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【 過 去 編 】



※アパート 『 台場荘 』 管理人のひとり言なんで、気にすることはありません・・・・・





‥‥‥‥ 2007年09月の日誌 ‥‥‥‥

2007/09/01/ (土)  TVの "リプレース" は結構面倒だ Part U……
2007/09/02/ (日)   "脳" や "精神" や "心" の側面での "疲労" と現代商品……
2007/09/03/ (月)  夏の休暇の締め括り……
2007/09/04/ (火)  <20代の若者の所有欲そのものが減退しているという不思議な現象>……
2007/09/05/ (水)  延々と"ロングラン" される安倍 "種明かし" 内閣……
2007/09/06/ (木)   "早め早めに" 準備して、対処してください……
2007/09/07/ (金)  何か微笑ましい光景を探すような眼差しになっている……
2007/09/08/ (土)  情報化時代の飛び交う情報は、皆 "使命" を帯びている?……
2007/09/09/ (日)  庭の葡萄の房を見て、 "悠久" をラチリと覗く……
2007/09/10/ (月)  現代という時代でも、しっかりと "闇" が存在する……
2007/09/11/ (火)  ねぇ、安倍さん。まともな優先課題をしっかりと決めましょうよ……
2007/09/12/ (水)  この際、 "対米依存関係" をもっと凝視すべきでは……
2007/09/13/ (木)  <青いとんぼの落つきは 眼にねたきまで憎々し>……
2007/09/14/ (金)  安倍首相 "唐突" 辞任の背景、その後……
2007/09/15/ (土)  新着眼ソフトは、新ビジネスのためのインセンティブを持つ……
2007/09/16/ (日)   "原点" 的な問題に立ち返らなければ、あたかも "解不能"……
2007/09/17/ (月)  「蟻とキリギリス」の蟻の、そのオリジナル・モデル……
2007/09/18/ (火)  ジャーナリズムは今や "絶滅品種" となりつつある……
2007/09/19/ (水)   "FRB" による "思い切りの良い" 政策金利引き下げ……
2007/09/20/ (木)  情報とは、閉じることなく "流転" し続けるもの……
2007/09/21/ (金)   "楽観的明朗さ" の一点で開き直ること……
2007/09/22/ (土)  身近に医療現場を知ると、考えることにも突き当たる……
2007/09/23/ (日)   "プラスすること" よりむしろ "マイナスする" ことを……
2007/09/24/ (月)  サブプライム問題と「成果主義」の職場環境……
2007/09/25/ (火)   "責任概念" が、メルトダウンしてしまった現状……
2007/09/26/ (水)  福田内閣新閣僚のインタビューの後、<落語“ぞろぞろ”> ……
2007/09/27/ (木)   "バーコード・リーダー" で遊ぶ ……
2007/09/28/ (金)  散髪を済ませた小学生たちがズズーンと整列 ……
2007/09/29/ (土)  鋭い "痛み" は、何よりも事態が悪化している時に顕著である……
2007/09/30/ (日)  「逡巡」する時間まで、コストダウン方式でカットすべきではなかろう……






 「梃子摺る」とは、こういうことを言う、というお手本のような梃子摺り方をしてしまった。事は昨日の続きの "TVリプレース" 問題なのである。IT関連業種に携わる者が、こんなことで右往左往していたのでは目も当てられない。
 しかし、結局、ほぼ一日中あれやこれやの試行錯誤をしていたことになる。夕食後にやっと全課題をクリアすることができ、今はこうして "反省会" のような文章を書こうとしているわけだ。

 それにしても、現在のTV放送分野はスッキリしていない。さまざまな映像・放送の技術要素があたかも "野合的" に結集され、また、これらを処理するTV関連製品の種類も、メーカーの数が掛け合わされた多様さで、それらがこともあろうに部外者の素人の面前に放り出されているという按配ではなかろうか。
 こんな複雑な状況では、ズブの素人が、TV放送ジャンルのニュー・メディアを気楽にエンジョイするというのはちょっと難しいかもしれない。いや、機器類の設定という環境設定が完了した状態で、リモコン操作ひとつでエンジョイするというのならば、もちろん気楽であろう。
 これを簡単に済ますには、とにかく「オール・イン・ワン」のシステムを導入し、しかも、然るべきサービス・ベンダーにすべてお膳立てしてもらうことだろう。もちろん、カネに糸目はつけぬ覚悟でである。あそこのショップのあの製品が破格値だとか、あの通販が安いとか、個別の製品に色目を使っていたのでは、それらを組み合わせて接続する際に予想外の苦労を強いられることになりかねないからだ。
 また、機器類の設置や立ち上げを頼もうとする業者にしても、こうした事情をよく呑み込んだ業者でないと困惑するのではなかろうか。然るべきサービス・ベンダー(業者)とはそういうことなのであり、町の電気屋さんでもよほど勉強家タイプでないと難しいのかもしれない。

  "立ち上げ後" をエンジョイするのは魅力的ではあるものの、技術環境の "立ち上げ" が「梃子摺る」という事情は、パソコンやインターネットなどの専売特許かと思ってもいたが、一般の人々に最も "優しい" ジャンルだとばかり見なしていたTV放送関係領域が、ここへ来てにわかに波立ってしまっているような気配である。
 最も大きな波は、従来からの "地上アナログ" 放送が、2011年に打ち切られ、高品位画像が売り物の "地上デジタル(地デジ)" 放送へと移行するという "国家プラン" であろう。これに伴い、受信者は受信機器やアンテナなどの付属機器を買い換えざるを得なくなる。また、有料放送の契約も必要となる。
 また、昨今では、放送番組の "録画" を楽しむ人々が急増した。これは、コレクター(収集家)が増えたということよりも、放送時間帯に縛られずに鑑賞したいという時代風潮がもたらしたものであろう。
 となると、 "地上アナログ" 放送 から "地デジ" 放送への移行は、放送内容のデータ方式が異なることから、必然的に録画方式も異なることとなる。その結果、録画DVDなどの "録画機器" もリプレースしなければならなくなるわけだ。こうした、放送方式のいわば "過渡期" にあることが、このジャンルを複雑感で埋めているのであろう。
 ところで、その他にも放送方式の違いという点で言えば、通常のVHFに対してUHFがあったように周波数の域の違いもあるし、通信タワーからの放送に対して、BS(放送衛星)を駆使したいわゆるBS放送という違いもあった。言うまでもなく、これらはいずれも受信機器自体のバリエーションをも生み出し、当該の機器でなければその種の放送が受信できないという関係を生み出してきたのである。
 こうした唯でさえゴチャツイタTV放送ジャンルに、 "アナログ" と "デジタル" との差異が持ち込まれることになったわけだから、 "ゴチャツキ" の二乗、 "複雑感" の二乗とでも言えそうな状況が到来してしまったのである。

 確かに、 "高解像度" の画像が達成される "デジタル放送" は、 "地デジ" 放送であろうが "BSデジタル" 放送であろうが、従来の "アナログ" TV画像とは比較にならないほど素晴らしい。視力が "0.1" の人が、急に "2.0" にでもなって周囲を眺め回すような、あるいはまるで "目から鱗が落ちる" ような、そんな差異を感じることになろうか。
 だが、何度も言うようであるが、鑑賞環境 "立ち上げ後" をエンジョイするのは魅力的だが、技術環境の "立ち上げ" は「梃子摺る」わけである。パソコン環境でもそうであったのだが、周辺機器が錯綜すると、どこにどんな接続エラーや、故障があるのかが判別しにくくなる。しかも、受信可能な放送方式が異なる機器を、さらにメーカーの異なる機器を接続して、望みどおりの結果を得ようとすれば、まさに「梃子摺る」ことになる。
 最近のパソコンのOS( Windows )は、最新のバージョンへと乗り換えさせるために、画期的な "自動化" を達成している。ひと昔前は、周辺機器ひとつを繋げるのに、 "ドライバー・ソフト" をインストールしたり、種々の調整をしなければならなくなったのに対して、まさに "バカチョン" 的操作に改善された。
 だから、現在のような "ゴチャツキ" の二乗のTV放送関連機器の配線接続・立ち上げ状況も、やがて驚くべき "バカチョン" 的処理で済むことになるのではあろう。高齢化時代到来という事情もあるのだから、なおのこと期待したいところでもある。

 しかし、今日は本当に苦労をしてしまった。そんな過程で、ひとつ嬉しいことがあった。 "Wowow" の、技術担当の電話サポートの対応がきわめて優れていたと思われることである。 "イナガキ" さんとおっしゃる若い方であったが、ご自身の技術担当領域の事柄に精通されている上に、手際が良いし、また労を惜しまぬ姿勢もよく伝わってきた。技術関係の電話サポートではとかく不快な思いをさせられることが多いものだが、久々に "プロフェッショナル" に遭遇できたという嬉しさをもたらしてくれた。
 ここで、技術情報と "元気" とをいただき、気を取り直して再度はじめからやり直すことで、幸いにも、当初の目的を完了させることができたのだった…… (2007.09.01)


 漸く、一息つけるような日和となった。まだまだ予断は許さないようだが、陽射しが遮られている今日あたりは、多少吹いている風とあいまって、過ぎ行く夏という雰囲気を感じさせた。もちろん、秋到来と言うにはまだまだ先走りの感があろう。
 今朝のウォーキングでは歩きながらそんなことを感じていた。
 関東地方の子どもたちは、今日で夏休みも終了するとのことだ。7月後半にその夏休みが始まった頃には、これからは町に子どもたちが溢れるからクルマの運転は気をつけなきゃいけないな、と思ったりしたものだ。が、同時に、そうは言っても暑い暑いと言っているうち、そんな期間もあっという間に過ぎてしまうものだ……、とも考えていたような気がする。
 まさにその通りに、この夏も暑さ以外には何の手応えもなく過ぎようとしている。そう言えば、今年の夏は、夏らしいことを特に何もしなかった。山なり海なりへの旅行に行くわけでもなかったし、水泳とて一度もやらず仕舞いで過ぎつつある。身体に残った夏の痕跡といえば、絶やさなかったウォーキングで、二の腕から下だけを妙に日焼けするといった "土方焼け" くらいであろうか。
 夏の休暇もきわめて "爺くさい" かたちで消化することになっている。この土日を挟む両側の金曜日、月曜日を休暇としたのだった。この休暇とて、昨日までの半分は、思わぬドタバタ作業に費やされることとなり、やれやれという有り様であった。

  "休暇" というものについて最近思うことは、やはり "気分転換" という時間が、絶対に必須なのだろうという点である。
 もちろん、体力を要する仕事をしている場合は、肉体疲労の回復という意味合いが濃厚であろうが、デスク・ワークの比率が高い現代のわれわれにとっては、 "脳" をはじめとして "精神" や "心" の側面での "疲労" に対する対処が重要課題だと考えられる。
 ところが、この側面の疲労は、日常的なストレスというかたちで、かなり重篤に累積していると言われているのだけれど、より効果的に対処できているのかははなはだ疑問が生じるところなのである。
 極端な表現をするならば、現代の消費市場に溢れるモノやサービス、情報の大半は、現代人のこの側面の "疲労" をターゲットにして提供されているかのように思われる。市場におけるさまざまな商品の登場はといえば、市場における需要に喚起されて登場するのであろう。だが、その需要はどうも欲求というプラス的ニュアンスの存在によるよりも、よりネガティブな人々の "脳" や "精神" や "心" の側面での "疲労" が生み出しているのではないかと想像したくもなる。極論するならば、現代の商品はおしなべて、 "精神疲労回復剤" であり、 "医療関連商品" だということになるのやもしれぬ。

 マス・メディアが日々提供しているさまざまな情報分野のコンテンツも、知的情報というよりも、カタルシス(感情浄化)に照準を合わせたアミューズメント的情報の色彩をますます濃くしているかのようだ。つまり、そうした情報を望み、期待する受け手が多いということなのであろう。で、そうした受け手はなぜそうしたものを欲するのかと言えば、要するに、ストレスが鬱積してアンバランスとなった "脳内状況" を何らかのかたちで回復させたいと欲しているかのようだ。
 TVドラマや映画で相も変わらず登場する "恐怖・スリル・サスペンス" といった要素などは、古代にアリストテレスが述べた "感情浄化のための悲劇" の現代版としか思えない。また、決して消滅することのない週刊誌情報やそれに類する番組(ニュースショーやトーク番組 etc. )にしても、一体、誰が知的情報だなぞと考えるであろうか。 "興味本位" だと言われるわけだが、要は、受け手側の "嫉妬心" やら "不平不満" などなどの疲れ果てて歪んだ内面に、何らかの "癒し" を与える機能を持つがゆえに受け容れられるのかもしれない。「他人の不幸ほど美味なるものはない……」という耳にしたくもないことわざがあるが、現実主義的な市場の連中はしっかりとこの点を見つめて動いているのかもしれない。

 上記で、 "精神疲労回復剤" 、 "医療関連商品" というシニカルな表現をしたが、もちろん、本当の "医薬品" のように症状を治すわけではない。いや、本当の "医薬品" でも、ドリンク剤などは、大量のカフェインの含有で興奮状態を作り出し、一時疲労が回復したかのような錯覚を与える手口もあるようだから、一概には言えないか……。
 ともかく、一時的であれ、ストレスなどで荒んだ人々の内面を "回復させたかのごとき状態" にさせるのが、現代市場のモノやサービス、情報などの商品の大きな特徴であるように見えてならない。そして、注意すべき点は、これら擬似 "医薬品" としての効能が、まさに "一時的" でしかなく、決して累積された "疲労" を真実回復させるものではなかろう、という点なのである。だから、カフェインのごとくであり、またモルヒネのごとくもあり、さらに言えば覚せい剤のようでもあろうか。要するに、 "麻薬" 的だということなのである。これらを "常用" してしまうと、 "依存性" が培われてしまう点においても酷似していると言うべきか。

 現代の消費市場に溢れるモノやサービス、情報と言いながら、情報メディアだけを例にしたが、モノやサービスにしても概ね同様の様相ではなかろうかと推定している。消費者たちの内面的な "疲労" に対して、 "一時的即効性" のある "癒し" をもたらす触れ込みのモノやサービスだということなのである。
 こうした時代環境にあって、われわれは、内面的な "疲労" を抱え続け、ある時は、 "一時的即効性" のある "癒し" を採用したりして "気分転換" をするのだろう。
 しかし、一時的な "対症療法" とわかっている方法ではなく、 "抜本的" 回復や治療と言えるような方法というものはないのであろうか…… (2007.09.02)


 道路を挟んだ向こう側の小学校からはその主(あるじ)たちの賑わいが聞こえてくる。校庭には、体操服姿の小学生たちが何人か蠢いているのも見えた。なるほど、今日から新学期が始まっているんだな、と思った。
 自分はというと、道路の手前側にある、市が運営している "市民菜園" で農作業(?)に精を出している。こうして、農作業を一服しながら遠目で小学校の光景なぞを眺めたりしていると、何だか、往年の映画『男はつらいよ』の一場面を演じているような気にもなったりする。さしずめ、自分は、地方都市に在住するしがない年寄り。特にすることもないため、農地の一角を借りて、晴耕雨読の生活をしている。孫でも近所の子どもでもいいのだが、その子どもたちが通う小学校がすぐ傍に見えたりする……。

 夏休みの休暇の最後の一日としている今日、朝一番でウォーキングに出掛けようとしていた時、家内が、
「菜園の作業、手伝ってもらえる?」
と切り出してきた。秋向けの種まきとか、植込みとかのために、夏野菜の "残渣" を整理しなければならない、というのだ。
「じゃあ、ウォーキングの帰りに寄ることにするよ」
と自分はそう答えた。
 家内は、ちょっとした野菜作りを楽しもうとして友人と一緒にそこを借りていたのだった。そして、自分は "ゲスト" 的に手伝うという位置づけになっていた。
 ところが、家内の友人が病気を患ってしまったため、土を耕したりするやや力作業となる場合には、自分が駆り出されることになるというわけなのだ。

 幸い今朝は陽がかげっており助かったといえば助かった。日照りの猛暑の中での農作業ということにでもなれば、野菜作りの楽しみどころではなく、炎天下での道路工事に携わる日雇人夫の悲劇になるところであった。
 作業は、先ず、収穫を終えたトマトの蔓などを処分することから取り掛かった。素人が "大いなる収穫" を期待して設えた仕掛けの支柱やら、網やら、ビニールひもが、ぐちゃぐちゃに絡まってしまっている。見るからに面倒そうな整理作業であったが、まあ、黙って事に当たった。
 そして、お次は、本命の畑地の土の耕しである。暑さが続くせいか、畑地の土は乾き切っていて強い風でも吹こうものならば、黄砂のように舞い上がらんばかりであった。
 鍬を使って乾いた表面を掘り起こすと、いくらか黒っぽい土が現れ、畑地らしい感触となってくる。
 こうして、何本かの畝を作り上げた。わずかな面積の畑地であるため、ほどなく終わった。だが、ふと思ったことは、もしこれが何ヘクタールもあるような広大な畑地であり、それを人力で耕さねばならないとなったら、死ぬほど辛い作業だな……、という馬鹿な想像であった。

 今日は午後から、おふくろを誘って郊外の "人工温泉" に行くことになっている。何度か訪れたことのあるところであり、休暇の消化方法としてはきわめて安直なものであるが、どこへも行かずに終えるのに較べると、まだ "まし" かと思ったりしている…… (2007.09.03)


