひとつのおもしろい形での "ネット社会" が形成されつつあるのだろうか、というほの明るさが垣間見えるような気がしないでもないのである。
 そんなわけで、一方で実利を感じながら、他方で、興味津々の心境でこの空間の展開過程をもう少し覗いていこうかと思っている…… (2007.11.02)


 先週に引き続き、今日も朝から事務所に出ている。社員の一人も、ややスケジュールが詰まっているとのことで出社していた。
 自分はというと、この間、自分が使うPCの複数台をアップ・グレードしながら調整しているのだが、これが結構手間の掛かる作業となっていて早く終わらせたいとの一心で事務所に出て来ているわけだ。
 PCは、 "同時並行" 的に使ってこそ計(はか)が行く作業ができるというもの。作業執行者の数は、先ずは多い方が効率的であるのと同じである。
 ただ、 "同時並行" 作業というものは、結構難しいことである。人の組織でいうならば、「同時多発」の指示を出し、それぞれの指示が妥当に進捗するように監視するということになるが、これは決して易しいことではない。
 そうした指示を有効に出すことも大変であれば、作業者たちをしっかりと掌握しておかなければ効果は上がらないからだ。
 こうした、 "同時並行" 作業が得意でない者は、 "同時並行" の間口を広げずに、やはり自分ひとりでひとつづつの作業を自身で集中的にこなすことを時系列で重ねて行くほかはないということになる。

 PCという有能なツールも、人間の作業者との関係と同じであり、複数台を "同時並行" 的に使って効率を上げようとすれば、指示者側に相応の負荷が掛かってくるものだ。
 先ずはPCへの指示という作業処理開始の段取りをすることもひとつの負荷であるし、それらの進捗を監視してタイムリーに結果を刈り取り、それらを再び次の処理に繋げてやる段取りも気が抜けない管理作業となろう。
 また、もうひとつ腐心しておかなければならないことは、個々のPC環境が指示した作業に応えられるようなプログラム環境を設えておいたり、個々のPCたちが連携した作業処理ができるようにお膳立てしておくという前作業も必要だということだ。これらが欠落すると、その都度その都度に手当てをしなければならず、指示者側の注意力が撹乱され、望ましい結果をえることが難しくなろうというものだ。
 そんなことで、今、手当てをしているPCの複数台のメンテナンスというのも、今後の作業効率を期待するがゆえの前作業なのである。しかし、自分の手足となるような環境設定を施しておこうとすれば、それはそれで手間が掛かるものである。
 ただ、新しく投入するPCたちはいずれも処理速度が速いし、また、相互に連携プレーをするための通信環境(LAN)もスッキリしている上に転送速度も速いために、これらの点は大いに助かる。
 いや、こういう技術的メリットがある現状だけに、複数台のPCを駆使して作業効率を上げようという思いにさせられるのでもある。

 今回のこうしたPCメンテナンスではいろいろと再発見に値することに遭遇することになったが、今、こうしたメンテナンス作業を支援するソフトというものにも目を向けている。
 たとえば、『パソコン引越し』というアプリケーションがそれである。これは、市販ソフトなのであるが、その用途というのは、これまで使ってきたPCのプログラム環境を、性能の優れたOS搭載のPCにそっくりそのまま "引越し" させる、というものだそうなのである。
 PCが「引越し」しにくいのは、現在使用中のPCのさまざまなアプリケーション・プログラムの環境やら、ネット環境やらその他諸々の設定を、新しいPCのために繰り返し行わなければならないという手間と煩わしさに原因があるはずだろう。十分に実感できる話である。
 そこで、ちょうど現在そうしたニーズがあるため、馬鹿にならないソフト価格ではあったが試しに購入し、試みてみようとしているのである。さほどの問題が生じることなく、煩わしさが回避できるのであれば活用してゆこうかと思っている。

 それにしても、 "人件費" の掛からないPCという作業処理力を意のままに駆使してゆこうとすれば、それはそれで他からは見えないかたちで頭も使えば気苦労もしなければならないということである…… (2007.11.03)


 昨夜は調子に乗って深夜2時ごろまで事務所で作業を続けた。切りが良くなかったためだったが、あまり良い選択とは言えなかった。
 おかげで、昨夜の "寝付き" は極めて悪かったし、おまけに "夢見" も悪く、今朝は実に気分がよくなかった。もう若い頃のような無茶はできず、深夜まで緊張を続けていると自律神経などが撹乱されてしまうようなのである。
 愉快なことをしていての夜更かしでも体調を乱すことになりかねないため要注意であるのに、ハラハラするようなPC作業をしての夜更かしともなれば、身体によいわけがないはずである。

 久々に "不摂生" なことをして再確認することとなったが、PC関連の作業というものは "負荷" の大きい作業である。頭と気分に対する "負荷" が尋常ではない。特に、Windows やその OS 上でのシステムは、 "舞台裏" が隠された形でプログラムが進行し、そして不具合が発生したりするため、 "気遣い" や "気疲れ" がことのほか大きくなる。
 Windows やその OS 上でのシステムは、できるだけユーザに無用な情報を与えて混乱させまいと、 "舞台裏" での動きをアイコンやその他のグラフィック表示に置き換えてユーザと向かい合っている。それはそれで、卓見だとは思える。また、そうした姿勢の延長線上で、ドライバーなどのインストールに見られるように、作業の "自動化" 方式を積極的に取り入れている。これもまた便利ではある。

 だが、これらのメリットは、通常ケースの作業や、特に問題がなく順調に事が進んでいる際には有効であるが、ひとたびイレギュラーな状況に直面したり、その結果不具合が発生した際には、必ずしも有り難い方式だとは思えなくなる。まあ、そうしたイレギュラーなケースについて網羅して、その一つ一つに対しての木目細かい案内まで備えていれば問題はない。が、往々にして、イレギュラーなケースに関しては不親切であったりするから、無用なはずの "気遣い" や "気疲れ" という結果となるのである。
 たとえば、 "自動化" 方式で進められるインストール作業において、その進捗状況を表示するバーの動きがピタリと止まってしまったとする。何故それが止まってしまったのかに関するメッセージが何もなく、ただただ時間が過ぎてゆくとするならば、誰だって不安となるはずである。まして、その部分の作業を含む一連の作業の所要時間が一時間以上も掛かるとなれば、リトライすべきか待つべきかに悩むことは精神上極めてよくないはずではなかろうか。
 昨晩の作業は、こんな躓きが重なってまるで落ち目の賭博師が、今度こそは良い目を出してみせるとばかりに深みにはまり込んでゆく成り行きそのもののようであった。ムダにも見える繰り返しの時間ばかりが浪費され、その間、 "気遣い" や "気疲れ" のために気分が乱れるばかりであった。

 難易度に差こそあれ、システム関係の作業というものは、こうした "気遣い" や "気疲れ" が必然的に伴うものなのかもしれない。これは、ロジックの進展が、必ずしも "目に見える形" で掌握し切れないという、そんな作業上の性格に由来するものであるのかもしれない。
 また、ソフトウェアの作業がその限りであればまだしも、ハードウェアとの関わりを持つケースともなれば、システム機能の不具合の原因がどこにあるのかがさらに見出し難くなる。ハードウェアには、規格品ではあってもそれぞれの個体性に基づく差異が潜んでいたりするからである。
 しかも、ソフトウェア開発などのジョブでは、大体が厳しい時間的制約を伴う。いわゆる納期である。どんな仕事でも納期に責め立てられるということはある。ただ、ソフト開発の場合、 "目に見えない部分" をも制御し切ることを目指せば、どうしても一定時間の試行錯誤や十分なテストが必要となってくる。時間がいくらあっても足りないようなことも起こり得るわけだ。
 こうして、ソフト開発技術者たちは、深夜に及ぶ作業に追い込まれ、そして身体だけでなく神経にも大きな負荷が掛かってくることになるわけだ…… (2007.11.04)


 この土日両日の努力の甲斐あって、常用PCのメンテナンスが一応片付いた。
 その一部、これが最も難物であったのだが、いわゆる「引越し」作業も大半の決着をつけた。
 実は、「引越し」と言うよりも、「再」入れ替えと言うべきなのだろう。
 このPCは、以前から最も長く利用してきたPCなのであり、その分、OSの部分的更新やら何やらで、HDD内がかなり "入り乱れる" ような状況となっていた。HDDの調整である "デフラグ" を行っても、システム・ファイル類のバラツキは解消されず、どう見ても "入り乱れる" という印象が拭えない状態であった。それが原因かどうかはわからないが、頻繁にHDDトラブルが発生していた。
 だから、再度、OSをインストールし直す必要を感じ続けていたのだ。
 ただ、長く利用してきたということは、より多くのアプリケーションソフトがインストールされているという結果になってもいるのだ。OSの再インストール自体はどうということはないにしても、多くのアプリケーションソフトを一々再インストールするというのが面倒だったのである。しかも、それに伴ってさまざまな "設定" もし直さなければならないのも煩わしいと思えた。

 そこで、「引越しソフト」というアプリケーションソフトに目をつけたのだった。このソフトは、AというPCの現状環境を、OSを除いてBというPCにそのまま「引っ越す」というものだったのである。
 たとえば、AというPCがWindows2000というOSで利用され、さまざまなアプリケーションソフトが動かされていたとする。しかし、より高性能なPC=Bを購入し、そこではWindowsXPというOSがインストールされていたとする。
 ユーザは、できることなら従来利用してきたAというPCのアプリケーション環境がそのままBという新たなPCに再現できればありがたいと思うはずだろう。そこに着眼したのが、当該の「引越しソフト」だといえる。

 自分の場合は、このレギュラーケースとはやや異なっていた。AというPCから、OSを再インストールしてスッキリとさせたA'というPCに、OS以外のアプリケーション環境を再現しようということだったのである。言ってみれば、「引越し」というよりも、床やら壁やら家のあちこちが傷んでしまったので、それらを "リフォーム" してから後、従来の家具類をそっくりそのまま設置し直そうという目論見だったのである。
 この事のメリットは、HDD内がスッキリすることで、PC処理の安定化が図れるとともに、処理速度が改善されるだろうという二点だったのである。まあそれ以外に、面白い着眼点でリリースされたこの「引越しソフト」というアプリケーションソフトを "品定め" してみようという動機もなかったわけではない。
 そして、このソフトを活用させてもらった結果はと言えば、概ね良好であった。思いのほか所要時間が長かったことと、はじめて試みることになったため余計な不安が避けられなかった点などが気にはなった。また、若干の調整作業が積み残されたものの、ほぼ自分が望んでいたイメージ通りの結果が得られたため、まずまずの評価をしているところなのである…… (2007.11.05)


  "小沢ショック" とやらが各界を揺さぶっているようだ。
 驚かなかったと言えばうそになるが、よくよく振り返れば、 "彼らしい" 個人プレーのアクションだと思える。
 リアル・ポリティックスの観点から言えば、どんなスタイルであろうと有効な結果が導き出せればそれはそれで評価していいのかもしれない。 "政権奪取" のためには、 "虎穴に入らずんば虎子を得ず" のたとえを地で行かねばならない、とするかのような手法もわからないわけではない。しかし、 "失敗" した。 "リアル" なものを目指したのであろう小沢アクションは、 "リアル" な壁にぶつかって、退けられた。
 先ずはこの "リアル" な結果を踏みしめる以外に何も生まれないと思われる。だからこそ、小沢氏自身も "けじめ" をつけたのであろう。

 ところが、民主党執行部は小沢代表の "慰留" を続けている。はい、そうですか、と言ってすかさず "新代表" 選出に入るのも憚られるのはわかる。相応の人物のリタイアには、それなりの "花道" がなくてはならないであろう。
 また、小沢氏のような "リアル" な政治家は、今回の挙動のように想定外の選択もあり得るのだから、同種の選択を警戒する穏やかな対応も必要なのかもしれない。
 しかし、 "覆水、盆に返らず" のたとえもある。リアル・ポリティックスの失敗もさることながら、土台、こうしたアクションは国民からの理解が得難いものであり、大半の国民が、小沢氏自身に継続させてきたかもしれない打ち消し難い疑念の裏打ちを与えられてしまった以上、元の鞘に収まるという筋立てはあり得ないだろう。

 ここまで来た以上、状況を "リアル" に受けとめるとともに、 "リアル" な現状に潜むポジティブな "可能性" に対して必死に目を向けるべきだ。場合によっては、この現状を、民主党 "再生" の節目やスプリング・ボードとするくらいの活力があって欲しいものである。
 民主党に対する国民の好感度は決して良いものに成り切っていないというのが大方の見方ではないかと思える。不満な点や、あるいは不信感さえ沸々とさせていると言っていいのかもしれない。
 それらの中には、小沢氏自身の口からも出たように、党としての力量が今ひとつだという点もあろう。しかし、それは立場や経験や時間が形成してゆくのだから、今は無い物ねだりをしてもしょうがなかろう。
 しかし、もっと気になって然るべき点は、与党・自民党と何がどう異なり、国民を愚弄し続けてきた自民党のあり方の何を取り除こうとしているのか、それが必ずしも明瞭ではないという点ではなかろうか。見方によれば、 "ツイン・タワー" でしかないとさえ見えもする。
 しかも、小沢氏をはじめ鳩山氏、岡田氏にしても現在の党幹部たちは自民党出身者が少なくない。古巣を引きずっていると見なされてもいたしかたない経緯を持っている。
 まして、小沢氏の場合は、自民党田中派の秘蔵っ子でもあったし、その点が "敵" の裏舞台を知り尽くしているという売り物にもなっていたようだ。今回の個人プレーアクションにしても、まさにそうした経緯に負うところ大だと言えそうな気配を感じる。

 思うに、民主党は速やかに "新代表" 選出と態勢の立て直しに向かうべきかと思われる。そして、新体制の要となるものは、正真正銘の "反自民" であり、もうひとつは、これまた、真に "国民と共に歩む" という点ではなかろうか。
 今回の小沢氏のアクションは、図らずもこの二つの国民の願望に "冷や水" を浴びせかけたというふうに見えるのである。ああ、やはり "反自民" はポーズでしかなかったのか、という印象を与えた点と、参院選で示した国民の意向から浮き上がっての個人プレーアクションを敢行し、いわば "頭越し折衝" に及んだ点がそれである。
 後者の点に関して言えば、民主主義なのだから民意を尊重ということになるわけだが、 "国民と共に歩む" という面には、国民自身が "政治的にも成長する" という重要な局面が含まれているはずだと思われる。この点が、結果が良ければその手法やプロセスの如何はあがなわれるとするかのようなリアル・ポリティックスにありがちな発想の問題点を照らし出していそうである。

 一両日中に、小沢代表の "進退" 問題に決着がつけられる模様だそうだが、これが民主党自体の "再生" にとって良いチャンスとなるようであってほしいものだ…… (2007.11.06)


 自分だけでもなさそうだが、何かをし始めると調子づくというのか、その類のことを徹底的に継続し続ける、というようなことがありそうだ。
 たとえば、日頃毛嫌いしていた掃除を始めると、当初の想定範囲はやり終えてもさらに手を広げて周囲をくまなく掃除してしまう、というようなことである。ついでに、という心境なのであろうか、勢いに乗ってという流れなのであろうか "テッテーテキに" やり始めたりするということなのである。

