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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2007年10月の日誌 ‥‥‥‥

2007/10/01/ (月)   "こんな時代環境だからこそ、気勢を上げるべし" ……
2007/10/02/ (火)  どこでどうやって迷子になってしまい……
2007/10/03/ (水)   "故郷の匂い" は、ひょっとしたら故郷の風土に欠かせないものか……
2007/10/04/ (木)   "夕焼け空" が示唆してくること……
2007/10/05/ (金)   "未来" という言葉は "本来" という過去の事実を指す言葉から……
2007/10/06/ (土)   "変わり者もどき" たちの再度の挑戦……
2007/10/07/ (日)  一億総 "金尽(かねずく)" 意識が……
2007/10/08/ (月)  後の荷台かごにちょこんと座ったワンちゃん……
2007/10/09/ (火)  子どもたちの "うつ病" 、そしてマス・メディア……
2007/10/10/ (水)   "ハイビジョン" 映像の精緻な画質に感嘆……
2007/10/11/ (木)   "大事なことを棚上げにする"ことと「重箱の隅を楊枝でほじくる」こと……
2007/10/12/ (金)  生命体の分子のながれは絶えずして、しかももとの分子にあらず……
2007/10/13/ (土)   "手頃な玩具" があてがわれた子どものようなものか……
2007/10/14/ (日)   "脳の疲労" と "十分な睡眠" や "良質な睡眠" ……
2007/10/15/ (月)  単純な二分法で裁断する発想には、 "卑しい下心" が隠されている?……
2007/10/16/ (火)   "ニューロン" が "入れ替わる" ことがないから "自分" がある……
2007/10/17/ (水)  情報化時代での "体験的" 記憶とその掘り起こし……
2007/10/18/ (木)  人間の "脳" と "文明や情報化時代の光と影" ……
2007/10/19/ (金)   "畳叩く" 人もいれば、 "セカンドライフ" へ跳ぶ人も……
2007/10/20/ (土)  落ちているかもしれないお金を "地を這う" ような格好をして……
2007/10/21/ (日)  うかうかとしてはいられないぞ……
2007/10/22/ (月)  身近なところでの経済・ビジネスの変化……
2007/10/23/ (火)  止むに止まれず "ネット・オークション" に飛び入り……
2007/10/24/ (水)  インターネットと地域社会との関係は、 "仮想性" と "実体性" とのバトル?……
2007/10/25/ (木)  今 "諸人" たちが集いはじめている "SNS" というジャンル……
2007/10/26/ (金)   "あればあったに越したことはないようなモノ" とは本当か?……
2007/10/27/ (土)  虚飾や小細工がないものたちはかわいい……
2007/10/28/ (日)  脳の基礎体力は、日常的な雑用を面倒くさがらずに片付けることで……
2007/10/29/ (月)  <脳の基礎体力>を低迷させる現代環境? ……
2007/10/30/ (火)  新聞社が、 "活字文化" から "デジタル文化" に向かうこと……
2007/10/31/ (水)  レコードからCDに音楽をダビングできるレコーダー ……






 果たして、 "巨大企業" と "マス消費者" という構造や図式は、健全な経済を発展させるのであろうか。
  "グローバリズム経済" のうねりの中で、各企業は国際的競争力を高めることを目指し、 "M&A" などによる買収・合併を余儀なくされながら、企業規模の拡大の一途を歩んでいるようだ。
 また、インターネット環境は、空間を越えた市場を形成し、やり方次第では、一企業に予想を上回るほどの "スケール・メリット" の追求と獲得とを可能としてもいる。
 要するに、現代の経済環境は破格の激しい競争関係によって、少数の「勝ち組」と大多数の「負け組」とを生み出しているわけだ。もう久しく指摘され続けてきた現代経済特有の傾向のことである。
 そして、この傾向は、良い悪いと云々しても始まらないほどにリアルな趨勢となってわれわれを追い込んでいるわけだ。
 そして、こうした趨勢の中で、巨大企業の収益向上という事実がことさら強調され、景気が回復傾向を辿っていると強調される一方で、 "格差社会" であるとか、 "地方経済の衰退" という悲惨な事実が生まれてしまっていることも、すでに周知の事実となっている。

 こうした現状をもたらしている "グローバリズム経済" そのものが "おかしい" と言うこともできるが、しかし、そんなことを表明したところで何も始まりそうにもないのが現状であろう。
 また、恐らくは、厳しい環境にさらされているのは、「負け組」と見なされている中・下層の大多数の庶民や、中小規模企業群だけでもなさそうであり、巨大企業とて、明日の命運が読めないような綱渡りを強いられているのだとも見なされている。
 が、やはり愁眉の問題は、「負け組」と称されるサイドの人々なり企業群が、どう一矢報いていけるのか、ということであるに違いなかろう。ただ、簡単なことではない。巨大企業とて、そのサバイバルのために窮地に追い込まれているわけなのだから、弱者たちが楽観的に、サバイバルの "ニッチ(隙間)" があると想定することは到底許されていないと見るべきなのかもしれない。

 かと言って、政治領域でよく言われるような、時代錯誤的な "ばら撒き" 行政(=公共投資などの復活)を期待したところで、前向きでも建設的でもなかろう。もとより、現状の財政難事情がそれを許すわけもなかろう。
 とすれば、「負け組」各位が、サバイバルのための "針の穴" ほどに小さい "ニッチ(隙間)" を、如何に追求するのか、挑戦していくのか、ということ以外に方途はなさそうである。先ずは、 "自力救済" の道しかあり得ない、と "背水の陣" を張ることが必須になりそうである。
 今度の首相(福田首相)でさえ、自身の内閣を "背水の陣内閣" だと口にするほどなのだから、時代は誰にとっても最悪だと考えれば、いくらかは悲観主義に陥らずに済むのかもしれない。
 ところで、こうした "背水の陣" 的時代環境にあっては、知性も欠かせないが、何よりも "気勢" が必須だろうと思われる。
 知性によって、状況認識を精緻なものとし、ロジカルな戦略戦術を構築すべきであろうが、知性は時として既成事実に寄りすがりがちとなり、行動を萎縮させがちともなる。こんな悲観局面の時代にあっては、知性が悲観的色調を帯びがちだということも合わせて踏まえておかなければならないと思われるのだ。だからこそ、 "気勢" を養うことを軽視したくはないのである。

 冷静に、我が身を振り返り、周囲を見回す際、とかく目につく点は、どんな理由があるにせよ "気力が萎えている" かのような気配が漂っていることではないかと察する。これが "自滅" への轍を深く刻む第一因子ではないかとさえ思われる。
 まあ、今日のところは、 "こんな時代環境だからこそ、気勢を上げるべし" と、ポーズを決めて後日につなげたいと思う…… (2007.10.01)


 先ずは言っておこう。それは "自己満足" 以外の何ものでもない、と。
 しかし、いいではないか、それで心細くなった人がいくらかでも気分がましになるならば……。いわゆる欺瞞的な "喜捨(きしゃ)" なのである……。

 その小柄な男を見かけたのは、16号線沿いの歩道であった。
 自分は昼食後のウォーキングでそこを歩いていた。このニ、三日は雨天、曇天で冷え込んだりしていたが、今日は久々に雲の間から陽が射していた。これぞ "日の目を見る" という光景かと独り、些細な悦に入る。
 いつもの歩道をスタスタと歩んでいると、前方の歩道の真ん中に、何やら小さめな等身大ほどの "ずた袋" のようなものが目に入ってきた。
 やがて、それは人影であることがわかった。右手に、古びたこうもり傘をまるで杖代わりかのようについている。
 遠くからは "ずた袋" のように見えたのは、その男が羽織っていた上着のせいであることもわかった。背丈に合わない大きなサイズである。その上着は、元は "ダウンジャケット" と呼ばれるものであったのだろう。しかし、後方から見る限り、背中にあたる部分は、内部の化繊綿が剥き出しとなっており、表面の生地はすべて破れ剥がれている。この間の雨に曝されたのであろうか、それは濡れているようにも見えた。
 その男の姿が、遠くからは "ずた袋" のように見えた理由はもうひとつあった。頭を極度に下げて、うな垂れて歩いていたからである。ほとんど前方を見ることもなく、アスファルトの地面にだけ視線を向けて歩いていた。もっとも、歩くといってもその速度は、誇張でもなく、虫が這うようなのろさであった。
 自分は、その男をそれとなく一瞥しながら、その脇を通り過ぎた。何とも言えない臭気が漂っていた。うな垂れた頭の頭髪は、伸び放題で大半が白髪であった。元 "ダウンジャケット" の前ははだけて、その下の衣類が見えたが、いずれも汚れ放題に汚れており、この男がホームレスであることを確信させた。

 通り過ぎた後、自分は、とあることを思い付いていた。そう言えば、事務所の前に停めてあるクルマのハッチバックに、 "ダウンジャケット" が突っ込んであるはずだと。
 最近はもうほとんど行かなくなってしまったが、一頃は、よく釣りに出かけたものだった。そして、釣れ時である夕まずめを待っていると川面や湖の上を渡る風が肌にしみることも多かった。それが、 "ダウンジャケット" をクルマに常備する理由だったのだ。
 そいつを、あの "ずた袋" 氏に着てもらおう、と思い付いたのである。自宅に戻れば、そのほかにいろいろな古着があり、それらを整理すると言えば家内がどんなにほくそえむかとも思ったが、そんな時間的余裕はない。
 歩道のその地点から事務所に戻るには、少し急ぎ足で数分はかかりそうであった。彼がどこへ向かおうとしているのかは知らないが、16号線に沿ってひたすら北へ向かおうとしているような気配が感じ取れた。また幸い、彼の歩む速度が信じられないほど遅かったため、これならば見失うことはあるまいと思い、自分は事務所へと急いで戻る。

 クルマで取って返すと、彼氏の姿は、想定していた歩道上にあった。クルマを歩道に寄せると、自分はジャケットと防寒ズボンの入った紙袋を携えてその彼の方に向かう。
 こう言う場合、何と呼びかけるのが "不自然" ではないかと一瞬の間 "逡巡" したものだった。しかし、考えてみれば、その男も "不自然" ならば、そんな男に唐突に自分の衣類を提供しようとする自分もまた "不自然" である。だから、 "不自然" がどうのこうのと言ってる場合でもなかろう、と開き直ったのだった。

「おじさん、これ着てくれるかい。これから寒くなるしね。それと、よかったら防寒ズボンもあるから……」

 その男は、顔を上げた。顔中ひげだらけであった。意外と若い感じがした。顔色が悪いというふうではなかった。そして、太い指の武骨な両手を差し出し、その紙袋を受け取った。何か、ぼそっ、と呟いたが判然としなかった。
 とりあえず、拒絶がなかったことに自分はどうということもなく安堵した。そして、同時に用意していた千円札一枚をポケットから取り出し、

「パンでも買って食べてよ」

と言いながらそれを差し出した。
 彼は、再び何かをぼそっ、と呟いて、それを受け取った。が、またまた彼の呟きの中味は判然としなかった。

 クルマに戻り、彼の後姿を探すと、角の横断歩道の手前で立ち止まっていた。左手に紙袋を提げ、右手側の紙幣を見つめているような格好であった。
 その姿を見ていたら、突然、妙なイメージを思い浮かべる自分であった。当たり前のことだが、あんな彼にも子ども時代があったに違いない。そして、親から頼まれたお使いに出かけた帰り道、片手に紙袋を提げ、片手につり銭を握りしめていた、そんな光景だってあったのやもしれない……、と。
 どこでどうやって迷子になってしまい、今のような心細い境遇となったものか……。うかつにも、自分は、目頭に熱いものを感じたりしていた…… (2007.10.02)


 今頃の時季には、キンモクセイの香りが芬々(ふんぷん)と漂うはずであるのに、今年はどうしたものなのだろうか。
 ちなみに、去年の日誌では、9月半ば過ぎからキンモクセイについて書き始めている。そして、今頃の日誌には次のように記していた。

<今頃の季節は、屋外はもちろんのこと、窓を開けている屋内でもキンモクセイの芳しい香りが漂っている。そうした香りに気づくだけで気分がさわやかになるから不思議だ。きっと、キンモクセイの香りは、言葉にして何とは自覚できないにせよ、その香りと結びついたさわやかな記憶を沸々と呼び覚ましているのであろう。(2006.10.04)>

 しかし、今年は事務所の近辺もその香りが一向に漂っていないのである。近所の家でキンモクセイの木を連ねて植えて塀のようにしているところがある。そこからも漂ってこないのだが、この家はいつであったか忘れたが、大胆な剪定をしていたような覚えがあるから、そのせいで今年は花が咲かないのであろうか。
 自宅の庭のキンモクセイには、あまり期待していない。家内が花芽のことも考えずに、夏場に枝葉を落としがちであるからだ。
 しかし、土日のウォーキングで馴染んでいる境川の遊歩道沿いに設えられたキンモクセイの植え込みまで、その香りを気づかせないでいるというのは、やはりおかしいのかもしれない。
 猛暑の日々が長く続いたことにより、キンモクセイたちの季節感覚がずれ込んでしまったのであろうか。そうだとすれば、些細なことではあるが、こうした季節の楽しみの時季まで狂わせているのが、異常気象だということになる。

 ところで、季節というものを想起させる "自然の香り" は、ただ単に情緒の面で意味があるというだけでなく、もっと深い意味がありそうな気がしている。つまり、 "自然の香り" というものは、人間の、いや生きものの "記憶" や意識に少なからぬ影響を与えていると思われるからなのである。
 去年の日誌にも、前述の記述の後につぎのように続けていた。

<もとより自分は、臭覚に敏感な方で(いや、人さまのことはわからないが)、匂いや香りに結びついた記憶を多く持っているような気がする。ちょっとした匂いや香りで唐突かつ瞬間的に過去のとある場面を想起することがある。まるで波間に現れた漂流物のようにすぐさま消え失せてしまい、手ごたえをもって自覚することすらままならないことも多々ある。それでも、そんなことを経験すると非常にありがたい気分となったりする。
 ……
 昨日は、「思い出せない記憶」という興味深い事柄について書いたが、自分の場合、匂いや香りが、そうしたものが確かに存在するということを示唆してくれる。きっと、犬や猫ほどではないにしても、臭覚と外界の認識とを結びつける度合いが小さくないのかもしれない。(2006.10.04)>

  "故郷の匂い" というような表現がしばしば使われるようだ。これは、単に故郷懐かしという気分を言い表す修辞ではなく、きっと "事実的" なことなのだろうと思う。
 人の世の営みとしての人工的な街自体が生み出す "匂い" というものも重要な要素であろう。だが、何よりも目を向けたい、いや鼻を向けたいのは、その土地の、あたかも定数のように変わらないはずの "自然の香り" である。それは、その土地固有の地形や、繁茂する植物や、そして生息する動物たちなどがこぞってふくよかに生成する "匂い" である。
 この "故郷の匂い" というものが、ひょっとしたら故郷の風土に欠かせないものであるとともに、郷土の人々の感覚や意識の根っこにあって、当該の人々の共同体的一体感を構成しているのではなかろうか。いや、そんな極論まで考えたくもなるのである。
 がしかし、時代の進展は、都市化の動向により地方の自然環境は変容させられ、そしてまた現在、世界的な異常気象の昂進によって、それぞれの地域の固有な気候が塗り替えられようとしているのかもしれない。
 かつて、郷土の人々に、言わずもがなの一体感をそれとなくもたらしていたかもしれない、そんな "故郷の匂い" というものも、次第にその自然的根拠が失われつつあるのかもしれない…… (2007.10.03)


 今日あたりの天候はようやく秋めいてきたと言えそうだ。こうでなくちゃぁ、と言いたくなる。まだ、西日本の方では陽射しが強く、いい加減にせい! とぼやいている人もいるに違いない。
 さきほどまで、オレンジ色に染まった夕焼けのような明るさがあった。それが、何となく秋めいた雰囲気をかもし出していたわけである。

 秋の夕暮れ時、 "夕焼け空" は悪くない。
 だが、そう感じるためにはある前提条件があるのかもしれない。きわめて主観的かもしれないが、できれば、その日一日を、忙しく仕事に勤しみ、汗でも拭き拭きタバコでも吹かして、ふと窓外の空を見上げると夕焼けがあった……、というような状況設定が好ましいのである。
 その時、言うに言われぬホッとした気分に包まれるや、 "夕焼け空" が、あたかも遠くから「ごくろ〜さ〜ん、お疲れさ〜ん」と声を掛けているかのごとく感じるのであろう。そして、古い世代の人であれば、「♪ "夕焼け空" がまっかっか、とんびがぐるりと輪を書いた〜、ほ〜いのほい……」という三橋美智也の歌の一節でもうなるのであろうか。

