"好きなこと" がやれれば、たとえ他のことを我慢することになっても幸せ! と口にする人は少なくない。自分もそれには大賛成であり、その発想は極めて健全なことだと確信する。 "たとえ他のことを我慢する" というところが、 "たとえ他の人を我慢させる" こととなれば多少物議を醸すのかもしれないが、それでも、 "他の人" とてその当人が邪心なく好きなことにはまり込んでいるならば、まあ、しょうがないか、と大目に見る向きもありそうである。
ただ、むしろ問題は、 "好きなこと" に遭遇したり、それを自覚するということは、一般的に想定される以上に難しいことなのかも知れないと思う点である。
あなたの "好きなこと" とは何ですか? と問われて、即座に返答を返せる人はどちらかと言えば少ないのかも知れない。そのことに余程年季が入っている人はいざ知らず、普通は、唐突に問われるとややたじろぐものなのかも知れない。
何故こんなことを書くかと言えば、やはりこれからの時代環境を生き抜いて行くには、大なり小なり "好きこそものの上手なれ" 主義でなくてはならないように思うからなのである。
つまり、職業選択にしても、そのジャンルにおけるミニマムのボーダーラインをクリアしただけでは話にならないだろうし、とりあえず卒なく器用にこなす水準でもやがてボロを出すことになりそうだ。通り一遍のことでは歯が立つまい、と推測するわけである。
どうしても、 "好きだからこそ" 寝食の時間を惜しんでのめり込み、その挙句、 "高い授業料" に見合うか見合わないかは別として何かそれらしきものを掴んでいるというような水準が望ましいように思えるのである。
もちろん、世間で "天才" 扱いがなされているような逸材たちが、その道の訓練を幼い頃からやっていた、というようなケースは、 "好きこそものの上手なれ" というようなロジックを当てはめるまでもない羨ましい大正解のはずであろう。
と言うか、そんな "天才" さえ事欠かない時代風潮でもあるからこそ、せめて、 "好きこそものの上手なれ" を平然と主義とするようでなければ話にも何もならない、ということになるわけなのである。
先ほど、 "好きなこと" は何か? という問いにたじろぎがちだと書いたが、要は、自信が持てるほどに何かに "のめり込む" 経験をすること、したことが思いのほか少ないのが、一般的なのではなかろうかと推定される。だから、自信をもって "好きなこと" を自覚し切れないというのが実情なのではないかと思えるのである。
一昨日だかに書いたが、 "好き" というのもひとつの価値観であり、それを鋭く自覚できるためには、それなりの労を注ぐこと、あるいは "犠牲" を払うこともまた必要ではないのかと思える。それらを伴わないうちは、 "好きなこと" でさえ自信をもって自覚できないのが人の心理感覚であるのかも知れない。
"好きこそものの上手なれ" という慣用句は多分 "正解" であるに違いなかろう。
ただし、もう一方で "好きなこと" をしっかりと自覚することはそう簡単なことではなく、それが可能となるためには、 "好き" という感覚とは矛盾するようにも思える "苦悩" も必要なのかも知れない。そうした "苦悩" のハードルを幾つか跳び越えた時に、止むに止まれず "好き" だという自覚や、それに呼応する結果としての高いスキルが立ち現れるのであろう...... (2008.06.08)
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