明日は一日中の降雪だというので、先ほど、早手回しにクルマにチェーンを装着した。毎年こんなことを書いているような覚えがあるが、寒い朝にそんな装着作業をするのは考えるだけで厄介な気がしたため、エイッと気合を入れて済ましてきたのである。
これで、明日は、朝からどんなに雪が降ろうとも気苦労する心配だけは回避できるというものである。
こんな積雪対策のように、忍び寄る景気後退の経済環境に対してそこそこ "有効性" のある経営対策なんぞが施せたらどんなにいいだろう、とため息混じりに考えてしまう。おそらく、全国各地の数多の経営者が大なり小なり胸につっかえさせている懸念であるに違いない......。
今日はその "有効性" という視点にちょっとこだわってみようかと思う。
すぐに思い浮かぶのは、 "有効性" のある経営対策なぞと涼しい顔をしている場合ではない、とにかく動き回るべきだ、犬も歩けば棒に当たる、というではないか、という反論ではないかと思う。それも一理あるだろう。理屈に傾きがちな者や机上の空論をこね回してばかりいる者に対してはまさに多少の "有効性" はあるはずだろう。
よく言われてきた口調に、ちょいと気が利く若い世代の者たちや、情報化社会の中で耳年増(みみどしま)となりがちな現代人たちは、行動する前に、入手情報から推定した "有効性" にこだわり、先ず行動してみるという実践性に欠ける、という言い方があったかと思う。確かに、「論より証拠」とか「瓢箪から駒」ということわざもあったわけで、さらに言えば「当たって砕けろ」もあれば「ダメ元で動け」もあり、つべこべ言う前に行動を起こせ! という指摘に説得性のある時代はあったかとは思う。それは多分に偶発的に果実が掴めた時代の話だったのかもしれない。しかし、現代という時代環境は、この辺に関してはやや異なってきているかに思われる。
他愛無い例を出そう。骨董品ブームが続いているようであるが、一昔前には、ちょいと足を伸ばし、地方に出掛けると鄙(ひな)びた地方の古びた民家や、壊れかけた土蔵に足を運ぶと、何がしかの掘り出し物があったと言われている。
しかし、昨今ではこうした目の付け方で行動することの "有効性" が希薄となっているというのである。それは、『何でも鑑定団』というTV番組が全国放送されてからのことらしい。
つまり、 "均質の情報が巷に行き渡るような時代環境" となると、「瓢箪から駒」というような偶発的な幸運に出会えることは極端に減ってしまうということなのである。「駒」の認知とそれへの群がり方は一気に広がってしまい、見過ごされた「駒」に巡り合うことは不可能ではないにしても、とてもペイするものではないのかもしれないわけだ。
逆に言えば、行動優先、実践優先の方策に説得力があった時代というのは、生活環境の場の中に、さまざまな<バラツキや偏在性>が残されていたり、許容されていた時代なのではないかと考えざるを得ないのである。極論するならば、 "セレンディピティ" を典型とするように偶発的発見があるからこそ重視される行動や実践というものが、 "均質の情報が巷に行き渡るような時代環境" にあっては、あたかも封じ込められているかのように感じられるのである。 "均質の情報が巷に行き渡るような時代環境" では、全国津々浦々に、 "わかり切ったかのような空気" 、 "やらないでもわかり切ったかのような空気" がジワーッと充満するかのようではないかと思える。
"とにかく動け" という掛け声が説得力を失い、 "有効性" という視点が、行動や実践を呪縛しているかに見えるのは、以上のような事情がありそうな気がするのである。 "均質の情報が巷に行き渡るような時代環境" となり、それらが大掛かりにインテグレイトされ尽くしてしまうと、様々な個々の行動や実践というものが、やる前から半ば透けて見えてしまうという状況だとも言えそうか。そんなことはないという議論それ自体が、 "有効性" を剥奪されているかのようにも見えてしまうのだ。
ただこれではあまりにも "悲観主義的" でしかないわけだが、とりあえず、ベースとなっている時代環境の現実はそれほどにシビァな構造を持っていることだけは自覚しておきたいわけなのである。
それで、その上で "有効性" のある(経営的)行動や実践にどう迫れるのかというリアルな課題に直面しなければならない。
これが簡単に書き表せるならばうだうだと悩むことはないわけであり、とてもスタンバイOK状態ではない。
ひとつ考える指針として挙げておきたいのは、上記のような "均質の情報が巷に行き渡るような時代環境" を大前提にして、それを "自身の土俵とする" 、つまり、自身の戦略の前提条件のごとく活用させてもらうこととか、あるいは逆に、この時代環境の "必然的盲点" 探しを積極的に進めることなどである。こうした指針は、現にこれに沿って成功に至っているケースがあると考えられる。
いずれにしても、この時代環境での(経営的)行動や実践は、行動や実践に託されがちな偶発性に頼ることを極力排し、 "意図性" をかなりの程度濃縮して(力をためて)臨むスタイル以外にはあり得ないはずだ。こう言ってしまえば、何の変哲も新規性もない指針となってしまうが......。要するに、現在の(経営的)行動や実践というもの七、八割は、調査・研究・企画という思考過程に割り当てられるべきだと考えている...... (2008.02.02)
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