 能天気なことを書いているような気がしないでもない。
 ただ、そんな時代じゃなくなったのかなあ、と思えばこそ、こんなことを書いているのである。
 サラリーマンたちが、戸外の "夕焼け空" に無縁というわけでもなかろうが、彼らは、どちらかといえば一日中蛍光灯の照明下で働き、日が落ちてビルの玄関から吐き出されてはじめて戸外の様子を実感するのだろう。一般的には、という話だが。
 で、 "夕焼け空" なんぞに馴染みがあったりするのは、どちらかといえば第一次産業に携わる人々や都市の "自営業者" たちだとざっくりと見込んでいいのではなかろうか。農業・漁業従事者たち、そして町の地元の商店の人たち、町工場の経営者たち、そのほか自宅を拠点に仕事をするような人たちのことである。
 こうした人たちは、日々の天候であるとか、一日の太陽の移り行きといった戸外の自然の変化とともに生活しているはずである。だから、 "夕焼け空" についても、額面通りに相対しているのだろうと思うわけだ。
 自分も、学生時代にそんな職種のアルバイトをしていた頃のことを覚えている。 "夕焼け空" が、つつがなく一日の労働が終了したことを "激励" してくれたかのようであった。

 現在、こうした地域密着型の職種に従事する人々は、どんな心境で "夕焼け空" を迎えているのであろうか。この点に関心があったというわけなのである。
  "その日一日を、忙しく仕事に勤しみ" という "夕焼け空鑑賞必須前提条件" なるものが、健全な状態であるのだろうか。そうであれば余計なことであったが、実情はこんな経済情勢下で、立ち行かなくなったり、倒産したり、廃業したりと、いずれにしても、忙しく仕事に勤しみようがない、という状況が想像できないわけではなさそうである。
 彼らは、ちょいと前までの経済不況時には、「景気が悪いんだからしょうがないさ……」と自身に言い聞かせていたのやもしれない。しかし、景気が回復基調にあると宣言されてから後にも決して好転することがないことを知ると、時代から見捨てられてでもいるかのような寂しさを味わっているのではなかろうか。
 加えて、情け知らずのエコノミストや評論家たちが、自分の仕事にイノベーションを図らなければ落ちこぼれても無理はなかろう、なんぞとほざく時、ますます時代に取り残された惨めな自分たちを嘆くことになっているのかもしれない。

 本来を言えば、こうした人々が嘆かなければならないのは理不尽なのであろう。と言うのも、こうした人々の仕事への姿勢は、何も間違ってはいないと思われるからである。
 仕事の効率化だ、コストダウンだ、ITの駆使だ、斬新な視点導入だ、まあ、要するにひっくるめてビジネス・イノベーションだと言い張る者たちは、本当に確信をもってものを言っているのであろうか。遠い将来を見据え、自身の心の隙間風を見据え、真底自身が何を求めているのかを考えながらものを言っているのであろうか……。
 要するに、時代の空気に煽られ、ひときわ悪辣になっただけの経済構造に脅されながらものを言わされているのではなかろうか。人間にとって大事なことをすべて棚上げにしつつ……。

  "夕焼け空" ばかりではなく、まぶしいほどの朝日の輝きなどの自然の風情を、地域密着型の仕事師たちや、子供たちや、犬猫たちとともに、ゆったりと味わって生活すること。これを不可能にさせている時代環境は間違っている、と先ずは確信を持つべきである…… (2007.10.04)


 明日からまた三連休となる。9月にも三連休が二回もあり、こう続くと身体の方がそういうものだと思い込んでしまいそうな気がする。と言うか、三連休ではない週が逆に辛く感じることになりそうだということか。
 今回の祝日、8日は、「体育の日」だとかであり、元々は10日であったかと思う。1964年東京オリンピックの開会式のあった10月10日を記念しての祝日だったはずである。それが、祝日法とかとの関係で、土日の休日と合体させての三連休とさせられたようである。
 別に目くじらを立てることもないのだが、そう考えると記念日というものも随分といい加減なもののように思えてくる。現時点での生活者の都合の方が重視されるというのは自然な成り行きだと言うべきなのであろうか。
 それはそれとして、何の祝日だったかの意識が希薄となり、まあ休日なんだからいいか……、ということになってしまいそうである。何だか、過去の歴史的事実が薄められてしまうようであり、いいのかなぁ、という疑問をなしとはしない。

 しかし、こうした "対処方式" にこだわってみるならば、一般的に、実体的な事柄が、 "名目化" させられたり、 "タテマエ化" させられたりしているように思える。まあ、東京オリンピックの開会式ぐらいのことだから、まさに目くじらを立てることもないわけだが、どうもこうした風潮が寂しい気がしてならないのである。
 これは、地名についても言えることであり、歴史的な由来がある地名が、ありきたりの地域名や何丁目というような数値で置き換えられてしまう風潮のことである。どうしてそんな野暮なことを敢行してしまうのかと情けなくもなる。

 しかし、これがこのご時世の時代風潮というものなのだろう。ここにも、現代の機械的な合理主義や、効率化という、場当たり的で非歴史的な発想が見て取れそうだ。合理的で効率的でありさえすればそれでいいのかと、目くじらを立てて立ち塞がる "抵抗勢力" はいないのであろうか。
 いや、今やこの "抵抗勢力" という言葉自体にも、とことん否定的なニュアンスが被せられてしまい、 "改革を止めるな!" という "バカ" スローガンだけが通りを良くしているわけだ。
 こんなことを言っても、そもそも歴史的事実になんぞ目を向けようとしない者には "猫に小判" 、 "馬の耳に念仏" だと思われるが、あの第二次世界大戦のヨーロッパ各地で、ナチスドイツに抵抗した "レジスタンス" の輝かしさを、ちぃーとは思い起こしてもいいのではなかろうか。
 どうも、時代は、様々な貴重な歴史的事実を風化させるどころか、掘り崩し破壊しているかのような気配である。言うまでもなく歴史は貴重な遺産であり、 "未来" という言葉も "本来" という過去の事実を指す言葉から来ているのであり、過去の歴史を度外視して差し支えないとする現在の一般的風潮は、やはりかなりアブナイというべきであろう…… (2007.10.05)


 あさっての祭日「体育の日」の "前払い(先払い)" を済ませたというところか。
 今日は、再び、往復7〜80キロになろうかというサイクリングをこなした。町田の自宅から江ノ島までを、境川沿いの遊歩道・自転車専用道路を使っての走行である。一度春に経験しているため、もはや "敢行" したというオーバーな表現は差し控える。
 今日は、単独走行ではなく家内同伴であった。自分も家内も、それぞれが個別に経験していたため、今回は、安直に合意が成り立った。昨晩のことだったが、家内が、持ちかけてきたのである。
「明日は天気がよさそうなので、江ノ島へ行ってみる? 自転車で。」と。
 不思議でもないかもしれないが、実は自分も全く同じことを考えていたのであった。
 いかに天気が良い日とは言え、夏場は敬遠してきた。春の時季でさえ、数時間も日向を自転車走行していると、かなりの日焼けとなったものである。だから、今年の夏のような猛暑の中を敢行したならば、とんでもないことになりかねないと考えたのだ。
 そこで、日があまり短くなり過ぎない秋口の天気が良さそうな日……となると、今日あたりがベストチョイスではなかろうかと踏んだわけなのであった。 "日があまり短くなり過ぎない" という条件も、これまた欠かせない条件なのである。往復で6〜7時間は見ておかなければならないし、ヨレヨレとなるはずである復路の末尾が、日が落ちて暗くなっているというのは好ましいわけがなかったからだ。現に、今回は帰宅したのが午後5時半過ぎであり、はや真っ暗となっていたのである。
 今回は、午前10時過ぎに出発したのだが、もし、これ以降の時季に実施するとしたら朝はできるだけ早目にした方が無難だと思われた。

 今回の走行で "花" を添えてくれたのは、まさに "花" 、道路脇に咲き乱れる "コスモス" であっただろう。とりわけ、田園地帯である大和市に入ると、道路脇の長い範囲に渡って色とりどりのコスモスが目を楽しませ、気分を洗い流してくれた。マネー・ロンダリングといういただけないタームがあるが、自分は、ふと、 "マインド・ロンダリング" とかけてその心は、 "心が洗われる" と解いたものだった。
 それが大袈裟でもないのは、沿道のコスモスばかりか、その外側前方には、黄金色の稲穂の田の光景がまぶしく広がっていたからである。また、すでに稲刈りが終わった田には、刈り取られた穂が三角錐状に束ねられて、昔なつかしい田園風景を作り出してもいたのである。
 スズメたちも嬉々として騒いでいた。さすがに、案山子(かかし)が立っていた田にはあまり寄りついてはいなかったようだが、案山子の姿のない黄金色の絨毯には相当な数のスズメが群がり、本日は、食い放題のバイキングだ、とばかりに大騒ぎをしていたのである。スズメに表情というものがあるのかないのかは知らないが、きっと、目を細めて笑い顔をしながら満腹顔をしていたのではあるまいか。

 江ノ島の海岸に着いたのは午後1時過ぎであり、われわれは途中、コンビニで弁当を調達して、 "物騒な" 海岸にて遅い昼食とすることにした。
 海は、好天気ということもあり、ウインド・サーファーたちが犇めき合っていた。さすがに、10月ともなると海水浴客はいない。砂浜には、海岸の雰囲気を楽しもうという家族連れなどが、開放的気分を味わっている。中には遅い昼食を食べたりしていた。これを虎視眈々と狙う輩たちが、空を舞いながら "物騒な" 空気をかもし出しているのだ。
 ハトたちは善良な市民の範疇なのだが、いけないのがトンビとカラスたちである。彼らは、ほとんど、今時の社会面ニュースの容疑者たちそのままであり、カツアゲにヒッタクリの常習犯揃いなのだ。
 自分も家内も今までに何度もこのありさまを経験しているため、昼食は十分な用心と。警戒をもって済ました。実情を知らない人はきっと "やられる" と思ったそばからである。近くの男性が暢気そうに左手に持ったパンか何かをパクつき、その手を膝の上に休めたその時、疾風のごとく飛び込んできたトンビに残りを丸々持ち去られてしまったのである。何が起きたのか了解できずにいる彼が、何もなくなってしまった左手をそのままの恰好で膝の上にしている姿を見た時、われわれは隠し笑いを禁じえなかった。

 江ノ島までの長距離サイクリングとは、副次的にいろいろと楽しめるものもあるにはあるのだが、要は、黙々と走行し、筋肉の痛みを耐えるといった地味なスポーツだと言うべきだろう。だからと言うべきか、誰もがこぞって参入してくるようなごった返すような様子はなく、マイナーな雰囲気が漂っていそうだ。
 競輪選手のごときスポーツウェアで身をかためた "プロもどき" の人たちと、われわれのような "変わり者もどき" たちだけが、腿の筋肉の痛みを堪えてただひたすらに疾走しているのである…… (2007.10.06)


  "郵政民営化" がスタートした。 "民営化" にあらず "米営化" への第一歩だという人もいるが、いずれにしても、巨大な "純・営利団体" が誕生したことは確かだ。この国はますます人間が住めるところではなくなる速度を速めているのか。
 メディアによる報道でも、説得力の乏しいお披露目がなされているようだ。
「差し当たっての変化はなさそうであり、心配される郵便事業などのサービス悪化についても法的な規制があったり国による支援もあるため……。ただし、 "収益追求" の民間企業であるだけに、赤字回避に直面したらどのような選択がなされるかは予測できない……」
といった雰囲気である。
 自分の考えとしては、この "郵政民営化" という選択には快く思っていない。一連の "構造改革" 路線というものは、端的に言えば、 "米国経済のための日本改造" 以外ではなく、この "郵政民営化" にしたところが、その目玉は、郵貯・簡保の350兆円を米国系ハゲタカファンドに "お供え" すること以外の何物でもないのである。それ以外については、バラ色の夢を押しつけつつ、実のところ "後は野となれ山となれ" 式の成り行き任せなのであろう。順調に行ったとしても、国鉄の民営化、JR化が、収益性を過度に追求する結果、過密ダイヤ編成と巨大事故とを帰結したような、悲惨な轍を踏むことを当然予想せざるを得ない。

 今日書こうとしているのは、この "民営化" 万歳のスローガンと "市場原理主義" 風潮とが、取り返しがつかないほどに人々の生活姿勢を荒廃させるのではないかという懸念についてなのである。表向きは、規制撤廃と経済活動の自由化で、人々の経済生活が活性化されると持てはやされている。しかし、そんな現実は一向に生まれていないどころか、一般庶民の生活水準は下落し、最下層での貧窮状態は自暴自棄な生活姿勢を助長し、その結果犯罪行為へと踏み込む者たちをも醸成することになってはいないか。
 犯罪に至らなくとも、人々の日常的な感覚や意識を想像以上に荒廃させているように窺える。これは一言で言えば、 "金尽(かねずく)" (金銭の力で物事を処理すること。また、処理できること。金次第。――広辞苑より)意識と言えようか。もとより富裕層・権力層においては "金権意識" とでも呼ばれているものであるが、なんせ庶民は "金権" と言うほどのパワーを振り回せてはいないであろうから "金尽(かねずく)" 意識と称した。
 しかし、現在の一般庶民が "金尽(かねずく)" 意識に染まったからといって、そう責め立てることもできまい。日々の生活、直近未来の生活に不自由するような貧困状況に追い込まれれば、わが身の生活を守るがために金を稼ぐという意識が先鋭化するのは当然のことだからである。決して、金を "儲ける" のではない。 "稼ぐ" という思いであろう。

 どうして、一般庶民に "金尽(かねずく)" 意識が濃厚となったのだろうか。
 こんな問いを、学者にぶつければ、彼らは事の本質を見えなくしてしまうほどに原因を細分化し、羅列し、加えて屁理屈まで付け足して差し障りのない返答をするのであろう。 しかし一言で言えば、国と経済社会とが、一般庶民から金を収奪しようとする構えを濃厚にしたからだ、と言い切ってよかろう。もともと一般庶民は、 "宵越しの金は持たない" とまでは言えないにしても、金には淡白であったはずだ。その分、互助精神で育み合う生活環境と意識が特徴となっていたのであろう。
 ところが、日々の生活にとにかく金が必要な状況を次々に作り出し、それを構造化して行ったのは、市場経済でありこれを支援し切ってきた国だということになろう。
 まあこれが "近代化" の流れだと言えばそうなるが、ここに計らずも発生してしまった貧困その他の社会問題を、社会福祉などの社会政策という視点で対応する時代もあるにはあったのである。ところが、現時点での時代風潮は、そんな時代を逆流して粗野な近代資本主義に舞い戻ってしまった観がある。
 これを国に為さしめたのが、 "市場原理主義" という経済政策であり、そしてそこから "民営化" 万歳のスローガンが出自してきたと見なされる。この推移には、経済不況が存在し、これを克服するためには市場の活性化が是が非でも不可欠だと叫ぶという経緯があったかに思える。一般庶民もまた、景気回復のためには市場の活性化策はあって当然だと期待したのであろう。

 しかし、現在の "市場原理主義" や "民営化" 万歳の政策路線とは、国民とは "金を持った消費者" である、と再定義し直したようなものではないのか。 "金を持たない国民" も十分に "国民" なのであり、そのために国策としての社会福祉制度の実践は必要不可欠なのである。
 こんなことは当たり前の道理・理論ではなかろうか。国とは、浮沈が宿命の民間企業とは異なり、永続しなければならない存在である。民間企業のごとく目先の収益に拘泥するのではなく、 "百年の計" を実践しなければいけないはずである。目先、 "金を持つ、持たない" という条件で国民を仕分けをして、一体、将来を担う有望な国民が育つのであろうか。
  "民営化" が万能であるかのような浅薄な議論を吐く政治家を、一国の首相にしてしまったのが何といっても悔やまれるということなのであろうか。
 いずれにしても、この国は今、 "改革" の美名のもとに官僚機構がやりたい放題をやっているのと平行して、 "民営化" の名のもとに国が国として持つべき基本理念をも無責任にウヤムヤにしつつあるように見えてならない。

 今日の本題は、一般庶民の "金尽(かねずく)" 意識であった。何よりも金を重視し、大なり小なり金に囚われてしまったかのような意識に追い込まれてしまったかのような一般庶民は、きっとその "幸福感" までを狂ったレールの上に載せてしまい、ますます自身をのっびきならない事態へと追い込んでしまっているのかもしれない。
 ただ、これが、一般庶民の意識のすべてではないと信じたいし、現在のような馬鹿げた経済政策が正気に返った暁には柔軟に健全化へと復帰するものだとも信じたい。
 もちろん、こんなエクセントリックな時代環境にあっても、金の存在を立派に "相対化" して、胸を張って生きている人々がいることも知っている。
 ひょっとすれば、自分自身こそが、金というものを "相対化" し切れないで冥府魔道を彷徨っているのかもしれない…… (2007.10.07)