 この国、日本は、 "少子高齢化" という趨勢もあり、 "BRICs" (「brick=レンガ」をもじり、ブラジル[Brazil]、ロシア[Russia]、インド[India]、中国[China]の4カ国の頭文字を並べたもので、台頭する新興大国を意味する造語)などにおける勇ましい経済発展とは対照的に、概ね、その発展が悲観視されているようだ。
 まあ、経済発展ばかりが重要な指標だとは思わないし、逆に、従来どおりの経済発展がもたらす地球環境問題へのマイナス作用も警戒すべきなのであろう。かと言って、この国には、ほかの分野で一体どんな明るい展望があるのだろうか、ということも気になる。

 そんな悲観的な思いに浸されていたところへ持ってきて、次のような "不思議な" 事実が目に飛び込んできた。

<●20代の若者の所有欲そのものが減退しているという不思議な現象
 日本経済新聞社が首都圏に住む20代、30代の若者(20代1207人、30代530人)を対象に実施したアンケート調査の結果、車を買わず、酒もあまり飲まない一方、休日は自宅で過ごし、無駄な支出を嫌い、貯蓄意欲は高いという、予想以上に堅実で慎ましい暮らしぶりが浮き彫りになりました。固定電話もパソコンも持たない20代の人たち。
 30代の人たちとは様変わりしている20代の若者の実態について、私は週刊ポスト誌において「20代の人たちの不思議な現象」という趣旨のことをコメントしました。
 今回のアンケート調査は、まさにそれを裏付ける数量的な調査だと言えます。
 今回のアンケート調査(2007年)の結果を見てみると、20代の人は2000年の調査時点に比べて、車の所有率(23.6%→13.0%)も所有欲(48.2%→25.3%)も半減しています。 飲酒についても、月に1度程度あるいは全く飲まないと回答した人の割合が34.4%になっています。
 特に注目すべきは、「車が欲しい」という所有“欲”が低いということです。
 3C(カー、クーラー、カラーテレビ)という標語に代表されるような高度経済成長期から日本人を形作ってきた所有欲そのものが減退していることを私は重く受け止めるべきだと考えています。
 満ち足りた世代に見られる現象と言ってしまえばそれまでですが、私はそう思いません。おそらくこの現象は日本特有の現象です。「失われた10年」という暗いニュースばかりが溢れた時代に、10代の多感な時代を過ごしたという、その経験も大きな原因のひとつではないかと私は思います。……>( 大前研一「ニュースの視点」WEB:KON177 所有欲の減退する若者。その意味と今後の戦略 より )

 大前氏はこの後、この事実が今後の日本経済に与える影響を危惧している。

<このまま“所有する”負担を避ける傾向が助長されると、例えば、結婚して家庭を築くことや、家を買うこともしないという人が益々増えていくのではないかと私は危惧しています。>(同上)

 また、こうした現状の意味を正確に読み取ることの必要性を強調してもいる。

<企業における今後の経済活動においても貴重な情報となると思います。逆に言えば、それらを情報として活用しなければ、間違った戦略を選択する危険性があります。
 先日、トヨタが富士重工と共同でスポーツカーの開発に乗り出すという発表がありました。「若者の車離れ」に歯止めをかけたいという狙いだと言います。
 私に言わせれば、天下のトヨタでさえ、ここで大きな戦略ミスを犯しています。
 先ほどのアンケート結果を見てわかるように、今の若者にとっては、とりわけスポーツカーなどというものは全く“欲しい”ものではありません。
 この時点で、トヨタは明らかにずれていると言わざるを得ません。>(同上)

 やはり、1991年頃からはじまったとされる、バブル経済の崩壊後の「失われた10年」という期間は、この国にとって例えようのない不幸な時期であったのだろうか。そして、それが、上記のような "トラウマ(心的外傷)" とでも表現できるような現象を生み出しているのであろうか。
 <堅実で慎ましい暮らしぶり>というのは、先ずは悪いことではなかろう。有限な地球資源や地球環境の悪化に歯止めがかからない現状を踏まえるならば、好ましいことでさえありそうだ。
 ただ、ひとつ懸念すること、そして "トラウマ" というようなネガティブな言い回しをしたのは、果たして<20代の若者>は、このような生活スタイルを "積極的に" 選び抜いているのだろうか、という点なのである。 "価値観" というような古めかしい言葉を出すこともないかもしれないが、そんなものによって内面的により手堅く裏づけられているのだろうか、とやや疑問を持つのである。
 よく言われてきたことであるが、一個人のヒストリーにおいて、極貧の時代を経験した者が、その機会を得るならば、ややもすれば激しい反動的な浪費傾向に突き走る(心理学的用語での "過補償(かほしょう)" )ことがあるとされる。つまり、環境によって抑圧的に選択した行動様式は、容易に "反転" する可能性もある、ということだ。
 そうした "反転" を誘わない場合というのは、やはり、何らかの。 "価値観" 、もしくは "文化" などが積極的な方向性を指し示す時ということになるのではないかと推定する。果たして、現時点の<20代の若者>の周囲にそうしたものが芽生えているのであろうか…… (2007.09.04)


 今日のこの蒸し暑さ、不快指数の高さには大いに不快感を感じてしまう。
 もはや秋到来を待つだけという勝手な心境になっているからかもしれないが、各地で30度を超える残暑が続いているというのも釈然としない。
 以前から、9月は半ばくらいまでは残暑があったのかもしれない。しかし、最近は、天候というとどうしても地球温暖化現象という "人為的現象" を思い起こさざるを得ない。そして、従来のように、天候は自然現象だから文句のいいようがないという自然な気分にはなれずにいる。不快な天候の向こう側には、金儲け主義で "CO2" を撒き散らかしている不届き者たちがいるのだと想像してしまい、そのことで不快感がにわかに増幅されてしまうというわけなのである。
 今日のこの蒸し暑さにしても、台風9号接近のためなのだろうが、その台風自体がやはり地球温暖化現象によって作用を受けていると推定してしまい、無性に腹立たしい気分とさせられてしまうのだ。
 何を犠牲にしてでも金儲けをと目論む連中は、自覚してかしないでか、罪深いことを仕出かしていることになる。生きとし生ける者に平等に与えられていた自然の恩恵を我が物顔で収奪し、そうすることで、傷ついてもがき苦しむ自然の、その猛威のみを無抵抗な弱者たちに押し付けることになるからだ。
 こういった "八つ当たり" 的な言い草は、グッと堪えて涼しい顔をすべきなのだと思うことは思う。しかし、グッと堪えてしまうと、 "いい加減にしろ〜!" という下品な感情がただただ累積してしまい、始末に負えなくなりそうなのであえて書いている。

 自然現象まで "厚かましい連中" によって勝手にされているくらいであるから、社会現象なぞは言うに及ばないアナーキーぶりだ。
 政治領域においては典型的だと言えるが、文明国としての上品さや落ち着きは、まさに表面だけであって、一皮剥くならば弱肉強食と金まみれのえげつない蠢きで蔓延している。これをアナーキーだと言わずに何と言うべきであろうか。
 ところで、国民が、批判するどころかもはや呆れ返ってしまっている安倍内閣に、もし意味があるとするならば、それは "種明かし" なのではないかと皮肉っぽく思ったりする昨今である。
 つまり、ドラマ "刑事コロンボ" ではないが、金と権力の虜となった連中の身辺が、いかに "ダーティー" であるかという、その仕掛けの "種明かし" をしているように見えるからだ。まさに、安倍 "種明かし" 内閣と言っていいかもしれない。
 安倍首相は、何をどう考えているのか知らないが、この "種明かし" は止むことのない "エンドレス・テープ" なのではなかろうか。
 と言うのも、能力も人望もない者が、政治領域の土俵に上がろうとすれば、金に頼るしかなく、そしてその金を調達するには "ダーティー" なことに手を染めざるを得ないというのが、 "ご自分たち" の作った政治社会じゃなかったのかい、と思えるからだ。そうである以上、安倍首相は、どんな議員を閣僚に選ぼうとも、叩いて "埃(ほこり)" がでない、つまり "種明かし" を披露しないで済むような手品を名演することなぞは、到底困難なのではなかろうか。

 多分、安倍首相は、これまで "種明かし" をせずに済んだというか、 "種明かし" を蹴散らし続けることに成功してきた過去の経験に酔っているのだと考えられる。ところが、その情勢は少なからず変化したわけだ。そのことを認識できないでいるために、安倍 "種明かし" 内閣に陥っているものと思われる。
 と言っても、マス・メディアが急にジャーナリスト魂に立ち返ったということではなかろう。彼らはあくまで、大衆に迎合し続けているのであり、その大衆が、 "安倍内閣No!" と叫んでいるようであるから、それに応えているだけのことであるに違いない。
 それにしても、こうした流れが走っている以上、 "種明かし" という演題は降ろされることなく、延々と続くことになってしまうわけだ。
 とある政治コメンテーターが言っていたことであるが、野党側は、こうした安倍 "種明かし" 内閣は、今しばらく続いてもらった方が得策だと考えているのではないか、と。
 なるほど、と思えた。政治家たちの "ダーティー" な舞台裏が、表立って "種明かし" される機会はそんなにあるものではなかろうから、この際、聴衆が飽きるまで "ロングラン" されていいのかもしれない…… (2007.09.05)


 今日もまた、この蒸し暑さに参っている。おまけに、気圧が低いためか気分が低迷しているようだ。台風9号は、関東地方には今夜から明日にかけて上陸する模様だという。マス・メディアも、朝からこの台風接近の報道に終始している。
 メディアの口調に耳を傾けてみると、どうも異口同音に「 "早め早めに" 準備して、対処してください」と言っている。そう言っておけば、どこからも文句の付けようがない無難なセリフだからか。何だかまるで、子どもに対する教育ママの口調そのままである。

 まあ、確かに、台風が上陸してしまい、強風で煽られて屋根瓦が飛んだり、豪雨で浸水してしまってから、土壇場勝負をしてみても危険が増すばかりであろう。できれば、いろいろな対策を事前にやっておきたいものではある。風で飛びそうなもの、倒れそうなものは然るべく対処しておきたいし、低地であれば、浸水に備え土嚢を積み上げてもおきたい。土砂崩れがおきそうな裏山があれば、早くから近くの小学校の体育館に避難しておきたい……。
 しかし、もっと "早め早めに" 準備する "余裕" があれば、風雨で被害を被りそうな老朽化した家を建て替えてもおきたいし、浸水の可能性のある低地から見晴らしの良い高台にリハウスもしておきたい。さらに言うならば、台風の進路に当たるような地域に住むのはやめて、そんな危険がない地域へと引越ししてもみたい。
  "早め早めに" 準備するのならば、そこまで徹底したってよかろう。

 ついでに、この際皮肉っぽく言い添えるならば、もっと "早め早めに" 対処することはありそうだと言いたい。
 今朝のラジオニュースでは、このセリフを一人の "気象学者" とかいう立場の人が口にしていたのだが、 "気象学者" が "早め早めに" 対処することをアドバイスするのであれば、台風に備えてということもさることながら、 "地球温暖化" の危機に対してこそ、 "早め早めに" 対処しなければならないと、そう警告すべきなのではなかろうか。
 昨日も書いたように、自分は、現在の気象現象の多くは、すでに純粋な自然現象ではなく、現代文明による汚染現象の色彩を色濃くしていると推定している。しかも、年々、 "早め早めに" 悪化しているかのようであると。
 こうした事情については触れずして、台風の備えに向けて "早め早めに" 準備しましょうと言うのが、何となく苛立たしく感じるわけだ。

 大体、 "早め早めに" とか、 "スピード感をもって" とかという安全牌(あんぜんぱい)の口調、 "紋切型" 口調をして憚らない者を自分は信用していない。
 確か、 "スピード感をもって" というセリフは、安倍首相が何であったか忘れたが使っていたはずである。まさに "スピード感をもって" 、流れるごとくの綺麗事のセリフを場当たり的に並べ立てて、その場が過ぎれば何も残らないというのが、この種の御仁たちの相場のようである。
 国民生活が、史上まれに見る悲惨さを迎えている現在、内閣の運営に当たっては、もっと、 "早め早めに" 対処してくれ、と言いたいところである。ただ、こう言ってしまうと、まさに "スピード感をもって" 、ろくでもない法案をポンポンと粗製濫造するような危険が容易に想像されるだけに、迂闊なことは言えないか…… (2007.09.06)


 今朝は、久しぶりに通学児童たちの "ご一行様" を見かけた。夏休みがあったりしてこのところ姿を見なかったが、 "偶然" にも今朝はそのゾロゾロぶりを目にすることになった。
  "偶然" というのは、昨夜からの台風のせいなのであった。台風9号は、神奈川県を "上がり框(かまち)" として列島に上陸したわけだが、その時刻がちょうど今朝の通勤時間帯に当たるらしいというので、うちの事務所は午前中を休業ということにしてしまおう、という算段になっていたのである。今回の台風の "足" は遅いとかいうので、そんな対策を講じたのであった。台風なんぞで怪我をしたのでは洒落にもならないからだ。
 が、台風は意外と "足早" に立ち去ったので、今朝、自分は通常の通勤の一時間遅れくらいで事務所に向かったのであった。
 すると、 "偶然" にも通学児童たち "ご一行様" も、自分と同様に "シフト通学" をしていたのである。前日からの気象予報を踏まえてあらかじめ予定されていたものであるのか、電話による "連絡網" の成果かは知らない。だが、申し合わせたといったふうの時間遅れのゾロゾロ通学がなされていたのである。
 ちなみに、子どもたちの表情は、「何だぁ、休校になるんじゃなかったのかぁ〜」といったガッカリ気分が窺えないでもなかった。
 それにしても、久しぶりに目にした "ご一行様" たちは、上級生の一人を先頭にして、きちんと一列に並んで歩んでいた。観光地でよく見かける添乗員を先頭にした "ご一行様" たちとは大違いだ。カルガモの親にくっついて歩く子ガモたちの列のようでもある。可愛いもんだよなぁ、とクルマの運転席で微笑んでしまう自分であった。

 可愛いといえば、歩道で見かけた散歩中のとあるワンちゃんの表情もまさに可愛くて、そこでも自分は思わず笑みをもらしてしまった。
 その犬は、小型ブルドック系の犬であった。散歩をさせられていて、歩道に落ちていた何か食べ物らしきものを素早く口に入れたようなのである。ただでさえ、愛嬌のある顔をした種類の犬であるが、口に入れたものを、どうも、こりゃ何だぁ、と確かめつつ味わっているようで、まっすぐ前方に目をやって口をモグモグとさせていたのであった。その表情が、真面目くさっているようでもあり、不思議そうでもあり、何とも言えない表情であったのが可笑しくてならなかった。
 ロープを持って傍で見ていた飼い主の男性も、もはやここに至っては如何ともし難いとでもいうような苦笑いをして見つめていた。本来、散歩中に見つけたものを食べさせてはいけないのだが、そうは言っても、食いしん坊な犬側にしてみたら、散歩中に食べ物らしきものを発見するというのは、これ幸いの "駄賃" であり、大袈裟に言えば "千載一遇" のチャンスに違いなかろう。飼い主の警告が発せられる前に、パクリと口に入れてモグモグしたら勝ちだと思っているのだろう。
 以前に飼っていた犬も、そうであった。ある時、口に入れたものを吐き出させようと "強制執行" に及んだことがあったが、逆に、「ウウー」と唸って臍を曲げたので、こちらが負けてしまった覚えがある。

 最近の自分は、自然に、何か微笑ましい光景を探すような眼差しになっていそうである。そして、その眼差しの多くは、子どもたちや、動物たちや、そして植物などに向けられているようである。
 ひょっとしたら、みんながみんな、そうした眼差しとならざるを得ないような心境にあるのだろうか…… (2007.09.07)


 暑さにはもうウンザリというところであり、今日は、事務所に出てクーラーをギンギンにかけて雑事を済ましている。窓の外には、台風一過の青空と、猛烈な暑さを思わせる陽を浴びた光景が見える。多少風が吹いているのか、街路樹のポプラの葉がざわざわと煽られている。早く涼しい風がそよぐ気候となってほしいものだ。

 ここに何を書こうかと考えあぐねる時、ややもすればネットの新聞報道などに目を向けることとなる。あまり良いことだとは思っていない。
 本来であれば、そうした "お仕着せ情報" なんぞは無視して、自身の周囲での出来事を自身の感覚で捉えて書きたいと思っている。それがどんなに些細なことであっても、 "第一次情報" という価値と、それを自身の直接的な視点や感覚で処理することには、他と比べものにならない意義があると思うからである。
 しかし、自身の周囲での出来事というものは、限られてもいるし、また貧困でもある。さらに、良くないことであるが、いい歳をすると日常の行動様式が実に平板であり、観察力自体も惜しむ姿勢からか、書くほどのことが見いだしにくくなるようである。

 そんなことから、 "材料探し" の動機で、ネットの新聞報道などの "ゴミ箱" をあさってしまうことになる。それらが "ゴミ箱" だと言うのは語弊がありそうでもあるが、そのくらい "相対化" して距離を置くのがちょうどいいと思っている。
 先ず第一に、そこでの情報は、 "間接情報" であり、まさに "伝聞情報" でしかありえないからだ。したがって、真偽のほどがはっきりしないと決めてかからなければいけないと思っている。
 そんな情報のみで自身の脳や心の大半を埋め尽くしていたのでは、自分というものがなくなるだけでなく、自分の実在感すら希薄となっていくはずである。これは、情報化時代における大きな危険だと常々警戒するところなのである。
 できるだけ、 "実感" を伴った生活体験を尊重して、そこでの感覚と思考とをキープしていくことを心掛けないと、現代人は、わけのわからない情報環境を反映する鏡のような存在になりかねない。それはまるで、環境の色彩や形状を真似るカメレオンやその他の "擬態動物" と同じようだと言えるかもしれない。

