"身体の健康" のために毎日ウォーキングを欠かさないようにしている。この夏の日照りの中をもたじろぐことなく(?)続けている。
多分、その甲斐はあるかに思える。期待値を高め過ぎれば徒労感も湧きかねない。が、もしやっていなかったらどんなに不健康となっていたことだろう、と想定することにすれば、だから先ず先ず元気なのだといささか我田引水ではあるが納得感に到達できる。
それに、 "身体の健康" のみならず、 "気分の健康" にもほどほど役立っていそうである。ただ、贅沢を言えば、決まったコースを踏むことに "マンネリ感" が付き纏わないでもない。
確かに、それが高じるとあの "いやぁーな不快感(結晶化したマンネリ感)" が脳裏をかすめ、思い切り気分を萎縮させることにもなりかねない。自分は最近、この "脳裏をかすめるもの" を結構、警戒しはじめているのである。
というのも、こいつは、自分の加齢に伴って現れがちな現象というだけでなく、顕著な "コントロール志向" の果てにこの時代環境が生み出す由々しき弊害のひとつだと感じはじめているからなのかもしれない。
しばしば、時代の現状を特徴づけようとして "閉塞した時代" ということばが使われる。一理あるはずだと思われる。しかし、その "閉塞" 感が由って来るところは何かといえば、 "万事、お定まり" という推移がいたるところに蔓延しているからなのではなかろうか。要するに、絵に描いたような "マンネリ感=マンネリ現象" が人々の脳内を埋めるからなのではないか......と。
過激な勢いで "新奇な" 情報が飛び交う時代環境であるかに見えはする。だが、その反面、 "新奇さ" は瞬く間に陳腐化してしまうところを見ると、それらは見掛け倒しの "新奇性" でしか過ぎないようだ。
と言うか、たとえ"新奇な" "食材" であっても、それらを台無しにしてしまう "調理法" に "陳腐さ" がこびりついているのかもしれない。
いずれにしても、この時代は、口ほどになく "新奇性" が頓挫させられ、ダラーッとした "マンネリ感=マンネリ現象" によって充満しているかのようである。 "閉塞した時代" とは、このような状況に投げつけられた比較的上品な言葉なのかもしれない。
人々が期待しているのは、 "サプライズ(surprise)" であり、 "セレンディピティ(serendipity)" 【注】なのだろう。それらは、この現代環境がそれとなく "スポイル" し続けて、何食わぬ顔をして片付けてしまったものだけに、生身の人間性をキープし続けている比較的まともな人々にとっては、 "渇望" の対象になってしまうのかもしれない。
【注】<セレンディピティ(英: serendipity)とは、何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」のことを指す。(平たく云えば、ふとした偶然をきっかけに、幸運を掴む事。)>(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
自分は虫が好かなかったが、あの "ポピュリズム" 的政治屋が好んで使った手法が "サプライズ" メッセージであったことは記憶に新しいが、それはそれで時代潮流の底流に棹差していたと言うべきだったのだろう。この時代ほど、 "サプライズ" 手法が "受け狙い" で奏功する手法はないと言うべきなのかもしれない。それほどに、あらゆるものが "サプライズ" の対象とはなり得ないほどに "湿った" 状況となっている......。
"セレンディピティ" についても、 "偶発性" を "パージ" し続けているかに見える時代環境にあっては、もともと稀有であったところに輪をかけることになっていそうである。(c.f. < * セレンディピティの喪失 ...... ウェブではその情報の選択はすべてユーザーにかかっている。......いくつかのウェブサイトでは、自動的に特定方向に誘導していくパーソナライゼーション機能やリコメンデーション機能によって、情報のベクトルはいつしか方向が狭められていく。......一方でそれはセレンディピティ(思いがけないものの発見)をなくし、新たな出会いを失うことにもつながる。あらかじめ予測された範囲のものだけが推奨され、自らの思考も意図せずして規定されていく可能性もある。......> 森健『グーグル・アマゾン化する社会』より)
難しいことはともかく、日々のウォーキングでは "マンネリ感" を払拭するために、随時 "新奇な" コースを採り入れることにすべきかもしれない...... (2008.08.19)
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