 いよいよ、至るところに "キンモクセイ" の香りが漂うようになった。
 今朝のウォーキングでも、境川の川沿いに植え込まれた "キンモクセイ" の木に黄金色をした粒々状の花が今や盛りとばかりに咲き乱れていた。もちろん、特有の香りが遊歩道全体を包み込んでいた。
 この事を忘備録的な意味合いで今日は書いておこうと思ったものである。と言うのも、やはり例年に較べると、猛暑があったせいか遅咲きとなった印象が残っていたからである。別に大したことではない。だが、自分にとって "キンモクセイ" の香りは、秋到来を実感させてくれる手堅い事柄のように受けとめている。だから、記録しておくに値すると思われたのだ。今後は、温暖化現象のために年毎に遅れていくのであろうか……。

 ウォーキングの帰りに面白い光景を見た。
 初老の男性がこぐ自転車の後の荷台のかごに、中型犬が行儀良く座って乗せられていたのである。白黒のまだら模様のかわいい雑種犬であった。
 クルマなどにも乗せられて窓から顔を出している光景も目にするといえば目にする。もはや、犬の姿は街中でいやというほどに見る時代となった。
 先日の江ノ島へのサイクリングでも、遊歩道を散歩させられている犬たちをどんなにか見たことであったか。犬を散歩させている人たちとの遭遇が数え切れないほどにあったという印象が残っている。
 さらに、どう見てもペットショップから血統書付きで購入したと思われる "小型犬" が大半であったようだ。扱いやすいという点がその理由であるのかもしれない。ただ、それでもそんな犬たちを制御し切れずに、ヒモをダラ〜ンと伸ばし切って他の歩行者に差し障りなしとはしない散歩のさせ方が気にはなった。自転車も通るわけであり、可愛いと思うならばもっと気を遣って然るべきではないかとも思えた。

 別に厳密に考えたわけではないが、犬(ペット)を飼う人口がここへ来て急速に増えているのではないかと思う。これも、昨今の "時代風潮の何か" を言い表していそうな気がしたものであった。
 で、前述の白黒のまだら犬のことである。
 気になったのは、その飼主がひょっとしたらホームレスの人なのかもしれないと思ったからであった。よく、ホームレスのことばかり書くようでもあるが、これもまた "時代風潮の何か" を抉り出しているような感触を持っているため気になるのである。
 なぜホームレスだと想像したかといえば、その自転車には、その犬のほかにあまりにもなんだかんだの荷物が多く積載されていたからなのである。定かには覚えていないが、その自転車が前方からやって来る際にも、幅広の質量感にやや目を疑ったものであった。そして、その自転車が通り過ぎようとした時、後のかごに、ちょこんとワンちゃんが座っていたのを見つけたのである。
 きっとそのワンちゃんは可愛がられて幸せなのだろうと直観した。飼主がホームレスだとしても、ワンちゃんには関係ないし、その視野にそんな事実は入ってはいないだろう。むしろ、そんな境遇でワンちゃんと共に暮らしたいと望む飼主から、人一倍、いや犬一倍そのワンちゃんは可愛がってもらっているのに違いなかろう、と思えた。
 どうでもいいあれこれの世事に頭も心も埋め尽くされているかもしれない "普通の人々" よりも、生きることの切なさ一点を噛みしめることを禁じえないであろう人の方が、命の暖かみを愛しく思い、それゆえにワンちゃんを人生の友として位置づけてさえいるのかもしれない。もはや、ペットなぞと軽々に呼ぶこと自体に不自然さを感じ取っているのかもしれない……。ペットブームの対極にある、人と犬とのツーショットを見せてもらったような気がしたものだった…… (2007.10.08)


 やはり今日のニュースで気になったのは、子どもたちの "うつ病" 比率が意外と高いことであろうか。次のとおりである。

<小4−中1の「うつ」4% 国内初の大規模面接調査
 小学4年−中学1年の一般児童・生徒738人に、医師が面接して診断した北海道大研究チームの調査で、うつ病とそううつ病の有病率が計4・2%に上ったことが8日、分かった。これまで質問紙を郵送する方式では例があるが、医師が面接する大規模な疫学調査は国内初という。
 研究チームの伝田健三・北大大学院准教授(精神医学)は「有病率がこれほど高いとは驚きだ。これまで子供のうつは見過ごされてきたが、自殺との関係も深く、対策を真剣に考えていく必要がある」としている。
 調査は今年4−9月に北海道内の小学4年から中学1年までの児童、生徒計738人(男子382人、女子356人)を対象に実施。調査への協力が得られた小学校8校、中学校2校にそれぞれ4−6人の精神科医が出向き問診、小児・思春期用の基準などに基づき診断した。
 それによると、軽症のものも含めうつ病と診断されたのは全体の3・1%、そううつ病が1・1%。
 学年別にみると、小学4年で1・6%、同5年2・1%、同6年4・2%と学年が上がるほど割合が高くなり、中学1年では10・7%だった。>(2007/10/09 【共同通信】)

 こうした事実は、子どもたちの自殺問題との関係で由々しく懸念されるが、そればかりではなく、明るさと元気の象徴である子どもたちがこんなに病んでいるというのは、やはり末期的症状の時代環境だとしか言えまい。まして、この国は "少子化" の傾向を強め、将来社会がパワーと元気をなくしていくことが予想されてもいるわけだ。
 悲観視するつもりはないが、実態はもっと悲惨なのではなかろうか。と言うのも、<調査への協力が得られた小学校8校、中学校2校>と書かれてあるが、<調査への協力>を承諾する学校は、まだ問題意識を持っている良質な部類の学校だと推測されるからだ。こうした調査を黙殺するような学校が、どんなにか劣悪な環境を放置しているかを想像するならば、そこで精神衛生状態を悪化させられている子どもたちの数は膨大なものになりそうではないか。
 学校のせいだけにするつもりはない。教育政策の誤り、政治の腐敗、社会の立ち腐れなど、すべての大人たちがこぞって子どもたちを不健康にさせているわけだ。
 また、大人たち自身が、かなりの比率で精神的に病み、 "うつ病" にもかかったりしているのが実情なのかもしれない。

 以前から懸念していたことであるが、人間社会の問題で、様々なトラブルや犯罪、社会的衝突などが生じている間は、まだ救いようがありそうだ。マイナス現象ではあれ、そこにエネルギーの存在が見てとれるからである。
 問題は、エネルギーの存在が疑われるほどに、人々が意気消沈し、精神的、生理的に病んでしまうことのはずである。これはまさしく人間社会の "危険水域" だと思われる。
 にもかかわらず、地球温暖化問題と同様に、世間は何と "ダンマリ" 空気なのであろうか。座して死を待つ、の雰囲気としか言いようがない。

 ところで、こうした "危険水域" の問題に関して考える時、自分は、問題のターゲットを絞りたいと思っている。誰と誰が悪い、誰々も悪いなぞと複数列記して焦点をぼやかすことはよくない、いや、そんなことをしてきたから何も事態が改善されてこなかったのではないかと感じているからだ。
 はっきりと絞り込みたい。 "大半の責任は、マス・メディアにある!" と。政治家たちが悪いというのは、何も言わないのと同じであり、そんなことは百もわかった事実だ。官僚機構や役人たちの仕業だ、というのも周知の事実である。
 むしろ、周知の事実とはなりにくい犯人像をこそ暴き出すのが先決でありそうな気がしてならない。
 ざっくりと言って、時代を動かすのは "世論" だと考えて大筋では間違ってはいないだろう。しかし、この "世論" がどのように形成されるのかが問題なのである。言うまでもなく、 "世論" 形成のプロセスで、マス・メディアが果たす役割は絶大である。この点こそがじっくりと吟味されなければ話にならないはずである。

 むかし子どもの頃、 "伝言ごっこ" (?)とかいう遊びがあったように思う。仮に、多くの子どもたちがいたとして、それが二グループに分かれ、それぞれが列を作って並ぶとしよう。そして、それぞれの列の先頭の子ども二人に、何かちょっとした短い文章を同じように耳打ちする。子どもたちは、耳打ちされた言葉の内容を、そっくりそのまま次の子に耳打ちする、というルールなのである。
 そして、それぞれの列の最後の子が、自分が受けた伝言を皆の前で公表し、最初の伝言内容と同じであったかどうかを競い合うというものである。
 予想するとおり、この伝言内容は、どこかで正確さを失ってしまい、結局はわけのわからない文言に変わってしまいがちである。

 唐突にこんな子どもたちの遊びを例にしたのは、現時点のマス・メディアは、考え得る最悪の "伝言ごっこ" を地で行ってると思えるからなのである。
 子どもたちが犯す伝言ミスは、他愛のない思い込みであったりして咎めることはできないだろう。しかし、職業的レベルで、なおかつ "特権" も与えられ優遇されているマス・メディアの場合は、ミスは許されない。いや、人の世において不可避であるミスは許されるかもしれないが、姿勢の誤りは許されない。
 なぜならば、マス・メディアは、一般市民・国民がますます直接的には知りえない社会的事実を一手に取り扱う立場にあり、一般市民・国民が世論というものを形成していく基本材料、情報の大半を提供しているからである。もし、ここで、マス・メディアが必要な情報を "不足" させたり、 "一方的な" 情報を流したとするならば、ほぼ完全に "世論が歪む" 結果となってしまうからである。
 現在、政権担当者たちは、これまで以上にマス・メディアを手懐け、支配しようとしている。また、私企業でもあるマス・メディアは、営利追求に奔走する姿勢をも隠そうとはしなくなった。隠しているのは、真実の情報なのであろう。知り得ていなかったと言えば済むと考えての "真実隠し" ということになろうか。

 今日の冒頭のニュースにしても、一般市民・国民とともにアブナイ時代を乗り越えようとするメディアであれば、何はさておいても報道して良いニュースだと思われる。それが、大手新聞各紙は、書いていない。品位がある『共同通信』だけのようだ。大手新聞各紙は、官庁や警察が垂れ流し、 "記者クラブ" が唯々諾々と仰せつかったニュースだけでお茶を濁し、一般市民・国民の意識を濁そうとしているかのようである。
 いい加減やめたらどうでしょうね。 "記者クラブ" 主体の記事構成は。そんな、何の発展性もない記事を毎日目にさせられていると、いい加減、人々は "うつ病" になりかねないんじゃないですか…… (2007.10.09)


 昨晩鑑賞したTV番組では、久々に気分が洗われた思いがした。
 番組名は、<ハイビジョン特集 京都・庭の物語 〜千年の古都が育(はぐく)んだ空間美〜(再)>であり、午後8:00〜9:50 までの1時間50分の味わい深い風景番組であった。後で調べてみると、今年の元日にすでに放送されたようである。さぞかし、元日に鑑賞した視聴者は、正月のすがすがしさを倍増させたことであろう。もっとも、自身について言えば、その時点ではわが家にデジタル液晶TVはなかったため、この番組のことを知ったところで今ひとつであったかもしれない。

 とにかく、 "ハイビジョン" 映像の精緻な画質、クッキリとしたリアルな描写力は驚異的だとさえ思えたものだ。
 しかも、映像対象は、文句の言いようがない日本美の極致、京都の名だたる庭園である。金閣寺、龍安寺、天龍寺、醍醐寺などの由緒ある名庭園なのである。
 対象が良く、そして画質が良い、さらにカメラワークも申し分がない。加えて、ナレーターは、何と中村吉右衛門であった。自分は、いやと言うほど『鬼平犯科帳』のDVDを見ていたにもかかわらずその声に気づけなかった。味のある話法をするアナウンサーだな、なんぞと勘違いしていたのである。今思えば、やはり中村吉右衛門は場というもの、文脈というものに応じて豹変できる大した人物(名優)である。

 そんなことで、これぞ "鑑賞" という言葉に値する番組だと、ただただ感動し続けた2時間弱なのであった。
 映画やドラマのように、ハラハラドキドキする起伏に富んだストーリーがあってならばともかく、風景映像とナレーションで2時間近くも視聴者をTVの前に釘付けにしてしまうというのは、やはり大したものではなかろうか。
 番組に魅せられながら自分はあることに気づいていた。それを気づかせたのは次のような場面があったからである。
 それは、龍安寺の石庭の場面であったかと思う。周知のように、龍安寺石庭の石の群れは互いにかなりの距離をおいて設えられている。もちろん、禅思想における枯山水の美意識に立脚した観点においてそう構成されているわけだ。
 カメラは、それらの石の群れを舐めるがごとく描写しながら、ゆっくりと次の石の群れへと移動して行くのだった。それが、実にゆったりとしており、その間、ナレーションが何十秒も途切れることがしばしばあったのである。別に、中村吉右衛門がサボったわけではない。自分は、ああこれは、意図的な "サイレンス" が挿入されているのだと合点していたものだ。

 通常の番組で長い "サイレンス" が組み入れられるのは、よほどドラマのストーリーの上で必須という場合以外はあり得ない。ラジオ番組の場合なら、何十秒であったか忘れたが無言を継続してはならないというようなルールさえあるようだ。
 こうしたことから自分が感じたことは、この番組のプロデューサーは、よほど映像自体に自信があるようだ、と思ったものだった。長い "サイレンス" が視聴者を不安がらせるどころか、魅力的な映像はそれだけで十分に視聴者を魅了し切るはずだという、そんな自信と言うべきか。
 まさにそのとおりであったかもしれない。つまり、石庭という映像対象が魅了したことも否定できない。が、いまひとつ気づくべき点は、ゆっくりとしたカメラワークが捕らえた波模様の砂利が微細に描き出され、リアルさを誇っているハイビジョン映像は、視聴者の意識に微塵とも弛緩状態を与えない、ということである。つまり、素晴らしい "ハイビジョン映像" は、それだけでもって視聴者の意識を釘付けにしてしまう可能性がある、とそう思ったのである。

 要するに、 "ハイビジョン映像" というものは、その扱い方次第では "凄まじい説得力" を発揮するものだと感嘆したというわけなのである。
 自分は、日頃、この現代という時代については "ぼろかす" に詰っていそうである。しかし、唯一そんな現代に対して "許すもの" があるとすれば、それは技術自体の発展であろうか。そして、それがもたらした人間の感覚範囲の圧倒的な拡大ということになろうか。特に、カメラを趣味とする自分は、カメラ映像やその技術については関心が強い。だから、 "ハイビジョン映像" の魅力を殊のほか賛美したりするのかもしれない。

「TVの画像がこんなに精緻になってしまうというのは、想像だにできなかったよね……」
と、自分は自身と、一緒に観ていた家内につぶやいていたものだ…… (2007.10.10)


 「重箱の隅を楊枝でほじくる」ということわざがある。その意味は、<細かい、どうでもいいことまでくまなくほじくり出して、しつこく口うるさくいうことのたとえ。>(広辞苑より)とある。
 何とはなしに、現代のわれわれはこうした生き方を選んでしまっていそうな気がしないでもない。何か "大事なことを棚上げにする" ことと引き換えのように、些事にのめり込み、それに忙殺されるというような風潮である。
  "大事なこと" に思いをめぐらそうとするならば、たぶん、 "価値判断" というような内面的、精神的な作業にかかわらざるを得ないと思える。ところが、この "価値判断" というものをどういうわけかわれわれは回避しようとしていそうな気がする。
  "価値判断" とかいうものは、難しいと言えば難しいはずである。全体重を掛けなければならなかったり、また、 "価値観" の相違はとかく人間関係の軋轢を発生させることにもなる。だから、無難に避けようとするのであろうか……。
 さらに、周りを見回してみると、時代環境自体が "価値観" の軸や側面を前面に押し出さず、差し障りなく舞台裏に引っ込めている雰囲気もある。 "価値からの自由" 、 "中立的価値" などをひとつの謳い文句とする "科学" や "科学的視点" (官僚機構、官僚政治も含めていいような気がしている)などが、当たり前のように社会や人々に受け容れられている現状が、 "価値観" を云々するのはダサイことだと感じさせているのだろうか。大きな視野で言えば、 "イデオロギー" の時代から "科学" の時代への変遷だと見ていいのだろうか。

 また、視野を転じて、われわれが日常生活で最もとらわれているであろう "消費生活" を見てみると、そこで発揮されているのは、 "価値判断" だというよりももっと別な観点でありそうな気がする。
 それはたとえば、 "価値判断" というよりも "個人的好き嫌い" という観点であるのかもしれないし、 "好感度" だとも言えそうだ。もっと下世話に言えば、 "損得勘定(感情)" というのも当たっているかもしれない。要するに、何らかの "価値判断" に基づいての "消費生活" なんぞはしていないと言っていいはずだ。だから、イージーに、 "流行" や "ブーム" というようなマス現象も発生するのであろう。自然食志向にしても、 "価値観" に根差すほどのものとは考え難い。
 こうして、 "個人的好き嫌い" の視点のような判断が、あたかも個人尊重、主体性尊重のごときムードを伴って一般化しているのが現代の消費環境なのだろう。まるで、「重箱の隅を楊枝でほじくる」ような "多様性" の追求をしたって、別に悪いことではなかろうと思う。ただ、そうしたレベルでの "多様性" からは、あまり意味のあるものが生まれてはこないような気がしている。それは、 "流行" や "ブーム" が、一事的には熱狂をもたらしても、その後にほとんど何をも残さない実情を省みるならば気づくことであろう。