 同じようなことをしている自分にふと気づくことになった。
 この間、必要に迫られて使用中のPCのメンテナンスを行ってきた。そして、これらはとりあえず当初の目的をすべて達成することができた。で、ここでメンテナンス作業は打ち止めとなるはずであったが、ここで "テッテーテキに" という衝動が働いてしまったのである。
 これまで、いずれそのうちにやろうとして放置してきた愛着の残る古いPCを、この際 "現役復帰" させてしまおう、と考えてしまったのである。もちろん、眠らせた状態で放置してきたものをただ単に "アクティブ" にしようという物好きな動機ではなかった。相応の "稼動目的" が念頭にはあった。
 ちなみに、これらのPCはかつて "自作" したものであり、CPUこそ時代遅れとはなってしまったものの、使い勝手のよいタワー型PCなのである。しかも、最も愛着が残る部分というのは、HDDが "リムーバブル" で活用できる点である。これは知る人ぞ知る点なのであるが、活用用途はかなりあるのだ。
 その一つは、HDDを丸ごとコピーする、つまり "ドライブ・コピー" する際に便利なのである。自分なぞは、この働きを利用して使用中のOSシステムからデータドライブまでを "バックアップ" してきた。そのお陰で、避けて避け切れないPCトラブルに遭遇しても、血相を変えるところまでは行かないで済んできたわけなのである。
 ということで、 "現役復帰" させたPCは、この "ドライブ・コピー" 専用機として一役買ってもらおうかと思った次第なのである。

 こうした、しばらく眠らせてしまっていたPCを "現役復帰" させるような作業をしていると、何だか、それとのアナロジーで、とあることを思い浮かべたりしたのである。
 それは、停年退職をして職場から離れた高齢者の "現役復帰" という文脈なのである。おそらく、この事柄は、当該者たちだけの関心事ではなく、 "少子高齢化" がますます深まっていくこの国の今後にとっては、社会的にも重要な関心事となってゆくのではなかろうか。
  "少子高齢化" に伴う生産人口の減少を念頭に置く時、抜本的には海外からの "労働力迎え入れ" という選択をせざるを得なくなるだろうとともに、高齢者の職場復帰という可能性をも真剣に検討すべきなのだろうと考える。
 昨日も、とあるTV番組を観ていてそう思ったものだった。それは、食料問題の一角の問題で、 "リサイクル・フーズ" に関するものであった。コンビニなどのショップその他で売れ残った食品関係物資を、そのまま廃棄するのではなく、 "仕分け・分別" と "再処理・再加工" を施して、家畜の飼料にするというものだったのである。
 そして、そうした課題を担う企業も登場してきているようで、そのプロセスが紹介されていたのだ。その中の "分別" のプロセスは、人手作業となっており、そのラインには、見るからに "高齢従業員" たちが動員されていたのである。なるほどなあ、と思わされたものであった。言ってみれば "ゴミ" 扱いとなった "売れ残り食品" が、次々とベルトコンベアに乗って流れてくるのだが、従業員たちはそれらをビニールの手袋着用で仕分けするのである。

 自分はそれを見ていて、こうした作業、仕事は、若い世代の者たちは喜んで選ぶことはないかもしれないなあ、やはり、円熟した高齢の方々ならではの仕事かもしれないなあ、と感じたのであった。
 別に、高齢者の人たちは若い者たちが嫌がる仕事をやるべし、と主張したいわけではない。もちろん、専門的経験を積んできた高齢者には相応の仕事が当然あって然るべきである。ただ、血気盛んな若い世代の者たちには向かない仕事というものも結構ありそうな気がするのである。上記のような根気のいる人手作業もそうであるし、コンピュータ領域でも、汎用機システム(レガシー・システム)のメンテナンス作業などは、かなり "地味" な作業であり、若い世代よりも行動が安定した高齢者たちの方が適任なのかもしれないと感じている。

 今日は、一世代前のPCを "現役復帰" させるそんな作業をしながら、頭の中ではそんな "人材" 問題について考えていたのだった…… (2007.11.07)


 今のご時世では、誰もがうかうかとしていられない状況のようだ。騙したり、そそのかしたりする輩たちが目白押しで跋扈しているかのようだからだ。
 相変わらずネット環境では、そうした連中が、 "闇" から執拗にワナを仕掛けているようだ。今日も、以下のような報道があった。

<「ウイルス感染した」警告表示、駆除ソフト詐欺にご用心
 「あなたのパソコンはウイルスに感染している」と警告され、慌てて個人情報の漏洩(ろうえい)を防ぐセキュリティーソフトを取り込み、クレジット代金やカード番号をだまし取られるなどの被害が相次いでいる。経済産業省所管の独立行政法人「情報処理推進機構」(IPA)は「警告に惑わされず無視すべき。購入する場合もソフトメーカーの確認を」と注意を促している。>( NIKKEI 2007.11.08)

 これは、とりわけ "新手" の詐欺手口というわけでもなさそうだが、よくもまあ "ラクして稼ごう" とする連中が跡を絶たないものだと痛感させられる。
 しかし、もちろんこうした悪辣な仕掛けを弄する "下手人" たちが悪いのに決まっているわけだが、今ひとつ目を向けておきたい側面がある。
  "騙す者" がいるのは、結局、 "騙される者" もいるということであり、いわば両面的な事柄と言うべきだろう。あえて、 "騙される者" が "迂闊" なのだと言いたくはない。誰だって "迂闊" な心境に陥ることが往々にしてあるからだ。
 ただ、 "騙される者" が跡を絶たないような、そんな風潮というか、時代的な雰囲気もありそうな気がするのである。いや、"匿名性" が蔓延するような情報化時代の難しい問題を言おうとしているのではない。もっと常識的な問題なのである。

 それは何かというと、現在の時代環境がさまざまな点で "不安定" であり、結局それが人々の気分を "不安" にさせている、ということなのである。逆に言えば、 "平常心" から "平静さ" を奪い、何事に対しても過剰反応に出てしまうような、そんな "不安" 状態にさせているのではないかと推察するのである。
 人は決して元々馬鹿でもなければ、注意力が足りない存在でもないはずだ。ただ、ある条件が揃ってしまうと、容易にそういう状態に陥ってしまうという傾向はありそうである。つまり、 "慌ててしまう" ような心境となると、馬鹿にもなるし、不注意にもなってしまうわけだ。
 だから、 "騙す者" たちの常套手段は、とにかく "相手" を "慌てさせ" たり、 "不安" がらせたりすることを "地ならし" としてやるのであろう。
 こうした観点で現在のご時世を振り返ってみると、社会不安とも言えるような、人々がみな何がしかの "不安" な心境となっているような状況というものは、 "騙す者" たちによる "地ならし" 作業がなくても、十分に "騙される" ことの "スタンバイOK" 状態が出来上がってしまう状況を用意していそうな感じがするのである。いわば、 "騙す者" たちの天国、 "騙し" に関する "売り手市場" だとでも言えるのかもしれない。

 今日、こんなことを書くのは、ありふれたネット上の犯罪がどうのこうのではなく、とある別の事柄に関心が向いているからなのである。
 それは、 "あのしたたかな政治家" が、どうして "とあるフィクサー(W&M)の巧みな仕掛け" にまんまと乗ってしまったのか……、というような "時事問題" のことなのである。
 この "時事問題" をこうした視点で捉えることが妥当かどうかの疑問がないわけでもない。ただ、もしこの視点を採用したならばであるが、 "あのしたたかな政治家" でさえ、ある種の心境( "不安" や "焦り" etc.)が整ってしまうと、 "騙し" に近い仕掛けに引き摺られることがあり得る、と……。
 時代の空気が、限りなく "不安" 色に染まる時、一方で "騙す者" たちが大手を振って跋扈するとともに、他方では想定外の事態も "いきなり" 発生してしまうのかもしれない。
 「沈黙は金」ということわざがあるが、このご時世では、さしずめ「冷静は金」と言うべきなのかもしれない…… (2007.11.08)


 アプリケーション・ソフトの "海賊版" とか、違法コピーとかは言うまでもなく問題である。 "知的結晶" としてのソフトがその価値の保護なく扱われては、多大な努力とコストを掛けてのソフト開発が低迷することにもなりかねない。ソフト開発会社としての自分たちの立場を考えても、そうした "権利侵害" の行為は許せない。
 ただ、この視点の反対側に位置する事柄にもいささか気分を損ねている。
 ここであえて固有名称を出すことは控えておくが、今日は若干気分を害してしまった。便利で手頃な価格だと評価して購入したあるアプリケーション・ソフトのことなのである。
 現在のアプリケーション・ソフトは、その "版権" を守るべく、購入と使用に当たっては、インターネットを通じた "認証" というチェックを採用するものが増えてきた。最も知られている "認証" チェックは、Microsoft のOSに関してのそれであるだろう。その "認証" が無くてはそのソフトが利用できないわけだから、 "認証" チェックはソフト・ベンダーの権利を守る有力な方法であるに違いない。
 ただ、上記の最新OSにしても、結構な価格水準だと言わなければならない。最近では、通販制度を活用して販売するPCメーカーが、廉価PCを提供しているが、価格比率でいうとPC本体であるハードと、そこに搭載されるOSとがほとんど拮抗するほどの比重になりつつあるようだ。OSだけで2〜3万円という実情は、実感としてはやはり高額であるような気分が拭えない。
 しかし、OSというソフトは、 "複数回" 使うというか、PCを活用する上で常時使うものであるわけだから、まあ、しょうがないか、という気分ともなる。
 しかし、たった一回だけしか使わせない、というようなスタイルで "認証" チェックを行っているアプリケーション・ソフトがあったので、やや驚いたのであった。

 自分は、そのソフトが、通常のアプリケーション・ソフトと同様に、 "何度でも、複数回使用できる" ものとばかり思い込んでいたのである。だから、ちょいと試しにも類する使用をしたりもした。ところが、今日、そのソフトを再び使おうとしたところ、またまた "認証" チェックを促されたのである。
 もちろん、前回そのソフトを使用した際、 "購入者・所有者" としての "認証" 登録を済ませたので、あれっ?おかしいぞ、と感じたのである。まさか、このソフトが "使用一回" だけのために "認証" チェックをさせて、再度使いたい場合には、新規に "ライセンス" 購入をしなければならないなんぞとは想像もしていなかったのである。
 ところが、事実はそのとおりなのであった。 "認証" チェックによって、一回の使用料(使用ライセンス)が、3000円と定められていたのであった。
 まあ、その価格設定が高いか妥当かは価値判断によるためおくとして、自分は何か腑に落ちない心境となってしまった。自分が "誤解" したのは無理からぬ気がしてならなかったのである。
 と言うのも、そうした仕組みのメッセージ記載が、決して明瞭なものではなかったからなのである。そのメッセージの記載箇所に気づかされたのは、クレームを言うべく、ベンダーに電話をして担当者から知らされた時なのであった。
 ちなみに、それは、パッケージの箱の側面ではなく、天井部分に極めて "小さい印字" で「※1プロダクトキーにつき一回……」と記載されていた。少なくとも、そのパッケージに記載された活字のうちで最も "小さい印字" であることは間違いない。しかしどうだろうか、こうした契約にかかわる基本的なメッセージについては、パッケージ箱の正面なり、裏面の価格表示の付近に記載されて然るべきなのではなかろうか。

 大した金額の話ではないのだが、自分はそれにしても大いに気分を害してしまったのであった。反省点としては、もっとくまなく事前確認をすべきだったということであろう。盲点は、従来どおりのアプリケーション・ソフト一般を念頭に置き、独自な "認証" チェック方式が設定してあるとは推測しなかった点であったかもしれない。
 自分はやや不機嫌となり、ふと、落語のネタを思い起こしたものであった。
 破格に安い旅籠(はたご)に飛びついてしまった男が、部屋に上げられると、宿の者が言うのである。
「お客さん、夕食はどうなさいますか?」
「おお、安いんだから何でもいいんだよ、贅沢なんぞはいいませんよ」
「いえ、そうじゃないんです。召し上がるのでしたら、別料金が加わるのですが」
「えっ、ああ、そういうことね。やっぱり無くては困りますよ」
「わかりました。それから、お風呂はどうなさいます?」
「まあ、一休みしてからゆっくり入りますよ」
「いえ、そうじゃないんです。これも別料金となっておりますので……」
「ありゃー、そ、そうなんですか。でもやっぱりお風呂には入りたいよね」
「かしこ参りました。ついででございますが、お布団はどうなさいますか?」
「ええーっ、布団も別料金になってるの?」
「いえ、そうじゃないんです。敷布団、敷布、掛け布団、枕などが全部別料金のご注文となっておりまして……」
「うひゃー、まあ、こうなったらしょうがない、みんな付けてやってくださいな……」

 確か、昨日、今のご時世はうかうかとはしていられない、というようなことを書いたような気がする。その直後にこんなことを書くはめになるとは、やはり、石橋も、叩き壊した上で渡らない方がいい時代になってしまったものなのか…… (2007.11.09)


 体調が悪くないというだけで "めっけもの" だと思うべきなのかもしれない。体調がまずまずなので、気力も損なわれてはいない。休日の今日も、事務所に出てあれこれと作業をしている。だが、周囲を見回すと、元気を煽ってくれるようなこれといって良いものが見当たらないのが実情か。
 天候も良くない。まるで冬のように寒い上に雨天ときている。もう冬至の日も過ぎたのだから寒くなったとしても文句は言えなかろう。家を出る際にも二匹のうち猫たちが、この寒さで心細そうな、うろたえるような素振りをしていた。とりわけ寒がりな一匹の方は、ちょいとの間、暖を取ろうかとつけてみた簡易型ガスストーブを目ざとく見つけて寄って来たりした。間もなく消してしまうと、実に恨めしそうな様子をしたりする。

 天候も良くない、と書いたのは、もっと良くないものがあるからだ。景気である。
 やはり、あの "サブプライム・ローン焦付き問題" は、世界経済、とくに米国経済に深刻な影響を及ぼしている。日本の東証株価もこのところ下げ続けているが、米国ダウ平均の状況はやや悲惨な雰囲気を漂わせているかのようだ。昨日も200ドルを越す幅の下げであり、次から次へと公表される当該問題での損失の情報が、市場全体を冷却させているようだ。すでに、 "FRB" による金利引き下げの手当ても済ませているだけに、回復が芳しくないのは困ったことであろう。そんなことから、米国経済は急速に "減速" 傾向を辿ろうとしているのだと観る者たちも増えていそうである。
 この米国の経済状況は、世界各国にマイナスの影響を引き起こしているようだが、直接的にはドル相場の下落が各国の通貨相場を引き上げて、各国の経済に深刻な影響も与えはじめている。
 日本の円も、ドル売り・円買いによって急速に高値となり、 "110円台" という水準になっている。この "円高" が続いてしまうと、国内の輸出企業はかなりの "貿易差損" を出すことになるに違いない。こうした事態が、決して安定し切っているとは言えない国内景気状況に冷や水を浴びせることにならなければいいが、と懸念する。

