事務所の近辺に比較的大きな幼稚園がある。二、三ヶ月前から鉄筋コンクリート造りの立派な増築工事をしていて、秋の新学期がはじまるつい先頃、漸く完成した模様だ。
その幼稚園の脇を通りがかったので、覗くともなく複数の教室の開け放たれた窓から教室内に目をやると、まるで小学校の教室のような構造になっていた。
幼稚園や保育園というと、簡単な室内構成を想像してしまうのだが、何と "立派" な構成であったことか。そこは、教会付属の幼稚園なのだが、さぞかし信者さんその他関係者は思い切った寄付金を提供したのであろうか......。ここに通える幼児たちは幸せだなぁ、なぞとふと考えていた。
あまり熱心に見ていると不審な年配の男が中を覗いていたと怪しまれたりするといけないので、一瞥するにとどまったが、ふと気づいたのは、壁際の造りについてであった。
幼児たちの手提げ袋などの持ち物を引っ掛けておくスペースがゆったりと設定してあったり、各自の教材を収納しておくのであろう棚のボックスが、教室にいる幼児の人数分なのであろう、整然と備えてあった。そこには、何やら教材がトレイに載せられてそれぞれが収まっている。
別にどうということのない造りではある。それらを見て自分は何かを考えていた。
先ず、そうした造りからして、幼児たちに "自分のモノ" を "自分のモノ" としてしっかりと対処させる躾というか、教育のあり方が彷彿として浮かんできた。こうして、小さい時から、 "自分のモノ" をそれとして管理していくように躾られれば、おのずと自己管理の能力が身についていくんだろうな......、と。
そして、こうした落ち着いた躾、教育を受けられる幼児たちは先ず先ず "幸せ" と言うべきなのだろう、と感じていた。 "三つ子の魂百まで" ということわざがあるくらい、幼児期の躾、特に自分と他者との関係や、共同生活に関する訓練は重要であるに違いない、とも考えたりしていた。
と同時に、脳裏を過ぎったのは、しかし、こうした環境を与えられない幼児たちは......、という点だったかもしれない。幼稚園、保育園の環境条件もピンキリであるに違いなかろう。いや、そうした場が与えられない子だって少なくないのかもしれない。
そうした子たちは、一概に言うことはできないが、幼児期の人格形成の上で何らかのハンディを背負ってしまうことになるのだろうか......。
歩きながら思いをめぐらす自分の頭の中では、昨今、凶悪犯罪を起こして世を騒がせている若い者たちの事件が一瞬駆け巡ったりした。いかにも短絡的な類推ではあったが、幼児期の生活のありようが、後々の人格に影響を及ぼし続けるのかもしれないということを考えていたのである。
ちょうど、自分は、教育領域における "格差" という問題が気になっているところだった。
<親が裕福なら子も裕福、親が貧乏なら子も貧乏にならざるをえないというのを、専門用語では「階層固定化」と呼んでいる。もちろん日本は自由主義社会なので、本人の能力と努力で逆転も可能だが、今はそれが徐々に難しくなっている。>(橘木俊詔教授が問題提起 「格差固定化の回避には教育政策が不可欠」/DIAMOND ONLINE http://diamond.jp/series/dw_special/10030/)
一方に "幸せ" な環境で人生の序盤戦を歩む子たちがいるとともに、他方では、もちろん小さきゆえに何ともできずに、そんな辛い環境の中でほかの子をただただ羨ましく思い続けながら、時間だけを過ごしていく子たちもいるわけだ...... (2008.09.11)
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