"創造性" の発揮についての問題は、これまでも何度となくアプローチしては途中で断ち切れとなっていたような覚えがある。それだけ、掴み所がないテーマだということなのだろう。
ただ、ますます意を強める感があるのは、 "創造性" の発揮という脳活動は、脳活動は脳活動であっても、一般的に理解されている言語中枢的領域やそのレベルに限定された活動ではないのではないか、という点である。
むしろ、もっと情動や感情をつかさどる脳の部分や、さらに言えばそれらと密接な関係を取り結んでいるとされる身体の各部、内臓もそうであろうしさまざまな神経系さえ含むかたちで関係しているのではないかと予感する。
もうだいぶ以前になるが、 "暗黙知" という考え方に関心を寄せたのも、おそらくは同じ予感からなのだったかと振り返る。また、 "夢" というものへの関心も、たぶん同じ文脈にあるのだろうと推測している。
要するに、 "意識" と "無意識" という二分法に沿って考えるならば、どうも "創造性" の発揮についての問題は、予想以上に "無意識" の領域やレベルに深く根ざしているのではないかと思われる。
たとえば、 "夢" を引き合いに出すならば、誰もが一度や二度は経験していると思えるが、目覚めている日中にいくら考えてもパッとしたアイディアが浮かばない時、そんな日々を悶々と過ごしていると、 "夢" の中でちょっとしたアイディアが、まるで神の啓示(?)のごとく現れることがあったりするものだ。
"夢" というものは、脳における "自動メンテナンス" だというようなことが言われたりしているが、この脳における "自動" 的というか無意識にというか、そんなふうに展開される生理(整理)活動というのが実に興味深いと思える。
脳活動における最も高度な活動、 "創造性" の発揮なぞはそれに値する活動であろうが、こうした活動は、 "意識的" には制御し切れず、どちらかと言えば "無意識" の活動にかなりの部分、依拠しているのではなかろうか、と思ったりするのである。
こうした "神秘主義" 的な考え方は、 "実証性" を重視する科学の立場からすれば甚だ他愛のない発想だということになるのだろう。
しかし、最近の脳科学がこうした問題にかなり果敢に立ち向かおうとしているのも事実なのではなかろうか。
まあ、そんな関心から、素人なりの問題意識を膨らませているわけなのだが、仮に、人間における "創造性" の発揮というものが、脳活動における "無意識" の領域や、あるいは情動や感情という、現代にあってはどうしても "蔑まれる" 領域に少なからず依拠しているとするならば、時代環境はかなり間違った方向へと突き走っていると言えないこともなさそうだ。
"情報化時代" としての時代環境や、その立役者であるに違いない "インターネット" 環境というものが、その前向きな威力は威力としつつも、 "創造性" の発揮という大きな課題から見てどうなのかと検証されてもいいのかもしれない。
活用の仕方の問題だと言えばそうなるのだろうが、ネットへの依存度がますます高まりこそすれ、相対視されにくくなっている現状で、人間はさまざまな貴重な活動をスポイルしていないとは限らないのではないかと感じている...... (2008.02.26)
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