 「重箱の隅を楊枝でほじくる」ということわざは、直接的には、些事に拘ることを揶揄しているわけだが、もう一歩踏み込んで理解しようとするならば、やはり "大事なことを棚上げにする" ことの、その愚かさを指摘しているとも考えられそうである。
 いや、 "大事なことを踏まえる" のを忘れずに、その上で些事をしっかりと吟味するのであれば、それは言うことなしなのであり、「重箱の隅を……」なぞとからかわれることはないのではなかろうか。
 自分自身も含めての話であるが、現代のわれわれは、いろいろな理由により、その中にはそれを意図的に進めている作為的な傾向もありそうに思えるが、そうした様々な理由によって、ほぼ確実に「重箱の隅を楊枝でほじくる」ような生きざまを選んでしまっているのではなかろうか。つまり、自分なりの "価値観" を育むことなく、 "目先" の些事に振り回され、 "場当たり" と "成り行き" とに慣れ親しみながら "浮遊" して時を過ごしている、かのようである…… (2007.10.11)


 <行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。……>とは、鴨長明『方丈記』冒頭の有名な一節である。
 自分も、この言葉が無常な人の世の常についての凝縮された表現であり、日本の無常観のエッセンスとなっていることくらいは知っていた。
 ところが、この言葉を意外な文脈で耳にしたのである。昨晩のNHKのラジオ番組(「ないとエッセー『生命の仕組みにせまる』 分子生物学者…福岡 伸一)であった。
 深夜の11時過ぎというと、ちょうど入浴の頃であり、いつもどおり風呂場にラジオを持ち込み、くつろぎながら聴くとはなしに聴いている。
 昨晩は、分子生物学の話であり、多少は興味を持って聴いていた。
 生命現象を分子レベルで理解して、それらがいかに制御されているかを研究する分子生物学は、現在ではDNA遺伝子、蛋白質、細胞などに焦点を合わせて、脳、再生、免疫、癌などの研究と合流しつつ大いに人々の関心を集めている分野のようだ。
 そんなことで、身体を "丸裸" にしている際には、聴くにふさわしいかとも思い、ふーん、そうだったの……、という雰囲気で聴いていたわけである。

 冒頭の "無常観の一節" が、科学者の口から飛び出したのは次のような文脈だったのである。つまり、生物の身体というものは、常に "分子" レベルで入れ替わり、生まれた時の身体を構成していた "分子" はもちろんのこと、何日か前の身体を維持していた "分子" なぞも、新しい "分子" と入れ替わっている、という事情説明のプロセスで引用されていたのである。
 自分のような年配の者としては、そうした"無常観の一節" の引用がピタリと来たのであった。まさに、 "そうか、そうだったのか!" というような納得感をもたらしたのであった。
 ただ、『方丈記』だの、 "無常観" だのと言っても、 "それってなに?" と頼りないレスポンスを返すであろう若年世代には効き目はなかったかもしれない。大学教授たちも、学園内で世代の違う若者相手で講義する時の方が辛いんだろうな、なんぞと余計なことを考えたりもしていた。

 それはともかく、生物の身体における "分子" が "無常" に入れ替わり、鴨川(賀茂川)の水と同様に、<しかももとの "分子" にあらず>という事実、事情、そのことに気づかされてみると、今さらのような "感慨" を伴わずにはいられなかった。
 多分それというのも、 "自分" という一見、 "不変" を拠りどころとする観念が、意識の中にどっかりと横たわっているからなのであろう。
 時代も世の中も目まぐるしく "変わる" 、自分も "変わらなくては……" と、人は感じたりするわけだが、実は、自分の実体である身体の方は、時代の変化に優るとも劣らない速度で変わっていたのである。まあ、それが発展なのか、衰退や後退なのかは別にしてではあるが。
 昨日の身体と今日の身体とを全く同じものだと見なしているのは、 "事実上の変化" から超然と(?)浮き上がって何食わぬ顔をしている意識上の自分だけだということになる。まあ、この感覚・意識(脳科学では "見当識" とか呼ばれているようだ)がなくなりでもしようものならば、認知症などの意識障害だとして問題視されるわけではある。

 しかし、こうした生物の体内における "分子" の入れ替え(代謝?)について思いをめぐらしてみると、人の意識というものが実に特異なもののように思われてくる。そして、その思いは、意識の中でも "自意識" というのか、 "自分" 意識というのか、いずれにしても、 "自分" という、何はさておいても "当然視" しているに違いない、そんな仕掛けが脳内に居座っていることが、結構、不思議にも思えてくるのであった…… (2007.10.12)


 かつて、PCマニアたちを相手としたPCショップを経営したことがあるくらいだから、やはりPCに関しては興味が尽きないのであろうか。
 いろいろと思い煩う世事が多い中で、マニアさながら、中古PCをいじらなければならないようなことがあると、ちょいとワクワクした気分となる。言うならば、 "手頃な玩具" があてがわれた子どものようなものであろうか。

 中古モバイルPCで "手頃な玩具" になりそうなものが目に入ったのである。すでにそうしたものも使ってはいるのだが、CPUが500MHzというひと昔前の遅さであり、何かとストレスを感じさせるものだ。
 とは言っても、10万円代の新製品を買おうなぞとは一向に考えない。確かに、そうしたものは実にポータブルであり、かつスマートである。しかし、そんな上等な水準のものを入手しても、果たして外出先で十分に使いこなせるかどうかを思案してしまう。仕事なら、専らデスクトップとまともなキーボードを使って済ませるため、モバイルPCの使い道はとなると結構限られているように感じざるを得ない。
 だから、あれば便利だという感覚なのであり、わざわざそのために10万円代の新製品を買おうとはどうしても思えないわけである。精々、5万円以下の中古品で十分だというのが実感なのである。
 となると、ろくなものがないというのも相場である。が、時々、 "半端な掘り出し物" がないわけではない。要するに、素人さんには扱いかねるような "半端な" 中古品なのである。たとえば、ノートPCなのだが、 "バックアップ用CD" というシステムの再インストール用のOSやドライバーなどのソフトCDが付属していない、というような場合である。さらに、 "半端" となると、ノートPC本体にCDドライブが内蔵されていないもので、メーカ固有の外付けCDも付属していないという場合もある。
 こうなると、一体、OSなどをどうやってインストールするのかという難問に遭遇させられるのである。以前は、そんなノートPCにOS/Windowsをどうにかインストールしたことがあった。多少の手間はかかったが、要するに、フロッピードライブを使ってWindows95あたりを差し当たってインストールし、外付けCDドライブが使える状態に持ち込み、その上でOSのアップ・グレードをかける、というものだった。
 とにかく、自分なりの工夫がなくてはならないケースの方が、かえって興味が湧くというものなのである。ちょっとした得がしたいためというよりも、ちょっとした工夫や苦労がしてみたいというのが、こうした "半端な掘り出し物" に対する動機となっているのかもしれない。きっと、PCマニアというのは、こうした動機に突き動かされている連中のことなのであろう。

 ところが、今回、ネット上で見つけた "半端な掘り出し物" の中古モバイルPCは、外付けCDも付属していなければ、外付けFDドライブも付属していない、というものだったのである。もちろんその分で安く売り出されていたのであった。値段はともかく、こうした事情そのものが、まるで "なぞなぞ" を仕掛けられているような気がして、興味をそそられたと言うべきか。
 その上、メーカーはしっかりとしたPCメーカーであり、CPUも1200MHzという先ず先ずの速度であった。やや迷いはしたものの、何とか対処可能だろうという目安が生まれ、にわかに手にしてみようということにしたのだった。これまでに、ノートPCの改造まがいのことはそこそこ経験していたため、それらを活かせば何とかなるだろうと踏んだのである。
 果たしてどう "料理" できるか。自分が思い描いたゴールに辿り着けるものかどうか。確かにホビーのレベル以外の何物でもないのだが、あれこれと調べたりして、何となくワクワクした気分となっているから他愛無い。まあ、こうした "手頃な玩具" によって、とかく塞ぐ気分を立て直すことがあってもいいのだろうと勝手に思っている。
 モノは来週に届けられる予定である…… (2007.10.13)


 涼しいというよりも、朝晩などは寒くさえ感じる気候となった。
 こんなに過ごしやすくなると、身体を動かすことが億劫でなくなる。ちょいと動けば汗ばんで不快感をともなった少し前の暑さが他国のことであったように思えてくる。
 ところで、こうした涼しさは、活動に向いているとともに、睡眠にも向いている。肌寒く感じる朝は、 "ぬくい" 布団の中でもう少し惰眠をむさぼろうかという気分となったりする。また、就寝時も、寝苦しい暑さがなくなったせいか横になると程なく眠れるようになった。
 加えて、睡眠時間が不足している日なぞは、デスクの前でうとうとと睡眠補給をすることも容易くなった。いや、これは涼しさのせいというよりも、歳のせいだと言うべきかもしれないが……。

 しかし、 "十分な睡眠" や "良質な睡眠" を取るということは、今更ながらに重要なことだと感じている。
 睡眠は、 "脳の疲労" を回復させると言われている。では、 "脳の疲労" とは何か、ということになるが、これは一般の筋肉の疲労とはやや異なっているのではないかと感じている。
 一般の筋肉疲労とは、筋肉自体の機能低下、つまり力が入らなかったり、痛みを感じたりという症状のことなのであろう。
  "脳の疲労" の場合も、機能の低下や痛みというものがあることはある。計算能力が低下したり、注意力が散漫となったり、そして、いわゆる頭痛というような痛みを自覚するようなことである。睡眠不足の際には、簡単にこうした症状に見舞われる。
 だが、 "脳の疲労" のもうひとつの見過ごせない側面は、いわゆる "意欲" と呼ばれるようなものが思いのほか低下してしまう、ということなのではなかろうか。積極性が萎み、不安感や悲観的感情に支配されがちとなったりする。
 その側面の "脳の疲労" を回復させるのが、 "十分な睡眠" や "良質な睡眠" の、いまひとつ大きな役割であるように思われるのだ。

 かつてもここで書いた覚えがあるが、絶望的な心境に襲われたとある人物が、 "睡眠" を境にして別人のごとく蘇るという話である。
 先ずは、絶望的な心境が叙述される。

<ああ、この上私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしがない。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事もなく私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりもつらい。私は裏切り者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウス、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがいない。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家がある。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すようなことはしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉(かな)>

 そして次に、以下のように蘇った光景が叙述されるわけである。

<ふと耳に、潺々(せんせん)、水の流れる音が聞こえた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上がって、見ると、岩の裂目から滾々(こんこん)と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復(かいふく)と共に、わずかながら希望が生まれた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。……>

 そして、この両者のはざ間には、次の一節が明記されていたわけである。

<――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。>

 これは、言うまでもなく、太宰治の『走れメロス』におけるひとつのクライマックスである。別に、太宰は、 "疲労回復と睡眠の果たす役割" とでもいう脳科学関連論文を書いたわけではなかった。が、きっと太宰は実生活において、自身には得がたかったと推測される "十分な睡眠" や "良質な睡眠" が、人格を変えてしまうほどに人間の精神力に作用することを知っていたのではなかろうか。ちなみに、太宰は睡眠薬を常用する悪癖に沈み込んでしまったようであるが…… (2007.10.14)


 「給油に反対するのはテロリスト」だそうだ。

<自民・中谷氏「給油に反対するのはテロリスト」
 自民党の中谷元・安全保障調査会長は14日のフジテレビ番組で、インド洋での給油活動の継続を訴え、「反対するのはテロリストくらいしかいない」と発言した。「民主党はテロリスト集団か」との問いにも「ええ。僕は理解できない」と言い切った。>( NIKKEI NET 2007.10.15 )

 相変わらず、 "正義 v.s. テロ" という、あの "9.11" 直後のブッシュ的デマゴーグを使う発想の貧困と怠惰には恐れ入る。そんなに世界を単純化していて、よく政治家ご本人は、 "退屈" にならないもんだと思う。
 まあ、何事につけ、事態や世界を "○×式" に単純化して済まそうというのが、この現代の小さくない特徴なのであろう。マス・メディアはその方式にご執心だと見えるし、そうそう、教育界が図太くその方式を実践してきたことを忘れてはいけなかった。
 物事を "あれか、これか" の二分法で単純化してしまえば、どんな処理でも簡単に済むに違いなかろう。現代という時代が惚れ込んでいると見えるモノの処理に関する "効率化" も、この路線で行けばスイスイと進捗するに違いない。
 法務大臣も、死刑執行なぞも人間らしく躊躇することを避けてもよかろうと言い、 "自動化" してしまえばいいという発言までしている。片方で、数多くの "冤罪" が、警察・検察における "○×式" 単純化によって厳然として発生している実情があるにもかかわらずである。時代の、のっぺりとした劣化はここに極まれリ、と言うべきか。

 昨晩、こうした現代の認識上の "悪癖" のパーフェクトな対極で、凛として世界と対峙していたという作家の存在を再認識させられた。19世紀ロシアの文豪・ドストエフスキーのことである。
 TV番組、NHKの<ETV特集「21世紀のドストエフスキー〜テロの時代を読み解く〜」>を観た。ドストエフスキーによる人間観は、決して、善か悪かというような二分法的視点から構成されていたのではない、という点が強く再認識させられた。
 いわば "冤罪" 的な境遇に引き込まれ、死刑執行という地獄に直面。その執行10分前でかろうじて恩赦によってシベリア流刑の身となる。そんな過酷で絶望的とも言える境遇の中で、ドストエフスキーは、まさにリアルな人間観を形成したのだという。
 流刑地で共に暮らすこととなる多くの犯罪者の中に、悪にまみれつつも善の要素が輝くことを肌身で知らされたり、公式的な善人たち、社会的成功者たちの中に悪そのものを見出さざるを得なかったり、というわけだ。
 亀山郁夫氏をはじめ出演者たちは、こうした "複眼的" な人間観が、二分法で退屈極まりない人間観、世界観を特徴とする現代の、心ある者たちを魅了しているのではないか、と異口同音に語っていたように思う。
 NHKサイト自体では次のように紹介されていた。

<テロ、幼児虐待、少年犯罪など不条理な犯罪が多発する現代、19世紀の文豪ドストエフスキーの作品が脚光をあびている。新訳「カラマーゾフの兄弟」は30万部を突破し、若い読者を獲得している。今ドストエフスキーの何が若者を魅了するのか。
 ドストエフスキーの時代はテロと犯罪が蔓延する社会だった。ドストエフスキー自身もテロリストとして流刑されている。その中で「罪と罰」について問い続け、万人の心の奥底にある悪を描き出した。それは現代日本の抱える問題に直結する。
 ドストエフスキー研究の第一人者、亀山郁夫外国語大教授が、作家の金原ひとみ、加賀乙彦、ドキュメンタリー作家の森達也と語りあうなかから、現代日本の病理を読み解く。>( http://www.nhk.or.jp より)

  "何かのために、何かを吹聴する" こと、そう、それを古人は "御為倒し(おためごかし)" という言葉で喝破したわけだが、人間や世界を単純な二分法で描き出そうとする発想には、 "卑しい下心" がしっかりと隠されていることを直観すべきなのであろう。
 何の下心もなく人間や世界に対峙しているならば、対象側は、筆舌に尽くし難い多様で豊饒な姿を露わにしてくる、ということになろうか…… (2007.10.15)


 先日、<生命体の分子のながれは絶えずして、しかももとの分子にあらず……>(2007.10.12)と書き、そうであるにもかかわらず、脳による "自分感覚" とでもいうものが維持されていることに、やや疑問めいたことを書いた。脳内の分子、脳細胞も入れ替わる代謝を行っているならば、<自分>といういわば "恒常的な観念" はどのように維持されるのだろうか、という疑問だったわけである。次のように書いていた。