 またこうしたマス・メディアの報じる "伝聞情報" には、さまざまな "バイアス" がかかっていることも十分に承知する必要がありそうだ。
 もともと、 "情報化" 時代の情報の意味は、 "devoted (何らかの目的に献納された)" 情報という意味合いがあったかと思う。つまり、巷に溢れる情報は、透明無色で漂っているのではなく、いつも何かの目的を添えられて、まるで "キャッチ・セールス" のエイジェントのような使命を帯びているのだと言えよう。
 だから、ある場合には "コマーシャリズム" の使命を持たされ、またある場合には、 "政治的(イデオロギー的)" な使命を組み込まれて、情報は受け手に届くのだと言える。これは、現代においては益々巧妙に展開されていると見なした方がいい。
 したがって、情報を得ることや知ることは "ただ(free)" なのだからと安心し切っていると、情報の受け手は、老獪な送り手側の篭絡の網にまんまとからめとられることにもなりかねない。

 この点で、今日、気になったニュースに次のようなものがあった。

<ウィキペディア 省庁から修正次々 長妻議員の悪口も
 誰でも自由に執筆・編集ができるオンラインの無料百科事典「ウィキペディア」日本語版で、複数の省庁のコンピューターから、役所に都合のいい修正が行われていた実態が、次々と明らかになってきた。指摘を受けた各省庁は「職員個人の職務外行為」と釈明する一方で、「犯人」を捜し出し「厳重注意」するなど火消しに躍起だ。
 ウィキペディアは書き込み日時、変更内容、使用したコンピューターのIPアドレス(ネット上の住所)が自動記録される。
 ……
 ネット利用者らが検索した結果、官公庁や企業内のLAN(構内通信網)につながったコンピューターから、次々に内容が書き換えられている実態が分かった。
 厚労省で検索すると、100件ほどの結果が表示される。趣味に関する書き込みも多いが、06年4月には「ミスター年金」の民主党・長妻昭衆院議員の項目に、「行政官を酷使して自らの金稼ぎにつなげているとの指摘もある」と書き加えられていた。
 宮内庁からの書き込みでは、06年4月、「天皇陵」の項で、研究者の立ち入りが制限されていることを巡り、「天皇制の根拠を根底から覆しかねない史実が発見されることを宮内庁が恐れているのではないかという見方もある」とあった部分が削除されていた。
 このほか、法務省からは05年10月、「入国管理局」の項目で、難民認定に関し、「外務省・厚生省ともに面倒な割に利権が全くない業務を抱えるのを嫌がり」と他省の「悪口」を追加。
 また文部科学省からは今年1月、前政府税制調査会会長の本間正明氏の項目で、「出張旅費の二重取得があった」とする記述を削除していた。 …… >( asahi.com 2007.09.08 )

 <ウィキペディア>は、自分もしばしば便利に活用している。<百科事典>という位置づけが、何か "中立・公正" というニュアンスをかもし出し、ここでの情報を安心して受け容れがちにさせるわけだ。
 ところが、上記のニュースの伝えるところでは、各省庁の役人たち、言ってみれば "政治的利害関係" 丸出しの連中が、 "情報改ざん" をしているという下品さなのである。
 まあ、他人の年金納付分をちょろまかすといった情けない役人たちの水準であるから、こうした恥知らずも平気でやるのだろう。
 以前、政府系主催の "タウン・ミーティング" で、恥ずかしげもなく "ヤラセ" を多用したという事例もあったことだし、情報の受け手側は、くれぐれも用心しなければ、 "毒入り饅頭" や健康に害を及ぼす可能性のある情報を鵜呑みにしてしまう危険があるということなのである。

 情報に関する "リテラシー" の方法はさまざまであるが、先ずは、自身の生活体験や実感に根ざした感覚と思考力とを地道に形成することが大事なのだろうと思っている…… (2007.09.08)


 台風通過の際に、ふと、小さな後悔をしたことがあった。庭の葡萄の樹になっていた幾房かの葡萄を "収穫(?)" せずにいたことであった。
 夏も終わり頃となると庭の葡萄は、可愛くもそこそこの数の房を実らせ、大きな粒を濃紺に色づかせるのである。今年も、積極的な "収穫" 作業を促すほどではないにしても、来るか来ないかわからない野鳥の餌になるに任せるにはちょっと惜しい気がしていたものだった。
 今日、思い出したようにそれらを点検してみると、何と、台風の風雨による被害はほとんど見受けられなかった。健気にも、それぞれの房は遜色ない様子で大きな粒を保持していた。
 となると、せっかくであるからここいらで "収穫" しなければならないとばかりに、動き出したのであった。房全体の粒を賞味可能な色づきに変えていたものが、かれこれ10房くらいはあった。それらを、脚立を持ち出して丁寧に取り上げた。取り上げるというと、産婆さんが赤子を取り上げるような響きがあるが、まさに、そんな慎重な手つきであったことは間違いない。台風の風雨にも耐えた房を、 "収穫" の手違いで台無しにしては申し訳ないというような心境だったのである。
 粒の表面が粉をふくように白くなっていたため、一応、洗剤混じりの水道水で洗い、水を切ったところで、冷蔵庫で冷やすことにした。ひと粒賞味してみると、冷えていなくとも十分に美味であり、毎年毎年ごくろうさん、という気分となった。

 冷えたところで、おふくろのところへ "お裾分け" に持っていってやらなければ、と考えていた。というのも、もとを正すと、この葡萄の樹は、おふくろが以前に済んでいた住居の庭に植えてあったものなのであった。その苗を鉢植えにして育てたものが、現在のわが家の庭に根を下ろしたという経緯があったのである。
 わが家が借家住まいをしていた頃からの事だから、家族と一緒に二十年以上も共に暮らしてきた葡萄の樹なのであった。もちろん、鉢植えにしていた頃にはこんな立派な房をつけるようになるとは思ってもいなかった。
 ところで、 "家族と一緒に" といえば、内猫たちも、 "先代" の猫たちまで、つまり "トラ" に、 "グリ" に "グラ" までは、血筋をひいたヒストリーを作っていたのだった。しかも、 "トラ" は、おふくろの知り合いの "お煎餅屋" さんから貰い受けた経緯があり、そのせいか、子猫の頃は "お煎餅" を崩したかけらをよく食べて、皆を驚かせたものだった。
 そんないわく付きの猫たちももはや世代交代をしてしまった。最も長生きをした "グリ" だけは、現在の庭の片隅に "埋葬" をした……。

 この葡萄の樹のように、植物たちというものは、風雪を潜って年々歳々生命を維持していくわけだ。何でもない当然のことと言えばそれまでではある。だが、いざ思いを寄せて考えてみると、これは実に素晴らしいことだというふうに感じ入ることにもなる。
 誰がどんな立場で言ったのかは知らないが、 "種の保存" といった乾いた言葉では到底納得できないような、そんな感動めいた思いが刺激されそうでもある。
 そう思うと、われわれは、 "幅のある時間" で物事を感じたり、考えたりすることをとてつもなく苦手とするようになってしまった、という事実に気づいたりする。
 当世流の瞬間とか、スピード感ある時間経過というような観点に慣れ親しんでしまうと、何か、大事なものが見えなくなってしまうのかもしれない。
  "悠久" とまで言えばやや浮き上がってしまうが、静かに慎ましやかに "継続" していく現象にこそ、思いのほかの "癒し" や "安らぎ" や、そして "したたかな真理" が隠されているのかもしれない。

  "お裾分け" に持っていった葡萄を、おふくろは、その一房を小皿にのせて、早速、仏壇に供えていた。そういえば、 "仏壇" というものは、瞬間しか見え難くなる "近視眼" の者たちに、 "悠久" を覗かせる Window としていにしえの知恵者たちが設えたツールのように見えてくるからおもしろい…… (2007.09.09)


 昨今の日常生活の中で、ふと自身の感覚や認識がズレているのではないかと感じることがある。つまり、現実の時代環境の認識に当たって、相も変らぬかつての古い思い込みを引き摺っている自分に気づくことがあるということだ。
 しばしば、 "安全神話" が崩れたと言われる。しかし、崩れたものはそればかりではなかろう。 "年金納付金" の "横領" 事件は、 "公僕(公務員)" への庶民の信頼感を大いに崩しているし、政府の閣僚たちのカネに対する "ダーティ" さは、今さらのように政治家たちへの信頼感を突き崩している。
 シビァな観察眼を持つものにとっては、彼らはもともと "胡散臭い" 人種そのものであり、タテマエ上の信頼しか与えられなかったと言えばそういうことになろう。しかし、昨今は、一般庶民にとっても目に余るかたちで "神話" 的なものが崩れ去っている印象がある。これも、構造改革の "おかげ(?)" なのであろうか……。

 しかし、本来、とっくに崩れ去らなければならない時代や社会の "闇" というものが、まだまだしっかりと "温存" されていることを知るべきだと思われる。いわゆる "タブー視" されている事実が存在し続けているし、あるいはまた、 "権力的に隠蔽" され続けている事実も歴然として存在し、人々を不幸にしていると考えざるを得ないからである。
 これらの "闇" は、自然に光が差し込み、正されるものではないように思う。一般庶民がこれをさまざまな理由によって放置し続けるならば、 "闇" は益々その漆黒の度を強めていくだけなのであろう。まさに、そうした "闇" というものは、一般庶民の関心の度合いや、拒絶の度合いと相関関係をもって残存し続けているのだという思いがする。要するに、様々な度合いの "暴力集団、組織" のことなのである。

  "暴力集団、組織" といっても、いわゆる "暴力団" だけが対象というわけではないのが不幸な事態だと思われるのである。それを取り締まる側にもあり得るということだ。
 自分は最近、こうした "闇" に関して注意が向くようになっている。興味本位というよりも、現代という時代が、必然的にこうした "闇" を生み出す構造を持っているかのように思えてならないからであろうか。光の部分だけを視野に入れていたのでは、足元を掬われるような世界認識にしか辿り着けないように思われてならない。
 つい最近も、書名からしておどろおどろしい著作を読むことになった。田中 森一著『反転―闇社会の守護神と呼ばれて』という自伝的な著作なのである。これは、検察庁の元検事である田中 森一氏が、やり手の鬼検事として活躍した時代の経緯から、 "ヤメ検" と呼ばれるところの検事をやめてそれまでの経験を活用した弁護士となって蠢く "悪徳" 弁護士時代の経緯を、事実に即して著したものなのである。
 現在、田中 森一氏は、「地下経済の帝王」と称された "許永中" とともに、 "約百八十億円の手形詐欺" 事件に関与したとしてかつての古巣である検察庁から起訴され裁判中の身の上となっている。
 この著作の読み方はいろいろとあろうが、知的関心が刺激されるのは、通常では一般庶民が見聞することのできない、 "検察庁" 内部の醜悪な実態がはからずも克明に叙述されている点なのである。つまり、一般庶民が盲信するところの「正義の味方」に違いない検察庁というイメージが、ことごとく崩壊してしまうような事実が赤裸々に露呈されているのである。
 こうした "イメージ崩壊" の一端が、一般庶民の視界にも入りそうになったことがなかったわけではない。数年前に、「検察の裏金づくりを内部告発!」というセンセーショナルな事件が報じられたことがあった。そして、その内部告発者(三井環公安部長)が別件の詐欺容疑で逮捕されたという事情が絡められたことにより、検察内部への疑惑は逆に燃え盛ったようだった。が、お定まりどおり、「検察の裏金づくり問題」はウヤムヤとされたようだ……。

 ところで、今日、 "社会正義" の総本山とでも言うべき "検察庁" の、その "イメージ崩壊" について書いているのは、実は、あるTV番組を昨晩観て、この国の危険をつぶさに感じたからなのである。
 その番組とは、NHK教育での<ETV特集「私はやってない〜えん罪はなぜ起きたか〜」 出演:ジャーナリスト…江川 紹子, 作家…佐木 隆三, 弁護士…秋山 賢三, 白鴎大学教授…土本 武司, 【司会】鹿島 綾乃>のことである。
 今日はこの詳細について書く余裕がなくなってしまったが、要するに、 "冤(えん)罪" 発生の背後には、警察、検察による "非人道的、暴力的" な "自白強要" の取り調べがあったとされる事実が、丹念に紹介されていたのである。この事実は、 "痴漢" 、 "婦女暴行" 、 "選挙違反" という3つのそれぞれの事件で "冤(えん)罪" となった被告人の悲劇を追跡したものであり、まさに誰でもが当事者になり得るという点で、一般庶民にとって戦慄すべき事実だと思われたものだ。

 社会の "闇" は、決して好事家たちの興味本位の対象なんぞではないわけである。 "闇" が存在するということは、その漆黒の中で、理不尽な不幸を強要される人々が確実に存在するということでもあるわけなのである…… (2007.09.10)


 昨夜であったかNHKニュースで、イラク国民の意識調査の結果が報じられていた。その主旨は、イラク国民にとってアメリカ軍は "迷惑" な存在とでも言うべきものだということなのである。治安悪化が目に余り、ある男性の発言では、「朝、家を出る際、再び戻ってこれるかどうかを心配する……」とあった。そんな状態であるため、難民となって国外に出る者が多く、すでに200万人以上だかが出国しているらしい。
 詳細は後ほど新聞なりで確認しようと思っていたが、新聞の報道には何もなかった。そこで、ネットの "NHKオンライン" のサイトで、 "NHKニュース" を閲覧してみたら以下のようなコンテンツを見つけた。こうした事実こそ、わが国の国民にとっても貴重な事実であり、まして、 "自衛隊によるインド洋上給油協力の問題" が政治課題となっている現在、判断材料としてきわめて重要だと思われた。

<イラク “治安悪化”が70%
 この調査は、NHKがアメリカABCテレビ、イギリスBBCテレビと共同で行ったもので、先月、イラク全土で18歳以上の男女、2212人を対象に聞き取り調査を行いました。
 それによりますと、ことし2月以降、アメリカ軍が治安の回復を目指して首都バグダッドなどにおよそ3万人の兵力を増派して進めてきた軍事作戦の成果について聞いたところ、「増派された地域の治安がよくなった」と答えた人は18%にとどまりました。逆に「治安が悪くなった」と答えた人が70%に上り、イラク国民の受け止めとしては、増派が治安の回復に結びついていないと感じていることを示しています。
 また、アメリカ軍などの駐留についてどう思うか尋ねたところ、「反対」と「どちらかといえば反対」があわせて79%と、前回、2005年11月の調査に比べて14ポイント増えました。
 さらに、アメリカ軍などがいつまでイラクにとどまるべきかという質問に対しては、「今すぐ撤退すべき」が半数近い47%と前回の調査を21ポイント上回っており、イラク国民の間で以前よりアメリカ軍などの即時撤退を求める声が強まっていることをうかがわせています。
 その一方で、「治安が回復するまでとどまるべき」と答えた人も34%いて、治安維持をアメリカ軍などに頼らざるをえない現状も反映した結果となっています。  9月10日 20時19分 >(サイト "NHKオンライン" の "NHKニュース" より)

 今日は、9月11日であり、アメリカにたいする「同時多発テロ」が起きた2001年の同日から6年が経ったことになる。ブッシュ大統領が煽り立てて手を染め、小泉前首相が聡明さもなく支援した、イラクやアフガニスタンに対する報復的戦争が、一体、この6年間でどうなったのかということなのである。
 国を問わず良識的な人々は、 "テロ行為と武力報復の悪循環、泥沼化" を憂えているのではなかろうか。 "テロの撲滅" を切望しながらも、 "報復的な武力行為" が得策どころか、 "不毛な連鎖" 、 "悪魔の連鎖" しか生まないのではないかと危惧し続けてきたはずではなかろうか。そして、現実の事態はそのとおりに推移してしまっている。
 米国の世論も、イラク戦争の泥沼化を認識し、米軍の撤退を望むようになり始めたようであり、これを背景にして、イラク駐留米軍司令官と駐イラク大使が下院の公聴会で、 "部隊撤退の可能性" を発言することにもなっている。あのベトナム戦争と同様に、米国は "泥沼" からの "名誉ある撤退" を画策し続けているのであろうか。
 が、テロは決して止んではおらず、イラクにしてもアフガニスタンにしても国内治安は乱れ切っているのが現状だ。しかし、ここでこそ、前述のイラク国民の意識調査結果が尊重されていいように思うのだ。結局、米国および日本を含むその他の支援国の行使したことは、イラク国民には受け容れられていなかったという事実、この点を凝視する以外に何もないと思われてならない。

 にもかかわらず、同じ状況構図の中にあって、日本政府は、米国による対テロ戦略の片棒を担ぎ続けることに固執しようとしているわけだ。アフガニスタン問題はイラクとは無関係だと抗弁してみたり、戦闘行為とは無関係の "後方のインド洋での給油活動" だと抗弁したりする "子供騙し" 的言い訳を相変わらずしているのが、見苦しくてならない。
 しかも、昨今では、 "国際諸国が……" というような不明朗な言辞を多用するゴマカシを始めている。いや、もともとそうであったか。
  "国際諸国が……" と言うのであれば、どの国とどの国が、その国のどんな国内世論を背負って、どんなスタンスで米国による対テロ戦略を歓迎しているのかを明示してもらいたいものである。本当に "国際諸国が……" と言える場合というのは、国連が正式に決議を出した場合だけのはずではないか。
 米国自体がその国内世論の中に "撤退" の意向を持ち始めたのだし、支援各国にもそれぞれ微妙な差異があるはずではなかろうか。この辺の事情を度外視して、日本の政府が、 "国際諸国が" 期待していることだから、というような公式表明をするというのは、バカ丸出しとしか言いようがなかろう。リアルポリティックスを主張するのであれば、外交戦略は、慎重に具体的事実を踏まえて展開しなければならないはずである。
 米国から、 "国際諸国が……" と言われれば、そのままそれを国民に垂れ流すような政治姿勢をとっているから、この国は政府もろとも米国を初めとする諸外国から"なめられる"のではなかろうか。

