風邪の症状は一進一退というところか。いや、昨晩の咳の出ようからすればやや悪化した感触がないでもない。
おかげで、十分な睡眠時間をとったつもりであったが、奇妙な夢ばかりを見ていた。
そのうちの "一編" だけは奇妙でありながらも感じの良いものであった。
いつも書いていることであるが、夢というものは、何らかの感情がトリガー(引き金)となっているようで、ストーリーや筋はまさに取って付けたような、そんな構成であるかのようである。どうしてそれが発生するのかは不明であるが、喜び、悲しみ、憤りの感情がきっかけとなり、その感情をまるで後づけで "言い訳" するかのような光景が連なって出てくるというのが夢の特徴なのかもしれない。もちろん、その夢を見ている間は、そうした状況や推移を理性的に鳥瞰視するような自分はおらず、ただただ光景にとことん巻き込まれた当事者として右往左往しているものである。おそらく、理性を司る脳の部分がまさに眠っていて "職務放棄" をしているという状態だからなのであろう。
そうした "舞台裏" がわかっていても夢というものは興味深いものだ。トリガーである感情自体がどうした文脈で生じたのかという点にも関心が向くが、その感情を "視覚的に構成" する脳の "演出力" が、おもしろいと言えばおもしろい。自分の脳内での出来事でありながら、自分自身(の合理性)とは無縁であるかのような "演出" を仕出かすのが、興味深いのである。
覚えている夢を振り返る時、どこかに自分らしい運びが感じられて、なるほど "自分の作品" (?)だと印象づけられても良さそうに思うのだが、それがないように感じる。夢をプロデュースしている者は、あたかも自分以外の誰か他の人格ででもあるかのような感触が不思議であるし、おもしろいのである。
それはともかく、やはり、夢というのは何らかの感情がトリガー(引き金)となっているようで、まさに "初めに感情ありき" の構成物であるような気がする。しかも、ひとつの感情とは限らず、いくつかの感情の塊が団子状になって連なっているかのようである。そして、それらの感情が変化して行く時系列で、取ってつけたような光景が繋ぎ合わされるというような構造なのかもしれない。
だからということもないが、夢を思い起こす時には、逐一の光景にこだわるのではなく、一体どんな感情が支配していたのかという点から注目する必要がありそうだ。
これは、音楽でいうところの "コード" (Dm,G7etc.)とメロディとの関係に相当するとたとえてもよさそうか。夢は明らかに、感情の要素とも言うべき "コード" が組み合わさって、まとまった感情を表出しているようで、メロディに値するそれぞれの光景はどちらかと言えば方便的な位置づけにあるのではなかろうか。
夢は、それを自覚した直後が最もリアリティに富む。つまり、怖い夢を見た時などはその夢でうなされて(?)目が覚めた直後が、その鮮明なリアリティを持っているということである。そして、日が高くなった日中に、親しい者にそれを話そうとしたりすることがあっても、怖かったという記憶は蘇っても、今一その鮮明さが上手く伝えられないというようなことがあったりする。
要するに、夢というのは、その構成部分の9割ほどが感情のようなのであり、しかもその感情は、夢に見た光景から発したものではなく逆なのであり、光景の方が従属変数的に取って付けられたもののようであるから、夢を起動させた自身の感情の方が沈静化してしまうと、幻のようなものに萎んでしまうのではなかろうか。いくら、光景のほうの記憶を並べ立てたところで、当人自身も疎遠に感じるし、まして他人には一向に伝わらないと思われる。
いや、それ以前に、睡眠中の感情の起伏が沈静化して消え去ると、それに引き回されて一時的に動員(?)されていた光景群は、暫定的なものであったがゆえに記憶には残されずに忘れ去られてしまう、というのが一般的であるのかもしれない。
では何のために、高等動物は夢をみるのか? という興味津々たるテーマにたどり着く。これぞという説得力旺盛な解明は未だなさそうだが、結局 "感情浄化" 機能という説明が一番妥当性を持つような気がしている...... (2008.03.02)
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