最近の自分の部屋は、書斎のつもりではあっても、足の踏み場もないほどにガラクタが溢れてひどいありさまとなっている。いかに何でも、もうそろそろ大片付けでもしなければ、まともに利用できなくなりそうである。いや、ありていに言えば、とっくにまともな居心地ではなくなっていそうである......。
ただ、 "デスク上のパソコン周辺" だけは "機能的" な状況に設えてある。と言うのも、ここしばらくの間の書斎利用の大半がパソコン関連に限定されているからでもある。もし、この部分の空間をはずすならば、いわば "物置" 同然と言うべきであろう。
ところで、今日も、この空間だけは使い勝手を改善しようと "手を施した" 。
実は、 "この部分的空間" には、この間もそこそこの労力を投入してきたのである。まあそれも必要に迫られて、ということではありそうだが。
その必要と言うのは、PCによるTV録画と編集、DVD化をするために機材の配置や配線、そしてメンテを行うためには、相応の整理をしておかなければままならなかったからなのである。
そこで、室内の他の空間はさておいて、 "この部分的空間" だけは、いろいろと工夫をして、その挙句に、可能な限り "立体配置" をすることにしたのだった。要するに、出窓部分を生かして(採光の上では "殺して" となりそうだが......)、機材を、棚の活用による "立体階層" に配置したのである。そして、今日もまたその構造に "増築" をしてしまったのである。強い地震でも来たら大変なことになるだろうな、と不吉なことを考えながらも、その反面、デスク周りが "コックピット" 化 (?) していくことにまんざら悪い気はしないのであった。
こんな事を書いているのは、 "コックピット" がどうのこうのではないのである。そうではなくて、とかく "まあ、いいか" と現状追認、現状維持の怠惰の度が増してゆくようでもある昨今の自分が、久しぶりに "腰を上げた" こと、やや面倒なことに労を惜しまない挙動に着目しようとしているのである。
昨日は、 "闘うリハビリ" というちょっと "輝きのあるテーマ" について書いたが、そのテーマが放つ警告は、自分にとってもまんざら無縁ではなさそうに感じているのである。と言うのは、この歳になると、何かにつけてマンネリ気分が漂い、マンネリ症状も悪性のかたちでこじれ気味に至っていそうだと感じないわけではないのである。
そして、この傾向は、生活すること、生きること自体のポテンシャリティをジリ貧状態へと引き込むような気がしないではない。これは、身体自体の老化以上に、由々しき老化なのではなかろうかと、そう慄然と感じるわけなのである。ことさら脳にフィジカルな損傷を被らなくとも、こうした、気分におけるジリ貧を放置し続ける姿勢が、脳をしてマンネリと怠惰とへの後退を確実に追認せしめることとなり、本格的な老化への道を露払いして行くに違いない、とそう懸念するわけなのである。
まあ、やや大袈裟な表現となってしまったが、あながちはずれてはいないのではなかろうか。過ぎ行く日常生活の一時一時を無自覚に流して行くならば、敏感に察知する脳の働きは、縮小再生産、ジリ貧という方向へとやむなく舵取りし、その速度を速めてしまいそうな予感がする。あたかも "闘うリハビリ" をするかのごとく、生きることに "挑戦的" にならなければならないはずである。
と、力(りき)む気持ちも確かにありそうである。が、その前に、 "まあ、いいか" というような生活上の悪癖を、ひとつひとつ潰して行くのが先決なのかもしれないと思うわけなのである。 "億劫がらずに動く" という定石のことである。
そのための戦術としては、精神論に陥って継続できないのでは意味がなかろう。ここは、何であれ前向きな "意欲" を、その欠片でも生じた時にはそれを見逃さずに応じて行くというのが効果的ではないかと......。 "どうせ......" とか、 "何のため......" といったような、いわば "意欲殺し" に値する対応は百害あって一理なし、と言うべきなのであろう...... (2008.02.16)
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