 それにしても、安倍首相の "正体見たり枯れ尾花" である。国民にとっての最重要関心事ではなく、ご自分の関心事である対米関係と軍事に関わる問題( "自衛隊によるインド洋上給油支援" )に対しては、 "職を賭する" とおっしゃるのだから……。昨今の首相は、 "郵政問題" に目くじらを立てた方もいらしたし、なんか "オタク" っぽくて困るなぁ……。
 ねぇ、安倍さん、インド洋に行かなくたって、この国内には "職を賭する" に足る政治課題は山とあるんじゃないの。一年以内にヤル! と公言した "宙に浮いた年金5千万件" 問題にしたって、 "職を賭する" には遜色のない課題ですぞ! …… (2007.09.11)


 安倍首相は、なぜ、誰もが唐突感を禁じえないような辞意表明をしたのか? 憶測が憶測を生み、さまざまな解釈が飛び交う。どうせ憶測の域を出ないのであれば、複雑さを避け単刀直入に解釈しておきたい。

 比喩的に言うならば、「 "本社サイド" から、 "最後通牒" を受けた」のだと言えるかもしれない。もちろん、 "本社サイド" とは、 "米国(中枢)" であり、 "最後通牒" とは、 "更迭" の意である。
 理由は何かといえば、米国が今、国際戦略上、最重要視している "対テロ戦略" と密接に絡む問題、つまり "インド洋での自衛隊による給油活動" が、現状の安倍政権ではほとんど困難だと米国によって見切られたからなのであろう。
 ここであらかじめ明確にしておいた方がわかりやすいと思われる事実がある。
 @ 現在の "米国(中枢)" にとって、 "対テロ戦略" というものは、一般に言われる "テロ撲滅" といった "穏やかな" 水準のものではなくて、軍事大国・米国のいわば "国際軍事戦略" に匹敵するものだという点。これを外せば、現在の米国の国際的地位のすべてがダウンしてしまうと、少なくとも "米国(中枢)" はそう考えるほどに、最重要視しているものだと思われる。
 最近、米国による "対テロ戦略" の発端だったとされる "9.11" への疑惑が、沸々と湧き上がっていると聞く。新たな事実や "隠蔽" されていたかに見える事実も表面化しているようで、 "ケネディ暗殺事件" にも似た不気味さを漂わせてもいる。
 多分、こうした "憶測" が注目されるのも、現在の米国による "対テロ戦略" というものが、現在の米国の構造的な利害関係総体と密接不可分となっているからなのであろう。

 A そして、現時点での米国による "対テロ戦略" の主たる舞台は、イラクというよりもアフガニスタンであろう。とりわけ、アフガン隣国のパキスタンにおける親米ムシャラフ政権が、パキスタン人民による反米運動の高まりの中で崩壊の危機にさらされているという事態が、米国にとって緊急課題と目されているはずなのである。
そしてここでもし、親米ムシャラフ政権が倒れたら、米国に追随しているイギリスなどNATO軍はアフガン撤退を余儀なくされ、この方面でのテロ戦争は、反米タリバンの勝利と欧米の敗北で終わる、と言われてもいる。

 上述の日本側の "インド洋での自衛隊による給油活動" とは、こんな切迫した米英の軍事戦略に関わっているからこそ、ブッシュ大統領にしてもシドニーにおいて、しっかりと安倍首相に "釘を刺した" のであろう。
 多分、この問題は、 "給油活動" という実質上の問題であるとともに、ここに来て "対テロ戦争支援国" であった日本が抜けることになればその政治的なマイナス・イメージが小さくないという判断も横たわっていると思われる。
 ブッシュ大統領にしたところが、惨憺たるイラク情勢に加えて、アフガニスタンでも惨敗を喫するわけにはいかないと "硬直" していたに違いない。だから、安倍首相もまた "硬直" した声明を発表せざるを得なかったものと想像される、 "職を賭する" と言うごとく。
 場合によっては、ブッシュ大統領は安倍首相にこうも迫ったかもしれない。
「安倍さん、強行採決が難しいのならば、民主党・小沢氏と "差し" で会談をすべきじゃないですか。それを試みたことはあるんですか? 」と。これが、辞意表明時に出てきた「党首会談を断わられた」という言葉となったのではなかろうか……。
 これらの事情が見えないがゆえに、一般庶民からするならば、安倍首相は何を唐突に、 "硬直" した口調で "職を賭する" とまで口にしたのか、それが理解できなかったのではなかろうか。また、納得し難い "辞意表明" の印象を与えているのではなかろうか。

 だが、安倍首相にとっての政治情勢はことのほか厳しいものでしかなかった。数だけを頼みにして残存し続けてきた自民勢力はその数さえも頼みにならなくなっていたからである。しかも、自民勢力にあったかもしれない "底力(派閥力学に基づくパワー?)" も小泉前首相によって根扱ぎにされて緊張感なぞあったものではない。
 そして、安倍首相自身のキャラクターやキャリアでは、無惨にバラけてしまった自民勢力を再び束ねることは、床に落ちて粉々に割れた瀬戸物を元に戻すほど極めて困難だと見えたに違いなかろう。
 こうして、米国からの圧倒的で一方的な外圧と、自身の足元に横たわる踏まえどころのない地面とが、あたかも責任放棄とも評される判断へと急速に向かわせることになったのであろうか。
 これまで、日本の政治は "対米依存" だと言われながらも、その異様なほどの "押し付けと受容" の関係を国民の眼からは見えないようにしてきたようだ。米国発のあの『年次改革要望書』というシステムがその典型であろう。
 こうした不明朗な関係こそが、国民の眼からは奇異としか見えない唐突な首相辞任という光景を生み出しているように思えてならないのである…… (2007.09.12)


 晴天の秋晴れとはほど遠いくすんだ天候ではあるが、ようやく、朝晩の涼しさが近づく秋を感じさせるようになった。
 今日、外出した際、可愛い生きものに出会った。歩いていて、ふと歩道の脇のアルミ・フェンスの縁を見ると、偶然にもちょうど「青いとんぼ」が羽を休めようとしてか止まろうとしていたのだ。その位置は、胸ほどの高さであったから、ちょいと屈むと、その姿がよく観察できた。からかうように、フッと息を吹きかけてやると、「そんなのなんでもないよ〜」と言わぬばかりに、涼しい顔(?)をして飛び去っていく。
 この時候、赤とんぼにはしばしば出会うが、やや "光もの" の青い身体のとんぼはめずらしいと思えた。その姿は実に華奢で繊細、またその動きは、風に舞う羽毛のように軽快そのものであった。命という "壊れゆくもの" そのものであるかのように見えた。が、そうした「青いとんぼ」が、 "あっけらかん" と言ってもいいし、 "けろりとして" と言ってもいいが、自身の "はかなさ" なんぞをこれっぽっちも気に掛ける様子でもなく、スイスイと宙を舞っていたのである。

 別に気取るわけではないが、自分は "北原白秋" の歌、「青いとんぼ」を反射的に思い起こすことになっていた。

<青いとんぼ
青いとんぼの眼を見れば
緑の、銀の、エメロウド、
青いとんぼの薄き翅(はね)
燈心草(とうしんさう)の穗に光る。

青いとんぼの飛びゆくは
魔法つかひの手練(てだれ)かな。
青いとんぼを捕ふれば
女役者の肌ざはり。

青いとんぼの奇麗さは
手に觸(さは)るすら恐ろしく、
青いとんぼの落(おち)つきは
眼にねたきまで憎々し。

青いとんぼをきりきりと
夏の雪駄で蹈みつぶす。>

 <青いとんぼの飛びゆくは 魔法つかひの手練(てだれ)かな>という感じ方も、実物の機敏で軽やかな飛び方を目にすると十分に共感できるところである。
 そして、白秋とともに最も痛感するのは、やはり<青いとんぼの落(おち)つきは 眼にねたきまで憎々し>という箇所になりそうである。
 <青いとんぼをきりきりと 夏の雪駄で蹈みつぶす>といった "テロ行為" にまで及ぶものではないにせよ、<青いとんぼの落つき>ぶりは、 "妬ましさ" を激しく刺激せずにはおかないようである。
 しかし、とんぼたちの仲間は、この地球上には "3億年以上も前から" 棲息しており、およそ700万年前とかと言われている人間たちとは、命の営み方に関しては "年季の入り方" が桁違いに異なるわけだ。いわば、地球上に起こった森羅万象を識り尽くしているのかもしれない。 "新参者" である人間の姿なんぞは、彼らの "複眼" からすれば、ただただ鬱陶しい粗大ゴミの類以外の何ものでもなかったりしてね…… (2007.09.13)


 一昨日、安倍首相辞任のその "唐突さ" について書いた。
 さまざまな憶測が成り立つと思いながら、より "構造的な問題" に焦点を当てようとした。つまり、安倍政権が "インド洋での自衛隊による給油活動" の問題、これは現状での米国の最重要課題だと思われるが、これを暗礁に乗り上げさせることは必至であったため、そのことに立ち往生した安倍首相が、 "自爆的" ないし "自暴自棄的" な判断に突っ込んでしまったのだと。
 この推測はこの推測で、いまだに捨て切れないではいる。その根拠には、一昨日も書くことになったが、米国による "対テロ戦略" は一過性の政策ではなく、現在の米国の基本戦略であり、その点で現状のアフガニスタン情勢はひとつの "正念場" を迎えていると見えるからである。
 なお、米国ブッシュ政権が何ゆえに "対テロ戦略" に固執するのかという点になると、やはり、あの "9.11" が思い起こされ、あれだけのことが "引き起こされた" のだから、 "テロ撲滅" 路線が執拗に追求されてもやむを得ない、と思われがちであろう。
 ただ、昨今、かなり高いと思える信憑性をもって、あれは "引き起こされた" というようなものではなく、 "巨大な権力を持つ側" が "引き起こした" のだとの見解が広がりつつあるのも確かだ。
 もちろん確信的なことは誰にも言えない。だが、もしそうだとした場合は、 "引き起こされた" から報復をするという以上に、 "引き起こした" 上はそれ相応の結果を出さなければならないという、想像を絶するほどの執着と画策の流れに至るに違いなかろう。
 とにかく、米国による "対テロ戦略" は、決して一過性の政策なんぞではなく、現在の米国の基本戦略であり、生命線となっていそうである。だからこそ、 "インド洋での自衛隊による給油活動" 問題の膠着状況が、日本の首相の首ひとつを挿げ替えるに至ったとしても、さほど不思議なことではないと思えたのである……。

 しかし、安倍首相辞任の "唐突さ" の原因は、もっともっと "泥臭い理由" のなす技であったようなのである。
 <立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」 週刊現代が暴いた“安倍スキャンダル”の全容 (2007/09/14) >( サイト nikkeibp.co.jp より)によれば、以下のような、わかりやすく "説得力" のある事情が解説されている。

<……この土曜日発売の「週刊現代」に、安倍首相の政治資金がらみで、「相続税3億円脱税」疑惑という大特集記事が出ることがわかっているから、……>(同上)

というのである。

<安倍首相を追い込んだものの正体
 何しろ、問題がゴツすぎる。
 3億円なのだ。これが事実ならば、こんな問題を、まっとうな説明なしにやりすごすことはできないし、安倍首相はもはや二度と政治資金問題について、あるいは税金問題について、もっともらしいことを何一つ語ることができないことになるだろう。
 あのときもし、突然の辞任宣言なしに、臨時国会が開かれ、与野党逆転の参院でこの問題の議論が始まっていたり、この週刊現代の記事の通りのことが明るみに出てきたならば、安倍首相がどうあがいても、野党からの国政調査権攻勢を防ぎきれず、国会が止まったり、総理大臣の問責決議案が通ったりして、見るも無残な政治的死亡をとげていただろう。
 政治的想像力をちょっと働かせてみることで、そのようなあり得た未来図を頭の中に描いてみることができる。そのような未来図を次々に描いてみれば安倍首相のあのあまりにも唐突な辞意表明の理由がわかるだろう。>(同上)

 社会事象の "原因" というものは、幾重にも重なり、絡まった事柄群から形成されているものなのであろう。そして、それらの何を "原因" だとして描き出すのかは人によって異ならざるを得ない。
 現に、政府側は、盛んに "健康問題" をその "原因" として強調し、また、ある者は "キャラクター" の問題や、 "育ち" の問題にしたりもする。
 そんなことだから、あえて、自分の見解としては、最も "わかりにくい"かもしれない 現時点での対米関係の中での "構造的な問題" を先ず挙げてみたわけだった。
 が、これに加えてやはり、立花氏(立ち話)によるところの最も "わかり易い"「脱税疑惑」=「政治とカネ」問題という "泥臭い理由" を、添えておかなければならないと思った次第である。生粋の自民党育ちの安倍氏にとっては、むしろこうした "泥臭い理由" こそが、やはり多大な親和性を持つのかもしれない…… (2007.09.14)


 ちょっと興味を持って使ってみようかと思っているフリー・ソフトがある。話には聞いていたものだが、ちょっとしたきっかけがありダウンロードさせてもらい、インストールしてみると、思いのほか使い勝手が良かったのだ。
 先日も別の話だが、Web上の(新聞)記事などを部分的に、まるで "スクラップ" 作業をするかのように保存するアプリケーション・ソフトの存在に遭遇し、それをフリー・ソフトで試した上で結局購入するということがあった。(c.f. 2007.07.18)これはその後も重宝に活用している。
 アプリケーション・ソフトや、その他技術的な営為というものは、実際に使ってみるとその価値が実感できるし、また、そのことがインセンティブとなってあわよくば別のアイディアを生み出すことにもなり得る。そんなことで、ちょっと興味が湧いた案件に関しては、労を惜しまずアプローチしてみることにしている。

 今回、興味を持ったフリー・ソフトというのは、言ってみれば "あぶり出し" ができるソフトなのである。
  "あぶり出し" というのは、昔の人が秘密めいて使っていたというあの "あぶり出し" のことで、自分も子どもの頃におもしろがった覚えがある。白紙の紙に、ミカンの汁だとか、お酢で文字や絵を書いて乾かしておくと、書いたものが何も見えなくなる。
 ところが、それを火であぶると、書き込んだものが薄茶色にこげて現れる、というものである。「アタリ」とか「ハズレ」とかの文字を書いて「くじ」を作って遊んだ思い出がある。
 そのアプリケーション・ソフトはまさか、ミカンの汁やお酢を使うこともなければ、もちろん火であぶることもない。どんなふうに使うソフトかというと、先ず "ビットマップ形式の画像ファイルA" をひとつ用意する。風景写真などでいいわけだ。これが表向きの画像なのである。先の "あぶり出し" でいえば、白紙の用紙ということになろう。
 次に、やや小さめの同様の "ビットマップ形式の画像ファイルB" または "gif 画像ファイルB" を別に用意する。これが、あぶり出されて現れる画像ということになる。
 そして、このソフトは、 "画像ファイルA" の中に、 "画像ファイルB" を一見それとはわからない形で "埋め込む" ということなのである。 "画像ファイルB" を保持していながら、まったく "画像ファイルA" でしかないような状態となるのである。
 ちなみに "画像ファイルB" は、もちろん文字を表した画像でも良いわけだから、 "画像ファイルA" に関する詳細な説明文であってもよいことになる。
 それで、このソフトが果たす役割は、 "画像ファイルA" の中に、 "画像ファイルB" を "埋め込む" 作業を、ユーザの操作に従って行うことと、逆に、 "画像ファイルA" の中から、 "画像ファイルB" を "取り出す" 作業なのである。
 なおかつご丁寧に、両作業が "パスワード" で保護される方式となっているため、 "機密" を要する場合には好都合となってもいる。

 このソフトがどのような "ロジック" でこれらの機能を構成しているのかにももちろん興味があるが、今ひとつ関心を抱くのは、このソフトはどのような "実用的目的" で活用できるか、という点なのである。
 現在、ソフトウェア流通においては、必ずしもそのソフトの "ビジネス的真価" が十分には発揮され切っていない、というような実情がありそうな気がしている。要するに、そのソフトをどのような "具体的ニーズ" と結びつければよいかが "未熟" な状態で放置されている状況がありそうだと思えるのである。
 これらについて知識を駆使し、知恵を働かすということも生産的で立派な仕事、ビジネスとなるに違いない、いやこのジャンルは、 "眠る特許" と同様にもっと精力的に介入されてよいジャンルなのではないか、とそんなことをつらつら考えたりしたのであった。
 ちなみに、この "あぶり出し" ソフトは、 "パスワード" での保護機能まで付いているのだから、セキュリティを要する連絡事務などにおける活用がもっと具体的に考案されてもよさそうである…… (2007.09.15)


 まったく馬鹿げた話、ほとんど冗談に近い話だとも聞こえるだろうが、今、 "自給自足" 生活に戻れるのなら戻りたい、と考えている人々は決して少なくないのではなかろうか。
 そして、もしそうだとするならば、現代という時代は、 "文明" の時代としては完璧に失敗しそうな時代だと言わなければならない。
  "文明" といえばすぐに "物質文明" 、 "技術文明" だけを想起することになりがちだが、それが問題なのだろう。 "物質、モノ" や "技術" や "IT" だけを "文明" と取り違えてしまうその発想の決定的な貧困さ自体が、 "現代文明" が立ち腐れしていることの証なのかもしれない。
 もはや、先ずもってこうした "そもそも論" から入らなければ、この度し難い時代環境の実相は見えてこないのかもしれないと思い始めている。 "フィロソフィー" レベルの視点と言ってもいい。 "原点" 的な問題に立ち返らなければ、あたかも "解不能" であるかのような混迷状態となっているように見えるわけだ。
 現代という時代の "病状" は、もはや小手先レベルや "対症療法" で済む範疇ではなくなっていそうである。それは、益々悪化の一途を辿っている "地球温暖化問題" に手をこまねいている状況や、出口が見えない国際規模での "テロや戦争" 状況の亢進を目の前にしていても痛感せざるを得ないところではなかろうか。

