"ホープレス" 時代だからこそ、 "創造性" の発揮 ......

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 昨日、今日と、 "春一番" が吹き荒れて、とんでもなく寒い。
 陽射しはまあまあなので近くの自然公園の "梅" でも見に行こうかとしたが、表に出ると強い風に加えて、空の一角が薄茶色の砂埃(風じん)で曇っていたりした。これでは、 "梅" 見物どころではなさそうだと、早々、家の中に舞い戻ってしまった。(後でニュースなどを見ると、この強風はあちこちで荒れ狂い、いろいろな被害をもたらしていたようだ)
  "三寒四温" や "春一番" といった現象は、訪れる春への避けられない通過点のようだから何とも致し方ないと言うべきなのであろうか。
 もう日の出時刻も、 "6時十何分" とかになってきているようで、まさに春、目前ということになる。

 先日、この春には身の回りの自然風景をじっくりと観察したいものだと書いた。その点に変わりはないが、ただし、浮かれた気分になろうとしているのではない。いや、なろうにもなれないというのが正確なところかもしれない。
 いろいろと(経済)環境は "厳しく" 、そんな中でサバイバルしてゆくには、まさにうかうかとはしていられないということなのである。と同時に、こんな厳しさだからこそ、何としても生き抜いてやるぞ、という闘争心も刺激される。
 実のところ、自社のような零細企業は、その過去を振り返った時、一時たりとも "磐石さ" を感じさせてくれた試しがあったとは言えない。常に、売り上げをはじめとした何らかの不安がつきまとい、それが自分たちの業態、生き様の基本条件なのだと悟らされてきたと言ってもいい。
 昔、知り合いのベンチャー企業の社長が、 "だれか社長を代わってくれたらどんなにありがたいかと思うよ。資金繰りから、銀行対応から、すべて代わってやってくれるというのなら、いつでも席を空けたいよ......" と冗談混じりで吐露していたが、かなりの真実味のある発言である。

 世の中には、いざ、やってみなければわからないこと、というものがいろいろとあるが、社長職というのもそれに匹敵するのではないかと実感する。特に、零細企業の社長というのは、 "不確かさ" ばかりを束ねて座布団を作り、その上に座らされて、文句や愚痴も言えるようで言えないという極めて特殊なステイタスであるに違いない。
 ある人が、 "責任のない者ほど自由に文句が言える" と言ったそうだが、その通りなのかもしれない。とかく、 "責任" とは無縁の場所で "暮す" (生きるではなく)ことを処世術としたがる時代にあって、仮にも社長という立場は、 "責任の塊" 以外ではなく、だからこそ関係者たちに無作法なかたちで文句を言うこともままならないわけだ。天に唾す、ということわざがあったかと思うが、文句のひとつひとつがすべて自身に跳ね返ってくるという道理が、言葉を飲み込ませるからなのであろう。
 そんなこんなで、社長という立場は、引き受けられる者とそうでない者とがはっきりと分かれる、リトマス試験紙のようなものではないかと思うこともある。

 社長の立場の話はともかく、(経済)環境が "厳しく" なればなるほど、求められるのは実質的な意味における "創造性" なのだろうと予感している。
 気合いだ、努力だと言ってみたところで、それらは空転すること、自己満足に終わることという嫌いが十分にあり得る。それらを空転させないためにも、ターゲットとなり得る新たなコンセプト(アイディア?)をクリエイトする必要が大だと思われる。
 元来、情報化時代だ、知識社会だとか言われてきた環境の本命の狙いはそのことにあったはずであろう。発想の転換と言われ続けてきたのもそのことであったはずだ。しかし、騒がれて来た割には、いろいろなレベルやジャンルにおいてその成果は望まれるほどの水準に至っていない、というのが残念ながらの実情ではなかろうかと推定するのである。

 逆を言えば、人間がもたらす "創造性" とはこんなものなのか? と考えるがゆえの推定なのだ。と言うのも、ザックリとした感覚的レベルで言えば、現代の現時点において、この国、この世界の人間たちは、他に望むものがないほどに現状に満足し、幸福感に浸っているのか、という疑問なのである。全くそうではないだろう。
 社会矛盾に苦悩し、社会経済の危機に慄き、地球環境の将来に希望が抱きにくくさえなっている。そして、それらの不安材料が個々人に押し迫り、大多数の個々人を不幸な気分で満たしているかのようである。
 当然、こうした "ホープレス" (ホームレスではなく、希望を抱きにくくさせている状況のこと、を勝手にこう呼ぶ)の背景には、無数の原因が潜んでいよう。しかし、押しなべて言ってしまえば、 "問題解決能力" = "創造性" が "立ち遅れている!" ということ以外ではないのだと言い切りたい。人々の気合い不足、努力不足のせいにするだけでは話にならないだろう。もし、それを言うならば、気合いや努力というものの中身を暗黙視せずに、その内的構造を "創造的に" 再構成すべきであるのかもしれない。

 どうも、一部のサイエンスの成果や、誇大広告がなされるIT新製品の触れ込みなどによって、現代は "創造性" が躍動する時代でもあるかのような錯覚に、われわれは陥っているのではなかろうか。あるいは、現行の市場主義経済内部に矮小化した形での "創造性" のみに目を向けているのかもしれない。それは十分に考えられることである。
 それは、止むを得ないといえばそうかもしれないが、ただし、 "創造性" を発揮しようとする人間側の "脳活動" そのものに、果たして "市場主義経済" という定数的な条件が内在しているのか、という点である。そんなものは有りはしないであろう。 "創造性" のプロフェッショナルであろう科学者たちや、芸術家たちにしても、決して "市場主義経済" 内有効性を持つ "創造性" のみを発揮しようとして熱くなっているとは想像しがたい。

 どうも、書こうとする動機を追ってゆく(野放しにする)と、 "そもそも的発想" が話を遠回りな長話にさせてしまうようだ。
 今日書こうとしたのは、状況が厳しい時ほど、人は "創造性" の発揮に意を注ぐべきであり、状況の厳しさにおいて確実に残された "ホープ" は、 "創造性" の発揮以外ではない、ということであった。 "創造性" の発揮という希望のみが確実に残されている、ということである。
 こう言い切れるのは、人間の脳による "創造性" というものは、意識のレベルの言語的理性が途方に暮れたその水面下で、したたかに培われ、そして浮上して姿を現す機会を虎視眈々とうかがっているような代物だと見なせそうだからである。
 ただし、そうあらしめるためには何がしかの "条件整備" が必須なのだろう。その辺の問題を手探りしたいものである...... (2008.02.24)













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