今日、とあるメルマガの記事の表題に次のような格言めいたものが記載されていた。
<「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る。」(井上靖)>
現状のような時代環境では、<希望を語る>というのは至難の業であろう。ややもすれば、口を衝いて出てくる言葉は、 "絶望" へと傾く言葉ばかりであるのかもしれない。また、 "不平" と "不満" そして "愚痴" などは、湯水のように流れ出てきそうだ。
そんなおおかたの現状にあって、<希望を語る>ことができる前提には、<努力する>という条件が潜んでいると言われると、意表を突かれる思いとなる。そして、『あすなろ物語』の著者である文学者・井上靖の言葉ともなれば大いに納得もさせられるというものである。
一見、この格言めいたフレーズは、 "何をおっしゃるウサギさん" とでも言って茶化したくなるような "楽観性" を漂わせているようでもある。
しかし、そう言うのであれば、 "希望" という観念それ自体が、命を持って生きる存在の本性である "楽観性" と無縁ではないと言うべきなのかもしれない。
つまり、 "命を持って生きる存在" は、本来的に "楽観性" そのものでありそうだ。身の回りの動植物の姿を見ていても、ただひたすらに現在という瞬間を生きる様子は "楽観的" な印象そのものであり、今一言言い添えるならば、 "希望" に満ち満ちた様子だとも言えそうだ。散歩する(させられている)犬たちの姿は、 "楽観性" と "希望" 以外の何ものでもなさそうではないか。
では、 "命を持って生きる存在" たちは、 "努力" をしているのであろうか。たぶん、事実上はそうだと思える。ただ、彼らには人間のような意識が備わっていないため、 "努力" であるとか "怠ける" であるとかという区別も観念もないのであろう。
しかし、彼らが、死への自然な傾斜を拒否しつつ "命を養う" 姿勢には、人間のように意識的ではないにせよ、 "努力" と呼べるような張り詰めた状態があることは否定できないのではなかろうか。そして、その状態こそが、人間の目に "希望" の姿として映るのかもしれない。
人間は、 "時間" と "空間" の観念により人間としての意識を形成している。それは、計り知れないメリットを生み出すことにつながっているとともに、逆に、 "希望" や "絶望" というような観念にも小難しい要素を持ち込んでしまっている可能性もありそうな気がする。
その点では、人間以外の "命を持って生きる存在" たちのシンプルで即自的な感覚を多少は取り戻す必要があるのかもしれない。
そんな視点を踏まえつつ、<「努力する人は希望を語り......」>のフレイズに戻るならば、さらに納得度が強まる気がする。
さらに言えば、 "脳科学的観点" からしても、 "努力" というような脳活動のポジティブな高揚と緊張が、 "希望" を語るとでもいうような "ハイな状態" を用意することは十分に考えられそうだと思っている。
その意味では、 "努力" することで "希望" を獲得するというアプローチは、単なる格言めいた発想ではなさそうな気がしている...... (2008.05.12)
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