第二話 かもめたちの群れ

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 第二話 かもめたちの群れ



 「やすおちゃーん」
という、女の子の声が階段の下から反響してきた。
 「じゃ、Kちゃん達といっしょに行きなさい。もう、先生にはご挨拶してあるから大丈夫!」
と、母親が言った。自分もあわただしく勤めへの身支度をしていた。
 すでに、姉は出かけていた。歩いて距離がある品川小学校であったため、下見の時の地図を片手に二三十分も前に出発していたのだった。

 母親が、仕事に就いたのは、まだ夏休みを残した暑い時期だった。
 半年もすれば、新たな仕事先を探すかたちで東京に来る父親のことがあったので、母親は職に就くことを急いだのだ。
 最初は、事務を希望していた。しかし、三十代半ばになっていたのでなかなか見つからなかった。結局、「派遣店員」という職に落ち着いた。
 「デパートの地下売り場で、ハウスカレーを売るんだって。何だかおもしろそうじゃない」
と、採用が決まった日、母親は子どもたちに、自信ある口調で説明した。
 その後も、母親はその日の売れ行きやら、売れ行きが良いため店長から誉められたとかを、疲れた様子もなく子どもたちに報告した。子どもたちは内心ほっとするのだった。
宣伝用に使うゴム風船を数多くもらって帰ってきた日があったが、少年は、祖父の館の子どもたちに自慢気に配って回ったりした。
 そんなことよりも、姉と二人で先に食べる夕食は、当然「カレーライス」の頻度が高まったのであった。
親戚の人があてがってくれた小さな卓袱台の上に、姉と少年のカレーライスの皿二枚がしばしば並ぶのだった。そして少年は、いつも盛り付けの多い方に飛びつき、姉は勝手にしなさいといった調子で黙認するのだった。
 母親は、前夜、または出掛けに夕飯のおかずの支度をした。
だが、時として仕事の応援で、北千住とか大宮とかに遠征しなければならないことがあった。夕飯の支度が不可能な場合、母親は、二三百円を夕飯のおかず代として置いてゆくことになっていた。
 そんな時は、少年が買い物に行き、姉が作るといった役割分担となった。
どちらかと言うと引っ込み思案な姉は、買い物を嫌ったのでこの分担が固定したのである。そして、おかずを何にするかを考えるのが面倒な時に落ち着くのが、「在庫のカレー粉」を生かしたカレーライスだったのだ。
その後、ハウスカレー発売の即席チャーハンの素の「在庫」が登場するに至り、チャーハンというメニューも追加されていった。

 少年は、階下から呼ばれている声を気にしながら、かもめの校章に付け替えた学生帽をひっかぶり、やや小さくなり始めた学生服に手を通した。
 「今日はそれやと暑いかもしれんね」
と母親が言ったようだったが、彼は、余所行きの一張羅と考えていた小学校入学時からの学生服に固執した。
購入時には、ぶかぶかに大きいものを買い、縫い縮めておくといった母親の知恵が生かされてか、三年生の半ばとなっても、まだまだいけたのであった。
 外では、Kちゃんと、一学年下のDちゃんが、夏休みの宿題の荷物を抱えこんで待っていた。
 この言葉を言ったらまた笑われるかなと思いながらも、
 「かんにんなぁ」
と少年は言った。
 何週間か前に、タクシーで通過してきた広い通りに出ると、遠くに何人かの小学生たちが歩いているのが見えた。
みんながみんな、そこそこに大きい宿題の荷物を持って歩いていた。
一瞬、少年は、不安な心境に駆られた。が、とっさに、かばんの中にある「絵日記」のことを思い出し、胸をなでおろすのだった。
 その日記には、大阪の学校での最後の日のことから、この間の引越しのこと、そして祖父の館に来て驚いたこと、母親の仕事のことなど、実に丁寧に書いていたのだった。
絵を描く事が好きで、得意だった彼は、色鉛筆で上手に絵を添えていたのである。これが、少年にとって、夏休みの唯一の提出物であった。
 病院の角を曲がり、品海橋を渡った頃には、道路に小学生が大勢歩いていた。
ドキドキと胸が高鳴ってきた。そんな時、Kちゃんが学生服をあごで指し、
 「暑くないの?」
と言った。
少年は黙って首を横にふった。
それどころではなくなっていたのだ。やっぱり緊張し始めていたのであった。最悪、お腹がいたくなるとまずいなとも考え始めていた。
 事態は、少年が懸念し始めていたとおりに進行してゆくことになっていった。
 「東京」を知ったかぶったはずではあったが、目に新しい様々な光景は容赦なく彼を威圧してゆくのだった。
 古びた木造の二階建てしか馴染んでこなかった彼にとって、真新しい三階建ての鉄筋コンクリートは落ち着けなかった。
ニスのにおいが残った下駄箱も、みしみしと音をたてるはずの床が、硬く、つるつるとした緑色の床になっていることも、何もかもが緊張を高めさせるものだらけだったのだ。
ちょうど、野良猫が清潔な人家に引き入れられた時の、同情を誘う、そんな戸惑いといったところなのである。
 初対面となった他の子どもたちも、その服装といい、動作といい何だかかっこ良すぎる、と少年には見えた。
 大阪で、いっしょに学級委員をしていたIさんに、少年は関心を持っていた。
その理由は、その子がデザインの変わった上品な身なりをしていた上に、当時目新しい鉄筋高層ビルの団地に住んでいた点が大きかった。初対面のクラスは、Iさんだらけのように見えたのだ。
 おまけに、担任の先生は未だ経験したことがない男の先生だった。
 万事が、真夏の学生服の内側に冷や汗をかかせるものばかりだったと言える。
 ただ、唯一こころが許せたのは、再度みんなで校庭に出た新学期の朝礼の際に、見つけたものに対してであった。
  整列した時、校庭の右手に、壊れた灯台の名残が見えたのだ。
kamome.jpgかなりいたんでいたが、それがなんだかとても懐かしくさえ思えたのだった。
そして、ふと夢想するのだった。
 『昔は、あの石段にかもめが群れで留まったりしとったんかな・・・。かもめの校章をつくりはった人は、きっとそんなことを想像したんと違うやろか。今は、この校庭で整列しよる自分ら子どもらが、かもめたちの群れなんやな・・・。』と。

