ウェブページ関連の作業に、 "float" というスクリプトがある。 "コンテンツ" の配置に関するもので、 "右寄せ" や "左寄せ" を行う場合に使ったりする。
今ここで書こうとしていることは、そうした作業上の問題ではない。 "float" という言葉が妙に心を揺さぶったのである。
"float" とは、 "浮き、浮標" を意味したり、コーヒーの上に浮かぶ "アイス・クリーム" であったりする。つまり、プッカリと浮かんだ何か、ということになり、何だか頼りない雰囲気がアリアリである。仮に、 "フロート制" と言ってみると "変動相場制" となり、いくらか現実味を帯びてはくるものの、それでもやはり、 "確固としたもの" に欠け、あくまでも受動的に "漂う" というイメージ、もしくは "漂流" というイメージから免れようがない。
自分自身もそうであるし、人間というのはまさに "float" 以外ではないのかなぁ、と "いじけた" 次第なのである。特に、この現代という時代環境で生きる者たちにとっては、プッカプッカと浮かび、大波小波に翻弄されつつ、なおかつどこへ向かって流されて行くものかもわからず、 "float" そのもののような気がしたのである。
落語に、確か "上げ潮のごみ" という言い草があったかと思う。腰の軽い亭主をつかまえて、かみさんが、お前なんざぁ "上げ潮のごみ" だよ~、と馬鹿にするのである。その心はと言うと、ひとたび家を空けると、川を流されるごみのごとく、あっちこっちの杭に引っ掛かってなかなか家に戻らない、ということらしい。まだ、纏わりつける杭のようなものがあったのが救いだったのだろうか......。
別に、 "虚無" に浸るつもりもないのだが、 "まとも" そうに見える御仁(ごじん)でも、それじゃあ一体何をやっているのかと詮索するならば、意外と、お前なんざぁ "上げ潮のごみ" だよ~、と言ってやっていい場合も少なくないのかもしれない。おれ様は決して "float" なんぞではない、とご当人だけが信じたがっているという図であろう。
まあ、他人様のことはさておき、自身のことにしても、やっぱり "float" 以外ではないなぁ、と感じる今日この頃なのである。
"float" なら "float" らしく、せめて "錨" でも下ろして "定置網" 漁法でも展開したいところである。しかし、これについても、つい先頃の可哀想な "漁船転覆" 事故のことが脳裏をよぎったりする。直接的には自然現象の "三角波" に翻弄されたゆえの事故のようであったが、それ以前に "原油高騰" という "人為的な大波" に翻弄されて、安全確保の帰還さえ選べなかったと聞く。いかにも哀しい出来事であった。
"float" 人生ならば、せめてかつてこの社会にもあった "浮き草" 人生のようでありたいものであろう。 "浮き草" ならば、定着こそは無くても "日の目" を見ながら生き行く身の上ということになるからだ。
しかし、目の前で猛威を振るっているのは、数多(あまた)の "float" 人生を、海の藻屑へと誘うかのような、非寛容でかつ品格を失ってしまった時代風潮か...... (2008.06.25)
コメントする