昔、評論家の竹村健一氏によるもので、「ボクなんか、コレだけですよ!」と言いながら何の変哲もない手帳を差し出す、そんなCMがあったかと思う。まあ、彼の一連の評論が、そんな一冊の手帳によるものかどうかは定かでばないが、このオヤジは何を言ってるのかと、怪訝な感じとなったことを思い出したりする。
最近、自分は、基本的にはこの竹村氏の "一冊手帳術" とでもいう方法に関心を持ち始めている。
何でもPCを使い、デジタル処理とでもいうものに慣れ過ぎていることに気づくわけであるが、ふと、日常の情報処理について振り返ることがないではない。
確かに、PCとデジタル処理は便利であり、もはやこれらの環境がなければ一日たりとも過ごせないような気さえする。
しかし、不便な点とか、こうした習慣が身についてしまったからこそ被っている不都合なことはないだろうかと振り返ったりするのである。
先ず、メモ的なことでさえ、PCを筆頭としたデジタル・ツールのワープロ機能でまかなおうとするため、ほとんど手書きの文字を使うことが無くなってしまったのだ。一時は、ケータイに含まれたメモ機能に目をつけて、片手での指先入力によってメモ代わりとしたこともあった。
事ほど作用に、まったく字を書かず、何かの申し込み書への署名であるとか、つい最近では、決算書類への署名の際に手書き文字を書いたくらいであろうか。その時には、手書き文字というものの感覚が随分と遠のいているという実感さえあった。さすがに、自分の名前の漢字を失念することはなかろうが、ちょいと馴染まない漢字だったりすると、えーっと、ということにもなりかねないアブナサである。
別に、手書き文字の眼目は漢字ということだけではなく、ペンなり鉛筆なりを握って文字を書くことだけでも脳に対する有意義な効果があるように思い続けてきた。実際の習慣とは裏腹にである。
加えて、漢字を書いたりしながらものを考えるというスタイルは、きっと日本人の脳に良い影響を及ぼすのではないかとも考えてはいた。昨今、漢字学者の白川静さんが人気を博しているが、象形文字をベースとした漢字を意識しながら書いたり使ったりすることは、思考に必要な "イメージ" というものを豊かにさせてくれそうな気もするわけである。
いや、竹村流の "一冊手帳術" の話からズレてしまった。今日書こうとしたのは、手書き文字を書くことには違いないのだが、書き出す情報を何に、どう書くのかという方法のことなのであった。
かつては、いわゆる "システム手帳" とかという物々しい手帳をその気になって使ったこともあった。それはそれで、 "具合良さ" を味わったこともあったが、いろいろな事情が絡んで、結局は放棄することになってしまった。
で、最近、とある書籍、『情報は1冊のノートにまとめなさい』(奥野 宣之著、Nanaブックス)を手にすることがあり、「一冊にまとめるほうが、結局うまくいく」と思うようになり始めているのである。
どうしてこんなことを思うようになったかはあまりはっきりとはしない。ただ、いろいろな事に思いを寄せたり、考えたりしているようなのではあるが、それらは最近益々唐突に現れて、そしていつの間にか散逸してしまうという状況のようで、何となく口惜しいのかもしれない。そんなことだから、この日誌を書くような時にも、本来、素材やテーマが山積しているようでありながら、書くべき事柄を探しあぐねてしまうようなことが発生してしまうのである。
いつでもどこでも思い付いたことを、走り書きでも何でも、ラフに書き込むという習慣作りをしてみようかと、この歳になって考えているのである...... (2008.05.02)
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