 それでその後、少年が初日をどのように処したかであるが、実を言えば少年はよく覚えていないのである。その日だけではなく、この後五年生となるまでの思い出は実に希薄なのであった。
 決して、負けず嫌いの少年がいじけるはずはなかった。間もなく、学級委員に選ばれたりもしたのだった。しかし、どこかかたくなになった姿勢がほどけない時期が続き、記憶に残すことを拒む時期が継続していくのであった。
 新しい環境をそうなめてはかかれないと感じたのだろうか?いや、あるいは子どもごころに肌で感じ始めた、家庭の経済的落差の現実に戸惑い始めたのだろうか?
 当時、地元商店街の羽振りは、折からの消費ブームに乗り、悪くはなかった。
その子どもたちのこざっぱりとした姿は、お上りさんといって良い少年に羨望の念を抱かせ続けたのかもしれない。とてつもなく金持ちの家の子どもたちだと誤解させ続けたのかもしれなかった。
 また、彼らが話す上品に響いた標準語が、なおのこと手の届かぬ家庭という幻想を生み出していたのかもしれなかった。

 そういえば、大阪在住当時、叔父の家に間借りしていた頃の話である。
 ある日、仕事場の脇の階段に座り、姉と少年は退屈していた。
とその時、姉がつぶやいたのだった。
 「きれいな言葉やね。ラジオみたいや」
東京から来たらしい背広姿の営業マンが、仕事場で叔父と話していたのだった。
 一極集中的に東京だけが文化を独占し始めていた時代、人々は、良き物の元祖はすべて東京にあるというような奇妙な魔術に、自らかかっていったのかもしれなかった。

 ところで、その当時の少年の戸惑いのひとつとして、不思議な心理状態があったことはなぜか象徴的である。少年自身、なぜそうなるのか分からず、その分当惑していたようだ。
 時たま、祖父の館の親戚の人たちが、クルマでドライブに連れて行ってくれる時などがあった。そんな時、うれしさの感情と裏腹に、やがて必ず切ない影がつきまとったのだった。
暗い四畳半一間の母親や姉の姿が浮かび、そして父親の姿が・・・。自分ひとりが思いがけない贅沢なことに直面すると、必ず、その罪悪感にも似た切ない感情が、ほとんど反射的に忍び寄ってきて少年を悩ませたのだった。
 気にかけまいと思いつつもどこからか忍び寄ってくる貧乏だという実感と、自律前の子どもが抱く家族との心理的一体感をあわせ持った少年がそこにいたのである。
 そして少年は、家族の一員として、自分が感じ取った家庭の経済的落差を埋めるためには、とにかく何であれ、がんばるんだ!と思い込んでゆくのだった。

 時代は、次第に経済活動全体を加速させ、上昇させていた。
そして、このうねりに社会のあらゆる分野が引き込まれ始めていくのだった。その社会の変化が、大人たちの強弱を振り分け選別し、共に暮らす子どもたちの境遇に介入した。
少年のような境遇と心境は、ひとつの典型ではあっても、けっして特殊ではなかったに違いない。

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このページは、yasuo hiroseが2008年5月28日 11:08に書いたブログ記事です。

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