  "文明" というものはもっとトータルな存在のはずであり、人間という存在が "物質、モノ" のレベルだけで語られて済む存在ではないこととまったく同様であり、 "物質、モノ" とは異なる他の次元の広範囲の存在が含まれているはずであろう。
 それらを "精神的なもの" と言うことも可能ではあるが、そこまで強調した表現をするならば、逆に復古的で、非科学的な "精神主義" を持ち出す輩を応援してしまうことになるので避けておきたい。とりあえず "生活文化" などをはじめとする "文化一般" を例に挙げておけば事足りる。
 要するに、現代という時代では、 "物質、モノ" とそれらを生産加工する "技術" や "IT" ばかりが優先的対象とされ、本来貴重であるはずのそれら以外の人間的営為があまりにも軽視され過ぎているかのようだ。
 多分、その根本的な理由は、単刀直入に言うならば、それが "金儲け" への最短ルートだと見なされていること、そして、そうした "金儲け" だけをことさらに刺激する経済システム( これは、"物質、モノ" の次元以外で、唯一重要視されている "文化" ではなかろうか)が、今や "グローバリズム" によって拡延され続けていること、であると言い切りたい。

 現代という時代は、 "自由" な時代だと誰もが信じている。本当にそうであるかどうかはとりあえずおくとして、ひとつ確かなことは、これまでのどの時代よりも "不自由" となっている点のあることだ。それは、 "貨幣経済" や現代の "強制的な" 経済システムから離れて生存するという自由はあり得ない、という事実のことである。
 この点を簡単に了解するには、もし自分がまったくカネを持たない "無一文" となった際にどう生き続けられるか、それを想像してみればいい。いろいろと可能性がありそうだと想像される選択肢はないわけではなかろう。
 そこで、極端な選択肢を二つ検討してみると、ひとつは "生活保護制度" を受けることであり、もうひとつは "ホームレス(自給自足" 的生活?)" ということになろうか。
 もちろん、前者のような社会福祉制度が問題なく整備・実施されていれば、こんなことをくどくどと言う必要はない。つまり、現代のような "文明" の時代にあっては、そうした社会福祉制度のような "文化" がビルトイン(装備)されていて当然のことなのである。しかし、この国の現実においては、 "生活保護" を打ち切られて「おにぎりが食べたい」と望み信じられないようなかたちで寂しく死んで行った人が現に存在したわけだ。

 今、ビルトインされていて当然だと書いたが、それはふたつ目の選択肢 "ホームレス" 問題にも関係していて重要な側面なのである。つまり、もし、不遇にもカネが持てない "無一文" な人が生きようとした時、 "貨幣経済" の外側、すなわちカネを必要としないいわば緊急避難的な "自給自足" 的生活というものが想定されるのではなかろうか。
 これは決して非現実的な事ではなく、ただ単に、現代国家社会においては極めて非現実的だと思われるケースとさせられているということであろう。
 妙なたとえになるが、歴史の近世・秀吉時代に "刀狩" という出来事があったはずだ。権力への反乱を終息させるためであったのだろうが、自己流の解釈をするならば、もはや闘う必要が無いように、すべて秀吉が面倒を見るから、刀類を放棄しなさい、ということであり、それはとりもなおさず「刀類の放棄=民衆の自衛闘争の終息」ということであったはずだ。これとアナロジカルな話は、米国などでの護身用の "銃" 保持問題周辺の事情に見ることもできる。
 つまり、言いたいことは、近世の民衆にとって "刀" は自衛して生きるために最後に必要な選択肢であったに違いない。そして、これとアナロジカルに言えば、近・現代という貨幣経済社会の市民にとって、 "自給自足" 的生活環境(自由に、あるいは放任的であれ市民が使える土地その他の自然環境など)は、貨幣経済社会での生存闘争でサバイバルするための最後の選択肢、あるいはバックアップ的選択肢であったと考えられる。
 ところが、近代化= "文明" 化は、急速に "貨幣経済" の全面化を推し進め、その代わりという意味合いで "セイフティ・ネット" としての "生活保護制度" を準備したということになりそうである。にもかかわらず、こうした代替物が削減され始めると、もはや "自給自足" 的生活環境が皆無に近い状態となってしまった現代社会にあっては、ドロップアウトした市民たちは生きるための選択肢が見当たらないという歴史上例を見ない最悪の地獄と化すわけである。

 現在のこの国の事態は、その可能性をも含めてであるが、「格差社会」なぞという悠長な響きを残した言葉で言い表す水準を越えつつあるように見えてならない。益々悪化する "ホームレス" 環境、 "ネット・カフェ難民" の増加、そして年間3万人水準を下回らない自殺者数、減ることのないカネ目当ての悪質犯罪や不正などは、果たして高度な "文明" を誇る時代社会にふさわしいものなのであろうか。
  "物質文明" に対して "心" が失われたとか、その延長を言ったかのような「美しい国」だとか、さらに "文明がもたらす病" だとかという、あたかもシビァな現実を塗り隠すような生ぬるい表現は妥当ではないだろう。
 これらの生ぬるい表現は、ひとえに、 "物質、モノ" や "技術" や "IT" などの面での発展だけを "文明" だと見なすところから来ているようだ。 "西洋物質文明" という表現があったように、もし "文明" がその基本的性格を乗り越えられないとするならば、 "文明" という表現自体の限界が、まさに来ていると言うべきだろう。
 そうでないならば、 "歪んだ文明" はどのようにしたら革新されるのかが緊急に検討されなければならない。人間はもちろんのこと、生命そのものを事も無げに破壊したり、生命あるものの未来を食い潰すような趨勢を厳しく糾弾するような、そんな性格の "文明" こそが求められている…… (2007.09.16)


 自分は、足元の "それ" をマジな気分となって見入っていた。その "働きぶり" が見るからに、大変な "重労働" をこなしているごとく見えたからである。
 左手にペットボトル入りのスポーツドリンクを持ち、右手には吸いかけのタバコを挟み、自分は、葉が生い茂った樹の根元にあった腰掛けるにふさわしい置物に座って一服していたのだった。
 そこは、往きつけのホームセンターの駐車場の一角である。朝のウォーキングの帰路、急にとある買い物をしなければならないことに思い至り、そこに寄ったのである。
 しかし、店がオープンするまでにまだ2〜30分程も間のあることに気づく。周囲を見回してもクルマの影も人影もまばらで、いかにも開店までに時間がある雰囲気であった。むしろ逆に、こんなに待ち時間がありながら開店を待っている人の、その事情の方が気になってしまうほどであった。
 自分は、朝からの真夏日の陽の中を汗を滴らせながら歩き、ちょうど喉が乾き切ってもいたため、スポーツドリンクでも飲みながら時間を潰そうという算段をするのだった。
 自販機の傍のプラスチックのベンチに腰掛けてもよさそうだったが、そこはかんかん照りとなっており、敬遠したい感じだった。ふと振り向くと、葉の生い茂った姿の良い樹が木陰を作っている。おまけに、根元付近には何であろうか不明であったが、腰を掛けて休むことができそうな箱状の置物がお誂え向きに備わっている。じゃあ、そこで一休みするか、という思いが誘われた。

 それにしても、今日は暑くなりそうだと思わざるを得なかった。天気予報でも、東京地方は34度まで上がる猛暑となりそうだと報じられていた。家を出る時から、陽射しは強く、その分、影も黒くくっきりと落とされていて、残暑どころか、猛暑の夏日そのものであった。
 この猛暑はいつまでしぶとく続くのだろうか、やはり、暑さ寒さも彼岸までというから来週末までは止むを得ないのか……、なぞと呆然として考えたりしていた。
 妙なもので、汗をかこうと思い定めて行うウォーキングにおいては、さほど暑さというものを苦にしない。また、今年は、体調を崩すこともなくコンスタントに日課を果たして慣れができたためか、夏陽が照りつける中を歩くこともそんなに厭わない気分でもあった。家の中で、所在無くしている時の方がむしろ暑さを感じてしまうようである。

 汗を拭き拭き、途中まで飲み干したペットボトルを、ひとまず地面に置こうとして視線を落とした時である。足元の地面の上を何匹かの蟻が見るからに忙しそうに蠢いているのが目に入った。まあ、別にめずらしいことでもない。
 が、その5ミリほどの蟻たちの中に、その身の丈を超えた大きな "荷" を咥えてエネルギッシュな雰囲気で歩む一匹の蟻が注意を惹いた。その "荷" が何であるのかは判然としなかったが、白っぽい7〜8ミリの何か食べ物のかけらのようである。重量はさほどあるように見えない。それでも、遠目には、その白っぽいかけらだけが不思議にも小刻みに移動して行くように見え、一瞬、視線が釘付けにさせられたのだった。
 がんばり屋の蟻が "使命感" を持って "運搬作業" をしているのだとわかった時、自分は、そうかそうか、よーしがんばるんだぞ! とでも言うように顔を綻ばせ、身をかがめる姿勢になって目で追うことになってしまった。
 その蟻は、きっと、蟻たちにしかわからない "匂い" の痕跡の帯に導かれて歩んでいるのだろうが、そこそこの速度で進んでいる。ちょっと気の毒に思えたのは、ちょうどその蟻が歩む近辺には、鉄製で細かい格子状となったどぶの蓋が半分埋まっていて、その蟻は、その格子でできたアップダウンに律儀に沿いながら歩んでいたのである。背丈の何倍もある溝に降りては、また上り、また降りては上るという動きをとっていたのだ。脇の平坦なルートを見つけられないものかとも思えた。多分、そういうアップダウンのルートで仲間の蟻が "匂い" の痕跡を施してしまったから止むを得ないのだろう。

 で、一体、その蟻が目指す "巣穴" はどこにあるのだろうかと、自分は気になり始めた。そこで、その蟻が向かおうとしている前方に視線を移してみると、なるほど、1メートルほど先に、二つほどの "巣穴" が見つかった。
 そうか、あそこまで運ぼうとしているわけだな、と合点してみると、その蟻の歩みの進捗状況にますます興味が湧いてきたりしたものだった。
 その蟻の進む足取りは、概ね "巣穴" の方向から外れてはいなかったが、それでも、時々あらぬ方向へと向かうことがあり、その後取って返すように針路変更をしたりする。自分はそのたびに、おいおい、そっちじゃないぞ! と気を揉むことになっていた。
 で、漸く、その蟻は、大きな "荷" を咥えて "巣穴" 近辺に辿り着くことになった。 "巣穴" の周囲には、 "門番" らしき蟻が2〜3匹たむろしていた。きっと、次のような会話(?)を交わしていたのだろう。
「おっ、今日は大した収穫ですな。こんな暑い中をご苦労さんでした」
「いやー、荷の重さはともかく、こう暑くっちゃあ参っちゃうよねぇ」
「ささっ、どうぞ奥へ入って一息入れてくださいな」
 その蟻は、いそいそと "巣穴" の中へと消えて行った。その恰好は、凱旋将軍とまではいかないにせよ、どう見ても誇らしげな様子であることに変わりはなかった。
 そんな光景を上から眺めていた自分は、思わず拍手でも送ってやりたい心境に駆られたものであった…… (2007.09.17)


 まるで、ダメ小学校でのとあるクラスの学級委員の選挙のようか。
 とあるクラスで、急にこれまでの学級委員が辞めちゃった。理由もはっきりとさせずにだ。その子をよく知る子の話だと、なんでもだいぶ前にお金に絡む大変な "ズル" をしたとかだ。もしそのことがその子のライバルに突きまわされ "バレたら" 、学級委員どころか、その学校にもいられなくなるらしい。
 だから、ここはとにかく何が何でも "ほとぼりを冷ます" 以外には手がないとかで、その子は、急に "入院" してしまい、学校をほっぽり出すことになったとかだ。
 おまけに、その子と日頃、連(つる)んでいる連中は、 "一計を案じよう" ということになったらしい。
「ここは、アイツのことにみんなが注意を向けないようにしてあげなくちゃいけないんだ。でないと、オレたちだってヤバいことになっちゃうからね。
 そこでだ、先生も、アイツの代わりの学級委員を早く決めなさい、って言ってたろ。だからさ、思いっきりハデに次の学級委員選挙をぶち上げるんだよ。クラスのみんなだって、おもしろいことが好きなんだからハデにやればついてくるよ。
 それにさ、新聞委員のAやYにしたってさ、日頃オレんちのおやじがご馳走したり、小遣い上げたりしてやってるから、アイツのことには触れずに、オレたちのドンチャン騒ぎをおもしろおかしく書けよ、って言えばそれで済むさ……」

 とまあ、この国では、幼稚でアホくさい政治茶番劇が執り行なわれているようだ。実際、国民の生活状況の悪化はカウントダウン的に緊急を要するものばかりであり、一刻の猶予もないはずであろう。口だけで "来年3月までに" なんぞと空手形を出した "年金記録問題" にしたって、このところ不安定さを強めている経済情勢(先週末に大幅反発した日経平均株価は、今日、そっくりそのまま大幅反落している)にしたって、政治の空白が決して許される状況ではない。
 にもかかわらず、誰も異を唱えないところが恐ろしい。言うまでもなく、ジャーナリズムは国民に代わってシビァな論評を出さなければいけないところであろう。ところが、 "自民党総裁選" という "ローカルな問題" を興味本位に持ち上げて片棒を担いでいる。上述のダメ小学校の話のように、日頃頂戴している "小遣い" やら "ご馳走" やらが効いているかのようではないか。この国にはもはやまともなジャーナリズムは消え失せてしまったようである。
 そして、そんなジャーナリズムと手を組んでいるマス・メディアは、 "政府御用達" の路線で勝手気ままにふるまいながら、知識階層の中のまともな "御意見番" たちをどんどん追放しているものだから、この国にはもはや、「ちょっとおかしいよ!」と警告を発する存在が皆無となりつつあるのだろうか。

 こんな情けない事態の中、以下のような記事を目にした。決して、米国とてまともなジャーナリズムが "生息" しているとは思わない。ジャーナリズムは今や世界的レベルで "絶滅品種" となりつつある。が、そんな国でもこの程度のことはするという意味合いで参照しておきたい。

<イラク戦争「石油が目的」前FRB議長、回顧録で政権批判
 【ワシントン17日共同】国際金融市場に絶大な影響力を振るったグリーンスパン前米連邦準備制度理事会(FRB)議長が17日発売の回顧録で「イラク戦争は主に石油が目的」と指摘、財政面でも「制御不能な歳出」を放任したなどとしてブッシュ政権を痛烈に批判した。
 18年半にわたってFRB議長に君臨、81歳の今も発言が注目される自称「リバタリアン(自由至上主義)共和党員」の前議長の回想だけに、米政財界に波紋を広げている。
 前議長は回顧録「動乱の時代―新たな世界での冒険」の中で、ブッシュ政権が大量破壊兵器の脅威をあおってイラクに侵攻し「『イラク戦争は主に石油が目的』という周知のこと」を政治的に認めようとしなかったと指摘した。
 ブッシュ政権の経済政策については「制御不能な歳出に対し、大統領が拒否権を行使しようとしなかったことが最大の不満」として、議会と対決せず財政健全化を怠ったと苦言。政権内で政治的問題が優先され「経済政策の綿密な議論や、長期的影響の勘案に重点を置いていなかった」と酷評した。>( 2007.09.18 NIKKEI NET )


 今日は、日経平均株価が一気に約580円という大幅上昇をした。理由は、米連邦準備制度理事会(FRB)が政策金利を0・5%引き下げたことで、前日のニューヨークダウ平均が約336ドルという大幅上昇となり、米国の景気減速懸念が後退したと受けとめられたからだとされている。
 この間、米国株式市場およびヨーロッパ株式市場は、例の「サブプライムローン焦付き問題」とその影響の広がりが不透明なことによって、疑心暗鬼の空気に包まれてきた。そして、この空気は「サブプライムローン焦付き問題」の範囲に限定されず、米国の実体経済そのものをも危ぶむ懸念とも一体となり始めていたようだ。この "不安の空気" が解消されるには半年〜一年もの時間を要するのではないかとも囁かれていた。
 だが、その有力な関係当局である "FRB" が、予測では0・25%〜0・5%と目されていたようだが、その内の思い切った選択である0・5%の引き下げに踏み切ったというのである。この "FRB" の "思い切りの良さ" が、日米の投資家たちの心理を大いに鼓舞して、大幅な株価上昇をもたらした、とひとまずは観測される。

 ところで余談となるが、 "米連邦準備制度理事会(FRB)" とは何かという点を確認しておきたい。ちょうど手元に以下のような解説がある。長くなるが引用しておく。

<アメリカ連邦準備制度理事会( Federal Reserve Board = FRB )とは、議長、副議長を含めた7人による理事会で、アメリカの公定歩合や支払い準備率の決定といった金融政策の策定や、アメリカ国内の銀行の監視を行っている。メンバーの任期は14年。議長については大統領の指名、上院における承認を得たうえで、7人のメンバーの中から選ばれる。現在の議長はベン・バーナンキだ。
 そして、アメリカ連邦準備制度理事会は、ボストン、ニューヨークなど全米各地に12行ある連邦準備銀行( Federal Reserve Banks = FRB )を統括している。この連邦準備銀行は、市中銀行の監督、規制といった業務に加え、連邦準備券の発行を行う。
 重要なポイントは、この、連邦準備券の発行を行うという点だ。
 連邦準備券とは「ドル紙幣」のこと。
 つまり、連邦準備銀行がお金の水道だとすれば、その蛇口を握っているのが連邦準備制度理事会なのだ。この仕組みをアメリカでは連邦準備制度と呼び、FRBの略称で表記する。
 日本のメディアは、FRBを「アメリカ中央銀行」という名称で紹介する。何も知らない人がそういう記事を読めば、「FRBとは日本銀行と同じく公的な性格を持つ組織なのだろう」という印象を持つはずだ。
 ところが、現実はまったく異なっている。
 FRBは、その成立から現在に至るまで、JPモルガン・チェース銀行やシティバンクなどの大資本が半数以上の株を所有する私的な法人であり、単なる民間企業にすぎない。ドルの発行券という強大な利権を握っているにもかかわらず、だ。>(ベンジャミン・フルフォード『騙されるニッポン』 2007.08.15 青春出版社)

