"実在感" を支えるのは "クオリア" であるのか ......

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 先日、昼食にパンを買った際、その "パンの香り" が突然にはるか昔の光景を呼び覚ましたものだった。一瞬のことである。
 それは、中学生の頃のことであり、昼休みが始まると大急ぎで近くのパン屋にパンと牛乳とを買いに出掛けた光景である。
 そのパン屋は、中学校のほんのすぐ傍にあった駄菓子屋のような小さなパン屋であった。そこでどんな菓子パンを買ったかは定かには思い出せないのだが、ちらっと思い起こすことができるのは、三角形をした二、三層になったジャムサンドのようなものである。おそらく、何度も同じものを買ったために記憶しているのかもしれない。
 四十数年前の光景の記憶が、順序立てた脈絡によってではなく、一瞬の "香り" によって立ち上げられてしまうということが、いつもながら不思議な気がしてならなかった。
 以前にも、散歩の際に漂っていた "菜の花" の "香り" が、何と、小学校に入学した春のことを思い起こさせたことがあった。菜の花の光景に魅せられて畦道(あぜみち)を歩く自分が思い浮かんだ。またその時には、真新しいランドセルの "革" 特有の "香り" もまざまざと蘇ってきたものであった。

  "香り" や "匂い" が記憶の重要な要素となっているのではないかということは、これまでにも何度となく書いてきたような気がする。自分の場合、記憶と "嗅覚" との結びつきが割と強いのかもしれない。
 もともと記憶というものは、 "嗅覚" に限らず、種々の感覚と密着しているものなのではないかと考えたりする。別な表現をするならば、種々の感覚の自覚と一緒になったり支えられたりしてこそ、記憶というものは確かさを獲得するものなのではないか、と。
 確信めいてこうしたことを言うのは、ちょっとした "体験" があるからなのである。

 もう大分前になるが、自律神経失調気味で悩んだ時期があったが、その頃、奇妙な体験をした覚えがある。簡単に言えば、自分が自分ではない、というような自分の "実在感" が消え失せたような感覚なのである。あるいは、目に見えている光景から、その "実在感" が消え失せているといってもいい。
 それは "実に奇妙で怖い状態" であったと覚えている。日頃、われわれが目にする光景は、光景自体だけを見ているのではなく、それらをそれらとして承認したり、意味づけたりする "自分側に内在した何か" を動員して見ているのだと思われる。だから、視点を移すひとつひとつの対象にいろいろと思いを巡らすこともできるのであろう。連想と言えるのかもしれない。建物の屋根の形から何かを思い起こしたり、思い出したりするといったようにである。
 ところが、その時の自分の感覚は、光景自体だけを見ているのであり、 "自分側に内在した何か" が一向に起動してこないのであった。当然、目にしている光景自体だけ、という対象は、モノトーンな色調で、いわゆる "虚無" そのものでしかなかったようである。こんなに寂しい光景があるものか、と感じていたようだ。
 若い頃、ひどく心を疲れさせていた頃だったかと思うが、一度、瞬間的に、これに似た "実に奇妙で怖い状態" を経験したことがあったにはあった。それは、地下鉄の轟音の中で、車内に乗り合わせた他の人々がことごとく "泥人形(?)" のように見えてしまったという "異常体験" なのであった。
 その "脳内メカニズム" は未だによくはわからない。だが、多分、前述した "自分側に内在した何か" が動員できなくなる知覚状態と共通していたのではなかったかと憶測をしている。

 最近の "脳科学" では、 "クオリア" という概念が注目を浴びているが、先ほどから書いている "自分側に内在した何か" と言っているのは、その "クオリア" に該当するものであるのかもしれない。
 人間の知覚というのは、外界の実在物との接触の際に、この主体側の "クオリア" 群を動員させることによって外界と自身との "実在感" を確保しているのかもしれない。
 ところが、何かの支障があってこの "クオリア" が起動できなくなった時、外界の対象も、また自身に関しても、どこか "脱色" されたかのように、また "脱" 意味化されたかのように "実在感" を喪失してしまうのではなかろうか。
 もともと記憶に関してこの話を始めたのであったが、記憶についてもほぼ同様なことが言えそうな気がしているのである。
 記憶というのも、 "実在感" が重要な役割をしているはずである。 "ありありと覚えている" という表現が示す "ありありと" というのは、まさに "実在感" のことを言っているのであろう。ここにおいても、自身の "クオリア" がしっかりと起動されているかどうかが問題となっているのだと思える。
 最近は "度忘れ" をしがちな "年頃" となってしまったゆえに、自身の記憶に注意を払うようになったのだが、そうしていると、ちょっとしたことに気がつく。
 ひとつは、 "頭では(=言語的には)" 思い出しても、今ひとつ "実在感" が立ち上がってこないという場合であり、もうひとつは、その逆に "実在感" が先行しているにもかかわらずその "名称" などの "言語レベル" が想起できないというケースである。もちろん後者のケースが、いわゆる "度忘れ" ということなのであろう。
 しかし、いずれにしても、記憶もまた "二層構造" で構成されているようであり、 "言語・記号・単純知覚" レベルと、もうひとつが "自分側に内在した何か" という "クオリア" レベルではなかろうか、と憶測しているのである。

 昨今、ますます "認知症" という問題が "社会問題化" しつつあるように見受けられる。高齢化社会・時代となっている以上当然の成り行きともいえそうだが、自分は、今ひとつ、ある事柄を懸念している。それは、現代という情報化時代は、 "言語・記号・単純知覚" レベルを肥大化させることに熱心であるが、個々の人間にとって必須で掛替えのない "クオリア" レベルをないがしろにしてはいないか、という点なのである。
 簡単に言えば、高齢者たちが培ってきた "クオリア" レベルの、その "等価対象物" (かつての風物 etc.)が、日常生活環境からことごとく追放されたような時代環境は、高齢者たちの "脳活動" にとって決して好ましいものではなさそうだと感ぜざるを得ないわけだ。
 しかし、現代という時代環境に目を向けるならば、懸念されるのは高齢者たちの "脳活動" だけではなさそうな気もしないではない。いわゆる "仮想世界" の圧倒的拡大傾向は、 "クオリア" を "よすが" とする人間個人の根源的あり方をどう変容させたり、調整したりしていくことになるのであろうか...... (2008.01.24)













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