 いずれにしたところで、米国経済の "減速" 傾向が顕著となりはじめ、またそれに付随したマネーの動きによる "原油価格の高騰" という悪材料まで波及しているのが現況なのであろう。ここしばらくの国内外の景気状況が悪化するであろうことはジワジワと見えてきているのではなかろうか。
 そんな中で、企業経営者たちも生活者たちも、あっと言う間に "年の瀬" を視野に入れはじめる季節を迎えようとしている。そして、 "せめて" 年が越せるようでありたいとか、 "せめて" 皆が健康でいられるようにとか、 "せめて" うららかな晩秋、陽射しが暖かい過ごしやすい冬であって欲しいものだとかと思ったりしているのだろう。
 こんな時代環境の中の庶民は、決して高望みなんぞはしない。 "せめて……" という慎ましやかな思い、願いを心に思い浮かべ、それを何度となく繰り返しているのかもしれない…… (2007.11.10)


 「吾唯足知」(われただ足るを知る。竜安寺の「つくばい」で知られる禅の言葉)という言葉が、ふと浮かんできたりした。いや、この言葉には以前から関心を示してきたわけだが、それは実のところ、現代人にとってはほとんど不可能だと思えるほどの難問、難課題ではなかろうかと思うからなのである。
 そう思う根拠は差し当たって二つある。
 一つは、現代という時代が、「足らないことを知る、知らせる」原理を根底に置いた、そんな経済文化によって成り立っていることである。情報化時代という現代が、情報量を最も多く発しているのは言うまでもなく "商品" 関連情報としてであることは間違いなかろう。そしてその情報群はまさに、潜在的消費者の頭や心の中に「足らないこと」を呼び覚まし、当該の "商品" への "欲求" を喚起させることを任務としているはずであろう。
 だから、情報化時代の時代環境とは、貴重な情報、ありがたい情報を伝播させるというような奇麗事ばかりではないのではなかろうか。極論するならば、情報の受け手たちが何らかの意味合い、水準で、 "欲求不満状態" となることを仕掛けているとさえ思われる。
 もちろん、まともな水準で、その "商品" への "欲求" を喚起させられ、そのの "商品" を購入することで欲求充足に至るというノーマルな循環もあるだろう。だが、要するに、そのの "商品" への "欲求" が刺激されて「足らないこと」を自覚させられることに変わりはない。結局、コマーシャリズムとは、「吾唯不足知」(われただ足らざるを知る)という事態を発生させることを目的にしているかのようである。

 「吾唯足知」が現代人にとって難課題である二つ目の根拠は、「足る、足らない」という自覚のありようが、モノに対してだけではなく、 "非物質的" な領域、内面的・精神的な領域にまで深く食い込んで、どちらかと言えば、モノへの "不足感" よりも、 "内面的・精神的な不足感、飢餓感"の方が比重を増してさえいそうな気配がありそうなことである。
 例を出した方がわかりやすいかと思われる。「足るを知る」という中身には、自身の心のありようが "自足" して "平静" であることも含まれるかと思えるが、通常の人間はとかく他者との関係や他者との比較によって "心乱す" 状態に引き込まれやすいものだろう。なぜ自分だけがという心境となったり、 "嫉妬心" が刺激されたとか、 "自尊心" が傷つけられたとか……、である。
 考えてみると、これらの心理的現象は、簡単に言えば "他人は他人、自分は自分" というようないわば自律的な観点、そんな観点が損なわれている場合に起こりがちだと思われるが、そればかりでもなさそうである。さほど知る必要もない他者や世間の情報が、まさに週刊誌的視点で興味本位に縷々披露され、衆目を集めているのが、現在の情報化時代の一面の現実でもある。そして、こうした興味本位の情報がおとなしく "暇つぶし" 役を果たしているだけならばともかく、結局は人々の "平静" な心境を揺るがし、どこか "自足" し切れない心境へと追い込んでいるようでもある。
 世の中には、 "知らぬが仏" という場合も当然あると思われるが、現代の歪んだ情報化時代の環境では、 "知れば地獄" と言ってよさそうな馬鹿げたことも起こっているかに見える。

 確かに、「吾唯足知」の方針だけではさまざまな意味合いでの "発展性" というものが促進されない嫌いがあろうか。特に科学の発展、社会経済の発展は、 "自足" といういわば "閉じた円環" を打ち開いてこそ飛躍できるものなのかもしれない。
 しかし、人間は一方で無限に発展してゆく "類" としての側面を持つとともに、一過的に閉じて終える "個人" としての側面をも抱えた、まさしく矛盾の存在であろう。そして、個人としては「吾唯足知」の心境こそが至福の境地であるのだろう。これを裏返せば、現代という時代は、人々に "エンドレスな飢餓心境" を運び込んで止まない時代だとも言えそうである…… (2007.11.11)


 民間企業は競争激化の中でどこでも "コスト削減" でひいひい泣いている。一般庶民は一般庶民で、目減りしてゆく所得と税をはじめとして拡大の一途を辿る公的負担のために苦しい思いが強いられている。
 まるで、社会全体が "緊縮財政" に向かっているかのようだ。また、そう感じさせるように、国家財政や地方財政は逼迫しているとの "喧伝" も行き届いていそうである。その結果、庶民は、皆が皆そういうことならばしょうがないか、と従順に協力的な姿勢になろうともしている。

 しかし、ホントにそうなのか? と、出発点に戻って疑ってかかってもいいのかもしれない。つまり、 "緊縮財政" が避けられないほどに "財政逼迫" があると叫ばれ、それを補うためにはさらなる "国民負担の増加" が不可欠だと言うのだが、一見もっともらしく響くこの主張は間違いないのだろうか。 "官" が言うのだから正しいはずだなんぞと決めて掛かっては危ない。むしろ、このご時世では "官" が言うのだから、 "手前味噌" であろう、とか、 "どうも怪しい" と思った方が妥当であるのやもしれぬ。

 というのも、 "官" 自体が、こんな時期に性懲りもなく<国費310億円、無駄遣い>という暴挙をしてくれているからである。腹の虫がおさまらないので、忘れないように、あえて全文を引用しておくことにする。

<国費310億円、無駄遣い 会計検査院指摘
 会計検査院は9日、国費の無駄遣いを調査した06年度の決算検査報告を福田首相に提出した。工事費の過大な支払いや税金の徴収漏れなどの指摘は451件で、総額は310億円に上った。遠藤武彦・前農林水産相の辞任につながった置賜(おきたま)農業共済組合(山形県米沢市)による75万円の補助金不正受給も記載された。
 国土交通省関連では、「ライフサイクルコスト」という比較的新しい概念を用いた。初期負担より将来的なコストに目を向ける考え方で、東、中、西日本高速道路が手がける214の鋼橋の塗装について検査した。耐用年数20年の塗料と同30年の割高な塗料を比べ、当初は費用がかかっても、耐用年数30年の塗料を使うべきだと指摘。40年後、44億円のコスト削減につながると結論付けた。
 また、全国のトンネル工事も調査。終点の用地取得が可能と見込んで着工したものの、用地交渉に失敗し、工事を中止した事業が北海道や新潟、長崎で計四つあり、総額90億円の国費がつぎ込まれたと批判した。
 農水省関連では、事業着手前に投資効率を計算する評価方法の実態を調べた。24道県の農道整備事業534件、区画整理事業1076件を調査し、農道で25件、区画整理で155件、不適切な算定や計画があったと指摘した。
 例えば、完成すれば経済効果が1.32倍になるとして着工した千葉県の農道整備事業は、実際には1.02倍だった。水田を乾田化し、トマトを作れば年間1700万円の増収が見込まれるとして始めた石川県の区画整理事業は、今も米や大豆を作っており、増収は560万円にとどまっていた。
    ◇
〈会計検査院が指摘した主な事例〉
【内閣・衆議院】内閣衛星情報センターが民間委託した施設警備業務で、休憩時間を含めて勤務単価を積算していたため、警備費1億1611万円を払いすぎていた。同様に、衆議院でも議員会館の警備費6966万円を警備会社に払いすぎていた。
【最高裁判所】裁判員制度のPRのために05、06年度、俳優を起用して映画を制作し、全国の裁判所や自治体にDVDやビデオを配布した。貸し出し用に35ミリフィルムも3本(1714万円)用意したが、今年7月の調査段階で、最高裁庁舎内の試写会で1度利用されただけだった。
【外務省】海外で生活が困窮した日本人に、在外公館が貸し出した帰国費のうち、06年度末の段階で641件、1億7447万円が納付期限を過ぎても返済されていない。50〜70年代、海外移住を図って行き詰まった人が多く、「生活基盤ができるまでは」と外務省も積極的に督促してこなかった。
【厚生労働省】所管の独立行政法人「高齢・障害者雇用支援機構」は各都道府県の関係団体に業務の一部を委託してきたが、99年度から06年度、東京や千葉などの18団体で裏金作りや旅費の過大支出など不正経理があり、約1億円が過大に支払われていた。>( asahi.com 2007/11/12 )

 聞くところによれば、このデータは、サンプリング調査という部分的なものであり、何でも8パーセント程度のサンプルからの結果だそうである。そうしてみると、国税の損失額は上記の10倍以上の高額となることが推定されるわけだ。したがって上記の<例>は "氷山の一角" に過ぎず、不正支出や無駄遣いは想像以上に莫大であると認識した方が妥当でありそうだ。だから、安易に国民負担にしわ寄せするのではなく、 "やるべきこと" をしっかりとやってもらいたい、と考えたいのである。
 年金問題での "不正" が糾弾されてきた昨今であったが、それに加えての上記のような納税者たちを愚弄する "官" の仕業は、即刻是正されなければならない。これでは "官" とは、まるで親の脛をかじる "放蕩息子" 以外ではなかろうと言いたい。そして、こんなだらしのない "官" にしてしまったのは、長期政権の座におさまっていた "政" の責任だと言うべきなのであろう。官僚制機構がどうのこうのと話を難しくする必要なぞなく、ざっくりと判断されなければならないはずだ…… (2007.11.12)


 今日のような天候を "小春日和" と呼ぶようだ。 "小春" と言っても春自体を指すのではなくて旧暦の十月の別称たる "小春" から来ているとのことだ。
 この晴天で朝の出勤時にも、西方に見える大山など丹沢の山麓がくっきりと展望できた。空気も乾いているからであろう、靄(もや)などに邪魔されることがなく、存在感を感じさせる山々の姿がリアルに見通すことができた。その山麓の上端付近には、富士山頂上の冠雪がわずかに覗いて見えるのも例年のとおりであった。
 このような天気と、こうした眺めがなくちゃいけないよなあ、とハンドルを握りながら独りごつ自分であった。

 今朝はもうひとつ心をよぎることがあった。
 クルマの中から、このところ気になっていた知人の姿をちらりと目撃したのである。彼も急いでいたようだったし、自分もクルマの運転中であったのでそのまま通り過ぎてしまった。
 その知人は、長らく癌を患って闘病生活をしている。半年から一年に一回程度、抗癌治療のための入院を重ねてきていた。これまでは、その治療で発癌部分が抑えられ、退院してきた際には、抗癌治療の辛さを半分笑い飛ばすような口調で語ってくれたものであった。一回の入院で何十万円もの自己負担というのも辛いよね、という話も出てくることがあったし、これであと一年もつかどうかというところですかね、などとあっけらかんとして話すこともあった。
 独りとなった時にはどんな心境なのかは口にしなかったが、わたしなどと話す際には、比較的淡々としていて、それが対応に迷うことになりがちなわたしには救いであったかもしれない。
 こんなことを言っては何だが、死を見つめざるを得ない状態にある人と向かい合うのは、誰しもが尋常な気分ではいられないということである。だから、人の善い彼は、相手のそんな立場をどこかで慮(おもんぱか)って極力淡々と振舞っていたのやもしれない。

 そんな彼であったが、ここ一、二ヶ月はあまり人前に姿を現さなくなった印象を受けていた。入院中だとか、退院して通院しているとか不確かな情報を耳にした。また、芳しくないかたちで癌が転移しているようだとも人づてに聞いたりもしていた。
 彼自身が人前に出ることを避けているような気配を感じないわけでもなかったため、自分は正面切ってお見舞いをするということもやや躊躇いがちとなっていたのであった。
 そんな推移の中で、今朝、彼の姿を目にしたのである。たぶん、通院のために出掛ける途中だったのではなかろうか。健康な時分からそうであったが、今朝も歩く姿勢は背筋を伸ばししゃんとしていて、決して闘病中の人とは見えない様子であった。
 彼にとっては、今は、人とあまり会いたくないのかもしれないし、自分などが顔を見せたのでは迷惑なのかもしれない。しかし、ここはやはり近々お見舞いをして、成ろう事ならば、多少なりとも元気づけることをしてあげれればと思ったりしている…… (2007.11.13)


 PCを使い込むことには引けを取らない自分であるが、 "ケータイ" は昔からあまり活用してこなかった。そして、現在でも必要最小限の使い方しかしていない。小さなキーをチョコチョコと扱わなければならない操作が煩わしいという点もある。老眼の昂進がなおのこと煩わしさを感じさせているのかもしれない。
 今ひとつ、 "ケータイ" が煩わしいのは、外出中に自宅なり会社なりから唐突に(緊急の)電話が入る点なのである。そうした緊急のために "ケータイ" があるといっていいわけだが、それがどうにも煩わしく思えるのだからたちが悪い。ちょいと前までは、わざと "電源" を落としたりしてもいた。
 男は一歩外にでれば百人の敵あり、なのだから、外出中は "紐なし" で、いわば "野良犬" 的でありたい、と勝手なことを願っているのである。まあ、最近は、 "ケータイ" は "ケータイ" でも "ケータイ・メール" を放り込んでもらえるので、当方側が空いた時間に確認することができて煩わしさは半減することになった。

 外出中は "紐なし" で、という勝手な思いは、要するに、自分がどこにいるのかをあまり監視されたくない、というそれこそ勝手な思いが潜んでいるのかもしれない。自分の場合、別に知られて悪いようなところをうろつくわけではないのだから固執する必要もないようなものの、やはり、唐突に "今、どこ?" と言われるのが好きになれない。言ってみれば、自分は "いつも、繋がっていたいタイプ" の人間じゃないんだ、と思い込んでいるふしがありそうだ。

 しかし、こんな身勝手な思いが通用しなくなる時代となりつつあるようだ。
  "ケータイ" に "GPSナビ機能" が搭載され、当人の意志にかかわりなく当人の "居所" が判明してしまうような時代となりつつあるからである。
 この "ケータイ" 搭載の "GPSナビ機能" という "武器(誰にとっての?)" をはじめて知ったのは、確か、 "営業マン" に持たせてはどうかというビジネス関係のニュース記事からであったと思う。
 その実情はどうかつぶさには知らないが、どの会社でも "営業マン" というものは、行って来ま〜す! と一度外回りに出るならば、結局誰にも監視されない立場となってしまう。行き先記入であるとか、帰社後の成果であるとかが "アリバイ" となるものの、実のところ "自由裁量" 的行動時間となっているのであろう。
 そして、中には要領のいい "営業マン" もいて、 "自由裁量" がパチンコ屋とか喫茶店とかでの "営業活動もどき" に行き着いている場合もないことはないのだろう。
 しかし、こうした "営業マン" も "GPSナビ機能" 搭載の "ケータイ" をあてがわれてしまうと、まるで上司の視線の下で仕事をするような雰囲気となってしまうのかもしれない。