 あえて、 "FRB" の "素性" を明記したのは,上述した金利に対する "FRB" の "思い切りの良さ" は、諸手を挙げて歓迎してよいのかどうかという疑問がないわけではなかったからなのである。
 というのも、 "思い切りの良い金利引下げ" は、要するに市場資金の流通を刺激し、増大させることに繋がる。金利が安くなれば、資金調達がし易くなるからである。だからこそ、「サブプライムローン焦付き問題」で "信用収縮" と呼ばれる "貸付縮小" の傾向に対処すべく "思い切りの良い金利引下げ" が選択されたわけだ。もちろん、 "連邦準備券の発行" は思いのままに可能なのだから……。
 要するに、 "インフレ" 懸念の問題は大丈夫なのだろうか、という心配が捨て切れないのである。過剰な流通資金は、景気刺激の役割りを果たすとともに、 "インフレ" や "バブル" を誘発しないではおかないはずだろう。現に、ただでさえ問題視される向きのあった "原油価格( ⇒ ガソリン価格 )" が、投資資金の調達がし易くなることでさらに高騰してゆく懸念がある。そして、それが引き金となって、諸物価高騰という大きな "インフレ" を誘発することにならないのであろうか。
 今や、米国は、世界一の "格差社会" だと言われているが、諸物価高騰の "インフレ" で困るのは、大多数の下層市民であり、巨大資本でないことは間違いなかろう。
  "FRB" の "素性" が気になったのは、こうした "インフレ" 懸念への配慮が十分になされた上でのことなのかどうかが引っかかったからなのである。

 米国経済が低迷することは誰も望まないし、対米輸出高に大きく依存する構造を持つ日本とて望むはずはない。だから、当面の緊急課題である「サブプライムローン焦付き問題」に端を発する米国の景気後退懸念に対してはそれなりの対策が必要なことはわかる。
 ただ、 "景気" のコントロールというものも、それによって誰が恩恵を受け、誰が悲惨なことになるのか、という各論的視点を持つ必要が大いにあると思われるのだ。今後の経済情勢を想定する場合、とりわけ "インフレ" ( "ハイパー・インフレ" ?)問題を確実に視野に入れて警戒してゆかなければならないのかもしれない。
 こうした観点に立つ時、次の指摘が意外と重く響いてきたりする……

<つまりアメリカの通貨政策は、民意とまったく関係のない巨大資本の代表者たちの会合(=FRB)で決められるのだ>(同上引用著作より)

…… (2007.09.19)


 ウェブサイトには下らないコンテンツや儲け主義丸出しで閉口するものが多いわけだが、中には素晴らしいものも存在する。そうしたサイトを見つけると、頻繁にアクセスしたくなるだけでなく、手元のローカルPCに降ろして腰を据えて閲覧したくもなる。
 まあ、昨今はADSLなどの通信環境があるため、別に手元のローカルPCでないと落ち着かないというふうでもなくなってはいる。閲覧したい時には、いつでもネット接続をすれば済むからだ。
 却って、手元にコンテンツを置こうとするならば、ファイルの保存その他で厄介さが増すとも言えそうだ。
 だが、気に入ったウェブサイトのコンテンツであれば、やはりダウンロードするなりして手元に置きたいという思いも残る。
 現在はそうでもなくなって来たが、ひと昔前は、お気に入りのウェブサイトが突然に閉鎖されるというようなこともないではなかった。そんな時は、手間が掛かってもダウンロードしておくんだったと後悔したりした。

 今ひとつ、ウェブサイトのコンテンツをダウンロードして手元に置くことの理由は、より踏み込んだ情報活用が可能となる、という点にありそうだ。
 自分は、活字本の読書においては、やたらに書面を "汚し" て気が済むという悪癖がある。アンダー( or サイド)ラインを引きまくるということだ。目的は、再び読む時に注意を喚起することとか、引用したい場合にその箇所を見つけるのが容易くなるということなどである。かっこよく言えば、情報というものは、再利用、再活用、再加工してこそ意味を持つものだと思い続けているということになろうか。
 そのため、 "DERMATOGRAPH" という筆記用具の黄色を愛用し、重要だと思える箇所を記すのである。なぜ、 "DERMATOGRAPH" の黄色かということにも自分なりの理由があったりする。いろいろな筆記用具を試してきたが、これのメリットは、鉛筆のように削らなくとも "剥く" だけで済むという点がひとつ。それから、これの黄色であると、コピー機でコピーした際に痕跡が残らない点。マーカーペンなどだと、グレーの痕跡となって非常に汚らしくなってしまうからだ。そんなわけで、この筆記用具をもう何十年となく愛用している。

 横道に逸れてしまったが、こんな "習性" があっただけに、ウェブサイトのコンテンツにおいても、アンダー( or サイド)ラインが引きたくてウズウズしてきたのである。一時は、ブラウザで閲覧している際にこうしたマーカーペン動作ができるようなブラウザはないものか、作れないものかと切望したことがあったほどであった。
 だが、先日も書いたとおりこうした自分の願望を満たすツールに遭遇できたのである。( c.f. 2007.07.18 )ウェブサイトのページの全体であれ部分であれ、マウスで操作することによって素早くダウンロードできるのである。しかも、ダウンロードしたページに対しては、ある程度のスクリプト再編集も可能であるし、何よりも有難いと思えたのは、マーカーペン動作と同様のことがマウス操作で可能だったことである。
 このツールによって、新聞社サイトのニュースなどをスクラップ・ブックよろしく保存することができるし、その他ウェブサイト閲覧時にちょいと気になるコンテンツをお構いなく手元に保存することができるようになったものである。
 このツールのお陰で、これまでは、ダウンロードしたいにもその膨大さのために躊躇っていたとある思索家の連載物コンテンツを、じっくりと味わうべくダウンロード作業を始めたりもしている。

 こうして、さまざまに再活用が可能な "デジタル・コンテンツ" に慣れてゆくと、贅沢なことながら、通常の書籍における文字やグラフィックなどの "アナログ・コンテンツ" が幾分恨めしくもなったりする。
 そうは言っても一般書籍の活字には、日毎、接触しているし、それはそれで楽しんでもいるのであるが、思考・思索の主戦場がPC空間に移行したかのような昨今では、どうしても一般書籍の情報を "不自然" な感触で受けとめがちとなるのである。
 最近では、小説にせよ "デジタル化" され始めていることだし、きっと、近い将来にはあらゆる書籍=アナログ・コンテンツが、 "デジタル化" され切ってゆくのだろう。
 言うまでもなく、 "デジタル・コンテンツ" の大きなメリットは、情報の "再加工・再活用" という点に尽きるのだと思われる。と同時に、このことは、情報というものは、 "受信" するだけでは完結せず "発信" することが不可欠であるという事実を自ずから物語っているように思える。情報とは、閉じることなく "流転" し続けるものだとも言える…… (2007.09.20)


 おふくろが、再び "胆石" 除去のため入院することとなった。今朝、姉とともに病院へ送っていった。
 昨年末から今年の年初にかけて入院の上、痛みの原因となっていた大き目の "胆石" を取り除いてもらったのだが、実は、まだ複数個の石が残されていたのであった。
 その時にも担当医から、やがてそれらも "胆管" に落ちてくるため、定期的な検査で早目に見つけて対処しましょう、と言われていたのではあった。
 抜本的な治療法としては、胆嚢(たんのう)自体を切除してしまうという外科的な方法もあるのだそうだったが、高齢のためという理由で見送ったのである。
 胆嚢というものは消化機能の補助的役割りを果たしており、最悪、無くても済むことは済むらしいそんな臓器のようである。しかも、昨今の切除手術では、いわゆる "開腹手術" ではなくて、腹部に三箇所ほどの "穴" を開け、そこから "カテーテル" という医療用に用いられる中空の柔らかい管を通し、それを用いて遠隔的に手術をするらしい。比較的ダメージが小さくて済むとのことである。まあそれにしても高齢者にとっては危険がないわけではないので、見送ったというわけだった。

 今回の入院のきっかけは、前回から半年を経た、ついこの間の定期検査だった。胆管のすぐ近くまで落ちて来ている様子が、見事に発見されてしまったのである。当人は、前回のような痛みや不快感は何もないためケロッとしていたが、それも時間の問題であるはずだ。痛みが現れてからでは悲惨なことになってしまうのは目に見えている。
 当人も前回の激痛が余程こたえていたようであり、今回の入院に関しては何の躊躇もなく素直に了解していた。また、入院期間も、順調であれば三日程度で済むということも躊躇せずに受け容れた理由でもあっただろう。

 それにしても、高齢となると、 "あっちこっち" に "不具合" が続出する。つい先だっても、 "糖尿病" 治療の一環で、 "眼底検査" の精密検査が必要だということで専門病院へ連れて行ったばかりである。 "不整脈" の症状もあるということで、心臓病のクスリも服用し続けている。ということで、二、三箇所の病院に定期的に通院している。そうした通院日程が、生活スケジュールの里程標となっていることは間違いなさそうだ。
 ただ、足腰も達者であるし、頭脳も精神も矍鑠(かくしゃく)としているので、それがありがたいことだと思っている。ややもすれば、年若い者たちよりも気力に溢れているようであり、逆にこの時代環境というものが如何に病んでいるものかと気づかされるのである。

 今日から彼岸入りするわけだが、亡父のことを思い起こすと、亡父は、現在のおふくろが被っているような "高齢者のジワジワ迫り来る病" をほとんど気に掛けることなく早目に逝ってしまったかのようだ。おやじは、おふくろのような "楽観的明朗さ" に欠けがちであったため、それでよかったのかと、ふと思ったりしている。
 人生の晩年を矍鑠と生き続けていくには、たとえ山のような苦痛や、さまざまな煩わしさに取り囲まれようと、 "楽観的明朗さ" の一点で開き直ることが必須であるのかもしれない…… (2007.09.21)


 考えてみれば "一人で" 墓参りをするのは初めてである。薄ら覚えである途中の花屋で花が買えるかがやや気になっていた。が、混み合う路上に駐車して花は首尾よく準備できた。お彼岸の中日なのだから、墓参り用の花がたっぷりと用意されていて当然のことであった。
 お寺に着くと、はや夕刻となっていたが、やはりお彼岸だということもあり、墓参りの人影が少なくなかった。
 いつもは、おふくろを筆頭にして家内や息子などと一緒に来るため、墓の掃除やらお供えものやら花などの手配をを分担しているが、今日は、自分ひとりですることになる。別にどうということもないが、何となくせわしい気がしないでもなかった。

 明日でもよいものを、今日ひとりでの墓参りをすることになったのは、気まぐれと言えば気まぐれであったかもしれない。ただ、おふくろの入院治療が実に首尾よく展開して、今日の午後に退院という運びとなったため、おふくろが気を揉むやもしれないと推察したからであった。
 退院したとはいえ、二、三日は出歩ける状態ではない。しかし、お彼岸の墓参りのことは気に掛けずにはおかないはずだし、まして今回の入院治療が難なく進んだのは亡父が見守ってくれたからだと考えているのに違いない人でもある。
 そこで、「じゃあ、おやじに無事に退院しましたと報告に行ってくるから……」と、若干、気を利かしたという流れなのである。家内は、ここしばらくの通例どおり実家の義母さんのところからまだ戻っていなかった。それでひとりで行くことにすべし、と思ったのであった。
 案の定、おふくろは至極喜んでいた。
「何だかまだフラフラするようだから、行って来てくれるとうれしいわ」
と、気をよくしているのが手に取るようにわかった。
 今回も病院でたわいないことを言っていたものだった。病院の医者の名に "八" の字のつく人がいるのがわかったと。 "八ちゃん" という愛称であった "おじいちゃん(亡父)が傍で見守っている" とこじつけたい素振りだったのである。
 たわいないと言えばそうとしか言えないわけだが、年寄りは、何かにつけて感じる心細さを、何かに寄りすがることで帳消しにしたいと思うのであろうか。それは、決して馬鹿にしたものでもなく、人というのは元来が心揺らめき、頼りないものなのであろう。不安な心境で心が占領された際には、とにかくそれに打ち勝つべく、語弊はあるが何でもかまわないから自分を納得させたが勝ち、ということなのかもしれない。人はいつも "合理的、理性的" に動くものだと決めてかかっている者の方が、非現実的だと思わずにはいられない昨今である。

 そう言えば、今回のおふくろの入院治療の、若い担当医の対応は、ちょいと気分が逆撫でされたものであった。 "合理的、理性的" な対応のようにも受け止められはするが、そんなことで "臨床医" というものが務まるのかね、と言いたかった。もう少し、患者という人間の、その心を察する術を知らなくては、いくら医学的知識技術を蓄えても良い "臨床医" にはなれないぞ、と "赤ひげ" がするような説教をしたくもなったものだった。
 それは、治療の経過や結果を説明してもらいたいとナースに頼み、担当医たちがおふくろの病室にやって来た時のことである。
 治療 "承諾書" まで書かされている患者家族としては、その経過や結果を知る権利があるというものであろう。現に、前回の折には、写真まで持参してくれて丁寧に説明をしてもらった。これもまた "インフォームド・コンセント" の一環でもあるわけだ。
 今回の治療は、前回よりは難易度が低いと思われたが、それでも "カテーテル" を駆使した "胆石" 除去という医療作業は臓器の内壁に傷をつけたりするミスが皆無というわけではない。それだけに、できれば詳細に確認したいのは人情である。
 ところが、その若い担当医は、経過説明や結果報告については二の次みたいな話しっぷりで、のっけから次のように意気込むのであった。
「胆嚢は取り除いてしまった方がいいですね」と。
 そんなことはわかっている。胆嚢内に残っている胆石が今後も胆管に落ちて来る可能性はあるはずだからだ。しかし、いくら "開腹" による手術ではないとしても、こんな高齢な者が、仮にも臓器を切除するオペに耐えられるかどうかを、もっと慎重に考えていいのではないのか……、と自分は咄嗟に思った。そして、今日の治療措置が終わってほっとしている患者に対して、それが開口一発の言葉というのは、ちょいと無神経過ぎやしないかい、とも思ったのであった。

 自分は、お疲れ様でしたという気持ちが失せてしまい、何やら不信感めいた感情が突き上げてくるのを自覚せずにはいられなかった。それというのも、患者が80歳半ばの高齢者であるという事実を軽視し過ぎていると思えたことと、どうも何やらこの "カテーテル" 活用の手術を "やりたがっている" ような気配を感じ取ってしまったからでもあった。若い医者にとって、オペの経験は正直言って喉から手がでるものだと思われる。ましてここは、そのための病院と言ってもいいかもしれない "大学病院" である。一般的にも、この種の話ではあまり愉快な話を聞いていないだけに、不信感めいた感情が刺激されたのだった。
 まじまじとその若い担当医を凝視させてもらったものであった。妙に冷静ぶっているようだったが、自分から言わせれば、今時よくある "感情未熟児" の類だとしか思えないでいた。
 いろいろと質疑応答が済んだ後、結局、次回3週間後に外来で通院する際に患者側から最終的な判断をするということになった。
 しかし、おふくろと、姉、そして自分の判断は同じものであり変わってはいなかった。それは医学的に無知であり臆病だというよりも、リスクが無いとは言えないオペを、あえて高齢者の身で選択しなければならないその根拠が今ひとつ説得力を欠いていたからであった。
 それにしても、医療環境が、ますます知識技術的側面とビジネス的側面とが肥大化して、医師と患者という人間的側面が見えにくくなっているかもしれない現実は、医療そのものにとってもいいことではないと思われる。医療というものは、人間の心と身体とが不可分の関係にあり、心や精神的な側面が身体に大きな作用をもたらすという無視すべからざる事実を軽視しては、そもそも成り立たないものではないのだろうか…… (2007.09.22)


 やはり、 "暑さ寒さも彼岸まで" と言うべきなのか、今日の天気は昨日までとは打って変わった涼しさだ。朝から曇天であったためであろうか。
 しのぎ易い天候だと、ウォーキングの際にも気分が落ち着くものである。今朝は、出だしから、何やら意味ありげなことを "思索" しようとしていた。
 今日の午後には自民党の総裁選挙があるとかで、マス・メディアは騒いでいた。そんなことがきっかけであったのかもしれないが、物事には "無い方が良い" というケースが意外と多いのかもしれない、と。つまり、安倍首相は結局、自身が首相で "ない方が良い" と判断したことになるわけだが、さらに言えば、そんな政治家を総裁に選んでいた自民党自体もまた "無い方が良い" という意味合いではなかったのか、と。
 安倍内閣での度重なった閣僚の不祥事と辞任では、首相の "任命責任" というものが指摘され続けてきた。であれば、同様の意味合いで、 "敵前逃亡" 的な辞任を表明したような総裁を選出した党自体も "選出責任" というものがあると推論してしかるべきではないかということなのである。
 それにもかかわらず、まるで通販で届けられたIT製品が "初期不良" だとわかったら、とりあえず別の在庫製品と取り替えましょう、といった通販業者の安直なデリバリーのようなことをやっているわけではないか。自分は、落語の『ぞろぞろ』(お稲荷さんの近くで茶店を営む老夫婦が、ある時お稲荷さんに一生懸命に祈ったところ、茶店で売っているわらじが、売れて無くなっても、天井からいつの間にか "ぞろぞろ" と現れるようになったという噺)を思い起こさざるを得なかった。
  "製品" の基本コンセプト自体が問題を持ち、また消費者に敬遠されようとしている際に、別の在庫製品を持ち出してきてもいかがなものだろうかと、そんなことを憂慮していたのであった。

