今日は陽射しもあり、暖かい天候であった。午後、その陽射しにつられて表に出てクルマや自転車の清掃、整備をした。陽射しを背にしていると、温もりどころか暑ささえ感じられたのがうれしかった。まだまだ、気持ちを萎縮させる寒さが続くはずではあろうが、確実に春は接近しているとの印象を受けた。
そういえば、庭の樹々にしても街路樹にしても、寒々とした枝の姿とは裏腹に、枝の先端にはプックリとした新芽をふんだんにつけ始めている。加えて、見るからに春を予感させるような緑色のメジロなどが飛び交ってもいて、春到来のカウントダウンが始まった気配である。動植物などの自然は、確実に伸びている日照時間に促されるかたちで春到来に向けた最終調整をしているかのようである。
今年の春は、そうした自然の変化をじっくりと享受させてもらおうかと思っている。別に、観光地へ行くだけが自然と付き合う方法ではなさそうであり、要は、身近な風景に埋め込まれた自然にどれだけ目を向けることができるかだろうと思っている。観察しようとする意思や愛着さえ持つならば、自然の光景は饒舌に語ってくれそうな気がする。
人間界の状況は、言わずと知れた "凹み" であるに違いなかろう。どう考えても、人々に勇気を与えるような展開は望めまい。勇気は別なリソースから調達する以外にはなさそうである。そして、そのひとつが、自然の光景であると思われる。
<「知る」こと>と<「感じること」>という対比に関心を持ち続けている。対比とまで言うこともなさそうであり、<「知る」こと>に劣らず<「感じること」>と位置づけるならば語弊がなかろう。
いずれにしても、<「感じること」>をどう復権させるのか、何によってそれは叶うのかをもっと真剣に考えてみたいと思っている。
その際、ありふれた発想ではあるが、自然との接触を回復させることが重要なのだろうと予感している。こう書いていると、どういうものか自身がどこか病んでいてその治療法に思いを巡らせているかのような感触を持つ。が、まさにそうであるのかもしれない。
何がどうだと特定するには至らないが、この時代の外界の環境の腐敗ぶりに匹敵する程度には、自身の内面もまた十分にまともでなくなっていそうな気がしてならないわけである。
現代特有の<「知る」こと>の路線上で、振り回されてみたり、罠に嵌ったりすることがいかにも多い気がしている。妙な表現をすれば、<「知る」こと>とはまさに "別個の基準軸" を持ち、その領域で自重の幾分かを背負ってもらわなければ、やはり身が持たないのではないかと感じることがある。それが、<「感じること」>の分野への思い入れを高めているのかもしれない。
ところで、<「感じること」>と言う場合、人間にあっては、<「知る」こと>との境界はかなり不鮮明であり、<「知る」こと>の産物により多くが方向づけられている点に留意すべきかと考えている。これはプラス、マイナスの両面がありそうだと想定するのだが、マイナス面にあっては、当人が<「感じること」>の分野の "感情" であると思っていても、実は、<「知る」こと>の産物により撹乱された "感情もどき" でしかないこともありそうではないか。
つまり、何が言いたいのかと言えば、<「感じること」>という領域は、<「知る」こと>の産物によってかなり毒されてもいそうであり、先ずは "耕したり、整地したりする" ことが必要なのかと、そんなことを想像するわけなのである。
動植物などの自然に対する思い入れとは、意外とこんな文脈に基づいているのかもしれないと推定している...... (2008.02.11)
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