午後3時頃であったか、雪が雨に替わった。それまでボタボタと降っていたため、これは積もって厄介なことになるのかと案じていた。このところ、急激な株価反落など人間界での "不具合" が常軌を逸しているだけに、何かと悲観的に考えてしまうクセがついているようだ。
予報されていたとおり、降雪が淡々と雨に替わったのを目の当たりにすると、自然界の出来事の方が、屈託が無く "リーズナブル" なのではないかと、そんな思いを抱いた。
身の回りの動物たちを見ていても、人間たちや人間界のドロドロとした "不可解さ" に比べて何と "単純美" に徹していることであろうか。ああでなくちゃぁいけないのかなぁ、などとふと思ったりすることがある。
自宅の猫たちにしたところが、彼らの感情の起伏は実にわかりやすい。キッチンの片隅の餌皿に身を伏して黙々と腹を満たした後の表情なぞは典型的である。いつも同じ餌を喰っているにもかかわらず、居間に戻って来た時の満足そうな顔つきといったらない。口の周りをペロペロと舌なめずりしている仕草は、あー旨かった、満足満足、と言っている気がする。
「ご飯喰ってきたのか、旨かったか」
と言って頭を撫でてやると、眼を細めて顔を突き出す。尚のこと、満足満足、という表情になる。
で、そこでやめておけばいいものを、ちょいと尻尾をつかんでからかうと、今度は、ムキになって迫ってくる。で、また、いやぁー冗談冗談、と言って頭を撫でると、またまた眼を細めて顔を突き出す。とにかく、目下の事柄だけに即応して、深いことやら過去のことやら、もちろん将来のことなぞ眼中にない、とそうおっしゃっているのである。そうした "単純美" に徹していることが動物たちのかわいいところなのであろうか。
そう言えば、先日、家内が "かわいそうな犬" のことを興奮して話していた。
実家のお母さんのケアに行った時のとある駅前の出来事のようであった。一匹の中型犬が、どうも "置き去り" というか、 "捨てられた" ような気配だったというのである。
歩道の一角で、ちょこんとすわってキョロキョロとしているその犬の姿を最初に眼にした際には、買い物か何かをしているご主人を待っているのかと思ったらしい。
しかし、家内が用を済ませてかなりの時間が経った後でも、その犬は寒い歩道の上で同じ格好をして途方に暮れていたそうなのである。それで家内は、きっと無情な飼い主に "置き去り" にされたのではないかと同情したというのである。もし、やむを得ず飼うことができなくなったのならば、首に札でもぶら下げて、誰かお願いしますというような段取りでもすればいいものを、と家内は主張していたのである。そんなこともなく、この寒空の下で主人を想う犬をただただ放置するというのは拷問のようだと憤慨していたのだ。
自宅の近くのことであればそんなかわいそうな犬ならば引き取ってもやれると思ったそうだが、なんせ遠方の駅近辺のことなので心を痛めて帰ってきたという、そんな話だったのである。
"単純美" に徹して生きるしか術のないものたちに対して、人間たちは "複雑な条件群" を駆使することで、概して "より豊かに" 生きているわけである。それが "重荷" と感じさせられるような、そんな不可解な "不具合" が多々生じていることも事実ではあるが、生きることに "複雑さ" が必要だと選び取ってきた人間たちなのだから、やはり、その "複雑な条件群" を "制御=コントロール" していかなければならないはずであろう。そして、たとえ現状が拗れてはいても、それは選びとってきた結果なのであるから正すことが不可能というわけではなさそうだと思える。
問題は何なのであろうか。 "単純美" こそがかわいい犬たちを、それをいいことにして無情に見捨ててしまうように、物言わぬ "単純美" で満ちた "自然" というものに歴然と背を向けるようになってしまった、その愚かしさこそを何とかすべきなのかもしれない...... (2008.01.23)
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