"興醒め" 以外の何ものでもない "現金輸送車護衛的障害物リレー" については何のコメントも書きたくないし、書く必要もなかろう。皆がそれぞれに実感を持ったはずであるから、それで結構じゃないか、というところか。
そう言えば、最近は、政治的事象に関してここにコメントなり感想なりをあまり書こうとしなくなった。もちろん、黙って黙認できるほどに政治的環境がまともになったわけではない。正直言えば、書くに値しないという思いとでも言うべきか。かと言って、もう "死語" になっているはずの "ノンポリ" を決め込もうとしているつもりでもない。政治は好き嫌いでかかわることではなく、否応なく人々の前に立ちはだかってくるもの......。
そうした政治的事象に関する文章は、読み手にとっても、書き手にとってもさほど意味のあることではなさそうだ、との思いが昨今募っているからなのかもしれない。
もしそれらを書くとするならば、しっかりと "有効性" とでも言うべき点を吟味した上で書くべきかもしれないと感じている。特に政治的事象について書くならば、その点を考慮しなければほとんど意味があるとは思いにくいからだ。
つまり、感情発露の延長でしかないかたちで書くとするならば、毒にもクスリにもならない時事評論家の物言いと同等ないしはそれ以下だということになろう。急所を踏まえた、決定打的インパクトを持つ叙述ができれば話は別なのかもしれない。しかし、そこまで、喰らいつくのは日誌の範疇では辛い作業となってしまう。ならば、中途半端な物言いは慎んだ方が良さそうなのかと思ったりもするわけなのである。
今日はさほど良い陽気ではなかったが、それでも、ウォーキングの際に薄日の中で目にした戸外の新緑の光景は心地良いものだった。新緑というのはこういう状態をこそ言うのだろうと独り納得をしていた。
樹木の枝で萌え立つ若葉は、緑と言うほどに濃い色ではなく、いわゆる "黄緑色" の淡さで輝いていた。いずれもが、いかにも柔らかそうな感触のようであった。
青空と強い陽の光の下ならば、それらは透明感をもって輝くのだろうが、今日は、薄日、曇天であったため、しっとりとしたムーディーな感じであった。そして、鶯の声をはじめとして、野鳥たちの鳴き声も響き渡り、時季が時季となるとこうも自然の雰囲気は変わるものかと感じさせられたものだった。
そのようにして何の変わり映えもしない光景の中を、目につく自然に親しみを覚えながら、また自身の身体の存在感を感じながら淡々として歩くこと。そんなことこそが、大事なことであり、幸せなひと時なのであり、これらの日常的光景のことをこそ実感をもって詳細に書くに値することなのかもしれない、と感じていた。
この点は、写真・フォトの意味と良く似ていそうである。後日、貴重だと痛感する写真はというと、ことさら旅行に行った先の風光明媚なものであるよりも、過去の日常生活のありふれたひとコマの光景だったりするようにである。
できれば、後日そんな感慨が抱けるようなことをこそ書きたいものである。おそらく、それこそが書くに値する "大事なこと" であり、日々生きる上で注目に値する事柄であるのかもしれない...... (2008.04.26)
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