今日は、朝ウォーキングで外出した以外は、一日中書斎で過ごすこととなった。この間に録り貯めてしまったTV録画の、そのDVD化作業に一日中かかり切りになってしまったのだ。
何となくバカバカしい気分もよぎったが、かといって、放置しておくと時間が経つにつれてわけがわからなくなり手に負えなくなってしまう。また、備え付けのHDDの限られたスペースも埋まってしまうため、やむなく処理せざるを得なかったのだ。
しかし、ふと考えてみると、発信側のTV局はよくも次から次へとコンテンツというか情報というかを、制作し、流し続けるものだと思う。それらをただ単にリアルタイムで観ている分にはそんなこととて感じることもなさそうだが、自分側がやや手間の掛かる保存処理などをしていると、番組制作の労力について余計な想像をすることにもなる。
民放の、いかにも手抜きで粗悪な番組なぞは、明らかに刹那的消耗品だと解釈できるが、NHKの然るべき分野の番組は、一過性の視聴だけで終わらせるには "もったいない" という印象を受けたりする。それだからこそ、録画への衝動が生まれもする。
まあ、最近のNHKは、注目される番組に関しては、頻繁に "再放送" も行っているし、また "DVD製品" に仕上げて商品化するという "再利用" をしっかりと実施したりなどしているため、 "もったいない" と見なされる余地はなさそうではある。
また、近い将来には、ネットを通じて "ビデオ・オン・デマンド方式" の有料サービスも行われるようであり、番組は単なる一過性のコンテンツから抜け出しつつあると思われる。いずれにしても、粗製濫造ではなく、 "作品" なのだとするステイタスが望まれよう。
TV番組が、芸術作品のように何度観ても色褪せないようであれとまでは言わないにしても、複数回の視聴に耐えられる程度のまともさは保ってもらいたいものだと思うわけである。貴重な時間や労力を要するのは、提供側だけではなく、視聴者も同様なのであり、そのことを了解するかしないかが番組作りの分水嶺なのかもしれない。
自分は、 "NHKアーカイブス" のドキュメンタリーを楽しむ方であるが、 "現代の映像" などの当時のものでも、単に懐古趣味的に味わえるだけではなく、心の琴線に触れる作品もあり、名だたる映画作品の重さに勝るとも劣らないと感じることがままある。
確かに、ナレーションなどについては時代環境に縛られた古さを感じさせないわけではないにしても、その時代から切り取られた映像が、制作者たちの洞察力あるセンスを潜ってきたものは、何がしかの説得力やしみじみとした感情を掻き立てたりするものだ。
つい先日も、同番組で60年代に放送された公営住宅の厳しい抽選で当選した家族の様子を綴った番組、 "三十三か三分の一の幸運" とかという番組であったかを、感動にも似たものを覚えながら鑑賞したものであった。
劣悪な住宅事情の下でただひたすらに抽選に当たることだけに希望をつなぐ人々の生活を温かく見つめた秀作であった。毎日、銭湯通いをしていた家族が、 "内風呂" に巡り合うことになったのを喜ぶ様子はジーンとくるものがあった。銭湯通いにいつも片道30分も掛かっていたため、末っ子の幼い子などは、途中で寝てしまっていたらしい。その子が、うれしそうに湯船に浸かっている場面が映し出され、次のようにナレーションがなされていたのだった。
"何々ちゃんは、「お風呂が近くにあってよかったね」と言うのだが、どうも、自分の家の風呂だとは理解できていない様子である......"
こんなふうに、40年も前の秀逸なドキュメンタリー映像は、ほんのわずかなシーンだけに限っても、その時の状況情報を溢れるばかりの叙述力で伝え切ってしまうのだから大したものなのである...... (2008.02.17)
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