< それはともかく、生物の身体における "分子" が "無常" に入れ替わり、鴨川(賀茂川)の水と同様に、《 しかももとの "分子" にあらず 》という事実、事情、そのことに気づかされてみると、今さらのような "感慨" を伴わずにはいられなかった。
 多分それというのも、 "自分" という一見、 "不変" を拠りどころとする観念が、意識の中にどっかりと横たわっているからなのであろう。
 時代も世の中も目まぐるしく "変わる" 、自分も "変わらなくては……" と、人は感じたりするわけだが、実は、自分の実体である身体の方は、時代の変化に優るとも劣らない速度で変わっていたのである。まあ、それが発展なのか、衰退や後退なのかは別にしてではあるが。
 昨日の身体と今日の身体とを全く同じものだと見なしているのは、 "事実上の変化" から超然と(?)浮き上がって何食わぬ顔をしている意識上の自分だけだということになる。まあ、この感覚・意識(脳科学では "見当識" とか呼ばれているようだ)がなくなりでもしようものならば、認知症などの意識障害だとして問題視されるわけではある。生命体の分子のながれは絶えずして、しかももとの分子にあらず……>

 要するに、 "脳細胞" も、身体の他の部分の細胞と同様に "入れ替わる" という代謝活動をしているとの誤解が潜んでいたようなのである。正しくは、 "脳細胞" というものは "入れ替わらない" のであった。ただ、死滅していくだけなのであった。以前に、脳科学の本でそのことを知ったはずだったが、うっかり失念してしまっていた。
  "ニューロン" と呼ばれる "脳細胞" は、人間の場合に通常 "1億個" 程度備わって生まれるらしい。しかし、まともに使われるのはそのうちのほんの一部であるとともに、およそ毎秒1個の割合で死滅してゆくらしい。一日に何万個もの脳細胞が消滅していくらしいのである。ただ、元の "資産" が膨大であるだけに、通常の消滅、死滅はほとんど問題にはならないと言われている。
 それはともかく、脳内においては、 "脳細胞" が "入れ替わる" というような代謝が生じないがゆえに、過去の記憶が失われることなく、その記憶の上に "恒常的な観念" とでも言うべき "自分" という自覚が生じ続けるらしいのである。
 そうでなければ、 "自分" という自覚も、自身の "人格" も日毎コロコロと変容してしまうことになる。それはまるで、不景気の中で会社の構成員がコロコロと入れ替わり、社風も何もあったものではないという状況に似てしまうことだろう。
 それは社会的に困るというよりも、当の本人が経験的なものが活かせないことになるわけだから、生存そのものに危機をもたらすことになろう。
 ところが、生物、人間の何万年もの歴史は、先刻承知のごとき様子で進化を遂げ、 "脳細胞" ばかりは、身体の他の細胞のような新陳代謝をしないという選択をしてきたのだと考えられる。
 この辺のメカニズムは実に神秘的で、ただただ感心させられる…… (2007.10.16)


 中古PCを自分好みに調整しているが、時々こうした技術的な試行錯誤をしてみるのは、煩わしさを感じないわけではないが、脳の活性化には悪くなさそうだ。
 通常のPC操作だけをやっていたのでは、昨今では、ハード、ソフトを問わず、すべからく "自動化" 処理が一般化しているため、何の苦労も工夫もない。まあ、PCというツールごときで苦労をする必要もないと言えばない。だから、一般的には、周辺機器の拡張やら、OSの再インストールなどの作業にしても "自動化" 処理の恩恵にあずかればいいことである。

 しかし、 "自動化" 処理の便利さというものは、どこか "気が利いて、間が抜ける" とでも言うようなところがありそうだ。
 例えば、仮に "登山" を例にとるならば、恐らく "登山" とは頂上制覇だけが妙味なのではなかろう。むしろ、汗と肉体的な苦痛をも伴うその登山のプロセスが、いわば筆舌に尽くし難い実感となり、それが大前提となるからこそ、頂上に到達することの喜びも増幅されるはずなのである。だから、クルマやケーブルカーなどの便利な乗り物によってラクラク頂上に運ばれたとして、今一、感激が半減するはずだし、で、何をする? といった手持ち無沙汰な気分にさせられるのではなかろうか。
 つまり、もちろん、頂上というようなターゲットに少なからぬ意味や価値があることは確かだろうが、正確に表現するならば、ターゲットの価値はプロセスを伴うことで成就すると言うべきなのかもしれない。

 口幅ったいことを言っているような気もしないではない。ただ、冒頭に書いたような、大したことではないのだが、技術的な試行錯誤に直面してみると、日頃の "怠惰な脳活動" がちょいと揺さぶられて、それが快適なのである。
 そして、何事によらず安易に便利さを選ぶべきではなさそうか、と改めて実感させられるのである。
 ちなみに、PCの調整をちょいとしたイレギュラーなスタイルで行おうとするならば、これまでに自分が得てきた経験的ノウハウを総動員させなければうまく行かない。
 ほとんど忘れてしまったような技術的知識や経験が少なくないことに、否応なく気づかされたりもする。そして、もがき回らされる。
 昨今では見向きもしなくなったOS:MS-DOSの技術書を振り返ったり、もはやゴミ同然と見なしはじめている往年のフロッピー形式でのソフトを探し回ったりする始末なのである。
 要は、必死になって "過去" をまさぐる脳活動をしているわけである。
 この10年、PC関連技術の進捗と発展は飛躍的なものであった。そして、自分にしてもそれについて行くことだけに忙殺され、その時々の記憶はいかにも取って付けたような軽薄さであったようだ。その時点では手堅く理解したつもりとなっていた技術的知識も、実に陽炎のごとく希薄となっていることに気づかされたりもした。
 だからこそ、こうした作業は、まるで脳内の "不良在庫の棚卸" のようであり、あるいはまた、放置され続けた荒畑を "掘り起こし、耕す" ような意味を持っていそうに思うわけなのだ。

 ところで、技術的なジャンルに限らず、激変する時代を生きてきた者たちは、ひょっとしたら、知識や経験に関して "好ましくない" 行動様式をとってきた恐れがあるのかもしれない。懸念するのは、いわゆる "上滑り" という現象なのである。まあ、そうでしかあり得なかったと言えばそうなのかもしれない。
 ただ、情報化時代にあって日常生活の大半が "抽象的な記号情報" で埋め尽くされ、それらを実感的に定着させるはずである "過去の体験的記憶" がまた、 "上滑り" 的な希薄なものであったとするならば、人々の能活動は限りなく捉えどころのないものとなりはしないかと……。
 高齢化社会の到来、団塊世代の大量停年、うつ病患者の急激な蔓延……。そんな時代状況を想定する際、情報化時代に向かって突き進んで来た環境激変の余波が思わぬ結果となって現れてこないとも限らない……。いや、すでにそうした社会現象が生じているのかもしれない…… (2007.10.17)


 今日も昨日の続きである "PC調整・改造" に時間を割いた。これを機会にと、複数台を同時並行させて対処することにした。その分効率的だとも言えるし、また、ちょっとした混乱が発生したりもする。
 とあるメンテナンス作業の途中で、昨日書いたことがそっくりそのまま再現されてしまった。
 つまり、< "自動化" 処理の便利さというものは、どこか "気が利いて、間が抜ける" とでも言うようなところがありそうだ。>という懸念のことである。< "自動化" 処理>に頼ってしまうと、自分の意識側に残る度合いが少なく、記憶も< "上滑り" >を起こしてしまうものなのであろう。
 2〜3年前に別のPCに対して施した処理のことがどうしても思い出せなくて困ったのである。まるで、手掛かりとなる記憶が見当たらず途方に暮れて、あれこれとサイト情報を探りまくったりした。そしてその挙句、当該のこの技術的処理は、実は、その処理向けのCDを介した< "自動化" 処理>で済ましていたことが判明したのであった。
 最近は、歳のせいか、 "度忘れ" が始まっていることもある。しかし、こうもスッポリと忘れてしまっていたのは、やはり、< "自動化" 処理>に頼り、その時点ではきっと "上の空" で事を済ましていたからではないかと反芻しているのである。

 現在のわれわれは、 "便利さ" を追求し続けている日常生活で、いろいろなジャンル、いろいろな事柄で< "自動化" 処理>に馴染んでしまっている。プロセスの処理が一体どのように行われるのかなぞほとんど関心を向けることなく、それは "ブラック・ボックス" のままでよいと見なしている。
 昨日書いた点は、 "便利さ" は "便利さ" でよいのだけれど、それと引き換えにしているかもしれない人間の能力側の問題に目を向ける必要はないのか、ということであった。特に、 "記憶" という能力に意を払った。それというのも、過去の記憶に依存せざるを得ない "高齢者" が人口に占める比率を高める時代がやってくるからでもある。
 そうであるにもかかわらず、われわれ団塊の世代にしても、成長過程の時代状況と言えば、社会が全体的に< "自動化" 処理>を強めて行ったそんな時代であった。また、<情報化時代>と称されたように、マス・メディアをはじめとしてあらゆる分野に "実体から遊離した情報" が飛び交う時代環境の洗礼を受けてもきた。
 要するに、脳裏にこびりつくような形での記憶を留めるには、あまりにも "上の空" で時を過ごし、< "上滑り" >の形で生活してきたのではないか、と振り返るのである。

 よく、昔の人は、 "ものを覚える(=記憶)" には、頭だけではなく、 "身体も使う" べし、と言ったかと思う。これは大いに理に叶っていそうだと、今さらのように感心するのである。人間の記憶というものは、頭、脳だけの出来事ではなく、身体全体を動員し、またその結果に支援されて脳が記憶という形で脳内に定着させるもののように考えられる。
 なのに、現代という時代環境は、 "便利さ" という名のもとに、身体全体を動員させる機会を人々の生活からどんどん省略している。つまり、 "しっかりとした記憶" が定着しないような生活条件を提供している、ということにもなりそうである。
 加えて、 "溢れる情報" 、 "飛び交う情報" という生活環境は、掛け替えのない重みを持つ "実体験する" ということを、 "情報・知識として知る" という "便利さ" で置き換えようとしているようにも見える。
 そして、こうした時代環境は、人々に "しっかりとした記憶" を培わせないという点において、かなり "やばい!" 時代だとも言えそうな気がする。
 まあ、それはともかくとしても、こんな時代環境の文脈の中で育ってきた上に、今、大量の人々が物忘れの度合いを強めるであろう高齢化を迎えているのである。年金問題や経済問題も深刻化するに違いないが、今ひとつ深刻な問題である介護問題の領域で、 "認知症" という人間の "記憶" 能力に関わる問題が、かなり要注意の問題ではなかろうかと、懸念したりするのである。
 そして、さらに "深刻ぶる" ならば、こうした時代環境の問題性かもしれない事実を身に被るのは、こうした時代環境が完成してしまってからこの世に生を受けた世代の方が、むしろより深刻なのかもしれない、という点なのである。
 よく "文明の光と影" とか、 "情報化時代の光と影" とかというフレーズがささやかれたりするが、人間の "脳" との関係において、いま少し "影" の部分が解き明かされていい時代になっているのかもしれない…… (2007.10.18)


 ここ2、3日関心を向けている "記憶" と、いわば "「非」身体的" 経験とでもいうもののきわどい関係の話を続けてみる。
 自分は、人の "記憶" というものは、単に脳内での情報処理(妙な表現ではあるが)という局面だけでは説明され尽くされないのではないかと考えているわけである。荒っぽく言えば、五感をはじめとした身体中の感覚を総動員してこそ、 "記憶" と呼ばれるものがしっかりと形成されるのではないかと。
 この点については、暗記をする際に、その対象などを声を出して読んでみたり、あるいは身体の動作を付け加えながら読んでみたりすると効果的だというようなことを聞いた覚えもある。

 そう言えば、20年以上の昔に参加したとあるセミナー(「13日間地獄の特訓」)では、暗誦しなければならない課題が多々あり、講師側は効果的に覚えるにはどうすればいいかという点についても伝授していたものだった。その方法とは、ただ単に覚えたい文章などを睨んでいただけではダメであり、大声を出して読む、いやそればかりか、手振り身振りを付けながらやるべし、ということであった。寝食を共にする訓練であったため、畳部屋が舞台となったが、正座をして、大声を出して読み込み、両手をさまざまに動かし、時には畳をバシッと叩くことも有効だと教えられたものだった。部屋中で十数人がそんなことをするわけだが、さながら、 "香具師の叩き売り" の訓練をしているような光景だったのである。
 これなどは、まさに "記憶" というものが、 "身体的" 経験と不可分であるという仮説を信じ切った教育法だったと言えるだろう。まあ、あながち非科学的だという気はしないのであるが。

  "記憶" それ自体のメカニズムに迫ることは別の機会とせざるを得ないが、現代という時代の生活環境が、 "便利さ" 追求の結果かどうかは別として、身体を駆使することよりも、脳内での情報処理、たとえば言語情報や、視聴覚情報を処理する場合の方が多くなっているようではないか。
 職場での労働も、身体を駆使する "ホワイトカラー" は少ないはずで、いまやもっぱらPCに向かった記号処理としての情報処理が大半だと言ってもよかろう。
 生活の場においても、身体が疲れるということよりも、頭が疲れる、頭が痛いという状況の方が一般的だと推測され、それはとりもなおさず "身体的" 生活よりも、いわゆる "頭脳的" 生活の方がウエイトを占めている実情を言い表していそうである。
 こんな状況だからこそ、人々の "記憶" は大丈夫なのだろうかと、余計な心配をしたりするのである。少なくとも、ちょっとした "度忘れ" や、 "うっかり現象" という事態は結構どこでも見られる "記憶喪失" なのではなかろうか。
 実際のところ、こうした状況では、昔懐かしい "指差し呼称" という動作を生活の場に取り入れた方がよさそうだとさえ感じるのである。
「お風呂の自動湯沸しOKで〜す」とか、「洗濯機の自動プロセス、セットしました〜」とかを元気良く唱えながら、バスタブなり洗濯機なりを "指差す" のである。まあ、やらないよりやった方が、脳に痕跡を残す度合いが強まるはずではなかろうか。
 こうしたことは、人々が高齢化していく社会になるにしたがって、決して笑い事では済まなくなるのではなかろうか。
 昔のように、薪割りからはじめて、汗だくだくで風呂を沸かす作業などは、したかしなかったかを忘れようにも忘れられないはずであるが、自動湯沸しのセットをしたのだったかそうでなかったのかなんて、この上なく虚ろなことであり、 "記憶" にエントリーなんぞされなくてもしょうがないようにも思えるのである。

 さて、 "つもり" としては、今日は "3D仮想空間" なんぞについて書こうかと思っていた。というのも、現代人たちは、ただでさえ生活環境が "「非」身体的" となって問題現象もなしとはしないのに、それでもまだまだ "「非」身体的" となりたがって、そんな場所を "3D仮想空間" とかいうものに求めているようだからである。ネット上では、そんな衝動を持つ人々のために島や都市というかたちの土地が設定され、そんな "3D仮想空間" で "セカンドライフ" への夢が果たせるとか持ち上げられているそうだ…… (2007.10.19)


 午前中遅めのウォーキングの帰路、ちょいと奇妙な光景に遭遇してしまった。
 タバコ屋店前の自販機2〜3台の前で、小学1〜2年生といったところか、小さな男の子が3人、何やら探し物をしている様子なのであった。身をかがめて、地を這うような格好をして、自販機とコンクリートの隙間をキョロキョロと覗き込んでいたのである。
 ハハーン、小銭でも落として探しているんだろうな、と想像したものだった。そこで、かわいそうかと思う気持ちも手伝って、ちょいと声をかけてみた。
「どうした? お金落としたのか? 」
 すると彼らは何の衒(てら)いもなく異口同音に返答した。
「違う、<お金探してる>の」
と言うのだった。
「えっ? 」
と言い、自分は合点がいかなかった。すると、
「<落っこちてる>お金探してるの」
と一人が付け足して言うのだった。どうも、自販機を使う他の客が落として回収しなかったお金が落ちてはいないかと探していたらしいのである。
「そんなもの落ちてるのかい? 」
 そう自分が言うと、
「落ちてる、落ちてる。こないだも100円拾ったもん」
と、一人の子が自慢そうに言った。また、一番小さそうな子がたどたどしく言う。
「おれなんか、こないだ千円見つけたもんね」と。そこで自分は言うのだった。
「そんなわけないだろ。で、見つけたら何買うつもりなの? 」
 すると、またみなが口を揃えて言うのだった。
「ガチャガチャ。ほら、あそこの……」
 指差す方を見ると、あの、何十年も前から変わらないスタイルの「ガチャガチャ」自販機2〜3台が、店前の反対側の隅っこの方で、まるで "てぐすねを引く" ような雰囲気で鎮座していた。
 また、一番小さそうな子がたどたどしく、いや大げさに言うのだった。
「おれ、チョーチョーチョー欲しいガチャガチャがあるんだぁ。200円ないと買えないんだよなぁ……」
 これだけ相手をして何もしないというのも、ちょいと "冷かし" っぽくてどうかという気がしないでもなかった。が、ここは知らん振りするに限ると思い、
「そんなもの、いつでも落っこちてるわけじゃないよ。お店の人だって掃除したりするんだからね」
と、自分は彼らに "捨てぜりふ" めいた言葉を残し、その場を去ったのである。

