今日はもう正月から離れて普段と変わらぬ一日を過ごした。
ウォーキングから戻り、 "駅伝" の中継をしばらく観た後、ちょっとした用もあったため事務所に出向くことにした。
道路にもようやくクルマが溢れるようになったようだ。仕事での外出というよりは、休暇最後の日を外出で堪能しようとするクルマなのであろうか。明日、四日から仕事始めというケースも少なくないはずだ。ちなみに、うちの会社は明日も休みとして七日からのスタートとなっている。過去最長の休暇だと、社員は喜んでいたようである。これといって何もない会社なのだから、休暇くらいは寛大であっていいのかもしれない。
事務所に向かってクルマを走らせると、最近は見慣れた周囲の光景に倦怠感を覚える。かと言って別な道を選ぼうともしない。別な道を選んだためにトラブルがあったとなっては、それもまた厄介だと思っているのだろう。
しかし、 "見慣れた周囲の光景への倦怠感" といえば、ウォーキングの際にもそんなことを考えた覚えがある。こちらの場合は、ちょっとした "警戒心" を伴って考えていたようであった。
というのも、 "見慣れている" がゆえなのであろうか、ほとんど意識を働かせていないようだからなのである。まして、ウォーキングは朝方の、眠さが残る時間帯にこなすことが多いため、なおのこと意識は "エコノミー・モード" というか、 "怠慢モード" となっている。よほど新規性を伴った光景でもないかぎり、目もくれずに、 "変化な~し!" と見過ごそうとするかのようなのだ。
ある時、ふと、今日はどんな周囲の光景を目にしたんだっけ、と思い返そうとして、ほとんどこれといった印象がよみがえってこないことに気づいたのである。まあ、これといって何も目新しいものはなかったのではあろう。しかし、これは "ちょっとした問題" であるのかもしれない、とそう感じたのである。
日が異なれば、光景側も、また自身の内面側も昨日やこれまでと同一であるはずがないのであり、とすれば、何か "新しいもの" に注意を喚起して然るべきであろう。それなのに、 "変化な~し" というような "無地一色" で塗りつぶすかのような意識の持ち方は、やはり問題視しなくてはむいけない、とそういう意味での "警戒心" 持つはめになったのである。
要するに、意識の "エコノミー・モード" や "怠慢モード" の多用とは、これこそが "老化" の最たる特徴なのではないかと思う。 "エネルギーの出し惜しみ" を人知れず行っているのは、気力・体力を密かに計量している老人の特徴そのものだと思わずにはいられなかったのである。
まあ、目くじら立てて言うほどのことではないかもしれないが、これを無意識に重ねてゆくならば、外界を、何の凹凸もない平板な光景としてしか認識できない "寂しい人間" となってしまうような気がしたのであった。外界がそうした光景として目に映るというのは、とりもなおさず、内面に何の起伏もなくのっぺりとしていることを物語っているわけであり、それは "人柄が丸くなる" という "肯定的な事" とは異なったことだと考えたいような気がしている。
いや、この辺になるとちょいと評価が分かれるのかもしれない。もし、感覚が "まひ" することを "人柄が丸くなる" と読み違えるならば、それは "ぼけ老人" を "ほめ殺す" ことになりかねないであろう。かといって、外界の凹凸を敏感に感じ取れるセンサーを持ちながら、 "人柄が丸くなる" べしという命題は、かなり過酷過ぎるとも言えそうな気もするのである。
こう考えてくると、 "慣れなくては身が持たない。さりとて慣れ過ぎてはいけない。" というのが、人生というものなのかもしれない。そこへ行くと、科学と技術とをふんだんに駆使した現代は、 "慣れ過ぎてはいけない" という課題の方にはさほど注意を払っていないような気がする...... (2008.01.03)
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