以前、英国ではかなり早い時期から "ペットと暮らす権利" のようなものが社会的に承認されていると聞いたことがあった。確か、アパートのような集合住宅でお年寄りが "ペットを飼う" ことが争点となった裁判で、それが法的に認められたということだったかと思う。人間の孤独を癒す上でペットを飼うことは重要な選択である、というような論拠ではなかったかと記憶している。
そんな文化的先進国である英国に、またまたちょいと注目すべき制度があるらしいことをラジオ番組で耳にした。 "孤立" していると思しき人々に対してフレンドリーに接するボランタリーの人々を養成するというような制度があるというのである。
昨今、度重なるあの "誰でもよかった......" 通り魔殺人事件が人々を震撼させているのがこの国日本である。そして、いろいろな人がその原因に関していろいろな意見を述べたり、いろいろなことを指摘したりしている。
よくはわからないが、異常な犯罪へと突っ走る者がそれ相応の尋常ではない "孤立" に迷い込み、それに対処し切れずに異常な行為へと踏み込んだのだとは、とりあえず言えそうな気がしている。別に、新しい視点でも何でもなく、極々当たり前の見解であるが。
人間の "孤立" にもさまざまなケースがあるだろうし、またその状況に向かい合う人間側の状態にもさまざまなバリエーションがあるだろうとは思う。
世代によっても、 "孤立" という言葉から受けるニュアンスには大きな違いがありそうな気がしている。ざっくり言って、生活のあらゆる場面で "共同性" が強いられ、 "孤立" が排斥された時代に生きた者たち、オールド世代たちは、どちらかと言えば現状での "孤立" 感をそこそこ往なせる柔軟性を持っているのかもしれない。ただ、 "鬱" への接近という危険はありそうかもしれないが......。
逆に、生まれた時からそんな "共同性" が生活環境に希薄となり、何かと "個人( 孤立 )主義" 的傾向が普通であった世代ほど "孤立" に伴う "影" の部分の度し難い辛さを感受することになっているのかもしれない。
それにもかかわらず、これといった "下地" もなく "孤立" を意識したり自覚させられたりする状況下に一定程度置かれてしまうと、自身の存立が脅かされるような恐怖に嵌まり込むのがいわば普通であるのかもしれない。最悪の場合には、単なる "故障( out of order )" では済まない重篤な内的混乱状況へと突き進んでしまうことにもなりかねない。
事ほど左様に、人間にとっての "孤立" 、さらに言うならば "孤独" という事実は、 "軽々に" 見過ごしていい事柄ではないと思われる。
にもかかわらず、この十年、二十年ほどの時代変化は、あらゆる領域で "個人( 孤立 )主義" が推奨され、 "共同性" に色づいたいろいろな残渣現象が無造作に打ち壊されたようである。
一昨日書いた、<業績・成果主義的な賃金制度>にしても、経済的ジャンルにおける "個人( 孤立 )主義" の徹底だったと言えそうである。
こうした時代的趨勢は不可避であると思われるのだが、あまりにも安直に流し過ぎた嫌いが気になってしょうがないのである。
そこへ行くと、 "個人主義" の伝統文化が豊潤な英国は、人間の "孤立" や "孤独" という冷厳な事実をしっかりと凝視しし続けていると思われたのだった。
現在、この国の社会には、さまざまな "故障( out of order )" 的現象が渦巻き始めているかのようだが、短兵急な打開策を講じるだけでなく、人間の根源的条件を凝視する哲学に返ることも必要なのかもしれない...... (2008.07.24)
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