 その後自分は、何となく後味がよくなかった。
 今時の小さな子どもたちもまた、 "お金" に目が無くなっているのかという思いにさせられたからであろうが、あんなふうに、落ちているかもしれないお金を "地を這う" ような格好をして探し回っている光景が、見たくないものを見たという後味悪さとなっていたのだろうと思う……。
 しかし、世の中、 "お金" に目が無い大人たちの暴挙尽くめで、メチャクチャだ。そういえば、昨日のニューヨークのダウ平均は、367ドルの下落だったそうだ。サブプライム・ローン問題はやはり "悪性腫瘍(?)" であったようだ。
"金に目が無い" 連中によるマネーゲームの荒(すさ)み方は、世界全体をますます荒野へと引きずり込むんでいるかのようだ…… (2007.10.20)


 「秋の日はつるべ落し」と言われる。実にうまい表現をしたものだと思う。今日は秋晴れの明るい天気であったが、4時半頃から早心もとなくなり、5時頃からは薄暮となる。そして現在時6時となると、窓の外はもう真っ暗となっている。
 そんなふうに秋の日は短いからと思ってか、今朝はウィークデー並みの7時に起床した。とくに予定があったわけでもない。明るい秋晴れの天候は、一日目一杯享受すべきだと思ってのことだ。

 が、気になっていた床屋へ行ったりして、結局、これといったことは何もせずに「つるべ落し」を迎えてしまった感がある。
 今日は10月の半ば過ぎで、もう今年も終盤に入っている。ちょいと気持ちを引き締めてかからないと、あっという間に年末へと雪崩れ込みそうか。
 来年は、経済環境をはじめとしてあまりパッとしない年のような気配である。パッとしないどころか、かなり問題含みの状況になるとささやく人もいるようだ。
 そして、そんな年に、自分は "還暦" なんぞを迎える段取りとなる。どうと言うこともないが、ひとつの節目を迎えるに当たって、今年の終盤は充実させておかなければいけないか、というような構えがないではない。うかうかとしてはいられないぞ、という何がしかの緊張感が湧いてくる。

 緊張感が湧いたから何がどうなる、と言わざるを得ないほどにわれわれを取り囲む環境は容易くはなさそうである。つまり、現在の時代環境は、 "一生懸命である" からとか、 "真剣である" からとか、 "熱意を持っている" からとか、 "努力している" からとかという条件を、そう易々とは受け容れないごとくである。そうしたものは、 "情実" に過ぎないと言わぬばかりの冷淡さであるのかもしれない。
 要は、<時代の "当を得ている" もの>かどうか、それだけが問題であるかのようである。どんなに "情実" 面での見るべきものがあったとしても、時代の関心の的を外しているならば、無反応で遇されるということになるというわけだ。
 この辺の事情が、オールド世代にとっては辛いことだし、受け容れ難い点となるのだろう。そして、何をどう進めればいいのかに迷う点でもあるのだろう。
 営業活動という具体的場面においても、まさにこの論理が当てはまる。 "足で稼ぐ" というスタイルはおろか、通用しているかに見なされている現行のあらゆる宣伝広告やその媒体でさえ、その効力が少なからず疑問視されているとのご時世である。確実に存在するのは、仕掛け側の "自己満足" でしかない、というシニカルな見方さえあるようだ。
 事実、TVCMは勿論のこと、さまざまな広告媒体に自身がどう反応しているのかを振り返るならば、その辺の実態は透けて見えるというものではなかろうか。

 別に、仕掛け側、主体側の "情実" と仮称したところのポテンシャリティを軽視しようとしているわけではない。そうした基盤がなければ事ははじまらないだろう。
 しかし、それらが "量的" にたっぷりとあるからどうにかなる、というものではなさそうだと了解したいわけなのである。
 この点は、ヘンなたとえだが、この "金余り(マネーの過剰流通)時代" にあって、 "金" が "量的" にたっぷりとあるからといってそれだけで金儲けができる時代ではなく、何にどう投資するかの戦略が不可欠だとする現状と似ていないでもない。
 つまり、 "情実" 的なものも、それらがどう<時代の "当を得ている" もの>に的確に振り向けられるのか、という問い直しがなくてはならないということなのである。
 したがって、<時代の "当を得ている" もの>が一体何であるのかを探り出すこと、あるいはあらん限りの全神経を研ぎ澄まして感じ取ること、これに "一生懸命である" ことが、先ずは大前提となりそうである。 "インテリジェント" な "情実" でなければならない、ということになろうか。

 自身を含めてオールド世代は、この当世風の道理に心して敏感となる必要があろうかと思う。また、若年世代などは、<時代の "当を得ている" もの>がネット上や机上に容易く転がっていると勘違いしないことにいち早く気づく必要があるのかもしれない…… (2007.10.21)


 時代環境、とくに経済環境はますますスクラップ&ビルドを突き進めている気配がする。身近なことに注意を向けても、なるほどなあ、厳しいんだなあと頷かされてしまう。
 昨日も、縁続きのとある人が、郷里に帰ることになったと聞かされた。言ってみれば、経済環境に振り回された結果のようである。

 その人は、大工さんであり、郷里にはこれと言った仕事もないため、東京地方へいわゆる "出稼ぎ" に来ていたのである。元より、親戚関係がこちらの方にあったし、子どもたちも大学や就職で東京に出てきているため、さほどの不自然さはなかったものと思われる。ただ、奥さんは親御さんのこともあるため地元の郷里に残り、当人はいわゆる "単身赴任" での出稼ぎという形をとっていた。
 その点ではやはり不自然だと言うべきなのかもしれない。しかし、地元郷里にこれといった仕事がない以上、他に選択肢がなかったのに違いない。つぶさには知らないが、意外とこうしたケースは少なくないのかもしれない。もう久しく地方経済の度外れた "沈み方" は酷いものだと伝えられていたからである。
 そんな彼は、こちらに単身でアパート住まいをしてそこそこ忙しく大工仕事で稼いでいたようではあった。が、ここに来て、東京地方の仕事事情もジワジワと変化してきたらしい。とりわけ、仕事量がめっきり減りはじめたらしいのである。
 今、建築業界は、芳しくない景気の問題もさることながら、あの "耐震偽装問題" があって以降、 "建築審査" のあり方が問題視されているようで、何かとその "審査" が滞り、新たな建築関係の仕事が立ち上がりにくくなっているとかなのである。

 元々、(建築)不況の時代には、建築業界の重層的な "元請-下請" 関係の構造が、下層の下請の賃金などを極端に圧縮させていた、と聞いた覚えがある。一頃の半分以下に抑えられてしまったとも聞いている。
 だから、その彼も、そんな厳しい処遇に甘んじていたようである。ただ、それでも仕事が途切れずにあることから、やむを得ず継続していたようなのである。
 が、ここに来て、仕事量さえめっきり目減りしてきたらしく、これでは "単身赴任" での出稼ぎを継続することに価値がない、と判断したらしいのだ。歳の方ももはや60代となっていて、肉体労働の大工仕事を請負っていく自信も次第に萎えてきたとも言っていた。たまたま、郷里の方で知人からのちょっとした仕事依頼が生まれているという救いもあって、この際……、という決断に踏み切ったそうなのである。
 進むも地獄、引くも地獄、とは昨今よく耳にする言葉となっているようだが、彼のように "帰るところ" がある者は、東京のようないろいろな意味で異常だとしか言えない環境に、あえて留まることもないだろう、とそんなふうに感じている。

 こうした話以外にも、町田で古くから経営していたとある地元の老舗的な "文房具店" が、大幅な規模縮小へと模様替えをするとの話題も耳にした。自分もしばしば利用した店だけに、寂しい気がしている。
 お気に入りのショップといえば、あの "東急ハンズ" もしばらく訪れないうちに規模縮小の移転をしたとの噂も聞いている。
 それぞれが固有の事情を持っているのだろうが、根底的には、経済構造やビジネス構造がの激変によって大きく揺さぶられた結果だと思われる。これらを一言で、 "経営努力の不足" と言って済ましていいのかどうか、大きな疑問をなしとはしないでいる…… (2007.10.22)


 今日はほぼ一日、PCのチューニング関連作業に捕われてしまった。
 以前にも書いた購入中古PCの立ち上げはすでに完了したものの、欲を出してちょいと "戦線拡大" をしたところ、すっかりと "はまって" しまい、とある技術的試行錯誤をあれこれと試みることになってしまったのである。
 かなり困難かと感じはじめると、よせばいいものを何とかして達成できないものかと熱が入ってしまう性分なのである。一方では、こんなことをしていては時間がもったいないと思いながらも、あの手はどうか、この手はどうかと、良く言えば "旺盛な探究心" 、ありていに言えば "往生際の悪さ" が時間を浪費させたのだ。
 まあ、しばらく離れていたかもしれないPCに関する基礎的な技術的学習をしたと思えば納得はいくものの、こんなことしているバヤイじゃないぞ、という思いも打ち消せないでいたものだ。

 で、結局、その "試行錯誤" の "落しどころ" は、実に平凡な選択となったのである。とある "PCパーツ" を入手するということなのである。ただし、当該の問題は中古PC関係であるため、通販のPC業者からというわけにはゆかず "その種のマニア" たちをネット上で頼るしかなかった。
 先ずは、ネット検索で調べてみると、自分の抱えた"試行錯誤" がどういった位置にあるものなのかが、何となくわかってくるのだった。意外と多くのマニアたちが関心を払っていそうな雰囲気がありそうだとか、その分、これを解決する "PCパーツ" はさほど流通していないということも感じ取れたのである。
 しかしこうなると、今度はそれを探すべし、という思いが募ってきたのである。しかも、お手頃価格で入手したいものだ、という欲まで生まれてくる。

 そこでたどり着いたのが、 "ネット・オークション" というジャンルなのであった。
 以前から関心は持っていたものの、何となく不信感めいたものが拭い切れないでもいた。ひとつは、その "リスキー" さであり、もうひとつは、主催サイトへの "手数料支払い" という点であったかもしれない。
  "リスキー" さについては、もちろん、悪質な詐欺的行為をする者が跡を絶たないという状況のことである。ネットの "匿名性" を隠れ蓑にした卑劣な人間のいることに対してはくれぐれも要注意だと思わざるを得なかったわけだ。
 もうひとつの主催サイトへの "手数料支払い" という点は、何もケチっているつもりではなく、 "月額ナンボ" という継続的な契約方式が頷けなかったのである。オークションというものに頻繁に参加しようとは思っていない者にとっては、 "単発方式" がリーズナブルだと感じるわけなのである。

 ところが、今回の自分は、 "ネット・オークション" に出品されたその "PCパーツ" が喉から手が出るほどに欲しかった。少なくとも、根を詰めた何時間かのネット検索で、その出品物への願望を尋常ではないほどに掻き立てられていたのだ。
 しかも、その時点での "入札価格" は、そのサイトの "手数料無料" の範囲内であったことも入札に向けて肩をポンと押されたような感じだったのである。
 そこで、 "リスキー" さに対する用心は用心として、ひとつ経験してみようかと腹を括り(まあそれほどのことでもないが……)、入札にエントリーしてみたのである。
 その出品物については、まだ、入札期間は残されていて、今後どう展開していくか不明であったが、ものは試しとばかりにエントリーしてみたのである。
 するとどうだ、画面が変わるやいなや、「おめでとうございます。あなたに "落札" が決定しました!」というレスポンスが返ってきたのである。その上、 "落札額" は、自分の入札額よりもはるかに低い額が表示されていたのである。どうも、出品者側が、あらかじめサイト側に提示していた "希望額" がその額だったようなのである。自分は、今後残された入札期間で、多少は "競り上がる" のではなかろうかと推測し、上乗せ的な額での入札をしたのであった。

 ということで、先ずは "幸先のよい" 目の出方になったかとほくそえんだのである。ただし、 "リスキー" さの方の懸念は何一つ解消されていないのだから、 "幸先よく" 騙されるという結果にならないとは言えない。まあ、大した額でもないので、ひとつのちょっとした経験という意味で、事の推移を見守っていこうかと…… (2007.10.23)


  "妙なたとえ" をすれば、「インターネット時代」というのは "毎日が正月" という雰囲気なのかもしれない。と言っても、毎日が "めでたい" ということではない。
 これが "妙なたとえ" の理由なのだが、要するに自分の身近な環境が、いかにも "閑散" としていて、みんなどこへ行ってしまったのだろう、という薄ら寂しい感触がする、というほどの意味なのである。

 アバウトな表現であるが、自分が子どもの頃、そして青年時代は、 "正月" の地域社会といえば三が日の間は、仕事関係は皆休業であり、工場も事務所も、そして商店もシャッターを降ろし、人の気配がなかったと記憶している。住人たちのかなりの割合の人々は郷里へと "帰省" したりもしていたはずで、その分でも "人気(ひとけ)" が少なくなっていたのであろう。
 現在の正月のように、コンビニをはじめとしたショップが通常と何ひとつ変わらない様子で営業しているのとは異なり、商店街もまるで "シャッター通り" のように物静かになっていたようである。
 だから、 "正月" 期間は、各家々は必然的に自給自足的な生活をせざるを得ず、それで日持ちのする "おせち料理" を拵えておかなければならなかったのだろう。めでたさを祝う料理という意味以外に、少なくとも、買い物ができない三が日の間は自給自足的生活をしなければならないため、という意味合いもあったのだろう。
 それはともかく、仕事という仕事がストップし、人もクルマもどこへ行ってしまったのだろうと訝るほどに地域一帯が静けさに沈み込んでしまったのが、 "昔の正月" であったような気がする。人気のあって賑わうのは、初詣客を迎える "メジャーな神社" とその周辺くらいだったに違いない。

 この現在の「インターネット時代」にあって、少なくない地域社会は、多かれ少なかれこうしたかつての "正月" の寂しさを毎日のように再現しているのではなかろうか、という唐突なイメージが思い浮かぶのである。上記の "シャッター通り" という表現は、まさに現在の地方社会の商店街の止みそうにない現実だとも言えそうではなかろうか。
 そこまで行かないまでも、どうも地域産業の多くが "閑散" とした雰囲気を醸しているようだし、人気が希薄で何とも寂しい空気が漂っていそうでもある。こうした傾向を比喩的に "毎日が正月" と表現してみたわけなのである。
 自分は、職住近接を旨としているところから、ほとんど都心に出ることがなく地元で仕事と生活とをしているため、都心の繁華街の様子を忘れかけているのかもしれない。だから、大袈裟な表現をしてしまうのかもしれないが、それにしても、都心の繁華街とてジワジワと変化を被っているような気がする。

 かつての "正月" でも人々が消えたわけではなく、現に、 "メジャーな神社" などには初詣参拝者たちが押しかけていたはずだ。この点に引っ掛けて言うならば、現在、地元社会を "閑散" とさせて、逆に人々を引き寄せている現代の "メジャーな神社" とでもいう空間はどこにあるのだろうか。
 誤解を恐れずに端的に言ってしまうと、それは "インターネットの世界" であると言えるのかもしれない。さらに、 "メジャーなポータル・サイト" こそが、人々の足を奪っている現代の "メジャーな神社" だと皮肉ることができそうだ。
  "インターネットの世界" のそれらは、現代人たちの趣味とビジネスの両面における強い関心を惹きつけることで、人々の行動様式を、身近な地域社会との関係を希薄とさせつつ、空間的距離の観念を超越したものへと変えてゆく。
 地域社会が魅力を喪失させていることも問題ではあるが、そもそも "インターネットの世界" を活用しようとする者たちにとって、地域社会の存在は視野に入っていないというのが実情であるのかもしれない。その意味では、そんな扱いがなされてよいわけがない地域社会というものは、 "インターネットの世界" の住人たちからは事実上見捨てられているのかもしれない。

 このように地域社会が "見捨てられている" かもしれない傾向は、 "インターネットの世界" の拡大、浸透の趨勢だけに起因しているのではなく、 "インターネットの世界" と手を携えて伸展している "グローバリズム経済" 自体が必然的に仕掛けている現象なのだろうと思われる。
 この流れはそう簡単には変わらないかと思われるが、そんな過程で、地域社会が実体的な活性さを取り戻す道はかなりの困難を伴うかに見える。
 昨今、 "インターネットの世界" においては、 "3D仮想空間" が注目を浴びているようだが、 "インターネットの世界" はますます "仮想性" を強めていくかのようである。 そう考えると、 "インターネットの世界" と "希薄化する地域社会" との関係という問題は、 "仮想性" と "実体性" とのバトルではないかという気がしないでもない。
 まあ、どうなっていくのか予測が難しい問題のようだが、人間自体の感性が進路を選択していきそうな気もしている。
  "インターネットの世界" もいろいろと変化を遂げており、最近では、 "コミュニティ型のWebサイト" とみなされている<SNS【ソーシャルネットワーキングサービス】>というものに人気が集まっているようだ。これなどは、 "野放しの匿名性" によって "インターネットの世界" の "仮想性" を増幅させてきたこれまでの流れに、何がしかの変化が生まれてきたと言えるのかもしれない…… (2007.10.24)