 さらにそうしたことから "思索" は進み、物事においては、何かが "在る" ことによって好都合となったり、首尾良くいったりする場合と、何かが "無くなる" ことによってそうなる場合とがあるのだろう、と思い至ったのである。
 料理でも、何か、とある食材が "在る" ことによって美味くなる場合と、例えば肉や魚などの臭みが "無くなる" ことによって美味くなる場合とがあるものだ。
 そして、とかく何かが "在る" こと、何かがプラスされることに関心が向きがちなのであるが、果たしてそういうものだろうか。むしろ、物事にあっては、何か不都合なものが "無くなる" こと、あるいは "無くす" ことの方が効果覿面となるのではなかろうか、とそんなことを考えていたのである。
 もちろん、正確に言えば "プラスすること" と "マイナスする" ことの双方が不可欠なのであろうが、どうも前者の方にばかりウエイトが掛かりがちな気配を感じる。後者の持つ効き目をもっと見据えてもよいように思えるのである。

 今朝のとあるTV番組で、昨今、日本のお家芸であった "柔道" がどんどん "Judo" へと変わってしまったことが懸念されていた。確かに、国際ルールは変えられてしまったり、 "理事" からは外されてしまったりと、日本の立場が切り崩されているかのようである。国際的レベルでのスポーツでは、このほかに水泳での泳法のルールや、スキージャンプでのスキーの板の長さに関するルールなども日本選手に不利な改正が淡々と決まって行く実態があったそうである。
 これに対して、コメンテーターの一人(経済学者の金子氏?)が次のように問題点を指摘していた。つまり、日本勢は国際的な場でキチンと当方側の主張を展開できない弱さがあることが問題だ。そして、そうした傾向の原因は、日本のスポーツ界では日頃の国内での人的、組織的関係において、自分の立場で物事を主張することが抑圧されていることが考えられる、と。要するに、いわゆる体育会特有の "上意下達" 的組織風土のことなのであろう。
 こうした組織風土を継続させている何かを "マイナスする" ことが是非とも必要であると、自分にはそう聞こえたのであった。そうすることで、関係者が建設的な議論を展開することが可能となり、ひいては国際的場面での考えのせめぎ合いにもまともに対処して行けるのではないか、というわけだ。

 以前から、物事にあっては "プラスすること" よりむしろ "マイナスする" ことをもっと重視すべきではないかとの考えに関心を寄せてきたものだった。 "プラスすること" にしたところが、真に意味ある "プラスすること" とは、事態の発展を阻害している何かを効果的に "マイナスする" 機能を果たすような何かを "プラスすること" なのだとも考えられよう。
 そして、人はとかく安直に何か新しいと思しきものを "プラスすること" により興味を示しがちであるだけに、事態の展開を阻んでいる何かを "取り除く" という意味での "マイナスする" ことがもっと注意深く見つめられてよいと思えるのである。物事の改善、改革とは、自然な展開を不自然に阻んでいるものを取り除き、自然な発露を促すことなのであろう…… (2007.09.23)


 米国の「サブプライムローン焦付き」問題によって、相変わらず世界経済は不安定さを引き摺っているようだ。先日、 "FRB" が金利を5%引き下げたが、厳しい表現をすれば "焼け石に水" とまでは言わないまでも、やや "ぬか釘" のような状況がありそうだ。
 その大きな原因は、ローン契約の末端での債務不履行発生規模が未知数なら、それによる損害の波及規模もブラックボックスとなっていることだと言われている。
 この辺の具体的な事情は、 "債権の証券化" とか言われる最新の "金融技術" が理解できないとわかりにくいようである。自分もよくはわからないが、要するに "リスク" をそれなりの計算式によって確定し、それ相応の "証券" として転売するということなのであろうか。
 ただ、それなりの "金融技術" 的処理によって複雑かつ大規模に展開されたことや、さらに関与した金融機関が米国内だけではなく、ヨーロッパを含む世界各地に広がっていたことなどが、事態全体を "読みにくく" しているとかである。まるで、 "鳥インフルエンザ" の感染拡大といった様相に似ているとも言われるくらいである。

 今回の問題発生の原因がどこにあったのか、と問えば、要するに、米国国内をはじめとする世界経済情勢全体を視野に入れざるを得ず、その上でそれらの推移が想定外であった、ということになるのだろう。が、今ひとつ、最新の "金融技術" というもの自体に目がむけられてもいいようにも思われる。
  "ヘッジファンド" などがこうした "金融技術" を旺盛に駆使するらしいが、とは言ってももちろんこれらが、 "リスク" そのものを帳消しにして、それから自由にしてくれるものであろうはずはなかろう。そうではなくて、 "リスク" を取り込むことで、 "理論上の報酬の期待値" をはじき出すということなのであろう。
 こうした "リスク" と "理論上の報酬の期待値" がどのように妥当性をもって計算されるのかにも興味と疑問が生まれるところではある。だが、それよりも、こうして理論的にはじき出された結果をもとにして、投資判断を行なってゆく人間・担当者のあり方に対してさらなる関心が向くというものだ。結局、投資とは、いくら "金融技術" が高度となっても、最終的には人間の判断のあり方に依存せざるを得ないようだからである。ムリな判断をするならば、 "理論上の報酬の期待値" は陽炎となってしまい、 "リスク" だけがリアルな着地点となるわけだ。

 今回の「サブプライムローン焦付き」問題拡大の足元に、こうした "人間の投資判断" におけるムリがあったのではないか、と考えさせるような雑誌記事が目を引いた。
 「サブプライムの陰に人間のリスク拡大効果」(山崎 元 『週間ダイヤモンド』 9/22 )と題された一文である。

<サブプライム関連の損失が集中発生している最前線は、ヘッジファンドだ。ヘッジファンドのファンドマネージャーは、成功報酬というコールオプションを持って働いている。彼らは……リスクを大きくすることで、自分の持っているオプションの価値を上げることができる。……サブプライムのリスクを取り込むことで、理論上、報酬の期待値を高められる。負けるときに大きいのは、当然だろう。
 ヘッジファンドに出資や融資を行なった銀行や証券会社も、……苦境にある。ここにも、よく見るとリスク拡大効果をもっている人間がいる。たとえば、ファンドへの投資や融資の担当者は、ヘッジファンドに組織として可能な限り投資したりすることで、自分の実績を拡大できるし、ボーナスの期待値を最大化できる。
 ヘッジファンドのファンドマネージャーも同様だが、こうした金融機関の担当者も、損をすればそれが大きくても小さくてもたぶんクビである一方、設けた場合は儲けに比例してボーナスをもらえる。成果主義の下では、ビジネスのリスクは大きいほうが得なことが多いのだ。>

 こう述べながら筆者は、<「成果主義」が努力のインセンティブになっているあいだはいいが、成果主義をセットにして、人間にリスクの大きさを自由選択させると危険だ>と指摘している。どうしても個々の人間は、短期の業績を過剰に追及してしまい、リスキーな結果を軽んじてしまう傾向が否定できない、というわけである。
 そして、以下のように結んでいる。

<リスク管理で重要なのは、金融数学の知識よりも、人間の行動に対する洞察力だろう。>

 自分は、これらを通して、事は、<金融>ジャンルに限られないようだ、さまざまな社会現象、組織現象にも十分に当てはまるのではないかと思ったものであった。各個人をターゲットにした「成果主義」が原理として採用される現代状況は、何らかのメリットを生む一方で、各個人は、自身の責任範囲を踏み越えてでも個人成果を追及する、そんな傾向を阻止しにくい、と言えそうな気がしてならないのである。そしてその結果として発生するリスキーな社会現象が避け難いのかと…… (2007.09.24)


 バカバカしい水準の政治事象には、あまり目を向けたくもないと考える昨今なのであるが、やはりこの醜態ぶりには一言書いておこうと思った。
 以下のようなおぞましいニュース記事なのである。

<「死刑執行、自動的に進むべき」 鳩山法相が提言
 死刑執行命令書に法相が署名する現在の死刑執行の仕組みについて、鳩山法相は25日午前の退任記者会見で「大臣が判子を押すか押さないかが議論になるのが良いことと思えない。大臣に責任を押っかぶせるような形ではなく執行の規定が自動的に進むような方法がないのかと思う」と述べ、見直しを「提言」した。
 現在は法務省が起案した命令書に法相が署名。5日以内に執行される仕組みになっている。
 鳩山法相は「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば(執行される死刑確定者が)次は誰かという議論にはならない」と発言。「誰だって判子ついて死刑執行したいと思わない」「大臣の死生観によって影響を受ける」として、法相の信条により死刑が執行されない場合がある現在の制度に疑問を呈した。>( asahi.com 2007.09.25)

 ひと昔前に、「だら幹(だらかん)」という非難語があった。その意味は、<(堕落した幹部)労働組合・政党などの堕落した指導者をいう>(広辞苑)とある。
 鳩山法相の発言は、まさに "元祖" 「だら幹」の暴言としか言いようがない。
 わたしは、ここでは「死刑制度」そのものの議論をするつもりはない。もちろん、「死刑制度」は廃止されて然るべきだと考えている。理由は、「冤罪(えんざい)」の危険を回避する術を持たない以上、そして、益々「冤罪」発生の可能性を高めている現在の司法の現状が歴然と存在する以上、論理的に言って「死刑制度」は矛盾の産物でしかないと考えるからである。

 だが、同法相の発言というか、人格は、組織の指導者としては完璧に失格であろう。いや、それどころか、「ならば、大臣、閣僚、いや政治家なんて不必要ではないか」という当を得た非難に対して、返す言葉を失うのではなかろうか。
 つまり、法務大臣という立場は、一国の法務行政執行の最終責任者とされており、法務官僚機構を最終的に統括する存在ではないのか。法務行政のすべての責任を担う立場なのである。
 内閣閣僚の責任だけではなく、民間組織でも、 "長" たる者はすべからく全責任を負うという道理が日常茶飯に実践されているわけだ。それを、<責任を押っかぶせるような形>とは、笑止千万、おととい来いと言うべきだろう。そもそも "責任の重さ" というものに馴染めない、あるいは対処能力に自信がないのであれば、偉そうに人の前、国民の前に立つな、とも言いたい。

 防衛大臣が、「(原爆を投下されても)しょうがない」と言ってみたり、法相が、死刑執行の "自動化" を口にするようでは、この国の政治、いや自民党政治は、確実に国民の良識をはるかに下回る水準に堕落したと思われる。
 ここまで言うのは、人間社会の貴重な特質とも言える "責任概念" が、同党の政治家たちからは見失われてしまっているかのようだからである。言うまでもなく、今日、総辞職をした安倍内閣の筆頭である安倍首相自身が、何よりも "責任概念" を曇らせていたはずである。そして、この "カネに厳しい環境" にありながら、自分たちは "政治とカネ" におけるダーティさを拭い切れないでいる自制のなさは、政治家としての "責任感" というものを、金庫の中にでも落としてきたとしか思えないのである。
 物事には、それを "売り" にするといった "目玉" というものがあるはずだろう。そして、政治家たちは、何をさておいても "責任感" がなくては話にならないはずだ。いわば、 "責任感" が政治家たちの "目玉" と言うべきである。それを紛失してしまったのだから、話にも何もならない。

 まあ、こうしたバカバカしさがめずらしくなくなったのが、腐り果てたこの時代なのかもしれない。 "仁義" を売物にしていた方々も、 "仁義なき" 生きざまで凌いでおられるようだし、「窮しても闇米は口にしない」というような身持ちが "堅い" ことを売りにしていたはずの公務員の方々も、何とふやけてしまったことであろうか。堅いのは、仲間内の不正を口外しないという口の堅さだけになってしまったかのようだ。
 つまり、この国の現状は、人と人との間を人間らしく埋めるはずの "責任概念" が、寂しく風化してしまったということなのであろうか。こいつは、かなり由々しき事態なんだろうと思える…… (2007.09.25)


 偶然というのは可笑しいものだと独り笑ってしまったのである。どうでもいいつまらない話であるが書いておく。
 それは一昨日の晩、入浴時のことである。いつも自分は、湯に浸かりながらラジオに耳を傾けるのであるが、その時は深夜放送の番組案内をしていた。
「この後、午前零時〜分からは、福田内閣新閣僚のインタビューとなるため、……はお休みとなります。そして、午前1時からは演芸特選をお送りします。講談は……。その後、<落語“ぞろぞろ”>を三代目、三遊亭小円朝さんでお楽しみください……」
 可笑しくて吹き出してしまったのは、<落語“ぞろぞろ”>がタイムリーに放送されたことなのである。しかも、新閣僚たちのインタビューのすぐ後というのが、実にグッド・タイミングだと思えたのである。
 実は、自分は、自民党総裁選のあった昨日曜日に次のような一文をここに書いていたのであった。

< 安倍内閣での度重なった閣僚の不祥事と辞任では、首相の "任命責任" というものが指摘され続けてきた。であれば、同様の意味合いで、 "敵前逃亡" 的な辞任を表明したような総裁を選出した党自体も "選出責任" というものがあると推論してしかるべきではないかということなのである。
 それにもかかわらず、まるで通販で届けられたIT製品が "初期不良" だとわかったら、とりあえず別の在庫製品と取り替えましょう、といった通販業者の安直なデリバリーのようなことをやっているわけではないか。自分は、落語の『ぞろぞろ』(お稲荷さんの近くで茶店を営む老夫婦が、ある時お稲荷さんに一生懸命に祈ったところ、茶店で売っているわらじが、売れて無くなっても、天井からいつの間にか "ぞろぞろ" と現れるようになったという噺)を思い起こさざるを得なかった。
  "製品" の基本コンセプト自体が問題を持ち、また消費者に敬遠されようとしている際に、別の在庫製品を持ち出してきてもいかがなものだろうかと、そんなことを憂慮していたのであった。>( c.f.2007.09.23)

 まさか、NHK関係者が自分の一文を読んだからということではあるまいが、それにしても偶然のタイミングというものは "悪戯っぽい" 結果になったりするものだと、独りで感じ入っていたのであった。
 落語『ぞろぞろ』もどきで構成された福田「背水の陣内閣」。指名された閣僚各位からよもや "疑惑の事実" が "ぞろぞろ" と零れ落ちてくることはあるまいな…… (2007.09.26)


  "バーコード・リーダー" がもっと日常的に活用できないかと、以前から関心を持ち続けてきた。とかく、キーボードからのデータ入力は煩わしいものであるのに対して、やはり "バーコード・リーダー" による "データ読み取り=データ入力" は、簡便かつ正確という点を評価したいと思ってきた。コンビニなどでレジを通るたびに、 "バーコード・リーダー" の威力というものを知らしめられているからであろうか。きっと子どもたちの中には、アレが欲しくてならない子もいそうな気がする。もっとも、何をしているのか分からない子が大半なのかもしれないが。
 ちなみに自分は、研究用に "バーコード・リーダー" を手元において時々PCに接続して "遊んで" いる。USB接続であるから取り付けは至極簡単なのである。
 書籍の背面に印刷された "バーコード" にあてがうと、赤い光とともにピッという可愛い音を立てる。PC上のテキストエディターや "メモ帳" をアクティブにしておくと、その瞬間に、読み取ったコードを数字の列に変換して表示するのである。

 数字の列といえば、昨今のPC操作では "パスワード入力" というものが頻繁に登場する。慣れてしまえばどうということもないのだが、それでも8桁ほどになると煩わしくないわけでもない。
 そこで、パスワードの数列(アルファベットを含む)を "バーコード" として作成しておき、 "パスワード入力" 時にはそのコードを "バーコード・リーダー" に読ませて処理するという "遊び" をしたりしている。 "バーコードごっこ" なのである。何やら気持ち、便利をしている気分となったりする。
 ところで、昨今では、あのしましま模様の "バーコード" を作成してしまうフリーソフトも登場しているので、パスワードなどの数列・文字列を容易にコード化できるというものなのである。

 ところで、大量のデータ入力で煩わされるということは、ビジネス以外ではあまりないのではなかろうか。
 が、自分の場合、長い間、懸念し続けてきた案件がないわけではない。衝動買いを含めて積もり積もった大量の "書籍" のことである。いつかは、これらを整理して、できれば "データベース" 化したいと望んできたりした。しかし、そんな手間ヒマを掛けることが妥当なことかどうかを考えると、まあ、いいか……、となったものである。
 そこで、簡便に "蔵書" のデータ化をはかる手立てとして目をつけていたのが、書籍の背面に印刷されている "バーコード" だったのである。この内実を何らかのかたちで引き出すことができれば、それらのデータを活用した "データベース" 化は十分に可能だと目論んできたのであった。
 しかし、 "バーコード・リーダー" によって "バーコードごっこ" レベルで数列を読み出すことができても、これに符合するデータ、データベースが手元にない以上、ほとんど意味がないことになる。つまり、個々の "バーコード" に符合する、 "書名" や "著者" や "出版社" 、 "発行年月日" などなどが開示されない限り、使いものにならないということなのである。
  "ISBN" ( アイエスビーエヌ、International Standard Book Number )という国際標準図書番号や、 "日本図書コード" や "書籍JANコード" などの実体側のデータやデータベースなどは、書店のオンラインシステムとは無縁の一般の個人には活用できない、というわけなのである。

