"前頭葉" でいくら自身に望ましいことを命じてみたり、願ったりしても、なかなか事が上手く運ばないということはよくあることだ。
しかし、うだつ(梲)が上がらない時、スランプと言えるような時には、どうもその悩ましい轍をしっかりと踏んでいるかに思える。決して他人事ではなく、長らくそんな非生産的な状態を引き摺っている自分自身にしばしば気づかされる。
よく、 "良い循環に乗る" ことの重要さが言われる。その通りだと思える。何事につけ、 "良い循環に乗る" 状態であれれば、何も自身に対して杓子定規な命令、 "......であるべし" と押し付けることも必要なかろうし、 "......でありたい" と空疎に念じることもないのかもしれない。
その代わりに、次から次へと湯水のように湧き出る自然なやる気に背中を押されながら、あるいはそれに引き回されるかのように止めどなくアクションが継続するはずだ。そんな実感を覚えていないわけではない。
何が問題なのかと振り返るに、人間の前向きなアクションというものは、 "......をすべし" という脈絡で生じるものではなくて、何らかの "快楽原則" に則(のっと)って展開するからなのかもしれない。そして、この "快楽原則" は、身体の各部分や、それらと密着した脳の部位がよく知っているのであり、いわば脳の "前頭葉" というような部位は意外と管轄外(?)であるのかもしれない。まさに、 "頭ではわかる" という水準での、形式的なわかり方でしかないような気もするのだ。
この辺の事情は、脳科学に精通した茂木健一郎氏であれば、このましいアクションと "ドーパミン" 分泌との関係で説明するところかと思うが、ある意味でそうした "条件反射" 的な、機械的とも言えそうなメカニズムで把握した方が当を得ていそうである。
どんなに訓練を重ねても、 "前頭葉" が脳内に "ドーパミン" 分泌を命じることは不可能であるようだ。
いや、そればかりか "前頭葉" は、他の脳内各部署という身内(?)とはさほど上手い連携プレーをしていないようである。例えば、脳内の感情を司る部署などに対してはまったく抑えが効かず無力でさえありそうだ。荒立つ感情を、 "前頭葉" が自制させるのにも随分と骨を折っていそうである。また、何かの対象に "集中" することに関しても、 "前頭葉" が "集中" することを命じても奏功しないようだ。
その証拠に、禅やその他の訓練法を見ても、感情制御については、 "前頭葉" 自体が無力化(?)するか、身体の各部分の協賛(?)なくしては、ほとんど不可能だと言っているようなものではなかろうか。
自分は、常々、調子が低迷する際には、 "前頭葉" 機能主導型で難問に対して玉砕型でぶつかることは避けるように心がけている。と言うよりも、そうしたアプローチはほとんど役に立たないと感じ取っている。
むしろ、興味が持てて、やがて脳内の "快楽原則" を刺激するような、何かそんなきっかけ探しをしたいと考えてきた。それが "集中" できる状態を生み出し、そしてその歯車が回りだせば、その慣性力を利用して "良い循環に乗る" ことを促進させる、と考えているからなのかもしれない。
ただ、昨今の状況を振り返ってみると、決してこの目論見は上手く回ってはいないようであり、幾分戸惑っている感がある。
"悪い循環に嵌っている" 目も当てられない事態から、 "良い循環に乗る" ことへのギア・チェンジ、路線変更を、鮮やかに達成したいものだ。と言っても、その願いを "前頭葉" が背負い込むのではなく...... (2008.10.22)
コメントする