  "GPSナビ機能" 搭載の "ケータイ" に関して、次に "なるほど感" をもたらしたのは、子ども向け "ケータイ" だったかと思う。物騒な時代環境となった現在では、親たちまたは学校は、子どもたちが安全に登下校しているか、あるいは放課後に行方不明とならないかが、結構心配の種であるはずだろう。そうした心配に対して、この "GPSナビ機能" は頼もしい味方になってくれそうな気がしたものであった。

 そして、今回、大きな "なるほど感" がもたらされたのは、以下の記事によってなのである。

<防衛省幹部の所在報告、今週末から GPS携帯なお検討
 石破防衛相は13日の閣議後の記者会見で、防衛省幹部が休日の居場所を事前に報告する仕組みを今週末から導入することを明らかにした。守屋武昌・前事務次官が在職中に無断で都内を離れてゴルフを繰り返していた問題への対応策で、週内に通達を出す。
 対象者は大臣、副大臣、政務官を含めた計26人。内局(背広組)では危機管理に対応する事務次官や局長級の幹部、制服組では統合幕僚長と副長のほか、陸海空の各幕僚長らが対象になる。
 幹部に全地球測位システム(GPS)機能付き携帯電話の所持を義務づけることについては、石破氏は「問題点があるとの指摘も一部ある」として、さらに省内で検討する考えを示した。>( 2007/11/13 asahi.com )

 思うに、 "防衛省" だけではなく、すべての政治家や官僚たちといった "VIP" たちは、身に危険が及んでは国家の損失であるため(?)、公私の時間の区別なく "GPSナビ機能" 搭載の "ケータイ" をお持ちいただくのがよかろうかと確信する。こうした方々は、 "公人" と位置付けられているのだから、プライベートがどうのこうのという配慮には当たらないと言ってよいはずである。
 見ようによっては、 "猫に鈴" というふうにも見えなくもないが、それはそれでよかろう。よからぬものを "拾い喰い" したり、 "盗み喰い" したりすることが多少とも抑制されるのではなかろうか。いや、猫の話ではあるが…… (2007.11.14)


<えー、近頃は "風物" というものがなかなか戻りませんで、何かさみしいような気がいたします。
 まぁ暮れになりますってぇと、木枯らしが吹く、方々(ほうぼう)の松竹の竹かなんかが "さわさわ" と音を立てる。物干し竿が "からからーん" なんという乾いた音を立てまして、その間を、
「えー、大神宮(だいじんぐう)さまの御祓い、えー、大神宮さまの御祓い、えー御祓い」
「おっ、大神宮さまの御祓いだよ。大神宮さまの御祓いだってんだよ。ぐずぐすしちゃいらんないよ」
てなことを言ってね……>

 これは、自分のお気に入りの落語のまくらの出だしなのである。噺手は、十代目 金原亭 馬生、演題は「富久(とみきゅう)」。
 馬生のこの噺は、大げさではなくもう何百回となく聴いてきた。
 だから、「おっ、大神宮さまの御祓いだよ。大神宮さまの御祓いだってんだよ。ぐずぐすしちゃいらんないよ」という口調などは、脳のどこかに染み渡っているのであろうか、季節が近づくと何気なく頭の中で再現されるのである。
 恐らくは、聴いた回数が多かったからというだけではなさそうである。こういう "風物" 、光景というものが言ってみれば自分の "心の縁(よすが)" のひとつとして定着しているからなのではないかとさえ感じている。

 馬生のこの噺はもう3、40年も前に録音されたものであるが、それでも<えー、近頃は "風物" というものがなかなか戻りませんで、何かさみしいような気がいたします。>と嘆いている。
 もし馬生が、現在の東京を見渡すならば到底<さみしい>といった感想では済まないことであろう。江戸落語のプラットホーム(基本舞台)が跡形もなく消え失せてしまっているからであり、同時に対象側の "風物" だけではなく、 "風物" と等価対応物である人々の "情緒" 自体も跡形もなく消え失せているかのようだからである。
 そんなものは消え失せたってどうということはないじゃないか、消え失せて当然だ、と言って済ませるものなのだろうか。いや、そう考える者たちが大勢を占めていたからこそ時代環境はかくあるのだというわけなのだろう。しかし、実に<さみしい>……。

 たぶんこうした思いは、 "江戸 - 東京" という一地域の出来事に対して抱かれる感情ではなく、全国津々浦々でまったく同様のことが展開しているに違いなかろう。その地域、地域での "風物" と "情緒" がかなり無残なことに成り果てようとしているのではなかろうか。
 それとは裏腹に昨今では、地域起こしの一貫として地域での "風物" や "情緒" に基づいた名産物などの商品の全国展開が図られていたりする。しかし、それは市場経済的な出来事でしかないのであって、ほとんど真性の地域 の"風物" 、 "情緒" とは無関係だと言うべきなのかもしれない。地域 の"風物" 、 "情緒" の再構築というものは取って付けたようには叶わないはずだ。

 つまり、現代という時代潮流によって、押しなべて全国中が、 "風物" や "情緒" の "窒息" 状態に追い込まれているというのが実情ではなかろうかと思わざるを得ない。
 何を暢気なことを言ってるのかと思われそうでもある。が、今さらのようにこんなことに目を向けるのは、実はこうした津波のような推移が、一国の国内的出来事に止まらず "グローバリズム" 経済の浸透によって世界中に広がりつつあるのではなかろうかと危惧するからなのである。
 きっとこのままでは、世界中の人々がこぞってこう言わなければならなくなるに違いなかろう。
<えー、近頃は "風物" というものがなかなか戻りませんで、何かさみしいような気がいたします。>
と……。
 そして、こうした推移によってもたらされる事態は、決して単なる "懐古趣味" の問題に留まるわけには行かないのではなかろうか。人々が地域の "風物" に託し、 "情緒" として内在化させてきたものというのは、意外と大きな意義を持ってきたのであって、ある場合には "心の縁(よすが)" の機能をも果たしてきたように思われてならない。それらを "根扱ぎ状態" にした時、一体どんな人間社会の状態が立ち現れるのかは、人間たちにとって "未経験" の問題なのではなかろうかと思われる。
 高が "風物" といって済ませられるほどに人間は強靭な存在となり得たのであろうか。実は、 "さわさわ" とか、 "からからーん" なんという乾いた音を立てているのは、誰も口にはしないものの、人々の "心の中" なのではないかという気もする…… (2007.11.15)


  "情報化時代" なのだから、とにかく情報 "通" でなければならないようだ。と言っても、情報 "通" であることは結構難しいように思える。決して、ただ単に豊富な情報を入手できれば情報 "通" となれるというものでもなさそうだ。
 役に立つ情報は、決して "量" で決まるものではないはずであろうし、逆に、膨大な情報、闇雲に収集した情報は、ただ人を混乱させるだけの場合だってあり得る。
 また、自分自身がどんな問題意識や目的を持って情報を迎え入れようとしているのかによっても、集まる情報の価値は大きく変化したりもするはずである。いや、この点が意外と重要な点ではないかと思われる。
 とかく集めた情報が何かを語るような印象を持ちがちである。まあ確かに、まるで "ジグゾーパズル" のように、収集された情報群がビジュアルな説得力を持って何かのイメージを構成していくこともあることはあろう。しかし、これにしても、どんなイメージとして見えるのかは人それぞれに異なったりもするわけで、結局、目の前の情報を睨む "眼力" の良し悪しを度外視することはできないようだ。
 そしてその "眼力" というのは、主体側の問題意識や視点の有り様に大きく関わっているはずである。
 つまり、情報収集というものは、また情報 "通" となろうとすることは、外の情報に注意深く目を向けるだけではなく、情報に対する自身の "眼力" あるいは問題意識とでもいうものを切磋琢磨することが欠かせない、と思うのである。

 言うまでもなく、 "情報化時代" と称される時代環境には、無数の情報が飛び交っている。これは、先ずは "ありがたいこと" であると思うべきなのだろうが、同時に多少皮肉っぽく "迷惑なこと" だと斜に構えてみることも必要なのかもしれない。と言うのも先ずは、巷に溢れる情報群は、それらを額面どおりに信じて対応して行くならば "身が持たなくなる" こと必定だからである。
 しかも、とかく情報というものは "ニュートラル(中立)" なものとして受け容れられがちであるが、それはとんでもない "錯覚" だと考えるべきだと思われる。情報というものは常に何らかの "色彩(意図)" が施されていたり、酷い場合には "紐付き" であったりして、知らず知らずのうちに自身の判断や行動がコントロールされてしまったりする、そんな危険さえ秘めているのではなかろうか。
 以前にも書いた覚えがあるが、 "情報化社会" 、 "情報化時代" の "情報化" とは、ただ単に情報量が溢れる社会とか時代とかというのではなく、 "dedicate ( 捧げる )" された情報というものが飛び交う、というのが本義だそうなのである。つまり、何かのために "捧げられた" 意味内容を持つ情報が大量に巷を飛び交う様相を言うのだそうだ。
 したがって、われわれは、常に情報の "素性" というか、 "身元" とでもいうものを意識しながら飛び交う情報に接しなければならないということなのであろう。
 これをわかり易く言うならば、日々どこからともなく届くネットのメールのことを考えればいい。今時、そんなメールを嬉しがって無造作に開く人は少なくなっていよう。そのメールの "素性" や "身元" をチェックした上で対処しているに違いない。さもなければ、そのメールが、PC内部でどんな "悪意" を発揮するかわからないからである。
 これとほとんど同様のロジックで、巷に飛び交う情報群は人々の脳なり心なりに侵入したならば、何がしかのことを仕出かす可能性がある、とそう考えた方がいいように思うのである。

 やや誇張気味に書いてみたが、しかし、商業的マス・メディアが報じる膨大な情報群というものは、恐らくはこうした観点で警戒した方がよさそうだと感じている。極論をするならば、ひとつひとつの情報を受け容れるということは、それらの情報の "インタレスト(利益)関係" に入り込むことなのであり、背後にいる誰かに利益をもたらしたり、誰かを損させたりすることに繋がる、ということになりそうだと思えるのである。
 したがって、現代という凄まじい時代で情報 "通" となろうとすることは、冒頭で書いたような受け手側の情報に対する基本的な "眼力" もさることながら、情報にビルトインされた他者のさまざまな目論見をも透徹する、そんな "眼力" も必要となっていそうな気がしてならないのである…… (2007.11.16)


 もう大分前の話になる。
 若いソフト会社の主任や課長クラスを受講者にして、プロジェクト・マネージメントであるとか、ソフト会社におけるマネージメントについて偉そうにレクチュアしていた頃のことだ。

 振り返れば、自分のような者の話が仮にも役に立ったり、参考になったりしたのは、ソフトウェア開発に携わる技術者たちが大量に増加したにもかかわらず、その職業の実態、労働の実態がいまひとつ了解されにくといった事情があったものと思われる。
 とりわけ、従来からの職業観、労働観に慣れ親しんできた者(経営層、年配の上級管理職)たちにとっては、職業としてのソフトウェア開発という分野も、またそれに従事する若い技術者たちの感性や行動様式も、とにかく認識し難かったのだと思われる。
 しかし、10年、20年前の当時は、ビジネス領域では日毎にソフトウェア開発業というものの比重が増し続けていた。技術者派遣を含むソフト開発会社の数はうなぎ上りに増加し続けていたし、銀行、保険会社や製造業という他業種からも新規参入で数多くのソフト会社が設立されたりもした。もちろん、企業の最大関心事である実質的な売上額は馬鹿にならない規模だったであろう。
 だから、経営層、年配の上級管理職たちは、若いソフトウェア技術者たちという人種を内心は "オタク" だと受けとめていても、決して軽視するわけにはゆかず、何とか歩み寄らねばならなかった、というのが実情であったかもしれない。
 そして、企業としての "歩み寄り" の具体策はというと、そうした "金の卵" である若いソフトウェア技術者たちを、どう "評価" するか、さらに言うならば妥当性のある "人事考課" 制度によってどう公式的評価を行うのか、という課題であったに違いない。
 いや、こうした状況推移の詳細はさしあたっておくことにするが、こうした時代的文脈の中で、当時 "ソフトウェア技術者の人事考課" などで多少の定見を持っていた自分なぞが、仮にもお役に立つことができたということなのであった。

 今日書こうとしたことは、そんな "講師" 業に携わった頃に、若いソフトウェア技術者や、技術者上がりのリーダーや中堅管理職たちに話した事柄のひとつについてなのである。実際、サービス精神で無数のことを話したが、そんな話題を時々ふっと思い起こすのである。
 ソフトウェア技術者たちだけではなく、おそらくは技術者たちというのは往々にしてそうだと受けとめているが、彼らは、やはり "ナイーブ" であり "口下手" であるようだ。そして、それが "諸刃の剣" となっており、優れた実績を打ち出すとともに、無くて済むはずのトラブルをも生み出していたのであろう。
 自分は、基本的には、こうした技術者たちの思考様式、行動様式を評価している。いや、技術者たちに限らず、日常的にも、よくこんなタイプの人がいるものであり、自分は好感を抱いている。
 というのも、人間という存在は、 "ナイーブ" であろうとするならば、必然的に "口下手" であるほかないのかもしれないと考えることが多いからなのである。人間は、自身に深く関わる事柄、それはまるで自身の血肉と一体となっているような事柄については、簡単にぺろぺろと口にする(=対象化する)ことは難しいことのはずではなかろうか。自身とは距離があり、差しさわりのないことや、 "対岸の火事" のような事柄については、如何様にも饒舌であり得るというものではなかろうか。
 つまり、この辺の問題は、事、技術者たちだけの問題ではなく、ものを考え発言し行動する者、つまり人間としての基本的な重要事項だと思われるのだ。現代という "おかしな時代環境" にあっては、とにかく "饒舌" な者たちが増え過ぎたと見える。中味を失った "空き缶" がカラカラとうるさくがなり立てるかのごとくである。

 で、当時、自分が "受講者" たちに話したことは、他愛もない表現なのである。
「上手に "ホンネ" を陽に晒せ!」と言ったのである。ここには、次のような実感が控えていたのであった。とかく "口下手" で "ナイーブ" な技術者タイプの者たちは、どうせわかっては貰えないという諦念に閉じこもり、 "ホンネ" というものは陰に篭らせるものと考え込んでしまったり、それが耐え切れなくなってある日突然 "プッツン" 状態に転じて、誰もが取り付く島のないはずの "レア(なま)" なままの "ホンネ" を爆発させる、というありがちな現象のことである。
  "ホンネ" を陰に篭らせていたのでは、益々、誰もが理解できない、自身とて把握し切れない超主観的な状態に成り下がってしまう。それは、柔らかい秋の日差しにでも晒し干しするように陽に晒していく必要がある。つまり、他者にわかってもらえるような対象化、表現をする努力をしてゆかなければならない。そして、できればそれが次第に "上手" になれるように……と。
  "自分の考え" を "立て板に水" のごとくに話す上司の下に彼らは日々口篭る。しかし、 "立て板に水" のごとく "自分の考え" を口にできる者なぞはいないはずである。いるのは、 "立て板に水" のごとく "通りのいい一般論" や "紋切り型口調" を連打する "役者" だけではないのか。と、そういう説明を加えた時、日々悶々として口篭ってきた技術者たちは大きく頷いていたようであった。