 そこで、もし、自分の "蔵書" 類を "データベース" 化するとすれば、やはりリストなどを "手入力" によって作成するしかないのかと悲観視せざるを得なかった。
 ただ、昨今は "名刺管理システム" のように、名刺の活字を "OCR" ( 光学式文字読取装置 [ Optical Character Reader ] )で読み取って、PCにて活用可能なデータに変換するシステムも一般化している。これに類するかたちで、 "OCR" で書籍の背表紙の文字を読み取るという手もありそうだと見当をつけていた。
 しかし、そんな矢先に、まるで "小躍りしたくなる" ような方法に遭遇したのである。腰を据えてネット検索をしていたところ、 "ISBN" という "バーコード" に符合する書籍データを、 "Web 上で" 入手することができるということなのであった。いや、既に一連の作業をテストしたのであるが、まさに "小躍りしたくなる" ような素晴らしさであった。
 この "立役者" は、何あろうあの "Amazon" なのであり、 "Amazon" が作成保有している書籍データベースを、<Amazon Web サービス>という名で開放していたのである。
  "Amazon" の Web サイトでは、書籍サーチの箇所に、 "バーコード" を "バーコード・リーダー" によって入力してもその書籍のデータを開くことができるわけだが、これがローカルPC側のアプリケーション・ソフトにおいても可能なのである。ただ、その際には、それなりの技術的手続き要し、それらをセッティングしたその種のアプリケーション・ソフトが必要となる。
 だが、世間には気の利いた方がいらっしゃって、こうしたソフトをフリーソフトとして提供されているのである。さっそく試用させていただいたが、それはそれは見事な作りであり、まさに "いい仕事してますね!" の水準であった。

 現在、 "バーコード" は、 "二次元" 方式の "大容量" データを扱うものが現れたり、ケータイによる読み取りが可能となったりして、データ処理方法のツールとしては益々脚光を浴びている。
  "バーコード・リーダー" は、確かに、煩雑な入力作業とその周辺の煩わしさを省いてくれるきわめて現代的なエレクトロニクス・ツールである。反復的な入力作業というものがどんなに人を疲れさせるかはレジ担当者の疲れ顔を見なくとも十分に実感できるところである。
 そして、まだまだ煩雑な入力作業から人を救い出さなければならないジャンルは山積しているように思われる。また、 "コード" にどのような意味を持たせて、さらにそれらを如何に有効活用するのかという面で知恵を働かせる課題も小さくはなかろう。
 まあ、 "バーコード" の周辺にはいろいろと考えさせられる材料がありそうな気がしている…… (2007.09.27)


 事務所の前の通りの街路樹がサッパリした様子となった。まるで、子どもがトコヤから帰ってきたような感じであり、ほんのわずかな葉だけを残したポプラたちを見渡すと、散髪を済ませた小学生たちがズズーンと整列しているかのような観がある。
 ニ、三日前から、市の御達しなのであろうが、剪定業者のクルマ(「自走式高所作業車」というようだ)と、ゴミ回収専用車が道路脇に停まり、街路樹の剪定作業に精を出していたのである。
 明らかに剪定専門の植木屋さんと思しき人がニ、三人、この人たちは、「自走式高所作業車」の箱型エレベータに乗ったり、木の枝を足場にしたりしてポプラの枝葉をバッサバッサと切り落としている。
 そして、そうした落下物を整理する人、彼らは、手早くそれらを拾い集めてゴミ回収専用車の後部に収納している。また、そうした作業現場の付近を警戒する人が一人、二人付き添ってもいる。歩道を行く人が来ると、木の上の作業者に合図を送り、作業の一時ストップをさせ、通り過ぎると、「OKで〜す!」とまた合図を送ったりしている。
 どうしてそんなことがわかったかというと、今朝、日課のウォーキングに出た時、ちょうどそうした作業中の木の下を通ったのである。
 その時思ったことは、タイヘンな仕事だなぁ、ということだった。今日は朝から夏のように暑かったこともあるが、とにかく、街路樹のそのタイヘンな数である。街路樹がそそり立つこの道路は何キロも延々と続いているのである。本数にすれば、何十本どころではなく、何百本とあるに違いない。

 もし、腕利きのトコヤさんが、小学校に呼ばれて、一列に並んだガキたちの頭を刈ることになったとしよう。そんなことはなさそうだが、仮にあったとしよう。学校からは、こうやって並ばせているのですから、可能な限り「スピード感をもって」対処してください、と言われたとしよう。そこで、トコヤさんは、ハイ、わかりました、と承諾したとしよう。そして必死になってバリカンと鋏とを駆使したとしよう。日頃、来る客も限られたヒマな仕事をしていたトコヤさんは、やがて、利き腕の指がつってきたとしよう。肩もパンパンに張ってきたとしよう。どれくらいこなしたかと、ふと、前方に並ぶガキたちの列を見たとしよう。ほとんどその数が減った気配が全然しなかったとしよう。トコヤさんは、自分のノルマが、まるで無限であるかのような印象に襲われ、一瞬の眩暈とともに、気絶してしまったとしよう……。
 自分は、そんなバカなアナロジーを思い浮かべて、ただただタイヘンな仕事だなぁ、と感じながら、そそくさとその作業現場を後にしたのであった。

 ほかの地域でも、こうした街路樹の剪定作業は "公的措置" として実施されているのであろうか。確かに、こうした "措置" があれば、これから始まるであろう落ち葉の堆積がなくなる。
 街路樹、それも夏場に日陰を提供するようなポプラのような樹木が、秋に一斉に落下させる枯葉の質量は膨大なものとなるはずである。沿道の店舗や各家々にとっても、その掃除が厄介であろうことは容易に想像される。また、枯葉の堆積は、都会人たちにとっては、足元を悪くする "悪者" にされがちであろう。雨などで湿った場合はなおさらのことであり、 "滑った転んだ怪我をした" なんぞということになり、市が訴訟騒ぎに巻き込まれないとも限らない。
 また、道路上に散らかる枯葉が、交通安全の見地からしても問題含みであろうこともすぐさま推測できる。ここでも、交通事故の原因が、道路管理の問題だとして、市の管理責任が問われないとも限らない。

 そう言えば、どこだかの国のある都市で、市内で "ハイヒール" を履くことはまかりならん、もし、是非というのであれば、市に届け出て、 "ハイヒール" 使用許可を得るべし、というケースが実際にあるのだそうだ。
 どうしてそんな事態となったかというと、その都市の道路は、 "石畳" が多くそれが原因で、 "ハイヒール" の "ヒール" 先が溝に挟まり、転んで怪我をする人が少なくなかったそうなのだ。そして、おまけにそうした場合、市が訴訟相手となったりもしたのだそうだ。そこで、ある "知恵者" が、ならばこの市では "ハイヒール" を履くことは "許可制" とし、どうしても履きたい市民は、 "自己(事故)責任" で対処します、市を訴えたりしません、という一筆啓上にしてはどうかと提案し、それが "ハイヒール" 使用条例となったとかなのである。

 今年の夏は暑かっただけに、歩道に街路樹が植わっていることは必須に近いという印象を持ったものだ。しかし、バラにトゲではないが、メリットあればデメリットも伴う、というのがこの世の相場だということになる。
 しかし、地方財政に厳しさが増す昨今、 "街路樹と降り注ぐ枯葉" という何でもないような問題も、あながち軽視するわけにはいかないことになるわけだ…… (2007.09.28)


 涼しさが恋しかったとはいえ、ものには程度というものがあろう。今日の涼しさは行き過ぎである。しかも、昨日は夏日のような暑さであった。何とも、昨今の天候は錯乱気味としか言えない。
 午前中は、素足にTシャツといったこれまでどおりの夏の恰好で高を括っていた。ところが、午後になると先ずは足元が冷える感触を覚え、また肌寒さを自覚するようにもなってきた。今は、靴下をしっかりと着用し、Tシャツの上には布製のベストを着込む羽目となっている。猫たちも、うだる暑さが消えたのを喜ぶよりも、この寒さに心細そうな素振りをしている。
 昨日と今日とでは、かれこれ10度近い差がありそうだ。こんなに寒暖の落差が激しいと体調を崩す人さえ出てきているのではなかろうか。

 昨晩観たTVのトーク番組でちょっと印象に残っていることを書こうかと思う。
 近未来を予想するような内容だったかと思うが、とある大学教授が、現在の "グローバル化された競争社会" が人間の歴史をねじ曲げようとしている、というようなことを述べていた。現代は、これまでの人類のさまざまな成果とはまったく "異質なもの" を人類史に持ち込もうとしているようだ、とさえ聞こえたものだった。
 荒っぽい話となりそうでもあるが、自分なりの理解を踏まえて考えたことを書く。
 そもそも、生物学的意味合いにおいて、人間は自然環境と人間社会の大なり小なりの競争傾向の中でさまざまな変化を遂げてきた。いわゆる "適者生存" という観点で説明されるような推移のことだろうか。
 なお、そうした変化は、 "対自然環境" によって生み出された側面と、それらをベースとしながらも "対人間社会関係" によって痕跡を残された側面とが考えられそうだ。いわゆる自然史的側面と社会史的側面と言ってよさそうだ。
 人間の変化や発展というものは、その人間たちが地球上に占める地理的位置の違いに基づくところの、それぞれ異なった影響下でそれぞれ別様な展開がなされて来たと思われる。自然史的側面と社会史的側面の両側面がそうだったと言えようか。
 言ってみれば、その結果が世界各地の異なった人種とその文化の分布を作り出したわけなのだろう。そして、それらの多様な人種や文化のそれぞれは、その地域の自然環境との関係を先ずはベースとせざるを得ない点において宿命的であったのかもしれない。
 また、そうした多様性のそれぞれは、比較してどちらが優れているとか劣っているとかを云々することに大きな意味があるとは思えない。というのも、多様性のそれぞれは、何よりもその置かれた自然環境への最適化が大きな課題だったはずだからであり、むしろ、その特殊な自然環境との関係での最適度合こそが重視されるべきポイントであったはずだからである。

 ところが、現在の "グローバル化された競争社会" という地球上の環境、国際社会は、 "アメリカン・スタンダーズ" の "押しつけ" でしかない "グローバリゼーション" によって、極めて粗雑な経済的競争原理に基づきながらますます支配されつつある。象徴的な現象は、国際的ヘッジファンドの暗躍という金融経済面での過激な競争と、そのことによる世界の各地域の独自性の破壊ということになろうか。
 わかり易く言えば、子どもたちの教育現場において、多様な子どもたちの資質や才能は、多様な観点で包括的に評価され、それを通して子どもたちの多様な成長が見届けられるべきところが、 "偏差値" というようなシンプルな競争原理的数値が持ち込まれ、それによって裁断され、むざむざと子どもたちに潜在する価値ある多様性がスポイルされている現状と同じである。

 とかく日本人のわれわれは、新しいものへの変化という趨勢を、ろくに吟味もせずに歓迎すべき価値あるものと見なしてきた。そして今なおそうした "惰性" を続けている。
 自分たちの独自な "自然的特質" (DNAなど)や "社会・文化的特質" (集団性、情緒性、包括性など)を正当に吟味することを放棄して、新しい趨勢にただただ迎合しているようにしか思えない。 "異質なもの" を、かなりムリをして受け容れてしまっているにもかかわらず、である。
 日本は、その歴史において、かなり "無節操" かつ "雑食的" だとも評されてきたが、現在進行形で受け容れ中の "グローバリゼーション" の動向は、おそらくはこれまでの日本史における未曾有の出来事なのではないかと予感している。現在、さまざまな領域で同時多発的に生じている事件、事故、異変は、なぜかそのことを暗示しているとしか思えないのである。
 誰かがまやかしに言った言葉を思い起こす。改革には "痛みが伴う" 、という戯言である。しかし、われわれはもっと常識的に、冷静に考え直す必要がありはしないか。
 鋭い "痛み" というものは、何よりも事態が急速に悪化している時に顕著である、というありていの事実を…… (2007.09.29)


 こんなことを言っては何だが、今日の天気はみじめなものだ。特に何の取り得もなく、ただ寒い。雨まで降っている。人間どものために尽くすのはもう嫌だ、とでもいうような天の意思か何ぞかが窺えるとでも言うべきか。
 傘を差してのウォーキングというのはさまにはならない。が、雨天に強いられて取り止めるのもしゃくなため、防水トレッキング・シューズを履いての敢行に及んだ。
 ちょっと前までギラつくように明るい風景を見せていたコース周辺の景色は、薄ら寒く白けたものとなって広がっていた。境川も、昨日からの悪天候のせいか、たっぷりと赤土を含んだ濁流となって醜態をさらしている。場違いのように飛来したコサギの白さだけが目に映えた。
 そんなふうに、特に見るべきものがなくとも、もう何年も馴染んできたこのウォーキング・コースは、心を許す空間であることに変わりがない。体調が良く、足腰が軽快でありさえすれば、それだけで十分であり、この空間の景色をとやかく言うのは贅沢なことかもしれないと感じてもいる。

 とある年配の方と話をしていて、その方の言葉の中のひとつが妙に耳に残っている。
 その言葉とは、「逡巡(しゅんじゅん)」というものである。その方も、この言葉をどちらかといえば "肯定的" に捉えておられ、むしろこうした思いを退けるかのような傾向にある現代の風潮をこそ怪訝(けげん)に思っておられた。
 「逡巡」とは、「ぐずぐずすること。ためらうこと。しりごみすること。」(広辞苑より)であり、言うまでもなく、避けられれば避けたい人の心の状況を指す。
 しかし、はい、その通り、と鵜呑みにできない、してはいけないのが、人の心の現実であるのかもしれない。そして、そうした現実を合わせて感じ取ることを要求しているのがこの言葉なのかもしれぬ。そんなことを思ったのだった。

 人はすべからく「逡巡」する存在のはずである。このことだけは「逡巡」せずに言い切れそうである。
 現代という異常な時代は、まるで、「逡巡」する人は判断力も決断力もない無能な人であるかのような空気を吹き荒らしているかのようだ。そして、多くの人々がそんな空気をたっぷりと吸い込んで、「逡巡」しているかのような他人をバカ呼ばわりし、「逡巡」する姿を微塵とも見せないハッタリ屋を賛美する。また、自身が「逡巡」の渦の中にあることを恥じ入り、隠す。バカ呼ばわりされたくないからであろうか。
 あるいは、「逡巡」することは畢竟(ひっきょう)考えることにつながるため、鬱陶しいということもあり、サッパリしたいがために思考停止を選ぶのかもしれない。当然あって然るべき「逡巡」作業の過程をそっくりパスしてしまい、いきなり世間に通りの良いチョイスへ駆け込むというパターンに至る。

 確かに、「逡巡」は、「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」ふうの思索人・ハムレットタイプの固有属性であり、通常人にとっては無ければ無いに越したことはないと、言いのけてしまうことも不可能ではない。まあ、人それぞれの気質という条件もあることだから、それはあながち的外れな見解でもなかろう。
 しかし、「逡巡」することのない人、を想像しようとするならば、どうしても先ずは、そんなワケはないだろ、という思いが打ち消しがたく浮上してくる。と同時にまったく逆に、この現代という時代に浮遊するかのように生きている人たちの中に、確実に存在するような、そんな思いも込み上げてくる。
 そして、リアルに観察するならば、後者がマジョリティとなっているのが現代という時代なのかもしれないと見える。道理に沿って考えてみても、現代という時代環境にあってまともに「逡巡」していたのでは、とても生きては行けないのかもしれないという推論が働く。
 つまり、「逡巡」せざるを得ない人間というプロトタイプ(原型)がある一方、もはやそこからはなはだしく乖離したかに見える現実の人々が多数となったかのようだ、ということなのである。

 現代という時代環境には、まるで "「逡巡」解毒装置" とでもいうものが満ち満ちているかのようである。
 市場においては、「迷わず……」というキャッチフレーズのもとに、消費者の「逡巡」を撲滅する手立てが蔓延している。
 また、何によらずひたすら「わかり易さ」というものを無原則で持ち上げて、追求しているマス・メディアなども、要は、情報受け手側が「逡巡」するそのお手数を肩代わりしようと差し出がましいことをしているわけである。
 政治領域では、民主主義=対話=「逡巡」であるにもかかわらず、 "対話" の言葉が飛び交いつつも、 "強行採決" スタイルの政治的アクションや、常態化した世論操作によって、人々が「逡巡」すべき機会をこっそりと葬り去っているのが現状であろう。
 もちろん、現代の科学やテクノロジー、そしてビジネス全般は、生活上の「便利さ」を金科玉条のバリューとして日夜闘い続け、その結果、人々はさまざまな「便利さ」を享受しつつ、しっかりと「逡巡」する機会をドブに流してもいる。
 要するに、「逡巡」することは近・現代文明の敵であると言わぬばかりに、「逡巡」は毒と見なされ、そして文明はそれを "解毒" するのが役割だと言っているように聞こえるわけだ。

 ところがである、その結果立ち現れている現状は賛美に値する側面があるとともに、その陰に、手のつけがたいほどの修羅の現実が延々と広がってしまっている。
 何がどうだと言うひまがないが、 "思索" の導火線は、「疑問」を持つことと「逡巡」することだと思われるが、それらを "解毒" するかのように廃棄することは、結局、人々を「思考停止」状態へと導くことにしかならないであろう。その結果、人間の "聡明さは窒息する" ことになっているのかもしれない……。
 とにかく、「逡巡」するその時間まで、コストダウン方式でカットすべきではなかろう…… (2007.09.30)