昨今の日常生活の中で、ふと自身の感覚や認識がズレているのではないかと感じることがある。つまり、現実の時代環境の認識に当たって、相も変らぬかつての古い思い込みを引き摺っている自分に気づくことがあるということだ。
しばしば、 "安全神話" が崩れたと言われる。しかし、崩れたものはそればかりではなかろう。 "年金納付金" の "横領" 事件は、 "公僕(公務員)" への庶民の信頼感を大いに崩しているし、政府の閣僚たちのカネに対する "ダーティ" さは、今さらのように政治家たちへの信頼感を突き崩している。
シビァな観察眼を持つものにとっては、彼らはもともと "胡散臭い" 人種そのものであり、タテマエ上の信頼しか与えられなかったと言えばそういうことになろう。しかし、昨今は、一般庶民にとっても目に余るかたちで "神話" 的なものが崩れ去っている印象がある。これも、構造改革の "おかげ(?)" なのであろうか……。
しかし、本来、とっくに崩れ去らなければならない時代や社会の "闇" というものが、まだまだしっかりと "温存" されていることを知るべきだと思われる。いわゆる "タブー視" されている事実が存在し続けているし、あるいはまた、 "権力的に隠蔽" され続けている事実も歴然として存在し、人々を不幸にしていると考えざるを得ないからである。
これらの "闇" は、自然に光が差し込み、正されるものではないように思う。一般庶民がこれをさまざまな理由によって放置し続けるならば、 "闇" は益々その漆黒の度を強めていくだけなのであろう。まさに、そうした "闇" というものは、一般庶民の関心の度合いや、拒絶の度合いと相関関係をもって残存し続けているのだという思いがする。要するに、様々な度合いの "暴力集団、組織" のことなのである。
"暴力集団、組織" といっても、いわゆる "暴力団" だけが対象というわけではないのが不幸な事態だと思われるのである。それを取り締まる側にもあり得るということだ。
自分は最近、こうした "闇" に関して注意が向くようになっている。興味本位というよりも、現代という時代が、必然的にこうした "闇" を生み出す構造を持っているかのように思えてならないからであろうか。光の部分だけを視野に入れていたのでは、足元を掬われるような世界認識にしか辿り着けないように思われてならない。
つい最近も、書名からしておどろおどろしい著作を読むことになった。田中 森一著『反転―闇社会の守護神と呼ばれて』という自伝的な著作なのである。これは、検察庁の元検事である田中 森一氏が、やり手の鬼検事として活躍した時代の経緯から、 "ヤメ検" と呼ばれるところの検事をやめてそれまでの経験を活用した弁護士となって蠢く "悪徳" 弁護士時代の経緯を、事実に即して著したものなのである。
現在、田中 森一氏は、「地下経済の帝王」と称された "許永中" とともに、 "約百八十億円の手形詐欺" 事件に関与したとしてかつての古巣である検察庁から起訴され裁判中の身の上となっている。
この著作の読み方はいろいろとあろうが、知的関心が刺激されるのは、通常では一般庶民が見聞することのできない、 "検察庁" 内部の醜悪な実態がはからずも克明に叙述されている点なのである。つまり、一般庶民が盲信するところの「正義の味方」に違いない検察庁というイメージが、ことごとく崩壊してしまうような事実が赤裸々に露呈されているのである。
こうした "イメージ崩壊" の一端が、一般庶民の視界にも入りそうになったことがなかったわけではない。数年前に、「検察の裏金づくりを内部告発!」というセンセーショナルな事件が報じられたことがあった。そして、その内部告発者(三井環公安部長)が別件の詐欺容疑で逮捕されたという事情が絡められたことにより、検察内部への疑惑は逆に燃え盛ったようだった。が、お定まりどおり、「検察の裏金づくり問題」はウヤムヤとされたようだ……。
ところで、今日、 "社会正義" の総本山とでも言うべき "検察庁" の、その "イメージ崩壊" について書いているのは、実は、あるTV番組を昨晩観て、この国の危険をつぶさに感じたからなのである。
その番組とは、NHK教育での<ETV特集「私はやってない〜えん罪はなぜ起きたか〜」 出演:ジャーナリスト…江川 紹子, 作家…佐木 隆三, 弁護士…秋山 賢三, 白鴎大学教授…土本 武司, 【司会】鹿島 綾乃>のことである。
今日はこの詳細について書く余裕がなくなってしまったが、要するに、 "冤(えん)罪" 発生の背後には、警察、検察による "非人道的、暴力的" な "自白強要" の取り調べがあったとされる事実が、丹念に紹介されていたのである。この事実は、 "痴漢" 、 "婦女暴行" 、 "選挙違反" という3つのそれぞれの事件で "冤(えん)罪" となった被告人の悲劇を追跡したものであり、まさに誰でもが当事者になり得るという点で、一般庶民にとって戦慄すべき事実だと思われたものだ。
社会の "闇" は、決して好事家たちの興味本位の対象なんぞではないわけである。 "闇" が存在するということは、その漆黒の中で、理不尽な不幸を強要される人々が確実に存在するということでもあるわけなのである…… (2007.09.10)