 自分が、日課としているこの日誌に何を書くべきかと悩む時、書きやすいことに流してはいけない、書きにくいこと(≒ "ホンネ" )を静かに探り出すべきだとか、その "ホンネ" を上手に陽に晒していくべきだ、と思ったりするのである…… (2007.11.17)


 久々に "日曜大工" をしようとすると道具類の所在がわからず、それらを探すという "前作業" に手こずって難儀する。道具類を使った後できちんと整理するという几帳面さがないためである。
 それでも、間をおかずに頻繁に使っていれば、記憶に残るためさほど苦労をすることもない。しかし、最近は、 "日曜大工" にマメではなくなり、家内などから催促されて渋々取り掛かるという状態となってしまった。だから、当然、間が空いてしまい道具類たちがどこにどう潜り込んでいるのかが推測しづらくなっているわけなのである。

 今日は、もう一、二年越しで先延ばしにしてきた "煙報知器" の取り付けを行った。
 どうしてこんなに延ばしてきたのかについては多少のいわくもないことはないが、要するに "面倒な作業" となることを予想していたのであろう。ラクに済ませることができる作業ならば、もとより "日曜大工" が嫌いなわけではない自分だからこんなにも放っておくわけがない。
  "面倒な作業" と思われたのは、二点ほどあろうかと推測していた。ひとつは、天井に向かってする作業というのは、意外と "労多くして……" という作業になりがちなのである。そもそも、それなりの脚立などを持ち込まなければできないという点もある。また、その上にまたがり、極めて不自然な姿勢での作業となる。つまり、上半身を "イナバウアー(?)" ふうにそっくり返らせる姿勢が必要となる点なのである。
 こんなことを書くのは、 "腰" を警戒していたからなのである。そして、案の定、今日の作業で不覚にもその警戒が的中して "腰" を痛めてしまったのである。まあ大したことはなさそうなので心配はしていないが、悪い予想が当たってしまったのには気味の悪い思いをしている。
 そう言えば、こんなことがあったのである。
 この "煙報知器" 取り付け作業はどうも気分が乗らないため、以前、ちょっとした電気工事やアンテナ取り付けを気持ちよくやってもらった年配の個人事業者に、電話で依頼した経緯があるのだ。と、その時、情けなそうな声音が返ってきたので尋ねてみると、 "ギックリ腰" を患って、現在床に伏しているということなのであった。もちろん、申し訳ないけれどお仕事を引き受けるわけにはいきません、ということなのであった。
 こんないきさつがあっただけに、今日の作業ではそれとなく注意はしていたものの、もろに "腰" をやられたというのだから情けないわけである。

  "面倒な作業" と思われた二つ目はというと、 "煙報知器" の "端末" は、壁越しに階段下の空間に出さなければならず、そのためには、壁の隅に "コードを通す穴" を開ける必要があったのだ。これも結構厄介であり、目立たぬように……、となれば尚のこと気苦労が重なり厄介なのである。
 だから、自分は以前同じ作業をした際に、ちょいと工夫を凝らして "特殊な道具" を使ったものだった。 "特殊" というほどでもなかろうが、要するに、壁厚を越える長さを持ちながら、細くて強靭なドリル刃なのである。
 しかし、この "ドリル刃" の所在が不明となっていたのである。実は、冒頭の "前作業" に手こずって難儀、というのは、この捜索作業に奔走したという事情のことだったのである。

 今日は、こうした作業のほかに、 "半田ごて" を使い二、三の電気製品の修理まで済ますという仕事ぶりとなった。肌寒くなってきたようでもあるので、夕飯後は、 "労働" の疲れやら "腰" の痛みを和らげるため、ゆっくりと入浴をして早く寝てしまおうかと思っている…… (2007.11.18)


 ますます "昭和30年代" への郷愁が人々をとらえているようだ。当然のことだろうと思える。現在という時代は、どんな時代と比較しても "劣悪" としか言いようがないと思われるからだ。そして、 "劣悪" さのそれ以前を振り返ると、そこに "ぼくとつ" ながら人々が "輝いていた" 時代、 "昭和30年代" が見出せるということなのであろう。
 映画 "ALWAYS 三丁目の夕日" は、そんな "昭和30年代" の "輝き" をきわめて上手に題材とした映画であった。当初は、当時の "風物" 紹介に寄りかかった "時代カタログ" 的な映画ではないかとも高を括っていたが、なかなかの作品だと感心したものであった。軽薄とならずに "面白く" という点が上手いと思えたのかもしれない。
 その際に注目したのは、この監督、山崎 貴監督が1964年(昭和39年)生まれだそうで、実のところ "昭和30年代" を実感して生きた世代ではないという点であった。この辺の事情が逆におもしろいと思えたのだった。
 そうしたことは意外にあり得ることで、マヌケな団塊世代という当事者は、貴重なこの時代を見過ごしながら虚ろな前方ばかりに気を取られていたりする。そして、 "昭和30年代" が切り捨てられはじめる時代を生きた世代が、 "結構、いいーじゃんか" と興味津々となる……、ということなのだろう。

 先日も近所のレンタル・ビデオ・ショップへ行くと、新作 "ダイハード 4" 、これはいささか食傷気味であり敬遠することになったが、それと近々リリースされる "ALWAYS 続・三丁目の夕日" の前宣伝が目についた。こちらはすでに、劇場では公開されて好評を博しているようであり、自分も、ビデオのレンタルがリリースされたなら是非鑑賞したいと思っている。
 さっさと劇場版を観ればいいものを、 "続編" の "プロモーション版" を観たりしているのだが、そこで謳われている "昭和30年代" とは、 "明日への夢があった" というメッセージである。それは、今時の生活人からすればまさに "夢のような" 時代だと受けとめられよう。
 こう言うと、いや現在だって夢がある、 "ネット" にしても、 "株" にしても "成功への可能性に満ち満ちている" と思い込みたがっている若い世代がいるかもしれない。まあ、そう "実感" できる者にあえて冷や水を浴びせるつもりはない。
 ただ、 "ホリエモン騒動" を経た後においてもなお、そうした者たちの "実感" は醒めやらずに熱くあるのだろうか。進行する時代が、 "大掛かりな仕掛け" によって仕切られていて、自分たちが一瞬 "熱くなる" ことさえも、その "タイム・テーブル" 上に予定され、刻まれたささいな "イベント" のひとつなのだと、そんなふうに自覚させられることはないのだろうか……。いい加減にしろ、と言いたくなるほどに、日ごと "無力感" に誘われる時代環境を、それでもなお "夢のある時代" だとかばいたくなるのだろうか。

 それに対して、 "西暦年号" で呼ばれる時代以前の "昭和30年代" には、 "明日への夢があった" と先ずは言い切れる。 "明日への夢" とは、単に "未知数" であったからだ、とシニカルに言うこともできるが、そもそも "夢" とはそうしたものであって一向に差し支えないはずである。そうした "未知数" を寛容に包み込む時代や社会の中でこそ、人々はその寛容さの対応物としての "明日への夢" を抱くのではなかろうか。つまり、 "いきいき" と生きるのではなかろうか。
 であるにもかかわらず、時代環境は、 "傲慢な屁理屈" を並べ立てながら、 "未知数" を "既知数" へとひたすら替えていくことに腐心し続けた。それでも、現時点での人々が、百歩譲った "明日への夢" らしきものが抱ける生活感覚が持てるのであれば、まだましだと言うべきであろう。時代は紆余曲折することもあるのだろうから……。
 しかし、残念ながら、個々人の生活環境というミクロなレベルから、地球規模といったマクロなレベルに至るまで、一体どこに "夢の欠片" が見出せるというのであろうか。シビァな表現をするならば、現在人々が生きているのは、決して "夢がある" からなんぞではなく、生物持ち前の "忍耐力" や "感覚麻痺" を含めた "はぐらかし" に依存してのことなのかもしれない。エスカレートし続ける文化の "エンターテイメント" 化や、高まり続ける "アルコール" 消費量、止むことのない "薬物" 使用などは、一体何を物語っているのだろうか。

  "昭和30年代" への切ない郷愁の秘密は、言うまでもなく、 "昭和" という "閉じた空間年号" が、 "西暦年号" という "グローバル年号" へと替わらざるを得なくなった国際関係の環境変化、そこに宿っていると思われてならない。もっと直接的な表現をするならば、従来のこの国の社会的残存物が、 "対米関係" の急速な濃密化によって今日へと繋がるすべてのものに置き換えられていく "過渡期" の "前哨戦!" だったと言っていいのではなかろうか。その本格的な "過渡期" というのは、昭和40年代後半、1970年代以降ということになるのであろう。
  "昭和30年代" とは、明治という未知なる時代を前にして人々のテンションが高まった "幕末" と似て、人々が "未知なる切り口"からそよぐ風に 漠然とした期待感を託した、 "明日への夢" を漠然と抱いた、そんな時代であったのだろうか…… (2007.11.19)


 「それを言っちゃぁおしまいよ」という聞きなれたセリフと、 "言霊信仰" とが関係しているという面白い見解をとあるコラムでお目にかかった。この点については後述したいと思う。
 なお、 "言霊信仰" とは、日本人が古来よりとらわれてきた思いであり、 "言葉" には霊妙な力が宿っていて、 "言葉" と "事実" とは "融即" (「言事融即」)していると見なすものだ。

 ※ ちなみに、 "言霊信仰" に関しては以下のような書籍がある。( Amazonより )

・井沢 元彦 (著) 「言霊(コトダマ)の国」解体新書 (小学館文庫) (文庫)
<言霊(コトダマ)の国に「言論の自由」はない。日本人を支配する「言霊」信仰のもとでは、論理的な予測と希望的な観測が混同され、また、言葉を言いかえれば実体も変わると信じられている。これでは戦時中と同じではないか。本当の意味での論理的思考ができず、日本を「世界の非常識国家」にしてしまったコトダマイストたちの言論統制の実態に迫り、身近な題材をテーマにしながらわかりやすく「解体」してゆく>

・豊田 国夫 (著) 日本人の言霊思想 (文庫)
<古代の人は言葉に精霊が宿ると信じ、霊妙な力が人の幸不幸を左右すると考えた。これらの痕跡を、文献・伝承等に探り、祝詞の言霊・万葉人の言霊・仏教の言霊・名に宿る精霊・近世国学者の言霊観などの諸相に捉え、「言事融即」の観点から精細に考察する。外からの押付け言語政策、民族語のもつ母語固有の言霊、自国憲法に言語規定をもつ諸国、言語不信をかこつ言論、汎言語主義の病弊など、爼上に究明して言霊思想の回帰点に及ぶ>

 「それを言っちゃぁおしまいよ」とは、いうまでもなく、あの "男はつらいよ" 寅次郎の "粋なセリフ" のひとつである。 "野暮" な解説をするならば、こうなろうか。
 その場その場の会話には暗黙の "空気" というようなものがあり、 "粋" な者ならばその "空気" を尊重して、それをぶち壊したり、チャラにしてしまいかねない "言葉" は慎み、いわば "禁句" と心得るものだ。ところが、何の謂(いわ)れあってか、その "禁句" を無造作に持ち出す "野暮" な者が現れる。そんな場合に、その "野暮" な者をたしなめる意を込めて、「(その言い草はあるまい!)それを言っちゃぁおしまいよ」となるものなのだろう。
 これはわかるし、とかく自身が加わる会話で、 "粋な渡世人" 気取りとなってしまい、果ては "陶酔" の域に踏み込んでゆく寅次郎の気持ちもよくわかる。
 しかし、こうした "粋" な作法を十分に了解しながらも、それとは裏腹に、 "ちょっとあぶない作法" なのかなぁ、と思う嫌いが以前からなくはなかった。

 それは、あの山本七平氏が凝視したところの "空気" という問題でもあるからなのである。つまり、日本人が無意識に支持してきたかに思われる "場の空気" という集団力学の問題なのである。
 人が集まるところには、何がしかの集合的な "雰囲気" というようなものが生まれ、寄り合った者たちはその漠然とした "雰囲気" には逆らえなくなる。特に、 "長いものには撒かれろ" 的処世を選ぶ日本人、個人的立場よりも "共同性" を尊重する日本人の場合にはその傾向が顕著なのだろう。
 山本七平氏は、こうした現象を戦前の軍国主義的風潮から見逃さず、それを支配者サイドがかもし出す "空気" と表現した、と自分は理解している。つまり、戦前社会にあっては、個々人の見解を "封殺" するべく、こうした支配者製の "空気" がいたるところで利用されたようなのである。
 だから、 "空気" というものは、一方で "粋" な現象と結びつくとともに、他方では、非論理的な集合意識を助長する "あぶなさ" をも秘めている、ということなのである。
 下世話な例となるが、今、仮に、皆でご機嫌よろしく飲んでいた連中が、さぁて、場所を換えて飲み直そうや、ということになり、 "足" はどうする? よっ、今日オレはクルマで来たんで、オレにまかせてもらおうか、という運びとなり、そんな "空気" が出来上がってしまったとしたら……。
 当然、良識のある者は、オイオイ、そいつは違法行為だよ、よそうじゃないか、と口を差し挟むに違いない。そんな時に、「それを言っちゃぁおしまいよ」と、言い出す者が現れそうなのが現実の "あぶなさ" なのではなかろうか。
 話が "飲酒運転" ではなく、マイナーな人々の権利侵害や他国への侵略行為に関わるものである場合の "あぶなさ" だって大いに想定できるのではなかろうか。

 「それを言っちゃぁおしまいよ」のセリフから、 "空気" の研究(山本七平氏の著書名)に入り込んでしまった。
 危惧したとおり、そのセリフと "言霊信仰" との関係という冒頭の話題については、明日に回さざるを得なくなってしまった…… (2007.11.20)


 昨日は、「それを言っちゃぁおしまいよ」のセリフに覗き見える "場の空気" というようなものにちょいとこだわってみた。この辺に、日本独特の "集団力学" が垣間見えると思えたからでもある。これはこれで、この国の集団・組織・社会を眺める上でそこそこ有効な視点だと思われる。
 だが、「それを言っちゃぁおしまいよ」のセリフが覗かせるもう一つの重要な側面は、 "言葉と現実" との関係、さらに言えば、 "現実よりも言葉を" というものの捉え方ではないかと思える。つまり、 "言葉" に尋常ならぬ重きを置くなり、 "言葉" に酔ってしまうなりになりがちな日本人、という問題だと言ってもいい。
 もちろん、 "言葉" は尊重されなければならない。 "言葉" は、 "現実" を正確に捉え得る貴重な道具だからである。 "言葉" をぞんざいに扱って "現実" を妥当に把握することは困難なはずである。
 しかし、 "現実よりも言葉を" という趣きにとらわれ過ぎると、これはちょっと問題になりそうだと思えてくる。 "現実" が置き去りにされて、 "言葉" が紡(つむ)ぎ出した観念世界があぶない足どりで独り歩きすることにもなりかねないからだ。
 そんな危惧を感じていたから、 "言霊信仰" という日本人の習性にありがちだとされるものの捉え方に目を向けようとしたわけなのである。
  "言葉" が紡ぎ出す観念世界というならば、現代の "情報化社会" もまた、 "情報" という "言葉" によって構成された "観念世界、仮想世界" そのもののはずであろう。一方に悲惨とさえ思われる "現実" が置き去りにされつつ、他方に、華やかながら空疎でさえある "仮想世界" が聳え立つかに見える現代にあっては、なおのこと日本人の習性とされる "言霊信仰" という問題に目を向けてもいいように思われたのである。