  "儲ける" という漢字は、 "訳知り顔" をしてビジネスについて話す者に格好の材料を提供している。
 つまり、 "儲[ける]" とは "へん" の方の "人" と、 "つくり" の方の "諸" とに分解して、「どうです、 "諸人(もろびと)" となるでしょ。すなわち、ビジネスの "儲け" とは、 "諸人" の関心なくしてはあり得ないわけなのです……」と、能書きをこくのに格好の漢字だということである。

 必ずしも、ビジネスの "儲け" は "諸人" の関心を前提としなければならないわけでもなかろうとは思う。限られた小数の需要者に対して "高値" で売るというケースも考えられないわけではない。
 しかし、現代は "薄利多売" = "スケール・メリット" が追求される時代であるかのようである。とすれば、大量の、顧客・潜在的顧客を囲い込めないと話にならず、ここからどうすれば "諸人" の関心を得ることができるかと、企業家たちは血眼となるのであろう。つまり、現代ビジネスの "儲け" こそは、 "諸人" を前提とせずして成り立たないかのようである。

 これまで、企業家たちが "諸人" の関心確保のために駆使してきた媒体は、何といってもTVコマーシャルだったであろう。いや、現在でもまだまだ健在であり、アクティブであるというべきかもしれない。ただし、TVコマーシャルの有効性は急速に低下しつつあるとも指摘されている。頷けるところだ。
 これに代わって台頭しているのが、やはり "インターネットの世界" だと言われており、これもまた頷けるところであろう。
 現に、宣伝広告費としての売上額は、TV局に対して "インターネット" 関連業者が追いつけ追い越せの迫り方をしているようである。
 いわゆる "ネット上の宣伝広告" ということになるわけだが、これが注目されるのは、当然 "インターネット" 人口の増大という事実による点も大きいが、宣伝広告としてはかなり "効果的" であるという性格が重要な理由でありそうだ。

 よく言われることだが、TVは "視聴率" 云々という神話が相変わらずはびこっているようだが、この数値はかなりアバウトなものであり、 "茶の間の猫" だけがうつらうつら見ていたとしてもカウントされてしまう。つまり、誰がどう観ていたかは不問に付されざるを得ない。購買可能性の高い人が観ているという保証は何もないわけだ。
 一方、高い宣伝広告費を負担するスポンサー企業の側にとっては、自社製品なりサービスなりの売上にどう直結するのかという宣伝広告の "効果" こそが狙いに違いない。 "茶の間の猫" に「弊社は、地球環境にやさしい製品を……」と語りかけたってしょうがないわけである。
 そこへ行くと、昨今の "インターネットの世界" のWeb上の宣伝広告の仕掛けは、製品売上という単刀直入な企業側のねらいをかなり "効果的" に実現しつつあるわけだ。端的に言えば、先ずはTVコマーシャルのような "下手な鉄砲も数打ちゃ当たる" 式のムダはせず、いきなり "本丸を攻める" の観がありそうだ。
 というのも、 "インターネット" のサイトへアクセスする者は、その動機が何であれ、サイトを選ぶ、絞り込むことで、先ずは "自身の動機表明" をしていることになるはずである。そしてその動機には、何らかのかたちで関連することになる製品・商品・サービスが必ずといってよいほど存在するはずである。とすれば、アクセスしたサイトのページにそうしたモノの宣伝広告コンテンツ、アイコンが掲載されていれば何がしかのリアクションを示し、場合によっては気になる宣伝広告コンテンツ、アイコンなどをちょいと "クリック" することにもなることが予想されよう。
 こうして、Web上の宣伝広告というものは、消費者の購買行動それ自体に限りなく接近した、そんなスタンスを採ることができる、ということなのである。この仕掛けの "精度" は、 "個人情報保護法" などに触れない限りにおいて、かなり技術的に詰められているのが実情のようである。

 こうなると、ますますもって "諸人" たちが "インターネット" のサイトにどうアクセスしてくれるかが、現代ビジネスの "儲け" に関するメイン・ターゲットとなる、という事情が発生するわけだ。
 今日のニュースで以下のようなものが目についた。

<米マイクロソフト、SNS大手フェースブックに270億円出資
 【シリコンバレー=村山恵一】米マイクロソフト(MS)は24日、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)大手フェースブックに2億4000万ドル(約270億円)を出資すると発表した。フェース社のサイトを活用しインターネット広告事業を拡大する。グーグルも出資交渉したとされるが、MSが条件面で競り勝ったもよう。急成長するネット市場を巡り、グーグルとMSを軸にした主導権争いが激しくなりそうだ。……>( 2007.10.25 NIKKEI NET )

 現代ビジネスで大きく "儲け" を得ている巨人たちは、今、 "諸人" たちが集いはじめている "SNS" というジャンルに、血眼となりはじめているかのごとくである…… (2007.10.25)


 先日 "ネット・オークション" で注文したPC関連物件が、今日無事に届いた。
  "ネット・オークション" での契約ははじめてであったため、多少の不安がないわけではなかったが、どうやら良心的な "出品者" と遭遇したようで、届いた物件は予想以上に良質なものであった。
 まあ、いつもこうだと決めてかかるわけにもいかないが、一安心であり、今後、何かの場合にはまたこのルートが使えそうだと思えた。
 われわれのような "コンピュータ・ソフトウェア" 関連の仕事に携わっていると、PC環境を自前で整備しなければならない。そしてその際には、市販されていないPCパーツや、一般市場の流通には先ず期待できないユーズド・パーツが必要となることも少なくない。そんな場合に、今回お世話になった "ネット・オークション" というようなルートは、リスキーさを超えてありがたい存在となりそうである。

 PC環境の整備も、 "カネに糸目を付けない" 立場であるのならば、怪しげなルートなどに期待を掛けることもなさそうである。しかし、われわれのようなステイタスにあっては、常に可能な限りコスト圧縮を心掛けなければならない。常日頃のそうした習慣がなければ、ユーザに対するソフト作成費用の提示において価格圧縮の努力とてままならないはずだからでもある。
 時代環境は、マネーゲームのようにケタ違いの金額が動く一方で、一般的なビジネス地平にあっては、相変わらずコスト圧縮努力が小さくないウエイトを占めている。数多(あまた)の業種がその鉄則に縛られている以上、自分たちもそれに準じなければ仕事の一角を担う機会からはずされてもしょうがなかろうと思っている。
 それに、コスト圧縮課題を基本的な "下敷き" としているならば、往々にして創意工夫の姿勢が培われるようにも思う。少なくとも、 "必須なモノ" と "あればあったに越したことはないようなモノ" との境目がよく見えてくるような気もしている。人は、意外と "あればあったに越したことはないようなモノ" に多大な投資をしてしまって自らを苦しめている可能性もありそうな気がするのである。

 振り返ってみると、現代のわれわれの時代環境の中には、何と "あればあったに越したことはないようなモノ" が溢れているかと思わざるを得ない。そしてまた、そうしたモノへの欲求や願望が、何とさまざまなかたちで刺激され、助長されているか、ということでもある。言ってみれば、新製品や新サービスというモノは、ほとんどがこれに値するのではなかろうか。これまで、そうしたモノ(新製品や新サービス)が無くて済んでいたにもかかわらず、突如として "無くてはならない" かのように変貌するのだから不思議である。
 そうした実情がどうして成立するのだろうかということに目を向けるならば、やはり人間というものが "意識する存在" だからということになりそうだ。
 もし、人間が "物的次元" のみで生きているならば、あれが欲しいこれが欲しい、という衝動は、現在のわれわれが持つほどに肥大化してはいなかったのではなかろうか。 "物的次元" の事柄に対応するのは、食欲をはじめとする生理的欲求などということになるが、こうした次元だけが人間の関心範囲だと仮定するならば、世界はどんなにかシンプルな姿で留まったことであろうか。もっとも、そうした世界は、人間の世界というよりも動物の世界と言わなければならないが……。

 人間は "意識する存在" だからこそ、文化や文明を創造し、今日のような "輝かしい文明世界" に辿り着いたのであろう。この事に口を差し挟むつもりは全然ない。 "文明" の恩恵に浴しながらでは口も差し挟みにくいというものだ。
 しかしながらなのである。 "文明" の発展もここまで来ると、ちょいと "増長" したり、 "惰性" に墜したり、 "マンネリ気味" となったりしてはいないかと、若干、シニカルな目を向けてみることがあってもバチは当たらないような気もしている。
 そのひとつが、昨今の "文明" の風潮は、売らんかな、買わんかなの "惰性" にまかせて、切実に人々が欲するモノというよりも、 "あればあったに越したことはないようなモノ" をゾロゾロと創り出し過ぎるのではないかと、いうことなのである。もちろん、創り手、売り手だけがおかしいわけではなく、そんなモノを物欲しげに期待する買い手たる消費者にも多大な責任があるはずであろう。いや、本質的には、 "消費が生産を生み出す" というメカニズムがあるわけだから、消費者こそ "姿勢を正す" のが順当なのかもしれない。

 話の "間口" を広げ過ぎてしまったが、要は、現代のわれわれの周辺には、 "あればあったに越したことはないようなモノ" が溢れ返り、それらによって逆に、われわれは途方に暮れそうになっているのかもしれない、ということだ。さらに、われわれは、"あったに越したことはない" というような "盲目的で好意的な見方" をズルズルと引き摺っていそうだが、本当にそうなんだろうか、という疑問なのである。
  "あればあったに越したことはないようなモノ" たちが、実のところ "無い方がよかった" というほどの災いや、混乱や、足枷となっているのかもしれないという、そんな "醒めた視点" を持つべきなのではないかと思ったりするのである…… (2007.10.26)


 殴りつけてくるかのような雨が窓を打っている。風も不気味に吹きまくっている。夕刻からは風雨が激しくなるとの天気予報が的中した。今回の台風20号は、今ふうの "いきなり……" というスタイルのようだ。台風の話題を耳にしたのは、確か昨日のことだったかに思う。ニ、三日前というのではない。突然に降って湧いたかのような発生の仕方であった。
 今日は、朝から事務所に出てきている。なんだかんだとやり残した事柄が多かったし、こんな天気でもあるため秋日よりを楽しむふうでもなかった。だから、事務所に出て仕事でもしようか、という "でも・しか" 出社ということになろうか。
 天気が悪くなりそうだったので、出社の途中、コンビニで昼食や夕食向けの"エサ"などを仕入れてやって来た。 "かんづめ" になろうという意気込みというか、諦めというか、そんな体勢だったのである。

  "作業頭" となってしまっていて、これといって書くことが何も思い浮かばない。この何日かで "笑ったこと" を思い出して書くことにする。
 その1。事務所から外出した際、時々道を変えて教会が営む幼稚園の脇を通ってくることがある。すると、校庭というよりも園庭というのだろうか、そこで大勢の園児たちが "放し飼い" にされているのが目に入るのだ。いや、その姿が目に入る前に、そこに近づくと、先ず園児たちの賑やかで元気そうな甲高い声が耳に飛び込んでくる。
 園児たちは、あの特有のかわいいスモックを着て、クラス分け毎の色違いの帽子を被って、おとぎ話にでも出てくるようなかわいらしさである。ふと、近くにいる男の子の後姿を見ると、何か見覚えがあったような気がしてもきた。記憶をたどると、息子が保育園に通っていた頃の姿が蘇ってきたことに気づく。息子は小さな頃、極端になで肩に痩せていたため、スモックを着てそんな帽子をかぶると、さながら "てるてる坊主" の格好そのままに思えたのだった。
 庭では数十人くらいであろうか、それぞれ思い思いの事をして遊んでいる。先生の周りにいて遊んでもらっている子がいるかと思えば、庭に設えられたさまざまな遊具に没頭している子たちがいる。みんな屈託がなく、実に楽しそうである。
 そんな中に、 "笑えた" 光景があった。
 ブォーという妙に低い声が聞こえてきたのでその方を見ると、男の子が、とてつもなく "でかいメガフォン" を口の前にあてがって、何やら得意そうに叫んでいたのだ。で、その "でかいメガフォン" とは、さにあらず、駐車禁止などに使うプラスチック製の赤い "三角ポール" だったのである。結構な重さなのであろうが、それを両手でしっかりと押さえて、 "メガフォン" でござい! のおどけを演じていたのだ。
 それを見た自分は、思わず笑ってしまい、そうした発想の転換の素晴らしさに感激したものであった。

 その2。動物たちというものは、裸一貫、単刀直入で飾りがなくていいもんだと思わされたこと。
 上記の子どもに笑わされたその後だったかと思う。事務所の前まで戻ってきた時、歩道の先の方で散歩させられている犬(ビーグル)を見かけたのである。
 犬は、あたかも飼い主を散歩させているんだと言わぬばかりに、スタスタと気持ち良さそうに先行してイニシアティブを取っているかのようであった。尻尾を上に掲げ気味で振りながら、周囲をキョロキョロと忙しそうに目配りしながら歩む犬であった。
 その時、何だか見慣れぬモノが目に入ったのだった。尻尾を振り回して "アテンション・プリーズ" をしているかのようだったので、自然に、その犬の股間に目が誘われたのである。そこでは、吊り下げられた "ふたつの玉" が、実に忙しそうに飛び回っていたのであった。横に跳ねたかと思うと、上に跳ね上がり、そして遊泳するかのような動きともなる。その光景は、見ていて飽きないほどにバラエティに富んでいたのだ。が、その "持ち主" の犬の方はというと、まさに何食わぬ無頓着さ、そんなこと気にしないもんねぇ〜、という調子で、涼しげに歩んでいる。それらの光景の対比が "笑えた" のかもしれない。
 自分は、吹き出しながらそうした光景に見とれてしまった。当の犬にしてみれば、何ということもないはずだよなぁ、むしろ、あっちにこっちにとプランプランとさせた方が "空冷機能" が盛んとなって身体にいいのかもしれないなぁ……、とたわいのないことを考えたりした。やがて、動物はあれはあれでいいんだよ、だから虚飾と小細工に明け暮れる人間から愛されるのだろう、という落しどころに落ち着いたのであった…… (2007.10.27)


 先日ここに書いたことで、 "あればあったに越したことはない" という発想に対してシニカルな疑念を呈した。そこで言いたかったことは、とかく便利なモノを受け容れて楽をする傾向のある現代人は、いわばその "副作用" とでも言ったらいいマイナス面を被ってはいないか、という点であった。
 実際、目に見える領域では、日常的な行動では限りなく便利な道具類を活用して身体自体を動かし体力を使うことを回避している。その結果は、言わずと知れた "肥満体" や "メタボリック症候群" である。それでまた、それらを解消すべく、別途スポーツなどに励む時間を費やしたりしている。この連鎖は、やむを得ずそうしているという根拠があることもわからないではないが、やはりかなりの矛盾だとしか言いようがないわけだ。
 これが、便利なモノを "あればあったに越したことはない" と受け容れている結果だとするならば、便利なモノなんぞ作るな! と過激なことを言う前に、むしろ "あればあったに越したことはない" という一見もっともそうに思われる発想それ自体を疑ってかかった方がよさそうかと考えたのであった。

 今日書くことも論点はまったく同様である。ただ、自分はむしろ "こっちの問題" の方が深刻度が深いのではなかろうかと考えている。
 と言うのも、現代という時代の問題で、 "メタボリック症候群" も見過ごせない問題であろうが、もう少し不気味で深刻そうに思えるのが、 "うつ病" とか "認知症" という脳と心の病ではないかと感じているからなのである。
 自分自身も、不摂生が祟り、自律神経の乱れから "うつ" 的な気分や不快さの経験をしたことがあるため、こうした脳と心の不調は見過ごせないでいる。
 また、子どもも含めた現代人一般の精神状況を見渡す時、何か文明自体の "副作用" とでも言うようなものが、さまざまな社会的不具合となって表面化しはじめているような気配も感じるのである。もちろん、社会制度的な側面や、現行の社会経済的状況にも多々問題があることは否定できないと見える。しかし、もっと深層の、文明という次元の中に "病巣" が潜んでいないとも言えないような気もするのである。
 そして、その "病巣" は、深く静かに、人間の中枢である脳の働きに対してジワジワと影響を与え続けているのかもしれない……と。まあ、若干大げさな表現となった気がしないでもないが……。
 以下に、 "脳医学者" の著作からのわかりやすい一文を引用しておく。

