自分自身の内にある "昭和30年代" へのノスタルジーの中身は一体何かと問うことが今でもある。自分だけではなく、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』への人気に注目するならば、この時代には、人を魅了する何かがあったはずだと思わざるを得ない。
確かに、自分の場合、この時代はただひたすら "前途" だけが広がっていた子ども時代であったのだから、生活の実質がどうであれ、身体中に "夢や希望" が満たされていた、だからそんな時代は懐かしい! ということもできる。
あるいはまた、こう言うことも可能だろうか。モノの環境は現在ほど豊かではなかったにせよ、人々の人情をはじめとする人間関係がほのぼのとしてあたたか味があった。それらが生活環境に潤いをもたらしていた、と。まさに、『ALWAYS 三丁目の夕日』が観客を動員し、魅了するのはその点であるのかもしれない。
昨日も引き合いに出した五木寛之氏は、この "昭和30年代" を端的に<「躁の時代」>( 五木寛之・香山リカ『鬱の力』幻冬舍新書 2008.06.15 )だったと解釈されている。 "昭和30年代" へのノスタルジーには、<もう一度、高度成長へ向けて進んでいけるのでは>という願望が隠れているというのだ。なるほど、 "昭和30年代" とは、戦後の経済が急速に "右肩上がり" に成長していく過程以外ではなかった。
いや、五木氏は、<「躁の時代」>はその範囲に限らず、戦後からつい先頃まで続いていたとのだと言う。
<戦後から半世紀ほども続いた「躁の時代」から、十年の空白期をはさんで、いまは「鬱の時代」への転換期だと思います。「躁の時代」を築きあげるのに五十年かかったのだから、「鬱の時代」も五十年は続くだろう>と。
"昭和30年代" へのノスタルジーを、そうあらしめていたのは、経済をはじめとした時代の「躁」的な性格だったと言われてみると、なるほどと思わされる。
と同時に、現在および今後、多くの人々が途方に暮れることになる「鬱の時代」が続いていくのだろうという指摘が、妙に説得力を持って迫ってきたりもする。
以前、この日誌で、< "右肩上がり" 信仰に代わるような価値観は? ......>(2008.06.30)と題した文を書いたが、実は、五木氏のこの著書を思い浮かべていたのである。
そして、新たな<価値観>が生まれるとするならば、この「鬱の時代」の坩堝で形成されるのだろうか......、と。
以下、同著書より部分的な引用をしておきたい。
<これから先、しのいでいくことを一つの楽しみ、あるいは文化にしていかないとならない。登山を終えて下山にかかる準備をしなくてはならないんですから>
<登山の醍醐味は下山の過程にこそある。
政治も経済も芸術も思想も、
「鬱」のなかでこそ、豊かに成熟してゆく。
世界中が「鬱の時代」を迎えたいま、「鬱」を力とすることで、
私たちの行く手に小さな光が見えてくるはずだ。 ――五木 >
<鬱の経済学というものがあるとしたら、全体の売上が減ったにもかかわらず、質的にはよい利潤が保たれる、という経済学だろうと思うんです。利潤には水増しの利潤と、ほんとの純利潤とあって、質の高い利潤を求める方向へ動いていけばいい。それは必ずしも総売上を増やすことではない>
...... (2008.08.14)
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