 ところで、昨日、冒頭で書いた「それを言っちゃぁおしまいよ」のセリフと "言霊信仰" とが関係しているという件である。
 それは、大前研一氏が、「“拉致問題は解決済み”という現実」(『「産業突然死」の時代の人生論』 nikkeibp.co.jp )というコラムで以下のように書いていたのである。

 <北朝鮮の工作員による日本人拉致問題>は、現在暗礁に乗り上げたかのようであり、<日本側が「拉致被害者を返せ」と言い、北朝鮮側が「拉致問題は解決済み」と返す、これを繰り返している状況が数年間続いているだけ>だ。
 そしてここに来て、<北朝鮮の核問題については進展があった。今回の6カ国協議で、エネルギーを支援する代償に北朝鮮は核の無能力化に合意したのである。日本政府は米国に対して、拉致問題が解決する前にテロ支援国家としての指定を解除しないよう働きかけているが、米国は明確な答えを示してはいない>。
 こんな状況下で<拉致問題は再び動き出すのだろうか>と大前氏は問い、<わたしは正直なところ「微妙」と考えている。こういうことを書くのは拉致被害者の、あるいはその家族のお気持ちを考えると忍びないものがあるのだが、北朝鮮の言う「拉致問題は解決済み」という言葉が示す現実を考えると、そう結論せざるを得ない>と自答している。
 そして次のように叙述しているのである。
<口に出せないデリケートな問題
 では「拉致問題は解決済み」とはどういうことか。はっきり言えば、「拉致した人はもういません」ということを意味しているのではないだろうか。少なくともわたしには「解決済み」の意味は「探しても、生きている人はもういませんよ」であるとしか考えられない。
 おそらく小泉元首相が平壌で直接交渉したときに、その辺のくだりが出てきていたはずで、もしかしたら通訳の誤訳があったのかもしれないし、お互い「解決済み」に至る解釈、あるいは定義があいまいであったのかもしれない。
 一方、米国は「解決済み」の意味を当然北朝鮮から説明されているはずで、それがなければ、北朝鮮を「テロ支援国家」のリストから外す作業に着手するとは考えられない。> この後に、次のくだりが記されてあったのだ。
< つまりわたしにはこの問題が「それを言っちゃーおしまいだよ」という言霊の世界の問題のような気がするのだ。当然、日本のマスコミもその流れに沿って自らはこの問題を深追いすることなく呪文のように「北朝鮮=拉致問題の解決が先決」という線に沿って報道している。……>
 また、6カ国協議の方も、<拉致問題を棚上げする“5カ国協議”>として進む。
<だが、拉致された家族はそれを認めない。「まだ生きている」という思いで、「いつか帰ってくるに違いない」「早く帰せ」と活動を続けている。ここに大きなズレがあるのだ。先述のように日本は言霊信仰の国なので、日本側で「もう、生きている人はいません」と口にしてしまったら、拉致被害者の家族はがたんと気力を落として活動も終わってしまうだろう。
 だから、日本政府はその一言を口にしない。米国も日本の拉致被害者たちの心情は理解しているので、あえて日本の内政問題につながりかねないこのデリケートな問題に関しては発言しない……>。

 大前氏が主張するところは、日本政府の "言霊信仰" 的な "フリーズ" は大きな誤りであり、<北朝鮮の核問題をもっとも深刻に考えないといけないのは、実は日本なのだ。>という点にある。
< 現在、北朝鮮はプルトニウム爆弾とミサイルを持っているので、そのミサイルに核を搭載することもできるだろう。となると、その標的はどこか。同じ共産圏であるロシアや中国には飛ばさないだろう。かといって、米国には届かない。お隣の韓国は、いまや北朝鮮にとって最大の援助国だ。となればターゲットとして残るのは日本、ということになる。
 つまり、北朝鮮の核問題をもっとも深刻に考えないといけないのは、実は日本なのだ。だから日本は拉致問題ばかりではなく、「ミサイルの開発を中止しろ」「既に持っている核爆弾を捨てるか取り上げる」ということを積極的に言わなくてはいけない。それなのに、その議論に日本は絡んでいないのだ。拉致問題が大前提と言っている限り、日本はこの問題を議論する段階に進めない。安全保障上の大問題である。>と。
 そして、次のように述べることとなる。
< 確かに、拉致された被害者のうち、数人はまだ生きている可能性はある。しかし、拉致被害者の家族が訴えるように、40数人全員が北朝鮮で生きているというのは、希望的観測に過ぎるのではなかろうか。しかしそれを口に出すことは難しい。それが日本の言霊信仰の恐ろしいところだ。>

 自分はこれらを読みながら、この大前氏の叙述が、現時点での日本のシリアスな状況認識であるのだろう、と認識すると同時に、一つの "試金石" でもあるように思えたのである。"試金石" だと言うのは、この大前氏の叙述に接して、自身の"言霊信仰" 的傾向が炙り出されるような思いがしたからなのである。<まだ生きている可能性はある>という切ない希望的観測に心を奪われ、冷徹に進行する国際関係に目を曇らせる自分に気づかされる思いがしたからなのである…… (2007.11.21)


 今週は体調を乱したままに過ぎつつある。
 先の日曜日には、ひょんなことから腰を痛めてしまい、大したことはないがその鈍痛を今なお引き摺っている。
 それにしても、 "足腰" に不調を来たすのはよくないと再認識する。現に、こんな場合の無理は禁物とばかりに、今週はウォーキングも差し控えたりしてしまった。すると、そうした "守りの姿勢" を察知してか、身体の方が何となくダラけてきたりするから妙である。そうすると、このところ訪れていた "寒波" のせいなのであろうか、どうも風邪気味にまでなってしまったようだ。そんなこんなで、鈍い腰痛に加えての身体のだるさが、何とも冴えない気分をかもし出すことになっている。

 今週、気分が滅入りがちとなったことにはもうひとつ思い当たることがある。
 円高・株価低迷という経済の暗雲もある。防衛費を掠め取っていたらしい現閣僚の "往生際の悪さ" という不快感もある。どこまでバカバカしい義理立てをし続けるのかと思える、福田内閣におけるインド洋の給油活動再開に向けた国会の会期再々延長という見っとも無さもあるし、散々税金のムダ遣いや掠め取りをしていながら消費税増税をまことしやかに打ち出す政府の無能さへの腹立たしさもある。
 しかし、こうした政治経済の立ち腐れ状況は今に始まったことでもない。やれやれ、といった感じの慢性不快現象であろう。

 今週、いや正確には先週末からであるが、人々の心を沈痛にさせているのは、あの "香川・坂出の祖母・孫不明事件" であろう。まだ事件の真相が掴めず、迂闊なことは言えないが、あの惨たらしい状況が示す事件は、人々をとてつもなく陰惨な気分へと引き込んでいるに違いない。
 何よりも、あどけない3歳、5歳の姉妹に "地獄" の苦痛をもたらしたであろうことを想像したならば、何ともいたたまれない気分に引き込まれてしまう。
 いたいけな子どもが犯罪に巻き込まれることは、通常の大人たちを激しく悲しませるものである。であるのに、3歳、5歳の姉妹二人をも同時に "手に掛ける" とは、想像を絶する惨たらしさである。
 あの歳ごろの子どもが、大好きなおばあちゃんの家に泊まりに行くというようなことは、誰もが "身近" で見聞し微笑ましく思ってきたことであろう。自分も、 "身近" な親戚関係において実感をもって見聞している。しかも、TV報道で映し出された現場の慎ましやかな家屋は、庶民にとって何と "身近" な光景であったことか。
 そんな空間と、いたいけな子どもたち、そして微笑ましい関係などは、今回のような陰惨な事件からは最も遠い距離にあったはずではないかと思ってしまう。こんなことは起こりようがなかったはずではないか、と。
 なのに発生したこの事件は、人々に、まるでささやかな "最後の砦" をも無残に壊滅されたかのような、そんな沈痛さを与えたのではなかろうか。

 しかし、見回して見ると、惨い犯罪が多発しており、特に意を傾けるべきは、その惨さというものの因ってきたる点が "無関係な被害者" という点にありそうなことではなかろうか。今回の事件にしても、どんな経緯が潜伏しているのかは不明だが、ほぼ確実に言えることは、どんな経緯があるにせよ、当該の幼児姉妹にはまったく "無関係" だということであろう。
 そう言えば、つい先日も、病院に入院中の "無関係" な男性が、暴力団関係の人物と間違えられて殺されたのではないかという事件があった。
 すでにこの間、 "誰でもよかった" という殺傷事件は多発し続けている。
 昨今の凶悪犯罪の恐るべき点は、かつて米国やそのホラー映画にあったような "無差別" 殺人が、日常生活の場に食い込んで発生しているという点、一切の境界を踏み越えて( "ボーダレス" )なだれ込んでしまっているという点なのであろう。 "無関係な被害者" が犯罪に容易に巻き込まれてしまう社会的可能性がますます増幅されているとしか言いようがない気がするのである…… (2007.11.22)


 「老年とは結局のところ長く生きたことに対する罰に他ならない」
という格言があるようだ。この "シニカル" な物言いに思わず "どきっ" とさせられたのであるが、井上ひさし氏がすでに "どきっ" とさせられいたらしい。同氏著『井上ひさしの日本語相談』(朝日文庫 1995/11/01)の中で、「ここで筆者が最近どきっとさせられた格言をひとつ」として紹介されていたのである。
 「どうも長く生きれば生きるほど、ことわざ・格言に感心する度合いが多くなるような気がします」という井上氏であるが、その挙句の果てにこの格言にて止めを刺されているかのような気配を感じさせられたものだ。

 しかし、決して他人事としてこれを書ける立場ではなくなってきた自分である。とかく歳を重ねると、こんなはずではなかったのにと思えるような身体的、精神的な不具合に気づかされることとなるからだ。
 何らかの病気だというほどのものではない身体の痛み、たとえば肩の痛みであったり、腰の痛みであったりということになるが、そんな痛みに気づかされたり、また、どう表現していいものか、どうも気分が淀みがちとなったり、張りというか柔軟性というかそんなものが失せはじめているかのような感触となったりする。それらは、時として耐え難い強度となることもないではないが、概ね "緩やか" な異変としてしか感じられないものだ。まさしく、じわじわと忍び寄って来ているかのごとくである。
 妙な表現であるが、昨今では、この "じわじわと忍び寄って来る" というあり方に、 "老い" というものの "正体" がありそうな気さえしている。どういうことかというと、痛みや身体機能の低下が、もし突然訪れたとするならば、誰しもが仰天する異変=病気だと言わなければならない。
  "玉手箱" を開けてしまった浦島太郎は、一気に白髪と白ひげの老人に変わったらしいが、あれなぞは "老い" と言うよりも、むしろ一種の病気に襲われたと見なされなければならないであろう。また、朝起きてみると急に新聞の小さな活字が読みにくくなっていたとするならば、誰もが驚き、目の病気と考えて眼科へ直行するはずではなかろうか。
 だが、当たり前だが "老眼" はそんなふうには訪れず、ほとんど気づかない小さな変化の重なりで、やがて老眼鏡を手にする、いや鼻にするようになるわけである。あたかも、傾斜を意識させないほどの極めてなだらかな坂をそれとは悟らされずに下らされているのに似ている。微小な変化(悪化)であるがゆえに、知らず知らずに慣らされて、いつの間にか "納得" させられているというわけである。
 つまり、 "老い" というものは、その訪れや自覚に対して十分過ぎるほどの "猶予" が与えられている点が特徴的ではないかと思うのである。確実に "執行" はなされるものの、 "執行猶予" 付きにも似た実に "緩慢な執行" というべきなのかもしれない。

 何だかわかり切ったことを馬鹿馬鹿しく書いているような気がしないでもない。が、要は、 "じわじわと忍び寄って来る" ところの "老い" というものは、 "じわじわ" であるがゆえに一面では恐ろしいもののようにも思われたりするわけだが、それと裏腹な関係でのもう一面では、 "知らず知らずに慣らされて、いつの間にか "納得" させられている" という、いわば "救いのようなもの" も用意されている点に関心を向けたいのである。そこまで言っていいのかどうかは迷うところでもあるが、 "案ずるより産むが易し" と見なしていいような感触もなくはない。
 こんなことを踏まえて冒頭の格言を振り返ると、 "シニカルさ" とは異なった面も見えてくるような気がするのである。
  "罰" と言ったって、恐れるに足らず、耐えて耐えられないものじゃあるまい、皆が耐えてきたのだからという面がひとつであろうか。また、苦痛を不条理なものと決めつけて心が撹乱され続ける不幸を選ぶよりも、苦痛を "罰" だとして受忍することで "心安らか" となること、そんなことを促しているいるとも考えられなくはない。 "罰" というものは、苦痛だけを指すものではなく、 "罪を贖う" という "心(魂)のバランシング=平静確保" 機能という重要な別側面をも持つと考えられているからだ。

 実は、今日なぜこんな "老い" の意味を問うことになったのかには、きっかけがなかったわけではない。とあるTV番組で、明後日25日が三島由紀夫の割腹自殺の命日だと報じ、彼の自殺の一因には、 "老い" を拒絶するという思いが見え隠れしているとの指摘があったりしたからなのである。
 この辺の問題は、事件当時から考えさせられたものであったが、なんせ当時二十代であった自分にはとてもリアルな問題としては考えられなかった。
 だが、今自分がこうして "老い" に接近しはじめた時、また、社会全体に "老い" の問題がクローズアップされる時、他人事ではない問題として見つめる必要を感じているのである。
 自身の考えは到底まとまるはずがない。だが、今日のところは、少なくとも、いろいろな意味において、 "潔く罰を引き受けようじゃないか" ということになりそうである…… (2007.11.23)


 もっと、 "しょうがない" とあきらめるてみることが必要なのかなぁとか、無いものねだりはストレスを高めるだけのことかもしれないとか……、そんなことを何気なく思い浮かべたりする昨今である。これは、このご時世で多くの人が多かれ少なかれ感じていることなのかもしれない。
 確かに、イライラしたところで何の益にもならず、精神衛生上よくないだけであろう。むしろ、ただでさえ心もとない勘を狂わせたり、いろいろな判断を鈍らせることにつながってしまうものだろう。
 このところ頻繁に思うのであるが、現在のような時代状況にあっては、とにかく心を疲弊させずに "平静さを保つこと" がことのほか大事なことになるのかもしれない。
 まるで、破廉恥なボクサーとの対戦のようであり、相手の挑発に乗って感情的となって手数を打ち出すことを誘われると、不毛な疲れとエネルギー消耗ばかりが増すだけなのかもしれない。

 こんな心境に呼応するかのような文面が目に入った。けさの朝刊の書籍広告欄であった。
< 養老孟司『養老訓』(新潮社) 著者七〇歳記念刊行!
上機嫌で生きるための、人生の道しるべ
仏頂面で暮らすのか、にこにこしながら逝くのか。些細なちょっとした知恵で、人生が変わり、豊かになっていく。