< 脳を鍛えようと思ったとき、特に重要なのは前頭葉の力を高めることです。>
< 目や耳から入力された情報は、頭頂葉、側頭葉、後頭葉を介して前頭葉に集められます。前頭葉は、その情報を処理する。入力された情報を、記憶として蓄えられている情報と組み合わせ、思考や行動の組み立てをつくり、運動野を介して体に命令を出す。脳の司令塔のような役割を果たしています。>
< 前頭葉の力が高くなると、限られた知識や経験しかなくても、それを使って有効な組み立てを考え、行動に移すのが上手くなります。要するに、実行力の高い人になる(知識や経験もあればもっといいのは言うまでもありません)。逆に、前頭葉の力が下がってくると、知識や経験があっても、それを使って合理的な組み立てを考え、行動するのが苦手な人になります。博識なのに、それが生かせないタイプです。>
<前頭葉を鍛えるときには、状況に対して、より速く判断できる、的確な対応が考えられるという、いわばテクニックの部分を鍛えるのももちろん大切ですが、それ以前に重要なことがあると私は考えています。それは、指令を出し続ける体力を高めることです。
 どんなに速く、的確な組み立てを考えられる人でも、たまにしかその能力を発揮できないのでは何もなりません。……
 前頭葉が指令を出し続けられなくなったとき、次に人間を動かすのは感情系の要求です。つまり面倒なことはしたくない、楽をしたい、人任せにしたいという、脳のより原始的な欲求に従って動いてしまう。結果的に、前頭葉の体力が落ちてくると、やればできるのにやらない人、自分を律して主体的に行動するよりも、人から命令されなければ動かない、感情系の要求に従ってダラダラと過ごす時間の長い人になってしまいます。>
< 多くの現代人が衰えさせているのは、おそらく前頭葉のテクニック的な部分よりも、指令を出し続ける体力です。
 脳の基礎体力は、日常的な雑用を面倒くさがらずに片付けることで鍛えられますが、現代ではその日常的な訓練の機会が減っている。便利な機械に任せたり、料理をつくる代わりにコンビニエンスストアでお弁当を買って済ませたりという場面が増えています。便利なものを利用するのは、もちろん悪いことではありませんが、脳の基礎トレーニングを減らしているかもしれないということは自覚しておいた方がいいでしょう。
 前頭葉の体力が日常的に鍛えられていると、面倒くさいことや辛いことに対する「耐性」とでも言うべき力がついて、生活が楽になってくるものですが、現代人はそのベーシックな部分が自然には鍛えられにくくなっている。それでいて、変化の激しい時代の中で、より大きな困難に直面するので、余計に辛く感じるのかも知れません。>(築山 節『脳が冴える15の習慣 記憶・集中・思考力を高める』2006.11 NHK出版より)

…… (2007.10.28)


 昨日書いた "<脳の基礎体力> = <前頭葉の体力> = <指令を出し続ける体力>" という捉え方は、やはりきわめて重要だと改めて思っている。そして、これらが<日常的な雑用を面倒くさがらずに片付けることで鍛えられます>というのも、実にわかりやすくていい。
 とかく、 "ただし、これを実現するには……" と言って、やたら物々しい装備や訓練など大仰なことが要求されがちとなるのに対して、実にシンプルに<日常的な雑用>云々と説くのは、まるで "赤ひげ" あたりが実践医学を語るようで好感が持てる。
 と言っても、平凡過ぎる事実だからあてにならないのではないかと受け取ってはならない。脳の働きの基本構造の核心とは、こうした実に平凡な日常生活にこそ宿っているのだと言ってよいのだろう。
 自分は、以前から、 "知識" の獲得もさることながら、 "知恵" の発揮こそが脳の重要な働きだと考えてきた。 "知恵" とは、 "知識" 活用能力だと言い換えてもよい。そして、この点から言えば、上記の捉え方というのは、まさにこの "知恵" の発揮に匹敵するものだと思われてならない。

 しかし、どうもこの辺の事柄、事情については、現代という時代環境にあって、いわば "盲点" となっていそうな気がしてならないのである。
 繰り返しとなるが、当該の筆者は次のように書いていた。

<脳の基礎体力は、日常的な雑用を面倒くさがらずに片付けることで鍛えられますが、現代ではその日常的な訓練の機会が減っている。便利な機械に任せたり、料理をつくる代わりにコンビニエンスストアでお弁当を買って済ませたりという場面が増えています。便利なものを利用するのは、もちろん悪いことではありませんが、脳の基礎トレーニングを減らしているかもしれないということは自覚しておいた方がいいでしょう。>

 つまり、<便利なものを利用する>することに慣れてしまった現代人は、<脳の基礎トレーニング>を減らして、結局は<指令を出し続ける体力>を減退させている、ということになる。平易なことのように見えるが、実はかなり由々しき問題でもあろう。
 エレクトロニクス機器やIT機器などの、いろいろな<便利なもの>に依存してしまう習性が問題視されていることになるわけだ。
 ちょっと余談となるが、先日ある著書(田中 森一著『反転―闇社会の守護神と呼ばれて』)を読んでいて、やや感じ入ったことがあった。その著者は、大学在学中に司法試験に合格し、検事へとなっていったのだが、子ども時代は極貧の生活でまさに生活すること自体で闘わなければならなかったようである。言ってみれば、<脳の基礎トレーニング>を避けて通れない生活の連続だったと言えようか。
 加えて、これも<脳の基礎トレーニング>に拍車を掛けたのだろうと思えたのだが、子どもの頃、 "算盤の天才" との異名を取るほどに算盤が達者だったそうなのである。
 こうして、その著者は、<便利なもの>に依存できなかったことが逆に、逞しい脳の性能を形成することとなり、 "やり手の鬼検事" となったそうなのである。まあ、あまりにも "やり手" 過ぎて、 "闇社会の守護神" と呼ばれる立場ともなったようなのではあるが……。

 話を元に戻すが、上記の<便利なもの>とは、何もエレクトロニクス機器やIT機器などに限られるわけではなく、もっと基本的に注目してよいものがありそうにも思える。
 それは、ひとつが "知識" (偏重)であり、もうひとつは "固定観念" (への依存)なのである。
 つまり、これらは、脳における "試行錯誤" すなわち "思考" (これが脳の<指令を出し続ける体力>に相当するはずである)に "取って代わる" ことになっていそうだからである。
 例えば、数学における何らかの "公式" という "知識" を得ているならば、その "公式" の形成過程での "思考" は割愛して、結果としてのその "公式" を使うことができるわけだ。本来を言えば、その "公式" の形成過程を自分の思考力で歩んでみるならば、これこそが格好の<脳の基礎トレーニング>となるのだろうが、これを "思考のエコノミー" と称して省略するのである。
 事ほど左様に、現代教育の実情は、 "知識" を得ることに奔走しつつ、<脳の基礎体力>を高める "思考" 過程をスポイルしがちとなっているのではなかろうか。
 そして、この傾向と惰性は、想像以上に長く保持されることとなり、大人となっても自身の脳で "思考" せずに、いつも "既製品としての知識" を待ち受けることになっているのかもしれない。

 もうひとつ、 "固定観念" というものも、 "知識" と同様に、 "思考" 過程を割愛してくれるもののようである。今、 "固定観念" と呼んで想定しているものは、いわゆる "道徳律" のようなもののことなのである。
 たとえば、 "勤勉であれ" という "道徳律" を例にするならば、それを、何故と問いつつ "試行錯誤" しながら確信に至るのが望ましいアプローチだと思えるのだが、一般的に "道徳律" としては、理由はさておき、とにかくこれを実践すべし、ということになってしまうのではなかろうか。それを、 "思考" 過程の割愛だと言うのである。
 こうした、 "試行錯誤" の "思考" 過程を経て選び取られたものとは異なるところの "道徳律" は、最悪の場合には、形式的なものと成り果てて、 "タテマエ" 化してしまう危険を常に孕んでいるのではなかろうか。

 現代環境におけるいろいろな問題現象の根底には、何を原因にしてかは別としても、<脳の基礎トレーニング>が、 "割愛" ・ "スポイル" されてしまっている事態と密接に関係した問題が横たわっているのかもしれない。その実情を、 "思考停止" 状態である! と言い切る人もいるようだ…… (2007.10.29)


 最近は "新聞紙" を読む代わりに、ネットで "新聞社サイト" に目を通すことになってしまった。だから、自分だけならば、今の若い世代のように、新聞を "購読" することもないかと思ったりしている。
 ただ、家内が "新聞好き" であり、また "折込広告好き" であるため、 "購読" をそのまま継続している。 "折込広告" と言えば、最近のそれらの物量には恐れ入る。特に、休日前ともなると、その "束" の厚みは少なくとも1センチはありそうだ。自分なぞは、そんなものはほとんど見向きもしないでいる。ただただ "資源ゴミ" の嵩(かさ)を増やしているだけのような感触でもある。

  "新聞社サイト" でニュース記事を読んでいるからそう言えるのかもしれないが、 "新聞紙" を読むくらいならば、腰を据えて書かれた著書なりをじっくりと読む方がずっと良さそうだと感じたりしている。とりわけ、朝の貴重な時間帯に "新聞紙" なんぞに没頭する人の気がしれない、というものだ。
 とにかく、昨今の新聞記事は、政府や関係筋による情報の単なる "垂れ流し" に徹しているに過ぎないようなので、先ずはゲンナリするのである。政府広報誌を読んでいるかのような気がしたり、警察筋からの回覧版か何かで犯罪事件簿を読まされているかのような気がしたりするわけである。多分、この感覚は、大筋では当を得ているのではなかろうか。政府などによるマス・メディア統制、操作が最も "効いている" のが新聞メディアなのであろうから……。

 ところで、ネットで "新聞社サイト" を覗いていて抱く感想がニ、三ある。
 先ず、その一つは、これは自分だけなのかもしれないが、何となくサイト全体がギクシャクしているかのような印象を受けるのである。それなりに "スマート" に運営しているのは、 "nikkei" くらいであろうか。そのほかの新聞社サイトは、現代のマス・メディアの "雄" であるにもかかわらず、何ともいただけない。あたかも、われわれは "活字文化" は得意ですが、 "デジタル文化" には今ひとつなんです……、とでも呟いているかのような感触を受ける。
 まあ、それはそれとしても、毎度アクセスする度に非常に "不快な思い" をさせられている新聞社サイトがある。何を隠そう " asahi.com " なのである。
 どういうことかと言うと、このサイトにアクセスすると、 "ホーム" の冒頭に"タブ" で選ぶ4つのコーナーがあるのだ。そしてデフォルトで表示されているのは「主要ニュース」という一番左の "タブ" なのである。まあこれで、その時点での主要なニュースがわかろうというものなのである。そこまではいい。
 以前は確かそのままであったような気がする。ところが、昨今、ほんの数秒もすると、 "勝手に" 一番右端の "タブ" の「コミミ口コミ」とかいう画面を自動的に表示させる小細工をするようである。これは、よく個人サイトなどで見かけるものであり、閲覧者から顰蹙(ひんしゅく)買いがちな "悪相" スクリプト手法の一つではないのか。
 どうして "悪相" かと言えば、せっかく来訪してくれた閲覧者に対して、 "自由にクリックする選択権" とでもいうものを侵害して、サイト側が勝手に誘導するかのような印象を与えるからなのである。
 「こっちの『コミミ口コミ』の記事も面白いですよ……」という親切なアドバイスのつもりなのだろうが、「主要ニュース」の項目を目で追っている時に、勝手に他の画面が重ね表示されてしまったのでは、当然 "不快な思い" をさせられるのではなかろうか。余計なことをしないでよ、と言いたくなってしまうわけだ。

 ちょっとしたことでしかないわけではある。しかし、こうした "些細な自由" をそっと尊重する気配りというものが欲しいのである。ヘンに "誘導" するような印象を、閲覧者に与えることはなかろうと思うのである。
 自分がもし、このサイトの責任者、監督者の立場であったなら、担当者に対してこう言うだろう。
「新しい企画へとお誘いしたい気持ちはわかるけど、勝手に画面を移動させるのは "禁じ手" かもしれないね。この手は止めて、別な工夫を考えてよ」と。
 それとも、天下の大新聞社のサイトには、サイト状況を "チェック、レビュー" する監督者はいないのであろうか。ちなみに、29日付けの「社説」記事は、表示幅の自動調整ができない技術的処理上のバグなのではないかと思われる。こんなことだって、ちょいと上司がチェックすればわかり、すぐに修正できるはずのことではないのだろうか。
 今後、新聞社は、ますます従来の "活字文化" から "デジタル文化" へと視界を広げて行かなければならないはずであろう。両者の違いはいろいろとあろうが、重要なその差異のひとつに、 "インタラクティブ(相互に作用する、対話式の)性" という点がありそうだと考えている。その点に関して重要なことは、 "受け手" 側の意向をくれぐれも尊重し、それを技術的にも保証することなのではなかろうか…… (2007.10.30)


  "古いメディア" を、 "新しいメディア" に "コンバート(変換)" するというテーマは、そこそこ需要もあるだろうしそれなりに重要なテーマであるのかもしれない。
 今日、Webサイトで、次のような記事が目にとまった。

<ティアック、レコードからCDへダビングできるレコーダー
 ティアックは、レコードからCDに音楽をダビングできるレコーダーを11月下旬に発売する。レコード再生機とCD録音機の一体型で、ダビング作業が簡単にできる。黒とシルバーのシンプルな配色で、30代から50代の音楽ファンに売り込む。
 新製品は「LP―R400」=写真。記録用のCDを入れて録音設定し、レコードを再生するとダビングができる。レコードの曲と曲の境目を自動で検出して録音する機能がある。LP盤レコードの両面を順番に録音すれば、1枚のCDに納めることもできる。価格はオープンだが、実勢価格は6万9800円前後。>([10月31日/日経産業新聞])

 新製品として商品化されるくらいであるから、マーケット・リサーチなども行われて、需要のあることが確認されているのであろう。時期もちょうど団塊世代の大量退職期である。暇と多少のおカネを持つそうした人たちが、趣味で集めたレコードを耐久性があり、保存もし易いCDに "ダビング" しておこうか、と意を固めたとしてもおかしくはない。そんなことがあるだろうと想像することも不自然ではない。
 PC操作が達者な人であれば、多少面倒な作業とはなるが、レコードのサウンドをデジタル化して、それを編集してCDに焼くことは十分にできる。
 しかし、レコードに愛着を感じているのであろう団塊世代以上の人たちは、概してPCを使いこなしてきたとは言えないようだ。だから、そんな人たちにとっては、この "ダビング・レコーダー" が貴重な価値を持つ可能性はありそうである。
 かねてからのお気に入りの名盤を一通り聴き直しながら、同時にお手製のダビング版CDを作成してしまう、というのは、興味のそそられることなのかもしれない。

 一方、こうした "アナ・デジ変換" の新製品に多少の懸念を感じないわけでもない。
 というのは、ひとつは、レコードへの愛着と思い入れの強い人というのは、やはり "レコードが聴きたい" と望むのではなかろうか、と思われる点である。自分の知人にもそうした人がいて、その人はどうも、 "レコードをかける" という一連の動作や、それに伴う雰囲気それ自体をも味わっているかのごとくなのである。何となく、わかるような気がする。
 かける回数を重ねれば、次第にそのレコードが磨り減って劣化していくわけだが、自分自身も加齢で耳が衰えていくのだから、それはそれでいいじゃないか、と考えている節がなくもない。

 もうひとつは、音の劣化にかかわる悩ましい問題なのである。音質にこだわる人は、「もうこれ以上にこのレコードを磨り減らしたくはない」と考えるのかもしれないが、意外ともう十分に磨り減って、音は劣化しているのではなかろうか。それが "アナログ" メディアの宿命だと言える。
 それほどに音質にこだわるのであれば、同じ演奏家が演奏した音源の市販CD版を入手した方が良い場合だってありそうである。
 自分の場合、こだわったのはレコードではなく、ビデオ映画の場合であった。ある気に入った映画であったが、あいにくとビデオ版しかなかった。そこで、やむを得ずそれをデジタル変換して、DVDに焼き込んだのである。しかし、出来上がったものは何とも画質が優れず、観るに耐えない水準でしかなかった。
 と、しばらくして、当該のその映画のDVD版が発売されたのである。もったいないかとも感じながら、でも気になった挙句、購入することにしたのだ。が、何とその画質は想像以上に良いものであった。DVD化の際に、ブロの手によってオリジナル・データがテクニカル処理を施されたようなのである。その雲泥の差に驚いたものであった。
 つまり、音質や画質に真底こだわるのであれば、世界にただ一枚しかないという希少価値のある名盤ならばいざ知らず、通常のものであれば、手持ちのアナログ版にこだわるよりも、プロがリリースした市販のデジタル版を入手した方が結果的に得策だという場合もあり得るということなのである。

 それにしても、 "アナ・デジ変換" というテーマは、差し迫っているかに思われる課題をはじめとして、若干、哲学的(?)とも考えられるような問題まで関係しているようで、興味が尽きない気がしている…… (2007.10.31)