知恵のかずかず
◎仕方がないで片付けよう
◎夫婦は向かい合わないほうがいい
◎一本足で立たない
◎柔らかい地面を歩いてみる
◎「自分のために生き」ない >

 あくまでも "広告欄" の文面であり、書店などで手にとって流し読みをしたわけではない。それにもかかわらず、さすがに養老孟司氏(あるいは、新潮社の編集企画)は、昨今の人々の "最大公約数" 的意識状況をうまく照らし出していそうだと感じたのである。
 もはや、この国この社会の現在には、 "理想" はおろか、 "常識的な原理原則" さえ溶解してしまい、それらを基準に真っ当に生きようと構えている人々は、激しい "絶望感" や "無力感" に苛まれていそうである。
 そこまで行かないまでも、 "常識的で真っ当な基準" を頼りにしようとすればするほど、立ち腐れた現実によって、虚しい落差感と容赦のないストレスとを投げ返されていそうである。 "正直者が馬鹿をみる" 様相、 "悪貨が良貨を駆逐する" 光景があっという間に蔓延してしまった観が拭いきれないからだ。
 もはや、 "立て! 万国の常識人!" と叫ぶのは、 "場違い" でさえありそうな気配が漂っているのかもしれない。むしろ、ここは、 "常識人、良識人" たちが悲惨な "絶滅種" とならぬように "外出禁止の注意を呼びかける" というのがせいぜいのところなのであろうか。
 『バカの壁』以来の養老氏のメッセージの軌跡は、この『養老訓』に至りそんな印象を及ぼすのである。

 何だか "じわーっ" と了解できてしまうのである。そんな "保守的"、"事なかれ主義"、"自閉気味" じゃあマズイんじゃないですか、と "便所の100ワット" 的空々しさでは言えない自分に気づくのである。
 <知恵のかずかず>と称されたひとつ、<◎仕方がないで片付けよう>というのも、そうなんですよね。 "べき論" や "普通なら論" を盾に取って熱くなったって、結果的には "蛙の面に小便" となり、当方側の精神衛生悪化だけがお土産で残ってしまう。下手をすれば、 "野良犬に手を噛まれる" 不測の不幸さえ手にしてしまう。
 <夫婦は向かい合わないほうがいい>というのも誰しもが実感することのようではなかろうか。まして、もう大分以前から旦那の方は見切られていたはずである。 "亭主、元気で留守がいい" とは誰が言いはじめたかは知らねども、淡々と事の本質を射抜いていたのやも知れぬ。外部の "社会的矛盾で満身創痍" となった者たちが、見つめ合って生まれてくるものは、好ましい結果である以上に "行き場を失って鬱積するもの" 、不満やストレスの一触即発の危険なのかもしれないと "とんでもなくリアル" なことを感じたりしている。
 <◎一本足で立たない>とは、やや意味深であるが、要するに、 "不安定な立脚" は、王選手のような天才、努力家でない限り、こんなご時世では危険この上ないということであろうか。攻め倒されかねないですぞ、と。あるいは、 "一つの碇だけで停泊するのではなく、もう一つの碇を" というリスク・ヘッジのことであろうか。いずれにしても、そうでなければ心にゆとりは生まれないということなのであろうか。
 <◎柔らかい地面を歩いてみる>というのは、養老氏の持論とも思われる "人間の自然" というものを回復することが、心の平静への道だということなのであろうか。
 そして、<◎「自分のために生き」ない>という逆説的警句は、 "科学的宗教家" の養老氏ならではのメッセージだと感服する。考えてみるに、あらゆる心の撹乱は、すべて "オレが、オレの" という構えからであることは言わずもがなの事実であろう。また、心に潜む覆い切れない虚しさの原因もまた、他者の不在という点以外にないのだろう。 "共生" というスタイルでしかあり得ない本質的構造で構成された人間であるにもかかわらず、「自分のため(だけ)に生き」ようとしてしまう業(ごう)の深さに引きずられてしまうこと、それこそが心の平静や上機嫌をしっかりと損なう最大の理由なのであろう。

 養老孟司著の『養老訓』が、名著であるのかどうかが問題なのではない。むしろ、ベストセラーを連発した編集者たちが、こうした "素材、テーマ" が多くの共感を呼ぶであろうと睨むほどに、この現在、心というものを処しかねている真っ当な人々、心を病んであえいでいる人々が少なくなさそうな現実、それが問題なのだと言うべきか…… (2007.11.24)


 昨日、次のようなことを書いた。
<もはや、この国この社会の現在には、 "理想" はおろか、 "常識的な原理原則" さえ溶解してしまい、それらを基準に真っ当に生きようと構えている人々は、激しい "絶望感" や "無力感" に苛まれていそうである。>

 今朝の朝刊の "文化" 欄で、「原則論を語る言葉を失ってきた」という言葉を見つけて溜飲が下がる思いとなった。
 由里幸子執筆のコラム、『「国論が大変に軽くなっている」「原則論語る言葉を失ってきた」 2作家が「言葉」みつめる時評集』である。
 < 言葉が軽くなっている。老舗の保証が保証にならず、「防衛」にかかわる人たちのわきの甘さにびっくりする、そんな日々が続く中で、作家の時評集、池澤夏樹さんの『虹の彼方に』(講談社)と高村薫さんの『作家的時評集』(朝日文庫)を読むと、とりあげられた時事的テーマとは別に言葉に何が起こってきたかを考えさせられた>
と、書き出されている。そして提起されている問題とは、思考を紡ぎ出すはずの言葉が実に軽く成り果ててしまい、その結果<原則論>さえ語られなくなってしまったというお粗末きわまりない現状についてなのである。

 池澤夏樹の著作からは、 "軽くなってしまった" 言葉や国論がなぜそうなったのかという指摘が注視されている。
<自衛隊のインド洋行きが実現したあとの02年2月。「重かったはずの国論が大変に軽くなっている」。池澤さんは…(その原因を)…「心地よく、抵抗感なくするりと心に入ってくる広告的な、テレビ的な言葉」だと考えた。>
<「ここ何十年かで日本人はものを考える代わりに感じるようになった。水から空気までのすべてが商品と化し、人は感性で、つまり一瞬の好き嫌いの判断で、それを選ぶ。それを促すための滑らかで詐欺的な言葉遣いが日本語の最も日常的な用途である。われわれは互いを売り合っている」>
 確かに、われわれは<テレビ的な言葉>に "汚染" され続けてきたのかもしれない。 "公共放送" だというそれだけの理由、しかも四六時中流れるという物理的理由によって、自分の言葉を棚上げにして<テレビ的な言葉>に身を任せ続けてきた。
 また、受け手のそうした杜撰さをいいことにして、送り手側は "好感度(ウケ)" だけが良さそうな劣悪な言葉を並べ立て、巻き散らかしてきたかに思われる。CMはもちろんのこと、他の番組においても、いかにその場だけの<感性>に訴えるのかという点に力点が置かれているかは見え見えであろう。
 もともとテレビとは、 "画像" 中心のメディアであるため、どうしても<感性>に引きずられがちとなりそうである。いわゆる "見た目" が額面どおり勝負の世界のメディアということだ。言葉が、限りなく "脇役" 化し、添え物的に軽くなっていくのは道理なのかもしれない。
 ところで、<自衛隊のインド洋行き>が出たのでついでに書くならば、つい先日の "自衛隊撤収" の報道も腑に落ちない思いがしたものであった。家族たちが港で "海軍旗" を振りながら給油船を出迎えている光景であるが、それじゃあまるで南極越冬隊の帰還そのものではないか、それと同種の画像的印象を振りまいて正当な報道と言えるのだろうか、と大いに疑問を持ったものである。こうやって、画像的メディアのテレビは、人々の判断をなし崩し的に取り込んでいくのかと思えたのである。

 高村薫の著作からは、まさに "なし崩し" 的に失われたとされる<原則論>の問題が注目されている。
<高村さんのほうは、04年のイラク派兵のときに、国が大きく方向転換した決定的なきっかけが見あたらないことをあげて、日本社会は「原則論を語る言葉を三十年くらいかけて失ってきた」とふりかえっている。……結局、世代を超えた共通の基礎である「言葉」が失われているためと考えて、「言葉の復権」を訴えている>
 そして筆者は、次のように結ぶこととなる。
<社会を動かすのは、お金でも、石油でも、科学技術でもない。ひとつひとつの言葉への信頼である。わたしたちは、それを軽視した結果、互いを安売りしあって、ここまで社会のタガがゆるんできたのではないか。では、言葉が重さをとりもどすためにはどうしたらいいのか。あきれはてるだけでなく、ひとつひとつのできごとに、きちんと怒ったり、悲しんだり、語り合ったりする。そんな積み重ねしかない>と。

 こじれたというよりも、まるで国民的規模で "放置" されてきたかのようなこの問題は、決して楽観的な見通しが持てる種類のものではなさそうな気がしている。ことによったら、安易に "どうしたらいいか" とお定まりを言うのではなく、現状と悪化する今後がどんなに悲惨なことになるのかを腹を据えて想像することが先なのかもしれない。こんなことはイヤだと心底拒絶し、忌避したくなる実感をこそ "復元力" の核とすべきかと…… (2007.11.25)


 今年の "冬季賞与" は、経営者としての頭痛の種にもならずどうにかまずまずの水準で出せそうである。
 経営者としては、とかく賞与支給というものは頭が痛くなるものである。それなりにまとまった支出額となるからであり、売上という入りの方が、特に賞与支給月だからといって増えるわけでもないからである。もう、こんな苦労をして20年ほどになろうとしているが、毎年毎年同じような苦労続きである。
 こんなことを言っては何だが、税金に持って行かれるくらいなら、社員の励みとなった方が遥かに妥当性があると感じている。先のことはわからないが、今年度は、社員の励みというか、社員の落ち込み阻止ができそうで "ほっ" としている。

 しかし、給与支給の際にもそう感ぜざるを得ないが、賞与支給 "明細書" を見ると、せっかく社員に "ほっ" としてもらおうと思っても、 "控除額" が大きいのにはがっかりした気分となるものだ。 "所得税" に、 "厚生年金保険" に、 "健康保険料" と、何と自動的に "差し引かれる" 部分が小さくないことか。
 もちろん、納税をはじめとした、保険料などの負担は、 "国民の義務" である。ただ、 "役人・官僚・政治家たちの遵守義務" の履行が不透明となったり、 "公金横領" や "贈収賄" などによる "税金浪費" などが蔓延すると、 "高負担感" のみが刺激されるというのが庶民感覚ではなかろうか。
 大企業はいざ知らず、小規模な民間企業とその従業員たちが "納税" 義務を真っ当するためには、 "地を這う" ような努力をしなければならないはずである。それを熟知した "公務員" たちであってくれて、 "協力的、生産的" に公的領域の管理を実践していたのであれば、きっと公的財政逼迫の現状ももっと別の色彩を帯びていたのではなかろうか。

 よく指摘されることであるが、現状の "行き詰まり" 状態の根底には、公的機関における "出(支出)に甘く、入り(税収、国民負担額)にのみ依存!" という最悪の体質が横たわっているに違いない。そして、これを放置・助長しているのが現状の政治・行政であり、この点こそが抜本的に是正されない限り、現状の大きな悪循環は国や社会の "息の根" を止めるところまで転げ込んで行くのではあるまいか。
  "笊(ざる)で掬う" ことの愚かしさに反応できない者たちが、公の場で偉そうな顔をしたり、時間を潰しているのがこの国の残念ながらの実情だと見える。 "王様は裸だ!" と叫ぶ子たちのように、 "現行の政治・行政は笊(ざる)だ!" と、声を揃えて叫ぶべき時なのであろう…… (2007.11.26)


 オーストラリアの政治状況は、とかく暗く沈みがちな国際情勢に仄かな灯をともしたかのようである。これで、ブッシュ米大統領の盟友、ハワード氏が首相を降りることとなり、イラク戦争に加担してきた世界のリーダーたちがことごとく退いたことになる。
 やはり、 "人の世の道理" は、クイック・レスポンスの姿を現すとまでは行かないまでも、しっかりと立ち上がってくるものだと思もわされた。この国、日本も、あまりにも "人の世の道理" というものを長く眠らせ過ぎていると、世界からは日本にはそんなものは無いのだと言われかねないのではなかろうか。

<豪総選挙、野党・労働党圧勝 11年ぶり政権交代
 オーストラリア総選挙は24日投開票され、野党・労働党が下院(定数150、小選挙区制)の過半数の議席を獲得し、ジョン・ハワード首相(68)率いる自由・国民両党の保守連合から11年ぶりに政権を奪回することが確実になった。次期首相になる労働党のケビン・ラッド党首(50)は若さを訴え、経済政策では与党に近い路線をとって支持を広げた。公約に掲げた京都議定書の早期批准やイラクからの一部撤兵に向け、豪州はかじを切ることになる。
 ハワード首相は24日夜演説し、「私はラッド氏に電話し、労働党の勝利を祝福した。私は首相の職を去る」と敗北を認めた。自身の選挙区でも苦戦しており、現職首相が落選すれば1929年以来となる。首相は小泉純一郎元首相、ブレア前英首相とともに「テロとの戦い」を主導する米ブッシュ大統領の盟友だった。
 ラッド氏は同夜、地元ブリスベンで「国民みんなで歴史の新たなページを記そう」と勝利演説した。対米関係重視では変わらないものの、1500人規模の部隊の段階的撤兵を訴えたイラク派兵などでブッシュ政権から距離を置くとみられ、国際政治での米国の立場にも影響を与えそうだ。
 また12月3日からインドネシア・バリ島で「ポスト京都」の枠組みを話し合う国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP13)に自ら参加する方針。「ポスト京都」に向けた論議にも弾みがつくと見られる。
…… >(2007/11/25/ asahi.com )

 ケビン・ラッド党首が率いる野党・労働党の圧勝が象徴的に意味することは、やはり<公約に掲げた京都議定書の早期批准やイラクからの一部撤兵>という点だと思われる。それは、未来を信じようとする世界中の多くの良識人たちが切に望み、ブッシュ米大統領勢力だけが反対する政治選択だということでもあろう。ということは、国際的に見て "正しい" 政治選択へ歩み出たということ、と同時に "米国追随" の立場に距離を置き、自立的な一歩を画期的に踏み出そうとしたのだとも理解できる。
 この点が、実に羨ましいかぎりなのである。この国、日本のわれわれは、世界には米国しかないような認識と感覚に追い込まれているかのようである。そして、言うまでもなく、それは自然な成り行きで出来上がっているのではなく、長い期間の保守政権と、度し難い官僚機構、加えて気骨や恥も外聞もないマス・メディアといった "包囲網" によって構成されてきたし、今なお維持されてしまっている、と見なせる。
 その間に、取り返しがつかないほどの "地球温暖化現象" が悪化し、無意味なイラク戦争によって膨大な数の人間の命が失われるとともに、消えることのない "火種" が世界中に撒かれることとなったわけだ。
  "地球温暖化現象" の問題に関しては、 "京都発" という貢献の跡も窺えるが、それとて "親米" の立場であった日本が、なぜ米国を説得できなかったのかという致命的な謗りをまぬがれないだろう。
 しかも、イラク戦争に関しては、 "親米" の立場をいかんなく発揮してか戦争を十分に "支持・支援" してきたことは疑う余地がない。それは今なお、イラク戦争にも "火に油を注ぐ" ことになったと疑われている "インド洋給油" というかたちの "対米追随" 姿勢を見ても一目瞭然なのである。

 日本は、かつて "エコノミック・アニマル" の国だと揶揄されたものだ。今や、その "取得(とりえ)" さえ危ぶまれるに至っているが、もし仮に "エコノミック・アニマル" であるならば、 "アニマル" らしく "鋭い嗅覚" を働かせるべきなのではなかろうか。
 つまり、現状の米国が "貢ぐ" にふさわしい状況にあるのかどうかに対してである。
 先ず第一に、 "貢ぐ" という言葉が不適当であるならば、日本は米国と "対等で友好な関係" を形成しているのだろうか。残念ながら決してそうは見えない。米国はすでに日本を "パッシング" しはじめ、中国や北朝鮮への外交政策にご執心だと見えるからだ。米国にとって日本は、 "危ない国でもなければ、もちろん頼れる国でもない" というのがホンネとなっていそうである。あとは、経済的に引き出せるものはとことん引き出すべし、という抜け目なさで見ているかのようである。こんな観点こそ、 "アニマル" の "鋭い嗅覚" は嗅ぎつけなければならないはずではなかろうか。
 そして、もうひとつ、昨今にわかに危険視されはじめてきた "ドルの崩壊" 傾向という兆候に対してもクンクンと鼻先を向けるべきではないのか。現在のような "どっぷり米国" 姿勢では、 "ドルが転べは円もまた" 以外は考えられないのではなかろうか。いや、この調子では、 "ドル危機" のツケが "円" にしっかりと振り向けられるという、日本にとって最悪のシナリオが実現させられてしまうのかもしれない。

 いずれにしても、米国という "ご主人" に付いてゆきさえすれば……という "対米追随" 姿勢にはそろそろ見切りをつけるべきではないのかと思わざるを得ない。オーストラリアを羨望の目で見るのは、こうした思いが潜むからである…… (2007.11.27)


 空はどんよりと鉛色で、風は肌寒く吹く。今日のような天候は、人の気分を押し下げずにはおかない。そして、この天候に呼応するかのように、メディアは朝から "陰惨な事件" の一端を報じている。
 言うまでもなくどんな犯罪事件も、人の心を寒からしめるものだ。そして今回の事件、 "香川・坂出の祖母・孫不明事件" もまた、伝えられる捜査結果を知るだけでもやり切れないほどの沈鬱さが誘われるものであった。
 最近の事件は、世相を反映して "金銭的な困窮" の絡むものが目につくが、今回の事件も、容疑者の足元には "借金苦" という事態が横たわっていたかのようである。と言ってもそうした苦悩の事実は、容疑者が犯したとされる残忍な犯行を何ほどにも弁護するものではないはずである。まして、今回の事件では、先日も書いたように、<どんな経緯があるにせよ、当該の幼児姉妹にはまったく "無関係" だということ>なのである。

 だが、容疑者をここまで残忍にさせたと伝えられる原因が、 "借金苦" であったと伝えられる点は、こんな時代環境にあっては、けっして特殊な他人事だと見過ごすべきではないと思われてならない。
 庶民の "借金苦" はとかく "サラ金" 絡みの地獄に足を踏み入れがちであるが、その "蟻地獄" では、現に多くの人の命が奪われているわけである。自身で自身の命を奪うという自殺のことである。
 決して、殺人と自殺とを同列に考えようとしているのではない。そうではなく、過酷な "借金苦" というものは、人を想像を絶する "異常な状態" へと突き落とす可能性があり得る、という事実に目を向けたいのである。そして、そうした過酷な "借金苦" が発生してしまう社会的環境を何とかすることが、悲惨な事件を抑止する手立てのひとつだと思わざるを得ないのである。

 こんな残忍な事件を目の前にして、なぜ容疑者を激しく詰(なじ)らないのかと言われそうでもある。しかし、それに徹する風潮だけでは、この種の犯罪を抑止するにはあまりにも心もとないのではなかろうか。
  "世の中には、善人と悪人がいるのではなく、人が善をなす状態と悪をなす状態とがあるということだ" という意味の言葉を目にしたことがある。
 善悪というものは、各人自身が人の属性として持つようなものではなく、各人が遭遇するさまざまな影響の下で達したり、陥ったりする "精神状態" 、それが決定してしまうもの、だというのが妥当性を持つのではないかと考えている。これを極論するならば、人としての "責任" や "人格" という概念が崩壊に至るという理屈はわかる。が、逆に、善悪が "人格" と重なり、人には "善人" と "悪人" とがいると見なすのはあまりにも荒唐無稽であるように思えてならない。
 そうした荒唐無稽な善悪観では、現在あまねく発生している異常で不可解な犯罪というものは認識不可能になりはしないか、そして、そうであるがゆえに、犯罪の未然防止も難しいのではないか、とそう思うのである。

 今回のような残忍な犯罪がマス・メディアを騒がす際、取材陣もTVキャスターも、コメンテーターも、そして茶の間の視聴者も、要するにすべての者が、自身を "善人" と確信し、 "容疑者=悪人" というような "仕分け" を行うことで冷静さを装うことになる。しかし、それが荒唐無稽であることは、明瞭であろう。絶えることのない事件を見れば、かつて自身を "善人" だとTVの前で確信した者たちが、犯人としてまったく含まれていないなぞと一体誰が請け合うことができるか、ということなのである。
 先日は、この事件に関して< "無関係な被害者" が犯罪に容易に巻き込まれてしまう社会的可能性がますます増幅されている>と書いたものであった。しかし、唐突に聞こえるかもしれないが、もうひとつ書くべきことがありそうだ。
 それは、 "人という存在は、最悪な状況や状態が重なれば、それに即した行為を選択してしまう可能性がある" という慄然とする事柄なのである。
 決してこれが杞憂でないことは、どんな理由で弁明しようとも "殺人" 以外の何ものでもない "戦争" を、残念ながら阻止することができないのが人間だということを知るだけで見当はつくはずである。
 だから、こんなに "不確実で頼りない存在" である人間を、決して "追い詰めてはならない" ということであり、そんな "アブナイ環境" を不用意に作ってはならない、ということになる…… (2007.11.28)


 当社の、現時点での "派遣業務" は、極めて限られている。長年お付き合いしてきたユーザーとの関係、長年協力いただいてきた技術者との関係で継続を余儀なくされたケースに限って行っているに過ぎない。
 元来、ソフト開発というものは "時間で精算" することに馴染むというよりも、アウトプットそのものという成果でこそ評価されるものだと考えている。だから、いわゆる "請負形態" こそがふさわしいものと考え、これを中心に運営したいがためである。
 ただ、ユーザーの少なくない企業がどういうものか "派遣形態" を望まれるため、営業上やむを得ず対応させていただくというのが実情だったのである。
 ソフト会社にとっての "財産" は、言うまでもなく "蓄積された技術力" なのであり、この点に焦点を合わせるならば、自社内における開発という "請負形態" でなければなかなか奏効しないと思われる。
  "派遣スタッフ" の要請にはいろいろな事情があり、中には、まさに急遽 "オーバーフロー" した作業量を短期間にこなし切らなければならないといった共感できる事情もないことはない。
 しかし、この業界では、昨今だけに限らず、 "常時" 、 "派遣スタッフ" を招き入れて自社や受注後のソフト開発を行うといったケースが多いのもまた実情だ。要するに、 "人件費コスト" の圧縮だけがねらいのケースである。わからないわけでもないが、長い目で見た時、肝心なものが蓄積され得ないというマイナス面の方が馬鹿にならないのではなかろうか。
 ただ、ビジネス全体が、否応なく "短期決戦" の場と化している実情からすると、 "派遣スタッフ" 依存のソフト開発スタイルは止みそうにないのかもしれない。

 技術者自身にとっても、できることならば自社の "請負形態" のジョブに長期的に参画して、長期的な観点で腰を据えて技術力練磨に励むのがベストだと言えそうだ。
  "派遣形態" の現場で技術力を高めるというのも不可能ではなさそうだが、 "派遣形態" というジョブ・スタイルが不可避的に秘めた "ワナ" が問題でありそうである。どうしても、 "派遣形態" という契約スタイルは、 "時間で精算" という観念に縛られ、技術者にとって不可欠であろうと思われる "結果への責任" という主体的要因が今ひとつ希薄となりがちになるのではなかろうか。
 古風な言い方のように聞こえるかもしれないが、仕事というもの、プロジェクトというものは、往々にして "人柱" という生贄(いけにえ)を要求するものであり、これを引き受ける "つわもの" が現れた時に無事収束するものなのかもしれない。そして、そうした "つわもの" となろうとするならば、やはり日頃から "結果への責任" という主体的要因に磨きをかけておかなければならないようである。

 ところで、このソフト業界での "派遣スタッフ" 自身にとっての関心は、やはり自身の技術力がその現場で磨けるのかどうかという点が中心となりそうではある。
 しかし、今ひとつ小さくない関心事は、言うまでもなく "ペイメント" であろう。前述したように、 "派遣形態" を望む企業にして "人件費コスト" の圧縮を念頭に置いているのだからコスト問題はシビァとならざるを得ない。また、そうしたユーザーに呼応していく "派遣業者" にしても、 "収益の最大化" が主要な関心事となろう。そして、これらの結果として、 "不満" を呼びがちな "単金" が "派遣スタッフ" に訪れがちとなりそうなのである。環の最も弱い部分に、いわゆる "しわ寄せ" が及んでゆくのが現実なのであろうか。
 そして、 "派遣スタッフ" たちは、結局、次のような処理し切れない "不満" に到達するようである。
「 "派遣会社" は一体どれだけ "ピンハネ" をしているのか?!」と。
 もちろん、 "派遣会社" は、種々の "管理費" を費やさなければならないわけだが、その事実的なことは不明であるし、 "派遣スタッフ" たちにしてみればなおのこと不可解なのであろう。現に、 "管理費" に相応するような汗も流さずに、 "高率" なマージンを取得している業者も少なくはないとも……。

 今日、以下のような報道が目についたが、これはやや遅きに失する動向だと思えた。

<派遣料金の公開を要請へ 厚労省、マージン明らかに
 労働者派遣法の見直しを検討している厚生労働省の労働政策審議会(厚労相の諮問機関)の部会は29日、労働者を派遣した際に派遣元が派遣先から受け取っている派遣料金の情報公開を進めることで一致した。厚労省は今後、派遣法に基づく指針を改正し、派遣会社に対して公開を要請する規定を盛り込む方向で検討する。労働者側にとってマージン(派遣手数料)がわかる意義がある。
 労働者派遣をめぐっては、派遣会社が受け取る派遣料金に比べ、労働者の賃金が低すぎるとの批判があり、労働者側はマージン率に上限を設けるなどの規制強化を求めていた。
 審議会は、経営側の抵抗が強いため上限を定めて規制するのは難しいと判断。ただ、派遣料金の公開で労働者側にマージンが分かるようにすることは必要、とする見解で一致した。
 また、この日の審議会では、違法行為が横行している日雇い派遣については、何らかの規制強化が必要との意見でも一致し、厚労省は今後、具体的な規制内容を検討していく方針。>(2007/11/29 asahi.com )

…… (2007.11.29)


 明日からはもう "師走" となる。何となく "煽られる" 感触となってしまっている。
 実際、細々とした雑事が山積しているというのもその理由であろうが、何だか最近は、時代環境から "煽られている" ような雰囲気がありそうだと感じている。いいことだとは思わない。万事 "マイペース" が性分であったはずの自分が、何となく揺さぶられているかのようであり釈然としない。
 たぶん、この、人を "煽る" ような雰囲気というものが、この時代環境のいやらしいところなのであろう。人を "煽る" とは、 "あれはしましたか? それはどうですか? もちろん、これは済ませましたよね……" というような風潮のことを指しているのだが、実に不愉快である。
 そんなことは "無視" すればいいのかもしれない。いや、結構、そうしているつもりではあるが、ところが、環境や対他関係において "鈍感" ではありたくない、できれば敏感でありたいと望んだりするものだから、 "余計なお世話" だと言いたい現象をも視野に入れてしまうからよくない。つまり、気にする必要のないことを気にしてしまう結果となるわけだ。要するに、自身が腰の座らない姿勢でいることが根源にあるからかもしれない。

 こうしたことを書くのは、こういった心理的傾向(とそれを助長する社会現象)が、決して自分ひとりの特殊な出来事だとは思えず、ひょっとしたら、この "悪しき風潮" が世の中を悪化(?)させている無視すべからざる原因なのではあるまいか、と疑っているからなのかもしれない。
 もう大分以前から、人々が "心にゆとりがない" と感じるのは、 "懐にゆとりがない" と感じることに優るとも劣らないほど一般化していると言われてきた。 "狭い日本、そんなに急いでどこへ行く" とは、日本人の自嘲気味ではあるが、よく実情を言い当てた川柳だと思える。

 冒頭の、人を "煽る" ような雰囲気ですぐに思いつくのが、クルマに乗っていて後続車が "煽る" がごとく迫るという光景であろう。オレは急いでいるんだから、制限速度なんか気にせずスピードアップしろよ、と言わぬばかりに "煽る" 後続車がよくあるのではなかろうか。まさに、 "そんなに急いでどこへ行く" と言ってやりたいわけだが、結局ご本人は到着先で大したことをしていないというのが相場なのではないかと思う。
 つまり、何か "目的" があってのことというよりも、言ってみれば "急ぐために急ぐ" というのが実情のような気がしてならない。
 まあ、昨今の経済情勢の中で、運輸業者などが "煽られている" 現実があることはあるだろう。しかし、それは不当な労働強化などによって "煽られている" のであって、それは取り締まられこそすれ、是認されていい事実ではないはずである。
 それに、公道、一般道路というものが、何故に "業務車両" 優先とされなければならないのかという点もおかしい。しかも、いわゆる生活道路と称される道路にまでその傍若無人さが広がり、通学児童たちを被害に巻き込んでいるとするならば、何をか言わんやであろう。ここには、昨今、ようやく注視されるようになった "生産者中心主義" 的行政の確たる名残があると見える。

 やや横道に逸れつつありそうだが、まとめると次のようになろうか。
  "生産者" 、 "業者" は、ひたすら収益向上のために自身を "煽って" 急ぐ。ただ、収益向上が何のためというその上位の "目的" はどうなのであろうか?
 また、生活者は、すべてがそうだとは言えないにしても、 "煽られぐせ" が常態化してのことなのか、定かな "目的" があるわけでもないのに自身を "煽って" 急いでいるかのようだ。
 こうなってくると、何がどうだという視点なんぞは吹っ飛んでしまい、皆が皆 "急ぎ" 、そして皆が皆、他者を "煽る" 結果となり、 "急ぐ" と "煽る" の両輪が、押しも押されもせぬしたたかな風潮をでっち上げてしまいそうである。

  "急ぐ" ことや "煽られる" ことに根拠なんぞ何もない、そもそも "目的" が度外視されているかのような文脈で発生しているのだから虚構でしかない、とそう開き直れたらどんなにか現代人は救われるかしれない。
 少なくとも、 "急かされたり、煽られたり" して生み出したものにろくなものはないと言ってのけるべきであろう…… (2007.11.30)